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自宅でありがとう。さようなら
2023年 89分 日本 カラー
監督:松岡孝典 脚本:松岡孝典
撮影:大久保礼司 音楽:荒川将司
出演:津田寛治 星ようこ 峰秀一 藤夏子 吉川康太 石和摂 大井隆誠 松林慎司 園山敬介 佐藤茜 大江駿輔 大場隆行 奥りおん
でも、この自宅での介護、というのはものすごく関心があって、ドキュメンタリー作品を中心にいろいろ観てきたのだけれど、やっぱりね……。このテーマだと、実話を基にしていたって、ドキュメンタリー作品にはかなわないなと思っちゃう。
そして数々の秀作ドキュメンタリー作品には、今現状のことはもちろんだけれど、これからの自宅での介護はどうなっていくべきか、という当事者や医療従事者、福祉、行政の、模索、手探り、でもよりよい最期を迎えたい、迎えさせたいという深い気持ちがあって、それが独女の私に勇気を与えてくれたから。
本作のように、いまだに家族に、家族だけに介護を任せることに対する抵抗なんだよ。だったら、家族のいない人はどうしたらいいの、って。
私は自分が最期どうしたいかを、よく考える。私も、本作のおじいちゃんのように、自宅で最期を迎えたい。でも私は一人だ。普通に考えれば施設に入るという選択肢になるのだろうが、出来る限り、福祉や行政の手を借りながら、自宅で生活を全うしたい。
認知症になってしまったら難しいかもしれないけれど、身体が動かなくなったということなら、身体障害者の人たちがサポートを受けながら一人暮らしをしているように、絶対に出来ると信じているし。
自分が考えていることばかり言っちゃって、すみません。つまりはさ、本作は確かに実話に基づいているのだろう。でもそれは、実際に介護をされる側、本作においては主人公の父親であるおじいちゃんの心に基づいているのか??という疑問がどうしても頭をもたげてしまうのだ。
主人公は津田寛治演じる良昭。妻(星ようこ)と受験生の息子(吉川康太)と彼の両親の5人暮らし。つまり、良昭が実話だという本作のお話を提供したお方なのだろう。
だとすると……彼、何もしてないじゃん、と思っちゃう。つまり、実質的な介護を何一つ、してないよね、と。まぁ正直、本作の中に出てくる介護は食事を出すこととオムツを替えることだけで、ことオムツを替えることの困難をひたすら強調しているという感が強いのだが、そのオムツを替えることも彼はしていない。
していないにも関わらず、息子がそれに拒否反応を示すと、呆れたような顔をするんだから、おめーだってする気もないし、実際しなかっただろ……と思っちゃう。
お嫁さんにされるとしのびないとか、だから奥さんしかできないとか、後々成長した孫が、「生まれた時もオムツ、最後もオムツ、上手く出来ているよね」だなんて、それこそ上手いこといっておじいちゃんのオムツを替えるシークエンスをしみじみと父親が眺める、そんなおめーが何もしてねーだろという気持ちなのである。
そもそも先述したけど、家族が介護をしなければならない、いまだにその感覚がこの国では抜けていないことがどうしても気になる。これまた先述したように、決して少なくない数の独居老人はどうしてくれるのかと思っちゃう。
それに……介護を受ける当事者が、どんな介護を受けたいのか、いや、どんな生活をしたいのか、言っちゃえば、どんな人生を送りたいのか、ということが最重要事項なのに、介護の問題に家族が関わってくると、そこが取り落とされてしまう。
介護する側の家族の問題にすり替わってしまう。そしてそれが、こんな風に美談めいて語られてしまうのが、私は本当にガマンならないのだ。
このおじいちゃんの気持ちが伝わってこない。もどかしいのは判る。身体が動かない、迷惑をかけている。いっそ絶食して即身仏になってしまいたいと急に食べなくなって家族が慌てるシークエンスは確かにちょっとしたユーモラスではある。
りんごをすりおろしてみたり、ヨーグルトを振って振って飲ませてみたり、今半のいいお肉をミキサーにかけて出してみたり、涙ぐましい努力をしているのはいつも嫁であり、良昭はなぁんにもしてない。報告されて動揺するばかりで、家族がしんどいなら施設に入れることも考えるか、と提案することが理解ある夫であるとでも言いたげなのが腹が立つんである。
おじいちゃんが本当はどう思っているのか、即身仏になろうとしたのは確かに、彼の口から後々語られたが、どうしたいのか、何がしたいのか、判らなかったよね??
おじいちゃんがただ一人信頼して身を任せる彼の奥さんが、怪我をして入院したことで、やむなくおじいちゃんは施設預かりとなるのだけれど、家に帰りたい、とリモートで訴えるおじいちゃんに心ほだされて、家での介護を決意する。
恐らくこの時に最期まで、ということも決断したんだろうけれど、おばあちゃんがいなければオムツ替えも出来ない状態だったのがどう解決されたかも示されなかったし、結局は家族側が頑張ってえらいえらい!!みたいな風に見えてしまって、そうじゃない、おじいちゃんがどうしたいか、帰りたいって言うのはもちろんそうだけど、家で、どう生活したいのか、ってことじゃないの?
テレビを見たいのか、ラジオを聴きたいのか、本を読みたいのか、そういうことだって絶対にある筈。ただ漫然と、ベッドに横たわって庭を眺めているばかりじゃ、そりゃ衰弱もするでしょ。オムツ替えも食事も、薄められないお酒も、大事な大事な尊厳なのに、まるでおじいちゃんのワガママに家族側が振り回されているように見えてしまう。
良昭は父親の死に際、本当は死んでほしかったと思っていた、と苦しい胸の内を吐露する。ポスターの惹句にも書かれていたし、これが本作のキモ、問題提起であるのだろうと思う。
でも、そう思うほど良昭自身が介護の大変さに翻弄されたように思われない。少なくともそうした描写はない。介護のきっかけとなった、おじいちゃんの身体が、彼自身思うように動かなくなって、トイレで粗相してしまった場面は確かにショッキングだが、この時も良昭は奥さんに言われておどおどと手を貸すだけだし。
そもそも奥さんの方は舅がトイレで粗相をしているのは知っていて、夫に報告もしていたんであった。結局良昭は嫁や母親が“現場”で行っている現実を、外側から眺めているだけだったのだ。
しかもそれを、嫁や母親は別段糾弾しない。実際はどうだったのかは判らないけれど、これを女性側から考えたら、何にもしねーくせに理解あるような態度とってんじゃねーよ!!と言いたくなるんじゃないかという気がどーしてもしてしまう……。
そう、だから、死んでほしかった、だなんていうぐらいの苛烈な経験を、外側から眺めているばかりの良昭がしていたとはどうしても思われないから、とっておき、みたいにそんな台詞を披露されても、全然響かないんだもの。
それどころか、良昭は今や命の火が消えそうになっている父親に対して、子供の頃の甘やかな記憶を思い起こすんである。酒好きの父親が、まだ子供だった良昭を焼き鳥屋やら蕎麦屋やらに連れていって、大人の作法を教えたこと。
……正直この作法ってヤツは、今やヤボと語られるような、ただ単に通ぶってるだけで店側は全く望んでないし、自分の好きなように頂けばいいんだというのが、私もそうだと思うところであるので……。
しかも、このくだり、寿司屋、焼き鳥屋、蕎麦屋、キャッチボールに至るまで、わざわざセピア色、そしてノスタルジーをかきたてようとストリングスばりばりの音楽で見せてくる。
良昭の子供時代、小学校高学年ぐらいか、白半そでシャツに黒ベスト、ひざ丈ズボンといういで立ちが、焼き鳥屋も、蕎麦屋も、キャッチボールも、全部同じカッコで、あぁこれは……同じ日に一気に撮ったね……判っちゃうのがキツい。
こういう細かいところ、大事だと思う。しかもどの回想シーンも思い入れたっぷりに長尺で、その中で蕎麦はまず何もつけずにそのまま味を楽しむとか、今やイジられるしかないやりかたを子供に強いるとか、苦笑するしかないよ。つゆにたっぷりつけて食べればいいんだって。
死んでほしかったと、死に際の父親に吐露するというサイアクなラストに、その良昭を救うように、若き日の父親が彼の前に現れ、ありがとう、と言う。
ないわ、ないわ。なぜありがとうなの。何もしてないじゃん。少なくとも、病床に至り、身体が動かなくなり、自分の最期をどうすべきか葛藤していたであろう父親の気持ちをちっともすくい上げようともせず、家族で頑張りましたね、孫も成長して嬉しかったでしょ、泣いちゃうね!!みたいな。
そう感じちゃう私こそが愚劣なのは判っているが、でもさでもさ、自分自身がおじいちゃんの立場になったら、と、独女の私はどうしても、どうしても!!!!考えちゃうもの。美談のネタにさせられて、死んでいくなんてサイアクだよ。
息子が自分との思い出を思い返してくれるのは嬉しいかもしれないが、でもそれは、お互い酒を組みかわしながら分かち合うとかさ、そういうことでしょ。しかもその回想シーンときたら、先述したように子供時代は一気撮りした安っぽさだし、キャッチボールて!昭和ベタすぎて、もはやコントだわと思うし、 高校時代の、悪友たちと父親の秘蔵のウィスキーを飲んでしまったシークエンスの、学ラン、パーマ頭という、この時代です!!みたいなクソダサリアリティのなさはマジで耐えられないわ……。
当事者は、死にゆくおじいちゃん。なのに彼の気持ちが伝わらない。そしてどうやら、作り手が伝えたいと思っているのが、おじいちゃんを頑張って介護した家族側の気持ちらしい。
少なくとも私は、それは違うと思うから、耐えられないのだ。ノスタルジーに浸って、葬儀の帰り道満足感に浸ってんじゃねーよ、と思っちゃう私が……キチクなのだろうか……。
それとね、細かいんだけど、看護師が最後に会わせてあげたい人を呼んでくださいと言って、奥さんが良昭に親戚関係に電話をかけるように頼むのに、それがほったらかしになったままご臨終になっちゃうとか、延命するのなら救急車を呼ぶべきとのアドバイスにスマホを握った奥さんが、でも延命はしないと家族で決めてたらしく固まるんだけど、その固まった姿勢のまま、良昭の延々と続く懺悔を家族と一緒にずーっと聞いてるとか、気になるんだよー。
介護側のプロ団体がクレジットされたりもしているので、誠実に作っているのだろうことは判るのだけど、どうにもなぁ。いろいろ言葉が過ぎてしまってごめんなさい。★☆☆☆☆
長尺のワンカットにこだわり、ぴたりと主人公の背後に張り付くかのようなカメラは、時に画面酔いしちゃうし、明確に聞こえてこない台詞、それを常に邪魔している往来の車の騒音など、観客に優しい映画では決してない。というより、先述のように、そんなことは考えていない。
もちろん出来上がってしまえば、観客の元に届けられてこそ映画は存在するけれども、そして不思議と観客側はそれを最初から作り手の義務のように考えているけれど、そのことが予定調和を生み出す温床になっていたのかもしれないと思う。
本来、創作というのはこんな風に、原始的衝動に基づいてこそであって、でもそれは総合芸術である映画では確かに困難。
こんな風に、たった二人の登場人物、監督はその二人のうちの一人を演じていて、カメラも一人、録音も一人、この信じられないほどのミニマムな陣営だからこそ、その衝動をストレートに作品に映し出せたのだろうと思う。
本当にね、時にもどかしいほどに不器用な画作りなのよ。主人公は後に自己紹介する時に神崎、という名前は明かされるが、考えてみれば彼が相手に本名を明かす義務もない。それに応える山本にしたって、本当に山本という名前なのかは判らない。
判らないけれども……この、対照的ながらも生きることにザ・不器用なのは明らかな二人が、なんていうか、ついうっかり、本当の名前を言い、警戒しながらも本当の自分しか出すものがない、というのが、タイトルの理由が明かされると、ああ、こんなところに、がけっぷちに、人生の奇跡があったのかもしれないと思わされる。
神崎は、死のうと、死にたいと、思っていたんだと思うけれど、それさえ、明確に言葉にされる訳じゃないし、彼自身、そう明確に思うことさえ、怖かったのかもしれないと思う。
自分の居場所がない、という言い方は使い回されて陳腐にさえ聞こえるけれど、実際に神崎は、自分が一人住んでいる手狭な部屋さえ……手狭だということさえ、カメラが接近しまくっているから、見渡せなくって、その息苦しさから想像するばかりなんだけれど……その部屋でさえ息がつけなくて、たまらずに外に出たように見えた。
電話がかかってきていた。あれは、職場からだったのだろうか。後の山本との会話で、職場での居心地の悪さをぽつぽつと語っていたから。
でもそんな、手掛かりになるような会話は観客に届けるつもりもないように、往来の騒音と、ぼそぼそとした聞こえにくい声で遠ざけてしまう。本当の理由なんて、何があったかなんて、結局今たどり着いたどん底の自分が解析したって、意味がないとでもいうように。
神崎の背中にぴたりと貼りつくようなカメラワーク、こんな映し方はこれまで見たことがなかった。実際に登場人物は神崎と山本だけではあるけれど、本当に、それ以外の人物が見えてこない。駐車場で誘導しているガードマンのおっちゃんが映し出されるぐらいである。
まるでこの世に、彼ら二人きりみたい……いや、そうだ、神崎はきっと、これまでこの世に彼一人きりだったんであった。彼一人きりで、死にに行こうとしていた、のが、その道行に山本を選んだ。
そもそも神崎は、山本に声をかける前に長距離移動をタクシーに断られているのを台詞もない遠目のスタンスで描かれていた。車でしか行けない場所なのか、神崎は免許を持っていないのか、現代の社会人としてはなかなか考えにくいけれども……。
誰かに、連れて行ってもらわなければ、自分の意志では行けなかった、ということなのだろうか??それまで、この世でたった一人と思っていたような雰囲気満点の神崎が、コワいお兄さんに声をかけてまで、100万円を提示してまでそれを頼み込む、だなんて。
山本に声をかけたのは、彼がひったくりをして全力疾走している様を、タクシーに断られてしょんぼりと座り込んでいる道の反対側から神崎は見ていたのだった。
てか、私、何故かこのシーンすっぽり抜け落ちていて……ずっと神崎の背中に貼りついているカメラワーク以外の記憶がなくて、あれ、そんなシーンあったっけと(爆。加齢……)。だから、路地をさ迷い歩いてタバコをせかせか吸っている山本に、盗みましたよね?と声をかけた神崎に、えっ?何何??とちょっとビックリしてしまったり。
だって、そうでしょ。いかにも内向的な神崎が、なんでこんな、金髪テカテカジャンパーのチンピラ兄ちゃんに声をかけるのよ、って。走る姿を見て、と神崎は後に語るが、そんなんあるかいとも思うが、でも確かに神崎は、これまでの人生で、あんなふうに全力疾走したことなさそうだなとか思い……。
本作がロードムービーであることを考え合わせると、あんな風に走りたい、どこかへ行きたい、という無意識の願望だったのかもしれないと思う。
山本はいかにもなチンピラ、その日暮らしのクズ男子。神崎から恐る恐る持ちかけられた、送り届けるだけで100万円、という話に当然、警戒を強め、何より神崎のおどおどな態度にも苛立つのだが、何度も何度も、遠く行きかけては戻ってきて、を繰り返す。
もちろん、100万という大金を提示されての心の揺らぎもあるし、銀行からおろしてきた神崎を襲って奪い取ろうとする場面もあるけれど、それが失敗して、その仕事を遂行することを承諾する。
100万円、というのもまた、その響きがまた、ある種の子供っぽさを思わせる。二人の男の子の、男の子とおばちゃんは言っちゃう、そんなまだまだ若い価値観を思わせる。
信用できねぇからな、と前金までとるという、ある意味きちんとしたビジネスライク。そうした、ある意味物語性を帯びた展開になっても、常にカメラは、基本神崎の背後、首から肩の間にピタリと貼りつき、だから神崎の表情もめったに見えず、角度を変えれば、神崎や山本の、これまた超接写な不安げな表情をとらえ続ける。
まるでこの世に、この二人しかいない、この二人しか映し出せないカメラで、道行きを連れていかれているかのように。
この先の人生なんて見えなくて、考えたら不安に押しつぶされるから考えないように強気に生きているのが山本で、考えちゃったのが神崎で。だから、彼らには、自分自身以外を見る余裕がないというか、自分自身以外の人間なんていないというか。
それは言い過ぎだけれど、自分自身以外の人間が、自分のように追い詰められているとか、いや、もっと単純に、自分を思っている他人がいるなんてことを、想像さえ出来ていないのが、手に取るように判る、というか、想い出した、というか。
忘れたかったかな、忘れたフリをしていたかな。直面してしまったら、死を選んでしまったかもしれない、という時期は、誰しもとは言わないまでも、そこそこの人たちにあるだろうと思う。
忘れたかった、忘れたフリをしていた。だって、成人した先で、社会人になった先で、そんな幼い自分がいたことを思い出すのは、恐ろしかったから。
彼ら二人しか、しかも接写の二人しか見えない、神崎の肩先と首筋に貼りつくようなカメラは、なんだかさ、なんだか……死神のようにも思えたんだよね。
視野を狭くして、他の誰かや風景を見えなくして、首根っこ捕まえて樹海に連れていく死神。神崎はまるで自ら、その死神に連れていかれたがっているように見えた。なのに、一人では行けなかった。
一度、山本は神崎を捨て去る。休憩した駐車場で、戻ってきたら神崎のリュックサックと水のペットボトルが置き去られていた。捨て去られたことが明らかなのに、まるで迷子になった子供みたいに、方々を探し回る神崎。
やがて諦めたように歩き始めた。神社にお参りし、10円玉でコイントス、何を決めようとしたのかも判らない、だって、ぱたりと手で押さえたその結果を見もせずに、ポケットに収めた。
大した会話をしていた訳でもないのに、捨て去られたのに、まるで捨てられた子犬のように、戸惑っている、あえいでいる、これから先を決められないでいる。
思いがけず、戻ってきた駐車場に山本が待っていて、理由を正すことさえせず、車は走り始める。二人が腹ごしらえに立ち寄ったロッジ風の喫茶店での食事シーンが印象に残る。
山本はナポリタンをラーメンのようにすすり食べ、アイスコーヒーかアイスティー。そして神崎は厚切トーストにバターを塗って、飲み物用のグラニュー糖をしきりにかけまくる。そしてなめるようになんども、コーヒーか紅茶か、なんか久しぶりに見たな、小さなソーサーの上の小さなカップを口に運ぶ。
この時の会話は、神崎が山本に、自身を捨て去ったことをもうやらないでほしい、と言っていたんだったか。るっせぇよ、と店を後にする山本、その後のシーンもたっぷりととって、神崎はトーストにバター、グラニュー糖、最終的に口に押し込んで喉が詰まる、なんていうのをじっくりと見せる。
外に出るとタバコを吸っている山本、吸ったこともないタバコを所望する神崎、ゲホゲホむせ返る神崎に呆れたような山本。……なんかまるで、付き合いたての恋人同士か、悪ぶっている中学生の友達みたいだ……そのどちらも、少なくとも神崎は経験していなかったであろうと想像されると……。
この喫茶店の駐車場で、神崎は山本にここまででいいから、と告げる。歩いていけるからと。意地を張ったような神崎に一度山本は追いつき、車を横付けして阻むのだが、それも拒否して神崎は歩いていく。
もう、この先は、神崎だけなのかと思った。雪と水氷が足元を阻む、あれは樹海なのか……薄暗い林の中を、無造作に神崎は踏み入れていく。ついていくカメラが揺れまくる。足元が悪いのだもの……足を取られて転倒し、凍えるような水氷に倒れ込みさえする。
どこまで行くのか、どこまで行って、何をすれば満足するのか、そんなことを思い始めたところで、突然、山本が背後から襲い掛かる。プロレスみたいに転げまわって、神崎の首を締めさえする。
ここが、何よりの愛の場面だと思ったけれど、でも、結局、雪の、水氷の地面に仰向けに横たわったままの神崎。カメラが常に近いから、山本がどう来て、どう襲って、どう去ったのか、判らないんだよ。死神カメラなんだもの。
神崎が、横たわったまま、随分と時間が経って、のろのろと立ち上がって、また歩き始めて、それまでとその後とが、なにか考えが違ったのか、判らないけれど、思いがけず、本当に、思いがけず、パッと開ける、外に出る。樹海から抜ける。
突然、俗世界に出るみたいに、車道があって、車が止まってて、山本がそのそばで立ち尽くしている。
夢、いや、ある意味ギャグみたいだとさえ思えた。死ぬつもりだった筈だ、きっと。薄暗い樹海、雪道、水氷でぬかるんだ凍てついた道、抜けられる筈なんてないと思ってた。
地獄のように続くと思っていたのに、突然ぱっと途切れて、車が止まってて、さっき、その地獄の世界にいた筈の山本が、所在なげに神崎を待っている。こんなことって、あるの。まるでハイスクールラブストーリーみたいにさ。
もうこれを作らなければ死ぬぐらいのオーラを立ち昇らせながら、胸がきゅっとくるラストを用意してくれることに、なんだかホッとしたし、エールを送りたくなった。大丈夫大丈夫、案外大丈夫なもんだよ、人生なんて。そう言いたい。★★★☆☆
エキストラは、そのすべてが名も無き人。死体役は、時には名も無き人の場合もあるし、名のある場合もあろうと思われる。でも死んでいる。生きていた時を映されない。時に、殺される場面から入る時もあるけれど、芝居が大きすぎる彼は、大抵その流れを切られて、ただ死んでいる状態だけで使われてしまう。
仕事を回してくれるマネージャーと思しき電話の向こうの担当者は、もっとうまく立ち回れと言う。割り切って、監督の言うとおりにやれと言う。そんなことが出来ていれば、現場で出会ったかつての劇団の後輩のように、それなりに仕事のある役者になっていたかもしれない。
そんな、不器用さんである広志を演じる奥野瑛太氏は、めちゃくちゃお名前を見る役者さんだが、顔と名前が一致してなかった。こんなにインパクトのあるお顔なのに、めちゃくちゃ重用されている役者さんなのに。つまりは、劇中の広志と違って、芝居の上手い、役に生きる、ザ・役者さんなのであろう。
ホント、お顔のインパクトがなかなかで、役どころがかつては劇団の主宰者、座長と呼ばれた立場、舞台で、大きな芝居で、その場所こそが彼の生きるところだったということが、いろいろ想像出来ちゃうのさ。
このわびしいつましい男一人暮らしの部屋で、そのかつての劇団のポスターをいまだ貼っていたりして、それがいかにもありそうなさ、顔が写真で身体がイラストみたいなベタなデザイン。
発泡酒飲んで毒殺、風呂の中では溺死、プライベートの中でも死体役への追求に余念がないが、それが報われることは、先述のようにまぁ、ないんであり。
本作は本編が作られる前に予告編を作って審査を行うというユニークなコンペティションを通っての映画化だという。なんか、判る気がする。死体専門の役者、その男の人生、見てみたいと思うもの。
広志は一人息子、なんだろうな。母親の検査入院に気弱になった父親からの電話で駆けつける。この老いた両親がとても仲睦まじいのも、一人息子の広志がとても心優しい息子であるのも、もう一瞬で判っちゃって、なぁんとなくこの先が予測できるのもあって、最初っから涙モードになっちゃう。
そう……優しいんだよね、広志。母親が、検査入院で大したことないとか、結果も聞いたけど大丈夫だとか、恐らくそうじゃないんだろうなというのを察して、でも自分には、温泉旅行に連れて行こうとかいうことしか出来なくて。
母親から帰省のたびに持たされる総菜、タッパーたまってるでしょ、たまには返しなさいよ、という母親の言葉で、彼が、夢を追い続けながらも実家の両親を思っているこれまでが想像されちゃう。
そして一人息子だから、結婚して孫を見せるとか、そういうことを期待されているのかというのも、当然判っていただろう。見合い写真が用意されているというシークエンスは、顔で判断するな、と両親ともに牽制し、実際にその写真は見せない、という絶妙の笑かしでちょっと噴き出しちゃったが、でもこの問題は切実。私は姉が結婚して子供をなした時にメチャクチャほっとしちゃったもの。
広志ともう一人、ダブル主演とさえ言いたい、メイン人物である。広志がティッシュ広告を見て呼んでみちゃった、デリヘル嬢である。孤独青年を救うのは大抵、風俗嬢だというテッパンにそろそろモノ申したい気分にもなるが、まぁいい。
ちょっと面白いのは、このデリヘル嬢、加奈が忘れていった妊娠検査薬を、何をどう思ったのか、広志は自分で試してみて、陽性になっちまった、ということなんである。死体専門の役者より、このアイディア一発の方が面白い。予告編だけが存在していた時に、このくだりは存在していたんだろうか??
それは実はがんだったから、というのが最後の最後で示されるが、実際、妊娠検査薬で男性が陽性になった場合、そうなるのかどうかは……そこまで追究するのはまぁヤボだろうけれど。
加奈の方はと言えば、ザ・クズ男、ヒモヤローの彼氏に貢いでいる形。バンドを組んでいた過去があるけれど、今は加奈の稼ぎを麻雀で勝ったり負けたり、ただゴロゴロ過ごしているようなクソヤローである。
彼が音楽がやりたいとかいう信念は、有名アーティストに仕事を請いに行くという場面はあるけれど、そんな姑息なやり口ははねつけられるのが当然で、こんな男は公私ともども願い下げなのが当たり前で、加奈がなんでまぁ、こんなクズ男に執着するのか。いやいや、そんなことを言っては恋愛の話は成立せんのだが。
しかしそれにしてもベタにダメ男だからさぁ。加奈の妊娠に、ホントに俺の子かよ、とか、いっちばん言っちゃいけない言葉、サイテーの言葉を浴びせた時点でまずありえんもん。
今の自分たち(実際は、たち、じゃなくて、おめーだけだ!)にはガキなんてムリ、堕ろすに決まってるだろとしれッと言いやがる。こんな男は死んでよし!!ガキと言った時点で、ダメ。おめーがガキだろ、かつてはリアルにおめーもガキだったろ!!と。死んでよし!!
でも実際、そこまで憤った訳じゃない。このキャラ造形は既視感アリアリだったから。むしろ、こんな、根拠もないのに恋人に自信マンマンな男、今時成立するかな……と心配になっちゃうぐらい、むしろ昭和感な雰囲気すらあった。
まぁでも、飲む、打つ、買う、の中で、打つだけ、なんだよね。恋人が風俗嬢しているのにこだわりなく、その稼ぎを麻雀に突っ込む、まぁクズだけど、酒飲んで暴れるとか、浮気するとかはない。で、風俗嬢だから、本当に俺の子かよ、と言う……うーむうーむ、いろいろ弱いような。
正直、風俗嬢が登場した時点で、またか……と。大抵、悩み多き男子の元に現れ、共に悩み、突破していくのは風俗嬢なんだよなと。男子の願望があるのかなあ。
なんか加奈の物語に引っ張られてしまった。広志である。母親が死んでしまう。その直前、もう息も絶え絶え、というところに、駆けつける。母親は、これが死ぬことだと、凄い目をして、広志に、ぜえぜえ言っている自分自身を見せつけた。
死体役ばかり、一向に役者として芽が出ない息子に、余計な芝居をつけて却下されてばかりの息子に、……そんなことは知る由もなかった筈だけれど、まるでそれを見越したように、生きるってことは、死ぬってことは、そんな頭でっかちの解釈で判るもんじゃないんだ、と、見とけと。目をガッと見開いて、見せつけるんである。
正直、死ぬ間際という訳じゃない、入院して、ゆるゆるとこの先を待っているような状況だったし、ちょっとこの手法も、昭和中期ぐらいっぽい、と思っちゃった感はある。
その感覚はもうちょっと続いちゃう。このお母ちゃんが、息子名義の通帳にお金をためていたり、ほんのちょっとの出演シーンを集めて収めたビデオテープがあったり、である。めちゃくちゃ既視感がある。
VHSデッキを押し入れの奥から引っ張り出して、ビデオを観ながら、手紙を読みながら広志は号泣するのだけれど、あまりに既視感が強すぎて、これはなかなかキビしかったなあ。
それで言ったら正直、加奈側の物語の方が強いんだよね。それは女性として、より強く彼女のエピソードの方に引っ張られちゃうというのがあるとは思うけれど。
妊娠が判って、でも彼氏に言えなくて、中絶を同意するパートナーとして、広志が請われた。オプションつけまくりの太客だったから、っつーのもあるけれど、広志はだって、優しいから……。
ベタ中のベタで言えば、広志と加奈が結ばれて、父親の違う子供をいつくしんで二人で、ということも妄想したが、さっすがに、そんなことにははらない。
加奈は、クズ彼に妊娠を告白し、激高した彼から暴力を受けて、広志の元に逃げ込む。追いかけてきたクズ男が、脅しと許しを交互にぶつけてくる。お前がいなきゃダメなんだよとか言いつつ、開けろよオイ!!とかドアをドンドン叩いてくる。
死体役者として、とゆーかこの場合は劇団時代のものかな、いろんな小道具を持っている彼は、加奈と共に一世一代の芝居をしかけ、この、結局はハートの弱いクズ男を撃退するんだよね。
血のりで真っ赤に染まった加奈は、本当に死んじゃったかと思った、と広志に言い、自分より芝居上手いよ、と広志は加奈に言った。自分は役者なんだと、明かした。
加奈も、そして、広志のお母ちゃんも、本気だから、その時本気だから、芝居じゃないから、というのを、広志に見せた、ということなのだろうと思う。加奈が彼氏に見せたのは一応は芝居だけれど、広志がおののいたように、加奈の中では、本当だったのだろうから。
そんな加奈に引きずられるように、彼女から本当に死んじゃったかと思った、という芝居を引き出された広志。この時にまず一つ、何に対して、誰に対して芝居をするのかというキーワードが浮上する。
結構深い、深いかもしれない。役者バカ、ザ・役者、そうした伝説の存在に対して畏怖や尊敬はするけれど、でもそれって、作品や演出家との奇跡的な出会いがなければ成立しないよね、とも常々思っていた。そうした奇跡は当然素晴らしいけれど……。
芝居は誰のためにするか。自分のためじゃない。作品であり、その作品を見る観客のためにするものだと、観客側でしかない私が言ってしまったら、ダメだろうか??
でも、何度となく、思っちゃうんだよね。何にも関与してない、イチ観客である私のような人たちが大半で、広志がこだわる死体のディテールなんて当然考えない。考えたとしたら、そもそもの本編の意味合いが変わっちゃう。
観客は、そこまで考えないのだけれど……こうして、広志のような立場だけでなく、それこそ主役、重要脇役、それぞれだって、考えて芝居を作ったとしたら、作るだろうから……そうしたらさ。結局はさ、演出、監督のものやんか、作品はさ。
広志は、自分は死体役専門で、後輩は売れっ子で、でもその後輩が言うように、ただ何も考えず、演出の言うとおりにすればいいのだということなのかと。
作り手のもの。華やかなスターと見えても、結局は演出側のコマであり、安く使われるから何度も呼ばれるのに、何度も呼ばれるから重用されているのかと思ってしまう、のだとしたら、うわーうわー、……辛すぎるではないの……。
こういう、役者が役の芝居を作る、監督は演出という名で切りまくる、っていうのってさ、これまで話には聞いていたけど、実際どうかっていうのは、実感できていなかった。
理想で言えば、制作部があり、俳優部があり、撮影部とか美術部とかあって、その指揮を執るのが監督、だけれど、俳優部だというスタンスを感じることって、当たり前だけど観客側としてはなかなかないから……。
結構、赤裸々だったよね。ラスト、死体の人、良かったよ、と監督から言われ、少し報われるけど……。役者稼業って……いやぁまじで、何も言えねぇ。私は出来ない。凄いとしか言いようがないなあ。★★★☆☆
センセイが熱く語る春画の歴史……かつては男たちの間のみならず、女も、子供も、庶民も大名も、おおらかに楽しんでいた娯楽であり、北斎や歌麿といった巨匠たちもこぞって手掛けていた文化。
それが西洋文化が流れ込んでくると一気にわいせつなものとして貶められ、巨匠たちが手掛けていたのも周知の事実なのに、公的なプロフィルの中にのっかって来なくなる。
ホント、それこそピンクみたいと思っちゃったのはそこんところ。純粋なクリエイター魂があった筈なのに、そこを通った監督も役者もそれを公的プロフィルに載せないってあたり(爆)。
でもそれこそ、今は違ってきている。ここ数年のように思う。ピンクと一般映画のクロスオーバーが、監督も役者さんも起こっていること。つまりはそれはピンクが衰退してしまったからというのもあるけれど……そのあたりも春画の運命と妙に似ている気がして。
そして何より「愛のコリーダ」だよね!誰もが思い浮かべるだろう。春画先生と呼ばれる風変りな研究者、芳賀と運命の恋に落ちた愛妻とのおこもりと呼ばれる伝説の七日間。
七日間、おたがいを愛し求め合ったその伝説が、数々の春画と相まって、センセイに恋してしまった弓子の心をかき乱す。
弓子が働く喫茶店に客として来ていたのが、春画先生こと芳賀一郎。後に語られなくても、その変人ぶりは登場から際立っている。
喫茶店に、地震が襲う。それが収まった時、弓子の目に入ってきたのが、センセイが広げていた春画だった。目を奪われた。その気持ちの揺れを見逃がさず、だったのだろうか、センセイが弓子に名刺を、半ば押し付けるように渡したのは。
弓子は退屈な日々にウンザリしていた。面白いことなんて今後の人生に起こらないと思っていた。
それは、口には出さないまでも、もう生きていても仕方ないかな、ぐらいの厭世に見えた。同僚たちからも、変人だから気をつけなよ、と言われたけれど、知らぬ間にその名刺の住所、古風な豪邸を訪ねちゃうんである。
センセイと弓子は、演じる内野聖陽氏、北香那氏そのまんまの年齢差で、うっかり親子ほどの年の差もあるから、その危うさは当然、ある。
でも後に語られるように弓子は大学生時代、燃えるような恋の末に結婚し、しかしあっさりと破綻して今、抜け殻のように生きていた。センセイとは親子ほどの年の差だし、北香那氏の清楚な美貌がセンセイとの禁断の恋を、その当初は想像しにくかったのだが、これがトンでもなかったんである。
北香那氏、私はたまたま配信で見たドラマのゲスト出演ぐらいでしか遭遇する機会がなかったのだが、この弓子役は最高である。
てゆーか、塩田監督はとりあえず裸になれる女優さんを探しているのだろうかとも思うが(爆)、別にいいけど。裸になれるに越したことはないからさ。
裸、そう、彼女が裸になっちゃうのは、残念ながらセンセイのためではない。センセイの担当編集者、とゆーか弟子といった立場の辻村につまみ食いされちゃうからなんである。
演じる柄本佑氏の水色のTバックが目に染みる(爆)。前も後ろも(爆爆)。辻村曰く、弓子のようにセンセイに勧誘されて春画を学びに来た女の子たちはこれまでも大勢いて、でもセンセイは愛妻と死に分かれてから女断ちしているから、センセイに許可をもらっていただいているんだと、へーぜんと口にするんである。
まぁつまり、いただかれちゃった後の朝日がさんさんと差し込む部屋で、素裸の弓子はぼーぜんとその話を聞く訳で。
弓子を演じる北香那氏の、一見して清純な美貌、なのに、なのになぜか、なぜだか……その頬、唇、瞬時に血が上る透明な生々しさ。後に語られる、夫婦生活があったことを思えば、彼女がその後、どうやらくすぶった何かを身体の奥に抱えていたことも想像されるが、でもそんな説明はヤボなんである。
春画に出会い、最初はそのきわどい描写に心ざわめいたけれど、巨匠たちの繊細な技に目を見張り、その表情や脇役の姿から物語を想像し、名もない稚拙な画家のユーモアあふれる絵に目を細めたりする。
どんどん、センセイによって春画教育をなされるのだが、そのレッスン料としてセンセイの家のお手伝いとして和服で家事をしたり、愛妻のドレスを着て鑑賞会に参加したり、怪しげな掘り出し物会で暗闇の中、口元にハンカチを当ててじっと一品に目を凝らしたりする。とてもとても尋常じゃない世界。
前半までは、レクチャー的に、春画の味わい方を観客にも教えてくれる。大げさに描かれた局部に気を取られてしまう弓子に、その部分を四角い文鎮で隠すセンセイ。
途端にあらゆることが見えてくる。繊細な男女の表情からそれぞれの気持ちに想像が膨らんだり、つま先のこわばりに女の男への強い気持ちが感じられたり、むき出された柔らかな尻の白は、紙の白そのままを使っている、それは、公的な名作と称えられる、同じ作家の、木に積もった雪の描写と同じやり方なのだとか。
その発見のたびに目を見開き、春画の魅力に没頭していく弓子に、明らかに惹かれているセンセイなのに、ギリギリ、触れることはない。本当に、ギリギリ、薄皮一枚。
そして、辻村にいただかれちゃう。ほんっとうに、辻村を演じる柄本佑氏が憎たらしいほどに絶妙で。弓子が憤るように、許せないヤツ、センセイの要望のままに、セックス音声を中継するなんて、サイテーなのに、なんか説得されちゃうのが悔しい。
本作が、どこかダークファンタジーのような趣があるから、ギリギリ私のようなフェミニズム野郎もまるめこまれてしまうのかもしれないが(爆)。
辻村もなかなかだが、もう一人のビッグキャスト、安達祐実氏がまた強烈なんである。伝説の七日間のおこもり、亡くなってしまったがゆえに永遠に勝てないセンセイのミューズ。
なのにその死んでしまった筈の愛妻が、秘密クラブめいた観賞会に現れる。作品を汚さないように、鑑賞者たちは皆口元をハンカチや手ぬぐいで覆っているのが秘密クラブな魔的な感じがして、たまらんのである。
だからそこに、弓子が写真だけで知っていた愛妻ソックリの女が、和装バッチリで、でも口元を隠しているから確信しかねて、弓子も、センセイも、辻村も固まってしまうんである。
これぞ、ドッペルゲンガーだ……双子の姉妹。ああもう、半世紀前の少女漫画か!!とツッコミたくなるが、センセイの愛妻ソックリの女が現れちゃったらそりゃ弓子は心穏やかでない。
いわゆる元カノであったこの女は一筋縄ではいかないヤツで、クライマックス、弓子は“名画を手に入れるための条件として、相手が示してきたのが弓子を差し出すこと”ってのに乗ってしまって、弓子が予感していた通り、その相手ってのがこの女だったんであり、しかも、そのことをセンセイも知っていて、この現場にもぐりこんでいたんであり。
つーことは、センセイはSMなことに及ぶことを想定して、それをこっそり聞く(これまでも弓子のその時の声を中継させて、コーフンしていたんだから)ために忍び込んでいた訳で、うっわ、なかなか病んでる!!と思っちゃう。
こうして展開を書いていくと確かにそう思っちゃうのだが……本作は意識してオフビートを貫いていて、古風な口調が特にそうだし、ちょっとおもちゃ世界的な雰囲気を感じさせるのだよね。
弓子がめちゃくちゃセンセイに恋焦がれちゃって、彼女自身の女の欲求を持て余したりする赤裸々さが、すんごく生々しくってドキドキしちゃうんだけれど、不思議とその生々しさが、おもちゃ的世界観にマッチしちゃう。
弓子が薄々気づきながら、目隠しまでして連れてこられた豪邸、迎えるツイン美少女がドアを開ける描写とか、シャイニングやん!!と思ったり、私のお小水を飲みなさい!!と弓子が何度も黄金色の液体をあおったり、結局はセンセイと弓子のSMバトルからのラブになったり、かなりムチャクチャ。普段のフェミニズム野郎の私なら、許さなかったかも(爆)。
でも、どこか別の世界のように思わせる、キャストたちの奇妙な言葉遣い。とんでもないセクハラ野郎の筈なのに結局は先導師のような辻村、彼、実はゲイ(バイかも)らしく、大学生の青年やホテルマンとしれッとよろしくやっちゃうあたりがまた奇妙極まりなくてヨイし、迷宮に迷い込んだようなめまい感覚が捨てきれない。
やっぱりやっぱり、弓子役の北香那氏こそ、だったと思う。どこかアニメ的に聞こえる独特のエロキューション、頬に上る官能の血潮。確かに親子ほどに年が離れたおぼこ娘の筈なのに、遠い昔に描かれた春画によって呼び覚まされた彼女の彼女自身が立ち昇る様が、まざまざと見えた気がした。
フェミニズム野郎の私は、年の離れたカップリング、男は年をとっても若い子を相手にできてイイね、と言いたがりなのだが、まぁ本作もそうではあるけど(爆)。
なにか、谷崎的というのかな、弓子がセンセイを踏みつけにする感じが見えて、それが、男たちのものだけじゃなかったんだと明らかにされる、女たちも楽しんでいたんだとレクチャーされる春画によって自我を発見したというスタンスなのだと思うと、いいじゃん、とニヤニヤしちゃう。★★★☆☆
本作は連作短編小説が元になっているという。そうしたらオムニバス風の感じになりそうに思うが、確かに四人の女の子たちの卒業式前日と当日の二日間の物語、ではあるけれど、分断されることなく見事に一つの世界の中で溶け合う。
その上で彼女たちの二日間であり、三年間であり、あるいはそれ以上の、かけがえのない青春の日々が浮かび上がる。
それでも一応、一人が主人公として位置づいている。彼女だけが一人、ある意味時空を超えている。他の三人はこの二日間だけの中で、いわばこれまでの高校生活を清算させる形で描かれるのだけれど、卒業式で答辞をまかされた山城まなみなる女の子だけが、過去回想が入ってくる。
しかしそれが過去回想だと観客が知るのはクライマックスに至ってからで、この二日間の中で描写されているという見せ方を、非常に巧みに成してくるもんだから、ヤラれた!!という思いと共に、彼女を襲った壮絶な出来事に心震えるのだ。
ゴメン、もう早速オチバレで。うむ、でも本当のオチを言うのはもうちょっと先にのばしとこう。
まなみを演じる河合優実嬢、確かにここ2、3年、とてもよく見るお名前。しかもいい作品ばかりに出ている印象。これが初主演なのだという。つまりそれまでは、しっかりと経験を積んで、しかも評価される作品で積んで、満を持して、ということなのだろう。いやー、今後が楽しみすぎる。
主演、として佇むと、とてもフォトジェニック、ショートカットがマニッシュで、陰のある色気があり、オチが明かされると、彼女が抱えていた重さを一気に感じて、ああもう!!と泣いてしまう。ちょっと、久しぶりに、青春物語で泣いてしまったよ。
オチを言えないとどうしようもないので、あと三人の女の子たちに行こう。いやその前に。本作は舞台設定が素晴らしいのよ。
実に絶妙な、自然豊かな、というのはいい言い方。だだっぴろく、何もない、田舎町の中の高校。都会の女子高校生映画のような、渋谷で遊んだり、メイクやネイルにいそしんだり、エンコウ、は古いのか、パパ活?したり??そんなことは一切ない。
でもSNSも浸透している現代の高校生だから、可愛い制服を身ぎれいに着こなしているし、「眉毛失敗した!」というように、メイクも自然にほどこしてる。
いい意味でも悪い意味でも中央と地方の差はそうした意味ではなくなっているんだけれど、でもやっぱり、このロケーション、総幼なじみのような、ずっと知ってる関係性、地元に残る、都会に出て行く、別離の図式は、ああ今でもやっぱりあるのかと、地方で青春を送ったこちとらとしては、すんごく、ぐっときちゃうんである。
というところでは、まずバスケ部部長、後藤由貴(小野莉奈嬢)から行こうか。本作はね、最初は大きく、わちゃわちゃした楽し気な彼らの様子をとらえていくのよ。
私としては、後に語る図書室に居場所を見つける女子の気持ちが判っちゃう、スター女子たちにおどおどしていた十代だったからさ。それこそ由貴なんてそうした、キラキラのトップに位置していて、近づけもしないようなカースト制の一番トップよ。
大きくわちゃわちゃしたところから、次第次第にそれぞれの彼女たちにフォーカスが当たっていく、それも自然に行きつ戻りつしながら、というのが見事で、最初のうちは私のようなカースト最下層にいたモンにとって、由貴のような存在はまぶしくて、実際、あっけらかんと、楽しく過ごしているだけのように見える訳。
でも当然、そう、当然なんだけど、すべての彼ら彼女らに、かけがえのない日々がある訳であって、スター女子に怖気づいていただけのあの頃の私には、そんなことさえ、判っていなかったのだとしみじみ思う。
大分脱線したが。女子バスケ部部長の由貴は男子バスケ部の彼氏、寺田とずっと気まずいままでいる。地元で進学、教員を目指している寺田、由貴は東京へ進学し就職も東京でと考えている。
勉強するなら地元の学校でだって出来るのに、という寺田を、つまりは由貴が説得できなかった、のは、私らの時代ならいざ知らず、東京だから地方だからという価値観が急速に薄れている今となっては、なかなか難しい問題。
でも、やっぱり、いまだに、なのだろうか。都会信仰、東京信仰。少しここには、引っ掛かりを感じたけれど、原作自体が10年前だというと、たった10年前だけれど、この10年は大きかったかもしれない。
ケンカ別れしたまま離れたくないと思って、メチャクチャ勇気を出して電話して、でも気まずいまま一緒に登校する、由貴が必死に明るく話しかけるのに寺田のだんまりのあの苦しさとか、ああたまんない。
最終的には二人は仲直りし、屋上で花火に興じて、笑顔でさよならするのだけれど、この後はどうなるかは、判らないけれど。
個人的に最もギュッときたのは、図書室に居場所を見出す女子、作田さんである。作田さん、と呼ぶのは、図書室係の教員、坂口先生である。演じる藤原季節氏、出まくりの売れっ子さんだけれど、え?藤原氏、だよね??と思うほど、なんか、印象違ったなあ。
自分も作田さんのようだった、クラスに居場所を見つけられなかった、と言うまでは想像の範囲内である。でも彼は、自分の経験を生かしてほしい、と作田さんに、卒業式までの二日間でクラスメイトに話しかけて、「相手の言うことに同意しない」というアドヴァイスを伝授するんである。
作田さんを演じる中井友望嬢はとっても私好みの内省的美少女。作田さんがこの、のんびりおっとりした坂口先生に恋しているんだろうことはめっちゃ判るけれど、それを彼女は口にはしないし、そんなことを超越して、この三年間をたった二日で取り戻す、彼女の大いなる勇気にこそ、あったのであった。
ここで初めてつながるんだよね。私が学生時代に感じていた、決して交わらないと思っていたカースト制度の中の彼女たちが。
作田さんが勇気を出して話しかけてみようと思ったのは、「山城さんが答辞を読む」ことを知ったから、なのであった。あんなに辛い思いをした山城さんの姿に、私も乗り越えなきゃと思った作田さんなのであった。
作田さんのこの台詞で、なんとなく、薄々感じてはいた、山城さんとボーイフレンドの佐藤君の描写、昼休みにこっそり調理室で落ち合い、山城さんお手製のお弁当を食べるという描写が、卒業式前日の描写としてはおかしいと思っていた。
また明日、とそれだけ言うのはおかしいと、けれど、とてもとても幸せそうで、そんなことに気づきたくはなかったかもしれない。
そろそろオチバレしてもいいかしらん。佐藤君は死んでしまった。どうやら、転落死。自殺かどうかは、明らかにされない。回想シーンだと後から判った山城さんとのお昼休みは、ただただ幸せそうなだけだった。
山城さんは調理専門学校に進学することが早々に明かされている、進学先が早めに決まっているから答辞を頼まれたのだと彼女は言っていたけれど、学校中みんなが知っているこの哀しい事件、そして統合によって取り壊される校舎、彼女に託された答辞という立場は重く、実際、彼女はちゃんと答辞を読めたのかどうかさえ、カットアウトされて明らかにされないほどの辛さだった。
佐藤君がよく口ずさんでいた、ダニーボーイ。ここからつながるのが、四人目の女の子。軽音楽部部長、神田さんである。彼女もまた切ないんだよなあ。つまり彼女は、中学時代から、いわば幼なじみと言ってもいい森崎君に、ずっと恋してた、ってことなんだよね。近しい存在だったのに、後輩から聞かれても、中学時代はそんな知らないんだよね、なんてうそぶいて。
森崎君は高校の軽音部では、当て振り、つまりエアバンドで、他の部員からは軽蔑されているような存在だった。卒業ライブの順番決めで、面白半分で人気投票一位にされちゃって、部内で確執が産まれてしまう。
神田さんだけが、森崎君の、本当に歌が好きで、本当に上手くて、聞いたらみんな好きになっちゃう素晴らしい歌い手だということを、知っていたのだ。部内の確執を助長するぐらいの思い切った行動に出て、森崎君一人をステージに立たせる彼女の、「私だけが知っていることにしておきたかったけど、もういいでしょ。最後だから」という、悔しさやら誇りやら愛しさやらがぐっちゃぐちゃになってる女子よ!!
で、それで、ここで山城さんがつながるんだ……。答辞がちゃんと読めたのかどうか、友達女子が、心配げに彼女に寄り添っている。体育館で森崎君がソロアカペラで歌い上げるダニーボーイが漏れ聞こえてくる。友達女子が、誰?と窓を開ける。佐藤君が口ずさんでいたダニーボーイ、どこからか聞こえていたんだと言っていた、急ぎ体育館に駆けつける山城さん。
そもそも、おちゃらけ男子でしかなかった森崎君が、いじられてエアバンド投票一位にされちゃってた森崎君が、まさかの、天使の歌声、聴衆は静まり返り、神田さんはそらみたことか!と誇らしげに、でも、やっぱり少し寂し気に、自分だけが知っていた、大好きな森崎君の晴れ舞台を見届ける。
四人の女子、全員、彼女たちが思いを寄せる男子と、この先の希望ある展開を得ることはない。主人公の山城さんは相手がもう死んじゃってるし、由貴は寺田君と遠距離恋愛になるから望みはあるけど、まあその……であるし。作田さんと坂口先生は、作田さんの片思いだけであるから、切ない美しさ。
作田さんが借りっぱなしにしていた文庫本を、自分用にと購入した方を先生は引き取って、借りっぱなしの文庫本を持っていてください、という坂口先生にきゅんきゅんしまくっちゃう。罪深し!!
統合で校舎が取り壊されるという要素は、答辞の中にそれを入れ込んでくれと要求された山城さんのエピソードにもあるし、実際、山城さんの彼氏が命を落としたという意味でも重い。
一方で作田さん、そして坂口先生が、これまでの三年間を、見返す形での二日間の、新校舎に移行する準備である、戸棚がとっても寂しくスカスカしているそんな図書室での二日間は、清新であたたかなのだ。
坂口先生のアドバイスで、スター女子の一人に、知ってる映画の知識で声をかけた。その時はイマイチ会話が弾まなかったけれど、その翌日、卒業式の日、そそくさと帰ろうとした作田さんに、卒アルにメッセージ書こう、と声をかけてきたのが、そのスター女子だった。
もっと早く話していればよかったね、自然に、そう言ったのだった。たった一本の映画、知ってるかどうかだけで、つながっちゃう、ってこと、確かに学生時代にはめちゃくちゃハードル高かったのだ。
山城さんと佐藤君のお弁当をわちゃわちゃ食べあうシークエンスは、後から思えば明らかに回想シーンと思ったけれど、卒業式が終わって、いろんな気持ちが整理整頓された先で彼女の前に現れる佐藤君は、明らかに彼女だけに見えている佐藤君。
実際の卒業式シーンでは描写されなかった答辞が、佐藤君だけに山城さんから、佐藤君だけに……。ここでめちゃくちゃ泣いてしまった。すげー我ながら単純と思うんだけれど、なんていうのかな……本作の、すべての女の子たちに、めちゃくちゃシンクロしたし、地方で学生時代を送った自分としても、エモエモだったしさ。
でもやっぱりやっぱり、山城さんと、佐藤君、なんだよなあ……主人公、それはまさしくそのとおり。でもそれ以上に、なんだろ。佐藤君の死の真相は明らかにされない、いくらでも詮索は出来る。でもね、今や半世紀生きてしまったこちとらにとっては、真相も事情もどうでもいいのさ。
それを、山城さんに言ってあげたいし、でも山城さんはきっと判ってるだろうと思うし。愛する人が死んでしまうという経験をすると、半世紀以上生きなければ得られない経験値を、ゲットしちゃうのだ。ゲットしなくていい、そんな辛い思いしなくていいのに。
めちゃくちゃ、自身の、密度の濃い、愛すべき地方JK時代を思い出してしまった。カースト上部なんて一握り、大抵は暗黒時代を送っていると思うよ。それをポジティブに、発信していきたい。誇りをもって。★★★★☆
本作もそれは非常に丁寧に描かれ、可愛いヒヨコにキャーキャー言いながら育てた彼女たちが、その鶏を手づから〆て血抜きをし、羽をむしり、肉にさばいていくシーンを実に実に真摯に描いていて息をのむ。
けれど、そんな真面目でまっすぐな彼女たちが一方で猪突猛進しているのは、恋である。考えてみれば当然なんだよな。学校で学ぶことと、恋をすることは、17歳である彼女たちにとって、何の矛盾もなく並列に描かれることなのだ。
大人になるほどに、仕事が忙しいからというのを言い訳にするものだが、こうして突きつけられる、そんな理屈は通らないのだ。
学ぶこと、働くこと、それと恋をすることは別のベクトル。それを畜産課という、思いもよらないスタンスの女の子たちに教えられるスリリングさ。
主人公の瑠璃は母子家庭。自らもアルバイトをして家計を助けている。とゆー、ちょっと浪花節になりそうな設定を、彼女自らが武器にする場面が出てくるんだから恐れ入る。
瑠璃が恋しているのは森先生。演じるは中島歩。あぁ、いかにも女子学生たちにキャーキャー言われそう。ひょろながいスタイル、妙に色っぽい声、もちろん端正な容貌。
冒頭、森先生は畜舎の片隅でしゃがみ込んで動けなくなっている。よほど先生稼業が忙しくて疲れているのかと思いきや、先生同士の飲み会での二日酔いなのだという。そーゆー隙のあるあたりも、いかにも女子学生にモテそうである。
瑠璃だけでなく、クラスメイトのくるみちゃんも森先生にゾッコンで、瑠璃は冷静を装いながらも気が気ではない。くるみちゃんが森先生と二人きりで相談に乗ってもらった、と打ち明けたことに内心激しく嫉妬するも、クールを装う。
実際、その時、くるみちゃんは、何を相談し、どう発展したんだろう。瑠璃が二人きりに強引に持ち込んだ時のように先生にキスしたことを、キスされた、と表現したのだろうか。
おっとっと、だいぶ先走ってしまった。本当にね、独特の構成で、どう話を進めていいのやら。先述したように瑠璃は母子家庭なのだけれど、一人暮らしなのかと思ってしばらく見ていた。
母親は結局登場することはない。古びた団地に友人たちが勉強会と称して遊びに来て、夕食を作ってヒミツの梅酒を飲み交わす、なんていうカワイイシークエンスがあったりもし、本当に、一人暮らしの友人の部屋に押しかけた、てな雰囲気だったからさ。
家計を助けるためにアルバイトというのは本当だけれど、そこで時折立ち寄る先生を待ち構えて、最近、来てくれないじゃないですか、キャバクラかよ、というやり取りに思わず噴き出した。
でものちのちそれが、笑えないことだったとじわじわ判ってきて……瑠璃ちゃん、ヤバい、ちょっと怖いんだもの。
いや、うーん、紙一重というか。確かに純粋な森先生への想いで突っ走ってるだけと言えば言えるから。
彼女自身の畜産の学びへの情熱は何度も胸を熱くさせるし、彼女に言い寄る他校の男子高生、マサルがいわゆる一般的価値観で、屠殺をザンコクだと言っちゃうことに、私たちだって同じように単純に思っていたのに、瑠璃と共に憤慨しちゃうさ。でもそれは、観客がわにおいてはとってつけの知識だから、マサル君の、無知側の気持ちも判るし。
瑠璃はプロ側だからこそ、知らない側のマサルのような人たちに、食べることの、その命をささげてくれた動物たちの尊さを、教示しなければいけない立場。なのに、イライラしちゃう。なんて子供なの、バカなの、ペットと家畜は違うんだよ、残酷ってなんだよ、お肉がどうやって君の前に出てくると思ってるの、と怒っちゃう。
森先生に恋している瑠璃は、同世代の男子に興味が持てない。ガキだしうるさいし、チンパンジーにしか見えない、と言い放つ。でもそれは、瑠璃が学んでいることを知らないってだけで、子ども扱いしている訳で、それ自体がめちゃくちゃ子供な発想だということが判らないところが……逆に、ピュアで、愛おしい。
しかしまぁ、段々と後半になってくると、瑠璃の暴走がかんっぜんにストーカーになってきて、かなり怖い。友人たちと勉強会と称して夕食を手作りし、ヒミツの梅酒を飲み合い、へべれけになった勢いで宿直の森先生に告白しに行こうとしたのが火をつけちゃったのか。
その間にも前述した鶏の解体授業や、牛の出産、その子牛の出荷、子豚の授乳シーンの愛らしさ等々、畜産課ならではの命に向き合う、命をいただく、敬虔とさえ言えるようなシーンに、彼女たちはキラキラの情熱で向き合うもんだから、なんかもう、ぐちゃぐちゃに混乱しちゃう。
でもそう……最初にまず書いちゃったように、これこそが人間の、人生の本質。学ぶこと、働くこと、そこで得る真実と、どうしようもなく好きになっちゃう恋に暴走することは別ベクトルで成立しちゃうんである。
瑠璃は二年生なんだけれど、尊敬する先輩がいる。優しくて、女子力高くて、しかもきれいな完璧な先輩。オチバレで言っちゃうと、この先輩が森先生の恋人で、妊娠騒ぎを起こして、二人行方をくらました……つまり、駆け落ちしちゃったんである。
瑠璃やくるみちゃん、ほかの女子生徒たちにも大人気で、いつも囲まれていた森先生だったけれど、困ったような顔をして彼女たちをあしらっていたから、まさか、という感じだった……のは、いつだって自分が見えている方向でしか相手が見えていないからなのだろう。
その先輩と森先生が一緒にいるところなんて見たことなかったのに、と瑠璃が思わず吐露する。それがすべてである。本気だから、誰にも知られないようにしていたのだ。本気だから、妊娠は愛の証として、二人すべてを捨てて姿を消したのだ。
とゆー私の見解は甘いのかもしれない。瑠璃やくるみちゃんが大ショックを受けているのは、自分たちが恋してイケイケに迫っていたくせに、森先生が実際リアルな女子高生を相手にトンズラしたってことなんだろう。自分じゃない、という以上に、そのことこそが。
その直前に瑠璃がほとんどストーカーよろしく森先生の自宅まで押しかけて、既成事実を作ろうとするがごとくの勢いで迫りまくってて、おいおいおい、先生をクビにする気かと思ってハラハラしたのに、それ以上のことをされたことにショックを受けるなんて、なんて人間は、いや、少女は純粋を言い訳にした怪物なんだろう。
妊娠させた生徒と共に駆け落ち、というセンセーショナルなニュースに、自分がその相手になりたかった、じゃなく、どうやら不潔さを感じてショックを受けているらしいところに、ティーンエイジャー女子特有の、ねじれた猪突猛進ピュアを感じる。
それがまさに、畜産への情熱、家畜とペットは違うんだよと、ガキでバカでうるさいだけのチンパンジー男子に吠えてかかるベクトルに行っちゃう訳である。
瑠璃が友達と行った他校の文化祭、瑠璃に一目ぼれしちゃったマサル君は、いわば一般庶民の代弁者。瑠璃のように実地で学ぶ学生や、食肉現場で働く人たちでなければ、スーパーに並んでいるお肉が、当たり前とはいえ、生きている鶏や豚や牛が殺された先だというのは、実感できないのだから。
瑠璃は、そんなことも判らないのかと声を荒げるけれども、それが、森先生への想いを反射した、同年代のガキのどーしよーもない男子への憤りだったとしても、当事者でない一般大衆がそんなことが判らないってことが、情けないことではあるけれど当然であることを、彼女自身が上から目線のように憂えるのが、逆にコドモなのだよね。
マサル君自身がそこまで思っていた訳ではないだろうけれど、瑠璃に対して諦めがつかないのは、単純にホレちゃったからだろうけれど、彼のスタンスは、現状を知っているから知らない人たちを蔑んだらただの傲慢、だということを立ち昇らせる存在、そういうことだと思うのだ。
だってさ、瑠璃のような、結局はコドモなのに、年上の先生に恋してるだけで同世代の男子をガキ扱いするなんておめーがガキだろ、と思うのに、マサル君は、どんなに罵倒されても、蔑視されても、めげないんだもの。
特段、高潔な男子という訳ではない。とても普通の感覚を持った男の子。瑠璃にとってはそれが、凡俗の、何にも判ってないバカ男子に見えるのだろうけれど、自分が学んでいることの世界を判ってないだけで蔑む瑠璃こそが世間知らずなのかもしれないのだから。
森先生の問題が勃発して、途端に学校内の雰囲気が陰鬱になる。くるみちゃんが、森先生にキスされたと告白したりして、瑠璃は動揺する。映画的ラショーモナイズじわり。結局は当事者しか真相は知らない。
この直前、瑠璃は森先生への想いつのって、ムリヤリ先生の部屋に押し入ろうとしたが失敗、送ってくれた先生を今度は部屋に引き入れ、下着姿で襲っちゃう。森先生が恐れるように、解雇だよ、解雇。
結局はこのシークエンスは森先生が瑠璃をなだめる形で終了したけれど、結末がどうなったかは、判らない。ちょっとそこは、もしかしたら、というインターバルが置かれている。でもどうだろう……そこまで深読みすべきなのか。
くるみちゃんが瑠璃に、先生にキスされたと吐露したことに、瑠璃は衝撃を受けたけれど、瑠璃は森先生にムリヤリ迫って自分からキスしてた訳で、くるみちゃんも同じようなことがあって、この事態になって、瑠璃に言っちゃったのかなと思う。
何かね……女子の妄想というか、記憶の都合のいい書き換えというか、その恐ろしさを感じたのよ。だってそれまでくるみちゃんは、無邪気に森先生に相談したんだー、とか、まぁ瑠璃に対する牽制には見えたけれど、そんな被害者ヅラして言ってくるようなことがあるとは思えなかった。
判らない、判らないけれど……瑠璃が森先生に自分からキスしたことを、彼が受け入れてくれたってことで主導者変換していたのだとしたら、そんな風に感じもしたから、くるみちゃんも、てか、女は、人間は、勝手だからさ……。
なんか、本作の本来のテイストとは離れたところにばっかり気になってしまうつまらない大人(爆爆)。
そうそう、瑠璃ちゃんにホレちゃったマサル君が、森先生のショックにちょっとおかしくなっちゃった瑠璃に翻弄されて、うっかり駆け落ち強要されるシークエンスが、好きだったなあ。
本気というワードでマサル君をがんじがらめに縛ったくせに、それに覚悟を決めたマサル君素敵だったのに、結局瑠璃自身が、本気という演技に自分自身がだんだん気づいちゃうという感覚、これ、まさしく、女子的ズルさだわ……と思ったり。
畜産リアルの素晴らしさにもっと言及したかったのに、ヤハリ凡俗人間は人間ドラマに引っ張られちゃうわさ。そんな意味でも、引きずりまわされてしまった、疲れたわ(いい意味でよ!)。★★★★☆
一方の和子は2年前に両親を事故で亡くした。その時すでに彼女は引きこもってから長い時間が経っていて、今は妹と二人暮らしなものの、生活能力のない和子は妹から疎まれている。いや、この姉妹間もまたねじれた切なさを持っているのだが……。
和子の妹が語る、お姉ちゃんは優秀だったのだと、引きこもった時、お父さんが無理して出て行かなくてもいいと言ったという話、そして和子自身が語る、父親が連れて行ってくれた海が、触りたいのに怖くて、触れなかったんだというところから始まる、人生経験の未熟さ。明日香と和子は、お互いいびつな欠け具合で不思議な出会いをするのだ。
本当に不思議、そして現代的。明日香がアップしている動画は、がらんとした公園でひたすら縄跳びをする。口では二重飛びを100回、とか言っているけれど、毎回引っかかり、とてもとても達成できそうにないのを、セーラー服のミニスカートをパンチラさせながら挑戦している。
その後ろのベンチに腰かけて菓子パンをかじっている男、動画を見ている和子はなぜかその男が気になり、じっと見つめる。なぜか、ってのは理由がなくもない。ジャムパンを食べているからなのだという。
ジャムパンが好きだという人、自分以外に初めて、と妄想の中で彼と会話する、家に招いて、とまぁつまり妄想のズリネタ(爆)である。
何やってんだ私……とつぶやく和子の、30代引きこもり事情はあまりに哀切であり、妹からも疎まれ、このまま出口はないように見えた。
その出口は、妹の結婚話から始まった。家賃を負担するから出て行ってくれ、という、そんな冷たい言い方ではなかったが、つまりはそういうこと。
確かにこのままでは、就職活動さえしようとしていない和子、洗濯物を取りこんでたたむことすら思いつかないような彼女を外に押し出すには、こうした強引なキッカケが必要だったに違いないが、妹としては、正直に、もううんざりしていたというところだろう。
でもそれがラストには、そのねじれた姉妹の糸が不思議にほぐれる、それには和子の、大人になるための旅行きが必要なんである。
どこかムキになったように飛び出した。適当にバッグに詰め込んで。手持ちは、ブタさん貯金箱の中の小銭のみ。向かったのはあの公園。縄跳びしていた女の子が、まさに縄跳びしに現れた。私の動画を見たの?ズバリだった。
後ろに映っているジャムパンを食べている男性を探しているのだと言うと、思いがけずその女の子は言った。ここで待ってたって会えないよ。出張に来て、もう仕事を辞めて実家の静岡で民宿をやるんだって言ってたんだと。
後にその話が嘘だということが判るのだけれど……まぁ嘘なんだろうなというのは薄々察せられたけれど。和子がすぐさま静岡に行こうとするから焦って止めていたから。
でもまさか、その話が、半分リアルというか、明日香の、離婚して出て行った父親のことだとまでは、思わなかった。住所は書いてなかったけれど、静岡の消印が押された、海辺の写真。裏にメッセージが書かれていた。民宿で働いている、明日香が大人になったら会いに行くと。
それを彼女はずっと待っていたのだろうか。まだ大人ではない、高校生なんだから、お父さんが嘘をついたとまでは思わないけれど、でもお母さんに恋人が出来て、お母さんは自分と友達同士のように接して、でも自分のことを信用はしてなくて、そういうモヤモヤがついつい、和子に対する出まかせを言わせたのか。
そして二人は、静岡へと道行く。和子は車窓から見える海にはしゃぐ。なんてまぁ、本当に外に出たことのない30代も半ばを過ぎた女なのだ。
先述したように、最初に声をかけてきて車に乗せてくれた男と、お礼にとセックスしている明日香に和子は愕然とする。そういうのはよくない、好きな人とするべきだと言う和子に明日香は、でも好きな人がいない時もセックスはしたくなるじゃん、とあっけらかんと言い放つ。
ピンク的な応酬と見えそうだけれど、これが見事にクライマックスで拾い上げられ、和子はその意味を、深く自身の中でとらえ直すことになる。
父親との記憶の中で、あの時は触れなかった海に恐る恐る触ろうとしたところを、自殺未遂だとカン違いして、突撃してきた男がいた。漁師の中尾である。真冬の海に突き飛ばされた和子、次のシーンではお風呂であったまってあがってきた、ある民宿である。
おかみさんが和田光沙。ああもう、それだけで完璧である。ご主人を亡くして今は一人でこの民宿を切り盛りしているという彼女と漁師の中尾は、劇中では決して、一言も、そんな言及はなかったけれど、ぜぇったいにお互い想い合っていると確信しちゃう。
おかみさんはまだ、というかきっとずっとずっと、旦那さんのことを想って、彼が手作りしていた梅干しを真似して作ってみたのとか、そういう言葉の端々に、想いを感じるのだ。これまた何の言及もなかったけれど、中尾はこの旦那さんと友人同士だったんじゃないかなぁ……もうそれこそ、こちとらも妄想ばかり爆発だけれど(爆)。
明日漁だから、とか、車で来たから、と中尾が言っても、大丈夫部屋は空いてるから、とおかみさん。正直、和子と明日香以外誰の姿もないんだから、そんなことわざわざ言わんでも判るだろうに、なにか、彼ら二人の間の免罪符のような、符牒のような、なんかそんな風に妄想しちゃう。
和子はブタさん貯金箱の小銭しかない文無しだから、明日香に頼ることになるんだけれど、ちょっとだけ、“お商売”をしてみる。
誰一人来なさそうな路肩での、似顔絵かきである。和子は絵が得意で、引きこもった部屋の中でも黙々とスケッチをしていて、妄想の中の“ジャムパンの君”もその中に描かれるのだ。
明日香はその彼をジャムパンマンと命名し、ジャムパンの君て、と和子の乙女チックに笑っちゃうんだけれど、悪気がある訳じゃなくて、このあたりではもう二人の間には確かにシスターフッドと言いたい絆が産まれつつある。
35歳にもなってセックスの経験がないと吐露する和子を、明日香がバカにすることもなく、むしろ不躾なことを言った、とうなだれるのは、ひと昔、いや、ふた昔前ならばなかったように思う。多様性、というのはハヤリ言葉のように言われるからちょっとヤだけれど、でもそういうことなのだ。
明日香にしても、セックスの経験はあるにしても、恋愛の経験がちゃんとあるかどうかは不明だし。だってお父さんお母さんのことにこそ頓着している彼女は、いい意味でまだまだ子供らしく、セックスの経験が豊富だったにしたって、恋愛のそれに至っているようには見えず、だから和子の乙女チックな価値観に無邪気に反応しても、イヤミがないんだよね。
化粧っ気のない、とゆーか、化粧をしたこともない、やり方も判らない和子に、自身の小さな化粧ポーチのメイク道具でメイクをしてあげる場面は凄く好き。これぞシスターフッドの醍醐味の場面と思う。そして、その場面でこそ、二人は深い話をする。お互いの家族のこと、親のこと……。
ほんの薄化粧だけれど、その姿を察知して、廊下ですれ違った中尾が、酔った勢いで彼女を部屋に連れ込み、押し倒すんである。和子の年恰好から、軽く悪さしても対応次第では大丈夫だろうと踏んだ感じの、絶妙のやり取りなのだけれど、なんたって熟女ヴァージンである和子はあたふたするばかり。
ようやく抜け出して、翌日気まずく顔を合わせ、揉んだりなめたりしたじゃないですか、と糾弾する場面には、和子の気持ちも判るだけに可笑しくも何とも言えない気持ちになる。
でも中尾はイイヤツでさ、マジで和子がこの年齢に至ってセックスの経験がないと判った後に、彼女が意を決して彼の元にご指導奉りに来ると、すんごくすんごく優しいセックスをしてくれて、なんかもう、涙出ちゃうの。
そして、この後に彼が言う台詞がいいのよ。二回目はしたいと思う相手としろよ、って。ヴァージンを破られて痛くて、もうしばらくはいいかな、と正直に言う和子に対する台詞だけれど、凄く本質をついてる。
それまでの、和子と明日香のジェネレーションギャップや価値観の違いからくるセックスや恋愛観が紡ぎ出された先の、納得のいく答えだし、その結論の途中にはこんな出会いがあっても悪くないと思えたりするのが、ピンクのいいところだと思ったり。
だってさ、中尾を演じる山本宗介氏の丁寧な、優しいセックスがめちゃくちゃ胸に迫ったんだもん。正直エロ度は薄く、息をつめて見守る感じで、それがすんごくグッときちゃったんだよなあ。
結局は明日香の方が、この地に重大な問題を抱えてやってきたということなんだと思う。静岡の消印、海沿いの民宿、この探索で、ひょっとしたら自分の父親が見つかるかもしれない訳だったんだもの。
父親から送られてきた写真とピタリと一致する海岸も見つけてしまった。明日香は……ちょっと、怖くなってしまったのかもしれない。
怖くなったのは、彼女自身が言うように、ジャムパンマンが現れないまま待ちぼうけする和子を見るのが怖かった、ということは、確かにそのとおりなのだろう。だってジャムパンマンは現れる筈がないんだから。
でも、本当に怖かったのは、明日香自身の待ちぼうけを、彼女自身が見たくなかったからじゃないのか。この旅行きで、ひょっとしたら、海辺の民宿でお父さんが見つかるんじゃないか、って、思ってたんじゃないのか、でも、その情報だって、嘘とは言わないまでも、今は違うところにいるのかもしれないし、自分に会うつもりがないかもしれない……。
友達のところに泊まっているとウソついている母親に対する気持ち、義理の父となるパパに対する気持ち……そして和子もまた、この年若い友人の苦悩を反射する形で、大人になっていく。
中尾によってヴァージンからも卒業し、彼からの言葉、二回目はまたしたいって思う相手としろよ、という言葉をかみしめる。
家に帰って、ソファでじっと待ち続けていた妹との邂逅が、また胸に迫るのだ。私が置いていくはずだったのに、私を置いていくなんて、と妹は言い、そんな憎たらしいことを言いつつ、でもそのことで、めちゃくちゃ心配もし、憎んでいたと思っていたけれど愛していたことに気づいたのだ。
次のシークエンスで、和子はリクルートスーツに身を包み、心配しまくる妹から送り出される。そして明日香は、みっちゃんと呼んでいた母親をお母さんと呼んでいるのが、忘れ物を道の途中まで送り届けてきてくれる母親に手を振るシーンで示される。お母さんの姿が明確に示されず、坂道の上の方で手を振っているのが見えるだけなのが、イイんである。
ジャムパンが好きだと言い、唐突に旅に出るザックの中にはお菓子ばかりが詰め込まれていた和子。民宿でたっぷりの家庭料理、自家製の梅干しやおかかでにぎったおにぎり、水筒に詰める温かいお茶、そうした心づくしの手作りの栄養で、次第に二人の心が溶かされていくのがイイんだよね。おかみさんを演じる和田光沙氏が本当にじんわり、良かったなぁ。★★★★☆
そしてそう、本格的な林業のお仕事。大木がどーん!と倒れるダイナミックな描写がドローン撮影も駆使して描かれる。
これは恐らくスタッフさんの中に林業関係者がいて協力してくれたということだろうか。大好きな竹洞監督作品などではちょくちょく自身の地元の、自らのコネクションで魅力ある自然豊かなロケーションを見せてくれるし、ピンクというミニマムなドラマの構成を、信頼あるコネクションでの手作りで丁寧に見せてくれるっていうのが、とてもイイ。なのに協力企業をクレジットに載せないなんて、もったいないなぁ。
林業という、なかなか見られないお仕事、いわばこれはお仕事映画。それは、社長の佐久間(森羅万象。最高に素敵!)が言うように、なかなか知られていないお仕事であり、日本で一番危険な仕事。
自分で死ななくても、死ねるかもしれないぞ、と笑い飛ばすような側面、でもほとんどは草を刈ってばかりの地道なお仕事であり、そして今伐採する木、これから植えて育っていく木、という、その結果を受け取るという壮大な生業が、ラストのラスト、社長から語られると、それまでわちゃわちゃコミカルな展開が多かったのに、なんだかムネアツになっちゃうのだ。
なんかとっちらかってるな。最初から行きましょう。最初、メチャクチャ印象的で、魅力あるスタート。山の中で首つり自殺を図ろうとしている青年、その彼の視線の先に入ったのは、野ション(クソかもしれんが)をしている女性。
考えてみれば主人公二人の出会いの場面なのだが、こんな出会い方、見たことない!!お尻をぷりっと出してしゃがみ込むヒロインの登場シーンなんて、まぁ確かにピンクならではではあるけれど、それにしても凄い!
この彼女、道子は登場から一貫してクールで、青年、智樹に対しても、あっちの方が枝が太いから、見つからないようにやってくれない?めんどくさいから、と言い放つもんだから智樹は、普通止めませんか?と思わず言ってしまった。
そしたらやめるの?と言う道子の言葉は至極当然だが、でも……智樹は止めてほしかったのかもしれない。なんとなく道子の後をついていって、倒れかかる大木に危なーい!!ということになる。
ここで林業チームとの出会い。社長の佐久間は先述の台詞を言い、自殺未遂の彼をわっはっはと受け入れ、ちょうど研修生が逃げ出したからと、寡黙な先輩、五十嵐の家に連れて行かれるんである。
寡黙でもないけどね。奥さんがマシンガンなだけで。この奥さんがきみと歩実嬢で、唯一林業の現場に出ていないキャストなのだが(あ、後からもう一人出てくる女の子はいるけど)、メチャクチャ影響力がある。
一見、うるさい嫁のように見えながら、それをうっとうしがるダンナのように見えながら、それが前戯ってことちゃうのん、と思うぐらい、結果セックスしちゃうという(爆)。ああ、素敵なピンク的展開。
これが、夫婦の絆というか、仲の良さとして納得できちゃう、いい意味での単純さがピンクのいいところなのよ。あとから思えば彼女は、旦那からのムリヤリエッチを待ってるんちゃうのん、という感じがしちゃうんだもん。
なもんで、ここに下宿することになった智樹、そしてこれまでの研修生も悶々としちゃうもんだから、ということを佐久間社長は笑い飛ばして、夕べパンツを洗ってたんだって?と智樹をからかうんである。道子に抜いてやれよ、なんて笑えない冗談を飛ばしたりして。
笑えない冗談、というのは、現代はまぁ、いろいろ厳しいから……。智樹はそこんところ気を遣って道子に声をかけるけれど、もっとヒドいところにいたからと、クールに言い捨てる彼女である。
もっとひどいセクハラの職場……と妄想する智樹、というのがピンクならではだが、考えてみると、エロシーンはこうした妄想が結構多くて。
カラミを何割か入れれば自由に作品が作れる、というピンク映画の伝説の、それをこれだけ妄想にしているというところに、なんか、作り手としての矜持を感じるというか。無駄な、意味のない、誰かが傷つくエロを入れない、というか。優しさを感じるんだよなあ。
道子は実は、元アイドルだったんである。熱狂的ファンの女の子、杏奈が訪ねてくるんである。道子がなぜアイドルの道を降りたのか、かつては道子もまた憧れていたアイドルがいて、でも突如、彼女の前から姿を消したのだと、杏奈に語る。
道子の想いの詳しいところは正直、判然としない。アイドル活動の過酷さは杏奈に語るところで充分に感じられるけれど、単純にその生活に疲れたのか、誰かに応える生活に疲れたのか、明確にはしない。
ただ、キャピキャピと訪ねてきた杏奈に、クールに対応はするけれど、むげには出来なかった。
推しと一緒の部屋でなんて眠れない、納屋に寝ます!!という杏奈を案じて、佐久間社長の家に泊まらせ、自身は智樹の下宿する五十嵐家に泊まりに来たのは、まぁそれは、きっと最初の出会いから智樹に想いがあったと思うのだけれど、
クール女子だからさ、杏奈を気遣うとか、道理は通ってるからさ、うろたえる智樹を冷ややかに見たりもしているから、一見判らないんだけれど、やっぱり最初から、彼女は彼に、惹かれていたんだと思う。
後に、彼らの林業先輩、少々お調子者の深町が杏奈ちゃんに一目ぼれしちゃってのひと悶着があるのだが、道子は杏奈に、気になるんなら、付き合ってみればいいんじゃない、と結構あっさり。オカズにしてみれば、とオドロキのアドバイスをするんである。
でも確かに、彼女の言い様は理にかなってる。付き合うってことは、セックスするってこと。妄想の中でイケれば、付き合える可能性がある。な、なるほど……。
でね、この妄想がサイコーなのよ。妄想だと、気づかせないの、観客に!!道子のアドバイスの場面の後に、もういきなり杏奈ちゃんと深町先輩の膝つきあわせる場面。
告白されて、意識してしまった。遠距離恋愛になるけれど……と申し出た杏奈ちゃん、オッケーの返事をもらって、いきなり脱ぎ出し、可愛らしいピンクのお揃い上下の勝負下着、しばらく会えないからとセックス突入!
いやいやいや!やっぱりここはピンク的強引さかよ!!と思ったら、思ったら!!これがまるまる妄想だった!!
オカズでイケるかの妄想をこんなじっくり!妄想後半からフラッシュバックのように浴槽の中でオナってる杏奈ちゃんのシーンがカットインされ、そうかそうか、想い出してヤッチャってるのねと思いきや、まるまる妄想、つまりテストだったとは!ヤラれた!!
つまり、本作は全編、かつての、そうね、もうこれは言うべきじゃないいにしえかな、かつてのピンクでは散見された、とりあえず入れとく無意味なカラミがないのよ。それがなんかもう、嬉しかったというか、女子の気持ちに寄り添ってくれている気がしてさ。
で、だから、まんま繰り返すような形で、杏奈ちゃんと深町先輩の、遠距離恋愛スタートの気持ちを確かめ合う場面は、本当にピュアに、メールや電話からスタートできますか?と杏奈ちゃんが決死の想いで言う。
深町先輩が感激のあまり彼女を抱きしめようとすると、キャー!と彼女に投げ飛ばされて、がけ下に落ちちゃうという、もう噴き出しちゃったよ!!ピンクなのに、エロは妄想で、現実描写はどれもピュアで、泣いちゃうよ、もう。
智樹が下宿する五十嵐家、夫婦もまたイイんだよなぁ。しょっちゅうセックスして、智樹を悩ませ、社長にからかわれ、道子との仲を深ませる、つまりはラブラブカップル。
終盤、奥さんの実家からいちごが送られてくるシークエンスがある。夫婦二人で、今年も甘いな、とほおばりながら、奥さんが、でも今年で最後かも、と言うと、ずっと考えていたように、きっとそうなんだろう、五十嵐は、来年も食わしてやるよ、と奥さんに言ったのだった。
この時、その意味がピンと来なかったんだけれど、ラスト、五十嵐一家はこの地を離れるんである。そうか!と。奥さんの実家の農業を継ぐのか、と。もうホントにさ、いくつもの人生や人間関係を見事に交錯させるんだよ。
智樹は寂しくて悲しくてなんか落ち込んじゃってる。五十嵐に、農業をやったことないのに怖くないのかと問いかけると、やることはおんなじだ。目の前のことをやるだけだ、と言い放つのが、うっわ、めっちゃ、カッコイイ!んだよね!!
確かに彼は、今までもそうしてきたし、これからもそうしていくのだろう。奥さんからやいやい言われても、研修生や智樹を黙って受け入れてきたのも同じ。目の前にあることをやっていくだけだと、それまでのキャリアとか、プライドとかじゃない、めっちゃカッコイイ!!
五十嵐が去り、正直これまではお調子者でイマイチ頼りないように見えた深町に社長が、軽い調子ながらも、わっはっはといつものように笑いながらも、頼むぞ、と声をかけるのがムネアツでたまらない。
先述したけど、このミニマムな人間関係、しかも山の中、森の中、大自然ではあるけれど閉じられた空間、社長が言うように、勝手に死ねちゃうかもしれないような危険な仕事場。
でもここには、何十年もの自然のサイクルに人のなりわいを寄り添わせ、その感謝を、代々受け継いできた誇りがある。ピンクという低予算の中でも、ドローンという技術が入ってきて、メジャー映画と遜色ないダイナミックな、切り倒される木を空の上から映し出すというラストシーンで、最高のまとめあげでさ。
夫婦や恋人、セックス、生きていくためのなりわい、木や森という壮大なライフサイクル、アイドルと推し、すべてが盛り込まれて隙がなく、ユーモアがありラブがあり、スゲーッ!と思っちゃった。
中盤、道子が智樹を半ば襲うようにセックスするのは、道子が杏奈ちゃんに示唆したように、セックスの相性を試したんだろうと、後になって合点がいくけれど、まぁ正直、ピンクやな、とは思ったが。
でも、そうね、道子はクールを装いながら、絶対最初から智樹に惚れてたんだろうし、それは彼もそうだったんだろうし。ただ周囲のあれこれが濃すぎて、主人公の筈の二人が、最終的にはそうした伏線を回収して想いを確かめ合ったセックスをするにしても、ちょっと印象が薄くなっちゃったのは否めなかったかなぁ。
智樹を演じる可児正光氏がなんか頼りないぽよぽよ男子で、道子を演じるあべみかこ嬢が不愛想なクール女子、その萌えもたまらんしさ。良かった!!★★★★☆
フィルムノワールの定義はよく判んないけど、ああ、フィルムノワール、って感じ!と思う。裏社会、人生を変えるために危険な犯罪に手を染める男たち、思いがけないどんでん返し。
冒頭に示された、円卓で中華料理を食べながら高木達三人がなぜかヤクザな男たちにドスかまされてるシーンが、しばらくすっ飛ばされるから、きっとあの場面が転換点で、そこに戻ってくるんだろうとは思っていても、あまりにも鮮烈なシーンだったから、気になってしょうがなかった。
後にタクシー会社の同僚同士だということが明らかになる、高木と番場と坂口が、いかにもヤバそうな男たちと囲む緊張感漂う食事会。
こんなところにいるのがいかにも不釣り合いな、弱気さ満点の番場が場つなぎに口にしたうんちくから、突きつけられたのはえぐり取られた人間の目玉。一体どうなってこんな展開になるのか、じりじりしながらこの転換点に戻ってくるのを待っている感じ。
高木はもともと、しがない営業マンだった。通販番組に提供している化粧品にクレームがついて、思いっきり上から目線の番組側の態度に、我慢がならなかった。
微妙なところだ。彼の年齢、この会社にどれだけいたかは判らないけれど、いい意味でも悪い意味でも昭和世代の私なんかは、それなりにここでキャリアを積んでいたなら、取引先にバカにされることなんて、相手を同等の人間だと思うから腹が立つ訳だし、自分自身も虫けらぐらいに思って、いくらだってぺこぺこ出来ると思っちゃう。
実際、高木と一緒に謝罪に向かった上司はそういう昭和世代、だったろう。でも高木は、もうちょっと、若かった。いい意味でも悪い意味でも。
いや……そうした若さは、偶然が重なると悪い方にばかり転落してしまう。プライドと言い換えてもいいかもしれない。プライドなんてない方がいいのだ。機嫌よく生きていくためには。
高木の転職先はタクシードライバー。会社に属してはいても、一人で切り盛りする個人事業主のようなもの。自由度も高いと思っての転職だったかもしれないけれど、希望するルートを外れたと激高する客や、一時停止をちょっとはみ出ただけで狙い撃ちしてくる警察、後部座席でフェラしだすカップルやらに、すっかり憔悴してしまう。
そしてその、フェラカップルである。落としていった名刺入れから、大物政治家だということが判る。単なる話のネタのつもりだったのが、思いがけない展開を見せる。
ヤバい目つきをして、どうやら寮内で賭博をやっているらしい坂口に目をつけられる。その大物政治家が持っているらしい、いわくつきで高額な絵画を、盗んでヤクザに売りつけてやろうじゃないかという計画を持ち込んでくるんである。
裏ルートにコネクションがある坂口は、同時期に入社してきた高木と番場に、運命を見出して口説いてくるのだ。同じ誕生日、だなんて、まるで女子高校生みたいなこと言う……実際、あんな怖い目つきをしておきながら、信じるものはそんな、運命的なことしかなかったのかもしれないと思うと、もはや結末が見えている気さえ、してしまう。
社会のあれこれを判った顔をして、実際ある程度は判っていたんだろうけれど、見落としていたのは、彼の、彼らの視界には入っていなかった人物、だったのだ。
おっと、オチに行きそうになってしまった。私的に好みなのは、番場君である。サヴァン症候群であるという彼は数学教師だったのだけれど、夢中になると状況を考えて行動することが出来なくなってしまい、あらぬ誤解を受けて、失職してしまった。
番場君は高木から聞いた、大物政治家が隠し持っているという、高額な絵画に、その画家であり、その絵画の素晴らしさこそに、興奮して食いついた。
この絵画に対する立ち位置が、高木、番場、坂口、大物政治家、高木達が持ちかけるヤクザたち、それぞれにとっての価値観が、まるで違う。
高木が大物政治家のニセ秘書官としてあちこちに入り込んで情報を得て、番場君の驚異的な記憶力でスケジュールを記憶して、分単位で計画を立てる。なんたって相手はヤクザな奴らだから信用できない。取引後につけられるのを警戒して、車の乗り捨て、荷物の入れ替えを綿密に計画、打ち合わせしたのだった。
それを観客側に、こうなる筈だと、シュミレーション映像を見せた。ああこれは失敗するんだ、と判らせちゃうニクさ。成功したパターンを見せるということは、絶対に失敗する。それを観客に判らせちゃって、だったらどこで失敗するの!とドキドキさせる。
そしてギリギリまでそれを判らせない。その成功したパターンを、シュミレーションかと思われたその映像を、そのまま使う。あれ、これは成功しちゃうんかなと思った矢先、ふっと車のナンバーを、ほんの数秒、固定で見せてくる。
もちろん、車のナンバーなんて、観客であるこちとらは覚えている訳ない。示されてさえ、いたかどうか。なのに、ほんの2、3秒だったと思うけれど、フィックスされたから、あれ、と思う。やっぱりここだったのか、と思う。
三人の車内の会話を盗聴器しかけて、大金をまんま横取りしたのは、彼らの、てゆーか、高木と番場を心配して目をかけていた、と見えていたベテランエンジニアだったんである。
ちょっと、読めていなくはなかったかな、とは思う。新人の高木と番場のことは飲みに誘って激励してはいたけれど、ヤバそうな坂口は避けていた風だったから、自分が動かせる後輩をつけておくタイプなのかな、という感じはした。
でも、ほんのりした、家族的な雰囲気のシークエンスで終わって、その後は緊張感あふれる騙し合いゲームに突入するから、上手い具合に、忘れさせられていたのだ。でも、そこに戻ってくれば、ああ、そうだ、この人が何もかも見えていたに違いない、と気づかされる訳で……。
高木はバツイチ、愛する息子と過ごす時間に幸福を感じた矢先、元妻から、私、結婚するからもうあの子とは会わないで、と言い渡される。
一時停止を指摘されたイライラでその先で事故を起こし、賠償で思いがけず金がかかり、養育費の繰り延べを願い出たタイミングだったから、何も言えないんである。
まあ正直、フェミニズム野郎としては、元妻の言い様には文句つけたいし、何より子供が親に会う権利(親が子供に会う権利より以上にね!)は守られなければならないし、養育費が払わなければ、とか、再婚するかとか、子供のためとか言いながら実際は自分のためでしかないオンナをいまだに出してくるかと。
半世紀前ぐらいな価値観だと、思うんだけどなあ。だって、このどれもが、女性自身が、彼女自身が、自立して胸張って男に対してぶつけられてないじゃん。養育費、再婚、父親が二人いたら混乱するとか、こういう立場の女性たちがマジでいまだにこんなん言ってるんなら、マジで日本は終わりだよ。
フィルムノワールという前提の、美しい色味や展開が魅力的ながらも、半世紀前には確かに魅力的だった、そんな世界と照らし合わせると、やっぱり現代社会だからなあ、と思わざるを得ない。
フィルムノワールと定義するなら、現代だと、そこに女性を、かつてのフィルムノワールのように置くのも難しいし、現代社会を照らし合わせて、バツイチの高木、妻、子供の関係性を単純に見せるのも難しい。
それこそ、かつてのフィルムノワールなら、このまんまの、ふがいない男と元妻と、パパもママも大好きなのに、という図式は成り立つのだろう。それが単純に、男の哀しみになるのだろう。でも今は、それじゃ通用しないんだなー。そんな優しくないんだよ、社会は。
坂口にのせられる形で、大物政治家から高額な絵画を盗み出し、ヤクザに売りつけ、その後は高飛びする予定だった。取引後、ヤクザ側は、あっという間に、誰かに嗅ぎつけられ、同士討ちのような展開で、全滅。
……ここらあたりから、てゆーか、全編なんだけど、自信がないのよ、判らないのよ(爆)。ひょっとして、あの老エンジニアが、理解ある上司のような顔をして、最初からすべてを握っていた??いやいやいや……自信なさすぎだろ(爆)。
まあとにかく、とにかくとにかく、最後の最後に、老エンジニアがさらっちゃうのよ。大金が入ったトランクを三回ランプ点滅サインでだまし取り、スペインへ高飛びする。
スペインというのは、キモとなる絵画の画家がスペイン人、天才画家を輩出している国だと、番場君が熱弁していた、盗聴していた老エンジニアが、首尾よく大金を手にして、そんな気になったのか。
その飛行機は、消息不明になった。高木、坂口、番場の三人が、悔しさに歯噛みしていた時に、彼らを出し抜き、ヤクザたちも同士討ちで全滅していた時に、一人勝ち抜けだった筈なのに、消息を絶った。
偶然、宿命、奇跡。あれこれが、選択しようもないあれこれが。奇跡を信じようとし、奇跡を起こそうとし、偶然はその先にあり、宿命は変えようもないもので……。
高額な絵画をめぐる展開は、大物政治家とかヤクザとか、ちょっと昭和というか、クラシカルなイメージが正直あった。でもわかんないよね。今も、こんな世界が繰り広げられているのかもしれないもの。
基本的には、ある意味普遍的な物語。前提がどうであれ、一瞬先は闇であり、人生どうなるか判らないんであり、でもそんなことはすべての時間軸においてそうなのであるからさ。
やっぱ、番場君を演じる坂口氏が、個人的にグッときちゃった。ゆるキャラな感じ、まずギュッとハグしたくなっちゃう罪深さ(爆)。サヴァン症候群に対する興味もあるし、多様性の今の時代、こうした興味本位にとどまっていてはいけない、という思いもあるしね!★★★☆☆
きっとひと昔前もふた昔前も、そうした価値観をもつおっさんもアラサー女子もいたに違いないのだけれど、やはり先述したような意味不明な真実話に圧されて、声高に言うことは出来なかっただろう。アラサー女子の親御さんとかが本気で心配したりも、しただろう。
原作はどうかは判らないが、アラサー女子の親世代といったら、このおっさん世代、つまり私と同世代に当たる訳で、そうなると、そういう価値観は出始めているところだと思う。少なくとも女子は、長年古い価値観に苦しめられていたから、家族でも恋人でもないおっさんと、こんな居心地のいい距離感で一緒にいられたらどんなにいいだろうと、私世代だって、思っちゃうのだ。
しかも、元アイドルというのがいい。とても名前と顔を覚えきれる訳がないほどの大人数グループアイドル時代、それも各地方に点在までして、地下アイドルと呼ばれるものまで含めれば、元アイドルがどんだけ産み出されるのかと思う。
当然、その先の人生は、芸能畑に居続けられる人は、一握りどころか奇跡に近いパーセンテージに違いない。劇中描かれる、“シフトが自由に入れられるから、芸能関係が多い”という梱包とそのバラシの現場は、そうなんだ……とそのリアリティにドキドキする。
ヒロインの安希子(深川麻衣)はアイドル卒業後のセカンドキャリアとして編集社と思しき所に正社員として入り、SNSではその充実した生活を発信しているのだけれど、それは虚飾だったし、ある日突然、出勤途中でつまづいて、そのまま動けなくなった。
心療内科で必死に言い訳する彼女は明らかに追い詰められているのに、それを認めようとしないのが決定的だった。そんな彼女に友人が持ち込んだのが、おっさんとのルームシェア。
社長業で忙しい友人は、それでも安希子のことを心配して、このおっさん、ササポンのことは、自分のところの社員がそもそもルームシェアしてて、その後釜を探していた訳であった。
つまり、ササポン(井浦新)の人間性は判っている。ルームシェアしていた社員は男の子だったのか女の子だったのか、言っていたような気はするが覚えていないが(爆)、この友人が、ササポンと相対して、なんせ社長だから人を見る目は肥えている訳で、大事な友人を、それもかなり危機的状況に陥っている友人を託すには最適だと思ってのことだと思うと、ムネアツなんである。
安希子にはもう一人、親しい友人が登場する。同期でアイドル活動をしていた。バイト先も一緒。しかし彼女は、結婚を機に芸能活動を辞める決断をした。
この時の安希子の顔を、社長の友人は般若だったとからかう。結婚が女の幸せ、だなんて言う時代は遠く過ぎ去ったし、安希子自身もフリーライターとなった今の生活、そしてまだつながっている芸能の仕事に後ろ髪を引かれているし、でも手ひどい失恋をしたばかりってこともあって恋人を欲する気持ちもあって、もうぐちゃぐちゃで。
彼女に対する嫉妬もあっただろうし、とにかくひどい酔っぱらい方をしちゃって、社長の友人を困惑させちゃう。
こんな具合に、物語はタイトルとは離れて、安希子のアラサー女子としての苦悩の生活をつぶさに描いていき、おっさんであるササポンは時々登場して、悪酔いした安希子に毛布をかけてくれる、そんな感じなのだ。
最終的には、ササポンの人生にも、死にたいと思う時があったと、離婚をした時、一生一緒に生きようという相手だったのに、そういうことになるのだと語る場面も出ては来るけれど、それは本当に、さらりと語られるのみ。
安希子がおっさんに、死にたいと思ったことはあるかと聞いた答えがそれで、つまり安希子は、おっさんの人生に興味があった訳じゃなくて、苦しんでいる今の自分にヒントが欲しくて問いかけたら、思いがけない答えが返ってきたという……。
年かさの人から、まだ若いんだからと言われていら立つ気持ちは、めちゃくちゃ判るけれど、でもそれが本当のことなんだからということが、生きた先のこちとらには判っちゃってるから、それをどう真実として伝えたらいいのかというのは、ワレラの悩み、なんである。そこを通ってきたんだから判る、その上でのことなんだよ、というのが、上手く伝えられない。
でもササポンは、余計な言葉を言わない、いわゆるそうした言い訳を言わないから、安希子の胸にすとんと落ちる。
何よりいいのは、安希子がこだわる、大きな仕事、いわゆる承認欲求に対して、彼女が望む反応をしないこと。有名な雑誌の名前を出されても、それは凄い、などとは言わないし、その打ち合わせがドタキャンされて落ち込む安希子に、そんな媒体と仕事することにならなくて良かったですね、とシンプルに言う。
この時点では安希子は、何言ってんだ、という表情をしていたけれど、最終的には彼女にもそれがのみこめるように、承認欲求の馬鹿馬鹿しさというのを、年齢を経て自然に飲み込まれてくるのを実感しているんだけれど、安希子はササポンから見れば若く、まだまだそれに苦しめられるのだろうと思う。
ササポンがそこまで見越して発言したかは判らない。そうした計算がなさそうに見えるのがササポンの良さだから。でも次第に、仕事で認められなければとか、恋人がいなければとか、貯金の残高がリアルに示すように、人間としての生活力とかに焦る安希子に対して、ササポンがのんびりと示す何気ない言葉が、段々と、段々と、安希子の焦りを解消していくのが、ああ、私もアラサーの頃に、ササポンみたいな人がいたらなぁと思っちゃう。
いや、いたかもしれない。一緒に暮らすとかはなくても、結構そういう存在はいると思う。人間は薄情だからすぐ忘れちゃうから(爆)。
安希子はそれを、原作者である大木亜希子氏もそれを、こうしてしたためる機会を、つまりギリギリに詰んでるからこそ得たから、この今がある。
安希子が虫垂炎で玄関先で倒れ込み、友人たちとも連絡がとれず、出張に出かける矢先のササポンが救急車を呼んで、というクライマックスのエピソード。
ここでこそ、家族でも恋人でもないのに、という本作のテーマである言葉を安希子が言うのだった。緊急手術から目覚めたとおぼしき彼女が、看護師さんから、連絡がつく同居している家族や恋人はいますかと問われ、力なく首を振った矢先に、ササポンが現れた。
同居はしているけれど、家族でも恋人でもない。だから、今の自分に頼れる存在はいないんだとレッテルを貼られたような直後だった。
ササポンに、ごめんなさい、家族でも恋人でもないのに、と、看護師さんに言われた言葉を復唱するように彼女は言ったけれど、不思議そうな表情さえ浮かべて、ササポンは言ったのだった。それって関係ありますか、と。
この言葉が、一番の宝物だったと思う。いまだに、いまだに!!家父長制度、家族制度に縛られている、特に女子だから。
あんまり興味ないからすっ飛ばしちゃったけど(爆)、安希子の失恋シークエンス、思わせぶり男子に期待させられまくって、だって、二人きりの撮影旅行なんてものに誘われるんだよ??そりゃそうだと思うじゃん!!しかもロマンチックな海辺でのイチャイチャを経て、満を持しての告白したら、まさかの彼女がいる、ゴメン、ってありえないんですけど!!
しかもその後、荒れる安希子に、心配だから、大切だからとか言って、キスもセックスも出来ないくせに(とゆーのは、安希子の台詞。サイコーである)ただ送っていこうとだけする。自己欺瞞男め!!
……すみません、取り乱してしまったが。えー、こんな、自分がいい人になりたいためだけに、平気で女を踏みにじる男って、いるの、いるんだ、いるんだわね、と思って胸が悪くなる。
でもそうね、彼の存在があるからこそ、おっさんのササポンの、打算ゼロの、本当に思っていることだけを言っていること、シンプルに相手を心配していること、それは自分の裁量以上のことは決してせず、でも相手からの問いかけには真摯に応えること、っていう、さ。これぞすべての答え。誰もが出来ることなのに、なぜ私たちは出来ないでいるのか。
中盤、ササポンの別荘に行くシークエンスがある。空気を入れてあげないと家が腐るからと。薪を割り、野菜を収穫してのスローライフ。
でも、空気を入れるために行くだけの場所で野菜を育てているというのは、誰かに託しているのか、そういう問答はなかったけれど、と些末なところが気になってしまう、ゴメン。でも、この野菜の生の美味しさを安希子に教えているから、それが彼女にとっての心をほぐした一件でもあるから、ちょっと気になっちゃう。
ササポンの正体というか、どういう人物なのかというのは気になるところで、時々出張、基本は普通に出勤していくサラリーマンという感じだが、一軒家に住み、格安のルームシェアを募ってるってことは特段お金に困っているということじゃなく、そしてその生活具合から見ると、寂しいとかいうんじゃないみたい。
それこそ別荘に風を入れなければ腐ってしまうというぐらいのスタンスなのかとも思われるほどの淡泊さなんだけれど、でも共有スペースで顔を合わせれば、こっちがたじろぐほどのリラックスさでつまみの漬物やスイカを勧めてくれる。
あぁ、なんて、理想なのと思っちゃう。冒頭、こんなオッサンもきっと昔からいるだろうと書いたが、実際に遭遇していないし、やっぱり理想のファンタジーかとも思っちゃう。
安希子にとっては想像の範囲外である、離婚によって死にたいとも考えたというササポンの人生は、この作品においては安希子にとっての深い教訓になったのだけれど、きっと一本の映画になるぐらいの物語だったに違いない。
でもそれも、誰もに訪れる平凡なこととして、市井に無数に存在することとして過ぎていく。
まだまだ若い、アラサーなんて若い若い安希子にとって、今はまだ自身に降り注ぐすべてのことが、耐えられないぐらいの事件なのだけれど、ササポン、そして私ら世代になると、分母が増えて、薄まってゆく。
それが寂しいと感じることもあるけれど、だから大丈夫だよ、とササポンもきっと、安希子に伝えたかったのだろう。
まじでササポン、欲しいわ。でも私がササポンの年代なんだもの。私がササポン的存在として、還元していかなければということなのよね。★★★★☆