home!

「ゆ」


2021年鑑賞作品

由宇子の天秤
2020年 152分 日本 カラー
監督:春本雄二郎 脚本:春本雄二郎
撮影:野口健司 音楽:
出演: 瀧内公美 河合優実 梅田誠弘 松浦祐也 和田光沙 池田良 木村知貴 前原滉 永瀬未留 河野宏紀 根矢涼香 川瀬陽太 丘みつ子 光石研


2021/10/11/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
この力作、「かぞくへ」の監督さんだと鑑賞後に知り、飛び上がった。覚えてる覚えてる!!年をとるごとに観たそばから忘れてしまう(だからこんなサイトをしている……)私にとって、物語はさっぱり忘れていても、凄い映画という印象だけがタイトルと結びついて刻まれているのだ。
ああ、あの「かぞくへ」の愛しき親友、洋人を演じていた彼と言われれば確かにそうだ。本作の問題の女子高生、萌の父親。登場した時にはすわ、娘を虐待する父親かと思いきや、不器用で生活力はないけれど、ちゃんと娘を愛してて理解したいと思ってて心配している笑顔のチャーミングさがすべてを物語っている父親。この父親の印象がこんな具合にくるりと変わったことが、本作を見事に象徴していると思った。

そう、だって本作は、真実とは何か、というか、正義とはなにか、というか、事実とは、本当とは、そんな具合に言葉をいろいろ変えてみてもしっくりこない、誰かにとっての都合のいい真実、いかようにも切り張りして作り替えられる虚像。証拠、噂、あらゆるものが判断をかき乱していく、まさに今の現代社会の暗部をえぐりだす作品なのだから。ああ、言えば言うほど陳腐になってしまう。私のボキャブラリーの浅さよ。
あのね……全然違う作品なんだけど、ついこの間観た、「空白」に、まさにその、陳腐な言い方になるけど今の現代社会の暗部としての共通点を妙に感じたんだよね。キモとなる女子高生。その父親。彼女を信じるか否かという立場にある第三者。
かたやはもはや死んでしまった対象として、本作は今現実に生きて悩んでいる相手として対峙するんだから全然違うし、父親の造形も第三者も構成もぜんっぜん違うんだけど……なんか根っこのところには何か共通するものがあるような気がして仕方なかった。

人は、自分の目から、自分の角度からしか見ない。いや、見えない。見ることができない。ある意味それは仕方のないことだ。あらゆる角度から見ることができる存在がいるとすれば、それは神か宇宙の視点か、ずっと未来の歴史家かなんかしかないだろう。
そしてそれが、一人の若い命を追い詰める。まさにそれがタイトルとなる「由宇子の天秤」彼女はうっかり神様に成り代わって、他人の運命を、命を、天秤にかけて判断してしまうのだ……。

川瀬陽太、和田光沙、松浦祐也といった、ピンクで活躍している役者さんたちが多数顔を合わせていることになにがしかの感慨を覚える。主演の瀧内公美氏もまた、「火口のふたり」での肉弾戦を思い出すし。
ある意味ヘンケンかもしれないけど、身体まですべてをぶつけて芝居稼業をしている役者さんたちが、こうしてそうではない、どシリアス映画に集結した時の、言い様もない説得力というか、身体の存在感というか、あふれ出すものが圧倒的に違う気がするのは、ひいき目なのだろーか??

まあそれはともかく。本作が興味深いのは、主人公の由宇子がドキュメンタリー作家である、ということなんである。
ドキュメンタリー=真実と、受け手は単純に考えがちだが、捏造、やらせ、記憶に新しいところでも様々あったし、テレビドキュメンタリーとくればスポンサーや視聴者へのウケ、マスコミという身内への批判への腰の引けかた、それを上層部が頭ごなしに決定すること……すべてが想像出来ることとはいえ、こんな風に、まあフィクションとはいえ、きっとこんな具合なんだろうと赤裸々に差し出してくることにドキドキする。

そう、この時点では、由宇子は正義の味方というか、正しき人というか、事実を伝えることがドキュメンタリー作家としての矜持、という信念を貫く人であったのだ。
製作会社の上司である富山(川瀬陽太)は彼女の頑固さに再三困らされているものの、彼もまたドキュメンタリー畑だから彼女の気持ちは判る、得手勝手なことを言うテレビ局スタッフに腹を立てているのは、表面上は出さないまでも同じ。同行するスタッフたちもそう。
だから……理不尽な思いにさらされていたとしても、この現場で闘っている限りでは、彼女は、幸せだったのだ。

最初のうちはね、なんか不自然な同時進行だなあと思ったのよ。由宇子のクリエイターとしての仕事で展開していくのかと思いきや、彼女の父親が経営している小さな塾のシークエンスに入っていくので、その毛色のあまりにも違うことに驚く。
このあたりの、え?何?違う話じゃん!と思わせるあたりも本当に上手いと思う。違う話どころじゃない。すべては連関し、そして……ここにこそ、“天秤”たる事情が横たわっているんである。

父親の経営するアットホームな塾に新しく入ってきた女子高生、由宇子にはピンとくるものがあった。父子家庭、見捨てられた存在だと苦しんだ時期、確かにそれはその通りだったんだけれど、そんな、つまりはよくある、私もそうだったから、判るよ、てな手を差し伸べて、イイ感じになる話じゃ、なかったのだ。
今の、現代の観客なら、それはちょっと、薄々、感じちゃう部分ではあると思う。「なんでわかるの」「私もそうだったから」という萌と由宇子の会話の応酬が、百回聞いた、読んだと思うぐらいの、観客にしっかりと予想させちゃう、確信犯的な陳腐さだったから、これで済まないだろうということを予感させた。そしてその予感は、……想像も出来ないほどに、エグかったんである。

萌は妊娠していた。しかもその相手が、「木下先生……」と絞り出した。演じるは光石研。まさか彼がそんな役柄を演じるなんて想像もつかないもんだから、ほんとーに衝撃である。画として、想像がつかない……。
当然娘である由宇子は、このありえないカップリングに、レイプを心配する。しかし萌はそれを否定するし、その後、問い詰めた父親も同様なんである。

つまりそれは、それはそれは……合意、という言葉が、こういう場合、なんか忌まわしいというか、意味合いが正しくないというか。
でも、10代の女の子と、孫とは言わないまでも、娘が生徒として教えるぐらいの年頃の女の子と、レイプではなくお互い求め合ってセックスした、その事情というか、過程が、上手く呑み込めないまま展開することが、上手い、というか、なんというか……まさにそのモヤモヤが事件を引き起こす、のだから。

人間関係も、セックスの関係も、理解のしあい方も、年齢差や性差なんかで単純に図れない。それは21世紀なってようやく、多様性という言葉が、やや流行チックに使われるまでに浸透して議論されるところではある。
でもスレスレである。ようやくの、時代になってからのことだから。先述のように、真実、事実、証拠、噂、数々のトラップである。萌の決死の告白に、妊娠検査薬の結果を父親につきつけて、言質をとったんだから、由宇子としては彼女を疑う余地なんてなかった筈、なんである。

実際、彼女を守るために奔走した。貧困家庭、周囲に知られたくないという彼女の気持ちを汲んだ。
いや……この時点ですでに、由宇子自身は意識的に考えないようにしていただろうけれど、この事実が明るみに出ることを、誰も得しない、誰もが傷つくからという正当な理由を掲げて、隠蔽しようとしていた。
何より萌が、誰にも知られたくない、特にお父さんには、と言ったことが、由宇子にとっての免罪符になった、と言ったら言い過ぎだろうか。

由宇子が信念をもって追いかけていた、女子中学生の自殺事件。担任教師との不埒な関係を疑われて、生徒も教師も自殺してしまう。
噂だけで証拠はなく、教師は死をもって潔白を証明するという遺書を残したもんだから、ドキュメンタリー作家としての由宇子は女子中学生、担任教師に同情的な視点で取材を進めるし、そのこと自体に何の不具合もない筈だったのが、マスコミ報道が追い詰めたという表現に、上層部からクレームが入る。
テレビドキュメンタリーだからねー、ありそうなことだよねと、この時点ではそう思えていた。女子中学生の父親、担任教師の母親と姉、それぞれに世間から理不尽なバッシングを受け、その事実も由宇子は重く受け止めながら取材を進めていた。そこに虚偽があるなんて、思いもしなかった。

フライング気味に先を進めると、女子中学生と担任教師とのいかがわしい関係は中傷や噂ではなく、事実だったことが教師の姉が握りつぶした証拠映像と本当の遺書によって明らかになるんである。このあたりになってくると、冒頭こそ同時進行の展開に異物感があったのが、だんだんと、不穏な寄り添い感を呈してくるんである。
真摯な気持ちで自分に接していた人たちだからこそ、信頼してその話を信じていた、なんて意識さえなく、当然のこととして受け止めていた。ただ……この担任教師の姉、和田光沙嬢が血のにじむ芝居で絞り出す自らの虚偽の罪は、萌の事情にはなんら、なんらどころか、まったく関係のないことなんである。なのになぜ、由宇子はここに連関して、萌もまたウソをついているんじゃないかと思ったのか。

巧みな構成、というか、心理戦というか。もちろん、判らないよ。萌の証言だけ、そしてそれを由宇子の父が認めただけ。だけ……??それだけで充分じゃないの??
塾の男子生徒が萌がウリをやっていたと、自分ともヤッてたが、その後うるさくつきまとわれて メーワクしていると語った。由宇子は萌を信じていただけに顔色を変えて、彼女を責め立てるに至ったが、落ち着いて考えてみると、あちこちおかしいのだ。
この男子生徒の言い分を裏付ける証拠(メールとかLINE)が差し出される訳でもない。父親が萌と関係しちゃってたことは認めているんだし、萌から言いたてたことだし、これがナシということはいくらなんでもあり得ない。

だとしたら、何一つ裏が取れていない男子生徒の放言を萌に投げつけて、ホントに父親は私の父なの?と問い詰めるのは、おかしいんだよね。誰の父親か判らない、というところで苦悩するべきであって、由宇子の父親とセックスしたのは明らかな訳なんだから……。
これがね、由宇子がその矛盾に気づいているのかいないのか、外見上は明らかな保身で、タネが自分の父親でないのなら、という気持ちが出ちゃっていることに、彼女自身が気づいていない、よなあ、やっぱり。それは、……哀しきかな、萌の、これ以上ガッカリ、ってな声色はないよな、という言い方で放たれた。「先生もかよ」と。

本当のところは判らない。由宇子が追っていたドキュメンタリーの本当のところも。本当って、何かなあ……。
先述のように、ドキュメンタリーの当事者の担任教師の告白を姉が握りつぶしてて、それをぶちまけることで、放送は御破算になる。そもそも、由宇子はこの放送にかけていた。あらゆる人の人生がかかってる。それだけの取材をしたのだからと、萌の問題を待たせた。
子宮外妊娠。即刻処置しなくちゃいけなかったのに。この時点で、覚悟を決めていた由宇子の父親さえ、由宇子ははねつけたのだ。懺悔して、自分が楽になりたいだけでしょ、と。

でもそれは、由宇子自身がそうだったということなのだ……。

萌の妊娠が発覚したのは、思いがけない交通事故によって、しかも物語の結末時点で、意識不明の状態で終わるという厳しさである。
この事故の原因がそもそも、それまでは萌の言うことを信じて寄り添ってくれていた由宇子が、他人の噂を突きつけて、彼女を嘘つき呼ばわりをしたからなんである。

凄く、辛い。

どこに真実があるかなんてわからないし、真実は見る人によって変わる。由宇子自身、判っていた筈なのに。私もそうだったから、という台詞の重みを、責任を、判っていたなら、自分の都合に合致する方の噂を、何の根拠もなく責め立てるなんてことは、出来る筈はなかったのに。
人間は、結局自分だ。真実事実証拠噂すべてを自分の都合のいいように使うのだ。そして……恐るべきことに、そのことに自分自身が気づいていない。気づきたくない。こんな愚かなことに直面したくないから。★★★★★


誘惑遊女 ソラとシド(誘惑遊女の貝遊び)
2015年 73分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:小松公典
撮影:ザオパン・ツェン 音楽:與語一平
出演:かすみ果穂 RiKA 倖田李梨 ダーリン石川 津田篤 小林節彦 服部竜三郎

2021/5/8/土 録画(チャンネルNECO)
ほおんとに、竹洞作品はひなびた地方のロケーションに心奪われる。これはもう、6年も前の作品なのか。娼婦たち三人を抱える、疑似家族の物語。
娼婦、だなんていう重ったるさはなく、タイトルどおりどこか懐かしき”“ちょんの間”男たちを快くさせる遊女の雰囲気である。いやそれよりももうちょっと親しみ、というか、まあ格が落ちるというか(爆)、飯盛り女とか、そんな雰囲気かなあ。

現代なんだけど、現代の時間から取り残されたこの町は、実際に町の浄化と活性化という名のもとに、違う土地から来た政治家によって粛清されようとしている。
その行政に携わって苦悩している青年が、ここ数年のピンク映画でしみじみとした味わいを残してくれるお気に入りの役者さん、津田篤氏である。
言ってみれば、本作に登場する全員が、この町の沈みゆく運命を知っているのに、見ないように、というか、仕方ないさ、と笑い飛ばしているさみしさがある。でも津田氏扮する尊志だけは、自責の念をぬぐい切れていないのだ。

てゆー、シリアスな展開はもうちょっと、後である。物語は遊女の一人、空のヒッチハイクシーンから始まる。
ちなみに遊女三人は空、志渡、麗。ソラシドレ、である。そして店の名前は「どれみ」なかなかシャレが効いてるけど、あれ、空だけがその名前の中に入ってないな、と思う。これはひょっとして何か意味があったのだろうか。
オープニングが空の、一か月は帰らない旅に出る、というヒッチハイクから始まり、物語の最後は、この町を去るのはみんなだとしても、でもいち早く、この町から出るそぶりを見せたのが、空であるということに、ふと気になる気持ちを感じたりもする。

だってね、まるで家族のように見えた遊女三人と店長とその父親、だけれど、当たり前だけど決してそうじゃ、ないんだもの。
でも前半部分まで、私は彼らは家族なのだと見えていた。要と麗が夫婦、空と志渡が姉妹。麗を演じる倖田李梨姐があの貫禄だから、失礼ながら彼女たちの母親というのも遜色なく見えたから(爆)。

でも彼女たちは赤の他人なのだ。空が志渡を“志渡姉(ねえ)”と慕っても、要のことを父親のように感じていたとしても、赤の他人なのだ。
そういやあ、そうした家族的感覚を持ち込んでいたのは、空だけだった。彼女たちは仲が良いけれども、志渡は空からのそんな思いをどこかくすぐったそうにしていたし、要に関しては、父親どころか……空自身だけが気づいていないだけで、“家族”全員、彼が空にホレているのに気づいてた。

志渡は尊志に片思いしている。要の父親は、いまだ亡き妻に未練があるのか、娘なんかじゃない、赤の他人の空と真の親子のように戯れる中で、娘に対して言うように、当たり前のように、死んだカミさんに似てる、と言うのだ。
それを空もまた当たり前のように受けて、要に対して、ねえ私、お母さんに似てる?と聞いたりするものだから、本当に錯覚してしまう。空が要の妹であるかのように。
でも空は兄どころか父親として要を見ているのだから、彼にとってはさらに苦しい恋である。空は遊女として働いているのに、こんな具合に、まるで童女なのだ。

なんかうっかりすっ飛ばしちゃったけど、そうそう、オープニングはヒッチハイク。
志渡に騙されてファックサインを突き上げて車を止めちゃったもんだから、空を拾った青年、楽一は当然セックスできるもんだと思ったのに拒否しまくられて、ついには彼女に死なない程度までボッコボコにされてしまう。

彼女から誘ったのに、という理屈が判れば、「入れます!」「入れます?」「ここに入れられるます」なんつー、不可解な彼の台詞がなるほど了解出来て、判っちゃうと笑っちゃうんである。
哀れ楽一青年は、大事な商売道具を傷物にした、とからかい半分に彼らにつるし上げられ、車を売り飛ばされ(!!)、その金で購入した“国産肉”のしゃぶしゃぶに舌鼓を打ち、楽一にも勧めるというシュールな場面(笑)。
冒頭のヒッチハイクからここまで、彼らの関係性が判らないままにシュールに展開するもんだから、オフビートっつーか、独特なユーモアに引き込まれてしまうんである。

空が姉と慕う志渡は、その登場で大口開けて爆笑する様がインパクトを与える、決してすんなり美女とは言えない容貌である。カバというあだ名で呼ばれていたという過去は、その容貌だけじゃなく、元カレが飼育員で、雌カバと獣姦していたという恐るべきエピソードを持つが故というのが恐ろしすぎる。
いや、その大きなお口はチャーミングである。一気に引き込まれる。空を演じるかすみ果穂嬢は正しきエロアイドルの可愛らしい風貌だから、志渡の大きな口、麗のアダルトな魅力、それぞれに個性的で楽しいんである。

つまり女子たちは、彼女たちだってこの町の状況は当然判っているとは思うけれど、考えてみれば皆、この町に流れ着いた、この町で生まれ育った訳ではない、遊女というネーミングのイメージが想起される女たちだったんだと改めて思う。
男たちは皆、この町に生まれ育ち、「どれみ」で筆おろしをした。尊志が要の父親と昔話をした、彼を男にしてくれた遊女は、今はもういないのだ。

思えば要の母親もまた、今はもういない。男たちはこの町で女たちによって大人の男になり、しかし女たちに置いて行かれて、町と共に寂れ行くのだ。
空も志渡も麗も、この町で、疑似家族で、その絆を大事に思って暮らしているけれど、でも決して決して、ここで生まれ育ってきた男たちとは違うのだ……。

レイプ男として半ばからかい気味にどれみの連中に拉致保留されたまま、訳も分からず働きだし、酒乱の麗にくわえこまれ(爆)、ラストにはすっかり麗とラブラブになって、いち早くこの町を捨て去って出ていっちゃう楽一は、冒頭のインパクトだけで出オチというか(爆)。
それ以降は彼はスパイス程度に置かれて、しみじみとした人間関係の構築を丁寧に見せてくれることに、心打たれるんである。

志渡と尊志、空と要のセックスがそれぞれに、心打たれたなあ。志渡が尊志にホレてるのも知らず、要の父親が尊志に、久しぶりにヤッてくか、おごるぞ、と言ってあてがったのが志渡だった。
志渡の尊志に対する想いが隠し切れない、プロに徹しきれない、ただただ抱いてほしいという気持ちがありありとダダもれな、高校生の恋心のようなセックスが、切なかった。

空と要に関しては、空は志渡から要の気持ちをなんとなくほのめかされて意識しているし、要はなんといっても父親からケツをたたかれていた。
親子だから、自分がホレた女に似ている空、息子の気持ちなんぞお見通しだったということなんだろう。

この父親はさ、いわばコメディリリーフなんだよね。演じる小林節彦氏はそのあたり、ベテラン中のベテランである。
彼がいわば、他人である“娘たち”三人を、更に言えば昔から知ってる近隣の青年とはいえ、これまた他人である尊志もひっくるめて、まったく問題なく、当然のように、家族だよね、という態度で、信念で、遇しているからこそ、この物語が成り立つのだ。

一見して頼りない、どーしよーもないオッサン。入院中の病院を抜け出し、画面上では見えないながらもえげつない粗相をして皆を困らせるような。
でも結果的には彼が、一歩を踏み出せないワカモンたちを、ヘラヘラとした態度で(爆)押し出しているのだ。そしてそれは、彼こそが一番、思い入れが深い筈の、離れたくない筈の、この愛すべき寂れた町を捨て行く決意を、あっけらかんと差し出す決断に至って、心がキューンと締め付けられるのだ。

志渡姉が、尊志への想いを断ち切って、新しい人生を新天地で、と宣言して去っていくのが唯一、ええー……志渡姉と尊志、幸せになってほしいのに……と思っていたから、ラストのラスト、空が「やり残したことがあるから!」駅のホームを飛び出した時、これは、志渡姉を幸せにするためだよね!!と私は思ったが、どうなんだろう??
正直、なんとなく納得してここまで見ちゃったから、え?ええ?やり残したことって何??私なんか見逃してた??と焦ったのだが、どー考えても空が一番仲良くて、大事に思ってて、慕っていたのは志渡姉だし、なんたって私のお気に入りしみじみ役者さん、津田篤と幸せになってほしい訳だし、単なる願望だけどさ!!

地方の、さびれゆく、捨て去らなければいけない葛藤とか、その中で、でも空も海も山も緑もこんなに美しいのに!!という切なさ、やりきれなさを、竹洞作品ではいつも感じさせられるのだ。
ピンク映画ならではのエロ、ナンセンス、低予算のチープさもあるけれども、それをすっ飛ばしてくれる、これぞ映画というロケーションは、いつでも日本のつつましき、どこか懐かしき、不思議な懐かしさに胸が詰まるような画なのだ。
そこに、表面上はふざけあいながら、ホントの気持ちをなかなか言えない、セックスしてさえなかなか言えない、この切なさ、なんだよなあ。★★★★☆


雪の断章 ―情熱―
1985年 100分 日本 カラー
監督:相米慎二 脚本:田中陽造
撮影:五十畑幸勇 音楽:ライト・ハウス・プロジェクト
出演:斉藤由貴 榎木孝明 岡本舞 矢代朝子 藤本恭子 中里真美 伊藤公子 東静子 高山千草 中真千子 レオナルド熊 伊達三郎 斎藤康彦 酒井敏也 加藤賢崇 森英治 大矢兼臣 寺田農 伊武雅刀 塩沢とき 河内桃子 世良公則

2021/7/22/木 録画(日本映画専門チャンネル)
なんたって名匠誉れ高い相米監督だし、伝説のアイドルであり今も女優として活躍する斉藤由貴の初主演作品、いろいろと固まった評価があるだろうが、相米作品にはなかなか縁がなくて出会えて来なかった私は、怖くてそれを確認できない(爆)。なのでいつものようにただひとつの映画作品として対峙するしかないのだが。

本作に比してふと思い出したのが、「Let's豪徳寺!」であった。同じ時期のアイドル映画。ヒロインのお相手は、ぐっと年上の、アダルトな魅力の男性。本作の斉藤由貴に比しての三田寛子、榎木孝明に比しての村上弘明。
ことに榎木氏と村上氏はなあんとなくイイ男の方向性が似ている気がするし。
Let's……の方では、その年齢差が正しく作用して、恋に恋する女の子、として収束した。演じる三田寛子のキュートさもそれに即したものであった。

一方で本作の斉藤由貴は、その登場こそキュートな女の子として、当時の流行歌、聖子チャンの「夏の扉」をキャピキャピに歌い上げるし、そういうイメージはなくもない。
しかし、まさにこの「夏の扉」にばちこんとぶつけるように、後半、彼女がヘッドバンギングしまくって狂乱に踊りまくるのが、これまた当時の流行歌とはいえ、真反対の、BARBEE BOYSの「負けるもんか」
歌う杏子さんが女の色気がエロい方にダダもれだったお方だったことを考えると、その展開に至るまでにじわじわと伊織(斉藤由貴)が少女から女に抗い様もなく変わっていったことを、ここでハッキリと答えを出したように思うのだ。

女、である。女性、なんかじゃなく、もっとナマな女。その場面より少し前、これは決定的に、画でも台詞でも、セックスとしての女を刻む場面が用意されている。
シャワーを浴びて、もろ肌脱いで、鏡の前で濡れた髪をかきあげる。挑戦的な目つき。その時電話越しに言葉を交わす相手、雄一に投げかける台詞は、テレフォンセックスでもする気なのかというほどの生々しさなのだ。

それはもちろん、伊織に負わされた重い設定、みなしごであり、もらわれた先で奴隷のような扱いをされた幼少期がかかわっている。その伊織を、雄一が救い出し、まだ駆け出しの社会人であった若き青年が、無謀にも伊織を育てることを決意したんである。
斉藤由貴氏が持つ、それこそ三田寛子氏にはない、清楚なエロさというか、隠された陰影というか、当時子供だった私にはイマイチ判ってなかったネガの魅力が爆発している。

それにしてもみなしごって久々に聞いたな。少女漫画の王道の設定。みなしごを育てる美しき青年、親子関係だった筈がだんだんお互いに意識しあい、なんたって少女が大人の女へと変わっていく生々しさ、ああ、ヤバい!
少女漫画王道とは言ったが、時に少女漫画は自身が内包しているそのエロさに気づかないフリをするとゆーか、本作もそういうもどかしさはあるのだが。

いや、そもそも本作はサスペンスである。なんたって殺人事件、なのだから。まずは設定を整理すると……。
伊織は那波家で引き取られて奴隷のようにこき使われていた。買い物に出された雪の夜、一人で危ないところを歩いている伊織を心配した雄一が声をかけた。事情を聞き知った雄一は、彼女を引き取る決心をする。偶然にも那波は親友、大介の上司であった。大介、家政婦のカネさんをまじえて伊織は育てられることになる。

高校生になった伊織から、斉藤由貴氏登場。那波家の長女、裕子と同じアパートになる。取り巻きの多い裕子は自身の歓迎パーティーに伊織、雄一、大介を誘う。そこで裕子は殺されてしまう。
直前、コーヒーを運んだ伊織に疑いがかけられる。コーヒーの中に青酸が入っていたのだ。後に判明する犯人は大介。父親が自殺した原因となった那波に恨みがあり、裕子を殺したのだ。思いがけず伊織に疑いがかかり、苦悩し、一度は死のうとする彼だが、伊織の必死の語りかけに、いつまでも一緒にいてくれるなら、と死の淵から脱出する。

まあいろいろと、なぜなぜ??と思うところがある。これはヤハリ、小説と映画の、尺の限界なのかなとも思うが。大介が憎むべきは那波本人であり、なぜ娘である裕子を標的にしたのかがまず判らない。
那波が苦しむからと思ったのか。青酸を用意していたのはいつからなのか。たまたま裕子が雄一たちが転居したアパートに引っ越してきたからチャンスだと思ったのか。

最終的には伊織と雄一と大介は三角関係みたいな感じになるけれども、大介が死んだ後にようやく雄一は伊織への想いをあらわにするが、それは彼女からの働きかけがあってようやくだし、実に10年!もフィアンセを飼い殺しにしてるし、なんなの、というのは正直なところ。
そりゃまあ自分が“育てた娘”に対してのタブーはあるにしても、伊織の方はだんだんと、自分の中の気持ちに正直になっていく、女になっていく階段を踏みながら、という、生々しさがあるのに、雄一、いや、大介もだ、二人とも、なんか突然、伊織への扱いが変わったというかさ。

や、雄一は娘としての立場のまま大介に引き渡す、というか、さげおろす、というか。三角関係というよりは、伊織をどちらの所有物にするか、みたいな印象も受けちゃう。
でもそれは、本作がどこか、女のそういう、自虐的欲望を刺激する、エロなあしながおじさん的飼育され欲が漂っているから、えーい、なんかもっと思い切ってよ!!と思うからなのかもしれない。

それでいえば、家政婦のカネさんこそが、最初から、これは本能的な拒絶感覚、女としての本能、同属嫌悪とさえ言ってもいいかもしれない、伊織に対して警戒心を最後まで解かないことの方が、信用できちゃう。
雄一が伊織を保護してきた時、いきなり辛辣な言葉を浴びせる。施設に戻すなら今のうち。独身男性が育てられるものではない。結婚相手になんと説明するのか。そもそも捨て子をするような親、悪い血を持っていたらどうするんだと、聞こえるように、という訳ではないだろうが、しっかり聞こえている、逆にヒドい、人間扱いしていない訳である。

その後、成長した伊織に対してはそれまでの十数年を一緒に過ごしている訳だし、あなたが可愛いから心配するのよ、という言葉はウソではないだろうが、伊織が大学に進学することに呆れた顔を見せたり。
殺人事件の容疑者として巻き込まれることにも、疑惑の目を向けるまではないにしても、特段心配もせず、警察の人が見たいっていうから部屋を見せましたよ、なんてお菓子をばりばりかじりながら、テレビ番組に爆笑しながら、そういえば、みたいに言うもんだから、伊織はがくぜんとするのだ。

ただ、この時の伊織の言い様は、全編通じてそうなんだけれど、雄一にその判断を仰ぐべきものであるのだというただただその一点。
育てられた、保護者である存在なんだから当然なのだが、伊織がこの一点にすがりついていること、その関係性、17歳ともなって感情が変わってきているのに気づいたのは、もしかしたら気持ちを通じ合えたかもしれない矢先に死んでしまった裕子の言葉によってだった。

彼女はまるで、シンデレラの意地悪な姉のように、雄一が下心を隠して伊織を育て続けたんだ、という言い方をする。当然伊織は反発するのだが、その言葉が伊織の中に、湿って火がつかなくてくすぶり続ける種火のように残り続けていたように思う。

雄一自身はどうだったのか。あるいは大介は。大介は突然、自分の犯罪を見破った伊織にひれ伏するような形で、彼女に庇護されることを望んで急展開するから、なんだかよく判らない。
ただ、大介は後半になるとやたらと再三、雄一じゃなくて、自分が伊織を拾っていたならどうなっていたかと考える、と彼女に訴えるのだ。それこそが、自分の運命の分かれ道だったとでもいうように。

実際、そうだったのだろうか。大介は、伊織を愛していた訳ではなかったように思う。憎むべき相手が同じ同志、雄一の親友として、親代わりのシュミレーションみたいな感覚。たった一人決意して犯した殺人を、娘と友達のあいの子みたいな存在の伊織に見抜かれて……みたいな。

大介を演じるのが世良公則氏で、端正な美男子である榎木氏とはまったくタイプが違うのが、興味深い。だからこそ、伊織がこの二人の間で揺れ動くとかいうのが見たかった、もったいない!!と思っちゃう。
でも本作はまずサスペンスであり、斉藤由貴という、よくぞ彼女を見出したという、東宝映画を代表するスター女優の誕生を記念する作品であるというだけで、充分な価値があるということなのだろう。

大介が犯人であることに気づいてしまった伊織が、その後まるで夢遊病患者のようにさまよう道行きが、イタリアあたりの前衛芸術的映画のワンシーンの連続みたいな不思議さ。
当時のアイドル映画、と思えば、だからこそやりたいことをやらせてもらえたのかな、と勝手に想像しちゃうようなアヴァンギャルド。森閑とした田舎の風景、のどかに二両列車が行き過ぎる。足を建て増しした、のっぽのピエロが行き過ぎる。傷ついた鳥を救うため、水中に分け入る伊織を、助けに向かう漁師。すべてが、夢の中のよう。

雄一のたっての希望で、伊織は北大受験に邁進し、見事合格!てか、北大ってメッチャハードル高すぎ!!フツーの学生生活送ってたら、北大はないわ!!
なのに、那波家次女とそれを争うのね。でもこの、那波家次女とは、幼少期の冒頭から名前が出てたし、にっくき相手、っていうスタンスだったのに、結局伊織の方が北大に受かったていうスタンスしか示されないし、伊織が色濃く対峙するのは、大介に殺されるお姉ちゃんの裕子の方なのだ。
幼少期の描写の時から、裕子は特段話題に上ってなかった。伊織が逃げ出したのは、次女のわがままに耐えきれなかったからであり、長女の影はこの時点で、まったくといいほど、なかったのだ。

これをどう考えればいいのか。お姉ちゃんは妹に比して影が薄かったということなのか。
確かに幼少期の描写では、次女の名まえばかりがコールされていたし、伊織が思いつめたのも、次女のジュースを飲んでしまったがために、雪の夜、買い物に出されたからであった。だから、一人娘なのかと思っていたぐらいだ。

大人になってからの長女裕子の登場で、その葛藤を示してくれていたら面白かったのに、と思ったりする。長じてからは次女の存在感は全くと言ってない、というのはアレだけど、薄い。姉の葬式に焼香に来た伊織に灰をぶっかけるのと、伊織に岡惚れしていた男子をゲットしたのを自慢げに語る場面だけである。
しかも、葬式の場面の喪服がレースドレスというなかなかである。でもそれに対抗?して、伊織が黒とはいえ、ポロシャツなのにはビックリしたけど。ポロシャツの喪服は、レースドレス以上にナイだろー。

北大に合格したとゆーのに、転勤が決まった大介は、でも俺についてきてくれるって言ったよね。まあ、北大合格しちゃったから、ツラい選択だけど、約束したもんね!!と、大介が言い放つのにはボーゼンとする。まあその後、彼は自殺してしまうのだが……。
北大合格にめちゃくちゃ盛り上がって、おいおい、これはダメだろ、という、屋台でめっちゃ酒を酌み交わしてる、伊織がもう目が回っちゃうよ、という場面である。
伊織が酒を飲む場面はここだけじゃなく、おおらかっつーか、今のコンプライアンスの厳しさをしみじみ感じているから、ハラハラしながらも、いいなあ、と思っちゃう。

女の子の、大学、それも、めっちゃレベルの高い進学、日本の歴史的、文化的にどうしても発生する、愛情表現としての女が男についていく文化。そこに年齢差、庇護するものされるもの感覚が付与されちまったらもう、そもそも保守感覚爆裂国家である日本は、思考停止に陥っちゃうんじゃないのかしらん。
本作をこうして現代の男女社会、男女がどう、社会を構成していくか、と考えると、ひとつ、エポックメイキングとしての作品になるんじゃないか、という気がする。★★★☆☆


雪の華
2019年 125分 日本 カラー
監督:橋本光二郎 脚本:岡田惠和
撮影:大嶋良教 音楽:葉加瀬太郎
出演:登坂広臣 中条あやみ 高岡早紀 浜野謙太 箭内夢菜 田辺誠一

2021/7/18/日 録画(チャンネルNECO)
公開時、本作に足を運ばなかった理由は、ヒットソングからインスピレーションされた作品、というのがピンとこなかったというのもあるけれど、予告編を観た時から予想できる展開に食指が動かなかったことを思い出した。
そして今回CSに入ってきたといういわばご縁があって観た訳だが……ああ、私の予測を1ミリも出なかったのだ。中島美嘉サマは、あるいはあの名曲の作詞家は、決して決してこんな物語を想定なぞしていなかっただろう。

余命いくばくもないヒロイン美雪が、ひったくり犯からバッグを奪い返してくれた青年、悠輔からその無気力を叱り飛ばされる。
そして彼との偶然の再会、働いている店の資金繰りが悪化していることを耳にして、その100万私が出すから一か月だけ恋人になってください!と頼み込む。
そして契約の筈の恋が、フィンランド旅行のクライマックスを挟んで、本物の恋になっていくという展開。

こう書いて観ただけでかなりのかゆい設定。美雪は幼い頃から身体が弱く、それが高じて(高じて、というのもヘンだが)、ついに余命一年を宣告されるのだが、ただ身体が弱い、というだけで余命を宣告されるって、あまりにも雑すぎる。
最終的には治療に専念するために入院してほしいという展開になるのだから、なんらかの病気である筈なのに、主治医は判で押したように、検査結果が良くない、と言うばかりなんである。
何これ、なんかの病気を指定したら、どっかからクレームが来るとでも思っているんだろうか??いや、なんかの病気を指定しちゃうと、専門的ないろいろがメンドくさいぐらいなやる気のなさにしか感じられないんですけど。

映画におけるイラっとさ加減は、大抵においてこーゆー雑さと、ありえない偶然に頼る展開に多い。美雪は悠輔にあっさり、ありえない偶然で再会する。大体において、そーゆーことを運命的という雰囲気で乗り切るのが気に入らない。
美雪は悠輔をつけていき(冷静に考えるとキショい)、おしゃれなカフェにたどり着く。当の悠輔は美雪のことを全然覚えてない。

これはかなりの違和感である。あの出来事は相当インパクトがあるし、悠輔は美雪の顔を覗き込んで、声出せよ、とか、そんなんじゃ生きていけねえぞ、とか、お礼言わないのかよとか、めっちゃ説教したのに、その彼女の顔を覚えてないって、頭悪い男かよとか思っちゃう。これが、彼女の方が一方的に一目ぼれしたような、ささやかな事件なら判るけど、これだけがっつり関わったのに、覚えてないって。
滑り出しのこの時点で、もうこの作品に対しての信頼がおけないと思っちゃうのは致し方ないでしょ。いや、ただ身体が弱い設定で余命一年の時点で、もうがっくりきちゃってたか。

美雪がこっそり聞いてしまった資金繰りの悪化、それを切り抜ける金額が100万というのがショボすぎねぇか。いや、個人が持つには100万つーのは確かに大金だが、資金繰り、という点で100万でため息つくのはあまりにも……。20代の女の子の、なんとか手元にあるかもしれない金額の方を優先したとしか思えない。
店のオーナーのハマケンが苦渋の表情で100万、と言い、悠輔が100万!?と驚愕するのが、おいおいおいー、この規模のカフェをやってて、売り上げとか維持費とか考えたら、100万ぐらいは担保してなきゃおかしいでしょ、と思っちゃう。

この100万で、美雪は悠輔との期間限定恋人立場をゲットする。美雪が所望する恋人契約があまりにもおままごとでガックリくるんである。常識的な価値観を持っている悠輔はちゃんと危惧して、こんなんでいいの、と不安げに問うと、こんなんがいいの、と彼女は満足げである。
つまり、人生初の彼氏(契約だけど)に彼女が求めるのは、そうした、今まで出来なかった、形式的な憧れの恋人関係。やっと使える!とウキウキして、ファンシーショップ(死語かな)で買ったような可愛いノートに、恋人としたいあらゆることを、色鉛筆(うざー)で書きつのる。

いまどき中学生でもやらねーだろ、と思った瞬間、ああこれって、昭和(平成ですらない)の中学生的恋愛の発想だなって、思った。
病名さえ設定しない、余命いくばくもない薄幸な女の子、好きな男の子への決死の告白、やりたいことノート。中学生的恋愛、つーか、昭和的少女漫画の世界そのもの。

そうよ、これが中学生だったらよかったのよ。でも中学生じゃ100万は用意できない。その一点だけである。それ以外は昭和の中学生である。
玉子焼きやたこさんウインナの入った弁当持参のデートだの、悠輔がおままごとみたい、というのは当然の“契約恋人”を、美雪が「こんなことが、いいの」と言うのは、成人女性が、決死の覚悟で100万投じて、最後の恋に求めるにはカマトトにもほどがある。
ああ、私は汚れっちまったが、それこそ中学生だって、最後の恋だと思ったら、チューぐらい最初から想定するわな。なんなのこの、生臭さのまるでない、除菌室のような展開。

美雪が悠輔の弟妹達に紹介されるシークエンス、妹の不機嫌が嫉妬だと察知して、そーゆーの憧れてた!!とテンション上がる時点で、あー、もう駄目だ、と思った。確実にそうだって、なっちゃったから。
このありえない無邪気さに、悠輔の妹ちゃんは心を開くのだが、私が妹ちゃんの立場だったら、逆だなあ。こっちを懐柔しようとかかってるんじゃないかと逆に疑いを深めちゃう。んでもって、どうやら本気でそーゆーキャラらしいと思ったら、やだやだ、イタいキャラだと思っちゃうだろうなあ。

ところで、フィンランドである。なんか大使館とのタイアップっぽいと思うほど、押してくる。美雪の両親が出会った場所だという。美雪の幼い頃の、幸せな家族三人の回想シーンが出てくる。
しかし今、母親しかいない。父親が死んだのか、離婚したのか、あるいはただ単に忘れられているのか(爆)、まるで触れないのが気になってしまう。

母親は仕事大好きな女性で、今も飛び回っている。美雪の主治医がお母さんに話をしたがっていることを彼女が敏感に察知し、それだけ重篤な事態なんだということなんだね、と主治医に投げかけるとあっさり、本人に告げちゃう軽々しさも気になる。
そりゃまあさ、よくある、家族に告げて、本人に告げるかどうかは家族に任せちゃうっつー、今は変わってきてるんだろうけど、当人の人権や意思決定を無視したやり方は絶対にダメだとは思っているけれど、でも余命にかかわることを、お母さんは仕事で忙しい、じゃあみたいな感じで、あっさり本人にだけ告げちゃう展開には、ええ!!と思ってしまう。

しかも、母親がこの事実を知るのはかなり、かなーり後になってからであり、そりゃさ、おかーちゃん、怒るさ。なんで言わなかったの、と糾弾しようとしたら、娘、美雪は悠輔に別れを告げてきたところ。今は叱らないで、と母親の胸に飛び込んで泣きじゃくる。
こーいーつー。卑怯なヤツめ!!あざと可愛いとゆー言葉が喉元まで出かかるが、それを言ったらあまりにもあまりか。

悠輔をフィンランド旅行に連れ込んで、二人はぐっと距離を縮める。そもそも美雪は、父親が言っていた、奇跡の赤いオーロラを見ることが夢であった。奇跡が起こる、それぐらい、希少な現象なのだと。
冒頭でそれが示されちゃったら、そらー、予測できるでしょ。彼氏と二人でそれ見ちゃうんだろ、って。

オーロラがそもそも見ることができない夏に、別れを決意して悠輔とフィンランドに旅行して、ホテルで別々の部屋とか、成年男女とは思えない逡巡の末に、「恋人なら、するだろ」と、やっとキス。あーイライラする!!
しかしこれは、契約終了のために急いだ大イベント、すっかり美雪に恋しちゃった悠輔は契約延長を言いかけるが、美雪は自分の死期が見えているから、断固として拒否、悠輔は彼女の事情を知らぬまま、別れてしまうんである。

でまあ、二人は最後の最後、再会しなくちゃいけない訳なんだけど、あーもう、先述したが、ありえない偶然はマジ嫌いよ。
二つある。美雪が主治医から告知を受けるために、病院から離れて喫茶店で会っているところを、悠輔が目撃しちゃう。そんな偶然、あるかよ。生活圏内も違うし、そもそも医者が患者に告知する場面を、喫茶店に設定するとは。
そりゃさ、このお医者さんと美雪とは、幼い頃からの関係性を最初から感じさせて、友達のような親戚のような近しさはあるにしても、でもやっぱり、医者と患者には変わらんよね。喫茶店で告知は、無いんじゃないかなあ。

それこそ昭和的少女漫画的発想なら、そういう展開、作っちゃいそうだけれど、今の時代やっちゃうと、そんなこと絶対にしない!!と言われそうじゃん。
しかもその二人の様子を、窓際の席に座って、心安げに話している二人を、たまたま通りかかった悠輔が目撃するとか、偶然にもほどがある。作品の中でありえない偶然は一回で充分。それだけでもありえねー!!とツッコんじゃうのにさあ。

美雪は悠輔と付き合うために、100万をつぎ込んだ。余命を宣告されて、仕事も辞めて、通帳の金額に嘆息していたのだから、年齢的にも100万はなけなしの金額だったと思う。
なのに、フィンランド旅行に悠輔を連れていき、更に、最後の最後に奇跡のオーロラを見に行っちゃう。通帳を覗き込み、嘆息し、100万という金額のことをやりとりしていたのに、その後のこの、金のかかりをまったく気にしないのは、何なのと思っちゃう。

いやまあ、ヤボだとは思うよ。二人の純愛に酔いたいわさ。でもさ、美雪の秘密を知って、冬のフィンランドに旅立つ悠輔に、おいおいおい、100万に怖気づいてたし、夏のフィンランド旅行は美雪に出してもらってたし、突然フィンランドに行くって、結構なカネかかるだろ!!と……。
いやさあ、もう半世紀も生きちゃって、やっと金銭的に余裕も生まれたが、彼らの年頃だったら、100万、フィンランド旅行、平均的な、彼らのような生活をしているところから発想する金銭感覚から、なんかズレちゃうんだよなあ。

冬のフィンランド、雪深い中を必死に美雪の元にたどり着く悠輔。感動的だが、美雪の、「悠輔に会いたいよー!!」という絶叫にしっかり合わせてご登場じゃあ、興ざめしちゃう。ならなんでそこまでたどり着く苦労をあんなに見せたのさ。
苦労の末いつ美雪の元にたどり着いたのか、ためにためて、王子様みたいに登場、ハグして、俺たちが死ぬまでずっと一緒、と言う。

俺たち……??彼は彼女が余命いくばくもないと知ってて、それ言う??彼女が死んでも、思い続けて、その後恋人なんて作らない、という宣言であり、うわー……と思う。
だってそれ、ムリだろ……。永遠の愛は、あるとは思うさ。でもそれは、もう一つ、あるいは複数でもいい、その愛と、同時進行でいいのさ。片方が虹の向こうに行っていれば、問題ないのさ。それを、虹の向こうに行ってても、許さないという展開じゃないの。コワ!!

しかもそれを裏付けるラストシークエンス。全クレジットも終わった後に、おまけ映像のように付される、悠輔にお姫様抱っこされる美雪である。一緒に初雪を眺めて、私、長生きしちゃうかもしれないよ、と悠輔にささやく。
……これをコワッ!と思う私がおかしいのだろうか。だって、さんざん、余命いくばくもない、近いうち死ぬからこその逆算作戦でここまで来て、まあ判るよ。好きな人と気持ちが通じて、とりあえずチューまではいって、長生きしちゃうかもよ、と恋人の耳元でささやくいじらしさ。
判るけど……なんか、コワッ、と思っちゃったなあ。騙されたでしょ、計算づくですがな!!みたいに思っちゃって……。

やっぱり奇跡の赤のオーロラ出しちゃう、そして当然CGなのがまるわかり。私みたいなバカな観客でさえ、いろいろ予想できちゃう展開で、感動するには、……この言葉は使いたくないけど、幼稚過ぎたかなあ。★☆☆☆☆


トップに戻る