home!

「せ」


2000年鑑賞作品

セックスフレンド 濡れざかり
年 分 日本 カラー
監督:坂本礼 脚本:
撮影: 音楽:
出演:


2000/7/25/火 劇場(中野武蔵野ホール:P-1 GRAND−PRIX)
この監督のデビュー作なのだという。だからだろうか、ここで扱われるセックスはとりあえずのピンク映画の条件としてだけのセックスシーンの様に思える。例えばこの日、本作との対決作品として上映されたサトウトシキ監督の「団地妻 不倫でラブラブ」は、親に反対されることで結婚をあきらめようとしている若いカップルがそのもうすぐ終わってしまう関係を性急なセックスを繰り返すことによってより切なく感じさせていたり、“不倫”が妻どうし、夫どうしで行われるというハズシによってセックスの意味合いや、あるいは逆に無意味さをより強く感じさせたり、とセックスがもたらすもの、それがストーリーに与える影響をより重視していたように感じた。しかしこの坂本監督の本作は、ストーリーやテーマの本質とセックスはほとんど関係がない。冒頭でスポーツのようにセックスをしていた主人公の青年が、人間的に成長したラスト前では優しくゆっくりと彼女を抱くというのは印象的だけれど、それはあくまで人間的成長をセックスの描写に置き換えただけで、セックスそのものの何たるかを問うようなものではないのである。

しかしこれはかなり心惹かれた作品だった。どこか永遠を感じさせる夏の物語というものに私は昔からとことんヨワいのだ(大林宣彦監督ファンだしね)。この物語はいわばユーレイもの。夏にはピッタリである。顔も忘れていた小学校の少年野球仲間が突然、ダイの家に訪ねてくる。彼の名はツトムといい、なんだかずっとニコニコしている。もしかしたらもうこの時点で彼がユーレイだということを気づいても良かったかもしれない。そのニコニコは、どこかの時点から年を取らなくなってしまった無邪気さのように思えるから。ダイの彼女が遊びに来ていて、彼がバイトに行ってしまったため、ツトムと二人きりになる。仮面をかぶっておどかしっこをしたりする場面は素直に笑える。「今、倦怠期なんだ」と悩みを打ち明ける彼女。ただ笑って彼女を見つめるツトム。その時間がずっと長く続いて……ほんとに長くて。ツトム「キスしてもいい?」彼女は黙ったまま。そしてその時間もとてもとても長い。立ち上がってじりじりと彼女に迫る彼、後ずさりする彼女。「……するよ」彼女の肩を抑え唇を重ねる彼。その手が胸に下りてきた時、彼女は彼を振り払い風呂場へと逃げ、泣き叫ぶ。

この長い長いシーンの間、カメラは固定されたまま、例えばキスする時も寄ったりしない。いわゆる長まわしなのだけど、ただ長まわしをありがたがるようなものではなく、このシーンではそれが効果的だということを充分に判った上での秀逸なカットだった。ものすごい緊張感と、気持ちのせめぎあい。それがじんじん伝わってくる。セックスシーンよりずっとドキドキしてしまう。

次のシーンではツトムはいなくなっている。戻ってきたダイは「忘れていっちゃったよ」とツトムからかかってきた、彼が落としていった携帯電話がベッドにあったことで彼女を疑う。しかしまあ、多分セックスはしてないだろう、と思う。彼女もあとで「ツトム君とキスしちゃった」と告白しているし。多分これもダイと彼女とのダラダラしはじめた仲を修復しようというツトムなりの演出だったんだろう。

とにかく、この携帯電話を届けるために、ダイと彼女は埼玉のド田舎にあるツトムの家に向かう。途中、アウトドアセックス&そのビデオ撮影を楽しんでいた、これまた少年野球仲間でプロ野球くずれの××(役名忘却!)とその彼女(巨乳な上に乳輪も異常にデカい)と合流、彼もまたツトムと自分の経営するスナックで昨夜会い、誘いに応じて訪ねてきたのだという。しかし、ツトムの家に着いたとき知らされた事実は、彼は8年前に死んでしまったということだった……。

この事実を告げる彼のお母さんが印象的。スイカを両手に持って、斜めにかしいでて、顔にも身体にも生気がなくて今にも倒れてしまいそうである。そこに、ステテコ姿の彼のお父さんがボールを持って飛び出してくる。コワい顔でダイに向かって「キャッチボールするぞ!」と。かくして庭先でキャッチボールがはじまる。「ダメなのよ、お父さん。男の人が尋ねてくると、皆ツトムだと思っちゃうの」とあきらめ口調で言うお母さん。「いいじゃないですか、楽しそうで」と言う彼女。ボール!とばかりいうお父さんに「ストライクだろ!さっきから何度も入ってんじゃねえかよ、チクショウ!」とスッカリムキになるダイ。真っ白にまばゆい夏の日差しと、目に染みる田んぼの明るい緑と、真っ青で地平線が見えそうな大きな空。

ツトムの墓参りをする4人、そこにツトムの携帯電話が鳴る。「悪いな、めんどくさいことさせちゃって。だって、いきなりユーレイって言っても信じないだろ」とライトに言う彼に「まぁ、な」とダイもつられるようにライトに返す。一人××だけは及び腰なのが可笑しい。「明日、野球の試合組んだから。必ず来いよ」その夜、久しぶりに子供の頃の気持ちのいい緊張感を味わうダイ。「子供の頃ってさあ、眠って朝目が覚めたら、何もかも変わってるような気がしたよな」「そうだね、そういうのって、いいね」彼女は彼の布団に潜り込み、服を脱ぐように促し、彼と向き合って「ダイ、ギューッてして」と両手を伸ばす。抱き合う二人。彼女が痛がるほど抱きしめるダイ。その日の二人のセックスは冒頭のそれとは比べ物にならないほど優しく、エモーショナル。

ラストの野球の試合は、子供時代とシンクロさせ、その後のダイの無意識下のトラウマを(ピッチャーだった彼は押し出しで試合に負けたのだ)やりなおすという癒しモノの展開。まぶしい太陽を仰いでグラウンドに仰向けに倒れるダイとツトム。「楽しかったよなあ」なんて言い合って、その姿も子供の頃とオーヴァーラップして。……ツトムが死んだのが8年前ということは、この年頃から推測するに、小学校を卒業してすぐぐらいだ。ツトムはずっとその最後の思い出であったのだろうその試合で失敗して落ち込んだダイのことを心配していたんだ。なんだかそう考えると胸が熱くなってしまう。

あっ、そう言えば忘れてた。ツトムの家を彼ら四人が辞した後、ツトムのお父さんとお母さん、急にセックスしだしたのはスゴかった。この作品ではセックスシーンは妙に浮いているのだけれど、その中でも最高の?浮きかげん。生気をなくしていたお母さんがそれを取り戻す、という意味合いもあるのだろうが、なんか画的にスゴかったなあ……。★★★★☆


蝉祭りの島
1999年 110分 日本 カラー
監督:横山浩幸 脚本:高橋美幸
撮影:柳田裕男 音楽:安川午朗
出演:土屋久美子 吉村実子 北村一輝 桑野信義 長島慶造 竹中直人 嶋大輔 もちづきる美 岡崎友紀

2000/5/31/水 劇場(新宿東映パラス3)
何にも考えず、期待せずに観に行ったら、とても素敵な拾い物に出会えた。観ているうちにどんどんどんどん好きになっていってしまって、「ロクデナシ」という言葉があまりにも愛しく響いて、ただただ泣き続けてしまった……。

キャストの最初の方に名前が出ているにもかかわらず、出てきてあっという間に死んでしまう北村一輝、ええっ!?何でよお、もしかして彼は客寄せゲスト出演?と思ってたら、とんでもない。彼は作品の最後の最後までその優しい存在で影を落とし、頼りなく情けないはずだった彼の笑顔を思い出すだけで、胸がかきむしられてしまうのだ。

でも物語は、土屋久美子演じるヒロイン、珠子の愛しい“ロクデナシ”な明るさそのままにコミカルで楽しくて、この舞台の能古島の真っ青な空とまぶしい太陽のように陽気な光に満ち満ちている。本当にこの土屋久美子は珠子そのもので素晴らしい。見ない名前だなあ、と思ったら「バタアシ金魚」のプー役だったとか……ということはそれ以来映画には出ていないということだろうなあ、知らないもの。「バタアシ金魚」は大好きだったけど、それ以来一度も観直してないので、筒井道隆、高岡早紀、東幹久、浅野忠信までは思い出せるけど、彼女は思い出せない。ちょっとスー・チーみたいな顔のパーツがファニーなキュートさで、おてもやんメイクがとてもチャーミングに似合っている彼女、どっちの年に転んでもおかしくない、という感じだけど、でもお腹に赤ちゃんがいて、中堅どころといった風のストリッパーで、人気女流小説家にソックリ(二役)という役どころだから、20代後半?バタアシ組だったら、そうか。彼女のグータラぶりと達者な口のききかたは、絶対ムカムカくるタイプの女なのに、全然それがないのが凄い。笑って見てしまうし、だんだんそれが彼女の弱さを隠すヨロイなんじゃないかと思えてきてよけい愛しくなってしまう。

真夏のある日、ストリップ劇場の楽屋、ストリッパーの珠子が、出てきたお腹を気にしながらちっとも仕事の決まらないダンナ、卓(北村一輝)に悪態をついている場面からはじまる。いつものことなのだろう、卓は別に気にするふうもなくニコニコとして珠子をなだめにかかる。彼女の機嫌を直そうと、アイスクリームを買いに出た彼は、外で子供たちが捕まえためずらしい蝉「わしわし」を追いかけて車にはねられ、死んでしまう。

現実の彼の描写はたったこれだけ、冒頭のものの10分といったところである。でもここに彼の全てが封じ込められている。後に彼を評した島の医者兼僧侶の金森(竹中直人)が「ざぶとんみたいな奴だった。いつも柔らかくて」と言うように。北村一輝はいつもチンピラだのなんだのとちょっとクセのある役柄が多いんだけど、実際は驚くほどキレイな顔立ちをした人、だからこういう普通のイイ男を演じてほしかったと思っていたのでとても嬉しい。

そして、蝉。タイトルからも判るように蝉は重要なファクターである。卓の故郷であり、物語の舞台となる能古島で実際に言い伝えられている、島の外で死んだ人間が、この島に多く生息している珍しい蝉、わしわしになって帰ってくるという伝承。卓と後もう一人、このわしわしとなる“人物”がいるのだが……。

突然未亡人となってしまった子持ちである珠子は身内からも疎んじられて、勘当状態であるという卓の母親を訪ねるべく、能古島へと向かう。島でたった一つの旅館というのに望みを託し、老舗で仲居が何百人もいる高級旅館だ、と勝手に思い込んで。しかし着いてみるとそこは、めったに泊り客など来ないため(ということはこの島自体に来る人間がいないということか)戸の立て付けが悪くて開けるのに苦労するような、旅館というよりは小さな民宿といった趣。その“旅館”の主人であり、普段は農作業で自給自足の生活をしている卓の母親ウシヲ(吉村実子)に、卓の死も、自分が卓の子供を身ごもっていることも言えないまま一緒に暮らすことになる珠子。しかも、“女流作家、秋山陽子”のそっくりさんストリッパーである彼女は、この島でそのホンモノと間違われ、否定する機会を逸したまま、ズルズルと秋山陽子として飲み食いし、カラオケを歌い、講演までしてしまう。村おこしに燃える村長(長島慶造)が彼女をイメージキャラクターに町おこしをしようという、のっぴきならない状況にまで行ってしまう。

ウシヲは彼女が売れっ子作家だろうと、そしてホンモノがあらわれて正体がバレようとも、珠子に対する態度はちっとも変わらない。ナマケモノのロクデナシである珠子に薪を割らせ、農作業に駆り出し、浴衣を縫わせる。何も出来ない珠子にあきれながらも、村の人々の様に手のひらを返して彼女に冷たくしたりしない。ウシヲ自身が村八分にされているようなところがあり、しかし彼女はそんなことは全く気にする風もない。

この関係が、とってもいいのだ。実際には嫁と姑の関係なのだけど、まさしく母親と娘。ラスト、この島を離れることになる珠子は、船の上から珠子を見送って岸壁を走るウシヲを見つけ(実際は珠子の忘れた財布を届けに走ってきたのだが(笑))手を振りながら「お母さん……」と涙を流し、その日の前、海岸で「卓が誉めてくれたんだ!」とストリップをやりだす珠子を(もちろんBGMはあの「ろくでなし」)押しとどめてウシヲがやはり泣きながら「このロクデナシ!あんたなんか娘じゃない!」と言う。……ここで発せられる“お母さん”と“娘”の響きは、それまでの珠子とウシヲの時間の積み重ねによって、すでに嫁と姑を指す響きではなくなっている(と言うより、最初からそうなのだけど)。本当の意味での“お母さん”と“娘”の意味合いの響き。「そろそろ帰ってくれないか」というウシヲは決して珠子の言うように、孫を身ごもらなくなった珠子が疎ましくなったのではなく、娘のやり直しがきく人生をここで阻んではいけないという親心そのものだ。だから泣ける。「裸踊りなんか止めてまっとうに生きるんだよ」という台詞はでも、先述したとおり、卓が誉めてくれたという珠子にとっては利かないのだけど。

そう、彼女は流産してしまうのだ。もう一人のわしわしとは、この生まれでることの出来なかった赤ちゃんのこと。島にはホンモノの秋山陽子の息子が、心臓の療養で住んでおり、だからこの子だけは珠子がニセモノだということが最初から判っている。母親とのコミュニケーションが取れないこの子は、なにかと珠子にヤツアタリし、珠子が精魂込めて塗り上げた村の詰所(村中を騙した罰として命じられたのだ)に落書きをし、彼女の行為だと疑われた珠子を憤激させてしまう。しかしそうこうしているうちに珠子とこの子、大樹はいわば秋山陽子を介した盟友のごとき仲になっていく。

しかし、哀しいかな、珠子が流産するのは村の金を持って行方不明になり(またしても珠子が疑われるのだが)、以前から死をほのめかしていた大樹を心配して探しに走った彼女が、断崖絶壁から足を滑らせて落ちてしまうからなのだ。駆けつけたウシヲは村人たちの制止を振り切って危険な崖を降りていく。血だらけになって横たわっている珠子を抱き起こすと、珠子は気がついてうっすらと目を開け、赤ちゃんが死んでしまったと口にする。ウシヲは泣きながら、あっちには卓がいるから心配ない、卓が待ってるから、と言い(ここで初めて、ウシヲが卓の死と珠子の身ごもった赤ちゃんが卓との間の子であることを知っていたことが判明するのも泣かせる)「赤ちゃん、見せたかったな」とつぶやく珠子を抱いて「このロクデナシ!」と泣くのだ。……こんな、こんな愛しい響きのロクデナシという言葉を聞いたのは初めて。もうここから涙腺の蛇口は開きっぱなしになってしまう。

あ、でもその後、ホンモノの秋山陽子が息子を迎えに来る、二役を演じる土屋久美子同士が相対する場面で、合成などは使わずにカッティングで乗り切ってるんだけど、ちょっとそれがぎこちなくて気になってしまった。珠子とウシヲの関係、珠子と大樹の関係、そして珠子の奔放でキュートなチャームがあまりにも魅力的なので、秋山陽子と大樹のエピソードは設定上避けられないんだけど、正直停滞している感じがして。海岸で大樹に「あたしの子供にならない?」と言う珠子に「子供の子供になってどうするんだよ」と言う大樹、そこに秋山陽子が迎えに来て、大樹は去り際、珠子に「愛してるよ!」と言うのだ……秋山陽子の小説を読んだ珠子が「実際の生活で愛してるなんて言う?」と言った場面とリンクする、ある意味仕返し、ある意味本気の大樹のこのマセた台詞がまたしても私のツボをついてしまう!

死んだ蝉を拾った珠子がウシヲからわしわしの伝承を聞いてから、卓の幻が彼女の前に現れるようになる。生前と変わらずにニコニコとして、ゆらゆらと現れ、消えてしまう。卓は村おこしのために前村長(現在の村長の父親)が全精力を傾けていたフリッパー号と呼ばれる遊覧船を転覆させてしまい、村から逃げ出してきたのだ。だからウシヲも村中から白い目で見られているのだが、実際は卓と今の村長の二人がやったことだった。卓は大好きなこの島が丸く収まるのには、自分がいなくなって一人悪者になればすむと考え、自ら出ていってしまう。そしてそんな愛する故郷に帰れないまま、死んでしまう。村長が村おこしに躍起になるのは、そんな卓への罪滅ぼしのためだった……。

水色のアイシャドウと赤すぎる頬紅バッチリのメイクとタトゥ、(秋山陽子に比べれば)露出過多気味のいでたちで自らを武装している珠子が、真夏の空の下、汗かきながらペンキ塗りに精出したりして、ふと全くの素顔がのぞく時、そのスッピン顔がとてもチャーミングで。いいなあ、いいなあ土屋久美子!なんで今まで映画に出ないままきちゃったんだ!

しっかし、新宿東映パラス3とは、ちょっとないよなあ、形態はミニミニシアターなのに、宣伝活動に力を入れない作品にはとことん力を入れない、東映のやり方そのまんまなんだもん。大体惹句の“新宿系ムービー”って、どこがじゃ!(第一、“新宿系”って、ナニ?)地方色豊かで、(多分)低予算の監督デビュー作なんだから、もっと丁寧な劇場、テアトル新宿とかにかけたら良かったのに……。★★★★★


センチメンタルシティマラソン
2000年 75分 日本 カラー
監督:新藤薫 脚本:赤松裕介
撮影:津田豊滋 音楽:
出演:ともさかりえ 佐伯日菜子 寺田農 松田ケイジ 菊池健一郎 大村彩子 ビビリョン 薬師寺保栄

2000/7/7/金 劇場(シネセゾン渋谷/レイト)
いったい何の少女漫画かアニメーションにでも影響を受けてるんだか、それともそれこそウォン・カーウァイの「恋する惑星」あたりにおぼれちゃったんだろうか、これぞスタイリッシュだ、などとウットリしてやっていることがカッコ悪いのだ。例えば英文クレジットがカシャカシャいいながら登場してくる人物に重ね合わされるとか、片手が義手らしい、椅子に座ったっきりの殺し屋のボスとか、「汚れた空気はいらない」とキメ台詞をささやいてターゲットを殺すとか。マチネだソワレだフェイだというキャラ名も(めちゃめちゃ日本人の設定なのに)なんだかなーと思ってしまう。こぎれいだけれどなんだかひどく幼稚なのだ。

殺し屋のマチネと言葉を失ったソワレ、生き別れになった姉妹の双方の物語が、前半、後半に分けて描かれる本作。舞台は空気が動かない、時間が止まったかのような亜熱帯の地、タイ。この二人のヒロインを演じるともさかりえはビジュアルもいいし、顔立ちや雰囲気も独特のものを持ってるし、結構映画向きの逸材だとは思うのだけど、こりゃあかなり、こうしたお耽美な演出に踊らされている感じである。彼女の宿敵として出てくるやはり殺し屋のフェイに扮する佐伯の日菜ちゃんや、ボスの寺田農(シブカッコイイ!)は、そうした部分を充分承知の上でどこか楽しんで演っているようにも見えるのだけど、ともさかりえにはそこまでの余裕はないらしい。

こんなコテコテにマンガチックな世界を描くんだったら、もっとそれらしい衣装とかにしてあげれば、こっちもノレたかもしれないのに、その辺も中途半端なのだよなー。フェイはそれなりに出来上がってるけれど、マチネがいただけない。あんな女子大生みたいなカッコして殺し屋とかいわれても、はぁ、って思うだけだ。フェイとやりあうところだって、めちゃめちゃスタントだって判りすぎだし……水野美紀を見習えよ、とは言わんが。いやまあ、その殺し屋には見えないところがいいんだろうけど、そう思わせるだけの物語や演出の力量は感じられない(これに関してはともさかりえに罪はない)。この監督の名前、初めて聞いたけど……どこにも監督情報がなくて、音楽やファッションのことばかりが喧伝されてるんだもんなあ。

そうその、物語の展開の仕方にしたってあまりにモノローグに頼りすぎだ。しかも、これまたなんだか変に文学かぶれしたような気恥ずかしいモノローグのオンパレード。魅力的な言葉というのは、そう簡単につむぎだせるもんじゃないのだ。映画は最初に映像ありきなんだから、その言葉なき言葉で語ってほしい。しかしやけにシャレた映像にこだわっている割には、言葉に頼るとはねえ……。

二人の姉妹が、そうとは知らずにすれ違う場面を、冒頭とラストで繰り返す。マチネはバスに乗って妹の情報を提供してくれるという人に会いに、ソワレは姉を探しにこの地を離れる為。でも二人とも、きっと会うことはない。この二人をともさかりえ一人が演っているということが物語っているのだ、きっと。彼女らは妹や姉を探しているのではなく、自分の中の失われた部分を求めてさまよっているのだ。マチネとソワレが非常に対照的なキャラであり、二人とも自分の探している相手が見つかることを渇望していながらもどこか恐れている部分があるし(特にソワレに……相手は殺し屋だからねえ)。ともさかりえのどこか儚い印象も手伝ってそんな感覚を受ける。

この言葉を失った少女、ソワレの方が、ともさかりえは自分をあずけて演じられているように感じた。彼女は花屋の店員として働き、花言葉に精通しているのだが、その言葉を語ることは出来ない。自分の気持ちを花言葉に託しながらも託しきれない思いにもどかしさを感じているような少女。単純にともさかりえの清楚な美しさに花が良く似合うのだ、殺し屋(血)よりも。

このソワレ側のエピソードで、自分がソワレの姉だと思い込んでいる、失った記憶を集めるのに必死になっている女性(この設定もちょっとクサい)に肩入れしていく探偵の青年がなかなか良かった。泣かせる、とまではいかないまでも、「依頼人の人生に口を出すな」という掟にどうしても従えない不器用さが、いやちょっとだけ泣かせたかな。

タイトルの意味が理解不能。でもこのタイトルのイメージから、センシティブなラブストーリーあたりを漠然と期待してたのだけど。ともさかりえには、いい監督、いい作品の元でスクリーンにまた登場して欲しいところだが……。★★☆☆☆


千里眼
2000年 100分 日本 カラー
監督:麻生学 脚本:時中進 松岡圭祐
撮影:加藤雄大 音楽:千住明
出演:水野美紀 黒木瞳 柳葉敏郎 根津甚八 矢島健一 深浦加奈子 田口トモロヲ 木下ほうか

2000/6/19/月 劇場(丸の内東映)
いやー、ようやっとウワサの水野美紀のアクションが堪能できましたわ。「現実の続き夢の終わり」で見られるはずだったのがキャラ設定の大幅な変更により、観客はもとよりアクションをやりたがっていた本人が一番消化不良を起こしていたらしいから……。いや、正直、本作での彼女のアクションを見るまでは、彼女が本当に倉田アクションクラブで自主トレをつんでる10年選手だなんてにわかには信じられなかったんだけど……だって、水野美紀って、顔は木村佳乃系で線が細いし、大人しい受け身のお嬢様って感じのイメージだったからさあ。いやでも、こうした外見のイメージが、アクションをやった時のギャップで驚けるんだからイイんだよね。それに今まで気づかなかったけど、身長もなかなか高いし(167センチ)、アクション映えするんだよなあ。アクションシーンで、ちゃんと彼女の顔をとらえていたのを見て取っていたけど、クレジットで彼女のスタントなど存在していないことをしっかり確認してさらに嬉しくなる。正直言って「現実の続き夢の終わり」では結局テレビ女優かなあ、と思ってたんだけど、能力を引き出せればこれだけ輝けるのか。作品との出逢いって重要だよなあ。ほんと、素晴らしい。ぜひともジャッキー映画にヒロインとして招聘されて欲しいツワモノだ。“志穂美悦子の再来”はとりあえずそのアクションのワザだけでも志穂美悦子より凄いかもしれない。

しかしまあ、これはカンフー映画ではないので、彼女のアクションが見られるのは数あるクライマックスの一場面にしか過ぎない。しかし本作での彼女はその役柄のカッコ良さで他の部分でも充分に魅力的である。ことに、発射されてしまったミサイルを軌道修正するために指揮を執る時の、きりっとした英語の指示とその迫力は、「かっこえぇわ〜」と何度もつぶやいてしまったほど。このシーンは冒頭、水野美紀の上官役である根津甚八が、乗り込んでいった米軍基地で一貫して日本語で押し通し、相手のアメリカ人指揮官はヘタな日本語で応対するという双方のカッコ悪さと非常に対照的。もう一人の主人公にカリスマ的存在であるという役柄で、しかも黒木瞳というこれまたツワモノを控えつつも、彼女の健闘が光ってる。そう、健闘というのがピタリくる。この役を得て、一生懸命になってるのが伝わる感じがイイ。「現実の……」と違って、自分のやるべきことが明確に見えてるせいかもしれない。

さてさて、チラシのあらすじをちらりと見た時から「ミドリの猿」?んん、なあんか聞いたことあるわあ、と思ったら、あの「催眠」と同じ原作者が、同じキーワードを使った原作だということだったのね。続編ではないけれど、「催眠」では“誰が、何のために?”という疑問がずっとついてまわり、意味深にふりかざされる「ミドリの猿」の意味もまるで漠然としていたんだけど、本作ではそうした思わせぶりなところはなく「ミドリの猿」もはっきりテロ集団の名前と位置づけている。そうした要素もあって、非常に理路整然ときちっと作られた映画だなあ、という感覚。原作者、松岡圭祐氏と当初メガホンをとる予定であった井坂聡監督が、脚本上の意見の食い違いから井坂監督の降板という結果になった本作、最初から映画化を目指して書いたという松岡氏と、小説と映画は別物という考えであったかもしれない井坂監督が相容れなかったということなのか……でも正直言って私は井坂監督版を観てみたかった。彼の職人的でスリリングな演出は今までハズレがないし、「破線のマリス」に続く二度目の黒木瞳とのコラボレーションにも興味があったから……。

「ミドリの猿が世界を制す」という言葉を繰り返し、テロ行為の後自殺するという事件が多発している中、最初に勃発するのは、米軍基地から最新ミサイルが発射され、このままでは日本が消えてなくなってしまうという危機状態。ミサイル阻止の暗証番号を知っている男は、コメカミに銃を突き付けて「ミドリの猿が……」とつぶやき続ける。駆けつけたのは航空自衛官、岬美由紀(水野美紀)と、「千里眼」の異名を取るプロフェッショナルな脳外科医であり心理学者でありカウンセラーである友里佐知子(黒木瞳)。友里はこの男の心理状態を見抜き、状態を落ち着かせることが出来たのだが、後一歩のところで自殺されてしまう。かくて暗証番号を葬り去られたため、男の表情をとらえたビデオテープからその番号を割り出すという神業をやってのける友里。それは豊富な心理学の知識が裏付けになっているゆえの能力なのだと誰しもが思っていたのだが……。

まさしく「白い巨塔」のような、白くまばゆい巨大な東京晴海医科大付属病院。そこの院長である友里。「ミドリの猿」がどうしても気になる美由紀は休暇を取り、彼女を訪ねてやってくる。そこで出会うのは自分を刑事だと思い込んでいる神経症患者の蒲生(柳葉敏郎)。その実彼は本当に刑事だったわけで、その混濁した精神を回復した後、美由紀とともに「ミドリの猿」ひいては友里と対決するために(……ネタバレ)戦う。この巨大な病院、「踊る大捜査線」に出てきた湾岸所に妙に似ていると思うのは気のせいなのだろうか?それとも水野美紀と柳葉敏郎が顔を合わせているからそう思うのかしらん。

この病院と同じくらい、いやそれ以上の存在感でこの物語の最も重要な場所となるのがこれまた巨大な“東京湾観音”。そのおどろおどろしい画から、これはフィクションの産物でCG合成なのだとばかり思っていたら、ほんとに東京湾観音ってあるんだ!知らなかった。それにしてもなんてチープでブッキーな観音……。この中に催眠状態にかけられた子供たち、そして美由紀と蒲生が運ばされた部品によって、日本を壊滅する準備が「ミドリの猿」によって着々と進められていく。今度こそ、作られた芝居などではなく、本当にミサイルが発射される危機なのだ。

「ミドリの猿」の首謀者は、友里。しかも彼女一人と言っていい。彼女は脳外科手術によって組織員の前頭葉を切除、意のままに操っていたのだから。「私が未来を作ってあげる。皆が私を救世主として求めるようになれば、幸福になれる」とあの美しい笑顔をたたえて基地に駆けつけた美由紀に言い放つ友里。昨今こうした新興宗教的なアブないカリスマが登場する映画が妙に多い気がし、友里がボスであった意外さや、演じる黒木瞳の迫力はなかなかに見ごたえがあるんだけど……。

精神が混濁している蒲生が、取り調べ室(のつもり)でマジックミラー(のつもり)の向こうの犯人を指し示すように美由紀に言う、その“マジックミラー”が「最後の晩餐」の絵なのである。美由紀がこの人じゃないか、と適当に指差すと彼はそんなはずはない!と語気を荒げ、ならばこの人、とやり直すと満足する。……あれはどの使徒だったんだろうか……やはり裏切り者のユダか、それとも敬虔なヨハネか?あのシーンは実は深い意味を持っていたのだろうか。★★★☆☆


トップに戻る