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「ま」


2022年鑑賞作品

マイ・ブロークン・マリコ
2022年 85分 日本 カラー
監督: タナダユキ 脚本:向井康介 タナダユキ
撮影:高木風太 音楽:加藤久貴
出演:永野芽郁 奈緒 窪田正孝 尾美としのり 吉田羊


2022/10/2/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
原作が連載漫画だと知って、本作がかなりそぎ落とされている印象があったのはだからかな、と思ったりした。
映画オリジナルじゃなく、小説、ことに長いこと連載しているような漫画作品だったりすると、映画の尺に落とし込むためにはものすごく取捨選択が必要になる。中途半端に入れ込んで言い足らずになるより、本作のようにシイノとマリコの関係性だけに、ことにマリコの遺骨との旅行きに濃厚に絞った方がきっと良かったのだろうと思う。

と思ったのは、マリコの方は、そもそも彼女が今死んでしまっている事実に至る環境が壮絶すぎるので、ことにその始まりは父親からの性的を含む暴力という壮絶さなので、家族のことを語らない訳にはいかない、というか、常に付きまとう。それと比するとシイノの方は不思議なほどに家族が出てこないな、と思ったから。
実際原作の方はどうなのか、意外に原作の方も出てこないのかもしれないけれど、シイノも小さなころからまぁまぁ問題抱えてそうな雰囲気マンマンで、中学生でタバコ吸ってたりするし。
だけど外見は、メイクをしてる訳でも髪の毛染めてる訳でもない、ジャンスカの制服を短くすることもなく黒々としたおかっぱ頭で、なのにタバコ吸っているという不思議さなのだ。

現代の時間軸では永野芽郁嬢が演じているシイノは、これまでの芽郁嬢のイメージをくつがえす、やさぐれ感たっぷりの女子で、それが実に小学生時代から、対マリコとの関係性において固められていったことが、絶妙な時間軸の行きつ戻りつで観ている側に刻み込まれていく。
センシティヴな感性を持った天才肌の役者さん、ということは感じていたけれど、やはり天真爛漫な可愛らしさという印象が強かった芽郁嬢が、このやさぐれ女子が予想外に似合っていて、カッコよくて、切なくて、胸を打つ。
全編、感情をかなり過多気味に吠えまくるキャラなので、そのハイカロリーについていけなくなりそうにもなりつつ、彼女が全身全霊で、死んでしまった親友を思って、追いかけて、ついには同じところに行こうとする爆走感に圧倒されてしまう。

ホント、こんなにやさぐれ女子がカッコよく似合うと思わなかった。対するマリコを演じる奈緒嬢も変幻自在な役者さんで、でも芽郁嬢とは全く違うタイプ……なんていうのかな、感性の芽郁嬢に、構築型の奈緒嬢、勝手な印象だけど、そんな気がする。憑依型と職人型、みたいな??

職人役者の奈緒嬢が、家庭環境に恵まれなかった不幸があったとはいえ、彼氏もクズばかりで、シイノに対しての依存度もキツく、かなりめんどくさい、言ってしまえば狂気の女の子を演じるんだからもう、怖い怖い!!
ホントのホントは、シイノだけが彼女のよりどころなのに、彼氏が出来るとそっちを優先しちゃう。なのにシイノには自分一番を強いて、恋人が出来たりしたら私死ぬから!と目の前で手首にカッター当てる狂気。
なのにシイノはそんなマリコが愛しいのだ。言われなくったって彼氏なんか作る気はない。マリコは作りまくってるのに。

それこそ原作が気になるところなんだけれど、シイノには恋愛の影が一切なくって、マリコだけが大切な存在。つまりマリコがそういう存在だったんじゃないのかと思っちゃうのはヤボなのだろうか。
マリコの方がシイノに依存しているように見えて、実は違ったということが、シイノこそがマリコしかいない、ということが、じわじわと、ボディブローのように効いてくるのが、ネライな気がして仕方ない。そんなヤボなことは言われないけど、でも……。

だってどんなにシイノがマリコを守ろうとしたって、傷だらけのマリコを自分の部屋にかくまったって、放心状態のマリコを扱いかねて、そしてマリコはそのクズ男の元に帰って行ってしまうのだ。
もし本当に、シイノがマリコのことを友情以上の気持ちで思っていたならば、こんなキツいことはなく、そしてマリコは自分には何の言葉も残さずに、死んでしまったのだ。

マリコが死んでしまったことを、シイノはさびれた中華屋でラーメンをすすっている時、テレビのニュースで知った。この場面一発で、シイノのキャラが判っちゃう。箸ですくう麺の量がハンパじゃない。それをものすごい吸引力で吸い込み、次の麺をすくい上げた時に、箸が止まった。
店の外に出て、「クソ上司」からの電話をガン無視し、整理できない気持ちをぐるぐると持て余し、クソ上司からイヤミを言われながらも考え続け、親友のために、死んでしまってからも何かできることがないかを考えて考えて、考え付いて飛び出した。バッグの中に包丁を突っ込んで、マリコの実家に駆け込んだ。

マリコの父親の後妻に入ったキョウコさんとは恐らく、シイノは面識があったんだろう。飛び込みの営業のフリして訪ねた時、キョウコさんは、あれ、あなた……みたいな顔をしていたし。
入り込んだ雑然としたアパートの一室。父親が悄然と娘の遺影と遺骨の前に座り込んでいる。この画だけならば、思いがけず娘に先立たれた哀しき父親、と見えるだろう。尾美としのり氏が演じているというのがなんともいえなくて……。
彼が、娘が幼い頃から暴力をふるい、高校生になった娘を強姦し、……いやだいやだ!!そんなクソ親でも、娘を支配下に強いたクズ親でも、その死にショックを受けるのか。

それがさ……尾美氏だから、それこそそれまでの彼の演じてきた誠実さのイメージがあったから、どう受け取っていいのか判らなかったのだ。
マリコの実の母親は、あんたが誘惑したからだと娘を罵倒して、家を出ていった。後妻として入ったキョウコさんは、シイノいうところの、「もっと早く、マリコの父親と結婚していてくれれば」と言うほど、いい人。なんでそんないい人がこんなクズ男を好きになっちゃったのか、こればかりは説明がつかない人間の七不思議なのだ。

ホントね。キョウコさんが母親として、マリコにもっと早く関わってくれていたら。でもそれは、せんないことだ。マリコは常に依存している。最大の依存相手はシイノであり、シイノこそがマリコを愛していたから、依存という問題に気づけなかった、ということなのかもしれない。
シイノだけに依存していたならば、それこそ相思相愛でコトは済んでいたのだけれど、マリコが彼氏という名の暴君に常に支配されずにいられなかったのは、父親に蹂躙されてきたことで、支配されていない自分が想像できない、自分一人の足で立ち上がることが出来なかったのか。

奈緒嬢の無邪気な笑顔が、壊れたそれとして貼りついてしまって放心する時、もうこの子を助けることはできない、と思う。マリコの自殺に際して、なぜ自分に何も言ってくれなかったのかと当然シイノは苦悩し、それがこの旅行きになるんだけれど、こういう事例はさんざん目にするけれど、どうしようもないんだよ。

そういうことじゃないんだ。死ぬ時はたった一人。それを助けられるかとかそういうことじゃないんだ。だって、死ぬことを決めることこそ、アイデンティティ。個人的なこと。誰にも邪魔されることではない、神聖なことなのだもの。
だから、あのラストだったのだ。マリコはシイノに手紙を残していた。それをキョウコさんが、あの時乗り込んでマリコの遺骨を奪っていった時に残していったパンプスとともに、届けてくれたのだった。

そんなラストまでに、マリコの遺骨と旅するロードムービーである。マリコとの会話を思い出し、ここに行ってみたいね!という、小さな岬への旅である。
無断欠勤、上司からの電話もガン無視し、夜行バスで小さな町に着く。ここと思しき地に路線バスでようようたどり着くも、山道でバイクの男にバッグをひったくられてしまう。

その時、のんびり歩いていた青年に助けられる。名乗るほどのものではございませんとか言いながら、去ってゆく彼が肩にかけたクーラーボックスにめっちゃ商店名と名前がマジックで書いてあるもんだから、笑っちゃう。
でも、かといって、シイノはそれを頼りに訪ねていく訳でもなく、なのに彼は、手助けが必要となる要所要所で、不思議に行き合わせるのだ。

そぎ落とされた印象の先にどこかファンタジックさが加味されると感じたのがこの部分で、窪田正孝氏扮する、クーラーボックスに勤め先とマキオとマジックで大書されたところから、いや、そもそも彼のいでたちと登場の雰囲気から、シイノを救うためにあらわれた仙人みたいと思っちゃうんだもの。

そして、また一つ事件が。シイノのバッグをひったくった、その犯人と同一だろう、シイノがバスで一緒になって、なんとなく目配せというか、あいさつを交わした女子高校生が、海岸、崖の上、姿が隠されちゃう草っぱらの中を、助けて、助けて!!と駆けてきた。
シイノが、マリコの遺骨とともに、マリコに恨みごとを言いまくって、そっちに行くから!と崖から飛び込もうとしていた矢先だった。

女の子を救うことができて、その武器に骨壺をふるっちゃったもんだから、キラキラと遺骨は海に降り注いだ。
シイノは死ななかった。死ねなかった。いや、どういう表現が正しいのか……。マキオは、自分も半年前に飛んだけれど、死ねませんでした、とさらりと言った。世捨て人のような風貌だから、ものすっごくいろんな想像をしちゃうけど、今の彼は、この海辺の町で、生きてく選択をしている。それだけは、間違いないのだ。

シイノは、この町で、マリコの遺骨と共に自身も死ぬつもりだったんだろうけれど、今、帰途につこうとしている。めっちゃ心に迫ったのは、バスで目礼し、シイノが助けた女子高生だった。
きれいな字で、お礼状が届いた。その文面は、ちゃんと紹介されている。シンプルで、飾り気がない、何ということはないと言ったらアレだけど、一生このご恩は忘れない、という文言が、社交辞令じゃないことが熱く伝わってくる。

シイノは、マキオに後押しされたこともあって、この地で死なずに、帰ることを選択する。
マキオとの関係性はとても良かった。語られることはなかったけれど、崖から飛び降りた経験を持つ彼は、町の噂話には精通しているけれど、コミュニティには入れていない感じが、でもきっと、町の人々は彼を優しく受け入れているんだろうなというのが感じられた。それが、シイノや死んでしまったマリコが暮らしていた、冷たい都会とは違うのかな、と思ったりして。

でも、シイノに関しては、ちょっと未来あるラストが用意されている。明らかにブラックな勤め先、スマホの登録名をクソ上司にしているぐらい、仕事や職場に希望なんてなかった筈なのに、無断欠勤や連絡がつかない状態をこれだけ続けてさえ、彼女からの退職願を受け取らない。
人手不足、ウチはブラックだからな!とまでぶっちゃけるけれど、それはつまり、彼女が戦力として会社が手放すわけにはいかない人材なのだと言ってもらえているってことで。
これはかなり難しいスタンスだけれど、現場にいると、労働者の権利をあまりに擁護するあまりに、小さな企業が倒れまくり、それが結果的には社会の力を失うことになりはしないかと思っちゃったりしてるからさ。

個人的にグッときたのは、マリコの遺影。隣に誰かの肩が映りこんでて、バランスも不自然だな、とうっすら思っていた冒頭、ラストもラスト、もう遺骨もないシイノが手を合わせるささやかな仏壇、マリコとシイノのツーショット、それは、遺骨奪還のために乗り込んだ時、遺影として飾られてた、シイノの肩先が見切れていたあの写真だったのだ。
最高の笑顔、幸せそうな笑顔のマリコ。だからチョイスされたのか、判らないけど……。

マリコがファーストネームで呼ばれ、シイノはファミリーネーム。マリコはシイちゃんと呼んでいた。本来ならファーストネームこそがアイデンティティと思われるのに、この日本という国は違うのだ。
ファーストネームは子供が親に従属するための名前。かといってファミリーネームがアイデンティティを保証するかと言ったら、こと女性に関してはやはりこれも従属のしるし。シイノ側に家族の描写を排除されていたのは、そのしるしを見せないためだったのだろうか。

シイノは日常に戻る。戻ってしまう。ブラック企業へたたきつけた退職願も、戦力だからといういわば甘い言葉で受け取られない。シイノのしたたかな強さが、認められているのだ。
マリコの義母から届けられた手紙、シイノが、私にはなぜ何も書き残さなかったのかと恨み節を言っていたところに思いがけず届いた手紙の内容は明かされない。

丁寧で冷静な、いつも書き送ってくれていた字体で始まる手紙を読みながら、シイノは嬉しそうに笑うのだ。そしてエンド。
嬉しそうに笑う手紙を残して死んだマリコ。その内容は想像もできないけれど、良かった、良かった?のだろうか。★★★☆☆


マイライフ、ママライフ
2020年 88分 日本 カラー
監督: 亀山睦実 脚本:亀山睦実
撮影:島大和 音楽:久保田千陽
出演:鉢嶺杏奈 尾花貴絵 池田良 柳英里紗 中田クルミ 多田真翔 澤邊優愛 真辺幸星 山中雄輔 高木悠衣 蔦陽子 バネッサ・パン 広野桜 清瀬やえこ 中野マサアキ 森本のぶ 水野勝

2022/4/3/日 劇場(渋谷HUMAXシネマ)
とても意欲的だし、こういう問題点で多くの作品が作られなきゃいけないと思うし、真摯で誠実で伝わってくる。ただ、なんとなく物足りなさを覚えるのは、この社会問題に対して、当の同世代の女性として作り上げているにしては、優等生っぽいというか、視点が優しすぎるかなあという気がするからだろうか。

いまだに女性の社会進出などという言葉が、その言葉自体が非常に男女不平等かつ侮蔑的目線であるということに気づかないぐらいの鈍感さで横行している。むしろ女性を評価している言葉だぐらいな、アナクロニズム勘違い日本にもっと噛みついてほしいのだ。
この言葉は、私が彼女たちと同じぐらいの時にも、いや更にさかのぼって、男女雇用機会均等法(これもやっと80年代、遅きに失している)が制定された時から、変わらずに、一切変わらずに、社会も変わらずに使われ続けているということを思えば、アラフィフでもはやあきらめムードな私ら世代が物足りなく思う気持ちが、判るだろうか。

子供を持って働く女性の厳しさを描いた作品として思い浮かぶのが「ガール」だが、あれだってもう10年も前だ。あの時から状況が変わっていないという重さが感じ取れないのは惜しい。
でもそんなことを言うべきじゃないのかもしれない。だって当事者はその当事者としてしっかりと見つめて描くのが当然の責務なのだから。そんな、20も年くったオバチャンにあれこれ言われる筋合いは確かにないわなあ。

でも確かにそうだ。100%変わってない訳ではない。明らかに20年前、「ガール」の10年前からも変わっているのは、男性が優しくなったことであると思う。それは劇中の、二組の夫婦のうちの、一方の夫、健太郎に顕著に見られる。
厳しい言い方をすれば、優しいというのは、女性の、この場合は彼の妻のことをちゃんと理解しているかということとは 別の問題である。でも、男性が優しくなったのは、この、少なくとも10年の間において大きな変化であろうと思われる。もちろん、人それぞれではあるけれど。

理解ある旦那様、というのは、ほんっとうに、クッソワードだと思うんだけれど。夫婦に子供が生まれて、女性に関しては決して言われない台詞。理解ある奥様ねなんて絶対に言われないのだ。この言葉が存在する限り、日本における子供を持つ女性の立場は変わらないだろうし、どうやらそれは、遠い未来に思えて仕方がない。

令和に突入し、平成元年に産まれた30歳になんなんとする彼女たちにも、そのワードが無邪気に展開される。このワードに絶望し、結婚という制度に価値を見出せなかったから、私たちの世代あたりから、私のよーな不毛な独女が産まれ始めたんである。
ここで描かれる二組の30歳のカップルに、この重さを引き継いでほしいと思うことこそが違う、別問題だということは判っているんだけれど。

なんかね、職場ファッションとかがオシャレ過ぎて(爆)。往年の月9ドラマみたいで(いや、観てないけど(爆))。
ファッション誌の着まわし術とか見てるみたい。世の中の働く女性の平均値がどこにあるのかは判らないけれども、私は泥臭い職種にいるので、でも、むしろそういうところで踏ん張っている女性の方が多いんじゃないかと思うんだよね。
都会で、パソコンをぱちぱちやる職場で、スマホをかたわらに置いて保育園や夫からの連絡にいちいちこたえられるような状況なんて、昭和生まれの独女おばはんとしては、ちょっと甘いかなと思っちゃうんだよね。ああ、やだやだ、昭和のおばはん(爆)。

綾の上司は理解があるんだかないんだか、ただ流されるだけの優柔不断なのか、この上司のキャラ設定があいまいなのはかなり気になったかなあ。フィクションとして、リアルとは離れていてもがっちり固めるべきポジションは必要だと思う。
つまり、この場合はイヤなヤツとしての。思えば本作の中にはそういうキャラが一人としていなかった。みんな、言ってしまえば中途半端に優しい。だったら、だからこそ手詰まりになっちゃう、という苦しさが欲しいと思う。それをリアルに据えるのならば。

綾、というのが二組のうちの一組目の妻。夫の健太郎とはそろそろ子どもが欲しい、という点で意見が分かれる。後に綾が子供を持つことに対してイマイチ乗り気になれなかったのが、かつて流産してしまった記憶が払しょくしきれていないことが明らかになる。

これも、少し違和感が残る。流産してしまったことに後悔しているというのと、仕事にやりがいを感じているから子供を得ることが考えられない、というのは、まったく違うベクトルだから。

この事実が明かされるまで、観客であるこっちは綾が今子供を持ちたくない気持ちが、子供を持ってしまったらやりがいのある仕事が出来なくなるんじゃないか、社会に参画できなくなるんじゃないか、いろんなことを諦めなくちゃいけなくなるんじゃないか、それは男性には発生しない悩みなのに、ということなのだとばっかり思っていたから、そしてそれこそが、私らの世代に数多く生まれてしまった独女たちの理由だったから、なんか、ガッカリしちゃったんだよね。

そこは切り分けてほしかった。仕事をしたいから躊躇する気持ちと、流産した記憶で躊躇する気持ちは、ぜぇんぜん、違う。それこそ、働く女性たちが子供を持とうとする時に(結婚ではなくてね!)直面するあらゆること、本当にあらゆることがあるのに、それをまとめてしまっては意味がない。

もう一組は、子供を持つ夫婦。父親ということにイマイチ自覚のない夫にイライラしながら、二児を抱えて職場で肩身の狭い思いをしながら働く沙織である。
育児どころか家事も全く手を出さず、帰宅後は風呂に入ってビール、仕事のやりくりでどうしようもなく子供の世話を頼むと、やってやったった、という態度をあらわにする。まー、典型的な、日本の理解なし夫である。

ただこれも、そうね……それこそ20年前の私なら沙織のようにただただキーッ!となって、だから男は使えない、結婚して子供を持つなんて、女にとっていいことない!!と吠えていたかもしれない。あるいは、だったら女が一人、子供を抱えていける社会にしてほしいぐらいに思ったかもしれない。
でも、沙織の夫は改心しちゃうんだよね、割とあっさり。いや、あっさりだなんて。それまで彼は奥さんが抱えていた苦悩に全く気付けてなかったから。

ここなのだ。気づけてなかった夫を糾弾することで溜飲を下げるのではなく、そもそも伝えてなかったじゃないかということなのだ。
「中途半端に首を突っ込まれたら逆に大変だから」と沙織が綾に言った台詞が問題をズバリと浮かび上がらせている。子供を育てて大変な想いをしているのは私だと、ゆがんだ優越によって夫にこの事態を伝えずに来た妻側に原因があったとは言えないのか。

私はフェミニズム野郎だから、普段ならこんなことはぜぇったいに言わない。でも、男どもは言わなきゃわかんないドーブツであるということを、もしかしたら30歳ぐらいのわっかい女の子たち(私から見ればね!)は判んないのかもしれない。
言わなきゃ判んないんだよ、家庭でも、会社でも、社会でも!!というのを、本作に接して一番思ったことかもしれんなあ。

なんか、フェミニズム野郎爆発して、全然どんな物語か触れないまま来てしまった(爆)。
二組のカップル。綾と健太郎は、先述したようにかつて流産の経験があり、健太郎の方はそろそろ子どもをと思って綾にアプローチしている。もう一組は二児を持つカップル。沙織は子育てで職場でも肩身の狭いを想いをしていて、しかし夫の博貴はまるで独身時代と同じように生活している感じ。

綾たち夫婦とは家族留学というプロジェクトで、綾側からは仕事上の取材で知り合う。
最初の体面では、かなり取り繕っていて、いかにも幸せそうな家族として登場するから、あれれ、と思う。特に博貴が彼らをにこやかに出迎え、子煩悩そうな様子を見せるから、それも別に演じてる風もないからあれれと思い……。

ああそうか、彼の中に矛盾はないんだ。奥さんがクライマックスでぶちまけなければ、本当に気づけてなかっただけで、悪気どころか、決して悪い人間でも、悪い夫でもなかったのだ。
物足りない部分はすっごく感じた本作だったけど、女性ばかりが大変大変と言いがちなフェミニズム野郎に、悔しくも、これは認めなければいけない重要なファクターなのであった。

この夫、博貴を演じる池田良氏は、もうなんたって、「恋人たち」でガツン!と来て、本作で、あああの人だと思って……。なぁんか、小市マンを思わせる柔らかさと色気、何より芝居が達者で、心奪われてしまう。
この役柄はかなりステロタイプなので、フェミニズム野郎としては半世紀前のキャラやがな!!とか言いたくなるし、ベランダで奥さんと話し合うシーンは、奥さん側のギャースカ吐露に、ゴメン、気づかなくて悪かった、という一方的な感じが、フェミニズム野郎としては逆に、女がそんな身勝手に思われたらそれはそれで困るとか思うのだが……(フェミニズム野郎は難しいヤツなんである)。

池田氏の、この短い尺の中での、理解のない夫、対外的には愛想のいい夫、妻とその友人から逆襲を受けて戸惑う夫、事態を理解して反省する夫、という、これはまぁ……なかなかに、博貴としても、演じる池田氏としてもこれはまぁ……なかなかに大変!!
女ってちょっと、確かに、突然すぎる、根回し効かない、ワガママかもしれなんなぁ。

綾の方はというと、後輩の女の子が寿退社を申し出るが、デキ婚であることが判る。彼女はひたすらそれを隠したがる。綾はかつての自分の経験から、彼女の身を案じる。
まるで同じ事態だったから。仕事が面白くなっていた時、仕事を辞めたくなかった気持ち、まだ自覚がなく、妊娠したことより今携わっている仕事が大事だと、思ってしまった、いや、思い込もうとしていた彼女に、綾はかつての自分を重ねて心配する。

それが的中、遅くまで残業していた彼女が倒れたところに遭遇、危機一髪、流産はまぬがれ、秘していた過去を話す。
猪突猛進でナマイキなこの後輩ちゃんを説き伏せて、会社に報告しよう、そして、皆に協力してもらおう、仕事をこのまま続けよう、と説得、その通り、見事職場の環境を変えてみせる。

このことが、結局は個人個人の働く女性たちが動かなければ変わらないのかという皮肉に持っていければよかったのだけれど。だって、法律、制度としては、いっくらでも主張できるのにさ、っていうことなのよ。

本作の着地点は、沙織が以前からやりたかったファッションの仕事に再挑戦、リモートワークも叶う。綾は健太郎と話し合い、子供を持ちたいという気持ちを伝える。
この時健太郎が、養子制度のことを口にしたのは、それは確かにさ、私もここで幾度となく口にした、日本に根強い実子至上主義に対するもっともっと普通に話題にあげられる選択肢だと思っているからさ、こんな風に、これも加えとかなきゃ、みたいな義務的に加えてほしくなかったかなあ。

判ってる。誠実な製作姿勢だからこそ、子供を持つことに悩み多きこれからのカップルにあらゆる選択肢を提示したんだろうということだと思う。
でも、あまりにデリケートな問題なのだ。「朝が来る」が示しているように、本当に大変な選択肢、でもそれが、フラットに、それこそ気軽に、選択されてほしいと思っているからこそ、本作みたいに、その可能性の紹介が気軽でフラットにされると、流されちゃう、スルーされちゃう、つけたしみたいに言われちゃうぐらいなら、無い方が良かったかなあ。

もったいなかったかなあというところ。沙織の子供が熱を出してのお迎えに、苦々し気な上司、後輩っぽい女の子が心配そうに声をかけているのに、見栄を張ってなのか、ただただ大丈夫としか言わなかった沙織。
ああいう良心的な子を使い倒すのがやりようなのである。製作さん側がそれをどれだけ意図していたのかは気になるところ。もっと、同僚を、後輩を信頼してくれよ!とアラフィフ独女は思っちゃう。★★★☆☆


魔界転生
1981年 122分 日本 カラー
監督:深作欣二 脚本:野上龍雄 石川孝人 深作欣二
撮影:長谷川清 音楽:山本邦山 菅野光亮
出演:千葉真一 沢田研二 佳那晃子 緒形拳 室田日出男 真田広之 松橋登 成田三樹夫 大場順 島英津夫 久保菜穂子 成瀬正孝 中村錦司 河合絃司 川浪公次郎 鈴木康弘 有川正治 岩尾正隆 内田朝雄 相馬剛三 丘路千 角川春樹 中江英生 林三郎 小林将孝 飛鳥裕子 鈴木瑞穂 浜村純 東龍子 梅沢昇 犬塚弘 秋山勝俊 野口貴史 白川浩二郎 高月忠 中島茂樹 赤羽明 吉沢高明 鄭[王美]玲 丸平峰子 カルロッタ池田 畑中猛重 中島葵 三谷昇 味方健 味方団 谷田宗二郎 茂山あきら 神崎愛 菊地優子 丹波哲郎 若山富三郎 古川京子 白石加代子

2022/5/8/日 録画(時代劇専門チャンネル)
80年代の香りたっぷり、オールスター映画に心ときめきまくり!東映映画だけどやっぱりザ・角川。千葉ちゃんと真田さんの師弟共演に出会うといつだってワクワクしちゃう。
いやいやいや、これは沢田研二特集なのであった。聞いてはいたけど本作の沢田研二の妖しい美しさはもうやばいやばい。天草四郎を、しかも史実を裏切って、非業の死の後、邪悪に落ちる天草四郎を彼にキャスティングするとは、もうそれだけで天才!!
そもそも彼は日本におけるメイク男子のパイオニアだが、それを無念の死から蘇る美青年、天草四郎に投影して、いわば亡者だからという言い訳もたつような妖しい美しいメイクをほどこし、あのぱっちり二重のらんらんと輝く瞳、不敵にゆがむ美しき唇、やっばいやばい!

そうか、深作欣二監督だったのね。それすらも知らなかったていたらく。でも言われてみればの納得。このクセの強い重鎮含めたオールスターを半ば手荒な所業でばっさりと差配しちゃうのが、深作監督と言われれば大いに納得がいく。
天草四郎がまず味方として亡者から蘇らせるのが、彼と共に伝説のキリシタン、細川ガラシャである。敬虔なキリスト教信者である三浦綾子氏による厳粛な伝記小説に深く感銘を受けているこっちとしては、信仰より愛する夫に執着してエロエロ女に蘇らせるなんてヤメてよー!!と思っちゃうが、佳那晃子氏の猛烈な狂女演技に圧倒されちゃって、巻き込まれちゃう。

四郎の指示によって、時の将軍、家綱を垂らしこむという役割を得るのだけれど、お玉という娘の身体を乗っ取って狂女として暴れまわるのが、もはやよみがえったガラシャも自身が巻き込まれているんじゃないかという恐ろしい美しさ。
ついには炎の中、二度までも裏切られて置いてかれてたまるものかと、前世の夫の恨みを家綱に投影させてもろとも炎の中に落ちていくのがすさまじすぎる。

うーむ、一人一人のエピソードが濃すぎて、これじゃとても語り切れない(爆)。やはりやはり、私の心を打ったのは千葉ちゃんと真田広之氏の師弟共演である。千葉ちゃんは柳生十兵衛。真田氏は彼の弟子である霧丸。伊賀の里の青年である。
伊賀の里!!もうその設定だけで胸アツである。やっぱりアクションスターとしてエリート教育を受けた彼が研鑽を積んだ映画ジャンルは、忍者武芸ものに他ならないからさあ。

そしてこの、若い頃の真田氏のカッワイイこと!!霧丸という名が体現する、村一番の好青年、太ももあらわな短パンスタイル(いや、和服だからなんと表現したらいいのか判らんが)、ああその、太ももの張りきった筋肉の美しさよ。
宿敵、甲賀の襲撃で村を全滅された霧丸もまた、瀕死の状態のところを四郎にいわば、スカウトされる。ガラシャ夫人以外は、死んだばかりというか、現世への未練たっぷりの人たちがスカウトされ、その中でも霧丸が一番、現世の人間ぽさを引きずってるというか、若いからというのもあるんだけれど、染まり切れないのだ。

あーもう、思い出すも萌えすぎて死にそうになるシークエンスがある。霧丸は幼い少女と出会うのね。本当に幼い、10歳…せいぜい12歳ぐらいかなあと思わせる。でも声がやけに大人びていたなあと思って調べたら、演じる菊地優子氏は製作年度から言えば14歳だが、撮影時はどうだったんだろう。
この少女、お光は父親を失ったばかり。それというのも四郎の企てで呪いによって作物を不作にさせ、農民たちをお上にたてつかせるという、その先頭に立っていたお光の父親は突き殺されてしまったのであった。

そもそもその純朴な青年然とした霧丸=真田氏は、性欲どころか恋愛の感情さえないまま死んでしまったという感じがありありで、心通わせたこの幼い女の子に、なんかいろんなものすっ飛ばして募らせちゃったの!?
それを、四郎、いや、あの妖しい美しさの、呪術駆使しまくりそうなジュリーが、霧丸に、いや、真田広之に、キスして!!!(ギャーーー!!死ぬ!!!)、抱きたい女は抱けと囁くのだ。

あの幼い少女を、追いかけて、捕まえて、着物をはぎ取ろうとしたところで、霧丸は最後まで出来ない。
ああ良かった……これはこれで激萌えだが(爆。キチク……)さすがに貫徹しちゃうと、東映の、角川の、娯楽映画にならなくなっちゃう(ちょっと期待してたくせに……)。

ああでもその後、お師匠さんである十兵衛、実際のお師匠さんでもある千葉ちゃんに、もう自分はお師匠さんに打たれて今度こそ完全に死のうと首を差し出すも、十兵衛は言うのだ。
まだ人間の心が残っているのなら、死力を尽くして思うままに生き、最後には自分のところに戻って来い!!と。マジ泣ける。今や真田氏こそが重鎮だけれど、いつでもこんな風に、彼のたどった道筋を、偉大なるお師匠さんとの共演に立ち返ることができると、もう胸が熱くなっちゃう。

千葉ちゃんと真田氏ですっかり満足しそうになるが(爆)、緒形拳氏だの、丹波哲郎氏だの、室田日出男氏だの、もう大変なんだから!
緒形拳氏は宮本武蔵である。柳生十兵衛親子とあいまみえることなく死んでしまった無念を四郎がよみがえらせ、最後の最後、大トリのクライマックスで、柳生十兵衛の千葉ちゃんと、宮本武蔵の緒形拳という、ゴーカすぎる戦いが、しかも絶景の、あの船島というのは実際の地名なのだろうか??

切り立つ岩壁が海岸のすぐ近くにそびえたつという、この世のものとも思えないロケーションで、俯瞰で(当時はドローンなんてない訳だから、これはお値段お高いヘリ撮影だろな)圧倒的な映像。
千葉ちゃんは当然、ザ・アクションスターなんだから当然だが、見る限りでは、よーく目を凝らしてみる限りでは、緒方氏もまた……出来うる限りスタントは使ってないんじゃないかなあ??すさまじい気迫の疾走、すさまじい気迫の剣のぶつかり合い。本当に、こんなん見られて幸せ。

今、こんな大作ではなかなか実現しないのが、メイン女優さんのおっぱい拝見なのだが、やっぱりこの時代は、そこらへんが、まあきっと、いろいろ問題はあったのかもしれんが、でもここでは、やっぱりおっぱい出してほしいよね!肉弾戦じゃなきゃ迫力出ないよね!!という気持ちを満たしてくれる。
狂女になったガラシャ→お玉は、女としての愛を得られなかったのを亡者となって家綱にぶつけるんだから、もうこれはいわば愛のコリーダ並みに、肉体も精神も奪うほどの女でなければならないのだから、観客であるこちらをたじろがせるほどの肉弾戦を繰り広げてくれなくちゃ。

なんたってこの作品自体のパワーは、ガラシャ→お玉にかかってるのだから。そうだ、こうして思い返してみると確かにそうだ。主人公は四郎=ジュリーだし、圧倒的な美しさと存在感でそれは間違いないんだけれど、いわば彼は狂言回しなんだよね。
キリシタン弾圧がどれだけ非道だったかに端を発して、民を苦しめる幕府をあぶりだすために、ガラシャ、武蔵、柳生親子といったビッグネームを誘い出す。そしてその中に、四郎自身は敬虔なキリシタンとして、私たちのイメージとしても決してなかった、人間の肉欲、煩悩を誘い出すのだ。

彼が目指し、叶えたのはあくまで、キリシタンたちを惨殺した幕府の、いや人間への復讐だけれど、味方に引き入れた伝説の人間たちを、ことごとく性の煩悩を利用して、結局苦しませて第二の死に至らせた訳でさ。うっわ、ザンコク!
肉体の死を受け入れるだけでもツラいのに、未練を残させて、蘇らせるために耳元でささやく時は、高尚な心をくすぐる感じなのに、結局は俗も俗、エロな欲望抱えまくって第二の死を迎えるなんて!!ハズかしすぎる……。

でも結局、天草四郎がそういう要素から離れた人物、そもそものリアルな彼がそうだったからこそ、あー欲求不満!!だったら自分以外の連中に、その欲求によって堕落させてやんべ!!てゆーことだったのかなあ。

そう考えるとめっちゃ凄い発想だけど、でもなんか腑に落ちる。だって本作の四郎は、魔術師みたいに手下を支持する役割にとどまっているんだもの。
もちろんジュリーだからその存在感は圧倒的だけれど、そしてその手によって翻弄されるのは、千葉ちゃんだの若山富三郎だの、丹波哲郎だの、緒形拳だの、重鎮ばかりなんだけれど、重鎮ばかりな故にと言いたいぐらい、彼らに活躍の場を与えるための存在というかさ。

なのに、天草四郎としての、演じるジュリーとしての圧倒的というか悪魔的なまでのオーラは恐ろしいほどで、結局四郎は指揮してるだけで、踊らされている人形たる役者さんたちがそうそうたるで、でもやっぱり四郎=ジュリーなのだなと!!

丹波氏演じる村正のことを言いもれてた。言いもればかり(爆)。村正というのは、海外からのジャパニーズカルチャー逆輸入で知ったような感じだが、ザ・娯楽、ザ・80年代、ザ・角川映画で語られており、そらまあ時代劇ファンとしては、何言ってんだということだろうとは思うのだが。
妖刀、というワードが成立すること自体がいいじゃないの。人里離れた奥地でひっそりと刀鍛冶をしている村正、邪道の刀とさげすまれる村正だけが、だからこそあやかしのものを斬って捨てることができる。

十兵衛から依頼されたこの一刀に命をささげた村正。その命をもって武蔵を倒した十兵衛。80年代キラキラのスター映画だけれど、この中には確かに、映画黄金期を生き抜いた伝説の生き仏たちがいて、この時間の中でリアルに躍動しているのだ。
もちろん、今現在の重鎮になっているジュリーや真田氏のお若い美しい時を見ることができるのはたまらない喜びだが、80年代という、もうばっりばりの娯楽世代、新旧の人気者を、財力のある映画会社がまとめ上げられた奇跡の一瞬。

映画はその一本だけで語るべきという気持ちはあるけれど、やっぱり、自分が子供の頃だったりして、かすったりして、そして、当たり前に映画が文化じゃないっていう自分の中でのスタートが、現在まで続いているところを何か、切実に感じるからこそ、いろいろ思っちゃうなあと。映画に限らずだけど、カルチャーは時代の、生きてる時代の鏡なんだなあと。★★★★☆


麻希のいる世界
2022年 89分 日本 カラー
監督: 塩田明彦 脚本:塩田明彦
撮影:中瀬慧 音楽:鈴木俊介
出演:新谷ゆづみ 日高麻鈴 窪塚愛流 鎌田らい樹 八木優希 大橋律 松浦祐也 青山倫子 井浦新

2022/2/7/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
即座に想い出される「さよならくちびる」が、ちょっと私は苦手だったので、ついついその苦手意識を引きずって観てしまったかもしれない。

いやそれよりもまず、難病を抱えた女の子、という設定でまず、構えてしまった。いまだにこの設定来るんですかと思っちゃう。男の子の場合もなくはないけど、圧倒的に女の子、余命何か月とか。
彼女、由希の場合はその病気となんとか付き合いながらここまで生き延びてきて、主治医の先生からもあと半年この数値が保てれば大丈夫という言葉も得ている。

しかし……後に彼女が同じ病気を抱えていた友達に会いに行くシーン、何の病気かは明確にされないものの、その友達が恐らくボランティアで同じ病気の子供たちを相手に音楽を教えている、その子供たちが一様にニット帽をかぶってることでなぁんとなく推測出来ちゃうし、もうそれは、映画の中で散々使い倒されたお約束の難病なんである。
そして、あの子も死んだ、あの子も死んだ、と世間話のように同じ病気を闘っていた友達たちの話をするのが、なんつーか……。別にこの難病をお涙頂戴に使っている訳ではないんだけれど、なんかすっごい前時代的な感じがどうしてもしちゃうんだよね。これからどんどん、余命いくばくもない難病が解決されていくであろう時代に、その病気にいまだにその枷を負わせて、刹那の女子高生を仕立て上げるのかと思うと、なんかもやもやとしてしまう。

しかも由希は劇中、実に3回も倒れる。3回だったと思うな。なんか数えちゃったから(爆)。身体の弱い女の子が頑張って頑張って、ことあるごとにばったりと倒れちゃう、そしてカットが変わると保健室。うわーこんなんまだやるのと思っちゃう。
倒れないよ、そうそう女の子は(爆爆)。それこそ半世紀前の少女漫画で女の子はよく倒れて、お姫様抱っこされて保健室とか、まあそれに憧れないでもなかったが(爆)そんな倒れないよ。しかも3回て(爆)。

どうも話が進まない。そんな由希が運命的に出会うのが、タイトルロールになっている麻希で、いかにもなファムファタル、演じる日麻鈴嬢の、石原真理子を思わせる(たとえが古いが、いかにもそんな感じ)奔放な、ザ・男好きのする女の子。失礼な言い方だが、それこそが麻希の魅力であり、由希を苦しめるのだ。
由希は麻希に一目ぼれだったに違いないし、運命の出会いをした海岸で彼女を押し倒すような場面もあるし、麻希の方もそれをくみ取って、私は男と寝るのが好きな女だよ、とけん制なのかむしろ挑発なのか判然としない台詞を吐くという印象的なシークエンスではあるのだが、それ以上に発展しない。発展しないというか……由希の性的嗜好はそれ以外に発展せず、よく判らないまま終わっちゃってる印象がある。

ひと昔、ふた昔前ならそれでもよかったかもしれない。10代の女の子が陥りがちな、女の子同士の疑似恋愛的感情。それは疑似であり、彼女たちは結局はヘテロである現実をあっさり選び取って大人になっていくのがほとんどなのだ。
それを少女漫画的ファンタジーとして楽しめたのは、古き良き時代であった。自分が何者であるかを、性自認という根本から生きていく権利をようやく得たこの時代に、こんなあいまいなソフトレズファンタジーは許されないと、私個人的にはかなり強めに思う。

はっきりと、麻希が好きだと、麻希が欲しい、抱きたいんだと言うんなら判る。ああそれこそ、それとは逆の意味で、吐きそうになりながら、好きでもない女の子と、好きな男の子から引き離すためにセックスした「ひらいて」の厳しさを思えば、あまりにコレはないなと思っちゃうのだ。

本作にはもう一つ、大きなファクターがある。音楽である。麻希はたぐいまれなる音楽の才能がある。由希はそれを、ほんの鼻歌のよう歌った彼女の歌声に魅せられて、絶対に世に出るべきだと、力になりたいと願う。それが空回りしまくるのだが……。
結局は麻希が歌ったのは一曲、この一曲で押して、麻希は才能がある、打って出るべき、と軽音部に道場破りよろしく乗り込んだり、集めたメンバーを怒らせたり、デモテープを何度も作り直したり……を、このたった一曲で押し通す。

それだけインパクトのある一曲、ということなのかもしれないが……確かに、エレキギターをかき鳴らしてねめつけるように吠えるように歌う、しかし妙に色っぽい麻希はインパクトがあるけれど、この一曲で押し通されると段々飽きてきちゃうというか、こういう感じの“才能”、良く見聞きするよなあ、というか。
それは「さよならくちびる」でまさに感じていたことであり。そりゃまあ、そんなあらゆる曲を投入したら、なんかライブ映画みたいになっちゃうのかもしれないが、それにしても、才能をあらわすのにたった一曲は。それに象徴させる、あるいは集中させるということなのか、でもそれは効果が出なかったと思うんだよなあ。

ああそして、まさかの記憶喪失である。まさかと思った。井浦新が神妙な顔で口ごもった時、まさか記憶喪失じゃないでしょうねと思ったらまさしくそうだった。うわー、まじで半世紀前の少女漫画!!

……すみません、すっ飛ばしまくりましたけれど。えーとね、由希にしつこく言い寄ってる男子、祐介がいるのよ。どうやら幼なじみ、そして複雑なことに、彼の父と彼女の母が再婚目前。由希は、自分の病気のせいで両親が不仲になったと思い込んで家出し、帰ってきた時に母のそばにいたのが父ではなく、祐介の父であった。
物語の序盤、怒ったように祐介は由希に、自分の両親が離婚したことを告げ、どうすんだよ、と迫った。この時にはもちろんなんのことやらだったのだが、そういうこと。

そして祐介の父は由希の主治医なんである。演じる井新氏が、なんかもったいない熱演(爆)。だって、ヒドいんだもの、展開が。またしてもすっとばしてオチバレしちゃうけど、祐介が愛憎の果てに(凄い言い方だけど、これしか言いようがない。まあ、後述するけど)、麻希を感電死させようとアンプを改造、その結果、麻希が記憶喪失(これよ)とゆー、事件が起こる。
この時の、もうすぐ娘になる筈だった由希に対しての、やつあたり芝居は、そもそもそれ自体がムリあるし、井浦氏にこんな安い芝居させんなよ……と思っちゃう。ハラハラしちゃう。

麻希に会いたいとヒステリックに言い募る由希に、祐介のことは気にならないのか、という台詞、そらないわ。こんなひっどい台詞、よく彼に言わせるわ。
だって彼女には関係ないじゃん。親同士で勝手に恋愛して、その子供同士、息子が勝手に由希に恋して、なのに一方で色っぽい女子交えて部活内で自殺未遂まで引き起こした取り合いが展開、なのに祐介は、本当に好きなのはお前だとか言う。

本当に好きなのは、って、これこそ言っちゃいけない半世紀前、いや人類創成期から使われ続けている勝手な言い草。麻希と付き合い、軽音部内で泥沼を展開し、その事実を隠して由希に好きだ好きだと迫り、何で判ってくれないんだよと押し倒すまでする。
なのに、麻希と付き合ってて、どうやらそれなりの展開でいたらしい。由希が彼女の才能を埋もれされる訳にはいかないと、何度も麻希にすっぽかされ、裏切られながらも、なんとか祐介の助力を得るまでに至る。録音機材、アレンジ技術を持つ祐介の力を借りて、麻希の才能を世に知らしめようとしたのだけれど……。

先述のように、たった一曲で押すから、だんだん疑問符ばかりが浮かんじゃうし、ヘッタクソな由希のベースを取り入れるべきだと麻希が言い出す段に至っては、もう頭を抱えちゃう。
麻希は由希の気持ちを判ってる。それは確実。でも、祐介とよりを戻そうとしている。由希にきちんと宣言している。世の中に打って出たいと思う気持ちは本当だったから、由希の申し出に乗った。
でも、由希のベースはあまりにも素人で、麻希の言う、今のデモでは出来すぎているから、由希のベースで行くべき、というのは、前半部分は判るけど、ベースは、まさにベースなんだから、ヘタクソじゃダメだろ、と思う。そして、この疑問に関する回収はされず、麻希は祐介に殺されかけてしまい、記憶喪失になってしまうんである。

なんですかねぇ……。難病という設定が必要だったのかも疑問だし。由希がこの事件でショックを受けて喋れなくなるんだけど、それだけでよかったんじゃないの。難病設定、いる?
由希の方はそんな具合にやたら緻密に(ムダに(爆))構築されるんだけど、麻希の方がさ、タイトルロールだし、ファムファタルだし、やたら意味ありげな芝居や言動をさせるんだけど、バックボーンがあっさりだよね。
確かにあっさりのバックボーンはかなりの衝撃ではある。父親が性犯罪者。彼女たちと同じ年代の子たちをレイプしまくったんだという。麻希自身に当然罪はないものの、地方コミュニティからハブんちょにされるのはそりゃあ、想像に難くない。

でも、言ってしまえば、語られるのはこれだけ。これだけっつたらランボーだが。これだけで充分だが。でも、母親のキャラや身内の環境や周囲の状況によって千差万別である筈で、それが一切語られず、登場もせず、父親が性犯罪者だから、もう堕落するしかないんす、街の男たちに身体ゆだねてるっす、みたいな。
ベタだし、テキトーだし、麻希のファムファタルなインパクトに頼りっきりで彼女が何を考えているのか、アイデンティティも何もかもまるで見えないまま、私のことは判らないでしょ、と言い放った先で都合よく記憶喪失になり(ホント、記憶喪失て……それを作劇に使う度胸が凄いわ)、すっかり記憶をなくした先でも、男好きのキャラが変わんないことを残しているっつーのは、どうなのかなー。

私はね、勝手にね、麻希は、この状況、こんな親の元に産まれて、だったら自分はこういうキャラじゃなきゃいけないんじゃないかみたいな、そういう苦しみに縛られていて、記憶喪失になったんなら、まあそもそも記憶喪失ってと思ったけど、なったんなら、本当にまるきり、むきたてのゆでたまごみたいにつるんとした、まっさらな女の子になってたらなと思った。
そらまあ、私の勝手な願望なんだけど、そうじゃなければ、記憶喪失なんつー、口に出すのもハズかしい設定を持ち出す重さを裏切る気がして。

由希の方は、この事態のショックで声を失っている。その状態で麻希に会いに行く。友達だよね、と麻希から言われ、もうそれだけで天にも昇る気持ち。
麻希の歌ったあの、たった一曲を渡し、連絡先も交換し、じゃあまたね、と言った。でも、再会するだろうか。だって、麻希は、違う名前を言ったのだ。もう彼女は、麻希という名前だったことさえ、知らないのだ。由希は、涙をたっぷりたたえた瞳で、見送る。

一番、解せなかったのはやはり、性自認のあいまいさ。ほとんど由希=新谷ゆづみ嬢の迫力だけで押し切られちゃって、だからこそ余計に、そうじゃないんだよなあ……と思い続けてしまう。
ティーンエイジャー時代の女の子同士のラブだけならば、この感じで素敵に行けたのかもと思うが、祐介、両親、なんかよく判らんやさぐれ男たちとのセックス(売春?これも明確にされないから……ここは赤裸々にしてほしかった気がする)、結局彼女たちが何に苦しんでいるのか、核が絞られなくて、ワイドショーを見せられているみたいなあいまいさで終わってしまった気がするんだよなあ。★☆☆☆☆


窓辺にて
2022年 143分 日本 カラー
監督:今泉力哉脚本:今泉力哉
撮影:四宮秀俊 音楽:池永正二
出演:稲垣吾郎 中村ゆり 玉城ティナ 若葉竜也 志田未来 倉悠貴 穂志もえか 佐々木詩音 斉藤陽一郎 松金よね子

2022/11/13/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
結構長尺で、幾組もの登場人物が二人きりになった時の会話シーンがかなりの長回しでしっかり撮り切る、静かに、急がず、見つめ続ける感じで。
なのでちょっと中盤、留亜の伯父さんのカワナベ氏を訪ねてのシーン、山奥で、緑深くて、風が木々をざわめかす音や、鳥が鳴いている声に満たされる場面などは、ついつい心地よく眠くなってしまった……ごめんなさい!!

でも、今までにない形じゃないだろうか。確かに今泉作品、監督さん自身が脚本を手掛けている時は特に、その緻密で繊細な会話にきらきらと魅力が発揮されてきたけれど、時に追いつけないほどにぽんぽんと会話がキャッチボールされる時はあったけれど、これだけじっくりと、その言葉の芯の部分を確かめるように、しかも幾組もの二人きり(時には三人)を見つめ続ける構成はなかったんじゃないだろうか。
こういう、どっしりと、思い切った構成で作りたかったのかな、その時機到来ということだったのかしらん。

そこに迎えるのが稲垣吾郎氏とは!なんというワクワク。そして、キラキラのアイドルだった彼なのに、なんとナチュラルにしっくりくることだろう!!
彼が演じる役どころはフリーのライター、市川茂巳。まず印象的にキャッチボールされるのは、親子ほど年の違う若き才能あふれる高校生作家、久保留亜。演じるは玉城ティナ。
彼らを取り巻く夫婦や恋人や家族や、そういったごくごく近しい人たちが重なり合って、二人、もしくは三人の繊細で緻密な長尺の会話シーンが連なる構成となっているのだけれど、その中でも茂巳と留亜の二人のシークエンスに、まるでここが基本だというように、帰ってくる。

後から思えばそれが絶妙だったのだと気づく。茂巳と留亜は年も違うし、性別も違う。恋愛や結婚に対する考え方、人生のキャリアもまるで違う。
違うからこそ二人は、自分の抱える悩みに対する答えを相手が持っているんじゃないかと思う。茂巳が留亜に対してそう思うっていうのはおかしいようにも思うけれど、だからこそ留亜は茂巳を信頼したんだと思う。
実際、茂巳の年頃、つまり私の年頃(爆)の大人は、思ったより大人になっていないってことに焦りを感じてる。もう半世紀も生きたのに、思ったより大人になっていない。なのに情熱は失っていく……そんな、失いたくないところだけが年を取っていることへの焦り。

留亜が著名な文学賞をとった、その記者会見の場で二人は出会った。若くナマイキな(と凡百の大人たちには見えてしまう)留亜に対して、茂巳だけが正直で誠実な質問を投げかけた。
それ以来留亜はことあるごとに茂巳を呼び出して、私の小説の主人公のモデルに会いたいですか?なんて言って、恋人や伯父さんに会わせる。

彼女のバックボーンはそれなりの闇はあるけれど、恋人や伯父さんは彼女のことを愛しているし、彼女自身はそれを飲み込んであっけらかんと生きてはいる。
でも愛、というか、単純に好きという感情についてはまだ扱いかねてる。金髪の恋人は軽薄そうだけれど、実はそうじゃないということがラストシークエンスによって明かされ、オジサンである茂巳はそんなワカイモンにすっかり振り回されるんだけれど、でも本質的に、彼自身も悩んでいることは同じなのだ。

茂巳の妻、紗衣は編集者。後に語られるのだけれど、もともと茂巳は小説を書いていて、それで出会った、ということなのだろう。
茂巳はたった一冊、でも、知る人ぞ知る伝説的な小説を書いたっきり、その後はフリーライターになった。その小説は半自伝的で、野良猫と共に突然いなくなった恋人のことを描いていた。

紗衣は売れっ子小説家、荒川円と不倫している。そのことを茂巳は知っている、ってことが、後半のシークエンスによって明らかになる。
ちょっと先走り気味に言っちゃうけど、荒川は茂巳に相対して言うのだった。紗衣さんはあなたに書いてほしかったのだと。前の恋人のことを書いた小説で時間が止まっている。自分との時間を書いて欲しかったんだと。
そして荒川は自分の手で書いて悟ったのだという。なぜ茂巳さんが書かなかったのか判りました。書いてしまった僕は、彼女を過去にしてしまったのだと。

結果的に、本当に茂巳と紗衣は別れてしまったのか、別れてしまったとして、紗衣と荒川はどうなったのか、それも判然としない。
何より問題は、茂巳が紗衣と荒川のことを知っても、ショックを受けなかったということで、その問題をこうした、身近な人々に投げていくことによって、その身近な人々の、似たような隠された事実が浮き彫りになり、彼らもまたそのことに直面せざるを得なくなる。まさに投げた石が水面に波紋を広げるように。

茂巳が妻の浮気にショックを受けなかったこと、そのこと自体にショックだったということ、茂巳の友人であるアスリート(サッカー選手かなと思われる)、有坂正嗣(若葉竜也)とその妻、ゆきの(志田未来)に相談すると、2人とも理解不能ではあるのだが、特にゆきのが激高し、信じられない、もう帰ってください、と追い返すんである。
つまり……夫の正嗣が浮気していることを彼女もまた知っている状態で、彼女は絶対許せる訳なくて、だから茂巳のことが理解できない上に許せなくて、という図式。

正嗣の浮気相手はタレントのなつ。彼女の方が事態を把握して身を引こうとしているのに、「奥さんが浮気していたら?だったらなつと一緒になれるじゃん」とかデリカシーのないことを、愛情表現だと思って簡単に言っちゃうコイツこそが茂巳よりずっと、男として大問題なのだ。
でも浮気相手にどんな言動をしているかなんて、当人同士にしか判らない。茂巳の、いわば冷血人間的な感じ方を、正嗣も妻のゆきのも、留亜の恋人の金髪君もそろって糾弾するけれど、そのことに茂巳自身が苦悩しているのと、正嗣の、奥さんと愛人を両天秤にかけているのに彼自身の悩みは仕事上の進退問題にあり、女たちには平等に愛を注いでいるとでも思っているらしいことと、どちらがどうなのと思ったら、さあ!

確かに茂巳は正直すぎるのだろう。留亜も、妻の紗衣も、そう言っているのだから、そうなのだろう。
留亜には恋人がいて、茂巳の妻の紗衣は売れっ子作家の荒川と、茂巳の友人の正嗣はタレントのなつと関係を持っている。正嗣の妻のゆきのは、夫の浮気を知っても彼のことが好きだから、と苦悩している。

茂巳だけが……悩みの種類が違う。なぜ妻の浮気にショックを受けないのか。ショックを受けないことにこそショックを受けている自分はなんなのか……。
監督さん自身は茂巳の妻や友人世代であり、たった10歳とは言えど……やっぱり違うのかな、と思うが、ならばこそ、ワレラ半世紀組の、大人になってない焦りがあるのに、情熱だけは失っている焦りを、なぜ判ってくれちゃうのかと……。

だって、茂巳の感覚、違和感ないなと思っちゃう。ショックを受けないなんておかしい、っていう周囲の糾弾も判るけど、ショック、受けないかも、と思っちゃう。
まぁ私は結婚も何もしてないからアレだけど(爆)。確かに好きで結婚した。でも好きで結婚、というフレーズも、そんな恋愛小説のような純粋さなのか、確かにそれを憧れもしたけれど……。
私が茂巳=稲垣氏の年齢近辺にシンクロしちゃうせいなのかなあ、茂巳が、自分は冷たい人間なんじゃないか、と苦悩するのも判るけどでも一方、そんなもんじゃない、10違うと違うよね、まだ信じられるものがあるんだ、とか思っちゃう自分に愕然としてしまうのだ。

でも、でもまだ間に合う。だからこそ、留亜の存在があるのだと思う。留亜は、それでなくても普通の(普通の定義は難しいけれど)女の子じゃない。両親はもはやいない。なかなかに複雑な理由で、失っている。
でも彼女はそんな陰の雰囲気をまとってないんだよね。ありがちな、そういう作劇じゃないのがいいと思う。彼女自身の中で、それなりに悩み、昇華していることはあるんだろうけれど、それは今の彼女を作り上げた要素の一つに過ぎない。

留亜が恋人にフラれて、茂巳をラブホテルに呼び出すシーンが大好きである。そもそもその前に、茂巳は初パチンコで「笑っちゃうぐらい」出ている。茂巳はそういう、外側に触れてきていなかった、のだろう。外側……?上手く言えないけど、なんていうか……。

本作に出てくる登場人物たちは、ほとんどが閉じられた場所でもがいている。例外は、留亜の伯父で山奥で隠遁生活をしているカワナベと、忙しい妻の代わりに茂巳が訪ねている妻の母ぐらいのもんだろうと思う。
いや……この二人も、閉じられているか。でもこの二人は、閉じられた中で、もう自分は解放されている、と思う。茂巳が、妻の母の写真を、甘いものをおいしそうにほおばる写真を撮っているのが印象的である。

妻の紗衣は忙しくて、あるいは荒川との情事に忙しくてなのか、実家とは疎遠なのに、義理の息子である茂巳が足しげく通っている。それはさ、それは……妻を愛しているっていうことじゃないの?でも結末は、やっぱり、離婚なの??
家族を、欲していたのかなあ。そんな風に考えるのはあまりにもベタかなあ。でも、茂巳が妻のお母さんを妻以上に大事にしていた理由が、あまりにも自然な感じだったから、なんか、そんな風に思えてしまってさあ。

先述で判ると言っちゃったけど、ホントに茂巳の気持ちが同じ年代だから判る、と、百パーセント思う訳じゃない。ホントにそうなったら激怒するのかもしれない。
ただ、思えば、茂巳だけが、彼と、いわば血のつながった係累がいない存在だったんだなあと思って。狂言回しとは違うけど、なんていうのかな……血に縛られた立場じゃない、しかも50の、もうあんまり気にしてない、と、周囲から想われてる、と、自分が思っている、みたいな、ああ、ややこしい!

でもホント、この妻のお母さんの存在はかなり気になった。血がつながってなくても家族、でも離婚しちゃったら……。
そもそも私自身が日本の実子至上主義にめっちゃ反発しているから。そして、茂巳と紗衣の夫婦は、絶妙な年頃のカップルで、子供がいないのは、結婚したタイミングのお互いの年齢というのも感じられるけれどそれに言及する訳でもなく、友人の正嗣のところには可愛い娘ちゃんがいるし、なのに正嗣は浮気相手のなつに、そんなん捨てることも出来るとか口滑らしてるし。

私たち、只今半世紀組は、自分たちの親世代が当たり前のようにそれなりに幸せな家庭を築き、子供を育てていた、その恩恵が自分たちなのに、それを自分たちが出来ない、出来てない、わがままだと言われているプレッシャーに押しつぶされている。

その10年後の世代が茂巳の奥さんや友人世代で、さらに宇宙人かと思うような10代がいて、でも、不思議に、悩みは共有できる。誰かを好きだと思い、一緒にいたいという感情。
それを何よりこじらせているのが私らザ・アラフィフなのかと。それを面白いと思ってもらって本作が出来たのかなあと思ったり。そう思っちゃうぐらい、ゴローちゃんはとってもとっても、チャーミングだったから。★★★☆☆


真夜中乙女戦争
2022年 113分 日本 カラー
監督:二宮健 脚本:二宮健
撮影: 堤祐介 音楽:堤祐介
出演: 永瀬廉 池田エライザ 篠原悠伸 安藤彰則 山口まゆ 佐野晶哉 成河 渡辺真起子 柄本佑

2022/3/5/土 劇場(角川シネマ有楽町)
主人公である”私”の言葉が、彼を魅了し翻弄する“黒服”の言葉が、そして彼を中心に渦のように膨れ上がる若者たちの言葉が、意味深長であるようで一向に頭にしみわたってこないのは、なんだか眠くさえなってしまう感覚があるのは、そういうことかと思った。
確かにそこには意味などなかったのかもしれない。意味を見出したくて、意味深に見せたくて、何にもできない自分を認めたくなくて、本当は自分に怒っているのに、作り上げられたすべてのものに怒っているフリをして、必死にアイデンティティを作り出そうとする。

そんな物語?いやでも、正直なところはもどかしいほどに、判らなかった。私があの頃の気分から遠く離れて、何かを壊したいと思うほどに空っぽな自分に向き合おうと必死になるほどのエネルギーを失ってしまったからなのだろうか。
主人公に名前が付けられていないことには、観ている時には気づかなかった。こういうパターン、かなりつい最近あったけれど、なんていう作品だっけ……(すぐ忘れる(爆))。劇中では確かに名前を呼ばれているような気がしていたのに、ちっとも思い出せないこの焦燥感。

彼が受ける講義、大講義室で大きな黒板にチョークでつらつらと書きだす、おしゃべりをする女子学生が注意される、チャイムが鳴ると途端に学生たちは腰を上げる、質問をする学生など誰もいない……今でもこんな、典型的な、日本的無機質で知識欲のわかない講義が行われているのだろうか?
確かにいまだに、いわゆる有名大学をとりあえず目指す、という風潮からは抜け出せていなくて、学校ごとの個性や学びたいという意欲で受験するという、普通に考えればこれがまっとうな価値観からはいまだ日本は遠く離れている。そこが、世界の大学ランクに全然入れてない原因だと思われるのだが……まあそんなことをここで議論しても仕方がないので。
でもそんな問題が根底にあるような気がする。彼の苛立ち、破壊への憧憬が判る判ると思っちゃうのは、そんな問題を私の時代からちっとも解決できずにここまで来ているからなのだ。

彼は講義をしていたいかにも厳格そうな女性講師に、奨学金で来ている自分がこの講義に払っている金額を考えていた、ネットフリックス三か月分の価値があるのかどうか、などと、まるで目の前に細かい活字が見えるようにまくしたてる。
この調子で彼は常に、言葉、いや、印象で言えばやはり活字だ……で武装する。武装、という表現がふと浮かんで、まさにと思った。ハリネズミみたいだ。本当は弱く保護してほしいのに、ハリで武装して誰も近づけない、仲良くなれない、理解しあう以前の問題に自ら閉じこもる。
彼がそのことに気づいていたのかが、気になる。こんなに極端じゃなくても、確かにあの頃の私もそんなところがあったのかもしれないと、ぼんやりと思い出す。これは……誰にでもあるハリネズミさんを、ダークファンタジーの表現を借りて、見事に昇華させたと思い至れば、実に腑に落ちる。

だって本当に思ってたって、こんなこと、言えないもの。あるいは果たして彼は、本当に言えていたのか、そのことによって学内の有名人になって、秘密系サークルに入って、謎めいた美人先輩、これは本当に謎の黒服の男との出会い、そんなことが本当に起こっていたのか。
本作は人気原作が元になっているというけれど、本作の最後に、これはパラレルワールドでしたよと言いたげに、まさに今、マスクで顔の大半を隠されているキャンパスライフが映し出される。

今現在、新作映画のほとんどが、撮影された時期はもう当然コロナ禍に入っているから、どちらかの選択を迫られていた。もともとのコンセプト通りに、コロナの存在しない世界として描くのか、でも今の、現代の作品を作るのだからと、それは気概なのか、仕方なしなのか、とりあえずなのか、そんな作り手側の動揺や困惑や、さまざまなとらえ方を、この2年あまり、見続けてきたことにラストシークエンスに至って気づいたんである。
不思議と、気づいていなかった。いまだに大講堂で黒板に書くスタイル、ノートをとるなんてことしてるんだ、と思いながら観ていたけれど、これは古き良き、あるいは古き悪きキャンパスライフのスタイルを提示していたのかもしれない。

彼が出会う、彼がモノローグで呼ぶ名前は黒服という男は、この大学の卒業生らしい。まことしやかな噂が飛び交っていて、大学にウラミがあって、爆発事件を仕掛けているのだと。
実際、彼は黒服が灰皿にオイルを注いでいるのを目撃する。通行人が吸殻を落としたとたんに爆発する。騒然とする中、彼は黒服を追いかけた。捕まえるためじゃない。追手を転倒させ、彼を逃がしてやるために、まるで恋する相手を追いかけるように、全速力だった。

いや、当然、それは、黒服が彼を招き入れたに違いないのだ。黒服を演じる柄本佑氏の圧倒的ないかがわしい色っぽさよ!!正直彼一人で本作を引っ張ってたと言ったって、決して過言ではなかろう。
“私”を演じる永瀬君はとっても頑張っているし、素晴らしいのだが、いや、彼だって絶対判ってやってるだろう。この圧倒的な先輩にすべてをゆだねて、その懐に飛び込んで演じればいいんだということを。

だからこそ本作は成立し、成功していると思うし、今一番のキラッキラスターを懐に封じ込めちゃう佑氏の恐るべきさよ!
もちろんこれから年齢を重ねていろんな顔を見せてくれるだろうけれど、この時期の、男女ともに惹きつけてしまう危険な色気と周囲を従わせるほどの傲慢なまでのオーラは、本当にこの時!と思う。ある時期の三國連太郎氏を思い出したりしちゃうなあ。

そういう意味では、主人公でありながら、キラッキラスター、ジャニーズアイドルでありながら、永瀬君はしっかりと、狂言回し的立ち位置の主人公という立場を飲み込んで、あらゆる懐に入りまくっているからこそ、このダークファンタジーが、ふと甘酸っぱい青春映画かも、と思わせる純度を保っていられるんだと思う。
奨学金という借金を背負い、趣味も特技も何もなく、大学の講義もつまらなく、バイトもクビになった彼は、いつの時代も問題にされる、日本の悪しき学校の在り方、受験戦争の犠牲になった人物である。でも彼自身も、彼の親も、それに気づいていないし、むしろ彼は、自分は最前線で闘っている、外のヤツらこそがクソだと思ってる。

先述のように、彼のこの感覚はメッチャ判るだけに、そしてこの感覚がただむなしいことを、四半世紀経った私ら大人は知っているので、いまだにこんな思いを若い人たちにさせているんかい!という、変わり映えのしない政治を続けている輩にぶつけたくなる。
ああそうだ。彼に託される、あらゆる時代の若者たちが、明確にその不安や焦燥を示すことができないあれこれ、心の中でめっちゃ無差別殺人したり、めっちゃ放火魔になってみたり、そして自分自身を死刑台に送り込んでみたり……。誰もがする儀式だけれど、誰もがするよねー、若い時はねーと先送りしてばかりだったということなのか、と思い至る。

彼らのそうした怒りを、どこかに向けるべきだったのだと、当時の私の怒りも、どこかに向けるべきだったのだと。それがあまりにも判りにくい、いや、向けないようにあいまいにするのがこの日本という国だった。
でもこんな風に、のらりくらりと若者の鬱屈をかわし続けていたら、いつかこんな風に、よく判らない意味深長っぽい言葉で武装し、それに共感して集まってきた勢力によって、いつかこんな風に、彼ら正義を標榜したテロ戦士によって、壊滅させられるのかもしれないのだ……。

今、現実に起こっている様々な事件を見ると、それが決して絵空事ではなく起こりうるからこそ、本当にゾッとする。ただ、それに至るまでには、何か、何か本当に、青春を謳歌したような楽しさなのだ。友達も趣味も何もない、空洞のような男の子だった彼が、黒服と出会い、東京を破壊したいと打ち明けてからの、まさかそれが本当に成されるとは思わなかった、その間の日々は、まさに青春だった。
黒服は男の子が憧れてやまない、秘密基地、広々としたフロアを所有していて、古今東西のお気に入りの映画のディスクに無造作にマジックでタイトルを書いて、バラバラッと彼に見せたものだった。

映画こそがすべて。どストレートな映画ファンの佑氏そのものを反映したような設定。だからこそ、怖かった。どんどん類友が集まってくる。それは同じく映画を愛好する者もいただろうけれど、居場所がない、社会の理不尽の犠牲者である者たちが圧倒的だった。
そんな彼らが、映画に救われているという図式はとても素晴らしいんだけれど、でもそんな彼らが、黒服の思想に染まって、自分たちを苦しめたヤツら、そして最終的には街そのものを破壊するという思想に至ることを、どう咀嚼していいか、判らなかった。

もちろんこれは、フィクション、ファンタジー。そんな真剣に考えんなよ、ってこと。でもさ、自分にも覚えがあるじゃん。心の中で、誰かをぶっ殺し、どこかの街を爆破したじゃん。でもそれは心の中だったんだよー!と叫ぶけれど、もし、もしそれがうっかり実現してしまったらどうなるの、その恐怖だったのかって。

彼は奨学金を得ていたりするし、あまり恵まれない経済環境なのかなという程度にしか描かれない。そこんところはなかなか難しい。なんかね……一人の人物のアイデンティティとして、ネラッて弱くしているんじゃないかという気もする。
連絡するのは声だけの“オカン”。地元は大阪、大学に高校の同級生が一人いるけれど、仲良くなることはない。淡い想いを寄せる先輩とも、なんか妙に近未来というか……秘密結社的なサークルの集団面接の面接官、彼女は彼を君、と呼び、なんかこう、少女漫画的年上の女の子とのツンデレ恋愛を思わせる。

彼が撒いてしまったタネによって、浅はかなテロリズムが充満し、一触即発の事態になったあたりで、彼と先輩は一夜を共にする。先輩は、彼が首謀者、いや違うな、言い出しっぺという責任を負わされ、利用されただけの弱き同士だということを判っていたし、彼だって……。
いや、彼は、判っていただろうか。自分が青い焦燥をぶちまけただけのことが、まさか、そう、ゴジラを倒したいというぐらいの非現実的な幼稚な理想が、本当にそれをネラっている誰かに利用されるだなんてこと、判っていただろうか。

彼は憧れの先輩との一夜を共にするが、セックスさえもしていないと思われる。アイドル君主演だからというんじゃなく、本当にそうじゃなかったんじゃないかと思われる。
本当に黒服は何者だったんだろう。すべてがお見通し。先輩のプライベート事情を言い当てて驚かせたりした。でも、上手い具合にけむに巻いて、そのからくりを明かさなかった。

先述したように、これはパラレルワールド的なファンタジーであり、ことに黒服は肉体的存在感を思わせない、ザ・フィクションのキャラ造形なのだろうと思う。でもさ、でもでも……彼は黒服を仕留める前に、キスをするでしょ。キスだけだったけど、それまでの過程を思えば、なんかいろいろ、考えちゃうのは否めなかった。
そして黒服は、自身が彼によって殺されることもきちんと予想して、よくやったとほめたたえたビデオで、これから東京が、お前の希望通りに破壊されるよと告げた。お前を見込んだ、育てたんだと。

誰もの中にある、実現できない、しちゃいけない破壊願望を、誰かに転嫁することで、正当化する。政治や国際情勢の中で、めっちゃある図式だと思い至ってしまう。
燃え上がる東京の街並み。東京タワーだけが生き残っている。これは希望なのか、勝手に託された希望に迷惑しているのか。★★★☆☆


MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない
2022年 82分 日本 カラー
監督:竹林亮 脚本:夏生さえり 竹林亮
撮影:幸前達之 音楽:大木嵩雄
出演:円井わん マキタスポーツ 長村航希 三河悠冴 八木光太郎 高野春樹 島田桃依 池田良 しゅはまはるみ

2022/10/31/月 劇場(TOHOシネマズ日本橋)
思いがけず、最後はめちゃくちゃ胸アツ、じーんとしまくってしまった。鑑賞前から「14歳の栞」の監督さんであることをラジオで知ってしまい(まぁあまり、事前情報を入れたくないタイプなもんで……)、えぇー!と。
「14歳の栞」がデビュー作であるということも、観た時にはへぇーと思ったかもしれんが(覚えてないあたり……)フェイクドキュメンタリーなのか、マジにドキュメンタリーなのか、いわゆる劇場映画の形とは一味も二味も違ったかの作品でデビューで、二作目が、タイムループもの??想像つかない!!

しかもマキタスポーツ氏を主演とはいわないものの、もう一人の主人公とでも言いたいメインに据えるというのも想像つかない!ここまでメイン張ってるマキタ氏は実際観たことなかったしなあ。
しかも、ある会社、しかもその一室の中でのみ一週間が延々繰り返されるタイムループだなんて、本当に奇想天外、なぜあの「14歳の栞」から本作に至るのか、変化球にもほどがあるって!!

まるで舞台が原作みたいな、舞台の映像化かという感じもしたが、違うんだよね。もちろん映像でしかできない、一週間で重なる部分は重なり、気づいた人間たちが少しずつ根回しを重ねることによって、同じ一週間が少しずつ変わっていくという、二重写しのような不思議な世界観を、素晴らしいスピード感と見事なタッチでめくるめく編集を駆使して見せてくれるのには感服しきりで、編集が本作の魅力の一番に上げられるんじゃないかと思っちゃうぐらい。

こういうのが、オリジナリティというものなのだと思う。マキタ氏は、同じ一週間の繰り返しだから台詞も同じで楽かと思ったけれど、その同じ芝居を何度もしなければいけない苦労を語っていたが、そうか、そうだよね、この事態に気づく社員たちが増えていき、つまり同じ一週間と見えて少しずつ違うんだから、使いまわしは出来ないんだ。
そのたびにマキタ氏だけが同じ芝居を、違う状況の中でそっくり繰り返し、社員たちは何の台詞が来るか判っているから、この判らず屋の上司に対してついに説得に成功する時に、そのワザ、彼にとっての未来に起こることを知っている、彼が言う台詞を知っているというワザを使える、そのための、何度も同じ芝居、なのだ!!

判らず屋の上司などと言ってしまったけれど、この状況をなかなか納得してくれない、という意味合いであって、とてもとても素敵な上司。でもそのことが判るのは、ずっとずっと後、なのだ。

ここは小さな広告代理店。ザ・下請けな雰囲気マンマンの、雑居ビルのワンフロアに数人の社員という所帯。ヒロインの吉川(円井わん)は、うだつのあがらない、しかもブラックな勤務状況マンマンのここから抜け出してのステップアップを目指していた。
実際、ヘッドハンティングを匂わされもしていた。このあたりが、アヤしいところなんである。誘われている大手事務所の顔である女性クリエイター、木本は、吉川の憧れの存在。でも吉川に声をかけて、というか、匂わせて、この仕事が上手く行ったらというエサをぶら下げてムチャぶりしまくるその事務所の担当、電話の声だけでチャラさが判る崎野ってヤツが言ってるだけっていうか。
後々、呼び出しを受けて吉川がこの事務所に向かうと、木本は新しく入る子なの?ふーん、ぐらいで、崎野は木本に全く信頼されておらず、それどころか事務所の雰囲気が殺伐しているというか、木本のワンマンの下で、分業している、みたいな雰囲気なのだ。

おっと、かなりなオチを先に言ってしまった。本作はもちろん、何度も繰り返される一週間のタイムループを、徐々にそのことに気づく仲間を増やすという、繰り返しで飽きるんじゃないかという予測をスリリングに見せ切るところに当然あるんだけれど、でも実は、最終的に、というのがあるから、ついつい言っちゃったんだよね。
マキタスポーツ氏演じる、上司というか、この小さな事務所のトップだよね、一見してのんきに出社して、泊まり込み徹夜続きの社員たちを若いねぇ、と言うにとどまり、軽く飲みに行く人!いない?……じゃあ、軽く飲んで帰ります、お疲れ!!みたいな描写は、決定権しか持ってない無能な上司にしか見えなかったのだ。

なのに、違った。実際、そう見えてはいても、社員たちが彼、永久を疎んじている感じは確かになかった。
後々の描写で判るけれども、今は決定権を担う代表としているけれども、吉川が憧れる木本と旧知の仲であるということは、バリバリクリエイターとして仕事をしていたことがあることがうかがわれ、タイムループの原因として見つけ出される、漫画家への夢があったのだ。

正直、漫画原稿が引っ張り出された時には、あまりの唐突感に、えっ……というぐらいの戸惑いがあった。
それまではまずタイムループに気づくこと。同じように繰り返される日常という錯覚や、泊まり込みが続くほどに忙しすぎる状態にただでさえ夢うつつになっているから、何度引き戻されても気づかないという異常事態、なのだ。

吉川にそれを訴えたのは、遠藤、村田の若手コンビだった。窓にぶち当たる鳩から始まる月曜日、とにかく鳩を覚えていてください、というところから始まった。
この訴え自体、疲れ切っている吉川は、それでなくても荒唐無稽なことを言いだす彼らを何回かあしらっているのだから、ここですでに数週間がムダに失われているのだ。

そしてのちのち判ることなのだけれど、二人が初めて気づいたんじゃないのだ。ずっと気になっていた。彼ら、クリエイター社員ではない、泊まり込みでぐったりで、延々とクライアントのムチャぶりに対応している彼らではない、総務ということなんだよね??
ひっそりと事務所の片隅で勤務している聖子さんは、もっとずっと、ずっとずっと前から、このループに閉じ込められていることをいち早く気づいていて、でも誰に言っても判ってもらえない、聞いてもらえない、絶望の日々を、実に70週も!!(えっ……何年?計算するのも恐ろしい……)続けていたのだ!!

私自身が総務だから、営業に軽んじられている、というのは言い過ぎにしても、違うフィールド、私たち死ぬほど頑張ってる営業とは違うフィールド、とシャットアウトされている感じが判るというか。
総務は全く違う大変さがある、でもそれを、なかなか他部署の人には判ってもらえない、なんだかそれを、70週という凄まじさで示してくれた気もして……。

遠藤、村田が気づいて、まず吉川にと、根気よく何ループもかけて説得したのは、こんな小さな、一見してアットホームと見える職場でも、純然たる年功序列があり、いきなりトップに進言したって理解してもらえない、近い先輩後輩から徐々に徐々に、根回ししていかなければという、メチャクチャ遠い道のりなのだ。

それはまさにで、聖子さんがだからこそ、いち早く気づいていたのに、70週も前から苦しんでいたのに、誰に言っても信じてもらう以前に、聞く耳さえ持ってもらえなかった。
聖子さんは一人、違うんだよね。彼女以外すべて、永久部長ですら、他の従業員たちと同じ立場、営業職、クリエイター職として、取引先と相対している。聖子さんだけが、彼らとは違う職種で、つまりその大変さも理解されず、仲間意識というところからハズされている、というのが、めっちゃ判るからメッチャ辛くて。
でも、総務という、すべてを把握していなければいけない立場だからこそ、このタイムループから抜け出すカギを知っていた、という展開は、総務で頑張っている私としては、めちゃくちゃ胸アツ、ありがとう!!と言いたくなる。

永久部長がこのタイムループの原因だろうというのは、遠藤、村田コンビが推測していて、それは部長が身につけているブレスレットの呪いだろうと断定していた。アホかと思うが、もう何か見つけなきゃいけんというのはまぁ、そうだからさ。
結局それは的外れで、部長がひそかに夢見ていて、でも忙しさと現実に遮られたままの漫画家になる夢だということを、聖子さんが提示するんである。未完のままのこの原稿を完成させて、出版社に持ち込む、想い半ばで中断されていたことを達成すれば、きっとこのタイムループから抜け出せる!!

この未完の、ペン入れが途中のままの漫画原稿が登場してから、もう一気に風向きが変わるというか、ずっとずっと胸いっぱいになりながら見守るっていうかさ。
漫画原稿が登場する前に、地道に根回しを続け、ついに部長を説得する!という時点で、もう何回も、いや、何週も、何度も何度も月曜日を消費して、繰り返されるプレゼン、っていうのを巧みに描写して、ああやっと、部長、部下たちを信頼出来ているから、ということがあって、このタイムループを飲み込んでくれた。

しかし、呪いの貴石が原因ではなく、部長の漫画家への夢だということが70週耐え抜いた聖子さんによって明らかにされると、もうこっから、仕切り直しというか、こんな風にケント紙にインクにペン描きでマンガ描いてた昭和漫研世代は、胸アツどころじゃないのだ。
しかも断片的ではあるにしても、なんたって何回も一週間を繰り返すのだから、部長を説得するために、進んでは元に戻るペン入れを何週間も繰り返すのだから(うっわ、ゾッとする!!)、その内容はじわじわと、観客に染み入ってくる。

何度も繰り返されるから、その間に納入先との衝突やら、ネーミングアイディアを自分の手柄にしようとしていた吉川が後輩のアイディアだと認めたりとか、何度も繰り返されるプレゼン資料作成地獄の中で、資料作りを依頼する相手の選定、資料提出までの時間、あれこれを確実に成長させる。
当初吉川はそれを、木本事務所に転職するための成長過程として、このタイムループも耐え抜いていたのだけれど……。

部長が引き出しにしまいっぱなしにしていた、夢のかけら。社員たちによって、何度も描き直される、次第に上手くなる。そりゃそうだよね、みんな、当初は漫画を描く経験なんてなかったんだから。
でも、なんたって広告代理店のクリエイターなのだから、コツをつかむのも早い。でも、部長を説き伏せることが出来ないのが何度続いたのか……つまりそのたびに、それまで描き進めたのもチャラになり、元通りの未完成の原稿になっちゃう、ってことだよね??うわー………。
でもその過程があるからこそ、次第に洗練されていく漫画原稿。懐かしき昭和の漫画タッチであり、部長の、吉川の、すべての登場人物、そして見ている私たちが、ぐっと来ずにはいられない思いが、素朴な絵柄(と見えつつ、達者な技術があるあたりがニクいのだ!!)にあふれてる。

こんなつまんない人生、やり直せないのかと問う。狐がやり直しの人生を与えてくれる。何度も何度も繰り返す。まさに、繰り返す一週間の本作と呼応する。つまんなく見えているけれど、本当にそうなのか。
後半はね、この漫画原稿、繰り返し、ペン入れされたものが繰り返し、示されて、本当に本当に、胸に迫った。狐が、妖術世界の狐が、合理的に考えられない人間に、しょーがねーなとつぶやいた。

そうなの、人間はめっちゃ不器用で、狐様のように上手く立ち回れないのだ。何度も生まれ変わりをかなえてもらって、狐様から見れば、今、つまり、最後の最後の人生も大したことない。でも彼は、つまり部長が描いた主人公は、もういいです、と言った。
有名になる夢は叶えられなかった。でも……。自分がどの時点で、人生をしまうかと聞かれるかと思ったら、私、上手く答えられるだろうか。

マキタ氏のチャーミングさにやられてしまった。こんな上司の下で働きたい。このオヤジギャグにパーフェクトに対応したいなあ!★★★★★


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