home! |
はい、泳げません
2022年 113分 日本 カラー
監督:渡辺謙作 脚本:渡辺謙作
撮影:笠松則通 音楽:渡邊琢磨
出演:長谷川博己 綾瀬はるか 伊佐山ひろ子 広岡由里子 占部房子 上原奈美 小林薫 阿部純子 麻生久美子
でもなんたって、この二人で見せ切ってしまう。ダブル主演といっていいんだろうな、この場合。長谷川博己と綾瀬はるか。ドラマを観る習慣のない私は、彼らが大河で夫婦役を演じていたことすら知らなかったが、本作では二人はいわゆる恋仲にはならない。それがとてもいい。とても心地いい。
長谷川氏扮する大学教授、雄司がスイミングクラブのコーチである静香先生に、水泳だけではなく人生の歩き方も学ぶという筋立てなんだけれど、だからといって静香先生はなんたって綾瀬はるか嬢が演じるんだから、そんな完全な人徳者、金八先生みたいな先生ってんじゃない。
彼女もまた彼と同様、過去にトラウマを抱えているんである。交通事故に遭って大けがを負って以来、往来を歩くのが怖くなった。偶然、陸で見かけた静香先生のへっぴり腰の理由を聞いたら、そういうことだった。
水の中にいた方が楽だという静香先生の言葉を、水が怖くて怖くて仕方がない雄司はオドロキをもって受け止めるのだが、この時点ではまだ、雄司側の深刻なトラウマは明かされていない。単なるカナヅチ、異様に水が怖い弱虫さんとして、スイミングクラブのオバチャンたちにからかわれている。
物語は最初、コテコテの関西弁、麻生久美子氏扮する美弥子と雄司のオープンテラスでの会話からスタートする。やはり雄司のカナヅチをからかう内容なのだけれど、神経質な雄司をあっけらかんとした美弥子がからかう雰囲気は、いかにも親密である。その左手の薬指にはキラリと指輪が光っているし。
でも、いきなり五年後に飛び、大学教授である雄司の生活を追う、その同じ指にはもう指輪はなく、友人の僧侶に問われると、別れた、とだけ、息子がいただろうと問われても、口を濁す彼に、まあカミさんに親権が行ったんだろうとぐらいにしか思わなかったらしい友人は、寂しい中年男の一人暮らしか、と笑う。まさしくそのとおりではあるのだが……。
もともと泳げず水嫌いだったのが、でもあの運命の日は、川の流れにさらわれていった息子を夢中で助けに入っていった。そして溺れた。恐らく彼の目の前で愛する息子は……伸ばした手もむなしく……。
それを、病院で目覚めた雄司は覚えていなかった。すっぽりと記憶が抜け落ちていた。水が怖い自分が川に入っていくイメージさえわかないのだろうし、記憶が抜け落ちていることが、息子を助けられなかったことと同じぐらい無責任な、逃げている自分を思わせていたたまれなかった。
いやそれ以上にそれ以上に……思い出してしまうのが怖かった、のだろう。そしてそう思ってしまう自分もイヤだったのだろう。妻の美弥子が彼に激怒したのは、後から思えばやつあたりというか、彼女の言うように、自分もまたその記憶から、自責から、逃げていたのだ。車から荷物をおろして、と夫の雄司に頼んだすきに起こってしまった事故だった。
そんなん……誰も悪くないのに。でも美弥子は、その自責の念から逃れるために、雄司がちっとも泣かないこと、その一点のみをついて、噛みつき吠えまくる。私だけが哀しんでいるの、と。
という……しんどっ!というバックグラウンドが示される時には、うーむ、重い重い重すぎるわぁ、と正直思う。泳げない男と泳ぐことしかできない女のコメディ映画で良かったのに、とか思っちゃう。そういう映画がすんなり通る時代は確かにあったのに、今は確かにそれだけのことが難しくなったよなあ、と思う。
雄司の現在進行形の恋、というにはまだ手もつないでない、想いも伝え合ってない、でも彼女の幼い子供を交えてのピクニックとか、明らかに信頼しあった関係。
言わずともお互いの気持ちは確信してて、後は雄司が、まあここは古臭い価値観とは判っていても、やっぱり男から、年上の男から行っちゃって!!という段階まで来ている。子供の誕生日パーティーをお部屋で三人でするまで来ているんだから!!
確かに直前まで来ていた。元嫁の美弥子も、静香先生も、そして今カノの奈美恵だってみんなが判っていた。雄司が水泳を習い始めたのは、あんなに理屈屋の彼が、水が大嫌いな、忌み嫌っていたほどだった彼が、顔を洗うのも風呂に入るのも恐る恐るだった彼が(このあたりの描写が、そらぁいくらなんでも……と思わせる、先述したさすがの違和感なんである)、一歩を踏み出そうとしていた。
理屈屋の自分をぶち壊してくれる静香先生の元で、やんややんやと応援してくれる、人生の強く打ち勝ってきたオバちゃんたちの支えもあって、一歩一歩、水の中で自由になっていく自分を心地よく感じていくんである。
後から思えば、交通事故のトラウマで往来を歩くことに困難を覚える静香先生の苦難もまた相当なものだから、そっちの人生もじっくり見てみたかったと思うと、ダブル主演と言っちゃったけどやっぱりこれは、長谷川氏単独主演と言った方がいいように思う。トラウマとしては同等であり、でも結局静香先生のは、相変わらず最後まで、へっぴり腰で往来を歩んでいるのだから。
まあそりゃ、クライマックスのシークエンスでは、記憶を取り戻したがゆえに別の怖さが生じて、更に一歩も進めなくなった雄司を助けに、今までは近場の距離だけだったのが、雄司の自宅まで必死こいて訪ねてきた、というのはあるけれど、それはあくまで教え子のためであってさ。
でもその教え子の苦悩は自分のそれを投影できるものだった訳で、だからこそこんなムリもおかしたんだったら、静香先生の方の解決もあってしかるべきだったんじゃないかと思って……。
違和感までは言い過ぎでも、どことなく物足りなさを感じるのはそこで、彼を説得させるための材料として充分なほどのトラウマを彼女のキャラに設定していながらも、彼が克服したのに彼女は出来てないまま。彼にとっての恩人であるという着地点があるだけに、モヤモヤとしたものが残る。
だからといって、そのトラウマを解消した先駆者として彼を指導するっていうんなら、それは説得力がないし、綾瀬はるかという絶妙なほわほわ感を持つ役者を起用する意味もないんだよね。
ほわほわ感があるからって、設定もほわほわしたまま回収しないで終わっちゃうと、最初から設定しとかないで、不思議ちゃんのまま彼を癒してくれた方が良かったのに、って思っちゃう。
麻生久美子の関西ヤンキーとさえ言いたい、雄司の言いたいことをいちいち封じる先回り女が、めっちゃ楽しかった。このキャラは、こんな不幸な事件が起きなかったら、楽しい夫婦生活、家族生活として継続できていたんだろうと想像されるから、余計に切ないのだ。
一時はそらまあ修羅場を展開したことがちらりちらりと明かされる二人だったけれど、かつての自分と相手を思いやれば、今はお互いに大事な人がいるし、もう元には戻れないけれど、かつて愛し合っていたこと、心の中に生き続ける愛する存在を共有する二人として、かけがえのない同志であることは間違いなく、最後にはそんな、そんなそんな、言い様のない、哀しいけれど幸せな、取り戻した記憶と回想の時間が、新しい人生をスタートする二人に訪れるのだ。
でもそれには、かなりの、かなーりの紆余曲折がある。雄司の恋人、シングルマザーの奈美恵が、雄司が水泳を習い始めたこと、静香先生のことを聞いていたとはいえ、彼女に相談に行くというシークエンスは予想外だった。後からよーく考えてみても、いくらなんでも突発すぎるというか……。
信頼できる先生というのは雄司の口から予想出来ていたとはいえ、妙齢の女性の先生だし(こーゆーこと言うのはフェミニズム野郎としてはホント、ヤなんだけど、でも、そうだよね……)、勘繰りしたっておかしくない、てゆーか、そっちの方が俗世間的流れでは(爆)自然じゃん、ってゆーか……。
それを感じさせないほどに、静香先生と奈美恵が理解しあっている上で相談するとかいう流れなら判るけど、まるで面識ないまま、話に聞いていたまま、なのに百パーセント信頼して相談持ちかけてるのがさすがに解せなくて。
だって、これまで、記憶、トラウマ、シングルマザー、恋愛や人生へ一歩踏み出せない臆病さといった、めちゃくちゃ繊細なテーマを恐る恐る、薄氷を踏むように進んできたのに、ここは特に気にしないんだ、とか思っちゃったりしてさ……。
雄司が大学教授で、しかもまあまあ若くカッコイイ(スイミングシーンでまじまじと、この年頃の事務系男子はこんな絞れた身体じゃないよと思ったよ……)センセーが女子学生にキャーキャー言われないっつーこと自体が不自然だと思うのは、昭和に産まれ、平成にキャンパスライフを送った、その波に入れなかったアラフィフさんのひがみだろーか??
授かり婚の証人になってほしいと訪れる、ウキウキラブラブ学生カップルは、雄司の抱える、何かが起こる前にあれこれ考えすぎる癖(この場合、クセじゃなくてヘキと読みたい)をあぶりださせ、講義の最前列で居眠りしている学生が問われて定義する、生きる意味とは、というテーマに雄司が開眼する。
教授という、もはや権威のある大人であるけれども、雄司のように経験値に不安があって、前に進めない大人が、いい意味で何も考えずに、時にピュアに、時に真摯に考えて出してくれた答えが、雄司を、そして観客であるすっかり大人のワレワレを救ってくれる。
スイミングクラブの、人生の先輩であるオバチャンたちに、ふがいない未熟者である雄司が鍛えられるというスタンスは楽しいけれど、ちょっと苦しいなあ。例えば占部氏なんか、私よりも年下で、そうなると、結婚経験もなく子供もいない私みたいなアラフィフは、まったく未熟者だもんだから、まあそりゃ彼女の役柄は子供を産んだベテラン女子な訳だけど、正直今は、私の年頃だと、それが普通じゃなくなってきてるんだよね……。
このスクールのおばちゃんたちが、総じてベテランママでありベテラン主婦であるというのが、最年少の占部氏もまたそのキャラを振られているのが、正直今の世、というか、私(爆)に即してないなあというのが、本作に対する一番の違和感と不自然と不満だったように思う。そう!!今の世に生きる女たちのリアリティがない、ないのよ!!★★☆☆☆
かの作品がいわば二人の男子の友情物語の上に成り立っていたのと違って、本作は大人の、プロとしての、チームプレイ、その熱さ。青春の部活さえも思わせる、根底にピュアな想いがあるあっつあつの熱さがありながらも、あくまでも社会人として働く、社会人として闘う大人の物語だということなんだろうと思う。
だからこそ、こんなにもシビアな世界ではなくとも多かれ少なかれ社会の厳しさの中で踏ん張ってあらがって、もがきながら生きているワレラ闘う社会人の胸を熱くする。人気の若手役者さんたちが出てはいるけれど、ムネアツになるのはむしろ、ワレラオジサンオバサン連中なんじゃないかと思っちゃう。
それにしてもこれが小説原作だというのがオドロキである。魔法のように繰り出されるスケッチ、絵コンテ、アニメーションといったビジュアルの魅力で大いにひっぱるヴィヴィッドな展開に、ええっ、これってコミックス原作じゃないの!!と大いに驚く。
ちらと小耳に挟まなくても容易に想像される、二本の劇中アニメーションをマジにフルパッケージ作成して投入しているという唖然とするほどの豪華というか、ぜいたくというか、もったいないというか、むしろその二作品を別に公開した方がいいんではというような……。
こういう、やれるもんならやってほしい、あるいはクリエイター側からしたらやりたいと思う完璧な準備、いやもはやこれは準備ですらない、本当にこの2チームのリアルな闘いを、ドキュメントで見せるために不可欠な、ドキュメントではなかろうかっていう、それをひしひしと感じるから、それだけでオバちゃんはまたしても涙腺が緩んでしまうのだ。
吉岡里帆嬢扮する斎藤瞳は、連続アニメ「サウンドバック 奏の石」で監督に抜擢。県庁から転職したという異色の経歴だが、彼女にはこの世界に飛び込んだ大きな理由があった。
それが、奇しくも同じ時間帯で違う放送局、マーケティングとして故意にバッティングしたに他ならない、ライバルアニメの監督こそが、憧れであり目標であり、そして打ち倒すべき相手、王子様こと王子千晴(中村倫也)なんである。
アニメファンのみならず、一般的、世間的にも、天才監督王子千晴の復活こそが大事件であって、たまたまその裏番組に斎藤監督のデビュー作があるぐらいな雰囲気。県庁から転職した、若くてまあまあ可愛い(もちろん役柄的にであって、吉岡里帆嬢はメッチャ可愛いんだが)女の子監督が、王子復活の当て馬にさせられた、というのはあくまで名目で、当然両社の、両放送局の、両プロダクションの思惑はあったに違いない。
そのあたりは映画の尺の部分もあってなのか語られないが、観客としては勝手に、斎藤監督作品を全面バックアップする敏腕プロデューサー、行城氏の計算、いやそれこそプロデュースが最後まで完璧に、進んでいったんじゃないかと思っちゃう。いや絶対そう。完全負け戦と思わせて、ってヤツ!キャー!!
その行城を演じる柄本佑氏。ヤバい、ヤバすぎる。魅力的すぎる。心を持っていかれる。単純な見え方として、斎藤監督を単なる代打として軽く扱い、食いものにして、軽薄(に見える)雑誌取材やタイアップ商品をバンバン投入する。
斎藤監督が、なんたって憧れの王子監督と対決できるチャンスにまでたどり着けたことで、必死になりすぎて周りが見えなくなって、そうなると行城プロデューサーがしていることがあまりにも自分の想いをバカにしていることのように思っちゃってガッツーン!!と衝突するんだけど、いや、衝突したと思ったのは彼女の方だけなのだ。
行城プロデューサーはクッション、いやそれ以上だな、スポンジのように吸収して、途中、だから彼女は判っちゃう。私たちだって判ってたさ!!姑息でしたたかだと思っていた行城氏が、いわば汚い部分を引き受けて、嫌われ者になって、信じた作品と信じた才能を世に送り届けようとしたことを。
そしてそれは、もちろん、今現在の、直近の成績に反映出来れば最高だけど、それが出来なくてもいい。そして斎藤監督が他から声がかかってることも知ってて、会社を辞めてもそれでもいい。心血を百パーセント注いだ作品を残す闘いをしたいと、彼は思ったのだ……(ああもう、泣いちゃう)。
目先の視聴率……はもちろん大事だけれど、彼が見据えていたのは、これぞと思った才能が会社を去っても、また一緒に仕事が出来る、それだけ100%ぶつかりあって、悔いのない闘いをすることだった。
行城氏はこの会社のベテラン社員。辞める気はない。今はなかなか聞かなくなった愛社精神というものを、それこそ今の時代、パワハラだとか言われかねないその精神を持ってて……。
いや違うな、行城は愛社精神じゃなくって、それも多少なりともあるんだろうけれど、いい仕事がしたい、いい才能を持った、いい情熱を持った人たちと仕事がしたい、そのために、もしかしたら持っているかもしれない会社への不満も、スタッフに嫌われることも全部飲み込んで、十年二十年先に残る仕事を、そして十年二十年自分が納得して満足して楽しめる仕事をするために、今ここにいるのだ。
そんなことはわざわざ言うこともないけれど、隠している訳でもない。斎藤監督は気づいてしまった。いい作品を作ることだけが大事、それだけが視聴者に届く方法と思い込んでいた彼女と彼は犬猿の仲に見えたけれど、彼女の方が気づいていなかっただけ。
だからなれなれしく肩なんか叩いて、行城さんの食い物にされないように、なんて気遣ってるような顔をして裏ではやっぱり代打じゃな、と嘲笑するような製作メンバーに吠えたのだ。
この時に観客も気づいた。行城氏に認めてもらうことを、実は彼女がどんなに嬉しく思っていたかと。ビジネスライクに事を進めて人の名前なんてちっとも憶えないと陰口を叩かれている行城氏に、名前を覚えてもらえて、一緒に仕事が出来て、斎藤監督と呼ばれることだけでどんなに嬉しいことだったかと吠えるあの場面はムネアツどころの騒ぎじゃない。こぶし突き上げてうおー!そうだそうだ!と泣いて叫びたくなっちゃう。
でもね、イイのは、彼女が吠えまくったこの二人だって、作品を愛し、良いものにしたいと思い、勝ちたいと思い、みんなで力を合わせてやってやる!という思いは実は一緒でさ、それがラストを変えると斎藤監督が決断した最後のミーティングのシーンで判るから、ああもう!ヤラれた!と思っちゃうのだ。こんなところまでだって、きっと行城氏は見通していたに違いない。仲良しごっこでいい作品なんか作れない、そしてその作品を視聴者に届くものになんて出来ない。闘う仲間はそんなもんじゃなくて、そしてここにいる人たちはみな、一癖も二癖もありながら、最終的には同じ想いで駆け抜けられるメンバーなのだといいうことを。
最初から代打なんかじゃない、四番ですよ、と最後の最後行城プロデューサーが言い放つのが、ヤバすぎる、泣きすぎる。もうーこーゆー、一見嫌われ者、ミステリアスで、でも実は超理解者、ヤバすぎる!!
柄本佑氏は、「真夜中乙女戦争」でもそういう色っぽさミステリアスで若手主演を食い物にしちゃったバイプレーヤーというには強力すぎるチャーム。素敵すぎるなあ。
斎藤監督が憧れるあまりに敵対視する、覇権をとります!!と宣言する、絶対王者チームである王子チームがまた、まったく違うチーム戦でドキドキしてしまう。双方ともに現場スタッフは絡んでくるけれど、斎藤チームはそれががっつり、まさに冒頭で言ったチーム戦、熱すぎる青春時代の部活のような、想いのぶつかり合いも、文化祭の追い込みのような盛り上がりで、クールに進めていく王子チームとは全然、違う。
斎藤チームは未熟で頭でっかちな斎藤監督が、自分だけが苦しんでいると思っていたところから、自分一人の力ではどうにもならない、それだけ無力だと気づいた時にはっと、行城プロデューサーがいかに自分を育ててくれたかということに思い至った、というスタンスだった。
王子側は更に孤独度を増している。プロデューサーの有科(尾野真千子)に甘えたおす。行方不明になって突然イベントの日に姿をあらわしたり、天才監督とはかくやと思われたが、その裏には壮絶なプレッシャーがあった。
彼はこれまで描けなかったスランプ、描いたとして酷評されるんじゃないか、そもそも描けるのかという強烈なプレッシャーと闘い続けてきた。クールな態度は彼の悲しみの仮面だった。
それがはがれたのは、彼自身、話題性だけで抜擢されたような新人の女の子でしょ、と思っていたのが、彼自身のトラウマを思い出させ、それが斎藤監督自身のそれに共鳴した時だった。
二つのアニメ制作の同時進行、しかも常に締め切りギリギリ(王子はことに、伝説の遅刻魔だから)、共にラストを替えたいと思うスリリング。王子に関してはそもそも、マスにゆだねて納得のいかないラストにした過去を後悔していた。一方の斎藤監督は、王子に勝つためということもあるけれど、そもそもそのスタートだったんけれど、思いなおす。
大団円のハッピーエンド。週末の夕方という子供向けの時間帯の当たり前だった。悲劇的な結末にしてしまったら、その後ソフトやグッズの売れ行きの影響する。スタッフの一人は当然のようにそれを主張した。
それは正しい、正しいんだろう。すべてがすべて、現場サイドの声を聞いていたら、ほぼほぼ中小企業の日本において、大抵の会社はつぶれちゃう。まあついつい自分の環境を考えちゃったけど(爆)、でもそれをさ、本作が、その経過をきちんとたどった上で、それでも彼女がここで闘い続けることを選んだろうって思うと、ああまたしてもグッときてしまうのだ。
王子チーム側のプロデューサー、有科はかなりギリギリまで攻めた。王子監督が提示したラストで上層部を納得させられるのか……まだどんなものが王子から出されるか判らない、爆弾を受け取るような気持で日々過ごしていた彼女が、恐らくその爆弾級だったんだろう絵コンテを、もうほうほうのていどころか、もはや死んでいる、朝日の陽光の中、紙くずだらけの中、机にぶっ倒れている王子から受け取った。上と闘える武器をくださいと、彼女は王子に行っていたのだ。討ち死にする覚悟ということだ!!
王子チームのラストは、結局は主人公を殺さなかった、一度死んで、蘇った、というスタンスだったのかな??斎藤監督は、殺すんだと宣言していたけれど、どうったんだろう……。
斎藤監督側はハッキリと、アンハッピーエンドを選んだ。かつての自分。団地に住んでいる地味な女の子だった自分。魔法のステッキなんてウソ。アニメの世界なんてウソばっかり。そう思っていた彼女が大人になったとき出会ったのが、王子監督の作品であり、彼女はその中に自分を見たのだ。子供の頃にこの作品に出会っていたらと思った瞬間、転職を決意した。だったら私のような子供たちにこんな作品を届けたいと思った。
作品を届けること自体がどんなに難しいことなのか、行城氏はすべて教えてくれた。アイドル声優ちゃんとのぶつかり合いと和解もすごくよかったな。
この声優ちゃんが自分は客寄せだとわかってて、だったらそれに徹してやる!と覚悟を決めて、そしてできるだけのことをしたいとロケ地を訪れたりして、主人公にどうやったらなりきれるのか、と……。明らかに成長した姿を見せるのを、ベテランアニメーターが気づくシークエンスも涙モノ。
そうそう、このふたつのアニメは同じロケ地を舞台に競い合ってて、その風光明媚な自然の中にぽつりと敏腕が集うアニメーション制作会社がある、というのもムネアツなんだよなあ。
神と呼ばれるアニメーター、小野花梨嬢も凄くよかった。つい最近見た!めっちゃ印象に残ってた女優さん。「Ribbon」でのん嬢の妹やってた彼女だよね!
接戦を繰り広げた最終回視聴率は王子チームに負けたけれど、エンドクレジット後、粋な後日談が待っている。ソフトの予約数で斎藤チームが上回ったんである。後ろ姿でジャンプして、喜びを表現する行城氏が可愛すぎる。
エンドクレジット前のラスト、斎藤監督が子供たちが自身の作品でごっこ遊びをしているのを見て涙がこみ上げる、というので充分感動だったが、この、この最後の最後の喜びのラストは……!!ヤラれたわ!!
これ海外に出したいわあー。日本のアニメは世界中で人気だけど、そのバックステージをこんなにもムネアツで見せる作品、絶対ウケると思うんだけど!!
今のアニメ制作現場ってもっとデジタルでずんずん進んでいると思っていたから、こんなに手描きの工程もあって、意外にアナログなところも凄く胸が熱くなるしさ。
オチまで作りこんでから製作するんじゃないんだとか、オチを変えるなんてことがありなんだとか、そういうドキドキも意外性をもって興味深く受け取られると思うんだけど!!★★★★★
うっかりBLものと言ってしまいそうになるけれど、そうなのかもしれないけれど、実は、実際は、二人はキスさえしてないんだよね。こんなアプローチの仕方は初めて見た。
プロレスごっこというにはガチすぎるぶつかり合い、でもそれはあくまで、彼らのコミュニケーション。触れることさえ怖くて人間関係に踏み込めない、という槙(まき)に対する直己(なおみ)が突破した、じゃれ合いに紛らせた本気のぶつかりあい。
それがどんどん高じて、二人が自分の気持ちを抑えられなくなって、何秒かの間があっての抱擁は愛に他ならないんだけれど、その時でさえ、その時でさえ……ただがむしゃらに相手に突っ込むような抱きしめ合いなのだ。子供のような、迷子になった子供がお母さんに抱きついた時の必死さのような。
ああ、どこから行こう。胸がいっぱいで、上手く進めない。まき、なおみ、なんだかどちらも、どちらの性にも通じる音で、しかも演じる役者さん二人のお名前もまたそうなのが、さっすが平成生まれのキラキラネームと言いそうにもなるが(爆)、いやいや、でもなんかとにかく、象徴的な感じもしてしまって。
先走って言っちゃうと、直己は学生時代の友人、朔子と淡い思いを抱き合ってて、すべてが、すべてが終わって彼女と再会して改めて恋人同士、どころか、左手の薬指に指輪なんだから、結婚まで至ったってことなんだろうと思うから、性自認、性嗜好が必ずしも、というのがあったんじゃないかと思う。
槙の方はどうだったんだろう。彼はとても無邪気に人懐っこく見えて、でも人に踏み込むのが怖いと言った。それは、性嗜好の先のそれだったのか、それとも……。<>
この二人の出会いと気持ちの高まりが運命的すぎて、brこの出会いだけの愛のスパークのようにも見えたし、いや、直己が、そこから目を背けて、は言い過ぎにしても、あの熱い愛を見なかったことにして、そこに戻らなかったように思えて、ならなかった。
だーかーらー。もう全然ダメ、私。訳判らんだろ。落ち着いて。最初から行く。
直己が学生時代の友人たちと飲み会している場面から始まる。今思い返せば、ちょっとおしゃれなバーみたいな。なんだか背伸びしているような感じがした。彼らの会話も、いかにも仲良さそうに見えて、いや実際仲いいんだろうけれど、時期的なものというか……。
大学を卒業するタイミング、これからどうするのか、就職する、留学する、そして直己は父親の経営する不用品回収会社で漫然と働いていて、友人たちから就職も決まってない、と突っ込まれた時彼はどう思っていたのだろうか。そもそも他に就職するとか、実家から出て独り立ちするという感覚があったのかどうか。
父親は、つまりは、見栄坊だったのかなあ。冒頭で示されるのは、窮地の社員に気前よく金を都合し、家族のようなものなんだから、と大みえを切る彼だった。いや、この時には普通に優しい社長さんに見えた。だって演じるのが甲本雅裕氏だったんだから。
でも、次のシーンでは息子の直己に対して、まるで恋人に対するみたいな束縛を見せた。夕飯食べないなら連絡するべき、作ってる人のことを考えろ。恋人に対するなら甘やかなものだろうが、父親の苛立ちでこんなつまらない束縛を見せられると、怖さと共に虚しさばかりが押し寄せる。
なぜ、ここから出られないんだろう。すっかりおばちゃんになってしまったこちとらは思っちゃう。それなりにまとまった貯金があったら、なくたって、いくらだって出ていけるのに。
その最初の経験がないだけで一歩を踏み出せないのは、判らなくもない、てか判る。マジメであればあるほど、優しくあればあるほど。父親の見栄が、愚かでしかないことを彼は判っていた筈なのに、判っていたからこそ、出ていけなかった。
友人から就職も決まってないと言われた時、外からはそう見えているということに初めて気づいたんじゃないか。家業を継ぐという考えも覚悟もないことを見透かされているような、あるいは、一歩を踏み出せないことを父親の仕事を手伝っているということを言い訳にしていることに気づいたような。
そんな直己がスイミングプールで出会うのが、そこのスタッフ、槙である。息継ぎがヘタクソな直己に、背泳ぎの方がラクだよ、とデッキブラシで掃除しながら槙は声をかけた。
それだけの邂逅だった筈が、思いがけなく深夜のバス停で行き合った。バスも来なくなった時間にぼんやりと座り込んでいる二人に、会社の軽トラで通りかかった直己が思わずブレーキをかけたのだった。
バスの通らない時間にこのバス停に来てしまうという槙の養母の、その理由は結局最後まで明かされないし、ちょっとした認知症も疑われるほどなのだが、このバス停、深夜、逢魔が時の雰囲気である。
槙の養母、彼が美鳥(みどり)と友達のように呼び掛けるのが、風吹ジュン。少女のままこの年になったような、肩の内側にかつての恋人の思い出であろう座標をタトゥーで刻み込むような人物像をすんなり観客にしみ込ませちゃう、風吹ジュンである。
年齢的には祖母のような彼女が、槙の養母になったのはどういうことなのか、これまた明かされることはない。この設定のミステリアスな魅力!!
美鳥は今、視力を失っている。さらに彼女が余命いくばくもないことを知った槙は、彼女の望みをかなえてあげたいと思う。
美鳥が差し出した、200万あるはずという預金通帳は、確かに途中までその額があったが、がくりと減っていて、……その理由は知りたくないし明かされもしないけれど。
美鳥はこのお金で、私が実際は出来なかった世界中を回って見てきて、私に教えて、というのだ。そこで槙が編み出したのが、録音したカセットテープで世界中を旅してきた、と美鳥を、まあいわば騙す、という計画だったのだ。
これは、これはこれはこれは!!エモい、とこういう時に発していい?いい??不用品回収業者である直己が遭遇する、そうしたエモい廃棄品。テープレコーダー、アナログレコード、VHSビデオ……。
直己の“避難場所”(父親からのね)である使われていない倉庫をこっそり秘密基地にしている場所には、そうした、彼ら世代では絶対にない、昭和世代の数々が、彼言うところの「ものとして持っていなければ信用できない」という信念のもとに山と積まれているんである。
とても愛しい場所だし、こっから先、槙と共に、世界中を旅する音の録音をするスタジオとなり、二人の愛を育む場所ともなるんだから大事な場所なのだけれど、でも結局、さ。
これもまた父親の持ち物であり、避難場所さえ、父親の管理下にある、父親が気づいてないだけで、っていうのが決定的なことだったと思う。
それは後述するとして……ここで、あるいは外のあらゆるロケーションで、世界中を旅する音を、いわば捏造する二人の旅が、愛しくて愛しくてたまらない。
だって、カセットレコーダー、マイク、大きなヘッドフォン、果ては波の音にいつの時代よ、と思わせる、ざるに小豆なんていう手法さえ持ち出したり、不用品回収先の子供のイタズラから、アナログテープを引き出しまくって、そのがさがさの上を足で踏みしめると小麦畑を歩いていく音に聞こえたりとか。
砂漠を歩く、雪道を歩く、大きな鳥がすぐそこで羽ばたいたり、飛行機が飛んで行ったり、時にはオーロラが出現した時の不思議な異音さえも。
ふと思う。果たして美鳥は本当に、槙が送ってきた、というテイのこのテープを信じていたんだろうかと。騙しおおせた。その最後のテープを聴きながら、美鳥はこと切れた。
そしてその時、槙は彼女のそばにいなくって、そのことを自分自身に責めるけれども、あるいはこんなことをするべきじゃなかったと思ったのかなと思うけど、そうじゃなくて、そうじゃなくて……美鳥は判ってたのだとしたら?心地よく騙されたフリをしていたのだとしたら??
盲目に対する騙し、確かにこの手法は、多様性が叫ばれる昨今、ちょっとしたことをつつかれて炎上しちゃう今、優しさでしかないこの手法さえ、難しいのかもしれないと思う。
でもさ、音の世界、たとえマガイモノでも、本物だったと思う。実際の土地に行くことが、そんなに意味があるのか。いや、そこまで言うのは言い過ぎか。でもさ、想像の翼を羽ばたかせて、こんな音がこの場所で鳴っているんじゃないかと再現して、目をつむって、それ以外の感覚を研ぎ澄ませて、……めちゃくちゃ、いいじゃない、と思う。
コロナ禍以降、学生時代にはどっぷりのめり込んでいたラジオリスナーに戻ってきて、音と人の声だけで、それ以外は自分の想像力で完成される世界に改めて魅了されたから……。
直己は、なかなか言い出せなかった父親への自立の宣言をするものの、そのための資金が父親によって引き出されていたことを知り、呆然とする。この時には息子を束縛するあまりの父親の得手勝手、と思っていたが、厳しい会社経営の補填のためと苦し気に告白する父親に彼は絶句してしまう。
いやいやいや、どんな理由であれ、子供のカネに手を付けるのはダメでしょ。てか、息子を手放したくない思いが明らかに手伝っての、この所業だったんだから。束縛の関係が長かったからなのかなあ、追い詰められた彼が間違った選択をしてしまって、獄中に追いやられてしまったのは……。
美鳥の死が、大きかったんだろうと思う。そのことで打ちのめされた槙を、愛しているから、何とかしてあげたい、自分自身もここから抜け出したい、と思ったんだろうと思う。
……なんだろう、何で上手く行かないの。図体ばかりは二人ともすっかり大人なのに、そして、こんな優しくなければ、勝手なヤツなら、出ていくのなんて、カンタンなのに、なぜそれが出来ないの。
ここから出ていくのにはまとまったお金が必要だからと、強盗までしちゃうなんて、それでブチこまれるなんて、なんてガキなの。落ち着いて考えれば、きちんと調べれば、今の苦しさよりずっと楽な苦しさを選択すれば、いくらだってここから出ていけるのに!!
今でも、そうなのかなあ。私世代の時代はね、つまり昭和世代はね、判るさ、こういうの。まるで情報がないから、ここに閉じ込められている以上、生きるすべがないと思う感覚、東京なりなんなり、都会に出なければ、という思いがあった。
でも今は……今でもそうなの?いやそれよりも、やっぱり関係性に縛られる方が大きいのか。優しいから。みんな優しいから。でもその優しさが、最大級の過ちにつながる、つながっちゃうの、本作ではさ!!
焦った気持ち、短絡的と言われればそれまでだけど、父親から逃れ、槙と海外に出たいと思った。そのための貯金を搾取されて、ブチ切れた直己は強盗を起こし……殺人、までは行ってなかったと思いたいが、取引先の女性が階段から落ちて動かなくなった、ていうところでふつりとシーンが切れるから……。
その後、直己に面会に行く槙、そのシーンはここで書き起こしたくないぐらい涙涙で、だって、一体どうしたら良かったの、って。二人が、気持ちを確かめ合っていたのかどうかさえ……でもそんな言い方は良くないのか。セックスしてれば、挿入してれば、最後まで行ってたら(行ってたと思わせなくもないのだが、決定的な場面がないから)、そんなことじゃないのは判ってるけど、凄くそこんところを考えさせる二人の関係性だったから……。
ことに、直己の方は前段後段を通して、実際の性的自認は、と投げかける感じもあったし、凄く難しかったんだよね。
出会ってから、事件が起こって、面会の場面の、胸が苦しくなるほどのエモーショナルなこの名シーンでは、二人の運命をしっかりと信じられたし、信じたいと思ったけれど、何年か後のシャバに出てからは、二人は会わないし、直己は先述したようにかつての淡い思いの相手の朔子と人生をやり直すのだ。
こんなん、切な過ぎる。しかも、お互い車に乗って、直己は彼女を助手席に乗せて、槙は直己の父親の会社でそのまま勤めててそのトラックの助手席から無造作に足を投げ出して。
そんなんあるかよ。息子は父親を見限ったのに、恋人になったかどうかも判らない、でも、逃げ出そうって、誓い合った彼が、自分の父親の会社でまだ働いている、ご機嫌で働いている、なんて。
あのね……本作が、女性監督だって知って、うわぁ、と思った。上手く説明できないけど、男性にしても女性にしても、うわぁ、って感じ、なんだけど……。腐女子が妄想するBL的なものもありつつ、セックス含め何一つ二人の間で昇華出来てなくて、なのに、めちゃくちゃ愛はあるのに、誰かそれを認定してよ!!っていうさ。
もうどうしたらいいのか、判らない。正直、直己を救ってくれたんであろう、朔子であったって、同性でも、いや、同性だからこそ、空気読めよ、許せねー!!と思っちゃう私は、妄想すぎるのだろうか……。★★★★☆
戦争映画って、無数に作られているけれど、そのほとんどが戦場の悲惨さ、虚しさ、人の命が軽んじられることを、その現場の描写を描くことだけに重きを置いているじゃない?
もちろんそれは大事なこと、だからこそ繰り返されてはいけないことなんだけれど、だったらなぜ戦争は起きたのか、どういう理由があって、日本が他国を侵攻し、宣戦布告をし、され、というのを、……まぁ知らなかったのは私だけかもしれないんだけれど。
もちろん、どんな理由があったって戦争が是認される筈はない。でもそう言っちゃったら、意味がない、理解が進まない。ならば今なら、その当時と同じ理由があっても、それを戦争という方法でしか解決できないと思っていた時代の浅はかさを回避できる、という理解で学ばなければ、戦争NGを語る説得力がないということに、今、まるで初めてみたいに、気づいたのが本当に恥ずかしい。
遅きに失するとは思いたくない。いつだって、気づいた時から始まると思いたい。私のような無知が、今なお(まさに今なお!)戦争という方法でしか解決できないという愚かな思想を産み出すのだということを、私は今初めて、知ったことが本当に恥ずかしい。
戦争映画として、こういうアプローチの仕方があるんだ、という意味でも非常に興味深い。戦争映画だけど、戦闘シーンは一秒も出てこない。
時は終戦直前も直前、タイトル通り、八月十五日正午まで期限を切られた、ポツダム宣言を受諾するか否か。返答がなければ日本全国を一斉に攻撃するという連合軍からの通告。すでに本土にあがらんとして、包囲されている緊迫。
日本という国の運命が、まさに文字通り、だってもはや戦力も何もほとんどなくなっている状態なのだから、国土も、国民も、壊滅の危機にある瀬戸際なのだ。
陸軍と海軍が仲が悪くて、時局の読みも、価値観もまるで違うということ、知らなかった。どうやらこれは有名な事実なんだって。
本作と同じテーマで近年作られていたのが、「日本のいちばん長い日」だと今更ながら知る。あったあった。戦争映画苦手と思って、観てなかった(爆)。しかも同じ原作で67年にすでに作られている。でもその二作より前に、本作のようなスリリングな、面白い作品が作られていたなんて。
面白い、と言ってしまうのは語弊があるのだろうか。でも面白い……んだよなあ。その面白さは、実際はどこまで事実に即しているのか、誰かが語っている資料があるのかもしれないけれど、このシークエンスこそが映画的エンタメの真骨頂である、玉音放送の原盤をクーデターの暴徒から守るべく、銃弾が飛び交う中、疾走する。しかもその場所は宮内省だよ!!信じられない!!
主演である、総理秘書官の中島(鶴田浩二)が、隠し通路やら、女官たちを味方につけて仮病で医者を呼び寄せて脱出をはかったり、厩舎の中に身を潜んでジャッキー・チェンもかくやのアクションを見せるやら!
宮内省の中なんて未知の世界、もちろんここでもフィクションなのだろうが、なんかたくさん部屋があって、隠し通路があったりして、妙にワクワクしちゃうし、呼びつけられる医者が千葉ちゃん!!ここか!千葉ちゃんの出番ここかと!
……てか、先走っていきなりクライマックス行っちゃダメ(爆)。本作はね、なんていうか、サスペンスと言うべき静謐さに満ち満ちているのだ。
鶴田氏演じる中島が妻子とともに身を寄せる義弟の家の場面からスタートする。義弟の一郎は、有名な鬼軍曹の父親の血を引き、軍人としての誇りを信じて疑わない。演じる江原真二郎氏の思いつめた顔つきときたら!!
後々、「天皇陛下のご聖断」を、「それは陛下の真意ではない」とまで言ってしまう、本来ならザ・軍人、皇国3000年の歴史を誇り高く主張し、天皇陛下の元での軍人であることこそに何よりのアイデンティティを持っていた筈の彼が、そんな思想に至ってしまうのが。
いや彼のみならず、軍人、特に陸軍の思想が、国体護持に重きを置き、その前提が天皇陛下とか、そうした神国的価値観にある筈だったのが、自分たちこそがその国体を維持できるのだ、ぐらいな。
だから、ポツダム宣言が求める、国民によってつくられる国家なんてことは、中島が嘆息して言う、「主権が国民にあるという思想は、彼らにはとても通じない」ということになるのだ。
現代の視点から見たら、考えられないことだし、そうした考え方が、この数日間の攻防でひょっとしたら日本という国を、物理的にも精神的にも全滅させていたのかもしれないと思うと、本当に怖い。
だって、その前提の天皇陛下さえ、否定してってことは……つまり彼らは、天皇陛下が、ご聖断とはいえ、個人的人格として意思を表すってことが、受け入れられなかったってことなんじゃないの。カミサマじゃないけど、当然人格としてではなくて……。
天皇陛下は、御前会議も、玉音放送の録音も、ものすごく重要な場面で“登場”するけれど、顔も見せないし声も発しない。やはりこの中では、この時代では、ことに、この数日間では余計に、天皇陛下はご聖断を下すという大きな価値に、いわばとどまり、それ以上の、それ以外の、個人的アイデンティティは決して示してはいけないのだ。今の感覚では、もやもやとするけれど……。
ああ、なんか、思いあふれて脱線しまくりだけど。そんな一郎と完全に対照的なのが、鶴田氏演じる総理秘書官の中島。一郎から、政治家は理想を言いますけどね、と皮肉を言われるけれど、結局はその理想を現実にしなければ、今の日本はなかったのだ。
とはいえ、彼らは仲が悪い訳じゃない。むしろ和気あいあいとした義兄弟である。そういう、お互いの考え方や立場の違いを、その直前までは認めあっていられた。
もう一人いた。一郎の弟。一座の役者として慰問に向かう準備をしていた。「僕だってこれでも演劇を通して国家に奉仕してるんだよ」、と無邪気な笑顔で二郎は言った。
ひどく、ひどく不運なことに、二郎は慰問先で広島の原爆投下に遭ってしまった。一郎は、この家系なのだから、軍人として死なせたかった、と言う。言ってしまう。そんな考え方は見え隠れしていた。演劇だの役者だの、あるいは、机上で理想を言う政治家だの、そんなものを、現場主義の彼は、伝説の軍人である父親を持つ彼は、ケッと思っていたのだ。
でも、でもでも、一体彼は何のために軍人だったのか、なんのために、戦っていたのか。
日本という故国、軍人として戦うのではなく、生活する国民としての日本人という意識の欠落が、本作の中の、ことに陸軍の中にあって、神の視点というか、大きな目を持てないというか、皇国という考え方にしても、その中に天皇陛下のアイデンティティを排除するというのも、正確な現状に直面できないのも、すべてがそうなのだもの。
御前会議の場面は、鳥肌が立つ。鑑賞後、ちょっと色々調べちゃったのだが、地下にあった、御前会議が開かれた場所が、ほんの数年前に公開されてて、その前の、実際の写真もあって、めちゃくちゃ鳥肌立った。
ここで、この場で、完全に意見対立してまとまらない陸軍、海軍、内閣の意見を静かに聞いて、天皇陛下は涙を流しながら、“ご聖断”を下したのだった。
この御前会議のスケジュール合わせも、くだんの好戦的な陸軍一派に嗅ぎつけられる“気配”を感じ、中島が時間の繰り上げを、前日の深夜に宮内省に乗り込み打診しに行くというスリリング。
気配、というあいまいな、でも、その気配が現実のものになったら、日本国土、日本国民全滅の危機にあるという、恐ろしさ。
陸軍大臣がちょっと、泣かせたかなあ。御前会議まではね、こっの頭でっかち、プライドだけ高いバカまるだし!自分たち陸軍はまだまだ余力がある、本土決戦になっても迎え撃つ!!とか、バカか!!
客観的に見て軍事物資も軍機も全然行き渡っていないのが歴然なのに、プライドだけで言い放って、日本を滅亡させる気か!!と思っちゃう。内閣や海軍は、客観的に世界情勢、政治情勢が見えてるから、頭でっかちな陸軍を、どう抑えるかと悩ましい感じ。
でもね、確かに判ってなかった陸軍大臣なんだけど、彼は、ご聖断に、天皇陛下の涙ながらのご聖断に、それまでのすべてを投げ打って、ひれ伏すのだ。
その想いは若き部下たちには伝わらない。天皇直属の近衛師団ですら、彼らの暴走を止められず、師団長が殺されてしまう。天皇陛下より、皇国の歴史が大事。矛盾しているのに、なんかもう、プライドだかなんだか判らない。
軍人という、当時でしか判らないプライド、一郎が言っていた、軍人として弟を死なせたかった、というあの台詞といい、本当に、狂ってるよ。なのに純粋なの。どういうこと、もう!!
中島の奥さんであり、一郎、二郎のお姉ちゃんである敏子である。二郎が広島の原爆で死んでしまった時、一郎の軍人気質をよく知っている彼女は、自分の夫の職種故、客観的な視点を持ち得ていたということもあり、もうたったふたりのきょうだいになってしまったんだから、と弟に自重を促した。お父さんも言っていたと。「軍人が政治に首を突っ込むのは間違いだ。軍人が政治を動かして国が栄えたためしはない」と。
この、台詞!プーチンに聞かせたい!!金正恩に聞かせたい!ホントそうだよ。そう……もう一世紀近く前の大きな戦争で、私たちは学んだのではなかったか、と思う一方で、冒頭で反省したように、その本質をきちんと学んでなければ、そうして繰り返されるということなのだ。
玉音放送の原盤を狙う、決起した陸軍有志との攻防が本作のクライマックスであり、ほんっとうに……もう、誤解を恐れずに言えば、つーか、本当に面白いのよ。
事実はどうだったのか、これはきっと、誰も知る由がないのだろう。いや、残ってる手記とかあるのかなあ。ざっとしか調べてないけど、出てこなくて。でも、クーデターが起き、原盤を奪う攻防戦があったのはホントだから、もしかして、万が一、ってことも考えられたってことなんだよね。……すっご!
ああ、こんな風に、記号年号じゃなくって、その中で何が起きてて、どうしてその事件が起きたのか、もちろん様々な見解があるだろうから歴史学習として伝えるのは、教育としては難しいのかもしれないけど、学生時代にすんごく思っていたのはまさしくこのこと。
年表を答えられたって、歴史が判ってることにならないじゃない?……私自身が歴史苦手だから、逃げと言われればそれまでだけど、でも、歴史は、そこから学び、よりよい未来を紡ぐためのものじゃないのかなあ??特に戦争においては、絶対にそうだよ……。
近年、鶴田浩二氏に改めてヤラれてる。端正な顔立ちと落ち着いた演技、ぶれない絶妙な中低音の声。本作の、総理秘書官が震えるほどピッタリで、静も動も見せつけまくって原盤も、日本という国も守る。
ラストもラスト、無事原盤を守り抜き、日本国中に玉音放送が流れる。義弟は諭しに諭したけれど、やっぱり自害した。妻のきょうだいは、みんな死んでしまった。いろんな思いが去来したのだろう、車中で静かに涙を流す中島である。
この時代の、政治家、ではなく、政治家の、それも、総理大臣の秘書官であるという視点での本作、政治的緊迫した攻防戦を軸に、戦場ではない戦争映画というのが、だからこその、戦争の真実が見えてくるのが、メチャクチャ面白くて。
面白いというのはホント、誤解を招くというか、難しいんだけれど、本気で闘っていた。国の、それも国土や民衆全員が全滅するか否か、という中で、個人的プライドや、若さゆえの理想に取りつかれた青年たちをいかに抑えるかとか。
ああもう、人間っていつの時代もメンドクサイ。でもそれが、原爆投下にまで至っちゃうってことは、もう絶対に、繰り返してはいけない。絶対に、絶対に!!★★★★★