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バカ塗りの娘
2023年 118分 日本 カラー
監督:鶴岡慧子 脚本:鶴岡慧子 小嶋健作
撮影:高橋航 音楽:中野弘基
出演:堀田真由 坂東龍汰 宮田俊哉 片岡礼子 酒向芳 松金よね子 篠井英介 鈴木正幸 ジョナゴールド 王林 木野花 坂本長利 小林薫
当時は中学生〜高校1年の若さだったから、津軽塗、というところまでたどりつけなかったことに今更ながら気づく。その存在は当然知っていたのに、ねぶたに圧倒されるところまでしかたどり着けなかった。
今なら津軽塗の神秘的なまでの美しさ、わびさびに、それこそ谷崎潤一郎の陰影礼賛に心惹かれた、せめてハイティーンの頃であったならば、気づいていたかもしれないのに。
タイトルがいいじゃないの。バカ塗りというのは、津軽塗のことを言うんだという、ってことさえ、知らなかった。50近い工程、バカ丁寧のバカ。劇中、関西方面から訪れている客が、それなら納得、バカが作っているという意味かと思った、というのが印象的かつ象徴的。
青森という地に潜む独特のアンビバレンツな意識は、文字通りの自嘲的な意味を含めつつ、なのに強烈に誇りに思っているという、ならではのアイデンティティを色濃く感じる。
原作は「ジャパン・ディグニティ」というってのも、ビックリポイント。全然イメージが違う。ざっとデータを覗き見るとストーリー自体は映画となった本作もそう遠くなく踏襲しているみたいだけれど、結構カラーを変えたのかしらん。
これはちょっと読んでみようと思う。原作のタイトルからの本作のタイトルの見事な変遷。とてもいいタイトルだと改めて思う。
主人公は美也子(堀田真由)。スーパーのパートをしながら、津軽塗職人の父親(小林薫)の仕事を手伝っている。
納入と集金に赴いた、あそこは旅館なのかなぁ、風情あるところ、そこに訪れていた関西からのご婦人に、こんな若い継ぎ手がいるじゃないの、と言われるが、いやこの子は職人の娘さんなんですよ、と。
その時の美也子の微妙な表情がすべてを物語っている。父親の仕事を手伝っている。それはほとんど、全工程においてなのだから、手伝っている、というよりも、共に仕事をしている、と言っていい筈。彼女だってそう思っている筈、いや……そう思っていいのか、と躊躇しているような……。
言いたかないけどいまだに残る、継ぐのは男の子の思想は、後半、お兄ちゃんのアイデンティティを絡めての大展開で大いに語られるが、それを待たずとも、いまだに、そして、こうした伝統文化の世界では余計に、根強いような気がする。
本作のキモである、廃校になった教室に残されたピアノを津軽塗で美しく蘇らせる、という美也子の大挑戦は、家業を継ぐことを許されない、というか、考えてももらえない、存在さえ見えていない、下働きとしか見られてない、という女子の立場の大反抗である。
一方で、そんな女子供が考えそうなカネにもならないバカなことだと、家父長感覚の、まさに家父長に、それみたことかと言わせるだけの材料を与えるだけかと、思われたのだ。
でも、なんていうのかな……ひと昔、いや、ふた昔前なら、そんな父親の威厳は作用したかもしれない。でも小林薫氏演じる本作の父親は、口では強く出るものの弱腰である。それは、彼の父親が国に認められるほどの名匠であることに苦しめられ続けたということが、子供たちに強く言えない要因である。
美也子のお兄ちゃんは、それこそおじいちゃんに期待をかけられていたけれど、継ぐことを拒否して美容師になった。おじいちゃんは今、老人施設にいて、訪ねていくのは美也子だけである。男ども、父親もお兄ちゃんも、怖気づいて訪ねていけない。
父親は、自身の父が偉大過ぎて、その父が倒れて仕事が出来なくなって、その後を継ぐプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、なんとかかんとか仕事をしている。
お兄ちゃんは、本当はおじいちゃんが大好きで、気にかけていて、というのが、後々大事にしまわれていた幼い頃の手紙で示されるのだけれど、だからこそ、継がない自分が、おじいちゃんと会えない自分であって、しかも、もう一つ理由があって、気にかけながらも会いに行けなくて、ついにおじいちゃん亡くなっちゃって、遺影に向かって号泣するんである。
お兄ちゃんのアイデンティティは、ゲイであること。そのお相手の花屋の店員に、美也子は淡い想いを抱いていた。お兄ちゃんがその彼を連れて、いわばカミングアウトに来るわけなんだけれど、父親は、そらますんなりと受け入れる筈もなかった。
なかったけど……それは、お決まりの、ヘテロ側の嫌悪感ではなくて、もうとうの昔に判っていたのに、息子が家業を、つまり家を、家族を、否定して、決定的に出て行ってしまうことへの、悲哀だったのだ。小林薫氏の演じる、父親の気弱さに、確信めいて、そう感じて、凄く凄く、切なくなる。
美也子は、どうだっただろう。彼女は口下手で、自分の想いをうまく表現できない。そのもどかしさは、めちゃくちゃ判る。夫に愛想をつかして出て行った母親と久しぶりに再会した時、恋人とウキウキ買い物していたこの母親は、べったりと赤い口紅をつけ、こじゃれたファッションで、ジーンズにスニーカーの美也子とは正反対だった。
美也子がスーパーのパートを辞め、漆をやっている(津軽塗を、じゃなく、この言い方がイイ)と聞くと形相を変えた。それは働いていないということ、そんなんで食べていける訳がない、あの人に言われてやっているの、ちゃんとした仕事に就きなさい、黙ってちゃ判らない、子供の頃から変わらない、都合が悪くなるとすぐ黙る、と畳みかける。
このシーンは、本当に辛い。真っ赤な口紅の唇をパクパクさせて、真正面から美也子を責め立てる母親と、うなだれる美也子のカットバックが延々と続く。
都合が悪くなると黙る、という言い方……めちゃめちゃ記憶にあるから、凄く辛い。しかもそれを、大人になってから、子供時代を引き合いにされて言われるなんて、しかも親から。
バカヤロー!都合よく言い返せるヤツこそが信用できねーだろ、と後から落ち着いて考えれば思えるのに。言い返せなくて黙ってしまうのがズルいと言われる悔しさと辛さがたまらなくて。
美也子も、そしてお兄ちゃんも、だから闘うのだ。この兄妹は、ほんの少しの邂逅、縁側で妹の髪を切ってくれる兄、という場面だけで、ああ、通じ合ってるな、と思った。
早くに家を出て行ってしまったお兄ちゃんだし、長男にだけ期待がかけられていて、妹であり女である自分に対してそれがないという劣等感ももちろんある。でも、お兄ちゃんの苦しさも感じているからこそ、自分の想い人を彼氏だと連れてこられて動揺したにしても、この兄妹の、ベタつかない絆が感じられてグッとくるんだよね。
そして何より……この決定的なシークエンスがあって、お兄ちゃんの彼氏が、この兄妹の母校で、今は廃校となってしまった校舎を美也子と共に探検し、そこに残されていたピアノを、津軽塗で再生するというアイディアを美也子が実現させるのだから、これがもう、素晴らしいワクワクなのだ。
本作は、丁寧に四季が描かれる。冒頭、川面に映る桜並木、シークエンスごとに四季折々のお岩木山が映される。廃校舎に通ってピアノの津軽塗再生作業にいそしむ美也子は、最終的にはゴウゴウと降りしきる雪の中、積もりに積もった雪を這い上がるようにして校舎へと入っていく。
無理をして熱を出し、父親からひどく怒られちゃう。それは……認めてくれたからこそ、だった。美也子が恐る恐る、家業をやることをお伺い立てた時、もうやっているじゃないか、と父親は言った。
父親にとっては、単なる手伝いだという認識、いや、きっと、娘が何を言いたいかを、この時、いやずっと、判っていたのだろうが、彼自身が偉大なる自分の父に対するアレがあるから、うまく受け止められなかった、ように見えた。
つまりはさ、こんないい歳になって、そして、自身の父親は倒れてしまってもう仕事が出来なくなって、でも自分自身がそんな偉大な父親の仕事を超えることが出来なくて苦しんでて。
男である長男ならば、いわば無責任に、長男なんだから、と引導を渡すこともできるけれど、女の子である美也子には、そうできるだけの自信がない、責任が持てない、ということなのか。
めっちゃ、現代的無責任状況だけれど、そのことに、無意識的ながらも気づいているお父ちゃんは、一番苦しいだろうと思うし、立派だと思う。
息子のカミングアウトに対してだって、家族がどうのということを持ち出して、息子から真っ向反発喰らったけれど、ふがいない父親として、まずはそうするしかなかった、というか、その形を示してからじゃないと、子供たちに対して踏み込めなかった、というかさ。
このお父ちゃん自身は、自分の父親世代がハッキリと持っていた、男が自信満々の価値観とは、違うんだよね。今やその父親が恍惚の人になって、施設から脱走して、自分の作品をしみじみと眺め、本当に飽きないんだ、いくらやっても面白いんだ、とつぶやく姿を、お父ちゃんと、そして美也子が目にした。
幸せな人だったのだ。津軽塗が好きだということを純粋に追求することができた人。当然その道を息子や孫が継ぐのだと信じて疑わなかった人。その純粋さが判るからこそ、息子も孫も、苦しんでしまう。
おじいちゃんが亡くなり、お葬式に、あれだけ美也子を罵倒した母親、たんか切って出て行ったお兄ちゃん、その恋人、集結して、なんかもう、この、これはいわゆる通夜振る舞い、っていうやつだよね。それがさ、なんかさ、まるで久しぶりに実家に帰ったような感じなんだよね。
近所のおばちゃんたちがお惣菜めっちゃ作る作る。何にもしないでビールかっくらってる男たち、ってのはいまだにの光景でチッと思うが、でもそれを前提にしているからこそ、その後の、身内プラスアルファの場面がいいの。
弔問客たちがあらかた引き上げた頃に訪ねてきたのがまず母親。そしてお兄ちゃんと彼氏。母親は、その前のシークエンスで美也子をクッソ罵倒して、観客であるこっちは、あーもーサイアク、死ね!!ぐらいに思っていたんだけれど……でもさ、来てくれて、やっぱなんか気まずい雰囲気で。
でもそこにお兄ちゃんと彼氏が訪れて、それもまた気まずい雰囲気はあれど、美也子は辞する母親を追いかける。紙袋を差し出す。自分が塗り上げた津軽塗の弁当箱。
その美しさに母親は息をのみ、美也子は意を決して、漆、続けるから、と、でも穏やかに、宣言する。お母ちゃん、ぐっときて、ちょっと涙ぐんでいるように見えた……。
美也子が取って返しての、通夜振る舞いの席が、いいんだよなぁ。遠慮がちに酒を酌しあう。男たちが乾杯しようとした瞬間、え、私も飲むんだけど、と美也子が言い、お父ちゃんがグラスを取りに行き、更にばっちゃ(木野花)が、私も飲むんだけど、と言い、取りに行かせる。
だから男はダメなんだ、と高らかに笑うばっちゃ。最高、最高!そのとおり!!わざと二度にわたって取りに行かせるのが最高!!
美也子が心血注いだピアノの津軽塗、最初に見に来てくれたのがお兄ちゃんと彼氏というのがグッときまくる。美也子にとって、お兄ちゃんの彼氏だと判ってしまったとは言え、好意を寄せていた彼との秘密の探検で出会ったピアノは、大好きなお兄ちゃんとの思い出のピアノでもあったのだから。
津軽塗で生まれ変わったピアノ、すっごくすっごく、素敵なの。モダン過ぎない可愛らしさのセンシティブ、どぎつすぎないパステルな感じで、開いた時、わぁっ!と心おどっちゃう。
お兄ちゃんと彼氏さんが連弾する……いい、いいわぁ。そしてこのピアノは、海外からのお客さんに絶賛され、ラストは美也子がオランダへ出かける、青森空港にお父ちゃんに送られるところで終わる。雪深い津軽の地ではぐくまれた美しき津軽塗が、今若い人の手によって、世界へとはばたくのだ。
凄く良かった。青森は私にって本当に特別な場所で、それはティーンの頃にカルチャーショックのように感じていたところがあって、大人になった今、改めて感じ直したいと思った。
マジで津軽塗、ちゃんと触れたい、見たい。物産館にまず行かなくちゃ。★★★★★
安兵衛はカツシン、典膳は雷蔵。つまりカツライス。二大スターの共演なんだけど、かんっぜんに市川雷蔵先生に持っていかれる。本作でのカツシンは、実在の人物、私でも知ってる堀部安兵衛なのに、恋した女にその気持ちを知られることすらなく失恋するし、その女が愛する男と壮絶な最期を遂げるのを目前にするし、ああ、なんつーか、カワイソ。
狂言回しと言えなくもないぐらいのちょっとソンな役回りなんだけど、冒頭、そして何度かさしはさまれる、吉良邸への討ち入りの、しんしんと雪降る中、長い白い鉢巻をたらした蒼白な横顔のカツシンですよ。
雷蔵に持ってかれちゃったちょっと青臭い、可愛いぐらいの彼ではなく、もう、女も、その恋人であり妙な友情さえ芽生えていた男も死んでしまって、自分も今から、その先には切腹が待っているのは判ってる討ち入りに向かう、ぞっとするぐらいの美しさなのだ。
そもそもの出会い、冒頭の二人は鮮烈であった。安兵衛が全力疾走で駆けてくる。ただならぬ様子である。すれ違う典膳は馬上から、ゆるみかけた襷が危ないと声をかけようとするも、あわただしく安兵衛は駆け去っていく。カツシンと雷蔵のそもそものキャラの違いを冒頭ですでに、見事に表現している。
典膳は心配して彼の後を追うと、そこは決闘の場。それぞれ流派の違う知心流と堀内一刀流がいずれが優位かを争って、斬り合っていたんであった。
……考えてみればそんなことしてなんになる、それぞれの流派を尊重していればいいじゃないのと思うし、恐らく知心流側から仕掛けたであろうことは、その後の展開、逆恨みするアホばかりがいるもんだから予想がつく。
しかしそれぞれの流派のトップは、さすがそのあたりは心得ていて、その後の無駄な争いを避けるために、それぞれのトップである安兵衛と典膳を除籍する。
典膳に関しては、問題をややこしくさせないためにと、仲間たちが関わっているのを目にして手を出さずに去ったのだが、それが、血気盛んなアホどもの逆鱗に触れたのだった。
仲間を見殺しにしたのかと。おめーらだろ、それは。無能だから手出しも出来なかったくせに!この逆恨みヤロー五人こそが、本作の展開に大きく関わってくる訳で。
そんな血なまぐさい展開に至るまでには、なにかこう、青春ラブコメのような雰囲気さえ漂う。無駄な争いを避けるために破門された安兵衛は妙に人気が出ちゃって、アイドル並みに町の女どもにキャーキャー言われている。
ぜひうちの婿にとか、士官してくれとかいう話が持ち込まれてくる。戸惑う安兵衛だけれど、その中で、是非にと会った、上杉家江戸家老千坂兵部の名代長尾竜之進の妹、千春に一目ぼれしてしまった。この恋に命をかけるとまで思い詰めて決心したのに、千春の縁談を耳にしてしまう。
それは図らずも、因縁の相手、典膳であり、その直前、野犬に襲われて困っている千春を典膳が助けて野犬を斬り殺し、そうそう、習ったわ、生類憐みの令で皆が戦々恐々としている時代、その場に居合わせた安兵衛が機転を利かせて、二人を助けたのであった。
この時、実に嬉しそうに典膳の話をする千春を見れば、彼女が典膳を恋い慕っていることぐらい、すぐに判るだろうに、安兵衛はきっとこれが、初恋だったんだろうなあ。
二人の祝言を聞き、安兵衛はかねてから誘われていた浅野家への士官を決断。本来ならここで二人の縁は切れていた筈だったのに。
知心流の逆恨みアホどもが、千春を凌辱した。安兵衛に恋していた町娘を使って、ひな祭りの白酒に薬を混ぜさせ、その町娘も口封じに問答無用に斬り殺す、という、非情極まりないやり口だった。
当時の映画だから、そのものの様子は描かれない。でも五人の男が千春を、後で思い知らせてやるために殺しはせず、凌辱しまくって突き返すという、考えただけで震えてしまう。
それは典膳がいわば出張に出かけてて、ラブラブな二人が一時離れる、甘やかな別離をそれぞれ、可愛らしい手作りの紙のひな人形をそれぞれ相手だと思って懐に入れて、愛を誓い合っていた期間の出来事だった。
千春が典膳のことを思って、紙人形をなでながら白酒を飲んで、酩酊して、男たちが忍んできて……この、ほの暗い室内と漆黒の屋外、不穏さがひたひたと迫る様がたまらない。
安兵衛に恋してこんな悪行に手を染めて殺された少女も不憫極まりないし、酩酊された状態で五人の男に担がれ連れ去られ、その先の……ああ、想像したくない!!
この事件を知らされた典膳は、妻に非がないのは判っていても、自分の身体がどうしても許すことができない、その気持ちを正直に妻に伝えて、苦しい離縁を申し入れる。
千春は、いっそ殺してくれと懇願した。汚れた自分自身も許せないし、愛する人の手にかかれば本望と思ったんだけれど、典膳は、千春に罪はない、絶対に死ぬなと強く強く言い含めた。
なんかもうこの時点で切なくて歯がゆくて、もうカツシンどっか行っちゃって(爆)この二人の悲恋にくぎ付けになる。
罪がないのは判ってる、愛してもいる。でもどうしても、複数の男たちに凌辱された妻を、自分の身体の理性が、いや、本能が、受け入れることが出来ないという正直な典膳に、そしてそれを正直に言い渡される、つまりはこれ以上の愛の告白はない、でもこれ以上の別れもない千春に、心震えまくる。
典膳は離縁の理由を妻の親兄弟に明かせない。千春に不義密通の噂があって、それはもちろん、アホ五人どもが自分たちの所業を隠匿するために流したに他ならないんだけれど、ちょっと典膳はそれに心ゆらされるのね。
本当だと思っていた訳ではなかろうが、だからこそ世間のその噂を、生類憐みの令をおかしてでも妖怪狐の仕業だと仕立てて、親類身内の信頼だけでも取り戻すのだけれど……。
千春を演じる真城千都世氏、私多分、初見だと思うなあ。お名前にも記憶がなくって、なんつーか、幽玄というか、ちょっと怖いような美女で、安兵衛が一目で恋に落ち、典膳と運命の恋を全うするというのが、めちゃくちゃ真に迫ってる。
なで肩、柳腰、本当に紙で作ったひな人形みたい。でも、最後の最後まで、骨太な意志を貫くのだ……。
典膳は決して妻の身に起こったことを明かさずに離縁したもんだから、千春の兄が怒って、典膳の片腕を斬り落してしまった。それきり、典膳は行方をくらましていたんだけれど、ある日突然、その消息が明らかになる。
そう、殿中でござる、吉良邸への討ち入り、その目論見のさなかである。あのアホ五人、無能なくせに典膳を闇討ちしようとして返り討ちに遭い、鼻がそげたり耳がそげたり、見た目でどうしようもなく跡が残ってしまった輩たちが逆恨みして、千春を凌辱したんであった。
典膳はこの五人を成敗することだけを胸に、隻腕になって生き延びていた。千春は吉良氏と茶の湯仲間で仲が良く、浅野家に仕官した安兵衛はそのことを知って、彼女と接触し、討ち入りの日を模索できないものかと探りを入れている。
千坂兵部の世話で自活している千春は、死の床にある彼から、吉良に潜り込ませている有象無象を取り締まるために典膳を呼び寄せたいと言い、「どうしようもない奴らばかり。斬ってもいいようなのが五人いる。五人、判るだろう」と告げるのだった。
ああ、典膳に、そして千春に、吉良に乗じさせて敵討ちをさせる、そういうことか、そういうことか!!吉良、赤穂浪士という、史実にも残る大きな事件、そこで命を散らした男たちは、千坂兵部が言うように、とりあえず集められた、信条も特にない輩も多かったことだろう。その中で淘汰され、真に残された、赤穂浪士のメンメンだったのだろう。
とりあえず、の中に、こんな物語があったかもしれず、そこに、実際の赤穂浪士が関わっていたのかもしれない。吉良邸に討ち入りする情報を得る、そんな相手に恋した赤穂浪士がいたのかもしれないと。
アホ五人組に急襲され、でもなんたって腕の立つ典膳だから二人は絶命させた。そもそもおびき寄せたのだった。隻腕の大道芸人として町中に立って。でも卑怯、一人が飛び道具、鉄砲で典膳の足を撃った。隻腕で、さらに片足も動かなくなった典膳を、千春がこっそり介抱している。
本当にね……判るのよ、典膳の、彼女を愛するがゆえに、許せない思いが、さらにさらに愛を、想いを加速させ、今、そのにっくき二人を成敗し、でも自分も痛手を負って。
千春に介抱されるのが、この時点では、どうだったんだろうなあ……五人ものアホ男に凌辱された愛する妻のことを、その身体を、許せなかった自分こそが許せなかった、でもこの時点では……きっときっと、そうではなかったと思いたい。
ここからが、もう、これは、もう……映画史に残る、と言っていいんじゃないかという殺陣と、哀しくも美しい愛しあう夫婦の最期、なのよ……。
片腕片足動かない状態で、それでもアホたちの相手になるために広場に出て、もうさ、たんかで運ばれてる状態よ。その状態から、何人ものアホ男たちを、半ば横たわりながら、動かない片腕片足の状態で、最小限に体を起こし、気迫で相手を押し返し、斬りまくる。
いやいやいや!いくらなんでも!!とか思いそうになるが、……やっぱり、市川雷蔵、なんだよなあ……見せちゃう、凄いと思わせちゃう。猿ぐつわと手足縛られて転がされていた千春が、なんとかなんとか抜け出して、助けに行こうと這い出して、でも、ああ、卑怯!!鉄砲で、撃たれちゃうのだ……。
この時には安兵衛が助けに駆けつけていて、典膳を助けて八面六臂の活躍で斬りまくって、でもでも、典膳も、千春も、もう虫の息なのだ……。
千春が、必死に、這っていく。愛する夫の元へ、這って行く。安兵衛に、彼が知りたかった情報を、吉良が確実に邸にいる日を告げて、お役目終えて、愛する夫の元に這っていく。
もうこの時にはきっともう、典膳はこと切れていただろう。真っ青な顔で横たわる夫のその手を、差し伸べられた手を、千春もまた青ざめたその手で握って、こときれる。
この、この、画よ!!……青ざめた、しんとした、屍ばかりが累々とする、安兵衛だけが見守っている。愛する二人が、恋した女が愛した男と、ようやくようやく、手を握って安息の地に行くところを、見守っている!!
もう、赤穂浪士だからさ。歴史疎し女子だから、この物語がうっかり赤穂浪士の史実に入っちゃってると思っちゃいそうで怖い(爆)。
しっかし……あの手つなぎ典膳&千春の最期はヤバかったなあ。夢に見そうなぐらい、美しく、そしてちょっと怖いぐらいの、悲壮さだった。★★★★☆
その女、大畑は言った。こんなに美しい町だったなんて、と。中学校のほんの数年間いただけの時には、あまり良い思い出がなかった、町を見る余裕もなかったと。
高低差のある、山を抱いた静かな港町は確かに……確かに美しいと、言えなくもない、けれども……人がいなくなって、錆びたバス停がぽつんとあって、小さなスーパーと魚屋さんが買い物で映るぐらいで、正直に言えばただ、寂しいように見えた。
これが美しいと彼女の目に映るのならば、彼女の心が今、そうやってすとんと受け入れているのだろうって。
男、西村は、もうその町は見えない。生まれ育った町。失明の前は漁師をしていたらしい。その小さな漁港も他の港と統合され、閉鎖直前になり、西村のかつての同僚の男と幼なじみの女が細々と作業をしているばかり。
失明後はコールセンター的な仕事をしている様子が描かれ、漁港には趣味である釣りで訪れる西村。幼なじみで時々デリヘルを頼んでいる千沙に釣りを教えながら、海の中が見えるのだと言った。指の先に伝わる釣り糸の動きで。
大人になってからの途中失明者である西村の世界は、一体どんな風に見えているのだろう。千沙にフェラしてもらった後、幼い頃の顔しか知らない、サトエリを想像していると言って彼女からブーイングの嵐である。でも、後から言いなおしたように、千沙の大人の顔を想像していたんだと言う方が、なにか辛い気がする。
人はどう変わるか判らないし、今フェラしている千沙を、そうして無慈悲にジャッジするような気がするから。サトエリだと言ったのは、無意識かもしれないけれど彼の優しさが出たように思うのだ。
大人になってからの途中失明は、世知辛いいろいろに直面する。母子家庭だったのだろうか、母親が死んで今は一人きりだという西村の世話をしているのは伯母。後に吐露するように、彼女はそんな義理なんてないんだから、面倒なんてみるのウンザリなんだから、と思っている。
いや、そうだろうか……。確かにこの伯母、演じる内田春菊の憎たらしさもあって、そんなけったくそ悪いオバハンに見えはするけれど、でも確かに義理はない、それでもほっとけなかったのは、彼女なりの優しさはあったんじゃないのか。
ただ……義理はない、というのはそのとおりだけど、日本は、そしてこんな風に地方都市は余計に、身内の、血筋の義理や見栄がどうしようもなく存在し続ける。
西村はそれが判っているから、本来なら福祉の手を借りるなりなんなり、彼ならそつなく出来ただろうに黙って世話になっていたのは、そういうことなんだろう。
西村の祖父が一人暮らしをしている。認知症気味で、伯母はさっさと施設に入れたがっている。
不思議なのだが、祖父、つまり彼女にとって父親に対しては義理感情は発生せず、縁を切りたがっているかのようなのに、甥の西村に対しては、そっけないながらも面倒を見ているのはどうしてなんだろう。父親という、近しい身内への嫌悪感と、甥という存在は違うのだろうか。
いわば西村はこの二人の間で板挟みになる形で、祖父の様子を見に行って、一緒にビデオを見たりして過ごすんである。
そして、かつての同級生、大畑である。西村が伯母とスーパーで買い物をしているのを目撃して、白杖をついている西村に驚いて、まずは伯母に声をかけるんである。
そこから二人が再会にまで至るにはやや間がある。伯母は特段二人を引き合わせようともしなかったのもあるし、大畑もまた、どこか臆していた。
一目見て判るぐらい、中学生時代に印象が深かったであろう二人のその過去は、ただ、何度か一緒に帰ったことがある、としか、語られない。
大畑は、この地にあまりいい思い出がなかったと言い、だから本当に久しぶりに、母親の入院によって帰ってきたのだけれど、それだって、今現在の自分の仕事……役者に、迷いがあったからなのかもしれず。
西村の伯母が大畑に言う、役者、なるほどね、このへんでそんな風に背筋を伸ばしてスーパーで買い物している人なんていないから、という台詞が妙に心に刺さる。
大畑は知らず知らず、虚勢を張っていたんじゃないのか。いい思い出がなかったというのがどの程度のことなのか……。
でも、西村とは何度か一緒に下校していた。近所だとはいえ、男の子と女の子が一緒に帰る、って、それなりの心の交流があったように想像されるけれど、二人とも特段言及しない。
ただ、ただ……何かシンパシィがあるのだ。それはこうして再会して、別に恋愛関係とかセックスとかに至らなくても、共有してしまえる、なにか。
大畑は西村に、あの時西村君、透明人間になりたいって言っていた、と語った。今や自身の目が見えない西村は、君が自分にとっての透明人間だと言い、彼女は何とも言えずにいた。
透明人間、それは、他者に気づかれず存在し、あらゆるものを目撃することができること。西村にとって、他者はすべて透明人間なのか、そうだろうか。
彼は伯母がこっそり金をごまかしていることも、好物の落花生を高いものから特売品にチェンジしていることだって気づいている。見えないことですべてが出来ないと思い込んでいる伯母、いや、世間に対して静かに反抗するように、一人祖父のSOSを助けに行ったりもする。
時にコンビニ飯を食べるのを失敗して、親子丼の具をテーブルにそっくりこぼしちゃったりすることがあるにしても。
祖父にとって西村は、何度も聞いて理解している筈なのに、彼の目が見えないということが、判らないのだ。そして妄想の中で知り合いに悪さされSOSの電話をしてきたり、徘徊して保護され、警察から連絡がきたりする。
この祖父はある意味……西村のことを、まったく偏見なく、彼そのものとして相対し、頼ってもくれる人物。それが、認知症という、世間的には難しい存在だというのが、世間はそうして偏見に満ち満ちていることを、痛感させられる。
祖父が警察に保護されているところに迎えに行くために、伯母とは絶縁してしまったし、ということで、西村は大畑に応援を頼む。このシークエンスでのナイトドライブは、強い印象を残す。
これはね、そりゃね、やっちゃいけないよ、西村は大畑に頼んで、彼女の車を運転するのだ。ダメ、ダメだよ、目が見えないのに。なのに大丈夫と、彼女を助手席に座らせて、ちょっと右、ちょっと左とナビゲートさせて。
これはね……ダメよ、ホントに。ダメなんだけど……だから映倫通してないのかな(爆)。でもね、この、森閑とした田舎道のドライブ、目の見えない彼が、見えていた時の感覚、そして視覚以外のすべての感覚をフル活用して、車を運転する、二人のデートなスリリングであり、あらゆる可能性を否定する世間に反撃する強烈な意志であり……。
視覚障害、特に途中失明という難しさに対して、彼の伯母が象徴的なように、身内が面倒見なきゃ生活も出来ないでしょというひどい偏見を、ずっとずっと西村は、何も言わず、黙って、飲み込んでいたけれど、そうじゃないんだと、爆発した瞬間であったように思った。
それなりに都市であったり、利用者の意識があったならば、障害や高齢であることが、生活への支障であることにはならない社会である、と思う、信じたい。それは積極的につかみ取りに行かなければ難しいにしても、いまだにこんな風に、障害や高齢が排除される社会であることに、深く深く絶望してしまうから。
西村の祖父は結果的に、施設に行くことを受け入れた。それは、中盤、娘からやいやいせっつかれたせいではなく、自らそう望んだのだと、思いたい。
大畑は、どうだろうか。彼女は役者への道夢半ばである。LINE画面でちらりちらりと明かされるだけだけれど、恐らく今が正念場だと、少なくとも彼女は思って焦っているんだろうと思う。
母親の入院に合わせて帰ってきたのは、それまでずっと帰ってきてなかったのに帰ってきたのは……やっぱり、迷いがあったんじゃないのかな、と思う。そこで、かつての同級生の西村君に出会って、視覚が失われた彼と共に過ごした、ささやかな時間は、彼女にどう作用したのだろうか。
彼女の母親は田舎の人ならではの狭い料簡で、女優なんて若くなきゃダメなんでしょ、意地になってるんじゃないの、と、これは……フェミニズム野郎の私としてはキーッ!!とくる古臭い認識だし、ホント古臭い、アイドルじゃなくて役者なんだからそんなんないよ、と思うけれど、でも、やっぱりこういう価値観って、いまだぬぐえないんだなあと思う。
女の子は若くなければ役者業界に残れないというのはないにしても、その理由で諦めずに頑張れるのは、女の子ではなく男の子だけ、という価値観はいまだにあるのだろう。30になっても40になっても、アルバイト生活で頑張って、夢見られるのは、男の子、てゆーかもはや男の子ではなくオッサンだけど、男の子、だけなのだろう。
ついついフェミニズム野郎発動してしまう(爆)。でもとりあえず大畑はまだ夢見て、東京へ帰り、大畑はこの地に残った。西村の家に大畑が総菜を持って訪ねてきたシークエンスは、おや、ちょっとエロの予感??と期待したけど、そんなんなかった(爆。すんなよ)。
視力がだんだんと失われる前に描いた西村のスケッチを、大畑は見ていた。彼女にとって久しぶり過ぎる帰郷で感じたこの町の美しさを、西村は描いていた。だんだんと、シンプルな線画になり、この光景を自分がとどめておけるのかと、殴り書きのように書いていた。
でも、西村は、劇中一度だって、視覚が失われたことに対するあれこれを語る訳じゃないし、失われたことではなく、今こうして生きていることを、当たり前のことだと、まっすぐに示しているように思う。
あからさまじゃないけれど、ひそやかにだけど、そりゃ失敗することもあるけれど、なんとかやっている、それってすべての人がそうじゃないの、といっているように思える。
そういう意味ではラスト、釣りをしている西村にまとわりついて教えを請う少年とのシークエンスが見事に収れんへとつなげてくれている。西村を演じる木村知貴氏の無骨なフォルムが説得力ハンパなかった。★★★☆☆
主人公がアスペルガーだというのは、今までになかった訳ではない。いくつかの作品が思い浮かぶし、それも役者さんが素晴らしい演技をしていて、どれも良作であった。
でもやっぱりいつも、障害者としての彼らだった。健常者としての私たちが、理解してあげないと、みたいな、まぁ言ってしまえば上から目線を、ぬぐい切れなかった。もちろんその境目を超えてコミュニケーションをつないでいく過程にこそ意味があるにしても、スタートラインがいつでもそうだったから。
でも本作は、そうであるかもしれないけど、やはりそうではない、と思う。アスペルガーである青年、画家の屋内透に、雑誌編集者として出会った小向春は恋をする。
最初から境界線も上から目線も存在はしないんだけれど、彼女自身がいわゆる世間的常識みたいなものにとらわれ、それに彼の特性をあてはめようとして、せっかくスタートラインに境界がなかったのに、次第にその境界が見えてくる、みたいな。
屋内に惹かれるからこそ、彼をハンディキャッパーとして見られたくないという意識が生まれる。その特性こそが彼の魅力である、だからこそ惹かれたに違いないのに、「彼って変わってるよね」という率直な意見に神経をとがらせてしまう。
タイトルにもあるはざま、というワードは、アスペルガーをはじめとした発達障害を持つ人たちが、診断を下されるか否か、条件にいくつか当てはまるけれど、医者によってそうだと認定されない場合のいわばグレーゾーンのことだという。
春は屋内がはざまであると思い込む。単に、周囲の、彼をもともと知る人たちの会話がそんな風に聞こえたからというより、そう思いたがっていたように思う。グレーゾーンならば大丈夫だ、じゃないけど、自分が理解してあげられれば大丈夫だ、みたいな。
もうこんな風に書いてみるとまさしくこれが上から目線なのだけれど、なにか彼女はそんな想いにすがっていたように思う、のは、屋内が障害者手帳を出した時に、彼女自身がそんな自分の反応に驚いたんじゃないかというぐらい、ひるんだからだ。
障害者、ならば私は健常者、彼に恋していた彼女はグレーゾーンならつながれると思っていたのに、ここでハッキリラインを引かれたように思ったんじゃないかと、もうだって、ストレートに刺さる顔をしたのだもの。
まぁなんたって、屋内を演じる氷魚君が本当に魅力的で、そらまぁ恋に落ちちゃうよね、と思っちゃう。アスペルガー特有のこだわりの強さは、屋内のアーティスティックな才能に見事に直結し、その鮮烈なクリエイティビティは注目の的である。
取材で対峙してみると、自分の興味あることに向くと止まらなくなり、話を戻そうとする編集者にちょっと待てと掌を見せ、その話を終わらせるまで軌道修正をしない。
出来ない、と言ってしまうのは簡単だが、しない、と言いたいのは、予定調和で、仕事だからと小さな輪の中にまとめあげちゃうのが健常者と呼ばれる側なのだとしたら、その外に漏れだす本音こそ伝えるべき、面白い真実であろうと思うから。
そんな風に思わせるチャームを、実に見事に、屋内を演じる氷魚君が見せてくれる。実際の彼に対峙した誰もが魅了されるのは当然のことだろう。一方で、実際に対峙していない、ドキュメンタリー番組を資料として見ていた春に、起きてきた同棲している彼氏は、ヤバいやつだね、と笑いながら言った。
まだこの時には春は屋内と出会って間もなく、惹かれてはいたけれど恋という自覚にまでは至っていなかった時ではあったけれどハッキリと、彼氏に対して違和感、いや、反発さえも感じただろうことが察せられる。
でもこの彼氏がことさらに悪いヤツだとか、差別意識があるとか、そういうんじゃないのだ。だって彼は、実際の屋内に会っていないんだから。アスペルガーである屋内の独特の言動は、アスペルガーでなくても、突出した芸術家がそうであることが多いように、凡俗な一般人にはヤバいと思わせるものなのだ。
彼氏さんは決して悪気なく、本当にこの場合はいい意味で悪気なく、率直に印象を述べたにすぎない。春がそれに反発を感じたのだとしたら、そうかなぁなんてあいまいな言葉で濁さずに、きちんと彼氏さんに対峙して、そうじゃないんだと、実際に対峙した彼はヤバい奴なんかじゃなくて、素晴らしい才能の持ち主なんだと、きちんと話せば良かったのだ。
そう……もうこの時点で、というより、最初から、同棲しているというのに、二人には溝があって、それは、屋内に出会う前から春側に感じられるのだよね。同じ出版社に勤めているのだけれど、彼氏さんはスキャンダルを追う週刊誌で夜討ち朝駆け、春はカルチャー雑誌三年目で、パワハラチックな上司から始終ダメ出しされて落ち込む日々。
時間的にもすれ違いだけれど、お互いのこんなプレッシャー多き日々を、コミュニケーションとって共有できていれば、屋内に出会って惹かれたとしても、彼氏さんにその話が出来ただろうし、恋までに至っていたかどうか。
恋は盲目というように、結局は自分の都合のいいように解釈するものだから。以前から屋内をよく知るベテランライターさんが、春の様子を察知して、屋内を好きになっちゃったら傷つくんだよ、とアドヴァイスしても、春は憤然と、心が通じてますから!!と言い返しちゃう。それは、あなただけがそう思っているんじゃないの?そう言われて、まさに鳩が豆鉄砲。
でもそうなのだ、観客側も、ハラハラしながら見ていた。屋内の言動は、春を錯覚させるに充分だったのは確か。月食やホラー映画鑑賞会に無邪気に誘う。つまり夜通し一緒にいたりするわけである。
春は舞い上がって、くっついて寝てみたりするのだが、屋内はそのサインを読みとることはない。空気を読むとか、サインを読むとか、屋内の中にはそうした動線がそもそもないのだ。
屋内は確かに春のことは、好きだったと思う。でもそれは、異性としてのそれじゃなくて、自分に興味を示してくれたり、知りたいと言ってくれたりした嬉しさから派生したものだし、そしてもっとシンプルに、この人にはこれを見せたい、この人とはこれをやりたい、といった、人間同士のコミュニケーション。
そう判っていれば、こんなに素敵な人間関係はないのだけれど、凡俗人間社会ではまず男女の別があって、そこに恋愛感情ありなしがあって、友情は成立するかてな議論があって、あぁめんどくさ!!ていうことが、屋内にはない。まっさらに、ない。めっちゃシンプル。これこそ真実と、客観的には思うけれど、彼に惹かれちゃうと、恋しちゃうと、そりゃそんな冷静な判断より凡俗価値観に引っ張られてしまうのは当然であり。
屋内の特集記事の企画を通して、パワハラ編集長をぎゃふんと言わせましょう!!と、屋内の魅力に春よりも先に魅せられていた同僚男子の後押しもあって、企画が通り、記事づくりがスタートする。
最近の売れっ子カメラマンだという、エキセントリックな女性が登場し、もう即座に、あ、これは、彼女が屋内と恋人になるな、と直感しちゃうし、そのとおりになる。
あの時の、編集者として立ち会っていた春の、ハッキリ嫉妬の感情があらわになった顔つきといたら、なかった。
彼氏さんが、気の毒だったなぁ。お互い忙しい編集者同士。でもお互い同じ職種だからこそ、その大変さが判ってる筈だったのに、もう物語の冒頭から春は、彼氏さんに対してよそよそしいというか、自分の想いを判ってもらえないから仕方ないや、みたいな雰囲気。
屋内に出会う前からそうだったから、もはや二人の間には隙間風が吹いてたってことかとも思うし、この時から、最後に至るまで、春は彼氏さんに対して、まるで彼女だけが被害者のような、そっちが判らずやだからみたいな感じを出してくるので、なんだかどうにも共感できないのが困ってしまうのだ。
だって彼氏さんは訳が判らないまま、最初から最後まで、だったからさぁ……。春の気持ちがどこに行っているのか、その経過さえも、多忙もあって、判らないままで……。
最初ね、この二人は夫婦なのかと思って見ていたのだ。深く物語が進行したあたりで、春が連絡もせずに朝帰りをしたりするのを心配した彼氏さんが編集部を訪ねたのに春が狼狽して、付き合っているのを隠しておくっていったじゃん、と言うに至ってようやく判った次第。
彼氏さんが言うように、それを知られたくないのか、と言うのに対して春が、そっちがそうしたいと言ったんじゃんという不毛なラリーは、明らかに、春自身が後ろめたいことしちゃってるのを隠したくて、相手の責任にすり替えようとしているという卑怯さが見えちゃうもんだから、春にどうしようも共感できないのだよね……。
ここまでつらつら言ってきたように、春が屋内に惹かれたのは恋であったとは思うけれど、屋内を知りたいという恋の想いはあったけれど、彼のアスペルガーを、自分だけが理解できているという恋の盲目が曲がった意識になって、逆に偏見になって、恋に破れたということじゃないのか??
めちゃくちゃ巧みなんだよね。春以外は、みぃんな、判ってるのだ。ある意味、アスペルガーである屋内のことを、よく知ろうとか特段思ってない、屋内は屋内、変わってるけどそこが魅力、いいじゃんいいじゃん、というぐらいのスタンスの、直接彼を知っているからこそ、サクッとそう思えている人たちのスタンスと、出会って惹かれて恋に落ちちゃった春は、違うのだ……。
老婆心ながらと、屋内と長い付き合いのベテランライターさんからくぎを刺された時、観客側は半々の気持ちだったけど、やっぱりそうなのだ。
月食や花見、さくらんぼが実る時には一緒しましょうと、それは凡俗一般社会ならば、これは恋人同士の約束に他ならない、のだけれど、屋内にとってはシンプルな約束に過ぎず、それを恋のサインだと思っちゃう春がどんどん軌道を外れていき、恋人との破綻を迎える。
これまでにない、作劇だと思う。春の、恋しちゃったが故の傲慢と無知と、周囲の無邪気さが案外救われるけれど、やっぱり無知が、社会的無知が大きな問題だということと、それを、一見甘くとろとろなラブに見えるストーリーの中にシビアにおりこんで意義あるものにしていると思う。★★★☆☆
ちょっとマジで、男の色気を感じてドキドキしてしまった。もちろん今までいろんなモリシゲを見てきて、女たらしで、女によくモテて、それまでだって十分色気のあるモリシゲだったんだけれど、なんていうのかなあ……。
後半には年若い女の子と知り合って、今で言うエンコウのような状態にさえなるのに、決して手を出さず、ただ一緒に横に眠っているだけで幸せだ、なんて言うんだもの!!何それ!!めっちゃずきゅんとくるんですけど!!
……というところに至るまでは、彼、日高孝四郎はモーレツサラリーマンであり、自身は実力があるからこそ無能な部下には冷酷なまでに厳しい。
そして家では厳格な父親。妻には10年前に先立たれ、自身の母親と一人娘と一緒に暮らしている。一人娘には部下の中から最も優秀な男をと心づもりをしている。
この一人娘、啓子(星由里子)の美しさは、確かに日高の部下の青年たちをとりこにしている。そう、こんな風に、昭和の時代は上司の家に年始のあいさつ回りなどして、女子社員は振袖など着て、男たちはただ酒をかっくらい、女たちがかいがいしく給仕をして、そんな時代だったのだ。
だから上司の娘と顔見知りなんぞにもなる。当然、今の目から見れば、とゆーかフェミニズム野郎の私の目から見れば、この年始の画一発で、テメーで飲む酒はテメーで運べ!と言いたくなるが、まぁしょうがない。
でもここには、啓子の想い人はいない。優秀な社員ではなく、彼女が想いあっているのは日高が無能と見下している奥田なのである。
うっわ、児玉清か!気づかなかった!!私が知ることになる後期のシブい児玉清とはまるで違う、ほよほよとした、頼りなさげな、母性本能くすぐり系のヤサ男。
そしてもう一人、日高にとって頭の痛い無能社員がいる。定年を間近に迎えた浜中(宮口精二)である。
病身の妻と子だくさんで、定年後の嘱託を望んで日高にすがらんばかりに懇願している。この二人は日高にとって、無価値な人間だった筈なのだが……。
高度経済成長期。実力があれば、実績を積めば、どんどん上にあがっていける、そんな時代。
でも日高は、ふと立ちすくんでしまう。自分の想いのままに扱えると思っていた愛娘の反抗がきっかけだったか、10年後の自分の姿を見てしまった浜中へつい起こした憐憫の情だったか……。
日高はね、きっと、愛妻家だったんだと思う。妻を亡くして10年、後添いをもらわずに来たのは、娘を嫁がせてからという平凡な言い訳があったからで。
だってモリシゲが演じてるんだもの、絶対にそうだよと思っちゃう。浜中が病身の妻を気遣っていることに嫉妬のような感情を抱くのが見え隠れするあたりとか、そうまさに、寂しい男、なのよ。
そう名付けたのは、日高の行きつけのバーのマダムである。草笛光子っ!めっちゃキレイ!めっちゃ色っぽい!!もちろん客とマダムの関係だけれど、どこか疑似恋愛的な雰囲気があって、恋人なんでしょ、まぁ憎らしい、なんていって手の甲をつねるマダム、めっちゃ色っぽい!!
このマダムが本当に、日高のことがお見通しで、店に入ってきた途端、イイことがあったのか、悪いことがあったのか、見抜いちゃう。
あのエピソードが好きだったなぁ……。そう、それこそ、年始のにぎやかな、部下たちが挨拶にきてワイワイやってるシークエンスが示された後だったから。
正月三が日、二日目に部下たちが来て、三日目は時間を持て余した日高が、バーに一人やってきた。店もヒマだろうから来てやったんだとうそぶく日高に、マダムが、東京中で一番寂しい男ね、と言ったのだった。
浜中を、中央商事の子会社的な、日高に対して借りがあるような、アットホームな会社にあっせんした。浜中は、大きな会社の中で自分の力を発揮できないでいる奥田青年にシンパシィを感じていたから、悩んでいる彼を、こっちに来ないかと誘う。
より前に、いやそうだ、奥田に啓子を諦めてほしいという日高からの頼みに浜中は苦しい立場。こんなん、まじで女を、いや、ワカモンをバカにしてると思うけど、ああ昭和は、昭和は好きだけど、こういう側面は大嫌いな、そんな昭和があったんだよなぁ……。
でも何よりここで示されているのは、浜中も奥田も、大きな会社では無能呼ばわりされていたけれど、自身の能力が発揮できる場所は、他にあった、ということなんである。
浜中もそうだけれど、後に娘の婿として認める奥田が、経理の責任者として出世することを知らされる日高は大きな驚きを覚える。自分の娘婿だから気を遣ったんじゃないかと邪推する彼自身が、その時点でスランプに陥っているのだから、自意識過剰が哀しいというか。
ああ……昭和の時代、高度経済成長の時代。大きな会社でモーレツに働く。ザ・成功。実際は日本中のほとんどを占めるのは中小企業なのに、そこに“転落”という色眼鏡なのだ。
でも、実力が発揮される場所を得た浜中も奥田も、とても生き生きとしている。仕事の用事を携えて日高の元を訪れた奥田は、それまでのおどおどとした小動物のような様子とは一転、やる気に満ちたサラリーマンである。
この時点で日高は、ノイローゼに悩まされている。仕事が上手くいかなくて、取引が上手くとれなくて、ピンチに陥っているんである。
そのきっかけは、娘と奥田の結婚を許したことで気が抜けたのか。でも、このシーンは、まじでよかった。涙が出た。奥田に、娘を幸せにしろ、と言った後で、娘に向かって、同じセリフを言ったのが最高だった。
男が女を幸せにする、プロポーズの言葉で擦り切れるほど使い古された台詞。それこそ昭和男の日高、娘にいい縁談をと考えていたような日高、でも二人が自由恋愛によって、対等に愛し合っているのを見て、幸せにするのも対等だと、その上で出た台詞がグッときちゃったんだなぁ。
正直、娘の結婚を許すところで、終わるのかと思った。結構なカロリーだったから。しかし後半はこれまでイケイケだった日高のサラリーマンとしての、そして男としての勝負どころである。
ノイローゼのようになってしまった。やる気が出ない。めまいがする。不安神経症のような行動が、社内でもウワサになってしまう。そもそも、大株主の息子と啓子との縁談を断ったところからミソがついた形だった。弱気になってしまった。
社長はそれでも気にかけていてくれたから、最後のチャンス、と大きな取引の話を持ってくる。これでコケれば、それこそ社長もろとも、である。
この仕事に決心を抱かせたのが、後半のヒロイン、咲子である。前半は娘との物語、後半は咲子との物語。二本分あるというぐらい、前半と後半で、日高のキャラクターがハッキリ違ってくる。でもその中に、サラリーマンとしての苦悩は一本、通っている。だから、悲哀がある。
まさに立ちんぼ、コールガール。雨に濡れてしょんぼりと歩いていた日高に声をかけてきた。おでんをおごらせて、腕をからませて、値段を提示して来る。
明らかにコールガール。旅館にも入ったし、うんとサービスしちゃう、なんていうお決まりの台詞も飛び出したのに、ひとつのベッドでただ眠る、だけだったのだった。
そうか、私、手を出さないままと言ったけど、業を煮やした咲子から襲う形で関係はもった感じではあった、けれども、でもあくまで、日高は彼女を、買う形にした。
一か月契約、三か月契約。それは……エンコウ的、パパ活的ビジネスライクではなく、かつて愛した妻のように、娘のように、浜中の病身の妻に対する愛情のように、出来る自信がなかったから、なのだろうか……??
しっかし、さぁ……日高と咲子、つまりモリシゲと団玲子の、親子ほど年が離れている二人の、だから最初は日高が咲子をあしらうというか、大事に頭なでて、みたいな感じから、日高こそが、咲子を、必要な存在だと、恋人なんて肩書じゃなく、必要なんだと語るのが、染みてさあ……。
咲子は自身が暮らす小さなアパートに日高を招き入れる。その時のはしゃいだ様子も可愛いんだけれど、同じアパートの住人で咲子とも顔見知り、自分と似た境遇だったという女性の自殺未遂騒ぎが起こるんである。咲子は、私は日高さんと出会えたけれども……と暗い顔をする。
何をするでもないのだ。一緒に美味しい朝ご飯を食べるとか、それだけのことが幸せ。そんなこと、日高は今まで、考えたこともなかったんだろうなぁ。
娘を嫁に出して、しばらくノイローゼ気味になって、ふらふらと娘夫婦の住むアパートに深夜迷い込むシークエンスも忘れられない。奥田は出張に出ていて、ひととき、娘のそばで、狭いアパートの一室だけれど、安眠を得る。
母親は一緒に暮らしてはいるけれど、娘が出て行き、一人寝床でまんじりともしない日高の苦しみは、ああ、昭和の男って、弱い、弱いんだなぁ。
一時は、与えられたチャンスをなかなかものに出来ず、取引に負けそうになって、自分もまた浜中や奥田と同じように、こじんまりとしたところに身を置こうとさえ思う。
でも日高は、やはりモーレツサラリーマンなのだ。彼を評価し、手助けするたくさんの人たちがいる。彼らもまた、モーレツサラリーマンだからなのだ。
それは一見、そうは見えない、だからこそ日高に切られた浜中や奥田も実はそうで、適材適所が上手く行ってなかっただけで、愛する人のために、昭和の男たちはみんな、モーレツサラリーマンなのだ。
当時、彼らと同じ職場で働いていた女性たちの本音がどうだったのか、聞きたいところだけれど、親として、男として、サラリーマンとして、翻弄されまくるモリシゲにきゅんきゅんしまくったので、もうこれで満足ってことで。
あーもう、それにしてもいいなぁ、モリシゲとエンコウ契約。うらやましすぎる。
ホントにもう、しみじみ心にしみわたる寂しい男、母性本能くすぐりまくる。それを繰り返し語ってくれるバーのマダム、草笛光子氏の美しさ、マジでヤバかった。同じ時代にいられることに感謝しかない。★★★★☆
実際まぁ当然、そうではある。男は、社会はダメなんだと吠えまくりたい。でも予想に反して、とても静謐で、詩のように美しい絵心があり、そして、確かに腹が立つ無神経な奴らはたっくさんいるけれど、こと主要登場人物たちに関しては、決して悪い人はいないということなのだ。
誰もが優しくて、気が良くて、ただ、ジヨンが、出産、子育てによって社会からはじき出された一人の女性に対して、想像力が働かず、少しずつの無神経や、少しずつの押し付けを積み重ねていっていることに気づいていないのが、だからこそもう取り返しのつかないところまで、行ってしまう。
タイトルからすれば、彼女は私より10も下だというのに、いまだに女たちは旧態依然とした無神経な男社会に苦しめられているのかと思う。私が彼女たちの年齢の時には確かに、公然とこうした、女性蔑視とさえ言える社会の態度があった。
しかし、出産の延長で子育てするのは女の仕事、結婚して仕事を辞める女性を最初から重用する気もない、というワガママ男子社会に、女たちが素直に従うと思い込んだためにどんどん、出産はおろか結婚さえ自分の人生のマイナスと考える女性が増えて、人口が減り、その時になってようやく男たちは、てゆーか、国家レベルで焦り始めるのだ。
国家レベルがワガママ男子社会だから。そしてそれは、ことに家父長制度が根強いアジア社会において顕著で、なかなかに払しょくされない。
それは、表面上はレディファーストとか言っておきながら、中身は女性蔑視の男性社会である欧米とも事情が違うけれど、少なくとも表面上はレディファーストであるだけマシなんだもの。
子供連れの彼女たちに冷ややかな目線を送り、粗相をしたものなら聞こえよがしに罵倒し、子育てしてて外出するなんて身の程知らずな、すっこんでろ、てな視線をアリアリと浴びせるのが、家父長制度に毒されたアジア社会なのだ。
それは物語の最後の最後で、ようやくジヨンはそうした理不尽なバカどもに応戦するだけの勇気を持つけれども、なぜ彼女が、彼女たちが、女たちばかりが、闘わなければいけないのだろう??
……予想通り怒りバクハツで支離滅裂になっちゃってる。えーとね、タイトルロールのキム・ジヨンは専業主婦。一人娘のアヨンを育てながらの忙しい日々。ここでキモなのは、決して彼女はワンオペではないんである。
旦那さんはとっても優しく理解があり、いや、理解がある、という言い方は大嫌いだけど、だってそんなの、ジヨンの同僚であるヘスさんが、子育てを手伝ってくれるなんて言い方にズバリと、そんなの当たり前じゃないの、と言うように、夫が手伝ってくれる、という考え方になってしまう家父長制度強めな国の女たちの、それがそもそもの元凶なのだけれど。
うーむ、脱線しまくり。とにかく、この旦那さんは、凄く凄く、妻のジヨンのことを愛していて、だからこそ、彼女が追い詰められていくのをなんとか食い止めたいのだけれど、せいいっぱい努めるのだけれど、……だって彼女が追い詰められていく原因は、彼にはないんだもの。
いや、まったくない訳じゃないけれど、少なくとも旦那さんは、妻のジヨンがなぜ追い詰められているのかを判ってる、実感している。それが、本作の大いなる救いであると思う。この視点があるからこそ、救いがあるし、いわば旦那さんの視点が、客観的、俯瞰的目線にもなっている。
ジヨンはとても優秀な会社員だった。現場には子供を持ちながらチーム長となってバリバリ働いている尊敬する女性の先輩もいた。能力があるのに重要なポストに抜擢されないことを、その尊敬するチーム長は、私はあなたを評価しているけれど、女性は結婚、出産で現場を離れるからと、長期視野で抜擢できない理由をそう語った。
らしくない、と思った。彼女自身がそうした偏見に闘いながら、ここまで上り詰めて、ジヨンたち後輩女子に尊敬されていたのに。
頭かっちかちな男性社員をまじえたミーティング場面が、もうバチッとその様をあらわしてる。
子育ては女がするべき。祖母に任せるなんて、とか。思春期に差し掛かる息子さん、母親の愛情に飢えているとグレますよとか、まー、よくまー、言いやがるかっ。ならばおめーは、父親として子育てをしたんかよ、おめーはセックスして子供を成せば男として役目を終えたとでも思っとるのかっ。
そんなバカな男どもを、はらわたが煮えくり返っているに違いないチーム長が、ウィットにとんだ返しをして仕事を進める様はメチャカッコいいものの、男どもが、ここでヒステリー起こされて、だから女は、と思いたがっている雰囲気も感じ取って、本当にイライラする。
後にジヨンが吐露するように、相手の無神経さに対して、自分ばかりが、女ばかりが闘わなければいけない理不尽さを、前半でばっちり描く。物語はジヨンの、働いていた時代、学生時代、子供時代、と絶妙なタイミングでさかのぼり、ジヨンが女として、女の子として、直面してきた、この追い詰められるまでの、下地といったものが描かれていく。
前半ちょろっと言いかけたけど、家父長制度意識の強いアジア、日本も確かにそうだけれど、韓国は更に、輪をかけて、強い感じがする。
それこそね、ちょろっと言ったけど、10年、感覚が違う気がするのだ。日本だって今でも、こういう感覚は根強くある。決してなくならないんじゃないかという絶望感もある。
でもそれこそ、表面上は。国家として、女性しか子供を産めないということにようやく気付いて、逆に、子供を産むだけの存在だと思っていたんじゃないかということを突きつけられて、反旗を翻されてようやく国家として、慌てていろいろ動きだした。
もちろん全然十分じゃなく、大企業でなければ対応できない制度ばかりだけれど、でもまあ一応、今の日本の企業社会では、ここまでの冷たさはないかな、という気はしている。韓国はここ20年ぐらいで急激に経済成長してきた感があり、根強い家父長感覚もあって、よりこの問題が浮き彫りになり、社会問題化しているんじゃないかという感じがする。
だってね、私より10若いと考えると、夫の実家での過ごし方とか、なんか昭和の嫁姑の気の使い方みたい、と思っちゃうもの。私は独女だから判らないけれど、それこそ私世代なら、ありそうな感じはする。
私より10若いということは、親世代も10若いと考えると、うわ……いまだにこんな感じなのかと思ったり。いやまあ、日本だって、いまだにそうなのだろうか??
ジヨンは姉と弟の三きょうだいで、このお姉ちゃんと弟がたまらなく、イイんだよね。まぁね、それこそザ・家父長家族で、ただ一人の男子の弟が大事にされまくりなんだけれど、なんたって末子だから、姉二人、とゆーか、ジヨンの姉である長姉に厳しく使われまくっているのが楽しすぎる。
もーお姉ちゃん、好きすぎる。言葉には出さないけれど、彼女はきっと、今のこの社会で、結婚が女にとってマイナスにしかならないから、自分を自分で食わせる道を貫いている。
それも、望んだ道じゃない。それこそここも、男社会の、家父長家族のためである。もっとアカデミックな道に進めるだけの能力があった彼女だけれど、教師となって、自分で言っちゃうけど、そりゃまあ人気があるだろう。メガネボーイッシュ女子、サバサバしてて、めっちゃ友達になりたい。
そりゃね、誰もが、望んだ道に進める訳じゃない。能力があってもなくても、それは出会いや運が関係してくる。でも、この時点での、ジヨン、そして女たちは。
ジヨンの母親、そしてさらにその母親である祖母が、ずっとずっと、諦め続けてきた人生だった。ジヨンがチーム長に望まれたことからさかのぼり、この女系は、優秀な彼女たちだったのだ。なのにこの、悪しき家父長男系社会に押しつぶされ、アヨン(子供の名前)のママと呼ばれ、自分自身を失っていった。
失っていった、と書いて、あっ、と思った。ジヨンの旦那さん、優しい優しい、ジヨンを愛しているからこそメチャクチャ苦悩している旦那さん。彼が、奥さんのこの事態に直面して最も恐れていたのは、愛する彼女を失ってしまうんじゃないか、ということだったのだ。
ジヨン自身が、自らのアイデンティティを手元にしがみつかせることに必死だったから、旦那さんもまた追い詰められていたことに気づく余裕なんてなかった。
旦那さん、デヒョンさんを演じるコン・ユ氏がもう、メチャクチャ良くて。仲野太賀君みたい!と思った。ちょっと、似てるよね。面差しだけで優しくて泣いちゃうぐらい。
先述したけど、ジヨンは同僚のヘスさんに、子育てを手伝ってくれるいい旦那さん、と言い、ヘスさんが、そんなの当たり前でしょ、と返してジヨンはハッとする、そんなシークエンスがある。
そうそう、手伝ってくれる、という表現をついつい奥さん側がしてしまうのが家父長洗脳であり、それをばしっとヘスさんが斬って捨てたのが爽快だったんだけれど、でも、家父長アジア社会は、結局いまだに、そんなところにとどまっている訳で。手伝ってくれる、理解ある旦那さん、この表現に、もっともっと違和感を感じるべきであって。
旦那さんのデヒョンは、そもそもそんな気持ちはなかったであろう。だから彼もまた、この旧態依然の社会に、男子として苦悩していただろう。
同僚から聞かされる、その同僚にとっては得手勝手な妻の言い様に、朝鮮時代に戻りたいなんていう無神経さに、飲み終わったつもりだったとコーヒーをぶちまける彼に、心から、ああなんてすばらしき男子、と泣きそうになる。彼が、ジヨンを愛し、彼女の優秀な能力を、そして彼女の仕事欲を知っているからこそ。
でもそこで、ふっと、考えてしまう。ちらっと先述したけれど、日本ではそれこそ10年前ぐらいに議論されたことかもと思う。国家、社会が、これじゃいかんと気づいた時には、判りやすく議論されるのは、能力のある、一線で働く意欲のある、バリバリキャリアウーマンの女性に対してである。
アヨンのママと呼ばれ、デヒョンの妻と呼ばれ、つまり彼女自身のアイデンティティがない、子持ちの、世間的には邪魔くさい女、とされる理不尽なんだよね。
能力のある女性が、つまり国家や社会の力になるようなエリート女性が、こんな境遇に陥ってるよ、というところが、確かに判りやすい切り口なんだけれど、この切り口は、危険、かも知れないとも思う。こうした、デキる女なんてのは、一握りなんだもの。
ジヨンが、歯がゆい生活の中でふと目にした、パン屋さんのバイト、何でもいいから働いてみたらどうかと思った彼女と、彼女の優秀な能力を思って、したくもない仕事をするべきじゃないと反対する夫、双方判るし、だからこそ、ジヨンのようにバリバリタイプじゃない女性の方が多いと考えると、うーん……と思っちゃうんだよね。
ここにね、まだ、この議論が生じてから浅い感覚を感じたりする。デキる人たちがまず感じる、苦しむ違和感は、既に、それ以外の、デキる人たち以上に声を上げられない人たちが感じているものなのだ。
本当にいまだにかと思う。旦那さんが育休を取得しようとするシークエンスとかさ、それに対して彼の母親が、自分の息子の将来を邪魔するのか!!と激高したりとかさ、ああもう、と思っちゃうよ。
今ね、今、まさしく今、小さな会社に勤めている私は、若い人たちのそうしたサポートに回る立場だけど、いまだに昭和オヤジたちの偏見をバチバチに感じるよ。
それは、小さな会社だから対応が難しいっていうことはあるだろう。本作は、それなりに大きな組織なのに、それなのに、いまだになのか、ということが浮き彫りにされる。小さな会社じゃ、そんな議論の場も産まれず、男性社員の給料明細を目にしちゃってため息ばかりが出る、何もできない、っていう……。本当に、遠い、遠い、道のりだ。
本作はね、ある意味ちょっとしたエンタテインメント、と言ったらよくないかもしれないんだけれど、ジヨンが追い詰められた先に、違う人格……自分の母親とか、そのまた母親、つまり祖母とかに人格が変わってしまう、という展開があるのね。心優しき旦那さんがなんとか精神科医にかからせようとするんだけど……というスタンスも一つの見どころ。
今の時代、それこそジヨンが再就職しようとした、チーム長が起業した会社、でも精神科にかかっている、と告白し、チーム長は今のご時世、珍しくもないわよ、と言ってくれるし、実際そうだし、そうであるべきだと思う。
心の問題を抱えていない人なんていないし、それをプロに相談しながら生活し、仕事をすることが、普通に健全にあるべきであり、それがアジアは遅れているんだと思う。
あーもう、言い切れないまくり。旦那さんが育休とって、その先の物語があったらと思ったけれど、今の、家父長韓国では、出来ないのだ。戻ったらポストがないかも、今も、家父長日本でも、ありうることなのだ……。
ただ救いは、デヒョン君はそんなことを心配しているんじゃなくって、妻ではない人格になってしまった彼女を、失ってしまうんじゃないか、それが自分のせいなんじゃないかと思い詰めたってことなんであった。
この、ジヨンが祖母なり母なりの人格を得る、劇中では憑依、と言っていたけれどそんなオカルト的ではなく、この優秀な女系家族の中で、自分の能力を当たり前に生かして働いて生きていく、本当に当たり前なことを、何故出来ないのか、っていう、そのイライラが、前世に前世を呼び出して、くーっ!みたいな。
でもそれこそ、前述したけど、優秀な女たちだからその主張が許される、じゃダメなんだよ。パン屋さんで働くことが、君のしたいことなのか、なんて、優秀な奥さんだから旦那さんは言うんだろうけれど、パン屋さんで、接客業にキャリアを見出す人、工場の単純作業や、経理や事務といった縁の下の力持ちに見えながらも、プロ技術が発揮できる人たちこそに光を当ててほしい。
本作で唯一もやっとしたのはその一点で、優秀な、技術のある、キャリアウーマンが、閉鎖的、差別的男社会の中で埋もれていくというテーマの中で、能力のある女性だけがピックアップされるとしたら、逆にこの問題を逆噴射させると思った。
それこそ、ベーカリーで、はたから見れば単純作業、簡単ですよとジヨンに話しかけたスタッフの女性にだって、オンリーワンの人生がある筈。だって彼女は、続けたかったんですけどね、と言ったのだ。続けられない理由があって、彼女を引き継ぐアルバイトを募集していたのだから。
どんな仕事をしていても、どんな能力があっても、結婚だの、出産だの、子育てだのが、なぜ女性だけのワンオペになるのだという理不尽、おかしさを共有しながら、考えなければならないのだ。★★★★★
解説動画を観ればなるほどと思う。言われてみれば確かに、若い彼は博と呼ばれ、現在の彼は南と呼ばれていた。確かにそうだったけど、若い彼はファーストネームに君づけで呼ばれるようないわゆる若造で、現在の彼は、銀座を牛耳っているヤクザのボスのために、ゴッドファーザーの曲を弾くことが出来るのは彼だけ、と信頼を置かれているほどのキャリアと腕前である、そんな区分けのように見えていたから。
いやそれも実際にそうだったんだけれど、過去と現在を並列に描くんじゃなくて、パラレルワールドのどこかに穴が開いていて、そこにうっかりつながっちゃって出入りできちゃってねじれているような感覚。そうよそれよ。その感覚を素直に受け入れて、身をゆだねていれば単純に楽しめたのにと、自分のコチコチ頭をぶち割りたくなる。
しかもこれは、一夜の物語と思しき展開ということもあって、ますますねじれたファンタジーワールド風味がある。クリスタル・ケイをシンガーに配し、高橋和也という手練れのギタリスト、若手活躍株だというサックスプレイヤーの松丸契氏を配し、ライブシーンは心躍るカッコ良さである。
主演の池松氏や仲里依紗氏はピアニスト役なのだけれど、ヘンに実際に弾いてるってのを頑張らずに、上手く吹き替えを差し入れながらなのが良かった。ホッとしたというか……こういう音楽映画でよくあるのが、役者さんたちに頑張らせて、あるいは役者さんたちのプライドがそうさせているのかもしれないけれど、実際に弾いているところと差し替えの部分のギャップが見えすぎてしまって、そんなところに頑張らないで、映画のマジックでリアルに見せてよ……と思うことが何度も何度も、何度も!あったから。
つまらないことを言ってしまった(爆)。そしてもう一人、興味深いキャスティング、役名としてはあいつ、とされる、いわば過去と現在の博と南が同一人物だということをつなぐ男である。
プライドの高いチンピラといった風情の男を演じるのは森田剛。この銀座界隈ではヤクザのボス以外は決してリクエストしてはならないゴットファーザーのテーマを博に弾かせてしまうことから物語は始まる。
場末のキャバレーの店主は、この曲は決して弾いてはならないのだと慌てふためく。その時にはきょとんとしていた博だったが、南となった現在の彼は、その怖さを重々承知している。そこに、あいつが出所してくる。南が博だと確信してくるあいつが、過去と現在のねじれた穴をつないで飛び込んでくる。
そもそもこの物語、原作は、実際のジャズピアニスト、南博氏の回想録による原作が元になっているというのだが、そこは鬼才、冨永昌敬監督も共同で携わった脚本だというんだから、元ネタは元ネタとして、南氏の若き頃をベースにしながら、一人二役という奇想天外はオリジナルな発想なのだろうと推測される。
そして夜のみ、一夜のみで展開するというのも。銀座という独特の繁華街。渋谷や新宿ならば、こうこうと明るい、白夜のような非現実だけれど、銀座は同じ非現実でも、ネオンが輝いていてさえ、暗闇のそれである。
そして過去の博も現在の南も、同様に苦悩している。若きボンクラとしてキャバレーの店主に罵倒される博も、場数をこなしてかつての自分のように突っ張ったシンガー、リサ(クリケイ)にダルそうに説教する南も、苦悩のなかみは同じだ。
自分のやりたい音楽が出来ていない、それは才能のなさなのか、今いる場所が間違っているのかという、自分自身を否定するのか、ほかに言い訳を求めてしまっているのか、それさえも同じなのだ。
ジャズをやりたい、そう思ったのは、彼の師匠がノンシャランと弾け、と軽いタッチで弾いて見せた、そのレッスンの場面。師匠を演じるのは佐野史郎氏。カルチャーパイセン、こうしたねじれた世界線の師匠にピッタリ。
ノンシャラン、というのは何か懐かしい、モダニズムを感じさせるような自由と脱力な言葉。この物語自体が、オフィシャルサイトで昭和末期と説明されていることに若干のショックを受ける。末期、という言葉が昭和という年号につけられてしまうというショック。
江戸時代末期とか、私らが判る時代ならバブル末期とか、そういう、もう先細り、もうこの時代は終わり、役立たず、次の時代のこやしにもならない、みたいなネガティブな響きがあって……もはや昭和はそう語られてしまうのか。南博氏がそう感じてしまっているからなのか。
神経質にとらえすぎなのかもしれない。時にコミカルな風合いも伴って展開する音楽の一夜は、ヤクザな銃撃シーンがあったりしても、真夜中にくるくると展開しているネオンぴかぴかの遊園地のようなオシャレさがある。
南がリサに、思いっきりジャパニーズイングリッシュで諭す場面、流暢な英語を操るクリケイから、修道士みたいな英語だとクサされるのには思わずクスリとする。
最終的には、この地から抜け出してボストンに留学したいと願っている南に、この喧騒の中でムリヤリデモテープを録音しようというクライマックスにリサが全面協力、圧巻のステージパフォーマンスを見せる。
オシャレなジャズ、それが、少なくともこの当時の、昭和末期の、実際の南博氏にとって、歯がゆい現実だったのか。自分自身の実力のなさに歯噛みしているところはあったにしても、劇中の彼が言うように、花瓶程度のミュージシャンの立ち位置。有線でオシャレな音楽を流しているのを口パクで演奏しているような程度に過ぎない、聴いちゃいいない、オシャレな壁紙、花瓶、その程度だという悔しさに直面していたのか。
昭和末期、そういう意味では末期という言い方は確かにそうだったのだろう。ヤクザのつまらないプライドがぶつかり合い、オシャレなジャズを遮断してズンドコ節を熱唱したり、チンピラはブタバコにいる間に痩せちゃってズボン落ちちゃってパンツいっちょになっちゃったり。オシャレジャズ映画には決してしない、させない、ジグザグの展開。
それは、池松氏という役者さんが、基本ガチガチのシリアス役者で、コミカルな芝居シーンはあっても、その根底にゆるがないシリアスさがあるがゆえに、周囲のガチャガチャがなんとか彼の牙城を取り崩そうとして……みたいな図式に見える。
師匠から、ジャズをやりたいならキャバレーに行け、と言われた展開、なのにそのキャバレーが、彼の想像を超えた俗悪さだったもんだから飛び出した、それはつまらないプライドに他ならないかったんだと思うけれど、それを池松氏だから、説得力で見せちゃう。
なんとかこの沼地を抜け出して、ボストンに留学したいと、現在の南は思う。渡航するためには予防接種の記録が必要で、そのために母親に母子手帳を見つけるよう頼んでいた。
母親を演じる洞口依子氏が秀逸。ちょっと頭のネジが飛んでしまったようなお母さんで、母子手帳が見つからなかったからとへその緒が収められた木箱を差し出すのにはなかなかの恐怖を感じる。
きっちりと和服を着こなして高級クラブに乗り込んでくるお母さんはあまりにも場違いで、でも……ただ、この場から逃げ出したいがために都合よくお母さんに連絡した南こそが自分勝手で、どんなにとんちんかんであっても、このお母さんを、どうして責めることが出来ようか。
終盤になってくるといよいよ展開は混迷の度合いを濃くしてくる。ファンタジー味が色濃かったにせよ、なんとか銀座にあるオシャレなお店での展開、と見えていたのが、あいつと呼ばれるチンピラがパラレルワールドを突っ切ってきたせいで、わやくちゃになる。
いや、あいつよりもキーマンとなるのは、高橋和也氏演じるバンマス。銀座のヤクザのボスの、奥さんの弟という立場の彼は、役立たずと罵倒され続け、最後の最後、このにっくき義兄をブチ殺す。
ここからが、なんだか、心もとなくなる。巻き込まれた形の南は怯え切って、失神するように倒れてしまう。義兄、謎の男、ビルの谷間に落とされて証拠隠滅。南もまた落とされて……ここからが、よく判らない。
目覚めた南は、良く視界がきかない中で、誰かもしれない男の声を聴く。あれは、自分自身だったんじゃないかと思ったりもするけれど、次第に、ヤクザのボス、謎の男のあいつが取り囲んでくる。ここがどこなのか。日本の銀座の筈なのに、ここはアメリカだと言い張る誰かがいるし、最初から世界線がねじれまくっていたから、もうどうしようもないのだ。
どれだけ年月が経ったのか、南、博、もうどちらも溶け合って判らぬ、山奥の木こりのように髭をたたえ、ぼろぼろの衣服でなんだか突然、夜の路地に立っている。
一目でわかった。築地の、波除通りだよ!ビックリした!!青い壁の洋食屋さんがちらりと映ってあっと思い、波除神社の提灯がしみじみとともっているのがボケ気味にバックに映されているのがグッときまくっちゃう。
その背後には、何になるのかいまだによく判らん築地市場の跡地の工事ランプがちかちかしててさ、泣けちゃう。
なぜこの場所を、南博が旅立つ場所として選んだのか、特段理由はないのかもしれないけれど、今の、市場が豊洲に移った築地が、築地ブランドとして観光客が押し寄せることによって、物販市場としてのプライドをあっさり失ってしまって、質をガックリ落としてしまった今があるもんだから、なんだか……考えてしまう。
そう、こんな風に、夜の人がいない築地の路地を、ホッとして眺めて、でもそのバックには、カジノだなんだと噂される築地市場跡地があり、長年にわたってうごめいていた市場人の記憶はあっさりと失われてゆく。それは、銀座のピアニストの記憶ときっと同じように。★★★☆☆
個人的に最も驚き、というか、感慨深かったのは、ここ三本立て続けに(「そして僕は途方に暮れる」、「スクロール」、本作)スマホに登録された何十人もの知人友人が、ちっとも知人友人じゃない、ちっともつながらない、絆も何もない、ということが物語の起点となっている、ということなんであった。
それはいわば、現代の若者を語る上には凡百の表現というか形式ばったとらえ方と見えなくもないけれど、こうも立て続けに、それこそが彼らを追い詰めるという基本的原因になっているという偶然が、……むしろこれは、今の若者は、みたいな繰り返される小言ではなく、もっと危惧すべき、未来の人間社会における恐るべき不安なのではないかと思えてきた。
本作の彼に関してはそれこそオチで明かされる、中身のない人間だったんであり、突然降りかかってきた不運に、助けてくれない周囲を呪って、疑ってブチ切れる様はクズ男そのものだから、さもありなんという気もするのだが、でも見ている時にはそこまで判断できない。
だってこんなパニック状況に陥ったらそりゃあそんな風になるかもしれないとも思えたが、結局はオチによって、彼はそんな人間に他ならなかったことは証明されるのだけれど、実際の彼の社会生活を見ていた訳ではないから。
結婚式を翌日に控えた彼を祝う同僚たちのパーティーは、それ自体は邪気のないものだったことが後に証明されるし、本性を隠して生き延びてきた彼は、社会生活においてはそれなりにナイスガイだったんじゃないかとも思われる。
そして、本性を隠して、だなんていうのは、多かれ少なかれ誰しもにあることだからこそ、本作の恐ろしさが身に染みる訳だし、つまりは誰も彼も、本当に第三者を心配する人なんていない、そんな社会になっているってことをこの三作とも示唆しているのかもしれなくて。
おお、オチバレせずに上手くここまで来てるぞ。続けよう続けよう。主人公の川村俊介、演じるは中島裕翔氏。ノーブル感さえ漂う端正な美青年。上司や同僚からサプライズで結婚を祝われる幸せな青年、感じもよく、後々そんな化けの皮がはがされるとは……いやいや。
翌日が結婚式だから、浮かれて二次会に流れる仲間たちと別れて帰途につく俊介。その直前にしみじみ会話した同僚の加瀬(永山絢斗)が哀れその後、彼の疑惑に巻き込まれるが、まぁつまり、俊介にとっては、心許せる存在などいなかったのだ。
結婚する相手は社長令嬢。愛情がないとまではいわないまでも、確実に狙った結果だろう、というのは、それこそオチバレによって明確になるのだけれども。
マンホールに、落ちちゃうんである。使ってないマンホール。それほど飲んだ覚えがないのに不穏な酩酊を覚えて、落下する。
後から考えれば、まるで麻酔を嗅がされたように、彼はこの間の記憶が、縫い縮められたように失われている。飲んでいた渋谷で、ぽっかりと空いた穴に落ちた、俊介はずっと、そう信じて疑わなかったのだ。
無論それは、スマホのGPSがそう示していたせいもある。しかし、婚約者から同僚から、登録しているあまたの知人友人に助けを求めて電話しても、今は電話に出られませんのオンパレードに、この時点で何かがおかしいと気づくべきだったとは思う。
電波が届かない、という方が信憑性がある。深い穴の底に落ちたのだから。でもたった一人、つながらなくてはいけなかったのだ。ここに陰謀があったのだから。
俊介の元カノ。5年前に俊介が急に別れを告げたらしいことが、彼女の言いっぷりで判る。バックに常にヒーリングミュージックみたいなものが流れ続けているのが、落ち着かない気分にさせる。
えーと、オチバレ前だから、ネタバレぐらいはしてもいいよね(汗)。この元カノ、舞は電話の音声のみ、つまり演じる奈緒嬢は登録写真と声だけの出演という豪華さである。
しかも、舞だけに電話がつながっていたのはカラクリがあって、俊介の過去の罪を暴き、陥れるために、さらに前の元カノが仕掛けた罠、だったんである。
奈緒嬢のキャストクレジットがあるんだから、声は実際に彼女のものだと思うんだけれど、それは私だったんです、と表れるのが黒木華嬢だというオドロキでめっちゃ混乱してしまう。
あーもう、オチバレしないと話進められない。結構頑張ったから、いいよね??俊介は、実は俊介じゃない。このマンホールが渋谷じゃなく、月の見える方角や雨が降っていること、マンホールの蓋の形状などから、ネット民から情報を募って割り出した先は、北関東。
そして……決定的に俊介自身が判ってしまった、のは、そこに打ち捨てられた白骨化した遺体、それは自分が殺して、すり替わった人物、真の川村俊介、だというカラクリなんである。
この謎解きがなされた時、殺人シーンはそらまぁショッキングだったにしても、その後の、この人の顔になりたいんです、と写真を持ち込み、しんねりとした、すべてを飲み込んだ、闇医者的な整形外科医といい、悪い意味でのマンガチックというか、いくらなんでも、骨格も何も違う人間が、ブラックジャックみたいな天才的外科医の執刀によって、ソックリ別人に生まれ変わるってのがオチだなんて、そりゃないよなあ、というのが正直な印象だった。
もちろん、従前から彼を知っていた人たちは騙せまいと、元カノには別れを告げたし、用意周到にその後の人生を構築してきたんだろうけれど……。
あー、オチバレしたらスッキリした(爆)。マンホールに落ちてからの描写は、凄惨極まりないし、緊張感ハンパないし、メチャクチャスリリング。熊切監督がPFFで鮮烈なインパクトを残した、あのザックザクな残虐さを久々に思い出しちゃったほど。
廃墟と言いたいほどのマンホール。鉄梯子はあるけれどところどころ欠けていて、必死にトライしても落下するし、なんたって最初に落ちた時に見るに堪えない傷を足に負っているし。
その傷を「忘れちゃった?私看護師だから」と元カノの舞(では結局、ないんだけれど……だから、看護師、というのも俊介が彼女のパーソナリティを知る筈ないからウソだったということなんだろうなあ)にレクチャーされて、持っていたホチキスで絶叫しながら縫合するシーンなんか、もう……熊切監督!!!帰ってきたわ!!!と思っちゃったよ……。< p>
壊れたガス管を手持ちのテープで必死に修復した後、動物の死骸から発生しているのかと思わせる不穏なアワアワに埋没して死にそうになったところを、そのガス管のテープを外してライターで爆発させてアワアワ窒息死から脱出なんてゆー、超密室なのに、めちゃくちゃダイナミックなエンタテインメント!!
マンホールの中だけ、という密室感で、閉塞感で死にそうになりそうなのに、ホント、見事なんだよね。
それは何より、今の時代だよなー(こう言っちゃうだけで、めっちゃ昭和女……)SNS活用しまくって、この窮地を脱却しようと試みる、オチが陳腐なだけに(爆。ゴメン!)これこそが、本作の全き醍醐味に他ならない。
確かにこれまた、凡百のやり方といえばそうかも知れない。悩みを打ち明ける主人公にネット民が寄ってたかってアドバイスする、という図式は、その初期の頃には、とてもとても幸福な伝説として、「電車男」があったなあと思い出す。
でも今は、そんな幸福な事例は、絶滅したのだ。……言い切っちゃったが、そう思っちゃうほど、ヒドい事例ばかりが世間をにぎわす。オチバレが判っちゃえば、もはや彼はそんなことは怖くもなかったのだろう。
人生を変えるために、人を殺した、恐らく友達と、本物の俊介は思っていた相手を、ニセモノとなった俊介が殺した。マンホール女として、女に偽装して同情を買って、この状況から脱しようとした彼は、女に偽装した時点でもう、救いを求める自分のアイデンティティを捨てていたし、ネット民を、「電車男」の頃のようにあたたかなコミュニティとして信じるのではなく、自分が助かるための情報を得るツールとして、つまり捨て駒としてしか、思ってなかった。
ネット社会は、その黎明期から体験してきた自分としてはイヤなことも散々あったけど、あたたかな出会いもたくさんあったから、なんか、凄く哀しい。もちろん今だって、ポジティブなことはたっくさんあるのだろうけれど、こうしたネガティブがいつの時代もことさら強調されるから。
そしてまさに、この限られた、映画の尺としても99分、設定としても夜から朝にかけての数時間、そこで刹那的に関わるネット民が、ちょっとのデータで犯人特定!!と個人データを写真付きで暴露しまくり、正義の鉄槌とばかりにその相手に突撃してボコボコにしたり、それがたった数時間の、一夜の間にあっという間に盛り上がって、これこそ正義だとついた炎が消しようもなくなってしまうリアリティ。
それをあおっている俊介(じゃないんだけど)が、ここから脱出しようと必死だから、自分に必要な情報以外は炎上しているその向きをスルーしているうちに、どんどん盛り上がっている一方がいて、それを俊介もヤバい時に都合よく利用しようとしたりして、どうしようも収拾のつかない結末に向かっていってしまう。
黒木華嬢扮する10年前の元カノは、どうやってニセ俊介の殺人を知ったのだろうか??ニセ俊介に接触する機会があればニセ具合は判っただろうけれど、入れ替わった当初の元カノの舞ならいざ知らず、その前の、実にひと昔前の彼女が、というのが、年月による執念は感じるけれど、その間のなんなりが示されないので、かなり唐突感がある。
ニセ俊介自体はどの程度、ホンモノ俊介を網羅していたのかが判らないということもあって……転職する直前、前の職場に挨拶して帰途についた俊介を訪ねたニセ俊介、吉田君、と呼んでいたように思う。俊介をメッタ刺しに殺して、マンホールに投げ入れた。
その間、誰も見ていなかったような描写だし、その時付き合っていた彼女は舞であり、舞は何も気づいてなかったようなのに、そのまた前の彼女、その時点から5年前の彼女が、どうやって気づいたのか。
ニセ俊介が本物俊介の動向を、誰とどれだけ連絡を取っていたかなんて判りようもないんだからそのあたりにカギはあるにしても、直前の元カノが判らなかったのになあ。このカラクリが示されないのが逆に怖いなあ、と思っちゃって。
そんなことを気にさせないぐらい、突然ゆらりと登場する黒木華嬢の存在感は抜群なのだけれど。彼女一発で、整形であっさり別人になっちゃうとか、それを10年前の元カノが見抜いちゃうとかいう、いやそれってさあ、と思いかけたところを、説き伏せらてしまう感じがある。
ネット民が無責任に盛り上がって、その中でマジに思いつめてニセ俊介の同僚をボコボコにしたり、マンホール姫を救出するんだ、と間違って元元カノを救出してニセ俊介をマンホールの蓋閉めて閉じ込めちゃったりするのが、あどけない、中学生、ひょっとしたら小学生かも!!という少年のキャラだというのが、そうか、そうかも、ネットの情報の中で正義を純粋に信じちゃうのはそういうことかも!って……。
ネットの中の世界、いかようにも、個人個人で否定も肯定もできちゃう。圧によって流されもする。圧倒的な流れの中で、抗うことが怖くてできない、それどころか、自分が本当はどんな信念を持っているのかさえ、圧倒的な流れに押されて、曲げられてしまう。
今、取り沙汰されているニュースとも言えない炎上事例の数々に、ほんの数か月過ぎて、冷静になって考えれば、と思うものがある一方で、もっと重視されなければならないのに、うまいことスルーされて捨てられそうになっているものもある。
ここ連続で、個人的テーマを題材にしつつも、めちゃくちゃ時代性、社会性の重大さに触れていて、いろんな事件があれこれ頭に浮かんで、凄く、怖かった。★★★☆☆
インフルエンサー、ミトヤマネを演じるのは玉城ティナ嬢で、彼女のくっきりとした美貌は、ネット世界の人気者、インフルエンサーという新しい職業の醸す、非現実感にピッタリ。
二次元的であり、アバターのような立体感もある、なのにどこか素通しみたいな。AIの作った美女、みたいな。
中盤、彼女の顔をプログラミングして、誰もが使えるアプリとして売り出す、という展開があり、そこで示されたAIミトヤマネを、どこかぼんやりしているでしょ、とマネージャーは言った。でもそう言われても、ピンとこないほど、ネット上に現れるアバターたちはもはや、人間と見分けがつかないほどのリアルさを持ってきているのだ。
それは一方で、生身の人間が生きたリアルさを持ち得なくなっているということなのか。インフルエンサーとして活動するミトヤマネはファッションや料理などあらゆることを発信するけれど、そのどれもが、リカちゃん人形の世界の中のように、現実味がない。それはきっと、彼女自身が本当に笑ってないから。美しく笑ってはいるけれど、楽しそうじゃないから。
と、こんな風に思い返してみると、本当に、あれだけ大人気だったのに、ミトヤマネという女の子が一体どんな顔をしていたのか、どんな存在だったのか、判らなくなってくる。
ミトヤマネを演じているのが玉城ティナ嬢、と言ったけれど、結果的には違うのか。彼女の妹ミホとして姉のミトを支え続けていた彼女が、ラストシークエンスではこの騒動を生き抜いたミトヤマネとしてYouTubeに再降臨する。再降臨……今までその顔は妹のミホだった筈なのに。
ミトヤマネのマネージメントをしている男性はいたけれど、結局はリスクのある海外アプリの高額ギャラに目がくらんで、それが世界展開だとカン違いして彼女たちを大炎上させ、叩き潰したのだから、彼はただの能無し野郎だったのだろう。
実質的には妹のミホがマネージャー的存在に見えた。このアプリの話にも、危ないんじゃないかと真っ先に懸念を示していた。でも姉のミトは、知られれば知られるほどいいじゃないかと、受けたのだった。
確かにその論理は、いわゆる芸能稼業では正しいのだろう。知られてナンボ、そこからが勝負だと。ただ……ネット、SNS、インフルエンサーという世界は、製作に携わる人数が少なく、客観的な視点が乏しいという印象が、今はまだ、あるような気がする、と思ったのは、今この作品に接して改めて感じたのかもしれない。
テレビを代表とするマスメディアが面白くなくなったと言われるのは、そうしたチェック機能が忖度を産み出し、冒険を妨げるようになったからなのはそうなのだけれど、個人的発信がどれだけプロフェッショナルなのかどうかというのが、今まさに問われている気がして。
客観的マスメディアの視線の中で、虚像もありつつ磨かれていくキャラクターの一方で、今のSNSは確かに、こんな風に、あやふやであいまいで、危うい。
あんなにもくっきりとした美女の玉城ティナ嬢から、妹のミホを演じる湯川ひな嬢に切り替わって世間の誰もが気づかないなんてありえない(失礼な言い様だが)とは思うけれど、同じような背丈、同じようなメイク、ボブカットに同じヘアカラー……最初は、そこまで相似形なファッションやメイクじゃなかった気がする。
ある瞬間から、あれっ、と思った。あの瞬間はどこだったか……。街中でバレちゃってファンから追いかけられる場面のどこかで、スイッチが切り替わった感じがした。
お姉ちゃんを逃がすために逆方向に行ってファンを引き付けたミホが、マスクとサングラスをとっても、ファンたちは群がり続け、一方のミトはそれを遠目に眺めているばかり、だったのだった。
そして逃亡先の彼女たちの故郷、沖縄だろうか、そこで、近所のおばちゃんに認められるのはミホだけなんである。すぐそばにいるミトはまるで目に入らないかのように、いや、実際目に入っていないのだろう。
お姉ちゃんがいると言うミホに、ミホちゃんは一人っ子だと思っていた、あがってお茶でも飲んで言ってよ、と言うおばちゃん。それまでもなんとなく感じられていた違和感が、このシークエンスでハッキリと、そうなんだよ、と提示される。
ミホしか生身で存在していない、ミトは人の目に映っていない。ティナ嬢の完璧な美貌が醸し出していたリアリティの欠如は、そういうことだったのだと。
でも、そう断定するのには、中盤までのシークエンスで、少なくともマネージャーの男性とは、ミトとミホはハッキリと判別されて会話も仕事の進め方もしていたし、ムリがあるよなぁ、というのが正直なところ。
だから迷っちゃう。ティナ嬢が演じたミトが、ミホとマネージャーや周囲の人たちによって作り上げられた虚像なのだという結末に落ち着くにはいろんなムリがあるし、なにより、ラストのラストで、妹のミホが、死にかけたミトヤマネが復活した、としてYouTubeに登場するのを見て、ミトは私こそがミトヤマネだと、生配信をスタートし、この物語は終わるのだから。
この姉妹が飼っていたミニブタちゃんが行方不明になる事件がある。結局見つからないまま、街中に出ていた彼女たちをファンが見つけて騒ぎになったり、アプリを悪用されたことで炎上し、身を隠す事態になってなんだかうやむやになりかかる。
でもあのシーン……ミトがミホに、忘れちゃったの?と問いかけるのだ。このわたわたの中で、そりゃ大変だけど、大事な家族であるミニブタちゃんを忘れるなんておかしいでしょ、というニュアンスたっぷりで問いかけたあの時、彼女は既に妹に対する違和感を覚えていたんじゃないのか。
でもそれは、後から思ったに過ぎない。正直中盤からは、唐突感が否めず、なんでこんなに尺を絞ったのか、中盤からこそ丁寧に、この不可思議な二次元的謎を、この作品なりの形で描いてほしかったと思う。いやその、私がアホだから、結局何なのと思っちゃったから(爆)。
沖縄に逃亡してからは、完全に姉ミトは人々に認識されてなかったよね??それもまたあいまいというか、絶妙な処理ともいえるけれど、スーパーに買い物に出かけて気づかれたのが姉なのか妹なのか、帰ってきた時に入れ替わっていたり、かぶったキャップやサングラスはそらまそうだけれど、ファッションもメイクもヘアスタイルとその色味の入れ方も、ここに至っては気味の悪いほどシンクロしているから、観客も惑わされてしまうのだ。
あれ、こんなつまらない外見の要素であっさり騙されてしまうのかと、それは確かにそうかもしれないと思いながら、でもその延長線上で、ミホは暴徒化した近隣住民に殺されかけ、それを冷静に録画している姉のミトなんである。
考えてみれば、この殺されかけた録画映像こそが、安易なアプリに手を出して国際社会をぐっちゃぐちゃにして炎上しまくったミトヤマネを、ここまでされるのは理不尽でしょうという、究極的な意味合いで救い上げた逆転ホームラン。
それを、映画の観客としては、彼女こそ本当のミトヤマネである玉城ティナ嬢が、もしかしたら死んじゃうかもしれない妹の、ボッコボコにされている現場を冷静にレックしているのをまざまざと見せられる。
こ、これは…と思っていたら、ミトヤマネだった筈の、絶対的ミューズ、絶対的美貌を持つティナ嬢演じる、ミトヤマネだった筈のその立場を、言ってしまえばごくごく平凡な容貌の妹に、奪われてしまったのだ。
ティナ嬢とミホを演じる湯川ひな嬢の容貌のハッキリとした違いがあるから、より際立つ。
あんなにもくっきりとした美貌のティナ嬢が、ネット、二次元、AI、アプリ、あらゆるあいまいな現代言語でどんどんぼんやりとしていって、妹とは言えまるで似ていない、完全に別個性の存在が取って代わってしまえるという恐ろしさ。それこそが、本作のポイントだったのだろうか。
YouTubeとか、いわゆるSNS界隈はある程度のハイテンションでポイントを獲得している感覚がある。そのことに対する違和感は確かにあって……何かを好きになったり、応援したいと思うことは、刺激的である必要はない筈なのだけれど。
でも本作での、ティナ嬢演じるミトヤマネは、ファッションも料理も落ち着いた雰囲気で発信していた。でも、ハイテンションなビジネスに巻き込まれた。
ちょっとね、このあたりの、展開と彼女自身の価値観の違和感が、尺の短さもあいまって、今一つしっくりこない感じはあったかなぁと思う。彼女たちをちゃんと助ける人物がいなかったから、ミトヤマネ姉妹、ことにティナ嬢演じる姉が浮遊感過ぎて、観客がおどおどしちゃうと思うんだよなぁ。★★☆☆☆
安藤サクラ氏演じるネリの所属する詐欺グループの内部構造の複雑さ、ネリが足しげく通う貧民層がたむろするアパートふれあい荘、ネリが根城にしている、店の名前がタイトルにもなっているバー、そして意味ありげに登場するセレブ男はネリと関係があるらしいとか、あらゆる場所、あらゆる人物、そしてあらゆる種類の特殊詐欺の展開が、すさまじいスピードで駆け抜けてゆくので、情けなくもついていけなくて。
でも久々に思いだした。時代劇や激しめアクション映画がちょっと苦手で、原田作品に臨むのは久しぶりの感ありなのだが、そうそう、この疾走感こそ原田眞人よ、と思いだした。
特に冒頭は圧巻。ネリが年配の女性が引き出した金を確実に受け子に渡るよう、周到に目を配り、街中を走るかの如く歩き回り、刑事が張っていると判断すれば潔く断念させる決断力。
この冒頭のシークエンス一発でネリがいかに頭の回転の速い、ボスの高城に一目置かれている存在かを観客に知らしめる。
しかしその高城は、お前は三塁コーチに過ぎないとくぎを刺し、ネリもまたそれをわきまえている様子なのが、目をかけているからこその慎重さと厳しさなのかなと思ったら、ラストでまさかの実の父親かよ、という……おっとっと、早々にオチバレゴメン(いつものことだが)。
でもこんな風に、血がつながってようがつながってなかろうが、親兄弟、というのががんじがらめのしがらみとしてネリに付きまとい続けるのが、本作のキモだということなのかもしれない。
確かに特殊詐欺グループの描写は微に入り細をうがち見事なのだが、カモになるリストを作る名簿屋、詐欺電話をかけるかけ子、金を受け取る受け子、金をATMから引き出す出し子等々、じっくり見たいと思わせる会社組織そのもののしっかりとした内部構造が、先述のように駆け足で示されるので、ついていけない……のは私だけかもしれんが(爆)。
ちょっともったいないような気がする一方で、これをじっくり見せたらそれだけで一本の映画になっちゃうし、それは本作のやるべきことでは、ないんだろうな。
ネリと山田氏演じる弟のジョーは、血がつながっていない。お互いの親が再婚同士、優秀なネリに比して登場する前から問題アリなのが示されている弟のジョーだが、結果的にはネリを愛するがあまり無謀な敵討ちに打って出て命を落とすのだから、これ以上ないザ・弟なんである。
おっとっとっと、またオチバレ(せずにはいられん)。そもそも彼がブタバコにぶち込まれていたのは、彼の父親がネリをレイプしていたのを知り、ぶち殺したから……ではないか。それは隠蔽されたっぽい。後の姉と弟の会話によると。保険金も降りたようだし。
つまりはそんな直情型の、いい言い方で言えば正直な、ピュアな感性の弟君は成人してからもなにかと行き詰ってぶち込まれていたということか(言ってたんだろうけど、聞き取れなくて……)。
ネリは、こんな詐欺集団と言えど、その中での優秀営業部員よろしく、しっかりと結果を残し、ある程度の先のことも考えている。
弟のジョーはというと、ザ・いきあたりばったり。いかにも危なそうな仲間とつるんでネリが牽制するのもいとわず、聞こえのいい仕事を請け負い、しかしその前に遊んでいきなよ、と賭場であっさり金を巻き上げられる始末。
ネリを連帯保証人にしちゃって、しかもその仕事、判事殺しも全うできず、つまり……人を殺すことが怖くてできず、ぶるぶる震えて逃げかえってしまう。
仲間の一人が死んでしまい、もう一人の仲間を、もっといい稼ぎ先がある、と誘ったのが高城殺し。確かに高城は犯罪ビジネスだけれど警察や政治トップともつながりがあるとささやかれ、手堅く稼いでいて、その資産は想像するだけでも計り知れない。
その計画をジョーはまず姉のネリに働きかけたのだが、ネリは現実主義、一笑に付した。ただ……この時点では、観客はもちろん、ジョーも高城がネリの実の父親だなんて判っていない訳で。
貧民層のおっちゃんたちが、ネリの本当の身内のように、和気あいあいとし、時には仕事を手伝ってもらい、その心身を気にかけている。
その中でも一番は、曼荼羅と呼ばれるおっちゃん、演じるは宇崎竜童氏。アル中で時々訳が判らなくなるのだが、冷めている時には優秀で、ネリは「壊れているけれど、まだ使える」と高城に何度も上訴して、曼荼羅に仕事を与えているんである。
てゆーか、曼荼羅はそもそも、高城の右腕であり、金庫番を任されているまでの存在だった。だからこそクライマックス、高城をうっかり殺しちゃった(うっかりもないもんだが)後、高城の資産を現金化するために彼が必要になる。
暗証番号、出金するにも銀行側に信頼されているし、何より曼荼羅のおっちゃんはネリのことを気にかけていて……それはネリがおっちゃんのことを気にかけているように、この二人こそがまるで親子のような運命の絆なのだ。
だからこそか。ジョーと曼荼羅は、こんな事態になっての初顔合わせではあったけど、高城には軽んじられていたジョーが、曼荼羅のおっちゃんとは、その最初から不思議とウマが合っていた。
ネリを苦しめたセレブ男の殺害計画を曼荼羅のおっちゃんが知っていたのも、出会ってからあんなにも短い時間で、そんな無謀な計画を、でもジョーの気持ちを汲んで打ち明けられて心にとどめていた経過を考えると、胸に迫るものがあるんである。
結果的に、それまで受けてきたヒドい仕打ちがありながら、保守的に自らを律してきたネリに対してのジョーは、彼女がこう生きてみたかったと思わせるような傍若無人で、だから、無謀だと思いながら、血もつながっていないのにでも弟だからという運命の線を断ち切れず、究極の選択を強いられたのか。
高城を襲撃してカネを出させる。その場面にネリが居合わせ、ジョーが高城に組み伏せられた時、殺されそうになった時、ネリは……血のつながった父親ではなく、血のつながっていないジョーを選んで、高城を刺し殺した。
これがねー……やはり凄い重要事項だと思う。ネリは、なんであんたを助けちゃったかなと吐露する場面もあるけれど、でも、もし時間をまき戻したって、彼女は同じ選択をしたと思う。
確かにどうしようもない弟、愚かなバカな弟。血もつながってない。でも……血がつながってても、つながってなくても、両方の父親から凌辱され、罵倒されたネリにとっては、そういう判断材料ではなかったんだろうことは想像に難くない。
それでも、それでも他人ではなく弟。賭場でアホな借金をこしらえた弟に、きっちり返させるしっかり者のお姉ちゃん。
そうしたマジメさが、ヤクザものとのつながりを、ビジネスを生み出し、資産換金のビジネスをシビアにやり取りするなんていうことにまでつながる。アホな弟だったのに、姉を助けるつながりを産み出した、この不思議さ。
弟君、ジョーを演じる山田涼介氏の完璧な美貌は、ここでは見事に、無駄なものとして、だからこそ退廃的な美として鈍く光る。漢字もまともに書けない彼は、高城氏に提出する履歴書もひどいもんで、なんせ補導歴、逮捕歴しかないんだから。
その、漢字もまともに書けない彼が、最後の最後、ネリに残した手紙が、それこそひらがなだらけなのが泣けるんである。姉を性の奴隷にして、殴りまくって左耳を聞こえなくしたキチク、胡屋をぶっ殺さなければネリは根本的に幸せになれない、そう思い詰めた。
せっかくすべてがうまくいって、曼荼羅のおっちゃんの助けで現金化もできて、海外逃亡まで道筋が出来ていたのに。こんなクズ男なんて、ほっとけばよかったのに。
このクズ男、胡屋のキャラクター描写はなかなかにハデというか、マンガチックなウソ臭さがある。こってりメイクでミニのタイトスカートの女たちをはべらせ、ナニをしゃぶらせる。しかしてその側近の美女たちはレズビアンでレロレロ、みたいな(爆)。
ピカレスクロマンな世界観は確かにあれど、胡屋氏周りのシークエンスだけがその要素が過剰で、ネリがコイツにレイプされ、暴力を振るわれ、というのが後に語られても、キチクな男だと憎むだけのインパクトが、そこまで湧いてこないのが歯がゆいところ。
そんないびつな形でもネリを愛していた、というのを描くにはそんなマンガチックさが手助けされなければ難しかったのかもしれないとも思うけれど、それは逃げなんじゃないのという気もしたり……。
劇場型殺人で、派手にぶっ殺される胡屋と、その後駆けつけた警官たちとの銃撃戦で命を落とすジョーと。日本の警察が、いくら抵抗して発砲してくる犯人と言えど、あんなばっちり射殺するのは絶対ないと思うけどねぇ。
ネリを送り出して曼荼羅のおっちゃんも、思い出の場所で静かに息を引き取った。
ジョーの非業の死をラジオのニュースで知ったネリは、それを飲み込み、海外へと旅立つ。高城のオフィスから出てきたふれあい荘の権利書を、そこに住みつくインテリの“教授”に託して。
安藤サクラ氏の素晴らしさは言わずもがなだが、弟役の山田君が思いがけず(というのは失礼だが)良かった。ドラマを観る習慣がなく、映画でも縁がなくて遭遇する機会がなかったのだけれど、本作のジョーを演じる彼は、その完璧な美貌が故に、直情的な愚かさで道を踏み外し、血のつながらないお姉ちゃんを幼い頃から直感的に信頼して愛したのが100%伝わる。
それが故に、そのすべての彼の判断が故に、命を散らしてしまう、というのが、どうしようもなく、そうだよねと思わせる体現っぷりで、バカだよ、と思いながら、彼にその道以外の選択肢がないというのを叩きつけてきて、反論のしようがなかった。
愛の愚かさだよね、本当に……でも愛はやっぱり尊いものだ。最初は複雑な特殊詐欺グループの内情に戸惑ってついていけなくて焦ったけど、最後はこの美しき姉弟に心打たれた。打たれてしまった。★★★☆☆
でもなんたってピンク映画業界をそれに当てているっていうんだから、心穏やかではいられないのだ。
実名監督がばんばん出てきて、長年活躍してきたピンク男優さんたち(今や垣根を越えての大活躍だが)がそれを演じている。事務所に貼られたポスターのタイトルにはいくつも見おぼえがあって、ああ、もう、心穏やかではいられない。
リアルに成人館に足を運ぶことが出来なかったことが悔しいと思うほどに、当時それに出会ってしまった私にとってはまさにここが、映画の最後の楽園だと思えたから。そしてその本数が激減していく様を、まさにリアルタイムで目の当たりにしていたから。
監督や役者さんの死もその中にあって……本作のような心中なんてものは記憶にないけれど、わざわざそうしたのは、実際にピンク業界の中でそんな出来事があったのだろうか??
モノクロとカラーが印象的に使い分けられる。モノクロームは、今の時間軸である。いつもいつも、雨が降っている。物語の最初は、栩谷(綾野剛)が通夜をハシゴするシークエンスからである。まず訪ねた祥子(さとうほなみ)の通夜。両親に門前払いされる。栩谷が、祥子が夢見た女優の映画仲間であることを、憎悪したのだった。
心中相手は彼女をヒロインに据えた監督、桑山(吉岡睦雄)だった。祥子には長く同棲している相手がいることを両親は知っていて、当然桑山だと思いこんでいるらしいが、実は栩谷こそがその相手なのだった。
それが、桑山の通夜の席で明らかになる。集まったのは皆ピンク映画の業界仲間たち。風前の灯火であるピンク業界で、何年も撮っていない監督たちばかりで、不毛なケンカが始まってしまう。
劇中、撮影風景が描かれたりもするが、いわゆる商業映画の大掛かりな撮影と違って、ちょっとした家族フィルムをとるかのようなささやかさは、それこそAVと何が違うのだというような輩もいるかもしれない。でも彼らは言うのだ。これは映画だ、映画を撮りたいから自分たちはここにいるんだと。
という思いをひしひしと感じながら、いつもピンク映画を観ていた。そしてその終焉を、この作品で突きつけられるような、一つの幕引きをしたようにさえ感じたのは、思い込みすぎだろうか。
6年、と言っていただろうか、栩谷が祥子と同棲していたのは。それなのに彼女が一緒に死を選んだのは別の男だった。
段々と、二人の間に何があったのかが明らかになっていくし、直前の栩谷のひっどい言動は、こんな男は捨てて同然!!と思うが、その先に別の男との心中があるとは想像がつかなかった。
というより祥子の人となりというか、彼女の心情が、判るようで判らないようで……それはきっと、二人の男に二分されて描かれるからなのか。
もう一人、メインの人物が現れる。仕事がないから家賃も滞納しちゃっている栩谷に、家主がアルバイトをあっせんしてくれたのが、古アパートの建て替えを計画しているのに一人だけ一向に出て行かないという男へ、立ち退きを要求してこい、というんである。
この時点では恋人に死なれて意気消沈しているというばかりの弱き男にしか見えない栩谷が気乗りせずに向かうと、風変りな伊関という男(柄本佑)が顔を出し、のらりくらりとかわすものの、いつのまにやら栩谷と意気投合、というか、彼らそれぞれが愛した女の話を、何とはなしに飲みながら話し出す。
もう最初から、顔見せしてるから観客にはまるわかりなのだ。同じ女性、祥子。伊関は脚本家志望だったけれど、結局芽が出なかった。栩谷はピンク映画の監督として、なかなか新作が撮れずにいる。
伊関と付き合っていた頃の祥子はまだ新進女優で、栩谷との時代は、彼女の方が女優として立っていて、栩谷がくすぶっている。そしてどちらにしても、上手く行かないのだ。それがどちらも男のくっだらないプライドだと思っちゃうのは、フェミニズム野郎の悪い癖なのだろうか。
時間差があるとはいえ、二人が愛した女性が同一人物、というのは、映画的マジックの心地よさはあったけれど、だからこそ何か……スポイルされた女性像というか、違うかな、上手く言えないけれど、祥子という女性が、本当はどう考え、男を愛し、女優という仕事を愛したのかが、二人の理想、いや、理想と言うのとも違うかなぁ。
今苦しんでいる自分にとってのそうあってほしい女の子というか、それが、二人が同じ女性に対して、しかも過去回想として、一方は死なれた直後のセンチメンタルで語ることも相まって、一体祥子って、何を思っていたの、何をしたくて、どうして死んでしまったのと、きっと彼ら男たちとは違う歯がゆさと地団太を踏みたい気持ちで、思ってしまう。
伊関にとっては初めての女性、彼は祥子も処女だったとうそぶくけれど、その真偽がどうであれ、甘い生活だった。
小さな劇団の新進女優であった祥子は、伊関との子を宿すものの、主演舞台が決まったこともあり、堕ろしてしまい、伊関は脚本も上手く行かず、二人の仲は亀裂が入ってしまう。
栩谷とは全く逆である。栩谷は子供が出来た祥子にあからさまに難色を示した。家族になる自信がないと言った。私はフェミニズム野郎だから、そう、悪い癖だ。栩谷の方を糾弾してしまいそうになる。
でもどうなんだろう、結局はタイミングなのか、運命なのか。子供を産んでほしかったと言ってくれた伊関となら、幸せになれたのか。夢を諦めるしかなかったのに、しかも伊関は彼女の決断を言い訳に自分の夢がぐだぐだになったのに。
そして栩谷は、自分の夢が夢かどうかも定まらないまま、長年新作を撮れないまま、祥子の赤ちゃんを拒絶し、流産という経過の後もよく判らん苛立ちで、資源ごみの分別やら、流しに油を流すなやら、言い出すのだ。なんなのだこれは……。
こういうの、そもそもの基本なんじゃないの。二人で暮らすには、最初にクリアしとくことじゃないの。してなかったとは思われない。赤ちゃんという問題を介在して、なにか急に、栩谷がいら立ったように思えてならない。
そしてなぜ、祥子がそんな彼に対してゴメンと謝ったのかも判らなかったし、その後、この家を出て行った祥子が他の男との心中を選んだのはもっと判らなかった。
心中というのは、確かに映画的に魅力的なファクターで、身勝手な愛情とはいえ女を愛し続けてきた男たちに対して、その無責任さを突きつけるには有効かもしれない。
でもその女自身にとっては、侮辱的描写に思えてしまう。祥子という女性が、確かによく見えにくいキャラクター造形であったにしても、フェミニズム野郎としていい方向に見たいこちとらとしては、彼女は、判らずやの恋人に失望したから、自分を愛してくれる監督と心中するような女じゃなかった、と、思いたい。
駆け落ちならまだ判るのだ。なぜ心中なのだ。いや、駆け落ちは、男側に覚悟がなければ出来ない。本作が、風前の灯火のピンク業界を舞台に選んだからこそのそもそもなのだとしたら、そうかとも思うけれど、だったら余計に残酷だ。
頼まれたわけでもあるまいに、こんな残酷な引導を本作が渡すほどの覚悟があるということなのか。頼まれたわけ……じゃないよね……??と思うほど、知己であろう実名が飛び交ってドキドキしちゃうんだけれど。
本作にはピンク映画で長く活躍した男優さんたちが多く出演していて、でも女優さんは一人も出てこない。それがピンク映画の長い歴史の中でもそのとおりだし、いや、ベテランの女優さんが今も数人、活躍はしているけれど、ヒロインとして入れ代わり立ち代わり登場した母数に比して、やはり……ピンクの女優は消えゆくもの、と思わざるを得ない。
それはピンクに限らずかもしれないけれど、やはりおっぱいの魅力、それをさらす若さと度胸、そして自信が、女性と世間というものを考えると、そうなるかなと思われる。
ずっと、考えているのだ。女に求められるもの、それは世間からというものなのか、男からというものなのか。それが同時発生したところに、ピンク映画という、いわばあだ花が開花し、でもその中に、確かに輝きがあったのだ。
本作は確かに、ピンク映画に対する愛情は感じられた。その斜陽に寄り添って、祥子という女を象徴として持ってきた。でも、なにか、違う気がする。だってこれじゃ、女というものは、女優というものは、男にとっての女というものは、男性観客に対する女優というものは、こんなにもぼんやりしているのかと、失望してしまう。
雨の中というのが皮肉じゃないか。判ってない、判ってない!!ちっとも女を愛してないし、女優を愛してない。女は子供を堕ろし、女は子供を流産し、愛してもいない男と心中した。
そんなバカな。そんなことをする女が現実にいるとは思えない。だったらこれは、男の理想?ヒドい理想だ……男が夢につまづいたことに言い訳するための女の理想ではないか。
確かに風前の灯火だけれど、現代ピンク映画はとても鮮やかで斬新で、こんな世界じゃない、と思う、思いたい。
伊関が部屋に囲っているマジックマッシュルームでトンでいる女の子や、レズビアン描写、伊関と栩谷が彼女たちに食われるシークエンスなど、現代的ブラックなエロユーモアにも富んでいるが、全体的には昭和なじめっとした、ピンクというよりポルノ的印象。
本作が描いている舞台、世界観は、ひょっとしたら10年前ぐらいな印象もあるけれど……今後、ピンク映画はどうなるんだろう。OP映画しか残ってなくて、その中で作られている作品は、とても攻撃的だ。
でもいつか、遠くない将来、ピンク映画の終焉が訪れるのだろう。それを見越した本作の製作であったのかとも思うけれど。★★☆☆☆
本作に関してはこれが、“労務管理モデル宣言都市”である尾西市を、もうタイトルクレジットの時からしっかと掲げてて、劇中でも早速触れられているし、もうめっちゃ尾西市の宣伝映画、なんだよね、ちょっとビックリするほど。尾西市側があれこれ口を出したんじゃないかとあらぬ想像をしちゃうぐらい、尾西市良いとこ、な宣伝感が満載。
しかし面白いことには、寅さん的な、観光地としての魅力発信ではなく、働く街としての魅力を全面に宣伝していることなんである。いわゆる集団就職、いわゆる女工さん。全国から集められる若い女の子たちは、織物で有名なこの街の工場に寮生活をしながら働いている。そう聞くと過酷な、蟹工船的なものをイメージしそうになるのを、本作は真っ向から、冒頭から、違うんですよ!!と否定してくる。
主人公のチンピラ、昌次がヒロインのサツキに出会ったのは、彼女たちが休暇を利用して遊びに来ていたロープウェイ乗り場。後に彼女たちが働く尾西市で再会し、彼女たちがまるで企業の宣伝ビデオのように紹介するのは、たまには都会に遊びにも行くけれど、会社のレクリエーションでなんでもあるから、と充実した福祉内容を楽し気に語るんだから徹底している。
ある意味、なんでもあるここに囲われているという見方が出来なくもないけれど、そこにチンピラという異物感たっぷりの二人、そしてこの土地に生まれ育った青年、太一というキャラが緩衝材となって、青春映画として出来上がっちゃう。
青春映画、だけど、結構ラストに至っては壮絶。この時代の映画はホントに、ギュッとした尺であっけらかんと凄いもん放り込んでくるなぁと思っちゃう。
もうオチバレバレで言っちゃうけど、昌次はチンピラから足を洗うために、小指を切り落とすハメになる訳。正直、ヤクザにもなってなかった、チンピラどまりだったのにさとも思うが、案外、小指だけで許してくれるのも優しいかも、と思ってしまうのは、現代のザンコクヤクザ映画に毒されすぎだろうか??
そう、ホントにただのチンピラよ。尾西市で出会う太一は、あいつにはまだ見込みがある、自分だってそんな時があった、というぐらいの、男の子には通りがちの反抗期のようなものに見える。
さらりと回想される、彼自身の辛い家庭環境もあるんだろうけれど、それこそこの町で、青春を謳歌しながらも労働に踏ん張ってる若い彼らすべてに、それなりの状況はあるのだ。
実際、そうした会話もかわされる。彼ら二人のヒロインであるサツキの、実家に残した家族の辛い状況。それを聞いて動揺しながらも昌次は、そんなのはよくあ別に珍しいことじゃない、とうそぶくも、太一は、あっさり、それはそうだ。でも珍しくないことと大変なこととは違うだろう、と明快に言い渡す。
そうだ、よくあることだと、自分はそんな理由でヤクザになったんじゃないんだと、いじけてたんじゃないんだと心の中で言い訳したであろう昌次にハッと振り返らせるような明快な返答。
……なんか思いつくままに書いてしまった。ちょっと整理整理。昌次とサブがチンピラ兄弟分。サブはわーお、マチャアキ。昌次を兄貴と慕うキュートな弟分。
彼は自分のルーツが正当な渡世人だったことを誇りに思っているから、今のチンピラ稼業に疑問を抱いていることを冒頭でもう吐露しているので、まぁ先は見えている(笑)。
最終的に尾西市で、引退したヤクザの親分さん、つまり、彼が憧れる正統派のヤクザさんが、なぜこの稼業から足を洗ったのかを目の当たりにする、という実にまっとうな筋の通り方が用意されている。だってサブは、現代やくざ稼業が、弱きを助け強きをくじくという、極道のクラシックを失っていることを知っているからさ。
昌次とサブが課されているのはすけこまし。うわー、久しぶりにこの言葉聞いたわ。悪い言葉で言えば女衒、いや、彼らは成人女性をターゲットにするから、まぁ今で言うところの、風俗やAVのスカウトマンといったところか。
そう言い替えると、彼らがヤクザだ極道だと粋がっているのが、本当に幼く感じる。つまり彼らは親分たち、大人たちに、あしらわれているだけなのだ。だから小指を切るだけで済んだんだし(こう書いちゃうとアレだが……昨今のヤクザ映画は、大抵東京湾に沈めるって流れだからさぁ)。
サブが女の子大好き!で、すけこましという本来の仕事を忘れてんじゃないかと思われる感じに反して、昌次はまずサツキに恋しちゃってるのもあるだろうけれど、威勢のいい口先とは反して、ナイーブというか、硬派というか。そこが太一の琴線に触れたんであろう。
お互い対照的な立場、なんたって昌次はこの街の女の子たちを都会の水商売や風俗の道に売り飛ばすためにきたんであり、太一は木曽川に産湯をつかったんだというぐらい、地元意識が強い。この言い様はまさに寅さんよね!何気なく私書いたけど、確かにそんな思いが本作にはあったのかもしれないなあ。
思いっきり対照的というのは、いわば似た者同士だということ、というのは、こうした男子友情物語に散見されるテーマである。同じ女の子に恋する同志としても意気投合するあたり(昌次は自分の気持ちを明かしてないけど)、なんとまぁ……現代じゃ考えられんわ、涙出ちゃう。
太一を演じる舟木一夫氏の当時のさわやかさ、可愛らしさは最高で、マチャアキが、彼の容貌を、こんなでこんなで、と、さっぱりとした顔立ち、八重歯を巧みに表現しているのが可笑しくて。あの可愛らしい八重歯は、今の舟木氏にはないんだね。みっちょんもそうだったけど、やっぱ八重歯は治しちゃうんだなぁ。
太一が昌次を見込んだ形で、彼プラスサブを地元の若者の活動に誘い込む。そもそもこの土地で昌次とサブを迎え入れた、彼らの兄貴分である汁粉屋の店主夫婦は、アガリを組に収めてはいるものの、バーから汁粉屋に転換し、それは土地の人に信頼されなければいけないからだ、と言うんである。
どうやらこの土地で恋女房を得たこともあって、心持ちはすっかりヤクザから足を洗っているアニキは、親分からの指令ならしょうがないと、二人の仕事を見守ることになるんだけれど、もう最初っから、恋女房の視線に、判った判った、という感じだからさ。
最終的にどうなるのかなあと心配していたんだけれど、先述した通りこの土地の、どうやらこの土地のみならずらしかった大物ヤクザ御大によって、彼も、そしてサブも正式に足を洗うことができたという流れ。かなり都合がよすぎる気はするけれど……ハッピーな映画だからまぁよいよい。
サブに時間を割きすぎた(爆)。昌次よ、昌次。単純なサブに比すれば、複雑そうなキャラクター。後半になんとなく彼の過去がほのめかされはするものの、明確に示される訳じゃない。
昌次はサツキに一目ぼれし、太一に男として惚れて、そしてこの土地で女工さんたちが、一心不乱に働いている姿を見て度肝を抜かれる。都会への、金への欲望をエサに女の子をこますのが彼の仕事な筈だったのに、ひるんでしまう。
彼の脳裏に浮かんだのは貧しい子供時代、つまり親が苦労したこと。悲しい野辺送り。それが確信されるのは、サツキの父親が上京し、昌次がアテンドするというシークエンスである。
突然の状況、サツキが仕事から離れられないからという抜擢であったけれど、でも正直、工場での流れ作業の仕事であり、送り出した地元側も、受け入れた尾西市側も、女工さんたちの仕事環境、休暇の充実までもあんなに心砕いているのに、いくら突然とはいえ田舎から父親が上京してきたのに臨時休暇もとれないのかしらんとつい思ったり(爆)。
まぁここは、重要なシークエンスだから。昌次がサツキに、一時はヤクザものだと嫌われていたのに信頼されていることが明らかになり、そして……この老いた父親の腹痛を訴える様子から、昌次は自身の親が患った胃がんを察知し、後半の急展開につながる訳で。
昌次たちのすけこまし稼業は上手くいかない。どんなに彼らが頑張ってかき口説いても、この尾西市の女工さんたちには届かない。たわむれにそんな話題を口にしても、誰かが諫める。
だからこそ、本気になったら厄介なんである。自分のためじゃない、家族のため。楽したいとか、遊びたいという理由じゃない、辛くてもかまわないと思っちゃったら、もう曲げられない。
こんな事態を、昌次は、サブももちろん、予測していなかったと思う。売り飛ばしたらそれで終わり。口八丁で売り飛ばす。まさに商品。でもこの尾西市で、昌次もサブも彼女たちと仲良くなっちゃったからさあ。特に昌次は、サツキに恋しちゃったから……。
太一が昌次を見込んで、コーラスサークルのハイキングに誘ったりする。このあたりは舟木一夫氏ならではの、音楽映画の魅力。健全なコーラスを楽しむメンメンに昌次はいたたまれず場を離れる。
心配したサツキが昌次とかわすシークエンスが印象に残る。カマトトぶってんじゃないよ、ツーツーレロレロを露骨な歌詞で歌えよ、と昌次はサツキをあおる。
サツキが蚊の鳴くような声で歌うツーツーレロレロは、いわば基本のそれで、なにか下世話で卑猥な替え歌チックなものが当時流行していたのかと想像される。
実際に露骨さを出してくる訳じゃないんだけど、なんか、このシークエンスが、昌次もサツキもお互い、哀しいというか、こんなことしたくないのに、素直な気持ちじゃないのに、という切なさがあってさ。でも、二人のまま解決に至らないのが当時の青春映画。太一が仲介しちゃうし、サブが合いの手入れちゃう。もどかしような、幸福なような。
サツキの父親が、昌次が直感したように胃がんであることが判明し、サツキがすけこましに応じそうになる、昌次が止める、サブの入院、入院先でのこの土地の往年の親分さんとの出会い、サツキの父親のためのカンパを昌次からの依頼で太一が調達、昌次が自身の親分に、自らの足を洗うことと、尾西市に対して見込みがないから手を引いてくれ、というまでに至る。怒涛の展開。
なかなかよね、これはなかなか……。当時のヤクザさん、チンピラさんは実際どう思ったのか気になるぐらい。こんな簡単じゃねーよ!と毒づいたんじゃないかと思っちゃう。
だって今でもそうした方たちはいる訳だからさ。サブが述懐するように、かつての渡世人映画で描かれるような、美しき極道像、地元といい関係を築いていたやくざ道というのは確かにあって、この当時は、それが崩れ始めたのか、転換期だったのか、何かそんな感じがする。
サブが入院先で出会った、黄金期の親分さんが語る短いシークエンスに、当時における、往年のヤクザと今のヤクザの、明らかな価値観の違いが垣間見えるから。
なんかいろいろ脱線しちゃったけど、当時の高度成長期の迷いなきまっすぐ感、ヤクザやチンピラの価値観を整理しようとする社会の感覚、めちゃくちゃ活動的で、こういう感覚は、今、現代ではマジでないなぁと思った。うらやましいような、今じゃ対応できないから無理無理とも思ったり。
そして昌次は仲間たちからのプレゼントのバイクに乗って、広い世界を見るためにこの街を去ってゆく。行く当てはあるのかなぁ、いや、これはいわばメタファーなのかもしれない。青年の前に大きな世界が広がっている、というような。★★★☆☆
でもそれはきっと、幸福なこと。そうでなければ判らないままであったのなら、きっとそれは不幸なこと。
主人公である主婦、依子はある日突然夫に失踪される。しかも夫の父親の介護は以前から依子に任せっきりだった。
数年後突然帰ってきた夫が見たものは、新興宗教にハマった妻。息子は地方に進学、就職し、彼の父親は死に、妻は一人きりだった。夫が丹精込めていたガーデニング、色とりどりの花が咲き乱れていた庭は見事な枯山水に手入れされている。
新興宗教にハマっている、とこう書くと、昨今騒がれているアレのように、そして夫が言うように、騙されている、大金を貢いでいる、それによって家庭が崩壊していると想いがちだけれど、そもそも夫が出て行ったことで家庭が崩壊した訳だし。
祈りの捧げ方といい信者同士の会話の感じといい、いかにも胡散くさいし、依子に対して「特別な会員様にしか販売しないのだけれど」と、マユツバものの聖水を売りつけたりもするものの、あまりにも判りやすく胡散くさいせいなのか、なにかのんきな、この程度で心の安寧を得られるならお手頃なところかも、と思わせるようなところが、あるのだ。
夫に出て行かれた依子が、きっとそれまでは専業主婦だった依子がたった一人住んでいる閑静な住宅街の一軒家は、庭も広く、かなり贅沢な住宅事情である。
後に夫から父親の遺産をどうしたのかと詰問されるように、夫に出て行かれても、パートで働いているとはいえこんな豪華な家に住み続けられて、息子を遠隔地の大学に進学させることまで出来たぐらいなのだから、失踪した夫に対して金銭的なうらみがある訳ではなさそう。
そして、のんきで平和な宗教へののめり込み度は、自宅にしつらえた祭壇やぎっしりと買い込んだ聖なる水の在庫がちょっとコミカルに思えるほど。
大きな水晶玉に夫が子供のようにはしゃいで持ち上げてべたべた触っちゃって、指紋がついたのを彼女が見つけて鬼のような形相になる、なんていうのも、この大きな水晶玉からして、ザ・胡散臭い宗教、というなにか、あたたかなギャグのようにさえ感じてくる。
教祖様、というか、この集まりのリーダーである女性が緑子さんで、依子の相談に乗ると目配せで謝礼を要求したり、先述したように何かとグッズと売りつけたりするんだけれど、謝礼の封筒も薄いし、いくらで売りつけられたか判らないけど、つつましやかながら生活のレベルは落とさずにいられる依子の様子を見ると、そして穏やかなメンバーたちの、まるで山の手の奥様たちの集まりを見ているかのような様子を見ると、依子は確かにこの宗教によって心穏やかにいられているように思えちゃう。
夫が帰ってきてイライラしている彼女に授けるアドヴァイスも、まぁ平凡だけど、信仰する教えから言われれば素直に聞く耳も持つし。
一方で、対照的な立場で依子の相談相手になるのが、パート先のスーパーで掃除婦をしている、水木さん(木野花)である。恨む気持ちは魂の浄化を妨げる、という、至極まっとうな宗教の教えと反して水木さんは、そんな男には仕返ししてやるべき、私が許す!と言い放つ。
依子の更年期の症状にいち早く気づいて気遣ってくれたのが彼女で、運動がいいよと、近くのプールを勧めてくれて、そこで改めて仲良くなったんであった。依子の中にあるもやもや、イライラを水木さんは即座に掬い取ってくれる。依子は自身のネガティブ意識を一方で宗教に救いを求めてもいたけれど、救われる部分も確かにあったろうけれど、聖人になり切れない辛さを、いわゆる俗世間の水木さんのあっけらかんとしたエールが癒してくれた。
でもそんな水木さんにも秘密があった。私の息子もサッパリ帰ってこないのよ、と笑い飛ばしていた水木さん。ある日倒れて、緊急入院。見舞いに行った依子に看護師さんが、身内の人ですか?水木さん、何度も脱走して困ってるんですよ、と告げた。
帰ってこない息子、の話を聞いていた依子は、水木さんが飼っている亀を心配していることもあって、しり込みする水木さんからカギを預かって部屋に行く。ゴミ屋敷、というのも壮絶だったけど、それ以上に……片隅に据えられた仏壇に飾られた、せいぜい小学生ぐらいの男の子の写真。
サッパリ帰ってこない。そりゃそうだ、亡くなっていたんだ……。看護師さんが、身内の人と連絡が取れない、というのは、シンプルに、もう彼女には身内の人はいないんだ……。そんなこんながきっと、依子の中にわーっ!と押し寄せてきたんだろうと思う。
声をあげて泣く。子供のように。身内、夫や子供、最後まで煩わされた夫の父親、彼女にとって、当たり前のようにいて、時に煩わしくて、でも去ってしまうと途端に心のバランスが崩れてしまうような家族という存在が、水木さんにはとうの昔に失われていたのだ。
スーパーの常連客、商品にいちゃもんつけて半額を強要するオッサン(柄本明)のことを、後に水木さんは、あの人にも切ない事情があったのかもしれない、と語るのは、ここまでに、依子の物語も相当に深く展開するから、確かに……と思っちゃったり、しちゃう。
息子が地方の大学に進学したのは、夫が失踪した後の妻、つまり彼にとっての母親の変貌を見てられないから、であった。狂ったように庭の花を抜いていた。笑いながら、であった。それは実際示されるんじゃなく、息子の口から帰ってきた父親に語られるのだが、目の前にその様子が見えるようである。
震災からほどない頃、ニュースで報じられる放射能の数値、行列を作り、狂気じみてミネラルウォーターを奪い合う買い物客。依子もまた、その列にいたし、夫や息子に、水道水は飲まないでよ、とくぎを刺した。でも一方で、夫の父親のかゆを作る時には、いったん躊躇した後、夫の目をぬすんで、水道水でかゆを作ったのだった。
当時の、正しい情報がどれかだなんて判らなかった、ただただ不安でしかなかったあの時。依子が後に、水木さんからいたずらっぽく授けられた、ささやかな仕返しの範疇にあった、と今振り返ってみればそう言えなくもない。
でもあの時、依子は水道水は危ないと信じていたのであり、夫や息子には飲むなと厳命していたのであり、それを夫の父親に摂取させたのは、……実際には何の問題もなかったことだけれど、確実な殺意があった、とさえ言える、のが、恐ろしい。
本作はそうした、罪にはならない確実な罪、とでもいったような心理状態が次々に襲ってくる。でもそれがなければ、人間は、息が詰まって死んでしまう。
心の中で、罪を重ねる。それをも糾弾されるのかと、思ってしまうのは、いけないことなのだろうか??
更に、タブーへと突き進んでいく。いや、これを、タブーと思うから、本当にまだまだ、ダメなんである。息子が帰郷する。依子は明らかに浮かれている。思いがけず、彼女を連れてきてくる。
それだけで依子は、もうそれだけが許せなかったんだと思う。その彼女が聴覚障害者であるということは、結局依子にとって、息子に恋人がいることへの拒否反応に対する正当な理由付けでしかなかったと思う。
喋っている口元で会話が読み取れる彼女さんは、健聴者との会話に不自由はない。このこともきっと依子をいら立たせていたのだ。息子との間では、手話で会話する。依子にその内容は、恋人同士のひそやかな内容は、判らないのだ。
そのことこそが、いらだたせていたに違いないのに、依子はそれを、五体満足じゃないヨメは認められない、という、おっそろしくアナクロニズムな結論を導き出す。これにはさすがの水木さんも、遺伝もするらしいという依子の言い様に、ストレートに差別するんだね、と苦笑する。依子はまるで初めて気づいたようにハッとした様子を見せる。
聴覚障害者である彼女さんの描き方は、今まで見たことない、なっかなかにしたたかでグッときちゃう。息子が母親に、彼女さんの観光案内を依頼したのは、どこまで計算づくだったのか……。
依子が彼女さんに、息子と別れてくれと懇願するも、彼女さんは鼻で笑い、そう言って来たら教えてくれ、母親は頭がおかしいんだからと。その時は親と縁を切るからと言われています、どうしますか?と言い放つんである。
うっわ、うっわ!!これはもうなんというかこれは……。そもそもの、依子の、自身では気づいていなかった差別意識が、愛する息子の恋人として現れた女の子に対する嫉妬心によって露骨に現れ、それをクリーンヒットされちゃうというある意味爽快さ、依子にとってはどん底。
凄いなあ……まぁさすがに現代では、ハンディキャッパーを感動のモティーフにする単純さに対する懐疑はあるとは思うけど、かっとばしたね!!彼氏である息子ちゃんは、まぁ、そういう意味ではまだまだ、理解ある、という立場に頑張って目指している感じ。恐らくこの人生の中で、こんなんは序の口で立ち向かっていたであろう彼女さんの、これこそが、未来なのだ。
そもそものきっかけの夫を、うっかり忘れていた訳じゃないんだけれど(爆)。がんをわずらって、突然帰ってきた夫。未承認薬を使いたい、その理由で帰ってきて、妻に了承を得たかったんであろう夫。
数百万かかる治療費。あぜんである。がんなんて今や国民病。まぁだからこそ、あやしげな民間療法が新興宗教並みに横行するんだけれど、この場合は、ちゃんと医療機関で、未承認薬としての提示である。
こういうの、本当にあるのだろうか??金持ちと思しき患者にオファーかけるのだろうか??未承認薬を試す闇バイトというのは聞いたことがあるけれど……。
父親の遺産のことでバトルしたものの、依子は夫に治療費を出してやるんである。
夫が長い失踪の後帰ってきた時、きっと失踪した時から依子は疑っていた、女のことを問うけれど、夫は否定する。確証はないけれど、その後、帰省した息子が言い放つ、震災から逃げたんじゃなくて、母さんから逃げたんだよ、という台詞が、ズドンとくる。
特段、夫婦間に何かあったとか、亀裂があったとか、示される訳じゃない。てゆーか、おめーが言うなよと思うぐらい、息子の、家族、というか、親に対する無関心さ、自分が今こうして生活できている、メシを食える、ソファでごろごろしてゲーム出来てること、判ってる??とゆーのを示していたのが、冒頭だったんだと思う。
でも結局さ、息子も夫も、結局はさ、それを必死に支えていた依子に対する感謝どころか、彼女がパンクしてこうなってしまったから、自分たちは自身で自活できてるもん、お母さん大変だね、みたいな、そんな具合にさ!!
でもそういうもんなのかもしれんなあ……。こうした極端な例でなくても、子供たちはみんな気づかず、自分たちだけで自立したと思って、生きて行っちゃうのよ……。
もう私は、本作の親世代になってしまったからさ。ボーゼンとしちゃう。自身結婚してない、子供いない、自分勝手に生きてるバカ大人だから……。本作の親たちにも、子供たちにも、どっちの気持ちも判るような、判らないような、私ら立場がめちゃくちゃ孤独であることを突きつけられたような……。★★★★☆
おっと違った、主人公は窪田氏ではなかった。窪田氏は主人公が挑戦することになる天才ボクサーである。
その主人公、黒木翔吾を演じるのは横浜流星氏。いや、主人公は佐藤浩市演じるかつての天才ボクサー、広岡仁一と言うべきか、それともこの二人がダブル主演と言うべきか。
翔吾と仁一の出会いは、ありふれた居酒屋だった。しみじみとビールを飲んでいる仁一になぜか、翔吾は目を引かれていた。騒ぎまくる若者三人組を注意した仁一が、外で絡まれて一発で仕留める姿を見て、翔吾は、関係ないのに対決しに行って仕留められちゃって、弟子入りを決意する。
チンピラたちをやっつける姿を見なければ自分の運命の師匠だと判る訳もないのに、その前から不思議と目が引かれていた運命なんである。
しつこく付きまとって仁一の住処にたどり着いて翔吾が懇願したのは、理不尽な日本のボクシング事情によって自分が辞めたこと、でもそれをぶっ壊したいんだということだった。
赤コーナーのボクサーのバックが大きなボクシングジムだと、判定になったら必ずそちらが勝つんだと、吐き捨てるように彼は言った。だから頭にきて辞めた、ってあたりが、その後も何度となく描写される翔吾の短気な性格で、さもありなんと思われる。
でもその翔吾の言葉に仁一も、かつてのボクシング仲間として久々の再会をし、一緒に暮らす健三(片岡鶴太郎)もそりゃまぁな、みたいな顔をする。そ、そうなのか……ならば、決定的に、KOしなければ勝てないのか。でもそんな理不尽さも、見事クライマックスで回収されるのだけれど。
おっとっと。ついつい先走りそうになってしまう。なんていうかね……いろんなしがらみがある。まず、仁一、かつてのスターボクサーが、ボクシングから離れていた彼が、かつての仲間を集めたり、翔吾を教えたりするようになったこと。
華々しい成績、アメリカでの挑戦、でも結局夢破れて、アメリカの事業で成功し、年を取り、あとを若い人に譲って帰国した、と彼は語った。
それは表面上はそのとおりだろうけれど、どうだっただろうか。成功し、住み慣れたアメリカを離れて、帰国して向かったのがかつてのジムだったのは、昔を懐かしむようなテイがあれど、やっぱり心の中にくすぶるものがあったに違いなく、その当時三羽烏と呼ばれた健三、次郎(哀川翔)の行方を尋ねるんである。
健三はジムを経営していたものの破綻、借金まみれの引きこもり生活をしている。次郎は何をやったんだか、ブタバコにぶち込まれている。
まず健三を誘い出し、ワケアリ物件を安く借り入れて、共同生活を提案するんである。後に訪ねてくる次郎は、同情の老人ホームかよ、と吐き捨て、結局彼はここに暮らすことはないのだけれど、次郎こそが翔吾に可能性を見出して面白がって、チャンスを与えてやるのだ。
彼らが所属していたジムに、翔吾を所属させようとするものの、看板ボクサーに挑戦状をたたきつけ、無慈悲なスパーリングで叩きのめしたもんだから、オーナーの逆鱗に触れてしまう。
このオーナーを演じているのが山口智子氏で、彼女は仁一たち三羽烏時代のオーナーの娘。どうやら仁一とは淡いなんとやらもあったらしいが、今やお互いバツイチ同士、ボクサーの育成でこんな具合に衝突もしたりする。
仁一の元に訪ねてくる若い女性、佳菜子。橋本環奈嬢演じる、つまり彼の姪っ子である。お兄ちゃんの娘、でも、仁一にとって、彼が産まれたことで母親の寿命を縮ませ、兄からも父からも冷たくされた、という経緯があって、連絡を取り合ったりさえしていなかった。
まぁこのあたりは……いかにも男兄弟、男系家族だなという気もするが。なんかね、女系なら、心の中でどう考えていても、表面上取り繕って、上手くやる気がするんだよな。結果的にそのいがみ合いが、子供である佳菜子に飛び火する訳だからさ……。
一人、長年父親の介護をしてきたという佳菜子が、父親が献体を希望したため、親族の署名が必要だと、仁一を訪ねてくるのが出会いだった。
出会い、と書いちゃったが、ホントに仁一は佳菜子に会ったことがなかったんじゃないかと思う、その口ぶりでは。はっきりと責め立てはしないけれど、佳菜子はこうした親族たちの得手勝手、何より父親の得手勝手により、その介護に明け暮れて、たった一人不安の中何もかもを決めなければなかったであろうもやもやを、父親が死んだ時、うわー!!!と叫んだ、あの時、一度に吐き出したように思う。
彼女にしても、翔吾の母親にしても、父親や夫やパートナーに人生を翻弄される女たちのむしゃくしゃを、もっと主張させてよ、拾い上げてよ!!と思うけれど、まぁ仕方ない。本作はそんな愚かな男たちが拳を交える物語なのだから。
翔吾が所属するはずだった、仁一の古巣のジムの有望ボクサー、大塚をスパーリングでぶちのめしたことで因縁が出来ちまって、なんか面白がってプロモーターが絡んでくる。アメリカの地で、噛ませ犬の筈がカリスマボクサーを一発逆転でKOした、中西(窪田正孝)への挑戦権として、大塚と翔吾のマッチを組むんである。
そんな見世物に出せないと仁一は言うんだけれど、翔吾は、そして何より大塚が、ここを通り抜けなければ、彼もまたボクサーとして生きていくことが出来なかったのだ。
大塚との試合と、クライマックスの中西との試合。どちらも壮絶な激闘で、どちらか死んじゃうんじゃないかというぐらいで、それぞれに人生が決定してしまうという試合。
ボクシングというものは、大なり小なりそんな側面があるのか。翔吾が何度となく仁一に食ってかかった、これから先なんてことはどうでもいい、今どう生きるかなのだと、今しかないんだと。
オチバレで言っちゃうと、翔吾は大塚との試合で右目を損傷し、この状態で次の試合をすれば失明してしまうかも知れないという状況だった。すっかりアドレナリンが出ている翔吾は、片目が見えなくなるぐらいどうってことない、今、この気持ちを抑えることができないことを、訴え続けた。
そして仁一は……隠し続けていたけれど、持病の心臓病の発作で、倒れた。自分が生きているうちに翔吾のチャンピオンが見たいと、だから今はムリしないでくれ、と言う仁一と、そんなことを言い訳にするなんて卑怯だと、今しかないんだと、涙ながらに訴える翔吾と。
仁一の実家を、彼の兄の死によって娘の佳菜子が処分し、仁一、翔吾とともに共同生活となる。次郎は大塚のサポート、つまり敵方に行ったし、この時点では健三もこの三人にあんまり絡んでこないから、なんか家族の痴話げんかみたいな雰囲気になっちゃう。
翔吾の目の怪我を理由に、チャンピオンへの挑戦試合を諦めるべきだ、と言う仁一と、絶対に今しかないんだと譲らない翔吾、そこに佳菜子と、翔吾の母親とそのパートナーが絡み合っちゃう。
母親に暴力をふるったのかとキレた翔吾が傷害事件沙汰になっちゃって、プロモーター大激怒で一時は試合の開催そのものが危ぶまれる。
なにより仁一が翔吾のけがを案じて試合をすべきじゃないと再三衝突するんだけれど、結局は……。仁一が持病の心臓病の発作を起こし、倒れて入院してしまったことが大きなファクターで。
私はね、正直、最終的な仁一の結末は、納得いかなかった。仁一は、自身の抱える持病が、手術が有用だと判ってはいても、難しい手術であり、つまり自分が目覚めることがないのでは、ということを恐れて踏み出せずにいた。
そんな中で、翔吾の試合の決断があり、何度とない押し問答の末、翔吾の覚悟に折れる形で、いや、それを受け入れ、100%後押しする気持ちで、セコンドに入ったんじゃないのか。
私、何を言いたいんだろう、つまり、なんだ、その……。同じくリングサイドにいた健三から、タオルを投げ入れるべきなんじゃないかと問われるほどに、壮絶な試合だった。失明どころか、死んでしまうかもしれないんじゃないかというぐらい。
仁一は、血だらけの翔吾からくぎを刺されなくったって、そんなことをする気はさらさらなかった。それは、翔吾の意志に沿う、覚悟を決めたトレーナーとしての立場だ。
でも……自身はどうなのか。結局手術を受ける勇気もなく、翔吾の試合を見届けて、そしてあれは……やはり翔吾の右目は失明してしまったんだろう、その手術を経て、桜吹雪が舞う中、いわば仇であった、かつて所属したジムのオーナーの娘、山口智子としみじみと言葉をかわす。
桜吹雪がごうごうと舞っている。近くに桜があるらしいから、と踏み出す仁一を彼女が見送る。そしてね、そして……桜の木の根元に、仁一が薄目開いて倒れている場面で、年数が飛ぶのだ。
翔吾と佳菜子の新生活、翔吾の新社会人をお弁当を持たせて送り出す佳菜子。えっ、ちょっと待って、仁一は死んだということ??マジで??……その後の感触で、どうやらそうらしいことを確信する。
えーそりゃないわ。そりゃないわ。そらさ、危険な手術、目覚めることはない恐怖ってのは、判るさ。でもそれに対応する形での、翔吾との闘いでしょ。
まさにこの試合で、命を落とすかもしれないという覚悟をもって挑むボクサーと共に挑むトレーナーの物語なのに、手術怖くて、結果、発作で死んじゃう、って、そらないだろと思っちゃう。
これが美しきラスト、エンドだと言われちゃぁ、なんだか納得いかんというか……。
定期的にボクシング映画が作られるのは、判る気がする。そこに人生を賭けると言いながら、リアルボクサー人生は短く、やはりそれ以外、それ以降の人生を選ばなくてはならない。
そこでつまずき、こだわり、挫折し……ドラマが作られざるを得ないのだ。一生同じ会社の会社員の人生だって、それはそれで面白い物語が作れると思うけれど、でも、違うんだね。誰しも、自分とは違う、そうじゃない人生を見たがるものだから。★★★☆☆