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楽園
1998年 90分 日本 カラー
監督:荻生田宏治 脚本:荻生田宏治
撮影:田村正毅 音楽:茂野雅道
出演:松尾れい子 荒野真司 谷川信義 須藤福生 河合みわこ
それにしても心惹かれる映画だ……ステキな映画、自分にとって魅力的な映画というものは、理由がない。ただ、ただイイと思わせるだけの空気がある、それだけだ。それと、この作品を観ていてふと気がついたのだけど、私がここ最近気に入っている邦画は、そのほとんどが地方を舞台にしている。もしかしたら私がテレビドラマに興味が持てないのはそのあたりかもしれない。テレビドラマはそのほとんどが東京(あるいは漠然とした都会)が舞台なのだもの。まるでテレビの世界では東京(都会)だけが日本みたいだ。もしかしたら今の日本映画が質がいいと言われても今一つ当たらない理由もその辺にあるのかもしれないけれど、だったらそれはそれでいい。せっかく創造するのだもの、その中に見る風景や世界は、他とは違ったものであって欲しいではないか。
ここはでも、どこだろう。言葉は九州っぽいけれど。どこか小さな島、と言うしか当たらない。数日に一本という感じの、小さなフェリーに乗り遅れてしまえば、その島から出るすべはなくなってしまう。そこで暮らす木造船大工の老人(谷川信義、本当に大工なのだそうだ!)、その孫で都会の高校生活を捨て、流行らない小さなスーパー(コンビニ?)でバイトしながら老人と共に暮らすスズエ(松尾れい子)、獅子舞を披露するために島を訪れたシンジ(荒野真司、彼は縁台美術作家なのだそう……不思議な肩書きだ)はなにかを思い悩んでいる風で仲間の前から姿を消し、この造船所に住み込んで手伝うことになる。そしてシンジを探す仲間のフクオ(須藤福生)とヒトミ(河合みわこ)。
スズエ曰く、「おじいちゃんは誰に頼まれてこの船を作ってるわけじゃない。今時木造の船なんて誰も頼まない。だから自分で発注して作ってるんです」「でも、作ってる」と言ってその作業を手伝うシンジ。初めのうちはその形すら想像がつかなかった船は予想以上に巨大な姿を見せていく。途中、シンジが老人と会話を持とうと何気なく言った、「ノアの方舟」さながらに。その時に老人は「負けるわけにはいかん」と軽く返したが、まさかそのせいではないだろうが。
「自分で発注した船」をどこか思いつめたようにも見える表情で黙々と作り続ける老人の姿に、思わずハッとなってしまった。……ああそうだ、これはまさしく「千年旅人」と同じではないのかと。その哀しい予想を外れることなく、老人は船がほぼ出来上がった花火大会の日、突然逝ってしまう。その描写は、ただ、スズエが懸命にペダルをこぎ、ふと背の高い木を見上げて曇った空を仰ぐシーンのみである。それだけでなぜか、どうしてなのか本当に判らないのだけど、ああ、おじいさんは死んでしまったんだ、と了解してしまうのだ。
このシーンもそうだけれど、観ている間中ずっと、ああ、曇り空って美しいんだなとひそやかに感動していた。日本は沖縄でもない限り、例えばアメリカみたいにスカッとした青空はなかなか望めない。その湿度の高い気候のせいなのか、映画で観る日本の空はたいてい白く曇っている。私は今までそれがなんだかうっとうしく感じて仕方がなかった。多分それは、撮っている側も曇り空をポジティブに撮ろうとは思っていなかったせいもあると思う。でもこの映画ではその曇り空が、主人公でもある木造船のまろやかな優しさに共鳴するかのように、そしてこの島を囲う穏やかな灰青色の凪いだ海を撫でるようにふわっと、曇っている。……この控えめな海の色も、控えめな曇り空も、晴れている時にさしてくる日光もどこかやわらかで、そして風さえも頬をかすめるように吹いていて、その全てが、ああこれが日本の美しさなんだと、日本の優しさを生みだした気候なのだと胸が熱くなってしまう。
老人が船を作っている理由、スズエが高校に行かない理由、シンジが仲間のもとから去った理由、ヒトミがシンジにわだかまっている理由……そうした彼らのこだわっていることをはっきりとは語らないのも、不思議と優しさに感じられる。苦しんでいることを、悩んでいることを問い詰めない、追いつめない、ただ見守っている優しさ。スズエがシンジに「高校生?いいね」と言われて、「高校生って、良かったですか」と問い返し、きびすを返す。もうそれだけで彼女の苦しみが伝わってしまうから。そしてその全ての痛みもまた、この木造船によって収斂され、知らない間に空気の中に拡散していってしまう……そんな感じである。いつも男の子みたいな格好をしているスズエが、キュートなワンピース姿で出来上がりかけの木造船に入り込み、腰かけてまわりを見渡し、にっこりと、この映画で唯一見せる笑顔(カワイイ!)、そしてその後、祖母の“墓”だという海へおじいさんと一緒に小船で向かう場面もいい。ようやくシンジを見つけたフクオとヒトミ、フクオが無邪気にシンジの作業している船に入り込み、姿を消した理由など何も聞かず、そんなことなどなかったかのようにはしゃぎまわる様子、……そして老人が死に、船の中にろうそくを点してまんじりともせずに時間をすごすシンジとスズエ……なんて優しい時間があふれているんだろう!
おじいさんの死後、スズエは両親に連れられて島を離れる。そこに残された、親戚の人曰く「でっかいガラクタ」の船を、懸命に進水させようとするシンジとフクオ。しかし船は容易には動かない。あきらめムードの二人。フクオはどこか意固地になって押し続け、シンジはなぜかまぶしそうな、苦笑混じりの満足そうにさえ見える顔で船を仰ぎ見る。しかし次のシーン、ラストシーンで、船はまるで自力で進んだかのように、風に押されたかのように、ふわりと海へと滑り出していく……ああ、どうしてだろう、私はこのシーンで涙を抑えることが出来なかった。どうしてだか胸がつまってしまってたまらなかった。それはまるで、この船に老人が宿っていて、自分で出て行きたいんだと、出て行くよと言っているみたいで……そしてそのゆっくりとした船出が、その優しい姿がなんだかとてもとても美しくて、たまらなかったのだ。
優しい風景の小さな地形を舞台にした素敵な映画は自転車が良く似合う。先述の「千年旅人」もそうだし、「ナビィの恋」も「月とキャベツ」も。それも総じてどこか古ぼけた。本作の自転車は、スズエが小さな頃おじいちゃんからもらったという、とても古いもの。スズエは乱暴に乗り回しているように見えて、その実とっても大事にしているのが良く判る。古い自転車なのだとシンジに話している時も、どこか誇らしげで。
スズエはやっぱりおじいちゃんが大好きだったんだよなあ……自分自身の悩みでいっぱいになりながらも。無口なおじいちゃんに苛立つように「行ってくる!」(行ってきます、じゃないところがぶっきらぼうなスズエらしくてイイ。帰ってきた時も「帰った」だし)と何度も繰り返すのも、おじいちゃんが行ってらっしゃいと言わないのを単純に怒ってるんじゃなくて、おじいちゃんの言葉が欲しいんだろうなあ、と思ってしまうのだもの。
予告編の時から耳にこびりついてしまった甘美なテーマがリフレインされる音楽が忘れられない。タイトルの「楽園」は、やはり船になってしまった老人が船出するその先にあるのだろうか……。「この船、どこか行くあてあったのかな」とつぶやいていたスズエの言葉を思い出し、ふとそんな風に感じた。★★★★☆
サフィエはイタリアから買われてきた美少女。彼女は最初からオーラが違っていたのだろう。宦官のナディールは彼女をパートナーにこの権力地図の頂点を目指す計画を持ちかける。次第に禁断の愛の深みに踏み込んでいく二人。しかし彼らの愛は実質的な形を持たない。ベッドも共にするが、それは優しいキスと愛撫だけだ。なぜならナディールはもはや男性の機能を持たないのだから。彼はサフィエが浴場でその輝く裸体を磨き上げられているのをじっと見つめる。その視線と唇と手指が彼の愛情の小道具の全て。しかしそれらが官能的なのと同時に優しい哀しさを醸し出してたまらなくなる。
去勢されても性的な欲望というのは生まれるものなのだろうか?判らないけれど、ナディールのサフィエに向ける愛情はそうしたものから離れているように思える。彼が彼女を凝視したり愛撫したりするのは、もっと感情から揺り動かされたそれのように思えるのだ。それは多分に女性的であり、そういう意味でサフィエとナディールは異性同士以上の結びつきがあったように思える。……それは友情としての同性の感覚ではなく、愛情としてのそれ。近親的な愛おしさと同時にどこかアンビバレンツな憎らしさをも併発するその愛情は、時に異性の感覚よりも強く深く、そして激しさを増す。
正直今の時代にハーレムの映画もないんじゃないかなとも思ったのだが。女が強く生きていくという面では現代の感覚にも通じるし、ここではヒロイン、サフィエのセクシャルな魅力よりは知性、策略がものを言っていくわけだから。でも結局は彼女が存在を認められるのはセクシャルな意味……皇子を産むことであり、その存在の威力はハーレムの中でしか力がないのである。ハーレムは広大だが、世界としてはやはり狭い。彼女も、そして彼女を育て上げるナディールも、スルタンが大国、オスマン・トルコの頂点だと思っていたからこそ、このハーレムがその頂点に近づく重要な場所だと考えていた。ハーレムはいわばパワーゲームの場所だったのだ。しかし永遠の命を得ているかと思われた帝国はあっさりと崩壊し、そのとたんにハーレムもまた意味を成さなくなる。ハーレムの中にいては外の世界も見えない。彼らにとってこの帝国の終焉は寝耳に水だったかもしれないけれど、外の世界の人間にとっては自然な流れだったのかもしれない。
しかし今更彼らは“外の人間”にはなれないのだ。お前達は自由なのだと言われて、自由?と聞きかえすサフィエ。いまや全く意味を成さなくなった威厳を振りかざす彼女の空虚な哀れさ。“ハーレムをのし上がっていく女性”にしては線が細く、幼さの残る(デビュー時の記憶が鮮明だからだろうが)マリー・ジランは、しかしその線の細さがかえって印象的。
老女となったサフィエから話を聞き、涙する駅の若い女性がヴァレリア・ゴリノとは気づかなかった。「レインマン」以降、他の映画で観たのはほんとにちょこっとだけで、すっかり忘れていたが……。★★★☆☆
肩の力を抜きながら熱演しているような?ロバート・カーライルを向こうに回してここで主役を張っているのはおおッ!そ、その線の細いハンサム男は「L.A.コンフィデンシャル」のガイ・ピアースではないかッ!!アントニア・バード監督の新作だーとばかり思ってキャストをチェックしていなかったからびっくり。いやー、「L.A……」を観た時には彼は実に拾い物だと思ったのよねー。「プリシラ」を観ていなかったので、あの作品で初見だった彼は、あれだけの達者な人たちを脇に持ってきながら、そして決して派手なキャラクターではなかったのにピュアさと同等のしたたかさを放って魅了してくれて、その演技巧者ぶりから今後が非常に楽しみだと思わせてくれた久しぶりの人だったから。うーん、彼は相変わらずイイ。ここでの彼は苦悩を一人一身に背負っている。その繊細な顔が追いつめられていくのが非常にそそられる!
それにしてもこれはアメリカ映画なんでしょうか?えッ?バード監督ならイギリス映画でしょうと思うんだけど(ロバート・カーライルはもちろん、ガイ・ピアースだって一応英国系だし)何を見ても映画の国籍が出ていなくって、舞台はアメリカで、んで20世紀FOXの配給ってことはひょっとしてアメリカ映画なの?バード監督までハリウッドに呼ばれちゃったのかなあ……。まあいいけど。カニバリズムという、いわばちょっと大味なホラー譚を語るには、確かにイギリスよりアメリカの方が適当かもしれない。そしてまだ神話的な空気が残る1847年、メキシコ・アメリカ戦争の時代、しかも、舞台は一年の半分は雪に閉ざされるというシエラ・ネバダ山脈にある砦である。ほとんど左遷状態で飛ばされてきたガイ・ピアース演じるボイド大尉がこの地で見る悪夢は、まるで彼一人が陥れられているかのようだ。
この地に飛ばされる前、仲間の血だらけの死体に埋もれてやっとのことで生還し、肉料理の前で嘔吐する彼の姿から映画は始まる。もうその場面からどこかユーモラスさが漂い、ストーリーだけ追うと結構しゃれにならないシリアスさを含んだ展開が決してそうはならない。赴任先にいるみんな一癖ある兵士たちのキャラからしてそうだし。そこに凍死寸前の一人の男、コルホーン(ロバート・カーライル)が迷い込んできて、遭難先の洞窟でお互い食うための殺し合いをしたという。そこには一人女性が残っているというので救出に出かける一行……しかしそれは彼のワナだった……。
この旅の行程で徐々に目が泳いでおかしくなるコルホーン。洞窟につき、ボイドともう一人が中に入って行くと彼は縛られていた縄をいとも簡単にほどき、実にアヤシイ手つきでじりじりと見張りの男に近づいてくる……なんなんだ、あの手の動きは(笑)。この場面、彼に迫ってこられる方は当然のことながら恐怖で顔が歪み絶叫し、いやほんと当然恐怖の場面のはずなのに、そのコルホーンを演じるロバート・カーライルはこんな風になんだかどこか笑えるし、それを助長するようにカントリー風?のコミカルな音楽をつけてくるものだから、コワ可笑しいという奇妙な心持ちになってくる。洞窟の中に累々たる骨だけとなった死体を見つけ、コルホーンに騙されたことを知って必死に逃げ出してくるボイドともう一人にも魔の手が襲う。ボイドが切り立った崖の上から決死のジャンプ!恐ろしいほどの高さから茂みに突っ込み、さらに途中にいた仲間の死体をゴロゴロ巻き込んですさまじい勢いで転がって行くスペクタクルな場面にアゼン!そんなボイドをまさしく高みの見物よろしく崖の上から覗き込むロバート・カーライルは、ロングショットで表情など見えないのに、何だか楽しそうに軽やかに見やっている様子がありありと判り、うっわ、コイツバケモンだよと気づかされる。……人肉を食べることによって強靭な肉体を持つようになる彼はもはや人間ではない。殺しても殺しても死なない。尋常ではない治癒力で生き返ってしまう。まさしく吸血鬼そのもの、これは一種のフェアリー・テイルなのだ。
命からがら逃げてきたボイドだが、本当の悪夢はこれからだった。コルホーンによって殺された(しかし死体は見つからず、必死に証言するボイドは頭がおかしくなっていると思われてしまう)大佐のかわりに新しく派遣されてきたアイブスは、なんとコルホーンではないか!しかし彼を見ていたはずの同僚たちはなぜかそれに気づかない……いやボイドだけが陥れられている罠なのか……それに加えてボイドには秘密が出来ていた。何とか助かって逃げてこられたのは、あの時仲間の肉を口にしたからなのだ!
コルホーンに食われたと思っていたハート大佐が彼の仲間にさせられていて、二人でボイドを一味に加えようとする。それに必死に抵抗するボイド。なんかねえ、この辺から、ホモセクシュアルな匂いが漂ってくる。人肉嗜好という、いわばどこかナルシシズムを感じさせるテーマからしてもうヤバいもの。それに、人肉嗜好といいながら、そして調理して食べるシーンもあるけれど、そこに描かれるのは口から血をしたたらせながら生肉を食らう妙齢の男たちであり、その“血”も“肉”も実に暗喩的なものを感じさせる。それを確信させるのは、仲間になるか、相手を殺すかで揺れ続けたボイドが“ともに死ぬ”ことを選び、アイブス(コルホーン)とともに家畜用の大きなトラップに体を挟まれ、体を絡み合わせて息絶えるラストシーンの妖しさであり、しかもそこでアイブスが死の直前にボイドに語り掛けるセリフが「俺が死んだら(俺を)たらふく食え」というものなのである。その体(の一部)が入り込み、味わいつくし、エナジーとなる……これをセクシャルと言わずして何と言おうか!
それにしてもアントニア・バード監督……「司祭」からこの「ラビナス」への展開は……凄いッ!!★★★★☆
原作は71年に発表されている。ま、そんなに昔ではない。そんなに昔ではない、というあたりが、逆にいけないのだ。中途半端。現在のものならそれを同時代の“今”を映し出す価値があり、もっと昔から現在まで残っているものならば、普遍性があるといえる。でも本作は、一見その無軌道さが世紀末に似合っているように見えて、その実、思いっきり30年前なのだ。現代はこんなに明るくあっさりとドラッグにおぼれたりしない。ドラッグが身を滅ぼすことを充分に知っているから。こんな陽性にラリッた状態にはなれない。この時代は“ドラッグカルチャー”なんていう無邪気な言葉が意味を持てる時だった。でも今は違う。おぼれる場合はもっと悲惨だ。それが体を蝕み、命を縮めることを知っている上、なんたって世紀末なんだから、内に内におぼれてしまう。そう考えれば、まあ、いい時代だったのだよな、ある意味。ヤク中に限らず“ヘンな人”も普通に生きていける時代だった。
んで、一応ストーリーはというと、スポーツ記者のラウル・デューク(ジョニー・デップ)と、彼の弁護士であるサモア人(というのはほんとなのかな)、ドクター・ゴンゾー(ベニチオ・デル・トロ)が「ミント400」というバイクレースを取材するため開催地のラスベガスへと向かい、仕事をやる気がそもそもあったんだか、ドラッグでフラフラで、ホテルは荒らし放題で、……てな物語(?)。宣材には“一見、狂ったような行動を続ける彼らの本当の目的とは……”なんてあるけど、そんなんあるんかい!テリー・ギリアムに監督の白羽の矢がたったのは、言及されているようにその夢幻的、奇術的な映像センスが買われてのことなんだろうけど、やたらとCGに頼っていて、それもまあ、子供がはしゃいでやってるみたいな感じで、サジ加減がよろしくない。人の顔がぐんにゃり曲がったり、バーの客がみんなワニになったり、チンパンジーといっしょに酒飲んだり(このチンパンジーはなかなかキュートでしたけどね)。なんか、なんか違うぞ!と思うのは私だけなんだろうか?
二人の主人公もまたはしゃいでるとしか思えないほどで、これをあっさり“怪演”なんぞと言っちゃっていいんだろうかと悩んでしまう。抑制と言うか、メリハリというか、そういうものは本作では必要ないと言うんだろうか……。うーん、でも面白かったけどね。特にラウル・デュークに扮するジョニー・デップが。最初に彼が、何気なく帽子を脱いだときにはさすがにのけぞりました。え、え、ちょ、ちょっと待って、マジ!?てなもんで。今から考えてみれば、宣材でも予告編でも彼は帽子かぶったまんまだったもんなあ。はい、言っちゃいますけど、ハゲてます。リアルだなあ、あの円形脱毛症からのハゲ方って感じが。ごていねいにフワフワした生えかけの毛までついちゃって。しかも過去シーンでやや若い時の彼は、そのフワフワ毛が多少多いという芸の細かさには思わず笑ってしまった。彼が時々あげる「イー!」みたいな、奇妙な奇声が絶妙、これは笑える。
主人公二人が時々正気にかえるとは言うものの、際限なくキレているもんだからどちらかというと脇役陣のほうが見所がある。相変わらずロリな魅力とその仏頂面がステキ!な肖像画描きの少女、クリスティーナ・リッチや、おびえきったヒッチハイカーのトビー・マグワイア、スピード違反したJ・デップをつかまえ、キスを迫る警官(この切実な孤独感がかもす可笑しさ、個人的に一番好きな場面)などなど、イイですね。
音楽はこの時代に流行った曲のVarious。当然ながらハードなロックが多いけれど、私が一番ツボにはまったのは、狂乱の騒ぎから一夜あけて、メチャクチャのホテルでラウル(J・デップ)が目覚めた時、流れてくるあの曲の場違いな絶妙さ!彼が「なんでこんな曲が流れてくるんだ?」と言った、あのメロウな名曲のタイトルが思い出せない……。そしてオリジナルスコアに布袋寅泰が参加しているのには驚いた。ラスト・クレジット、黒地に白抜きでですんごいでっかくバーンと名前出るんだもん、うおー、カッコイイー!しかし一体どういういきさつで??やっぱり私が無知なだけか……布袋さん、そんなこと言うのもヤボなほど、いつのまにやら“世界の布袋”になっちゃってるってことなんだろうな。★★★☆☆
来期から他のスポンサーに売られてしまう、球団に所属する40歳になった野球選手、ビリー・チャペル(ケヴィン・コスナー)。どうやらそのスポンサーは彼をトレードに出すらしい、一つここで引退を考えてはどうか、と打診されてしまう彼。野球のない人生など考えられなかった彼にとってまさに青天の霹靂な事態。しかしもう若くはないのは判っていたし、肩の痛みにもずっと悩まされつづけている。加えて恋人(ケリー・プレストン)からは突然の別れ話を切り出される始末で……。
といった導入部から始まる本作、この恋人はずっと付き合ってきたのかと思いきや、そこから次々にさかのぼる彼の思い出映像を見ていくと、ここしばらく会っていなかった、久しぶりの再会だということが判る。そして、最初に“ラブ”が来てしまうタイトルに浅はかにも恋愛映画かしらん、と考えてしまいそうになるけれど、“ゲーム”、そう、野球への愛が語られる映画なのであり、彼女の存在は点在するスケッチ風であり、最後の最後に彼は彼女の元へと“戻っていく”のだけれど、それもまた、いかにも港(=女)へ帰る船(=男)といった図式でなんだかなあ、と思ってしまうのである。
だから、恋愛映画ではなく、野球映画として観ればなかなかに感慨深いものもあるのだ。敵の本拠地での、しかももうシーズンも終わるいわゆる消化試合。ビリー・チャペルはこの試合中にこれから先の身の振り方を決めるようにオーナーから迫られている。そのためのメッセンジャー・ボーイまで球場に待機させられている。最後かもしれない試合を、何としてでも全うしたい、数々の思い出を頭によぎらせながら全力で投球する彼。その思い出はとの出逢いや、その娘との交流、ケンカ別れやその後の蜜月など恋愛部分もたっぷりに描かれるものの、彼の投球に力を与えるのは、これまでのさまざまな野球人生のターニング・ポイントの思い出であり、魅力的なのもそちらの方なのだ。そうこうしているうちに、いつのまにやら完全試合目前まで来ているんである。
ケヴィン・コスナーは確かにイイ。何がいいって、彼がおのれの肉体と向き合ったからである。そもそも、“40で引退の瀬戸際に立たされている体力限界の野球選手”というキャラからして、ここの所ミョーにヒーロー然とした、あるいはロマンティックなイイ男をやりたがりだった彼の視点の変換を感じていた。とはいえ、なんたってそのチームの花形ピッチャー役だし、またケヴィンったらイッちゃうかしらん、と思ったりもしたのだけど(「メッセージ・イン・ア・ボトル」なんていい例だ)ライミ監督の手綱が良かったのか、あるいは彼自身の抑制がよかったのか、そうはならなかった。実は最近の(というか結構前からだけど)ケヴィンはすっかりお腹も出ちゃってるのに、完璧にイイ男の役だとか、しかも野球選手だなんて?と思っていたのだけれど、その思いを牽制するかのようなシーンが出てくるのだ。それはロッカー・ルーム。着替えるのにいきなりブリーフ姿になるのにはおおっとお!と思ったが、その後上半身裸になった彼、ため息まじりといった感じで自分の下腹の脂肪をつまんでみたりしちゃうんである。引退をほのめかされた彼の、自分の年齢を否応なく突きつけられるこの場面には、参った。彼が自分の肉体を醜いものとしてさらけ出すなんて思いもしなかったから。
かなり定石通りとはいえ、ビリー・チャペルの“女房役”、捕手のジョン・C・ライリーがイイ。ビリーの親友でもある彼は、もう少しで完全試合を達成してしまうことに気づいたビリーがいささか怖じ気づくのを「絶対に俺達がガッチリ守るから」と背中を叩いて勇気づける。そしてビリーが完全試合を達成したその夜、すっかり泥酔しきった彼、ビリーに「ありがとう、チャッピー(ビリーのことだ)」と言うのである。私はこの時、やめようかと思っていたのはビリーではなく彼の方だったのかな、とちょっと思った。まだビリーよりも全然年若い彼がやめる理由などはないのだけれど、自分の球団が売りに出されてしまうこと、最高の相性だったビリーともうタッグを組めなくなること……その最後の花道に完全試合を達成してくれたビリーにお礼を言ったのかな、なんて思っちゃって……。でもやっぱりうがちすぎだよな、ビリーはやめる決心をするけれど、彼のことは何も触れられないもの。
今は他チーム、しかもここで対戦している敵チームへと移籍した、最高のライバルの打者も良かった。何とも言えない目配せをビリーと交わす彼。ビリーが渾身の投球で彼を三振にうちとると、笑顔こそ見せないものの、“よくやった”という表情をしてビリーを仰ぎ見るあたり、ちょっとジンとしてしまう。
そう、完全試合を達成してしまうんだ、ビリーは。敵チームの本拠地で、そのファンから罵声を浴びつづけながらの投球、彼は最初のうち集中力も高く、こうしたノイズも遮断することが出来たのだけれど(「ノイズ消去」と言って音が消え、周囲の観客もぼやけてしまうというアニメっぽい手法!)肩の痛みもひどくなり、出塁こそされないものの打たれる場面もちらほら出てきてハラハラさせる。このいかにもな展開のハラハラながら、そういかにもなんだ……王道中の王道なドキハラの展開にノセられて、彼がついには完全試合を達成してしまうその時、ああ、やだな、この大仰な音楽、と思いつつもゴーゴーと泣いてしまう。実はそこで終わってしまえば、あー、気持ちよく泣けたわ、と思ってルンルンと帰ることが出来たのだが……。
ほんと、ここで終われば野球に愛をささげたストイックな男の物語として完結することも可能だったのだけど(いや、無理か……それまでに恋愛話もてんこもりだったもんな)、引退を決心した彼は、彼女のいるロンドンに行くために空港に向かうんである。そしてギリギリここで終わってくれればまだ良かったかな、とも思うのだが、彼の引退試合を空港で見て飛行機を乗り過ごしてしまった彼女がまだそこにいて、感動の再会、愛の告白、床に座り込んでの熱烈な抱擁とキスの雨あられ、と来てしまい、あーあーあー、と思っちゃうんである。しかもそのラブラブシーンで終わっちゃうんだもん。「ラブ・オブ・ザ・ゲーム(オーナーに渡す、「野球が好きだから、止めます」とボールに書いたのが原題である“FOR LOVE OF THE GAME”)」のはずが、「ラブ・オブ・ザ・ウーマン」だよこれじゃ?うーんでも、これが感動のクライマックスだったんだろうか……私は一気にテンション下がりまくったけど……。
でも、彼女に会いに行こうと決心することになる、印象的なシーンもあったのだ。この完全試合を達成したビリーが、その夜ホテルで自分に残されたメッセージがゼロなのを聞き、ベッドに座り、むせび泣くシーンがある。彼はちょっと、彼女からのメッセージを期待していたんだろうと思う。ここで最初カメラは引いて彼をとらえており、そのどこか滑稽でとてつもなく哀れな男の姿は胸に迫るものがあったのだけど、カメラはグングンと寄り、泣いている彼をアップで捕らえてしまう。……これもまた、男のみっともない部分を見せたという点でケヴィン、あっぱれではあるのだけど、うーん、やっぱりカメラは引いたままでいてほしかったなあ。
この彼女は16で子供を産んだシングル・ウーマン。エンコした車を蹴っ飛ばしている彼女をビリーが助けたのが出逢い。彼女が美人じゃなかったらこういう展開にならなかったんだろーなーなどとついつい思ってみたりも。彼女が「ELLE」だの「VOGUE」だのという超有名ファッション誌のライターであるというのも、偶然出会った女性の職業としてはちょっとカッコよすぎじゃないの、と思ってしまうのだ。娘を一人で一生懸命育てている彼女の小さなアパートメントは適度に散らかって家庭の匂いがしていい感じなんだけど。でも、ここはお国柄の違いかなあ、一人娘を育てているシングル・ウーマンが結構とぎれもなく恋人が存在するらしく、しかもそのこと自体に娘が反発するのではなく、母親がこれまで幾人かのボーイフレンドが自分の存在のせいで別れてしまったことを気に病んでいる、というのは。日本人である私は思わずこの展開には首を傾げてしまった……。しかもこのラストシーンにおいて、一緒に家族となる幸せを分かつはずである娘は大学の寮に追いやられており、そうした付属分子などいないかのように、たった二人の恋人同士のようなアツアツぶりを見せるんだもんねえ。ま、それまでにこの娘といい関係を結んでいるビリーの姿は描かれているし、ビリーがこの恋人と連絡を取って再会しようと思ったのは彼を非常に慕っているこの娘と再会したからだし、いいんだけどね。
ちょっと文句言い過ぎだったかしらん……。ともあれ、ちまたで言われていた“かつてのケヴィン・コスナー復活”は、確かに正解。彼が自分自身と向き合って役に挑むと、本来のハンサムぶりも自然と出てきてとてもいい感じなのだ。★★★☆☆
本作は、一晩だけの物語。都会の真夜中に知り合った男と女が、いっとき離れたりしながらも朝まで一緒にただただ歩き、ただただ喋る、そんな映画。真夜中に二人の男女、という言葉から想起される生々しさはまるでなく、そこに流れるのは恋でも友情でもない、この一瞬だけはこの相手でなければいけないという、どうしようもなく相手を渇望する同志の感覚。偶然出会った二人は共通の友人を亡くしていた。トオル(村上淳)はその友人、ユウの葬式(通夜?)の帰り道、ナオ(赤松美佐紀)はその葬式にどうしても出る勇気が持てなかった、ひょっとしたらそのユウの恋人だったかもしれない女の子。そのあたりは明確に言葉にはされなくて、ただユウの思い出話をするナオの様子からそうだったんじゃないかな、と思わせるだけで。ユウは自ら命を絶ったのだという。歩道橋から身を投じて。ナオはその気分を味わいたいと思ったのか、それとも本当にユウの後を追いたいと思ったのか、凪いだ川に飛び込む。それを助けたトオル。
コインランドリーで濡れた服をかわかす二人。ナオはトオルの上着を着て、トオルはパンツ一丁で。「死にたいんならさ、今度は歩道橋から飛び込めばいいよ」というトオルの言葉に、初めて二人の共通の友人、ユウの存在が明らかになる。「ユウの友達?葬式、行ってきたんだ」もはや電車もなく、どこに行くともなく歩くトオルの後ろをついていくナオ。そしてその距離は縮まり、二人は並び、時にはナオが先に行き、夜独特の高いテンションの会話を交わしながら、粒子の粗い夜の町を歩いていく。
最初、この都会の街は東京なのかと思ったら、違った。ナオはコテコテの関西弁。劇中で「これ、美味いで」とたこ焼を食べたりする。閉まって静まり返った商店街も、どこか関西の濃いめのたたずまいがある。そして天王寺動物園に行く場面に至ってここが大阪だということがハッキリする。大阪の街も、夜になるとこんなに静まり返り、こんなにシックな青色に沈殿し、こんなに死の匂いが立ち込めるのか……そんな驚き。「それはちょっぴり切なくて、たまらなく心地よい一晩だけのロードムービー」などという惹句と、本当に心地よいテーマ曲「ナイトクルージング」(フィッシュマンズ)が流れる予告編から、もっとなにかファンタジックで、軽く恋の予感のするような作品なのかと思っていたら、違っていた。
そう、この作品は死の重さを否応なく感じさせる。ずっと語られ続けているユウの死はもちろん、全篇夜のその暗い重さも、トオルが自動販売機の受け取り口に発見する子猫の死骸も。彼はその子猫をそっと抱き取って、土を掘り埋めてやる。その時左手の薬指に指輪をしているのが見て取れて、まあ、これは彼、村上淳のホントの結婚指輪なのかもしれないけれど、とにかく彼が結婚している設定だということ(そう言えば冒頭、帰れなくなった、と電話している相手も、奥さんのような雰囲気だったもんな)、この物語がラブストーリーではないことをハッキリさせるのだ。ナオはユウの恋人ではなかったかもしれないけれど、どちらにしろナオはユウのことを好きだったことは多分確実で、トオルはそんなちょっと危なっかしい彼女を伯父さんかお兄さんかあるいはお父さんのようなまなざしでハラハラしながら見つめている、そんな感じ。
朝が近づいてきて、彼ら二人のいる歩道橋の後ろに電車が走っているのが見える。この歩道橋は一度離れた二人が再会したところ。ユウは歩道橋から飛び降りて死んでしまった、実際にこの歩道橋だったかどうかは判らないけれど。でもそのことが頭から離れないトオルとナオには、歩道橋が死を象徴する場所という感覚があって、最初ここを通る場面の二人には暗い影が否応なくまとわりついていた。でも今の二人には、白々と明るくなってきた朝を迎えた二人には、一晩かかって少しずつ荷物を軽くした二人には、ここが出発点のような趣になっている。電車が走りはじめたのに気づいたトオルは、「じゃ、オレ帰らなきゃ」ときびすをかえす。ナオもまた、反対方向に歩き出す。あまりにもあっさりと別れてしまって、もう一度二人ふりむいて走り寄るんじゃないかと思った予想(期待?)もかなえられることなく、いささか拍子抜けしてしまう。でも二人はこの時だけの二人だったんだな、とそれはネガティブな意味ではなくて、この時だけに封じ込められた、大切な関係だったんだと、それが完成されたから、もうこれからの二人には別々の人生があるんだと素直に思えるのだ。だから多分、二人はこれから連絡を取り合うことなどないのだろうし、それでいいんだ、と思う。
全篇夜で明るい場面はあのコインランドリーと電話をかけるガソリンスタンドぐらいしかなく、二人の表情はいつでも判然としないのだけれど、でもその感覚も、必要以上に感情を潜り込ませず、夜や死の重さや哀しみをふわっと緩和してくれる。そして♪アップアンダウン、アップアンダウン……♪とリフレインされるテーマ曲の心地よさがなんといっても好印象。★★★☆☆