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「さ」


2000年鑑賞作品

最愛の夏黒暗之光
1999年 102分 台湾 カラー
監督:チャン・ツォーチ 脚本:チャン・ツォーチ
撮影:チャン・ツァン 音楽:チャン・イ
出演:リー・カンイ/ファン・チィウェイ/ツァイ・ミンショウ/ホー・ファンジ/シイェ・バオフェイ


2000/10/12/木 劇場(シネ・ラ・セット)
カワイイ女の子とオトメチックなタイトルとは少々ギャップのある、ちょっと辛口の趣。ブラックアウトで締めくくられる、エピソードとふとした場面の積み重ね、それらは切なかったり哀しかったりちょっと笑っちゃったりするささやかな市井の生活。そしてここに描かれるヒロイン、カンイのひと夏は、誰もが持っているであろう、或る忘れられない夏。

大都会台北からちょっとだけ離れた町、目の見えない両親が営む小さな按摩院に夏休みに帰省している少女、カンイ。弟は知的障害者だ。しかし、どちらにしてもカンイがそれを気にしている風はない。彼女にとって当然の、仲の良い家族。好きな男の子にもすんなり弟アギィを紹介するし、本気になってその弟とケンカしたりする。ああ、いいなあ、と思う。こんな風に何の区別も無く何の躊躇も無く、身体障害者も、知的障害者も、健常者も同じフィールドで暮らしているのが。健常者が障害者に対して、ただ人間としての最低限の尊敬の念を忘れないだけで、あとはただただ普通にやり取りできているのが。

障害者だけでなく、違う意味で特殊な人たちも出てくる。それは、カンイが恋する男の子が属している裏社会の人々。しかしここにも何の区別も無いのである。カンイは親しき知人として彼らに明るく挨拶し、何のためらいもなくそこに入ってきた少年、アピンと恋をする。カンイのそうしたニュートラルさはとても素晴らしいのだが、そうして区別なく出来ているのが、彼女だけなのだと判ってくる。彼女の父親は自分の目が見えないことや、息子、アギィの障害に対してどこかやはり悲観的だし、アピンは父親の縁で入れられた組の中で孤立し、荒れ狂う海に向かって一人小石を打ち続ける。アピンを世話するヤクザのソンは、自分の無力さをアピンのせいにし、さらに自己嫌悪に陥ってゆく。

カンイはアピンを誘って夜の街へ繰り出し、橋の上から夜景を眺める。だんだんとその空が明るくなって行く。二人はそのまま朝を迎えてしまうのだ。その朝、二人は唇を重ねる。二人の恋の始まりは、しかし悲劇への始まりでもあった。

カンイに恋しているアリンは、アピンの属している組が敵対している組の女組長の息子だ。彼自身はウブなほどに直情的にカンイに猛突進で決して憎めないヤツなのだが、当然ながらこの若い恋の三角関係が、組同士のあつれきにまで発展してしまう。

アピンはかなりアッサリと死んでしまう。肩にくぎ抜きのようなものが刺さったまま、防波堤でぶっ倒れ、絶命する。……肩に刺さったくらいで死んじゃうのお?と、どうしても彼が死ぬなんてイヤで、何とか次の場面で生きた彼が出てくるのを望んだけれど、次のシーンでは彼の荷物が片付けられ、葬儀に使う写真が選ばれている。それを遠くから眺めるカンイはくるりときびすを返す。……見たくはないものを見てしまったかのように。

そしてその数日後には彼女の父親が倒れてしまう。彼は自分の近づいている死を予感していたのか、その直前に、前妻との思い出の場所である地下道にカンイにつきそいを頼んで赴いていた。今の妻ももちろん誠実に愛している。でも、前妻が、彼の目が見えていた時の人生の象徴だったのだろう。彼はそこで全身で気配を感じ取ろうとする。そして彼は、まるでそれで安心したかのように、家に戻ってしばらくして意識を失い、それきり帰らぬ人となってしまう。彼は勿論、カンイもどこに行ってきた、などとは誰にも言わない。今の妻はそんなことは知らぬまま、突然の夫の死を純粋な哀しみだけで迎えることが出来たのだ。

夏は、なぜかしら死の予感に満ちた季節だ。特に日本を含めたアジアでは。やはりお盆などという風習があるからだろうか。かつての死者と、これからの死者が行き交う季節。アピンとこの父親が続けざまに死んでしまうのも、なぜかしら当然の帰結であったかのように。しかも夏自体が思い出に一番ふさわしい季節であるが為か、夏の死はどこか甘やかですらある。お盆になり、自分の部屋から打ち上げ花火を見上げるカンイの顔は久しぶりの笑顔に輝き、彼女の幻想からか、死者が戻ってくる幸福のラストを迎えるのだ。

この作品の中で、カンイよりも重要に作品カラーを支えているのは、彼女の弟のアギィ。彼もまた、カンイと同様ニュートラルな子だ。彼はお姉ちゃん思いで彼女が大好き。その一心だけで日々を生きている。彼女の恋心を彼女自身よりも早く察知し、そのことで両親とのあつれきが生じると、誰よりも心を痛める。全てが終わった後、アギィが死んでしまったアピンや父親にオモチャの携帯電話で助けを求めている場面は、泣ける。……でも本当にその携帯電話は天国に通じていたのだ……その幸福なラストシーンは、カンイの幻想なのか、父親とアピンが仲良く連れ立って家に戻って来て、みんなと和気あいあいと食事をする。そして、家族みんなで、写真館でオシャレをして記念写真を撮るのである。そのカキワリの南国のバックが、なんだか切ない思いをかきたてる。

場面やエピソードがそっけなくつながれるせいか、少々気持ちが分断される思いがしたのがちょっぴり違和感だったかも。でも、大声で怒鳴り、ヒマワリのように笑うカンイが可愛くって、もうそれだけで合格!★★★☆☆


最後通告VOLLMOND
1998年 124分 スイス カラー
監督:フレディ・M・ムーラー 脚本:フレディ・M・ムーラー
撮影:ピオ・コラーディ 音楽:マリオ・ベレッタ
出演:ハンスペーター・ミュラー/リロ・バウアー

2000/8/6/日 劇場(ユーロスペース)
この映画が意味するものを、観てからずっと考えていた。かなり不気味なタイトル、そして子供が片手で目を隠して遠くを指差している、あるいは目隠しをして両手を伸ばしている宣材のスチール写真は、なにか戦慄させるものを感じさせたが、これは“現実とファンタジーが交錯し合う映画”なのだという。ファンタジー?そうだろうか。無論、これは大人の視点からの世界と子供の視点からの世界を同時に組み合わせた全きフィクションだ。子供たちは自分たちだけに見えるユートピアに“消えて”しまう。大人に見えている現実と、子供に見えているファンタジーと言えばそうなのかもしれないが、消えた子供たちがそこから家族に出す手紙、「ぼくたちは地球の幸せを望む。大人たちがそれを望まなければ地球は僕らなしに回り続けるでしょう」という文面が、子供のムジャキな想像心から出たとかたづけるにはあまりに深刻に響いてきて。ここで言う“僕らなし”は単に消えた子供たちをだけ指すのではない。全ての子供たちを、全ての未来を指すものなのだ。

物語は、一人の少年が忽然と姿を消すところから始まる。その少年の妹は兄がいないのに気づいて母親に訴えるが、母親は仕事に夢中で彼女の話を聞こうとしない。……最初はだから、これは現代の家族社会の問題を突く作品なのかな、とも思いもしたのだが、そう単純なものではないらしい。この少年、トニーと同じ日、同じ時刻に消えた、彼を含めた6人の少年、6人の少女たちの家族や生活環境はそれぞれ全く違っていたからだ。この子供たちは、それぞれが子供特有の異世界へと交信できる能力を他の子たちよりもずば抜けて持った、いわば、“選ばれた子供たち”だったのだろうか。

行方不明の子供たちの共通点を見つけたヴァッサー警部は、事件を捜査するうち、このトニーの母親と出逢う。彼は彼女が見た夢に出てくる子供たちが、行方不明の子供たちであることを知り、未知への世界に入り込んでゆく……同僚たちの冷ややかな視線や、興味本位なマスコミの追っかけにあいながらも、彼は子供の親たちを集め、子供たちとの交信を試みる。そして、ついに、13番目の子供、行方不明の子供たちではなく、おそらく彼らを統率していると思われる黒い肌の男の子が現れる。彼らの夢にも出てきた子供、そして子供たちの部屋に、まるでカリスマを崇めるようにポスターで貼られていた少年である。そのポスター……!小さな船の舳先に立って、片手で片目を隠した姿をモノクロで撮ったその写真は、何のためのポスターなのかも判らず、まるで念写ででも撮影したかのような不気味さを放つ。彼はやはり同じように片手で片目を隠してみせる。その時ライブ中継していたテレビの画面には、行方不明だった子供たちの姿が瞬間映しだされる。親たちが同じように目を閉じてみると、子供たちが手を振っているのが見える。「目を閉じた時に見える世界がある」

この“目を閉じた時に見える世界”を単純にファンタジーと言いきっていいのだろうか?子供たちにとって、この“ファンタジー”こそが現実の世界だ。そして“ファンタジー”に行ってしまった子供たちを失った大人の世界が“現実”なのだとしたら、それはこの未来を失った(あるいは失っていく過程にある)“現実”がいかに病んでいるかを告発しているのではないか。“目を閉じた時に見えるもの”とは言いかえれば“目には見えないもの”である。それは心であり、気持ちであり、感情であり、愛である。忙しすぎて、あるいは逆に溺愛しすぎて子供の心が見えなくなってしまった、いや子供の心だけではなく、あらゆる愛や感情という、尊いものを、言葉やモノで換算しなければならなくなったこの現実を告発しているのかもしれない。この現実世界で起こるさまざまな陰惨な事件は、極論すれば全てがこの理由に帰結できるからだ。目に見えている“現実”(金、成果、前例、etc……)を過信しすぎたために。

子供たちが消えてから、その家族のもとをはじめ、さまざまな場所に無数の木版がばらまかれる。印象的だが、どうしてもその意味を汲み取ることが出来ず、それが何だかとても怖い。何を示唆しているのか?それはまるで彼らの身代わりの身の代人形のようで。山の上で焚き火のように焼かれるシーンも出てくるし……いくらなんでもそれはちょっと日本的な考えだけれども。

しかしこうして文章で連ねてみると、何だか私の考えがとても単純で、それだけではすまされないような、もっと根の深い不可思議さや怖さが潜んでいるような気がしてならないのだ。“消えた子供たち”という世界はまるで楳図かずおの「漂流教室」のようでもあり(少々大仰すぎるような音楽がかもす、過分なドラマチックさもそんな感じ)、あの作品もまた、そこに起こる不可思議な物語以上のなにかを訴えかけてきていたし。

盲目の老人が消えた子供たちを“目撃”していることや、トニーの妹が消えた子供たちと親たちの間に立っているまるでイタコのような存在だったりするのが印象的だった。彼らがこのひょっとすると絶望的にも見えかねない世界観をふっと救っているようだった。★★★☆☆


サイダーハウス・ルールTHE CIDER HOUSE RULES
1999年 126分 アメリカ カラー
監督:ラッセ・ハルストレム 脚本:ジョン・アーヴィング
撮影:オリヴァー・ステイプルトン 音楽:レイチェル・ポートマン
出演:トビー・マグワイア/マイケル・ケイン/シャーリーズ・セロン/ポール・ラッド/デルロイ・リンド/ジェーン・アレキサンダー/キャシー・ベイカー/エリカ・バドゥ/キーラン・カルキン/ケイト・ネリガン/ヘヴィ・D/K・トッド・フリーマン/パ・ドゥ・ラ・ユエルタ/J・K・シモンズ

2000/7/12/水 劇場(みゆき座)
どういう意味なのか、とんと想像のつかないタイトルからは、どんな映画なのか想像がつかなかったけれど、ラッセ・ハルストレム監督作品だということ、それだけで心惹かれるに充分だった。ハルストレム監督は、アメリカに渡っても自分の世界を見失わない希有な映画作家だ。彼の作品の画面はいつも驚くほど透明で優しい。新緑まぶしい季節も、冷たく厳しい雪の世界でも、そして主人公がどんなに厳しい精神状態に追い込まれていても、どこかに救いがあり、どこかにユーモラスさを忘れていなくて、決して深刻なだけの状況にならない。

今回完全なダークホースだったアカデミー助演男優賞受賞のマイケル・ケインと、主人公のトビー・マグワイアは出色のキャスティングだ。まさしくハルストレム映画の住人といってもいいくらい……先述の“透明で優しく、どんなに厳しくても救いとユーモアを忘れない”というハルストレム映画の特質がそのままこの二人にもあてはまるから。「アイス・ストーム」そして、なんといっても「カラー・オブ・ハート」でその繊細にして内面の変化をしっかりと感じさせる演技力に大注目していたマグワイア(前作まではマグァイアの表記だったが……)は本当に素晴らしい。当初、レオナルド・ディカプリオが決まりかけていたというが、ああ、ほんとうに、マグワイアになって良かった。彼以外このホーマー役は考えられない。純粋で、無垢で、でも自分の出生の重さをしっかりと受け止めているがゆえ、信念は固く、新しい世界の新しい出来事に驚きながらも、自分の信念に違うことには染まらない。そのたたずまい演技は、ちょっとハリウッド俳優では他に思いつかない。

彼はセント・クラウズ孤児院で生まれ、誰も引き取り手のない“特別な子”として、マイケル・ケイン演じるラーチ院長のもと、婦人科医として育てられる。時代は中絶が禁じられていた1940年代アメリカ。そのためラーチ院長は腕利きの堕胎医として行き場のない女性達の救い手となっている。ホーマーは自分の出生から、堕胎には反対し、分娩は担当するが、頑として堕胎をやろうとはしない。しかし……。

この中絶の是非という問題は大きく、下手するとこのテーマで映画がふりまわされかねないのだが、そうはならない。ホーマーが次にそのことについて考えるまでに、彼自身の経験からなる成長がしっかりと用意されているからだ。彼はある日中絶をしに来た若いカップルとともにこの孤児院を出る決心をする。多分今までは不幸な女性がたった一人で子供を堕ろしに来ていたのだろう、しかし恋人が気遣いながらよりそって訪れたこのカップルに、ホーマーは若い未来を託す気持ちが急にもたげたのかもしれない。男は危険な任務を追い求めるGIのウォリー(ポール・ラッド)、女はロブスター漁の家庭に育つ奔放なブロンド美人、キャンディ(シャーリーズ・セロン)。気さくな二人とホーマーはあっという間に親友となり、ウォリーは行くあてのないホーマーのために自分の母親の経営する林檎摘みの仕事を提供する。そしてウォリーの出征……。

この後のキャンディとの恋、性の目覚めが描かれることで、私はウォリーが戦地で死んでしまうのかと思ったのだが、違った。ウォリーは下半身不随となって、車椅子の状態で戦地から帰ってくるという知らせが届く。……もしかしたら足だけやられてるのかもしれないけれど、私はなんとなく、ウォリーはもう性的不能者になってしまったのではないか、と感じた。その知らせに動揺を隠せず、「僕は何をすればいい?」というホーマーに「何もしないで」と繰り返すキャンディ。「そうだよな、何もしなければ、誰かが行くべき道を決定してくれるんだよな!」といささか逆ギレ気味のホーマー。彼はキャンディを愛しているけれど、キャンディは必ずしもそうとは言えない。そして、ウォリーはホーマーの親友であり、恩人、そしてキャンディが愛していると確信を持って言えるたった一人の彼、でもそのウォリーが下半身不随となって帰ってくる……そうしたことが二人の気持ちを大きくゆるがせる。

でもその前に大きな問題があった。そしてそれが、ウォリーの帰還以上にホーマーの先行きを決定する出来事となる。それは、同じ林檎摘み仲間のリーダーであるミスター・ローズとその娘ローズ・ローズの禁断の関係によって、ローズ・ローズが身ごもってしまったことである。堕胎には絶対反対の立場を取っていたホーマーがどういう決断に出るのか、しかも娘をはらませる父親に……とハラハラしたが、彼らと林檎摘みのシーズン、寝起きを共にし、信頼関係を深めているホーマーには、望まない妊娠をしてしまったローズ・ローズのみならず、ミスター・ローズの気持ちをも聞く用意があった。ただ単純に堕胎という事実だけをとりあげて、それを悪とするのではなく、人にはそれぞれやんごとない事情があるということが判るだけ大人になったのだ。ローズ・ローズが父親との関係をどう思っているかはともかく、ミスター・ローズはローズ・ローズを娘以上の愛情をもって愛していた。その愛情は本物だった。ホーマーは二人を助けるために、みずから堕胎を施すことを決意する。……ラーチ院長がホーマーが戻ってくるよう願って送ってきた医療カバンの中身を使って……。

ホーマーがこの地を去り、セント・クラウズの孤児院に戻ろうと思ったのは、キャンディとの関係やウォリーの帰還のことではなく、彼が堕胎も人を救うことなのだと悟ったから……いやそんな単純なものではなく、もっと深いところで、人の愛情の深さと複雑さを知ったから、それを知った上ならば分娩も堕胎も、迷うことなく出来ると思ったから、だろう。ミスター・ローズは外の世界に出て行くローズ・ローズの手によって息を引き取り、ホーマーの帰りを心待ちにしていたラーチ院長も、エーテルの吸いすぎで(不慮の事故だったのか、自殺だったのか判然としない)死を招いてしまう。いわば、これは父親殺しのテーマをも含んでおり、人は誰しもその存在を確定するために心の中で父親を殺して一人前となっていくものだけれど、それが現実に起こらなければ二人とも大人となることが出来なかった哀しい事実。

父親殺しの問題は言うまでもなく特に男性にあてはまるものなのだが。ローズ・ローズは働き手として男性的な役割をも担ってはいたけれど、やはり女性。もっと深刻に父親殺しのテーマを抱えているのはやはりホーマーの方なのだ。父親にとって分身=理想のイメージであるが故に、それをぶち壊さなければ自分という存在が確立できない、その分身を否定するという行為が、父親殺しに他ならないのはもちろんだけれど、それは父親にとって親不孝なのか?否。なぜ親の愛情が他の愛情より強いのか、それは、子供を、分身であるが故に愛し(=自己愛)、と同時に、そうでないが故にさらに愛す(=他者への愛)という、二つの愛情が同時に存在し、高めあい、相乗しあっているからだ。

ホーマーや孤児達が孤児院でたった一本だけの映画、「キング・コング」を飽きることなく繰り返し観、コングがあの女性を母親だと思って愛していたと語っていたことが、もっと深い意味を持って迫ってくるのだ。親を持たない、もっと言うとラーチ院長という“父親”を持ってはいても、母親を持たないホーマーにとって、親の持つ(特に母親の持つ)愛情は憧れもあって絶対的なものだった。だからこそ彼は堕胎が許せなかったのだろうし。でもここでの生活によって、彼は母親の愛情以外の愛情、そして母親の愛情の本当の意味というものを知った。……そして父親の愛情、そのさまざまな姿をも。キャンディに抱く感情は、やはりまだ母親に対するそれだったかもしれない。大丈夫、ホーマーにはまだまだ真実に愛する人が現れるチャンスがある(孤児院に彼に恋するカワイイ女の子もいるし)。今の彼ならば、キング・コングがあの女性を母親と思っていた、とは言わないだろう。

かくしてホーマーは孤児院に帰り、子供たちに熱狂的に迎え入れられる。待っていてくれる人がいる、これほど人生において素晴らしいことはあるまい。だからこそ彼は帰ったのだ、とも言える。彼らにおやすみのおはなしを語って聞かせた後、ラーチ院長と同じように「おやすみ、メイン州の王子、そしてニュー・イングランドの王」とドアを閉める。それを聞いた子供たちのなんて幸福そうな笑顔!

この孤児院での子供たちの描写は、さすが子供映画の名匠、ハルストレム監督、本当にキラキラと輝いている。近頃「シーズ・オール・ザット」など、ちらほらと見かけるキーラン・カルキン、ここではホーマーの相棒的な役柄のマセた子供、バスタード。彼も非常にイイ。兄、マコーレーとは全く違う、どこか影を持った、ナマイキだけど思慮深そうな感じ、どこかヨーロッパ的な感じもする。

先述した、タイトルのこと……映画内でもチラリと触れられているが、どちらかというと同名原作の方で重要な意味を持っているという感じで、この作品ではそれほど重きを置かれてなかった気がするけれど。その原作はホーマーの数十年に渡る人生を描いた大作だという。テイストを失わないまま映画化に成功したといわれている本作、思い切って原作のホーマーに会いたくなった。……たまには本も読まないとね。★★★★☆


さくや/妖怪伝
2000年 分 日本 カラー
監督:原口智生 脚本:光益公映
撮影:江原祥二 音楽:川井憲次
出演:安藤希 嶋田久作 逆木圭一郎 黒田勇樹 絵沢萠子 塚本晋也 石倉英彦 吉田桂子 山内秀一 丹波哲郎 藤岡弘 松坂慶子 竹中直人(ナレーション)

2000/8/26/土 劇場(丸の内シャンゼリゼ)
私はいわゆるこういうジャンルのものは苦手かもしれないなあ。実写になった妖怪たちに素直にワクワクできなくて、日本独特の特撮にもチープさやわざとらしさばかり感じてしまって、冷めてしまう。「ガメラ」や「ゴジラ」の時点からどうもダメだなあと思ってたけど、やっぱりダメ!そうしたチープさは「妖怪百物語」の昔からあんまり変わってないような気がするんだけど、その昔はそうした妖怪映画に俳優たちのノリがピッタリハマッていて、ある種独特の面白さがあったし。はたして本作はどうかなあ。あぁでも、この人が出ているから観に行った、少女たちを捕らえて生き人形を作っている傀儡師役の塚本晋也氏は、そうした古き良き時代の妖怪映画のノリを彷彿とさせる(悪ノリ!?)怪演で、かなり喜んじゃったけどね。あのアヤしさは最高!でも銀歯が見えてたような気がするのは……うーむ(気のせいだったかもしれないけど)。

代々妖怪退治の家柄に生まれた美少女討伐士、咲夜(さくや)。妖刀として使われる“村正”は、妖怪を退治するごとに使い手の命を減じてゆく。人を斬れば命を稼げるのだが……。そして彼女は自分の父の仇である大河童を討ち取り、その赤ん坊を自分の弟として育てる決心をする。仇の子どうしがしかももともと住む世界を異にするもの同士が姉弟として生きていけるのか……しかも咲夜は、親のみならず、彼一族の仇とも言うべき存在なのだから。

などとゆー、ドラマティックな要素を充分にはらんでいながら、それを大きな波として感じられないのは何故なのかしらん。咲夜を演じる安藤希に覇気がないからか?彼女、確かに美少女なんだけど、ただの美少女でしかないなあ、という印象。目鼻立ちや笑顔は絵に画いたように完璧だが、それらのバランスを微妙に揺さぶる、心にきゅんと来るサムシングがないのだ(だから私の美少女辞典には入らない)。見せ所で大声を張り上げたり、アップでギラリと睨み付けたりするだけじゃ、迫力なんて出っこない。役への感情移入という、一番単純かつ大切なところが出来てない気がするのだ。妖怪を追いかけて走るところも、カッティングでスピーディーに見せてはいるけど、なんかあんまり全力疾走に見えないし。立ち回りの形はそれなりに様になっているけど、これまた今一つやる気に欠けるというか。“凛とした、クールな女剣士”という役どころを表現しているつもりなのかもしれないけど……でもねえ。

それならば彼女の弟役である河童の太郎、山内秀一クンの方がよほど出来がいいというもんだ。「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」に出てたってえ?思い出せないなあ、と調べたら、かなりのチョイですな。でも思い出した。三人のユウタのうちの一人で“面白いユウタ”君(ちょっと言い方が違ったかも)が彼だよね?本作での彼は、なんか“一生懸命ッ!”って感じがして実にいいんだよなあ。自分の出生につけこまれて揺れ動く様も、尊敬する姉、咲夜の足手まといになると悩んでいる様も、“良い妖怪”たちとともに楽しげに踊る様も、妖怪土蜘蛛の女王にまんまとはめられて咲夜を手にかけ、ボロボロに泣きわめく様も、もうどれもこれも可愛くて可哀想で愛しくて。

そうそう、この土蜘蛛の女王はちなみに松坂慶子(!)なのだけど、太郎をかどわかす幻想的なシーンでは天上の美しさを見せ、実際の邪悪な姿でも凄みのある美しさを見せる。大スクリーンに巨大な土蜘蛛として立ち回る彼女はさすが大女優の貫禄かも。そしてコイツにかどわかされて咲夜を思わず刺してしまう太郎に、咲夜が言う。「……好きなところへ行け、太郎。……達者でな」この時の、黒髪が白い横顔をパラパラと覆い、すっと伸びた真っ白い首筋で、息も絶え絶えに言う安藤希はべらぼうに美しかった。ここだけはサムシングを感じたなあ。

彼女に付き従う対照的な忍者二人のうち、クールな似烏を演じる嶋田久作にはちょっと驚き。長髪のせいかなあ、あのヌーボーとした、あるいはちょっと異質な男といった、今までの彼のイメージとはずいぶんと違うニヒルな魅力!多少差別的なほどのフェミニストでありながら、咲夜のことを剣士としてきちっと認めているところがイイのよね。少々コミック的な味付けのそのいでたちも似合ってる。いやーん、ちょっとホレたかもしれない!?

キャラクターの名前などにルビが振ってあって妙に大きな文字だったりするのには少々苦笑。うーん、でも思ったほど親子連れはいなかったが……。作品カラーとは全く一致してないけど主題歌のchiakiちゃんの歌声は相変わらず達者ですなあ。★★☆☆☆


サノバビッチ☆サブ 〜青春グッバイ〜
2000年 90分 日本 カラー
監督:松梨智子 脚本:松梨智子
撮影:松梨智子 音楽:鯱/Magic Mushroom/XYLO∞PHONE/前田理恵/市原真吾
出演:いけだしん 斗桝仁之 澤田育子 渡辺さやか 千葉雅子 松梨智子 米本直樹 小野原亜希 細谷隆広 長谷川葉月 中原和宏 細貝康介 寺澤佑介 斎藤香織 小倉正彦 轟勇一郎 芹沢勝彦 佐藤真弓 岩崎友彦 亜里早 映画怪獣G子ちゃん 近藤太 白石晃士 本間千賀子 安積昌輝 池田鉄洋 まんた則男

2000/10/6/金 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
噂にたがわぬとゆーか、噂以上と言うか、噂ってナニ!?と述べるべきか、あああああ、一体何なんだ誰なんだどうしたんだこの事態はあ!?(ああッ!田口トモロヲ風文章!?)と取り乱しまくってしまうほどに訳が判らん??いや傑作なのかも?いやいやいや……とグリグリしているうちに、こんなトンデモナイ点数つけてたりして!?松梨智子、恐るべし。観逃してしまった前作「毒婦マチルダ」の頃からウワサには聞いていたけど、しかしどんなものなのか実態がつかめず、いやいや、本作を観たあとでも実態なんてさっぱりつかめないぞお!?松梨監督、舞台挨拶に来てたけど、うーん、見た目はフツウと言うか……しかし同じくトークに来ていた主演男優二人、あれだけカッコイイのに(!?ホントか?いや、でも骨格とかしっかりしてて結構イケてたのだよ)、それをあれだけダサダサにキテレツに描くだけでモノスゴイものが……ああうう。最終日の当日、劇場を十重二十重に取巻く人々に驚きつつ(とーぜん、立ち見でした。……ヨミが甘かったわ……)実にナットク。このひたー、一度観るとクセになる!

大体、一体何なんだこの展開は!?サブの社会への反発心(絶対、違う。)に感銘を受けたケンが、「俺は柏木だからケン、お前は大久保だからサブだ!(!!??はああ??)」とタッグを組み、“血の誓い”で手首から血しぶきブシャーで(マジスゴイっす。しかも何度となくこの血しぶきは登場するんだから……ダイスキ!!)、ヤラセてもらえるかと思った美少女(松梨監督自身!しかもそいつは希望者にヤラせまくり!)を惨殺し、それから逃げるのではなく「出発だ!」とビッグになるべく(笑)東京に出て(サバイバルの末、着いた先が東京タワーの真下(笑))なぜか共産党運動に巻き込まれ、白装束で革命を説く彼らは言わずもがなの某団体を思い起こさせ、そこの運動員のジョウユウはホントにミョーにかのお人に似ており(大笑)ついでに言うと、女委員長もかのお人に似ており(悶絶笑)、しかし女委員長はあっさり初恋の人の元に帰って団体は崩壊、なぜかサブとケンは漫才師に方向転換し、しかし1年たっても“完璧なネタ”は出来ず、その間にサブは“キューティーズ”のアイとラブラブになり、アイの相棒のマコはケンに惚れるがゆえに彼からさげすまれて自殺をとげ、ケンは流離の旅に出て……ああああ!ワッケ判らん!いや、こうやって改めてストーリーを思い起こすとそれなりに納得できるような気もするのだが(??)その描き方が尋常じゃないんだよッ!!

柴犬をニコニコとバラして鍋にするわ、サブのバイトはエジプト、ピラミッド前での石運びだわ(!?)ケンのさすらいの旅に現れるマリアのような美少女は(マジカワイイッす)ぬいぐるみ相手に話しかけ、ケンが心を許しそうになると「これでも私結婚してるのよ!」と駆け出すわ(……セーラー服着てんだろ、オイ……)、マコの遺書朗読のバックには80年代アイドル風のやたらとオトメチックな映像が流れ、ケンがサブに人生の選択を迫るクライマックスには大仰な照明が当てられてるのに、サブが安らぎの選択を取ると、そのライトがケンの背後であからさまにパチッと消されたり……。開いた口を開けっ放しにするべきなのか、その開いた口で爆笑すべきなのか、ああ、神様、一体私はどうしたらいいのですか?(泣)

しっかし一番スゴかったのは、女委員長の語りのバックに次々と現れる解説写真の意味不明さで、最初こそなんとなく納得できるような写真が現れるものの、それがなぜか戦時中の写真になり、キノコ雲が現れ、惑星の写真だの、ダーウィンの進化論の過程だの!?ど、ど、ど、どーゆーことなんですかあ、これはあ??それに、この女委員長が語る、敵にスパイとして侵入し、その相手と愛し合い、子供を身ごもり、しかしその子供は放射能を浴びたためムラサキ色の斑点が出来て死んでしまい……などとゆー展開は……おーい、ウソかい!それでその後、田舎にいた頃草原を転げまわって愛を確かめ合った(爆笑)相手が迎えにきてアッサリ、彼の胸に飛び込むたあ、あんたイイ度胸だ!?

しかも、しかもだ。こんな展開で、ケンが旅で人生を悟り(偶然出会ったナゾの老人に、シンプルかつ力強い、やけにいい言葉をもらうんだよね。ケンが目からウロコが落ちるほど……私もいい言葉だなあ、と思ったのに、忘れちゃった(笑))、すわ、どんなドラマチックな結末たるや!?と思ったら、サブとケンは仲良く車修理の店を持ち、ハッピーエンディング!?おーい、何事だあ!でででも、これで良かったのか!?(頭抱える)

手書きで画面に解説書いたり、プリクラみたいな合成画面使ったり、もう、予測が全くつかない。衝撃、まさしく衝撃である。嗚呼、このようなことがあっていいのだろうか……うーん、まさしくサノバビッチなケッ作!?うーうーうー、こんな衝撃は、塚本晋也の登場以来かもしれないッ!しかし彼女は塚本監督のよーに、メジャーで撮ることも出来るようになるんだろうか……いや……永遠の(ピー)指定、アングラ精神でいてくれい!(でも、オタクファンのものだけになっちゃやーよ)

はああ、もう仕方ない、降参しましたと言うほかないではないですか。いやはや一気に思い返して、疲れちゃった。ああ、でもホントに好きダ、大好キッ!

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★★★★★


ザ・ビーチTHE BEACH
2000年 119分 アメリカ カラー
監督:ダニー・ボイル 脚本:ジョン・ホッジ
撮影:ダリアス・コンジ 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:レオナルド・ディカプリオ/ティルダ・スウィントン/ヴィルジニー・ルドワイヤン/ギヨーム・カネ/ロバート・カーライル/パターソン・ジョセフ/ラース・アレンツ=ハンセン

2000/5/10/水 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
なぜこんなにツマラなく感じてしまうんだろう。最近ハリウッド映画がどんどんつまらなくなっていくのを感じる。あるいは、ダニー・ボイル監督は、ハリウッドに渡る外国人監督がハリウッド式に侵されて個性を失ってしまう典型を示しているようにも思う。私は「トレインスポッティング」は好きな作品ではないけれど、少なくともイギリス時代のあの作品には、自分を、そして国をも含めたアイデンティティを刻印しようとする有無を言わせぬパワーがあった。それが、まるでなくなってしまったように感じるのだ。

この作品で唯一瞠目させられるのは、何の作品に出てもいつも驚き、感心させられるロバート・カーライルのみである。彼は登場してほとんどすぐに死んでしまい、オイオイ、彼をこんな扱いにするのか!とびっくりしたけど、その短い登場で充分に強烈で、レオを食っていたし、その後もこの物語のカギを握る人物として何度となく主人公、リチャード(レオナルド・ディカプリオ)の幻想の中に登場し、物語を牽引していく。彼はキャラクターに滅私奉公すると同時に、彼のみの持つオーラを放つという力を持っているのだ。ハリウッド映画だろうがなんだろうが、それが揺るがない。それが凄い。

対照的に、レオナルド・ディカプリオはすっかり以前のきらめきを失くしてしまった様に感じるのは私だけなのだろうか?彼は「タイタニック」に出たのが運のつき、本作では一時すっかり太ってしまった体もしっかり元に戻したし、顔の造作はもちろん変わってないのに、あの心奪われるような美しさやチャームを全く感じなくなってしまった。かわりに放出されるのは、ハリウッド・スターとしてスクリーンに君臨している様であり、やたらと過剰な感情表現を横行させる。熱演なのかもしれないが、あの“上手い!”と思わせたかつての彼はどこかに行ってしまった気がしてならない。

過剰な感情表現は彼のみならず、この映画全体に横溢している。非常にハリウッド映画らしく、テンションの高い、熱に浮かされたような人々。この作品のストーリー展開ならばそのテンションが合っているとも言えるのだが。手付かずのビーチにコミュニティを作り、秘密の楽園で享楽的に過ごす20人ほどの男女。そこに君臨するカリスマ的な女性、サル(ティルダ・スウィントン)。このビーチに、創設者の一人であり、自殺してしまったダフィ(ロバート・カーライル)に教えられてたどり着くリチャードと、彼が誘ったフランス人カップルのエチエンヌ(ギヨーム・カネ)、フランソワーズ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)。現地の人と折り合いをつけているように見えながらその実彼らにとっては侵略者でしかなかった事が、残酷なラストで明らかにされる。そうでなくても彼らはこんな天国のような島にいながらも、一ヶ月に一度、誰かが街へ買い出しに出かけるのを心待ちにしていて、やれ化粧品だ、コンドームだ、チョコレートだ、ゲーム用の乾電池だと要求し、結局は都市と何ら変わらない享楽を得るのだ。それでも彼らは都市に戻ろうとしない。都市の享楽は捨てられないが、都市の喧燥はゴメンだからだ。ここにいれば、自分達は選ばれた人間なのだと思う事が出来る、ということなのか。

しかし二つの事件がそんな彼らを大きく引き裂いていく。一つはリチャードが島への地図のコピーを渡してしまった若者四人が侵入、現地人に殺されてしまった事、そしてもう一つは、サメに襲われたコミュニティのメンバーが、一人は死に、一人は重傷を負ってしまった事である。ことにこの半死半生のクリストは、コミュニティの秘密を固く守る掟によって、医者を呼ぶ事を禁じられ、苦しむ様をさらす彼は皆から疎まれ、森の中に置き去りにされてしまうのだ!そしてそのクリストを森に運ぶメンバーにはこともあろうにリチャードも含まれている!一人抵抗を示すのはエチエンヌのみであり……。リチャードはこのコミュニティの醜さを含めた全てを体現する人物となっているのだ。その選民思想、生き死にをゲーム感覚でとらえる軽さ、あるいは生きていくことの第一義が快楽だということ。これがラスト、現地住民の怒りによって崩壊させられ、それがいかに愚かなことかが如実にあらわされる。コミュニティを守ろうとするサルによって銃口を向けられるリチャードは、その時になって急に自分は何もかも判っているかのようにかなりエラそうなことを言って切り抜け、まさにサルに代わるカリスマの地位を確立する。しかし、その時にはおびえたコミュニティの面々は逃げおおせ、残されたのはここでしか生きられない、実はとても可哀相な女性であるサルと、かなり都合のよい人生経験をつまみ食いで体験し、結局は都市に逃げ帰ることになるリチャードという皮肉。

(未読ではあるけれど)原作どおり、リチャードをイギリス人のままにし、当初の予定通りユアン・マクレガーが演じていたら、もう少し深くさぐってゆける物語になっていたような気がしてならないのは、やはり差別感覚か、偏見なのだろうか。フランス人カップルを演じたギヨーム・カネ&ヴィルジニー・ルドワイヤンにしたって、ハリウッドに招かれたラッキーなフランス人俳優、といった趣を出ていない。サルに請われて秘密のセックスをし、エチエンヌを裏切ってフランソワーズと関係するリチャード、そこには揺れる葛藤などなく、ダニー・ボイル監督は「皆がレオのラブシーンを見たがっているから」などという事を平気で言う。なんというハリウッド的発言!なんだってダニー・ボイル監督はこうもハリウッド映画的たらんとすることにこだわるんだろう。まるで、出身を隠したがる地方出身者のようで、イギリス人たちにとっても気持ちのいいものではあるまいに。

ハリウッドでは、俳優が演出面においても力が持てることが素晴らしい事として語られているけれど、私にはそれはマイナス面の方が大きいように思われてならない。もちろんチームとしてキャスト&スタッフのみんながアイディアを出しあうのはいい事だけど、監督の頭の中にある物を作るのが映画なのであり、ある一つの映画が誰のものかと問えば、やはりそれは監督のものであるはずなのだ。ましてやスターとしての力を持つ俳優が演出に口を出して監督が折れるしかなくなるのだとしたら、こんなひどい話はない。俳優が映画の素材であることが(しばしば、ハリウッド俳優は「コマでしかない」などと言うけれど)、そんなに恥ずかしいことなのだろうか。作品を形作る素材としてその画面に永遠に姿を焼き付けられる、作品の一部として生き続ける、こんなに素晴らしい事はないと思うのに。加えて編集権が監督に与えられていないというのもどう考えてもおかしい。映画はそのつなげ方でどんな突拍子もない方向にも変わってしまうものなのではないのか。編集は立派な演出なのではないかと。ハリウッド映画の印象が、皆同じように感じてしまうのは絶対にそのせいではないのか。

ビーチの情景はこの上もなく美しい。でもその美しさに象徴されるように、非常に表層的な印象を残す作品だった。★★☆☆☆


サム・ガールSOME GIRL
1998年 85分 アメリカ カラー
監督:ロリー・ケリー 脚本:マリサ・リビシ/ブリエ・シャッファー
撮影:エイミー・ヴィンセント 音楽:ジム・グッドウィン/デイヴ・レスニック
出演:マリサ・リビシ/ジュリエット・ルイス/ジョバンニ・リビシ/マイケル・ラバポート

2000/6/26/月 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
「セックスがなくても、もっと魂の深いところを包み込むような愛を経験したことある?」という主人公クレアの言葉が、この作品のあるひとつの核を物語っているように思う。一方で(女の)友情の何たるかをも語っているのだが、それには片方の、あるいはそれぞれのつきあっている男がからんできて、それぞれを単独では語れなくなる。……男は友情だけで話を作れるのに、女はそれが出来ない、もうあきらめちゃったけど、やっぱりそうなのかと……でもこの作品はそうした部分を適度にシリアスに、適度にコミカルに仕上げていて好感が持てる。

冒頭、“天使”が走ってくるシーンからはじまる。薄くて透けるオーガンジーのような生地で作った短いワンピースに真っ白い羽はホンモノで出来ていて、雪のような肌に真っ赤な巻毛がキュート、本当に天使かと思わせるような、これはファンタジー映画なのかと錯覚するような冒頭。しかも彼女はその視線の先に仲間たちの楽しそうな様子を幻想し、複雑な表情を浮かべるのだから。

そこで一度カットアウト、話は二週間前にさかのぼる。この“天使”はクレア。恋人が出来ると入れ込んでしまって疎ましがられるタイプでフラレたばかり。運命の人を待ち続ける典型的な夢見る少女(という年でもないが)。そしてその親友のエイプリル。いつも露出度満点の彼女は男を切らしたことのない“ヤリまくり女”。恋人に束縛されるのがキライで、距離を置こうとし、彼女に惚れきっているその恋人はいつもヤキモキ。この他にも友人やクレアの兄弟など、さまざまな人たちが恋のさやあてを繰り広げる群像劇なのだけど、話の焦点はクレアとエイプリルの友情とそれぞれの恋物語がどうなるか、である。

なので、先に印象的な“その他”の人々について言ってしまうと、なんといってもイイのはクレアの弟クンである(クレア演じるマリサ・リビシと同じ名字のキャスト、ジョバンニ・リビシなのかなあ?だとしたらほんとに実弟?)。彼は22歳なのだけどもっと下に見えるどこかオタクっぽい風貌の青二才で、27歳の(29歳だったかな)ナイスバディな美女、ジェンにホレている。一方のジェンはそんな彼を相手にもせず、いいかげんで頼りない恋人に付き添い続ける……。この弟クンはただのマザコンボーイかと思いきや、実はこういうジェンの優しさや女らしさをちゃんと見抜いてホレているところが泣かせるんで、彼は男を見る目がない姉のクレアのこともいつも心配しているのだ。実際、クレアが連れてきた恋人、チャドを一目見ただけでコイツがロクデナシだと見抜いたくらいなのだから(しかも自分はヨッパラってたのに)洞察力は確かなのだ。しかし、彼はエイプリルのことだけは正しく見抜けなかった。実際親友であるクレアも、そして観客である私たちも見抜けなかったくらいなのだから。

エイプリルは一見して、いやずっと見続けていても、セックスはセックスと割り切っていて、愛情なんて信じていないタイプに思える。相手が“男”ならば親友の恋人だろうと何だろうとお構いなしに寝てしまうような。しかし実際彼女ほど本当の愛情の意味と、それがセックスとは違う地平にあるということを知っている人はいないのだ。彼女はだからこそ一見彼女には不釣り合いのようなマジメな恋人を愛し、彼もまたどこかで彼女のそうしたところを感じていたからこそ(かの弟クンのように明確に見抜いていたわけではないにしても)彼女を愛し、真実の愛情を確かめ合ったのだ。

エイプリルの信条は“セックスと愛情は別物”ということなのかもしれない。これはいささか男性的な感覚だけれど一方では確かに真実かも、と思わせる説得力がある。彼女は恋人とのセックスですらサッサと済ませてしまい「俺はまだイッてないよ……」「また次の機会があるわよ」てな調子なんである。エイプリルはとにかく恋人と一緒にいたいという気持ちを大切にするタイプなのだろう。セックスという明確に見える形よりも。その表し方がいささか極端に過ぎるのだけれど、そういう意味で彼女はずいぶんとオトナなのだ。

一方でセックスは愛情のあらわれだと信じて疑わないクレアの恋は破れてしまう。彼女の気持ちはとても良く判るし、実際そう思いたいし、ある部分では真実なのだとも思うけれど、それは多分に女性的な感覚であることも事実。彼女を引っ掛けるチャドは(その時にはクレア同様そんな風には思わなかったけど後から思えばカルいナンパでしかないよな、やっぱり)「ファック(fuck)ではなく愛し合いたい(meke love)んだ」などと、そんなクレアのような女の子を喜ばせるような台詞を言ってのける。……そうだ、この台詞こそ、ファックしたがる男のていのいいイイワケでしかないということに何故気づかなかったのだろう。うーん、やはり女性はみなどちらかというとクレアよりなんだろうな。エイプリルならば、こんな台詞が空っぽだってことくらいすぐ見抜いただろうに。

エイプリルはクレアがつきあっている男がチャドという名前だと知ると「チャドって男にロクな奴はいないのよ」と喝破する。ありゃ、こりゃひょっとして……と思っていると案の定、エイプリルとチャドは過去ゆきずりのセックスをした仲。エイプリルはクレアに嫌われるのを恐れて、なかなかそれを言い出せない。しかし隠していたことで嫌われるのもイヤだと、ようやくクレアに告白する。同じことがエイプリルが恋人への腹いせにチャドと寝てしまった時にもう一度繰り返される。エイプリルはセックスがただのセックスでしかないことを知っている(というかそれが信条)から、そんなことで親友のクレアを失いたくないのだ。でも一方のクレアは必要以上に(でもこっちの感覚の方がフツーなんだけどね)セックスの意味に固執し、エイプリルを拒んでしまう。「ただ、セックスだけ(just sex)」とは「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」でもあったけど、あれも同じく女同士の仲を決裂させてしまっていた。

この時点ではどちらかというとクレアの方に肩入れしているから、エイプリルの言い分にはなかなか共感できないのだけれど、クレアが忠言したことでエイプリルから一度は離れてしまった彼女の恋人が彼女の真摯な告白を聞いてヨリを戻すエピソードと、チャドに裏切られたクレアがBB弾で彼を襲い、フラれ、荒れてついには彼の家に火をつけてしまうというクライマックスに至って考えが改まる。ああ、エイプリルの方がクレアのように見たくないものには目を閉ざすオトメチックな女の子とは違って、ずっといろんなことが見えていて、それ故に傷つきやすく、ワイルドな格好で武装してるんだ、と思っていとおしくなってしまうのだ。男のセックスの意識が女とは違うということも……彼女だって多分もともとはクレア的な考えでいたのだろうけれど、それが判ってしまったから考えをシフトしたんだろうな、なんて思ったりして。

でもだからといってクレアがイヤな女だと思うわけではない。クレアは実はエイプリルよりずっと強い女。傷つくのも早いけどそれに感情を爆発させて、立ち直るのも早い。そこがキュートなのだ。放火のエピソードも、このクズ男、チャドに対してはよくぞやった!いい気味だ!と思うくらいだし。そして顔中すすだらけにして疾走する彼女の姿が冒頭に戻るわけだ。天使の格好をしているのは、その夜がハロウィンだったから。 “赤毛で真っ白な肌の彼女はすぐ声をかけられる”というチャドでの例に違わず、彼女は放火犯を探してパトロールしている警官に疑われもせず(多分)好意的に声をかけられ、まんざらでもない顔をして助手席に乗り込む。ほんと立ち直り早いんだよなー。でもそれがイヤミじゃない。それの代償の様に彼女は毎回深く傷ついているのだろうから。いや、傷ついているつもりでいるだけなのかもしれないけど、どちらにしても彼女のそうした素直な愚かさが愛しいのだ。そうやって繰り返すうちにきっと運命の人が現れてくれるだろう。こうした彼女のみじめさも愚かさも愛してくれる誰かが。

脚本はこのクレアを演じるマリサ・リビシ自身だという。そしてエイプリル役のジュリエットと実際にも幼なじみで仲良しなのだと。才能のあるいい友達関係だなあ、うらやましい。彼女初めて観たけど今回のクレアにぴったりな小柄&赤毛&白い肌のファンタジックな風貌といい、脚本の(しかもオリジナル脚本でしょう?)腕といい、力みのない、素敵な女性の才能が出てきてくれて実に楽しみ。★★★☆☆


サルサ!SALSA
1999年 100分 フランス=スペイン カラー
監督:ジョイス・シャルマン・ブニュエル 脚本:ジョイス・シャルマン・ブニュエル/ジャン=クロード・カリエール
撮影: 音楽:グルーポ・シエラ・マエストラ
出演:ヴァンサン・ルクール/クリスティアンヌ・グゥ/カトリーヌ・サミー/ロラン・ブランシュ/ミシェル・オーモン

2000/8/29/火 劇場(シネスイッチ銀座)
正統派美形フランス男優がしかもクラシックピアニストという、おフラーンスな雰囲気からスタートしてあっという間にサルサの情熱的な雰囲気に包まれてしまう、およそフランス映画らしからぬ大味でコミカルな展開に思わずアゼンとしながらも、ううッ、やはりこの音楽の魅力には勝てないわぁー、とすっかり心奪われてしまう。音楽自体は魅力的だったけど今一つのめり込めなかった「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」とは違って、素直に楽しめるというか。キューバは確かに苦難の過去を持った国だし、このサルサ音楽にしたって、そうした時代の機微を反映しているわけだけど、この陽気さと哀愁の絶妙ブレンドは、こうした大仰なフィクショナルな展開の方が似合うんではなかろうかと思う部分もあって。実際本作でもそうしたキューバの国の厳しさに触れていないわけではないのだけど、そんなことどうだっていいやと思わせるほど、サルサのリズムは魔法のようにすべてを溶かしてしまう。

白い肌を黒く塗ったり日焼けサロンで焼いたりして、(はっきり言って)アヤしいキューバ人男性に変装するというのは、ほんとおよそフランス映画らしからぬ展開。しかも、ヒロインとラブラブの気分が盛り上がって、いざ!という時に、日焼けしすぎて火ぶくれになっているのを発見されて慌てふためく場面など、これはハリウッドのコメディではないかと思うほど。展開もキャラもサッパリと判りやすく、ネッチリモッチリしたフランス映画特有の世界はここでは皆無。40年前引き裂かれてから、ずっと互いに思い続けていたサルサの老作曲家とヒロインの祖母とのエピソードも素敵ではあるが、あっさりヨメる。フランス映画はハリウッド熱に侵されない最後の砦だと思っていたけれど、ナカナカそういう訳にもいかないらしい。

無意識のうちに自らの中に流れるキューバの血を感じていくヒロイン、ナタリーと、純フランス産ながらサルサへの憧れから外見から作り上げる主人公、レミ。“男のセクシーはかくあるべきもの”とでもいったような、レミのキューバ人姿は、しかしフェイク感でいっぱいである。ナリキリ状態で歯の浮く台詞を言うあたりもアヤシく、正直言ってナタリーがこの状態のレミにホレるのは不思議なのだけど。だってなんたって本当に彼女にはキューバ人の血が流れているわけなんだから、こんなウソッコキューバ人に参られちゃあ、困っちゃうなあ。まあでもしかし、レミのサルサへの情熱が、その内からにじみ出ていた、ということにしておこうか。

確かにこのレミのサルサのピアノ演奏シーンは素晴らしかった。多分吹替えだろうけど、冒頭、ピアノコンクールでもうダメ!とばかりに、ショパンからサルサを情熱的に弾くシーンから、演じるヴァンサン・ルクールも存分にハジけている。キューバ人男性としてピアノを弾く場面よりも、この冒頭と白く戻った本当のレミとして、そしてサルサを愛する一人の人間としてキューバに受け入れられたラストの演奏シーンの彼の方がずっと魅力的。演奏シーンでなくても、やっぱり彼はその本来の姿の方がずっとチャーミングだ。ナタリーに正体を見破られてとりあえず日焼けした肌はそのままだけど髪の色を戻して彼女の前におずおずと現れるレミは、ちょっとオッと思うほど可愛らしかったし。

ナタリーは冒頭、サエない事務員として登場、その彼女が小さい時に祖母から習ったサルサダンスに再び出会って光り輝いていく。地味な女性が情熱的に変貌していくという展開もかなり陳腐だけど、冒頭の地味だった彼女の描写があまりにもチョイで、どうして彼女がそんな風に姿も心も極端に押し込められていたのかも、疑問。ただ単に、変身していく彼女との対比でそうしたとしか思えない。クラブでモンゴ(レミ)に手を引かれるままフロアに出た彼女が、肩をゆすって胸をプルプルいわせて踊り出すのには、彼女の婚約者ならずともビックリしたけど。

これはひょっとしたらミュージカルの舞台にしたらイイかもしれない。ナマのサルサミュージックとサルサダンスをこの目で見て、会場全体が踊り出すような、そんなところに遭遇してみたい。★★★☆☆


ざわざわ下北沢
2000年 105分 日本 カラー
監督:市川準 脚本:佐藤信介
撮影:蔦井孝洋 音楽:清水一登&れいち
出演:北川智子 小澤征悦 原田芳雄 りりィ イングリット・フジ子・ヘミング 渡辺謙 柄本明 角替和枝 樹木希林 岸部一徳 松重豊 永澤俊矢 鈴木京香 豊川悦司 広末涼子 田中麗奈 テリー伊藤 田中裕子 有吉康平

2000/7/11/火 劇場(シネマ下北沢)
昨年新しく出来た小さな映画館、シネマ下北沢発信の、地元密着型映画。この映画館は、本当に本当に小さくて、出かける時にはいつも、席があるかなあ、と心配になるほどなのだが、その可愛らしさと、新しいのにしっくりくるような手触りで落ち着く、お気に入りの映画館なのだ。その映画館が企画し、市川監督が演出するという、まさにドンピシャな作品に私の心は躍っていた。

タイトルどおり、街を行き交う人々のざわざわが常に溢れている。ストーリーとは関係ない部分で、そうした人々の楽しげな様子やざわめきを丁寧に拾いながら進んでいく本作は、ちょっとしたドキュメンタリー風でもある。小さな路地に小さなお店がひしめき合い、小さな宝物のような雑貨がうずたかく積まれているような街。東京なのに、東京じゃないような、せまくて人が多いのになぜかくつろげるような下北沢の魅力的な雰囲気がそこここから感じられる。

主人公の少女、有希(北川智子)とその恋人の達也(小澤征悦)の関係が緩やかに変化していく様を軸に、実にさまざまな人たちの人間関係が活写されていく。私、市川準監督とは絶対少女の趣味が合うんだわあ!この北川智子といい、粟田麗といい、池脇千鶴といい、(少女ではないけれど)安部聡子や田中好子といい。そういえば、市川作品には必ず顔を出していた大お気に入りの安部さんは今回顔を出していなくて(ですよね?)残念。でもそれを補ってあまりあるほどに、この豪華すぎるキャストのメンメンはどうだ!重要な役の原田芳雄やりりィ、岸部一徳などはもちろんのこと、ほとんどチョイ出演の人たちを思いつくままに並べてみても、……柄本明、平田満、田中麗奈、広末涼子、豊川悦司、田中好子、唯野未歩子、鈴木京香、渡辺謙……エトセトラエトセトラ、もうめまいがするほど!

特に豊川氏と涼子ちゃんは嬉しかったなあ。豊川氏は原田芳雄扮する舞台俳優、九四郎のいる劇場(ザ・スズナリ)に自分が脚本を書いた芝居のチラシを置きに来る青年の役。顔は全く映らない引きの場面なのに、その独特の身体の線で一発で彼と判る。「君は作家より俳優の方が似合ってる」と九四郎に言われるという役どころ。原田芳雄と豊川氏の顔合わせというだけでもワクワクするではないか!そして涼子ちゃん。有希とフジ子おばさん(ピアニストのイングリット・フジ子・ヘミング。雰囲気満点!)が立ち寄るフリーマーケットを出店している若い女性。フジ子が手に取ったアンティークなスタンドを、「いいんです。100円で。哀しい思い出があるから、100円で引き取ってもらうんです」と言って勧める彼女。フジ子は「それなら、カンパね」と1000円でそれを買う。涼子ちゃん、一貫して横顔だけなのに、やっぱりたまらなくキュートなんだよなあ。この豊川氏と涼子ちゃんがいつか市川作品に出ることを夢想しつつ(共演だったらなおさら!!!)一人ニヤニヤしてしまうのであった。

物語は有希の弟のナレーションで進行していく。映画製作に没頭しているというこの弟くんは後半にならないと登場しないので、私は最初、達也役の小澤征悦が弟なのかと思って、ずいぶんとフケた弟だなあ、などと思っていた(笑)。小澤征悦、「豚の報い」以来のスクリーンでのお目見え。劇中での設定の、仕事にも恋愛にもフラフラしてるようにはとても見えない骨太な感じが相変わらず印象的だ。今の若い男性は総じてきゃしゃなので、こういう青年はとんと見かけなくなった。有希役の北川智子のアナログな感じの少女ぶり(ニットのカーディガンにソックス!)といい、普通そうで普通ではない、好印象なカップルである。しかし、この達也はスナックのママ(鈴木京香!)とただならぬ関係らしく、有希との関係も丁寧にフォローしない、結構ワルい奴。

実にカジュアルに、しかしクールにピアノを弾きまくるフジ子おばさんがなんといってもカッコ良すぎる!そのフジ子おばさんの家が居心地が良いのか、いりびたっている有希。おばさんの老猫とたわむれ、昔の話を聞き、穏やかな時をすごす。達也との関係に思い悩んでいる有希の安らぎの場所だ。

有希は「駅に貼りついているような」アンティークの小物を置いている小さなカフェ、karrassでアルバイトをしている。そこのママ(りりィ)と同士的な関係の常連客、九四郎。そのカフェは古くて席間が狭くてまさしく下北沢の街そのままにひしめき合ってざわめきあっているのだけれど、とてつもなく居心地が良さそうだ。下北沢といえば思い浮かぶイメージのひとつ、JAZZの生演奏が聴けたりして……あの強烈な印象のジャズボーカリスト!

その店で有希がもらった、小さな犬の置物が、下北沢中の人々の手に渡っていく。ある女性は、これは下北沢に祭られている天狗だといい、いつしかこの置物は幸運を呼ぶおまもりとなっていく。映画のラスト、このぬるま湯のような(それは心地いいというポジティブな意味でもあり、抜け出せないというネガティブな意味でもある)下北沢から出て行く決心をした有希の手に、再びこの置物が、たくさんの幸福な意味を込められて戻ってくる。ちょっと哀しそうな顔をしていた有希が、この置物が大きく成長(?)して戻ってきたのを見て、実に嬉しそうな笑顔になるのが印象的。

さまざまな人々のさまざまなエピソードの中で一番お気に入りだったのは、清掃員のアルバイトの最中、無垢な小学生の女の子に恋してしまった青年の話。「汚れない目なんだよ、こう、キラキラしててさ」と友達にうっとりと話すこの青年、実に実に個性的な顔立ちをしてて、この女の子を見て嬉しげに微笑むそのアップには思わず苦笑してしまうほど。彼がバイトしているビル(ホテル?)の一階エントランスに展示されている絵を見に、その女の子はやってくる。どうやらその子が画いた絵らしい……という設定のその絵、指絵アートの、できやよいさんのあの大作ではないか!うーん、確かにこの下北沢映画にしっくりハマッている感じ。

この女の子が事故でけがをし、青年は一念発起してお見舞いに訪れる。病室でどこか恥ずかしげに会話する彼と彼女。その後の顛末は描かれないけれど、このままほのぼのと淡い関係を続けていって欲しいなあ、と思わせる雰囲気。

こんな風にエピソードをさまざまに撒き散らしながら、しかしそのまとめ方といったら、スゴかった。なんと突然駅前から温泉が噴き出すんである!その時に、ナゾの男(渡辺謙)を追いかけて九四郎と刑事(岸部一徳)が街中を全力疾走中。次第に誰が誰を追いかけているのか判らなくなるありさま。そんな中、突然スゴい勢いで噴き上がる温泉!!追いかけている人も追いかけられている人も、まわりの野次馬もすっかりぼーぜんと、そして次第に笑顔でいっぱいになってこの温泉を見上げるのだ。有希は「温泉の様にいつまでもつかっていたくなる下北沢」をネガティブな意味としてとらえてこの街を出て行く決心をするのだけど、でもやはりそれこそが下北沢の街の魅力なんだよ、と実に実に具体的に象徴するようなクライマックス。そして駅前温泉(笑)の誕生である。

市川監督の映画を観ていると、東京が好きになれる。東京は住む場所じゃないという考えがひっくり返されて、東京こそ住みつく場所だと思えてくる。市川作品は優しい語り口の映画なのに、そう思わせてしまう力は凄い。★★★★☆


三代の盃
1962年 87分 日本 カラー
監督:森一生 脚本:吉田哲郎
撮影:本多省三 音楽:斎藤一郎
出演:勝新太郎 小山明子 水谷良重 真城千登世 毛利郁子 丹波又三郎 三田村元

2000/5/30/火 劇場(新宿昭和館)
なんという若い勝新!ひげなんて生えそうもないつるんとしたお肌に黒いビー玉みたいなお目々、眉の間にも力が入ってない……てっきり20代の頃かと思ったら、しっかり30超えてる頃だなんて……うそお!

しかもこれ、築地と銀座の話ではないか!まッ、築地といっても河岸じゃないし、この時代設定じゃ河岸もまだ築地じゃないけどさ。築地伊三郎一家の三下(という言葉は初めて聞いた。一番身分の下のものの意なんだそうで)の政吉(勝新太郎)は、早く親分の盃をもらいたいと、もんもんと過ごす日々。そんなある日、新興勢力の銀座仁右衛門一家がやりたい放題、町民を苦しめているのに憤って喧嘩を売りにいくも、適当にあしらわれてしまう。彼の素質を密かに評価している親分は、彼を旅修行に行かせ、世間の荒波にもまれさせて一人前になって帰ってきたら盃をやることを約束、かくして政吉は母親や恋人(ストイックな関係なんだよなー、それがイイんだ)と別れを告げて旅へと出発。

ほんとに今更ながらなんだけど、仁侠映画の“旅の者”ってこういう意味合いがあったということなのね……なんで、軒下で仁義きって寄ってくる旅のヤクザさんがよく出てくるのか知らなかったもんだから。まあ、こういう旅以外の旅もあるんだろうけど。さてさて、この旅の間に、政吉は二つのヤクザの抗争に町民が苦しんでいるのを見かねて体を張って(指つめちゃった……)止めたりして、着実に男をあげていく。この場面では、双方のヤクザたち、丘の上からも下からも見守る民たちと、モブの迫力が圧倒的。しかしそのモブの中で、そのモブを従えるようにして輝く勝新はさすがのスターのオーラ。

仁右衛門一家との一触即発を聞きつけて、旅から戻ってきた政吉。旅に出発した時の尻っぱしょりのいでたちとは違い、渋い金茶の着物に羽織を合わせた、堂々たる“一人前の男”のいでたち。思えば登場シーンで20代そこそこの青二才の若造に見えたのは正解だったんだわ。だってここでは、ちゃんと実年齢そのままのしっかりした男に見えるんだもん。最初の姿とのギャップのせいもあるけど、ちょっとドキッとするほど男前。そして政吉は盃を受け、「自分に任せて欲しい」と任右衛門一家の元へと単身乗り込むんである。

その任右衛門一家のボス三人組は、“新興の銀座のヤクザ”ってのがわっかりやすすぎるほどに、洒落たテーブルに高めの椅子、ワイン(?)なんか傾けちゃって、鼻につくキザ野郎なヤツら。コイツらの元に、旅で身につけた話し合いのやり方で紳士らしくコトを収めようと、政吉がやってくる。ピストルを突きつけられても泰然として話を進める政吉だが、任侠道もわからんヤボなコイツら相手じゃ話がちっとも進まない。そんなこんなしている時に、政吉も信頼を寄せるこの一帯の古株親分が、間に入り、丸く治めてくれようとする。いったんは上手くいきそうになるも、この汚いやつら、お約束どおりに闇討ちでこの親分を殺害、政吉はついにドスをその手に握ることになり……。

政吉の恋人のオヤジさんが、今はしがない町人ながら、もと武士で、常に誇り高き心持ちを忘れないでいる、そして政吉は任侠道と侍道は通じるものだ、と語る。その義侠心と対照的な新興ヤクザの無粋なふるまい。思えばこうした新興ヤクザの、“オレさま”な、ギブ&テイクですらない、テイク&テイクな態度は、そうした自らの文化をあっさり捨て去ってきた日本人の姿にそのまま重なってくる。そして残念なことにそれはどんどん悪くなる一方だ。

政吉はほとぼりが冷めるまで身を隠すように勧める親分に首をふって盃も返し、自首することを決意する。待機している警官に捕まるヤクザはよく観るけど、自首するヤクザは初めて観る気がする。自分の罪をまっすぐに見つめて逃げない政吉はやっぱりイイ男だ!★★★☆☆


三文役者
2000年 126分 日本 カラー
監督:新藤兼人 脚本:新藤兼人
撮影:三宅義行 音楽:林光
出演:竹中直人 荻野目慶子 吉田日出子 乙羽信子 波乃久里子 二木てるみ 倍賞美津子 塩野谷正幸 川上麻衣子 原田大二郎 大杉漣 田口トモロヲ 真野きりな 絵沢萠子 六平直政 上田耕一 木場勝巳 原ひさ子 松重豊

2000/12/8/金 劇場(テアトル新宿)
私なぞはほんと恥ずかしいんだけど不勉強だから、この殿山泰司という人をきちんと認識してなくって……劇中に次々出てくる作品も未見のものが多いし。でも、例え彼のことを全然知らなくったって、この作品はとても楽しめるように出来ている。もちろん、知っている方がいろいろと感慨深いのだろうけど。新藤兼人監督の、彼に対する愛情がとってもふかーく感じられてね。そして妻である乙羽信子に対する愛情もね。1994年に亡くなった乙羽信子が2000年の映画に出ているというのは実に不思議なんだけど、そう、カメラテストのつもりで撮っておいた、殿山泰司の思い出話が、ここに使われているわけだが、カメラテストとはいえ、きちんと本番通りにやったというだけあって、乙羽さんの語り口調も愛情深く、ナレーションのような役割であるのに、殿山泰司役の竹中直人とまるで掛け合い漫才みたいで楽しいんだもの。殿山泰司をタイちゃん、乙羽信子のことを“乙羽さん”と呼ぶ新藤監督の、二人に対する愛情がとっても感じられてなんだか幸せになってしまうのであった。

それにしても、あれやね。“三文役者”と自らを評した脇役役者の人生であるからこそ、それが主役になった時にはこんなに面白いんだね。たとえばこれがさ、三船敏郎の人生の映画なんて、観たいとは思わないし……それなりに事実は流布してるしね。酒と女に滅法弱い、人生そのまま漫才みたいな喜劇的な人生は、もちろん新藤監督が湿っぽくならないようにと演出したせいもあるのだろうけれどとってもにぎにぎしくって楽しい。

女好きゆえだからか、それとも優しさが裏目に出てしまうせいなのか、結局最後まで“鎌倉の本妻”と“赤坂の側近”の二人の妻を持つことになってしまうタイちゃんは、その上に浮気までし(その一人は真野きりな扮する“マリリン・モンロー”!)、もう事態はしっちゃかめっちゃか。でも、憎めないんだよなあ。演じる竹中直人は、ともするとただのそっくりさんショーになるところを、モノマネ部分は適度にして(でもその喋りの特徴のとらえ方はやっぱり可笑しい)、とは言え確かに殆どコントノリで明るく演じているのだけれど、これが不思議とただのお笑いになっていなくって、ちゃんと演技で。竹中直人って、素?ではなんかやたらテレまくって素ですでにオーバーアクトのような人なのに、こと演技となると、オーバーアクトのように見えてオーバーアクトではないという、独特の演者で、やっぱり上手いんだな。

二人の妻が、これまた最高なんだ!タイちゃんが惚れまくっておしまくってモノにした、“赤坂の側近”キミエを演じる荻野目慶子は、10代を演じる最初から殆ど違和感がなく(実際の年を知ってるのにそう感じさせる……スゴい!)タイちゃんの浮気に再三青筋を立て、“鎌倉の本妻”の存在に最後まで嫉妬し、それでもタイちゃんが好きで好きで好きで、やっぱり離れられない可愛い女を、かなりあらわなカッコも辞せずして、なりふりかまわず演じてる。そのなりふりかまわず加減が、なあんか、可愛いんだよねー。しかしさ、全裸になった時に思ったんだけど、そう、こういうカッコすると如実に判るんだけど、女優さんって、ヤセすぎだよなー。なんか、痛々しいわ。

そして“鎌倉の本妻”アサ子の吉田日出子!もう彼女がサイコー!「離婚してくださいって、私たち、結婚してないでしょ」と切り返す登場場面から、「婚姻届、出しといたから」「養子、もらったから」と次々とタイちゃんをドン底に突き落とすんだけど、これがミョーに、ほんとにミョーに可愛らしいのだ。この吉田日出子、この人にしか出せない、この独特の飄々感がとにかくサイコーで、タイちゃんやキミエにとっては恐るべき存在であるにもかかわらず、これほどチャーミングな人もいないであろうという……。それに、そう、タイちゃんやキミエにしたって、実際彼女の存在が疎ましいものだけではなかったというのを表現するのに、これだけの適材はいないであろう。

キミエにとっては、もちろんさっさと別れて欲しいライバルではあるものの、タイちゃんという自分にとって世界一の男性を、同じように評価している女性なのだから、どこかに同志的な思いもあったんではないか。それに何より、彼女より絶対自分が愛しているんだという強固な意志を固め続けるための、自分の存在理由、存在意義を成立させている欠くべからざる人間であり。そしてタイちゃんは、そう、この人はどこか自虐的というか、マゾ的な部分があるんじゃないかという、好きな女で苦しめられたいっていう……それに“自分と別れない”女に対してむげになれないというヘンテコな優しさがあって、そこがまた愛すべきトコロなのだ。

しがない役者稼業が、でも大好きでたまらないタイちゃんの、キミエに語って聞かせる撮影風景は、低予算に苦しめられながらも、いい作品を作ろうとふんばっていた「近代映画協会」の創世時代を伝える記録映画の側面をも持っている。プレハブを立てての晴れ待ちで、暑さと湿気でうだりながらチンチロリンなんぞをやっている役者たち、しかしタイちゃんは、海岸で流木を拾い、湿って火がつかないのに焚き火をしようとしていたり、雨の中つれない沼に釣り糸を垂らしたりしている監督が気になって気になって、あの監督の姿には、なにか意味があるのではないか、なんてぶって、一向に気にしない役者仲間とケンカをおっぱじめる始末である。タイちゃんのロマンティックな想像もちょいと可笑しいけど、でも、なんとなくその気持ちも判る気がして。帽子を目深にかぶって顔を見せずに(そして時には“監督”とか“かんとく”とかっていう墨文字の張り紙で(笑))あくまでタイちゃんにとってのイミシンな行動をとる監督が、ああ、なんか、映画がいい時代だった頃の監督の、あるひとつのタイプだなあ、なんて気もしたりして。わかんないけど、なんか今の時代にはいないタイプのような気がするのだ。もちろん、タイちゃんのような役者も、だけど。

タイちゃんの重い肝硬変を知りながら「この人が行きたいって言うんだから」と、「あんたら、狂ってますよ」と医者から言われながらも、ヘヘヘと笑って送り出すキミエは、でもそういう意味でいつでも覚悟は出来てたのかもしれない。この時には、タイちゃん、酒もなーんにも置いてない僻地での撮影で逆に健康になっちまった、というのが笑えるのだが、晩年、仕事も少なくなり、ついに死の床に伏せってしまうタイちゃんに……まあ、それなりに年齢的にも全うした人生だったけど、そのタイちゃんに、いまだ恋人に対するように泣き崩れるキミエは、ああ、やっぱり彼女はタイちゃんのことが好きで好きで好きでたまらなかったんだなあ、って思って……。その場をキミエに任せ、敢えて姿を見せないアサ子の気遣いと愛情もたまらなく身にしみて。やっぱりイイ関係だったよね、この三人。

大杉漣、田口トモロヲのご両人がちゃんと“ハージー・カイテルズ”(スペル判らん)としてクレジットされているのがやたら可笑しくて、嬉しかったなあ。★★★★☆


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