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「さ」


1999年鑑賞作品

サイコ(98)/PSYCHO
1998年 104分 アメリカ カラー
監督:ガス・ヴァン・サント 脚本:ジョセフ・ステファーノ
撮影:クリストファー・ドイル 音楽:バーナード・ハーマン
出演:ヴィンス・ヴォーン/アン・ヘッシュ/ジュリアン・ムーア/ヴィゴ・モーテンセン/ウィリアム・H・メイシー


1999/9/14/火 劇場(丸の内シャンゼリゼ)
改めてオリジナルを復習はしていかなかったものの、「サイコ」はビデオも持ってるくらい好きな作品で何度か観ているから、いくらなんでも判るんである。なんだか、えらく似ている気がするなあ……と……音楽これ、ひょっとしたら同じじゃないの?セリフ(脚本)はもちろん、なんか、カメラワークとかも妙に似てる、シャワーから湯が吹き出すのをアップでとらえるところと、シャワーを浴びるマリオンが殺されるシーンのカット割りは絶対同じだ、と家に帰ってから急いでビデオで確認する。更に驚く。ほんとに同じなのだ。なんとまあ、オープニングクレジットのタイトル・デザインからそっくり同じに作られていて、音楽もおなじバーナード・ハーマンの同メロ、脚本はオリジナルを使っているらしく、持ち逃げする金額などの微妙な差異はあるもののほとんど同じ、街の全景からホテルの部屋にカメラがクローズアップしていく冒頭から始まって、どこのシーンも逐一、撮影時にオリジナルを観ながら撮影しただろうと言うくらい……いやそれ以前に詳細な絵コンテを用意したのかな、とにかく、本当に同じなのだ……何もかも!確信犯と言うにはあまりに無邪気すぎるほどに。いや、これを無邪気というのもあんまりだ。

一体、ガス・ヴァン・サント監督の意図は何なんだろう?どう改変してもオリジナルには勝てないと思ったのだろうか?それともオリジナルに敬意を表しているつもりなのだろうか?もうただ、似ている、同じだ、そっくりだと観ている最中はそればかり考えていたので、はなはだ点がつけづらい。でも明らかに違う点は確かにある。そしてそれが決定的なオリジナルとの差違となって大きく影響している。まず、カラーで撮られていること、それからマリオンとノーマンとサム(マリオンの恋人)のキャラクターの位置づけである(マリオンの妹ライラと私立探偵アーボガストは殆ど変わらず)。一言で言うと、三人とも俗っぽくなっている……うーん、品位が落ちていると言ったらいいかな、下品になったといったら言い過ぎだろうか。

まずマリオンを演じるアン・ヘッシュ、ブロンドのベリー・ショートがジーン・セバーグみたいでキュートだが、ピンクの超ミニのツーピースのいでたちには思わず??だ。だってこれで“10年も勤めていて信用できる女の子”というにはちょっと……オリジナルのマリオン(ジャネット・リー)が、冒頭の、男との逢い引きシーンがあっても、身持ちの軽い女には見えず、愛する男性のためにふとした出来心からの行動に見えたのは、彼女がぴりっとしたキャリア・ウーマンだったからであり、本作でのマリオンは、大金を見てそれだけであさはかな考えを起こした頭の悪い女にしか見えないんである。とても、“信用できる女の子”には見えない。そしてその恋人であるサム、オリジナルでは彼女を本当に愛していて、彼女の行方が判らなくなった時、真剣に心配していた。なのに本作でのサムは、姉の行方をたずねてきたライラに色目を使い、肩にやった手をライラに外されるようなざまを見せる。でもまあこれなら“二人で共謀した”とライラに疑われるのもむべなるかなのキャラなのだが。

しかし、まあこの二人はどうでもいい。問題はノーマン・ベイツだ。はっきり言って、ヴィンス・ヴォーンがノーマンをやると知った時から、危惧を抱いていたことがそのまま出てしまった。彼のあの独特の笑いは別に役作りではなかったのね……「ムーンライト・ドライブ」の時とおんなじだもん。もうね、ヴィンス・ヴォーンだと殺人くらい平気でやりそうだし、女に欲情する自分を許せないなんてことは絶対に思わなそうなのだもの。最初っから不気味じゃあ、どうしようもないでしょ。鳥を剥製にするという、繊細かつ偏執狂的趣味も、彼じゃ絶対やらなさそう。鳥を撃ったら即、毛をむしって食べちゃいそうだもんね。も、本質からしてノーマンには不向きなのだよ。でもそれを演技力でカバーするというのなら別にいいけど、やっぱりその印象のままなんだもんなあ。彼はあんまり上手くない。例えば死体をつめた車を沼に沈める時に、車が一度静止してしまう時に見せる不安げな表情と、再び沈みはじめた時の安堵の笑み、そして二度目の死体を沈めた時湖畔に佇んでいる姿、オリジナルでは、前者ではその神経質な感じ、後者では何ともいいがたい不気味な怖さを漂わせていたのが、リメイク版ではそうしたものをまったく感じさせない……特に後者では“ただ立ってる”って感じだ。

オリジナルのノーマンを演じたアンソニー・パーキンスがいかに素晴らしかったか判る。それともヴィンス・ヴォーンがひどすぎるのかな。いや、観直すと、アンソニー・パーキンスはほんと素晴らしいのだよ。私が彼のファンだというひいき目を抜きにしたって。彼はこの「サイコ」でばかり語られがちだけど、やはり、上手い。圧倒的に上手い。「審判」(カフカの不条理劇で、オーソン・ウェルズ監督作だ!)なんかを観ればもっと判りやすく彼の上手さが判るけど、この「サイコ」でも決して彼のキャラクターだけの強印象ではなかったのさあ。

ああそうそう、本作でのノーマンね、マスターベーションするんだよお……も、やめてくれって感じ。あの、壁ののぞき穴からマリオンを凝視するシーンで、音と上半身の上下運動が加えられてんの。ノーマンが母親の人格になりきってしまって殺人を犯すのは、彼が女に惹かれる自分を許せない、罰するためという説明がラストの精神科医によって語られるわけだけど、それを判りやすくするためだとでもいうんだろうか……でもそうなら、そうでもしなきゃ、それを判らせることも出来ないV・ヴォーンの演技力のなさを露呈することにならないか?それに、これは絶対逆効果だよ、これじゃ、ますます彼が母親に依存しているママっ子だなんて全然思えないもん。正直言ってマスターベーションしてるのからして違和感あるけど。V・ヴォーンならもうそのまま部屋に押し入って彼女を押し倒してそうだもんなあ。

ああそれにしてもそれにしても、やっぱりアンソニー・パーキンスは良かったんだなあ。彼の秒刻みで変化するような神経質な表情の変化は、それだけで彼の異様さを際立たせて怖かったし、クライマックス、グレーのウィッグをつけて凄い笑い顔でナイフを振りかざす姿のテンパりかたは尋常じゃなく、何度見ても恐ろしく怖い(V・ヴォーンは全然怖くないんだな……もう少し気合いれろよ……)。すっかり母親の人格になってしまって、最後に見せる笑顔がガイコツと重なり合うラスト前シーンも、V・ヴォーンだとただ不敵な笑顔にしか見えないのが、A・パーキンスだとこれほどまでに戦慄を感じさせるのは一体何の違いからくるんだろう、やっぱり演技力かしらん。

そう、オリジナルを観た時にはあんなに怖くて面白かったのに、本作が面白くないのは、ネタバレしているせいなのかなあ、と思いつつ、オリジナルを観直すと、やっぱり怖いし、面白いのだよね。アンソニー・パーキンス讃歌ばかりしてしまったけれど、なんだかそれだけじゃない気がする。前述したキャラ設定の変化もそうだし、コントラストのはっきりしたモノクロ画面がただならぬ恐怖を演出していたのに対して、カラーである本作は、撮影があのクリストファー・ドイルだけど、特に彼らしさを感じることもなく……いやまあ、暴走してないだけで、やっぱりこの手練はドイルかなあ……カラー画面は特に恐怖に関する面でいえば引き下げられてしまった感じが否めない。尺もほんの数分しか違わないのに、間のびしているとまでは思わないにしても、オリジナルにあるキビキビした印象が失われているのはなぜだろう……(同時に比べて観たらどうなるのかなあ……やってみたい)。おんなじ所はおんなじ印象しか受けないし、違うところは品位失墜といった感じ。ああもう、最初は★★☆☆☆にしようかと思ったけど、書いてるうちに、やっぱダメだあ、これ。★☆☆☆☆


催眠
1999年 105分 日本 カラー
監督:落合正幸 脚本:落合正幸 福田靖
撮影:藤石修 音楽:
出演:稲垣吾郎 菅野美穂 宇津井健 升毅 渡辺由紀 小木茂光 佐戸井けん太 白井晃 中丸忠雄 大杉漣

1999/6/29/火/劇場(日劇東宝)
まあ、予測はしていたけど、この映画の魅力は菅野美穂に尽きるわけで。彼女、ふと気づくとホラームービークイーンに君臨している感があるのだな。こと映画に関しては、総てがホラームービーではないだろうか……「エコエコアザラク」しかり、「富江」しかり。それも、共通しているのは、彼女が出てくると場を完全にさらってしまうということで、他に主人公がいた場合、その人はすっかり食われちゃうのだ。「エコエコ……」の吉野公佳も「富江」の中村麻美もそう。ここでは稲垣吾郎氏がそのえじきになっている。テレビドラマなどの現実設定の役でも、演技法としてはテンションの高いタイプの彼女は、富田靖子と似たタイプで、ゆくゆくは大竹しのぶクラスの女優になっていくに違いない!ある意味それは役者としては危険な部分も多くて、いわゆる他をたてる、引いた演技を要求される時に彼女がどう出るかはいまだ未知なのだけど……。これまでは主役を食うことを前提条件にしたようなキャラだったからいいけれど。それにしてもピンで主役をはった映画がいまだないのがちょっと信じられないなあ。今回はそうしたホラー的な演技の前に多重人格というキャラクター。それぞれのキャラがまったく別方向を向いていて、メイクや衣装的にも区別しやすく、やや単純にエンタテインメント寄りすぎるのがちょっと気になるが、そこは菅野美穂、しっかり魅せてくれる。それに多重人格のキャラって、演じやすそうに見えて、だからこそリアリティと凄みを持たせるのが難しい難役だと思うのだけど、これも彼女にまかせればなんてことはないのだ。

予測していたよりもなかなか面白かった。なんと「新幹線大爆破」以来の本格的映画出演だという宇津井健の、やもめの熱血刑事ぶりや、少々やおいっぽい匂いはするものの(若すぎるし)稲垣吾郎の心理カウンセラーは板についていたし。しかし稲垣氏、アップになると、美形なんだけど鼻だけがまるまっちいんだよね……。必死の演技の時も目だけが妙に涼しかったりして。最近脇演技でもチョイ悪ノリしすぎかなと思う大杉漣(壁のフックに額を刺して死ぬというのは彼自身のアイディアではないだろうか……)や、何とびっくり、冒頭自ら首を絞めて死んでしまう新郎役に堀部圭佑(しかもかなり入ってる……)、横柄な心理療法師に白井晃と、脇キャスト陣がなかなか楽しい。途中提示される、細かいストライプの中に絵が隠されているというのが、警察の大きなポスターの少女の瞳の中に、首吊りしている人の絵が潜んでいるという戦慄のラストにつながり、結構ぞくっとさせる……しかし、誰が何のために?

そう言えば、ずっとなんとなくだまされて(?)観続けちゃったけど、この“誰が、何のために?”という漠然とした疑問がずっとついてまわり、それはあいまいなまま終わってしまったような気がする……いや、だからこそコワイのかもしれないが。それに、催眠によって引き起こされたという解離性同一性障害(いわゆる多重人格症)についても、催眠の描写に重きを置いているせいか、中途半端に投げ出されてしまった感じがあるし。多重人格症をわずらった菅野美穂扮する由香を心配してついていく稲垣吾郎扮する嵯峨が、人格がチェンジした夜の女、リエコの方と寝てしまうのも無責任なら、それで「愛している」と言うのが由香の方だというのもさらに解せない。金属音がサインになって、過去の最悪の記憶を呼び覚ますことを発見した嵯峨と、婦人刑事である渡辺由紀が、宇津井健をシンバルが叩かれるクラシックコンサートから救い出すため車に乗って向かう途中、サインを聞いてしまった渡辺由紀がアクセルを踏み続けて事故を起こし、どの程度か判らないながらもケガをした彼女を残して嵯峨がホールに向かい、そのあと彼女がどうなったか何のフォローもない。劇中のキーワードとなるのは“ミドリの猿”これは最後に、由香の中に潜んでいるこの一連の催眠殺人の犯人が、自分の見たくない、醜い自分自身のことだと明かす。他の人たちは、自分の思い出したくない最悪の記憶を思い出して死んでいったけれど、最後に催眠にかけられてしまう嵯峨の場合は、自分の醜い顔(表情)が映し出されるだけで、何に苦悩して死を選ぼうとしたのか判らない。この辺もまたちょっと中途半端。……等々、細かいツッコミをいろいろ入れたくなるのが惜しい。

冒頭で、そして途中でも催眠とはオカルティックなものではなく、あくまで人の心の病気を治す科学技術であり、心理療法であるということがかなりしつこく説明されるのだけど、圧巻の菅野美穂のスーパーハイテンションの演技や、後半特に、(あまりにもあからさまで恐怖感も萎えてしまう)CGを多用したオカルティズムでそんなことはすっかり忘れてしまう。菅野美穂扮する由香が、この世間に流布している催眠=催眠術、そしてエンターテインメントとしての催眠術師に操られるさまを、そしてそれを観て笑っている観客を描写することで、誤った知識を広めている催眠術師の方よりも、そうした無責任な残酷性を内包している一般人達を告発しているのだろうけど、最後には私たちが普段イメージしている、催眠=催眠術……得体のしれない、恐ろしい感覚に逆戻りしてしまうのだ。これはネラったものなのかどうか……。

まあとにかく、菅野美穂に大喝采!というところでしょ、やっぱり。ほんと、彼女って天性のファム・ファタルだよなあ、ジュリエット・ビノシュの匂いすら感じる!★★★☆☆


サイモン・バーチSIMON BIRCH
1998年 113分 アメリカ カラー
監督:マーク・スティーヴン・ジョンソン 脚本:マーク・スティーヴン・ジョンソン
撮影:アーロン・E・シュナイダー 音楽:マーク・シャイマン
出演:イアン・マイケル・スミス/ジョゼフ・マッゼロ/アシュレイ・ジャッド/オリヴァー・プラット/デイヴィッド・ストラサーン/ダナ・アイヴィー/ジャン・フックス

1999/7/29/木 劇場(シネセゾン渋谷)
タイトルロールであるサイモン・バーチ(イアン・マイケル・スミス)がたった12歳で死んでしまうことは、冒頭でもう明らかにされてしまう。サイモンの親友であったジョー(ジョゼフ・マッゼロ)が大人になり(ジム・キャリー)、彼のお墓を訪れて、そこに生年と没年が記されているからである。そして時間はさかのぼり、私たちはサイモンの死まで刻まれる時間を、だからこそ特別な思いを持って見つめ続けることになる。

私は、人が死ぬ映画は、その死自体で泣かされることだけはイヤだと、構えて観る癖がある。死という概念だけで、哀しい色合いを持ってしまうし、その場面で泣きを誘うのはだからアンフェアだと思うからだ。まして、このサイモンが体が大きくならない病気で、心臓が小さく、(この時代の医学では)そう遠くない将来死んでしまうという運命だというならなおさらである。その設定に寄りかかって観客を泣かそうというのなら、断固泣いてやるもんかとますます持って意固地な姿勢で観てしまう。

でも、サイモンはその病気が原因で死んでしまうのでは、なかった。そして死それ自体で泣かすのでも、なかった。勿論サイモンが死ぬ場面では、ジョーとともに私たちは存分に涙を流してしまうのだけど(この場面のジョゼフ・マッゼロはマジ泣きだな)、それは哀しみの涙とはちょっと違うようなのだ。神様に召されるサイモン、とでもいった敬虔な気持ちがそこには充満しており、その特別な気分が付加されて、涙が出てしまう、といったような……。

人の死を上手く描くことの出来る映画は、優しい映画になる。例えば「ふたり」がそう。本作ではサイモンが死ぬ前に重要な人物が死んでしまう。ジョーの母親、レベッカ(アシュレイ・ジャッド)だ。ジョーを私生児として生み、親をはじめ司祭や教師からも疎まれているサイモンを慈しんでくれるただ一人の人物。コケティッシュでしかも天真爛漫で、ハッとするほど魅力的な笑顔の持ち主だ。しかし彼女はこともあろうにサイモンが打った野球のボールが頭に当たって死んでしまう。彼女が死んだ瞬間、ああ、彼女のあの奇跡的に美しい笑顔は、確かにこんな予感を孕んでいたかもしれない、と思う。その笑顔が永遠に記憶されるために、唐突に死んでしまったかのような……。

敬虔なサイモンは神様にはプランがあると、自分が小さな体なのは、自分にしか出来ないことを神様がお与えになるからだと確信している。しかし、彼にまず与えられるのは、こんな過酷な試練なのである。彼が泣きながら「ごめんなさい、僕を許して」(アイムソーリーをひたすら連発)とつぶやきながら夜の橋を渡っていく引きの場面、そしてレベッカのお墓にひざまずく場面は心揺さぶられずにはいられない。小さな体のサイモンがせいいっぱいの力を出して神様に訴えかけている、その神聖な空気に打たれてしまうのだ。宗教はちょっと間違うとひどく鼻につくものになってしまうが、本当に純粋で敬虔な信仰心は、これほど美しいものなのだと改めて気づかされる。それがこの映画の魅力なのだ。

自分のたった一人の親友である母親を心ならずも殺してしまったということでも、サイモンの苦悩は深いわけだけど、お互いにとって大切な人物をなくしてしまったということで、彼ら二人の結びつきは強くなりこそすれ、よそよそしくなるなんてことは決してない。ここがまた素晴らしい。演じるイアン・マイケル・スミスも、ジョゼフ・マッゼロもまさしくそんな運命の親友である二人を体現している。彼らが子供らしく遊びに興じるシーンにはのびのびとした明るさが満ちていて、サイモンの持つこまっしゃくれた、小さなインテリぶりがかもすユーモラスさが、ちょっとヒネた子供である(あくまでちょっと、だけど)ジョーの心をときほぐす。そして観客も、勿論。

サイモンを理解してくれる大人がもう一人いる。レベッカの最後の恋人で、演劇教師のベン(オリバー・プラット)。サイモンが彼を直感的に気に入ったおかげもあって、ジョーは彼が他の大人たちとは違うこと、自分の父親になりうる人物だということに気づく。ジョーの本当の父親は実は司祭なのだけど、この司祭(デビッド・ストラサーン)というのが無理解な大人を絵に描いたような人物で、後半ではサイモンがレベッカの死の原因になってしまったこともあってか、ことさらサイモンに辛くあたるのである。ジョーは母親が死んでしまった後、本当の父親探しに乗り出すのだけれど、この司祭が実父だと判って、逆に“本当の父親”という“本当の”意味を知る。ジョーはベンをその父親として選び、彼の養子になる。ベンを演じるオリバー・プラット、その個性的な顔立ちでどんな映画に出ても強い印象を残す彼だが、ここで見せる抑制的な演技がまた素晴らしい。

その前に、サイモンが“神様のプラン”を与えられる場面がやってくる。凍てついた冬のある日の、バス事故。道路に飛び出たシカをよけて軌道を外れたバスが、湖に突っ込んでしまう。パニックに陥る車内、ふと神の啓示を受けたように一人冷静に立ち返るサイモンが的確な指示をだし、ジョーが車内の子どもたちを次々に救助していく。しかしあと一人とサイモンを残すだけの段になって、それまでゆるやかに浸水していたバスが急に大きく沈み出す。その時には後ろを車で走っていたベンも駆けつけていて、ジョーと一緒に必死に二人を救い出そうとするのだが、見るからにもう手の施しようがない……と、と!そこに一人残されていたはずの子供が無事浮かび上がり、サイモンもまた小さな窓から脱出する。サイモンの体が小さかったことは勿論、彼がジョーといつも潜水ごっこをしていたことが功を奏したのだ。

しかし、サイモンはその冬の湖にずっと漬かっていたことが主たる原因だろう、死んでしまうのである。彼の病気が原因ではなくして(その小さな心臓ゆえに湖の冷たさに耐えられなかったとも考えられるけれど)、神様のプランを堂々果たして召されるサイモンは、だからこそ前述したように敬虔な空気に満ちており、その神聖さが心を打つのだ。冬、というシチュエイションも見逃せない。白い雪と凍てついた空気、湖の冷たさも、全てが汚れを浄化させる効果を持っている。冬の日の少年の死は、いつだってこんな風に冷たい美しさに満ちているのだ。ヘッセの「車輪の下」や、萩尾望都の「トーマの心臓」(敬虔な美しさ共通しているなあ)も、勿論映画でも「アイス・ストーム」や「ウィンター・ゲスト」(こちらは暗示)などなど。ここでのサイモンの死は、彼が陽光の下で、きらめく湖水で潜水に興じたり、ヘッポコ野球チームでプレイしたりするのが描かれていることが、より一層の哀切を放つ。

そして彼がこの結末を迎える前、クリスマスの演劇で幼きキリストに扮したことが、これまた感慨深げな事実として迫ってくる。しかしそれを思わせぶりに描くことなく、サイモンがマリア役の女の子の豊かな胸に欲情したことから劇がハチャメチャになってしまうというユーモラスな展開にしたところがまたなんとも魅力的なのである。この監督は宗教が持つ危うい魅力を熟知していて、説教くさくなったり、胡散臭くなったりする要素を丁寧に避けているのが判る。

サイモンが死ぬ場面をしんねりと描くあたりは、アメリカ映画的だなあと思ったりもしたけれど、それも私の、どこかつつく点をなんとか見つけてやろうというヒネクレ心のせいかもしれない。なんにせよ(私はもちろんキリスト教徒ではないけれど)キリスト教の、いや宗教の美しさを久々に感じることが出来る作品だった。メインテーマのメロディラインも忘れられない美しさ。★★★★☆


鮫肌男と桃尻女
1998年 107分 日本 カラー
監督:石井克人 脚本:石井克人
撮影:町田博 音楽:Dr.StrangeLove
出演:浅野忠信 小日向しえ 寺島進 岸辺一徳 鶴見辰吾 我修院達也 島田洋八

1999/2/12/金/劇場(シネセゾン渋谷)
某評論家さんがこれを大傑作だと(大、だよ)絶賛していたから、期待していたのに、そしてその意見に真っ向から反対していたやはり某評論家さんが「薄汚いし、オタク映画風だし……」などと言っていたから余計に興味がそそられちゃったのに、そういう部分ではなく、語りの散漫さに退屈してしまってガッカリ。タイトルバックなんてガーッとしたノイジーな音と画面で細かいカットを繰り返して惚れちゃうくらいカッコいいし、流れのそこここにオッと思わせるキッチュでスピーディーな場面があるのに、そこまでのつなぎが停滞してしまって、せっかく盛り上がったこっちの心の中の疾走感をいちいち停止してしまう。CM出身の監督さんということだが、そのせいでダッシュ力はあっても持続力に欠けるのか?

話の流れのせいもあるけど、キャラクターが多すぎて。公式HPを見ると、監督は思い入れたっぷりに全編にわたって絵コンテを描いたといい、キャラクターの一人一人に詳細な設定を施し、上映時間の長さの関係で涙を飲んで切らなくてはならないシーンがたくさんあったと語っているが、切るんならシーンよりもキャラクターを切っちゃった方が良かった。と言っても魅力の無いキャラクターがいるというのではなく、その反対で、一人一人もうちょっと見せて欲しい!と思わせるほど面白すぎるキャラクターがてんこ盛りなのに、みんなサワリどころか、うわっつらも横滑りしていくという感じであまりにももったいない。

その中で我修院達也(凄い名前だ若人あきら!)演じる山田クンひとり気を吐いていて、ずるいなあーと思ってしまうくらい。せっかく堀部圭亮氏が出ているのが嬉しくて、ああやっぱり、彼は個性的な監督に起用されるなあ!と一人悦に入っていたのに、彼の奇妙で不気味な可笑しさは常に画面の遠くの方で演じられていて、最後になってやっと見せ場を与えられたものの、本当に一瞬でオイー!と突っ込みたくなってしまうもの。それを言うなら一応大きく役を振られている鶴見辰吾もそうで、パツキンに白の革ジャンといういでたちで相当期待させたのに、いや期待に応えるキャラクター作りを彼はしていたと思うけど、その見せかたがすごく物足りないのだ。せっかくあんな突き抜けたキャラクターをしかも役者が全開で作り込んでいるんだから、もっとカメラ寄って寄って!と地団駄を踏みたくなる。これだったら、外見は別にフツーだった「極道懺悔録」のキレぶりの方がよっぽどよかったよなあ……。

寺島進も一人シリアスでカッコいいんだけど、本来なら彼以外のキレまくっている登場人物達がしっかり描き切れていれば寺島氏のカッコよさがもっと光っていたんだろうけど、なんせ中途半端なものだから、せっかくのカッコよさも今一つ空回りしてしまう。

それにしても山田クンは凄かった。彼は一人空回りしていても充分存在感があった。いや、空回りしているからこその存在感。鮫肌(浅野忠信)殺しを依頼したソネザキ(島田洋八!)に「また惚れたのか!」と言われるほど、男にすぐに惚れてしまう。鮫肌を殺そうと、トイレに入った彼をドアごしにマシンガン(?)でぶっ放す。しかし金属製のドアを通過することが出来なくて、中から出てきた鮫肌に胸倉をつかまれ、「お前は(殺しには)向いてねえよ」と言われ、あっさり「好き」と鮫肌に惚れちゃう単純さ。「歌を一曲歌ってから出て行け」と言われ“ドナドナ”(!)を歌うその歌声のオペラばりの可笑しさ!その後惚れた男の切ない目で鮫肌を追い回す山田クンがそこはかとなく可笑しい。鮫肌が国外逃亡をもくろんでかつての仲間のところへ行ったところへ追いかけてきて、ロングでとらえたその建物のドアが向いている道路のこちら側の川にむかって釣り糸を垂れている男を小さく画面の左側において、そこでその男と会話しながらさまざまにポーズを変えるなど、実に魅力的なシーンで、その前にもソネザキに殺しを依頼されるシーンで見られるコミカルなジャンプカットの連続など、山田クンのシーンだけはやたらに秀逸なのだ。

そうそうわれらが主人公、鮫肌に扮する浅野忠信はどうかというと、ところどころカッコいいんだけど、彼もまた多すぎるキャラクターに埋もれて気の毒。彼が山小屋に一人残されたトシコを救出に来るシーンでヒョイとトイレの窓から彼女を見つけ出すところなんかドキッとするほどカッコいいし、パンツいっちょの(ひわいな毛深さだ……)冒頭シーンから、タケオキクチのスーツにバリッと着替えた姿もさすがに目を引き付けるんだけど、それだけなんだよなあ……。一緒に逃げる桃尻トシコは、パスポートを用意してもらう鮫肌のかつての仲間のところで「着替えなさい!」と言われ、光るメイクにケバい服に変身して「キレイになったわ」と言われるんだけど、私の目にはすっぴんで色白の肌の、それ以前のトシコのほうが数段かわいいけどなあ……。

あっと、一つこれは最高に可笑しい場面があった!冒頭と、ラストでまた繰り返し描かれる郵便局襲撃の場面。ラストでそれが寺島氏であったことが明かされる、マスクをかぶった男が手に持ったテレコでアナウンスの女性の声を繰り返し繰り返し、キュルキュルと巻き戻しながら「お金をください、お金をください」「動かないでください、動かないでください」「もう少しください、もう少しください」「まだあるはずです、まだあるはずです」そして逃げる段になって、「ありがとうございました」と居合わせた人々に聞かせる、あれは秀逸、最高に可笑しかった!★★☆☆☆


ザ・ヤクザ〜炎の復讐〜
1999年 81分 日本 カラー
監督:大川俊道 脚本:大川俊道
撮影:デイル・マイロンド 音楽:ウィリアム・リクター
出演:竹内力 野村祐人 星野マヤ 二条永子 ジョージ・チャン マリオ・オピナート

1999/2/20/土 劇場(新宿昭和館)
これまた新宿昭和館で新作公開という珍しい作品。一応チラシはあるもののかなりヤッツケなもので、裏の文章の白字が写真の白にかぶさって読めなかったり、文章自体もかなりアバウトに(事実関係は正しいんだろうけどその書き方が)書かれてるんだよなー。それに合せたわけでもないんだろうけど、映画自体もかなり困っちゃうもので、B級Vシネマ、あるいはB級ハリウッドアクションもの、といった感じ。

上手いはずの野村祐人がこのB級感覚に負けちゃってるのかさっぱり冴えないのが辛い。というか、周りの役者の下手さに飲み込まれちゃっている。アメリカ側の役者もはっきりクサいんだもん……。大体同僚が殺されたことをあんなに平然と報告するか?おいそこの女性刑事さんよ!その中で一人気を吐いているのが、こうしたB級ものの(いい意味でのB級ものも含めて)ベテラン、主人公の竹内力で、いでたちといい台詞といいハーレーなみのバイクに乗ったまま銃をぶっ放したりといったアクションといい、赤面するくらいクサいんだけど、さすがキメ倒してくれる。

ツラいのは女優陣二人がまれに見るほどの大根だということで、最初に殺される竹内力演じる鹿沼の恋人、洋子も、野村祐人の恋人で実は竹内力の行方不明の妹(クサい設定だなー……)梨佳も、二人ともやたらにナイスバディなんだけど、演技は最悪。これまたひどいのがカー・アクションで、野村祐人とその恋人が乗ったジープを竹内力が追っかけ、さらにパトカーがそれに割り込んでくるシーンでは、小道に入るせいもあるけど笑っちゃうくらいのスピードのなさで腰くだけ。梨佳がみぞおちを撃たれるシーンでも彼女がこれまたボディコンシャスな服を着ているもんだから、血のりバッグのあとがゴワゴワとはっきり判り、もんのすごく興ざめ。

そのあと、お互いの恋人を殺された二人が喪服を連想させる黒づくめのスタイルで敵方に乗り込み銃撃戦になるシーンでは、画的にもなかなかカッコよかったが、なんだって日本刀を持ち出すのかね……大体、なんで日本刀を持ってるわけ?しかも異国の地で。まるでハリウッド映画でヤクザを勘違いして描いているみたいじゃないのお……これは日本人監督なのに。サムライ精神で復讐をとげたザ・ヤクザに感銘を受けたのかなんか知らんけど、まるでモーガン・フリーマンのパクリのような人徳ある黒人刑事があっさり二人を逃がしてテキトーな悪人を捕まえちゃって「法律よりも正義が勝つ」などと言いはなつ、感動モードらしきラストには唖然。だって、あれは正義なのか?違うだろう……。★☆☆☆☆


サラリーマン金太郎
1999年 110分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:中園健司 原田菜緒子
撮影:山本英夫 音楽:
出演:高橋克典 山崎努 津川雅彦 羽田美智子 野際陽子 山城新伍 田口浩正 恵俊彰 斉藤陽子 水野美紀 保坂尚輝 榎本加奈子 勝村政信 田口トモロヲ 石橋蓮司 やべきょうすけ

1999/12/5/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
テレビシリーズを一度も観たことなく鑑賞。公開前の再放送も見逃してしまって、ビデオで復習するヒマもなかった……。しかし、三池崇史監督の作品とくりゃ、見逃すわけにはいかないので。

さすがに「DEAD OR ALIVE 犯罪者」ほどのぶっ飛びさはないにしても、なかなかに痛快。マンガやテレビキャラ的なノリは三池監督お得意の部分でもあるし。元暴走族の熱血サラリーマン、金太郎に扮する高橋克典は、見た目のイメージではもっとこう、繊細な、ナイーブな感じなのだけど、“脱ぐと結構スゴイ”?という感じの胸板の厚さで、筋の通らないことの大嫌いな金太郎を熱演。しかし、なんたって本作でいいのは、映画のみのキャラである、金太郎が派遣されたヤマト建設東北営業所の所長、井郷洋造を演じる山崎努だッ!

過去に何があったのか、昼間から雀荘にいりびたり、酒をかっくらい、仕事なんて全然やる気の無い井郷。しかし腕っぱしらだけはやたらに強く、くってかかる金太郎をキュウとばかりにのしてしまう。この井郷という名字のインパクトが凄い。思わずイアーゴなんてのを想像してしまう。いつも苦虫をかみつぶしたような顔をして金太郎を疎ましがっているのだけど、次第に彼の好漢ぶりに昔の自分を思い出すようになっていく……。金太郎が危機一髪の時にフラリとあらわれて、5、6人もの敵をあっという間にのす、指名競争入札でまさかの敗北を喫した金太郎に一言ぼそっと「白紙入札だ」と囁いて、金太郎の爆発のキッカケをつくる、敵に無謀な殴り込みをかけた金太郎のもとに重傷の体で駆けつけ、「お前の行くところはここじゃないだろ!ここは俺が始末しておく、行け!」と喝破する……うー、渋い、カッコいい、惚れるわあ〜山崎努!

井郷は、ヤマト建設の影の実力者であり会長(津川雅彦)と旧知の仲で、金太郎が居候している中村加代(野際陽子)の娘、ますみ(羽田美智子)の実父。中村加代とはどういう関係だったのか、かつての夫だったのかは明かされないし、なぜ井郷が今こんな状態に荒れてしまっているのかも判らない。この時間の制約の中じゃ、ちょっと難しいかな。井郷のアウトローぶりは、金太郎の、人望のあるそれとは違って、まさしく三池印なはぐれ者。三池印と言えば、三池印なメンメンがしっかり出てくるのは嬉しい。金太郎と敵対する、バックに「北東総建」を控えた芝幡工務店の営業マンにトモロヲさん。古いスタイルの薄い色したおっきなサングラスなんてかけて、髪もフォークシンガーみたいで、最初気がつかなかったよ。何で気がついたかというと、背が低いから(笑)。職場の上司でチラリ出演の石橋蓮司氏も、チラリながらあのバタバタぶりがらしくて笑ってしまう。

チラリ出演といえば、テレビシリーズでは金太郎のライバルとして重要な役回りだったらしい、同僚のエリート、鷹栖役の保坂尚輝。映画ではかなりチラリ程度なのだけど、彼の不敵な面構えとオーラは、今後三池作品にきちんと出て欲しいと思わせるものがある。イケルと思うなあ、絶対。正直言って女性陣は大した事ないんだが。羽田美智子はあいもかわらずといった感じで可もなく不可もなし。映画にもっぱら出てるわりにはスクリーン映えしない女優なんだよなあ。金太郎の亡き妻にそっくりだという、息子竜太の幼稚園の先生役の水野美紀は幼稚園の先生以上の広がりを与えられていないし、金太郎にゾッコンのスーパーアイドル、榎本加奈子は鳥ガラみたいに痩せ過ぎで気色悪い。ほんと、ちっとも可愛くないと思うのは私だけ?そんなんで広末涼子ちゃんのライバル的存在だなんて言われるなんて、ふてえ野郎だ!?

あーでも、脇役で一番良かったのは、これも映画のみのキャラである、市役所の見るからに善良な役員、田口浩正かなあ。火事の中に取り残された子供を金太郎に救ってもらったことで彼に恩義を感じ、加えて金太郎の男気あふれる魅力に惚れて彼のために何かと尽力するも、内部の闇の力に屈して、自殺させられてしまう。彼のひとなつっこい笑顔と、大きな力に抗えない、汗びっしょりになっておびえる様子が、もう愛しくて可哀想で、これはこの人にしか出来ないでしょう。彼の自殺と、井郷と金太郎の家族に爆弾が送りつけられたことで金太郎の怒りが爆発、昔の仲間に招集をかけ、暴走族の特効服を身につけ、二千台ものバイクで東北に向かって疾走する。……最初に金太郎に声をかけられた、今はやくざの親分?な男が、背中いっぱいにイレズミをした全裸姿でプールを平泳ぎで(!)泳いでいるのを捕らえたショットには、一瞬これ高橋克典かと思ってびっくり。だって、全裸で平泳ぎ……そうとうヤバい格好なんだもん(笑)。

かくして、一大暴走軍団が、一路東北へと向かう。その暴挙にテレビカメラも追跡、道端の小さな派出所がバイクの振動でドリフのコントみたいにガラガラ崩れるなんていう軽い?ギャグもかます。しかし、殴り込みする時は金太郎と、彼にどうしてもついていくという前述の男二人なんだよな。ならなぜここまで彼らを連れてくる必要があったのかしらん(笑)。二人で殴り込み……「昭和残侠伝」シリーズや「悪名」、その他もろもろの黄金期の任侠モノの王道ですなあ。井郷に言われて本当の黒幕である代議士のもとへ切り込む時は金太郎一人だけで行くけれど、そこで待ち構えている警官隊に捕まり、逮捕されてしまう。

情状酌量の余地ありで、執行猶予付きの判決を下された金太郎の元に、彼の義侠心に満ちた行動に共感した大勢の市民達が拍手喝采で出迎える。……本当ならここでさわやかな感動の涙と行きたいところなのだが、うーむ、ちょっとこれはやり過ぎかなあ?と思わず苦笑。

TBS製作作品で、メジャー系列ということで「アンドロメディア」を連想し、心配したけど、あの二の轍は踏まなくてよかったよかった。ハズレのない三池監督作品の中であれだけはハズしたもんなあ。しっかし、東北営業所勤務で、東京から遠距離通勤とは……それはいわゆる転勤だろう、引っ越せよ金太郎……。★★★☆☆


残侠
199年 110分 日本 カラー
監督:関本郁夫 脚本:黒田義之 大津一郎
撮影:佐々木原保志 音楽:宮川泰
出演:高嶋政宏 加藤雅也 高橋かおり 天海祐希 中条きよし ビートたけし 松方弘樹 中井貴一

1999/4/27/火/劇場(新宿昭和館)
仁侠映画を再現したい、という思いがガンガン伝わってくるほどの任侠もの王道の描きかた。それこそラスト、殴り込みに行く時にかかる、尾形大作の主題歌「男の華」(タイトルからして……)にいたるまで、コテコテである。メインにすえられた高嶋政宏や加藤雅也のあまりのスタイルの良さ(手足の長さ、身長の高さ)はどうしようもないが、その辺も、バタ臭い顔の加藤雅也が気障ったらしい敵方の賭博師にハマっていることもあって、現代の俳優で時代物を作る時に必ず感じるその違和感もそれほど気にならない。天海祐希はいささかデカすぎるが、彼女の凛とした表情とすらりとした体躯が、緋牡丹博徒シリーズの藤純子を想起させなくもない。それにこれは演出のたまものだろうが、若い俳優たちも発音がクリアーで、台詞回しがしっかり仁侠映画だったのが気持ち良かった。辰五郎(高嶋政宏)が軒先で仁義を切る場面など、そのちょっと巻き舌入った調子は難しいと思うんだけど、とても上手かった。殺陣もなかなか魅せてくれたし。

キャストは豪華だがちょっと多すぎて途っ散らかった印象を与えるのが残念。辰五郎の親分でなにくれと助けに入るしたり顔の松方弘樹がうっとうしい。殴り込みに仲裁に入るなんて、そして双方の命を助けるなんて仁侠映画にあるまじき行為、愚の骨頂である。もと凄腕のヤクザ、中井貴一と水野真紀扮する夫婦や官憲の火野正平、ビートたけしと組むキレたヤクザの本田博太郎など、キャラは魅力的なのに登場場面が少なくて、風のように通り過ぎていってしまう。しかしそんな少ない登場場面でも、そして台詞が殆どないにもかかわらず、不敵な面構えで強烈な印象を残してしまうのはやはりたけし氏!さすがである。彼が登場する冒頭の賭博場での場面、手下のいかさまがバレて、俺に恥をかかせた、とその手下、それもそのまんま東をメッタ蹴りにする。そこで、そのまんま東氏、完全に素に戻って、殿・たけし氏にケリを入れられている調子で「すいません、すいません」と言うのがもう可笑しくて!

時代を戦争集結の前後に合せているので、横暴な官憲や兵隊の描写が出てくるのも実はちょっと邪魔だった。任侠ものには障害が付き物だけど、純粋に任侠ものを描くには、この障害はちょっと重たすぎるのだ。

ラストは辰五郎に惚れきっている女房、高橋かおりが、夫が官憲に連れて行かれるのを「あんた!」と絶叫するアップで終わる。ものすごく予測どおりで気持ちが良いほど。しかしそのあと、ラストクレジットを現代の映画と同じようにダーッと流すのはいただけない。せっかくここまで仁侠映画を再現したのなら、ラストカットで“完”か“終”を出し、スパッと終わらせてほしかった。★★★☆☆


39 刑法第三十九条
1999年 133分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:大森寿美男
撮影:高瀬比呂志 音楽:佐橋俊彦
出演:鈴木京香 堤真一 岸部一徳 杉浦直樹 吉田日出子 樹木希林 江守徹

1999/5/8/土/劇場(丸の内松竹)
なんと森田芳光監督は来年もはや50なのだ……森田監督が50歳になるなんてちょっと信じがたい。いつでも若手の気鋭監督みたいなイメージがあったのに……。それは多分、自主映画で伝説的な存在だったという、現在の映画作家にまで通じる先駆的存在だったことがあるだろうが。そして固定するイメージがつくのを嫌うかのように、そのフルモグラフィはまるで混迷を極めていると言いたいほどである。特に近年の、超プラトニック・ラブ「(ハル)」から「失楽園」への展開は見事だった。そして今回はなんとサイコサスペンスだというから、一体どんなことになるのやらと思ったら、そう、もう森田監督も50に手が届くのだ……ベテランの重厚さと同時にやはり気鋭のワザをビンビンと感じさせる力技に、こちらがふうふう言ってついていくと言う感じの、凄い作品だった。

しかしこれが、もうそれこそ青色吐息の松竹の、それも大メジャー館に超拡大ブッキングであることに思わず首をかしげてしまう。もちろん近年にない熱のこもった傑作サスペンスだと思うし、今年度の賞レースにも必ずや食い込んでくる作品だとは思うが、作品の持つ性質とこのブッキングにどうも違和感を感じてしまう。それにたいした番宣も展開することなく、公開直前に唐突に現れた感があり、案の定、土曜日の午後一という回でありながら、場内は閑散といっていい入りだった。実際の興行成績がどうなっているのかは知らないが、そしてもちろんこれからクチコミが作用することだって充分考えられるけれど、やはりもったいないと思う。

撮影手法を宣伝展開に組み込むのもどうかと思う。黒を強調する“銀のこし”という手法が使われているという本作、確かにその映像に多大な威力を与えていることは否めないことだが、それを表現者の側から手の内を明かしてしまうのはどうだろう?こうしたクールな画像は銀のこしをやっているわけではない、例えば黒沢清監督作品などにも感じられるもので、ことさらテクニックを強調するのは何か逆効果のように感じられるのだ。

作品自体が力を持っているからこそ、そうしたいわばどうでもいいことも気になるわけだけど。“心神喪失者の罪は罰せず、心神耗弱者の犯罪は減刑す”という刑法第39条は、これまで数々の凶悪犯罪の際、決まって被告の弁護人が持ち出すもので、素人の私たちはその度にまたかと思わされてきた。その刑法に真っ向から取り組んだこの作品、しかしその法律に対して何かを主張するわけではない。あえて慎重にそう取られるのを避けるかのように、その法律のまさにエアポケットに入り込む犯罪者を緻密に描いている。しかしよく目を凝らして見てみると、やはり監督はこの法律にネガティブな意見を持っているのではないかと思うのだけど……。

とにかく役者の力の入りようが凄い。意図的に不安定にゆれる画像の中で、自らの痕跡をねじ込もうとしているかのように。今までとは全く違った演技を見せる鈴木京香には目を見張った。父親の自殺というトラウマと、そのために精神を病んでしまった母親(吉田日出子。彼女もさすが、凄い!)を抱え、自らの精神状態からしてもう危うい精神鑑定人、小川香深(かふか)。猫背でいつも眼鏡を気にしているような、はっきり言ってかなり暗い女である。そのつぶやくような喋りは内的な闇を感じさせるのに充分で、観客を不安にさらす。ある男をその妊娠中の妻もろとも惨殺した柴田真樹(堤真一)の精神鑑定に、彼女が助手をつとめる藤代教授(杉浦直樹)は“精神に異常有り”との判断を下す。それに納得できない彼女はたった一人で柴田に立ち向かう。彼に対して一見たあいない世間話をしているかのように見える香深だが、なにか彼女の中に確信に満ちたものが存在しているかのような、異様なものを感じる。多分香深は藤代教授が危惧しているように、柴田にある種のシンパシーというか、もっと強く惹かれるものがあったのだと思う。香深の質問に柴田の中から狂暴な人格が出てきて(実はその人格は詐病であったんだけど)、椅子に座った香深にテーブルを飛び越えて襲い掛かり、壁まで追いつめるというシーンの暴力的なエロティシズム。

柴田を演じる堤真一も凄かった。この人は「アンラッキー・モンキー」でも感じたことだけど、目から異様な力が発散される。いや、目だけではない。全身から。さすが舞台俳優。メジャー系の作品でもこれだけの力を見せてくれたのが嬉しかった。香深が否応なく惹かれるのも納得の凄みである。作中、知能テストを受ける柴田が64という数値を出し「知能は高いです」という香深に教授が「わざと低く出すことは出来てもその逆はありえないからな」という。しかし柴田はその“わざと低く出す”をしていたのだろうな。怪しまれない程度の知能指数は出しながら、その実もっととんでもない知能の持ち主だったのではないかと思わせるのは、緊迫のラスト、法廷で、香深が仕掛けた精神鑑定の問答に、まさしくセオリーどおり答える……つまり彼が心理学関係の勉強を手当たりしだいしていて、その最も模範的な答えをはじき出したことが明かされる場面。それがあだになるわけで、ここでは香深が勝利をおさめるわけだが、「あんただけが予定外の共犯者だったよ」と言う柴田と、その言葉を聞いて哀しげな、苦しげな表情を見せる香深の、これまたどことなくエロティックささえも感じられるまさしく“共犯者”同士の匂い。

柴田が犯行に及んだ動機である、幼い妹を性的暴行の末、虐殺された過去も丁寧に映像化され、ショッキングなフラッシュバックとして観客の前に提示される。女の子のスカートに手を伸ばす少年、血だらけになって(足の間からも……!)手首を切り落とされ、人形のように横たわった少女の前で悲痛に崩れ落ちる少年時代の柴田。犯人の少年(後年柴田に殺されることになる)が切り落とした手首を持って自慰行為にふけっていたなんて、まるでそのまま「サイコ」(2の方だったかな)だ。

法廷場面が凄い。ハリウッド映画でさんざん見せられた、やたら雄弁な、ショー的な法廷劇とはまったく違う凄み。作品自体、全編にわたって静寂の世界を構築しているのだけれど、セリフというよりも、活字を感じさせる(特に香深が弁護人と裁判官に先に封筒に入れて手渡しておいた、柴田との予想される対話そのままに進行していく公開精神鑑定において)硬質な法廷シーンもまた恐ろしいまでの静寂に満ち満ちている。森田監督は実は静寂の人だったのだな。そして活字の人。それはそのまま「(ハル)」に対しても言えることだが、その静寂が、最も効果的な効果音(しつこい形容だ)になっている。

常に何かをくちゃくちゃと噛んで、道端にベッと吐く名越刑事を演じる岸部一徳、相変わらず独特のテンポを刻む柴田の国選弁護人、長村を演じる樹木希林などなど、達者な脇役も充実の一言。この作品、埋もれさせたくない!★★★★☆


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