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「こ」


2000年鑑賞作品

Go!Go! L.A.L.A.WITHOUT A MAP
1998年 107分 イギリス=フランス=フィンランド カラー
監督:ミカ・カウリスマキ 脚本:ミカ・カウリスマキ/リチャード・レイナー
撮影:ミシェル・アマチュー 音楽:セバスチャン・コルテラ
出演:デイヴィッド・テナント/ヴァネッサ・ショウ/ヴィンセント・ギャロ/ジュリー・デルピー/ジョニー・デップ/アヌーク・エーメ/アマンダ・プラマー/レニングラード・カウボーイズ


2000/3/3/金 劇場(シネクイント)
まあーったく、“広告に偽りあり”だよなー。ヴィンセント・ギャロ最新作、なんて言って、予告もチラシもどの記事もすっかり彼が主演のように書いているけど、そうではなく、イギリスの片田舎にフラリと遊びに来ていた気まぐれ女優、バーバラ(ヴァネッサ・ショウ)に惚れてロスまで追いかけてきたストーカースコティッシュ、リチャードに扮するデイヴィッド・テナントが主役なんであり、ヴィンセントはサブ主役というのともちょっと違う、彼を立てる脇なんだもん。と思って改めて宣材を見たら、うーむ、確かにヴィンセント・ギャロ主演、とは一言も書いてはいない……ううッ、なんという姑息な!別に別にいいんだけどさあ、ヴィンセント・ギャロが見たくて行ったわけじゃないから……でも、これ、「バッファロー’66」が大ブレイクし、ロングランにロングランを重ねたもんだから、最初は去年の夏(!)に公開予定だったはずのが、半年以上もずれにずれにずれ込んで来ていて、公開までの準備期間が引き伸ばされた結果、次のギャロ作品はこれだ!みたいな予告編を何度も何度も見てしまってすっかりインプットされちゃってさあ……。本作を見ている間中、その心の中のギャップを埋めるのに大変で、今一つ集中力に欠けてしまった……。

ミョーに唇が赤いのが気になるリチャード役の主演、デイヴィッド・テナントは、多分私は未見。どうやら舞台出身の若手ホープらしい。いかにもサエナイ田舎町で葬儀屋の跡取り息子として日々を送るリチャードは、毎日毎日沈痛な面持ちで曇天の空の下を他人の葬儀に参列している。そこに現れ出でる、いかにもアメリカ娘な華やかさを持ったバーバラ。彼女をナンパし、田舎町を自転車でデートする彼はすっかり彼女に惚れ込んでしまい……でも何があるわけでもなく別れてしまう。実は無類のシネフィルで、小説家になる夢を持っている(ライターなのだと言いつつ、新聞の死亡記事を書く“仕事”しか持っていない)彼は、ハリウッドへの憧れもあって彼女の住むロスへとひとっとび!

バーバラにいいように振り回されるリチャードを救い上げ、住まいの提供や仕事の斡旋のみならず、この街の何たるかを教え、無二の親友にまでなるプール清掃人でクールなギタリスト、モスがヴィンセント・ギャロの役どころ。そして、モスがリチャードを通じて知り合い、ラブラブになるのがバーバラの友人、ジュリーに扮するジュリー・デルピー。いまやスターとなったヴィンセント・ギャロと(スターというニュアンスはちょっと違うかな……インディーズ、カルト、カリスマ……うーむ)すでにスターであるジュリー・デルピーのカップルこそが主演の器なのに、このふたりを脇役に押しのけているというキャスティングの不思議。それが功を奏しているかどうかは……?ジュリー・デルピーはほとんど林家パー子さんなみのテンションの高い笑い声を特にギャロの前では常に発し、「私って尻軽女?」、ええ、そのとおり!という感じの女である。彼女がフランス人だとか、フランス系だとかいう設定は何もなく、このロス生粋の、ヤンキー女という役柄を、よりにもよってジュリー・デルピーにふるというのがスゴい。彼女とバーバラが働く日本料理店「ヤマシロ」のウェイトレスの制服が、超、超ミニの、その上スリットが入っているというヤバ系で、バーバラを演じるヴァネッサ・ショウにしても、J・デルピーにしてもおみ足がほんとキレー!なので、いやー、すっかり見とれてしまいました。

そのバーバラ、彼女は女優の卵だというのだが、このハリウッドの、そうしたクダラナイ卵たちを重要視して本質が見えなくなっているんである。彼女を通してハリウッドのそうした部分がはっきりと提示され、痛快。いかにもツマンないプロットを意気揚々と話す“監督の卵”パターソンの薄っぺらさには観客のみならずリチャードもすぐに気づくのに彼女には判らないのだ。加えてこの腐れ縁のパターソンに「主役をやるかわりにセックスを」という条件を出されて一時は怒り狂って別れるのに、その後も「仕事仲間だから」と(しかもその時点ではリチャードと結婚してるのに)よりを戻すアホさ。まあ、結局はその自分の愚かさに気づいて、イギリスに戻ったリチャードを今度は彼女が追いかけて、「イギリスでも映画は作ってるでしょ」というラストとなるわけだが。

本作のなんといっても見所は、ジョニー・デップとレニングラード・カウボーイズのヒップさだ!リチャードがジョニーの大ファンという設定で、部屋に貼った「デッドマン」のポスターで銃をこちらに構えたショットのジョニーが、リチャードが困った時にその手の動きや視線、表情を動かし、何かと指南を示してくれるんである。リチャードのイギリスの自宅にはこのほかにもいろいろな映画のポスターが貼っており、特にジャームッシュファンなのだろう、この「デッドマン」のほかにも目立つところに「ミステリー・トレイン」のポスターも見える。しかも、あの永瀬正敏と工藤夕貴のショットのやつ!そしてリチャードは「デッドマン」のポスターだけはロスまで持参し、モスが提供してくれたこ汚い部屋に貼るのだけど、この部屋に前に住んでいた人間が“カラテマニア”だったらしく、アヤシゲな筆文字で「忍者」と書かれたニンジャポスターやブルース・リーの「燃えよドラゴン」のポスターがひしめいているのが可笑しい。でも、忍者とカラテは違うと思うけど……。

バーバラに振られたリチャードが、自分の一番落ち着ける場所、墓地に来た時には、このジョニーが幻となって現れる。最初私はこれがジョニー・デップだと気づかなくって……地味な格好に制帽をかぶって、何だか顔の印象も違ったんだけど、やっぱり彼。「世界には単純明快な場所が二個所ある。それは墓地とストリップ劇場だ。あんたもストリップ劇場に行ってみたらどうだ」てなことを行って、リチャードに冷えて不味そうなフライドチキンをすすめる。……その後、バーバラに会うために潜り込んだ、有名人の集まるパーティでリチャードはホンモノのジョニーに出会い「いつも指南をありがとう!」と手を握り大興奮するのだが、リチャードにとってポスターと幻の存在でしかなかったジョニーがそんなことを知るよしもなくキョトンとしているのが可笑しい。うーん、ヴィンセント・ギャロとジョニー・デップ、同じ画面で見るのは「アリゾナ・ドリーム」以来ですなあ。ジャームッシュと本作監督のミカ・カウリスマキあるいはその弟のアキ・カウリスマキやこのギャロとの交流が、こんなナイスなキャラでのジョニー出演を実現させたんだろうなあ。

そして、レニングラード・カウボーイズ!あのギャグなバカでかいリーゼント頭にギャロもしっかりならい、ステージでセッションする彼らは最高。しかも、その後にリチャードにからんだパターソンを(というより、リチャードがからんだのか?)を無言で取り囲み、その腕っぷしの強さでパターソンをガッシとばかりに押さえつけ、ギャロにご苦労、ご苦労、みたいに言われて軍隊みたいに斜めに並んでギャロ達四人を見送る彼らがまた最高!あのリーゼントのまま、そして縦ストライプのスーツとサングラスもそのままにというマンガチックさがたまらない。

こうした、ああ、こういうのがシブヤ系なんだなあ、という部分での面白さはあったんだけど……?★★☆☆☆


ゴージャス玻璃樽/GORGEOUS
1999年 121分 香港 カラー
監督:ヴィンセント・コク 脚本:ヴィンセント・コク/アイヴィー・ホー
撮影:チョン・マン・ポー 音楽:デニー・ウォン
出演:ジャッキー・チェン/スー・チー/トニー・レオン/リッチー・レン/エミール・チョウ/チェン・スン・ユン/イレン・ジン/ロウ・イー・ター

2000/1/13/木 劇場(丸の内シャンゼリゼ)
今までのジャッキー映画だと、ヒロインは活躍はするけどあくまで華を添える、といった程度で、ことさらに印象に残ったヒロインは、それもジャッキーよりも強く印象を残したヒロインなぞはついぞなかった。それがあらわれたんである。ジャッキー映画のヒロインはいつでも若くて、だから当然年々ジャッキーとの年の差は開いていくしかないんだけど、そしてそれをあえて感じさせることもなかったんだけど、今回は実にいい方向で感じさせてくれる。人生にお疲れ気味の中年男性と、彼を救い上げる清らかな少女との恋である。おちついた大人の魅力のジャッキーなんていうのが可能だなんてオドロキだし、その“ヒギンズ教授”なジャッキーに相対する問題のヒロイン、“変わらないイライザ”たるスー・チーのなんというカワユサ!彼女を見るのは「夢翔る人 色情男女」に続いて二度目、あの時もキュートなコだなあとは思ったけど、本作の彼女の可愛さったら!!もう!くるくると、イキイキと変化していくそのアクションがとにかくチャーミングなんだよなあ。いわゆる、ファニー・フェイス、目は左右に離れてるし、上唇のほうがたっぷりしているというちょっとエロなアンバランスさ。それが彼女自身のそうした躍動感によって全てがポジティブなキュートさに転化されていくのだ。成人映画から出てきた女優さんとは信じられないほどの、天使のような清らかさ!そういえば、劇中、プウ(スー・チー)がチェン(ジャッキー)をどう落とすかということをアルバート(トニー・レオン)と話し合っている時(ア)「いきなり裸になってもダメよ」、(プ)「裸にはならない」という台詞の応酬があったりしたなあ。

というわけで、今回のジャッキーはアクションはかなり控えめ。恒例のエンドクレジットでのNGシーンも台詞でのNGが多く、アクションでのそれはほとんどない。確かに相変わらず巧みなアクションは(特に後半)満載されているが、ジャッキー映画を見慣れている目には、彼にはなんてことなくあっさりこなせる程度のアクションだよな、などと思う。正直、そのことでジャッキーの魅力が薄れてしまったらどうしよう、などと思い、この作品を見るのを躊躇していたのだけれど、ジャッキーは見事に、疲れたリッチマンの、しかも孤独な姿を、しかもしかも抑制の効いた演技でこなしていて、素敵なんである。そしてそれはベリー・キュート&プリティなヒロイン、スー・チーをこれ以上なく引き立てる。無邪気奔放な彼女を愛しげに見つめるジャッキーの姿たるや!

台湾の漁村に暮らす、まだ本当の恋を知らない夢見る少女なプウ(スー・チー)が、海岸に流れ着いた「君を待っている」というメッセージの入ったワインボトルを拾い、そのロマンチックさに運命を感じて香港へと渡る。しかしその流し主、アルバート(トニー・レオン)はゲイで女嫌い。でもプウの猪突猛進ぶりに負けて、何くれと世話してくれる。このアルバートを演じるトニー・レオン、ゲイというより、オカマっていう感じ。面白いけど、今ではこういうゲイの表現は問題アリかなあ。とにかく、そのオネエなしぐさや、野菜パックしているマヌケな姿、エレベーターでジャッキー扮するチェンと鉢合わせる場面のアセッた表情など爆笑モノである。ゲイの役はお嫌いらしいが、ここでの彼は実に突き抜けている。

そのアルバートの仕事にくっついていって、船上でヒマをもてあましていたプウが目撃したのが、豪華クルーザーで危うく殺されかけている富豪、C.N.チェン(ジャッキー・チェン)。海に飛び込んだ彼を、モーターボートを駆って危機一髪助け出し、しかしそのまま座礁(!)、星を見ながらの一夜を過ごすこととなる。この時に彼女にホレたと後に語るチェンの言うとおり、もうアクセル全開の可愛さで圧倒するプウ。朝になり、通りかかった船に救助してもらって、向かった先がチェンの高給マンション。生活の匂いのしない殺風景な住まい。そこをプウがあっという間に華やかな空気に変えていく。すりガラスの向こうで着替えたり、出されたごちそうに食らいつく(チキンにかぶりつく姿がこんなにカワイイなんて、スゴい!)無防備な彼女を実に愛しそうに眺めやるジャッキー。うー、いいなあ。

幼なじみでライバル(エミール・チョウ。マヌケな部下の一人が「WHO AM I」?の敵ファイターの一人ですね)がしかけたファイターに負けたことで、日ごろ鍛えてなかった自分を恥じたチェンが彼女の応援でトレーニングを開始する。そこがまさに彼と彼女が愛を育んでいく時間。トレーニングの時間に、というのがなんだかジャッキーらしい。黙々とジョギングしたり腕立てしたりするチェンの周りで大和晶氏言うところの“キャンキャンと付いて回る”(確かにそんな感じ!)プウ。そのシーンにかかる、男女デュエットのメロディアスな曲が多少大袈裟なほどに気分を盛り上げてくれる。イイ曲です。

彼の気を引こうと、ヘタな芝居をうつプウだが、それをお見通しだったチェンに意気消沈して彼女は台湾に帰ってしまう。プウがいなくなってからのチェンもまた意気消沈。まったく仕事に身が入らない。そんな社長を心配する部下がまたイイんだなあ。「今までこんなあなたを見たことがない。このままでいいんですか」なんて進言してくる。そしてそこに現われたる、以前チェンを打ち負かしたファイター。かくして彼と再度戦うことになる。グローブをはめてのキック・ボクシングの形態は、いまだにカンフーだと思われがちなジャッキー・アクションがそうではないことを主張しているよう。ここでのコミカルアクションはさすがに絶品。そう、コミカル、ここでチェンは「負けたのは笑顔を忘れたからよ」というプウの言葉を思い出し、途中から満面笑顔で闘うんである。この可笑しさ!

そしてチェンは台湾へとプウを迎えに行く。激怒する父親に拒絶されながらも彼女に愛を届けに。彼が香港から流した、彼女への気持ちを書いた無数のボトルが次々と漂着し、それをかつてのプウのように拾い上げ、運命を感じるたくさんの女性たち。周りからキスをはやしたてられるがそのまま恒例のNGラストクレジットへ。えええ、キスせんのかい!と思っていると、ラストのラスト、劇中のトレーニング場面で出てきたプールで、水中キスをする二人。おおー、美しい!香港映画は水中キスシーンが上手いんだよなー。★★★★☆


ゴースト・ドッグGHOST DOG
1999年 116分 アメリカ=日本=フランス=ドイツ カラー
監督:ジム・ジャームッシュ 脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:ロビー・ミュラー 音楽:RZA
出演:フォレスト・ウィテカー/ジョン・トーメイ/クリフ・ゴーマン/ヘンリー・シルヴァ/イザーク・ド・バンコレ/トリシア・ヴェッセイ/ヴィクター・アーゴ/ジーン・ルフィーニ/リチャード・ポートナウ/カミール・ウィンブッシュ/RZA

2000/2/15/火 劇場(シネセゾン渋谷/レイト)
何とも不思議な味わい。面白いというより興味深く、味わい深く、愛しい。武士道を説いた江戸時代の書物「葉隠」をみずからの指南書とする殺し屋、ゴースト・ドッグ(フォレスト・ウィテカー)の物語で、全編にこの「葉隠」の引用句が彼の行動、その心情の暗示としてちりばめられる。他にも「薮の中」をはじめとする芥川龍之介の短編集「RASYOMON」が出てきたりと、日本、侍道が横溢する、しかし作風はフィルム・ノワールという、意表をついた展開。とんちんかんなサムライ、ゲイシャが出てくることなど一切ない(それこそ現代の邦画のほうがサムライ・ゲイシャになっている気がする……「梟の城」とか)、ストイックな武士道世界は、むしろ、「葉隠」など読んだこともない私も含めた現代日本人が逆輸入したいほどである。

ゴースト・ドッグはニューヨークのとあるビルの屋上に、彼との唯一の伝達手段である伝書鳩たちと一緒に住む。小さな神棚をまつって毎日手を合わせ、刀で居合術の練習をし、鳩たちの中に横たわって「葉隠」を読む。まさしく武士そのものの寡黙な生活。その静謐な居合いはつい最近観た「雨あがる」の三沢伊兵衛のようであり、深く深く精神世界に瞑想していく。しかし刀だなんて、刀で殺し屋稼業やってるのか、それはいくらなんでも……と思いきや、仕事はしっかり銃なんだけど、撃ち終わるとその銃を居合い術風に収めるのが面白い。きっとその時に刀の血を振り払うのと同じようにキナくさい煙を振り落とし、武士道の精神世界に立ち戻るのだろう。その彼が主人と仰いでいるのが、チンピラに殺されそうになっている彼を救ってくれたマフィアのルーイ(ジョン・トーメイ)。それ以来彼には絶対服従、ルーイもゴースト・ドッグを信頼して仕事を依頼する。今回の仕事は、ルーイの属するマフィアのボス(ヘンリー・シルヴァ)の娘ルイーズ(トリシア・ヴェッセイ)に手を出したフランクを消すこと。ゴースト・ドッグは任務を遂行するが、その場にルイーズがいたことから、自らの指示であることを娘にバレることを恐れるボスがゴースト・ドッグ抹殺指令を出してしまうのである。

かなりシリアスな話になってきそうな展開だが、そこを絶妙に緩和しているのが他ならないこのマフィアの面々で、そのボスは話が判ってんだか判ってないんだかっていうようなノーリアクションだし、このファミリーの最長老(ジーン・ルフィーニ。役名は与えられていないらしい)は人のセリフをとんでもない奇声でリフレインするし。加えて、ゴースト・ドッグを消そうと動く二人の老いぼれ組員は“ビルの屋上に鳩と一緒に住んでいるデカイ黒人”という情報を頼りに彼を探すものの、そのビルの屋上にたどり着くまでに階段で息ぜいぜいで死にそうで、しかもぜんぜん関係ない男を殺しちゃうし。その屋上でナントカ族のアメリカン・インディアンである男とアホな問答してキレかかるのも爆笑もんなんである。

一方のゴースト・ドッグはというと、ルーイに身の危険を告げられはするものの、相変わらず静かな日々をおくっている。公園で彼に話し掛けてくるパーリーンは、本をいっぱい持ち歩く文学少女だ。「あなたは友達がいないって、本当?」と聞くパーリーンに「あそこに親友がいる」とアイスクリーム屋を指差すゴースト・ドッグ。そのアイスクリーム屋、レイモン(イザーク・ド・バンコレ)はフランス語しか話せず、ゴースト・ドッグとお互い全く通じていないのに、会話の内容はしっかり通じているというのが凄い。相手の表情で判る部分は勿論、親友ゆえの直感で判るらしいんである。この二人の掛け合いはほんと、よかったなあ。ゴースト・ドッグは確かに孤独で本が友達のようなところがあるんだけど、その本とは対照的な、言葉が通じなくても心が通じるレイモンがおり、なにかそれは「発熱天使」のそれを思い出し、言葉は数あるコミュニケーション手段のひとつに過ぎないんだよなあ、とあらためて思うんである。

逆にゴースト・ドッグと本(言葉)を介在させて心を通じあわせるのがそのパーリーンと「RASYOMON」を彼に貸したかのマフィアの娘、ルイーズ。このへんがね、男同士は言葉がなくても通じるけれど、男と女は言葉がなくては通じ合えないと言っているような気もしてね……ああでもそれは、真実なんだろう。ここでの彼女たちも、そして世の女性達も、「言葉がなくても通じ合える」ことには懐疑的というか、恐れを感じていて、いつだって言葉で確かめておきたいという感情があって。だからゴースト・ドッグも、無意識なんだろうけれど、このレイモンや自分のマスターであるルーイに対しては、言わなくても相手は判っていると思っている部分があるんだけど、女性達には、信頼していないというんではなくて、コミュニケーションを言葉で手繰り寄せようとしている。ゴースト・ドッグとレイモン、あるいはゴースト・ドッグとルーイのような、男同士の関係に女性が羨望と嫉妬を感じるのは、そのせいなのだ。……そうなれない原因が女性自身にあるから。

彼と心を通わせるといえば、もう一人(?)、哀しげな瞳で彼をじっと見つめる真っ黒でやせた犬が忘れられない。それこそ“犬”だから、ゴースト・ドッグの化身のような雰囲気を醸し出す。彼を哀れむように、慈しむように、そのぬれた瞳で彼の心を覗き込むように見つめているその犬、……ああ、何と切ない気分になってしまうのだろう!当たり前だけど言葉もなく彼を見つめるその犬は、きっとオスに違いない?かも。

マフィアと対決せざるをえなくなるゴースト・ドッグは、しかしもちろん主人のルーイを殺すことは絶対にしない。自分をねらうマフィアの手下をルーイの前で殺し、うろたえるルーイの肩を撃って「これで俺がやったと言えるだろう」と言うゴースト・ドッグ。そして全面対決となり、マフィアの集まった屋敷に一人乗り込んでいった彼が、またしてもルーイに遭遇した時、彼は以前と同じ場所を撃ちぬき「余計な穴をあけたくない」と言うんである!いやあ、全く予期していないセリフ、しびれてしまった。この場面で、屋敷に突入する前、外にいる彼らを遠い場所から望遠付きの銃でねらっているのだが、鳥の声や、その鳥が銃に止まってきたりで彼は和んでしまい、彼らを撃つことが出来ないのである。イイ、イイぞ、ゴースト・ドッグ!

ラスト、ルーイとの一対一の対決になるゴースト・ドッグ。しかし、彼は主人を撃てない。いや、絶対に撃たない。ルーイだって、撃ちたくないに決まっている。でも、マフィアの掟もまた“絶対”。この辺はまさしく武士道に通じるのだ……だから、この老人達がかたくなに守っている、今や時代遅れとなってしまったマフィアの世界にもまた「葉隠」はしっくりとハマッてしまうのだ。ルーイに撃ち抜かれるゴースト・ドッグは、パーリーンから返ってきた「RASHOMON」を渡し、「読んで感想を聞かせてくれ」と言って息絶える。その本を持ちかえった車の中にはあの少女、ルイーズがいて……「私の本だわ」と。そう、ゴースト・ドッグがルイーズの恋人を殺した時、彼女が彼に貸したのだ。彼女はいつも、あきらめきったような表情で、嬉しそうな顔どころか恋人が殺された時すら、哀しそうな顔ひとつもしないのだけど、それがかえって哀しくて、彼女は実亙は誰も愛したことがないんじゃないかと思えたりして……でもそれは、ゴースト・ドッグもそうだったのかもしれないけれど。武士道は、美しいけれど、そのどこか諦念の境地はこれ以上なく哀しいのだ。

音楽はヒップホップ。これもまた意表を突かれるのだが、そのヒップホップですら静謐なのだから凄い。ピタリとハマッている。哲学的ですらある。ああそれにしても、レイモンの売っているアイスクリームが美味しそうで、思わずアイスクリームを買って帰ってしまった……。★★★★★


五条霊戦記/GOJOE
2000年 137分 日本 カラー
監督:石井聰亙 脚本:石井聰亙 中島悟郎
撮影:渡部眞 音楽:小野川浩幸
出演:隆大介 浅野忠信 永瀬正敏 岸部一徳 國村隼 粟田麗 船木誠勝 勅使川原三郎 鄭義信 成田浬 細山田隆人 内藤武敏 光石研

2000/10/11/水 劇場(日劇東宝)
義経と弁慶の“国民的伝説”を石井聰亙監督が独自の解釈でひも解いた……と言いつつ、私は、ああ、情けないなあ、国民じゃないのかしらん、そんなん全然知らなかったりして……。昔っから歴史(特に日本史)は苦手な上、そっから派生するお話にもひどく明るくないもんだから……。でもまあ、そんなことは知らなくったって(だってなんたって海外配給までされるんだから!)当然楽しめるんである。実を言うとこれが二回目の鑑賞。一回目は何だかもんの凄く眠くて、記憶が切れ切れで、でも何だかただならないことが起こっている!というのは感じて、で、もう一回観に行った。ちょっとだけやっぱり眠くなったけど((苦笑)うーむ、少々長いのかな)圧倒された。ゴジラでもなく、ガメラでもなく、これぞ日本が海外に堂々と出せるエンタテインメントよ!どんなに大ヒットしてても、間違っても「ホワイトアウト」は絶対に出せない、恥ずかしくて。本作のような作品がヒットしなきゃ、ほんとに日本はダメだ。観客のレヴェルが低下の一途をたどっている(近年質の劣化の激しいハリウッド製エンタテインメント映画に侵されてるのか)ことになる。興行はどうなのだろうか、ヒットしてるかなあ。

さて、浅野忠信&永瀬正敏の共演は確かに興味深いが、彼らが前面に出された宣伝は完全に客寄せパンダ状態だと言うことが判明した。二人の絡みは全く無い上に、主人公は隆大介が演じる弁慶ではないか!完全に。彼は永瀬演じる元刀鍛冶の鉄吉と腐れ縁的に行動をともにし、浅野演じる遮那王と死を共にする運命の相手として凄絶な決戦を繰りひろげ、高僧阿闍梨(勅使河原三郎)の心を痛めさせ、ほとんど魔女狩り状態の“悪霊に取り付かれた妊婦”朝霧(粟田麗)を助け、その赤ん坊を助け……劇中を縦横無尽に渡り歩いてゆく。表面上は経など唱えて静謐だが、その大柄な体と、鍛えぬいた筋肉が隠された張り切った皮膚と強いまなざしが、クライマックスの死闘を充分に予感させる殺気を放っている。勿論、文句なく一番に男前である。

遮那王が平家の武士を夜な夜な惨殺し、その後に餓鬼のように現れて刀を漁る鉄吉。後に運命の舞台となるその五条橋で弁慶と出会う鉄吉は、一見彼を疎ましがっているようでいて、離れずにはいられないのだろう、最後の最後まで見届け、彼の救った赤ん坊をまるで遺言のようにその手に抱きしめる。鉄吉と弁慶はだから、夫婦のような感覚さえ抱かせる。少なくとも鉄吉はホレていたに相違ない。ラスト、白濁した目を凝らしながら、猛火の中、弁慶の名を叫び続ける鉄吉が圧巻である。

鉄吉が弁慶の女房ならば、遮那王は運命の愛人か。石井聰亙監督は「男同士の殺し合いは男同士のセックスを描くようなもの」と言っていたそうだが、まさしくクライマックスの死闘は、それが実に首肯される。この場面だけで、充分に映画史に残る名場面だろう。京劇の動きを取り入れたという、回転の入る殺陣。それを削ぎ落とすだけ削ぎ落とした編集で、こうまで殺気みなぎり、こうまで美しく、こうまで妖しいものなのか!固唾を飲んで見守る鉄吉と、遮那王の影武者&用心棒は、二人の(愛の)炎があまりに激しい故に入り込めないようにすら見えてしまう。

そして雷鳴とどろく中、遮那王に刺し貫かれながら、しかも雄たけびを上げながら太刀を空高く差し上げ、落雷に二人ともども撃ち抜かれるシーンに至っては、セックスのオーガズムに他ならないではないか。しかしそそり立つ太刀は遮那王を貫くことはない。ここに至って、遮那王はいずれの意味でも決して女役などではなく、二人は男同士なのだと思い知らされる。女のように刺し貫かれる弁慶はしかし果てないままのように見えて、果てたのだ。もしかしたら弁慶の方が女役だったのかもしれない。……この直後から五条橋は猛火に包まれ(スッ、スゴい迫力!スゴい、スゴい!!)二人はその中に消え去ってしまうのだ。……意味深長である。

このシーンを最も白眉として、遮那王が殺戮を繰り返すシーンなど、とにかく殺陣が鳥肌ものである。浅野忠信、細山田隆人はじめとする若い役者陣のしなやかで瞬発力のある動きももちろんなのだが、そのカット数、カメラを役者の顔の前に据えた撮り方等々、独創的で、めまぐるしいまでのスピード感をあおるのだ。あんなに速く動いているのに、一瞬一瞬役者の顔がハッキリ見えるというのもオドロキである。背の高い草が殺陣で激しく揺れ動くのも、そのスピード感をあおってゆく。殺陣の型としては昔のものにかなわないのかもしれないが、私はこれほど美しく見える殺陣は初めて見た。

遮那王が殺戮を繰り返すのは夜、しかも昼でも、まさにそこに悪霊やもののけが潜んでいそうな、独特の空気。いかにもなCGの使い方なぞせずに、気配だけで気やもののけの存在を表現し、肌を粟立てさせる。画面はハッキリ見えるものと、闇とがとてもくっきりと色分けされている。それはあたかも、双方の神が拮抗しているようでもある。思えば闇にも、そしてクライマックスたる雷の中にも、そしてギラリと光る刀剣の中にも、人は神を見ているのである。その全てが、ポジティブな唯一神である、光の中の神と相反する、陰の神たち。

キャストの中で、なんといっても拾い物は遮那王の影武者、芥子丸をつとめる細山田隆人君である。予告編を観た時から、「ボクの、おじさん THE CROSSING」のあの子だッ!と思い、既にかの作品とは違うみずみずしい美しさがかいま見えて期待は膨らんでいたが、想像以上!私は彼を「ボクのおじさん……」で初めて見たのでそれ以前は判らないのだが、いやあそれでも「ボクのおじさん……」を観といて良かった。少年の成長を目撃するのは何とも言えず嬉しいもんである。かの作品でも少年期の苛立ちをもてあましている様が魅力的だったけれど、本作ではとにかく美しい。前面に出ている浅野忠信を静かに見つめているという、その位置もまた美しいんである。ちょっとビックリだったなあ、嬉しい。

国際的には、アート系、作家性のある作品ばかりが評価されてきた日本映画が、しかしこれならば、堂々と海外の市場で勝負できる。仙頭プロデューサーにはガンガン動いてもらって、世界中で戦ってもらいたい。★★★☆☆


ゴト師株式会社 ルーキーズ2
2000年 85分 日本 カラー
監督:中田信一郎 脚本:我妻正義 堀松克之
撮影:黒田トシヒコ 音楽:岡田実音
出演:川岡大次郎 黒坂真美 平子悟(エネルギー) 森一弥(エネルギー) りあん 木村圭作 六平直政 黒沢年男

2000/5/22/月 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
カワイイカワイイ川岡大次郎君が出てるんだから、観ないわけにはいかないっすー!というわけで、一週間の限定レイト公開にもめげず、足を運びました。この日は出演者でもあるお笑い二人組、エネルギーがトークライブで来ていて、そのファン達が集まり、明らかにこの劇場の、あるいはこの作品の映画観客のノリとは違っていて、そのはしゃいだテンションに腰が引け気味だったのだけど……。まあ、でも彼らのテンポのいい舞台挨拶はなかなか良かった。彼女たちほどには爆笑できなかったけどね(何であんなに、この世で最高に可笑しいことみたいなウケかたが出来るんだろ……ある意味凄いわ)。「もうルーキーじゃないっすからねえ〜この年で大学生役なんですから」と言う彼らは私とほぼ同い年だったのね。でもパート3には出るそうです。ほんとに作られるのかな?

彼らが“大ちゃん”と呼ぶ、われらが主人公、熱志役の川岡大次郎君は、あれ、大人っぽくなった?きゃしゃな少年ぽい身体に肩掛けカバンと暗いカーキ色と灰色が混じったようなパーカーも前作そのままながら、前作の、あの少女漫画みたいにおっきな瞳が、やや小さくなり、顔が締まった印象。でもやっぱりこの子のまばたきには参るわあ〜、もうほんとに吸い込まれそうになってしまうんだもん!

というわけで、彼の魅力は相変わらず全開なんだけど、今回はねえ……前作ほどにはノリノリになれなかった。まず第一に、なんだか前作よりツクリが雑になってる気がしてしまって。最初に画面サイズであれ?と思ったんだけど、ビデオ作品なんだわね、これ。もう最初からOV市場向けに作られていて、まあそれはいいんだけど、前作はちゃんとフィルムで撮られていたと思うのに(間違ってたらごめんなさい)、今回はビデオ撮りで、画面がかなり粗雑。テレビ画面で見るぶんにはそうでもないんだろうけど、大きなスクリーンに引き伸ばして映すと、そのあまい画面がとても気になってしまう。加えて録音状態が良くなくて(同録だろうね、ビデオだし)、電車や車の音とかもまるで制限なしにジャンジャン入ってきてセリフが非常に聞き取りづらいのだ。こういう基本的なところでコケてしまうのはとても残念なんだよなあ。

加えて前作に比べて(前作に比べてばかりなのは本意ではないんだけど……)川岡君、エネルギーの二人、黒沢年男といったレギュラー陣以外のキャストが今一つ弱い。六平直政氏はさすがの存在感ではあるんだけど、なんたってこれは「ルーキーズ」なので、彼ら若手と対抗するキャストでいきおいがないとツラい。川岡&エネルギーの東都大学パチンコ研究部と対決する、HELLと呼ばれる男二人、女一人の三人組がそれに当たるのだけど、前作の本宮泰風氏の強烈な個性ほどには画面を沸き立たせてくれないんだよなあ。

しかも、今回の物語の根っことなる、ヤスダ(六平直政)率いる中国裏ゴト組織は後半唐突に出てきた印象で、こちらが事態を把握できなくて戸惑っているままに終わってしまった感が強いし。今回はパチンコ店の攻防だの、ゴトの手口だのその応酬だのといった、このシリーズの決め手となる肝心な部分が脇に置かれちゃってて……。HELLのリーダーとその妹であるヒロインが、昔ゴト師だった今は亡き父親の復讐を誓うエピソードがかなり前面に出てきてしまっている(そのカタキとされているのがパチンコ研究部の顧問、姫田教授(黒沢年男。誤解なんだけどね)。うーむ、こういう親子の愛憎をめぐるドラマを織り込むのは実にありがちで、いや、映画を膨らますためにある程度のドラマはもちろん必要なんだけど、それが映画自体の発揮すべき魅力の部分までを侵食してしまうのはなあ。陥りやすいワナではあるんだけど……。

だって、私は前作で、川岡君の魅力にメロメロになったのももちろんあるんだけど、それと同時に、ゴトの手口も含めたパチンコ対決の、運と技術が同時に要求されながらも、意外な落とし穴もスコーンとツボにはまる、スピード感あふれるスリリングな展開に手に汗握ったもんだから、それがあまり感じられなかったことが残念で……。エネルギーのお二人も、前回のギャグの方が冴えてたような気がするんだけど(「日本野鳥の会」のギャグが好きだった!)

いかにもOV作品っぽい、縄で縛られ、ミニスカギリギリというショットを見せるヒロイン、黒坂真美もいささか凡庸な印象。彼女より、小学校から熱志につきまとい、ついには大学のパチンコ研究部にまで追いかけてきた優香役、りあんのはつらつとした女の子ぶりが良かった。関西弁で、彼女といるシーンは川岡君も関西弁で、その腐れ縁の幼なじみ同士といったじゃれあい方がとっても可愛らしくて。

前作を観た時に、この川岡君、もっともっと映画に出て、この魅力を生かせる作品に恵まれて欲しいなあ、と思ったんだけど、映画に関してだけいえば、その後ちっとも見なくって……テレビドラマとかには出てるのかなあ。この子、この素直な感じがとってもいいのに。この年頃でこういう雰囲気の子、なかなかいないと思うんだけど……もったいない。★★☆☆☆


ことの終わりTHE END OF THE AFFAIR
1999年 101分 イギリス=アメリカ カラー
監督:ニール・ジョーダン 脚本:ニール・ジョーダン
撮影:ロジャー・プラット 音楽:マイケル・ナイマン
出演:レイフ・ファインズ/ジュリアン・ムーア/スティーヴン・レイ/イアン・ハート/ジェイソン・アイザックス/ジェームズ・ボーラム/サミュエル・ボールド

2000/10/20/金 劇場(シネスイッチ銀座)
ジュリアン・ムーアは「[SAFE]」の不気味なシリアスさと、「クッキー・フォーチュン」のミョーなコミカルさをどちらも大げさでなく実に軽々とやってのけているのを見て、かなり気になる女優さんになった。本作では、正統派イギリス人男優二人を相手に、イギリス女性、それも、高級官僚の妻という、ハイソなイギリス女性を演じて、これほどまでにしっとりしっくりハマるのだからさすが。いわゆる不倫、大人の恋愛の話で、官能的な場面もその肉体をしっかりさらして熱演している。中年とまではいかないまでも、やはりそれなりに年をとった体つきのジュリアン・ムーアは、それがまさしくこれぞ熟女の(日本で言われているようなオバサン的な表現ではなく)魅力で、見るからに上物だと判るスリップやストッキング、ガーターなどが実に良く似合う。

同監督の「クライング・ゲーム」の時と同じように、宣伝で秘密を口止めされているのだが、まあ、原作ものなんだし、過去に一度映画化されてるんだから(未見。デボラ・カーが演っているというし、評価も高いみたいだから観たいなあ……ソフトが出てないらしいけど)気にせず書き進めます。本作は最初、レイフ・ファインズ扮する小説家の視点から進められ、それが過去へ過去へとさかのぼっていく。当初、過去の不倫相手のサラを呼び出してそれを私立探偵につけさせ、冷たくあしらう彼の真意が判らないのだが、それが段々明らかになっていく。しかし肝心なところが判らない。それは彼女が突然告げた別れであり、彼もそれから2年間、そのことで苦しみ、彼女を憎んでしまったかのような錯覚にまで陥る。そしてその謎が明らかになった時、二人は再び愛し合うのだが、彼女の命がもう残り少ないことを知る……。

彼女側から物語が語られるに至って、ジュリアン・ムーアの感情を必死に押し殺した表情が、ことさらに説得力を持って響いてくる。……なんと上手いのだろう、ジュリアン・ムーア!彼女だったら、なかなか作られないこの年ごろの女性の恋愛映画がいろいろと実現できそう。戦火の轟音で二人の密会がうまく守られている中、しかしそのことで最初の別れがもたらされる場面。目の前で爆風に吹き飛ばされた小説家を(階段のステンドグラスがこっぱみじんに砕ける圧巻の場面!)必死になって抱き起こすものの、その脈は止まり、心臓は止まり、彼女は無信心ながら必死に神に祈るのである。「私から彼を奪わないで。彼を生き返らせてくれるのならば、もう二度と彼とは会いません」……その時、息を吹き返した小説家が彼女の後ろにふらりと歩み寄るのだ。彼女はかなえられた奇跡を喜びつつ、その誓いに従うことを決意して悲嘆に暮れ、しかしそんな感情を表情からはおさえにおさえて口を引き結んで彼のもとを去る……何がなんだか判らず戸惑う小説家。

二人は神によって引き離されたのだ。彼女は彼を救ってくれたことで神に感謝するけれど、そのことを後で知った小説家は彼女を奪った神に嫉妬する。全てが神の意志ならば、彼が死んだと思い込んだ彼女が神に必死の祈りをささげるのもお見通しだったわけで、どこか子供じみているとも思える小説家の気持ちの方が正しいような気もする。しかも彼女の命はもう幾ばくも無いと知れば、彼が神に憤激するのも無理のないことだ。「離れていても愛は変わらない」と言った彼女に対して「僕はそうじゃない」と答えた彼が、しかし実は彼女の言葉が正しく、それどころか憎しみと感じるほどに愛がつのっていったのだから。

盛り上がっているこの二人に対して、めっきり可哀想なのは言うまでもなく彼女の夫の高級官僚なのだが、扮するスティーヴン・レイ、これまた上手いんだよなー。自分の友人が妻と恋に落ちていて、それも決定的な恋愛関係だと知り、おどおどとうろたえている彼。妻に気持ちを(これまたおどおどと)問いただすと「貴方は親友よ」と答えられ「……いい友達でしかないんだろ」と沈む彼。しかし、この彼女の返答はいい言葉だ。実際、夫婦というのはそうなんだろう。決して気持ちが離れてしまったのではなく、しかしかつての恋愛感情が続いているわけではない。生涯でたった一人持てる、異性の親友が、夫婦のお互いの伴侶なのだろうと思う。その親友の絆は、同性のそれよりも固い。生きていく上でのハードルを共に乗り越えているのだから。

夫との関係がそんな風に変化しているからこそ、彼女は小説家と恋に落ちることが出来るわけだが、これが最後の恋となるのである。もし、彼女の命が限られていなかったら、二人の仲がどうなっていたかは判らない。彼女は夫のもとを去って、彼のもとへと行っただろうか。……どうもそうは思われない。「僕を愛しながら、なぜ夫と暮らせるんだ」と小説家が問いただす場面があるが、彼女は夫と彼とに対する気持ちは全く違うものだと言いながら、夫から離れるつもりはないのだから。よくある不倫ものと違うのはここで、結婚関係と恋愛関係が簡単にスイッチ出来ないという、違うものなのだということを上手く納得させることに成功している。それは一歩間違えれば非常に勝手な言い草となるし、実際劇中の男二人は割り切れないままなのだろうが、ジュリアン・ムーアはそのあたりの微妙さを実に巧みに表現している。

そんな三角関係を象徴するように、二人に看取られて死にゆく彼女。愛人である小説家は夫に請われて一緒に住まい、彼女の最期まで夫と共に付き添う。小説家は、この奇妙な居候状態を「すぐにしっくり来てしまった」と驚くのである。このいわば共犯同士となった夫と妻の愛人という奇妙な関係が、、夫婦や愛人同士とは違う、いやそれ以上に強固な絆になるのだから面白い。彼女がついに死んでしまった時、夫は小説家にすがりつき、自分はこれからどうしたらいいんだと泣き叫ぶ。小説家は彼を抱きとめて、僕がついているから、と自分にも言い聞かせるようになぐさめるのだ……死んでしまった彼女の方が、二人のこの関係に嫉妬してしまうかもしれない。自分自身がつなぎ目となった二人の関係に。

原作者、グレアム・グリーンは自分自身の体験をもとに書いたという。つまり愛人の視点である。未読だが、原作でこの映画に描かれたような関係性の違い、つまりは女性側の心理状態がどこまで掘り下げられているのかは興味あるところ。★★★☆☆


五人の賞金稼ぎ
1969年 97分 日本 カラー
監督:工藤栄一 脚本:高田宏治
撮影:鈴木重平 音楽:島津利章
出演:若山富三郎 大木実 真山知子 土田早苗 嵐寛寿郎 天津敏

2000/1/22/土 劇場(新宿昭和館)
この、若山富三郎が貧しい人を救うために医者をやりながら賞金稼ぎをしているというのはシリーズになっているはずなんだけど(知っているだけでこれを含めて三本)、今一つはっきりした資料が出てこない。いつ頃に何本くらい作られたシリーズなんだろう……ま、それはともかくとして、この賞金稼ぎで腕利きの医者、若山富三郎扮する錣(しころ)市兵衛が、代官の悪政に苦しみ、税金につぐ税金で人間らしい暮らしも出来ず、ついに百姓一揆を決意したとある村の名主に依頼されてこの村へとやってくる。途中、いつもの五人の仲間を引き連れて、馬に乗ってさっそうとカッコよく。しかしこの五人のうち、それなりに印象を残すのは市兵衛に惚れているらしいくノ一の陽炎(野川由美子)くらい、なんだよなあ。

仲間の賞金稼ぎたちより数段面白いのが、村人たちや敵である悪代官たち。代官たちに買収されようとしても「私も百姓です!」と言い放つ、村人たちの信頼篤い名主(嵐寛寿郎?)。この河原のシーンでは、膝をつき頭を下げる名主を馬上から憎々しげに蹴散らす代官とのカットバックと、その名主を数人の村人たちが両脇から抱えて救い出すスピード感が印象的。

市兵衛たちが着くと、村人たちは最初、明らかに不信顔。胡散臭い賞金稼ぎが来た、という顔で見やっている。しかしそんな市兵衛が強姦されそうになっている女を助けたりなんだりとしているうちに信頼を得るようになってゆく。寡婦暮らしを何年もしているという一人の女が市兵衛に惚れ込んで、夜、彼に襲いこみをかけるシーンなどは爆笑!イチモツをさぐられびっくり仰天して飛び起き、うろたえる市兵衛にお願い、お願い、とすがりつく女に降参し、よし、わかった、俺も男だ!とふんどし一丁になったところに(笑)、女が突然倒れてしまう。見るとその背には矢がつがれ、猛然とふんどし姿で敵を追いかける市兵衛。

敵がねらっているのは、彼が持ってきていた手回し式連射銃である。刀の戦い一本やりの代官一味は、この連射銃で一気に多勢を失ったのだ。いやー、それにしてもこんなスゴい武器は一体どこから出てきたんだあ!?刀の戦いの中に一人だけ銃を使う奴がいて、形勢が逆転するのはよくある話だけど、こんなアナクロだか斬新だか判らない武器は見たことない。一見、手回し式の電話か、映写機のような動き。これはこの映画のオリジナルウェポンなのかな。

こんな殺伐とした中でも、ちょっとしたロマンスは先述した寡婦女の例のほかにもいろいろありまして。名主の娘と恋に落ちた百姓のせがれ、身分違いと怖じ気づく彼に、彼女は私を抱いて、とずんずん迫っていく。それを寝ながら聞いている市兵衛、「もったいねえな、抱いてやりゃいいだろうに」、なんてつぶやいて、布団がわりにかぶっているむしろから親指をにょきんと突き立てるのがオカしい。その声が通じたわけでもないだろうが、そういうコトになる二人に、軽くため息を吐いて寝返りを打つ市兵衛はさらに可笑しい。

もう一人、忘れられないキャラは、夫が死んで以来気がふれてしまって、始終憑かれたように笑っている女。賞金稼ぎの一人の男につきまとい、何もつけていない前をはだけさせながらニコニコ、じりじりと男に迫っていくコワい可笑しさ!それを市兵衛が押しとどめようとして彼女と一緒にゴロゴロと緩やかな崖を転がってしまうのにも大笑い。

さてしかし、本作は勿論そんなところにばかり見どころがあるんではなくて。代官一味と市兵衛率いる村人たちとの攻防戦のすさまじさはまさしく一級活劇なんである。この間、この一揆を静めるために、もっとお上の人物を呼びにやっているのだが、間に合わない。仲間の村人たちはバタバタと死んでいき、残ったのは未だ自体がのみこめていない子供たちと、ほんの数人だけ。何があったんだ、おまえは何者だ、と詰問するお上に、目に涙を溜めてこれを見りゃあ、判るだろ!と震えるように怒声をあげ、つかみ掛かるシーンでの若山氏、迫真。泣かせます。

前回観た「賞金首 一瞬八人斬り」では、今一つ、若山氏のネッチリさ加減が苦手だったけれど、今回はなかなか良かったなあ。★★★☆☆


殺し KOROSHI
2000年 86分 日本 カラー
監督:小林政広 脚本:小林政広
撮影:佐光朗 音楽:
出演:石橋凌 緒形拳 大塚寧々 深水三章 光石研 山本隆司

2000/11/6/月 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
……ごめんなさい。生理的にどうしてもダメな監督って、いるんだ。私にとっては青山真治とこの小林政広。両者はでも映像の力はやっぱりものすごく感じるから、観に行ってしまうんだけど(と言うより、観ないと文句も書けない。観ても無いのに「日本映画はダメだ」なんていう輩に日々腹がたってるもんで)、でもやっぱりダメ。こういうこと言うと、偽善っぽいフェミニズムみたいでヤなんだけど、二人に共通しているのは、女に対する勘違いの優しさや憧憬。それが侮辱になっているとみじんも気付いてないところ。でも小林監督が私にとってダメなのは、その自己陶酔なまでの映画へのオマージュのせいだと思ってたんだけど、……まったく受け付けなかった「CLOSING TIME」も、面白かったけどやっぱりそこが引っかかった「海賊版=BOOTLEG FILM」もそうだったし。でも、それだけじゃなかったんだ。あるいはその、美しき映画へのオマージュが形は非常に美しいものをつくりだすんだけど、そういう心情的なところでどうしても我慢できない部分があって。

小林監督は、「海賊版=BOOTLEG FILM」に続いて冬の日本を美しく撮ることにかけては右に出るもののいないお人だろう。こんな風に長靴はいてじゃなきゃ外に出られない、なんていう実生活のリアルさをも映しても、充分に美しい。雪の白はただ白ではなく、うす曇りから射してくる太陽の光線によってかすかに青かったりグレイだったり、そして吹き付ける吹雪や、一面雪が降り積もったところで立ち尽くす、その寒さを痛烈に感じるところも美しいのだ。逆に暖房がガンガンにきいていて、パンツいっちょでも(石橋凌がニコちゃんパンツにサングラスといういでたちになる場面が出てくる)大丈夫な室内。ログハウス風で、暖色系の暖かな光に満ちた、広々とした家。主人公の男、浜崎はリストラにあってはいるけれど、本当の豊かな生活というのは、こういうものじゃないのかな、という気がしてくる。

リストラされたことを妻に告げることが出来ずにパチンコ屋で日がな一日暮らしている浜崎に、謎の男が近寄る。そして殺し屋稼業へのスカウト。この謎の男に緒形拳。彼が同年代のほかの俳優たちと一線を画しているのが、こういう部分にあって。他の俳優たちがいわゆるメジャーの匂いが染み付いていて、やれ松竹だ、東映だ、と、そうでなくとも、どこか重鎮めいた役柄ばかりしか回ってこないのに反して、緒形拳は、「流星」もそうだったけど、若い監督や小さなプロジェクトでも積極的に組むし、その中での奇妙なキャラクターに息を吹き込むのを非常に楽しそうにやっている気がする。今回の謎の男も、謎の男という想像しやすいキャラではなく、どこかトボけていて、可愛らしいような、でもアバンギャルドなオッサンが素晴らしく独創的。

最初はおそるおそるこの仕事を始めた浜崎が、だんだんとその魅力?にとりつかれていく。「足がつくのは判ってる」と言いながら、どんどん仕事をこなしていく。……いくら映画というフィクションだといっても、拳銃殺人がそうそう連続して起こるなんて非現実的に他ならないのだが、まあそれもいっか、と思わせる閉ざされた、厳しいファンタジックなロケーションだし。そして彼の知り合い、かつての上司が標的となる日がやってくる……。

最初っからうーむ、と思ってはいたのだけれど、この段に至って決定的に拒絶反応が出てきてしまう。それは、この浜崎の妻のキャラクター。彼女は世間一般的、あるいは男性的視点から見るところの、よくいる専業主婦というやつなのだろうか、夫が働いて養ってくれるのを当然と考えていて、もしもの時に働こうなどという考えはまるでない。実際、夫が失業したと判ると、あっさり殺し屋に夫殺しを頼むのである。その時のセリフが判らない。「あの人、優しすぎるのだもの」なんだそりゃ!?なんか、よくドラマや映画なんかで聞く口当たりのいい言葉だが、正直ここでの意味合いはまるで、ぜっんぜん判んない!彼女、留学している娘にメッチャ甘くて、しかもその甘さの示し方も訳判らない。だって「あなた、まさか恋人が出来たんじゃないでしょうね」と言う前から「お願いだからコンドームはしなさいよ、アメリカはエイズの本場なんだから」と繰り返すんだから理解に苦しむ。別に今の時代だから高校生がセックスどうのこうのとは思わないまでも、恋人ではない男とのセックスを(それも、まるでしょっちゅうやってるみたいな)当然と思っているような母親は一体なんなんなんだ??

彼女は夫から失業したことを打ち明けられて、「……情けない人」と嘆息するのみである。彼が「それでもお前、俺を愛してるんだろ?」と言うと、笑顔で「全然」と返す。その一見なごやかな応酬が繰り返される。彼女が本気で言っているのだと判ってるから恐ろしい場面なのだが、「男って、可哀想なイキモノだよな」とつぶやいていた浜崎を思い返すと、それに対して作った女の造形みたいで、その自慰的な描写がたまらなくイヤになる。そして実際、男はこの程度にしか女のことを考えていないじゃないんだろうかと、そして女がこの程度にしか男のことを考えていないと思っているんじゃないだろうかと思えて。……そうした女の存在の定義の萌芽は「海賊版=BOOTLEG FILM」にあったけれど、本作ではそれが前面に押し出されてて。男が、男だけが一生懸命で可哀想なイキモノだ、とでもいうような……そんなことに心酔するほど良き時代じゃないんだから、もう。

この妻なら仕方ない気もするけど、浜崎がずっとリストラのことを言い出せないでいるのも、結局妻の、女の存在なんてこの程度かと思わせてしまうし。いや、そうでなければこの話自体が成立しないんだからアレなんだけどさ……。でも、初めての仕事が成功した時、謎の男が「こんな時は奥さんを存分に可愛がってやんなさい」っつーのもさあ、まあ、確かによくある展開ではあるけど、女(妻)をバカにしてんのか、オラァ!という気がしないでもないんである。このセックスシーン、演じる大塚寧々も「すごいわ」と繰り返す割には、熱が入ってなくてシラケてしまう。……大体、彼女はこのキャラクターにほんとに納得して演じてるんだろうか?そうだとしても神経疑っちゃうけど、なんかまるで熱意を感じないんだよなあ……。それとも、これが彼女のリズムだからなのか。

彼女から夫殺しを依頼された謎の男は「母親に似てきたな」と言ってその場を去る。……なんなんだ、つまりこの男はこの女の父親なのか?そして、ああ、殺されてしまった!と思った後、耳から血を流しながらも生きながらえてうめいている浜崎のもとに、男が戻って来て、彼を抱き起こす……彼はワザと外したのだろうか。よくわかんないけど、妻が自分を殺そうとしたことを知って、浜崎がこれからどうやって生きていくというんだろうか。逆に残酷な気がするけど。これが男の友情というものなのか?

ちっぽけな男の滑稽な悲哀を熱演する石橋氏だけれど、どうも彼に入り込めないし、特にその滑稽味のところが今一つ可笑しくないのもツラい。突然生への執着心が蘇ってきた上司を追いかけて非情にも撃ち殺すという場面から、この仕事を辞めて家族とともに慎ましやかに暮らす、と決意する場面までの、一番のクライマックスでも、その映像の厳しい美しさには酔うものの、なんだか一歩引いて見てしまう。どんどんどんどん主人公の気持ちから離れていってしまう自分を感じてしまう。

これは、私自身の生理的な、合う、合わないという感覚に過ぎないのだろうから、やっぱりごめんなさい、だなあ……。あ、ついでに言うと、石橋氏と小林監督の対談における、日本映画の現状と、この映画の位置付けに関しても、思いっきり違う!と思っちまったけど。それにしても、最近は(ことに「HANA−BI」以降)海外の映画祭で、日本映画というだけで持ち上げられ、誉めそやされているような気がしてならないのは、言い過ぎだろうか、やはり。本作も、そうなんだよね……。★★☆☆☆


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