home! |
ミセス・ノイズィ
2019年 106分 日本 カラー
監督:天野千尋 脚本:天野千尋 松枝佳紀
撮影: 田中一成 音楽:田中庸介 熊谷太輔
出演: 篠原ゆき子 大高洋子 長尾卓磨 新津ちせ 宮崎太一 米本来輝 洞口依子 和田雅成 縄田かのん 田中要次 風祭ゆき
果たしてあの実際の布団おばさんはどうなったんだっけかなとつい調べたくもなったが、やめた。それこそあの時、本作の彼らと同じように、一面的に報道される布団おばさんを、頭のおかしいおばさんだとしか、私たちは思わなかったではないか。なぜあんな狂ったように布団を叩くのか、そこに何かの事情があるかもなんて一ミリも想像しなかった。
そしてそれはすべての物事に対してそうなのだ。面白おかしく報道されるニュースのうわべを、へえそうなんだとなぞって、通り過ぎてゆく。100のニュースに100通りの、こんな物語があるに違いないと考えると、自分の薄っぺらさに本当にゾッとするのだ。
それはまさしく、本作のテーマとも言うべき、物事を立体的に見る感覚である。
この布団おばさんに悩まされている隣人の真紀は大きな文学賞をとって華々しい作家人生をスタートさせたが、その後はスランプに陥っている。編集者から繰り返し言われるのは、物語や人物に奥行きがない、立体感がない。どんでん返しや面白おかしくということじゃなくて、薄っぺらいんですよ、そもそもの根幹なんですよ、とハッキリと言われる。
これだけハッキリと言われているのに真紀はそれこそ根幹のところが判ってなかった。それこそがスランプというものなのだろうが、“立体的に物事が見られない”ことが非常に巧みにこのドラマを形作っていくことにまさに舌を巻くのだ。
ラジオで紹介されていた時から、なんとなくそういう物語だろうな、というのは想像がついていた。頭のおかしいおばさんに悩まされている、というのが違う面から見れば……という含みで紹介されていたから。ある意味では予想通りの展開ともいえるのだけれど、なんたってあの、実際に報道されていた布団おばさんが記憶に刻み付けられているもんだから、観客である私たちはなかなか気持ちが切り替えられない。
本当に頭のおかしいおばさんだと感じてしまう。顔も鬼瓦みたいだし(失礼!)真紀が端正な美人であることもあいまって、「作家先生、へえー、ペンネームをつかってらっしゃる!」とかみつくこのおばさんがひがみ根性じゃないのと感じてしまう。でもそれはまさしく、真紀側からの感覚なのだ。
真紀のダンナは、真紀が一人で気が立っていることに最初からけん制していた。確かにダンナは昼間いないし、この布団ばんばんに悩まされることはないし、イヤミ言われることもないから判らないのだ、という真紀の理屈は判る。
真紀が締め切りあるのを判ってて仕事を入れたり、「菜子(娘ちゃん)のことは出来るだけ協力するから」という言い方に、協力ってなによ、あんたの子供でもあるんだよ!!とフェミニズム野郎の私なんか敏感に反応しちゃう。
後から考えれば、そういう部分も実に巧妙なのだ。家計をどっちが担っているか、なんてことは言っていない。共働きであり、単に真紀がスランプに陥ってイライラしているだけなのだ。
それが後々じわじわと判ってくる。家で執筆活動をする真紀が菜子の面倒を見る訳なのだが、書けないイライラで娘と遊んでやることもままならず、叱りつけて部屋に閉じこもって“薄っぺらい”文章をパコパコ書いているんである。
公園に遊びに行くという約束も再三破られた娘ちゃんは苛立ちがマックスに達し、一人外に出てしまう。後から冷静に考えれば、明らかに真紀に落ち度があったのに、ダンナの台詞に真紀の気持ちに加担してイラッとしたり、真紀の目線から見る布団おばさんの若田さんが本当に頭おかしように映されるんで……ああ、なんと巧妙な。そして単純に考えてしまう人間の愚かしさを、見事に試されてしまう!!
若田さんは、一人で公園に遊びに行こうとしていた菜子を心配して、一緒に遊んでくれていたのだった。保育園にも上がる前のこんな小さな子をほっといて、と真紀を叱責したのは後から思えば当然のことだと思えるのだが、真紀側の視点から描かれると、勝手に連れ出し、こちらに一声もかけないで、という真紀の言い分こそが正しいように思えてしまう。
確かにボタンの掛け違えはあっただろう。一声かけるべき、というのは確かにその通りだろう。でもそれはタイミングやらなんやらいろいろあるし、そもそもほっといた側の勝手な言い分に過ぎないではないか。
しかも一度ならず二度までもあった。子供との約束を反故にすることが、子供にとってどんなに傷つくことか、子供の頃をちょこっと思い出してみれば判ることなのに真紀はただイライラとしていた。
……この言い回しも良くないな。だってこのシークエンスの時点では、私ら観客は真紀の気持ちにこそシンクロしているんだもの。事なかれ主義のダンナは狂ったおばさんに悩まされている私を判ってくれない、という真紀の気持ちにこそシンクロしているんだもの。
菜子は明らかに若田さんになついていた。若田さんだけじゃなく、若田さんのダンナにも。家に遊びに行って、おじちゃんと一緒にお風呂に入った、と無邪気に言う菜子に真紀は顔色を変える。観客も息をのむ。
その二度目の時、行方の知れぬ菜子を探し回って、真紀もダンナも死ぬほど心配したのだ。隣にいるんじゃないかという真紀の予感は当たっていたが、それは彼女の考えるような勝手な連れ出しではなかった。
菜子は傷ついて、家出をしようと考えて、マンションの通路の隅で自分の家はここだと言って壁に落書きをしまくっていた。その菜子を不憫に思って若田さんが家に招き入れ、ダンナさんと共に疲れ切っちゃうほど遊んで、昼寝をしているうちに夜になってしまった、のだ。
それもすべて、後に明らかになることである。こうして先にオチバレのように語るのはルール違反かもしれない。でもこうして事実が判明すればすっきりと通ることが、“頭の変な隣人”となってしまう怖さを、まさに中盤でバン!と変転する上手さを説明するにはこれしかないんだもの。
真紀側にシンクロしてしまう中盤までを、若田さん側からなぞり返すそれ以降で、当然、同じ場面が若田さん側によって繰り返されるんだよね。ちなみに、なぜ布団をばんばん叩いていたかというと、若田さんのダンナさんが精神を病んでいて、幻覚の虫に悩まされていて、ほら、布団から虫を叩きだしてるよ、もういないよ!!というアピールのために若田さんはことさら大きな音を立てて、布団をばんばん叩いていた、のだ!!
なんということだ……そんなこと、予想もつかない。でも、若田さんは真紀に説明しようとしていたのだ。同じ会話場面が繰り返されることで初めてそのことに気づいて慄然とする。
ただでさえ進まない執筆活動に布団バンバンやられて、ベランダから声をかける真紀に対応する若田さんは、そうだ、確かに最初、屈託なく挨拶していた。嫌がらせをしているとか、頭がおかしいとか、そんな感じじゃなかった。
真紀からクレームを言われて、その事情を説明しようとしていたのを、真紀が迷惑千万!という感じで遮った。同じ場面を観ていた筈なのに、真紀側の視点から描いていた時にはそのことに気づいていなかった、のだ。
そしてそれは、菜子の“連れ去り”の場面、一度目、二度目、繰り返されると、それもまたそうなのだ。見ている筈なのに。聞いている筈なのに。なぜそれに気づかないのか。
若田さんは事情を説明しようとしていた。なのに真紀は、この狂ったおばはん!!と聞く気もなかった。そして布団おばさんの記憶もある私たちは、真紀のこの感情に加担していたのだ。
中盤はちょっとコミカルな雰囲気もある。真紀のイトコがユーチューバーでひと稼ぎ、とばかり、若田さんとの騒動を動画にしてアップしちゃったんである。
スランプに陥っていた真紀はこのイトコのアドヴァイスに従って、若田さんをテーマにした原稿を書いてみたところ、センセーショナルなキャラが受けて思いがけずヒットしてしまう。しかしそれは、動画とのセットである。
人気が出たのはいいが思わぬ恥さらしになったことを真紀は戸惑うものの、相乗効果で人気は上がり、他の出版社からも執筆依頼が来る。
一方で真紀は訴訟の準備も進めていた。弁護士は証拠を集めれば勝てる、と請け合った。ダンナは懐疑的だったけれど、イラつく妻をなだめるためにはと思ったのか、訴訟することには反対しなかった。
しかし、証拠のためと撮影した動画、そしてイトコが勝手に撮った動画が拡散され、精神を病んでいる若田さんの夫が飛び降り自殺を図ってしまうんである。
このあたりから、若田さん側からの視点が描かれていくこともあって、一気に反転していく。観客側は、自分たちが抱いていた正義がいかに薄っぺらいものだったかを、否応なく痛感させられていく。
まさに立体的に物を見ることが出来ていなかったのだ。真紀の目から見たら、若田さんの言動はすべてが異様だった。道祖神に手を合わせたかと思いきや、お供え物のバナナをしれりとバッグに放り込んだのを見て目を丸くしたシーンは、観客側にも、やっぱりこのおばはん、おかしいわ、と思わせてしまうものがあった。
でもこれも見事に反転するんである。そもそもこのお供え物を供えていたのは若田さん。この日はきっと急いでいて、回収だけしたんだろうけれど、最後のシークエンスで、きちんと古いお供え物をバッグに入れ、新しいお供え物と取り換えて手を合わせていた。
近所の農家で野菜のパック詰めのパートをしている若田さんは、規格外というだけで、運送のコストがかかって赤字になるからという理由で野菜が廃棄されることに憤りを感じ、タダで引き取ってくれないかと、スーパーやら八百屋に直談判するも、すべてに断られた。
私、間違ってないよね。社会がおかしいんだよね。若田さんは家に帰って、ダンナさんに訴える。ダンナさんは気弱く、若田さんが憤っている正義というものについていけている感じはないけれど、でも彼らは、同志なのだ。
哀しい同志。幼い子供を失ってしまった。どういう事情かは明らかにされないけれど、死なせてしまった、二人は自分を責め続けている。ダンナさんはそれで心を病み、自殺未遂は今回が初めてではなかった。
若田さんだって、死にたいぐらいの気持ちだっただろうけれど、もうこれ以上家族を失いたくないという気持でふんばった。そして正しい気持ちを持ち続けたいと思った、のだ。
不器用、なんだろうと思う。世間からどう見えるか、とか、それこそ隣人からどう見えるか、とか、考えてない。正しいことなら、恥じることはないという、ひどくまっとうな生き方が、こんな風に損なばかりな社会が、彼女の言うようにおかしいのだろう。
でも、器用という名のずる賢さで世を渡っている私たちは、彼女を“布団叩きの騒音おばさん”にしてしまう。そしていっとき、その布団おばさんに対する“正義”として祭り上げられた真紀だが、あっというまに転落してしまう、のも、彼女自身の不器用もあるけれど、すべてを消費しつくす世間というものなのだろう。
話し合っていれば。単純にそんなことを思ってしまう。こんな頼りになる隣人はいない。忙しく、子供の世話に行き届かない真紀たち夫婦にとって、隣人である若田さんたちの正しい情報というか、人となりが判っていたら、こんな心強いご近所さんはなかったのに。
現代において、集合住宅社会において、ご近所づきあいは本当に難しい。一個一個、完全に閉ざされた空間が並んでいる異常状態。それを菜子ちゃんのような子供が突破し、若田さんのようなフレキシブルなおばちゃんが突破する。それが生かせない社会意識である。
結果的に若田さんのダンナが死にかけて、真紀と真紀のダンナちゃんが離婚の危機にまで陥る。
真紀のダンナちゃんが「真紀は自分のことばっかり」というのは、まさにその通りで、真紀はまさしくまさしくそのことに思い至って、奈落の底に陥る。ああ、アンハッピーエンドはヤだな、どうなるのかな、と思った。
マスコミ記者が大挙して真紀を突撃しようとマンションを張っている。実家にも近づけない。おうちに帰りたい、という菜子をかき抱いて玄関を突破しようとする真紀だが、当然取り囲まれてしまう。
思いがけず、そこに飛び出してきたのが若田さんだった。記者たちを一喝した。こんな幼い子供に向かって!!と吠えた。真紀と若田さんが争っているという前提での取材合戦だったから、記者たちは虚を突かれてボーゼンとしている中、若田さんは菜子を抱きあげ、大股で歩き出す。真紀は慌ててあとを追う。
もうこの時点では真紀は自分こそが間違っていたことを悟っていたからまずは謝罪するんだけれど、次のシークエンスがヤバすぎである。
若田さんはいつもの習慣のごときで、道端の道祖神にしゃがんで手を合わせる。供えていたバナナをバッグにしまい、代わりの和菓子を供える。真紀はハッとし、呆然とし、震えて、本当に本当に申し訳ございませんでしたと、血を吐くように心の底からの謝罪をするのだ。
そもそも娘ちゃんが若田さん夫婦を慕っていたことの意味を軽視していたのは、嫉妬だったかもしれない。表向きは頭のおかしい隣人という意味合いで心配というフィルターをかぶせていたけれど、あんなに楽しそうな娘ちゃんはきっと、真紀にとって衝撃だったに違いないのだ。
若田さん夫妻が抱える、子供を失って夫婦二人きり、なんとかかんとか生きて行くことだけにふんばっている人生は、真紀にとっては、とてつもない先輩だ。そのことに気づいて、それ以前に娘ちゃんがそれを彼女に教えてくれて、真紀は、自分の身勝手さを知った。ダンナの苦しみも知った。
若田さんが教えてくれた。家族を守る、その覚悟をしたんだと。真紀は泣いて、泣いて泣いて……私も家族を失いたくないと、ダンナに、血を吐く思いで懺悔した。
マンションにいられなくなって、引っ越しする日、いつものように布団をバンバンしている若田さんに、ダンナと娘ちゃんにちょっと待っててね、と言って最後の挨拶をしたのが、ラストシーンにつながってくる。
若田さんを題材に大ヒットからスキャンダルに発展した「ミセス・ノイズィ」の小説を、若田さんに承諾をとり、上っ面じゃなく、薄っぺらじゃなく、“立体的な”物語として真紀は仕上げた。
その単行本が若田さんの元に届き、最初は笑いながら、中盤は涙しながら、読んでいる。書店では平積みされている大ヒットの光景を真紀は笑顔で眺めてる。一度は壊れかけた家族が、今はつながり、未来へと続いている。
マジでヤラれた。すごい才能。実際の事件を題材にするってのは、ドキュメンタリーではあることだけど……。エンタテインメントとしての面白さを供出しつつのこの社会派よ!★★★★★
タイトルからしてなんとなく予想がついていた、30を目前にした女の焦り。しかしてこの価値観自体がひと昔、ふた昔前を思わせ、古臭いよなーなどと思うのは、私自身がそんな年齢をとっくに飛び越え、何をワカゾーが、などと思うからなのだということも一方では判っちゃいるのだが。
でも、それこそ私がその年齢だった頃に言われていた価値観だったから、まあつまり20年前の価値観が、今も生きているんだとしたら、それこそ大問題であるし、やっぱり現代的ではないような気がする。
しかも、30を手前にしたヒロインが、同じく三十路手前の独身の同僚が寿退社(しかもさずかり婚)という“ウラギリ”をかまし、落ち込みまくる、というマジでいつの時代だよ……というトコから始まるもんだから、個人的にかなりテンションが下がってしまったのは正直なところ。
しかし映画の冒頭は剣呑なヤクザにヤバい仕事を強要されるプライベートフィルムから始まり、ヒロイン、那奈の一人暮らしの部屋に、そのヤバい仕事=銀行強盗を終えた拓人たち三人組が押し入ってくる、という不意を突かれる展開になるもんだから、しばらくの間、フェミニズム野郎の悶々が抑えられるんである。
これも後から思えば、那奈の仕事がなんなのか、なんかありがちなオフィス、「このまま、データ入力で過ぎていく」なんていう彼女のつまんなさげなモノローグに、特に職種も決めないOL(これも言いたかない肩書だ)の日常なのかなと思わせるあたりがミソである。
一方で公務員だということはチラリとだが明確にさせているあたりもニクい。出社って言ってるけど、公務員なら出社じゃないよなあ。会社に行かなくてもいいいうのもおかしいよなあ、と思わせるのもひょっとして確信犯だったのかと思うと、上手い描写だったのかもしれんなあ。
まだしばらく、どういう公務員だったかというのは伏せつつ話を進める。んで、那奈の一人暮らしの部屋に突然押し入る、その日銀行強盗をしでかしてきた三人組。これがなんつーかシロート臭くて、最初は仮装用みたいな動物の被り物をして彼女を脅すんだけど、一番若手の女子、麗良が、息苦しい、むれるとか騒いで三人とも顔をさらす。
後から思えばこれもおかしなことである。確かにこの強盗チームはあまりにもシロート臭いし、この麗良と、一応リーダーである拓人はいかにもバカそうだから(爆)顔見られてもいいだろ、とかカンタンに考えるのはありそうだが、一人常識人の大人の女である葵があっさり被り物を脱いじゃうのは後から考えると本当に、おかしな気がする。
葵を演じるのは酒井美紀で、彼女のキャラクターを充分に感じさせる常識人としてのふるまいをきちんとし続けるのに、この最初だけが、あまりに不用意すぎて、首をかしげたくなる。
こーゆーところが、ラストのどんでん返しに合わせたスキのように思えて仕方なくなる。いや、いくらでも説明はつくのよ。実は拓人の元カノの葵だから、彼がバカだということは判ってても、拓人の言うことは常に尊重して従う。確かにそうだから。
でもねぇ……ここ一番大事なトコだしねえ。それとも葵は那奈を殺してしまうことを考えていたのか、いやそれはないよね。そういう剣呑な駆け引きもなかったし。
とにかく、ほとぼりが冷めるまで身をひそめる場所というだけだった、ということである。しかし、警察が聞き込みに来ている様子を目にして拓人は慌て、予定よりも早く那奈の元を辞するのだが、ここまでの短い時間の間に、那奈と拓人の間には妙な信頼関係というか、親愛関係が産まれている。
それは、拓人がこのムチャな仕事を、夢を叶えるためだと言い、なんたって三十路手前の焦燥に駆られている那奈は、夢なんていうものはクソだとクサしまくるんである。彼女がまくしたてる台詞がナカナカなのでここに引き写してみる。
「たった一人の夢のために、どれだけの犠牲が払われると思ってんの。運動会の一等賞は、そのほかの9人が敗者になる。運動会を盛り上げるためのまやかしなのだ。私は一等賞なんか目指さない。だって悔しい思いをするだけだから。夢ってのはイチローとかジョブズとか才能ある人だけが見られるもの。まきこまれるのだけはカンベン」
ちょっと、判るんだよね。運動会の例は、実に判りやすく私に刺さる。しかしここもニクいことに、運動会じゃない例が、那奈の中にあった訳である。
ちょっと先走って言っちゃうけれども、彼女が勝てないと思った相手は、今売れっ子芸能人として活躍しているかつての同級生。同じアニメが好きなことで親友になったのに、そのアニメが募集したタレント養成コンテストに、那奈も応募したいとひそかに思っていたのに、その親友の本気度に驚いて、とても勝てないと思って、打ちひしがれて、友情関係すら、破たんしてしまったのであった。
とゆーのは、物語の後半になって、なんか突然、といった感じで現れる。そもそも、一時の宿を求めただけの強盗チームになぜか那奈が強引についていったということに、彼ら以上に観客がなぜ??ともっと食いつかなければいけなかったのだ。
なぜそこがなんとなく納得させられたのか……それは私が散々、時代に沿ってないと言い募りながらも、女が30を迎える時のモヤモヤが、20年前の私にもあったし、今の女の子たちにもあるのかなあと考えてしまうところに結局は帰結してしまうのかもしれない。
ただそれが、いかにも一般的な、30という数字だけで那奈が苦悩しているように見えていたから、でもそれも、そうじゃなかったことがラストのドンデン返しで示されてしまうと、もうヤラれた!!というしかないのだが。
そーゆー意味では、“一般的な30という数字”にとりつかれていたのは、拓人の元カノ、葵である。見た目は酸いも甘いもかみ分けた大人の女だが、20代の“青春”(遅すぎる青春だ……)をすっかりこのクズ男に捧げてしまい、それこそ30が迫ってきて焦って結婚をちらつかせてしまい、去られてしまった。
イタすぎる。一番やっちゃいけない女の浪費だ。しかもこれで切り替えられなかったのだ。自堕落になり、貯金を食いつぶし、もうダメというところでこの元カレからまた連絡が入っちゃう。
「また映画を作るから、手伝ってほしい」必要とされることの蜜の味を、今度こそハッキリと彼女は思い知ってしまって、だからバカになってしまったのだろう。
映画、そう、映画なのだ。拓人は突然映画作りに目覚めた。しかし葵言うところの、明らかに才能がない、なのに自分に世界が追いついていないとかホンキで思ってるヤツ。
ヤクザからの借金も、映画製作につぎ込んだ故で、このヤバい仕事も、命を賭けた「リアルドキュメンタリー」に仕上げると意気込んでいる。那奈にマジに言うのだ。「一等賞だけが夢じゃないよ。とっときのラストシーンまでは、何が何でも逃げ切る」んだと。
那奈は行き場のない彼らを、今は誰も住んでいないかつての実家に案内する。そこで那奈は高校生時代の自分と再会する。夢見る少女だった頃の、その夢が破れた少女だった頃の。
今や売れっ子芸能人になった親友、日野まりあと出会い、自分の見ている夢の甘さに直面したあの時。進路に公務員を勧める両親に反発していたのに、それに従うことで、両親に対する反発と自身に対する嫌悪を決定づけてしまったという哀しきあの時。あの時、すべてに背を向けていた自分に、那奈は再会したのだ。
ラストのどんでん返しにすべてを説明されてしまったモヤモヤを思いながらも、クサしきれないのは、この、過去の自分との決別のシークエンスが、かなり本気で描かれているからに他ならない。
かつての自分を、湯船の中にムリヤリ沈めて、“殺して”しまうんだもの。それだけ、30になるまで、ずっとずっと自分の中に、判ってたのに認めたくないジレンマがあったということに違いなくて。
どんでん返しによってすべてが明らかになる直前、拓人に執着して、麗良や葵を“殺す”。「人の夢に乗っかって、夢見た気分になってる」ことも判ってるし、「このままじゃ、この女(葵)みたいになる」ことも判ってるのに、拓人に執着しまくって、ラブラブしまくって、「私もやっと見つけた。もうあきらめることはやめた」とか言って。
なんか違う、おかしい、矛盾してる、もやもやするー!!とか思うんだけど、事態は切羽詰まってくるし、拓人ととの逃避行とか、ヤクザから逃げるとか、そーゆー感じになってくるし。後から思えば、そういう観客の疑問を見事に、せっぱつまった事態でそらしてラストでバーン!!とひっくり返すという手法にヤラれた!!というところな訳で。
那奈は、警察官だったのさ。ご丁寧に、あのボロアパートは警察官女子寮だったのだ。バーンと表示されていたのに、ベランダから入り込んだ彼らはそれに気づかなかったのだ。
那奈が彼らについていったのも職務からだったし、寿退社する同僚の友人、そして同じ寮に住んでいるおばちゃんが那奈の元を訪れた時に、那奈は手のサインで、強盗が来ていることを伝えて、その後は那奈は、警察官として、常に同僚たちと連絡を取りつつ、行動していたのだ。
拓人への感情は……おばちゃん先輩は、「これは本気で、彼と一緒に逃げると思った」と言うし、観客にもそう思わせるぐらいの熱度はあるんだけれど、でもやっぱり……那奈は最初から最後までプロフェッショナルだったのだと、思う。
常に腕時計を意識して、30歳までのカウントダウンを行っていた那奈だけれど、かつての夢を思い出して、それは30になったって、強く思えば、そして自分なりに、叶えられる夢なのだと、いわば彼らによって那奈は確信したのだ。それが、かつての友人、まりあと語った“美少女ヒロイン”なのである!!
拓人とヤクザ、警察との死ぬわ死ぬわ!!キワキワの生々しいやりとりは、拓人にとってはしてやったりの“映画史に残るラストシーン”であったのは間違いないのだが、那奈は……でもマジでどこまで飲み込んでいたんだろう。
拓人との恋愛感情は生々しい感じがあったし、拓人が持っている拳銃がホンモノだったからこそ、“銃刀法違反”と言えたわけだしさ。
めっちゃ周到な描写なのよ。死んだかと思った拓人が那奈との待ち合わせの場所にほうほうの体で現れ、このままじゃあいつらに夢奪われたままだから。身から出た錆だけど取り返さないと、とか言ってさ。
コイツはロマンチック野郎だから、「俺は夢を見ていなければ本当にクズ。それしかとりえがない。それで死ねれば本能」とか言う訳。だったら死ねよ!とこっちは言いたくなるのに那奈は「私を立ち上がらせてくれた。あなたはクズなんかじゃない。私にはもうあなたしかいないのに」とか言う訳。
なーんか、このあたりから、おかしいなと思う訳。その前から矛盾がふんぷんたる感じはしていたけど、ここで確信に至る訳。だって、親友とのエピソードを見せて、かつての自分を殺してまで、那奈はここに来ているのにさあ!
拓人はもうさあ、自分がどんでん返しで留飲を下げると信じて疑ってないから、その先の真のどんでん返しなんて当然、予期してない訳で。もう、とうとうと語っちゃうのさ。
「監督自らの死をもってこの映画は終わる。最高のラストシーン。今まで俺をバカにしてきた奴らを見返す。こんな映画観たことないだろ。これで映画史に名前が残る。俺の夢がかなう。才能ないから命かけなきゃ夢がかなわない」
那奈が涙ながらに言う「あなたと一緒なら夢を見れるって思ったのに。あなたを奪われたらまた夢を嫌いになっちゃう」て台詞を快く聞き、「さすがに命まではかけらんないよね。編集もしなきゃなんないし。どう?ラストのどんでん返し」と鼻たーかだかに言い募るのだが……見事、那奈に逮捕されちゃう。アホ!!
拓人が「刑務所を出たら女優として呼ぶよ」と言うのに対して「私の夢は女優じゃなくて、美少女ヒロインだから」と高らかに宣言、拓人がきょとんとするシーンから場面が飛び、広報部に異動した那奈の元に赤ちゃんを抱いてくだんの同僚が訪ねてくる。
大きくなったねーと鷹揚に対峙する那奈は、今や夢を叶えて、ちびっ子たちに美少女ヒロインとしてアクションも披露しているのだ!!なんたって武田梨奈嬢だからね!一瞬でも回し蹴りが見られるとカンドーするよ。★★★☆☆
しかししかし、処女と童貞という年頃の頃には、それへの迷いや嫌悪もまた当然、存在するのだ。本作はピンクだからそんなカマトト的なことは言っていられない……ハズなのだが、まー思い切って、20代も半ばと思われるふとっちょ主人公を童貞にし、カワイイ彼女がいるのに漫画家として独り立ちするまでは彼女には手を出さないと心に決めているというムリムリな設定。
しかしボロアパートの隣の部屋のエロエロ大家さんは帰ってこない夫に欲求不満をため込んでて夜な夜な男をくわえこみ「ああ、サメ肌のようなもち肌」とかよく判んない愛撫の言葉が聞こえてきて、よけい彼をモンモンとさせる。
あ、彼の名前は満知男君という。今日も今日とて漫画を編集部に持ち込むも、担当編集者は原稿を読みながらトイレの個室で部下とエッチしてるとゆー有様で、「もっと動かすんだ全体的にしっかり回すんだ」だなんぞとゆー、アレな台詞をドア越しに聞いた満知男は、自分の作品へのダメ出しだと思い込んで、今回の原稿はダメなんだと思い込み、落ち込んで逃げ出してしまう。
決してそうじゃなかったのだが……てゆーか、最終的にはこの編集者のオジサンは意外に満知男の才能を認めていたらしいのだが、とにかくとにかく、売れるならヤハリエロ路線しかないと一途に思い込んだ満知男は、大家さんの喘ぎ声に悩まされながらプロットを練りにかかる。
でそのー、チンコさんが擬人化されて、満知男の心の声、いや、満知男のチンコさんの声を聞かせるのよ。あーもー、書きたくない、しかしこれは意外に人間の真実を伝えているかもしれない??
そんなつもりないのに大家さんの喘ぎ声でチンコさんは「チンコです。大きくなってしまいました」と、観客に対してなのか、彼に対してなのか、宣言する。やーめーろーと思ったが、満知男の心が女の子の身体に入り込んだ時、なんとなんと、「クリです!」ギャー、やーめーろー……いや面白いかも。チンコさんだけならヤメロと思うのに、クリちゃんが登場するとアリかもと思うのは、フェミニズム野郎だからなのかしらん。
ちなみに満知男君は、原稿を描く時はがふがふのブリーフをサスペンダーで止めているという見たことないファッション??なんである。しかもそのカッコにトキワ荘チックなベレー帽をかぶるというシュールこの上ないいでたちで。そのカッコでうつぶせになったまま翌朝目を覚ますと、狭い部屋に雪のようにティッシュがちらばっている様が情けなさ過ぎて。
なのになのに、そんな彼になぜこんな可愛いカノジョがいるのでしょう。すずちゃん、と呼んでいる鈴子ちゃんは、彼の成功を信じて、家賃を“立て替えて”くれている。この描写に、実は満知男君はトンでもないクズなんじゃないか、ヒモなんじゃないかとちょっと心配するも、それが見事払しょくされたラストに本当にホッとする。
成功するために「ちょっとエッチなドすけべ漫画……(爆笑!!意味不明!!」に挑戦すると宣言した満知男にすずちゃんは、「早く堂々と私を奪いに来てよ」だなんて台詞を、実に可憐に、可愛らしく言ってのけるんである。なんと奇跡の彼女!!「エロ漫画で成功し、すずちゃんと性交するんだ!!」なんてアホなダジャレも許してやろう。
てなところで、満知男の前に、自分が作り出した小悪魔キャラが現実の女の子になって現れるんである。これがまー、漫画のキャラのファッションをそのままにエロさをしっかり再現したムッチリ感と、しかし太っている訳じゃないメリハリボディーのセクシーさ、演じる璃乃嬢の絶妙なコケティッシュさ、いやさ女王様感が良い。やはりこの場合は黒革の締め付け具合とロングブーツがイイよねっ。
で、彼女のチュッ、によって満知男はどんどん運命が変わっていく。まず、女の子になっちゃう。しかもかなりカワイイ系である。「心のないミチコという女の子に満知男の心を入れた」という設定は、お互いが心と体を入れ替えさせた「転校生」へのアンチオマージュと言えなくもないなあとニヤニヤしてしまうんである。
満知男は童貞君だったから、勝手にミチコの身体も処女だと思い込んでいたが、工作感満載サイボーグ男に犯されそうになった時、小悪魔ちゃんから「別に処女の身体にはしてないよ」と言われて仰天する。それは恐らく、処女であれば傷ついたりするアレコレを勝手に想像していたに他ならない。
これはかなり秀逸な設定である。いきなりカワイイ女の子になってしまった満知男は、女の子がケーキに対してカワイイと思ったりする感情や、“意味なく近寄ってくる男にロクなヤツはいない”などという教訓を学んでゆく。
サイボーグ男にグリグリやられても、処女の身体かどうかは関係なく、「思ってたのと違った」つまり、全然気持ちよくないってことに衝撃を受けるシークエンスは、女としてはよくぞ!!と溜飲がバンジー並みに下がるんである。
そもそもこのシークエンスで、処女の身体だと思っていたのにと、「ヤッてもないのに処女じゃないの?」と食ってかかるのが、童貞君である自分と、入り込んだ先の女の子としての心がぐっちゃまぜになっているところがなんとも可愛らしいのよね。
「好きでもないサイボーグに処女を奪われるなんて」と嘆く満知男(ミチコというべきか)に、「めったにない経験じゃん」とあっけらかんと言う悪魔少女、それはさ、女としては、結構な深い意味を感じるわさ。
それはすべてが終了し……まあ結果的にはミチコがサイボーグ野郎たちに勝利して、ミチコが、いやこの場合は満知男と言うべきだな「男は入れれば誰でもいいけど、女は心と体が一致しないと快感が得られない。」んだということを、改めて悪魔少女から言われずとも、実感したという。
これは……女にとっては声を大にして言いたいけれど、それをいうとなんかカマトトみたいに、女という性を聖性視してるみたいに思われてヤだし、悔しいから、なかなか大声で言えないけど、でも本当に、そうなんだもん!!と、言いたい!!レイプされてるのに感じちゃうとかいうAV作品とか観ると、マジで腹立つもん!!
……ちょっと取り乱してしまいましたが。そんな具合に女の子の心と身体のことを知っていく満知男、でもそうなると段々、女の子的になってっちゃって、恋までしちゃう。道端の、愛を歌うストリートミュージシャン。もうそれだけでアヤしいが、ミチコをストーキングしていたあやしげな男から救ってくれたことで、一気に恋に落ちちゃう。
しかしこの男が、ラブラブにミチコをいざなった先は……まさに征服セックスの場所であり、しかしてそこに救いに来たのは、ストーカー男と思っていた黒づくめの男、であった。
で、まあピンクだから、ミチコのアプローチに拒絶もむなしくこの男と甘やかなセックスをするのだが、R-15版だからなのか、オシャレなナンバーがスタイリッシュに流れ(なんか言えば言うほどハズかしい気がしてくる……)、清涼感タップリに終了するんである。
この男、成り行きでこんなことになってしまってすまない、自分には大事な女がいるんだ、と言って、去ってゆく。
つまり、ミチコ、というべきか、満知男というべきかは、失恋、なんである。ミチコは当然だが、もしかしたら、満知男君にとっても……鈴子ちゃんみたいな彼女がいるとは到底思えないキャラだから(爆)、これは奇跡であり、それまでは失恋すらも経験できなかったんじゃないかという感じだから……初めての、素晴らしい、経験、だったんじゃないのかなあ。
そして驚くべきことに、このストーカー疑惑すみません男と、ほどなくして満知男は再会するのだ。相手は気づかない。だってミチコから満知男に戻っているから!!
彼は大家さんが待ち焦がれていたダンナで、“網走から一週間前に帰って来ていたのに、私に会うのが怖くてウロウロしていた”のだとか!!ミチコに近づこうとしていたのは、奥さんの現状を知りたかったからなのか……なんと可愛らしい!!
満知男がミチコになって知ったことは、女の子の世界はもっと輝いていると思っていたのに、そうではなかった、ということだった。
ああ、判ってくれてありがとう、である。脚本は男性名だけど、いろいろリサーチしてくれたんじゃないかと、思っちゃう。時に男子から女の社会生活をノー天気に言われるけれど、きーさーまー、といつも心にカミソリを抱いていたからさ(爆)。
そして、無事連載を勝ち得た満知男は、すずちゃんを迎え入れる。ぜえったいすずちゃんは経験がある女の子だよね。積極的にバンバン服脱いで、アワアワうろたえている満知男君が、それでもちゃんと彼女の裏返しになった服を表に返してあげてるのが可愛い、とゆーか、信頼できる男と思う。
それは、女の子の気持ちを知ったからかもしれない。途中くじけそうじなったけど、これは意外に、深い物語だったのかもしれんね!
★★★☆☆
しかしてオリジナル脚本。そして草g剛。もしかしたら監督さんは最初から草g氏を頭に置いていたのかもしれないなどと考える。セクシュアルマイノリティーの役というのは若干賞獲り的なイメージもあるけれど、草g氏の演じる凪沙は、そういう意味では異質である。
昨今は元の性を全く感じさせないほどに美しい、あるいはカッコイイトランスジェンダーも見られるけれども、凪沙は正直、元の性を強く感じさせる、決して美しいとは言えないゴツさなのだもの。
当然それは、草g氏自身の持つ男っぽさ、特徴的な顔の骨格からきており、そう、あの骨格は、改めてひどく男っぽさの強いものだということを感じさせる。
男女の差を判りやすく感じるのは直線か曲線かというイメージ。あの骨格はハッキリ直線であり、角度であり、化粧を乗せても丸くならないのだ。凪沙がホルモン注射であろうものを打っている場面が出てくるけれども、そのことで判りやすい女性らしさ……例えばお胸が出てくるとか……があったとしても、骨格はさすがに崩せない。
最初から柔らかめな骨格の役者さんを選ぶ手だってあっただろうが、ハッキリ骨格に特徴のある草g氏を選んだことが、絶対に確信であったと思って。もちろん、彼のたぐいまれなる感性の演技力があってのことなのだけれど。
トランスジェンダーにまつわる話となると、自分の中の本来の性を取り戻したい、という点が当然重要視され、その先にまでなかなか行っていなかったのかもしれない、と本作の着眼点に驚きながら、思った。
本来の性である女性に心身ともに戻りたい。そして女性を取り戻した先には……母性という本能が待っている、だなんて。
これが逆のトランスジェンダーだとどうなのだろうと思う。FtoMで父性を獲得する、ということもあるだろうが、私たち愚民の頭には、そもそも母性ってのは子供を得ると自然発生的に出てくる動物的なものなんじゃないの、などとゆー考えが頭をもたげ、あーあーあー、フェミニズム野郎の私がいっちばん嫌悪する考え方なのに!!と気づいて、まさに自己嫌悪に陥るんである。
だったら子供を産まないまま来た私にだって、母性とは縁がないということではないか。そうじゃない、と思ってるし、子供が授からなくて養子を迎えた彼ら彼女らが、母性、父性がないと言っているようなものだし、ああ私、自分ではそうじゃないと思っているのに、やっぱり社会にはびこるヘンケンに毒されてる!!と気づかされる思いがあって。
だからそう、これは自分の性を獲得する先にある母性の物語、いや、母性を得たからこそ、自分の性を性急に獲得したがゆえに哀しい展開が待っていることになる物語なんである。
凪沙はちゃんと女性になるために、こつこつお金をためている。恐らく、国内での手術を目指していたと思われる。かつては性転換手術が許されていた海外での手術が主流だったけれど、日本でも行われるようになったし、何より安全である。ホルモン注射を定期的に打ちに行っている病院でも、ローンを組んでも出来るんだから、と言われるのは当然、国内での手術のことを指しているんだろうから。
凪沙がそこに踏み切っていないのは、オカマと呼ばれ、水商売に身を落としがちな、セクシュアルマイノリティーのいわば定型(ちょっと、ベタ過ぎる気もするけど)の身の頼りなさ、ちゃんとお金がたまってからでなければの不安があったに違いなく。
その凪沙が出会うのが、全く真逆の存在、と思ったが、後から思えばこれ以上似た者同士はなかったのかもしれなかった。故郷から親戚の娘、一果が凪沙に送り付けられてくる。一果の母親がネグレクト&暴力で通報されたからである。
思えば一果の母親もまた、母性を持て余してこじらせちゃってる人物である。娘のことは愛してる。それは間違いない。でも孤立無援、外に助けを求める術を知らない、あるいはプライドが邪魔をしているのか。
あんたを育てるために働いているとか、娘を殴るとか、本当はしたくない、やるつもりないことは判ってる。だから時々猛省して、泣いて謝る。でも繰り返す。
当然娘の一果は一人で抱え込むことになり、ついには通報され、東京の“叔父”の元に短期転校の形で送り込まれたんである。
一果の母親を演じる水川あさみ嬢がまあこれまた……、最近特に彼女には驚かされっぱなしである。自身褒められた母親じゃないのに、凪沙に対してバケモノとののしり、べっと唾を吐くキッツイヤンママを憎たらしく、そして弱々しく、演じあげる。圧巻である。
ホンット、ヤな母親である。でも暴力一辺倒じゃなくて、時々ハッと立ち返って、一果を抱きしめたり、東京まで迎えにきたりする。大人としても親としても成熟していない、そのことは本人もメッチャ判ってるのに、強がることしかできない。見た目も生き方も全く正反対に見えるのに、不思議に凪沙に重なって見える。
凪沙は「私、子供嫌いなんだから」と言い放つし、一果も心を開くなんて状態にならない。学校でもからかってくる生徒に椅子を投げつけて凪沙は呼び出しを食らい、怒り心頭である。私に迷惑かけないで、と言い放ち、まさに一果を放置する。凪沙もまた、ネグレクトした訳である。
しかし不思議な縁というか化学変化というか、一果に出会いが訪れる。通学途中で目にしたバレエ教室、体験教室を経て、そこの教師に才能を見出された。
てか、当然経験があったし、そう言ってたし、一体一果は、あの家庭環境でどのタイミングでバレエを習うチャンスがあったのか、そこだけが本作の中でブラックボックスとゆーか、ちょっと納得できない部分ではあったんだけど。
その時、シューズを貸してくれたのが、りんだった。偶然、転校先の生徒だった。てゆーか、恐らくりんは、この時一果に一目惚れしたんじゃないかと思う。
りんはザ・お嬢様。母親は有名なバレエダンサーで、ゆくゆくは娘をバレエ留学させたいと思ってるし、一果が来るまでは、りんはきっと自身もちゃんと努力して実力を伸ばしてきた有望株だったんだろう。
しかし一果は、教師の目から見てザ・才能、だったんだろうということが明らかになるほどの、いわばヒイキである。これはねー、こんなわっかりやすく区別しちゃうのは教師としてダメだろと思っちゃうし、同門の子たちがヒネくれてイジワルしちゃうんじゃないかと、心配した。
でも多分、それに一番ショックを受けるべきりん自身が、周囲からそんな風に囁かれても、一果の才能と、ケガも負ってしまっている自分の、そもそも一果には届かない才能のなさと、そして……一果を想う気持とかないまぜになっているのが、凄く凄く繊細でね……。
りんは一果に、キスしていい?と問うた。それまでの会話も、とても静かに、粛々と、顔を見合わせることさえなく交わされた。いいよ、と一果は言った。りんは一果のほっぺたを挟んで、最初は軽くタッチするようなキス、その後二度、三度、なんていうか……湿度のあるキスを繰り返した。別に舌を入れるとかそんなんじゃないんだけど、とても湿度と気持ちのこもったキス。
ただ一果の方はりんの気持ちを感じてはいただろうけれど、恋愛として受け止めていた訳じゃなくて、友情の先にある、この年頃の女子的言い表せない感情、みたいなさ……。
りんはダンサーを続けられない致命的な怪我を負ってしまう。一方、一果は有望株としてどんどん先に行く。りん自身よりも両親、特に母親がショックを受けている。きっとりんは……自分の存在とは何ぞやと、その時思っただろう。その時一果と並んだだろう。
一果がコンクールで踊っている時、客席にりんの姿を見る。その時りんは……この世にいなくなった瞬間、ということだろうと思う。セレブリティ両親に見せつける形で、パーティー会場で踊りながら、屋上から飛び降りてしまった。
一果はコンクールに失敗する。一果を迎えに来ていた母親がその彼女を抱きしめ、連れ帰ったということだろうと思う。
凪沙は店の仲間を連れて観に来ていた。最有望と囁かれていたのに、一果は立ちすくんでしまって、そこにヤンママの母親が舞台上に乗り込んで、抱きしめて、結果的には一果を連れ帰ってバレエの道が一度断たれた、ということである。
これはどう、考えたらいいんだろう。一果は、やっぱりこんな母親でも、お母さんとして思慕していたということなのだろう、けれど……。
こういうテーマが描かれるたび、考える。血のつながりがそんなに大事なのかと。血のつながりがなければ、愛さえ生まれないのかと。そんなのあまりに即物的すぎないかと。
凪沙は一果と血はつながってる、ともいえる。でもその間に、トランスジェンダーという、今の日本社会でまだまだぜーんぜん理解しきれてない問題が立ちはだかる。
一果のためにと、“普通の仕事”につきたいと、凪沙が就職活動するシーンがある。LGBT流行ってますよね、会社で勉強会受けてるんです、という面接官の言葉に唖然とする。流行ってるって、何!
救いは同席しているこの面接官の部下の女の子が、目を吊り上げて上司であろう彼をたしなめる場面が用意されていることである。まあその気遣いも凪沙を打ちのめすには充分だろうとは思うけれど、でもせめて、現在の理解の温度差まではなんとか到達しているんだと思わせてくれるというか……。
その後の、凪沙の実家での、都会と地方の差ということは言いたくないけど、でもやっぱり、あるんだろうなあという、凪沙が徹底的に傷ついてしまう場面が用意されているからさ……。
一果が連れて帰られてしまい、わっかりやすく片田舎の不良生活に転落、そこにやってくるのが、海外で性転換手術を受けて心身ともに女性になってやってきた凪沙である。一果を、才能ある一果をこの報われない状態から救い出すために、まさに母性に目覚めてやってきた。
そもそも凪沙の両親はカミングアウトを受けていなかったからこの世の終わりにみたいにゼツボーして泣きじゃくるし、中途半端に母性を持て余している一果の母親は、この化け物!!と吠えて唾を吐いた。
このシーンはほんっと、こたえた。化け物、って……。産まれたままの性と身体に納得いっていることが当たり前である感覚は、昭和世代の私たちは確かに、漫然と受け止めてた。テレビの中に出てくるオカマタレントは、キャラクターとしてしか、存在してなかった。
でも今、そうじゃないことが判った時にはすっかり大人になっちまっていたことを、本当に悔しく思う。多様性。単純な言葉だけれど、こんな大事な価値観はない。
セクシュアリティーだけじゃない、身体、知的、精神的障害(障害、という言葉は好きじゃないけど)、性的嗜好性、物的嗜好性、趣味嗜好なんて言葉が斬って捨てられるぐらい、多様性ということばが追いつかないぐらい。
今、それにようやく気付けて、ようやくスタートできた時代だと思うし、草g君という、稀代の表現者がトライしてくれたことが嬉しいし。
凪沙は、最後、死んでしまう、ということなんだよね。つまりは、一果の母親になりたいがために、いそぎ海外で手術しちゃったことで、副作用っつーか、完全じゃなかったことで、床に臥せっちゃった、ってことだよね。
一果が中学卒業して、東京に行くよと母親に宣言した。その後からじわじわ判って来たことは、恐らく凪沙はあんなにひどく排除されたのに、一果をサポートして、バレエの先生をこの田舎町に派遣していたんだろうということなのだ。
一果は海外バレエ団への奨学金を得て、凪沙を訪ねる。衝撃だった。血だらけのティッシュが散乱している。股の間を真赤にしながら、一果をボランティアさんだと勘違いして会話を進める。
一果だと、そのほっぺを触って気づいて、恥ずかしい、恥ずかしい、と凪沙は言って……。一果に頼んで海に行くのだ。もう、凪沙はほとんど見えてないんじゃないか。
踊る。一果は踊る。凪沙は見えてない。でも心の目で見えている。
ラスト、キャストクレジットがすっかり流れ終わって、これはさ、これは……もう死んでしまった凪沙の心の中なのか、タバコをふかしたカッコイイ凪沙に、白鳥のコスチュームで柔らかく足をあげて寄り添う一果で、ラストだった。
現実味が全然ないようで、めちゃくちゃ生々しいようで、ポエティックのようで、皮肉なようで……。産まれた時の性は違う二人だけど、親子であり、同志であり、親友でさえあるような。★★★★☆
勿論日本人にとっても、じゃあサムライって結局何なのと聞かれれば曖昧なイメージはあるものの、明瞭に言語化できるかと言われたらアヤシイところはあるから、専門家の口から明瞭に説明されればナルホドとも思うけれど、これってやっぱり、スコセッシだのスピルバーグだのを引っ張ってきたことからも判るように、海外、特にハリウッドに向けての目配せが強く感じられるからさ。
「荒野の用心棒」「荒野の七人」スターウォーズの元ネタは「隠し砦の三悪人」、といった、ハリウッドに影響を与えた黒澤&三船のコンビというものを、今その二つの巨星が既に落ちてしまったから、日本人だって知らない向きも多いだろうし(実際、スターウォーズの元ネタがそれだったなんて私、知らなかった!)、日本の血を引いている監督さんが、今改めてここで、と意気込んだ気合は確かに感じられる。
私のように、彼らの人生の終わりごろに一緒の時代を生きていた年頃は、いろいろと難しい。黒澤明は巨匠らしいけど今作ってる作品はピンとこないし、三船敏郎はもう引退状態の頃で、ボケちゃったとかなんとか、そんなことが囁かれていた時期だったから。
勿論その後、日本映画ファンへとなっちまうその頃は子供だった私は、それこそ羅生門、七人の侍、用心棒、赤ひげと次々と衝撃を受け続け、三船敏郎の天真爛漫と野獣の荒々しさがミクスチャーされた、汗と体臭が迫ってくるようなザ・男!!に、まあその頃はさすがにまだ草食男子もいなかったけれど、でも、やっぱり見たことない男!!だったから、心臓をわしづかみにされる、ってこういうことなんだって、思ったもんなあ。
ちょっと話を元に戻すけど、そう、ついつい海外向けに説明に尺を割きすぎみたいなこと言っちゃったけど(爆)、日本映画の創成期、初期の殺陣はチャンバラというより日本舞踊に近く、フィルムの断片だけ残っている初期も初期の映画は、そのメイクは完全に歌舞伎で、実際歌舞伎役者がそのまま映画スターを兼任していた、というのは、割と知られるところであろうと思われる。
そしてそれが次第に、自分たちに近い、映像における役者というものが産まれて演じられるようになっても、サムライ、つまり武士、あるいは浪人というものになっても、“強くて立派な男は恋愛をしない”むしろしたらなんだかヘン、みたいなイメージだったのいうのはなんとなくうなづける。
ちょっと違うかもしれないけど、チャンバラが任侠物に受け継がれて、侠客たちは恋愛はしてる、愛してる女はいるけど、その価値は仁義に勝ることは決してない、だからこそ女たちはいつでも涙ながらに死にゆく男たちを見送る、という形で、ヤハリここでもサムライ道が、恋愛をからめても引き継がれて行っていた訳で。
そして三船敏郎も、ほとんど、恋愛をからめた役柄はなかった。その中で珍しく、恋人役をしたことのある香川京子が証言者の一人となる。ナルホドと思う。年相応なのに今でもとって美しい香川京子が、70代後半で亡くなってしまった三船敏郎に、早すぎた、夫婦役とかやってみたかった、と語る。
証言者の中で、そうしたコメントを残したのは彼女一人である。他はほとんどが男性だということもあろうが、なんたって黄金期のトシロー・ミフネの素晴らしさこそを証言する。
そらまあそういう趣旨のドキュメンタリーなんだから当然だが、黄金期の彼の素晴らしさは映画を観れば一目瞭然である。先述したサムライ像とは一線を画し、ぶっきらぼうだし、自由奔放だし、なるほどスピルバーグの表現する「地下の地震活動から生まれたような男」という表現とか、野生のライオンを芝居のヒントにしたとか、興味深いエピソードではあるにしても、見りゃわかるよ、とちょっと言いたくなる気持ちはなくはない。
やっぱり、人間、三船敏郎が知りたいんである。勿論、それはごくごく近しい人たちによって証言される。彼の息子、そして黒澤監督の息子。それぞれに父親の仕事をサポートして人生の大半を過ごしてきたという意味でも、同志のような存在であろうと思われる。完全裏方として支え続けたという点で、よく言われる七光り的な話は一切ない、まれな例なんじゃないかと思われる。
彼らが語る、それぞれの父親のスランプ時期の話は、うっすら当時の覚えがあるだけに生々しく心に迫る。黒澤監督はそこから抜け出せたが、三船氏は……こう直截に言っちゃうとアレだけれど、ヤハリ黒澤監督のコンビを解消してからは、抜け出せきれなかった印象がぬぐえない。
コンビを解消といったが、別にたもとを分かった訳じゃなく、自然にそうなった。
三船氏が円熟期のピークに黒澤組との最後の仕事になったのは、記せずとはいえ、作品中で語られるように、共に年を取り、監督がこれから撮っていく作品の中の役柄と、三船氏のキャラクターが合わなくなってくる、もっと直截に言えば、三船氏がもう動きの激しいサムライを出来なくなった、というツラい事実が語られる。その一点こそが、彼らのその後の明暗を分けたように思えてならない。
クリエイターである黒澤監督は、そこからもがき苦しみながらも、「乱」で復活を遂げるけれども、三船氏は……いや、充分活躍している。彼を敬愛する海外のスター監督、スター役者たちに迎えられ、重鎮どころの役をこなしてはいるが、でもそれは当たり前だけれどかつての、輝きを放っていた“地下の地震活動から生まれたような男”ではないのだ。
トシロー・ミフネというビッグネームでスタッフキャストをかしずかせているだけで、リアルタイムの観客にとっては、ふーん……というぐらいのものだったのかも、しれないのだ。
三船氏は所属していた東宝から請われて個人製作事務所を立ち上げる。しかし時はすっかりテレビに勢いが移り、不本意ながらテレビドラマの世界に軸足を移さざるを得ない上に、後から見れば、ひょっとしたらテレビ世代にはピンとこなかった三船敏郎という“ビッグネーム”でも、みずから主演を張って作らなければいけなかった。しかも現場では自ら機材のセッティングなどに陣頭指揮を執って動いたという。
車が好きで、お酒が好きで、それが黄金スターの時にはキラキラ輝いていたけれども、後年にはつまらないスキャンダルを暴かれて、多分自身でも、“テレビに堕ちた”という気持はあったろう。こーゆーことを言うとバッシング受けかねぬけれど、ヤハリ映画黄金期があり、映画スターであった役者や作り手たちが、テレビの世界に行くということは、都落ちじゃないけど、相当に腹をくくってということは想像に難くないのだ。
注意深く確認するけれど、どっちが良しあしとか、そーゆーことじゃないのよ。テレビは新進のメディアで確立されてなくて、いわば山師みたいな、それまで培っていた方法論も実績も通用しないだろうという怖さもあったと思う。
まず、“観客”が目に見えない。それは演劇に対しての映画でもそういう怖さはあったと思うけど、それ以上の、見えない怖さががあったと思う。
三船氏は、厳しい戦争体験者である。若き特攻志願者を送り出す教育兵士という、想像しただけでゾッとする役割を担っていたという。
「天皇陛下万歳なんて言わないで、おかあさんとかおふくろとか言え」と飛び立つ少年たちに言ったというエピソードは、当時としてはこれ以上ない反逆精神だということは、誰もが抗えない軍国主義の時代だということを鑑みれば、判りすぎるほどに判る。“思いやりで歯向かう”ことをしたのだという後輩役者の証言が胸に突き刺さる。
黒澤監督の差配により、常に共演者として一緒だった志村喬とのエピソードも心に残る。今となってはどちらもただただ巨星だけれど、三船氏と志村氏は確かにかなり年齢もキャリアも違うし、往時の二人の風貌や人間性を考えても、三船氏が志村(夫妻)を親同様に思い、志村氏も同様に彼を可愛がっていたというのが目に見えるようで、胸が温かくなるんである。
志村氏もまた、戦争で弟を亡くしているというから……。もう今の時代の人間には追いきれない体験だからさあ……。
そしてやはりそこには戦時中、映画界が戦意高揚映画の製作を強いられたという時代は避けて通れない。そんな縛りの中でもクリエイターの資質は隠せないものだとは思うけれども、そもそもそれに屈服してしまった、ということ自体が、黒澤監督にとっては自身、許せなかったことだったという。
その後の作品の中に、反権力というものが見え隠れするというのは興味深いし、そうだろうと思われる。これは黒澤監督だけではないだろう、実際そういうエピソードは見聞きするし……。戦後、GHQによってチャンバラ映画が実に7年も禁止されたというのもオドロキだが、そのことによって七人の侍が産まれたってんなら、なんという、時代の運命だろう!!
当時のエピソードがいろいろ興味深い。アクション班の役者さんが、「東映調に上手くやったつもり」だが、なんたって東宝だし(爆)、いやそうじゃなくて黒澤明というまさに当時気鋭も気鋭中の若手監督は、それこそ先述したような、日本舞踊みたいな殺陣はイラないのだ。とにかく生身、リアル、喧嘩殺法よ。
彼の証言と実際のシーンを実証して見せるのがメッチャ面白い。うっわ、マジで宙を飛んで投げ飛ばされてるし!うっわ、ゴーン!って柱に頭ぶつけてるし!……しかも投げ飛ばされても起き上がって向かっていかなきゃいけないのよ。失神してたらどうするんだと思うが、ぶん投げられても、頭を強打しても、何度も何度も起き上がって三船氏に投げられに行く……地獄……。
黒澤監督はめっちゃ完全主義者で、だから他の役者たちは寸分たがわず指示されていたけれど、三船敏郎氏だけが自由、まさに放置プレイ、それが判るんだよなぁ。そうじゃなければあんなチャーミングな野生ライオン男、あらわる訳ないもの!!
ただ、それは、三船氏のたぐいまれなる真面目さがあったからこそ。そもそも裏方志望だったのが履歴書が回された、そんなエピソードは当時の話でよく聞くが、どんだけ見る目があった時代だったんだろうと思う。
当時は生きるために役者をやっている人は大勢いたとは聞いたことがある。でも、それは、三船氏の芝居に対する、いや、すべてに対するというべきかもしれない、真面目さをも見抜いていなければ、あんな凄まじい芝居をする役者を生み出さなかった訳で、やっぱりやっぱり、当時の、往時の、黄金期の日本映画界というのは……なんと凄かったと。だってゴジラと三船敏郎を生み出しただなんて、ありえない凄さでしょ!
……あのね、ちょっと寅さんのことを思っちゃうと、すり減るまで寅さんを使い倒した松竹と、そこがちょっと、違うかなって思っちゃうのは、言っちゃいけないことなのかなあ……。でも松竹って、そういう古さがあり、東宝は今でも新しさがある気がするからさあ。
当時の危険すぎる撮影スタイルが生み出したスリリングなシーン続出とか(マジの矢がバンバン飛ばされるって、死ぬわ!!)三船氏がそれに当然のように挑んだのは一兵隊として監督の恩義に報いるだとか、ああやはり、私の知らない価値観だわ。
その一方で、これは司葉子氏が言っていたと思うのだけど、三船氏が関わっていた当時の東宝映画は男性映画であり、女は掘り下げなかったと。でもこの時代あたりから他の映画会社では女性映画というものが製作され出して、でも三船敏郎は、そこに関与する役者じゃなかったんだよね。
うわー、判る判る。柔軟にそっちに移行していった男優が殆どだっただろうと思うけど、三船敏郎は、最後までそれはしない、出来ない人だったんだ。まさにその意味でもサムライ、だったんだなあ……。★★★☆☆
このタイトルは黒木華嬢のNHKのドラマで見知っていて、見てはいなかったんだけど評価が高かったし、あの名女優が先に演じているというのは本作のヒロイン、松本穂香嬢にとってはプレッシャーだったのだろうか。
もちろん彼女は近年、立て続けに、しかも良質の作品で結果を残し続けている。「君が世界のはじまり」など、私的今年度ベストワンになるかもと思うぐらいで、そこでの彼女の好演も記憶に新しい。
しかしこの角川大メジャー映画の主役となるとまた話は違う。ふんだんに豪華なセットといい、それをこの可憐な女の子がしょって立つのだから。
だからこその、ダブルヒロインとでもいいたい陣立てが心憎い。澪の幼なじみであり、ずっと一緒と誓いあうぐらいの親友だった大店のお嬢様、野江。
演じる奈緒嬢は、こちらもまた新進気鋭の女優さん。直近で強い印象に残っているのは「僕の好きな女の子」のあざと可愛いヒロイン。ほうほう、これも原作カドカワ文庫ではないか。なるほどねえ。
彼女たちが住んでいた大阪が豪雨にあい、澪は二親を失い、野江も行方知れずとなってしまう。澪は料理屋の女将さんに拾われ料理の修業を積み、東京の出店と共に女将さんと上京するが、その出店も失敗し、今は身体の弱い女将さん(彼女は上方風にごりょんさんと呼んでいるが)を気遣いながら、そば処、つる家で働いている。
澪自慢の上方料理はことごとく江戸の男たちの口に合わず、澪は苦悩する。ここの描写はなかなか難しい。今も昔も一触即発のこの話題、西の味は薄味繊細で、東の味は濃くてやぼったい、なにおう!!となりかねないからだ……。文化が違うのだから味の傾向も違うのは当然なのだが、かつては都のあった西方は時々こんなプライドが見え隠れするからねえ(爆)。
でもそこは、上手く回避する。水の違い、だからだしに使うのも西は昆布で東はかつおぶしが似合う。つる家出入りの医者、源斉先生が、江戸は職人の町。肉体労働で汗をかき、味の濃いものを好むのだと言われて澪はハッとする。そうだ、大阪は商人の町。肉体労働というよりは営業マンの町だ。汗をかく量の違いは当然、欲する塩分の違いに行き着く。
もちろんそれだけでは客は納得出来ても、澪自身が納得のできる味に到達できていない。常連のミステリアスなお侍さん、小松原もそれを指摘する。「お前さんの納得する味になっているのか」と。
この小松原に扮するのが窪塚洋介氏で、ここでは小松原、と名乗っているが、どうやらそれは偽名らしい。有名料亭に出入りする時には小野寺と呼ばれているし、どこか世を忍ぶ風がある。
まあ判りやすくボンボンで、良縁もあるのにイヤがっているみたいな。そんな風に言っちゃミもフタもないのだが……。
澪の料理が評判になって料理番付に載るまでになり、不動の大関を張っていた有名料亭が澪の苦心した合わせだしをパクったことで騒動になった時、彼が影にいたんである。
小松原はこの料亭が名声にアグラをかいているのを見抜いていたし、だしをパクった上に高級食材を使って客引きをした卑怯もお見通しだった。ぼんぼんだから、つまりこの料亭のお得意さんだった訳で。
つる家に付け火がされて全焼した後、彼はそれがこの卑怯な料亭の仕業だと確信し、恐らく証拠はなかったろうが、ひとにらみで今後の手出しを封じる。
でもそれは、恐らくそれと引き換えの、つる家に出入りすることができなくなることだったんだろうと思うのだ……。澪の淡い恋であった。
もう次から次へとキーマン的な人物が登場するからね。戯作者の滝沢馬琴。劇中では清右衛門と言っていたか。演じるは藤井隆氏。薬師丸ひろ子サマと夫婦役であることにめっちゃ喜んでたのが印象的である(爆)。
常に鼻息をブオッ!と鳴らす強気の(つまり内面は弱気の(笑))小男であり、本当はつる家の、澪の料理に感服しているのに、だから愛妻を連れてきたりもするのに、その様子を必死に隠そうとする。
そしてクライマックスでは彼こそが、澪と、澪が会いたくてたまらない親友の野江との間をつなぐキーマンとなる。野江は卑怯な女衒にだまくらかされて、このお江戸の吉原で、しかも幻の遊女、あさひ太夫、として祭り上げられている。
このあさひ太夫に命を助けてもらったと、彼女もまた、逃げ出そうとした時に彼にかくまってもらい、吉原で生きて行く術を教えられたと、お互い運命の相手同士である、この店の料理番、又次である。
太夫の口に合うものを、故郷の味をと聞きつけて、つる家を訪れる又次。こんな偶然あるかよというヤツである。太夫をなつかしませる大阪の話を、と又次から請われて澪が思い出話をした、まさにそれが、野江との幼き頃の思い出で、野江=太夫はその料理人が親友の澪であることを知るんである。
でも、会えない。会えるはずがない。大阪時代も身分の違いがあったけど、江戸でも今はもっともっと遠い。真相の令嬢以上に、押し込められている幻の遊女。
……しかしこの設定はどういうことなんだろう。だって、顔も知られていない、存在さえ危ぶまれている太夫だなんて。それってお座敷にだって出れないじゃんと思うんだけどなあ。
まあとにかく。又次はまるでひれ伏すように太夫を絶対信仰している。彼がやさぐれて半死半生で追い出されかけた時、身を挺して又次を守ってくれたのが太夫だったから。
澪が太夫の幼馴染であり親友と知ってからは、又次は更に足しげく澪の元に通う。決して二人は会えはしない。でも、料理でつながってる。料理は命をつなぐもの。それは料理番の又次もよく判っていることだから。
その点で、有名なだけのことにアグラをかいている料亭が置かれるのだろうと思う。かつて料理の鉄人の名物MCだった鹿賀さんがその任に当たっているのは、確信犯的な皮肉なのか、なんなのか。
自分のだしと茶碗蒸しのアイディアを盗まれた澪は、料理でケリをつける!と大見得を切るけれど、明確に勝負を仕掛けたとか、勝ったとかいう展開はない。
てゆーか、正直言うと、澪=松本穂香嬢の手さばきから料理が出来上がるまでの描写には物足りなさが残る。そりゃまあ、包丁で切ったり、だしをとったりは、してるんだけど、一連の流れというか、ひとつの料理が出来上がるのを彼女の手元ひとつで見せきる、っていうのがなくって、まるできょうの料理で用意された写真みたいに、出来上がり、料理名、美しいねえ、みたいな。そんな感じなので……。
こういう料理モノ映画にしてはお腹すく―!!という欲求がわかないのは、こういった、レシピ本めいた構成のせいかと思われる。もったいないなあ。
料理がネタになっている作品は、そこらへんのバランスは難しいと思う。料理が人の心をとろかす、嫉妬や事件さえ生み出す、でも最終的にはやっぱり、料理が心も胃袋も満たしてやさしい気持ちにさせるのだ。
ということなのだけれど、ただ出来上がった料理を見せて、物語を刻んでも心に響くまでには至らない。かといって映画という尺の中で、それなりの料理の点数も見せたいし、人間ドラマも見せたいとなると、料理の過程にそんなにかけられない。
……その点、ドラマ向きだったんじゃないのかなあ、という気もする。あるいは点数に欲を出し過ぎたか。どれもこれも美味しそうだが、本当に大事なメニューはと考えて……いやどれもこれも大事か!!難しいなあ。
だからここで、滝沢馬琴が澪の勝負に、いわば優しく負けてくれて……もちろん彼は彼女の料理に感服したんだけれど、せっかく時の人である太夫のネタをとり、くすぶっていた仕事に光があたるところだった訳で、美味しくない、とウソを言ったって良かったのに、彼は、正直に頭を下げた、のだ。
澪が大関に上り詰めるまでの料理人になって、太夫を身請けすればいい。物語を超えてみろ。そこまでの物語を見るまで、発表しないままとっておくから、と。
なんと、なんと粋な!!女が女を、友達が友達を、身請けするなんて考えもしないアイディアをさすがの戯作者は授けて、一見して悔しそうに、でもきっと、彼女たちの気持ちに心打たれて去っていくんである。
ところで、あの付け火の後に再開できたのは、太夫が又次を通じて再建資金を提供したからであった。
私からの依頼に、おにぎりひとつでも握れるようだったら、渡してくれと太夫が言ったと聞いて、澪は涙を流してその金を受け取る。立派な店を普請して、大繁盛、その金を返すまでもあっという間だった。すっげぇ、なあ。超成功物語じゃん。
太夫を卑怯な手で売り飛ばした女衒が馬琴にネタを提供した人物であり、それを知った又次が許せねー!!と殺しそうになるのを澪が必死に止めるんである。それをお忍びで太夫、いや、野江から依頼されていたから。
太夫のためなら何をするか判らない、と伝言を伝えて来た遊女は言った。かつてそういう事件があって太夫は彼を守った。フラッシュバックのようにその過去がよみがえる。その一発で、二人が思い合っていることが判る。
太夫自らは動けないのだ。必死になって、愛する又次を制するために知恵を絞って、禁を破って、近しい遊女にお忍びで、澪に頼みに行かせた。太夫と又次がどうこうという場面は一切ないのに、ほんっとうに、この二人の叶わないけれど叶ってる愛が、全編通してじゅわじゅわと伝わってきた。
そういう意味では、太夫は一足先に大人の女になり、澪はかなわぬ恋が破れて今ここにいる。そして、又次が「私が出来るのはここまでです」と、狐の面をかぶった遊女たちが踊り、一般客も吉原に入ることができる、いわば無礼講の賑わいの中にいる。
又次に言われて澪は訳が判らぬまま、小さな神社の境内にお参りする。ふっと、狐の面をかぶった女がこちらを見ている。ボケているその顔が次第にピントがあって……。
澪は幼い頃いつも泣き虫だった。それを野江に狐こんこん、涙こんこん、とあやされていた。きつねの指人形をして、でも泣かない。笑って、絶対にまた会おう、大阪で会おうと澪は叫んで、駆けだした野江は狐の面をかぶり直して、しれりと、何事もなかったように祭りの列に加わる。
生き抜くのだ。女の子、いや、女二人生き抜くのだ。いつか会えるその日まで。
豪華キャストそろいだが、それにしてもエキストラかよ!!というぐらいの一瞬の顔見せだけの松ケンには驚いた。彼のそーゆー、気にしなさとゆーか、男気とゆーか、素晴らしいけど、まさかあれだけとは……。 ★★★☆☆