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怪物
2023年 125分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:坂元裕二
撮影:近藤龍人 音楽:坂本龍一
出演:安藤サクラ 永山瑛太 黒川想矢 柊木陽太 高畑充希 角田晃広 中村獅童 田中裕子
言ってしまえば映画における王道の構成、ラショーモナイズに他ならない。語る人の視点によって真実が変わっていく。誰が本当のことを言っているのか、人間を疑心暗鬼に突き落とす、王道中の王道。
でも本作は、違うんだよね。違うというか……起こっていることはすべて本当。人の視点によって変わる真実は、彼らそれぞれがその起こっていることから導き出したあくまで予想を、真実だと思い込んでいるだけ。
そして語る人が変わるたびに、観客はどうしたって語り部に加担してしまうものだから、さっきまで語っていた人の敵対キャラである筈の人の語りにまた加担してしまう。
その繰り返しで、自分自身がなんて芯のない、ただなびいて信じ込んで同情してしまうアホなんだろうとだんだん愕然としてくる。この感覚は本当に、今までにないものだった。
タイトルとなっている怪物は、大きなテーマとして見ればまさに、本当の怪物は誰だったのか、ということなのかもしれないが、劇中の狭義的なものでいえば、主人公である少年二人が興じている遊びである。
さまざまなキャラクターを描いた、これが彼らの手描きだというのも愛しいのだが、それをお互いの額にかざして、お互いのそれを説明して、当てる、怪物だーれだ、という掛け声とともに行う、他愛ない、可愛らしいゲームだ。
カードの中に怪物というキャラもいるというところから来ているのだろうし、そこから本作の大きなテーマ性にも根差していくのだけれど、そもそもが、彼ら二人の、秘密の場所での手作りの遊びだというのが、めちゃめちゃ胸が熱くなってしまうのだ。
結局、この少年二人の、誰にも言えない、二人だけの想いだけ、それだけが大事な大事な物語、もうそれだけなんだ。そう考えると、何が真実か、だなんて、彼らだけが真実なのに。でも子供である彼らは、大人の事情に潰され、やり場のない苛立ちを間違った方向に向けるしかできないのだ。
結果的に、大人たちは誰もが、決して悪い人たちじゃなかった。その事実こそが、観客を驚かせる。
まず切り込み隊長は二人の少年のうちの一人、湊の母親。夫の死後、シングルマザーとして湊をいつくしんで育てる彼女は、息子の異変にもいち早く気づくし、その息子の口から先生にやられた、と言われて意を決して学校に乗り込むのも、決して決してモンスターペアレントなんかには見えなかった。
迎える学校側の態度があまりに柳に風で、謝って済まそうとしかしてなくて、母子家庭への偏見を感じられて、観客側は彼女と共に憤ったのだ。謝ればいいんでしょ、という態度で頭を下げる、当の担任教師以下校長やかつての担任のメンメンに、深く深く幻滅していたのに。
だから次のシークエンスで、担任教師のパートが始まり、えぇ?あの態度の悪いアイツになんの言い分があるのか、と思った。
最初のシークエンスで湊の母親は戦い抜いて、ついにマスコミに公になるまでに至った。震える声で謝罪し頭を下げた彼の物語を、一体どう見せるのかと思ったら……起こる出来事はすべて同じなのに、すべて違ったのだ。
言ってしまえば湊が、先生に言われた、先生に暴力を振るわれた、と嘘を言ったことがすべてを狂わせた訳で、なぜ湊がそんな嘘を言ったのかは、正直本作の中で最ももやっとする部分ではある。
湊の母親には見えていないシークエンスでは、この担任の保利先生は、生徒想いの優しく理解ある先生であり、それは湊も言っていたのだ、依里に。
依里がもう一人の少年の主人公。女の子みたいにめちゃくちゃ可愛い、という第一印象は、そのとおりに貫かれる展開になった。
いや、そんな言い方も差別を生むだろうか。いわゆる受けと攻めを連想するのは、腐女子の良くない癖だ……。湊も美少年で、二人が同級生たちという彼らにとってのどうしようもない社会の中で揶揄される中で、逡巡しながら関係を深めていくのは、たまらなくムネアツなのだ。
でもそう、湊が言うように、そして依里も判っていただろうに、保利先生が生徒想いのいい先生であったとしたって、彼らがその本質的な悩みを打ち明けられずに、逆に保利先生を陥れるようなことになってしまったのは、いい先生、というのが結局は表面的なことで、そこから踏み込んでいい先生かどうか信じ切れなかった、からなのだろうか??
それは、湊の母親に対する想いにも重なるように思う。とてもいいお母さん。だからこそ湊の異変にいち早く気づいたけれど、湊はだからこそ言えなかった。
お母さんは、お父さんに約束したんだと言った。湊が家族を持つまでは、お母さん頑張るよ、て。そう……湊はその約束を、かなえてあげられないことに、気づいてしまったから、自分でも制御できない苛立ちのまま、信頼していた先生を陥れるような嘘をついてしまったのか。
まさか、こんな、愛情深い言葉が引き金になるなんて、思わなかった。今の時代はハヤリ言葉のように多様性が叫ばれる。みんなが判ったようなフリをする。フリだから、気づかないのかもしれない。家族を持つ、という何気ない言葉が、この閉鎖的な日本という社会で、男女の組み合わせしか示していないことを。
お母さんも、担任教師も、そして何の感情も示さず、ただ謝罪だけでコトを終わらそうとしているように見えた校長先生でさえ、後半がっつりと描かれる湊と依里の視点からは、まるで違った人間に見える。
自らの過失で死なせてしまった孫との写真を、湊の母親を篭絡するためのネタに使うような校長先生でさえ、どんどん見え方が変わってゆき、先述したように、観客であるワレワレのアホさ加減を浮き彫りにするのだ。
でも、彼ら大人たちすべてが、子供たちに愛情を注いでいるのに、結局は何も見えていないことに呆然とするのだが、でも自分の子供時代を考えてみると、親や先生に判ってもらいたいとか、思ったことなかったと思う。
それはネガティブな意味じゃなくて、子供の世界と大人の世界はハッキリと境界線が引かれていて、親や先生は、愛情や尊敬を持ってはいたけれど、自分たちを理解し、危機に瀕したら救ってもらう存在ではなかった。
もうすっかりおばばである自分の子供時代と今とでは当然違うのだろうが、子供自身の感覚は、そう変わっていないような気がする。
だって、違う世界線に生きているのだもの。愛も尊敬もあるけれど、大人は自分たちの問題を解決できる相手ではない。思春期故の苛立ちを説明するのも難しい。大人たちだって当然通ってきた道だから、判ってもらえるだろうと思うけれど、通ってきた道だから、なんて、当然彼らは思いもよらないのだから。
だから結局、愛はあるのに子供たちに対する理解が表面上になってしまうことが、すべての悲劇を引き出してしまうのが哀しいのだ。
本当に、見事に食い違う。そこには、幼い彼らの同級生たちも加わる。邪気も無邪気もごったまぜに、イジメさながらにラブラブだとはやし立て、いらだった湊が暴れまわったことで、保利先生が、彼が依里をイジメているんだと誤解する展開にもなった。
同級生の女の子が、二人を冷静に観察していて、湊が死んだ猫を使って遊んでいる、と進言したことを、保利先生が当時の自身の追い詰められた立場で曲解し、湊が猫を殺したかもしれないと証言してくれと迫って、女の子が困惑したりもした。
私そんなこと言ってません、と彼女が言った時、保利先生だけでなく観客もあぜんとしたけれど、確かにそんなことは彼女は言っていないのだ。これは物語のまだ序盤で、湊も、依里も、保利先生が不利になる嘘をつくもんだから、この子もそうなんだと思って、思わされて、もう混乱してしまうのだ。
町中で起こる火事や、その火事に遭ったガールズバーの客だったと保利先生が噂されたり。実際は、どうやら依里の父親がそうだったのか。
ミステリ要素が次々に現れ、隠されたチャッカマン、それは放火の道具だったのか、依里の腕のやけどの跡だったのかと疑ったのは、保利先生から、湊が依里をイジメていると言われたお母さんだった。依里の家を訪ねたら、彼がカギっ子よろしくひとりで、大人びた様子で彼女を招き入れた。
このシークエンスはまさに秀逸。依里がどんな子なのか、友達なのか、湊がイジメているのか、あるいは……あらゆるミステリの要素をばんばん投げかけてくる。
片足だけのスニーカーは、湊のものと思われた。いじめられて隠されたのか、それとも……。貸してくれた、だなんて、不自然だ、そう思ったのに、それが真実だったことが判る後半で、二人の運命の結びつきをどんどん見せられていく過程で、こうしたミステリが解き明かされていくことに、呆然としてしまう。
そしてそう、ガールズバーに行っていたのは依里の父親だったと、思われる。はっきり明言はしてなかったと思うけれども。
そうだ、この父親こそが、依里を、自分の息子を怪物だと言っていたんだった。 豚の脳が入っているんですよ、だなんて、後から思えば狂ってるとしか思えない。そのショックが湊に移って、保利先生から自分が言われた、なんて、嘘をつくに至ってしまった。
そこまで明かされると、湊が依里に、一心同体のようになっていたのが判るし、社会的な邪念がない彼らが,そしてワレラ大人の子供時代だって、判る、そういうことあったかもと、想い出せるのだ。
依里の父親が、自分の息子をそんなひどい言い方で冒涜したのには、かなり精神的に異常な感じも認められるけれど……アル中的な描写もあって、双方ともに単純すぎるキャラ付けがハラハラもするけれど……。
何よりこの父親が息子に対して危惧していたのが、恋愛対象が男の子、という部分だったことが明らかになることこそが、大問題なのであった。父親役の中村獅童氏は、彼が持つ子供としての年齢としたら、依里はだいぶ年少であり、だからこそ時代の理解にそぐわない感が大きい。
もちろんいつの時代だって問題は問題なのだけれど、獅童氏が私と同じ年代だから、なんかメッチャ判るのだ。ヘテロじゃないと即怪物扱い。そう、怪物なのだ……いろいろ解釈あるけれど、怪物とハッキリ口にしたのは依里の父親だし、ここにメインテーマがあったんじゃないのか。
暴風雨の夜、湊と依里は、彼らの秘密基地に向かう。その前に、彼らの間で気持ちの確かめ合いがあって、まだ逡巡があった湊は、依里を振り切った。でもその後、依里の転校が明らかになり、それはどうやら、父親に捨てられることであり……。
湊が思い余って依里を訪ねた時に、ずっと好きだった女の子がそこにいるんだ、と父親のそばでロボットのように言った依里が、一度バタンとドアを閉めた後に、今の嘘!と叫んで、父親に抱きかかえられてドアの向こうに姿を消した。
なんという、なんという……愛のシーンかと、思った。本作はさ、宣伝でも、そして中盤までのシークエンスでも、社会的な、大人の傲慢さと理不尽さとか、そうしたものを糾弾するスタンスと見えていたのに、切なく美しい少年の愛の物語なのだよ!!
最後の最後、保利先生と湊の母親は、豪雨の中、行方をくらました二人を探しに出る。彼らの秘密基地は、それまでに何度も、ニアミスで描かれてきたけれど、決して決して、大人たちの彼らはその実態に触れることが出来なかった。
いじめられているんじゃないか、いや問題児は逆にあっちじゃないか、大人たちは表層ばかりをウロウロし、子供たちは愛も尊敬もあるけれど真に魂を介することが出来ない大人たちに心を開けず。ああもう、どうしたらいいの!
ラストは、どう解したらいいんだろう。湊の母親と保利先生、大人たち側は、行方をくらました二人を、豪雨で土砂崩れの危険がある中、森の中を突破して、懸命に彼らを探した。
朽ち果てたバスの中、そこが彼らの秘密基地、そこまでたどり着いたけれど、そこから、そんな緊迫した場面から、ぱーんと時間軸が戻る。戻る、というか……。何か夢のように時間軸が行ったり来たりして、湊と依里は、明るい草原へと、草をかき分けながら、走り出していく。
死んでしまった、のだろうか、二人は?そうも思わせちゃうラスト。追い詰められた保利先生が飛び降り自殺を図ろうとするシークエンスも、その先どうなったのかうやむやのまま、ラストに向かうし、それこそ、どこまでが、どれが実際なのか、誰かの妄想なのか、妄想という言い方はアレだけれど、誰かにとっての真実、だとしたら、もう無数の幾通りなのだもの。
湊と依里のゲイのアイデンティティは、身体的本能的な、ダイレクトな示唆があったけれど、それそのものの、彼が好きなんだ、同性である彼が好きだから、という明確なカミングアウトには至らない。やはり、それは相応の精神的負担がかかるのだろうと思われるし……。
でも、将来的にもいわゆる一般的な家族を持つことは難しいんだということで子供である湊が苦悩したことを思うと、超保守的な日本という国だけれど、理解の場、いい意味での逃げ場が、絶対に必要なのだ。本作のラストが、幸せそうにも見え、湊と依里が、幸せになれる場所、その後の場所に行ってしまったように見えたから、ダメだよ、ダメダメそれは!!と思ったからさ……。★★★★☆
逃げずに。それはこの物語の重要なキーワード。シンプルな言葉だけれど、これほど難しいことはない。時には逃げることも必要だと思っている達観しちまった老害オトナにとって、まぶしく、そして無理して傷つかなくていいよ、と声をかけたくなるのだけれど……。
でもこの世界は、私の時代にはなかったものだ。いや、なかったんじゃない。見えなかった。あるいは見ようとしていなかったのかもしれないけれど。
ずっとずっとあった筈の在日朝鮮、韓国の方たちの歴史、コミュニティ。なぜそれを公的に知らされてこなかったのかと思うのは言い訳かもしれないけれど、でも確かにそうだった。公的に、知らされてこなかった。
日本社会の悪い面。区別という差別。今の時代になって急速に浸透してきたLGBTQも、ずっとその位置にいた。流行りのように、世界的な流れにのっかると、手のひらを反すように価値観を変えるのが日本という国。
となると、その国内で抱え込んでいる問題になると、その進展はあまりにも、鈍重なのだ。ここで引き合いに出すのは違うかも知れないけれど、日本の死刑制度や冤罪の再審に関する作品やニュースに立て続けに接する機会があって、それも通じるところがあると思う。
世界的潮流に比すればあまりに原始的な幼さなのに、それを国としてのアイデンティティだと主張する愚かさ。
韓国の文化が突然入ってきた時の衝撃は、今でも覚えている。まるでついこの間のようだが、20年以上経っているのか。
でもそれを、すっかり大人になってから経験した私たち世代と、最先端のポップカルチャーを持つ国として享受する私たちの子供世代とは明らかにジェネレーションギャップがあり、そしてそれが、親子のそれであるがために、本作の母と娘のような齟齬が当然生じてしまう。
……とは思ったけど、私たち世代は確かに突然解禁されたコリアンカルチャーに衝撃を受け、むしろそれに飲み込まれた感覚の方が大きく、本作のヒロイン、真紀の母親が単純に嫌悪する感覚はむしろ、この母親(つまり私世代)の親世代ではなかろうかと思われるのだが……。
イヤでも、難しいな。それこそその親世代に感化されて私たち世代もそうした感覚を持つ向きは、確かにあるかもしれない。そこはそれこそ、親から子供への影響と、日本という国の中にいて外の社会にどれだけ意識を持っているかにもよると思う。
真紀は息詰まるような実家をでて、東京で小さな映画館、白鯨坐を営む祖父の元に身を寄せた。後にそうとは知らず出会う、在日三世の国秀と純粋に運命の出会いをし、それは二人に共通する映画への愛が、祖父の営む小さな名画座を介して奇跡のように育まれた。
二人の出会いは、真紀がバイトしている居酒屋。国秀が先輩や上司と配給が決まった作品のことを盛り上がって話していて、それが韓国の若手作家が作ったドキュメンタリー作品だということがはしばしに聞こえてくる。DVDに記されているハングル文字も見える。
真紀の側の事情は、地方育ちで、理想を押し付ける母親に否定され続けて育ち、逃げるように東京の大学に進学し、脚本家を目指しながら祖父の家に居候している状態。そんな二人が、真紀のバイト先で出会うんである。
セクハラオヤジな客を、国秀がとがめたのは、その前の会話でコイツが韓国の人たちに対して差別的なことを言っていたからなのだけれど、この時の真紀には、セクハラクソオヤジに対する反発しかない。
でも、どちらも許せない偏見であるのだから、二人がそのことで結びつき、おいおいその齟齬を埋めればとは思いつつ、ハラハラする。真紀の母親が、娘の友達が韓国人と結婚する、というネタであからさまに差別意識を露呈するからである。
この時点で真紀は国秀と恋に落ちていて、でもこの母親の偏見に反論できない。それだけの材料が、彼女の生きてきた中にないからだ。国秀が白鯨坐でかけてほしいと持ち込んできた韓国の若いクリエイターが描いた作品で、彼女は初めて在日コリアンのことを知った、という感じだった。
彼女のような若い世代でさえ、まだ公的に隠されているのか、と愕然とする思いだった。その国家的重大さこそが問題なのだけれど、真紀はただ、自分が知らなかったということだけを思う。
そしてのちのち、知らず知らず差別意識があった自分を糾弾するのだけれど、そうじゃない!!と彼女の親世代の私は言いたくなるのだ。私世代だって知ろうとしなかった責任はある。でも、すべてが閉ざされていた。国同士の交流がいきなり開かれてビックリして、その後に在日コリアンのことを改めて知ったように思う。
でも今の世代はそうじゃないでしょ。そうじゃない筈なのに、在日コリアンのことについてはまるで、私世代の時のまま、時が止まっているみたい。
国秀はお母さんと一緒に白鯨坐によく来ていた。それを、館主である真紀のおじいさんは覚えていた。
白鯨坐はモノクロの古い日本映画しかかけない映画館だと、国秀の上司はここでかけたいという彼の申し出に難色を示す。確かに、いかにもな名画座。でもここで、国秀は自分のルーツである韓国の作家が作った、渾身のドキュメンタリーをぜひかけたいと思った。この映画館もまた、自分のルーツだから。
居酒屋で出会い、真紀が落とした脚本を拾った国秀、その二人が、この映画館で再会する。ともに映画を愛する同志、しかも国秀はこの映画館を幼い頃から愛していた常連客という、まさに運命の出会い。
脚本家になりたいという真紀の夢を応援し、彼女の脚本のための、つまりシナハンという口実で、恋愛におけるデートを疑似体験するという名目で、デートを重ねる二人。
そのシークエンスはあまりに甘酸っぱく、二人ともビジュアルも可愛らしい男の子と女の子なもんで、照れて直視できないぐらいだったから、まさかその後どんどんと、シリアスな展開になっちまうとは思わず……。
確かにいまだにあるクソナショナリズムによる炎上は、昔ながらの、モノクロの日本映画だけをかけていた名画座に韓国の若いクリエイターの作品がかかるということで、ありうるのかな、とは思う。今の時代に、時代錯誤だとは思うけれど、確かにありえなくはないような風潮が老いも若きにも根強く存在しているから。
しかし、SNSは何かのきっかけで容易に論調が逆転することがあって、それはいい意味でも悪い意味でもあって、今の時代はつまり、その潮流を、潮目を見極めなければいけないということなのだろう。
本作の中でも描かれていたような、突如潮目が変わる、この伝説の作品を日本で見られる機会を見逃すな、というコアな映画ファンの書き込みがあっという間に流れを逆転させる、それがSNSというものなのだ。
その潮目を見極めることこそ、それを利用するならばビジネスとしてのプロなのだろうけれど、あまりに辛い。だって人間は大抵、ネガティブな方に持ってかれちゃうし、炎上の結果、物理的な嫌がらせもおきて、一時白鯨坐での公開がとん挫してしまったのだから。
真紀のおじいちゃんは、どの程度この問題を理解していたのだろう??作品自体の良質さを認めたのはそうだけれど、国秀の情熱にほだされたところは大きかっただろう。
そしてこの時点でおじいちゃんは国秀のルーツを知らされておらず、訳の判らないまま炎上に巻き込まれ、なんだか孫が苦しんでるらしい、ってんで、ストップしちゃった。正直このあたりの展開は、いやいやいや、おじいちゃん、そんなに孫娘を愛しているなら、彼女にちゃんと話を聞いてよ、と思うし、真紀が苦しめられている母親、つまり自分の娘との関係がなんとなく微妙なのに、その娘の言い分の方をのんじゃって、つまり、国秀のせいで真紀が苦しんでいるというのを、信じ込んじゃってさ。
まぁ確かに一面ではそう言えなくもないけれど、在日コリアンだからというフィルターのみでテキトーなことを言う娘を、孫可愛さのあまりそのまんま飲み込んじゃうおじいちゃんも、ど、どうなの。
真紀が、自分に知識がなく、考えもなく、自身がないってこともあったと思う。母親の偏見に対して反論出来なかった、決死の覚悟で告白してくれた彼に、応えられなかった、傷つけてしまったと、それ自体に気づくのが、遅い、遅すぎるのが、本作の、めちゃくちゃ、大きなポイントなのだ。国秀が悲しげな顔で、自分がいつの間にか別人になってしまった、と言う……それは真紀の中での自分という意味であろうことを思うといたたまれない。
真紀もまた混乱して、彼女自身傷つき、追い詰められているのは判るけれど、後に彼女自身が痛感するように、国秀が、在日コリアンの彼、彼のみならず、彼が勤務している職場のスタッフもそうだし、育ってきた環境の仲間たち……彼女の感じている傷とは比べ物にならないのだ。
本作はそこまで、厳しく追及はしない。そうした作品は、今までいくつもあったから。真紀と国秀はあくまで、恋愛感情として運命に導かれ、そこには共通の映画への愛がある。パートナーとして結ばれる運命としては、その二つだけであるべきと思う。
理想すぎるかもしれないけれど、その先に、お互いのルーツやアイデンティティがあって、知り合い、理解し合い、より深く、愛に加算されるのだと思いたいのだ。
劇中、真紀は何度も脚本を書き直す。友人から、恋愛経験がないからと言われたことが、国秀との疑似デート、いや、結局は本チャンデートに行きつくのだけれど、そして書き直した原稿を、国秀に読んでもらって、そして……。
どうですかね。別に国秀に読んでもらわんでもいいんじゃない(爆)。本作はちょっと、2、3点、フツーに辻褄っつーか、おかしいんちゃう、という場面があって、そもそも論というか……ちょっと気になったかなぁ。国秀がおじいちゃんに誤りにきて、そこに真紀がいて、国秀が真紀を泣かせたと思っていた誤解が解けた筈なのに、そして無事白鯨坐での上映がかなったのに、国秀は会社に退職願を出したまま来なくなっちゃったり。なんで??と。
でもまぁ、いいか。ラストは二人、無事白鯨坐で想いを伝えあって、きっとここからすべてが始まるのだから。抱きしめ合ってキスのラストにそういえば出ていなかったタイトルがカットイン。いやー、青春だな。★★★☆☆
オムニバス苦手なので、もともとが短編集でその中からのチョイスで作られていると知っていたら、足を運ばなかったかもしれない。でも確かにオムニバスではない。四組の物語は交互に差し挟まれてゆくのだから。だからいらぬ思い込みをしちまうのだよ、いや私が悪いのだが(爆)。
現代日本の家族の、歯がゆい辛い姿があり、それが根底につながっているということでのこうした構成なのだろうけれど、それは四つの物語がそもそも独立していると判っていなければやっぱり難しいんじゃないのかなぁ。いや、だから私がアホなんだけど(爆)。
それに画面がずっと暗くて、なんだか眠くなってしまった(ああ、アホな私!!)。後から解説を読むと、そこはこだわりの色彩設計だったという……そうか……余計なことを……いやその……。
なんか、塚本監督のような色彩感覚とも思ったのは確かに。でもその色彩で見せ切るのには、塚本作品のようなねじ伏せるような力が必要なんじゃないのと思ったり(爆。すみません……)。
でね、そう、四組の物語だったんだよね。中盤まで自分の頭の中でムリヤリ、つながりを求めて訳判らんくなってしまったので、禁断の、原作に手を出してしまった。
ちょうどよく30日無料でアマゾンでキンドル読み放題。ありがたいねぇ。原作まるまる読めちゃったよ。
で、そう……原作に手を出しちゃいかん。原作と映画作品は別物なのだから。いや、ものによる。最近でも「バカ塗りの娘」が凄く良くて原作を読んだら、やっぱりテイストは全く違ったのだけれど、全然ガッカリしなかった。映画も原作も、どちらもとても良かった。
本作に関しては、原作を読んで、めでたく四組の物語がクリアに見えてスッキリしたけれど、原作の持つ寂しさの中にあるユーモアが映画作品では完全に切り落とされていて、それはもちろん、その選択をしたのだということは判っちゃいるけれど、それこそが魅力的な部分だったんじゃないのかなぁと感じてしまったから。
「バカ塗りの娘」が双方良かったと感じたのは、そういうキモの部分を押さえていたからだと思う。シリアスもユーモラスもバランスの比率こそ違え、キモは通っていた。
本作は、特に永瀬氏演じる、時効直前の殺人犯の女性と暮らしているクズ男のエピソードに最も感じたのだけれど、もう、この二人、どっぷり暗いんだもの。働かないでギャンブルに金をつぎ込むクズ男に、今日はキャベツしか食べるものがないんだといら立つ女。
今日も競馬に負けたクズ男はバーに行き、半年後に時効になる殺人事件のニュースを見て、DV男だったんだから正当防衛のようなもんだ、とママにつぶやく。そして帰ってきた男は女を抱き締め、猫でも飼おうか、半年後に……とつぶやき、女は知ってたんだ、と泣きむせぶ、という、もう湿度1000%のエピソード。
これがね、金のない二人はずっとイライラしているし、風俗で働けば、と言う男に女はいら立つし、観客もなんだこの男、と思う訳。働かず、女の財布から金を抜き取り、スッて酒を飲み、帰ってきて、実はお前の過去を知っていたんだとか言って抱き締めて、それで女が感動っておかしいだろ、と。
原作を読んでみたら……違うじゃん、これは永瀬氏のシリアスで通しちゃダメだよ。このエピソードのいいところが全部なくなっちゃう。意味がなくなっちゃう。風俗で働けという台詞が、マジで最低と感じちゃうか、このクズ男の情けなさが可愛らしく感じるか、全然、ぜんっぜん、違うじゃん、って。最もそれを感じたのがこのエピソードで、他はそうでもなかったんだけれど……。
四つのエピソードがあるけれど、なんとなく主人公は吉沢亮氏演じるマコトである。実際の原作でも、絶筆であるんだけれど、マコトのその後をこの後書き継ごうとしていたんだという。映画の中で描かれた先の物語が原作にあるし、本作の中でもどこか別格めいた雰囲気がある。
寿司屋を営んでいた父親が借金を残し失踪、母親は身体が弱く、いよいよ夜逃げを考えている。懐に父親の包丁を隠し、決死の想いで母親とともにこの地を出立しようとするマコト……。
このマコトの描写は、最初、橋の上での友人との別れのシーンから始まる。真っ赤な欄干が目に染みる。友人も、その後マコトが最後の食事をとる町中華のおばさんも、事情を知っていて、いつでも戻って来い、戻ってきたら必ずここに寄れと言ってくれる。
でもマコトは暗い目をして、そんな気持ちはさらさらない。思いがけず借金取りのヤクザから優しい言葉をかけられても、そんな気持ちは、さらさらない。
吉沢氏の持つ根底にこびりついているような暗さが、マコトに信憑性を与えていて、確かに彼のエピソードだけが、ふわりと浮き上がっているように思う。
いっちばん頭を悩ませてしまったのは、阿部進之介氏がユウイチを演じるエピソード。なるほど後から思い返せば、そして原作を読めば(そりゃそうだ)、あの白いワンピースの謎めいた女性が、ユウイチの今の年齢で亡くなってしまった祖母だと判る。
でも、古い家屋にずらりと並んだ遺影のその一つ、それが明確に映し出される訳でもないし、母親が、いやぁね、おばあちゃんよ、という台詞に、若くして亡くなったということは観客に伝わるものの、それに対してユウイチが特段リアクションしないもんだから、単なる世間話みたいに流されて行ってしまう。
ユウイチは奥さんと上手く行っていないらしく、その奥さんがくらーいダイニングで待ち構えて、螺旋階段を上がる夫を引き留めたりするんである。正直、作りすぎだろ……と思ってしまう。
しかも、奥さんが何を言いたいのか、結果的にはよく判らないし、この場面は原作にはないのだ。色彩設計しまくりの本作において、このミステリアスをしたいためだけに作ったんじゃないかと思っちゃって、なんかイラッとしちゃうんだよなぁ。
そして、一番のビッグネーム、小栗旬氏である。奥さんに死なれ、連れ子の男の子、奥さんとの間に産まれた女の子、思い悩んで、海辺に置き去りにしてしまう、というエピソードである。
本作は四本のエピソードを基にしてはいるのだけれど、エピソード0として、原作にも描かれている、助手席に乗っていた男の子が、運転していたお父さんと共に事故に遭い、どうやらお父さんが死んでしまった、というのが、あるのね。
これがね……原作コミックスで読めば全然すっと入ってくるんだけれど、短編集が元になっていると知らないこちとらとすると、この男の子がメチャクチャ意味深で(まぁ確かに意味は深いんだけど)、メインエピソード四本のうちの誰かの成長した姿なんじゃないかと、思っちゃった訳。
最後、〆で出てきて、あぁそうか、そういうことじゃないのか、いわばこの四つの物語の導入となり、いろいろな家族の物語を描いていき、そして最後、この子に戻っていくのかと判るんだけれど、いや、私がアホなだけなんだというのは、そうなんだけどさぁ。
で、そう、小栗氏である。子供たちを海に置き去りにする、海へと行くシーン、助手席に乗っているのが奥さんの連れ子である男の子で、だから先述のような、勝手な思い込みで混乱が爆走しちゃった訳(爆)。
子供たちは学校にさえ行ってない様子なのが、ワザとらしい近所のヒソヒソ話で知れる。ずっと使っていない様子の土埃だらけに汚れた車。黙って車に乗り込むお父さんに、娘ちゃんは無邪気に乗り込み、息子は……何かを感じて黙って乗り込んだ。
絶対に、自分たちを捨てようとしていたことを、漫画原作でも、映画として描く中でも、息子は確実に感じ取っていた。一つ違うとすれば、娘ちゃんの心模様が、漫画原作では恐らく、お兄ちゃんが慮って、躊躇しているうちにお父さんが改心して戻ってきた、という部分。一つ違うどころか、ものすごい違いだが(爆)。
これは……基本的にあっさりとした描写の中に、いわば行間的な感じさせ方として深い含蓄がある原作に対し、ヤボな決めこみしちゃってからに……というのが映画となった本作、みたいな感じ、かなぁ。足すべきところ、引くべきところ、が、まぁ単に好みの問題で、私がうーんと思ってしまっただけかもしれないけれど。
車で行っちゃったお父さんを、もう帰ってこないと諭すお兄ちゃんに、絶対拒絶の妹、そこに改心したお父さんが帰ってきて、抱きついて、息子も抱きついて感動の大団円の映画。
原作ではさ、娘ちゃんはお父ちゃんが行っちゃったのを見てはいるけれど、そして心では思うところはあったかもしれないけれど、お兄ちゃんは心悩みながらも余計なことを言わず、その間にお父さんが帰ってくる。
娘ちゃんは何事もなかったように手を振り、お兄ちゃんも黙ってその後ろに控えている。お父さんはきっとそんな、二人の心の内を判っていて……めちゃくちゃ、原作のこの塩梅が深いから、原作読まなければ良かったんだけど(爆)、つまりはすべてにおいて、こういうことなんじゃないか、って。
ダークな色彩の中に物語のカラーもぎゅうぎゅうに押しこんじゃって、そして眠くなっちゃう(爆)。
私がアホで、物語を知りたいと思って原作を後読みしてしまったけれど、そもそも、原作ファンにとって、本作はどういう受け止められ方をしているのだろう。テイストは確実に違うけれど、エピソード自体はそれなりに踏襲はしている、けれど……どうなんだろう。
絶筆で未完だし、オリジナルの完成形はもはや存在せず、そうなると、言い方悪いけど、やりたい放題っつーか(爆)。後読みで申し訳ないけど、ちょっと冒涜のような気すらしてしまったかなぁ。★☆☆☆☆
もう一度聴きたいと思ったのは、これだけ何回も聴くほどに心に残ったラジオドラマ作品だったから、映画化になると知って、そして予告編の雰囲気、生田斗真氏の陰鬱な表情、照り付ける夏の日差し、もうその雰囲気満点だったから、これは来るぞと。
多分当時私は、高校生だったと思うんだけれど、あの多感な、一番多感なあの頃に、心をえぐったラジオドラマが、その同じ原作で映画になる、メチャクチャ心躍って。
私が聴いていたラジオドラマ作品がギャラクシー賞をとっていたということを今回初めて知って、さもありなん!と膝を叩いたのだが、そう……言いかけてなんか尻すぼみ。
もう一度聴きたいと思ったのは、その映画化作品、これほどまでに期待が高まっていた映画化作品が、あれ??肝心のラストが違う……ということに、肩透かしをくらったような気持になったからなのであった。
日頃常々私は、原作と映画は別物というスタンスをここでも言っているし、てゆーかほとんど原作小説を読んだことがないままに映画化作品に臨むから、そもそもその差異を気にする必要もなかった。よほど気になる作品になれば、後から原作小説を読むというスタイル。
だから本作のように、原作小説を読んでいる訳じゃないけれど、ラジオドラマ化されたものを聴いている、しかも30年以上も前に!!というのは初体験で、ラストが違うのも、原作はどっちのラストだったのかもわからないもんだから、肩透かしを食らったなんて思う自分もおかしいしなぁ、と思ったり。
生田斗真氏が演じる、とある市の水道局職員、岩切が主人公。料金滞納者を訪ねて回って、長期滞納が改善されない、ある一定期間のタイミングで「規則ですから」と停水を執行する。
その中に、母子家庭、母親はほとんど家にいなくて、幼い娘二人が取り残されている家庭がいた。決められたある一定期間を過ぎ、岩切は母親不在のまま、娘二人の目の前で停水を執行。
その前には出来る限り水を貯めるように、浴室、バケツ、あらゆる容器に後輩と共に手伝い、アイスキャンディーをみんなで食べた。
お母さんに必ずこの書類を渡して、と後にした。他の様々な滞納者たちと同じに、公平に、扱った筈なのに、やはり子供二人の状態で停水執行したことが、岩切も、後輩の木田にもどうしようもなく引っかかっていた。
そして、私自身が引っかかっていたこと……どうしようもなく気になって、実際の原作がどうだったのかを調べてしまった。ラジオドラマでは、この幼い姉妹はラスト、死んでしまう。しかも、どうやら自殺に違いない死に方で。
心を砕いて、水を貯めさせて、よく言い聞かせて、別れたあの子たちがと、ぽーんとはじかれるような、あっけにとられるようなラストが、そのラストこそがこの原作の真骨頂というか、答えなのだと、当時の若く青い私はぶっ飛ばされたものだった。
だからね、本当に我ながらイヤなヤツだと思うんだけれど、私はこの映画化作品に対して、当然のように姉妹の死を待っていたのだ。心待ちにしていた、と言ったってかまわないほどに。
ヒッドイヤツだと我ながら思うけれど、劇中語られる、太陽や空気と同じように水もタダであるべき、という理想が叶えられず、失われる幼い命のいたましさこそが、この物語の大きな訴えであると思っていたから、え?あれ?救われちゃうんだ……と。
うっわ、私、マジでヤなヤツ!救われる結末、ハッピーじゃん、オッケーじゃん、いつもの私なら、理不尽なまでに悲惨な結末の映画に嫌悪感を示すこともしょっちゅうだったというのにさぁ。
原作を知っているっていうのって、まぁ私の場合はちょっと違うけど、やっぱり映画化作品に接する場合にはマイナスにしかならないかもしれん……と思ってしまった。
私が、そうしたものが何もなく、まっさらで本作に接していたらどうだっただろうか、だなんて、もうこうなると想像もつかない。姉妹が救われるというだけで、あまっちょろい改変しやがってと思ってしまう。そしてそう思ってしまう自分の自分勝手な残酷さにヘキエキしてしまう。
時代が違う、というのも、あるとは思う。こうした、取り残された人たちに対する救済措置は、今でも全然充分じゃないだろうけれど、当時は更に全然、むしろ、自業自得とか、親の責任とか、捨て置かれていた感覚がある。
幼い姉妹をご近所さんが心配して、児童相談所に連絡してあげようか?と言ってくるオバハンがいる。柴田理恵氏だというのがピッタリすぎる。きっと原作の当時では、児童相談所というものはあっただろうけれど、一般的に周知されていなかった感じがある。
そしてこの場合、このオバハンはわざわざ恩着せがましく娘たちにそんなことを言う必要はなく、黙って通報すれば良かっただけの話だろう。逆ギレしたお姉ちゃんの反応も不自然に激しすぎる気もしたが、それで怒っちゃって彼女たちを見捨てるぐらいなら、児童相談所なんていう言葉を発するほどの男気(オバハンだけど)は結局なかったということなのか。
やっぱり現代の世情を気にしての作劇なのかなあと思ってしまう。実際、こうした家庭事情は水道を止める前にまず、児童相談所が動くべき事例だと思われる。水道局の岩切たちがこの状況に接したら、水道局という市の職員として、違う部署である児童保護と連携するのが、現代ではきっと行われているだろうと思われる。
いや、どうだろう、日本はこーゆー、連携がめっちゃ苦手なアホ行政だから(爆)判らんけど、でも、岩切のキャラクター、自身が親から虐げられていたという立場で幼い姉妹に接するんだから、そこの連携はとってしかるべきだと思われる。
だからね、これが、当時の、30年以上前の舞台設定とどうしても食い違うところなのよ。現代ならばその連携はきっと、なされているだろう。そうじゃなければ、それこそあっという間の炎上案件だもの。
このあたりが、時代が違う原作を、現代に焼き直しての映画化の難しさなのだろうと思う。ラストを真逆に変えたのも、変えざるを得なかったのかもしれないと思う。
当時はそうした連携、児童相談所、気づいたら通報してくださいといった共通認識が薄かった時代。
でも今は、哀しいことだけれど、さまざまなひどい事例が、事件があって、こんな状態の子供たちがいたら、気づいたら、ごちゃごちゃ言わずに通報するよね!!という感覚があるからさ。市の職員としてこの状態を目の当たりにしていたら余計にそうだろと思っちゃう。
しかも、母親を責め立てるという、メチャクチャ凡庸な、何の解決にもならない所業をするからさぁ……。幼い姉妹の母親役は門脇麦氏。岩切が訪ねて行った時、けだるげにマニキュアを塗っている描写。うっわ、古くさ!と思ってしまう。
こーゆー、自分勝手なオミズな母親像、死ぬほど、腐るほど見てきた。今時これをまたやるのか、と思う。原作の母親はどうだったのか……でも現代でもこれをやるのか。
いつでも、責められるのは怠惰な母親で、タネを植え付けた父親は不在というだけで許されるのか。そしていつでもその母親は、男に依存し、子供たちを捨てる。ステロタイプにもほどがある。女を侮辱しているとしか思えない切り捨て方。
せっかく、門脇麦という素晴らしき役者が演じているのになぁ。娘たちに対する愛情は間違いない。でも女一人、どこかやさぐれてて、中卒で二人の子持ちでどうすりゃいいのと岩切に食ってかかったあたりに彼女の本心が透けて見えて、結局男に走っちゃって、娘たちを置いていく。
一応置手紙とか、必ず帰ってくるとかいうものの、結果的には……うーんでも、それを映画化にした本作では、希望にしたのかなぁ。この母親を許さずに、姉妹を死に追いやったのが原作の方、というスタンスなのかなぁ。
いや違う、やっぱり違うと思う。皆で追い詰めた、どうしようもなく幼い姉妹が、大人のような悩みの解決法、自殺というものを選んだ原作の突きつける刃と比べて、そこから逃げた本作は、まさに、逃げているとしか思えない印象なのだ。
ソンな役回りの女たち、それはあの幼い姉妹もそうだ。娘を捨てた母親も、自死を選んだ娘たちも、そうやって、そのことでしか、その根本の原因である男たちに復讐できなかった。
だからこそあのラストに……当時の私はそこまで言語化することは出来なかったけれど、だからこそあのラストが、あのラストがなければ、意味がないと思うぐらいのものだったと思うのだ。
原作が短編だということだから、岩切自身の人物像に対する肉付け、家族関係とか、そういうものはなかなかに興味深い。奥さん役はオノマチちゃん。一人息子を連れて実家に帰っている。
なぜ亀裂が生じたのか。岩切が抱える、自身の親に対するもどかしい思いが、段々と自分に似てくる一人息子に恐れのような感覚をもたらしたのか。
磯村君演じる後輩の木田は長年付き合ってきた彼女からの結婚アプローチにおののいていて、でもまぁ結果的に、岩切がそうだったように、というのを木田は聞いていたからこそ、彼女の妊娠をいいきっかけとして、結婚を決意する。
晴れやかな顔をしている木田と比して、果たして岩切はその当時、同じ状況で結婚に至ったことを、ひょっとしたら後悔しているんじゃないか??結婚のタイミングを聞かれて、あっちが妊娠したから、という言い方にちょっと引っかかった。まるで他人事みたいな言い様だったから。自分のかかわりじゃないみたいなニュアンスを感じたから。
その違和感は、観客だけが感じていたのかと思うぐらい、それこそ奥さんが思っている歯がゆさが観客には、観客にだけは判る判る!!と思っちゃうぐらい、結局岩切全然判ってねーな、という印象のままだったのが、ツラかった。
後輩の木田と戯れのように語っていた水道テロを、お姉ちゃんの万引き場面に遭遇したキッカケでタガが外れたかのように、あちこちの水道を開けて回って、公園でじゃぶじゃぶ水芸状態になって、職員たちが駆けつけて取り押さえられ、まさにお縄になっちゃう。
この場面でカンドーできればよかったのだが、そもそもお姉ちゃんが、冷めた目で岩切を見ていたのに、当然そうだろと観客側も思っていたのに、幼い妹がキャッキャキャッキャとはしゃいでいるのをエサに岩切がしつこく誘うもんだから、というように見えるのよ。
お姉ちゃんも結果的にははしゃいで、で、岩切が拘束され、それに対してお姉ちゃんが狂ったように大人たちに攻撃して回るけど、この流れじゃ、さぁ……。岩切に対して心を許したとか、感謝とか、そんなあたたかな消化は難しいよね。
妹に釣られたようにしか思えんし、実際、岩切の行動は行き当たりばったり、としか、お姉ちゃんにとっては思えなかったに違いない。この辛い状況を、今テキトーに処理して、いい気分になってるだけやろ、ということしか、岩切はやっていないのだから。
ああもう!もうどうしたらいいのか。本作の中にはさ、いろんな事情を持った滞納者がいるのさ。一つ一つ追ったらキリないし、一つ一つ一本の映画になり得るような人間ドラマが透けて見える。
岩切とチームを組む木田は若く、岩切にとってはその発言は青いばかりなのだろうが、でも、やっぱり真実は、木田のような若い人たちの思考や言動の中にあると思い知らされるし、そして……なんでこんな、なまぬるい処置をしちゃったの、と思う。
本作で姉妹は、施設への入所の様子が描かれる。岩切の水道テロ暴走で、彼女たちの現状も明らかになったゆえの措置であると思われるし、現代社会に発する現代映画としては、こうした子供たちを見捨てない社会であることをアピールしたいという思惑があったのかと推察される。
推察されるから……それこそ忖度とか、思っちゃう訳さ。生ぬるいと思っちゃう訳さ。原作がやっぱりそうだったという力を得たから余計力こぶが入っちゃうけれど、やっぱりこのラスト改変は、批判されても仕方ないと思う。
原作の、原作者の勇気と心意気を木っ端みじんに踏みつぶしてしまったと言われても仕方のない改変。ああでも、こうして、こんな具合で、私は未読の原作映画を観ているのかと思ったら……もうどうしたらいいのか判らない。★★☆☆☆
もう一本の方も本作もそれが突出していたけれど、本作に関しては、タイムリープといういわば使われまくっている手あかのついている映画の一ジャンルを、思いもよらぬ角度から切り取ってみせた。まさにドギモを抜かれた。
タイムリープの秀作は数多くある。最近では「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」が記憶に新しいところだけれど、タイムリープものが物語を作り出すのに向いているのは、戻ってくるまでの時間がある程度ある、今度は別のやり方で、とやり直す程度の時間が用意されているからなのだ。
「MONDAYS」はまさにそれが一週間あり、その間にこのタイムリープに気づく仲間を増やし、この時間軸から抜け出す方法をみんなで考え、作戦を練って、という面白さが作り出せた。
なのに、なのになのに、なんと、本作は、5分!まさかの設定。これは、ヤラれた!こんな設定、思いついた時点で優勝!
いや、私がSF無知なだけで、意外にあるのかな?いやでも、映画ではきっとない、見たことない。5分じゃ仲間を増やすなんてこと出来っこない。
いや、最初は主人公の樹だって、目の前にいる恵那を説得しようとしたのだ。5分巻き戻ってしまう。タイムリープの中に閉じ込められたことを必死に訴えた。でも5分じゃムリだ。時間切れを繰り返し、樹はまた、机に突っ伏して居眠りしているところを恵那に起こされる。ありがとう、ねぇ聞いてる?と。
最終的なタネ明かしというか、樹がなぜこの状況に陥っているのかということを、アホ観客である私が正確に理解したかどうかは自信ない(爆)。
うんざりするほど何度も繰り返される5分間の、終盤になって樹の前に、これは医学的実験に参加してもらっているんです、みたいな、穏やかにほほ笑む医者の幻が見える。
でもそうじゃないんだよね?タイムリープを繰り返しているのは夏休みの樹だけれど、今現在の樹は死の床にあり、夏休みの樹が見た医者は自分自身。
家族を持たなかった樹が可愛がっていた甥が遺品を整理していると出てくる、付箋を貼った掲載雑誌でそうと判る。このタイムリープは死に際の彼の見ている夢、だということで、いいの?自信ない……。
高校生の、夏休み。樹と恵那は文化祭の実行委員として、打ち合わせのために教室に来ている。その中で延々と繰り返される5分間。
早々にオチバレで言っちゃうと、実際には樹は実行委員になっていないのだ。恵那が立候補して、もう一人が全然決まらず、うつむいてしまった恵那、そこに樹が手を上げた。でも、その直後、もう一人男子が手を上げた。
樹はきっと、クラスの中でも地味な部類。手を上げた男子は、華やか系。クラスメイトがはやし立てる感じで判るし、その後というか、その後が示されるのはあらゆるあれこれが解明してからなんだけれど、恵那とその華やか男子はイイ感じになってる。
樹はきっと、いや確実に、恵那が好きだったから、勇気を振り絞ったのだ。彼が見ている、永遠に繰り返される5分間は、彼自身が望んだ設定だったのだ。
お盆で、学校には誰もいない。担任の先生も、こんな日に打ち合わせに来なくても、と渋った。時が止まったような、しらじらと真夏の明るい日が差し込むがらんとした教室。
樹はそこで、机に突っ伏した居睡りから5分おきに何度も何度も、気が遠くなるぐらい何度も何度も目覚める。
気が遠くなる、というか、気が狂う。恵那を説得しようとする、学校の外に出ようとする、ショートカットするために飛び降りてどうやら足を骨折する。
意味ありげにこっちを見上げている用務員のおっさんが何かを知っていると、彼にたどり着くために何度も飛び降りて、ようやくつかまえても、ツバメの巣に帰ってくるヒナを見上げていただけだという。
自分と同じように走り回っていた女子がいると知って、なんとか連絡先をゲットしようと、ミーティングに来ていた生徒会メンバーを説得するためにも、5分間が途方もなく何度も繰り返される。
もう死にたくなり、何度も何度も飛び降りけれど、死ぬ前に5分が経過してしまう。なんで死ねないんだよ、と血まみれの樹は絶望のつぶやきをもらす。
何度も、机に突っ伏して居眠りしているところから目覚めるシーンに戻ってくる。本当に無数に、と言ってもいいぐらい。
こんな、究極のワンシチュエーション、見たことない。言ってみれば、素晴らしき製作コスパの良さ。究極のミニマムな設定で、これほどまでに見ごたえのある展開を見せられるんだということに驚嘆する。
それを体現する若き役者さんたちの素晴らしさ。5分巻き戻る、1時に戻ってくる二人、樹と恵那。樹を演じる青木柚君は、ちょっと三浦春馬君をほうふつとさせるような繊細な魅力。何度も繰り返される5分間の中で、ああ、彼は、恵那のことが好きなのだ、ある意味だからこそ、神様にここに閉じ込められたんじゃないかと、思わされるような独特のオーラがある。
樹は次第に正気を失っていき、というか、この年頃の男子の本能と恵那に対する想いもあって、観るのが辛い、彼女に対する欲望の暴挙に出だす。
最初オナニーから始まる丁寧さで、でもそのオナニーが5分間だから達しきれない、5分間という設定、何度も繰り返される目覚めに、どんどん観客が追い詰められてドキドキしちゃって、どうするの、もう、また戻っちゃったよ!!と思う中で、じわじわと、樹は狂い、いや、本能に目覚め、恵那を……。
その恵那を演じる坂ノ上茜嬢。ご本人は27歳で高校生役だなんて、とオフィシャルサイトでおっしゃっていたが、いやいやいや!めちゃくちゃ可愛くて、コケティッシュで、永遠の時を生きる女子高生だったよ!!
真夏、お盆休みのがらんとした教室に男子と二人きり。この最高に胸キュンの場面の女子として最高すぎる。ボブカット、ぽってりした唇、笑うとくっきりと刻まれるえくぼ、最高すぎる。彼女は樹が目覚めるたびに、同じセリフを口にする。ありがとう、ねぇ聞いてる?と。この台詞が5分間が巻き戻った合図。
確かに、気になっていた。ありがとう、ってなんなんだろうと。執拗なまでに繰り返される、5分巻き戻された最初の場面。
最終的に、死の床にある樹の元に甥っ子が連絡を取って訪れたきた、現在時間軸、年老いた恵那は、誰も実行委員に立候補してくれなかったところに、手を上げてくれた樹に、本当に本当に嬉しかったのだと、語った。
当然、その先の、タイムリープの場面かと思いきや、違うのだ。実際に実行委員になったのは別の男子。つまり……樹は、夢見ていた恵那との実行委員の打ち合わせを、死に際の夢の中でループしていたということなのか。
繰り返されるタイムリープの中で、樹は死にたいとまで追いつめられ、オナニー不発の果てに恵那に襲いかかるまでに至る。
最初はね、恵那に、世間話を持ち掛けてた。繰り返される5分間を、もうどうやって乗り越えたらいいのか判らなくて。でもそんなことは知らずに、同じような返答をする恵那にいら立って、彼女を困惑させたりした。
そして……もう、ここから抜け出せないなら、欲望を満たしたいと、いやもう、なんか、狂気に至ってしまっていたんだと思う。
何度も繰り返すうちに、彼女を脅すための凶器を、裁断機から作り出しちゃう。ちょっと怪我としたってかまわない。だってあっという間に5分は過ぎ去る。チャンスはほんの少ししかないのだと。
観客も、もうどうしようという気分になる。まるでチャンスのない、5分間が永遠にループするなんて、耐えられない。死ぬことさえ、時間がない。
でも、そうだ、冒頭は違う場面だった、と思い出す。いかにも余命いくばくもない男性、枕元の扇子、彼を見守っている、彼の子供世代と思しき夫婦。
先述したように、この夫婦は樹の甥夫婦であり、甥っ子君は樹に恩義があるので、いろいろと逡巡している。延命させるのか、自然に任せるのか。
その中で荷物整理をしていて、おじさんのどうやら、恋していた相手、恵那の連絡先のメモが、古びたアルバムに挟まれているのを発見するんである。
現実の時間軸での樹、そして当然恵那も、タイムリープなんぞに閉じ込められず、高校を卒業し、就職し、結婚し、子供を得て、今に至るのだろう。観客が、そして死の床にいる樹が見ているのは、現実には起きなかったこと。でも……。
樹は、地獄のように永遠に続くタイムリープかと思いきや、ある時点で、時間が止まっているんじゃないと気づく。
彼女の髪が伸びていること、そして自分の髪は……あれ、白髪があったんじゃない?見間違いかな……でもそうだとしたら、それに時間経過を感じたのだとしたら、高校生なのに、しんどすぎる……。
そのことに気づいて、永遠じゃなく、いつか終わりが来ることに安堵する樹。うわぁ……それはさ、老いて、死を迎えることに対する安堵ってこと。
永遠に、気が狂うほどに永遠に同じ時間を繰り返すことより、同じぐらい何度も何度も、気が狂うほどに同じ時間を繰り返しても、老いていくというタイムリミットが判っていることに安心を感じるなんて、想像がつかない!!想像を絶する、すさまじい設定。
だからこそ少し、成長という名の老いに突入していく、タイムリープに閉じ込められて、年相応の役者さんに変わってからがちょっと残念な感じだったのが、もったいなかったなぁ、と思う。
若い役者さんたちは瑞々しく、ヴィヴィッドで、もうドキドキしちゃったけど、そうか、このタイムリープの中でも時間が経過している、と種明かしされ、安心はしたものの、正直シニア役者パートになってからは、胸キュンが急降下してしまった。
この時点で恵那がタイムリープを繰り返している現状に気づいていたのかどうかはあいまいではあったけど、恐らくこれは樹の死の床での夢の中なのだから(だと思うのだが……)そこをツッコむのは違うとは思うし……。
まさにこの今の、真夏の季節、しらじらと差し込む現実味のないような白っぽい空気感、めちゃくちゃドキドキした。
永遠に閉じ込められる青春の時間。こんな永遠の地獄は怖いけど、でも、青春の時間が永遠だということを示すための、描くための、作品だったのかなと思う。★★★★☆
見事な法廷劇。そしてこれは基本的なラショーモナイズ、証言する人によって、その視点によって全く違った見方が次々に陳述されるという面白さではあるのだけれど、その見せ方が見事。
誰かによって証言される“事実”が、次の人によってくつがえされて新たな“事実”が産まれ、さらに……という繰り返しで、彼らが共有している客観的事実が、そう、それこそまったき事実の筈の事実が、少しずつずれていく……。
情人と心中して生き残ったと見られた、女たらしの神阪が、それこそ加害者として逮捕されたのだからもっともくえないヤツの筈だったのに、彼の持つ“事実”が披露されると、まったく違う物語が見えてくるのだ。
そう、ホントに最もくえないヤツだと思っていたし、彼が女たちから糾弾されるたびに、あーやっぱりコイツ、女たちごとに適当なこと言ってこんなことになってんだよと思ってたのに、いや、確かにそうに違いないのに、ラスト、神阪、演じるモリシゲの大弁舌が凄すぎて。
ああ、確かに真実なんてどこにもない、客観的という言葉の元に断罪される陳腐なストーリーが真実とされるだけ。みんな自分に都合のいいようにチョイスし、捨てさり、自分だけの事実を作り上げ、隠されていたことを暴露されると途端に狼狽し、崩れ去る愚かさ。
本当に、モリシゲであることがめちゃくちゃ効果的だったと思う。冒頭いきなり、心中シーンである。死にゆく女を抱きしめ、絶命した彼女をベッドに横たえ、息も絶え絶えに部屋の外に転がりだす神阪。
煽情的に新聞紙上に踊る、有名編集者のスキャンダラスな情死事件は次第に、奥さん含めて四人もの女関係が取りざたされ、勤めていた出版社での横領がすっぱ抜かれる。
神阪をこの出版社に推薦した有名評論家の今村や、出版社社長、そして女たちは法廷で口々に、神阪のうさんくささを熱弁するのだが……。
つまりはさ、何一つ物証がない訳よ。神阪が心中したとされる梅原千代は、なんたって死んじゃったから死人に口なし。でも日記が残されている、けれど、それだって確かに後に神阪が言うように、真実が書いているという確証などある訳がない。
最初はね、この千代のことを、ちょっとおかしかった、気が違っていたんだ、なんていう神阪にひっど、だーから男は!!と思っていたんだけれど……いやだから、本当に真実は判らないんだけれど……。
最初のうちはね、証言する女たちにやり込められる形で反論したくても首を縮めている形の神阪だったから、神阪の言うことはことごとくウソだという彼女たちの言い様こそが信憑性があると思わされていた。
本当に巧みなんだよね。次第次第に、証言台に立つ彼らが、自分こそが神阪にひどい目に遭わされた、あるいは、自分こそが神阪のことを誰よりも知っている、といった、自己顕示で物語を作り上げていることが判ってくる。
だって、何一つ物証はない、彼らの印象だけで話しているんだもの……そのことに段々気づいてきたあたりで、重なり合う事実を共有している筈の証人の言うことが食い違ってくる。まるで、神阪がそのことをまちかまえてあのクライマックスを迎えたみたいに。
最初に証言するのは女性編集者、永井さち子である。あとから考えると彼女の証言が他のすべての証言者のあれこれをひっかけて、後を引くんである。一見、神阪にいいようにくどかれ、だまされたんです!とヒステリックに主張しているようなおぼこ女子に見えた、最初は。
彼女が訴える神阪の所業……飲みに誘った先でちょっかい出したり(このあたりがモリシゲ上手いんだよな……ちょっとおっぱい揉んだり、さりげなくしちゃう、もうこれは彼の独壇場)自分は独身で寂しいとか言っていたのに、実は妻子がいたことで私は傷ついたんです、というのは、そうかそうか!可哀想に!!と思っちゃう。
でも、証言者があらわれるごとに、さち子の清廉さのめっきは次第にはがれていくのだ。無論、さち子もそうなんだから、他の証言者も自身にとっての都合のいい事実しか言っていないんだから、そこにはそれなりに客観的に見た嘘も練り込まれているだろうから、判らない。
そこがね、もう!上手いというか、何がホントなの!!と観客をどんどん追い詰めていくところなのよ。
結局あらゆる証言者により、さち子は決して神阪に純粋に騙されたんではなく、社長とも関係を持っていて、謀略によって神阪を陥れたんだというところまで、本当にそうだったかどうかは判らないまでも、示唆される。
神阪を推薦した評論家、今村の所業の暴露が最も厳しい。今村は証言台で、梅原千代のことは知らない、面識がないといった。これが明白なウソだということは、積み重ねられる証言によって明らかにされてしまう。
千代は小説家志望だった。北海道から出てきた彼女を弟子として住まわせていた。そして……手込めにした。妻に知れて神阪に処置を任せた。荷物を出すように、というのは千代が言っていたか、神阪だったか。本当に紙きれひとつで。
妻の肺の病がうつっていて、千代は生きる気力も失っているようだった、というのは、神阪だけでなく、客観的共通認識として語られていたけれど、その言葉上から受ける、しおれた、よよとした感じでは、実際にはなかった、のか。いや、その実際というのもまた、神阪によって語られるだけだから、判らない、ああもう、判らない!!
神阪に関わる女たちはみな個性的だけれど、この千代、神阪をどん底に突き落とした千代は、格別である。
神阪を演じるモリシゲこそが、あらゆる女たち、女だけではなく世話になった今村や社長たちとのエピソードで、つまり彼ら側から見た事実、神阪から見た事実、というのを演じ分け、まさに変幻自在な芝居を見せてくれて圧巻なのだけれど、何より千代とのそれが、圧巻中の圧巻である。
なんたって情死にまで至るこじれた関係。神阪に言わせれば、巻き込まれたという形。それが本当に客観的真実かどうかは、判らない。判らないけれど……。
まず冒頭、印象的にその場面が示され、いわばその場面に至る神阪の人となりと、神阪と千代の心中未遂に関わってくるあらゆる利己主義な人たちのメンメンが、次々に勝手なことを言い募るのだもの!!
勝手なことを言い募る、という印象は、だから最終的にそう思ったに過ぎない。それは後述するにしても……女たちを演じる女優さんたちはみんな凄いんだけれど、ことに、ヤハリ、千代を演じる左幸子氏の凄まじさよ!!
もう最終的には狂女よ。モリシゲとは濃厚なキスシーンも披露し、いやそんなものは些末な素材と思うぐらい、もうただごとじゃないの、自身を失ってるの。
それはね、確かにそれは、神阪が証言する彼女であって、彼だってまた、自分自身を弁護するために、いわゆる客観的事実ということからはどうなのかなとは思う。
でも彼がトリだったから、大トリだったから。散々勝手なこと証言された上での、我慢に我慢を重ねて、彼らの証言を一つ一つ丁寧につぶす怜悧さの上の証言だったから、ひどく信憑性を感じてしまって……。
つーか、だから、もうすっかり我を忘れてしまっている千代を演じる左幸子氏がすさまじすぎて、だってもう、あのモリシゲが圧倒されているんだもの。本作は、本当に女たちが魅力的で、うっかり言いそびれたからここで記しとかなきゃ。
このスキャンダルに心乱れて、レコーディングを中断してしまうなんていう繊細さを見せた歌手の戸川智子(轟夕起子)は、しかし証言台ではスター歌手のプライドで明るさをふるまい、私があの人のことを一番判っているんですわ、と言い放つ。
妻の雅子は貧しい生活を文句も言わず送っていて、夫のことを信じ切っていて、そんなことをする人じゃないと断言する。雅子を演じる新珠三千代の繊細な美しさに、もう一目見てやられてしまう。
後に彼女が今村に凌辱されていたことを神阪が暴露するのだけれど、それはそれこそ本当のことだと思われるのは、何故なんだろう、それこそ確証がないのに、ここまでに今村が千代のことを含めウソだらけの、クソオヤジだというのが、神阪側だけじゃなくほぼ確定に至るからでもあるんだけれど。
なんだろう……哀しいのだけれど、この時神阪が言った、今自分は妻を愛していない、むしろ憎んでいる、と言った後でこの事実を暴露したのが、哀しい、あまりに哀しい、と思ってさ……。
この証言台にね、息子ちゃんが迷い込むのよ。パパ、早く帰ろうよ、って言うんだよね……。外にはしんしんと雪が降っていて、妻は顔を覆って泣きむせんでいる。立ち会っていた警察官(刑務官?)が息子ちゃんをあやして、廊下に連れ出す。窓の外にはしんしんと雪が降っている……。
妻は夫を愛していると言った。でも夫は今村に凌辱された妻に今や愛情はない、むしろ憎しみがあると言った。このシークエンスが最もつらかったけれど、でもどうだろう……妻はああ言ったけど、本当に夫を愛しているのか。
他の女たちに対しては、妻以上に信用できない。みんな神阪に執着し、私だけが、とか、裏切られたとか、言っているけれど、もしかして誰一人、彼を思っていないんだとしたら……それが一番、怖い!!
最終的に神阪による、つまりはモリシゲによる見事な弁舌で、みんなが自分勝手に、自分の都合のいいように事実をチョイスして作り上げているだけ、真実なんて誰にも判らない、という、哲学的な着地点、それこそが本作の凄まじさだとは思う、たしかにそうだけれど……。
あのチャーミングなモリシゲが、神阪という女たらしの、彼ならではの、モリシゲにしか出来ないキャラを得ながら、愛されるべきキャラでいながら、誰一人から愛されない結果なのだとしたら……。
私はモリシゲ大好きだから、ついつい神阪の言うこと信じちゃうもの。それを信じちゃったら、彼は、女たちのみならず、一緒に働く男たちからも軽んじられて、利用されて、それだけの使いやすい男だと思われて、ってことなの?って……。
もちろん真実は判らない。この神阪を、モリシゲが演じたことが、めちゃくちゃ意味深かったと思う。だってあんなに自然におっぱい揉む役者は今も昔もいないでしょ。いやそこかよ(爆)。★★★★☆