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「わ」

2000年鑑賞作品

ワイルド・スモーカーズHOMEGROWN
1998年 101分 アメリカ カラー
監督:スティーブン・ギレンホール 脚本:スティーブン・ギレンホール/ニコラス・カザン
撮影:グレッグ・ガーディナー 音楽:トレヴァー・レビン
出演:ビリー・ボブ・ソーントン/ハンク・アザリア/ライアン・フィリップ/ケリー・リンチ/ジョン・ボン・ジョヴィ/ジェイミー・リー・カーティス//ジョン・リスゴー/テッド・ダンソン


2000/2/10/木 劇場(シネ・アミューズ/レイト)
ドラッグを文化と呼び、キレた描写だけで突っ走って面白がるアメリカ映画が(最近では「ラスベガスをやっつけろ」など)私はいまひとつ好きになれないのだけど、本作に関しては、そういう感覚はなかった。草の葉をモチーフにしたイラストレーションの、可愛らしくシャレたチラシデザインと「ラリ葉っぱ」というキャッチコピーのちょっとボケ入ったキュートさがなんとも魅力で。本作自体はそんなホノボノした作品ではないのだけれど、いわゆるコナもののドラッグの描写のキツさはなく、ハッパを吸って適度にトンでる人々ははたから見ても結構幸福そうですらあり、内容自体はハッパを吸う人々ではなく、ハッパを売る人々の話なのだから。

しかしこのハッパを売るメインの男三人のビミョーな無能ぶりがどんどん事態を悪くしていく。この三人、ジャック(ビリー・ボブ・ソーントン)、カーター(ハンク・アザリア)、ハーラン(ライアン・フィリップ)を指揮していたボス、マルコム(ジョン・リスゴー)が三人の目の前で何者かによって殺されてしまい、三人は他に目撃者がいないことをいいことにボスは遠くに行っていると言ったり、果てにはボスになりすましたりしてヤバい取り引きに手を染めていくのである。山に自家栽培しているマリファナを刈り取っては、加工し、袋詰めしていく。カーターのガールフレンド、ルーシー(ケリー・リンチ)と彼女の集めたパートの女達も加わって。なにか、この辺の描写が妙にマジメに可愛らしいのでマリファナを取り扱っててもイヤな感じがしないのだ。

若い=ノータリンをそのまんま体現しているハーランや、ちょっとマリファナオタク入ってる見るからにアブナ系のカーターと違い、この三人の中でもリーダー格のジャックは見るからに他の二人とは違って落ち着いていてそれなりに頭も切れて度胸もいいのだが、肝心なところの判断能力がガキ並みにノーテンキで、危機に陥るのは結構ジャックのせいが大きいかもしれない。ハーランはバカで臆病だけど、その臆病はしっかり観察していることと、慎重さにつながっており、一番最初にクサ泥棒を見つけるのも、死んだはずのマルコムが戻ってくるのを(実は双子の片割れ)見つけるのも彼なのだ。バカそうに見えて結構役に立つ奴だったりして。しかしその肝ッタマの小ささから、何かとギャーギャー叫ぶうるささにはジャックならずとも閉口するけどね。ジャックはハーランに対して始終「シャラップ!」と言い続けているんだもん。

したたかだけどけっこうココロやさしい顧客、ダニーを演じるジョン・ボン・ジョヴィや、ボスになりすましたジャックを震え上がらせるマフィア?のテッド・ダンソン(意外!)の奇妙な可笑しさなどもイイが、何といってもワキで光ってるのは、このマリファナコミュニティの女帝、シエラを演じるジェイミー・リー・カーティス!マルコムを殺したのは彼女率いるコミュニティの謀略であり、三人を陥れていくのだが、彼女は余裕でそのことをジャックにほのめかし、婉然と微笑んでケムにまいてしまう。彼女の登場シーンはたった一個所、そのコミュニティの収穫祭で、“子供を作るのが趣味”な彼女はすでに数人の子供のほかにあらたに身ごもっているのだけど、胸の膨らみをあからさまに見せた装いでフェロモン爆発である。ダンスを踊るジャックがついついクラッとなるのも納得。凄い存在感。

現題「HOMEGROWN」は自家栽培の意。ドラッグではなく葉っぱで、自家栽培で、手作りで、和気あいあい。死体をやけに怖がったり、マルコムを殺したパイロットに豪雨の中脅されて縮み上がったりと、ヤバい仕事をしてる人間らしからぬところなんか愛しく、“コミュニティ”という響きがミョーにピースフルで、何ともはや憎めなくて困っちゃう。憎めないからって面白いわけでもないけど……“爆笑コメディ”なんて聞いてたけどちっとも可笑しくないし、カーターとルーシーの奇妙な愛情関係も食い足りなかった。しかしこの監督さん、飯田橋の映画館、ギンレイホールみたいな名前だなあ……。★★☆☆☆


若き日の次郎長 東海一の若親分
1961年 93分 日本 カラー
監督:マキノ雅弘 脚本:、マキノ雅弘 小野竜之助
撮影:坪井誠 音楽:服部良一
出演:中村錦之助 丘さとみ 北沢典子 ジェリー藤尾 渥美清 仲宗根美樹 東野英治郎 小沢栄太郎 月形龍之介

2000/1/22/土 劇場(新宿昭和館)
まったく、なんなんだこの面白さは!マキノ節冴えわたるこの展開の早さ、この抜群のリズム、キャラの立ち具合!“緩急”なんてショボい?言葉はマキノ監督には不必要。ぐいぐい押してくる脚本の面白さと、それを役柄なんかじゃなくて、個々人の個性からくる役の読み込み方で立ち上がらせる役者たちのチャーム、いやあ、さすがですわ。

若いのに人望があり、気風がよく、誰もが惚れずにいられない親分の次郎長に中村錦之助。劇中の輩のみならず、観客だって惚れずにはいられない。ああこの人ならば、いくらヤクザと言えども汚いことなんて絶対にしないであろう。男気一本、清らかな少女に愛一筋。敵の悪人がどんなに山盛りいっぱいで立ちはだかっても、彼と、彼を慕う子分たちの正義と度胸の前ではものの数ではないんでい!この頃まだギリギリ20代の若さのキンちゃんは、未だ幼さを残しているとでも言いたいお肌の張りと屈託のない笑顔、ポーンと瞬発力のあるアクションが魅力的。刀のかわりに拳銃を操る新鮮さ、濃い藍の一重も実に粋に似合っている。

そんな次郎長の噂を聞きつけ、ぜひ一度会ってみたいと追っかけてくる森の石松に、こりゃあ、びっくりのジェリー藤尾!まったくもって不勉強ながら私は清水次郎長ものの映画や本をほとんど未見、未読なのでアレなんだけど、でも森の石松でジェリー藤尾って、全く予想外というか、かなり異色。だってさあ、もう出てきたとたんそのバタ臭いこと(笑)!そして彼の登場シーンは同時に彼と旅を共にすることになる少女といきなりのミュージカルシーンになっててこれが上手い!可笑しい!楽しいッ!そしてこれまた意外なことには、ジェリー藤尾の森の石松、これ絶妙なんだ。先々で切る仁義、べらんめえ入ってる早口、この顔とひょろ長い足がにょっきり出ている痩躯からそれが出てくるのが実に不思議な味わいなんだけど、とてもチャーミングなんだよなあ。

もう一人、実は最初はこの次郎長暗殺を命じられていた元侍の大政(月形龍之介、ですよね?)がシブい!彼もまたどこかで次郎長の噂を聞きつけていたのだろう。どうやら最初から彼を斬るつもりなどなく、その度胸と男っぷりの良さにろくに刃もあわせないままに感服して、次郎長の危機にはさっそうと現れて助太刀し、彼の行くところどこまでもついていく。腕が立ち、実に頼りになるところが森の石松と決定的に違うところ(笑)。

そして何といっても喜んでしまうのは、これぞ寅さんの前身、原形!とでも言いたい、流れ者の香具師として渥美清が登場すること!もう登場の最初っからあの絶妙な節回しでアヤシゲな薬を、アヤシゲなサクラを使って売りつける調子の良さがたまらない。彼もまたその次郎長の親分に惚れ込んで、子分となるわけだけど、本人に承諾を得る前からおれあ、次郎長親分の子分なんでい!と公言し、ほんとの子分たちからニヤニヤとツマミあげられるところがオッカシイ。

次郎長親分は、国に残してきた恋女房、お蝶の面影を映した女郎に目が止まるのだけど、そこはキンちゃん、浮気なんぞは考えもしない。貧しいゆえに身売りされ、相手が誰とも判らぬ子を宿してしまったその娘を不憫に思い、そこからそうした女郎の元締めであるドモ安をフンジめちまおうと思う方向に発展するのがイイんだよなあ。その娘を快く引き取る、昔清水一家にいた森の石松のおやじさんがこれまた泣かせやがる。しかも石松とおやじさんの掛け合い漫才みたいな丁々発止の可笑しさといったら!

そしてその大元締めのもとに次郎長以下、子分どもが向かうわけだけど、そのドモ安のおかみさんが昔の大政の女房で、彼女がドモ安を守るため敵の前に身をさらけ出したことで次郎長親分、拳銃をおろすのだ。こんな男でも、死んで欲しくないと思う女がいるのだ、と。そして子分どもにも刀をおろさせ、女郎として売ろうとしていた娘たちの解放を約させる。人の気持ち、女の気持ち、人情を重んじ、無意味な殺生を行わない次郎長の心意気、イヨッ、キンちゃん日本一!

ラスト、すべては円満解決、お蝶と次郎長、箱根へと新婚旅行に出かけるために子分どもと道を分かつ。冷やかされながら二人駆け出し、幕。もう、カワイイんだから!★★★★★


ワンダー・ボーイズWONDER BOYS
2000年 111分 アメリカ カラー
監督:カーティス・ハンソン 脚本:スティーブン・クローブス
撮影:ダンテ・スピノッティ 音楽:クリストファー・ヤング
出演:マイケル・ダグラス/トビー・マグワイア/ロバート・ダウニーJr/フランシス・マクドーマンド/ケイティ・ホルムズ

2000/9/18/月 劇場(みゆき座)
ただいま絶好調のトビー・マグワイアがまたしてもイイ作品に出たというウワサだけで、内容の前知識が全くないまま観に行ったら、ちょっと予想外の話だった。出てくる役者も、一応(?)スターであるマイケル・ダグラスもくたびれた装いで、ロバート・ダウニーJrは玄人受けする役者だし、オスカー女優とはいえ、メジャーな作品ではない映画(「ファーゴ」)での受賞だったフランシス・マクドーマンドもシブいキャスティングだ。トビー・マグワイアだって、ブレイクしたとはいうものの、派手に演じるタイプではない、役へのアプローチの仕方は変わっておらず、これまたシブめの若手である。

しかも内容も、地味というか、シブいというか、作家と編集者と本の物語である本作は、しかも決して華やかな街ではないピッツバーグの、しかも厳しい冬のある三日間を追っており、画的にも相当シブい。死んだ犬が物語のカギになっていたり、マリリン・モンローのレアものジャケットをめぐる騒動があったり、なにかどこまでも風変わりでオタク的なのだが、静かな中で展開されるその雰囲気が面白い。

7年前に発表した小説が文壇で評価されたもののそれ以降一向に書けない大学の教授、グラディ(マイケル・ダグラス)と、その教え子で才能はあるもののかなりの変わり者のジェームズ(トビー・マグワイア)、グラディの編集者で自分の首をかけてグラディの新作を待っているゲイ?のテリー(ロバート・ダウニーJr.)、グラディの不倫相手で大学学長のサラ(フランシス・マクドーマンド)、グラディの家の下宿人で、どうやらグラディにホレてるらしい大学の教え子で利発な美少女ハンナといったメンメン。

相変わらずトビー・マグワイアはイイ。彼の役作りはカッチリとしたキャラクター作りを好む一般的なアメリカ俳優のそれとは明らかに違う。その豊かな感性で、じりじりと役柄に染まっていくという感じで、それはどこか日本の俳優のやり方に似ている感じがする。彼の一種のクラさ(いい意味での)も日本的な感じがするし。彼が日本映画に出たらちょっと素敵だろうなあ!彼はなんだってこうも雪の白にやたら似合って、染まってしまうのだろう。白銀、というような華やかな白ではなく、光を消してしまうような白に。「アイス・ストーム」も「サイダーハウス・ルール」も、やはり静かな雪が、彼の、血の気のないような白い肌に、切ないくらいに映えていて、それだけで物語を感じてしまうほど。

彼の演じるジェームズは、グラディを尊敬してこの大学に入ってきたとはいうものの、重苦しい小説ばかりを書いて、しかも虚言癖とでも言おうか、どうもつかみ所のない若者なんである。今までの、ピュアな役どころが観客の心をギュッとつかんできた彼からしたら、結構ギョウテンものの役どころなのだが、この風変わりなキャラクターを変に作り込む事なく空気で演じてみせてみるあたり、まさしくトビー・マグワイアの真骨頂。彼には実に知的な姿勢を感じる。彼ばかりはブレイクした事で舞い上がり、派手な愚作に出て落ちていくような事はあるまい。

書けない作家、マイケル・ダグラスも、あの色気はどこへやらの、髪は伸び放題、無精ひげにサエないメガネ、外出着も部屋着もセンスゼロという様子が哀歓たっぷり。めでたく奪取したらしいサラとその赤ちゃんに囲まれて静かに執筆しているラストでは、髪もすっきりおひげもあたって、タイプライターからワープロに変わり、実にスマートないつもの彼に戻っており、役者やのお、などと思ってしまうのだが。嫌われている犬に(ジェームズが思わず撃ってしまう!)吠えまくられ、風変わりな教え子で、ライバルともなるジェームズに翻弄され、ずうっとナサケナイ表情とたたずまいの彼は、何だか可愛らしい。

ロバート・ダウニーJr.は、私はかなり好きな役者さん。それにしてもこのオカシナ味わいを静謐に演じているダグラス、マグワイア両者とは違い、彼の色合いはかなり明るめ。というか、その明るさもどこか異様で、この田舎町にやってきたヨソもの、という感覚を強くする。彼はグラディの新作を待ってはいるものの、“カワイイジェームズ”が気に入り、その著作をも気に入り、あっさりとくら替えする。まぁ、ジェームズの非凡な才能に、その人となりを一目見てからピンと来ていたのかもしれないのだが。学長の犬を殺してしまって、しかも(ハリウッド自殺者オタクのジェームズは)モンローのジャケットもその家から盗んできてしまって、お尋ね者になってしまったジェームズは、グラディとテリーによって“幽閉”されている両親の家から救い出されるのだが、その夜、テリーとジェームズはアッサリベッドを共にしてしまう。翌朝二人の部屋をグラディがのぞくと、ハダカのテリーのベッドからやはりハダカのジェームズがつるりと半身をのぞかせる。マグワイアはまだ筋肉が締まっていない、ちょっとぽちゃぽちゃした少年ぽさののこる身体なのだが、かなりイロっぽくてドキドキしてしまう。

モンローのジャケットを手に入れてしまう事になるウェイトレスのウーラと、グラディの車の前の持ち主である彼女の夫(!もんのすごいアンバランスだけど、そうだよね?)は、活字中毒のこうしたヘンクツなインテリどもとは全く違う、言ってしまえば生命の輝きに溢れているような二人である。でも彼らはどこか滑稽でもあり、それは生きていく事だけで精一杯で、人生の意味で悩むような“愚行”を犯していない彼らを茶化しているような描写にも思える。結局、コネクリまわして考えすぎるグラディやその周辺の人間たちも、逆にあまりにも考えすぎない人間たちも、どっちもどっちってことなのだ。人間、バランスが大事なんである。悩む時は悩む、考える時は考える、でも、シンプルに笑ったり、愛し合ったり、美味しいものを食べて気分良くなる事も必要なのだ。

「私家版」や「ナインスゲート」など、欧米には本を題材にした魅力的な映画群が確実に存在していて、それって日本にはないジャンルだよなあ、とちょっとうらやましい。あ、でも日本だったら「トキワ荘の青春」とか、マンガのそれがもっともっと出来るかもしれない。本よりもマンガの方が確実に市民権を得ている国なんて、多分日本だけなんだろうから。★★★☆☆


ワンダーランド駅でNEXT STOP WONDERLAND
1998年 96分 アメリカ カラー
監督:ブラッド・アンダースン 脚本:ブラッド・アンダースン/リン・ヴァウス
撮影:ウタ・ブリーゼウィッツ 音楽:クラウディオ・ラガッツィ:Various
出演:ホープ・デイヴィス/アラン・ゲルファント/ヴィクター・アーゴ/ジョン・ベンジャミン/カーラ・ブオーノ/ラリー・ジラード・ジュニア/フィリップ・シーモア・ホフマン/ジェースン・リュイス/ロジャー・リーズ/サム・スィダー/ホランド・テイラー

2000/1/11/火 劇場(銀座テアトル西友)
こんなにも全編ボサノヴァが、ボサノヴァだけがふんだんに使われる映画が登場するなんて!過去にはあったのかもしれないけれど、少なくとも私は記憶がない。もう、予告編の時から胸が躍っていた。しかししかし、なんでボサノヴァのミューズたるナラ・レオンが使われてないんだー!彼女の声だと思ったのがあったのになあ、クレジットではなかった。あれはエリス・レジーナとかだったのかな?

しかし、映画そのものは、というとうーん、なんてことないんだよなあ。とにかくボサノヴァをこの上映時間中ずっと聴いていられるのが心地いいから、ちょっと甘い点数になっちゃうけれど、映画だけ取り出してみると、はっきり言ってツマランかもしれない。加えて言えば、ボサノヴァが意味があるとも思えない。ヒロインがブラジル音楽が好きで、彼女を口説く男性としてボサノヴァを口ずさむブラジル人が出てきはするけれど、物語に、ボサノヴァを使うべき決定的要素が何もないのだ。ボサノヴァ、ブラジルに必要不可欠な「サウダージ」という言葉もとってつけたような説明でしっくりこない。どちらかといえば、始終ヒリヒリとしているようなヒロインにボサノヴァのおおらかさは似合わないし。なんか、監督がただボサノヴァが好きで使っちゃった、としか思われないんだもの。

ボサノヴァとチラシや予告編のイメージで、フランス映画とかかしらん、と思っていたら、アメリカ映画だった。ま、当たり前だけど、英語。最近現代映画の英語がとげとげしく聞こえて仕方がない。これをフランス語とかポルトガル語の柔らかな発音で聞きたかったなあ、などと夢想したりして。ヒロインのエリン(ホープ・デイヴィス)は夜勤看護婦、冒頭で政治運動家の同棲相手から別れを告げられる。この小太りな、強烈個性のショーン役、フィリップ・シーモア・ホフマンがちょっと面白い。ナルホド、「ビッグ・リボウスキ」のボウラーの一人でしたな。そして彼女に最終的に運命的に出逢うこととなるアラン(アラン・ゲルファント)は、水族館でボランティア・ダイバーをしながら海洋生物学者を目指して猛勉強中。競馬狂いの父親に悩まされ、学費の工面もつかずに水族館の陰謀に巻き込まれてしまう。この展開はいかがなものか、この物語のテーマにうまくフィットしない。その陰謀の渦中にあるお魚、ハリセンボン(バルーンフィッシュ)はかわいらしいんだけどね。

加えてこのアラン、自分に言い寄ってくる恋愛至上主義的なジュリーに対してキッパリしないところもいただけない。彼女が誤解するような誘い方をして、ムードに流されて危うく一線を超えそうになってしまう。でも彼は別に彼女を好きでもなんでもないのに。同じ時、ロマンチストなブラジル人男性、アンドレ(ホセ・ズーニガ)とこれまた同じ展開になっているエリンは、決定的とは行かないまでも恋に落ちているからまだ納得できるけれど。そんで、そのジュリーは他の男性とよろしくやっているところをアランが目撃して事無きを得るんだけど、これもなあ。ズルイよ。性格設定がいいかげんすぎる。ジュリーが本気だったら、アランはずるずると流されていったということなのか。

だから私はこのアンドレの方が断然良かったけど。しかし、彼はエリンに去られた後大して落ち込んだ様子も見せずに、すぐ別の女を口説いちゃって、その点ではジュリーのいいかげんさとさして変わらない。でも彼が口説きに使う、ボサノヴァの名曲の数々で許しちゃおうと思ってしまうくらい、やっぱりボサノヴァは素敵なんだよなあ。その別の女性を口説くのに口ずさみ出す、ああ、大好きなアントニオ・カルロス・ジョビンの「WAVE」!それが最後の最後でようやく出逢ったエリンとアランにも重なっていくものだから。

しかしこれがそんな言われるほど斬新なストーリーなんだろうか?とにかくすれ違いまくる二人が、最後の最後まで出逢わない。ラスト、ほんの数分を共有するだけという、出逢っておしまい、な展開。恋の、一番オイシイところだけ、出会いのときめきだけで終わらせるというのは、逆にちょっとズルいよなあー。それに、出逢ってからの恋は確かにメンドクサイけど、出逢った時のときめきと負けないくらい、いやそれ以上にヤキモキする感情がスバラシイのに。それに二人が能動的に出逢おうとするのではなく、非常に受け身に、偶然に出逢うことで最後まで引っ張るから、あんまりワクワクしない。エリンが能動的に出逢う、交際欄に応募してきた男たちはみなクダラナイ輩で、アランと出逢う前に恋に落ちるちょっとイイ感じのアンドレとの出逢いは偶然。まるで、自分から行動することがムダみたいな描き方も気になる。

それに、エリンはなぜアンドレのもとに行かなかったのか?電車の中の人ごみで息苦しくなって、寄りかかってしまったのがアランだった、という展開で、彼女は空港駅で降りずに彼と二人、終着駅のワンダーランドまで向かうのだけど、そんな、電車の中で目を合わせただけで、好意を持っていたはずのアンドレを忘れるほどアランに運命を感じたとでも言うのか?それじゃあまりに御都合主義だし、そんなロマンティックな雰囲気にも見えなかったけどなあ。確かにその後いっしょに海を見ながらアランと交わす会話は、それまで出逢ったインチキくさい応募男性たちと違って、彼女にピタリと合うものだったから、その時点で恋の予感を感じ始めるなら判るけど……。

冒頭、恋人に去られて一人になってしまったエリンが「でも、孤独は嫌いじゃない」と言う長広舌の方に、実は私は共感したんだけど。もちろん、それは彼女の孤独な気持ちを際立たせるものであって、その後アランと出逢った時にやはり孤独は孤独なんだと思わせるものだったんだろうなあ……。でも、やたらと恋人、恋人と言ってばかりのこの登場人物たち(アランはそうでもないけど)には、それって他人に依存してるだけじゃないの?なんてふうにも思ってしまう。

でもまあ、なんたって、ボサノヴァだから。恋の予感をはらんだ展開の映像にどっぷりボサノヴァの名曲が聴けるというだけで気持ち良くなっちゃうから。多分その辺にだまされて、映画祭で賞とかあげちゃってるんだろうな。

あ、気になってることが一つ。冒頭、ショーンがエリンのもとから去る時、“フトン”(ちゃんと日本語の発音で)を持っていくか否かで口論になるんだけど、なんで、“フトン”なの!?向こうでは“フトン”が流行ってるわけ??★★★☆☆


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