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東京は恋する
1965年 96分 日本 カラー
監督:柳瀬観 脚本:才賀明
撮影:上田宗男 音楽:池田正義
出演:舟木一夫 和田浩治 伊藤るり子 葉山良二 堺正章 山本陽子 菅井一郎 桂小金治 中野味和子 杉山俊夫 木下雅弘 市村博 市川好朗 天坊準 堀恭子 中村是好 早川由紀 高山千草 二木草之助 河瀬正敏 守屋徹 ジョージ・双見
もうなんか、最初っから判っちゃったもんね。雨宿りで出会った女の子に心惹かれてるのに、その時点で声をかけられなければ再会できる訳がない、と思ったらそこは都合のいいことがお決まりの当時の映画だから、再会しちゃう。しかも親友の恋人だっつー、ありえない偶然の目白押しである。
再会した時も彼女はちっとも彼のことを思い出さないから、最初からああダメだなと思った。なんとまあ……。
ヒロインのミチコを演じる伊藤るり子という女優さん、私知らなかったなあ。舟木一夫演じる主人公明夫の親友、健次を演じる和田浩治氏も初見である。多分(汗)。監督さんの名前も初めて見るんだよね。ああまだまだ知らない世界があるなあ。
舟木一夫は美術学校を目指して看板屋で住み込みで働いている青年。劇中、ビコウと言うから??と思ったら、美校ということなのか。芸大ということなんだろうけれど、当時はそういう言い方なのか。
下宿させてもらってる看板屋の主、田所は、明夫が目指している美校を首席で卒業している。なのに看板屋をやっていることを不思議に思っていた明夫が思い切って尋ねる場面がある。
本作は舟木一夫が友人に好きな女の子を譲っちゃう映画なだけではなく(爆。何つー言い方だ)、生き方とか、人生の価値観とか、結構含蓄のある議論が展開されているんである。
田所はサロン美術(と言いかけて、明夫を慮り、純粋美術と言いなおした)は都市美のそれと相容れてない。看板屋も立派な芸術だと熱をもって語る。生活に根差した、生きた芸術を、永遠の青年のような田所は目指しているんだろう。
演じる葉山良二がかつての甘やかな美青年の面影をイイ感じに残し、恰幅と押し出しが出て、こんな大人の男になりたいと思わせるような魅力がある。
田所が長年付き合っている恋人となかなか結婚に至っていないことも、明夫は気にしている。自分が下宿しているせいではないかと。
それを、タイミングだね、と自信ありげに語るのが同僚のサブちゃん。演じるはまあなんと、若き日のマチャアキ。当時の人気者ってので引っ張ってこられたんであろう匂いはぷんぷんだが(爆)。
子供のようにきゃしゃで可愛らしく、モンキーダンスを踊って舟木一夫を本気で笑わせたり(あれは演技をはみ出してたなあ)、ボインの恋人と腕を組んでシケこんだり、明夫がミチコと再会して浮かれている様子を小指を立ててコレだね、と田所とうなづき合ったり。
人気者のゲストサブではあるけれど、さっすがマチャアキ、要所要所で展開のキモをしっかり押さえてふふふと笑わせてくれるんである。
明夫が久しぶりに再会した故郷の親友、健次はその登場からアヤしい。テキトーな占いをして小銭を稼いでいるエセ易者である。彼がバンマスとなり、音楽好きの仲間を集めて作ったバンドで、スターを夢見ているんである。そこに、歌の上手い明夫を引き込もうという算段なんである。
そうだよね、舟木一夫なんだもん。歌を歌わせないって手はない。だから、美校を目指して看板屋に勤めているという設定が不思議だったんだけど、歌が上手いからこそ、ここに大きな本作のテーマがあるのだ。
こんなに歌が上手いのに、健次が取り入ってるスポンサーの女性がひと目(ひと耳というべきか)でイケると思ったほど、そらそうだ、舟木一夫だもの。でも明夫は決して首を縦に振らない。歌は好きだけど、あくまで趣味。自分は絵で食べていくのが目標なのだと。
健次はそれを逆にしようと説得にかかるのだが、割とあっさり諦める。そんなことを言うのが彼に失礼だと思った、というよりは、雑なシナリオなだけな気もする(爆)。
うーん、でもどうだろう。健次は明夫のそれは尊重できたのに、メンバーに対しては高をくくってた。メンバーたちの夢が、プロのミュージシャンではなくて、シェフや牧場や歌声喫茶やなことを知っていたのに、それぐらい密に関係を紡いでたのに、結局彼は、それはそいつらの単なる夢だから、と浅く見ていたということなのか。
“親友”の明夫のかたくなな意志には折れたくせに、一緒に夢を追う同志の筈のメンバーの人生設計は軽々しく見ていたということなのか。
彼らの行きつけのラーメン屋の店主として、大物ゲスト、桂小金治氏登場である。彼は健次たちのバンドのファンで、だからこそプロになることを反対する。素人が趣味として楽しんでいたから、こっちも楽しんでた、応援していたんだと。
自分たちがプロになることを応援してくれないのかと健次は不満げだが、そして見ているこっちとしても、ファンならプロになることを応援するんじゃないのか……と意外だったのだが、見抜いていたんだよね。てゆーか、言ってたもんね。健次も把握してたし、その点を明夫も疑問に思っていた。彼らの夢はミュージシャンになることじゃないのに。
スポンサーとなる、ナイトクラブを何軒も経営している父親を持つお嬢様、玲子にすべてが崩壊した時健次が言われる台詞、「ケンちゃんの悪い癖は、自分の実力以上に背伸びをすることね」。
そーなのそーなの。根拠なき自信マンマン。だからさ、なんでそんなに彼を信じちゃうのかな、好きになっちゃうのかな、信頼しちゃうのかな、
ああでも、こういう人っているんだなあ、と。悪気がない。それが良くないんだけど(爆)。無邪気に自分の可能性を信じてて、自分がすべてを引っ張っていけると思ってて、そのために友達や恋人を傷つけていることを気づいていない。
なのに、彼のことをみんな好きなんだよ。そーゆー欠点に気づいているのに。メンバーも、恋人も、ラーメン屋も、そして親友も、憎めない。それは、そのことに気づいた時に彼が、心底落ち込んじゃうような純粋な青年だと、知っているから。
ミチコはどこまでそういう部分を判ってて、健次を好きだったのかは疑問だけれど。同郷である明夫と健次、ミチコはまた違う地方出身だけれど,当時の、東京に出てきた若者たちのあれこれな事情が垣間見えるんである。
明夫が雨宿りで出会った時、コントみたいに彼女に紗がかかって運命の出会いが演出された。でも彼女も一介の地方人であり、当時まだまだ残っていた価値観、田舎で見合結婚するのが王道の幸せ、てことと、恋人の優柔不断に悩み、一度は田舎に帰ってしまう。
そらそーだ。健次はバンドを成功させることだけしか頭になくて、それが故に、彼らの将来の夢を理解しているのに、それを勝手に遠い夢に捨て去って、自分の夢の支配下に置いて、崩壊した。そのことに対して、純粋な気持ち故で臨んでいたという、メンドクサイほどに憎めないヤツだから、困ったもんなのだ。
当時の男たちならまだいいよ。でも女は。当時の男女の人生設計、社会進出は、今もまああんまりあれだけど、すさまじく封建的なんだもの。田舎に帰って見合いして結婚、なんだもの。その犠牲になったのはミチコのみならず明夫までも。
いいよ、彼女が女性に理不尽な価値観と憤ったんなら、いいよ。でもそこまで彼女は自覚してない、あくまで健次への未練の方が強いけれども、まあちょこっとは、そうした女性が遭遇する理不尽さは感じさせつつだからこちとら大目に見ちゃうけどさ。
でも、厳格な父親を欺くために、物見遊山で東京に出張ってきた祖父母を、孫娘を溺愛しているのを判っているから利用して、明夫を健次に仕立て上げて、ニセの恋人として紹介しちゃうのがああ、あんまりだと思って。
ニセの恋人まではいいよ。まんま明夫でいいじゃない。まあ……まさか出張って来るとは思わず、手紙の上で忘れられない恋人の名前をつづっちゃったのは判らないでもないが、最初から、そして折々示され続けた、ミチコの明夫への無関心さがあんまりひどい。
まったく、まあったく、人間扱いされてないっつーか、存在を否定されてるっつーか、田舎のおじいちゃんおばあちゃんから、いい青年だねえと思われたって、それは明夫じゃなく、健次としてなのだ。明夫は、存在を消されてるのだ。死んでるんだよ。なんと残酷な……。
そんな仕打ちをされても、でもミチコの役に立って、イイ感じになって、これは恋人になれるかと思った矢先の、健次の挫折。プロのミュージシャンにはなりたくないと言い出したメンバーたちに憤る彼だが、先述のようにそもそも彼らがそれぞれの夢を持っていたことを判っていた筈。
それに追い打ちをかけるように先述のように玲子さんが、彼の実力不足、自惚れを指摘する。すっかりどん底に落ち込んでしまった健次を、も―こんなやつ、突き放してしまえばよかったのに、明夫はほっとけない。
だって健次ってば、ズルいよ、捨てた恋人の名前を連呼する、ミッチャンと連呼する。玲子さんとどっちがいーかなーなんてサイアクの二股かけてたくせに。責任持てないからって、田舎で見合いして結婚した方がいいよと突き放したサイテー野郎のくせに。
なんでこんなヤツが憎めないヤツで、メンバーもラーメン屋のオヤジも心配して、見守ろうやと結束してさ。そしてそして、明夫はずっと彼女のそばに寄り添い続けたのに、なんでなんでミチコに、「今あいつを支えることが出来るのは君だけ」だとか言って譲っちゃうのか!!
てか、好きだの一言も言わず、ニセの恋人に利用され、だよ!!ミチコはさあ、絶対判ってたでしょ、明夫が自分のこと好きなことをさ。まーそのあたりはテキトーなニュアンスなのは当時っぽいけど(爆)。
田所先生の恋人が保母さんとして勤めている保育園、そこに明夫のあっせんでミチコが就職、子供たちと一緒に歌い合う平和なひととき。もちろんそれは歌手、舟木一夫の見せ場ではあるにしても、彼が演じる明夫があくまで歌は趣味、一生の仕事は別にあるというのが、本作の大きなキモであることを何度も確認させられることを考えると、子供たちとリラックスして、楽しんで歌を歌っているってことが、それが生業ではないからこそ幸福なんだっていうのがめっちゃ説得力があって。
でもだったら、実際の舟木氏はツラいのかと思ったりして(爆)。好きなことを仕事にできることが、幸せなのか否かを問いかける、シンプルにして重い題材をさらりと論じてる、結構重い作品なのかもしれない。
★★★☆☆
まるでそんな彼が類が友を呼ぶように、似たような人間たちのそばにすり寄るようにして、この小さな下町に降り立つ。京成立石。なぜこの町だったのかさえ、矢代にはよく判っていないようである。
ふらふらと歩き、街金からの着信が鳴るスマホを道端のゴミ箱に放り捨てた時から、彼は何者でもなくなった。つまらないことだけれど、現代人にとって携帯電話は身分証明書のようなものだ。これを放り捨てることで、自分を証明することも、外とつながることも出来なくなる。この時矢代はその重要さに本当に気づいていたのか。
死ぬつもりだったのだから、判っていたのだろう。死ぬつもりで、“ソープデビュー”した。いかにも安っぽい場末のソープランド。矢代が初めての風俗だと知ると、ソープ嬢のヒナは感激し、“サービス”してくれちゃう。
これまた後々彼女の人となりを知ると、これが決して、風俗嬢としてのお仕事のリップサービスではないことが判る。
ヒナのヒモとなる矢代が、ヒナの仕事、つまり男とセックスする仕事に嫉妬するのは、あながち的外れでもなかったんだろうと思う。それこそ彼女は矢代が出ていこうとすると、「また都合のいい女になっちゃった」とごちるのだから。
こんな風に、客の事情に同情して、タダで身体を与えちゃって、捨てられることの繰り返しだったんじゃないかと推測される。そう思えば矢代が特別とか、最後の男だとか、そりゃどうして信じられようというものだ。
不器用な男、不器用な女。なぜこの二人が出会ってしまったんだろう。そして、不器用な男女は彼らだけではない。壁の薄いアパートの隣に住んでいるキャバ嬢とこれまたヒモ男のカップルは、ヒモ男、大蔵が売れっ子キャバ嬢、レイコへのDVと思しき大げんかが筒抜け。
しかし実際のところは、レイコは決して大蔵に隷属なぞしておらず、それどころか彼女に捨てられるんじゃないかと大蔵は戦々恐々としているのだ。
矢代とヒナのところと、逆の図式である。実際、矢代は最初のうちこそヒナに感謝し、ヒモのままでは申し訳ないと思うからこそ、また一発当ててやろうと彼女の部屋を出ていく計画を立てるのだが、だんだんとヒナの仕事に嫉妬を覚え、ヒモである自分を蔑み、彼女につらく当たるようになる。
そのあたりから、この二組のカップルの邂逅が不思議な色を帯びだすんである。
レイコを演じる間宮夕貴。大好きな女優さん。エロを演じられる女優さんの中でも、凛とした、孤高の、自分を安く売らない女である。
でも大蔵のことはやっぱり好きなのかなあ。捨てられないのかなあ。正直口先ばかりの吹けば飛ぶような男なのに。
間宮夕貴の凛とした美しさに比して、ヤサ男で見るからに頼りないのに、俺はやったったる!!とキャンキャン吠える子犬のよう。でもこの二人もまた……離れられない運命にあるのか。
矢代が企てたのは、ひそかに事業として温めていた精力剤の販売だった。懇意にしていた小さな工場の社長にそのサンプルを預けていた。その社長がこの地のヤクザに首根っこつかまれていて、綱渡りの状態だというのが、矢代にとっての運の尽きというか、いやむしろ、突破口となるキッカケだったのかもしれない。
このヤクザ、ミネギシを演じるのが、こんなフレキシブルなクリエイターでありプレイヤーは他にちょっと思いつかない、榊英雄である。不思議なキャラ設定。彼は視覚障害で、世界はモノクロにしか見えていないんである。この設定がつまりどういう展開にたどり着くのか予想もつかなかったのだが……。
矢代が思いついた精力剤のアイディアは、レイコによってあっさりと却下される。矢代はキャバ嬢を使って客たちに強壮剤を売りつけるつもりだったが、客を否定するようなものだというのは、まさしくその通りである。
レイコは頭のいい女性で、矢代にヒントをもたらすんである。風俗に従事しているような女たちはさみしさを紛らすためにペットを飼っているけれど、不規則な生活で飼育もままならず、しかし見栄坊だからブランド志向の高いペットフードには食いつくだろう、と。
これが大当たり。でもそのあたりから矢代とヒナの間にはすきま風が吹き始める。
そんな風に頭のいいレイコと比して、確かにヒナは自身で自嘲するように決して利口な女じゃない。そしてそれが結果的に致命的なクライマックスを引き起こすことになる……。
でもさ、結局このペットフード事業も、市販のペットフードを適当に混ぜ合わせて包装しなおしただけのしろもの、風俗嬢の見栄心をくすぐるだけのもの。
そしてそれを配達する男の子(大蔵)をほかのあれこれにこき使って、人間のペットを別にゲットしたみたいな、見栄で彼女たちはつかの間の満足を得るんである。
そしてそれを、このつまんない下町を蹂躙しているヤクザ、ミネギシは見とがめる。自分のシマを荒らす虫けらどもを許すわけにはいかないと、それこそ虫けらのような考え方だが、まるでゴッドファーザーのような威厳で矢代と大蔵を呼び出すんである。
こんな些末な。こんな小さな。こんな下町で。ゴッドファーザーか仁義なき戦いみたいなドスをきかせた恐喝と暴力が発動される。むなしい。なんとむなしいのか。
女たちもまた、むなしい。矢代とヒナ、大蔵とレイコという二組のカップルは、なぜか、なぜだか、スワッピングしちゃう。なぜか?それは矢代のつまんない嫉妬心からである。
プラス、レイコの、……彼女は、こんなつまんない見栄坊のDV男でも、なぜか、なぜだか、きっと、大蔵のことが好きで好きでたまらないんだろうなあ……。
ヤクザに目をつけられてヤバいからというのは言い訳とまでは言わないまでも、ヒナに風俗のテクニックを教えろと迫るレイコにはさ、そんなところに落ちる覚悟があるぐらいあんたのことが好きなんだということなのか……。
場末のソープ嬢にはこの程度でしょ、と万札を二枚たたきつけ、ヒナは彼女の差し出した人差し指を丁寧に舐め始める。それを見ていた矢代は、大蔵と寝るように命じるのだ、なんて残酷なこと!!
だってさ、この時、矢代は自分とヒナとの間の、闘いというか復讐というか、そんなことしか考えていない。大蔵とレイコのことなんか、考えちゃいない。ザ・自分勝手だ。
ただ、大蔵とレイコもまた難しい関係の段階にあったから、レイコは矢代の提案に乗っかってけしかけちゃう。そしてレイコと矢代もヤッちゃう。まさにスワッピング。全然楽しくない。幸福じゃない。イクとしたら、そこに気持ちも感情も、愛も何も、ないのだ!!
ああでも、愛って、何??そういやあ、本作は、恋、だった。タイトルにある恋。そして、矢代とヒナ、大蔵とレイコが陥ったのも、どうしようもない恋だったのだろう。
恋はまるで後先がない。その後の人生を連想できない。刹那で、甘酸っぱくて、責任がない。だからこそ大人になればなるほど、恋はしにくい、のだけれど……。
ヒナがしでかしちゃうんだもん。彼女は自身をバカだバカだと自嘲して、必要以上に露悪的になっていたが、ホントに判ってたのか判ってなかったのか、マジでヤバいことしでかしちゃうんだもん!!
ここから羽ばたこうとしている矢代を助けようとして、ヤクの売人をレイコに紹介してもらっちゃった。こんな狭い街、ヤクを流通させているのは当然ミネギシであり、横流しが発覚して、矢代とヒナは追われる身になるんである。
自分のことを、バカだバカだと言い続けて、落ち込み続けて、好きな人の力になれないと思い詰めて、こんな暴挙に出て、最ッ悪のバカさ加減を露呈するヒナにバカ、マジでバカ!!と思うのだが、そもそも矢代がバカだし、いや、もう、皆バカだし、どうしようもないよ!!
二人はさ、セックスでつながっていた。いい意味で。セックスに愛があるか否かという議論は、こうしたエロ要素のある作品ではよく出てくる。そしてそのたびに、……難しいと思う。
矢代がヒナの仕事に嫉妬したのはまさにそこであり、ヒナはレイコにテクニックを伝授する際に自分はプロだと言いはするけれど、彼女はセックスに愛を見出しちゃう、不器用な女なのだ。
レイコはだから、ヒナに、不器用なヒナに、ホレた男のためにヤバい橋を渡る彼女に、あんたカッコいいよ、と言ったのだろう。
ミネギシはね、当然矢代とヒナをボッコボコにするんだけれど、その時にね、モノクロしか見えていなかった彼の目に、彼ら二人の、流血した血の色が見えるのだ。
これはどういうことなのか。血が愛の証なのか。殴られた血だけではなく、ヒナの太ももにつーと流れ出る血は、あれはどういうこと?ここで生理って訳じゃないと思うんだけど。何何、妊娠してて、なんか不正出血とか??でもそれ、その後の展開で全然触れられなかったんすけど!!女の股からの出血は意味ありすぎだよ。これスルーしないでよ!!
京成立石の街から抜け出して、二人はどこに行くんだろう。そして大蔵とレイコもまた。
ヒモだった矢代がヒナに恵まれる二千円、一日過ごす千円札二枚が切なくて。ヤクザと介在する数十万円の金高と違いすぎて。赤い血のリアリティだけが、彼らを支えてる。帯封された札束なんか、何の意味もないのだ。★★★☆☆
良夫(舟木一夫)と玄一(山内賢)は北海道の片田舎で親友同士。二人とも夢は船乗りになること。良夫は弟を中学まで出してやるまでこの地に残り、玄一の方が先に横浜に出ていく。仕事を覚えてお前を迎える手配をつけておくからと、良夫にフルートを預けるんである。
なぜフルート?二人は一緒に音楽でもやっていたのかと思ったりもするが、そんなくだりは一切ない。フルートなんて音を出すだけでも難しい楽器なのに、そして玄一のフルートなのに、なぜか良夫も後に流麗に吹いちゃうのがさっぱり判らない。
まあとにかく、二年の後、良夫は玄一を追って横浜に出てくるんである。後に明かされるが玄一からはここのところさっぱり手紙が届かない。最後に送ってきた手紙を頼りに、あさひ丸なる船を訪ねるが、そんな名前の船はたくさんあるという。
その中で、個人の持つ小さなボロ船に行き合う。その船長は実は玄一のことを知っていたけれど、後に明かされる事情を知れば、この時にとっさに口をつぐんだのは判る。
この船長を演じる二谷英明がステキである。先日観た舟木一夫映画の葉山良二の素敵さと共通する、舟木一夫が演じる若く青臭い青年に、良き先輩、良きアニキとしてこれからの人生を指南してくれるような存在なんである。
良夫はみどりという女の子と出会う。定食屋の娘なのだが、最初に出会った時は彼女は男の子みたいないでたちで勇ましく車を運転しての配達中、振り向いた顔が女の子だったことに、良夫は思わずひるんだ、そんな印象的な出会い。
演じるは和泉雅子。ついこないだも舟木一夫作品特集で彼女を見てて、その時は本作で玄一を演じている山内賢氏が主演で、先述のように舟木一夫は彼女を恋していただろうに友人に譲っちゃう気のいい親友役であった。
そしてあの作品の和泉雅子はかなりのやさぐれ加減でこっわ!!と思ったもんだが、本作にもなーんとなくそんな印象は見え隠れしている。
父親が厨房に入ってる定食屋でちゃきちゃき働く一人娘。母親はいない。幼い娘と夫を残して出て行ってしまった、らしい。
そんなんめっちゃソーゼツやんと思うのだが、後にみどりがその母親を恐る恐る訪ねると、母親は何の躊躇もなく、むしろ感慨深く、大きくなったわねえ、とか迎え、だったら娘と夫を捨てたとかいうのは誤解なのかな、何か事情があったのかなと思いきや、「私が悪かったのよ」それだけかーい!!
出ていくのにはそれなりの事情が、悪かったと言うにしてもそれなりの理由がある筈なのに、何にも語られず、十何年ぶりの娘との再会になんの躊躇もなくよく来たわね、はないでしょ!!
まあその、これはかなり後半の話なので……。そもそも、そうよ、良夫と玄一の話よ。定食屋に出入りしていた玄一とみどりは親しく、恐らくお互いに想い合っていたと思うのだが、その後の玄一の感じからするとどうだろう、みどりだけがのぼせていたのかもしれない。
玄一は良夫に公言したからというんでもないだろうけれど、下っ端生活が続くことに焦りを感じたらしい、船乗り生活が続かなくて、甘言をもって近づいてきた悪徳集団に引っ掛かってしまう。
この組織が何をやってるのかイマイチ判んないんだけど、かなり説明的に良夫が理解するように、非正規ルートの密輸的な??
良夫が玄一のバッグを開けた時、こりゃクスリが出るだろと思っていたら、小さな時計が大量に出てきたから、うーむこれはどういうことだろうと悩んでしまった。クスリじゃない分むしろ健全……違うか、よく判らん。
そもそも良夫と玄一が再会するのも、後に聞けば玄一は船乗りから挫折してしまったこんな自分を言えなかった、だから便りも途絶えていたってのに、イケイケな調子で突然彼の前に現れるし。
その現れ方も、偶然にしては出来すぎ、まるで待ち構えていたようだけど、良夫がみどりと共に今この時に中華街のこの店にいるなんて判る訳がないのに。それとも、みどりは行きつけの店だったみたいだし、玄一とよく行っていたんだろうか??
みどりにとっても久しぶりの玄一。彼女はすぐに、彼の変貌ぶりに気づく。それは良夫が感心した、“立派な船乗り”になった余裕ではないんである。
良夫はみどりが言い募る、金を持ち逃げして行方をくらました、という話を話半分に聞いていた。まあ実際、玄一は申し訳ないと書き置きして掛け取りのカネを持って行ったんだから、持ち逃げした、というのはみどりのヒステリックな表現であったかもしれない。
でも、良夫には判らなかった、昔の玄一じゃない今の彼が、みどりにはハッキリと判ってしまった、のは、女のカンなのか、もひとつ加えて、恋する女の、なのか。
まあ、つーか、良夫はみどりから話を聞かされた時は、あいつはそんなヤツじゃない、とかお決まりの台詞を言う割には、その後、物証と、そのことを知らずにしれっと良夫にウソをつく玄一に際してあっさり落胆するのよね。
おーいおーい、結局男ってそんなもんよね、女の言うことは信じないで、それが明らかになると何も知らなかった、騙された、とか言って失望するんだよね!!とこっちが失望だよ!!と思っちゃうよなあ。
で、ちょっとフライングして先述したけど、このあたりでみどりがまぶたの母に会いに行くシークエンスがあり、それに男子二人を連れていく訳なんである。
この前段で、玄一と飲んでいた良夫が、玄一が所属する悪徳組織に眠らされるというシークエンスがあるのだが、単なる友人なのになぜそんなことをされるのか判らないし、しかもこれが中途半端で、ヤツはカウンターでおねんねだよ、と悪徳ヤローが悪そうに言うのに、当の良夫はフラフラになりながら、フツーに歩いて帰っちゃう。そして、薬を仕込んだ悪徳ヤローの女も、それを見逃がしちゃう。なんなんだ、何が目的なんだ。判らん。
良夫がこの時、何気なく玄一のバッグを持って帰ったのは、あくまで何気なく、ねむねむ状態の何気なくにしか見えない。クスリを仕込んだ色っぽいねーちゃんが、玄一のことを好きだったかもというニュアンスはのちに淡く示されるが、それもまるで回収できてないもんなあ。
そんな状態で、先述したみどりのまぶたの母を訪ねるシークエンスに突入。玄一はバッグに入った密輸品である大量の時計が良夫に持ち出されたことで気が気じゃなく、早く取り戻したいのに、良夫は酔っぱらっていたから交番に預けた、というもんだから、悪徳組織の上からも突っつかれるし、マジで、気が気じゃないんである。
それにしてもさあ、なんだって玄一はこの組織でそんなにも強気なのかしらん。上からもそのナマイキさ加減を何度かたしなめられているのに、そして作劇上からその期間を考えても、大した時間も経ってないし、口では、自分でさんざん稼いだだろとか玄一は言うけれど、そんなまでの態度をとれるような実績が示される訳でもない。
玄一が堕落するにも、この組織でそこまで使われるにも、あまりにも時間が短すぎる不自然さしかないんだもんなあ。
みどりがまぶたの母と再会し、先述のようにあっさり切り上げちゃう。その後、みどりは玄一の所属する悪徳組織に拉致されるんだから、こここそがキモで、その展開のための、ムリヤリエピソードに思っちゃう。そう思っちゃうほどに、テキトーだったからね(爆)。
娘が別れた女房に会いに行ったと荒れまくる父親の描写が、それを埋め合わせるように、説明不足を忘れてくれと言わんばかりのおおげさ加減で、判った判ったと言っちゃうようなさ。
みどりが誘拐されたままだと思い込んでいる二人、玄一はもう殺されてもイイってな覚悟を決めて、良夫を留め置いて、飛び込んでいく。みどりは先に田山に助けを求めていて、共に向かうんである。
田山は良夫の見習い船員の口を見つけてくれていて、ここで問題を起こしたらそれがふいになる、ここは自分に任せとけと、飛び込んでいく。
判るでしょう、こうなると、どうなるか判るでしょう。そんなこと言われて男一匹、ハイ判りましたとおとなしく待ってる訳にはいかないってのは、昭和ならそらまあマストでしょう!!
平成でも……令和なら、ああそうですかと、言っていいと思うよ。だってここで振り切って飛び込むの、バカだもん。女が必死に止めることでよけいボルテージが上がるという男のアホさよ。令和の女なら、むしろ止めないさ、行ってらっしゃーいってもんさ。
……ちょっと言い過ぎたかな。だってね、こんな具合に全編に渡ってスキだらけ、ツッコんでくださいと言わんばかりなんだもの。結果的に、田山の腕っぷしの強さで悪徳組織を撲滅しちゃってオールオッケーって、ケンカで制圧できるって、そんな単純な……。それなら最初から、マッチョな軍団を送り込めば終わっちゃうじゃん!!
そうか、拳銃、飛び道具だわ。でもそれも、それが怖くて今まで対処出来てないんなら、いきなりマッチョだけで乗り込まないでしょ。そしてマッチョ勝っちゃう。何それ。そこは死んでもいいという覚悟でマッチョ突撃だったのかなあ。そんな悲壮さは感じられなかったけど。ただ単によっわいヤカラをボッコボコにしてもうただけだけど。
まあ、だからいろいろ、面白いけどね(爆)。舟木一夫は好きな女の子を譲らずに済んだが、まさかのヒロインの気持ちが二股。
なのに、その二股相手の男子二人が、ラブラブ友情によって結ばれ、ヒロインが、あの絆の中には入れないわ、と、どちらが好きかという選択に悩んでいたのを、二人の友情に負けたわ、という結末!!二股女の言い訳だろー!!!
最終的には良夫を選んでくれたらしい、船乗り見習いとして乗り込む直前の彼に、逡巡しまくった後に駆け寄り、握手を交わす。こんっの二股女め。
悪徳組織が一網打尽になり、自身もしばらくぶち込まれることになった玄一よりも、待たされる理由がまっとうな良夫を選んだか。ああそんなこと言いたくないが、そう見えちゃうわ。なんかいろいろね!!★★★☆☆
村上春樹原作というのは、ほとんど氏の作品を読んでいない不勉強な私にとって、なんとなくハードルも感じさせたが、それにしても村上氏は自身の原作の映像化にはあまり乗り気でない作家という噂を耳にしていたので、この才能に託したということがもはや傑作の証のような気さえする。
ちょっと違うかもしれないんだけれども、性愛、という言葉を思い出した。その言葉に最初に触れた、というか、作品を評する時に使われているのに接したのは、谷崎潤一郎だったような気がする。
性愛という言葉には、男女(と現代の多様な価値観では言い切れなくなったが、当時は)の愛情とセックスは切り離せないもの、ミックスすることによってより増しますもの、うーん、上手く言えないけど、下世話な言い方で言えば、身体の相性というか。
少女漫画的プラトニックラブとか、人間的な信頼で結ばれているとか、友達夫婦だとか、そんなことはすべてまやかしだと、言い訳だと。恋愛関係を前提とした恋人や夫婦なら、お互いの肉体がまじりあうことが精神の愛情の方程式に不可欠なんだと。
その後さまざまな文学や映画、ロマポルやピンクの傑作に触れるたび、ことあるごとに性愛とはなんぞや、ということを思い返していた。
性愛という言葉を、その意味合いを、こんなにも、……なんつーか、誤解を恐れずに言えば、エロ度を感じさせない、哲学のような静謐さの中で考えさせられる、というのは初めての経験だった。
いや、決しておざなりのセックス描写な訳じゃない。相変わらず私はおっぱい出さないことには不満だけど(爆)、でも、アプローチから事後に至るまで、主人公夫婦の大人のセックスはすっかり慣れ合っているのに倦怠的にならず、信頼の上での欲望、という成熟がある。霧島れいか嬢がおっぱい出さなくても(爆)、西島秀俊氏のセクシーな上半身を360度くまなく眺められるだけでオッケーである(爆爆)。
この二人、俳優であり演出家の家福悠介と元女優で脚本家である音は、そこそこ熟年な夫婦、共に40代だと思われるのだが、いまだ情熱的なセックスをしている。
しかもその事後の場面から始まる。音はその余韻が漂う抱擁の中で、ぽつりぽつりと神秘的な物語を語りだす。いきなりそんな具合に始まるから戸惑いそうにもなるけれども、セックスの後の緩慢な余韻を残しての二人のやりとりが、物語の始まりとして、まさにつかみはオッケーで、何何何、なんかめっちゃセクシーだけど、何を語ってるの!!とつかまれちゃうんである。
音が発想する脚本のアイディアは、いつも悠介とのセックスの後の時間に語られた。なかば夢の中のように語る音はのちにそれを忘れていることも多くて、聞き取った悠介が後に補完していた。
彼にしてみれば当然、その役割は自分だけだと思っていた。しかし妻の死後、自分が聞けなかった物語の続きを知っている若手俳優が現れたり、なんたって妻の浮気現場を目撃したりしちゃうもんだから、その幻想はもろくも崩れ去るんである。
浮気現場だなんてあっさり書いちゃったけど、そんな世間的、俗な言い方はしたくない、というか、出来ない、というか、そうじゃない、というか……。ここんところが村上春樹的なのかもしれないが、それを映画という商業作品で真っ向から描いてやるっつー監督は、相当な自信と覚悟であると改めて思って、戦慄する。
だって、そうじゃないんだもの。音は浮気妻なんてつまんない存在じゃないんだもの。音は悠介を愛し、彼に物語を語り、音は他の男たちとセックスし、男たちに物語を語った。悠介が愛の証だと思っていた事後の物語の発露が他の男たちとも睦がれていたことにショックを受けた訳ではない。だって目撃した時点では、彼はそんなことは知らなかった筈なのだから。
すいません、物語を相当すっ飛ばすけど、最終的に悠介は、音が他の男たちにも物語を語っていたことを知る訳で、本当のショックを受けたのはその事実こそだった筈。
でも、彼はそもそも、決定的現場を目撃したのに、それをスルーした。見なかったフリをして、そのまま仲のいい夫婦のままでいて、音から、話がしたい、と投げかけられて怖くなって、用事もないのにぐるぐるうろついて、夜遅く帰ったら音が死んでいた。くも膜下出血だった。
音は何を話したかったのか。もう永遠に判らなくなってしまった。彼女が他の男とセックスしているところを目撃していたから、悠介にはあらゆることが想像されて怖かったのだろうけれど、でも後に悠介と出会う寡黙なドライバー、みさきが言うように、音は真実悠介を愛していたに違いなく、他の男とのセックスも、事後の語りも、本当にそれだけでしかなかったんだろう。
なぜそう思えるのか本当に不思議なんだけれど。それはこんな風に長尺でじっくりと見つめ続けることによる心理作用なのか……判らないけれど。
本作はとても面白い作りで、「ゴドーを待ちながら」とか、「ワーニャ伯父さん」とか、古典演劇を劇中演劇としてふんだんに取り入れ、音の死後、悠介が演劇祭の演出家としてキャストのオーディションから関わることになる後半のパートも含め、様々な言語の役者たちによるコラボレーションで演劇が作られていく過程を見せていくのだ。
後半のパートではその言語に手話(しかも韓国手話)までもが加わる。まさにグローバルプラス、現代、今、最も重要視される多様性の社会、世界、価値観である。それが、古典的な、有名中の有名戯曲によってあぶりだされるというのも面白く、カタそうに思えるロシア戯曲がチョイスされているというのも面白いのだ。
本作で強烈な印象を放ったのが、岡田将生氏であった。「寝ても覚めても」といい、濱口監督は若手俳優のイメージを一新し、その中に潜んでいる真の実力を一気に開花させる魔法でも持っているんじゃなかろうか。
「寝ても覚めても」で東出君が私たち映画ファンを瞠目させたように、本作での岡田君には大いに、大いに驚かされるんである。ぜぇったいに色気があるのに、今までさわやかな印象に邪魔されてきた彼の魅力が、今まで気づかなかった陰影をプラスして、爆発する。
こらえのきかない、つまりはフツーに社会人としては生きていけないけれど、役者としての才能の可能性は充分に感じさせる高槻。
悠介は絶対に、音に紹介された時から、この若く美しい才能ある青年が、自分の妻と、彼がやたらほめたたえる自分の妻と、関係しているだろうと確信していたに違いない。
音の浮気現場(とゆー言い方は先述のようにしっくりこないが)を目撃したシーンでは男は後ろ姿だったから彼だったかは判らない。後の悠介の台詞からは音がその時々の仕事仲間の男性たちと関係を持っていたことを知っていたことが語られるんだから。
てゆーか、タイトルにも絡むメインのキャラを言わなければ話にならない(爆)。演劇祭のドライバーとして参画するみさきである。男の子みたいなぼさっとしたカッコで、ぶっきらぼうで、でもドライビングテクニックは極上、上質。
車の中は自分のプライベート空間、音が録音してくれた、悠介の台詞の間をあけた録音テープを繰り返し繰り返しかけて確認する、その車内に他人がいるなんて考えられなかった。しかし演劇祭のルールだと押し切られてしぶしぶ彼女に運転してもらったら、まるで気にならなかった。信頼という名の気にならなさ。
みさきが登場する、つまり演劇祭の仕事に悠介がかかわる後半と、音が死んでしまう前半とくっきりと分けられている。
フツーの映画なら、ゆるやかにつながっていく描き方をするだろうが、本作はこの長尺を使ってしっかりと分け、それを示すために後半が始まるタイミングでここからが本編だと高らかに宣言するかのように、タイトル、キャストとスタッフクレジットをのせてくるんである。
逆にだったら、悠介と音の夫婦生活を活写していた前半部分を、意識的に、計算的に、斬って捨てているということなのか、と思う。悠介が、愛する妻が他の男の腰の上でピストンしていたあの場面を、彼だけじゃなく作品そのものとしても見ないフリをして進めると言ったような……。
だからこそ、それに直面せざるを得ない後半の後半で、悠介は打ちのめされるし、深く深く後悔することになる。作品そのものが、悠介に寄り添っている。
みさきは、悠介夫婦が流産で失った赤ちゃんが、生きていれば同じ年ごろであっただろう女の子である。後に語られるところによると、父親は生きているかも知らない、水商売の母親から中学生の時に車の運転を仕込まれ、送り迎えをしていた。
水害で母親を亡くした。でも、タイミング的に助けられたのを、そうしなかった。自分は母親を殺したのだと、その想いを今まで抱えて生きてきた。
彼女に接して、悠介はもしかしたら初めて、自分が妻を殺した、という意識に向き合ったのかもしれないと思う。その意識に向き合うのが怖くて、死んだように生きていたのだろうと思う。
繰り返し繰り返し聞いているカセットテープ(ここだけが、ちょっと無理ある時代錯誤だったが)は、若干伸び加減に聞こえるほど。
岡田君演じる、こらえのきかない役者、高槻が、悠介の、いわば大人の世間体がジャマしていたものを、打ち破ってくる。セックスしなくちゃ判りあえないこと(まさに性愛だ!)、プライベートに土足で踏み込んでくる“素人”にガマンできないこと……。
でも役者としての感性はピカイチ。そもそも売れっ子役者である彼が、こんな前衛的な演劇祭に応募してくることこそがオドロキだったのだが、それはのちに語られるように、そんなヤンチャな性質からスキャンダルに追われて、フリーになったからだったんであった。
オーディションで、言語も違う相手役と、劇中の審査側とともに、観てるこっちもめっちゃ圧倒されるドッキドキの芝居、この時点で、うっわ、岡田君、やっば!!と思って……。
結果的に高槻は、そのこらえ性のなさがホントにこらえられなくて、無断で写真を撮った一般人をボッコボコにしちゃって、その結果、相手が死んじゃうというサイアクの結果を迎えちゃう。
その直前、捕まる直前、高槻が悠介に、まるで自分が捕まることを察知したように(そうだったのかもしれない)、もう今しかない、みたいに音に聞いた、物語の続きを語る、みさきが運転する車内での緊迫したシーンが頭にこびりついて、忘れられない。
途中までだって充分に印象的だった、片思いの男の子の家に忍び込む女の子の話。どこか純愛ファンタジーのように収束しそうな雰囲気だったのが、まったく見も知らぬ、第三者の、ホントの空き巣が入り込んできたことで、展開が一変する。
女の子は男の子の家に忍び込んで、自分の痕跡を、知られないようにこっそり残すことで、充分満足だった。興奮を感じても、ここでオナニーだけはしまいと律していた。
でも、……最後の最後、しちゃう。そしてよりにもよって、その時に見知らぬ空き巣が入ってきて、そんな女の子を発見しちゃったら、そらそーゆーことになるだろう、強姦しようとするところを、彼女はペン立てのペンをつかみ、あちこちぶっさして、殺してしまうんである。
その事実が結局明るみに出なかった、というオチが、様々に波及する。それは、そのエピソードの彼や彼女というよりも、夫との事後にその物語が降臨してきた音、それを聞いた夫の悠介、その先の決着を聞いた高槻、様々に、である。
高槻=岡田君が涙目で語る、実に実に長いカットの、悠介が知らなかったその後の物語は、それも重要とは思うけれど、そうじゃない、というか、どう言ったらいいのかなあ……。
先述したように、みさきが語ったように、案外、そんなことはどうでもよくって、音はすんなり悠介を愛していたと、同じ女として、といったらベタ過ぎるし、そんな単純なことではないと判ってるけど、なあんか、そう言ったくなっちゃうような単純さをわざわざ難しくしているような気がしちゃうんだもん。
逮捕された高槻の代役を引き受けるかどうかを逡巡して、悠介は混乱する中、自分と似たところがあるみさきの、彼女が母親を亡くした天災があった場所に行ってみたいと思う。
こんなロードムービーはさんだら、そらこんな長尺になるだろうと思っちゃう。ああでも、でもでも……。正直、そこまでやるか!しつこいわ!!とまで言いたくなっちゃう。長尺も、ロケーションの変遷も。
でも後半でじっくり、二人の心に寄り添って描くシークエンスはもう、……すみません、わかりました、なんかもう、最初ナメててごめんなさい!!と言いたくなっちゃうもんなあ……。
悠介は、奇跡の出会いをしたみさきに、生きていたら彼女ぐらいの年だったであろう失われた命の娘を重ね合わせる。まあ、ボッサボサのサッバサバ、スッピンにたばこスパスパ、男親が夢想する女の子じゃない。
でもだからこそ、悠介と共感できたし、今の時代、まさにワレラがその急激な価値観の変化についていけない感覚も、リアルに体現出来ていたかな。★★★★☆