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あゝ決戦航空隊
1974年 163分 日本 カラー
監督:山下耕作 脚本:笠原和夫 野上龍雄
撮影:塚越堅二 音楽:木下忠司
出演:鶴田浩二 池部良 小林旭 高並功 山城新伍 室田日出男 梅宮辰夫 葉山良二 大木晤郎 鳥巣哲生 北大路欣也 伊吹吾郎 中村玉緒 毛利菊枝 菅原文太 内田稔 黒沢年男 渡瀬恒彦 長谷川明男 成瀬正孝 有川博 三上真一郎 内田朝雄 俊藤浩滋 大木実 遠藤太津朗 村上冬樹 山本麟一 原健策 江原真二郎 中村錦司 安藤昇 檀ふみ 太田博之 西城秀樹 松方弘樹 山田吾一 桜木健一 待田京介 北村英三 中谷一郎 野口貴史 金子信雄 有川正治 蓑和田良太 山田良樹 宮城幸生
何より、今までの特攻映画の中での鶴田浩二は、いつだって特攻に反対する立場だった。いや、時には指揮官でもあったが、それも望まずであった。死にに行くなら犬死ではなく、きちんと敵を倒させて死なせたい、という言い方の中に苦渋があった。
この価値観も現代の目から見ればあまりに受け入れられないものだけれど、犬死かそうでないかというのが、痛烈な価値観としてその時代にあったことを、鶴田浩二の役柄から思い知らされた。
でも本作の鶴田浩二演じる大西は、特攻作戦の生みの親なんである。必死必勝を掲げて、何百人もの若者を特攻に送り込んだ張本人である。そう書くとめちゃくちゃ悪人のように感じるが、そうじゃないというか……ああ、何と言ったらいいんだろう。
本作はね、今までの特攻映画よりぐっと踏み込んで、政治家と現場の兵隊の鮮やかな対照が描かれるのよ。つまり、机上の空論と平気で嘘をついて兵隊たちに地獄を味わわさせる、政治家たちのノンキな姿に対比させるのよ。
その中には私の愛する池部良もいて、彼演じる米内は海相だからまあ軍人をカスってはいるんだけれど、でもいつでも守られた部屋の中で、かっちりした白い軍服を着て、現場を見ることなく、指示するだけなのよ……。そしてその上にはさらに現場など判りようもない大臣たちがそっくりかえって議論をしている。さらにその上には、お飾りなのにこれ以上ない責任を負わされた天皇陛下がいる。
この天皇陛下の扱いというか、天皇陛下への現場の兵士からの痛烈なものいいも、本作で驚いたことの一つであった。昭和天皇は確かに戦犯という議論があって、現代における共通認識とすれば、昭和天皇は当時の政治家たちに責任をなすり付けられて身動き取れないた操り人形にさせられた印象があるのだが、特に菅原文太演じる小園の言いざまが痛烈である。
なぜ陛下は宮中にこもって、兵士として戦場に立たないのか、と言うんである。ええーっ!である。そんな考え方があること自体驚愕だし、そんなこと言っていいの!!と思ったが、彼曰く、それ以前の明治天皇とか、現場で指揮を執っていたじゃないか、というんである。
そそ、そうなの……知らなかった……。でもそれが本当なら、なおさら操り人形状態の昭和天皇が気の毒になるんである。まつりあげられて、ご聖断とか請われて、でもそれはすべて、当時の政治家や軍部トップといった、現場に全然出てない、兵隊たちの命なんてなんとも思ってないヤツらに動かされていたのだ。
でも小園のような、目の前の状況しか見えていない忠実な狂犬のような男には、それはなかなか判らないのだ……。
どこから手をつけていいのか判らないが、まあとにかく……。休憩をはさんだ前半は、ドラマというよりデータ的、記録的な印象が強い。
各地の特攻隊、それぞれにいかにも古風で和風な、日本人の魂を持って玉砕せよ、という強迫観念のような隊名がつけられた、その戦果、いや、戦果不明の方が多いという虚しさが、無表情なクレジットで、激烈な玉砕戦闘シーンをバックにずらずらと明記されていく。なんというか、ニュースソースのような趣が前半には強く感じられる。
だからこそ、後半は一気に感情の爆発になる。しかも、現代の価値観では信じられないような、逸脱したそれなんである。表面上は冷静で、哲学的でさえあるような語り口で、自ら生み出した特攻の必要性を問う大西=鶴田浩二に寒気が走るんである。
最初のうちは、彼は正気だった。正気だなんて言い方はちょっとアレだとは思うけれど、特攻という戦術が異常なものだと、その責任を自分がとるんだと、という気持ちを感じられた。
ひとりひとり、握手をして、送り出した。最初のうちは大西のカリスマ性に心酔したせいもあって、まるで魅入られたように突撃していく若者たちであった。
でも戦局が悪化、てゆーか、こんな小さな島国がアメリカだソ連だという大国に勝てる訳もないということになぜこれまで気づかぬふりをしていたのか。
同盟国も次々陥落、その中でもいっちばん小さな小さな島国だったのに。神国。皇国。ああ、いやな言葉。
でもその中で、“安全な場所にいる”天皇を批判するという当時の狂乱に身がすくんでしまう。皇国だと胸を張っているのに、その天皇陛下に悪態をつく。そもそもこの戦争はいったい何のために、行われているのか。
末期になってきて、政治家たちは何とか和平による戦争終結を模索する。そもそも戦争自体が不毛なのだから、和平は当然の選択肢である。しかし、大西は……。
てゆーか、彼自身も和平の決着は望んでいるのに、そのためには、負けて和平は出来ないというんである。いや、さらに矛盾したことを言う。徹底的に負けなければ、その先に和平がなければ、日本人は腰を上げないんだと。
このあたりから、大西は何か……狂気じみてくる。表面上はとても冷静で、哲学者のようなことを言っているように見えるからなんか聞いちゃうんだけど、なんか、おかしいのだ。
その最たるものが、特攻隊員たちが死んでいったことを、こんな和平工作されたら浮かばれない。そのためには特攻を送り込むしかない、と真顔で言うのだ。いやいやいや、おいおいおい、それじゃキリがないっちゅーか、死んでいった特攻隊員たちに申し訳がないから特攻作戦を継続する、って、なんかおかしな思想になってるのに、彼がそれに気づいてなくて、大真面目で、英霊を鎮めるためにはさらなる特攻を、と本気で語っていることにゾッとするんである。その静かな信念に、特攻作戦に懐疑的だった小園でさえ、まるめこまれてしまう始末なのだ。
大西は、最終的には、もう終戦ギリギリ、日本が勝てるなんてアホか、という状態になっても、特攻を2000万送り込めば勝てます!とか、信じられないこと言うわけ。
2000万て!一人ひとり手を握って、目を見て、慈愛と悲哀をもって送り出していたアンタが、その同じ顔して単なる使い捨ての武器だと切って捨てていることを、気づいてないのか……。
何より驚いたのは、八月十五日、玉音放送の後も、物語がちっとも終わらないことなんである。
なんたって小園のように、天皇陛下こそが腰抜けだと言ってはばからない(本当に信じられない。こんなことが映画とは言え描写されていたとは……)論があって、天皇は政治家たちに騙されて戦争を終わらせたのだと、負けて終わりにしやがったんだとはばからず、戦争が終わったのにちっともちっとも、彼らにとっての“戦争”が終わらないこと、なんである!!
なんたってめっちゃ長い作品だからさ、こっちとしてはじりじりしながら終わりを待ってる訳さ。さすがに玉音放送あれば、もう終わりよね、と思っていたら、ぜんっぜん、終わらない。それどころか、こっからが本番ぐらいの話である。
まだ戦争は終わっちゃいねえぞ!俺についてくる奴はこい!!と小園は叫び、いやいやいや、そんな奴いねーだろ、みんな戦争が終わるのを心待ちにしていた筈……と思っていたら、大半の兵士たちがおー!!とついていくのには心底驚愕しちゃうんである。
いやいやいや、戦争終わったし、そもそも戦う相手いねーじゃん、ゼロ戦乗っ取って、どーしよーっちゅうの。どーしよーも出来る筈がない。めちゃくちゃに操縦して自爆して海に突っ込むだけよ。なんじゃそりゃだよ!!
いやその前に…………てんてんを引き伸ばすほどに、言いたくない展開があった訳だ。大西の自刃である。大西は一体、どこから正気でどこから狂気だったのか。いや、どこまでも正気だったのか。2000万の特攻隊というのも、正気だったのか。
妻や部下に、特攻戦術を考え出し、自ら送り出した自分の罪を、取り乱すことなく、淡々と話していた。そしてその最後も、めちゃくちゃ凄惨な状態なのに、ひどく冷静だった。
腹をさき、のどをつき、胸をついた。そして息も絶え絶えの状態で、助かる筈ないのに包帯ぐるぐる巻きになっている。介錯は不要だと駆けつけた小園に念を押し、彼の後追いも厳しく制した。
無数の若者を死なせた自分は、なるたけ長く苦しんで死ぬべきなのだと、腹をかっさばいて、首と胸をついてもまだ死なない、死ねない強靭な男は、最後の言葉を小園に語ったのだ。
そもそも本作の冒頭は、捕虜になった兵士たちが情けない売国奴だと世間から糾弾され、哀れな最期を遂げるシークエンスからスタートする。そして本作は当時の世界情勢やら、それに立ち遅れている日本も容赦なく活写する。
捕虜になるぐらいなら死ね、という当時の日本人の価値観からスタートする本作は、その、強制的に押し付けられる日本人としてのプライドに苦しめられる人々を描いている。戦時中という特別な状況はあるものの、この価値観に苦しめられているのは現代の日本人、若い人たちでさえ、そうなのだ。
ラスト、小園が、まさに狂って、日本刀を振り回し、敵も何もいないのにゼロ戦に乗って仲間を率いて自爆する、八月十五日から何日も経っているのに。戦争は終わっているのに。
女たちの物語もたくさんあったんだけど、この長尺の強烈な、戦争が終わっているのに彼らの戦争が終わっていないインパクトに引きずられてしまって、とてもとても言及する余裕がなかった。
当時の戦争は、男側と女側でハッキリと見え方が違って、むしろ混ぜて描くべきではないのかもしれないとさえ、思った。女が甘く見えちゃうのが、悔しいんである。決してそんな訳はないのに。
★★★★☆
舟木一夫氏演じる青木修二は友子の幼なじみで、クリーニング屋さんという設定。前観たヤツはラーメン屋さんだったな。なんかそーゆー、お店者な雰囲気が良く似合う。
そしていつでも良き友、舟木一夫は、ほんっとうに、イイ奴なんである。たとえ同じ女にホレていても、口には出さずに友情を優先する。まあ本作に関しては友子とは本当に気のおけない幼なじみといった感じには見えたが、でもどうだろう。やっぱり友子のことが好きだったんじゃないのかなあ。
ケイアイ学院上がり(不良少女たちがぶち込まれるところらしい)なことで、女工仲間たちに敬遠され、悪い友達とも縁が切れずにいる友子を心配している。友子は水商売の母親を早くに亡くし、今は叔母夫婦の元に身を寄せているが、叔父はクズヤローで友子の給料を前借してまでのんだくれている。
てな描写はしかし、叔母が友子に同情的なのもあってさして深刻にはならず、むしろ飲んだくれのオッサンがコントみたいに見えるあたりが救いなのか何なのか。
ただ……友子は、とゆーか、友子を演じる和泉雅子はマジに、孤独な少女の哀しさが充満しているんだよね。
本作は一見して、悩み多き青春映画のさわやかさに見えなくもないんだけれど、冒頭の、冷たい視線の女工たちの中の友子の険しい雰囲気から始まり、クライマックスはヤクザどもにとらえられて売り飛ばされる寸前、クスリを打たれそうになるなんていう衝撃の修羅場で、しかも友子は逃げ出した出会い頭にトラックにはねられるし、ええー!!みたいな!!
てか、一気にそんなとこまで行ってどうする(爆)。えーとね、そう、邦夫は大学一年生のボート部員。新入生だけれど、父親が優秀なOBで、彼自身も実力が確かであり、一年生ながら来たる大会へのレギュラー入りを嘱望されている。
大河を疾走する彼らの練習風景をキャッキャ言いながら眺めている女工さんたち、というのがオープニングで、なごやかな青春の画に見えたのだが、それはものの数分、友子が燃えるような恋がしたいな!あの中の誰かと!と戯れのように言ったのに対して、フツーに仲間ならさ、友達ならさ、なーに言ってんのよう、キャー!みたいな、盛り上がりを見せるところが、そうじゃなかった。明らかに冷笑的な言葉と態度で、あんたみたいなやつが相手にされる訳ないでしょ、とせせら笑う。
友子は一気に表情を固くした。実際、この台詞を口にした時は、仲間内での戯れのような気持だったように思う。まあ、ずっと村八分だったんだから、違うかな。でも、一触即発の冒頭のシーンで、本作がさわやか青春映画なんぞではないことが知れるのだ。
少なくとも友子は辛い現実にもがいている。だからこそ、一心に汗を流すボート部員の誰かと、まっすぐな恋を、燃えるような恋をしてみたいと、戯れのようにでも、無意識に本気で友子は口にしたのに、あんたみたいな女が何言ってんのと嘲笑されて、ムキになってしまったのだ。
後に邦夫が周囲から言われる、女工って、騙されてるんじゃないの?という台詞にはボーゼンとし、ええ?女工さんって、単純に工場で働いている女性なのに、まるで手練手管の岡場所の女みたいに言われるなんてどうして??と……。
このあたりの感覚はなんたって時代が違うからよく判らないんだけれど、邦夫は大学生だし、女子はまだまだ当時は大学っていうのも厳しいのかもしれないけれど、とにかく大学行ってる男子学生に比しての女工さんは、ということなのかなあ。でも、それ以上にかなり侮蔑した感覚を感じたけれど……。
しかもその中で、女工仲間の中でも、友子は村八分にされてる。学院上がりだと、まるで前科持ちのように。まあ前科持ちってのは間違ってはいない。万引きぐらいはやってる。でもそれは、片親の生活環境で、悪い仲間もいたし、何より母親の気を惹きたいためにやったんであろうことだ……。
でも一度ついた烙印はなかなか消せない。友子自身、どこかあきらめムードでもあっただろう。邦夫に近づいたのは、女工仲間への意地に過ぎず、その作戦に悪い仲間を使っちゃったことを、彼女はその後、心底後悔することになる。だって、本気で邦夫を好きになってしまったから。
そのあたりの機微がね、邦夫側はもう純真な、エリートボート部員、さわやか純真青年だから、そりゃ友子とは違うのよ。だからハラハラして見守ることになるし、友子自身も、仲間への見栄から策を弄して近づいたものの、本気の気持ちになったとはいえ、彼を騙しているんじゃないかっていう苦しさに悩みまくる。
和泉雅子が、さあ……冒頭から険しい目つきでヤバい雰囲気は醸し出していたけれど、本当にね、よくぞ最後まで、おぼこ男子の邦夫が彼女を信じ続けてくれたもんだと(爆)。
その根拠は何だったんだろう。おぼこ男子ゆえの、純真な思いゆえの直感だろうか。
彼は、約束を反故にされても、周囲から何を吹き込まれても、決して彼女を疑おうとしなかった。そらまあ、友子の良き友、修二が手助けしたりはあったにしても、友子とは恋人同士にもいかない、無邪気なデートしかしてなかったのに、一緒にいて楽しいから、という、それだけの、それだけだけに、ひどく強固な信念で、彼女の人間性に疑いをはさまなかった。
友子の方が、あらぬ窃盗の疑いをかけられて工場をクビになったり、邦夫の父親のおとないを、邦夫との別れ話をしに来たんだと早合点してわざとはすっぱな態度をとったり、もう見てるだけで痛々しくてさ。
でもまあここまでは、なあんとなく予測がつく展開だったのだ。きっとここから、良き友によって誤解も晴れ、父親だって判らず屋じゃないんだから、事情を知れば判ってくれるさ、という展開になるんだろうと思っていたのだが……。
まあ結果論とすれば、そうなったということなんだけど(爆)。日活青春映画という気持ちで見ていたから、ダークすぎるっての。
一度は友子をあきらめた邦夫だが、彼女の友人が悪の手先からすんでのところで逃げ出し、友子の窮地を伝えてくる。これを取り次ぐ同じ部員の友人が、イイんだよね。自分を理解してくれるいい友達を邦夫は持っている。
友子はさ、ヤハリ対外的には評判が良くないさ。不良少女、ズベ公、なっつかしい言葉だが、これがこの当時は、まさしく一人の人間を傍らにおいやる肩書だったのだ。
友子が自分を卑下して邦夫の前にこうべを垂れた時、この川の向こうとこっちでは全然違うのよ、と言った。そういう感覚、日本ではあるよね、と思う。高台と下町とかさ。目に見えない、決して踏み入れない領域というか。
でも邦夫は何を言ってるんだと、明るい顔で言ったのだ。橋が架かってるじゃないか。そして自分たちがその橋になればいいんだと。
結果的には、邦夫が世間知らずだったのが良かったのかもしれないと思う。友子が抱えている苦悩は、少なくとも本作の展開の中で邦夫に百パーセント判ったとは思われない。でもそれで、いいんだと思う。
邦夫はただただ、友子が悪い子なんかじゃないという信念を貫き通せることが大事なんであって、それには友子の幼なじみである修二のサポートが強力に作用する。
邦夫の父親(東野英治郎!!)はそれを、しっかりと受け止めるし、むしろ息子よりもその重みを理解し、いい娘さんなんだから、こんなところにいてはだめだと、彼の地元である東北に引き取るんである。
本作の味わい深いところは、こんな具合にワカモンだけではなく、彼らの親世代の考えもじっくりと見せてくれるところなんである。邦夫の父とボート部コーチは同窓で、二人して邦夫を心配している訳なのだが……決して決して、単純に不良少女だからとか、学院上がりだからとか言うんじゃなく、見極めに行こうとする、つまり子供を、そして子供の審美眼を信頼する努力をしようとする過程が素晴らしいんである。
友子がやけっぱちになるから、悪印象与えたか……とハラハラするものの、そこは百戦錬磨のおっちゃんたちだからね!!でもまあやっぱり決定打は、大事な試合をすっ飛ばして、愛する彼女のために駆けつけ、二人ともども重傷を負った、てな、愛よねー!!てな展開だわよね!!
金には不自由してない、いわばお坊ちゃんの邦夫と、窃盗事件が起これば証拠もないのに真っ先に疑われる友子とは、やっぱり雲泥の差なのである。この事件の時、タイミング悪く、邦夫から悪い仲間との縁を切ってほしいと金を受け取っていた。再三友子は固辞したのに、自分のために受け取ってくれと邦夫は押し付けた。
愛ゆえと言えるが、結局はそれが友子を追い詰め、つまりは何の役にも立たなかったのだ。友達にも協力してもらって用意した清廉潔白なカネだとしても、結局はただのカネに過ぎないのだから。なんとまあ、カネというものは難しいものだと思う。愛情の証にもなるというのに……。
改めて思い起こしてみれば、本作は全編に渡って、このナマなカネ、現ナマに愚かしくも純粋な精神が翻弄される展開、それは当時の、今とは違う(今もあるけど、なんかあいまいで判りにくいのとは違う)ハッキリと存在する格差社会のえげつなさが投影されていて、なんかねえ……。
最初は、舟木一夫が良き友として参戦するさわやか青春映画を予想してたし、まあ結果的にはそうだったんだろうけれど、なんかすっごい、ダークで……。
本来はうららかな性質の友子が、邦夫の実家に引き取られ、のびのびと生活しているラストは、なんか、嬉しくもあり、彼女自身の選択の自由はなかったのかなという気持ちもあり。まあ、邦夫と結ばれるその先があるからいいんだけどさ。★★★☆☆
順番、などと思ったのは、慈悲深い分隊長の桂大尉がまず彼らに教え込むのが、「強くなければ淘汰されていく。強くなければ飛行機乗りにはなれない」という言葉の、真の意味を、前半のシークエンスで実に残酷に思い知らされるからなんである。
理不尽だけがまかり通る軍隊という生活。物語冒頭にバッターと称される根性棒が登場したのには、マンガでしか見たことない……これはコメディなのかしらん、と思いかけたところに、半端ないケツバットをただただくらわす鬼教官にマジで呆然とする。
むしろそれならばまだいい。全員が平等に受ける理不尽さだから。彼らの中には体力のあるなし、通信の得意不得意、様々な実力の差が当然生じる。それが押しなべて連帯責任になってしまう。しかもそれが、食事抜きになり、あいつのせいだとなり、その体力のない少年が気の弱い子となると……もう結果は目に見えているのだ。
そう、最初の残酷な事件は、一度も空に舞うことさえなく自ら命を散らしてしまった風間。その時に桂は改めて言うのだった。強くなければ淘汰されていくのだ。それがこういうことなのだと。
でも……強くなって、飛行機乗りになったら、前線に送り込まれて命をさらすのだ。しかもこの時点ではまだそんなムチャな作戦は重視されていなかった特攻というものが、体力があり、通信に強く、つまり成績がいい優秀な男の子たちがここまで“生き残った”ゆえに、“死んでいく”んである。これ以上理不尽なことがあるだろうか。
なんてことを言いながらも、そして厳しい軍隊生活ながらも、思春期の男の子たちがわちゃわちゃ暮らすのだから、どこか男子校を覗き見るような楽しさがある。先述したようになんたって西郷輝彦と谷隼人である。顔が濃すぎる(爆)。
西郷氏演じる和久は、周囲に目が行き届いている公平な正義感の持ち主という感じ。谷氏演じる庄司は駄々っ子みたいにヒネくれて、何かといえば突っかかってくる感じ。
班の中には、自分こそが誰よりも先に飛行機乗りになって命を散らすんだと、鼻息の荒い男子もいて、彼の目から見たら根性がなっていない同僚たちに憤ってやたらと仕切りたがるのだが、これまた理不尽な残酷さなのだが……彼は通信の能力がめっちゃダメで、転属という名の淘汰を受けてしまうんである。
後の目から見れば……そのために彼は生き延びることができる。飛行機に“乗れない”のだから、人間爆弾に“なれない”のだから。のちの目から見ればラッキーじゃんと思うが、この当時の少年たちにとってはこんな屈辱はない、というのがあまりにもあまりなのだ。
戦死した兄貴のために、自分も飛行機乗りになって、敵機にぶつかるんだと、それだけが人生の最終目標のように言っていた彼が、淘汰され、転属先でかつての同僚と出会った時の卑屈なこそこそ感が忘れられない。
かつての仲間たちは純粋に彼との再会を喜んで、そして……「確実にお前の方が長生きするんだ」と遺品を預けるのだ。しかもまるで楽しい話のように明るく笑いながら!!
……なんかもう、いろいろ理不尽なことが多すぎるのでなかなか先に進まない(爆)。そうそう、西郷輝彦と谷隼人である。西郷氏演じる和久は大家族で、しかも隣の家の娘さんとこっそり恋仲なんぞにもなっていて、彼女からの手紙が連帯責任になっちゃったりっていう事件もあるのだが、しかしとにかく、幸せな家族環境なんである。
対照的に、谷氏演じる庄司の方は母親が再婚した義父との折り合いが悪く、母親が休暇先に会いに来てくれた時にも、素直に母親の心配を受け止められない。
昭和、そしてこの時代である。女は、子供を持つ女は、自分以上に子供のために望まぬ結婚もしなければならなかった時代である。
面白いことに、庄司が憎んでしようもないこの義父というのが、会話の上だけで姿を現さない。和久から諭されて特攻の前に里帰りした時、義父は持病で危ない状態にあって、庄司の血液型が輸血に合致したことで、あんなににっくき相手だったのに、彼は義父に血を与えた。
でもさそれは……母親のためだったんだよね。自分は死ぬ。明日の昼前にはこっぱみじん。でも自分の血は義父の体の中で生きている。それが母親のために嬉しいのだと。……ちょっと義父がかわいそうになってきたりもするけど(爆)、まあそれだけキチク義父だったんだろうしなあ。
休暇に家に帰りづらく、庄司が和久の家を訪ねた時の、あの幸福すぎる大家族が、だからこそ庄司は心満たされたし、和久からの里帰りをしろよ、という説得に素直に応じたわけなんだけれど……。
幸福な幸福な、幼い弟妹達がお兄ちゃんにまとわりまくり、お兄ちゃんの友達の庄司にもまとわりまくり、酒飲みで陽気な父親、しっかり者で明るい母親、もう理想中の理想だったのだ。
和久が死んでしまう運命にあっても、こんな幸せな家族に送り出されたのだと思ったら、幸福なのかもしれない、と思ってた。なのに……和久が出撃する前に、東京大空襲で家族全員が死んだ。隣の娘ちゃんも、彼女だけを残して彼女の家族も全員死んだ。
お互い思いを寄せ合っていたのだから、生き残ったのだから、この後二人で生きていければよかった。一人じゃない、と彼女は泣いて、和久の胸にすがったのだから。でも、でも、和久は特攻命令が出ているのだもの!!
もう一人、忘れられない青年がいる。藤井。細面の美少年。万葉集に詳しい青年。いや、文学青年なんだろう。
この予科練の訓練の中に、一つだけ異質に穏やかな国語の授業がある。飛行機乗りになって敵機に突っ込むことしか考えていないような熱血男子は、あからさまにこの授業を無意味と断じて、まともに受ける気もなく大あくびである。あ、そうか、これが庄司だわ……。
その中で藤井だけが豊かな感性と豊富な知識で、万葉集をそらんじた。無論予科練で、この時勢の中だから、兵士の詩ではあるのだが、可憐な草花の中に家族を思ったりする繊細なうたごころに、藤井は思いを寄せた。
戦争の役に立たないと反発してくる庄司に先生は、学問の機会を失われた彼らに対する慈悲の心と、豊かな心を培うことは決して軍人精神に反していないと言うのだが、軍人精神というのが、少なくともこの当時の軍人精神は、国のために人間爆弾になれとヘーキで言う軍人精神だ。
ああだからこそか、豊かな心を持っていなければ、ただの犬死にだ。犬死とゆーのは、敵を倒さず死んでしまうなんてゆーことではないと思いたい。
藤井の自慢のお姉ちゃんが、藤純子なんである。モノクロでも、だからこそ陶磁器のような美しさが際立つ当時の藤純子である。まともな時代だったならば……と藤井の才能を惜しんで国語教官が彼女に言う。
藤井が真っ先に非業の戦死を遂げた時、桂大尉はこの美しき姉に報告に言ったけれど……いや、報告はできないのだ。なぜか、それはヤハリ軍事的法規とやらに触れるのか。
でも思いつめた顔で会いに来た、弟が尊敬してやまない分隊長の様子で察しない訳にはいかないだろう。
……なんとなく、惹かれあっている雰囲気もある。桂が教え子たちの特攻を率いる形で出撃する時に、自分が似ていると彼が言った菩薩の木彫りを届けにくるなんてことさえ、したのだから。でも……こんな究極のプラトニックラブってあるかい!!
本作の主題歌が「若鷲の歌」でね、そらまあ、こないだまで朝ドラの「エール」を見ていたからさあ、この歌が当時の戦意高揚映画のために作られ、それは古関氏自身は深い現地取材もしたし、その歌そのものは傑作だからこそ、本作で改めて西郷氏がカバーして、全く違う意味合い、違う価値観として深く心に刺さる訳なんだけれど。
でもそもそも、この曲が大ヒットしたのは戦意高揚映画による訳で、それゆえに少年たちを無数に戦場に送り込んだことに古関氏が苦悩したことをあのドラマで、つらいつらい描写で見せつけられたから……。
本作で聞こえるこの歌は、戦意高揚なんて思わない、むしろそれに導かれた悲しい歌だから、余計に悲しい。戦意高揚としてオリジナルに使われた時の作品の描き方はどうだったのか、怖いけれど……観たいが、そんな機会はあるだろうか。
物語の最後は、特攻映画のラストはいつも、そうなのだ、実際の映像。だからこその、もう当然カラーの時代なのにモノクロ、机上の空論で特攻しかないと指示する幹部たちに桂大尉は反発するように、自分こそが率いて教え子の特攻隊の飛行機群を、いざなってゆく。
完ぺきなシンメトリーの飛行機たちが、女たちの涙をのせて、冷酷なまでに美しく、ゆっくり、ゆっくりと、点描までに小さくなって、雲間に消えてゆく。
そして、実際映像に切り替わるが、その粒子の荒い映像に彼らがつながるなんて、現実味がない。
彼らも、敵も、顔が見えない、ただただ爆発の中にこっぱみじんになる、ぐちゃぐちゃになる、彼らも、敵も、それが見えないのが、……ここで、特攻映画が続く中で、言い続けてきたけど、それこそがたまらない。★★★☆☆
なるほどこれはTUTAYA企画のアレですか。ここ数年、長編デビュー作を生み出す一角であり、脚本の賞でその書き手が監督になる場合がほとんどなので、監督が脚本を書くのが基本、それもオリジナルがさらに基本、と青春時代の頭でっかち映画ファンの刷り込みがいまだなかなか抜けない私にとっては、実に信頼しうるプロジェクトなんである。脚本の賞だというだけあって、挑戦的な、刺激的なテーマが多いし。
本作もご多分に漏れず。「哀愁しんでれら」とは上手くつけたものだと思う。シンデレラの物語は、なるほど言われて見れば単なる玉の輿に乗る女の話に過ぎない。しかも足のサイズだけで結婚が決まってしまう。
本作において、玉の輿というのが足のサイズと同じ意味をもって皮肉に描写される。つまり、開業医、男やもめ、その幼い娘はすっかり自分になついている、これ幸いとあっちゅーまに結婚した小春(太鳳ちゃん)を、その外堀だけを聞いたらば、浅はかなシンデレラね……と皮肉めいた目線で見てしまうのは致し方ないであろう。
しかしそこに、映画の上手い具合のカラクリがある。小春と大悟(田中圭)の出会いはいかにも運命的、なんである。大悟が慣れない酒を同窓会で飲まされて、あろうことか踏切の中で倒れて動けなくなっている。
そこに居合わせたのが小春で、当然彼女は彼を助けるんだけれど、それが100%”当然”ではなかったあたりがミソである。
のちに大悟から言われるように、「人が電車に轢かれるところを見たい欲求も人間は持ってるじゃないですか」という訳ではなかったとは思うが……あの時小春は、一度後ずさりしかけた、のだ。助けるための足が出かけて、躊躇した。それは彼女がその時、不幸のどん底にいたことが作用していたのは間違いないにしても、である。
祖父が倒れ、救急車で運ぶ合間に火の不始末で自転車店を営んでいた一階が全焼、さらに泣きっ面にハチとはよく言ったもんで、一夜の宿をと彼氏の家に行ったら、職場の先輩とズッコンバッコンやっていたところに遭遇した、その帰り道だったんである。
だからね、もうホントに、いろいろと小春は判断力が鈍っていたんだと、思うわ。小春は児童相談所に勤めていて、正義感のメッチャ強い女性。親の虐待はもちろん、自分勝手な思い込みで学校にクレームを入れるモンスターペアレンツに対しても唾棄するように軽蔑の思いを隠し切れない。
この時点では、まっすぐで責任感が強い、そんないい面しか見えてなかったのだが、実はその猪突猛進が、多面的に物事を見ることができないという致命的欠点があったことをあらわにしていくんである。
少々オチバレで言っちゃうと、ネグレクトが疑われる母子家庭のもとを訪問した際、もう小春はそうとしか思ってなくて、このバカ親を引きずり出そうとしか思ってなくて、暴力を振るわれたと訴えられてしまう。
のちにこの親子に公園で再会するのだが、ネグレクトかと疑われた娘ちゃんと仲睦まじくブランコで遊んでいる。仲の良い親子なのだ。もうその時には小春は心がねじくれまくっていたから、ブランコに乗った娘ちゃんをランボーにこがせて、娘ちゃんは泣きじゃくり、母親にどつかれて、地べたに這いつくばった小春は、狂ったように笑い続けるんである……。
おっと、めちゃくちゃトバしてしまった。そうそう、運命の出会いとは思えたんだよね。小春は確かに心が弱っていた時だったけれど、小春を命の恩人だと言って高い洋服や靴をプレゼントしてくれたり、妹の受験勉強を見てくれたり、祖父の入院先を世話してくれたり、自転車修理工だった父親が店の焼失で困っていたところを、納棺師の仕事を世話してくれたり、とてもいい人。
家族ぐるみでみんな彼にホレこんじゃって、冗談交じりの小春との結婚話が何より大悟自身が乗り気になったのは、”難しい子供”である彼の一人娘のヒカリが、小春にすっかりなついちゃったから、なんである。
後から思えばひょっとしてそれは、この恐るべき少女、ヒカリの策略だったのかと思わなくもないが、判らない。
確かに小春は職業柄、そして小さい時に母親に出て行かれて以来、母親代わりとして家庭を支えていたから、子供を扱うすべは確かにあったのだ。
でも……判らない。このヒカリという少女が、本作の大きな大きなポイントになる。顔つきがさあ、絶妙なのよ。初めて小春と顔合わせした時には、パパの後ろに隠れて様子をうかがう内向的な少女だった。それが小春の絶妙なリードで心を許し、無邪気な笑顔を見せるようになった。
晴れて小春と大悟が結婚し、彼女の母親となってから、不穏な空気を見せだした。赤ちゃん返り、明らかなウソつき、べったりの甘えだったのが、次第に見せる小春への敵意……ヒカリを演じるCOCOちゃんの不敵なお顔立ちが、天使から悪魔に突き落とされる時、本当にゾッとする。何この子、すげー子出てきちゃったんだけど!!
でも、ヒカリは、小春や、観客が疑うすべての罪を犯したのだろうか。そこが……。
結局はさ、大悟なのよ、すべての元凶は。優しい笑顔、娘を愛する父親、小春にプロポーズした時にも、「ヒカリにも母親が必要だと思うんだ」とうまいこと滑り込ませた。その前段の台詞で、「小春は26だけど、俺は41だし」と絶妙に年齢的焦りをにじませるズルいやり方。
確かにこの時、フェミニズム野郎の私はそう思っちゃったのに、田中圭演じるやさしさ柔らかさについついほだされて、心の中のツッコミを引っ込めてしまった。ああ悔やまれる。
そうだ、最初から彼は言っていたのだ。世界中で一番大事なのは娘、つまり娘のために小春と結婚するのだと、最初から明言していたではないか。
いや、それならそれでもいい。人それぞれ、大事なものは違って当然だし。その中ですり合わせて結婚とか生活とかはある訳だし。
ああだからこそ、小春がそれを自覚していなかったことが悪かったのか。それはあまりに酷ではないか。
一見、非の打ちどころのないように見えた大悟のほころびが、徐々に見え始める。娘可愛さの点で見えてくるのは当然ながらも、それ以外でも……。
家庭教師をかって出ていた小春の妹に、受けようと思っている大学に対して、そんなバカ大学クズだとか、ヘーキで言ってのける。
しかも次第に高圧的になるのは、のちに小春が経験することになる、ヒカリの告げ口によって激高したシークエンスで明らかである。
この展開に至るまでには、もう判りすぎるぐらい判ってるのよ。この夫が、この娘が、なんだかおかしいってことが。
ヒカリの同級生の女の子が転落死する。ヒカリの好きな男の子と仲良くしていたくるみちゃんである。決してくるみちゃんはヒカリに意地悪していた訳じゃない。
ヒカリは孤立していたけれど、かわいそうな女の子を自作自演していて、先生も困っていた。小春の心づくしの弁当も「お母さんが作ってくれない」とウソをついていたことを小春はのちに知って茫然とするのだが、娘を信じ切っている夫にそのことを言えもしないなかでの事件だった。
その事実が明るみになったのは、またしてもヒカリのウソで小春と大悟が学校に乗り込んだ時、突き落とされたのを見た、と言い出した、男の子の証言によってだった。
その男の子は、ヒカリが好きな男の子だと小春にナイショで打ち明けた子で……ヒカリに手を焼いていた小春が子供のナイショ事ぐらいに思っていたのか、大悟にそれを告げちゃったのをヒカリが聞いている場面でヒヤリとした。
子供は本当に信用した大人に打ち明けた秘密をバラされたら、絶対に、その大人を許さない。そんなことは、子供時代を顧みれば判りきったことなのに、大人になってそれを忘れてしまうと、簡単にその禁を破ってしまうのだ。そのことが地獄の道行きだとさえ、知らずに。
ヒカリは果たして、本当にくるみちゃんを突き落としたのだろうか??決定的な場面は描写されない。ただその時、教室にはもう一人、眼鏡女子がいて、突き落としたのを見た、と言った男の子は恐らく校舎の外にいたんだろうと思うんだけれど、その眼鏡女子ちゃんがいたよね、と記憶に残っていたことがずっと気になっていた。
くるみちゃんのお葬式にワガママ全開で赤いスニーカーを履いていき、ファミレスでゲームに没頭しながら、「くるみちゃんは私の邪魔ばっかりするんだもの。だからゲームオーバーになっちゃったんだね」と唇をゆがめて笑うヒカリに、そりゃ小春のみならず観客も、誰もが、コイツ、やっぱりやりやがったな、と思うではないか。でも、……。
そもそも小春は、お弁当を捨てられたり、手製のペンケースを盗まれたとウソつかれてトイレのつまりから発見されたりして、でも娘第一の夫にはあしらわれ、しまいには罵倒され、追い詰められていく。しかもその間、そのダンナの異常さにも気づいていっちゃう。
秘密部屋の中には彼の宝物が満載されている。別にそれはいい。そんなものは誰にだってあるだろう。でもその所蔵された品々は……。
絵心のある彼が実に30年間書き溜めた素っ裸のセルフポートレイトをずらりと貼りつめ、かつてのペットのウサギのはく製に頬ずりをする。
今描いている、新しい家族の肖像画は、いずれは色を入れるつもりなんだろう、そうなんだろう!!と必死に唱えたくなる、白目むき出しの不気味な三人の肖像画であり、しかもヒカリの腕にはそのはく製のウサギが抱かれているんである。
……嗚呼。狂った男のもとに、来てしまった。この部屋の異常さを見られて、彼がうろたえてくれたならよかったのに、大悟は、あれ、見ちゃった?完成したのを見せて驚かせようと思っていたのに、テヘペロ、ぐらいな、事態の異常さをわかっていないのが恐ろしいのだ。
結局、ヒカリは本当にくるみちゃんを突き落として殺したのか。判らない。判らないけれど、噂はあっという間に広がる。豪邸の窓に落書きされる人殺しの文字、ガラスを破って投げ込まれる石。
ヒカリを信じている。でもどうしたらいいのか……一度はヒカリを激情のまま殴った小春に激怒し、彼女を追いだした大悟だけれど、出会いの時のように、踏切に倒れている彼女を抱き起した。帰ってきてくれと、言った。帰ってきてしまったことが、間違いだったと思えてならないけど……。
恐ろしいことを、小春は思いついちゃう。彼女の父親は糖尿病もちで、常に自分でインシュリン注射をしていた。たった一ミリ間違うだけで死んじゃうんだぞと、世間話で話していた。病気でもない子供たちには関係のないこと。いやだからこそ。うわっ。
耳打ちした妻の提案に、夫はあろうことか、感謝の涙を浮かべて、真っ赤な目をして妻を抱きしめる。そして……天使の白衣をまとった二人は、インフルエンザ接種をする校医として子供たちに次々と毒を注射し、廊下に、教室に、下駄箱に、累々と倒れる子供たち!
その接種の場面で、あの眼鏡女子、現場にいた女の子が、小春に手紙を差し出すのだ。絶対、私も見てました、という内容だと思った。なのに……
「ヒカリちゃんは殺してません。」まさかの内容。それは、真実なのか。あるいは彼女もまた、学校で孤独な女の子が故の、かばいだてなのか。
判らない!判らない!!天使にも悪魔にも見えたヒカリの、演じるCOCO嬢の恐るべき万華鏡のような芝居に、マジ判らないよ!!★★★★☆
主人公の玉井景は決してイヤな人間だとか、間違った方向性の感覚を持っているとかじゃない。仕事はできるし向上心もあるし、言ってしまえば実にまっとうで、むしろ魅力的な女性だ。
なのにふとしたことでひっくり返る、とまでは行かないまでも、ふとひっかかる。それが積み重なる。ひょっとして彼女はとんでもなく傲慢で横暴な女なんじゃないかと思えてくる。
決してそうじゃない。ごく普通の、自分の信念を大事にしている女性なのだ。なのにそのちょっとした積み重ねが……ああこれが、まさに現代では響くのだ。ちょっとしたイメージ操作でとんでもない人間にあっという間に転落する。実に簡単に炎上する。そして蹴落とされる。
その時彼は彼女は、どこからそうなってしまったのかを必死にさかのぼって探ろうとするけれど、その時目の前で、かつての自分のような純真な向上心を持った人間に出くわすと、その果てしないどこからに絶望をさえ覚えるのだ。
ああなんか、観念的なことばかり言っている。とにかくつぶさに見ていくしかない。景は30代半ば、といったところだろうか。テレビ制作会社で忙しく働きながら、いつかは自分の企画で番組を作りたいと、企画書を出しては簡単に却下される日々を送っている。
それは彼女よりもずっと年若い同僚の男の子もそうで、お互い目を見かわしながら、こんな日々がいつまで続くのか、でもいつかは、と年齢も性差も超えた同志のような気持で、つまりはこの職業にやりがいを感じているんである。
景はヨシ君という恋人と同棲している。物語の冒頭はいきなり、彼とのセックスである。しかも昼日中の、事務的なというか義務的なセックス。だから最初、二人はなかなか子供が授からない夫婦で、タイミングをはかって生殖行為にいそしんでいるんだと思った。
半分は当たっている。二人はまだ夫婦ではない。ヨシ君はなぜか、結婚するなら子供が出来てから、と彼女の両親に挨拶さえも行っていない。景の方はそんなあいまいな彼の態度にイラつく一方、確かに結婚はしたかったのかもしれないのだが、子供は……。
もう冒頭で判っちゃう。セックスの後に彼女が飲んでいる錠剤がなんなのか。でもそんなこと、やる必要はなかったのだ。だって彼は無精子症だったのだから。
それは大オチも大オチ、衝撃のクライマックスで明かされる。景はもちろん観客だって、なんでそれを先に言わないの?セックスしたって子供は出来ないじゃん、と思うのだが、その考えこそがなんと残酷なことなのかと気づいて、戦慄するんである。
彼はなんと想像妊娠するまでに追い詰められていた。結婚したら子供が出来なければ。女性は子供が欲しい筈、という考えこそが昭和的古さなのかもしれんが、景のことが大好きで、結婚したくて、彼女との子供が持ちたいと思っているのは彼の方だということに想いが至ると、もうなんというか……。
ここを大オチに持ってくるまでに、じわじわと、景が追い詰められていく展開が、圧倒されるのだ。景の企画がネット番組に採用される。プロデューサーを任せたいとまで言われるんである。自身の勤める製作会社の中では簡単に握りつぶされていた企画を天才かというばかりにおだてあげられて、景はすっかり夢見心地である。
外部からの発注、というのがより彼女を舞い上がらせたのだろうと思う。ほら、客観的に見れば私って才能あるでしょ、とまで露骨な描写じゃないにしても、自身の所属先でくすぶっていた彼女が舞い上がった気持ちは判らなくもない。
でも結局、同じなのだ。企画を面白がったり採用したりするのも、気まぐれで、プロデューサーというのも名ばかりで、あっという間に業界ずれした構成作家による無難で凡俗な内容に書き換えられてしまう。
最初こそ景をもちあげまくっていた発注先の男性は、彼女が彼氏持ちだと判ってから明らかに態度を変えるクズヤローで、それ以降は売れっ子構成作家の言いなりになり、景を明らかに軽視し、蔑視し、もう勘弁してよ、という態度に掌返しである。
そこにはある事件があった。景が目を付けたトランスジェンダー、FtMの金井。宅配業者として出入りしていた金井、美少年だと噂されていたのが実は女性、そしてトランスジェンダーだと知った景は自身の企画にスカウトするんである。
金井からカミングアウトされた時、「むしろいいよ。流行ってるじゃない」と何気なく言った台詞は、後に金井が反芻しなくても、観客にざわりと感じさせるのには充分な間とタイミングをもって響いた。
こういうところが上手いと思う。景自身は気づいていない。むしろ自分は理解していると思っている。発注先から腰砕けの却下を下された時、彼女はいかにも正義をもって憤るけれども、そもそも“流行ってるじゃない”てことで、手ごたえを感じていたのだ。
金井が共同経営しているバーの、常連客である議員の義憤につられる形でその経過を喋っちまったことはいかにもマズかった。仲間を裏切ったと発注先から大クレーム、プロデューサーというのが次第に名ばかりになってきたのもあるけれど、もはや一体何のためにこの企画を、この番組を作る意義があるのか、というところまで追いつめられる。
彼氏のヨシ君はね、元芸人。彼女いうところによると、勝手にやめちゃったと。ヨシ君は今、飲食業に就いていて、不安定なバイトさんの穴埋めに入ったりして、なかなか大変そうなんだけれど、景から見たらうだうだしているように見えるらしい。
景の持ち込む価値観は、自分の仕事へのプライドと、自由に生活設計したいという欲望である。景は、恋人と同棲すべきじゃない人間だということなのか、あるいは、年齢的に微妙に古い、昭和的価値観を持っちゃってるのか。
男がプロポーズすべき、両親に挨拶に行くべき、まず結婚してから子供のことは考えるべき……。仕事に邁進していてバリバリ働いている景だけれど、都合のいいところだけ男に寄りかかる昭和的価値観がちらちらと見える。
だからこそヨシ君は想像妊娠までしちゃうぐらい、追い詰められちゃったんだなあ……男の想像妊娠、あまりに滑稽だけれど。
あまりに滑稽だからこそ、あまりに辛い。それに同情する女子が現れる。夫婦がお世話になっている産婦人科のナースである。すべての事情を知っている上に、芸人時代のヨシ君のファンなんである。
これは……ヨシ君にとって、どちらの女性も自分を追い詰める存在にほかならず、だったら景のことを愛しているんだから。でも、苦しくて苦しくて、彼は景に別れを告げるのだけれど……。
やっぱり印象的なのは、FtMの金井とその彼女である紗希子。そしてダークホース的な支え方をするのが、景がヨシ君の元を飛び出して身を寄せる、椿である。
外国人の夫との間に二人の幼い子供を抱えて、景をあたたかく迎えながらも何か言いたげである。景は気づいているのかいないのか、とりあえず自分のことで手いっぱいで、椿の好意に甘えるだけで……。
このあたりになってくると、景のあぶなっかしさが、自分はどうだろうと反映させる形で、判ってきちゃうんだよね。最初に言ったように、景は決して決して、ダメ人間じゃない。普通の、むしろ向上心のある女性である。でも、ある状況に陥ると、彼女と接する他人を通して、最初は少しずつ、次第に積もり積もったほころびが見え始める。
それが、本当に恐ろしいのだ。ネット上だけじゃなく、炎上ってこういうことなんだと。他人かかすかに感じ始めて、積もり積もっていく不満、鬱積。
椿は言ったのだった。もうちょっと他人のことを考えた方がいいよ、と。自分と関わる他人のことをと。それは、他人側からすれば甘えた言い分だと言えるかもしれない。それぞれ個人個人生きているのだからと。
でも自分自身生きているという自負の元に、他人に甘える、どころか利用すると思わせるような自身は気づいていないにしてもな傲慢さで、ああ自分だけが悩んでる、自分だけが追い詰められてる、自分だけが理解されていないという態度だったということを自覚していなかったということ、なのだと、うわー!!
本当に、本当にこれは、誰もが、地球上のすべての人間が陥る危険のあるトラップである。景がかつては親しみやすい先輩として後輩たちに声をかけられていたのが、いつの間にか後輩たちがしっかり足場を固め、自分が空回りしていることに気づく場面がじわじわと増えていくことに、本当に恐怖を感じる。
そんな景を理解し、支え、時にはかくまってくれるのが恋人のヨシ君であり旧知の仲の椿であったのに、彼らの悩みなんて思いもよらず、自分自身の悩み大爆発で自分かわいこちゃんで、寄り添っちゃう。そりゃ愛想をつかされ(かけ)ちゃう。
先述したように、そんな人間は出来てないよ。だからこんな風に、自分だけが大変、悩んでる、話聞いてよ、慰めてよ、癒してよ、というモードになっていることに、気づけない。
気づけてない、っていうことを、景という、決して責められない、むしろ出来てる女性に背負わしたことに、まーじーかー。そんなことされたら、ほぼすべての勤め人女性は路頭に迷うわと呆然としつつ……でも、ちゃんと優しさに満ちているから。
浅い知識と価値観、商売人の嗅覚で金井に近づいた景を、金井も、金井の彼女の紗希子も、しっかり彼女のダメな部分を指摘しつつ、彼女のために動いてくれる。
それは、性的マイノリティに対する理解のなさを、まさに景を通して改めて浮き彫りにさせ、何よりじーんとしたのは、紗希子が、金井のそもそもを、最初を聞いてくれた、興味を持ってくれたことが嬉しかったと言ったことでね。
そらまあ景はやっぱマスコミ人だし、下世話な興味が、流行りだから、という言っちゃいけない表現になったのだろう。でも興味を持たなきゃ。流行りなら流行りでもいい。そう思ったからこそ、一度は断ってきたくせに、ドタキャンでピンチになると都合よく声をかけてくるってなことでも、悩んで悩んでも、金井は出てくれた。
あれだけトップの意向をうかがい、今の若い人にいきなりLGBTはなあとか信じられないぐらいカビの生えたことを言っていたお調子者のディレクタ―も、金井の魅力にあっさりてのひら変えて、いいね!連発しちゃうんだから呆れて笑っちゃうよ。
全然、上手く言えてない。絶妙に配置されている景の周囲の人たちの抱えているあれこれを、全然私、書けてない。でも人間関係って、そういうもんなんだと思うけれど、ひとたび自分が、こんな具合にどれだけ横暴で、自分勝手で、他人を利用していたんだと思い知らされると、ほんっとうに、絶望するのだろう。
ヨシ君と、元に戻ってほしいと思う。三週くらい回って、二人はめちゃくちゃ、お互い好き合ってるじゃないの!!それを家族とか、子供が出来るとか、子供が欲しいとか、年齢的にどうとか、それは確かに昭和、平成まではあったと思う。でも令和はないよ!てか、なくすよ!!みんなでなくさなきゃ!!★★★★★
だってこんな面白い話、すぐに誰かが手を付けていそうなのに、なぜそのままだったのか。ヤハリ将棋という、判る人には判るけれども、というあたりのハードルだったのか。
それが近年、あの若き天才、藤井聡太棋士が現れ、将棋を題材にした漫画、そこからアニメ、更に映画に発展した「3月のライオン」、「聖の青春」、「泣き虫しょったんの奇跡」も記憶に新しいし、次々と、将棋が判らなくても面白い作品が生まれ出るに至って、これがあるじゃないか!と目を付けた、山田監督はある意味早いもの勝ち、だったかも!!
将棋ソフトは本作で描かれるAWAKEだけじゃないし、電王戦では数々のソフトが棋士と対戦した訳だが、その中でAWAKEが取り上げられたのは無論、ソフトを開発したのが元奨励会所属の棋士だったこと、そしてAWAKEに勝った棋士が、ソフトの既知の弱点を露骨に突いたこと、という二点があった訳で。
奨励会所属の棋士がソフト開発というのも充分過ぎるほど刺激的な題材だが、後者に関してはあまりにドラマチックだから、創作かと思っていたらマジだったのか。マジか……。
そらまあ映画に起こすに際して肉付けはあったに違いないが、これは相当にドラマだ。なぜ手付かずだったのか理解に苦しむほど。そしてまさに山田監督は空前の将棋ブームの中でしっかりとそのチャンスを手にした訳だ。
そして俳優陣も旬どころ揃えまくりである。吉沢亮、若葉竜也をツートップに、個人的には一番のツボだった落合モトキ、寛一郎と揃える。
吉沢君に関しては彼を未見だった時点で「キングダム」でアカデミー賞なんかとっちゃってはぁ??と思ったもんだが(爆)、その後続々と出演作に遭遇し、時に狂気さえ覚える芝居力(演技力というよりは)に散々ノックアウトされまくっているのでごめんなさい……という気持である。あの端正な顔のどこに、歪んだエネルギーや狂気が潜んでいるのか。
本作の、奨励会に入ったものの退会、普通の学生生活を送ろうと頑張って大学生になるものの、将棋以外を知らなくてぎくしゃくしまくる青年、清川英一が本当に見事。
幼い頃、奨励会に入るまでは、自分が一番将棋が上手いと思っていた。誰にも負けないと思っていた。なのに奨励会に入ると、同じ年頃の強い奴らがごろごろいて……というのは、先述した、数々の将棋をテーマにした漫画やアニメや映画で描かれていたところなのだが、それを認めたくない、プライドが高い英一を、吉沢君はじっつに、粘着質に、気色悪く演じ(爆)、端正な顔だから余計に気色悪く(爆爆)、お見事!と言いたくなるんである。
ダッサイデザインの眼鏡がずり落ちるのを何度も何度も押し上げる、そのカチャリという音さえキショッ!と思っちゃうような(爆)。
将棋をやっていれば。そこで勝ててさえいれば。外からどう見えようと関係なかった。それだけが存在意義だったから。
でもその英一の前に立ちはだかったのが、同時期に入門した浅川陸だった。自分だけが、という殻に閉じこもっていた英一は父親から友達出来たか?と聞かれても、友達作るために行ってるんじゃないから、とクールに返すような子供だったが、陸は違った。最初から英一に親し気に話しかけ、奨励会の中でも明るく仲間が多く、英一はそんな彼を、嫌っていた訳ではないだろうけれど、でも宿敵だった。
だって強かったから。ただ、陸に勝てたのは英一だけだった。粘りに粘って競り勝ったのは、英一が陸にだけは絶対に負けたくないと思った執念だったのかもしれない。
この勝負は英一が思う以上に陸に傷を与えていたのだろうと思う。その後、英一が自分の実力を思い知って昇進トーナメント途中で退会した時、陸はずっとその不在を気にし続けていた。言ってみれば、勝ち逃げしやがったと思っていたのかもしれないし、ただ一人のライバルを失った孤独を思っていたのかもしれない。
孤独。孤独は一つのキーワードかもしれないと思う。一対一で盤に向かい合う棋士はそれぞれに孤独だが、その相手がいるからこそ成り立っている。その意味では究極の同志を得ているとも言える。
究極の同志だと思っていた相手がふいに消えた時から……陸はただ一人になってしまったように思う。盤の向こうにはいつでも対戦相手はいる。でも彼が思うライバルじゃないのだ。どんどん陸は勝ち続け、若くしてタイトルもとりまくる。でも満たされない。
一方で英一は、これまた満たされない大学生活の中で、ふっと運命の出会いを果たす。
ところでね、英一は父子家庭、なんだよね。特にその事情を明かされることなく、父親との二人暮らし生活が描かれるだけなんだけれど。
そして英一に将棋を教えたのは父親であり、父親は、本当にシンプルな将棋ファン、なのだ。将棋は楽しい。だから息子が興味を持ったことが嬉しくて教えた。息子が強くなって、奨励会に入れたことは彼の誇りだっただろう。でも、「友達を作るために入った訳じゃないから」と幼い息子が言った時、父親はそうだよな……とはつぶやいたものの、これでよかったのか、という思いは抱いただろう。
将棋は楽しいものだから。このテーマは後に明確に示されるが、クライマックスまではただただ辛いもの、闘うためのもの、プロの厳しさ、それに徹底される。当然プロとして、将来性ある若手棋士として嘱望される陸に関してはそれは徹底されている。
ただ、そのほころびが先に見えているのは意外や意外、陸の方だったように思う。陸は英一に対して、もちろんライバルだけど、強いからこそ対戦してめちゃ楽しい、将棋が楽しいと思える相手として接していたんじゃないかという気がする。
英一は、自分では気づいていなくて、ただただ陸をライバル視してるばかりだったかもしれないけど、でも英一もまた、そうだったんじゃないかと思う。
その相思相愛が、立場を違える形で、じりじりと見えてくる、ソフトと棋士との対決という姿で見えてくる展開がたまらないのだ。
英一がなぜソフト開発に至ったのかという経緯もしびれる。息子に将棋と出会わせた父親が、でも人生を狂わせちゃったんじゃないかって悩んでて、息子の目に触れないようにこっそり将棋ゲームを楽しんでた。
英一は大学生活にも慣れなくて、つまんないコンパに荒れてケンカして、警察の御厄介になった。父親が迎えに来て、家に帰ってこんこんと眠っていた。
そして目覚めたのは、「よろしくお願いします」対戦前に挨拶する、ゲームの音声。まるで天の啓示のように目覚めた。父親がパソコンの将棋ゲームをしていて、息子が起きて来たのを見て慌てて閉じようとしたけれど、英一は気を使わないでよ、とイラついたもんだから、父親はそっとゲームを続行した。
英一は目を奪われる。「なんだ、この手……強い……。」見たこともない独創的な手、そして強さ。あらゆる過去の対戦を頭に刷り込んでいる彼にも見たことのない手が繰り出される。
それは英一にとってまさに理想の将棋。父親から教えられた、そしてこれこそが大事なことだと、将棋は面白いのだと、だからみんな夢中になるし、無限の可能性があるんだと示した、こここそがクライマックスだったのかもしれないのだ。
そして、英一は数あるサークルのチラシの中から、勧誘のやる気ゼロな雰囲気で撒かれていた人工知能研究会の門をたたく。ここで出会う先輩、磯野を演じる落合モトキがマジ最高である。
彼はいろんな作品で印象的に見てはいたけれど、一番の存在感。まずその独特の風貌、遊び毛の感じのヘアスタイルとダルダルしたファッションといい、人目を気にしていないのに英一のようにダサくない、不思議にあか抜けていて人を惹きつけるチャーミングさに目を奪われるんである。
将棋ソフトをどうしても作りたいんだと懇願する英一に、どっかどっかと専門書を積み上げて暗記して来いと突っ放す。どうせムリだろと思っていた訳ではないと思う。食い下がる英一の気迫を本気だと信じたからこそ、賭けに出たのだ。
こんな楽しい賭けはない。だってそれまではたった一人、この研究会で孤独を楽しんでいたのが、孤独も確かに楽しいけど、同じ孤独を共有できるだけのパワーをひっさげた子分候補が現れたのだから!!
見た目もキャラも対照的だけど、ひょっとしたらこの二人は似た者同士だったのかもしれないと思う。専門的なプログラミングをズブの素人状態からどんどん吸収していく英一を、目を細めて眺めている磯野がマジたまらんのだもの。
AWAKEを開発して、大会で優勝した時、既に磯野は独立起業していた感じだった。特に明確には示されなかったけど、オシャレな事務所に通されたダルダルなカッコの英一に、学生さんは大変だな、みたいに声をかけていたから。
ああ、もう、そういう時代なのだ。能力のある人は、どこかに所属する必要などない。その能力だけをひっさげて、勝負していくのだ。
それは将棋の世界がまさにそうだった。そこから英一は落ちてしまって、どうしていいか判らないところで、この素晴らしき先輩と出会った。
AWAKEの開発は、誰かに勝ちたいというんじゃなくて、ただただ楽しかったのだ。将棋はそもそも楽しいものですからね、と言ったのは、AWAKEと天才棋士との決戦が行われ、思いがけない結末を迎えた後に、英一と陸の恩師である奨励会の先生がもらした言葉だったのだ。
陸はきっと、そのことを忘れてしまった中にいた。英一はAWAKEを強くしていくことに夢中になる中で、そのことを取り戻していっていたけれど、でも本当に判っていた訳ではなかったと思う。
電王戦直前のイベントで致命的な欠陥が判ってしまい、でも時間切れで直せず、つまり弱点をさらしたまま陸との決戦に臨まなければならなくなったこの時点では、そんなことは頭になかっただろう。
でもその前。AWAKEが将棋ソフト大会で優勝した時、父親がめっちゃ喜んでくれて、もういいだろうと、英一が奨励会を辞めた時に捨てた筈の将棋盤と駒を渡された時、ぴーんと電気が通ったような気がしたのだ。
お前は将棋が好きなんだろう、将棋は面白い。楽しい。だから好きなんだろう、嫌いになる筈がない。だから今こうして、違う形で将棋に向き合っているんだろう??と、そんなヤボな言葉は言わなかったけど、なんかもう、あふれる言葉がそこにあったと思ったのだ。
直前のイベントで一般ユーザーに暴かれてしまったAWAKEの弱点を時間切れで直せず、陸に負けてしまう。陸は、めちゃくちゃ逡巡していた。そもそもAWAKEの強さに唖然としていた。いくらやっても勝てない。目の下にクマを作って、頭を掻きむしって。
棋士全員のプライドをかけるぐらいの気持ちだったのは、所詮将棋ソフトか、というプライドを見せながら実は戦々恐々としている棋士たちが挑戦してこないことへの恥じる気持ちと、何より英一に対する尊敬と喜びと、プライドが大きく作用していたのだろう。でも、ならばあの作戦の選択は……。
苦しい。苦しい選択。まともに対戦したら勝てない。そう思うことこそがプライドの崩壊だけれど、そうだったのだ。いわば卑怯な手を使って勝った。物議をかもした。
英一と同じく奨励会を退会して、今は新聞社の将棋記事を任されている中島(寛一郎)が、彼らの師匠に問う。将棋は楽しいものなのだ。ただそれだけを思って楽しめたらどんなに幸福だろう。
全然ジャンルが違うけど、高橋尚子選手がオリンピックで金を取った時、楽しかったと言って。
それはめっちゃじんじん来るリアルな言葉だったのに、たたかいの場で楽しかったとは何事だとか、あの時はなかなかに古い価値観がかなり残っていたこともあるけれど、そーゆー感覚が日本人にはいまだに残ってるんだなあと思ったことを思い出した。
試合が終わり、すべてが終わり、ある程度の時間も経ち、空港で英一と陸、そして陸の甥っ子が出会うラストシーンがヤバすぎる。陸の甥っ子が空港で将棋を指している。その時にはその場にいない“お兄ちゃん”が強いんだよ、という。英一は彼にアドヴァイスを授け、お兄ちゃんの出現を待つと……そのお兄ちゃんは、陸なのだ。
ああもう。そーゆー涙腺崩壊やめてくれ!実際泣いたけど!!だって、将棋は楽しいのだもの。英一のお父さんもだからこそ息子に教えたし、英一と陸が出会った時も、少なくとも陸はそう思っていたから楽しく時を過ごしていたのが英一の方がいち早く厳しさを身に取り入れていて……。
でも楽しいものなのだ。こんな手が来た!!そんなんあり!!そんなやりとりが、雑踏の空港の中でやりとりされる感動。
空港という場所がイイ。英一も陸も、それぞれ大人になって、携わる立場や職業が違う理由で、真の大人になってここにいて、でもそのことを一切言わずに、ただ将棋を、これからを担う未来いっぱいの子供を介して楽しむのだ。こんな素敵なことはない。
本当に、若手役者にやられた。吉沢亮、若葉竜也、落合モトキ。先鋭的な才能の刺激的なことといったら。この時代に遭遇してなんと幸せなこと。★★★★☆
私はてっきり、優子が主人公だと思って観ていたし、観終わるまでそう思っていたんだけれど、エンドロールのキャストクレジットで西田氏と市川氏の名前が真っ先に流れてきて初めて、ああこの二人が主人公だったのか!!と思った。
尺的にも展開的にも優子の方が圧倒的に主人公感が強いと思ったけど、作り手側の感覚はそうなんだ……なんか不思議。青春をしくじった大人たちの前提こそが大事ということなのかなあ。
いや、しくじったというのは適当ではない。のちに再会を果たす二人は、あの時、二人で店を出していたらどうだっただろう。でも私は今、幸せだよ、と言い合う。
当時は夢いっぱい、これが叶えられれば幸せになると100%思っていたことが叶えられなくても、二人は今幸せ。離婚してシングルマザーになっていても。いや、そんなことは今や珍しいことではないんである。
なんかいろいろすっ飛ばしているけれど、もう少し続けさせてね。この、“今や珍しいことではない”シングルマザーは、子供たちの側からも語られる。お父さんは?いない、離婚?ウチと同じだ。そんな風に。
その会話が交わされるのは、春子の家のダイニングテーブル。まさにタイトルとなる“青葉家のテーブル”だ。
オープニング、緊張気味に対峙しているのはリクの方。優子は若干気まずげだけれど、そこは年上の余裕である。
「2コしか違わないじゃん。タメ口でいいよ」というのは年上の余裕に他ならない。だって中学生と高校生の2コ違いは、決して“しか”なぞではないのだから。
そらー、40、50を過ぎてくれば、2コ差なんて同世代になっちゃうけど、ここでは明らかに違う。リクがそのこと以上に緊張しているのは、……こんなヤボなことは言うべきじゃないかもしれんが、一目ぼれ、的なものがあったんじゃないかと思われる。
中学生男子が年上の女性に。年上ったって高校生だけど。ああでも、中学生にとって高校生はたまらなく大人なのだもの。
という図式は、優子にとっても用意されている。しかしてそれは、色恋ではなく、大人の世界、仕事の世界である。
そもそも長野に住んでいた優子がなぜ東京にいるのか。あ、ここは春子とリク親子、そして春子の友人とその彼氏の四人で暮らしている東京である。優子は夏休みを利用して、美大受験のために東京の塾を体験レッスン的に2週間、受けに来ているんである。
春子と知世が学生時代親友だったから、というのはさらりと語られるが、なんとなく表情が硬い春子に、うーむこれは何かあるぞと最初から感じさせる。
しかしてこの奇妙な共同生活、いや、現代はどんな形だってありうるのだろう、気のおけない同士が最低限のルールを課して楽しく過ごす生活は、理想である。なかなかできないことが判ってるから、遠い目で見ちゃう(爆)。
そしてそこではヤハリ、食事が重要になるんである。全般そつなくあったかい家庭料理をこなす春子、タコスにどっぷりはまって、皆をげんなりさせるほどタコス三昧にするものの、その本格的な味は来客者をうならせるソラオ(忍成修吾)、ピンチヒッター的に任されるテキトー料理は、しかしこれが絶妙にウマいめいこ。見てるとお腹がすくばかり。
そして優子の母親は、自然派のライフスタイルが人気で著作はどれもベストセラー、テレビで取り上げられることも多い有名人である。
基軸は気取らない町中華店の経営に置いている。ムリしない、看板メニューであるはあちゃんライス以外は、定番の餃子やらなんやらの数種類が壁に貼られているだけ。なのにいつも超満員の人気店。
優子はこの有名人の母親がコンプレックスとなって、自分自身の道を見つけられないでいた。いろいろ試しはするもののどれもしっくりこず、でも絵が好きなことは子供の頃からゆるぎないものだったから、一念発起して美大受験のためのプレレッスンにやってきた。
一体どうやって、春子の家に居候するわたりをつけたのか。だって優子自身、母親と半年も口をきいていないということが、母である知世の口から明らかになるほどぎくしゃくしていたし、なんたって春子と知世は20年も絶縁状態だったってんだから。
春子のインスタを通じて……という台詞がちらりと知世と春子の再会の時にもれはするものの、あまりはっきりしない。そこらへんの雑な処理は少々気になるものの、優子の2週間の夏休みは、友情あり恋あり青春ありの盛沢山である。
美術予備校は、そんな名前が付されているのが不思議なほど、アンティークな雰囲気が居心地のいい、隠れ家のような場所である。優子は鉛筆を削るすべすら知らない。この最初の描写で、優子は決して、美術にどっぷりってコじゃないんだなと判っちゃう。
実際、この予備校で優子は最下位の落ちこぼれで、そもそも一緒に通っている瀬尾や与田たちと、こころざし自体が違いすぎることに直面するのだ。
いや……なんていうのかな。優子のようなスタンスでいいと思う。間違ってなんかいない。むしろ、まだ17歳かそこらで、この道しかない、と思い詰めて、優子とは違う悩み方をする瀬尾や与田こそが、こんな若いうちから道を狭めてどうすんの!!とおばちゃんは叱り飛ばしたくなっちゃう。
瀬尾はこの画塾のトップランナー。高校生ながらデザイン事務所のインターンに入っているほどの実力。優子と友達になる、ピンクの髪とバン!とむき出したショートパンツからの太ももといい、見た目からザ・クリエイティブガールの与田ちゃんは、実家の経済力から国立でなければと思い詰めて、才能のある瀬尾を敵視している。
劇中ではことさらに明かされなかったけれど、瀬尾君と与田ちゃんは、いや特に瀬尾君の方が、与田ちゃんにちょっとホレてたんじゃないかなあ、という雰囲気がある。
優子がね、瀬尾君ちょっとイイよね、てなことを最初から言うから、与田ちゃんは彼をライバル視していることもあって彼女自身はそうしたことを言わなかったけど、与田ちゃんはどうだったのかな……。
むしろ与田ちゃんは、優子との友情を本当に大事にしていた。優子がそれをないがしろにしがちなのを、観客側が歯がゆく思うぐらいであった。いや、私が女の子の友情大好きヤローであるからだろうが……。
優子が揺れ動いているのは、出来すぎている母親のせい。優子がそのことを吐露すると、それに参戦する春子はもう堰を切ったように止まらない。あの人のプロデュース癖が!と吐いて捨てるように言う春子に優子はビックリ。
同居している友達、めいこが知世のファンだと言ってテレビにかじりついたりするもんだから、春子は言えなかったのだが、知世の動向を、SNSから何から全部チェックしているというのだから笑ってしまう。
絶縁したっきり20年、しかし今、知世の娘が縁つなぎとなった。春子と同じもやもやを知世に抱えていると知った時、それこそまるで疑似家族がごとく、春子は腰を上げる気になった。
いやそれも違うな。自分自身がずっと目を背けてきた過去に、ようやくようやく、向き合う気になったのだ。
この2週間の間に、春子は濃密な時を過ごす。画塾だけではなく、リクたち同級生が結成するバンドにボーカルとして参戦。かつての人気バンド、 Chocolate Sleepoverの再始動に伴って、カバーコンペが行われ、優秀バンドはライブに招待される、という夢の企画。
このバンドこそが、親子世代をつなぐんである。春子と知世は本当に大ファンで、一緒にユニット組んでクリエイティブな活動をしようというその基軸になっていた。Tシャツや冊子やチラシを作ったり、二人がDJとなって架空のラジオ番組を収録したり。
わー、この架空のラジオ番組制作、やったわ、私も、ねーちゃんと。でもさこれって、大学生の彼女たちがやるというより、中学生的な幼さがある。だからこそ二人は、てか知世は、あー!!聞きたくない!!黒歴史!!と耳をふさぐのだけれど、だからこそ娘、優子の心の扉を開いた。
意を決して知世を訪ねた春子は、最初のうちこそぎくしゃくして、やっぱり駄目だった、やっぱり相容れない!!と思ってろくに話もせず立ち去ろうとするんだけれど、知世がぎっくり腰になっちゃったことで、捨て置けなくて、しぶしぶ手助けしながら時を過ごすと、過ごしていくと……。
確かにね、相容れない部分は今も昔もたくさんあるに違いない。でも、離れてしまった原因はそこじゃない。春子自身の弱さに向き合えていなかった。夢がかなうと思ったとたんにヒヨってしまって逃げてしまった自分に向き合えていなかった。
それは20年間、判っていたけれど、判っていたから、知世の傍若無人さのせいにして、ウロウロして……。でも知世の娘の春子が、まさに20年前の自分、それから20年間引きずり続けている自分と同じもやもやを知世に対して抱えていることを知って、突破口が開いた。
何がきっかけになるか判らない。大体、他人なんだもの。価値観が相容れないなんて当然だ。どっちが正解ってんじゃない。どうあっても、好きな相手は好きなんである。
そしてそれは、今現在の友情をはぐくんでいる優子にも訪れることである。見るからにタイプが違う、というのは、春子と知世以上に歴然の優子と与田ちゃん。でも見た目と内面は双方反対な感じ。
与田ちゃんはあんなに押し出しが強くて頼りがいがあるのに、まじめで、自分に自信がなくて、弱気な女の子なのだ。優子の方が一見そう見えるのに、優子は何一つしっくりこない、というナヤミの上で、いくつもトライ出来ている勇気の持ち主だし、大人の仕事場見学にも果敢に出かけていき、直球で落ち込むだけの勇気を持っている。
これしかない。これが出来なければもう私はダメだと思い詰めている与田ちゃんの目からは、優子が強く見えていたことが、今となっては判る。与田ちゃんはキャラやファッションで武装しているけれど、本当はとても繊細で優しい女の子なのだ。
優子の方がそう見えてそうじゃないことを、与田ちゃん自身がよく判っているから、苛立ったんだろう。ある意味運命の友情関係だが、優子の方が最後までイマイチ判ってない感じが歯がゆいのだけれど。
たった2週間の物語なんだよね。 Chocolate Sleepoverのライブは会場の外まで駆けつけて、音漏れもいただけず、でもにわかバンドの中学生プラス高校生一人、大人一人(メンバーの親、片桐仁!)はここに至って、バンドやりたい!演奏したい!!と爆発し、クライマックスは気持ちよさそうに演奏し、歌う。中学生3人、高校生一人、お父さん一人の全力演奏。
そして優子の夏休みは終わった。瀬尾君への恋心は、なんとなくで終わったが、彼女にとって重要だったのは、途中行きつ戻りつし、一つだけやりたいこと見つければいい、というところでいったん安堵したのが、決められない!!いくつもやる!!という、じっつにワカモノらしい、すがすがしい決着を見る。
なんか、ほっとしたな。瀬尾君や与田ちゃんの、この道しかない、っていう、それは彼らが確実な才能があるからこそ、陥りがちなヘンな責任感なのだが、決してそうじゃないんだもの。こういう場合、才能がうっかりあっちゃうとそういう縛りに陥りがちなんだなあ。
優子がそれを、反面教師(?ちょっと違うかなあ)的に、そうじゃないんだよと言ってほしい気がしちゃう。決定的な才能はない方が、いくつもの可能性がある。ちょっと、目からうろこの価値観かもしれない。
20年の絶縁を経て、ぶつかり合いながら知世と濃密な関係を取り戻した春子が、私、店をやろうかな。遅すぎるってことはないよね、とまるで思い付きのようだけれど、きっとずっとずっとやりたいやりたいと思い続けていたんだろうと思わせる台詞を口にする。
そんな春子の性格をめちゃめちゃ判ってるから、知世が最小の言葉で肯定してくれることが嬉しいんである。
2週間、たった2週間なんて信じられない濃密な夏休み。いちいちおいしそうな食卓、でも飽き飽きのタコスパーティー、ナイトプールでの女子飲み会、その続きの知世の録画を見ながらの女子たちの悪口会、画塾でのあれこれ、悔しさ、大人の仕事場、ドレスアップして参加したパーティー、もうあれこれ、あれこれが、10代、多感な時期、2週間、キャー!!である。
優子は東京を去り、故郷に帰り、母親と照れ臭そうに約束の会話をかわすのだろう。その後彼女がどんな選択をするのかは判らない。東京に出るのか、地元にとどまるのか、まったく違うところに旅立つのか。
場所だけじゃなくて。優子の興味の定まらなさは、逆に強い好奇心の表れと可能性だった。それを、若いうちはネガティブに考えてしまう。そうじゃないんだよと教え導くカリキュラムが必要だと思う。日本は特にないよなあ、そういう考え方こそが。★★★☆☆
考えてみればその始まり、交通事故が起こる冒頭の描写も、後からテレビのワイドショーか何かで再現でもされたのか、シュミレーションゲームのように走る車と横切る自転車の接触が、単なる人型の、しかもショッキングピンクの塗られた、CGというにも安手のカクカクとした動画で描かれる。
どーん!とぶつかったとたんに実際の画、オダジョーが血だらけになって倒れる場面になるが、そのべったりとした血がその続きで見てしまうとまるで芝居のように感じてしまう。
それはのちに彼の妻の良子が語るように、「私は見ていないのに、グシャッて一瞬で」彼の命が断たれたことが、見ていないのに、見ていたかのように頭の中から離れないという台詞と不思議に結びつく。彼女がもともとアングラ芝居に熱中していた女優だったという経歴も、その残酷な想像力と結びついてしまう。
息子の純平は何度も言い言いしたものだ。お母さんはなんで怒らないの。それなのに時々すごく悲しそうな顔をしている。それも芝居なの、と。あったりまえじゃん、あるいはそうかもね、とどちらにしてもけむに巻くように良子は言う。
怒らないだなんて。良子はとてもとても怒っている。ただそれを息子に見せないだけだ。怒るべき人に怒っているけれど、怒るべき人はいくら彼女が起こっても、薄ら笑いで、ハエを手で払うように聞き流してしまうのだ。
社会的弱者。その言い方は、現代社会の大問題のようにコメンテーターたちが眉を寄せて議論したとしても、その言い方は、どこかやはり、見下している。お前ら社会的弱者だろ、マトモな生活しようとしてんじゃねぇよ、という目線である。
それは子供社会にもまん延している。まだテメーで税金を払ってもいないくせに、純平の一つ上(一つ上なだけだ!!)の悪ガキ先輩たちは、被害者面すれば、売春婦でも税金使った公営住宅に住んでいいのかよ、と言い募る。
ガキが!!!申請して審査が通ればどんな人だって公営住宅に住めるっつーの!!ああでも、こんなガキみたいな論理を、それこそ大人が持っているからこそ、ガキどもに伝わってしまっているのだ。
この悪ガキたちは本当にヘドが出るけれど、巷にあふれているイジメ映画に比すれば、かなり記号化されていて、芝居も誠実だし(爆)、ああこれは、世間というものなんだなと判っちゃうんだよね。
先述したけど、最初は露骨と思えた実際の事件を思い浮かべさせるところから始まり、現代社会の様々な理不尽、社会的弱者と呼ばれる人たちがいかにその理不尽と不公平さにあえいでいるか、という日々報じられるあれこれの事件を想起させるものを、良子と純平というたった二人の母子に、あられのように振りかけるのだ。
そこに、良子のパートの時給、風俗の時給、ダンナの友人たちとの法事の会食の会費、同僚の風俗嬢との飲み代、エトセトラエトセトラ……日々かかってくる数字が、都度都度画面にデジタルチックに表示される。これが彼女の、良子と純平の生活のすべてです、とでもいったような。あるいは、この一組の母子をモデルケースにして、データを取ってます、みたいな。
もともと良子はカフェを経営していた。段々と判って来るけれども、理不尽に死んでしまったダンナはうだつの上がらぬロッカーで、「トップのトップを目指す」と言い続けて、こんな目にあってしまった。
しかも女たらしで、愛人に産ませた娘がおり、良子はその養育費も払っている。ダンナの父親の施設入居費も負担している。うわー、ムリだムリだムリだ、こんなん、マトモな生活できる訳ないよ。
てなわけで、良子は昼のパートタイムのほかに、風俗でも働いてる。本番はなく、フェラが最終でとどまらせているところが、逆にリアルに感じさせる。経営側も、本番で摘発されるリスクの方が怖いということなのかもしれないと思う。
そして言い忘れていたけれど、これはきっちり、コロナ禍での日常なのだ。皆がマスクをし、消毒しまくり、とりあえずアクリル板とかビニールシートを垂らし、でもそのどれもがおざなりっつーか、とりあえずやっときゃいいだろ、という記号になってしまっている。
これはいかにも日本的な感じだと思う。表面的に見えるこれとこれをやっときゃOKというのが、対外的には時に誠実にマジメに見えるのかもしれないけれど、全然違う。見えるところでやってるだけなんだもの。
そうした、表層的なあれこれが、本作の中では“ルール”として語られ、弱者たちを苦しめる。いや、弱者たちを、じゃない。まっとうなことを訴える人たちを、だ。
ちょっとフライングするんだけれど、良子が対峙する、ダンナを殺した高名な公人の弁護士は、良子に対してただただ依頼人の利益になるように、そして当然彼自身の私情を挟まず、つまり彼自身の正義とか信条など、そんなもの私は持ってませんよ、という態度で、良子をはねつける。
保険金を受け取らないのはあなたの勝手。そんなことは私には関係ない。加害者家族(今や遺族)に嫌がらせをするのはやめろと言っているだけだと、不気味な笑みさえ浮かべて言う。嶋田久作がコワすぎる。
しかし相対する良子を演じるオノマチちゃんも笑みを浮かべて負けてない。でもそうだ。彼女が闘うべき相手はこの弁護士じゃないのだから、彼に怒る筋合いはないのだから。
でもこの弁護士が後に、彼女側の味方になるヤクザの弁護士としてかかわるっていう展開には思わず笑ってしまう。
弁護士は、あくまでお仕事。依頼者のために動くのであり、この弁護士が、政治家とヤクザ、両極のように見えながら似たようなヤツらのために誠実に働いていることを突きつけられると、なんか救われたように思うのだ。ここに、こんなところに平等があると。
なんか全然進まないまま脱線してるなあ。良子と順平の母子家庭は、そりゃまあ、いろいろ大変なんである。あんな形でダンナが死に、このコロナ禍で彼女が経営していたカフェもつぶれ、人に使われるのが苦手なのに、頑張ってホームセンターの生花売り場にもなじんできたのに、これまた理不尽な理由で解雇に追い込まれる。
ヒドいのは、その理由が理不尽だから、店長は彼女にその理由を言えずに、彼女にこそ原因があると言いがかりをつけて解雇に追い込むことなんだけれど、でもそれもまた、この青二才の店長が、どっちの側にもつけず、闘えず、一番卑怯なやり方をとったのは、彼自身が生き抜くためなんだと思うと、本当にやりきれなくなるのだ。むしろ良子さんに本当のことをぶつけたなら、彼は救われたかもしれないのに。
そして良子さんのもう一つの職場、風俗店である。年若い同僚、ケイとの魂の交換が心にしみる。ケイを演じる片山友希嬢がメッチャイイ。あのオノマチ嬢ときったはったと言いたいぐらいのタイマン芝居を見せてくれる。
彼女にもまた、“幼い頃から父親にレイプされ続けた”“母親は子供の頃に死んだ”“子供の頃から糖尿病を患って、自分でインシュリンを打っている”“ヒモの彼氏がいて、自分の子供かどうかも判らないと言われていやおうなく堕ろさせられた”“そこで子宮頸がんが見つかった”“それを言ったらボッコボコに殴られた”なんかもう、最後の方になるとわっけ判らん、整合性がつかない、あらゆる、そう、“社会問題”として垂れ流しされてるあらゆる要素がケイにぶっこまれているんである。
あまりに雨あられにぶっこまれてるから、そりゃーねーだろと思うぐらいだし、こんなすべてが注ぎ込まれている人もめったにはいないとは思う。でも、つまりは、こうしたそれぞれに、目にした時にはああ、大変、こんな社会は良くない、変えていかなきゃ、苦しんでいる人を救わなきゃ、とか思うんだけれど、結局はそれは一瞬で。
それなりに安楽に暮らしていけてる人たちは、結局は心のどこかで、自己責任でしょぐらいに思ってて(あー、この言葉、世界中で一番嫌いな言葉なのだ!!)、私は違うもんねとスルーしてしまうのだ。明日にでも自分だって転落するかもしれないのに。
良子の憤りにシンパシィを感じてくれるケイ、そして風俗店の店長(永瀬正敏)とが、良子にとっての数少ない理解者だが、良子がそれをきちんと理解したのは、物語の最後の最後になってからだった、ような気がする。
ケイのことは、気の許せる同僚、カワイイ後輩という感覚はあったけど、どこまでも自分は一人で生きていくんだという気負いみたいなものが良子にはあった。
ダンナのかつてのバンドメンバーが集った、法事という名の飲み会で、メンバーの一人から安っぽく口説かれる場面の良子の、一見流していそうでかちんかちんの態度が、彼女の、他人への信頼を一切断っているプライドを感じさせたが、そんなん、そんなん、ムリだよ、誰か、頼る人がいなきゃ、ムリだよ!!と思わせたのだ。
愛する息子のことは当然信頼している。でも頼るべき存在じゃない。そしてなんたって思春期真っ只中で、オナッてるところを見ちゃったりもするんだから。
この息子ちゃんはホンットイイ子でさ、今は思春期だからアレだけど、一生彼女の味方である存在であろう。でもまだ彼は年若いし、彼だけじゃダメなんだ。
良子は一瞬、久しぶりに会った中学時代の同級生と恋に落ちかけるが、彼の方はカルい、セックスを楽しめる関係を望んでいたことを知って、決死の思いで風俗の経歴を打ち明けた良子は打ちのめされた。40手前で真剣とかないでしょ、と笑い飛ばされて、真剣だった良子は壊れた。
その矢先に、息子をイジメていたあの悪ガキたちが、これはやっちゃダメでしょ、いたずら心で付け火をして、ぼやを引き起こしたのだ。そして良子と純平は市営住宅を追われ、彼女は失恋で常軌を逸しちゃって、刃傷沙汰を起こしかけちゃう。
純平がケイに連絡をし、店長も駆けつけるし、結果的にはどこかコミカルな後味さえ残すんだけれど、でもこの感覚、男性側の感覚こそが、この物語に通底している、女がなめられている、今の日本社会、いまだに、というのを最後の最後にやっぱそうだよね!!と締めてて、暗い気持ちになってしまう。
シングルマザーは普通なのに、シングルファザーはほとんどいない。なのにシングルマザーは自己責任の目で見られる。男性側の需要があっての風俗なのに、そこに従事する女性たちは蔑視される。
最後の、大人になったらセックスを楽しむ軽い関係が常識でしょ、というのも、その延長線上にあるように感じ、ことごとく女性蔑視の現代社会を感じさせる。
だからこそ、良子は包丁を振りかぶり、でも彼女を罪人にするわけにはいかないと思った彼女を愛する人たちは、このクズ男にドロップキックをかまし、ぶん殴って階段から蹴落とし、そしてヤクザのつまんない下働きに引き渡したのだよ。
こんなことしかできない。世の中の理不尽に、弱者とさげすまれる人たちのリベンジはこんなことしかできない。
それでも、純平はお母ちゃんのことが大好きだし、大人はよく判んないって思っただろうけど、でも……この思春期に、すさまじい経験をした。
淡い恋をしたケイは、デートの約束をしてくれたけど、死んでしまった。彼女の本当の想いを、少しでも想像できるのはもうちょっと先かもしれない。
でも、純平とケイの邂逅は、凄く好きだった。10歳以上差があるけれど、きょうだいとも親子とも年の差は違う。この微妙な感じが、ひょっとして将来、と思わせただけに、甘やかで、そして胸が痛かった。★★★★☆
てか、そもそもやっぱり清次なんだもんなあ、火種を持ってくるのは。前作でほとぼりが冷めるまでどこかに旅に出て、落ち着いたら居所を連絡するわ、という手はずだったのが、朝吉とお照(政治の亡き兄の妻)がその住所をもとにたどり着いたのはなんと刑務所。
落ち着く先が刑務所なんてことがあるかと憤る朝吉に、ライトに対応する清次という、黄金コンビの軽やかなやり取りにこれから先の二人の暴れまくりが想像されてワクワクする。
朝吉は全国に名の知れ渡った義侠心あふれる一匹狼の渡世人だけど根がマジメで、戦後の混乱期を生き抜くには少々頭がカタいところがある。そもそももう生粋のヤクザが生きられない時代なのが、彼の誠実な男気、子供のような純粋さ、正義感に清次をはじめ誰もが惹かれずにいられない、というのが前提になっている。
そこに対照的に絡んでくるのが清次で、彼は金もうけや自分が楽しいと思えることならちょっとした悪事はあまり気にしない。
彼がなぜ豚箱にぶちこまれたのかは、彼曰く「英語が使えたのがあきまへんでしたのや」と悪びれないが、そのバタくさい顔で“日本語の分かる外国商人”に扮し、庶民から出資金を巻き上げてとんずらしたことでお足がついたんである。
庶民の味方である朝吉が怒るのは当然だが、清次は「わて、ちょっとしかもらってまへんわ」とタッグを組んだ柿本という男こそが首謀者であるというんである。
「ここを出たら、柿本はんのところに行けば男にしたると言われてますねん」などとノンキに言う清次を叱り飛ばし、しかし捨て置けないお人よしの朝吉は、柿本という男がいるという四国の運輸会社へ飛ぶんである。
しかし、柿本という男はいない。それどころか、菱屋運輸はそのいもしない男が詐欺を働いたために警察にガサ入れられるわ非常にメーワクしているというんである。
てゆーか、その前に驚きの展開である。あの八尾の朝吉親分が来たと、色めき立つ菱屋運輸の社員たち。しかし肝心の朝吉を見かけても素通りである。訪ねて行っても今日は忙しいからと門前払いである。
そこへ肩で風切って歩いてくる、衣装だけは朝吉と清次そっくりの二人組。有名な朝吉&清次の名をかたって、ショバ代と称して小金をゆすり取ってるケチな小悪党、と見えたのだが……。
そのバックにこそ柿本がいて、柿本が片腕となっている追風組があって、小さな商店街を観光客を呼び込む近代的なモールにしようという呼びかけはとーぜん詐欺であり、出資金を高利で借りさせ、“ヤクザが居座って工事ができない”ことでとん挫させ、その金を巻き上げてトンズラしようっつー、ケチな作戦が組まれているわけである。
おっと、それは後半のクライマックスの話だった。中盤までは、くだんのニセ朝吉&清次のエピソードで存分に楽しませてくれる。
朝吉はニセモノが跋扈していると判っていても、自分こそが本物だ、とは言いださないのね。それどころかそのニセモノの懐に食客として入り込んで様子を見てる。
そしてなぜか……自責の念に駆られてるの。自分の名がこんな風にヘタに通ってしまったから、つまらないニセモノが現れるんだと。旧知の仲である旅役人のおぎん(茶川一郎、相変わらずサイコーである)が偶然この地を訪れていて、私の愛する朝吉親分!と会いに来たところで遭遇、彼(彼女?)は機転を利かせてその場を切り抜けてくれるけれど、なぜニセモノだと喝破しないのかと聞くと、朝吉がそんな苦しい胸の内を吐露するから、きっとおぎんさんはまたホレなおしちゃっただろうなあ。
お照さんが保釈金を出して自由の身になった清次が合流。先述のようにニセモノ自分にボーゼンとするくだりに噴き出しつつも、とにかく巨悪が跋扈しているわけである。
柿本を面通ししてすべてがわかる。好々爺のような善人ヅラしている追風組の鷺原こそがすべての黒幕、ニセ朝吉&清次は彼にいいように使われている人形に過ぎない。ウソくささと安っぽさは彼ら自身の人の良さの悲しさから出ていたということである。
本当にね……最後にはカワイソウになってくるのよ。なんつーか、基本的に単純アホで、憎めないんだもの。パチンコ屋の美人経営者咲枝にホレ込むニセ朝吉、咲枝もまたまんざらでもないのだが、それは世に聞こえているホンモノの朝吉親分の男気こそにホレているから。
それを判ってなくて舞い上がっているニセ朝吉と思えばなんて切ないのと思う。朝吉が彼らの懐に入りこんでなかなかニセモノと喝破しなかったのは、先述したような、自分の名が独り歩きしていることへの自責の念もあっただろうけれど、この二人が、根っからの悪人ではないことをかぎつけたからこそであろうと思われ。
咲枝はその美貌に目を付けられ、言葉巧みに、オシャレなバーのマダムに迎え入れると連れ出される。その実質は用心棒に監視され続ける、女郎のような状態である。
そこに朝吉が乗り込む。金づるである咲枝を奪還したことで事態はややこしくなる。
そしてあの、ニセモノ朝吉である。もうみんながニセモノと判っているのに、彼自身ももちろん判っていて、でも自分からは言い出せなくて、まさに針の筵の状態。
四国、中国一帯の親分さんの前に引き合わされ、朝吉なら歌えるはずの河内音頭を歌えとか、歌えないなら裸踊りしろとか、もう本当にかわいそうで見ていられなくてさあ……。
とーぜん、そこに飛び込んでくる朝吉と清次、清次の見事なばちさばき(てゆーか、あれはかんっぜんにドラムスティックさばき!くるくるっと中空にばちを回転させる、カッコよすぎ!!)から繰り広げられる軽快な太鼓に合わせてうっとりの美声を聞かせる朝吉親分に、ニセと知ってておちょくりまくっていた親分集は当然黙りこくり、そしてニセとして脂汗をかきまくって裸踊りまでした彼は……ほろほろと涙をこぼす。
ああ、ああ。朝吉と清次のカッコよさにもしびれるが、芦屋雁之助の素直な改心はね、弱い人間が陥ってしまったことへの朝吉の、そして作り手の優しいまなざしと、いつだってそこから立ち直れる、やり直せるんだよという同様のそれを感じさせ。
正直、あっきらかに犯罪犯してる鷺原がこの期に及んで面目をつぶされたとか言いくさり、朝吉に決着をつけろと迫るのは、はぁ??何言ってんの、もう警察行けばつかまってすべてが終わりだろがと思うのだが、そこんとこが渡世人、ヤクザの仁義ということなのか……。
だってそれに応じれば相手は無数の組員を繰り出して、朝吉と清次を殺しにかかるにきまってる。お照も咲枝も止めるにきまってる。
ニセ朝吉と清次をこの無謀な闘いに参画させようと清次は冗談交じりに口にした。冗談である。だって足手まといになる以上に、ケガするどころじゃすまないに決まってるから。
つまりこの時点で二人は死を覚悟したのだ。お照の涙もそれを物語っていた。古いタイプのヤクザである朝吉がそれを覚悟したのは判る気がするが、その朝吉とともに死への覚悟を決めて彼らしい笑顔を見せた清次は……やっぱり彼は、なんだかんだ言って、朝吉のことが好きなんだよなあ。
まあ、ね。死ぬわきゃないのだ。思いがけない援軍は、ことあるごとに朝吉に憎まれ口をたたいていたパチンコ屋女主人、新時代を感じさせるはすっぱな美女の咲枝である。姿を消したと思っていたら、仲間の工事人夫に依頼して、決闘場面に発破を無数に仕掛けているんだから、恐れ入る!!
まさに溜飲が下がる、カタルシスとはコレ!!という素晴らしきクライマックス。しかも発破で蹴散らすだけじゃないのよ。それで弱って戦意喪失になった追風組たちを朝吉と清次は、一人ひとり首根っこつかんで、きちんと確実にぼっこぼこにする。うーむ、意外に容赦ないっつーか、ちょっと残酷かも……。
ラストは、すっかり堅気となってフツーの人になったニセ朝吉&清次が、咲枝の経営するパチンコ屋でだるだる会話している。アクセントとして魅力的に飛び込んでくる、出前の少年(ホントに少年!!小学校3年生ぐらいかな?)がはぎれよく彼らおじさんふたりをおちょくる。
そして……みんなして、見送りには行かなかった朝吉たちの乗った船の汽笛を聞くのだ。
サイコーなのは、その船の中にもニセモノが紛れ込んでいること。しかも清次だけ。ハデなスカジャンというだけで清次をマネていると断定できるぐらい、当時は彼だけがブイブイ言わせてる最先端ファッションだったということなのだ。
またか……と頭を抱える清次の前で、自分こそが清次だとオラオラ感を押し出しているのはなんとなんと、藤田まこと!!クレジットに名前を見ていたけれど、全然出てこないから、何の役で登場するのかとずっと待ってたらまさかの!!
そして、小雁氏のニセに比べりゃ、それなりにタッパもあるしまあまあ美男だし、そんな頭を抱えるほどじゃ……そりゃまあ、田宮二郎氏のトンデモない美貌とくらべりゃアレだけどね!!★★★☆☆
まず持ち込まれた相談は、忘年会の支払いをしてくれないために子供たちにお年玉もあげられない、という料理屋の女将さんである。その鉄工所の工員に掛け合いに行くと、給料は半分、ボーナスも出なくて困っているという。
その社長に掛け合いに行くと、これまた家も抵当に入ってて、工員たちに払いたくても払えない状況、その原因はと言えば、金を預けていた大黒金融が払い戻しに応じない、というんである。
当然朝吉は大黒金融へと向かう。その担当者の不遜な態度で、こらー、ここが諸悪の根源だとすぐわかっちゃう。もう狸顔にふんぞりかえって、口だけは慇懃無礼。判りやすすぎる(爆)。
それでもソイツは、これには訳があって、実は社員が1憶もの金を持ち逃げしたからだ、というんである。内々に捜査を進めているところであるから何卒穏便に、本社にもかけあって善後策を講じてますから、とアヤしさ満点である。
そこには町中の市井の人々が、同じように押しかけている。こんなささやかな民たちが大事に稼いだお金を、小金ぐらいに思ってかき集めてだまし取ろうとする、もう見え見えである。
でも話の筋は通っているから、てゆーか朝吉親分はお人よしだからこんなミエミエのウソにもそうかと言って、ならばその持ち逃げした社員を探すとともに、東京の本社に掛け合いに行くという。どこまでも純粋な人である。
しかも何の礼金をもらうつもりもない。相棒となる清次の苦労が知れるというものである。
今回は途中、清次と物別れになっちゃうんだよね。それでなくてもなぜこの二人がひっついているのか不思議なぐらいの対照的であることは見た目から、考え方から、もうすべてがそうなんだけれど、だからこそのベストコンビではあったんだけれど、その根本を問いただすような事件が起きちゃうんである。
事件、だなんて大げさかもしれないけど、一度はここを通らなければいけなかったのかもしれない。大黒金融の社長は体のいい居留守を決め込んでいるのだが、純粋な朝吉には通じず、ならば待たせてもらいまっせ、とそれまでの時間つぶしになんとまあ、靖国神社に行くんである。
そういやあ朝吉のそもそもの始まりは、戦地での長い兵隊生活、死んだと思われて帰ってきて驚かれたというところから始まっている。
死にぞこないで帰ってきてしまった、朝吉ならそんな意識は当然あったであろうし、”靖国神社の英霊たちに詫びたい”という、今の時代ならまあいろいろと……議論が巻き起こるところを、マジに純粋な気持ちで涙しながら膝まづいちゃう。
でも清次はなんたって進駐軍かぶれだから、親分、なんですのん?英霊?そもそも靖国神社って誰をまつってますのん、とかいうもんだから、朝吉親分激怒、まあ元から短気な親分さんではあったけれど、あんなに怒って清次を一発ならずぶん殴るのは初めて見たなあ……。
現代の価値観、そして何より私の価値観(爆)からすればさ、清次の感覚こそに共鳴よ。そうだよねー!!と思うよ。でもそれが朝吉は許せない。子供みたいに絶交を言い渡しちゃう。なにか朝吉だけが時間が止まっているみたいである。
だって彼らが乗り込んだ東京は、ホントにキラキラで、豪華で、戦争の英霊なんてことを誰もがどっかにうっちゃっているような感じなんだもの。
着流しに雪駄で銀座のクラブに乗り込んでくる朝吉を、まるで時代劇の中の役者でも見るように嘲笑を浮かべて迎え撃つ金満経営者のタヌキどもが腹立たしくてならないけれど、確かに朝吉は、ここでは時代錯誤なのだ。だからこそ現代的感覚を持つ清次が必要なのに。
大黒金融に乗り込む前に、一億を持ち逃げしたという社員、平助の実家を訪ねる。姉の妙子は、弟は家を飛び出したきり何年も帰っていないというし、彼女の後ろ盾になっている地元の親分さんも、よそ者に手を出してほしくないと言う。
彼らはそもそも、平助がそんな大それたことをするなんてことをにわかに信じがたい思いを隠し切れず、平助を捕まえるために朝吉が来たように思って意固地になっている部分もあるのだけれど、そこをあの一郎と二郎がイイ感じに緩和してくれる。
でね、話が戻るけど、清次とは物別れになっちゃうのよ。てゆーか、朝吉が清次を捨ててしまうような形。清次がいたなら、大黒金融の社長秘書、圭子との取引だってずっとスムーズにいったに違いないのに。
この圭子を演じるのが江波杏子で、ゾッとするほど色っぽい。もうオチバレで言っちゃうと彼女は平助の恋人。平助はちゃちな使い込みを弱みに握られて、一億の持ち逃げ犯に偽装するなら、彼女と店を出す資金を報奨金として出すと会社に持ち掛けられて、こんなことになってるんである。
そんな話さ、平助が騙されるのなら判るけれど(世間知らずのバカまるだしだから(爆。失礼……))いかにもクールに世渡りしている感じの圭子が一緒に騙されちゃっているというのは、いや、そもそも最初に平助が先走ったのに巻き込まれた形ということなのか。
朝吉に捨てられた清次は、これまたこの地で偶然再会したおぎんの口利きで、工藤組に潜り込む。ここが大黒金融とつながってるヤクザだというのはちょっとうまくいきすぎな話だけれど……。
表向きはボクシングジム。現役ボクサーをぶちのめして清次はテストに合格、その時点でかなりの信頼を得ることになる。そして、そこに監禁されている平助に遭遇してびっくらこくわけである。事情も聞く。ああこの時、朝吉とともに動いていれば!!朝吉の方には圭子。女性が苦手な朝吉に圭子。逆ならまだしも!!
圭子は工藤組にさらわれてしまう。平助から事情を聞いていた清次は二人を徹底的に痛めつけることで組からの信用を得て、二人を逃がすために孤軍奮闘する。
これは辛い。恋人の圭子の前で平助は清次にボッコボコにされる。本当に、死ぬぐらいにボッコボコなんである。朝吉親分がいない中、清次がすまんな、すまんな、と心で唱えながら平助を殴っているのを感じて胸が痛い。圭子のことも2、3発張り飛ばさなくてはならない。辛い。
二人を逃がそうとした矢先、朝吉親分が工藤組に乗り込んでくる。ああ、ようやく!!でも敵の前でなかなか二人きりになれず、事情を説明できないのだ。
焦る清次。そんな中、なんとか平助と圭子は逃げおおせる。事情を打ち明けられないまま、朝吉は帰ってしまう。清次は当然、工藤達に半殺しの目に遭ってしまうのだ。
もう、もう!!朝吉の純粋さが、清次を殺してしまうよ!!清次には最初から、この世知辛い世間が見えていて、それが見えていない朝吉の手足になっていたのに、ぐずぐずしてたら清次死んじゃうよ!!
じりじりしながら朝吉が清次を救出に向かうのを見守る。そのためには、平助がこの悪事を証言することが必須。実行犯としていくばくの間、ブチ込まれるかもしれない。でも彼は、そして圭子も当然、それを承諾したのだ。
大黒金融は市井の人たちの金を返すつもりなどない。平助に濡れ衣をきせて、まんま懐に入れるつもりでしかない。そして平助も圭子も、ヤクザの手を使って消せばオッケーと思ってる。サイアク!!
朝吉は、一郎と二郎を伴って工藤組に乗り込む。平助姉弟の後ろ盾になっていた浅草の親分さんの助っ人は断った。先述のようにヨソモノに乗り込まれることを嫌う老親分さんとは衝突を繰り返していたけれど、その中で彼が朝吉にホレこんでいくのは目に見えるようだった。だから朝吉に断られても、当然子分たちを引き連れて加勢に出かけたのだ。
でも一郎、二郎の活躍がなかなかに素晴らしい!彼らはすっかり及び腰なんだけど、意外な武器を携えていた。途中の雑貨店で買い込んだ”爆弾”。小麦粉やらコショウやら、ひょっとしたらカラシとかもあったのか、くしゃみ地獄に陥らせて、でもそれは味方も巻き込むあたり(爆)。ああ、娯楽映画の楽しさよ!
もう半死半生の状態、あの美しい田宮二郎の顔がボッコボコになっている清次を朝吉が助け出す。開かないドアを蹴破って、その腕に血だらけの清次を……やっべやっべ!!腐女子大爆発!!不思議と悪名シリーズで腐女子が発動することがなかったんだけど、なぜなかったんだろう、むしろそれが不思議!!
やっべやっべ、そんなに見つめ合わないで!!助けに来てもらってメッチャ嬉しいはずなのに、遅いがな、逃げられるのにわざわざ待ってたんでっせ、とかツンデレ清次に、このガキャ、と返す朝吉。萌えるーー!!
清次がさ、絶体絶命の状態になってさ、自分が死んだら靖国神社にまつってもらえるやろか、という。あんなクズどもを掃除したら少しでも世のためになるだろうからと。
あほんだら、と朝吉が言う。二人とも生き残ったら、一緒に靖国神社にお参りに行きましょな、と清次が言い、二人見つめ合って(キャー!!)、手を差し出して(キャーキャー!!)握り合うのよ!(ギャーーー!!)マジ死ぬ、マジ死ぬ!!
……思えば、当時の仁侠映画黄金期のコンビものは、腐女子の心を射抜く要素満載なんだけど、不思議と悪名シリーズでは今までそれを(かすかにはあったけど)感じたことがなかったんだよな。それは基本、朝吉親分の純粋さにその都度登場する女たちがホレこんで、毎回ちょっとした恋愛ムードになるから、清次とのその可能性が毎回提示されてはいたんだろうけれど、なんか薄れちゃっていたんだろうか。もったいない!!
今回は運命を共にした恋人同士が軸になることもあって、平助の姉がちょっと朝吉にホレかけている感じもあるけど(ラスト、地元の親分さんが朝吉を跡継ぎにと言い出すのは、そーゆー意味合いだろう)、朝吉に恋愛話がなかったことが、ようやく二人の萌え萌えをあぶりだしてくれたのね。もう腐女子の心には、待ちに待った朝吉と清次の萌え萌えで、はーもう、ご飯三杯はいけます!!★★★★☆
もうまったくの定型ね。あれ、これは観たっけなと思うぐらい。
そしてその毎回、清次がぜえったいに朝吉から離れたくないことと、親分と奉りながら実は清次の方が世間での立ち回り方が上手くて、不器用な朝吉は清次がいなければやはり成り立たない、ということを、改めて教えてくれるんである。
で、今回のキーマンはミヤコ蝶々と佐藤慶である。ミヤコ蝶々は一度出てたから、あれこれは、あの時と同じ役柄で久々の再会とかなのかしらんと思ったら、まったく違う役どころである。
ミヤコ蝶々ほどの個性派が違う役で出てくるっていうのが、どうにもこうにも以前の役柄がちらついてしまってちょっと困る。
ここでの彼女は小さなブラシ工場の女社長。溺愛しているやんちゃな一人息子がいる。
朝吉とは賭場で知り合う。とゆーのも、朝吉は清次を国に帰らせる金を渡したらすってんてんになっちゃって、びっくり鍋というアラ鍋屋の娘、お米に、賭場を紹介されるんである。
どー見てもカタギには見えない(実際カタギじゃない)朝吉を、この人は玄人じゃないからと女ばかりの賭場に連れてきて、朝吉は連戦連勝、申し訳ないと頭を下げながら勝ち続けるっつーのは、どど、どうなのと思っちゃうけど。
なんたって朝吉だからイカサマをするなんてことはあり得ないにしても、遊び慣れている朝吉が、玄人じゃない、というのはどうかねえ。
でまあ、この時ムキになって相手になり続けるのが、ミヤコ蝶々扮するブラシ工場の女社長、お政で、勝つまではなんとしても引かないとばかりに小切手をバンバン切るもんだからイヤーな予感はしていた。
朝吉がお米の夜這いを待ちかねていたところにそっと現れるもんだから思わず爆笑したが、彼女は切実である。
一度胴元にわたった小切手を取り返すというのは、賭場に慣れ親しんだ朝吉からしても容易ではならんと思ったけれど、そこは朝吉の男気、賭場の元締めに直談判。
その元締めってのが、なんとまあ、お米の父親。渡世には厳しい父親だからとお米は顔をこわばらせて朝吉を帰らそうとするが、朝吉はその男気ですっかりこの父親、正太郎に気に入られてしまうんである。
で、二人目のキーマンである。この賭場で胴元をしていた正太郎の子分、遠藤である。佐藤慶。いやー……ちょっと本作の彼には、私は目を奪われまくってしまった。妙に?色っぽい。なんかちょっと、バナナマンの設楽さんに似ている(爆)。
朝吉はまず、胴元である遠藤に交渉したのだが、自分の一存では、と遠藤が逃げを打ったので、単純にその上の、元締めの正太郎にぶつかっていったのだが、遠藤にしてみればそりゃ面白くない。
彼はいわば現代的感覚を持つヤクザであり、清太郎や朝吉の持っているような“弱きを助け、強気をくじく”矜持を古臭いものだと思っている。
このあたりはなかなか難しいところである。本作の舞台となる時代は、はっきりと明言はされないものの明らかに高度成長期にさしかかっていて、朝吉のような着流しのフリーヤクザなど天然記念物に等しい雰囲気で、相棒の清次こそがこの時代のリアルな価値観をまとっているのだ。
そんな清次が朝吉にまとわりついているというのは、この時代ゆえの過渡期という感覚もあるのかもしれない。
古き良き時代も、新しい価値観も、どちらも捨てきれなくて両天秤のように二人は存在する。だからこそ彼らにかかわる人々によって物語が生まれる、とでもいったような。
そういう意味では佐藤慶演じる遠藤は、えげつないほどに新時代の人間であり、彼が古臭い価値観を持つ親分にイライラし、自分の考えで仕事を進めていけない苛立ちが、なんか判るような気がしちゃうのは、困ったところなんである。
若き佐藤慶の、ふてぶてしい、自信たっぷりの、異形といってもいい風貌なのになんか妙にイイ男、なんだろうこれは、なんか……ひきつけられてしまう。細身の三つ揃いがビシッと決まっている姿にゾクゾクしてしまう。
だって朝吉っつぁんは古き良き着流しスタイル、清次はアメリカかぶれのチャラいファッション、正太郎はこれぞ往年のヤクザの親分という渋い和服だし、彼らを取り巻く子分集も朝吉スタイルか、やぼったい背広姿か、といったところである。
その中で遠藤のスリムな三つ揃いには、やっば!と思っちゃうんだよなあ。しかも彼が、まあいわば余裕ぶっこきながらぷかぁとふかすたばこ、その吸い方の余裕ぶっこいた憎ったらしさが妙に色っぽくて、朝吉の純朴さ、清次のチャラさもそれぞれにイイ男で大好きだけれど、まさに二人にはない男の魅力!!でクラッときちまうんだよう。
しかしこの遠藤、現代的で、頭が切れそうに見えながら、実際頭は切れるのだが、最終的にはずいぶんとランボーな、非道な手に出ちゃう。
遠藤はお政の小切手をタダでは返さなかった。正太郎親分から命じられはしたが、それをもとにお政に金を借りさせた。不渡りになるような小切手を賭場で乱発したことを知られたら、銀行の取引のみならず、社会的信用を失ってしまう。お政は泣く泣くその脅しに乗ってしまう。
で、このあたりで清次のご登場である。清次は遠藤と悪事のタッグを組んでいる中津に気に入られて、今やすっかり若頭としてブイブイ言わしてるんである。
朝吉と顔を合わせたのは、なんとまあ、朝吉がお米の世話で開いたおでん屋の、それに因縁をつけに来たという図式。ああ、とっても見覚えがあるわ(爆)。清次がなんとか仲間たちに知られぬように朝吉に事情を説明しようとするとか、朝吉側に寝返るためにこそこそするとか、めっちゃ見覚えがある展開(爆爆)。
でも本作では、ちょっとヒヤリとさせるの。朝吉のおでん屋に清次が再びやってくる。清次が敵方にいることを知って朝吉は冷たく接するんだけれど、なんだか様子がおかしい。親分のおでんを一口食べたいんだと、清次の笑顔はいつものようで何か違う。
突然、ずるりとひっくり返った。どす黒く流れ出る血。朝吉の腕に抱かれる清次という図式には一瞬腐女子が爆発しかけたが、ちょっとちょっと待ったまさか清次、いや、この後もシリーズ続くし、そんなことはないはず、でもでも、まさか!!そんな不穏な予感がふくれあがってしまう。
ああよかった。死ぬわけない。次のシーンでは病院のベッドで横たわる清次。
ただ、この後に最悪の展開が待っていた。遠藤の所業に怒り心頭の正太郎親分が彼を破門、遠藤はひどく冷静に、ここまで来たら行くとこまで行くしかない、と言い放った。
まさか、と思ったらそのまさか。なんとまあ彼は、正太郎親分を若いもんを使って、殺しちまったんである。
なんかうっかり言い忘れてたけど、正太郎親分の娘、びっくり鍋を切り盛りしているお米と朝吉は、イイ仲になっている。朝吉がカタギになりたいという望みを、お米がおでんの屋台を用意してかなえた訳なんである。つまりその前にチョメチョメである。
でもそのおでん屋をあっせんしたのは遠藤であり、朝吉を苦々しく思っている遠藤がどういう行動に出るのかは……だからこその、清次との再会だったんであった。おでん屋のオヤジもメッチャ似合っているけれど、やっぱり朝吉は、清次と共に流れゆく悪名コンビなのだよなあ。
お政の溺愛するやんちゃな一人息子が、遠藤の手に落ちる訳よ。正太郎親分を殺され、怒り心頭の朝吉、お米はホレた男を危険にさらしたくないから止めるけれど、朝吉は一人乗り込んだ。
ボッコボコにされて、ボッコボコにされまくって、つまり、息子を無事取り戻すために、歯向かわなかった。敵の手に渡っている工場の権利書を取り戻せなかったのが……それはね、こっからは朝吉&清次の出番であるからね!!
朝吉がね、入院している清次の元に行くわけよ。「お前、傷の方どないや」「そろそろ使い頃や」なんとゆー、打てば響くの朝吉&清次なの!!朝吉にそう言われて、嬉しそうにもこの上ない清次の、心の中で子犬のようにキャンキャン言ってるさまが聞こえるようよ!!
こっからは、もう力に任せてさあ。それならそうと、最初からボッコボコにしたったらよかったのに(爆)。
でも、考えてみたらちょっと甘いよね。だって遠藤は恩義ある親分の正太郎を、私利私欲のために殺してる訳でさ。彼を警察に突き出すこともせずに、ただただボッコボコにするだけで許しちゃうなんてさ。
娘であるお米さんの立場もないよなあ。フェミニズム野郎の私としては、これはないわと思っちゃうところもあるが、まあ仕方ない。今回は色っぽい佐藤慶に免じて許してやろう。
今回の一番は、朝吉のおでん屋で、昏倒する清次に決まり!!ちょっとね、一作目の、清次の兄であるモートルの貞が死する場面を思い出してドキッとしちゃったんだよね……そういやあ、本作は貞の女房=清次の義姉のお照さんは出なかったな……。★★★★☆
清次の呆れる、朝吉親分のどうしようもない人の好さである。世界中の困った人を救うことは出来なくても、彼が出会った困った人をほっておくことは出来ない、えにしと人情を大事にする男なんである。
清次はそのあたり、合理的に切って捨てるようなことを口では言うけれども、結局朝吉親分の手先として働いてしまう。本作中で、もうこりごり、降りさせてもらいまっさ、と清次が逃げを打った時、ああ降りろ、その代わりワレとは縁切りやぞ、と朝吉親分が言うと清次は途端に困っちゃって、親分…またそれやがな…と尻尾を垂らしたわんこのようになってしまう。どんだけ朝吉親分にホレとんだと、もうすっかり嬉しくなってしまう。
頼りになる、というか、都合よく妹を預けておけるぐらいの感じで、三郎はドロンしてしまう。当然、鬼瓦組が乗り込んでくる。妹のおとしを人身御供にしようとするが、あったりまえながら朝吉が黙っちゃいない。
かといって朝吉にもカネはない。賭場に案内してくれと言った時からイヤな予感である。清次が言うように、渡世人なのに朝吉は酒は飲めないばくちも打たない、奇跡のようなヤクザなんである。
当然スッてしまうのは目に見えてるんだから、なぜわざわざこのシークエンスを作ったのかしらんとも思うが、この賭場というのが実に特殊で、“おんな舟”と言われる、はすっぱな女たちがたむろしている場所なんである。
つまりはそこも鬼瓦組の息がかかっているのだけれど、彼女たちは自立精神があって、決して鬼瓦組のイヌではなく、自分たちのプライドによって仕事をしている。ということがのちの展開に効いてくるし、だからこそ朝吉たちの強い味方になるんである。
で、スッちゃうし借金まで作っちゃうから、いつものように清次の義姉、お照に金策を頼み、そのつなぎで朝吉と清次は肉体労働に励むことになる。
朝吉にホレてるお照は毎回それなりに物語に関与するけれど、今回は金策のために外に追いやられた形でほとんど物語に関わってこないのはさみしいところであるが、本作で朝吉は結構がっつり女と関わるから、お照さん嫉妬の炎を燃やしたら物語がしっちゃかめっちゃかになっちゃうだろうからなあ。
とゆーのも、もう一人重要な女がいるんである。三郎兄妹の住んでいる家の一室を間借りしている悦子という女である。ヤクザのくせに世間知らず(爆)の朝吉の目には、最初は単なる水商売に身をやつした女ぐらいに見えていたし、それこそ直截になんでそんな仕事をしてるのかとまで聞いたぐらいだった。
てか自分がヤクザ者なのに、まっとうな仕事(の基準が単純すぎるんだけど)をしていない相手に出会うと気になって仕方ない純粋すぎる朝吉親分なんである。
まあなんつっても悦子は見るからにハクい女である。清次は一目見ただけで、こらあ親分ほっとけないな……とピンときちゃうんである。女が朝吉にホレるのは当然、そしてそれに朝吉親分がほだされるのも当然……。
おとしもまたダイナマイトボディな女の子なのだがどこか幼く、危なっかしくて、朝吉の相手になるような感じではない。その幼く危なっかしい感じが、あんな衝撃のクライマックスになるなんて、思いもしなかったけれど。
お照の金策が来るまでの間の、鬼瓦組の仕事なんだから、見るからに卑怯な顔をしているヤツらがピンハネするのは目に見えている。マトモに仕事をして、三郎の持ち逃げを返すのに何年かかるか……。
朝吉たちがおとしのために働いていることを卑怯にも鬼瓦組は彼女に告げずに、こっそり人身御供に連れ出してしまう。その目的は外国船相手のヤクの密輸である。おとしのヤク中を弱みに握ったキチクなやり方である。
でもでも……おとしは朝吉親分の義侠心にすでにほだされていたのだ。もうヤクはやらない。死ぬ気で我慢する。
だから密輸にはいかなかった。朝吉親分に褒めてもらいたいがためみたいな、少女のような輝きがそこにはあった。そのことが彼女の命を縮めるとは思わずに……。
おとしには“旦那”という名の、まあ恋人っつーか、ヒモっつーか、それまでの関係性や経過は明かされないものの、ロクでもないヤツだったんだろーなーということが想像される仙太郎という男がいる。男っつーか、おとしも子供みたいな少女だけど、仙太郎もほんのガキである。
鬼瓦組に頭を押さえつけられたらひとたまりもないような、意地もプライドもないようなヤツだから、女房に言うこと聞かせろと言われたら従うしかない。ヤクの密輸を拒んだおとしに言うこと聞かせろ、と言われるがまま、せっかんしたら……おとしは死んでしまった!!そんな、そんな簡単に!なぜ!!心臓発作でも起こしたのか……。それを、ガイジンさんの客をとりながら目撃していたのが悦子だった。
おとしの死は事故死として巧妙に隠されてしまう。悦子は目撃していたのに、やはり立場の弱さがあるからなのか、何も言わない。でも、朝吉には何か、何かボロを出してしまうのは、ホレた弱みなのか。
てゆーか、清次が余計なことをしちゃるから(爆)。何事もビジネスライクに切り捨てる清次が何をしでかすかホント、判らない。三郎とおとしが暮らしているあたりで遊んでいた混血児(という言い方が当時としてはピタリとくるのであろう)のマリと進駐軍仕込みの英語……は通じず、マリはバリバリの関西弁だからさ、まあとにかく仲良くなった清次。おとしの隠し子にマリを仕立てて、鬼瓦組から補償金をせしめてしまったので話がややこしくなっちまうんである。
いや……事故死ではないことを知っている悦子がいたからこそである。事故死じゃないことをわざわざ証明してやっているようなものだ、と悦子が怒るのは、その現場を目撃していたこともさることながら、マリが自分の死んだ姉の娘だということをひた隠しにしていたから。
マリは実の母の記憶がなく、自分のことを本当の母親だと思ってる。そして悦子もまた、母親としてマリに接しているのだろう。愛しい子をダシにして、友人が殺されたことを立証されてしまったようなもの。
心千々に千切れる悦子。彼女の様子に違和感を感じた朝吉は問い詰めるが、容易に口を割らない。でも結局白状しちゃう。
んでもって、朝吉と一夜を共にしちゃう(爆)。こんな非常事態でなにやっとんだ、もう。女にモテるのは判るし、情にほだされる朝吉さんだというのも判るが、こーゆー状況で急に気が緩む気がして仕方ない。まあいいけど。
本作でさいっこうなのは、朝吉と清次がおんな舟の連中の欲望の渦に放り出されて、ボロボロにヤラれちゃう場面なんである。集団レイプである(爆)。
これが男女が逆だったら目を覆う残酷さなのに、女の群衆がキャーキャー言ってイイ男を襲うのは、なぜこんなにも笑えて、幸福な気分になるのであろう。うーむ、これもきちんと男女差別的描写として認識しなければいけないのかもしれない!!
まあでもとにかく、このおんな舟のおんなたちが、本作の主人公と言ってもいいぐらいの活躍なんである。彼女たちが本気で怒ったのは、自分たちも世話になった保育園への物資を闇に流されていたことを知った時なんである。
酸いも甘いもかみ分けた女たち、バクチや身体を売ることぐらいはなんてことない彼女たちが怒る沸点がそこだというのが、泣かせるんである。
マリが通っていることでも察せられる、様々な事情を持った戦後混乱期の子供たちを引き受けてる保育園、彼女たちが“世話になった”事情も察するに余りある。
生きていくために鬼瓦組の下請けのようなこともするけれど、彼女たちにピンと張ったプライドがあることを、知らない訳ではないだろうが、甘く見ていた。あるいは、朝吉のような男が現れ、彼に心酔する事態を予想しなかった。
おとしの非業の死、悦子の覚悟、女としての、母親としての、人間としての……。もうね、最後の最後は、悪党どもをおんな舟の女たち、朝吉、清次、みんなしてボッコボコにする。おとしを死に至らせてしまった仙太郎が自首することで、それまでおびえ切って従うばかりだった鬼瓦組から脱して彼は男になり、人間になる。
溜飲が下がりまくるラストだが、思えば妹の死を知らないままどこかに行ったっきりの三郎が気になる。それも次につながるのだろうか。
ラストは、いつだってそうだが、それまで出会った人たちとの別れ。朝吉と悦子の別れはお互い大人だからさ、切ない想いを抱えつつもただ見送るばかりだが、グッと来たのは、仲良しになった清次とマリの別れ。
マリが清次に板チョコを餞別に渡すのも、戦後、混血児、なんかいろいろ思い合わせてグッとくるものがあるし、きっとまた、いつか会えるさぐらいの明るさをもってバイバイするけど、きっときっと、一期一会、これが永の別れなのだと思ったりしてさ……。★★★☆☆
物語は、池松君扮する剛が、オダジョー扮する兄の透に呼ばれて、韓国にやってくるところから始まる。剛は売れない小説家で妻を亡くしたシングルファーザー。
決して仲がいいとはいえない兄弟の関係性をここからイヤというほど見せつけられるのだから、つまり剛は風来坊である兄を信用していないのだから、兄に呼ばれて身辺を整理して韓国にまで来た、ということがいかに切羽詰まってのことなのかが彼の言葉以上に判ってくる。
それでも、住み慣れた、言葉も通じる、それなりに知り合いもいるであろう日本を離れてまで、というのは、その切羽詰まり方が、仕事の行き詰まりというよりは、妻に死なれて、息子二人で、心の持って生きようがなかったことの方が大きかったんであろうことは、徐々に徐々に、判ってくるんである。
決して仲がいいとは言えない、と書いてしまったが、その昔は、幼い頃は、とっても仲が良かったんであろうと思わせる、二人共通の記憶がある。それはタイトルにつながり、この地で知り合うヒロイン、ソルにつながり、彼女のきょうだいたちにつながっていく。
アジアの天使。アジア人の天使。金髪碧眼ではなく、美少年でもなく、さえないおっさんの姿の天使。これを芹沢興人氏がやるんだから噴き出してしまう。
というのが実際に登場するのは、ラストもラストになってからだが、このおっさん天使に剛と透きょうだいは幼い頃に遭遇し、しかもそれぞれ肩口を噛まれており、その痕が今もはっきりと残っている。
吸血鬼じゃないんだから、噛む、ってなんだよ!!とその話題が出る頃にはすっかり仲良しになっているソルの兄、ジョンウは爆笑するんである。
それにしてもオダジョーはこーゆー、浮き草のような男を演じさせるとピカイチである。あんなにイイ男なのに、雰囲気はモリシゲを思わせるほどのいい加減さである。でもなんていうのかな、人懐こさというか、人恋しさというか、罪深き憎めなさ。
それに比して池松君は、まるで正反対。彼は巧みな職人俳優だけど、こういういい加減さはちょっと出すのが難しそうなタイプである。こういう、不器用なまじめさが良く似合う。
剛は表面上はこの自由な兄をうっとうしがっているけれど、本当は大好きなんだろう。自分にないものを持っている、自由さ、動じなさ、社交性、その兄を尊敬してて、でも自分にないから自己嫌悪で、それが兄を否定することで自分を何とか肯定する方に向かっているんだろう。
判る判る。私とソックリ。いや、私のねーちゃんはとてもしっかりとした人ですけれども、社交性、人との付き合いの上手さ、そうしたところに、自分がどうしても得られないそれに、嫉妬と尊敬がないまぜになる感じ、めっちゃ判るんだもん。
そう、見るからに剛は不器用な男。そして運命の相手として出会っちゃうソルも似たり寄ったり。
ソルはアイドル歌手としてデビューしたものの、今やショッピングモールの小さなステージで、歌っている最中館内放送に遮られちゃうような冴えない歌手である。
事務所の社長の携帯には“女6”として登録されている、つまりは都合よくセックスできる女、売れないと判れば契約が切られる状況に瀕している。
女6だということは、この事態に際してソルは知るんである。もちろん、仕事を得るために寝ていた訳だが、耳元でささやかれる甘い言葉に女として期待を持っていなかった筈はない。
ソルと剛が出会うのは、雑然とした酒場である。剛は兄に振り回されて、一人見知らぬ土地で食事をとる羽目になる。近くに座っていて、泣きながら酒を飲んでいたのがソル、なんである。
言葉が通じないのを承知ながら、剛は声をかけずにはいられなかった。当然この時にはソルは不審の眉をひそめるばかりで立ち去るのだけれど、この場面がすべての始まりだというのを思い返すと、見事に本作のすべてを象徴していると感嘆するんである。
言葉が100%通じなければ、コミュニケーション出来ないと、やっぱりどこかで思っている。表面上は、心のふれあいが大事なんだとか、ボディランゲージで行けるとか言っていても、やっぱりやっぱり言葉の壁が躊躇を産む。
世界共通言語である英語に苦手意識を持つ日本人は、なかなかそこを突破できない。そして、韓国の人って言語の才能にたけているイメージがあって、英語はみんな喋れるし、それこそエンタテインメント業界の人たちは日本語しっかり操れるし、もう叶わないなー!!という感じでいた。
でも本作の中の韓国人、というか、剛と透と出会う三きょうだいは、母国語&、そして英語は学校英語がア・リトル、おんなじなんだよね。
しかも、英語でコミュニケーションをとろうとしだすのは本当に後半も押し詰まってから。
透はなんたって韓国でビジネスをしてきているから韓国語は自由に操れるので、この兄ちゃんにくっついている限り剛は特段、韓国の人たちとコミュニケーションをとるのに自身の努力は必要なかった。
でもソルと出会ったのは、彼一人の時で、韓国語は当然判らないし、日本語で通じる訳もないことが判っているのに、剛は日本語で彼女に語りかけたんである。
もちろん通じないし、その後再会するソル(プラス彼女のきょうだいたち)とも剛は全然言葉は通じないんだけれど、言葉は通じなくても、コミュニケーションが通じてくる。
なんかだんだん、お互いに違う言語で喋りあっているのに、なんか判りますよ、とお互い言い合って、それがなんとなくその通りなんである。
そもそも通訳になるべき透にそのつもりが全然ないってところが(爆)、いかにもオダジョーらしいが、なんつーか、オダジョー自身が持っている雰囲気というか信念が、こんなとこ、逐一通訳しちゃったら逆に判りあえねえだろ、というのが感じられて、それはまさしく、そうなんだよね。
彼が何度も言う、この地では、ビールください、愛してますの二つの言葉さえ押さえていればなんとかなる、という持論は、最初こそいかにもオダジョーが言いそうないい加減な、女好きの言い様だと思うし、その通りなんだけど(爆)しかし、まさにこの二つの言葉で、剛は、運命の人との出会いを、涙と鼻水ダラダラたらしながらのラストクライマックスで、しっかりとつなぎとめるんである。
そうそう、アジアの、おっさん天使である。透が仕事場にしていたのが、一階に教会が入っている雑居ビルの一室で、事情を知らされていない透の相棒(のちに裏切って、全部持ち逃げして姿を消しちゃう)に剛はボッコボコにされちゃう。
教会、韓国はキリスト教が宗教の中で大きく占めていると聞く。アジアの中では珍しいと思われる。裏切りで何もかも失ってしまった兄弟のそばを、小太りの少年がうるわしき少年合唱団のコスチュームを着て、つまみ食いしながら走り去る。
それが、話の中には出てきながら、そのビジュアルが最後の最後まで持ち越される、おっさん天使につながっていく。何かと西洋文化に蹂躙されてきたアジアの片隅の小国、本来は金髪碧眼の美しい少年に似合うコスチューム。
それが、信じる者を救ってくれる象徴ならば、背も低く、髪の色も暗く、肌も黄色いアジア人は軽蔑されているんじゃないか。しかも天使は美少年。大人になってしまった、しかもアジアの男女は救われるのか。
宗教のなんたるか、西欧のアジアに対する差別意識、ファンタジックの中にコミカルを織りなしながら、かなりの挑戦的表現である。
言語に関しても、そうだよね。当り前のように共通言語の英語をペラペラと駆使する英語圏世界、それに反発して、自身の言語に異様な誇りを持ち、英語なんて存在しないかのような強さを持つヨーロッパ(特にフランス)。
アジアのいじましさは、英語へのコンプレックス、それが母国語へのそれにまで波及してしまう。しかも日本と韓国は、いろいろとめんどくさい。わっかりやすくソルのお兄ちゃんが解説してくれる日韓の嫌悪感パーセンテージである。
あったあった。双方60%がお互いを嫌っているっていう調査結果。これは異常な数字だ。ある国と国同士で、こんな数字だ出るだなんて。なんつーか、先入観以上の洗脳、国、つまりは政治家が自身を保持するために垂れ流している、一世紀ぐらい前の古い古い因縁をいまだに持ち出している。
剛、透兄弟は、透の相棒に裏切られて路頭に迷うし、その時にはあれほど彼を信頼し、韓国での生活を謳歌していた透も韓国人に対する呪詛を口にするのね。
しかしこのお兄ちゃんは、ビールと女性、いや特に、美しい女性が存在すればオッケーなんで、口から出まかせで次のビジネスのためにと旅立つ列車の中で出会ったソルと妹のポムにのぼせちゃって、口八丁で彼らきょうだいについてっちゃう。
ソルたちは、彼女が契約を切られ、ちょうど両親の墓参りのタイミングが来ていたこともあり、きょうだいたちなんとなく殺伐とした空気ながら、この旅に出ていたんであった。つまりは、双方ともに、重いものを飲み込んだ旅路だったんである。
ソルの妹はまだ若く、就職試験を控えている。ソルのお兄ちゃんはまじめな人物なんだけれど、なあんとなく頼りない。ソルが肩ひじ張って、自分が養わなきゃ!というプレッシャーを自らに課しているが、アイドル上がりの売れない歌手である。
墓参りに到達する場面で、きょうだいたちの本音がしみじみと吐露される。歌手である妹がめちゃくちゃ自慢で、いつでも宣伝できるようにCDを大量に持ち歩いているお兄ちゃん、自分たちの生活のために、いろいろ我慢しているお姉ちゃんに、そうさせてしまっている自分自身に自己嫌悪を覚え、逆にお姉ちゃんに当たっちゃう自分に更に自己嫌悪を覚えちゃってる妹ちゃん。
ガソリンスタンドでソルのCDをかけるか否かで大騒ぎし、エンストしてすわ野宿かと思ったら、ソルのストレスからくる体調不良で皆が一致団結、ホテルに宿泊して一夜明けると、なあんか心通じちゃう。
剛と透兄弟は、ソルたちきょうだいの叔母さんの家に共にお邪魔する。すると透はそこの娘ちゃんに一目ぼれし、口説き落としにかかるし、剛に、ソルにサランヘヨと言えよ、とけしかける。
剛にとってはソルに対する想いはまだ淡くモヤモヤとしてるし、なんたって妻が亡くなってそんなに時間も経ってないし、透のように、美しい女たちをヘラヘラ物色するなんて、出来る訳もない。
剛の息子ちゃんが、行方不明になる事件が起こる。めっちゃ寡黙な息子ちゃんで、劇中、マトモに会話したためしがない。
警察に保護されて、泣きもせずにいい子だったけれど、あまりにも喋らないから、迎えに来たメンメンのどれが家族かどうかさえ識別できず、保護してくれていた若いおまわりさんが困ってしまう。
本作の中で結果的には、判りあって、手を握り合って、剛が冒頭から呪文のように唱え続けた“相互理解”に到達したようにも見えるのだが、ちょっと、自信がないなあ。
剛とソルは、イイ感じになった。結構図々しい感じで剛親子はソルきょうだいたちの家に入り込んで、当然のような顔して、家庭料理をかっこんでるんである。そう、まるで家族のように。どれが家族か判んなかったメンメンの中に入って、全員が家族のように。
あの、めっちゃ傍若無人の馴れ馴れしさに見えたオダジョーを超えて、常識的に、慎ましく見えた池松君が、なあなあでソルたちの家に上がり込み、まるで遠慮なく、がつがつ食事するシーンで終わるすがすがしさである。
いーの。どーでも。結婚するとかしないとか、どーでもいーの。いーじゃん、とりあえず、家族っぽいしさ、みたいな。★★★☆☆
アクリル板の向こう側にいたのは、それまで語られてきたあと二人のどちらかでさえない、観客の前に初めてその顔を見せるもう一人の、“石橋ユウという名前を持つ息子”を、……殺してしまった母親だった。
そしてここまで同列に語られてきた三人の母親たちも、追い詰められて追い詰められて、息子の首に手をかけるところまで行く。三人の女優たちの、まさに狂気の競演である。
アクリル板の向こうに行った母親のようになったかもしれない。いや、むしろ、それは私なのだ。もう一人の私なのだと、その女性に対峙しているのは留美子だけだけれど、加奈(高畑充希)もあすみ(尾野真千子)も、その事実を知ったら同じく、思うだろう。
それにしてもいまだに、お母さんが、子供に対してはお母さんが、すべてを抱えてしまうのだということに暗澹たる思いがする。いかにも日本的な感じもするけれど、これは全世界的に多かれ少なかれやはりそうなのだろうか??
父親が悩んでないとは言わないけれど、本作の彼女たちの夫(加奈にはいないが)だって悩みは抱えているけれど、それは子供に対するものではなく、自分自身の可愛さゆえの悩みで、それを妻に自分勝手に投げつける有様なんである。
100年前から変わってない気がする。ただ変わったのは……私が子供の頃、親と子供がこんなに判りあえていなければならない、という価値観だったかな、という気がすることである。
息子と娘とではまた違うのかもしれないけれど、私も姉も親に対して本当に悩んでることほど、言う訳がない、という感じだったと思う。
誤解を恐れずに言えば、親との会話はあたりさわりのないこと、まあ判りやすく言えば心配させないこと。自分の悩みは自分だけの秘密であって、プライベートなことを親と分かち合うことはなかったように思う。
本作で描かれているように、世間的にも現代では、親と子供のコミュニケーションがとれていなければならない、というプレッシャーがすんごく大きい気がして、私としてはそのことに対してはかなり懐疑的なのだけれど、どうなのだろうか。
子供の粗相が親の責任になる、というのがその昔とは比べ物にならないぐらい厳然としているからこそなのだとしたら、それはあまりにも殺伐としている。
それが如実に出るのがあすみの場合である。彼女自身は地方出身の平凡に育ってきた女性なのだが、結婚した相手は結構なエリートらしく、“息子をのびのび育てたい”と都心へ遠距離通勤してまで、地方都市に二世帯住宅を構える。
その息子は出来すぎなぐらいいい子で、正直その時点からイヤな予感はしていたのだが案の定、自分では手を下さず、多動症の傾向のある同級生に銘じてクラスメイトに暴力を振るわせるという卑怯なやり方で、イジメをおこなうんである。
そのイジメられた子の親から、あすみは執拗に攻撃を受ける。普通に考えれば、責められるべきはそんなキチクな所業をしたユウ本人であるのが、子供だから、監督責任があるからという理由で母親に矛先が向かうのだが、母親、なのだよね。母親オンリー。
この場合に父親が勘定に入れられていないことに、むしろ父親が侮辱を感じるべきだと思うのだが、当の父親はお前のしつけがなってないから、とそれこそ100年前のようなことをヘーキで言うんである。
そりゃあすみは専業主婦だが、一日家にいて判らなかったのか、という言い方は、子育てが時間で換算できると言っているようなもので、責任転嫁も甚だしい。
そして……この頭のいいユウ君は充分責任能力があるのに、子供だと言うだけで、責められるのは親、いや、母親なのだ。
この三人の母親たちは、絶妙な感覚で年齢が違っていて、一番若年が30歳、実にハタチあたりでユウを産んで、シングルマザーとして育てている加奈。あすみは36歳、留美子は43歳。
お母さん役は初めて見る高畑充希嬢演じる加奈は、息子を育てるためにどこからか借金したローンも返済直前になるまでに、シャカリキに働いている。息子のユウはめちゃくちゃいい子で、本当にいい子だから、……大好きなお母さんに心に抱えていることが言えずにいる。
一見、隠し事など何もなく、すべてを共有し、恋人みたいに仲のいい親子に見えた。実際、お母さんのことが大好きなのはホントで、だからこそ言えなかったあれこれ。
加奈のママ友(友……ではないか)である山田真歩演じるデリヘルやってる母親が、加奈と合わせ鏡のように強烈な印象を放ってくる。彼女の言うことも、なんか判るんだよな。彼女の目からは、息子のために、ザ・清貧といった感じで、時給の安いパートをシャカリキに働き続ける加奈が、善人でござい、と見えて鼻につく。
判らなくはないのだ……。デリヘルを選んでいるのは、昼間は息子との時間を過ごせるから。でもその仕事のせいで、自身はもちろん、息子だって後ろ指をさされるのだろう。
加奈に八つ当たりするのはお門違いには違いないけど、なんか判る気がしちゃう。そしてこれまた、女だけが、お母さんだけが陥る地獄である。お父さんはどこ行った、もう!!
43歳の留美子は、子育てのために一度は離れたライターの職に就く。つまりは才能がある女性。加奈のようにより稼ぐためなら風俗という道もありながらも、それを選べず、ワーキングプアに陥ってしまう、こうした立場の女性の方が圧倒的に多いのに比しては、稀なる、ラッキーな立場……と言いかけて、いや違うのだと。
つまりは、女が、いや違う、”お母さん”が、才能を生かした仕事をすることが、100年前から変わらない男社会、家父長社会の中で何ら変わらず、むしろ追い詰められていく要素になっていくことをまざまざと見せつけられて愕然とするんである。
彼女の夫はカメラマン。華やかな世界。今は二人の息子のやんちゃっぷりに疲弊している留美子だって、夫がプライドを持って仕事をしていることこそが支えだったであろうと思われる。
だから、自分もそれを取り戻したいと思って、子育てが大変ながらも、もう一度仕事に復帰する気持ちになったのだ。
まさか夫が失業するとは思わずに。……こうして書いてみると、確かにここんところに女の甘さが透けて見える気はする。家計を支えるとか、そういうことで仕事に復帰したんじゃないのだ。アイデンティティのため。
でも、夫はそもそも、家計を支えるためと思って仕事していたのか。遊びみたいに子育てにちょこっと参画するぐらいで、オレは売れっ子カメラマン、てな鼻っ柱がくじかれると途端に役立たずになってしまう様を見せつけられると、さあ……。
留美子の二人の息子、ことにお兄ちゃんの方はザ・やんちゃで、弟をイジメてばかりいる……ように、一見見える。実際、留美子にはそうとしか見えていなかったんだろう。
怪獣のように自分を困らせるだけの二人。解決方法を考える余裕もなく、「お兄ちゃんでしょ!」という、言ってはいけないワードで一方的に責任を押し付ける、のは、自分だって夫からされている仕打ちだということに、相手が子供だから、気づかないのだ。
彼女が思っている以上にこの“お兄ちゃん”のユウはめっちゃ大人で、弟に厳しく当たるのは、泣いてばかりで現実問題に直面しようとしない甘えたちゃんだからなのだ。そしてそれは、まさに母親が、そして父親が、そうだからなのだ。
泣きはしないさ、そりゃ、大人だから。でもやってることは同じだ。現実問題に直面しているのは、お兄ちゃんであるユウだけ。だから彼は、ヒステリックにケンカし、泣きじゃくる弟を叱咤していたんじゃないのか。イジメてなんかなかった。
個人的な印象では、オノマチ嬢が演じるあすみが一番キツいと、感じた。彼女だけが専業主婦。そして、外見的にはやたら恵まれている状況。皆からうらやまれているという外的プレッシャーもあるけれど、それ以上に、彼女は外に出ていける力というか、そういう気質の女性ではないことが、判るからさ……。
加奈や留美子は、自分で働いて稼ぐことによるアイデンティティを得ることによって、自身を何とか支えるすべというか、力を持ってる。それに対して、息子ちゃんたちも、確執はガンガンあったにせよ、あったからこそ、母親との絆をより深いものに出来ている。
でもあすみだけは……。この、絵にかいたような裕福な、エリート二世帯住宅状態が彼女を囲い込んでしまう。結局息子にナメられたのも、その要素があったんじゃないかと思う。
二世帯住宅の微妙な距離感である義母とも親密になれないまま、息子の方が義母の秘密をかぎつけて、悪魔的性質を更に育ててしまう。
つまりはさ、この息子ちゃん、ユウにとって、自分だけが祖母の認知症に気づいているってことが、優越感と、嫌悪感と、征服感とないまぜに得てしまったということだよね?
彼の悪魔が暴露された時に、ああもう、どうしようもないかも、このまま悪魔的な人間になっていくのかも!!と絶望的な気持ちになったのだけれど……彼が、親に、大人に対して持っていた絶望感が、親も、大人も、ただ年を重ねているだけの、自分と同じ、愚かな、幼い、人間だということが判った時に、彼自身の苦しみも解放されたのだと思う。
あすみは新興宗教に傾きかけるのだけれど、しょんぼりと歩いている息子の姿に、我を取り戻す。
抱きしめるということが、この三組の母と息子(たち)の間違いないでしょ的な解決法として差し出され、確かに感動的だし、ついつい涙したりもするのだけれど、先述したように、親とこんなに親密に感情をぶつけ合う記憶がなかったもんだから、これはヤハリ世代の価値観の違いなのかなあと思ったり。
やっぱりやっぱり大きく感じるのは、お母さんであって、お父さんの比率の薄さに対する違和感である。お父さんはそれがさみしいのかもしれんが、お母さんに課せられるのは、理不尽な重責にしか過ぎない。マジで100年前から変わってないこの国に、失望しかないんである。★★★★☆
タイトルは、庶民側のヒロインである美紀(水原希子)が猛勉強して入った慶應義塾大学で、同郷の友人とともに内部生とお茶に誘われ、”アフタヌーンティーの5000円のセット”に愕然とするシーンで、「この人たち、貴族……?」とつぶやく場面から派生している。
このこ、だからこの場合ははっきりと、ダブルヒロインのうちの華子(門脇麦)をさしていて、いわばタイトルロールであることを考えると、私が感じたような新鮮な視線を示すために、”貴族”である彼女こそが重要な役割なのだ、ということを暗に示しているように思う。
先述の、過去に観た記憶のある内部生と外部生を描いた映画では、架空の大学名だったかと思うが、本作ではハッキリと慶應義塾、幼稚舎から上がってきた人が最もエリートとまで言及していて、なかなかに挑戦的だな、と思っちゃう。
華子や彼女の友人、逸子たち学生時代の友人たちは恐らく慶應ではなく、いわゆるお嬢様学校で小さなころから区画されて上がってきた子たちだと思われるのは、内部生と外部生がいわばけん制しあう、実際の場である慶應のような校風には、特におっとりとした華子などはとてもなじめないだろうと思うから……。
彼女たちにとって、20代のうちに結婚、出産しなければ行き遅れである。専業主婦とわざわざ言うのが信じられないとまでは言わないが、「妻が家事をやれる程度に、仕事をしてもらいたいのが夫の本音」と笑いあう程度の現実性で、でもそれが妙に現代の核心をついている気がして仕方がないのだ。
めっちゃ恵まれてるのに。稼いでる旦那さんに嫁いで何の不自由もないのに。そして……そうだよねー、とその男女の不公平感に何の疑問も持っていない友人たちは、大きなお腹を抱えていたり、わんぱく盛りの子供が走り回っていたり、幸せそうである。その中で、両極的になじめないのが華子と逸子、なんである。
華子はまだ友人たちの境地に行けなくて焦っている。逸子はそもそも、このお嬢様的価値観に反発している。両極端の二人がなぜか気が合い、そして最終的に近づくのが妙味である。そしてそれには、外部生、外側の、貴族ではない庶民としての美紀の存在なんである。
ぶっちゃけていえば、美紀は華子の婚約者時代のダンナ、幸一郎の……うーん、なんといったらいいのか、ここでフツーに元カノと書こうとして手が止まってしまった。確かにセックスはしている。でも付き合ってはいない、と言うのは、美紀の負け惜しみではなかったと思う。気を許せる相手だった。気を許せたから体も許した。
美紀は口では、「呼び出せばすぐに来る都合のいい女」と自嘲気味に語るけれど、美紀自身が幸一郎に対して恋愛というほどまでの強い思いというよりは、屈託なく話せる、本当に友人としての大切さを失いたくなかった感じがあるのだ……。
そんな都合のいいことあるの、と世間的には言うだろう。幸一郎自身、本当に屈託なく、美紀に対して大切な友人として思っていただろう。そこにセックスが介在することに無頓着なのが、おぼっちゃまならではと言えばそれまでだけれど、私は、女がそれを盾にツマラナイことを言うのはヤだなと思うから、美紀の、まあそれなりの逡巡はあるにしても、幸一郎に対する始末のつけかたが、凄くグッときたんだよなあ。
美紀は富山の田舎で育って、物語中、弟とのシーンが印象的かつ、あらゆる示唆に富んでいるんである。
いかにもヤンキーあがりといった弟君は、セフレが勤めている店に飲みに行こうか、とあっけらかんと言う。サイテー、と姉の美紀は当然却下するが、改めて考えれば、弟君はそのセフレ女子を、まさにフレンドとして、相手ともその信頼の上で付き合えているからこんなことが言える訳で、美紀と幸一郎も同じじゃん、と思っちゃうのだ。
ただ違うのは……弟君とそのセフレ嬢が同じステージで理解しあっているのと違って、美紀と幸一郎は、違うステージでそれぞれに納得している、ということ。
美紀は庶民という以上に女として、幸一郎の婚約者である華子の気持ちを慮る。しかし一方で、華子は自分とは違うステージの存在である。さらに美紀の知らないそのステージの中の格差がある。
美紀からしたら華子も幸一郎も同じ”貴族”のひとくくりなのだろうが、華子にとって幸一郎は、自分たちが庶民に見えるほど、血統も違う、宿命も違う血筋なのだ。
美紀と華子という、違うステージの女二人をつなぐ、いわば二股かけてる幸一郎が、ある意味純粋に二人の女を愛し、自分の人生が自由にならないことに気づいているようで気づいていない、そこから抜け出すことさえ考えてもいないことを思うと、何か胸が苦しくなる。
幸一郎は顧問弁護士という立場で、華子の義兄の紹介で知り合った。その直前に長く付き合って結婚の約束まで取り付けた元カレに、こともあろうに家族に紹介するその日にフラれたことで、華子は親族からのプレッシャーもあって焦りまくっていた。
親の病院を継いでもらいたいという思いをくんで整形外科医という肩書だけで見合いをしたり、姉や友人の知人友人を引き合わされたが、どれもうまくいかなかった。
正直華子の世間知らず、お嬢様すぎなところが壁になっていると感じる向きも多々あった。人いきれのする居酒屋から逃げ出したり、家事手伝いだという自分の身分の詳細を聞かれて「お芝居を見に行ったり、習い事をしたり……」とまるで悪びれなく言っちゃう、図太いとも思っていない神経には、同情さえ禁じ得ないとさえ思った。
そんな感じだから、さわやかなイケメンで、話が弾み、自分を尊重してくれる、幸一郎にのぼせたように恋に落ちたのはそらまあ……仕方ないと言えばそれまでで、実際幸一郎には特段非はないさ。彼が、親族のことも考えて、家柄をまず考えて華子と会い、でもそれ以上に彼女を気に入ったからこそ結婚を申し込んだんだから、特に不実とも思わない。
美紀のことは恋人ではなく友人だと彼自身が思っていたんだろうことを思えば(しかも美紀も同じような価値観で考えていたと思えば)、何も問題はない。そのもやもやは華子の友人、逸子が、まさに双方の価値観と一般的常識を持っている逸子が取り持ってくれたことで、この三人の間には不思議な友情さえ芽生えたのだ。
美紀は大事な友人を失うことを決意し、華子と幸一郎は結婚した。問題はなかった。二人の間には。
子供ができないことを早々と義母が”心配”してきた。嫁は跡継ぎを生まなければならない。ああ、この期に及んで、この”ステージ”ハイクラスな世界における、女の隷属性を華子は今更ながら、気づいたのだ。あーもー、私みたいなフェミニズム野郎なら、とっくにわかってたのにね!!(ハイクラス女子がフェミニズム野郎だったらそれは怖い……)。
しかも、弁護士の職であったはずの幸一郎は、代々名門の政治家であった地盤を継ぐ道筋が当然のように出来ている。そのことが判っていなかったのは、これまた華子だけだった。
幸一郎はそれを告げれば華子が離れてしまうとでも思ったのか、何も言わないまま、ただただ多忙になって、夫婦のコミュニケーションがとれなくなるばかり。
一方の美紀は、ともに慶應に進学した同郷の友人、里英の起業の誘いに応じたところだった。ただ進学のために上京しただけなら、二人の想いはこんなにもシンクロしなかったと思う。
地方がダメだとか、東京がダメだとか、いうんじゃない。結局のところ、どちらも同じだ。地方の小さなコミュニティーで、就職先も少ないとなると、大抵が親の仕事を継いで、つまりコピーしているばかりである。東京に出れば無限の可能性があると思った。
あるのだろう。でも、慶應という特殊な世界に入った彼女たちは、内部生のステージでは、まったく同じことが行われているに過ぎないことに気づいてしまった。
井の中の蛙。がんじがらめに囲い込まれているのに、それしかないと思い込んでる。ひょっとしたら、プライドさえも持っている。でもそれがいかに小さく無意味だと知った時に、世界に羽ばたけるのだ。里英と美紀は、一足早くそれに気づいた。
逸子はもっともっと早い段階で、学生の頃から判っていたのだろう。バイオリニストとしてドイツを拠点にしながら、「ドイツにいるだけじゃ食えないから」と日本にたびたび戻ってくることを、友人たちはその言葉通りに受け取って、大変ねえ、なんて同情めいた視線を送っていたが、違うだろう。
逸子はお嬢様学校の中のぬるい価値観が生み出す、女子が野放図にさらされる蔑視に、その女子自身が全く気付かず、あるいは気づいていてもよしとすることに、歯噛みする想いでいたのだろう。
ああ、フェミニズム野郎が歓喜するキャラである。この日本という国が、女性が自立するのにあまりに不整備な、遅れた国だということ。
男と結婚しなければ社会的に自立できないという、この矛盾した文脈から脱却できない、先進国としては信じられない遅れた価値観の中で、そうだ、庶民より先にセレブリティこそが、そのことに声を上げてもらわなければならないのだ。
地方の、親の稼業を継いだ男どもが、自分の手柄じゃないのに肩で風切って、同窓会で久しぶりに会った、ちょっとイイ女になった美紀に、あからさまにホテルの部屋に誘う場面とか、あーもーほんっと、女ってバカにされてるよね!!と思う。
だってこれ、逆はないじゃない。ないよな。あったらいいけど(爆)。このイナカモンのコイツが、「妻も子供もいるよ、当然じゃん。これって誘ってるんだけど」と、まるで鷹揚なイイ男みたいな顔して口説くのが,オエーッ!!当然美紀は、「超ありがちなんだけど」、とフッてくれてスッキリするんだけど、いまだにこんな感じかよ……と思っちゃうよなあ。
華子が目覚めたのは、正直意外だった。美紀は手を引いて、邪魔しないと言って、逸子も同席していたし、この三人には信頼関係が生まれていた。
いや、だからこそか。華子はその前に義兄に仕事を紹介してくれるように依頼していたから、変わりたいという思いは感じていたけれど、それを身内に頼んでいた弱さは確かに感じていた。
華子と往来で偶然出会い、一人暮らしの美紀の部屋に招かれる。ずっと家に囲い込まれていた自分とは全く違う、美紀という人間自身が横溢している小さな部屋に、深く心打たれている様子が、華子のキャラとしては内向的だし、表には出さないんだけれど、この時の衝撃がヤハリ、大きかったんじゃないかと思われる。
次のシーンで、華子から離婚を切り出して、こんな家柄同士だから個人の突き合わせという訳に行かなくて、両家が正式な黒い和服姿で相対し、華子家側が畳に額を擦り付けあう事態である。
てゆーか、華子は義母にいきなり頬を張られるし。マジか……。唯一救いは、華子側の家族の理解があったことだが……。
私はフェミニズム野郎なので、こーゆー話はめっちゃ敏感になる。”貴族”ステージは保守的だからいまだに、そしてこれからもじりじりとその保守的価値観は持続されるだろう。
女は家事手伝いという名の教養を身に着け、跡継ぎの男の子を産みさえすれば、後は順風満帆。そんな、半ばリアルだからこそ伝わっちゃう都市伝説が、この国の女の自立を妨げるのだ。おとぎ話が堕落を生み出す。ああ。フェミニズム野郎としては、こんな許せないことはない!!★★★★☆
あのキラキラの女の子たちはどこか昭和のアイドルをほうふつとさせるところもあったし、なのに、その育っていく過程を見せるという手法が今までにない身近さ、親近感を感じさせて、本当に夢中になったものだった。
それは、今のように地下アイドルと呼ばれるものまで無数に乱立、AKBから派生していった、やたら数が多くて末端は顔さえ映らない群衆アイドルとは違う、一人ひとりが立っているアイドルだったのだよね。
その中でも松浦亜弥は、別格だった、と思う。やはり。それに太刀打ちする形で藤本美貴が登場したし、その器は充分あったと思うけれど、モーニング娘。のテコ入れのような形で、ミキティがソロデビューからモー娘。入りという後にも先にも唯一の展開になって、実質、ソロとしてただ一人スターであり続けたのがあややだったんだよなあ。
そう思うと、本作の主人公、劔君が、その圧倒的なアイドルカリスマに魔法にかかったように落ちてしまったのは本当に、判る。あややは別格だった。最初から完成されていた。
劔君は実にうだつの上がらない男子。音楽が好きだった筈。だからバンド活動をやっている筈。ベーシストなんだけど、メンバーに激しく叱責されて一言も言い返せない。アルバイトを練習不足の言い訳にしている後ろめたさなのか、そもそもやりたいことをやっている筈だったのにという虚無感なのか。
そんな彼を心配して友人が「パチンコで勝ってゲットした」というあややのDVDを置いていった。まあ元気出せや、その程度の感じで。
コンビニ弁当をつつきながらぼーっと見始めた劔君は、知らぬ間に目を真っ赤にして、涙があふれて止まらなかった。
そして小さなCDショップにチャリを飛ばした。あやや絶賛の手書きポップにほおを緩め、CDを大事に手に取る劔君に、店番をしていたナカウチ(芹澤興人)がイベントのチラシを手渡したのだ。
芹澤氏は、今泉監督の信頼厚い感じが凄い、伝わるんだよなあ。集まるメンバーの中でも一番の大人、一番の冷静な判断を下せる人。顔は一番彼がオタクっぽいのに(爆)。
そもそもCDショップで働いてるし、のちに東京にわたって(あ、ここは、大阪ね)ライブハウスの雇われ店長となり、劔君を呼び寄せるあたり、決してハロプロオンリーのオタクではなく、もともと音楽が好きだってことが判るのがイイんだよね。
そもそもつんく氏がその豊富な音楽的素養をモー娘。はじめハロプロのアイドルたちにガンガン実験的に挑戦させたことが、何よりほかのアイドルプロジェクトとは一線を画していたのであり、劔君やナカウチさんは、その中から音楽への道を選び取っていったのだもの。
ああ、全然何も言わないうちに、なんかオチめいたことを言ってしまった!!まあつまりさ、そりゃあいつまでもハロプロオタでばかりはいられない。ここに集まっているオタたちは仕事とか普段何をやっているのかいまいち見えないけど、まあ多分、劔君と似たり寄ったりの人生決めきれない感じなんじゃないかと思う。
ただ、今現時点の彼らにとってはそんなことはどーでもよく、ハロプロ、そして推しに捧げる情熱と、それを分かち合える仲間との時間が楽しく、幸せであることこそが何よりなのだ。それ以外に何がいるのか。ハッキリ言葉に出してさえそう言ってのけるぐらい。ハロプロのない人生などありえないと。
実際、今だってハロプロは強靭に生き残り続け、それどころか独自のアーティストスタイルを構築するグループが誕生し続け、そして本体ともいうべきモーニング娘。も進化し続けている、ことを、ラストシークエンスで劔君が、今は亡きコズミン(仲野太賀)に告げる。ああもう、何にも書けないうちにそんな展開に触れちゃった!!
コズミンは同好の士の中でわざわざかき回すような、怒りの神みたいな問題児である。後半には新入りのアール君が彼女持ちであることだけで目の敵にし、その彼女を奪い取ろうとして赤っ恥をかいたりする。
劔君が最初にイベントに参加して打ち上げに誘われた時も、”自己紹介をしなかった”ことで激高、この時には劔君は訳も分からず、道義に厳しい人なのかなぐらいの印象を観客にも与えたのだが、次第に単なる問題児なだけなのが判ってくるんである。
アール君に対するライバル心絡みでいろいろ問題を引き起こすし、メンバーたちもメーワクこうむるんだけれど、彼らは不思議と、その中でケンカにならないんだよね。
何かが起こるたび、これは可笑しいことなんだ、笑えることなんだと、話し合ったわけでもないのに皆の共通認識で、笑い飛ばす。
コズミンはヤな奴。ハッキリ言って、嫌われてる奴。なのに、この魔法の笑い飛ばし戦法によって、コズミンは彼らの友達だし、バカなことやって笑わしてくれる奴だし、がんになって死んじゃっても、なんである。
これは……刺さったなあ。ホントにね、コズミンはプライドが高いし自分勝手だし、メチャクチャなんだけど、彼らが見放さない、どころか面白がることによって、愛すべき人になっちゃうのよ。
そしてその素晴らしき戦法は、メンバーすべてに波及する。コズミンに彼女を取られそうになったアール君でさえ、イベントで土下座して謝ったコズミンに無理やりチューをして仲直りしちゃう。泣き笑いである。
他のメンバーは、山中崇氏演じる、髭面サングラス、見た目はめっちゃこわもてなのにテキトーで、テキトーなのに初対面の相手の推しメンをズバリ当てちゃうロビさん。見た目はそこそこイケてるのにヘンなスイッチ入っちゃうというか、完璧な振り付けで死んだ目で踊る「ザ☆ピース!」、突然の夢芝居熱唱する西野君。
何より本作ですっごい印象的だったのは、予想外のキャスティング、ロッチのコカドケンタロウ氏!めっちゃハマってる!!
彼が演じるイトウは特段強烈なキャラではないんだけれど、やっぱりこれは芸人さんの力量かなあ、脚本で定まっている台詞だろうとは思うけど、いわばツッコミにあたる処理が彼に任されると、そののんびりしたテンポでのそれが、実に絶妙で、最高なのよ。
それにコカド氏って、ちょこっとイケメン顔こすってるあたりがイイ感じにこのオタク青年に似合ってるし、何よりあの独特の声だよね。これは役者としてものすごい武器になると思う。今後の役者、コカドケンタロウに期待したいなあ、マジで!!
別にケンカ別れをしたわけじゃないし、なんとなく、なんとなく、という感じで、彼らはそれぞれの道を行く。
なんかね、こういうアイドルオタクさんたちってさ、常に存在するから、アイドルオタクになれば一生、そのまんまのような錯覚をしていたけれど、考えてみれば、その都度都度にサイリュームを振っている彼らは、年を取っていない。つまり、代替わりしているということなのだ。次のステップに行っているということなのだ。
かれら、あべの支部に参加しているメンバーにとっての最大の転換期は、石川梨華嬢の卒業である。いま改めて彼女の声明を聞くと、なんとなんと、たった二十歳で卒業を”強いられていた”のかと、思う。
いや、強いられたなんて言ったら、怒られるかもしれんが……だんだんと、モー娘。、ハロプロの中でも世代交代が早まっていった感は当時、あったかなあ。
その卒業ツアーの最終日、劔君はネットで落としたチケットを受け取るために会場外で待っている。そこにナカウチさんが来る。自転車である。「自転車で来れるんだ……」と、大阪から出てきた劔君は羨望のまなざしである。
東京だから、なんていう単純なことではなく、ナカウチさんが自分の居場所を見つけられたことへの羨望だったと思う。劔君はまだ何も見つけられてなかったから。
チケットを受け取った。その相手は、自分の母親ぐらいの年頃の女性だった。西田尚美である。彼女がなぜこの卒業公演に来たのか、二枚とった一枚が誰のためのものだったのか、単なるファンなのかそうじゃないのか、何一つ明らかにはされない。私のような遅れてきたファンという感じもしない。
劔君の隣で涙ぐみながら梨華ちゃんの卒業公演を見守った彼女は、劔君と固く握手を交わして、去っていった。またいつか、という言葉が実現するかどうかはわからない。ただ、この一日、一瞬の日であった。
モー娘。には、ハロプロには、様々な年代を巻き込んで、いろんなエピソードがあるんだよね。私もすっごく、なんかいろいろ、思い出してしまった。彼女たちに夢中になった老若男女の中には、そうね……コズミンのように、死んでしまった人もいるだろう。いまもハロプロオタを継続している人もいれば、それを思い出として胸に刻み、別の推しや生き方を見つけた人もいるだろう。
それだけの年月が、モーニング娘。が誕生した時から経ったんだということに、凄く凄く……胸が詰まる思いがしたのだ。あややと命名したのは、カオリンだったかなあ。違ったかな??当時のそんなエピソードも思い出したりして。
闘病を彼があけっぴろげにしたことで、すべてを笑いにすることが身上のメンバーが、生前葬をにぎやかにとりおこなうのが、最大のクライマックスである。
劔君を演じるトーリ君はそこはそれ、役どころからこらえきれない涙を流して、コズミンもそんな彼をからかって、感動を演出するけれども、泣かなくていいの、こんなんで。葬儀の場面も控えてるんだもの。
鼻の穴に綿を突っ込まれたコズミンの棺には、ギュウギュウにエロ美少女フィギュアが詰め込まれており、その間抜けな状態に覗き込んだメンバーはもれなくぶふふふと噴き出す。こんな幸せな生前葬&本葬があるだろうか。
こんなにも、時が経ってしまったのかと思って。モーニング娘。の誕生を、その後の快進撃を、ドキドキしながら見守っていた頃から、その時生まれた赤ちゃんが成人するほどの時が経っているなんて。歌謡界、いや音楽史に語られ、研究されるべきプロジェクトであると思うし、そのファンとして、実に多様性のある受け手が存在し、広がり続けていくのだ。
ハロプロは、製作、パフォーマンス、ファン、そして世界に広がる唯一無二の、今後も広がっていく素晴らしきコンテンツ。この映画も、世界に広がってもらいたい。★★★★☆
その時の三井には、彼女は自分には手の届かない、キャンパスライフを謳歌しているまぶしい存在にしか見えなかったけれど、後から考えれば彼は彼女の何も見ていなかったのだ。その後決死の覚悟で声をかけて喫茶店でコーヒーを飲んだだけ。ただそれだけ。
後から次々と明らかにされるのだが、彼の記憶の中にはかなりの割合で妄想が散らばっていて、本当にこの日の、ほんのわずかな時間の邂逅であったのだ。
それが明かされないうちに、11年後の千尋が三井のことをちっとも覚えていないことに観客もまた、あれだけの交流があったのにこんな覚えてないことってあるの、本当に彼は存在感が絶望的に薄いのか……とも思いかけたんだけれど、そうじゃない。
観客に示される妄想記憶は、彼が大事に繁殖させたグッピーを彼女に分けてあげて、その後も世話を指南して、そして暴力彼氏から彼女を救い出し、心と身体を共にする、というまでに至るものだった。
後半戦は彼の孤独からくる一種の狂気が次第に浮き彫りになってくるから、これはなかなかアヤしいなと気づいてくるのだけれど、グッピーを届けるために彼女の部屋にお呼ばれするまではほんとだと思ってた。そう思っていたから、いくら11年経った後とはいえ、「グッピーを飼うなんて初めてだから」と千尋が言ったとき、ボーゼンとしたんである。
後から思えば、つまりは千尋だって同類だったのだ。それも、きっと、結婚してからとかいうんじゃなく、三井の目にはまぶしいキャンパスライフを送っているように見えていたけれど、きっと彼女だってずっとずっとそうだったんじゃないか。
グッピーをやっぱり飼えない、ごめんね、という電話で11年前の彼女との関係は途切れた。なぜ飼えないのか。アパートだからと彼女は言ったが、それは喫茶店の会話の時に判っていたことじゃないか。
暴力彼氏から救い出す記憶は妄想だったけれど、のちに彼女が暴力夫から逃げ出せない現状にあるのを見ると、そういう男にからめとられるタイプの女だったんじゃないかというそれこそ“妄想”も膨らんでくる。
三井のグッピー愛は相当なものである。小学生の時親からプレゼントしてもらった初代グッピーを、優勢種を残すために仕分けて弱いものはトイレに流すといった描写まで見せる。
「そうでなくては、美しい色のグッピーは残らないのだ」彼自身、気づいていないのか。そうやってトイレに流される存在が自分と重なるのだということを。
そのグッピーを介してつながれるはずだったマドンナとの糸が切れたことで、彼はいわば狂気に至ったのか。いや、狂気だなんていうのはちょっとカワイソウな気もする。愛と言ってあげたい、けれども……。
11年の間、千尋を想いながらも一応はフツーに暮らしていたのに、突然何の糸が途切れたのだろう。彼は興信所を使って現在の彼女の居場所を突き止めた。
結婚して生まれたばかりの子供がいる。最初はその姿を見たいだけだったのだろう。すれ違う時、三井君?と気づいてくれないだろうか、だなんて夢想したりして。
気づくどころじゃなかった。キャンパスで光り輝いていた千尋とはまるで別人だった。疲れ切った顔で、うつろな瞳はどこも見ていなかった。のちにその理由がわかる。夫から深刻なDVを受けていたのだ。体中あざだらけ。目を腫れ上がらせている時さえあった。
三井は彼女たち家族が暮らす家を観察できる場所に観賞魚の店をかまえ、その二階に住み込んで、望遠鏡でのぞき見していた。最初のうちはそれこそエロティックサスペンスのごとき、彼女の裸がおがめたりとか、そんなモンだった。
そもそも冒頭も冒頭、物語のクライマックスをすでに示しているんだけれど、三井は千尋の家に侵入するどころか、夫婦の寝室のベッドの下に潜り込んで、「もう何日経ったか……」とつぶやいている。
うっわこれは、倒錯男子のアブないストーキング映画だ!!と思って(まあある意味その通りなんだけど)いたが、もうこれは犯罪だろ、という凄惨なDV夫の描写が繰り返されると、もう早く、早く早く、三井、彼女を救い出してよ!!とイライラする。
三井は、なかなか踏み出せないのだ。そらそうだ。こっそり合鍵作って(これはかなりムリあったけど)のぞき見してる、ある意味ヘンタイ男なんだから。普通に幸福な家庭生活を千尋が営んでいたら、それこそ三井はキモチワルイだけの男だっただろう。
だって合鍵だけじゃない。盗聴器まで仕掛けてるんだから!!そして、千尋に気づかれないように、グッピーの世話までしている。本当は難しいグッピーの飼育をこっそり忍び込んでやって、人見知りの赤ちゃんに認識されるまでになっちゃってるんである。
三井の部屋が、かなりキている。千尋の写真はたった一枚きり、ゼミの集合写真と言っていただろうか。そう、集合写真だ……。三井が忌み嫌っていた。
その千尋部分だけを拡大コピーして、何枚にもパズルのようになっているのをきちんきちんとならべて、巨大千尋が壁に貼ってある。
一緒にコーヒーを飲んだ時千尋が来ていた服、そのままじゃないだろうが、似ているものを探し出したんだろう、マネキンに着せて、ウィッグをかぶせ、あの時感じたユリの香りの香水をふりかける。目をつむって、彼女の肉体と声を感じる。「三井君……」と。かなりの重症である。
でも、千尋もまた重症患者であったわけだから。本来なら気色の悪いストーキング男こそが、彼女にとっての救世主になるんだから。
一度は三井は、本当に決意して、だってあの暴力夫に殺されかねないと思ったから、スタンガンを手にして、オムツを着用して(!!)チャンスが訪れるまでベッドの下に潜り込んでいたんである。
冒頭で示された時には、夫婦のセックスの声をベッドの下でひっそり聞いているヘンタイ男にしか見えなかったのが、このセックスの声が、彼女の声が、恐怖と悲鳴でしかなかったことが、この時間軸に戻ってきたときに知れて、ゾッとするんである。
結局はさ、このシークエンスではさ、三井は何もできないわけよ。千尋の方が勇気を振り絞って、赤ちゃんを連れて逃げ出す。
だってこのサイテー夫は彼女の父親がガンで入院したから一日でいいから帰らせてほしいと懇願したって、「お前が行ったって、どうせ死ぬんだろ?」と言い放つほどのキチク夫なのだから!!
逃げた先のビジネスホテルで、千尋はライターの中に仕込まれた盗聴器に気づく。気づくんだけれど、それが嫌悪や恐怖じゃなくて、見つけたその時から、私のことを判ってくれてる人がいる、というスタンスを感じるんである。
その直後に夫に探し出されてムリヤリ家に帰らされるんだけれど、すでに千尋の心持は、百人力だったと思われる。ただ、それが誰なのかは見当がついていない。そこんところが……切ないところである。
三井は千尋の危機に気づいて彼女の後を追ったんだけれど、思いがけないトラップにかかる。大型魚のアロワナを、飼育環境をきちんと持ってないのに無理やり買っていった暗い目をした青年が、「アルバイト先の奥さんが旅行の土産を彼の分だけ忘れた」ことに激高して刺殺したのだ。
彼との関係は客であっただけ。だからそれを説明するだけの三井だったけれど、この暗い目をした青年に対する嫌悪感が、「鏡を見ているようだから」と最初から三井は自覚していたのだ。人から忘れられるということ、それは死ぬよりつらいことだと。
ここで何度も引用しているけれど、萩尾望都の「トーマの心臓」でトーマが言い残した、肉体の死は大した問題じゃない。忘れられることこそが真の死である。誰かの記憶に残る限り、死は訪れないという台詞を、ことあるごとに思い出すのだ。
これは落ち着いて考えてみると、かなり粘着質のコワい台詞なのだ。トーマはユリスモールのために命を投げ出したのだから、彼は自分のことを忘れる訳がない。だから自分は彼の中で永遠に生き続けるのだ、と。こんなストーキング気質ないと思うんだけど(爆)でもこれ以上ない、美しい物語だったんだよなあ……。
こんな暴力夫にからめとられて逃げ出せなかった千尋もきっと、三井と同じだったのだ。そして……こう言ってしまうのは勇気がいるけれど、千尋の夫もまた。
彼は千尋が逃げ出した時から覚悟していたのかもしれない。彼女が包丁を握ってぶるぶる震えながら対峙してきた時、いつものように不遜な態度ではあったけど、まるでヘーキにその包丁を握り、血をだらだらこぼしながら、「お前は俺を捨てるんだな」と言った。
その台詞は、その前段階に言った、「刺せるもんなら刺せよ」という凡百の、ありがちな誘導文句とは明らかに違って、彼のキチクな征服欲が、孤独からの恐怖に来ていたことを知って、ボーゼンとするんである。
だからね、結末が……千尋の代わりに彼女の夫を絞め殺し、お縄になった三井、彼の記憶を呼び覚ました千尋が三井君!!と呼びかけるラストに感動するもんじゃないのよ。だって千尋の夫は心のボタンのどこかがかけ違っていれば、心を交し合えたかもしれないのに……。アロワナを買っていった青年もそうだ。誰もが誰もが、さあ!
千尋の夫は、千尋を愛していたのだろう。ただそれ以上に自分の孤独こそが強烈な病で、千尋への愛をその孤独を紛らわすことに利用していたことを、判っていたけど、判っていたけど、っていう……。
なんて悲しいの。表面上は苦しむ千尋を救った三井君。11年越しの記憶がよみがえったという感動のラストだけど、そうじゃないよね。そうじゃないよ。★★★☆☆