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すかんぴんウォーク
1984年 105分 日本 カラー
監督: 大森一樹 脚本:丸山昇一
撮影: 水野尾信正 音楽:宮川泰
出演:吉川晃司 山田辰夫 鹿取容子 田中邦衛 蟹江敬三 平田満 原田芳雄 神山繁
大門正明 工藤賢太郎 西田健 白川和子 高瀬春奈 赤座美代子 ROGUE 宍戸錠
すっごい、冒頭である。なんと泳いで東京に着く。中国から来た、上海か?いや広島、というジャブをかます。バタフライだってのがまた、ねえ!クロールじゃない、バタフライよ!さすが吉川晃司(いや、この場合水球は関係ないと思うが)。
さささすがに広島から泳いできたなんてムチャクチャすぎると思ったら、東京湾までヨット旅行者に乗せてきてもらったんだという。……ああよかった、荒唐無稽になりすぎるとしらけるところだったもの。
ハーフパンツに上半身裸の素晴らしい肉体美、濡れた白シャツに無理やりそでを通して、彼は走り出す。銀座の靴屋の店先に張り込んで、新しい靴を履いて出てきた客の古い靴をもらい受ける。
はとバスの旅行客に紛れてこっそり乗り込み、六本木に向かう。アマンドのバイト募集はハネられる。そらまあそうだろう……あまりにも無防備すぎる風貌だ。アマンドなんて、今も昔も六本木の表看板のような店だもの。
ふらふら歩いているうちに、住み込み募集の喫茶店を見つける。俺はカニしか食べないんだと言って、山盛りの毛ガニをほおばるマスターは蟹江敬三。おい、ダジャレか。
しかしそれにはエピソードが。「マスターは元テニスプレーヤーで縦動きはいいが横に動けなくて、カニばかり食べるようになった」なんじゃそりゃ!!マスターは世の中のウソに精通していると豪語するもんだから、裕司は話半分に聞いているけれども。
まあそんなマスターだから、裕司が家出少年なことぐらいはお見通しである。実家へは手紙で知らせるが、迎えに来るまでは置いてやるという慈悲深いスタンス。
でも実家からは何とも言ってこないんだよね。裕司も平気の平左で、マスターのもとを離れた後もどんどんディープな世界と展開にのし上がっていく。むしろ家出少年という設定がなんだったんだろうというぐらい。
喫茶店の先輩ウェイターで、歌手を目指しているという吉夫とマブダチになる。吉夫を演じる山田辰夫がものすごくイイ。
吉川晃司がこの時点では青二才もいいところの少年ではあるけれど、やっぱり大スターになっていくだけのポテンシャルを充分に感じさせるのに対し、山田氏は男っぷりもオーラも正直なんにもなく(爆)、もうさんざんオーディションに落ち続けているというのもそうだろうなと感じる(爆)。
だから、裕司に追い抜かれる時を予感して、この仲のいい二人が別れる時を予測して、早々と涙っぽくなってしまうのだが……。
田舎から出てきたばかりの裕司は、夢に邁進しているこのパイセンに単純に心酔しているし、その気持ちが基本変わらなかったのが、二人の友情が奇跡的に、離れてさえも損なわれなかったということなのだろう。
途中の展開をいろいろすっ飛ばすと、裕司がスターになった時に、吉夫もアンダーグラウンドで独特の個性を身に着けて、這い上がってきていた。それは、ロックサウンドをバックに、世相を毒舌で斬るという、実に個性的なパフォーマンススタイル。唯一無二の個性を、裕司に追い抜かれたことで、自虐的なところから始まって、自分のものにした。
裕司がスターになって、祝辞の意味合いで、かつてつるんでバカなこともやったということを、愛情をこめてパフォーマンスしたのが記者に嗅ぎつかれた。
裕司は判ってた。ネタを売るようなことを吉夫がする筈がないと。自分が裏切るような形でスターになってしまって以来、長いこと会っていなかったけれど……。
この久しぶりの邂逅で、問いただしも申し開きもしないのに、戯れみたいにそのスキャンダルの話をするだけで、判りあえる二人にグッとくる。進む道は分かれたけれど、誰よりも判りあっている二人。
二人して、よくやんちゃをしたのだ。チンピラのケンカを買っちゃってぼっこぼこにしたったり、アヤシげな男に声を掛けられ、取り立てにチンピラ役として立ってるだけのバイトに応じたり。
このあやしげな男は原田芳雄。民川裕司シリーズにはおなじみの顔で、ド新人の吉川晃司と、バリバリの原田芳雄が、アイドル映画、というとちょっと違うけれど、そこでがっつり、一度ならず相まみえていることにやっぱりなんか、カンドーしてしまう。
本作に関しては、民川裕司のスキャンダルの一端を担っちゃうみたいな程度の役柄だけれど、裕司と吉夫の青春の一ページを鮮やかに彩る、少年たちにとっての大人のワルい男、なのだ。
ここまでヒロインに言及しないままとは。喫茶店に訪れるタレントの亜美。彼らの会話から、元三人組アイドルということが知れる。なーんとなく、キャンディーズあたりをイメージしているのだろうかと思う。
田舎もん丸出しの裕司はコーフンしまくりで、そんな彼を亜美は余裕であしらう。デートに誘ったりする。部屋に招いて誘惑めいた言動さえする。かつては大人気だったけれど、今は岐路に立たされている彼女に、”ポルノ映画”の依頼が来ている。
今ならば、脱ぐ=ポルノだなんてレッテルはないだろうが、いや、今でも、脱ぐか否か、脱げるか否か、乳首を見せるか否かでくっだらない線引きをなされているのは事実か。
それがこの当時だったら、脱いだとたんにケガレヨゴレ、アイドル出身ならなおさら。そんなことないよ、美保純だっているじゃんか、という台詞が出てくるのには、まさに!!と時空を超えて21世紀の観客の私は膝を打ちまくりだが、当時はその美保純さえ、イロモノにみられていたに違いないんである。
亜美を演じる女優さん、私知らなくて。お顔は酒井美紀似の美少女、裕司の童貞を奪うシーンでちらりと乳首と、ビキニの日焼け跡のバックヌードまで見せてくれるのに。フィルモグラフィーはなかなかなので活躍はしているのだろうが。
裕司と寝た時には、彼はもうスターになっていて、喫茶店のウェイターだった時に出会った亜美にコーフンしていた彼とは、違っていたけれど、何か、どこか、すれ違いざまの共犯者のような関係だった。
亜美にポルノの話があったのを、単純純粋な裕司はやめろよ、と言っていたけれど、自分自身が、やりたいことがやれない、それ以前に才能なんてないんじゃないかと苦悩するさなかだった。
何を選び取っていくべきなのかと、自分の可能性をどう信じて進んでいくべきなのかと苦しんでいく過程の中、亜美と再会して、亜美がその決断をしたことを、止める権利もなければ、そういう道もあると、ようやく判るスタンスになっていた筈。
吉夫とともにライブディスコのウェイターとして働いていた時、つまんねえバンド演奏に二人ともイライラしていた。置いてあったギターを裕司が爪弾き、吉夫が歌った。それがきっかけだった。その時にはボッコボコにされたけれども……。
でも結果的に、観客に受け入れられたのは、そもそもは演劇志望で泳いでまで東京に来た筈の裕司だったのだ。この設定はなかなか……。
当時の吉川晃司、あらゆる可能性のかたまりである彼を、どういう方向性にのばしていくか、もう無尽蔵に可能性の方向を張りまくっていたのか。
だって私のイメージでは彼は当時、異色のアイドル歌手、映画を見に行くなんていう習慣もないような子供だったから役者のイメージは正直なかった。
それに、歌手と役者を同時進行に、新人からスタートするなんて、ありえない時代だったのは違いないんだもの。
今なら珍しくないことだけど、こうして思い返してみると、吉川晃司の才能を信じて、デビューからすべての可能性に賭けていたこのスタンスに本当に震えがくるし、それに対して傲岸なまでの自信で吉川氏が応えていることが痛快でたまらないのだ。
なんかいろいろ脱線したけれど。なんかね、彼ら少年たちに、大人の現実とはこういうことだよ、みたいに、ちょいちょい豪華ゲストが挟まってくるのがたまらんよね。
もー、私の大好きな平田満っ。売れない役者、だったのすら遠い昔、俺の師匠はジャン・ピエール・メルビルで、仕事をしないうちに死んじまったとか言い、嫁さんや娘ちゃんたちに世界観の追従を要求するも、朝になると嫁さんに尻を叩かれて肉体労働へと出かけていく。
女バーテンダーとしてイライラ女を演じる室井滋氏、これまた民川裕司シリーズには欠かせない、どことなく意味なく登場する感じがたまらないエースのジョーこと宍戸錠。
平田満に関しては、夢を追った末のたいていの人間が陥ってしまう哀しい現実を示していて、裕司や吉夫がそこに落ち込まずにつかみ取ったというのはまさに奇跡、なのだけれど、意外にそのあたりの生存競争の厳しさはちゃんと活写せずに、コミカルに落とし込んじゃうのね、という気もするが。
まあ、民川裕司はとにかくスターであり、スターになるべくして生まれたぐらいの存在であり、そんな市井の人たちを描く必要はないのかもしれない。
いや……それはさすがに言いすぎ。スターになるべくしてここにいるからこその苦悩が、民川裕司シリーズの真骨頂であり、それが第一作から横溢しているのだから。
スキャンダルでつぶされかけて、そのスキャンダルの発生元となった親友に逆に叱咤されて、裕司は覚醒する。これこそが、スターでなければ味わえないカタルシスである。
昨今はこういう絶対的スターを前提とした物語は、なかなかお目にかかれない。ギャップ萌えとか、どんなスターでも普通の感覚が見えるのが親近感だとか。
それはそれでとても魅力的なんだけれど、この圧倒的なスター感、しかもその最初はめっちゃウブで田舎者だったのに、その内面に持ってるものが常人とは違うことが示されれば、もう近づけないというのがスター。
今の時代では、ネットやらSNSやら、週刊誌スキャンダルもこの当時よりさらに格段にえげつなく、すべてがむき出しにさせられては、スターは生まれない。生まれない時代になってしまった。もしかしたら……吉川晃司は、最後のスターなのかもしれないとさえ、思う。<p>
いまや巨匠の大森一樹が、この当時は映画技術、構成とか、カッティングとかストップモーションとか、突然のモノクロとか、めちゃくちゃ遊び心をワガママにやりまくっているのも、楽しい。
これは現在の商業映画では、絶対にできないことで、アイドル映画というものが存在し、その中で若きクリエイターが、若き役者と共犯関係の上で自由に暴れられた幸せな時代だったのだなあと思う。★★★★☆
原作自体は話題にもなり評価もされているみたいだし、ここで原作云々するのも意味ないことかとは思うが、ヤハリコミックスの面白さや文脈と映画のそれって違うし、だからこそ作り手側が思い切って大胆な描き方にかじを切ったのかもしれない、と思う。
それは一つはミュージカル。まさかコミックスで歌いだしている訳でもないだろうと思うのだが、どうだろう?
主人公の心の声をラップよろしく画面にバンバン大きな活字で踊らせるのは、これはコミックスでもやってそう……とも思うが、それを歌に乗せ、登場人物のほぼすべてが、歌い、演奏し、あ、でも踊りはしなかったな。だとしたらミュージカルというのとも違うのか……歌う映画だ、とにかく!
今回が映画初主演だという尾上松也氏の歌のうまさに、まずドギモを抜かれる。彼がミュージカルの舞台でも才能を発揮しているというのは、それこそ本作の宣伝で遅ればせながら知ったところである。
彼扮する香芝は大手銀行の本店勤務というエリートから滑り落ち、奈良の山奥の田舎町に左遷されてきた銀行マンである。その滑り落ちた原因というのは、彼自身がイマイチ自覚していないらしい、自分の心のうちの声が外にダダ洩れになってしまうという致命的な悪癖による。無能な上司に心の声を、思わず知らずのぼせてしまっての左遷である。
でも考えてみればこの最初の描写から、無能なのはこの上司の方なのだから、左遷された先で改めて能力を発揮して本店に呼び戻されるというのは、なるほど納得する展開ではある。あるのだが……。
そのことに香芝があっさりと、やったやった!こんな田舎町からおさらば!!東京に帰れる!!と狂喜乱舞するのには、ある意味斬新だなあと思っちゃう。
まあこういう物語の定番で言えば、田舎にウンザリしていた筈なのに、人との出会いや恋愛や、そうしたことが自分を成長させ、実はこの何にもないように見える田舎町こそが自分の本当にいるべきところなんじゃないかとかいう展開になりがちなんだよな、ということを、斬新とまで思ってしまった彼のリアクションにしみじみ通関したりするんである。
何にもないように見える田舎町、しかしこの田舎町には決定的なものがある。
金魚である。奈良の大和郡山。金魚で有名なのは、シロートの私にもなんとなく聞こえているところである。ちょっと、驚くべきロケーション。町全体、時が止まったみたい。こんな町がまだ残っているのか、さすが奈良……と思う。もちろん、スタジオで作り込んだ部分もあるだろうが。
そしてそこで香芝がまず出会うのが、陽気な金魚売りの青年である。金魚売り?金魚とその周辺のアイテムを売っているのかな?とにかく派手な金魚カーである。
車体に仕込んだ水槽の中には金魚がゆらゆら泳いでいる。まずこの町に到着して、四方八方なーんにもない田んぼ状態に愕然としている香芝に声をかけてくれたのが、彼、王寺である。
見知らぬ相手にお兄さんと声をかけるやつを俺は信用しない、と香芝は心中ごちるのだが、後に美しきヒロイン、百田夏菜子嬢扮する吉乃から、「お兄さん、こっち」と手招きされれば、魔法にかかったようにふらりふらりと彼女の後を追ってしまうのだから他愛もない。
王寺と吉乃は幼馴染で、彼女は彼のことをひそかに思っているらしいことが後々示されるのだが、それは後々のことである。百田夏菜子!えくぼは恋の落とし穴!アイドルとしてのあのキャッチフレーズを、マジにめちゃめちゃ感じたわ!!
金魚すくいの店をこの若い身空で継いで、その責任感はもちろんのことだが、金魚を、そして金魚に満ち満ちたこの古い町を愛している。
吉乃は仕事着ということなんだろうけれど、常に浴衣姿である。ぐっと襟を抜いているのだけれど、彼女の健康的な色気があいまって、いやらしさあざとさは感じないのにドキッととさせられる塩梅である。
そしてなんといっても、この金魚すくいの店、という思いもかけぬコンセプトである。金魚の町、皆が金魚すくいに興じる町。ならば、それこそ現代的に言えばダーツバーのように、この町には普通に娯楽として成立しちゃう、ということなんである。
そもそもこの店にたどり着くまで、香芝はまるで夢かうつつか、妖しに迷い込まされたような描写なんである。それは彼の夢か幻か。たたた、と駆けていく首筋が抜かれた浴衣姿の吉乃を追っていくと、扇で顔を隠した妖しげな女たちのパフォーマンスに阻まれる。この町はまるで、キツネに化かされているような妖しい美しさに満ち満ちているのだ。
その中で、冒頭いきなり香芝を驚かせる王寺は、そういう意味では外部からの侵入者である。もともとはこの町の住人、金魚を愛しているという点でもそれは明らか。
でも外に出て、浮き草のような生活をして、大好きな筈のこの町には住まずに、放浪者を決め込んでいるのだ。
吉乃の気持ちに気づいていない筈はない、と思う。こんな狭い町、皆が幼馴染のようにして育った町。
ライブもできるカフェといった趣のお店で、だらしないカッコにフェロモンビンビン発している明日香(石田ニコル)は、自身も夢を追って東京に出た過去があり、こんな田舎町に左遷されてくすぶっている香芝にふと、憐みのような恋情(なのか?)を感じたのか、ふとキスしたりして、彼を動揺させる。そして彼女こそが、”皆が幼馴染のようにして育った町”をあっけらかんと暴露する、語り部的な存在となるのだ。
王寺と吉乃の久しぶりの再会に、特に吉乃が気持ちを押し殺していることに、猿芝居かおりゃあ、ぐらいのことを言って食って掛かる。いかにも肉食女子な彼女にとっては、仲のいい幼馴染の男女なぞ、正直になれない言い訳にしか聞こえないのだろう。それもまたランボーな意見だとは思うが……。
吉乃はそれだけじゃなく、上手く自身を発露できないでいるのは本当である。明日香のように、ぶちまけられれば楽だろうに……。
本質的には、彼女たちは、この町から出ていけない、愛しているから出ていかないんだけど、でもそれだけじゃない、葛藤を抱えているのは共通しているのに、それを気づいてさえいない、お互い対照的だと思っているんだろうなあというのが、なんか切ない気がする。そこに気づけば大親友になれる気がする。でもそれも逆にさみしいのか。
何かね、本作はアンビバレンツなのよ。画はしっとりと、古い町並み、金魚の群れなすレトロ感、歌い歌って躍動感あふれ、営業に回るセカセカとしたシークエンスでは、湾曲したコミカルな映像で笑わせる。凄くポップで、いい意味で意味ナシで、楽しいばかりにも思えたけれど、違うんだよな。
まず、何とも言えず、画が暗い。夕暮れのようである。吉乃がこっそりピアノを弾いている倉庫を香芝が発見する場面とか、なんか秘密のにおいがそこここに漂っている。
そしてそこには、人の秘密、というか、屈託というか、踏み出せない一歩がある。好きなこと、好きな人、本当はどうしたいの、本当は何がしたいの、本当に誰かに言いたいことは何なの……。
香芝はいち早くその屈託に、自分が気づかないままにアンテナを揺さぶられて、王寺や明日香の歌声にあっさり涙を流しちゃうのがカワイイんである。
てゆーか、尾上氏の百面相、表情が瞬殺で切り替わる衝撃の可笑しさには、そらまあ歌舞伎役者さんなんだからとは思うものの、本当に驚かされるし、笑わせてもらった。
そういう意味では、彼は確かに主人公だけれど、すべての人の感情を受けてたち、打ち返す、今まで出会ったことのない厳しいアスリートのような主人公だ。
だって、東京という大都会で、大手銀行の超エリートで、何の問題もなく今まで過ごしてきて、突然暗転した彼は、あらゆる意味での人生の先輩である左遷地で、ただただ、未知の経験と価値観に驚くしかなかったのだから。それを自分の人生にとって生かすべき判断を必死に取捨選択していくのだから。
クライマックスは、吉乃を王寺から奪うために宣戦布告した、金魚すくい3分勝負である。王寺は超名人、香芝は勝てる筈もないのだが、猛特訓して、彼の得意な統計からの戦術をあまたに用意して挑む。吉乃からイエスももらってないのに……。
香芝の同僚たちが、コミカルとはいえど、戦闘態勢でついてきてくれるのが、意外にというか、案外というか、グッとくるんだよなあ。だってさだってさ、香芝は本店から呼び戻されたことにあっさりガッツポーズするようなさ、この左遷地に送り込まれたエリートとしては、サイアクな反応じゃんと思うのに、なんかみんな優しいっつーか。
まあ確かに香芝は成績を残したけれども、心中のグチをうっかり言っちゃってるとかいう、なんともヌケてるところを、皆愛しちゃったのかもしれないなあ。
ラストは、勝負もなんかうやむやになり(爆)、吉乃も駆けつけて、苦手だと言っていた人前でのピアノも披露し、連弾し、香芝独唱、王寺と吉乃の連弾とデュエット、ああ、すべてが幸福に昇華する。
てゆーかね、本作は、奈良だし、金魚だし、なんか夕暮れな感じだし、あやかし、なんだよね。 ホントに起きてる現実はどこまでなのか、そんな魅力が常に満ち満ちていて、それこそが本作の醍醐味だと思ったなあ。★★★☆☆
この時のことはよく覚えている。ちょうど友人から彼女のこと、そしてそのヒットしている著作のことを教えてもらった直後で、興味を持ち始めた矢先の訃報だったからすごくビックリした。
私は彼女の亡くなった年齢から10年を重ねようとしている。女子をこじらせて苦しんだ日々を笑い飛ばした雨宮まみ氏が50を迎えたら、一体どんな言葉を聞かせてくれただろうか。
雨宮氏が原作ならば、それは当然現代ではないのだ。彼女の30代の頃と言われればめっちゃ、判るんだもの。そしてそんな女の悔しさは、もう私ら昭和世代で終わりにしよう、終わりにできる、まかせたよ、後輩たち!!という気持ちだった。
でもこれを現代に置き換え、30代半ばの田中みな実氏を主演に迎え、同じ年ごろ、あるいはゆくゆくはその年を迎える若い女の子も交えて、女が直面する理不尽なあれこれをそのまんま映しちゃうってことは、時代錯誤と感じたのが、実は令和の世になっても変わっていない、ということなのだろうか??そうなのだとしたら、めっちゃショック!!私らが踏ん張ってきたことは何だったんだと思っちゃう。
うーん、でも、そうなのかもしれないけど、やっぱりちょっと、ところどころ違和感は残る。みな実氏演じる、かつての雨宮氏を投じたんであろう本田まみの、年下の恋人の両親の価値観。現代の30歳ぐらいの子供を持つ親たちなら、私よりちょっと上ぐらいで、そんなん、私と同世代と言ってもいいと思う。
つまり同じく理不尽な価値観に苦しんだ世代であり、男女平等に快哉を上げた世代であり、結婚して女だけが不利益をこうむることへのおかしさに声を上げた世代、に他ならない筈なのだ。
つまり、この彼氏君の両親の年代ではなく、人それぞれ、そもそもの価値観が違うのだということなのだろうが、男と女、年齢、結婚への価値観、都会と地方、といった、私ら昭和世代なら判る判る―、というのが、こんなに、少しも変わらないってことはないんじゃないのかなあ……と願望をこめて思ってしまったり。
どうなんだろう。確かに描写は現代そのもの。ネット配信番組、普通の主婦の幸せ生活インスタグラムにたくさんのフォロワーがつく、思いついた悪口、中傷をすぐにつぶやいていいねをもらうことに快感を感じている、パパ活で生計を立てている女の子、等々。
確かにそうなんだけど、彼女たちが、特にパパ活をしている女の子の描写がそうだったからかな、なんかやけにバブリーで、これってやっぱり昭和の話じゃねーの……と思ったりもするが、パパ活やギャラ飲みの現場がどうかなんて知る訳ないもんなあ。
でもそこんとこは、ちょっと判っててやってるんじゃないのかなあと思いもする。雨宮氏が通過したバブリーな時代こそが、彼女いうところのこじらせ女子を発生させたのは、あると思うから。
田中みな実氏演じる本田まみの生活もまた、ちょこっとバブリーな雰囲気はある。フリーライターという職業が他者に印象付ける華やかさ。年下の彼氏はバカだけどとりあえずイケメンだしとても優しく愛してくれている。没個性な空の写真を得意げに見せたり、スパイスから作るカレーに三時間かけたり、あーあ、ってなヤツだが、この時点では客観的に見れば可愛げがあって、つまり、いくらでも操縦できたのに、という外野からの気持ちである。
それは、本作に登場するすべての女たちに言いたい台詞でもあるのだ。ああもう、そらまあ男がダメなんだよ、判ってるよ。でも、男は自分がダメだってことが判ってないから、言わなきゃ、いや、教育してやらんきゃ、しつけてやらんきゃダメなんすよ!!と、10以上の先輩女子は、思う訳。
先輩女子はハイ、独身ですけれども、結婚できないとかしないとかしたくないとか、そんなんじゃないすよ。負け惜しみじゃなくて(ホントに!)、愛し合い、信頼し合い、結婚したいと思う相手がいれば、いいじゃない、と思う。ただまあ、結婚って、いわば紙切れ一つだからねとも思うし、それに、特に女だけが縛られるのを目の当たりにしてきた昭和世代は、考えちゃう訳。
で、本作では、結婚もしていない恋人状態の相手にすら、言いたいこと言えてない訳じゃない?メシ作んのに3時間もかけてんなよ!とか、結婚して子供もいる彩佳(徳永えり)は、子供と遊んだり散歩したりすることだけでイクメンのつもりでいるダンナに何も言えずにすべてを抱えちゃってる。
それこそ、彼女たちと同じ年代の頃ならば、すんなり同情し、だから男って!とか、だから日本の幼稚な社会って!!とか吠えたのだろうが、言わないから、伝わらないのだ。当然だ。
自分だって、相手からどう思われているのかなんて判らない。本作はこのお年頃の女性が直面する理不尽さをあぶりだしているけれど、彼女たちが、特にあの頃の私、と思っちゃう、まみや彩佳や由紀乃が、その不満をきちんと相手に伝えないくせに、モヤモヤを抱えて爆発しちゃうのが、10年前の自分だったら判ってなかったからこそ余計に、なんか痛いなあと思っちゃって……。
本田まみはフリーライター。10年前に、トカサバの略称まで生まれて大ヒットした、女性が一人強く生きていくエッセイ本でブレイク、そこから10年が経って、逡巡しているっつー、訳である。
田中みな実氏の持つ、キャリアのある大人の女性なんだけど、ふんわり少女的とさえ言いたいような魅力があり、そこが年下男子を彼氏にしちゃうってのを納得させる絶妙さ。
でも、彼女自身は、そのふんわり可愛さとは違って、内面はイライラ、というか、メラメラ、というか。30代半ば。忘れっぽい私だが(爆)その年頃を思い返してみれば、なんとなくわかる、気もしたり。
最後の最後、それこそタイトル通りのことを言われ……はしないにしても、そういう圧は感じていたかなあ。そっから10年過ぎるとすっかりラクになりましたけれども(爆)。
そのまみの10年前のベストセラー著作の大ファンで、今もその動向を追っかけているのが市川実和子嬢演じる由紀乃。彼女は何で生計を立ててるのか見えないところがちょっと気になりもするけれど……基本、まみの動向をチェックして、ツイッターで罵倒してるだけに見えるから(爆)。
彼女はつまり、その10年前から抜け出せていない。本田まみの著作に共感したのは、大学時代。当時の元カレと同窓会で再会して、思い出したのだ。同窓会で再会、というこれこれ!という展開に高揚したものの、そもそもなぜ別れたのか。自分をバカにしてくるネガティブ発言に蝕まれていったことを、そんな大事なことを、忘れていたんじゃなくて、封印していた。美化していた。
今の彼女は、前カレにフラれて、キングサイズのベッドに一人丸まって寝ている生活だけれど、彼女が妄想の中、タイトルロールの番組に出演して前カレと対峙した時、彼から言われるのが、すべて誘うのも僕から、由紀乃ちゃんはひとりで生きて行けるって思った、という台詞が、笑えないのだ。彼が勝手だと、言えないのだ。
彼女も同じ。まみや彩佳と同じ。相手に言えない。なのに、自分だけが苦しんでいるみたいな顔をしている。言わなきゃ判んないよ、なのに自分だけが割に合わないような顔をしている。そのことが、10年以上経ったオバちゃんになると判るのだ。言わなきゃ判んないよ。お互い大人同士、理解しあわなきゃ、先に進めない。
そこが本作で、最もモヤモヤとしたところだった。まみは田舎の両親からせっつかれていたこともあって、年下彼氏からのプロポーズを承諾しちゃう。いや、嬉しい、と言っただけなのが、有頂天のこのガキにそうとられちまっただけと言ったらそうなのだが。
あれだけせっついていたくせに、法事のついでにと彼を連れていくと、父親や親類のおばちゃんたちはすっかり盛り上がっているが、一番心配していた母親が口ごもっている。まみが自分の二の轍を踏むんじゃないかと、一目見て心配した訳である。だったら結婚をせっついたのは何なのと思うが(爆)、そう、このあたりが、私ら昭和世代と、リアルな30代の親世代と違うとこだと思うからさ。
まみの母親を演じる筒井真理子氏は、確かに30代半ばの娘を持つ年代、なんだけど、割烹着スタイルといい、法事でお給仕する感じといい、酔っぱらったダンナに高圧的に出られても黙って水を差しだしたりと、正直、私の親世代ですら、ないわ。こんな自分勝手で何もできないダンナに、はいはい、もう自分でやってね!!というぐらいのところまでは来てたわ、と思って、なんかもう、時代判んない!!と思って……。
映画は作られた現代を映す鏡の責任も担っているからさあ。本作はあちこち脱線するというか、ホント、判んなくなっちゃうんだよ。女性の(もちろん男性もそうだけど)直面する理不尽さ、闘いってのは、時代で違って来て、それこそが重要で、いかに克服してこれたのか、これなかったのか、ってのが、本作では正直、どの時代にフォーカスしてるのか、なんかやたらとヴィヴィッドな映像表現で楽しませてはくれるんだけれど……。
タイトルとなるネット配信番組のMCとして、藤井隆氏がビッグゲストとして登場する。彼らしいハイテンションなMCで、実際の収録、登場女性たちの妄想収録にも印象的に登場する。
後々彼自身の本音が吐露され(それもなんか、オシャレにピアノの前でとか語るんだけど(笑))このタイトル自体への違和感、イクメンとかじゃなく、ただ単純に父親、人生の価値観が結婚という二字だけで分けられることへの彼なりの思いを聞くことができる。
なんか絶妙にオフザケ要素はあるにしても、結構ガチなんじゃないかと思わせる。藤井氏、マジメっつーか、誠実っつーか、信頼に足る人だからさ。
タイトルにもなっていて、劇中番組でもあるこの腐った価値観が、もやもやしていた女たち、そして藤井氏演じるMC氏通じて、バーン!!突破されるのが、涙涙ではあっても、前向きな涙なのが、心地いい。
気が楽になるような雰囲気で登場する、まみの叔父さんがとてもいい。この場合、やはり同じ女性ではなく、男性である必要があるのだろう。女性だって、こんな風に肩の力を抜いて生きている素敵な人は大勢いるけれど、かえって同性としてプレッシャーになるのだろう。
この気楽な、ハンサムな高田純次みたいな(爆、いや、高田純次氏もイイ男だけど!!)おじさんが、特にどうこうする訳じゃないんだけど、だからいいんだろうなあ。深い話をする訳じゃない。でもお互い闘ってるよと。自分の望む人生を送るためにね!っていうさ。
みな実氏が、冒頭では自宅でもフワフワラブリーな部屋着でアンニュイにしてさ、実家の母親からの電話もうっとうしげにあしらっちゃったりしてさ。絶妙に観客の、特にこじらせ女子の(爆)気持ちを逆なでさせるのだけれど、上手いんだよなあ。きちっと回収する。この冒頭の、無防備なところから女度バリバリのイラつく女が悩みを抱えてたって、同情なんかできますかっての。
でも、ラストシークエンス、もういろいろ、いろいろあって、ボロボロになった先の、ダメージジーンズにインした白Tのナチュラルな彼女が、カッコイイんだよなあ。なんかズルい感じはしますけれども!!
ああなんかホント、ひさっしぶりに、雨宮まみ氏を思い出した。彼女が存命で、今この作品や今の日本社会を見たら、どう思うだろう。まだまだ女は生きにくいんだよ、この国で。マジ日本は200年遅れてるから!!★★★☆☆
しかし……。誤解を恐れずに言うならば、その中で彼が犯した殺人は一回。しかも妻を守るために、うまく立ち回れば正当防衛だって取れただろうが、正直すぎて、裁判に勝つための方便など使えない彼は、相手の弁護士のあおりにあっさり血を上らせてしまったのだ、ということが後々明らかになる。
それまでに、私たちは、すっかり三上という男に魅了されてしまっているのだ。なんということ!!
でももうそれは、冒頭から判っちゃう。その日は三上の出所の日。模範的な囚人であった筈もなく、だからこその刑期満了でようやくの出所。恐らく出所時のマニュアルのごとく、罪を反省しているかと問い、心でどう思っていたって出所する人たちは等しく、反省している、と述べるのだろう。しかし三上はあのガキャ、と苦々しく、自分が殺した相手をクサすんである。
この時点では観客には何も事情が判らないから、うっわ、この人ヤバッ、と震え上がるのだが、その三上に刑務官たちはしょうがないな、やっぱりな、もう、みたいな、なにか出来の悪い子を心配して送り出すような雰囲気なんである。
「もう戻ってくるなよ」「三上の世話だけはごめんだからな」長年つるんだ友達のように三上を送り出す刑務官たち。
冬の旭川、真っ白く雪の積もる中、三上を乗せたバスをいつまでも見送る刑務官たちの姿に、これはただごとではない、この三上という男は、殺人者であり、刑務所で様々トラブルを起こした男のはずなのに、これはただごとではない!!とこれから起こる映画的幸福の予感に打ち震えるんである。
刑務所から出てきたヤクザの話なんて、いわば定石というもんだ。同時期公開の最新映画、「ヤクザと家族 The Family」でも描かれるし、あの作品もまた、現代ヤクザの生きづらさを活写した意欲作だった。
しかし昔からの定石も、「ヤクザと家族」でも、必ず彼らはヤクザの世界に戻っていった。そこで隔世の感に苦しんだとしても、カタギには戻れなかったのだ。
しかし三上はカタギの道に行く。なぜか。ひらたく言えば、雑魚だったからである(爆)。三上は一匹狼で組には属していなかったという言い方をしているが、つまりはチンピラであり(爆)、ヤクザ映画の王道である、“おつとめ”は華々しい、組や親分さんの名誉を守るためのものだが、彼は単に、プライベートなトラブルで立ち回っちゃっただけである。
確かにヤクザの方々に顔は効いていたけれど、出所に誰一人迎えに来ないことからも、明らかである。ここはヤクザ映画ならば、華のシーンだからねえ。
不器用に、実に不器用に、カタギの生活に挑戦する三上に関わる様々な人たちは、みんな三上が好きになっちゃう。
まず彼を引き受けるのは、身元引受が趣味だと笑う庄司弁護士(橋爪功)だが、彼だってきっと、三上と関わる中でホレ込んだに違いないんである。庄司の妻(梶芽衣子)もまた、母のような大きな愛情で三上を包む。
ひどい高血圧ということもあって三上は仕事を見つけるのが難しいと判断した庄司は、まず生活保護を受けさせることにするのだが、これがすべての発端になる。いい意味でも、悪い意味でもである。
役所の担当者、ケースワーカーの井口(北村有起哉)がまず、反社には申請が下りないと言ったところから、三上の短気に火をつけるのだが、井口はこの初対面で、いきなりの爆裂な三上に、ショックのように惹きつけられたのだろうことがひしひしと判る。それはその後続々と三上にホレ込む人たちがそうだから。
スーパーの店長、松本(六角精児)は、三上の素性から偏見の目で見て、万引きのぬれぎぬを着せて店裏に呼び出すも、返り討ちにあって平謝り、なのだが、不思議に三上にホレ込んでしまう。三上ほどではないにしろ、彼にもやんちゃな時代があったことが、三上をほっとけない気持ちにさせるのだ。
そう……松本が一番、三上に振り回されて苦労させられる人だと思うのだが、たとえ激高されて怒鳴りつけられても、見放せない。
最初にその本質に触れて、ホレ込んでしまえば、ああこの人は嘘がつけなくて、うまく立ち回れなくて、それだけの人なのだと判るから。
むしろ、それはなんと愛しき、愛すべき人なのだろうというのを、罵倒されても、三上を嫌いになれないこのぽっちゃり店長さんを通して一番感じちゃうのだ。見放さない、見放せない。この人を普通に、幸せにしてあげたい、と。
その触媒のようになる人たちがいる。三上と直接的にかかわる先述の人々ではなくって、間接的、かつ、年代もぐっと若い二人。取材対象として目を付けたプロデューサーの吉澤(長澤まさみ)と、彼女に三上の取材を依頼されたフリーランスの津乃田(仲野田太賀)である。
先述した人々が三上を中の目から見ているのに対して、彼らは外の目から見ているというスタンスなんだけれど、あっという間に、津乃田は三上のひとなつこさに魅了されてしまう。だからこそ……三上が見せた、まあその、本領発揮っつーか、素直、純真、正義感、ゆえの凶暴さに腰を抜かしちゃうのだ。
その日は、吉澤も加えて和やかな顔合わせでイイ感じの食事会だった。その帰り道、三上はチンピラにからまれているサラリーマンを目にしてしまう。ほっておけない。追い詰める。若いチンピラ二人はなめ切っていたが、三上の経験値に勝てる訳がなかった。
吉澤は興奮して、津乃田にカメラを回させる。しかし三上のケンカの強さは、常軌を逸していて……。津乃田はこのままでは殺人フィルムを撮影してしまうと怯え、逃げ出してしまうのだ。
正しいことをしたと信じてやまない三上が呼ぶ自分の名前、こんなチャンスを投げ出して逃げ出したことに怒って追いかける吉澤が呼ぶ自分の名前。津乃田は……双方の人生の先輩から、自分の甘さを突き付けられる。
吉澤が放った言葉が明確に、強烈だった。「カメラを持って逃げるってどういうこと!割って止めるか、撮り続けるか。逃げるって一番卑怯なことでしょ!」……たぶん言い回し、結構違うと思うんだけれど(記憶力ないので……)そんな感じで言っていたと思う(爆)。
外側の人間としての矜持が吉澤にはきっちりあって、津乃田にはなかった。三上に個人的にとりこまれてしまっていた。
正直言ってその後も彼はそのスタンスのまま、というか、そのスタンスを自ら選び取ったともいえる形でかかわり続ける。それは、三上にホレ込んでしまったからに他ならなくて。
三上は、生活保護という、社会から見下されている(それは彼が思うところであって、決してそういうことじゃないんだけれど)状態にガマンならなくて、ナントカ自分の力で生活したくて、失効になっている自動車免許を取得するために奮闘しての珍道中もあったりするんだけれど、やはり……ラストシークエンスの、念願の就職を果たした介護施設でのことが、心に突き刺さりまくる。
短気な三上だけれど、根はマジメで誠実。刑務所でもこつこつと技術を習得する根気があったことから、ケースワーカーの井口が探してきた介護施設での仕事。
井口も三上とはすごくいろいろあって……。本来なら、こんなメンドくさい案件は役所的にスルーしてもよさそうと思うし、井口を演じる北村氏はそんな印象も与えるんだけれど、なんかほっとけない感じを、しみじみと感じてさあ。
そしてこのめでたい就職祝いに、庄司弁護士夫婦、スーパー店長松本、井口、津乃田、みんな集ってさあ、良かった、良かった、って言って……。
イヤな予感、したよね。もちろんさ、罪を犯しても、社会復帰できるんだ、自分が努力して、誠実であることに努めれば、周囲の人々の理解も得られる。いろいろ苦労はしたけれど、三上もここまで来たんだと、思った。思った、のに……。
三上が就職した介護施設、知的障害の青年が働いている。園芸に精通した彼に三上はいろいろと教わり、親しくなる。しかし、彼が施設スタッフにドつかれている場面に遭遇する。これまでの三上だったら、義憤に駆られて殴り込んだところ。
実際、三上は自身の中でそんな妄想を見る。観客であるこちらはドキドキする。あれ、これ、マジでやっちゃったの、だって三上の理解者たちは、そのことこそを心配して、カッとなったら私を思い出して、と庄司弁護士の妻は三上の目を見つめて、手を握ったではないか。
三上はその教えを守った。血圧の薬を息も絶え絶えに服用して、自分を止めた。その後、あの事態の真相を知った。青年が任された入所者を放置してゲームに没頭、危うく溺死させるところだったと。
それを聞けば、なるほどスタッフが彼に激高したのも判らなくはない、と思った。三上もそう思って、そうなのかという表情を浮かべた。でも……その後、スタッフ間で交わされる、“障害があるから仕方ない”という前提の、その青年に対する見下したジョークには、耐えに耐え続けた三上ならずとも、心の震えを抑えることができない。
どうすればいいの。入所者を命の危険にさらしたのは、確かにあってはならないこと。でもそれは、青年の得意としない部分が作用したことであり、適切な指導があれば、何ら問題はなかった筈だ。
それを青年の“使えなさ”にし、侮蔑し、笑いものにする。その本質に、気づいているのが三上だけで、気づいているけれども、どう解決したらいいか判らなくって、三上は必死に、自分を心配してくれる人たちを頭に思い浮かべたのだろう。短気をおさめて、笑顔を見せて、その日を過ごした。
青年は、台風が近づくというのに、外で作業をしていた。スタッフから叱責されたことでフテていたのかと思ったら、そうじゃなかった。三上さん!と声をかけ、笑顔でコスモスの花束を渡した。「嵐が来るから、その前に摘んどいた」のだと。
ぐっと、心をつかまれた。彼は、気の付かないこともあるだろうが、気の付くジャンルが違うだけで、心優しい青年なのだ。三上もまた、きっと、そういう部分があるからさ……。
青年から受け取った花束を自転車の前かごに入れて、三上は帰途を急いだ。この自転車は、就職祝いに、三上にホレ込んだみんなからプレゼントされたものだった。アパートについて、干していた洗濯物を取り込んで、……最後のランニングを取り込まない、カーテンが雨風に揺れている。うっそでしょ、まさか、まさか……。
死んで終わりしか、なかったのかなあ。純粋すぎるから?これ以降、生きていけるほどのしたたかさがなかったから??それはそうだけれど……。この日、自分を抑え込み続けたそれが、血圧に、心臓に、負担をかけたのだろうか……。
三上の死に、何より津乃田が身も世もなくショックを受けているのが、実際の生活で三上に接していた人々ではなく、いわば間接的に、取材対象として三上に接していた彼こそが、大ショックを受けているのが、凄く、意味を感じた。
津乃田にとって三上は、リアルな友人というよりも、もしかしたら自分もそうなりえる存在であり、彼にホレ込んでいたからこそ、その決着がこうなってしまったことが、ショックだったのかなあという気がして……。
うっかり言及し損ねたのだが、にっちもさっちもいかなくなった三上が連絡を取る、かつてのヤクザ仲間である白竜親分と緑子さん女将のシークエンスもすごく良かった。
今や社会で認められていない存在の極道、昔馴染みの三上を歓待するものの、現実のヤクザのもろさ、そしてカタギになるチャンスを逃すなと送り出すドリさんの、こちらはめちゃくちゃクラシックヤクザの女房を務めているからこその悲しさが、ね……。★★★★★