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「は」


2015年鑑賞作品

背徳のメス
1961年 87分 日本 モノクロ
監督:野村芳太郎 脚本:新藤兼人
撮影:川又昂 音楽:芥川也寸志
出演:田村高廣 高千穂ひづる 瞳麗子 久我美子 松井康子 葵京子 山村聰 真木康次郎 加藤嘉 城所英夫 倉田爽平 佐野美子

2015/4/3/金 劇場(神保町シアター)
野村芳太郎監督のミステリに間を置かずして挑戦。ミステリ苦手だけど、脚本が新藤兼人とくれば更に足を運ばない訳にはいかない。更に更に、主演が田村高廣とくれば、行くに決まってる!てか、最後の理由が一番強いに決まってる(爆)。
ああ、もおおぉ、なんてイイ男なの。ただただうっとりと眺めてしまう。白衣がよれよれでも、それさえ素敵。黒々とした漆黒の瞳(まあ、モノクロだから(爆))がいつも大きく見張ったように輝いていて、ただただ見つめてしまう。
よれよれの白衣さえも素敵。まくった腕にジーンと胸が締め付けられる。キャラ的に悪い男なのに、あんまり素敵なものだから、全然そう見えなくて困る(爆)。いや、素敵だからこそ悪い男なんだけどね、困ったなあ。

当時の直木賞受賞作だという。不勉強なので作家さんの名前は、なんとなく聞いたことがある程度。でもちらと調べると、ちゃんと活躍(失礼だっつの)した方みたい、ゴメン(爆)。
あの「白い巨塔」の三年前にこの原作があったことを考えると、なかなか興味深いものを感じる。「白い巨塔」が舞台も展開もダイナミックなものであるとすれば、本作は市井の、閉ざされた、いわば民間病院という小さな世界で、小さな世界だけれどもそんな人間の腐った部分はしっかりと、どっぷりと存在するという、凝縮された、濃縮されたカツオダシのような趣。
小さな世界だからこそ人間の意識の生々しさがあるし、我らほとんどが中流〜下流の人間たちにとって、「白い巨塔」よりもずっと赤裸々に、身近に感じる世界観。

ミステリ好き、いや、フツーに頭が回る人ならば、きっと真犯人はすぐに見当がついたんだろうなと、後から思い返すとハッキリとキャラが浮き出していたのに、なんで私、全然気づかなかったのだろうと、本当に自分のアホさ加減にハラがたつ(爆)。
真犯人、というのは、田村高廣をガス中毒自殺に見せかけて殺そうとした真犯人。

彼演じる植は、それこそ恨まれる覚えには枚挙にいとまなしである。まず女たらしである。病院中のナースや薬剤師に手あたり次第手を出している。中にはレイプまがいに奪った相手もいる始末である。
しかしこれが困ったことに憎めない、のは、イイ男であるからではなく(まあそれは多分にあるけど(爆))、彼が医者として優れた腕を持ち、なおかつ治療に関しては真摯な姿勢を持っているからなんである。

それは言ってみれば医療、技術に対しての信念であり、患者に対するそれではないのかもしれない。
それは本作のキモである、中絶手術に失敗して死んでしまった女に対して、植はあくまで、子宮口が充分に開いてから手術をすべきだったという点を譲らず、それは彼女の死への哀悼ではなく、あくまで手術の失敗の原因を明確にすべきという態度であった。

院長は、この女の“夫”がヤクザでヒモで、彼女に身体を売らせて骨の髄までしゃぶってた、コイツこそが道徳的に責められるべきである、と言う訳。
騙されそうになるよね。浪花節的、世間の関心的には、確かに院長の言う方に傾くよね。

でもそれは、カネの取れそうもない患者はさっさと手術して退院してもらおうという、西沢部長のやり方の正当化に過ぎず、医者はあくまで患者を正しく治療する、というシンプルな、当たり前の仕事から完全に逸脱する考え方。
まるで医者が、人間を裁く権利があるとでも言いたげな。でもそういうカン違い……カン違いですら、ないかもしれない。本気で思っているかもしれない、医者にそれぐらいの権限があるって。
そこんところが、それこそが、基本だったのだ。本作のキモだってことを、判っていれば、犯人の推測なんて容易だったのに。

つまりは、植の女たらしというキャラで、彼を恨んで殺そうとしたのは誰かという撹乱がなされるだけで、最初からスムースに要点は示されているんだよなあ。
彼を恨むべきなのは西沢部長。でも西沢部長は彼を殺すだけの度胸なんかない。ガス中毒事件があった後に、植に対して明らかに手遅れの患者を押しつけて、自分と同罪にしようとするコソクなヤツなんだもの。だったら植を殺そうとしたのは、誰なのか。

本作はさ、植の、つまりは田村高廣のイイ男っぷりに女客をシビれさせ、そして彼と関係を持つ女たち、当時の日本映画黄金期の、華やかな女優が次々と登場して男客をメロメロにさせ、という、エンタメとしての映画のしっかとした核を押さえている訳なんだよね。
だからこそ、割とシンプルな核が見えにくくなる上手さがある。最初からキモは決まっていた。西沢部長と植との確執。でも西沢部長が犯人ではない。ならば誰なのか。

植が、自分が殺されそうになった恐怖から、女たちを次々と訪ね歩くシークエンスが、いわば本作のメインのようにも映るんだけど、でも彼女たちを問い詰めて、当然反論をされ、そうか……と撤退するのが、えー、だって、女たちの言い分を信じているだけじゃん!と思っちゃう。
何のウラもとってないのに、そうか……とばかり納得してるだけの超甘さ!そりゃまあ結果的にはその通りだったにしても、なんと甘いことか……うーむ!!

次から次へと現れる、植が手を出した女の中でも、最も動機がありそうなのは、薬剤師の伊津子。宿直中、植に犯された。
そして伊津子は脊髄骨折で廃人同様になった夫に縛られている。という風に植には見えている。だから彼は、プレイボーイ特有の自分勝手なリクツで、そんな愛情はウソだと言うんである。

しかも自分自身がバツイチの理由をあわれっぽく持ち出してまで。逆タマに乗っていた彼は、その奥さんが妊娠した時、自分に子種がないことを知った。
なんで都合よくそれを調べたりしたのかしらんとついイジ悪くも思ってしまうが、まあそのあたりはセックスのタイミングとかに疑問があったのかもしれん、という風に考えてあげるのは優しすぎるかしらん??うーむ、どうも田村高廣には点が甘くなってしまう……。

彼のこの“言い訳”は、女を渡り歩く何の説明にもならないし、脊髄骨折をした夫に尽くしている伊津子を責める何の材料にもならない。
確かに彼女は目からうろこが落ちた。夫の自分への愛情を神話化していたのだと、そう思った。それはそれで、間違いじゃなかったのかもしれない。
でも、結局は伊津子はその神話化した愛の元に帰っていくんだから、余計な寄り道だったんじゃないかという気がしなくもない。演じる高千穂ひづるは、ホント、最近集中的に出会いまくる女優さん。運命かしらん。

久我美子、なんだよね。そりゃこのメンツの中では久我美子に決まってるのに、なんで私はピンと来なかったのかっ。
一人、植の手にかからない女、信子。後に言われるところの、“かさかさのオールドミス”。そんなヒドいことを言ったのは、ほかならぬ西沢部長だった。
院内挙げての飲み会でべろべろに寄った西沢が、植との衝突の苛立ちも含めて、くだんの暴言を吐いた。
こんなヒドいことを言うだけの親密さがあるってことだって、気づくべきだったのに。プロフェッショナルな気持ちでこの職場で働いているだけならば、彼女がその言葉に傷ついて、泣くなんていう醜態を見せる筈はないのだ。

植の手にはかからずとも、西沢の手にかかってた。30過ぎて独身で、しかも処女だった。
きれいだと言われた。西沢から出たたった一度のその言葉は、セックスするためだけの言葉だったに違いないのに、ずっとずっとその言葉を抱きしめ続けていたのだ、信子は。

ああ、なんてなんて、切ないの。後に回想される信子と西沢のシーン。献身的に食事の世話をする信子に、「おかゆを作れって言ったじゃないか」とちゃぶ台返しならぬお盆返しをする西沢。そんなことを言われた覚えはないから、おどおどとして膳を持ち帰る信子が、階段でがっくりとひざを折り、食膳を蹴散らかしてしまうあまりの哀れさ。
そしてそれは、奥さんが新たな命をお腹に宿した時から始まったのだ……。
家庭を壊すつもりはない。不倫をする女の誰もが思う気持ち。でもそれは、同じ共犯意識を相手も持っていなければ成立しない。

家庭を守るために、いや、あらたな子供の存在で、信子に関わっているのがめんどくさくなって、西沢は彼女を切った。
いや、切ってすらいない。察してくれよと、勝手なことを態度に出しているだけ。これなら、新しく子供が出来たから、関わっているヒマはない。あれはただの性欲で口にしたこと、関わってくれるなと、冷たくてもいいから、言ってくれた方が良かった。いや冷たくはしている。でもそのやり方が、自分は知らぬ存ぜぬの態度。卑怯なのだ。

ラスト、これまた社内挙げての飲み会で、信子は西沢に毒入り葡萄酒を飲ませ、自らもあおり、死ぬ。後姿のカットだけで西沢に葡萄酒を薦める不穏さにゾクリとする。9割方、真犯人の目星はついているのに、早く、早くその顔が見たいと思う。
予想通りの冷たい美貌をたたえてそこに立っている信子は、でも、今までの、お堅いナース服に冷たい表情を崩さない、婦長としての彼女とは違う。
カッチリとしてはいるものの、女らしいスーツ姿で、西沢が飲んだ葡萄酒で苦しむさまを見て、自分もあおり、死ぬ。その後には植に、置手紙が残される。植はそれに火をつけて灰皿で燃やしてしまう。

結局は、すべてが内部処理されてしまうであろう。覚悟の心中を図った信子も、西沢部長が手掛けた中絶も、植が手掛けた子宮外妊娠も、世間の耳目をにぎわすことはないだろう。
市井の病院。ボロで、今にも傾きそうな、でも中程度のレベルはあるから、それなりに患者が集まってくる病院。なんて、リアリティ。

ナースたちも植と次々と関係する訳だから、まあ言ってしまえば尻が軽い(爆)。連れ込み宿で一発ヤッてから、植がシャワー浴びてる隙に万札を数枚失敬するナースは後に、くだんのヒモヤクザに引っかかってしまって、この先が目に見えている。
同僚と結婚するナースは、植との関係をきちんと相手に話して了承を得たという。会議シーンで植にやたらと絡むのが、彼女の結婚相手である。軽薄、貞淑、なんでもアリなんである。

それにしても、“女”が発覚した後は、久我美子から目が離せなかった。鉄の鎧でガードして、必要なことしか喋らない鉄の女。
だからこそ、西沢との関係があらわになると、確かに無口で鉄の鎧の雰囲気があるのに、なんか、女の物腰になるんだよね……。最初から女女してるキャラばっかりだからさあ、凄く生々しくて、ドキッとする訳。

手術シーンがカッコよかった。結果的には手遅れになっちゃうんだけど、押し付けられた子宮外妊娠の手術、ナースに汗拭きを指示しながら、最善を尽くそうとする田村高廣のカッコよさ!★★★★☆


バクマン。
2015年 120分 日本 
監督:大根仁 脚本:大根仁
撮影:宮本亘 音楽:サカナクション
出演:佐藤健 神木隆之介 小松菜奈 桐谷健太 新井浩文 皆川猿時 宮藤官九郎 山田孝之 リリー・フランキー 染谷将太

2015/10/23/金 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
いやぁあー、すっごく面白かった!こんな風に何の迷いもなく言い切れる映画には久しぶりに出会った気がする。なんていうか、そう言い切らせるほどの、それこそ作品自体に迷いがない。頬が赤くなるような絵に描いたような青春も、迷いもなく差し出してくれているからだと思う。
が、本作は勿論、そんなところに主眼がある訳じゃない。これはね、これは、世界に出せるよ!!だって、ジャンプは今や世界的に有名なマンガ誌。日本のクールジャパンの筆頭に立つサブカルはマンガ、そのまさに頂点に立つマガジンなんだもの。

まあそう言い切ってしまうのにはあらゆる方面からご意見があるのであろうが……かくいう私も、ジャンプ読んだことどころか開いたこともないんだから(爆。だって女の子だから少女漫画育ちだもん♪)、大きなことは言えないのだが、その点は、物語の冒頭で凄くクリアに定義をしている。
つまり、ギネスに認定されるほどの圧倒的な発行部数。ダイレクトに人気を示すその数字こそ、なんである。
そしてその冒頭に数々出てくる大ヒットマンガは、アニメ化の流れもあって私のような門外漢でも、それこそ老若男女に通じるビッグネームばかり。そう、こうした定義も何もかも、迷いがない。明確にバシッと示してくれる。だからだから、すっごく面白かった!ということも、迷いなく言えるのだっ。

ホント、これ世界に出せるよ。凄く明確だし、映像の遊び心も凄く楽しいんだもん。
ライバルである高校生漫画家同士が、ペンという武器を文字通りの武器として切った張ったの闘いをする、そのバックには日本のマンガ特有の擬音がにぎやかに駆け巡り、本当に胸がワクワクするスペクタクルなのだ。
予告編でこの場面に遭遇した時、迷いなく観たいと思った。勿論、今一番勢いがあるであろう大根監督、そして大のお気に入りの神木君とくりゃー、足を運ばぬ訳もないのだが、あのシーン一発で、絶対に面白いに違いないと思ったのだ。それは、場面一発でワクワクさせるという、これが案外忘れがちな、映画の魅力を久々に思い出させてくれるものであった。

世界に出せる。本当に出してほしいよ。だってね、マンガというサブカルが、間違いなく日本を代表するものであるとしても、それを差し出す方も、そして外側からもまだまだどこか、ネクラ文化みたいな、オタク文化みたいな感覚が、自嘲と軽侮の中にあるじゃない?
それはヤハリ、アニメーションという二次的使用があるとしても基本的には、読む、という行為であるマンガが、外に遊びにも出ないでマンガばっかり読んで、みたいな、私らの時代から確実にあった、圧倒的な静の世界であったから、なのだよね。

でも、日本のマンガ、特に少年マンガ、特に少年ジャンプという世界では、圧倒的な動の世界が、止まっている筈の静の紙面の中で繰り広げられている。そのジレンマのようなものが、この場面で見事に昇華されて、溜飲が下がるとはまさにこのこと!!と思っちゃうのだ。
しかもその世界の中で躍動している描き手が、まさにこの肉体を躍動させずとしてなんとする、と思わせる高校生の男の子、なんだもの!!

マンガ原作となると、それが大ヒットマンガとなると、当然長い物語であろうことは予測がつき、映画化となると世界観を描き切れないとか言われがちである……本作がとてもとても素敵だったから、そう言われていたら悔しいなと思って、いつもだったら絶対にしない作品情報をついついチェックしてしまうんである。
すると、勿論この先にも物語は続いていて、映画に使われている部分はいわば、漫画家としていばらの道に突入した少年二人の激動の日々、に絞られていて、展開も丁寧になぞられていると思しきなので思わず安心する。気に入った作品がクサされるのは哀しいもの……。

まぁ、読者アンケート一位を取る、というのは原作ではそれこそ最後にとっておかれているのかもしれない、そこんところは判らないが、年齢的にも充分に原作まるごと演じられそうな二人であるにも関わらず、彼らにとってはちょっとテレくさいであろう、高校生時代にだけ絞って描いたということが、本作の成功のカギだったんじゃないかと思う。
いやある意味、そのリアル年齢ではそれこそテレくさすぎて、こんな王道の突っ走りは演じられないかもしれない。そこから少し離れて大人になった彼らだからこそ、その青い世界を真正直に突っ走れたのかもしれない。

あぁ、なんか興奮しすぎて、なんだかもう、訳が判らんまま!!まあここまでの感じで大体は綴っているとは思うが(爆)。
主人公は二人の男子高校生。一人は天才的に絵が上手い真城最高。演じるは、最近のイメージではクールな美青年だったのが、本作ではちょっとオバカで熱血まっすぐな男の子を好感たっぷりに演じてくれる佐藤健君。
自分が原作を書くから一緒に漫画家になろう!と誘う高木秋人が、「お父さんのバックドロップ」の出会いで陥落してから恋に落ち続けている、これぞ紅顔の美少年、神木隆之介君。
子供の頃のイメージもあって、神木君はずっと線が細い印象だったのだが、最近は彼自身のメッチャ明るいキャラが役柄にも反映される形になって、ああ、元気に育って何より……などとついつい目頭が熱くなってしまうんである。

最高は、叔父さんがジャンプに連載しているマンガ家であった。今も昔も読者アンケートがすべてを左右して、人気が落ちれば即打ち切りの厳しい世界。
打ち切りが決まった時、叔父さんはトイレで倒れて死んでしまう。ずっと叔父さんの仕事場に入り浸っていた最高は、その死を目の当たりにしてしまうんである。

だからだろうか。子供の頃には無邪気に口にしていた漫画家の夢を、高校生の今は、好きな女の子のイラストを描き散らして終わっていたのは。
まさに運命の出会い。秋人の熱烈な誘いを最初は冷たくあしらっていた最高だけれど、恋する同級生、亜豆さんと、いつか自分たちの作品がアニメ化されて彼女がヒロインの声をやる。そうしたら結婚する、なんてゆー、青臭さバクハツの約束が成立してしまって、俄然やる気になるんである。

亜豆さんを演じる小松菜奈嬢もバツグンだよね。ちょっと目が離れてて、透けるような色白で、たっぷりとしたストレートヘア、その唇といいなんとも、独特の肉感的なチャームを持つ女の子。
だから彼女が最高の妄想によってイラストに描き散らされ、それがのちにアンケートじり貧を救うキャラクターになる展開には膝を打った。
勿論、原作自体にある展開ではあるに違いない。でも生身の女優、いやさ生身の女の子がまさにリアルにマンガの中のキャラクターとしてスクリーンに描かれると、まさにリアル!!動悸が収まらない!!

約束が果たされたら結婚とかゆー、青臭いことゆっても許すべし!この作品での女の子の扱いは、まさに前時代的な少年漫画の中のそれにすぎないのだが(だって登場する女性は、彼女だけだもんね(汗))、もうここまで明確に徹底しているのなら、ヨシと思っちゃうのだ!!
そーゆーところが、明確でいいのよ。これが例えば、おふくろさんとか、出しちゃっただけで潰れてしまう。私のよーなフェミニズム野郎に漬け込むスキを与えてしまうのだよ。

で、まあ、横道ばかりに行っちゃってるな。でもまぁ、大体判ったかな(爆)。
二人は初めて描いた作品を持ち込み、初めてでこれだけのレベルということで編集者を驚かせ、直しのアドヴァイスも素直に聞き入れ、それまた相当のレベルに達していたことで、手塚賞への応募を勧められる。
正直このあたりまではね、天下の少年ジャンプに初めて持ち込んだ、しかも高校生二人、という設定ではずいぶんととんとん拍子、ちょっと甘いかなと思わなくもなかった。いや、全体の競争率から思えば確かにそうなんだけど、こんな最初で足踏みしていては、本作のキモにはいつまでたってもたどり着けない。
既に天才と呼ばれる高校生漫画家、新妻エイジなる存在がいる訳で、演じているのが染谷将太となれば、ここに追いつくには最初はとんとん拍子でなければ追いつけない訳なんであり。

勿論、長年苦労してやっと佳作ぐらいに引っかかって、彼らの仲間となる存在は、桐谷健太、新井浩文、皆川猿時というイイ感じに苦節何年、といったメンメンを揃えている。
少年ジャンプに掲げられている、友情、努力、勝利、という、顔が赤くなるようなスローガンを、彼らのようなオッサンたちこそが、ワカモンのために行使する、というのがほろりとくるのだ。いやいや、まだそこまでは行っちゃいけない!!

読者アンケートがすべてを握り、人気が落ちれば即打ち切りという世界は、少女漫画で育ってきた女子的にはかなり理解に苦しむ部分である。だって、それじゃ、そもそも作者の頭の中には出来上がった物語は見えていないの?と思っちゃうもん。
そここそが決定的な違いで、設定だけでどこまでも物語を伸ばしていける、というか、それこそが作劇の大前提である少年マンガと、作者の中である程度全体像が見えている少女マンガとは、明らかに違うのだなと思い知らされる。
それともこれほどまでに徹底したアンケート至上主義は、ジャンプのみのことなの?それとも少年マンガ全体に言えること?判らないけど……。

そういう意味で、少女漫画は大きな連載を任されるスター作家になるまでに若干時間がかかるのかもしれないけど、それ以降はある程度保証されているのかもしれない。
でも少年マンガ、いやさジャンプは……連載をゲットしてもその後消え去った作家が、あんな風にこんな風にそんなにも沢山いるんだろうか。それこそ、ジャンプで連載したというステイタスだけを胸に……。

勿論そのジレンマというか、矛盾というか、そうした部分をしっかり指摘したうえでそれでもその中で闘う、いわばハッキリと数字に出る世界で闘う、という明確さこそが、ジャンプの、そして本作の成功の理由なんだけどね!!
だってやっぱり、ドキドキするもの。週刊連載という過酷な状況の中、貼りだされる順位にまず担当編集者がハラハラとするあの感じ、たまらない!!

彼らの担当編集者、服部さんには山田孝之。山田孝之だからさー、すんごい冷徹、クセモノ編集者だと思って身構えてたのさ。実際、彼らの持ち込み原稿をチェックしている最初のシーンでは、いかにも山田氏らしいダルダルな感じだったから、もう冷たくあしらって、そこに歯向かう展開かなと思っていたの。
それが、いいところ悪いところを的確に評し、その上で才能と可能性があると彼らを支え続ける静かな情熱を持つ編集者さんで、まさか彼がこんな素敵な役をやると思わなくって(爆)、なんかホント、カンドーしてしまった。

週刊連載という過酷なスケジュールとアンケート結果に追い詰められて、おびただしい血尿を見て倒れてしまった最高が、それでも新妻エイジを抜き去って一位を取るチャンスだと、病院を抜け出して巻頭カラーに挑む。
一緒に手塚賞を闘った仲間たちが、連載を打ち切られた最年長を含め、二人の死闘を助ける。だって、見ていられないんだもん。助けない訳にはいかない、こんな向こう見ずなガキどもはさ!

友情、努力、勝利。そんなことはマンガの中だけのこと。二人の原稿が落ちた時のために巻頭カラーを打診されていた新妻エイジが、ふてぶてしく現場訪問してそう言い放つ。ヘロヘロになってペン入れしている最高の原稿をちょちょいと直してみせるなんて憎たらしいことまでして。
でも彼は、判ってたのかもしれない。自分の原稿に手を出されることがどんなに屈辱かを。
当然、最高は彼の手をはねのけた。自分の漫画なのだからと。首をすくめるエイジ。どこか世をすねたような、浮世離れした喋り方と存在感のエイジ、染谷君がいい感じにマンガチックに演じてて、上手いんだよなあ。

友情、努力、そして勝利は、編集長の口からもたらされた。まさに溜飲がさがる瞬間だった。最高の瞬間。
リリーフランキー氏演じるこの編集長が、最高の叔父が過労死した、その時の担当だったということは本作の中で唯一、湿っぽいドラマ要素だったかもしれない。

その叔父、川口たろうを演じるクドカンが、なんかそういう時代のそういうマンガ家!!!というのを、あのガタガタの歯並びともども体現しまくってて、なんとも叙情を感じさせるのであった。
単行本のカバーの見返し部分、ていうの?作者の紹介とかコメントとかが載っているところを実にうまく使って、泣かせる。
「甥っ子は、ジャンプに連載するのが夢だそうだ。それだけはやめとけ!!」
幼い頃の最高と頬をくっつけあって写された写真、それに見入る今は編集長となったリリー氏の一瞬の静寂の場面は、疾走しまくる本作の中で数少ない静寂の、ジンとさせる場面で、そういう緩急がとても上手いのも、成功の要因だよなあと思う。

高校三年生の、ほんの短い期間を、読者アンケート一位を取るまでまさに疾走した二人の物語は、脱力したまま卒業式を迎えた二人が、次のアイディアを楽しげに黒板に綴るところで終わる。
完璧。燃焼した青春は、そのかすかに残った残り火は、ここでは終われない彼らの情熱そのもの。
ここでは終われない、大人となって勝負する未来につながっていくのだ。その終わり方は、青春映画としてまさに完璧なのだ。完璧に完結し、完璧に未来につながっている。ああ!!

何より、インクにまみれる美しき男の子に萌えまくる。青春で打ち込む姿に萌える、それはスポーツものでは当たり前にある光景だが、文化系にそれを見出すのは、特に男の子ではかなり難しいと思われた。
不思議に女の子はいろんな分野であるんだけどね。書道とか音楽とか、好きなミュージシャンを追っかけるだけでも、それが体現できるのが女の子だった。

男の子でそれが難しかったのはなんでだろう……やっぱり基本、男の子はシャイだからなのかな。情熱をまっすぐに傾ける姿をはたから客観視することが苦手な感じがする。
でもそれが、マンガを描くという、閉じられた空間の設定だから上手いこと回避され、でもそれをワレワレ観客はガン見しているという、この覗き見のような楽しさ。だからこそ彼らの必死さに萌えるし、凄くスリリングなの!!★★★★★


バケモノの子
2015年 119分 日本 カラー
監督:細田守 脚本:細田守
撮影:音楽:高木正勝
声の出演:役所広司 宮崎あおい 染谷将太 広瀬すず 山路和弘 宮野真守 山口勝平 長塚圭史 麻生久美子 黒木華 諸星すみれ 大野百花 津川雅彦 リリー・フランキー 大泉洋

2015/7/14/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
ここまで発表した作品のすべてが、疑いようもなく傑作ばかりなので、安心して新作に臨める監督の一人となった。そういう意味ではハードルが上がった反面、予想を裏切るとか、スリリングとかいう部分は少し薄まってしまったような気がしないでもないが、それこそワガママな考えというものだろうな。
子供が大人たちの手を離れ、バケモノたちのいる異世界に入り込むという設定についつい「千と千尋の神隠し」を思い出し、でも監督自身だって、全く意識していないという訳は、ないと思う。同じアニメーション映画の畑で闘うべき存在なのだから。
と、勝手に妄想するといくつものワクワクする相違点に思い当たる。少女ではなく少年。親とはぐれた子供ではなく、親を亡くした子供。田舎ではなく都会。

アニメの中に見られる少女は、ことに宮崎作品の少女は、千尋のような普通の女の子でさえ、やはり慈しみという男性クリエイターからの愛の目をもって見られるヒロインであることにかわりはなかった。
両親とはぐれた、ということは、いずれはその安心の場所に戻ってこれるということだった。異世界でたくさんの人?に助けられるということは一緒でも、そこに必死に居場所を見出すということではなかったのだ。

そして本作で、渋谷という都会の中で紛れ込んでしまう少年、というのは、いつもどこかのどかな舞台を用意している宮崎作品とは決定的に違う、と思った。まあ、いくらリアルとはいえ、渋谷を用意されても地方モノとしてはじゃあウチらには逃げ場がねーのかよ、と思わなくもないんだけれども(爆)。
でも、ファンタジー感を盛り上げるために地方のリアルを採用するよりも、軽視されがちな子供の闇を取り上げるには、渋谷ぐらいのフィクショナルなほどの大都会が確かに必要なのだ。

そして何より、神々ではなくバケモノ。千と千尋のそれは神々というよりはどこか妖怪めいたスタイルも持っていたけれど、本作はタイトルからハッキリとバケモノと銘打っている。しかしその中では宗師と呼ばれる一族をまとめる長老が存在し、その宗師になれば、隠居して神となることが許されるのだ。
この、物語の大きなクライマックスに重要な設定。つまり、神となるためには、その前段階で彼らはバケモノである、という設定が、勝手な妄想の中でワクワク度を膨らませるんである。

だって、英語タイトルはビースト、なのだもの。バケモノというより野獣。実際キャラクタービジュアルも野生生物をモティーフにしたビースト、と言った方がしっくりとくる。
その中には様々な動物……馬系あり、豚系あり、必ずしも野獣、という荒々しい雰囲気にははまらないキャラクターも多く、それがまた人間社会以上の豊かさを感じて楽しいのだけれど、基本は野獣、なのだ。
決闘する場面なんかで気を張ると、ぶわっと毛が逆立ち、身体が何倍にも膨れ上がる描写に、野獣!!!とゾクゾクする。そしてそれを最も体現しているのが、主人公である熊徹。

熊徹は、圧倒的なバカ力の持ち主として、宗師候補に名乗りを上げているんだけれど、民衆の圧倒的な支持を得ているのは猪王山。傍若無人な熊徹には家族はおろか弟子もいないけれど、猪王山は二人の息子を持って、その人徳でも絶大な人気がある。
んな訳で、熊徹は人間社会でうずくまっていた少年を拾ってくる訳。本名は名乗らず、九歳だから九太と名付けられるこの少年は、唯一この熊徹と対等の口をきく。
静かなお坊様、百秋坊や、口八丁手八丁の多々良(これが大泉センセ♪)も目を見張るほど、熊徹をモノにしていっちゃう。しまいには粗暴な熊徹の技が逆に九太によって洗練されてしまうほどに。

「おおかみこどもの雨と雪」で、狼男の造形の、野獣の荒々しさがありつつの、だからこその美しさ、それが男子となった時の途方もない色っぽさ、そして異形の者が故に悲劇的な運命をたどる、あるいはアウトローとして去っていく哀しさ切なさが、もうたまらなく魅力的で、ああこんな、本当の意味でのイケメンをわれら女子は待っていたのだ!!と思った。
熊徹は最終的にはそんなせつなさ美しさを獲得はするものの、基本はどこかコメディリリーフのような感もあり、ちょっとそこからはハズれるんだけれど、それを補って余りあるのが、もう一人のバケモノの子、熊徹のライバルの“長男”、一郎彦で。
でも彼は本当は、バケモノではない、野獣ではないんだよね。なりたくてなりたくてたまらなかった、いや、なれると信じていたのになれなかった。その逆説が、まさに逆に、彼に野獣の哀しさを付け加えるという逆転の発想!

九太にも、そんな陰はある。大体最初から、人間には闇があるとバケモノどもから恐れられていて、なぜ人間なんかを引き入れたのだと、猪王山陣営からののしられるぐらいなんである。
結果的には、猪王山の息子こそが闇を抱えた人間であったというある意味でのオチは、かなり王道のオチではあると思う。だって正直、一郎彦が登場した時から、被り物(フードというか)だけで、野獣になりそうな要素、ちっともない、ただの美少年やん……と思い、九太が人間、人間、と言われることも相まって、こいつだって人間ちゃうのん……とちょっと、見えちゃったんだもんなあ。
大人になったら父上みたいに立派な牙を持ち……てのは、無邪気な弟、二郎丸の台詞ではあったが、いかにも牙が生えそうな二郎丸の風貌とは全く違う一郎彦だったから、この台詞があからさまにフリに聞こえて(まあ実際、そうだった訳だし)ちょっとナァ、と思わなくもなかった。

九太に闇があるのは当然だった。両親が離婚し、育ててくれた母親が死に、親戚連中には「この一族のただ一人の男の子だから」という理由だけをあからさまに示されて、引き取ってもらえるのをありがたく思え、という態度をアリアリと示されたのだもの。
その前に、彼自身が両親の離婚に納得がいっていなかったらしく、父親への思慕を残しつつ、というのが後半になって効いてくるのだが。この非情な親戚どもが元妻の死も彼にしばらく知らせず、行方不明の息子を死に物狂いで探し続けた、ということがのちに明らかになる、というのは、少々都合がよすぎるというか、浪花節過ぎるかなあ、と思う。

どういう事情で離婚したのかは判らない、というか、設定すらされていない、九太が父親の思慕をあらわにするぐらいだから、この冷たい親戚関係が原因、などと考えるのは優しすぎるのだろうか??
実際、ちょっと男親、とゆーか、男に対して甘すぎると思う。そして女親、とゆーか女に対して理想を追い過ぎだと思う。九太のピンチに母親の幻がそこここに現れてアドバイスするとかさ、かなり懐かしい表現(爆)。うーむ、いかんいかん、またフェミニズム野郎が出てきたぞ!!

で、かなり脱線。つまり、バケモノの世界を借りつつ、結局は人間社会の物語、なんだよなあ。
九太が成長し、17歳となって、もうすっかり青年の身体を得て、以前は熊徹をバカにするばかりだった民衆も、九太の存在に見る目を変えない訳にはいかなくなって、弟子志望もずらりと並ぶようになった。
そんな時、九太はするりと元の世界に戻ってしまう。そして一人の女子高校生と出会う。
楓という名のその少女は、同級生たちにイジメを受けていた。しかし、こーゆータイプのいじめっ子たちが図書館にいるというのもかなり解せない気がするんだけど……。楓と九太の出会いの場所として重要な図書館に、楓の立ち位置を滑り込ませるためだけの、かなりムリな設定のように思うのは、まあイジワルに過ぎるかなあ。

ここでは九太、ではなかったんであった。本名である蓮、をちゃんと名乗った。9歳の時に異世界に紛れ込み、それ以来学校に行っていなかった蓮はでも、戻った時に真っ先に図書館に行ったということは、知識欲のある子供だったんだろう。実際、あれだけひ弱と言われた九太は決して、最初から熊徹の弟子に見合うようなタイプの子供ではなかったのだから。
楓に手ほどきされる形で、本から入って勉強にのめり込む蓮。楓から進められて、高卒認定試験を受ける気にもなる。この時、役所でけんもほろろに冷たくするオジサン、それを見かねて追いかけてきてくれて資料をくれるお姉さん、という図式は、現代の人間社会を表している、ということなんだろうけれど、フェミニズム野郎としては逆の意味で居心地が悪い。これじゃいかにも、役所に胡坐をかいたオジサンは、前例ばかりにこだわって親身になってくれない、という判り易い図式なんだもの。まあその通りなのかもしれないけどさ(爆)。

少し、少しだけ、現代社会の図式や、男女の図式や、親子の図式に、ステロタイプの影を感じなくもない。優等生の楓が、「親の望むとおりになるために死に物狂いだった」というのも、そしてそんな楓をいじめる、見た目判り易いダルダル系につるんでる男女高校生も、やはりそんな図式を感じるんだよね……。
いや、それは確かに難しい、そんな、いわゆる障害になるキャラにまで深い人間性を持たせていたら、話は進まないのは判ってるんだけどさ。

正直、九太が再び人間社会に戻ってくるとは思わなかったからかなりビックリしたし、戻ってきたらもうバケモノ世界には戻れないと思っていたから、フレキシブルに行きつ戻りつするのにもかなりビックリした。
それなら今まで閉じ込められていた理由は一体……。偶然見つけた出口だったのに、それ以降は自由に行き来出来る訳?それなら今まで一度も出られなかったのは何故??うーむ、うーむ。
まあ九太を手放さないために教えなかったのかもしれないけど、何度も元の世界に戻っちまえと(口だけでは)言っていたし、実際百秋坊や多々良は本気でそれを勧めていた訳だし、その道筋を教えることもなかったのだろうか……などと思うと、やはりここにも若干の違和感を感じるんである。
九太が10年近くぶりに人間社会に戻ってからは、まるで別の映画になったかのよう、男女の高校生の青春映画になったかのような趣なんだもの。

ああでも、熊徹が主人公なんて言っちゃったけど、考えてみればタイトルロール、バケモノの子である九太こそが主人公であるのだった。それが当然なのであった。
なぜ熊徹が主人公だと思ったんだろう……それは、九太が劇中で成長を遂げて、キャラクターとしての姿も声を担う役者もバトンタッチしたから、一貫しての一人、と見えなかった、いや、そんな成長の早さに驚くばかりの大人たち(この場合、バケモノたち)の方にこそ、こちらの年齢的についついシンクロしてしまうからだったのか。

思えば「おおかみこども……」もそうだった気がする。あれだってタイトル通り、二人のこどもが主人公だった筈なのに、非業の最期を遂げた狼男のお父さんや、二人の子供を育て上げたお母さんにシンクロし、彼らこそが主人公であるような錯覚を起こしていた。
いや、裏から見れば確かにそうに違いない。あるいは、こんなことを言ってしまったらズルいというか、身も蓋もないけれども、全てのキャラクターが彼ら自身を生きる主人公であるに違いない。
九太が主人公であることを忘れてしまっていたのは、バケモノの世界では彼は九太として生き、人間社会では蓮として生きているから、同じである筈の二つの人生を、アホな観客である私がうまく結びつけるのに時間がかかったのだ。

それこそが彼自身のアイデンティティであり、彼自身だってそれを結びつけるのに時間がかかった。九太、九歳の時に名付けられたその名、十七になった時、そう変えるかと言われた冗談交じりのシーンは、つまりはかなり重要だったのだ。
九歳のまま止まっているのは、バケモノの世界でも人間社会でも同じ。十七になった時に名前を変えるのを拒んだのも、九歳のまま行方不明になったのも、つまりはそこで止まっていて、進むには、そこから進むには、彼自身が明確な敵と闘わなければいけなかったのだ。

そう、明確な敵は、首尾よく用意されているんだよね。同じバケモノの子として、それを自覚して育ってきた九太にあからさまな憎しみを向ける一郎彦。どんなんでも兄上は兄上だと言う弟や、全てを飲み込んで兄弟を育て続けてきた両親はあまりにも物わかりが良すぎて、そらー一郎彦がグレるのもむべなるかなとも思っちゃうのだが(爆)。
こんなタラレバは無意味だけれど、九太に一郎彦という存在がなかったら、彼は一体、どうなったんだろうなあ。九歳の時に大人たちから飛び出して、渋谷の雑踏に置き去りにしてきた、闇を抱えた自分に、一郎彦という存在がなければ気づくべくもなかった筈。

そう考えれば、一郎彦のキャラは九太のアイデンティティを確立させるためだけの必要悪のようにも感じたりもして。ううう、そんなことを言ったら、作劇なんてムリなんだけど!!
でもさ、結局は熊徹と同じことをしていた(つまり、甘い考えで人間の子供を拾って育てていた)猪王山を、私が慢心していたと懺悔させることで結局は彼自身は英雄然としたまま、というのがうーん、なんかなあ。

あれ、傑作なのは当然とか言いながら、なんかいろいろ文句が多い私(爆)。期待値が高いと、余計なことが気になるものなのよ(爆爆)。
今回何より素晴らしかったのは、声優陣。これまでの作品でも素晴らしかったと思うけど、物語の内容的にテンションや抑揚の振り幅がかなり要求される本作、一般観客を意識したアニメーション映画では、こうした有名どころの役者陣を声優として迎えることはほぼ定番となっているんだけれど、アニメーション的テンションの振り幅が大きくなればなるほど、いわゆる実写映画に属する役者さんの声の演技って、ついていけなくなるものを観客としては感じるんだよね。かといって、いわゆるアニメ声優のアニメ演技に普段慣れていない観客層の作品だから、本当に難しいと思う。

本作は、本当に、素晴らしかった。大泉先生はそういうフィクショナルな声の当て方は上手いから心配なんかしてなかったけど、改めて素晴らしかった熊徹の役所さんに感嘆しまくり。
役所さんということは知ってたけど、見てる時には忘れてて(爆)、あれ、有名な役者さんの筈だったが、メッチャ上手いけどこの人誰だっけ……と思いながら観ていた。
ちょっと「パコと魔法の絵本」の時の役所さんを思い出した。いわゆるアニメーション、いわゆるファンタジーとしてのはじけ方、声の抑揚の振り幅が素晴らしいの!

あと椅子からずり落ちそうになったのは、宗師役の津川雅彦。カワイイ兎の長老にピタリとはまる、まさに長老声、誰誰と思ったら、メッチャ重鎮。本気で椅子からズリ落ちた(爆)。
熊徹と猪王山の最終決闘のシーンで、行く先をハズれた刀が観戦していた宗師様の椅子の背もたれにグサリと刺さって、キィー!と可愛い声を出してそれこそ椅子からずり落ちる宗師様に、恋しそうになった(照)。
ううむ、確かに津川雅彦御大の声だが、か、可愛すぎる。このキャスティングは奇跡のようだ!★★★★☆


Bad Moon Rising
2015年 107分 日本 カラー
監督:喜多一郎 脚本:倉田健次
撮影:池田圭 音楽:長阪浩成
出演:菅田俊 菜葉菜 瀬古千裕 結城貴史 大方斐紗子 美保純 竹内春奈 オノユリ 若月里菜 松本匡平 長谷川デンバー 藤岡稔美 大塚宙 青柳弘太 芹沢礼多 溝本行彦 贈人 伊藤雄太

2015/8/8/土 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
初めから言っちゃう。私、相当クサしそうな気がする……。多分、そもそもの苦手なタイプの作品なんだと思うので、許してほしい(爆)。
台詞のクサさと芝居のクサさに死にそうになる。いや決して、ヘタな役者さんたちではないと思うのに。
そうだ、そんな訳ない、そもそも主演は実力派である筈の菅田俊と菜葉菜嬢だ、そんな訳ない。でもその主演の二人の芝居も結構見ていられないトコがあったし、やはりこれは演出の問題なんだろうか??

監督さんは、私は初見のお人なのだが……。いやいやでも、台詞だと思う。これから列挙することになると思うけど、かなり聞いていられない台詞だらけだったんだもの。
そして登場人物の中で、どーにもこーにも生理的にダメなタイプのお人が一人いた(爆爆)。ゴメン、オフィシャルサイトすらテキトーすぎて、どの役者さんがそれなのか判んないのだが(爆。オフィシャルぐらい、役名と連動したキャスト紹介きちんとしてほしい)。
未解決事件をネタにして逃げている犯人をゆすっている男。妙に優男なのがそのワザとらしい笑顔と笑い声と共にすんごく気持ち悪くて(ゴメン!)、もう映画途中で出ちゃおうかと何度も思った(爆爆)。
ひょっとしたらそれは、作品的にはしてやったりだったのかもしれないけど、でもこの役柄自体、意味不明満載だし……。

てゆーか、私的には本作自体が、かなり意味不明満載とゆー気がする。ぱっと見自体はちょっとしたサスペンス仕立ての、人間心理に根差した深いヒューマンドラマに見えなくもないのだが、ツメの甘さや台詞のクサさや、色味を抑えたりやたら揺らしたりするナルシスチックなカメラワークにゾワゾワしてしまう。

そもそもこの設定自体が、ちょっと古臭いというか、幼稚なように思えて仕方ない。
主人公の一方はもう中年という年も越え気味の男、ケイジ。たった一人、老いた母親を介護している。もうすっかり体も動かなくなってワガママ気味になっている母親は、「殺して……もういいよ、いいんだよ」と笑みさえ浮かべて言う。

それに誘われた形なのか、彼が母親を殺してしまったのは。まー正直、今時この程度の描写で彼に同情する気はおこらない。だって、よく面倒を見てくれるヘルパーさんの存在もちゃんとあるんだもの。
後から家庭事情が説明されるけれども、「仕事に没頭して家族をほったらかしにした」というあまりにもあまりなよくある&詳細の判らない説明だけでは、彼にも、彼と別れていった家族にも同情する材料にもならない。

そして母親を殺して車に詰め込んで彼が出会ったのが、行き倒れの女性、トワコ。謎の女、という設定だが、まず最初から病院のベッドで目を覚まして抜け出した描写が示されているし、フラッシュバックやらの映像で、彼女が事故で夫と子供を失い、自らの記憶を失っているんだな、ぐらいのことは容易に判っちゃう。
しかし彼女を拾い上げたケイジは、そのあたりさっぱり想像がつかないドンカン男。そもそも病院から抜け出してきた、と聞いた時点で、病院に連絡を取るとかする方が普通だと思うのだが……まあそれをやっちゃったらドラマにならないけれども……。
彼女の言うがまま、家族旅行で行く筈だった遊園地とか、行っちゃう。しかしさ、家族旅行で行く筈だっただけなのに、なんで遊園地までその事故当時から閉園になっている必要があるのだろーか。

私はこのくだりで、あら、遊園地での事故だったのかしらんと思ったが、結局はフツーの交通事故だった。だったらなぜだ!
本作はこーゆー、なんか物語の流れになるためには多少のムリを自覚さえせずにスルーしてしまうようなイラッと感が満載なのだ……。
んでもって、宿屋にも行ってみる。泊まっている形跡がないと言われる。もうさ、この時点で病院に送り返しなよ、と思っちゃう。なのにこともあろうにケイジは、うさんくさい未解決マニアの男に調査を依頼しちゃう。どう考えても彼女のためになるとは思わないのに、なんでよ!!

おっと、怒りのあまりただただ先走ってしまった(爆)。でもどこから手を付けていいのか判んない、もう(爆)。
えーとね、ケイジは母親の死体とともに母親の故郷に向かうつもりだった、らしい。母親と旅行をしたこともないからと。
で、物語の最中、家族事情が徐々に明らかになる。母親は中国流れの歌手で、ピアノマンの子供を産んだ。そのことは、父親が死んでようやく明らかになった。つまり女手一つで息子を育てた母親は、そのことを息子に決して明かさなかった。
知らないままだけれど、息子であるケイジはピアノマンに憧れて、ジャズピアニストになりたいと思った。今は夢破れて平凡な勤め人。
ところで、オフィシャルサイトにつづられていた、勤めていた工場も潰れて……というのは観ている限りでは全然判んなかったが、私がドンカンでスルーしちまっただけなんだろうか??

トワコとの道行の途中、別れた妻と娘に会いに行くシークエンスがある。妻は美保純。彼女のキャラを生かした、と言ってしまうにはあまりに単純すぎるはすっぱ女で、別れ間際に「貸して」と言って彼から札束をふんだくり、「あの子なら隣町のミルキーウェイに勤めてる。最愛の娘に楽しませてもらいなよ」と笑う。
実際は、この元妻の吐き捨てる台詞……今さら謝りに来ることで満足しようとしている男の身勝手さとか、妻に謝っている形をとりながら娘のことを聞きたがるとか、「そういうところが、大っ嫌いなの」というの、ホント納得!!と思うのだが、美保純一発、台詞一発で、ケイジをしおれさせて同情に持ち込む、というあさはかさが、どちらにも肩入れなんぞできっこなく、ホントに困ってしまうんである。
美保純は豪華ゲストなだけに、出してOKというやり方が見え透いているというか……。

で、娘に会いに行く。それこそずーーーっと会っていなかった娘がフーゾクやっていたからといって、彼に怒る義理などありはしない。なのに、なぜか受付やってる男に食ってかかる。意味わかんない。食ってかかるなら、経営者のマダムにしろよ(爆)。
しかもこの男が「俺はあんたより優しいから教えてやるよ。夕方までレストランバーで働いてる」優しいからというのも噴き出したが、この、作劇上のあまりの都合の良さにはガックリと肩を落とさざるを得ない。

そして娘に会いに行くと、その店にはピアノが置いてある。ま、まさか。トワコが、「私、ケイジのピアノが聞きたい」うわーっ(汗)。
菅田俊が弾き始めるのは、思いっきり手元見切れたスタント。まあイメージじゃないしねえ……。でもこの設定がキモなんだから、ちょっと頑張ってほしかった気もする。
んでもって娘がこれまた都合よく表れて、「まだピアノやってたんだ」……なんつーか、いちいち台詞がクサすぎるんだよなあ。

この後の娘とのやり取りも、かなりカユくて見ていられない。「なんで風俗やってるか判る?生きているのを実感できるからよ」めっちゃどこかで聞いたことが、100回ぐらいある台詞だ……。
優しかったおばあちゃんのことを問われて「俺が殺した。そして自分もこれから死のうと思ってる」それを娘に言うのか、言ってどうするんだよ、止めてほしいのかよ!
この時には真剣にアゼンとした。彼は結局、何のために家族に会いに行ったの。自分が苦しんでいることを知ってほしいため?わが母を自分の手で殺して自分も死のうと思っていると、娘に言うってことが、どういうことなのか判っているとは思えない。それは書き手自身がそれを判っているとは思えないってことだ。

これこそが美保純演じる元妻が吐き捨てるように言った「あなたのそういうところがキライ」ってことなのだが、そのこと自体が、書き手自身に判っているとはどうしても思えないのだ。
なぜなら、そんな父親に対して娘はその自分勝手さに対しては糾弾せずに、それどころか助けのヘルパーさんを呼んじゃうんだもの。てか、ポケットをさぐったら名刺が出てくるって、ベタすぎるだろ!!

んでもって、この娘が同棲している彼氏が、音楽を諦めた、ってなスタンスも鳥肌が立つ気持ち悪さ(爆)。「なんで音楽やめたの」て台詞も、百万遍聞いたよな、てなありふれ加減だし、その割にはキレイにギター飾ってCD陳列して、衣服を投げ捨てるのはキーボードの上だったりして、“ミュージシャン”の設定が陳腐すぎる(爆)。
で、「なんで最近私を抱かないのよ」と女をハダカにさせる。あー、もうヤメてって感じ。女が脱ぎゃ、ハードな物語になるとでも思っているのか。そのまま泣き崩れてちゃ、ただの逆効果だよ。抱かれなくて不満なら出て行けよ、女の子はそんなに情けなくないぞ!!

ケイジとトワコは怪しげな男と出会う。大体、橋の上で下を見下ろしているだけで、「道に迷いましたか?このあたりは山深いですから」とか言って声をかけてくるという意味不明な展開。この気持ち悪さは脚本のナルシスなのか、演者のナルシスなのか。
そう、この声をかけてくる男が、どうにも生理的に受け付けないお人なのさ(爆)。カメラマンという風体。脅しをかける小学校の女教師のところにも、卒業アルバムのカメラマンを装って入り込んでくる。
笑顔は優しげで一見素敵だが、中立の立場を装って、てか、中立っていうか関係ない立場で人のプライバシーに入り込んで善人ヅラしてくる気持ち悪さに、吐きそうになってくる。
そう思わせるのは作品としては成功に他ならないのだろうけれど、書き手、あるいは作り手自身がそれをきちんと意識しているのかというのが、どうにも疑問が残る。

そもそもこの男がどう生計を立てているのかが全く疑問。引っ越したばかりという部屋はハッキリと全貌を映さない、ただ写真が申し訳程度につるしている(この貧乏くさい掲示の仕方もイラッとする)だけで、未解決事件の現場を映したという写真も特にクローズアップされる訳ではなく、確かに悪趣味だとは思うけど、トワコが眉をひそめるほどには醜悪ではないんである。
彼に限らずとにかくツメ不足なのだが、彼のやたら高笑いして善人ヅラしている優男、という人物像がとにかく生理的にNGで、ただただツラくってさあ……。

で、そろそろトワコの方に戻ろうか。そんな具合で結構中身は盛りだくさんなのよね。ムダなぐらいに(爆)。
病院から勝手に抜け出したトワコの行方を巡って、お姉さんが病院側に食ってかかっている。「この病院全体を訴えますから」……なんかいちいち芝居がかっててワザとらしいんだよなあ……。このお姉さん、老けてて最初、お母さんかと思った(爆)。
んでもってさ、トワコはこのお姉さんが成績優秀でコンプレックスに思っていた、とケイジに語るんだけど、お姉さんは、陸上で活躍してみんなに愛されていた妹を嫉妬していた、と言うんである。

加えて、「憧れていたあの人も。あの子はみんな奪っていく」と。お姉さんは妹のコーチに恋していたらしい。しかしさ、高校生の頃の話で、しかもあの描写ではお姉さんは遠くから妹の活動を見ていたようにしか思えず、奪ったという強い言葉がまるでピンとこず、それこそ作劇上の都合のいい言葉にしか思えないんだよね……。
ホント、こういう、使い古された言葉をストーリー展開のためだけにちりばめているようにしか思えない箇所がそこかしこにあって、だから役者の芝居も説明をホントにするためみたいに頑張るせいか過剰になって、なんか見ててホントウンザリしちゃうのだ。

このお姉さんが一番イラッとしたなあ。昼ドラか、舞台の芝居を見ているようだった。しかもトワコが入院していた病院の医者が、眠り続けるトワコを見てヒソヒソと噂話をしている、なんていう、昼ドラでも舞台でも今時やらねーだろ、というクサさ満開の説明芝居。
そのうちの一人の若い医者が、眠り続けるトワコさんに安らぎを感じてたとかなんとか、意味不明なことを言ってお姉さんを激怒させるとゆー、一体君たち、何をしたいんだい……と嘆息する気持ち。なんでトワコを見てるだけでそう思うんだ。ただ寝てるだけだろ!

旅を続けるケイジとトワコ。ケイジがトワコに、彼女の息子の名前と同じだと言う自分をケイジと呼んでくれという。ゾワリとする。
しかし、確かにトワコはケイジと呼び、二人は疑似親子とまではいかないまでも近しい感じにはなる。なるが、かなり中途半端である。ケイジ自身は敬語のままだし、トワコに母親を重ねる……という意図も判らなくはないけれど、ピンとこない。

そもそもすぐにケイジと呼び捨てにできるトワコの方にこそ、違和感を感じちゃう。二人の関係が、もっと不思議にシンクロするのを実感できれば良かった。
ていうか、そういう目論見であったのは判るのだ。だってめっちゃ思わせぶりに、黒バックの二人がしんと座って、回想シーンをフラッシュバックのように交えながら喋らせる、なんていう、スタイリッシュ感ましましのシーンが繰り返し挿入されるんだもの。
でもね、このシーン自体がいらないと思った。ナマな感じが消されちゃうよ、これじゃ……。それこそ舞台ならありがちだけど……。

事故のフラッシュバックに苦しむトワコに、ケイジはあのうさんくさい男に未解決事件の調査を依頼する。このシークエンスが最も理解に苦しむトコである。おいおいおい、あの時嫌悪感たっぷりに別れたし、彼は単なるマニアで信頼のおける専門家でもないのに、なぜさらりと依頼するのだ。
そもそも名刺を受取った時点ではぁ?と思ったが……。名刺、ってのが本作のクサクサアイテムだよな。あり得ないクササで大活躍する(爆)。

で、更に信じられないことに、ケイジとトワコがこの男の元を再来訪すると、トワコの事故の犯人である女教師が訪ねてきている。その前のシーンで既にあり得ない偶然のすれ違いがあったが、この場面でお互い見知らぬ加害者と被害者があいまみえたことに、「ありえない奇跡!」と嬉しげに高笑いするこの男に本気で吐き気を覚える生理的嫌悪を感じる。
包丁を携えた女教師に、殺せ!殺せ!!と思うのに(私もキチクだな……)、彼女は自らのノドをついてしまうんである。ううむ……最後までイラッとさせる展開だ。

確かに正義論から言えば、追及されるべきはこの女教師なのだが……。俺の前でそんなことをするな!!と絶叫するこの男をそんなにも彼女の自死が追い詰めるとも思えないし……などと思うのは、この男が語るみじめな子供時代の記憶が、これまたカキワリ過ぎて、全然同情する気になれないからなのよね。

だってさ、この女教師さん、この善人ヅラした男に悩まされるぐらいなら、さっさと自首した方が何倍もラクじゃんと思っちゃうもん。
そう簡単なことじゃないんだろうけど、観てる側としては、自首した方がラクだよな……と思っちゃう。そう思わせてしまったら、オシマイだと思う。作り手の負けだよ。

トワコは記憶を取り戻し、夫の実家へ刑事に送り届けられる。反対されてたとは思えない、ザ・田舎の温和な両親。
大体、「子供が10歳になったら会わせて納得させる」と言ってた夫の言い分が理解できなかったんだけど。なぜ10歳なのか、10歳なんてとこまで育っちゃったら、可愛い盛りを過ぎちゃうじゃんと。そういうあらゆるハテナが多すぎるのさ。

ケイジの名前が天田啓示とゆー、天の啓示、みたいなクサさなのもゾゾッとしたし。んでさ、トランクに入れられた母親が巡回中の刑事に発見されそうになったのに、都合よく無線で呼び出されて行っちゃう、ってくだりも、なぜなぜ??と……。
無線で呼び出されても、トランクあけるぐらいはすぐじゃん。こんなことではぁ?と思わせるぐらいなら、こんなエピソード入れない方が良かったんじゃないの。

でさ、全てが終わって、トワコはケイジに、何があっても死んじゃだめだよ、と言う。うなずくケイジ。だけどケイジは梱包された母親の死体を抱えて、枯れすすきの野原を歩き(これまたクサい)、光り輝く水面に歩んでゆく。海、ではないような。川?湖?どーでもいーけど、死んじゃダメって言われたあれはスルーな訳??
女教師がイジメを受けていた児童から言われる辛辣な言葉とかも子供らしくない言葉で印象付けよう、みたいな感じでゾッとしたけれど、もうなんか、用意されすぎな言葉が多すぎて言い切れない(爆)。★☆☆☆☆


張込み
1958年 116分 日本 モノクロ
監督:野村芳太郎 脚本:橋本忍
撮影:井上晴二 音楽:黛敏郎
出演:大木実 宮口精二 菅井きん 竹本善彦 清水将夫 高峰秀子 伊藤卓 高木美恵子 春日井宏行 田村高広 内田良平 高千穂ひづる 藤原釜足 文野朋子 町田祥子 高木秀代 磯野玉枝 浦辺粂子 山本和子 小田切みき 川口のぶ 北林谷栄 玉島愛造 芦田伸介 南進一郎 近衛敏明 松下猛夫 土田桂司 鬼笑介 大友富右衛門 多々良純 福岡正剛 大友純 小林十九二 清水孝一 草香田鶴子 山本幸栄 末永功 今井健太郎 竹田法一 小林和雄 稲川善一

2015/2/11/水 劇場(池袋文芸坐)
例えばこれを、松本清張原作&野村芳太郎監督コンビという特集企画だったら、私は足を運ばなかったかもしれない。頭悪いからミステリとか苦手なんだもの(汗)。
でも実際は、私が避けているだけで、松本清張という人は推理よりも、人間ドラマの魅力があるからこそ、人気作家だったのかもしれないと思う。なあんて、この一作しかまだ経験がないんだけどさ(汗汗)。

でももしかしたら、それはものの見方というものかもしれないなあ。本作のデータベースをちらりと見たら、セミ・ドキュメンタリと解説されていた。てことは、実際の事件が元にされていたのかもしれない。
あの臨場感あふれる、畳みかける特急列車の駅、駅、駅。暑い夏、しきりに汗をぬぐいながら張込みを続ける刑事二人の、見込み違いかもしれないという思いが交錯する先の見えない焦燥。尾行のスリリング。

ここにはそうしたミステリ好きの心をくすぐるであろう要素が満載だし、男子は特に好きそうな気がする。家庭をほっぽって仕事にまい進する、というのが、刑事、というヒロイックな仕事と相まって、男心をくすぐりそうな気がする。

でも、それはやっぱりものの見方かもしれないと思う。ここに人間ドラマを、それ以上に女のドラマを見たがるのは、私が女だからなのかもしれないなあと思う。
そもそも本作に足を運んだのは、先述したように松本清張&野村芳太郎ではなく、高峰秀子特集だったからなのだ。そうしたら当然、高峰秀子の演じる役柄の視点で見てしまう。それがいいのかどうなのかは判らないけれど……。
でも、推理モノの中で語られるだけでは、男のものだけになっちゃう、そんな気がするんだもの。

高峰秀子はひたすら見つめられ続けるんだよね。彼女が言葉を発するのはずっとずっと先。
それまでは、逃走した犯人が昔の女である彼女にきっと会いに来る筈、というので東京からはるばる佐賀までやってきた刑事二人に、特に若い方の刑事に思い入れを持って見つめられ続ける。いや、見張られ続けているんだけれど、やっぱり女目線で、見つめられ続けている、なんて表現がついつい出ちゃう。
だからといって、彼が彼女を見つめているうちに好きになっちゃうとか、そんなことじゃない。いくらなんでもそれは松本清張にはない……女子的にはそーゆーお手軽系物語をついつい軽薄に想像しがちだけど(爆)。

やっぱり男は日本にいまだ根強く残る、父系社会の男子であり、不幸な結婚に虐げられているこの女に妙にシンパシィを感じているのは、恋人となかなか結婚に踏み切れない自分をかえりみているからなのだ。
その恋人は高千穂ひづる。こないだ初見したばっかりなのに、妙に連続して彼女に遭遇してる。運命かしらん(爆)。

これまたいかにも不幸そうな女で、恋人である彼と会う場面は、いかにも事後って感じの場所。娘の稼ぎも当てにしなきゃいけない、子だくさんのビンボー家族。
彼は稼ぎの少ない刑事の仕事で、彼女を引き受けられるのか、しかも刑事の先輩の奥さんから、いい条件のムコのクチをかけられていることもあって、心揺れているんである。
さすがにこのあたりは、いくらいまだに、そういまだに!男女平等といかない日本社会でも、ここまではないよなと思われる描写で、マッチョな時代を感じざるを得ないけれども、だからこそ本当にそぎ落とされる形で、女の悲哀をまざまざと抽出される感がある。

だってだって高峰秀子、ずっとずっと見つめられ続ける対象だからこそ、女の悲哀があまりにもリアルなんだもの。
まだ薪で風呂を焚いていた時代、朝から水を張っていれば(夏で暑いから)薪を節約できるじゃないかとか、一日100円しか生活費を渡さないとか(金銭価値はさすがにちょっと判らないけど、こーゆーやり方をするってだけで、サイアクな夫!)、とにかくそんな具合の夫で、事件とは関係ないトコなのに、若い刑事……もういい加減名前を言おう……柚木は彼女に同情を感じ始めるんである。

20も年上の夫に、その連れ子に、必死に尽くす、生気のない哀れな女。その女に同情の目を寄せる刑事。それが恋に発展しないあたりが、先述したような単純さじゃないからこそだけれど、やはりマッチョな価値観だからのような気がする。
彼女……もういい加減名前を言おう……さだ子に対する柚木の気持ちは、男が女を幸せにしてやらねば、という気持ちなのよ。それは実にスバラシイ気持ちではあるけれど、女は自分で幸せになりたい、なれるだけの強さがある訳で。
それが、平凡で哀れなだけに見えたさだ子の、見たことのない姿が鮮やかに浮かび上がるクライマックスで、示されることになるんだもの。

おー、おー、おーい。またもう、私、判らんだろ、私!でもここまでの感じで大体判ったかな(爆)。
刑事二人が東京で起こった殺人事件の、主犯はつかまえたんだけれども、凶器である拳銃を持って逃げた共犯の男の行方を追う物語、なんである。
冒頭にまず、東京から佐賀まで特急列車、とはいえ新幹線のない時代、特急でも一日がかりで、ぎゅうぎゅう詰めの列車で目的地に向かう。

次々に現れる駅名が、縦長の日本をリアルに感じることができる、蒸気をボー!と吐き出して走るその様も、なんとも心くすぐる、いややはり、男の子心をくすぐりそうな感じなんである。フェミニズム野郎はどーしてもそっち方向に持っていきたいらしい(爆)。
この前半部分は、彼らが追っている事件と、彼ら自身の生活スタイルというか、先述したような、家族をほっぽって仕事にまい進する男らしさ、みたいなトコを入れ込んで示していくので、バカな私はあっさりと時間軸が混乱してしまうていたらくなんだけど(爆)。

“家族をほっぽって……”というあたりは、明日はどこそこに遊びに連れてってやる、と言いながら必ずホゴにする父親に、「絶対に信用しない」とふくれる男の子が可愛く切ない。
ここは実はふっと笑わせる場面なんだし、実際劇場内はあたたかな笑いが起こったんだけど、でもでも、ここで笑う、ってことは、やっぱりその、マッチョな価値観をポジティブな意味合いで受け止めてるってことでさ。
可愛いし、確かに思わず笑っちゃうけど、今全体を思うと、微妙に笑えない気もしてさあ……。

だから、フェミニズム野郎の偏向意見は捨ておいた方がいい(爆)。
でさでさ、そう、私はずっとずっと、田村高廣が出てくるのを待ち続けていた(照)。キャストクレジットの、当然前半に名前が出てくるのだから、それでなくても田村高廣なのだから!当然重要な役。
でもなかなか出てこない、ってことは、これは当然、当然、刑事たちが追っているその共犯の男、熱烈な恋愛関係にあった昔の女に会いに来る男、石井に違いない!!ともう焦がれて焦がれて待ち続ける訳よ。

そう、当然石井であった。当然当然。そもそも、その主犯の男が、自分が誘っただけだと、数日泳がしてほしいと、彼のことをかばいたいがために、逆に真実を刑事たちに告白したことで、石井が決して極悪非道な男ではないことを示したから余計に、ぜえったいに田村高廣!!!と思って、もう彼が出てくることだけを待ち続けて観ている訳である。
今も昔も、女子はイケメン(当時はそんな言葉はないが)に弱いんだもーん(爆)。

田舎から東京に出て来たけれど、上手くいかなくて、仕事を転々として、そのうち肺病みになって、半ば自暴自棄な感じでこの犯罪の共犯者になった、という筋書き。
刑事たちがさだ子の家を見張り続ける、向かいの宿屋で灼熱の中、汗をだらだら流しながら、待って待って待ち続ける。
ついには見込み違いだったかもしれぬと、先輩の方が一度東京に戻る、という段になってついに現れる石井=田村高廣は、そんな暑さをまるで感じさせない涼やかさで、まさしく田村高廣の涼やかさで、ああもう、素敵素敵!!と思っちゃうんである。

それでいえば、彼を迎え入れるさだ子=高峰秀子もまた涼やかな美しさで、それは今まで刑事に見張られ続けていた時も生気のない、という点ではクールだったけど、愛する人と再会した彼女は、外の暑さなんてまるで感じてないような、二人別世界の涼やかな美しさなんである。
ちゃんと衣服に汗はにじんでいるんだけれど、本当に不思議と……。美男美女、ってのはこーゆーことなのかと思うが……同情の余地ある犯罪者、っていうのも含めて、ズルいと思うのだが……。

だってちゃんと、刑事に見張られてるかもと思うから、直接訪ねることはせずに、こうもり傘修理の男に言伝を頼んで欺いたんだから、ただただ同情に値するだけの男ではないことは確かなんだからさ!
でも不思議なことに、その要素さえミステリのドキドキ、犯人を取り逃がすかもというハラハラの方に収斂されて、石井自体のずる賢さとか、周到さ、というトコには全く、行かないんだよね。

まあそれは、この張込みの中で、さだ子が外出するたびに尾行し、その先はただの買い物だったり、豪雨の中、夫の勤務先に傘を届けに行って鼻緒が切れた姿だったり、夫の名代で出る葬列だったり、そういう、空しい結果の中に、張り込む対象の哀れさや人間らしさが浮き彫りになる、という描写の積み重ねだったのが、ここに来ても効いているのかもしれない。
彼が彼女にどうしても会いたいと思ったら、誰にも邪魔されずに確実に会いたいと思ったら……という方向に導いてしまう巧みさというか、ズルさというか!いや、ただ単に田村高廣がステキだからそう思っちゃうのかもしれないけど(爆)。

二人を見失わないよう、森の中を駆け、響き渡る銃声に心中かと慌て(でもそれが、猟師のそれだってのは、かなり読めちゃったけど(笑))、そしてついに探し当てると、二人はまるで、青春のさなかの恋人同士のように笑いさざめいている。
そして、それで気がゆるんで、一度見失ってしまう、という波を用意させて、慌てて追いかけて見つけたその先では、彼女の日傘の影で情熱的な抱擁&接吻(こーゆー、クラシカルな言い方をしたくなるよなー)の最中なんである。

あなたが東京に行くと言う時、着いていけばよかった。今、私はもう、帰らない。今度こそあなたについていく。やり直すのよ。と、今まで刑事たちが見てきた、生気のない、平凡な女だと思ってきた彼女と別人のようなんである。
こういう対照は、確かに判り易いというか、役者にとってはもうけもんなキャラの変貌だけれど、でもやっぱり、3年ぶりの恋人との再会に、押し込めてきた女の気持ちを爆発させる高峰秀子にドキドキとし、まだ真実を言えていない田村高廣の苦悩の表情に更に更にドキドキとし……。
ハッピーエンドが待っていないことは判っていても、彼らの逃避行を夢想してしまうんである。

二人が入った温泉宿に、応援を得た柚木たちが乗り込む。風呂から上がってくる彼女を待ちながら、草笛を吹き、肺病みの咳を繰り返す石井、いやさ田村高廣が哀しい美しさで、いやつまり、私は田村高廣が美しければそれでいいのか??いやいや……。
彼を捕らえた刑事たち、何も知らずに風呂から上がってくるさだ子に、柚木は、今から15分後にバスが出る、それに乗れば、旦那さんが帰ってくるのに間に合う、と促すんである。
今、泣き崩れている彼女だけれど、家に帰って、ダンナと子供を迎えて、これまで通りの暮らしに戻るのだと、特に皮肉でもなく、どこか同情の目線で、そう、モノローグするんである。

確かにその通りなのだろう。号泣したさだ子だけれど、泣きながら、涙を拭きながら、脱ぎ捨てたブラウスとスカートをハンガーから外して手に取った。
それはその通り、彼の言う通りなのだろう。それを、女の強さととるのか、女の哀しさととるのか。……正直、この柚木、刑事としてか、男としてか、微妙な目線でのモノローグでは、判然としないものがあった。
石井を護送する駅で、柚木は恋人に電報を打つ。帰ったら結婚しよう、ってね。彼が持つ、女への価値観を思うと、素直に喜べない気がしちゃう訳。でも仕方ない、これが時代というやつなのだから??

どうも見方が偏ってしまって、ちゃんと楽しめていない(爆)。張り込む宿の女たち……女主人の浦辺粂子の達者さ、いかにも詮索好きの若い女中たち(でも彼女たちの目はきちんと真実を見抜いているのだけれどね!)が刑事たちをホンローする楽しさを、こんな書き方では言い落してしまうもの。
それこそ、彼女たちこそが真の、今も昔も、不変の女の強さ素敵さで、それを見落としてしまっては、フェミニズム野郎、本末転倒だもの!!★★★★☆


バンクーバーの朝日
2014年 132分 日本 カラー
監督:石井裕也 脚本:奥寺佐渡子
撮影:近藤龍人 音楽:渡邊崇
出演:妻夫木聡 亀梨和也 勝地涼 上地雄輔 池松壮亮 高畑充希 宮崎あおい 貫地谷しほり ユースケ・サンタマリア 本上まなみ 光石研 大杉漣 田口トモロヲ 徳井優 大鷹明良 岩松了 鶴見辰吾 石田えり 佐藤浩市

2015/1/18/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
予告編に際して、へー、そんなことがあったんだと知ったが、改めて作品に接すると、やはり改めて、へーっ、そんなこと、ホントにあったんだ!と思う。
実際に2002年にカナダ野球の殿堂入りし、メジャーリーグの始球式にかつての選手たちが登場して、それをイチローらが見守っていたというのだから、きっと日本にもそのニュースが報じられ、周知の事実であったのかもしれんが、野球に今一つ関心がない私は、ほんっとうに、今の今まで知らなかった。

サムライのイチローはこういう話は好きそう……こうした先達を心から尊敬して見つめていたんだろうなと、その場面を見てもいないどころか、知りもしなかったのに勝手に妄想して胸が熱くなる。始球式に登場したかつての選手たちはもう90を越えていたというんだから!
遠い遠い、戦争という悲劇を挟んでの、移民という歴史が産んだ激しい差別の中の、日本人の闘い。いや、この場合、日系人というべきなんだろうか。

劇中描かれるチーム朝日のメンメン、あるいは当時このバンクーバーの日本人街に暮らす人々の、その若者たちは、この地で生まれ、育っている。両親、あるいは祖父母が豊かな暮らしを夢見て、一時の出稼ぎのつもりで渡った海の向こうで産まれた。
つまり、言ってしまえば二世、三世であり、こうした移民の物語は有名なブラジルやハワイをはじめあちこちにあるんだろうけれど、それこそブラジルやハワイの話ぐらいしか知らなかった気がする。
この当時の、二世、三世ぐらいまでは、日本人同士で産まれた子供たちであったろうから、日本人、と言うべきなんだろうかと考えてはたと行き止まる。何その、純血主義。愛国主義の気持ち悪い形。

劇中の彼らは大抵、当地風の名前がついてるじゃない。妻夫木君はレジー、亀梨君はロイ、そしてケイ、トム、フランク、エミー……。当地で産まれたからミドルネームとしてつけたのかもしれないけど、それの割には家族間でも浸透している。
移民、という意識や、自分は日本人なのか、日系人なのか、カナダ人にはなれない……といった葛藤が、この名前から既にひしひしと伝わってくる。
英語は勿論、日本語と同様にすらすらとこなすけれども、これが日本映画だからなのか、家族や仲間内では日本語でしゃべり、仕事場のような外向きの場所では英語で話す。“しゃべる”と“話す”、つい無意識に使い分けてしまった。そんな感覚。よそ行きの言葉のように感じる。

劇中、池松君扮するフランクが日本にいる親戚に仕事を世話してもらって、日本に渡ることになる。日本では移民の子と言われて差別されるらしい、とフランクは言い、こっちで白人たちに差別されるのとどっちが辛いかな、と言うんである。
どこに行ってもアイデンティティが満たされない彼らのもどかしさが、最もクリアーに出ていた場面だと思った。
基本的には身体の小さな彼らがでっかい白人たちに頭脳プレーで打ち勝って、差別していた彼らさえもチーム朝日を讃え、応援し、熱狂するようになる、っていう、映画らしい心揺さぶるエンタテインメントなんだけれど、でもずっとずっと、ずーっと、彼らは、自分は日本人なのか、日系人なのか、カナダ人にもなれない、と、言葉にこそそこまで明確には言わなかったけれど、ぶすぶすとくすぶっているように思えるのだ。

それは、現代の日本の目線から見るからかなあ。基本的には割とテキトーな民族だと思うけど、時々、愛国心とか、愛国主義とか、正しい日本の歴史とか、文化を教えなければとか、言う向きがあるじゃない。それが必ずしもお年を召したようないかにもなお人ばかりではなく、案外若い人でもそういうことを言い出すことがあるじゃない。

そのたびに凄く、言い様のない……上手く説明できない……気持ちの悪さ、違和感、言ってしまえば恐怖、を感じていた。それをね、本作の彼らを見た時、すぱーんと納得出来たような気がした、のだ。
日本人、日本人、って、一体何をもって日本人なのか。日本の”正しい”歴史って、何?”正しい”文化って、何?この物語はほんの一角。それさえも私たちは知らなかったのに、なぜそんなことを無邪気に言えるのか。

……スミマセン……映画とは関係のないことばかり言って。でも本当に衝撃だったんだもの。
そりゃひょっとしたら、本作の中の日本人は多少優しすぎるかもしれない、と思う。最も象徴的だったのは、レジーの妹、エミーが、優秀なのに奨学金を受けられなくて、それは戦争の影響もあっての日本排斥のムードもあったんだけど、それ以前にヤハリ、凄く差別、いや蔑視されているという現実があって。

それでも、そんなに悔しい思いをしても、エミーはお手伝いさんのバイトでお世話になった老婦人に、しっかと背筋を伸ばし、前を向いて、「それでもこの国を好きでい続けたい」と言うんである。
凄く感動したし、日本人的だとも思うけれど、うん、優しすぎるよね。それをチーム朝日のメンバーたちの様々な状況に反映させているとは思うけれども……。

カナダとアメリカの違いもあるのかなあ、ともふと思ったりした。いや、判んないけど、勝手な妄想(爆)。
なんかね、カナダは親日な気がするんだよね。特にそれこそバンクーバーは以前から何故だか、そういうイメージがあった、のは、あながち私の妄想ばかりではなかったのかもしれない(爆)。
ひょっとしたら本当に、私のそんなイメージに、チーム朝日が貢献していたのかもしれない。それこそもっと多彩な移民国家であるアメリカでは、こんな物語がなしえただろうかと思ったりもする。

避けては通れない戦争の影。日本軍の真珠湾攻撃が、カナダがアメリカの隣国であること、その影響が避けられないこと、日本人は総じて収容所送りとなり、日本人街も、カナダ人たちを熱狂させたチーム朝日も消滅することになる。
この時、カナダの隣国だから、という言い方や、「なぜ日本人は歩かされているの?」と問うたカナダ野球チームの少年の素直な問いに、やはりカナダとアメリカの違いがあったのかもしれない、と思ったりする。

いや、判んないけど、勝手な妄想だけど(爆)。大国の隣国、って立ち位置って……ひょっとしたら本作で初めて考えた気がする。
エミーを解雇せざるを得なかった邸宅の主人も、決して日本人を嫌った訳じゃない。だからこそエミーは優等生すぎるかもしれないけれど、あの台詞を吐いたのだし。

あーうー、なんか全然、チーム朝日の話になんないんですけど!!まあでも、ある意味予想通りというか、期待通りの部分は、こーゆー話だと、あるじゃない??
初日舞台あいさつでつまぶっきーが泣いちゃったニュースを読んで、まー、ぶっきーは涙もろいからねえ、とも思ったが、まあ、そらまあ、泣くかもしれんわ、と思う、王道のカンドー物語であったことは事実。

でもそれを、殊更に盛り上げ盛り上げして描写しない、どこか静謐ともいえる感じで落としていくのは、監督の手腕かもしれない。
正直、最初 のインパクトでは、ハジけたコメディを得意とする人なのかと思っていたのだが、それはいわゆる、ツカミはOK的な感じで、世に打って出るための作戦だったのかもしれない。

一気に名を売った「舟を編む」、そして前作、本作と、すっかりマエストロの風格をまとって”しまった”のが、なんだかもったいない気が、勝手にしちゃったりもするんだけど(爆)、でもこれだけ力量を発揮されたら、それもきちんと抑えた描写で発揮されたら、もう仕方ないわなあ。

亀梨君も、野球少年だったんだよね?聞いたことある気がする。この細眉はイマ風に思えてハラハラするが、技術は抜群だけど、それだけに一匹狼、一人ちょっと若そうだし……みたいなキャラがとんがってて、細眉もまあ、それに即しているかもしれない!
なんたって主人公はつまぶっきーで、前作から池松君と共に連投で、監督の信頼度合いがうかがえる……てゆーか、思い悩むつまぶっきーを演じさせたら、石井作品がイチバンかもしれない……。

つい本作を観る前に見ちゃった「ボクらの時代」で、カナダの人たちに観てもらった時に、思わぬところで笑いが起きた。それはバントで必死に一塁に走る場面だと言っていたと思うんだけど、それを聞いたせいかもしれないけれど、確かにホンキで必死なぶっきーの顔、面白いんだよね。いやそれは、とても微笑ましい意味での、これが一番良質なコメディの要素だと思う。
ぶっきーはビックリしたと言っていたけれど、恐らく監督はそれは充分に織り込み済みだったと思うなあ。だってさ、あの場面、初めてバントが成功した場面、チームのみんなも?然呆然、点が入った時も?然呆然、喜ぶより、?然呆然、なんだもの。
それこそがすんごく可笑しくて、それも静かな可笑しさ、ってあたりが日本的、いや石井監督的で、なんとも絶妙、なのよね!

本作は基本的には、いわゆる泣ける映画として、もう今の映画、特に日本映画はそれがなくちゃダメってぐらいなスタンスの中で、充分に成功していると思う。実際私、メッチャ号泣だったし(爆)。
でも不思議とそれを押し進める、盛り上げる方向には感じない……むしろ、ここもっと押していいんじゃないの?というストイックを感じる。泣かせることが目的で作られている映画って、判るんだけど、本作はそうじゃないってことが判るから、嬉しくなるんだよ。

最大のクライマックス、最弱チームだった朝日が、バントと盗塁、相手チームのクセを研究して、ついに奇跡の優勝を勝ち取る場面だって、まあ途中、スローモーションやら音消しやらを使いはするけれど、言ってしまえばそれだけで、凄く、ストイックなんだよね。
みんな、信じられない顔のまま、歓喜というより、皆々様に深々と頭を下げることこそが重要、ってあたりの描写が、これぞ日本人!として受け継いでいきたい気質だと思わせるんだよなあ。

あ、そうそう、その前に、試合出場停止とかの、かなりの盛り上がりがあるんだった。もうメッチャすっ飛ばしてるし(爆)。
正直、ね。最初はもっと、池松君とか上地君とかが絡んでくるのかと思ってたのだ。まあ池松君はそれなりに……でも上地君は、カミさんと子供つきという格好の設定が与えられている割には、あんまりピンとこない感じ(爆)。
彼が一番の野球人、なんたってあの松坂選手のバッテリー相手ということでの、海外セールスの客寄せじゃないでしょーねー??とついつい疑り深くなってしまう(爆爆)。
上地君、なんか顔デカい……太った訳じゃ、ないよね??ぶっきー、亀梨君の顔が小さいからなのか……そうかも……。

おっと、脱線した(爆)。そうそう、出場停止よ。デットボールかましたのに、ふっと向こう向いただけのピッチャーに、それでなくても不正審判にカチンときてたロイ(亀梨君)がブチ切れて殴りかかって出場停止。
せっかくチーム朝日の評判が高まり、今まではバカにされたばかりの職場でも声をかけられ、試合場でも審判のアンフェアーにカナダ人側の観客から声が上がっていたりしたのに。
一番最初に声を上げたのが、レジーやロイが働く製材所で、ジャップはこれだから、といかにもな目の敵にしていた現場監督だというのが、それこそいかにもな展開ではあるなと正直思うし、カナダ側がずっと蔑視し続けていた”ジャップ”を認める度合いは、どこかあいまいなまま終わってしまったという感はちょっとあったかなあ。

でもそれこそが、真実なのかもしれない。だからこそ、歴史の中に埋もれてしまったということなのかもしれない。良好な関係をしっかと詰める前に、戦争が激化してしまった。
エミーがお父さんに対して、出稼ぎ根性、英語も覚える気がなく、日本人とばかり仲良くして、だから日本人は認められず、地位も向上しないんだと、奨学金が認められなかった不満があるにしても、それまでの思いが爆発した形でぶつける場面が、予告編で彼女の声だけを聞いただけで、震えるぐらい、一発で象徴していたんだと思う。
先述した、日本人なのか、日系人なのか、ここで生きていくしかないのに、信頼されないのは自分のせいなのか、親のせいなのか、時代のせいなのか……そんなもう、うずまく思いが、あの素晴らしき若き才能、高畑充希嬢の口からほとばしり出た時、もうそれだけで、その後、若干予定調和を感じたとしても、ここだけでいいと思った。

だって、収容所という言葉が、アウシュビッツ以外にあっただなんて、なんて言ったら、ホント笑われちゃうよね、バカだって。歴史苦手だっていう、通り一遍の言い訳以上のバカだよね。
でも……言い訳だと言われるであろう、恥をしのんで言っちゃうと、やっぱり日本人の認識なんて、その程度だよ。

ブレイン・ボールでカナダでもナンバーワンの人気チームになって、これからという時に、いやもうその前から戦争が影を落としていた。
日本に”帰った”フランクが、映画館で流される戦時中のニュース映像に映っているという生々しいエピソードもはさんでいた。本当にもう、これからという時だったのに。

池松君演じるフランクに関しては、ちょっと通り一遍な感じはしたんだよね。フランク以外の、ぶっきー演じるレジー以下は製材所で働いてて、ピッチャーのロイは父親と共に漁業についてて、どちらも差別、蔑視に苦しんでる。
フランクだけがかなりセレブリティな職場で、そもそもそんなトコに勤められた経緯が気になるし、なのになんかいきなりお客さんから「けがらわしいから触らないで!」とか言われて、その直後に解雇になってしまう。

真珠湾攻撃前後のエピソードだからまあ判らなくはないけど、その前から日本人は蔑視されてたのに彼だけはそういう描写もなかったから、かなり唐突な感があったんだよね……。
当時ホテルに勤めていた”移民の日本人”の状況がちょっと、知りたかったなあ。

うーん、宮崎あおい嬢、相変らずこういう感じ。なんか、哀しい。日本人学校の教師役。物語に特別な影響も与えないのに、嫣然と微笑んで、予告編にもバッチリ登場して、別にいなくても良かったでしょ的な、ギャラだけとって顔見せだけだろー。
友情出演でも特別出演でもない通常出演でコレでは。悲しい。あおい嬢はいつからこんなにやる気のない女優になってしまったの!てか、監督だよ!!

個人的には、石田えりをがっつりメインで観られたのが嬉しかった。まー、私が見てないだけだろうけれど(爆)、大バジェットでは本当に久しぶりな気がする。そしてそれに応えるステキさだったもの!★★☆☆☆


犯罪作戦NO.1
1963年 93分 日本 カラー
監督:井上梅次 脚本:高岩肇
撮影:渡辺徹 音楽:伊部晴美
出演:田宮二郎 本郷功次郎 藤巻潤 待田京介 角梨枝子 滝瑛子 江波杏子 根上淳 花布辰男 北原義郎 花井弘子 山本礼三郎 安部徹 村上不二夫 中条静夫 大塚弘

2015/5/24/日 劇場(神保町シアター)
なんだか難しそうな話なので、とりあえず田宮二郎にだけキャーキャー言うつもりで足を運んだが、結構じっくり観てしまった。と言っても、どれが政治家でどれが建設会社でどれが不動産会社で……とイマイチ区別がついてないまま終わっちゃったけど(爆)。
つまり、国土開発という美名のもとに、老獪な政治家と巨大企業が癒着して、莫大な利益をこっそりと得ている、その全貌を明かそうと、こいつらに人生を狂わされた男たちが、文字通り命を懸けて無謀な大作戦を仕掛ける、という、ざっと言えばまあそんな、物語。まあそんな、なんてことで片付くような話ではないが(爆爆)。だって最後には建設したばかりの巨大温泉レジャー施設をこっぱ微塵にぶっ飛ばす、なんてゆー、思い切りの良さだもの。

そういう意味ではこれは活劇に違いない。よく出来ているとはいえ、爆発シーンのミニチュア撮影が判っちゃうほのぼの感があるにしても、確かにスケールのデカい活劇。
でもテーマがどっしり描かれているだけに、シリアスで、そしてなんたってスマートなスーツを決めて、射撃の腕もピカイチの田宮二郎だからさっ、ピカレスクな魅力満点なんである。

この悪魔的美貌の田宮二郎が、だから劇中でも女にモテまくりは当然なのだが、しかし意外に、バッサリ冷たく女を切り捨てられないあたりも胸キュンものなんである。
二人の女がいる。彼扮する田村がこの老獪政治家の汚職事件を深追いして刑事を辞めるハメになり、退職金から実家の土地を売った金からすべてをつぎ込んで、真実と正義と、そして自らの復讐を追求することを決意、その先に出会った女たちである。

一人は、ずっぽり水商売のベテランの女、由美。はすっぱな美貌がまぶしい江波杏子。この人は年をとっても雰囲気変わらないよなー。「いいの、抱いて」なんてぶちゅー接吻に、乱れた髪を直しての翌朝は、もうそれだけでアダっぽすぎる!
もう一人は、この悪徳な男たちの橋渡し役をしている貴金属商の女オーナーの娘、佐知子。「ママは一体、何をしているの!?昔のママに戻ってよ!」とかゆー台詞で判るとおり、かなりのおぼこ娘である。
そらー、田宮二郎に耳元で「僕はハンターですよ。恋のハンター」なんてささやかれたら、すっかり落とされちまうに違いないが、江波杏子ほどの手練れがこんな小娘に嫉妬して、田宮二郎から捨てられてしまうなんて……。

いや、そんな事態になったのは、それこそ”意外に、バッサリ冷たく女を切り捨てられない田宮二郎”だからであり、口では、目的のためには手段を選ばないとか言いながら、彼女たちを傷つけることや、恨まれることを凄く恐れているんだよね。それがさあ、なんかズルイッ!!と胸キュンしちゃう訳っ。
だってさ、佐知子に関しては、彼に思いを寄せている中西という男を仲間に引き入れていることで、つまり彼に遠慮をしていることもあり、ちっとも”目的のために手段を択ばない”じゃないんだもの。それを当の中西からズバッと言われるんだもの。そんな弱さを見せるなんて、ズルい、ズルいよ!!

……うーむ、これじゃあまりにも判らないので、せめてもの人間関係相関図を描かなければ。
今出てきた中西っつーのは、その建設うんぬんに絡んで、父親が自殺に追い込まれたことで、復讐を決意、射撃コーチの道に進んで、その腕を磨いている男。
刑務所から出所したばかりの元プロボクサーの男、杉野をスカウトしたのは、彼がぶち込まれた理由である金遣いの荒い女、朱美が、ちゃっかりと鞍替え、悪徳モンたちの一人(ゴメン、だからどの人だっけ、って感じで(汗))の愛人になっていることを告げれば、復讐の仲間に入ると踏んだから。
もう一人はかなりあっけらかんとしたお兄ちゃん。一見ヤクザ風だが、尊敬する親分と共に足を洗ったという。それは、すべての元締めである老獪政治家、水島の手下であるヤクザどもに駆逐されたから。

この親分さんというのが出来た人物で、最初は田村の作戦に難色を示し、無駄なケンカもしないスタンスなんだけれども、最終的に知恵を貸してくれるのは、田村の計画が、復讐とはいえ、命を懸けていること、確かに大きな力を動かすことを、人情的にも、冷静的にも、判断したが故だと思う。
そしてそれは、自分の子分が命を落とすかもしれないことも含めてなのだ……なんと、男気な!!

……おっと、またコーフンのあまり、脱線してしまった(爆)。えーと、つまり、なんだっけ(爆爆)。
そう、つまり、無謀なのよ。最後の目的、巨大な温泉レジャー施設を、出来上がった途端に爆破して、それを突破口にしてすべての汚職事件を明るみにしようという作戦なんだもの。
そんなムチャな作戦を思いついたのは、刑事であった田村が、こつこつ追い詰めたつもりでもあまりに後手後手で、末端の雑魚ばかりが引っかかるだけで、大魚はゆうゆうと逃げてしまう、その理不尽に、正義とはなんぞやと、悪をもってでしか悪は征することができないのではと、思い詰めたからなんであった。
苦楽を共にしたかつての同僚から、「俺に逮捕させるなよ」と泣ける台詞を言われても、「どっちがあいつを追い詰めるのが早いか。早い方が正義だ」と、ゆるぎない目をして言うばかりなのであった。

ああ、男というのはなんという馬鹿。正義を追究したって、その先にカタルシスなんてないのだ。あるように見えても、ないのだ。だって悪を相手にしているんだもの。イヤな思いをするしかないのだもの。
それを男は判ってない。悪を征すれば、カタルシスを得られると思ってる。違うのだ。悪を相手にすれば、悪の毒が彼を汚す。毒されるっていうんじゃなくて、知らなくていい世界を知ってしまうということなのだ。
女は知らなくてもいい世界には目をつぶって生きていけるしたたかさを持っているのに、男はそれが出来ない。それを純粋と言うのならば、なんと聞こえのいいことだろう!!

なんてことを思うのは、巨大施設、巨大建設、道路だのなんだの、そんなことにはそりゃあ大なり小なり利権がからまない訳もないと、女としては思ってしまうからなんである。それに深入りして、男は死に追いやられ、息子は復讐を誓ったりしちゃう。何かそんな、哀しさがあるんだよなあ。
だからかな、リーダーで、冷徹な判断を下さなければいけない田村に、微妙な甘さがあるのは。本当に冷たい決意を秘めている男だったら、たった一人、死ぬ気で斬り込むか、仲間を迎え入れても、自分も含めてその仲間たちも命を落とすことをしっかり可能性として考えて、動いたと思う。
作戦途中に女に翻弄される時点でヤバいなと思ったが、クライマックスで、「リーダーが死んだら、元も子もない。リーダーだけは逃げてくれ!」と言われても、躊躇しまくった田村に、あ、甘い……と思っちゃう。いや、だからこそこの田村という男、そして田宮二郎が素敵なんだけどさ(爆)。難しいなあ。

そうだそうだ、もう一人哀しい女がいた。名前は出ていた。杉野がムショから出たら、女が金持ちの愛人になっていた、その女、朱美。
いかにもしたたかなおミズな女で、裏切られたことを知った杉野はさっぱりと復讐計画に参加するんだけれど、結果的に朱美を嫌いきれない。彼が計画に参加するのはむしろ、田村の男気にホレたから、という感じの方が強い。
朱美の愛人である悪徳その1(だから、すみません……)が、臆病な男で、それが故にリーダーからあっさりと消されてしまう。しかしこの判断も浅はかで、だからこそ彼らは自分たちの首を絞める結果となる訳なのだが……。

で、そのあおりを食らった形で朱美も殺されてしまう。その場所は、佐知子の母親、女オーナーの持つ別荘である。ってあたりも、そこに偶然出くわすあたりもあまりにも出来すぎだが、まあ、気にしない、気にしない(爆)。
んでもって、その話を聞いた田村達が駆けつけてみると、別荘は炎に包まれ(このあたりもほのぼのミニチュア感)、変わり果てた姿の朱美に泣きすがる杉野を必死に脱出させる田村。そして、悪徳手下との乱闘シーンは活劇ものにはまあ、必要かしらん。

そう、朱美も哀しいよね。それを気づかせてくれたのがほかならぬ、杉野だった。彼は彼女に未練はないといった。ただ、哀しいのだと。彼女がこんな哀れに死んでしまったのが。女の哀れさにも胸を突かれるが、それを教えてくれたのがこの女に裏切られた男だというのが、さらにじんとさせた。
この物語はピカレスクロマンでも、サスペンスアクションでもなく、男と女の哀しきロマネスクなのではなかろうかと思ってしまうほど。

そして、行き着くクライマックス。温泉レジャー施設の爆破作戦は、お約束的展開も多々あれど、きっちりとハラハラドキドキさせてくれる。言ってみれば、ここに至って急に、定石通りの活劇、クライムサスペンスになったと言っていいぐらい。
それまではすんごく、浪花節っていうか、心理作戦っていうか、言っちゃえば恋心っていうかさ、結構みなさん、決心がにぶくて(爆)。
そこに、先述の元ヤクザの親分さんが現れて、爆破計画をきっちり仕切ってくれて、にわかに現実味が増します訳。てゆーか、彼がいなければ、まったく漠然と、射撃コーチだから火薬が扱える中西と、電気工の技術を持っている杉野と、とび職の経験がある沢本(あ、これがこの親分さんの子分の、あっけらかんとしたお兄ちゃんね)がいるからこっぱみじんに爆破OK!みたいな、緻密さゼロでさ(汗)。
親分さんが図面を引き出して、ほおお、と感心する時点でそれが明るみに出て、えーっ、そんなアバウトさでこんな命かけた計画立ててたの!と思うが、まぁ、そんなところをツッコむのは、ヤボってもんだろう。

完成パーティーに搬入業者を装ってあっさり侵入できるっつーのも、悪徳やつらが警戒してる筈なのにナァと思っちゃうが、まあ、気にしない、気にしない(爆爆)。
電気室の従業員を縛り上げてロッカーに放り込み、エレベーターに爆薬を仕掛ける。上手く行きかけたのに、ロッカーでもがいている従業員が見つかっちゃって、追い詰められるというツメの甘さ(爆)。
こ、これぐらいは想定の範囲内なのでは……。せめてクロロフォルム嗅がせるぐらいの(この当時でのサスペンスでは、必須のアイテムでしょう!)やってくれなくては……まあでも、ここで発覚しなければハラハラの展開はなかったのだけれど、でもツッコみなさいと言ってるようなもんじゃないのお。

まあ、気にしない、気にしない(……と言うのもだんだんツラくなってきたが……)。本当に命を賭けてた彼らに後を託されて、ショックを受ける田村。見事、彼の願いは達成されて、汚職は次々に明るみにされた。けれども……。
両手を手錠につながれた田村が、面会にきたかつての同僚に、最後に命をつないでいた、重体だった中西の死が伝えられた時、これ以上ない絶望の表情を浮かべた。自分が誘った仲間が、自分のせいで残らず死んでしまった。

そして同じ時、中西が思いを寄せていた佐知子が面会に訪れている。母親の悪事の証拠を田村に差し出した代わりに、母親を罪に問われないようにしてほしい、そう懇願した、あのおぼこ娘である。
二重三重の意味で、田村は彼女に会わす顔がない……母親のことより、中西を死なせたことの方を重く感じていたと、思いたい。だって正直、あんなセレブマダムがどうなろうとどうでもいいよ(爆)。でもこのマダムもまた、悪徳ヤローたちのリーダーと愛人関係だったんだもんなあ。

田宮二郎は圧倒的な美貌が悪魔的なほどだけど、なんだか哀しい。それは彼のその後を知ってしまっているからそう思うのかもしれないけど。だからこそ、いろいろ深読みしてしまうのだ。★★★☆☆


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