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「し」


2017年鑑賞作品

地獄変
1969年 95分 日本 カラー
監督:豊田四郎 脚本:八住利雄
撮影:山田一夫 音楽:芥川也寸志
出演:萬屋錦之介 仲代達矢 内藤洋子 大出俊 下川辰平 内田喜郎 中村吉十郎  鈴木治夫 天本英世 大久保正信 音羽久米子 猪俣光世 沢村いき雄 今福将雄


2017/3/26/日 劇場(神保町シアター)
ひょっとしたら評価が低い向きも一方であるのかもしれない、のは、芥川の原作が芸術の持つ醜悪なまでの残酷さを厳格なまでに描き切っているのに対して、映画においては良秀が芸術家である前に一人の父親である、という根本的な改変を行ってしまっている点なのだと思われる。
芥川の原作、読んでいるとは思うんだけどぜんっぜん覚えてなかったので(爆)、映画化作品である本作に純粋に対峙して、純粋に衝撃を受けたのだが、後から改めて原作を当たってみると、確かにそこには甘さがあるのかもしれない。

あるいは、放埓な御政道を行う堀川の大殿への痛烈な批判、という態度を崩さない良秀というスタンスもあり、もはや芸術家ではなく父親であり一般民衆の代弁者ではないかと、思ってしまう節もあり。
確かに観ている間、天才的な絵師という姿よりは、娘を溺愛する父親であり、苦しむ民衆を無視して豪奢な毎日を送っている大殿への批判精神の方が際立っているんだよなあと思う。

ただ、文学において“天才的な絵師”、その手による絵が大殿を狂わせるぐらいのものであるというのは、字の上で、つまり読者の想像を限度なくかきたてることが出来るけれど、映画作品においては、その奇跡のような芸術を具体的に見せなければいけない、となると……やはり難しいと思う。
奇跡のような芸術のためには手段をいとわない狂人芸術家が描く絵というのは、つまりはこの世に存在しないのだから。そうなると、手段を変えなければいけない。そういう意味合いでこの改変がなされた訳ではないのかもしれないけれど。

でも、私は芥川の原作はおいといて、この作品に本当に圧倒された。中村錦之助と仲代達矢の、ひどく対照的な人物の、あまりにもベクトルが違う役者の格闘が本当に凄かった。
中村錦之助、クレジットは萬屋だったかもしれない。退廃的な平安の世のお殿様。ナレーションで、どこかむなしい思いを抱えながら過ごしているのだ、と語られる。

面白おかしい芸を見ながら酒を飲む。満開の桜の木の下、美女に囲まれた何不自由ない生活。しかしそこに、ぼろぼろの着物をまとった老人、ムリヤリ馬を奪われた彼は、お代を、お代を、と取りすがるも、無礼者めと足蹴にされ、暴走した馬がひいた車に轢かれて死んでしまう。
後にそれを良秀から責められた大殿は、「殿さまの車に轢かれて光栄だとあの老人は言っていた」とか信じられない反駁をするが、それが彼が本当にそう思っていた(言いくるめられていた)のか、ウソをついたのか、あるいは彼にはそう見えたのかで、事態はかなり、変わってくるように思う。

だって、中村錦之助、ホントにアホウなお殿様って感じ、なんだもの。白塗りで、マロ眉で、苦しゅうない、みたいな、もうマシュマロみたい。
なぜ彼はあんなにも良秀の絵に執着していたんだろう。良秀は、お殿様に逆らって醜悪な絵ばかりを描いてきた。決して、なんでも言うことを聞くお抱え絵師ではなかったのだ。
お殿様らしく、極楽絵を描かせたい殿様、それで権勢を誇りたいのだろう、しかし良秀は地獄が描きたい、この世には地獄がそこここにある。そう言ってはばからない。
それは大殿への痛烈な批判に他ならない。大殿もそのことが判るぐらいの頭は持ち合わせているのに、なぜそこまで良秀に執着するのか。単なる意地なのか。

マシュマロみたいな大殿と対照的な良秀。演じる仲代達矢。これぞ仲代達矢!!のギョロリ目で、芸術と正義と娘への愛とアイデンティティに(こうして書くと、すんごい悩み多き人生だ……)に苦しみまくっている良秀のインパクトは凄まじい。
ほんっとうに、中村錦之助のおっとりとしたお殿様との対照がものすごいのだ。どちらも振り切っててイッちゃってるのは同じなんだけどね(爆)。

彼には娘がいる。とっても可愛い娘、良香。演じる内藤洋子の罪なまでの可愛さにボーゼンとする。めっちゃ、めっちゃ、めっちゃカワイイ!!!
登場シーンがまた鮮烈である。小川のせせらぎで長い黒髪を浸して洗っている。小川につかった短い裾の着物の可愛らしさと、濡れた髪の艶めかしさ、そしてなんといってもその愛くるしい美貌!!

彼女をスケッチしている内弟子の弘見は恋する男の目である。そして彼女もまたそうである。アハハ、ウフフと草っ原を追っかけっこする(照)。長い黒髪を彼の着物の紐に結び付ける一瞬の描写に、こんな可愛い顔した少女のなまめかしさを感じてハッとする。
しかしそれ以上に二人の仲は進展しない。その様を見つけた父、良秀が激昂し、弘見を破門、娘を閉じ込めてしまうから。しかし良香は相棒の猿によって救出され、愛する人を追って飛び出した。その先で大殿に見初められてしまうんである。

弘見の方は、野盗の集団に誘い込まれる。欲しいものは力づくで奪え、そう彼にささやいたのは恐ろしげな仮面をかぶった男だった。この場面はまるで夢のようで……後に野盗集団が城を襲うのだけれど、大殿を狙って矢を放ったのも同じ面をかぶった男で、でもそれは、弘見なのだ。
……なんていうか、彼はまるでこの哀しき最期に誘われるように、自分の分身に声をかけられたような、そんな不可思議な不気味さがあって。

そう思うのは、このあたりから大殿が、良秀が言い募ったせいもあって、自分が冷酷に見捨てた民衆たちの亡霊に苦しめられるようになり始めたから。
弘見もまた、彼を愛していた良香のそばに付き従う形で、血まみれになって大殿の前に現れる。それは、良秀が彼の最期を自分の腕の中で見届け、その無念の死を絵にしたためて大殿に贈った、ってことも、あるのだけれど。

良秀が帰化人であるということも、凄く重要なファクターである。最初、どういうことか判らなかった。帰化人て??みたいな。
良香は、弘見との仲を許さないのは、彼が帰化人ではないからでしょうと、父親にくってかかった。この時にはホントになんのことやらサッパリ判らなかったのだが、次第に判ってくる。

当時の日本にとって、芸術や文化において様々なことをもたらした高麗人。良秀は、高麗文化を誇りに思ってて、それを下敷きにした大和絵の腰抜け加減を疎んでいる。自分の方が技術も芸術的感覚も上だと、自負している。
大殿は表面上は彼を買っているけれども、自分の思いのままの絵を描かせられる存在、つまり帰化人だから、という思いがあったであろうと思われ、それを良秀は気づいてはいたんだろうけれど……そのあたりの微妙なバランスが、恐ろしい。

良秀の弟子たちは、苦しい現状に、国に帰りたいと願う。それを大殿に頼んでくれないかと言う。良秀自身は帰るつもりはない。それは何故だったのだろう。大和絵の絵師たちへのプライドだったのか。
勿論、娘を置いては帰れないということはあった。それは大殿にハッキリと言い渡したことだった。だけど……。

娘からね、弘見様が帰化人じゃなかったからダメだったのかと、なぜそんなことにこだわるのかと、詰め寄られる場面がある。弘見が野盗となって返り討ちに遭い、死んでしまった事実を告げられて、その議論はうやむやになってしまうのがかなり残念な気がする。
良香は、もう自分は以前の自分じゃなくなってしまった、穢れてしまった、弘見も死んでしまったし、生きる気力を失ってしまう。てゆーか、とーちゃんの元には帰らんてば!てぐらいの勢いである。

殿に召される前、すがすがしい生足を小川に浸し、濡れた黒髪をなびかせて草原を駆けまわっていた良香=内藤洋子は、野性味と純朴さを併せ持つ、本当に純粋な女の子だった。女の子は白塗りして厚ぼったい着物を着せられるだけで、そのフレッシュな魅力は失われてしまうが、あんなマロ眉のお殿様に忍ばれたら、もうダメだ……。
でも、お猿がいるの、彼女とずっと一緒に過ごしてきたお猿さん。召し上げられた先でもずっと一緒のこのお猿さんが彼女の一番の理解者であり、ひょっとしたら、愛さえあったのかもしれないと思うのは……。

あの、衝撃のクライマックスである。見たものしか描けない、地獄は市井のそこら中にある、とそこまでは皮肉をタップリきかせた良秀だが、火に包まれる牛車を実際に見たいと申し出たのは、大殿が邪推したように、彼がその中に入ってほしいという意味を込めたってのが本当であったのか。
正直、ちょっと違和感があったんだよね。それまでは、実際に見たものしか描けない、地獄はそこここにある。つまりそれはあなたの放埓な御政道のせいだと、明確に言ってきたのに、こと牛車に関してだけは、いきなり具体的な絵のリアリティを求めてきたんだもの。あくまで、大殿が、自分が燃えてる姿を見たいんだろうと自虐的に妄想したってだけに思えちゃって。

だから、予想出来た。大殿が、自分の代わりに誰をその中に入れるか、容易に、誰もが予想出来ちゃう。
原作と違って、良秀は父としてのスタンスだから、ひどく狼狽するし、助け出そうとするし、大殿が良香を寵愛しているのを知っているから、やれるもんならやってみろ、と挑発もしてみる。してみちゃう。マトモな相手じゃないんだから、そんなこと言ったら……ああ、ヤハリヤハリ!!

火がかけられる。良香は、「こうなることは判っていた!!」と二人に呪詛を投げかける。結局はお互いが自分を過信して、こんなことまでにはならないだろうと思って、そしてプライドが捨てられなくて、そして自分は今、火に包まれているのだ。こうなることは判っていた、と!!!
そしてね、そして、あのお猿さんが、飛び込むの、良香の元に!!目をむいて驚愕する良秀。ほんっとうに、これが彼にとって一番の驚愕だったんじゃないのかなあと思う。先に死んでしまった息子より、目の前で娘の死になすすべもない自分よりも、共に愛するものと死ぬことを選んだお猿の存在にさあ!!

本当のクライマックスは、その後、地獄絵を完成させた良秀の亡霊に、妄想の恐怖から逃れられなくなった大殿が、妄想の炎に包まれる、という場面なのだろう。
しかし、それが何か、オモチャに感じられるほど、愛らしい内藤洋子が呪詛の言葉をのどから絞り出しながら、愛しい弘見様の名前を呼びつつすさまじい炎の中姿を消す様がショッキングだった。だってさ、大殿は妄想の炎、最後までザ・特撮チックに炎の中をくるくる回るんだもの。ちょっと、笑っちゃいけないけど笑っちゃったもんなあ。

リアルな地獄絵を描こうと、良秀=仲代達矢が年若い弟子の男の子を鎖に縛って滑車に吊るし、壺の中の大量の蛇を放つなんていうシーンは、原作にもあるらしいのだが、なんたって原作の狂気の芸術家という姿からは改変されているから、この唐突なシーンが少年愛的な、趣味的耽美的なサービスシーンに思えて、なんかちょっとウケてしまった、のはいけなかったかしらん。★★★★☆


下町
1957年 58分 日本 モノクロ
監督:千葉泰樹 脚本:笠原良三 吉田精弥
撮影:西垣六郎 音楽:伊福部昭
出演:山田五十鈴 亀谷雅敬 三船敏郎 田中春男 村田知栄子 多々良純 淡路恵子 馬野都留子 沢村いき雄 鈴川二郎 中野トシ子 土屋詩朗 広瀬正一 佐田豊 五十嵐和子 中山豊 岩本弘司

2017/8/27/日 劇場(神保町シアター)
この1時間にも満たない物語が、山田五十鈴、三船敏郎双方の代表作のひとつだなどと書かれてあって、ほんまかいなと半信半疑、しかし、もうもう、観終わった時にはそれに大きくうなずいていたのであった。
ああ、映画はホント、尺じゃないねと思う。ついこないだなっがーいと思いながら観た某映画があったから、尚更に思う。ことに昨今はやたら長くなる傾向がある気がする……という話題はまあここでは他に置いておくとしても。

それにしても、ねえ。三船敏郎が凄く素敵で、参ってしまった。この尺と、この物語の展開で、正直登場の最初から、ああきっと彼は、死んでしまう、だってそれしかオチのつけようがないもの、と思っていたら果たしてその通りであった訳だが、だからこそ彼のイイ男っぷりが妙に切なくて参ってしまうのだった。
イイ男というのは、こういう男のことを言うのだ。昨今の、イケメンなんぞとは違うのだ。
器がでかく、しかし細かい気持ちの機微にもよく気がついて、子供をいい意味で子供として扱う大人の度量、しかし無邪気で、天真爛漫で太陽のように明るい。ああ、三船敏郎って、こんなにイイ男だったかしらんと、何度も胸の中でつぶやいていた。死んでほしくはなかった。

物語は戦後4年が経過している頃である。静岡茶の行商をしているりよが、どぶ板を踏みながら長屋に声をかけるも、買ってくれる人は皆無。疲れて行き着いた鉄材置き場の番小屋にいたのが鶴石だった。
これまでの住民たちのように門前払いにはせず、茶?と聞き返して家の中に入っていく、その様はぶっきらぼうだけど、言葉には出さず、入んな、といった優しさが感じられて胸がキューンとなってしまう。

りよは入っていく。火が起きている。寒い中を歩いてきた彼女は、当たらせてくれませんか、という。弁当をつかう(という言い方は、この時代ならでは。今はあんまり言わないよなあ)場所も見つけていなかった彼女に、彼は快く承知し、りよが淹れたお茶の美味しさに素直に声を上げ、買ってくれさえ、するんである。
ここまでの一連の流れがあまりにスムースに鶴石という男のイイ男っぷりを示して、もうすっかり陥落してしまうんである。尺の短い物語は、観客をすんなりその人物に誘ってしまうワザが必要であり、これぞ映画のプロの仕事だよなあと思ったりするんである。

この時点では、ああ親切な人だな、と思う程度であっただろう。りよには8歳になる息子がいる。夫はシベリアに留め置かれたきり生きてるんだか死んでるんだかも判らずにいる。
後にりよが売春婦の玉枝に語る台詞が実にばっちりと物語っているんである。一途に夫を待っているなんてそんなんじゃない。時々ぐらつきそうになる心を、夫がシベリアにいるということを思い出してつなぎとめているんだと。

言い回しはちょっと違ったかなと思うけど(爆)、つまり、玉枝のように死んでくれたら楽なのになどと口に出す勇気も出ず、自分が他の道に一歩踏み出す勇気も出ないまま、シベリアの夫を待っているということを口実に、それに自ら縛られて生きているんだと、そういうことだと思うのね。
そこまで直截な言い方はしていなかったけれど、でもいつの時代も、特にこの時代はもっともっと女が弱い立場だから。

玉枝を演じる淡路恵子がめちゃくちゃカッコイイ。はすっぱ美女って感じが実にイイ。りよは女一人息子とともに生きていくために、幼なじみのきくの家に住まわせてもらっているのだが、そこは闇の売春宿という訳で、玉枝が客をとり、きくがその上前を六割(えげつなー)ハネているといった次第なんである。
きくは表面上はりよに優しい。幼なじみだから心配してるのよ、とりよにダンナを紹介しようとしたりする。でもそれも当然金銭がらみだし、「あんたに貸してる部屋も、商売に使いたいのよ」と半ば脅しのような感じだし、しかし実はそのダンナに横恋慕していて、りよにご執心の彼に恨みごと言って言い寄っているという、まあなかなかにしたたかな女将さんなんである。

玉枝といい彼女といい、これぐらいしたたかでなくては、この戦後混乱期、女一人生きていけないということなのかもしれない。
いや、きくには夫はいるのだが、もう山師体質マンマンで、彼女を困らせている。でも別れない。結局二人は似たもの夫婦なんだもの。結果的に、売春宿の摘発で夫婦は引っ張られちゃう訳だし。

玉枝も一緒に引っ張られちゃう。玉枝には療養所にいる夫がいる。警察に引っ張られている間に、夫危篤の電報が届く。これがまさしく運命の転換になる訳だが、脇の話についつい熱を入れ過ぎた。りよと鶴石のラブストーリーなんだからっ。
きっと鶴石は最初からりよを見初めていたに違いない。りよが息子を連れて行ったのも、一発目で彼に好印象を抱いたからに違いない。しかも、「お弁当をつかう」にしては豪華に、総菜屋でコロッケやなんかを買い求めてまで、彼のもとを訪れるんだもの。

鶴石は幼い息子を最初から屈託なく迎え入れ、縁日に連れていく。もうすっかり息子はこのおじちゃんに夢中である。次は浅草に連れて行ってくれるという約束を、りよの知らない間に取りつけちゃう。
それはさ無論、鶴石がりよと共に時を過ごしたいと思ったからに違いない訳で。浅草、花やしきだよー!!うっわ!ぐるぐる回る飛行機に乗ってはしゃぐ息子にりよと鶴石が交互に手を振る、このほほえましさ、ああ!

その後、映画に行こうという。もう、夢のような時間である。映画を観終わって外に出てみると、土砂降りである。りよが、どこか旅館でそばでもとって、この楽しい時間を締めくくりたい、という。
ドキリとする。旅館、ってことは、それはつまり、泊まるってことに他ならない。そばでもとって、っていうところでそのあたりを濁したようにしたけれど。そして、子供がいるからそんなことにはならない、みたいな、二人の心の中の言い訳が聞こえたような、気がした。

マズい中華そばをすすって、泥のように眠っている息子を真ん中に寝床についた二人が、そのままでいられる訳が、なかった。もうこの場面はドキドキである。そっちに行ってもいいかと言う彼を一度、りよは彼を拒否する。シベリアを思い出すのだと言って。
でも、彼が実際に来てしまうと……カット替わって鶴石が、いやさ、三船敏郎が、彼女の肩を抱くようにもうそこに来ているっていう、電光石火のドキドキの!!もう、こうなったら、ダメ、ダメダメだよーっ(涙)。
たまらず彼の首をかき抱くりよに、もうドキドキが止まらないのだ。シベリアに夫が生きているかもしれない。でも鶴石の妻も、彼がシベリア抑留中に他の男の元に行ってしまった。そんなこんながないまぜになって、もうもう……。

翌朝、である。りよが、お腹が大きくなってしまったら……などとひどくストレートな心配を口にするのにはビックリする。
鶴石は、責任はとる、心配するなという。この会話の感じはなかなかに微妙で、愛を確かめ合ったという感じはしないというか、それは現代の目から見るからそう思うのかなあ……女が牽制し、男がそれに答える、なんていう図式に見えなくもないが、でも、二人が惹かれ合っているのは間違いないのだし。

明日また昼にお弁当を食べに寄る、りよはそう約束して別れた。それが、まあその、やっちまったのだ。りよは翌日は行けなかった。
警察にとっつかまってそのまま病院送りにされた玉枝への電報を受け取って、それを届けに行き、彼女の夫の死に同行し、お骨を抱えて郷里に帰る玉枝を見送る、というところまで付き合ったから、丸一日使ってしまったのだ。

先述したけど、淡路恵子扮する玉枝とそのエピソードは、何とも胸に迫るのだ。タバコをすぱすぱやって、平然と客をとる玉枝は、儲からない茶の行商に足を棒にしているりよとは正反対に見えるんだけれど、不思議にりよを気にかけて、客の残していった折り詰めをおすそ分けしたり、コーヒーを淹れたからと呼んでくれたりする。
生きてはいるけれども死にかけてて、自分一人が生きていくためには枷になっている玉枝の夫、生きてるんだか死んでるんだか判らないりよの夫も、やはり同じだから……この不思議に悲しい共通点で、対照的な女二人がしみじみと心を通わすのがなんとも胸に迫るのだ。
りよが玉枝に鶴石のことを相談していたらどうだっただろう、などと思う。そこがこの短い尺の妙である。そんなヤボなことはしない。結局は女たちは一人、生きていくしかないから。

で、玉枝と別れて、おじちゃんのところに行こうね、とウキウキ向かったら、荷物の片付けされてて、鶴石は死んだと告げられるってんだから、もう、なんともはやで。
鶴石は、前日、昼に来ると言っていたりよを待っていた。昼過ぎになって、仲間が仕事を手伝ってくれないかと言ってきた。二時になっていた。鶴石は半ば駄々っ子みたいなすねた風情で、黒板に「リヨどの、二時まで待った」と書き残した。
劇場内で、思わずクスクス笑いがあちこちで起こったほどの、可愛らしいすねっぷりだった。まさかそれが、あんな結末になるなんて。

たらればなんてことを、言いようもない。もうこれしかなかったんだと。あんなにおっちゃんになついていたのに、子供は割とあっさりと、死んじゃったの?お腹すいたよ、てな具合。りよは思わず子供を叱責し、涙を流すも、でもそれ以上は何も出来ないのだ。
おっちゃんとごはん食べた店でお昼食べようか。そう言うと息子は無邪気に、うん、もうあそこだよ!と指をさす。でも彼も、土手に埃だらけになって倒れて死んでいる猫に気づいてハッとするあの時、おっちゃんが死んだということがどういうことなのか、判ったのだろうか。
あの猫、劇中、母子二人が歩いていく場面にチラリと歩いていた猫、だよね!一瞬だったけど、あの模様、絶対そうだと思う。猫には目が行くのだ。だから覚えていたから、凄くドキッとした。

砂埃をあげて、トラックが何台も行き過ぎる。それは、鶴石が息子を乗せてくれたトラックと同じ、彼が死んでしまっても何事もなく戦後復興は過ぎ行くのだ。
りよの夫は帰ってくるかもしれない、帰ってこないかもしれない。それさえも、ただ過ぎ行くだけ。鶴石の死も、ただ……。

もう30、おばあさんですよ(!30でおばあさんとは言ってほしくない……)と言ったりよが、鶴石が一つ年下だと知って、ちょっと年上の女のような風に「あら、若いのね」と言ったシーンが不思議に忘れられない。
どこか他人行儀が挟まっていた二人の垣根が取れた瞬間であり、恋に落ちた瞬間のような気もした。年下の、でも頼りになる、明るく懐の大きな男。そんな男は死んでしまうのだ、もう、なんで!!★★★★★


島々清しゃ
2016年 100分 日本 カラー
監督:新藤風 脚本:磯田健一郎
撮影:山崎裕 音楽:磯田健一郎
出演:伊東蒼 安藤サクラ 金城実  山田真歩 渋川清彦 角替和枝 でんでん

2017/1/22/日 劇場(テアトル新宿)
わーっわーっ、新藤風監督だーっ!11年ぶり!そうでしょ!!「転がれ!たま子」はものすごくインパクトがあった。新藤監督のお孫さんというオプションもまた更なる今後の期待をかきたてた。
そしてその後、新藤監督作品の“監督係”として彼女の名前を見ることになる数年間、彼女にしかできないその役割に胸があたたかくなり、でも当然、そんな彼女にしかできない重要な役割をしている間は、そりゃそりゃ自身の新作は作れないのであったのだよなあ。

彼女がいたからこそ、新藤兼人監督はまさに生涯現役として、その最後の最後まで素晴らしい作品を産み続けられたのだから、ファンとしても彼女には本当に感謝しかない。
でも頭の片隅のどこかで、でも彼女だって映画監督なんだよね、と引っかかっていた。自分だって撮りたいはずだし、あの一作のみでは一体彼女がどういう監督さんなのか、図りかねないところがあったから。だから本当に今回、その名前を見て飛び上がったのだ。

率直に言えば、その第一作の印象とは全く違う二作目、であった。11年経ったらあの時感じた若さの超特急ということは無論なくなるだろうし、その間に新藤監督の晩年の作品作りを支え続けたのだから、彼女自身が作っていなくても、映画を作るという経験と成長を重ねていたということなのだろう。11年ぶり、と言いながら11年間作っていなかったんじゃないのだ。むしろ作り続けていたのだから。

でも、それにしても、沖縄であり、音楽であり、少女であり、いろいろ意外な要素がいっぱいであった。私は基本北国の女なので(爆)、時々出過ぎるほどに出てくる沖縄映画にちょっと疲れちゃうこともあるのだが(爆)、そこは、“やまとんちゅ”役の安藤サクラ嬢がうまく緩和してくれた。
こんな、いわゆる普通、というか、穏やか系の役の彼女を見るのは久しぶり、というか、初めてぐらいな気がする。脱がない安藤サクラ、いやいや(爆)。

彼女の役柄は、ひっそりお腹に赤ちゃんを宿して、でもどうやらその父親となる相手とはあまり上手くいかないままこの島にやってきたヴァイオリニスト、祐子。
どういう待遇で迎えられたのか……最初は音楽教師としてやってきたのかと思ったが、そういうわけではないらしい。それなりに著名な演奏家なのか、小学校の体育館で演奏会なども催される。校長センセは満面の笑みで「去年ちゃんと調律しましたから」とアプライトピアノを指さすが、去年て、と祐子は苦笑い。

でもここは沖縄、三線の音色が常に流れるここで、音楽に貧しい環境な訳はないのだ。
そして主人公は、その音そのものにひどく敏感な女の子、うみ。絶対音感というヤツなのだろうが、少しでも“ちんだみ”が狂っていると、苦痛で頭を抱えてうずくまってしまう。
それ故、吹奏楽部の練習に乗り込んだり、エレキギターの青年のケーブルをハサミでちょんぎっちゃうなんていう蛮行を繰り返し、校内のみならず、島中から困った女の子で通っているんである。

ただ、うみの祖父は島中から尊敬を集める三線の引手であり歌い手。でも、うみの母はそんな父の血を受け継げず、無様な音痴と踊りのまずさで追われるように島を出て、もう何年も帰っていない。
うみは双方のプレッシャーに苦しんでいる。音の狂いには敏感だけれど、自分はお母ちゃんみたいに音楽がヘタだから。でも音楽は好きなのだ。祐子の弾くヴァイオリンに彼女は静かに耳を傾けた。

沖縄音楽と、ヴァイオリンが奏でる音楽というのは、そりゃあ違うよね、という感覚がまず起こる。なぜヴァイオリニストを沖縄に降り立たせたのかという素朴な疑問は、かなり早くに、まるで観客の心を見透かしたように提示される。
祐子が「沖縄の音楽、知ってるんだ」とヴァイオリンで奏でたとたんに、うみは「気持ち悪い!!」と耳をふさいでうずくまってしまう。沖縄特有の音階が奏でるメロディには、西洋音楽のために作られたヴァイオリンでは、うみ言うところの“ちんだみ”が狂っているのだ。

ただ、それが最終的に解消されたのか、うみはまさに西洋音楽である吹奏楽部に入り、フルートを演奏するようになるし、そこでタイトルにもなっている「島々清しゃ」を祐子のヴァイオリンを交えて合奏することになるんだから、どうなんだろうと思うのだが。
それが、沖縄音楽の微妙な音加減を克服したということなのか、この曲自体がそこらへんがとらえやすい旋律なのか……てなことを、漁師でありながら優れたサックス奏者である真栄田と話していたような気もするが、沖縄言葉だからよく判んなかった(爆)。

まえだが真栄田って字なのって、沖縄っぽいー、てことはどーでもいいが、てかてか、真栄田役は大、大、大好きな渋川清彦なのよーっ(大喜)。子供たちの演奏はきっとそのままだろうが、サクラ嬢と渋川氏のそれは音だけ恐らく吹き替えだろうな……と思いつつ、でも、二人ともとっても素敵なのでっ。
真栄田が祐子を“認める”シーン、彼女のヴァイオリンと真栄田のサックス、和太鼓にエレキギターという異色の組み合わせで、埠頭でセッションするカッコ良さときたら!

なんでそんなことになったのかっていえば、うみが吹奏楽部に入ることになり、ちんだみ狂いで頭を抱えている、てことは、皆の音が狂っている、一から基礎から管楽器を教えてくれる人、ということで、彼に白羽の矢が立ち、自分が認めた相手の言うことしか聞かない、真栄田が祐子をテストしたのが、このセッションだったんであった。
この時には祐子と真栄田がイイ感じになるんでねーかと、二人とも大好きな役者さんだから勝手な期待をしてたりしたんだけれど(爆)、そうはならなかった。

祐子は最初から、この泡盛の国で「お酒を控えてるんです」と言い、うみのおじいと恋愛や人生の話で意味深な風情を見せていたから、そのお腹にワケアリの命が宿っていることは推測できてはいたけれど、渋川清彦を持ってくるなら、ちょっとイイ感じになっても良かったのになあ、なんて(爆)。
いやでも、それはそれこそ古い感覚か。男がいなけりゃ身ごもった女が生きていけない、幸せになれない、なんてことはない。ここで彼らは、音楽という同じ愛することを共有する同士であり、それ以上に素晴らしいことなんて、ない筈なのだから。

それを媒介していたのがおじい。でもおじいは死んでしまう。全く突然。うみのフルートの練習を見ていてくれた時に眠るように。うみも、おじいは眠ってしまったんだと思っていた。
そんなこととも知らず、「見せたいものがあるから」というおじいからの電話で、それを受けている時もへべれけだった娘、つまりうみの母親のさんごが帰ってきて、でもその時にはもうおじいは、旅立ってしまっていた。立ち尽くす娘にも気づかず、父親の死に号泣するさんご。

さんごを演じる山田真歩が素晴らしい。私、朝ドラも見てなかったので彼女のことは「アレノ」で、渋川清彦と×××ウラヤマシーッ!!ってのが第一印象といってもいいぐらいだったのだが(爆)。こういう、年相応のくずれ感じを、崩れすぎずに哀しくやりきれない感じで見せられる女優さんというのは、なかなか得難いと思う。
娘としても母親としても自信が持てず、大都会那覇で、でもただただ飲んだくれてて、でも踊りを踊れるようになれなければ、島には帰れないと固く思い定めている。なんだろう、この、純粋なんだけど、ひどく俗っぽくて、哀しい感じ。でも愛ゆえな感じ。それを彼女の父も娘も判ってる感じ。
父の死に際して、本来はめでたい席で舞う踊りを、墓の前で披露するさんごと、その場から離れ、「おじいがどんなことがあっても、毎日練習しろと言ったから」海辺でフルートを吹き続けるうみは、なんて、そっくりな母娘なんだろう。

うみはね、いつも耳当てをしているのだ。こんな南の島なのに、まるで北国の少女がしているような耳当てをしているのが、画的にもインパクトがあったし、
なぜなんだろうと思っていた。耳が良すぎる娘にそれを渡したのは母親のさんご。それはなんて……なんともいえない。だってさんごは見事な歌い手の父親に似ずに音痴で島中の人々の笑いものにされ、娘のうみはちょっとした音の狂いに頭を抱えるほどの音感の良さを持つ。

その我が娘に耳当てを渡すなんて、娘を気遣っているようで、自分を否定し、親子であることを否定し……それは、父との親子関係よりも、娘との母娘関係の方がより大きく影を落とす。
一体うみは、どういう思いでこの耳当てをし続けていたのか。だってそれは、普通に考えて、音痴の母親の歌声をシャットアウトする道具に他ならないんだもの。

うみはただただ、母親の想いとして耳当てをしていたように見える、のが、凄いと思って……。母親の描写は決して丁寧にはなされない。ずっと大都会那覇にいるし、働いているようには見えず、理解あるおっちゃんと常に飲んだくれてて、このおっちゃんとはどういう関係??とか勘繰りたくなるし。
都会の那覇にいれば彼女は地方から出てきた女だけれど、でも故郷の地ではなじめず都会に出て行った女、なのだ……。相手が誰とも知らぬ子供を産み落とした過去を自嘲するように「あの子、本当に私の子供なのかな」とつぶやいて、そのおっちゃんに「男ならそれも判るけど」と笑われたりする。

さらりと流されそうで、実はここ、重要!と思うのは、私がフェミニズム野郎だからなだけじゃないと思う(爆)。だって、サクラ嬢演じる祐子も、その苦しさを女だけが負うことになることを、おじい相手に飲んじゃいけないお酒を飲んで、吐露しているんだもの。
一応、おじいもかつては女たらしで、誰とも知らぬ相手に産ませた子供がさんご、という流れにはなっているけれど、でも、やっぱり基本、責められるのはお腹に証拠が残る女、なんだもの。

でも、いいの。本作にはちゃんと、一つの答えが用意されている。「生きて、食べて、酒飲んで、誰かと寝る。それだけで人生80点よ」というおじいの言葉。
すべての要素が皆が出来るという訳じゃない、特に最後の要素はなかなかデリケートな問題なんで、もろ手を挙げてこの言葉に賛同できるわけじゃない。
でも……。ちょっと、心を溶かしてくれる気持ちはある。寝る、のが特別な相手じゃなくってもいい。恋愛や生涯の相手を見つけることだけが重要じゃないのだと。

ちんだみの狂い、についても、なんとなく正解が見えてきたような気がする。うみが感じるちんだみは、彼女の中の正解の音階、ストイックなそれがあったゆえだと思われる。
沖縄に生まれ育った彼女が西洋音階に対してそう感じていた訳じゃなく、沖縄音階の微妙さも感じ取っていた訳だけど、劇中では主に西洋音階に対して反応していたようにも思えて、若干の不満は残る。

ただ、うみが、同級生の男の子から「みんなの音を聞かなければ、音を合わせられない」と言われたところからハッキリと変わったところが、やはり重要だったんだと思う。
狂ってる音なんて、ない。世界のすべての音が、音だ。その中からチョイスして、美しい音楽を奏でようと思うのは、人間の傲慢かもしれないけれど、でもそれが人と人との心をつなぎとめるのならば、それはそれで、素敵なことだと思う。
ラストシーンは、まさにそれが、すべてをつなぎ合わせ、音痴でも踊りが下手でも、それを愛していることは親子代々変わらぬ母と娘の絆を結んだ瞬間でもあった。

監督さんが沖縄と縁を結んだことに興味がわいたり。なんでなんで?と。
そして、観ている間全然気づかなかった私はバカ!主役のうみ、「湯を沸かすほどの熱い愛」のあの子かあ!完全に受け身だったかの作品との違いが鮮烈。天才子役とまでは思わないけど(爆)、率直な芝居が、逆にイマドキの子役っぽくなくて良かった。★★★☆☆


驟雨
1956年 90分 日本 白黒
監督:成瀬巳喜男 脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫 音楽:斎藤一郎
出演:佐野周二 原節子 香川京子 小林桂樹 根岸明美 恩田清二郎 加東大介 堤康久 堺左千夫 松尾文人 伊豆肇 塩沢とき 長岡輝子 中北千枝子 出雲八重子 水の也清美 林幹 東郷晴子 千葉一郎 村上冬樹 山本廉 佐田豊 大村千吉

2017/7/30/日 劇場(神保町シアター)
夫婦の、凄くミニマムな物語なのに、とにかく脚本力が凄くて、圧巻。いや、圧巻というにはもっと軽妙で、折々でクスリと笑わされてしまう。
そしてこれは……原作戯曲は男性の岸田氏だけど、映画用脚色をしたのが女性の水木氏だからかなあ、もう、もんのすごく女性側に共感してしまう。とにかく原節子にめちゃめちゃシンパシィを感じてしまう。

原節子にシンパシィを感じるなんて、思ってもみなかった。私にとって原節子は、あくまで男性にとっての理想の日本女性。心の中に秘めているものはあるものの、あくまで慎ましく、それを押し隠して、でもにじみ出る、みたいな雰囲気。夫への不満をこんなにぽんぽん言う奥さんだなんて想像だにしていなかった。
しかしそこはそれ、やはり原節子だから押し出しの強い感じではなく、やはりあくまで理想の奥さん像を崩さないのだが、だからこそコミカルながらもやけに赤裸々で、うわー、こういう女の気持ち、判る判る、なぜ男は判らないの、もう古今東西!!と思ってしまうのだった。

古今東西、なのかなあ、今でも、かなあ。現代の目から見ると、ヤハリ夫婦の意識は変わってきたようには思う。今は本作の佐野周二が演じているような、女は外で働くべきじゃない、女に食わせてもらうなんてもってのほか、なのに料理や家事には文句をつけ、黙って空いた茶碗を差し出す、みたいなそんな男は、現代の若いカップルにはさすがにもう皆無ではないかと思われる。
私たちの親世代ぐらいまでかなあと思う。そう、私たち親世代まではやっぱりこんな感じだった。でもそれも、長じていくと結構奥さんに教育されていたりするんだけれど。

冒頭は、日曜日の昼下がりといった趣。編み物をする奥さんの文子、日曜なのになぜかネクタイ姿で縁側に座っている夫の亮太郎。一緒のタイミングであくびをかみ殺すオープニングは、その後いくら二人が小競り合いを繰り返しても、実は息の合った、お互いを思っている二人なのだということが刷り込まれて、きっと別れたりはしない、と思っちゃう。
でも、最初から最後まで、この佐野周二演じる昭和の夫の言い様はほぉんと、くだらないマッチョ思想で、二言目には「男というものはそういうもんだ」あーっヤダ!

日曜なんだから出かけようという話になったのに、近くの公園じゃしょうがない、外出する時には前日から予定するもんだ。って、大体あんたから言いだしたんでしょーが!新聞の料理欄を切り抜かれていることに、俺が読む前に気分が悪いとスネだし(だって先にもう読んでいたんだから!)、大体こんなものを切り抜いたってつくりゃしないじゃないか、とさ!
だって予算オーバーなんだもの、グリーンピースの瓶詰だって30円もするのよ、だったらサケの切り身を買ったらお釣りがくるじゃないの、なんていうやりとりにはちょっとクスリと笑わされるところもあるんだけれど、既にどんどん本質をついてきていて、笑いながらも、これはちょっと笑えないかも……と思い始める。んでもって夫、行き先も告げずにプイと出て行ってしまう。あーもう。

そこに引っ越してきている夫婦。若い奥さんをもらっている小林桂樹がなんとも絶妙なコメディリリーフを担っている。何で彼は、あんないるだけで可笑しいんだろう(笑)。引っ越しの挨拶に来るのが奥さんじゃなくてこの旦那さんの方、というのが、もうその立場を映しだしている。若い奥さんの尻に敷かれている旦那さん、隣のそそとした妙齢の奥さんにちょっと心惹かれてる、みたいな(爆)。
引っ越しのあいさつに差し出すのが引っ越しそばならぬ、そばと引き換えに出来るチケットというのが微妙に可笑しく、訪ねてきた姪っ子にそのチケットで出前を取るもうどんが来ちゃったという妙な物悲しさ。
そしてそこへ帰ってくる夫がまた無遠慮に、ああ腹が減った。昼?食ってる訳ないだろう、と勝手に出て行ったのにまた勝手な物言いをして、奥さんのみならず観客の、まあつまり女は超カチンとくる訳。こーゆーところが、マッチョ思想の男のヤなところなのよ!!って!

この姪っ子のあや子こそが、夫婦二人の問題をあぶりだすキーマンな訳であって。香川京子!そうだ!わー、超可愛い!!
新婚旅行で大喧嘩して帰ってきた彼女が泣きながら訴える夫への不満はいかにも可愛らしく、最初のうちは文子も、男なんてそんなもんよ、夫婦なんてそんなもんなのよ、と笑って聞いている。でも観客であるこっちは、その台詞はあなたがダンナから言われてカチンときまくっていたことじゃないのと気づいてしまうから、ヒヤリとするんである。

確かにひとつひとつ挙げてしまえばささいなこと……新婚旅行に向かう列車に乗った途端大口開けてぐうぐう寝てしまったとか、旅館の女中に軽口叩いてキザなしぐさをしたとか、偶然出会った友人と飲みに出かけて朝まで帰らなかったとか、そんなこと。
そんなこと、と言ってしまうのが、もうこんな昭和の男に対して諦めてしまっているということに、この時点で文子はまだ気づいていない。気づくのは、まさにその当人が帰ってきて、男の立場として新婚夫の弁護を始めたからなんである。

大口開けて寝ていたのは「鼻が悪かったんじゃないか」というのには思わず噴き出したが、その後はだんだん、劇中の女二人と同じく機嫌が悪くなっちゃう。文子が、次第にあや子の話から自分の不満を織り交ぜてきて、あや子が目を白黒させて、相槌を打つのには爆笑!夫に灰皿を投げてよこすまでに荒れしまう原節子にビックリ!!

つまり亮太郎に言わせれば、それは男の照れというものであり、奥さんに夢中になっているなんて言いふらされてはかなわないから友人とも出かけちゃったんであり、帰ってきてもついニヤニヤしちゃうのは、賢い僕の奥さんなら話せばわかってくれると思ったからだ、つまり甘えているんだよ、と。キーーーッ!!である。
亮太郎だって判っている筈。「そういう時、外国の男性ならば、おお愛しき君よ、哀しい思いをさせたね、とか言うんであろうがね、日本の男は……」って、だったら日本の男もそれをやれーっ!!つーか、それ以前に、そんなつまんない“照れ”なぞ見せないか……ホント、日本の男って、アホ!

……うーむ、ついつい時代を忘れて現代のフェミニズムを持ち込んでしまった。つーか、それじゃ作り手側の思うつぼだわー。だからこそあの貞淑な妻の理想のような原節子が、この気まま勝手な夫に反駁するのに、ヤッチマイナ!!と思っちゃうんだろうしさ。
てゆーか、夫を演じる佐野周二が実に、そのあたり、上手いんだもの。自信満々に男たるものってものを自分勝手に披露するんだけど、妙なチャームがあって、憎みきれないの。

最初はね、「話はあるもんじゃなくて、するもんよ」「じゃあ君が話せばいいじゃないか」「だって、うるさいとおっしゃるから」なんて言い合ってるから、会話もなくなってしまった夫婦なのかと思いきや、本作中、二人はずーーーーっと喋ってる。つまり、言い合っているんだけど、つまりその夫のいいようは、先述したような勝手なことばかり、なんだけど、とにかくコミュニケートはとっている、それが憎みきれないところなのかなあ。

隣の若い妻になんとなく心動かされている亮太郎。彼の発案で、夫婦二組で映画に出かけようという話になる。亮太郎は学生時代、外国文学を専攻していて、今はすっかりそんな世界から離れてしまったけれど、若い女性と外国映画の話なんぞして心が浮き立ってしまったんである。
文子と、小林桂樹扮する隣家のダンナは突然決まったその話に戸惑いを隠せず、文子は当日どうしても気が進まず、夫を怒らせてしまう。……このシーンはね、なんというか……。

文子は「私ってなぜ、こうなんだろう」と言うし、夫の方も「そういう性格は直した方がいい」と言う。確かに内向的な人が陥る、良くない傾向なのかもしれんが、でもなぜ彼女がそんなにもイヤな思いになったのか、そりゃ考えるまでもなく判るでしょうと思い……。
そして……ああそうだ、つまりその嫉妬を、彼女は言うことが出来ない、それは先述の、男の照れを彼自身が言うことが出来ないのと同じなのだ……ああなんて、男と女はめんどくさいものなのかっ。

しかして、亮太郎と隣家の若妻とで仲良く映画に出かけちゃって、飲んで遅くなっちゃうんだから、お互いの夫婦はなあんとなくヘンな感じになっちゃう。
そしてその間にも様々なトラブルが。文子が可愛がってエサなどやっていたノラ犬君が靴をもってっちゃったり子供のおもちゃを壊したりしちゃって、幼稚園のハイミスな園長先生がキリキリに乗り込んできちゃう。
この園長先生はかなりコメディリリーフな感じで、しまいには犬にかまれた鶏を一晩中介抱したけど死んでしまったから500円で買い取ってくださいね!とムチャクチャな物言いをするのには思わず苦笑してしまうところもあるのだが。

あ、ちなみにそれを間接的に持ち込まれたのが隣家の若妻、雛子で、「一時間も同じ話をされました」と死んだ鶏を逆さに吊り下げて文子に押し付けるのが、可笑しいやら怖いやら、なんとも……。
しかもそこで雛子、腹立ちまぎれにこんなことも暴露するのだ。「奥さんのことも、いろいろ言ってました。先に挨拶しないとか、焼き芋の声が聞こえると一目散に駆けだすとか、豆腐ばかり買ってるとか……」

焼き芋のくだりには思わず噴き出したが、それは夫が帰ってこないある晩に一度呼び止めて買っただけ、豆腐ばかり買っているのは夫の胃が悪いから。
挨拶云々の話にはさすがにショックを受けた文子が、後に幼稚園長から呼び出された“平和的会議”でその反論をするのに「いつも考え事をして下を向いているから……」というのには、彼女の悩み多き人生を思って、胸が詰まる思いがするんである。

夫側にも大きな動きがある。突然知らされた合併、人員整理の話。早期退職志願者にはボーナスが出るという。現代にも大いに通じる話で、なかなかに身につまされる。
仲間たちが相談して、彼に合同経営の話を持ち掛けてくる。串カツを出すバーをやらないかと言うんである。それには、亮太郎の美しい奥さんを看板にしないかと。
苦々しい表情の亮太郎に反して、文子は大いに乗り気である。それは、夫の同僚たちの手前、というだけの愛想の良さには思われないほどである。思わず亮太郎が「おだてに乗るな」と、これは仲間の手前とだけは思えない口調でいさめるほどなんである。

いや、そうなんだ。亮太郎は、自分が男たる役割を失うのが怖いんだ。それだけだ。男が女を、家族を食わせるという、それだけがアイデンティティなのだ。
文子が憤慨しきって、そこまで言うならあなたに食べさせてもらって、私の稼いだお金は自分で贅沢しますわ、と言う。ああ、言ったった!そうだよそうだよ、夫婦ともに同じ苦労を分かち合うことよりプライドの方が大事だと思っているようなマッチョ昭和男には、そこまで言ってやんなきゃ、判んないんだ!!てか、そこまで言ってやっても判んないんだけど!!
大体、あのノラ君事件だって、彼は全く関与しようとせず、居合わせた姪っ子のあや子もそれに大いに憤慨していたものだったのだ。家のことは女が見るべき。役割分担と言ってしまえば聞こえがいいが、苦楽を分かち合っていかなければ夫婦は成り立たないことを、この時の彼はまだ、判ってはいなかった。

まあ、最後に至って判ったかどうかは、微妙だけど……。ただ、田舎に引っこんで、畑でもいじって暮らそうとしていた彼に言い放った文子の言い様は、強烈、かつ、現実的だったのだ。「田舎に引っこんで、自分の食べるだけの分を育てるなんておっしゃるけど、弟さんがもういらっしゃるのよ。長男だからってむりやり入り込もうなんて甘いわよ」
そう、甘いのだ。普段は男が家族を食わせる、だから文句を言うななんて言ってるくせに、お前は田舎暮らしが嫌なんだろうとか責任転嫁しているくせに、実家に逃げ込めばなんとかなると思っている、本当に現実が見えていないのは男の方なんだ。だから女が、妻が、自分で稼げるかもしれないと焦り出すのだ。

大喧嘩した朝、二人、口もきかない。でもほんのささいなことだった。そこへ郵便が届く。新婚旅行であれだけ大喧嘩して修復不能と思われたあや子からである。
夫が撮ってくれたという幸せそうな写真が同封されている。あの時、「いろいろ参考になりました」と爆笑のひとことを言い残して去っていった彼女は、確かにちゃんと参考にして、ある程度は男なんてこんなもんだ、夫婦なんてそんなもんだと思って、時々は文子たちと同じようにケンカをしながら、過ごしていくのだろう。

そして文子と亮太郎も、その手紙でほどきかけた心をにじませながら、朝食を済ます。近所の子供が紙風船に興じている。庭に入り込んだ紙風船を「おじさん、とって」と頼む。ようし、と子供にトスしようとするも、上手くいかない。
どてらに下駄姿で、無様にひとりで奮闘しているところに、何やってるのよ、と文子が降りてくる。文子が打つ、亮太郎が打ち返す、ほらもっと強く!文子がまた返す、何を!と亮太郎が返す。もうすっかり子供たちはあぜんと見ているばかりである。

明らかに文子の方が上手くて、亮太郎はたたらを踏みながらようやく返す、そんなラリーが続いて、続いて……。隣家の夫婦が、「あの二人、昨日ケンカしてたよねえ」とあきれ顔で顔をのぞかせるのが可笑しくてさ。ことあるごとにこの年の差夫婦も、特に旦那さん側が嘆息しまくっている感じだったのに、やっぱりなぁんか、仲がいいんだもの。
紙風船ラリーのまま、ブラックアウトしてのラストには、なんか上手く騙されたような感じもあるけど!!そう、夫婦なんて、そんなもんだ、とポジティブに考えられる余韻があった。★★★★☆


14の夜
2016年 113分 日本 カラー
監督:足立紳 脚本:足立紳
撮影:猪本雅三 音楽:海田庄吾
出演:犬飼直紀 濱田マリ 門脇麦 和田正人 浅川梨奈 健太郎 青木柚 中島来星 河口瑛将 稲川実代子 後藤ユウミ 駒木根隆介 内田慈 坂田聡 宇野祥平 ガダルカナル・タカ 光石研

2017/1/22/日 劇場(テアトル新宿/レイト)
タイトルの「14の夜」はやはりあの、尾崎豊の「15の夜」のことがあるのかなあ。
1987年に中学生、レンタルビデオやらエロ系映画のタイトルやらやたらしっくりくると思ったら、監督さんは私と同じ年なのね。「百円の恋」で一気に名を挙げた時に見かけた感じで、もっと年配かと思ってた、ゴメン(爆。もう年配という年頃に自分も近づいているということ!)。

自分の青春期、いやさ性春期を回想してのこういう映画って、普遍的というか、いつの時代も繰り返し出てくるし、特に男性クリエイターにとっては一度は作ってみたいものなのかもしれないと思う。
まぁ女だって性春のモンモンはあるにしても、やっぱり受け身だし、男の子ほどそれが明確に、オスメスな感じではないから、ビジュアル化するとなるとやっぱり男の子のそれの方が断然、面白い。うらやましいような、そうでないような。

これって、ほぼほぼ一日限りの物語なんだよね、振り返ってみれば。それもまた勿論、ネライ通りなのだと思う。なんたって脚本家として名をはせているんだから、そのあたりの腕は見せなきゃいけないといったところか!
画面上に日にちの時間を刻印するのはまあまあある手法だが、でもそれもしつこくない。
てゆーか、覚えている限りでは二回だけだったと思う。それで、あ、一日だけの物語なんだ、とその前に刻印された時のことが鮮やかによみがえってうならせる、っていうのはやはり上手いと思う。脚本の書き手が自ら演出する時に、こうしたい!!っていうのが凄くよく表れているというか。

四人の男の子。柔道部だけど基本プロレス技かけてだらだらワイ談に興じているだけのような。夏休みの部活動だけど、部活にいそしむというよりはただこの退屈な夏休みの時間を潰しているだけといった雰囲気。
どこまでもどこまでもだだっぴろく田畑が続く、ザ・田舎町。寂しいショッピングモールのただ一軒だけある24時間レンタルビデオショップが、彼らの性春の大事な盛り場。
中学生だからというよりは、ただビビッてAVコーナーののれんをくぐれないチューボーどもは、O嬢の物語あたりで満足するしかない。
O嬢!ああ確かに監督さんは私と同い年なのだ!!レンタル料が1000円もするとか、誰か一人の家に行って皆で見るとか、もーこの年代の感じがアリアリで、涙が出そう。

このビデオ屋の店主もそうだし、彼ら四人がからまれる不良や、ヤンキーたちもそうだけど、彼らにとってどこ中かということが最も重要だっていうのが何とも言えない地方感、なのよね。
ヤンキーどもは高校生だって混じっていると思うのに、どこ中かどうかが重要。恐らくそこまでは皆、その地域なら行かざるを得ないという点で平等で、自分が力さえ見せつければ制圧できる、ということなのだろう。
高校からはレベル別に分けられちゃうからさ……というのも、現代の、中学校どころか小学校、幼稚園からレベル分けされるのが珍しくない世の中では成立しないのよね。どこ中、って久々に聞いたと思って。

そんな中で彼ら、というか主人公のタカシは力だけでは測れないレベルの差に気づいてしまって、一人モンモンとしている。きっかけは校内でもショボい奴らの筈だった映画部が賞を獲り、柔道部の顧問である筈の先生までもがすっかりそっちに没頭しちゃってること。
柔道部四人は……四人しかいないんだろうな……青春そのものって感じで中庭で撮影をしている映画部のメンメンを大声でジャマしたりしながらも、少なくともタカシは、彼らに追い抜かれたと、気づき始めてる。

追い抜かれたというのがなんなのか。タカシは上手く言えないけど、と言いつつ、クラスの中での目立つ目立たないという例を引き合いに出しながらも、でも明確に彼の頭にあるのは、セックスが出来るかどうか、という点についてなのであった。
女子のおっぱいに平気でタッチしているような不良たちには勝てないのは仕方ないけど、でもいまや映画の連中は自分たちより上であり、セックスだってしてるんじゃないか。

タカシがしみじみ言う「これから先、女のおっぱいを思いっきりもむことって出来るのかな」という台詞は、それだけ聞いたら思わず噴き出しそうになるんだけど、でも何か……男と女の違いはあれど、中学生あたりでこういう不安にさいなまれる感覚って、ちょっと判る気がするんだよなあ。
自分がセックスしたりおっぱいもまれたりするなんてことが、妄想以外ではリアルに想像できない。このまま一生そんなことがなく終えるんじゃないかっていう不安って、思春期には結構……笑い事じゃないんだよね、って。

タカシの家は今、ちょっと嵐が吹き荒れている。高校教師であるしょぼくれた父親がランニングにパジャマのズボン姿で一日中家にいるのは、酒飲み運転で捕まっちゃったから。演じるのが光石研っていうのがひどく絶妙で、気の強い母親が濱田マリってーのもまた、ああ光石研、ピーンチ!!ってなもんなんである。
後に婚約者を連れて帰ってくるのが、フツーに服着てる役が新鮮な(爆)門脇麦嬢。いかにも時代な聖子ちゃんカットがイイ。婚約者の和田正人はその古臭い昭和顔が(爆)、よく似合ってる。

タカシは父親のことをカッコ悪くて好きになれない。まあこういう状況じゃ仕方がないし、娘と婚約者に対してもおろおろしたり逆ギレしたりで確かにめちゃくちゃカッコ悪い。ついには父親を背負い投げして飛び出してしまうタカシの気持ちは判らなくはない。
ただこれは同族嫌悪というか……先にタカシがその不安を口にしたように、誰にも見向きされないカッコ悪い存在なのかもしれないという思いの裏返しで、それを最後の最後、当の父親自身が「お前がカッコ悪いのは父さんのせいじゃないぞ!」と言い放つのが、凄く、イイんだよね。
これは本当に、脚本家!!って感じのかっ飛ばしたホームランの台詞。親子だけど一人ひとりで、でもつながってる感じ。光石研のおろおろ感が愛しくて。

……てな具合にあまりに飛んじゃい過ぎだが。一つ、重要なキーワードがある。よくしまる今日子。なんという素晴らしいネーミング。勿論薬師丸ひろ子と小泉今日子の合体形だろう。この当時の文句のつけようがないスター二人。レンタルビデオ店に貼られたポスターは原田知世の時をかける少女だったが……。
柔道部四人が愛読しているエロ本。「よくしまるのおっぱい吸いてー!」というのは、彼らのみならずすべての男子たちの合言葉のようなもの。
というのも、この町にはある噂がささやかれていた。あのたった一軒のレンタルビデオ店「ワールド」によくしまる今日子がサイン会にやってくると。そして12時を過ぎるとおっぱい吸わせてくれるんだと!!

結果的にそれは、当然単なる噂に過ぎなかったんだけど、何月何日に来るらしい、なんてところまで絞られて、柔道部四人も町の不良どももすっかり舞い上がる訳で。
その間にタカシのお姉ちゃんと婚約者がやってきて、お父さんとのバトルがあって、こともあろうにお父さんがズリネタにしていたタカシの秘蔵裏ビデオが再生されちゃったりして!!もーう、盛り込みすぎだよ、どこから手つけていいのか判んない!!

でもこの、お父さんのズリネタエピソードはさ……オナニーしてるところを親に見つかったらサイアク、という話をしている時に「逆だったらどうかな……親がオナニーしてるところを見ちゃったら」と、まさにそのサイアクを経験したタカシが仲間たちに問いかけると「大人がオナニーなんかする訳ねえだろ」というまさかの返し!ええ!そういう感覚だったっけ??
そうかなあ……少なくとも女子はそんな考えは持ってなかったと思うけど。男の子って純粋だなと思う。大人というだけで、無条件に尊敬しているのかもと。それがあるから、親への反発が自分の中で上手く消化できずにこんがらがってしまうのかも。

柔道部四人の中でも微妙な亀裂が生じてくる。ジャイアン的にえばりくさっている竹内が実はビビリで、不良たちにビビッてよくしまる今日子サイン会の集まりをドタキャンしたあたりから決定的に彼らの絆が壊れてくる。
「あいつ、明日からハブだから。それと竹内じゃなくて竹肉な」という台詞には思わず笑ってしまうけれど、でもそれを言った二番手のサトシだって、結局は不良にビビッてタカシやミツルにすべてを丸投げしてしまうようなヤツなのだ。

ミツル。ミツルこそが一番、この年頃で何もかもを判ってしまっていた、のかもしれない。細くてナヨナヨしていて(という表現も、何かこの当時っぽくて懐かしい)、他の三人にくっついて歩いている、いわばパシリな少年。
しかし彼がタカシと二人っきりになった時……すべてを見せる。そもそも、先述のようにタカシが、自分たちは何もないんだと、お前は何かあるかと問いかけた時、その時にはパシリらしく、なんもないっす、と答えた彼が、実は夜中の公園でカーセックスの覗き見をやっていたりする度胸の持ち主で、そして何より、タカシのことが好きで、その思いを、なんと……。

ああ、これをひとことで言ってしまうのは、あまりにミツルに対してもったいなさすぎるというか!!タカシが内に秘めている男らしさを彼だけがちゃんと見出してたこと、小学校時代のそんな思い出を何年も心の中に、恋心として持っていたってことが、なんだかたまらなくて。
だからあのトンデモシーン、タカシを“習い始めた”ボクシングの見事なパンチでのして(この時点で全然、なんもない少年なんかじゃない!)、鼻血で真っ赤になったタカシに対してズボンを下ろし「……なめるっす。……ちょっとでいいっす」というシーンの、笑っちゃうんだけどあまりにもせつな哀しいシーンの衝撃よ!!

実際のクライマックスはその後であり、タカシが不良グループと共にヤンキーたちと対峙、幼馴染の巨乳ガールに対してなけなしの勇気を振り絞る部分にあるのだが、一番の衝撃はヤハリ、このミツルのエピソードにあったに他ならない。彼の勇気がタカシにそれを与えたのだもの。

鼻血で真っ赤になったタカシは、あやしげな屋台を通り抜けワールドに向かうが、当然あんな噂はデマである。でも待ち構えていたはすっぱな女店員の粋な計らいが心地いいのだ。
「私、アイドルだったんだよ。全然売れなかったけどね」というエピソードは、「サッドティー」の彼女まんまではないか!!
タカシの妄想の中では彼女のおっぱいをもみもみしまくらせてくれる、というのはそのまま現実のエピソードにしてあげてもいいぐらいだと思ったが、海賊版ビデオにニセサインとキスマークをつけてプレゼントしてくれる、ってのは充分に粋な計らいなんである。

不良グループに散々うらやましがられ、よくしまるのおっぱいは吸えたのかと聞かれて「……チェルシーの味?」と答えるタカシには爆笑!
ヤンキーに遭遇し、心ひそかに下半身をうずかせていた幼馴染の女の子に、おっぱいをもめるかどうかでまさに命がけのぶつかり合い。ああなんと素晴らしきくだらぬ青春よ。いや、くだらなくはない。不良グループともすっかり腹を割り、深夜のプールで全裸で泳ぎ合う。

すっかり朝になって、飛び出した家にぼろぼろになって帰ってくるタカシはたしかに、大人になっているのだ。いままではただむっつりと対峙することしか出来なかった父親と本音の言葉を交わし合うことが出来るのだ。
そしてぼろぼろのカッコでベッドに横たわり、父親ががめたエロビデオが返ってきていることに爆笑してベッドから転がり落ち、そしてそのまま、なぜか、なぜだか泣きむせぶ。どうしてか、判らないけど、とてもよく判る、深い心の奥で。★★★★☆


女性操縦法 “グッドバイ”より
1949年 99分 日本 モノクロ
監督:島耕二 脚本:小国英雄
撮影:三村明 音楽:鈴木静一
出演:若原雅夫 清川玉枝 高峰秀子 森雅之 江川宇礼雄 斎藤達雄 霧立のぼる 三村秀子 藤間紫 一の宮あつ子 清川虹子

2017/3/31/金 劇場(神保町シアター)
映画の中盤まではメッチャ面白かったが、ドラマを付け足した後半は作品自体が変わってしまったかのように失速。
と思っちゃうのは、私がこの原作、太宰の未完の絶筆、「グッド・バイ」が大好きだからそう思うに違いないのだが。

もーほんとに、「グッド・バイ」大好きで、ひょっとしたら太宰の全作品の中で一番好きかもと思うぐらいで。映画を観終わってもう一度本棚から引っ張り出して読んだらやっぱりもう、ぷぷぷと何度も噴き出すこの面白さ!
太宰という作家のイメージとこのタイトルからくるそれが、暗い作品だと勘違いされそうなんだけど、もーこんな面白い喜劇小説はないよねっ。元から彼独特のリズムのある文章は魅力的だけど、その洒脱さがいかんなく発揮されていて……てなことを書いていくと太宰論みたいになっちゃうから修正修正。

未完な上に、ドラマまで到達していない。スカしたキザ男、田島が、凄い美人だけど怪力で大喰らいの闇の担ぎ屋、キヌ子を、愛人との別れのために利用しようとするもホンローされまくるという、その描写の面白さのまま、つまり田島とキヌ子のやり取りに笑っているところで唐突に未完の絶筆になってしまったのであった。
だからこれを映画化するっつーたら、そらドラマというかオチをつけないといけないだろう、それでなくてもこのままでは映画としては尺が足りないんだから、と期待半分不安半分だったが、まあヤハリ太宰好きとしては……こんなオチをつけるくらいなら、未完の部分だけで唐突に終わってくれた方が全然面白かったのにと思うぐらい。

たらればは言うべきじゃないが、太宰はきっとこんな物語を想定しては書いていなかったろうと思っちゃう。映画では四人の女との別離だけだが原作では数は限定されておらず、様々な女との別れに際してのキヌ子にしてやられる様が次々描かれていったに違いないのだから。
ホンットに、その爆笑必至のエピソードの連作のようなことになったんじゃないかとか、夢想してしまう訳。

まあとにかく、映画は映画、その一本の作品なだけなんだから、そんなことを言ってはいけない。少なくとも本作は確かに記憶に刻まれる一本であるに違いない。
それは、なんといってもキヌ子役の高峰秀子のぶっとびさ加減である!!いやー、いやーいやー、ビックリした!!彼女のコメディエンヌぶりが素晴らしい、という解説があったので、先述のような不安もありながらも、原作大好きということもあって足を運んだんだが、予想以上、予想をぶっとばすはじけっぷり!!

あの稀代の美人女優が、いや思えば美人なだけでなく稀代の名女優でもあった訳だが、それにしてもこんな彼女は予想だにしていなかった!!
闇の担ぎ屋である汚いカッコをしているキヌ子が、しかし時々着飾ると信じられないほどの凄い美人、であるというのは、その結果だけみれば高峰秀子の美貌からすれば全然問題ないところ。正直そのギャップであるところの、汚いカッコをしている部分がかなりさらりと流されるウラミがあるのだが。
原作ではそのギャップが鴉のような悪声で示されるところを、東北あたりを想起させるズーズー弁にしたってあたりは、映画化に際するなんともはやなグッドアイディア!!なんである。

「あらやんだね、田島さんでねぇか」といった調子で、彼女を征服しようと迫る田島に「その手にはのらねぇよ。あんだの魂胆は判ってんだ。あの缶の中のカラスミを狙ってんだろ」爆笑!!
キヌ子の汚いアパートに押しかけて、高いカラスミを逆に売りつけられるエピソードは原作の中でも最も爆笑必至のところだが、いやー、参った参った。
でも、ザクザク切った大盛りのカラスミに代用味の素をどっさりかけて田島をウンザリさせる、というところがスルーされていたのはもったいないなあ。やはり味の素というメジャーな固有名詞がまずかったのかな??

どうも原作が気になって脱線してしまう。何人もの愛人を抱えている田島役は森雅之。キザなヒゲが絶妙なうさんくささ。原作の(うーむ、やはり触れてしまうな)ちょっと気弱な色男、という感じとは少し違って、割と自信満々な感じがする。
原作とは(もう許して、触れずにはいられない)違って田舎に妻子がいる訳じゃなく、勤め先の大スポンサーの娘との縁談話が持ち上がっての、愛人とのグッドバイ計画であり、この時点でなんとなくオチが見えてしまった感もある。
そう、その、田島にホレちゃってる娘ってのがキヌ子なんだろうと。しかしあんだけ世間のなにがしかが判っているキヌ子が、田島のような薄っぺらい(失礼!!)男にホレるかね、と思うが、そこはその付け足しとなる映画のドラマ部分が、充分に書き足されている結果なのであった。

つまり、キヌ子の友人が田島の愛人の一人であり、苦しんでいる彼女を見かねて、彼女のみならずすべての愛人と手を切らせてやろうと、そういうウラがあったことが、原作の尺が途切れた後のドラマ部分で明らかになるんである。
もともとぶっ飛んだ娘であったキヌ子が、富豪の家を家出同然に飛び出しては自らの力で生活していた、という経過が語られる。で、後にその娘と会った田島は当然、キヌ子そっくりの彼女に驚き、その前にキヌ子に愛の言葉をささやいていたくせに、あっさり鞍替えしてかき口説き、彼の本性が暴かれる、という……。

原作が好きだからこそ、この展開は好きじゃないなあ、とどうしても思っちゃう。キヌ子はあくまであのキヌ子、一週間に一度キレイなカッコをするだけで充分、とその時にはまさに凄い美人に変身するが、中身は怪力の大食いの金にガメツイ女であるからこそ魅力的なんであって、実は富豪の娘でした、実は友人のために一肌脱ぎました、だなんて、面白くなーい!!!と……やっぱり思っちゃう。
それは、先述したけど、そうした展開が見えてきた中盤以降から、ガラリとテイストが変わっちゃうから。それまでキヌ子の、というか高峰秀子のぶっ飛び芝居に大笑いさせられていた、それはまさに原作の面白さで、中盤からはフツーのメロドラマになっちゃったウラミがどうしても、あるんだよなあ。

それにしてもほんっとうに高峰秀子はサイコーだった。ズーズー弁がバレるから喋っちゃいけないとクギを刺されている彼女、黙っている彼女は確かに清楚な美人で、ただただニッコリしているのが、しかし正体が判っているから可笑しくてたまらない。
結局正体がバレちゃった、愛人その3の割烹料理屋の女将とのシークエンスは爆笑必至。酒も底なしのキヌ子は、コップの焼酎を水でも飲むみたいにグイグイ飲み干してそしてあの清楚な笑顔でニッコリ。それも何度も!!女将が驚いて振り返るあの繰り返しとキヌ子のニッコリ笑顔の繰り返しは、ほんっとうに可笑しい!
で、もう酔っぱらっちゃった田島からOKが出てズーズー弁で喋り出すキヌ子をすっかり気に入っちゃった女将と飲み明かす、しかし田島には酒はやらないと(笑)。こーゆーの、好き好き!フェミニズム野郎としては、最高に好きっ。

キヌ子のアパートを田島が訪ねた際の、原作にもあるエピソード、どこからかピアノが聞こえてくる。有名なベートーベンの月光を、「僕は音楽通でね。あれはショパンだな」などと気取ってアホを言う田島。
後に本来の姿であるお嬢様、絹代になって彼の前でピアノを弾くのだが、それがまさにあの月光であり、しかもジャズバージョンまで披露!このシーンは映画オリジナルとして唯一(汗)好きなところだったなあ。

酒飲み、大喰らい、金にガメツイまでは踏襲していたけれど、そういやあ怪力の部分はスルーされていたんだよね。なぜだろう。この部分はハズせないと思う。キヌ子のパーソナリティとしてすっごく面白い部分だと思うのに。
それはやはり、アレかな、実は富豪のお嬢様であったという映画的オチが用意されていたからなのかな。だからキヌ子のアパートに押しかけた田島が、迫ってぶん殴られて悲鳴を上げて逃げ出す、という原作の超面白いエピソードが、非常ベルみたいなのを鳴らされてオワリ、というのはいかにも惜しい、惜しいんだよなあ。

実はこんな真っ正直になれる相手こそが運命なのかもと、田島はキヌ子に愛の告白、縁談を蹴ってキヌ子と一緒になる決意だったが、縁談の相手がキヌ子そっくりであることに驚いた田島は、当然同一人物であることを疑い、キヌ子のアパートに電話。
すると「いちいち電話してくんな。もう鍋が噴きこぼれるから、切るぞ」とキヌ子が応対。安心した田島はサクッと娘に鞍替えして口説くも、「永い間ありがとう、グッドバイ」とそれまで田島が女たちに口にしていた言葉を残して彼女は去っていくんである。
そんで田島がのこのこキヌ子のアパートに行ってみると彼女はもう部屋を引き払った後、んで家主に、電話口で聞いたあの声が録音レコードであったことを知らされる。

その後、キヌ子が友人のケイ子の家を訪ねると、別れさせた筈の田島がそこにいて、私は彼を本当に愛してたからとか、田島も似たようなこと言って、えー、そーゆー結末キライー、と思うフェミニズム野郎の私(爆)。
しかもキヌ子までもが、その姿に感銘を受けたのか、かつてソデにした恋人に今すぐ来て!!と電話をして、抱き合ってハッピーエンドだなんて、そらないわ、そらないわー。

太宰が作り上げた、自立した女のある意味究極の姿であったキヌ子のキャラが、高峰秀子がすっごくサイコーに再現してくれたのに、あのズーズー弁も演技だったなんて、実はお育ちのいいお嬢様で、愛に落ち着くなんて、そらないわー。
つまり私が納得いかないのは、そこか!キヌ子が自立した女だったから、実はそれが仮の姿であったことが、男とハッピーエンドという結末にされたことが気に入らないのか。そうか……。

現代になって、篠原監督が短編映画化したらしいというのを、今回検索してみて初めて知るんである。彼はどうオチをつけたのか、気になる。あるいは短編ならば本当にその通りなだけだったのかな。★★★★☆


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