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「れ」


2001年鑑賞作品

冷静と情熱のあいだ
2001年 124分 日本 カラー
監督:中江功 脚本:水橋文美江
撮影:津田豊滋 音楽:ENYA
出演:竹野内豊 ケリー・チャン ユースケ・サンタマリア 篠原涼子 マイケル・ウォン 椎名桔平


2001/12/10/月 劇場(日本劇場)
私は割と原作があるものでも気にせず、未読のものでも読まず、出来上がった映画そのものを楽しむタイプ(言い換えればめんどくさがり)なのだが、本作に関しては、原作を読んでみるべきなのかな、とも思った。現代を代表する気鋭の男女二人の作家が、男と女、それぞれの立場から同じ一つの物語を語るというスタイルは何と言ってもスリリングで興味をそそられるし、それが交じり合うことによる文学特有の陶酔感はさぞかし素晴らしいものなのだろうから。……と思ったのは、出来上がった映画の方はヒドくユルい感じがしたから。このユルさはストーリーというより演出というより(うーん、演出も多少、ユルかったかな)“文学的な”小説を映画にした際に出てしまうユルさのようにも感じたから。いや、まあ正直に言うと、主演二人、特にケリー・チャンのあまりのユルさにそりゃないだろ、と思ったのだが……。

実を言うとこの作品を観る気はあんまりなかった。しかしテレビスポットで、映画を観終わった20歳そこそこと思しき女の子が「これまでの日本映画にない……」などとのたもうてやがるのを見て、おっまえー、そんなこと言うほど日本映画観てんのかい!おーし観てやろうじゃないの、という気分がわいたからである。……つまりは多分に見栄っ張りと負けず嫌いの気持ちが作用しちゃったのだ。監督の名前は聞いたことがない。その辺にも多少の危惧を感じながら足を運んだ。テレビドラマの演出家だというのは後で知ったが、観ている間は特にテレビドラマ臭さは感じなかった……のは、舞台がイタリアだったせいかもしれないのだが。大スクリーンにイタリアの絶景の街並みをとらえようという意気込みは確かに感じられ、クライマックスのドゥオモの空撮など素晴らしいのだが、この場面は逆にその絶景に主役二人がのまれてしまって、再会の印象を薄めてしまった感があるのだが……。

と思わず繰り返して言ったように、どうも主役二人が、いけない。でもこれは書き込み自体が甘いのかもしれないとも思う。双子のようにテレパシーが通じ合い、10年前からお互いに思い続けている、しかしどうしようもない傷がお互いをずっとえぐり続けているという、運命の二人なのだが、その絆の強さ、思いの強さをどうしても、どうしても感じることが出来ないのだ。それはそうしたことが例えば友人側から説明されるだけで、具体的なエピソードに欠けるせいなのかな、とも思うし、あるいはやはり主演二人の牽引力に欠けるせいだとも思う。私はテレビはほとんど見ないので、竹野内豊氏の演技自体、ほぼ初見のようなところがあるのだが、これだけではどうも彼の実力の程がつかめない。割と積極性にかける難しいキャラだと思うし、相手役のケリー・チャンの情熱のない演技に引き摺られているようにも見えるからだ。

そうなんだよねー。実を言うと私、ケリー・チャンって、最初に出た時からちっともいいと思ったことがない。表情は固くて乏しくて繊細さにかけるし、泣きのシーンは取ってつけたようなほとんど泣きまね状態だし。スタイルはバツグンで、手足の長いスレンダーな肢体だが、それがほとんど棒立ち状態で全身演技?何それ、って感じだし。そうしたキャラが逆に魅力的に感じられる役柄もあるとは思うが、今までそれを感じたことがない。プラスティック、まさにそのイメージなのだ。例えば、教会の外で10年ぶりに順正の姿を見かけた時、例えば彼とパーティーで再会した時、例えば彼から来た手紙を読む時、例えば10年前の約束の場所で彼を見つけた時、例えばその別れ際に「約束なんかしなきゃ良かった」と彼から言われた時、例えばそのあと彼が追いかけてきてくれてミラノのプラットフォームで何回目かの再会を果たした時……数え上げればきりがないのだが、こっちがグッとくる表情を期待して待っている時に、一度も彼女はそれに応えてくれたことがないのだ。涙目で鼻まで真っ赤にしている時ですら、表情に乏しいとはどういうことなのか?

実はこの彼女のキャラが日本人と香港人のハーフだという設定を知らなかったから、それが物語中で明かされるまで、何でこれが、この日本人の女の子の役がケリー・チャンなんだろう……という違和感がずっとつきまとってはいた。果たしてそのナゾがとかれ、北京語?なまりも英語が堪能なのもアリなのかと合点はいったものの、それがあってもまだ日本の女優の方が良かったんじゃないかという気もした。あおいは“常に冷静で聡明だが、その心の奥には情熱的な愛情が流れ”ているという。なるほど、確かに常に冷静で聡明、には見えるものの、その奥の情熱的な愛情は最後まで感じ取ることが出来ない。これはその点で難しい役柄なのだろうとは思うのだが、この後者の部分こそが大事なのであって、それを感じさせてくれなければ何にもならない。

彼女の演じるあおいもそうだし、竹野内氏の演じる順正も日本語、英語、イタリア語をちゃんぽんにして話す。それは一見ちょっとシャレた雰囲気にも見えはするものの、言葉の持つ霊力、魔力とでもいったものが抜け落ちている感は否めない。彼らが時には英語、時には日本語、時にはイタリア語で話すのが、その時にピタリとくる言葉を選んでいるという感じもしなくて、全くのキマグレにごっちゃになっていると感じるせいもある。あるいはどんなに言葉を尽くしても伝えられないということを暗に示唆しているのか?いやいや、これでは言葉自体を粗末にしているとしか思えないのだが。

私は言葉に対しては特別に思い入れがある。ことに日本語は大事に、大事に扱ってほしいと願っている。全編に渡る順正のナレーションや、順正からあおいに送られる長い長い手紙は、原作の“言葉”をもとにしているのだろうとは思うのだが、それが映像に落とされた時、どう響くのかを、もっと考えてほしかった。そこで語られる言葉は大河に落ちる雨粒のように、落ちたとたんに存在感を失ってしまう。言葉は砂漠に恵む雨のようであってほしい。

正直、彼ら二人の愛情より、振り向いてもらえない切なさを痛感しながらも、ひたむきな愛情をそそぐ芽実とマーヴの方がよっぽど切実感があった。芽実はかなりテンションの高い役柄だから得だとは思うけれど、彼女を演じる篠原涼子は結構イイ女優だと私は思っているので(「ベル・エポック」が良かったんだよなあ)、彼女の全身全霊の演技はかなり好感の持てるものだった。最後の最後に順正に決定的にフラれる泣きのシーンもバツグンだった。ケリーと同じくスレンダーな肢体の持ち主なのだが、それを痛々しいまでに順正に向かって振り絞っていた。マーヴはというと裕福な実業家で、ほとんどあおいを囲うようにしているのが、ヘタすると傲慢に見えかねないのだが、演じるマイケル・ウォンの放つ滋味あふれる包容力のおかげでそうは見えないし、そうした豊かさやあたたかい愛情によってもあおいを振り向かせることの出来ない切なさを感じさせてくれた。順正の友人である崇役のユースケ・サンタマリアは?……うーん、どうだろう……。

東京、フィレンツェ、ミラノ、と三都市を巡る、10年にわたる物語、というのは、ピーター・チャン監督の「ラヴソング」を思い出したりしてしまった。私はこの「ラヴソング」に陥落させられたクチで、こうして思い出しただけで不覚にも涙が出そうなほどなのだが、いやー、何たってあの作品のレオン・ライ&マギー・チャンは完璧すぎたからね。特にマギーは!!三都市を駆け巡る壮大さを描くには、やはりこれくらいのキャストでなければダメなのかも??まあ、物語の世界観は違うけど……、壮大さには、ちょっと欠けたかな……。

絵画の修復士という設定には珍しさもあり、結構心惹かれるものがある。その仕事をしているさまも、まさしく画になるしね……。その、天才的な天分を持つ順正に、嫉妬心から彼の仕事している絵を切り刻んでしまう、師であるダニエラ女史。彼女の彼への複雑な思いが絡まりあって高まって、及んでしまったその行為にも胸を打たれ、孤独の中で唐突に自死してしまうのも衝撃的。推理力の全くない私は、彼女が犯人だということに思いが及ばず、全く単純に高梨がやったのかと思っていたから(単純すぎ……)驚きつつも、ああ、キッペイちゃんじゃなくって、良かった、などと思ってしまうあたり……。その後、順正に事の真相を話し、「真摯に応えちゃう、お前のそういうところがムカつくんだよ」などと順正に対して言うシニカルなところとか、ああキッペイちゃん、やっぱりステキ!と思えて、良かったー。

チェロ奏者はちっとも“ヘタな演奏”ではなく、最初っから上手かったよなー。演奏のバックで10年前と現在、趣の違ったキスを交わすのは……もちょっと入り込みたかったけど、正直少々気恥ずかしかった。原作、素材、設定を考えると、このレベルの落ち着き方はやはりちょっとモッタイナイ気がするのだが……。★★☆☆☆


レクイエム・フォー・ドリームREQUIEM FOR A DREAM
2000年 102分 アメリカ カラー
監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:ダーレン・アロノフスキー
撮影:マシュー・リバティーク 音楽:クリント・マンセル
出演:エレン・バースティン/ジャレッド・レト/ジェニファー・コネリー/マーロン・ウェイアンズ/クリストファー・マクドナルド/ルイーズ・レッサー/ショーン・ギュレット

2001/7/17/火 劇場(シネセゾン渋谷)
いわゆる、過激な、ぶっとんだ描写で構成されている映画に対して、拒絶反応を起こすほどヤワじゃないと思っているんだけど、何だかちょっと生理的にヤだなー、と思ってしまった。……何て言うのかな、もうドラッグものを見るのもウンザリしかけているのだ。あまり見たくない。そりゃまあ、決して問題は解決されているわけではないし、新しいとか古いとか、そういう問題でもないんだけど、それは判っているんだけど……。

舞台は寂れたコニー・アイランド。テレビにしがみつく未亡人、サラは、亡くなった夫、定職につかずフラフラしている一人息子のハリーのみを心の拠りどころにしている、いわゆる男の世話をすることが女の生きがい、という、前時代的な哀しい人物。近所の女友達との交流も、そうした彼女の空虚感を埋めるのには充分ではない。というよりも、あまりにその女の生きがいにこだわりすぎて、友情の本当の価値を見出せていないという方が正解かもしれない。ある日、彼女はいつも見ているテレビ番組の出演依頼が来て狂喜、そのためにはあの息子の卒業式に着た赤いドレスをもう一度、と、ダイエットを試みる。食事療法にはあっさり挫折して、医者に処方された薬で効果が現れてくるものの、その薬の中毒に陥っていく。それに気づいたハリーは、止めようとするものの、彼女の孤独を知ってしまうと、強く言えなくなってしまう。この時、ほんのつかの間の、母親との和解を基点とするようにして、上手くいっていたはずのハリーの麻薬の売買稼業も危うくなっていく。それと同時にハリーも、そして彼の恋人であるマリオンも麻薬中毒に落ちてゆく。

一応、ドラッグのほかにも弱い人間が陥ってしまうものとして、テレビとかチョコレートとか、提示されてはいるものの(というより、監督がそういってはいるものの)結局オモテに見えている中毒症状は、ドラッグによるもののみである。そのあたりに弱さも感じつつ、あるいは逆にドラッグがほかの何よりも強烈に地獄に突き落とす力を持っているともいえるのだが。

ハリーを演じるジャレッド・レトといえば、最初に見た「バジル」(つまんない)の印象の希薄なおぼっちゃまのイメージがいまだにあるので、ほかの作品で観るたびに結構驚いてしまう。本作では本当にやせちゃってて、わかんなかった。ハリーの恋人、マリオンを演じるジェニファー・コネリー、本当に久しぶり。でもまだこの程度の年なの?若かったのねー。あの美少女の代名詞だった彼女がアンダーヘアーも丸出しにジャンキーに陥っていく女を演じているというのはかなり衝撃である。そしていうまでもなくサラを体現するエレン・バースティン。ジャンキーになっていく過程、その目を背けたくなるほど痛ましく容貌が衰えていく様が凄まじい。女優魂出しすぎである。

ドラッグを打つ場面に特に多用される、高速処理された映像のつなぎ合わせ。あるいはまんま、映像の早回し。エトセトラエトセトラ……こうした編集技術を斬新だと持ち上げたりというのも何だか違う気がする。あるいは、そうであったとしても、唯一絶対の新しいものとして残っていくという気もしない。そうしたカッティングの妙でドラッギーな感覚に陥っていくというワザは感じるけれど、それによる痛ましさよりは、監督命名するところの「ヒップホップモンタージュ」の手法が繰り返し現れる手法には、その名のとおりの、音楽的なノリの方を強く感じてしまう。後半における、目も背けたくなる悲惨な状況に突き落とされていく展開はスゴいが、ドラッグの打ちすぎで真っ黒になった腕に刺す注射器の針のアップとか、サラ(エレン・バースティン)がほどこされる電気ショック治療の執拗な繰り返しとか、何だかここまでくると悪趣味なだけのような気がして仕方がない。

前作、「π」の記憶がいまだに鮮やかで。それこそいまだに渋谷の町にペイントされた「π」の文字がかすかに残っていたりして、あの、数にとり憑かれた人間が常軌を逸していく、というある種、洗練された感覚がとても気に入っていたから、その延長線上の期待で見てしまったせいかもしれない。でも思い起こしてみれば、その映像のサンプリング的な手法はその時からあったものだけれど、それが題材の知的さにうまくシンクロしていたんだな。あるいは、このアロノフスキー監督も塚本晋也監督を信奉するお方で、確かに「π」ではそれを感じられたものの、今作は、まあ確かにそうした系譜上に置かれるだろうということはあるのだが、人間の痛みに感情がうまくのっていない気がするのだ。

こと、この部分に関しては塚本監督はやはりそうしたワールドの基本、原点で、非常に上手い。「鉄男」の昔から、一貫して、その痛みをマゾヒスティックに享受している人物の感情のうねりを感じることができる。本作もそれを感じはするものの、それは“悪趣味な”映像に奪われてしまって、うまくシンクロしていかない。映像に引きずられている。映画の命である映像の麻薬的な魅力に作り手本人がだまされてしまっている映画というのは時々見かけるけれど、何だかそんな感じだ。俳優たちが自分の感情にシンクロしきって演じているだけに、その乖離を逆に非常に強く感じてしまう。俳優の生み出している感情がカッティングの上に空回りしている。

強烈な反ドラッグ映画であるということは、疑うべくもない。この映画を観てドラッグをやろうと思う人はいないだろう。どちらかといえば、これまでドラッグを扱った、そしてそれをやっている状態を映像に映し出してくる映画というのは、ドラッグを賛美するということはさすがにないものの、それは一種のカルチャーとしての表現になっており、ここまでドラッグのダークさを映し出すことはなかった気がする。あるいは逆に、ここまでしないと、アンチドラッグを表現できないという点にも恐ろしさを感じる。

しかし、ここまで濃い映画だというのに(それは認める)、オフィシャルサイトのBBSでのやり取りが妙に薄いのが何となく気になる。映画を観て、なにがしかの感慨を抱き、そして書き込もうという過程があるはずにしては、そこに書かれていることは、そうした映像的な衝撃と、エレン・バースティンの熱演と、その程度なことが多くて。……これって、本当にちゃんと監督の意図が伝わっているのかな?いやいや、そんなことをいったら、この私こそが自分の主観のみで文句をつけて、一番判っていない輩なんだろうとは思うのだけど。

「ファストフード・ファストウーマン」で老いてなお情熱の恋におちる女性、エミリーを演じた方をサラの近所の友達の中に発見して意外な嬉しさ。……この作品を観て、ブラッド・ピットがアロノフスキー監督作品への出演を熱望しているとか。「スナッチ」出演にいたるのと同じパターン。この人って、まるで一時期の竹中直人みたいね。新人監督食いして、すぐ次回作出たい出たいっていってる気がする。いいけどさ、別に。でも「π」の時点で気づけよって感じだけど。★★☆☆☆


RED SHADOW 赤影
2001年 108分 日本 カラー
監督:中野裕之 脚本:斎藤ひろし 木村雅俊
撮影:山本英夫 音楽:岸利至
出演:安藤政信 村上淳 麻生久美子 奥菜恵 竹中直人 藤井フミヤ 根津甚八 舞の海秀平 陣内孝則谷啓 篠原涼子 きたろう でんでん 神山繁 福本清三 田中要次 津川雅彦 松重豊 越前屋俵太 アリーナ・カバエワ 中田大輔 ピエール瀧 スティーヴ・エトウ 風間杜夫 吹越満 椎名桔平 矢沢幸治 高岡蒼佑 照英 真山章志 ロバート・スコット

2001/8/20/月 劇場(丸の内東映)
またしてもオフィシャルサイトのBBSの話題から入ってしまう。いやー、びっくりした。何がびっくりしたって、かつてのテレビ番組「仮面の忍者 赤影」に対する冒涜だとかいうことを本気で言っている人がいることである。うーむ、この人はそのテレビ版の赤影を愛しているんだろうけれど、何十年もたった現代での映画化で、そのかつての赤影に忠実な映画が作られるとでも思っていたんだろうか……。しかもである。これには原作があって、テレビ版がオリジナルではないのだから、新しい映像作品にする際の発想はテレビ版とは全く切り離して考えて何ら差し支えないはず。そして一方で、面白くないという意見の人たちが、この作品を面白いといっている人は、過去にどんな映画を面白いと思っているのか、自分は年に何十本と見ているけれどちっとも面白くないとか、何かそういうことを言っている人がしかも複数いて、私は同じ映画ファンとしてもっのすごく恥ずかしいと思ってしまった。何十本も観なければ良さが判らないなんて、ナンセンスなことを言う方に本当に物の価値が判るのか、と反論している人に大きく共感したので、私はあんたらより2倍も3倍もたくさん映画観てるけど、面白かったもん、と書き込みそうになったけどそれは同じ愚かさになるので止めにした。ストーリーが薄いとか、言葉が時代に即してないとかいうこともあまりにベタではないだろうか。

中野監督は確かにミュージック・クリップ出身の監督であり、昨今数多く出ているこの業種からの監督たちには、確かにミュージック・クリップの延長である、映像と音楽のカッティングの手腕ばかりを見せる人たちはたくさんいる。でも中野監督は一見そんなふうに見えて、実はちょっと違うと思う。例えばストーリーの薄さなんていうのは、それこそ映画を数多く観ていくと、逆にそうしたことは気にならなくなっていくのではないか。少なくとも私はそう。ストーリーの波乱万丈にばかり気をとられている、いわゆるハリウッドのドラマものなんかに食傷気味になっていくから。小説ではなくて、映画なんだから、それ以外で見せられる部分があるはずなんである。私はそうした物語よりも、人物ありき、アイディアありきに軍配を上げてしまう。

で、中野監督の場合、それは一見、特に今回の作品に関しては、映像のめまぐるしいまでのカッコよさでばかり語られそうになるけれど、それはあくまで一部分に過ぎないのではないだろうか?確かに「サムライ・フィクション」と本作の流れから行けば、そういう見方になるのかもしれないし、「サムライ・フィクション」が好きだと、単純な比較論で本作はチョットなあ、と思うのかもしれない。ああ、これをいうと、それこそ「映画を数多く観ている云々」というような傲慢な論理になりそうなんだけど、私は「Stereo Future」を観たときに、ああ、この人は映画監督として信頼できる人だ、と思ったのだ。そして「Stereo Future」を観ると、本作で心に残るのは風が吹き渡るやわらかな緑、優しい木漏れ日、音楽の後ろで囁いている慎ましやかなせせらぎの音、そんな自然に対する気恥ずかしいまでにまっすぐな尊敬と愛情の念なのだ。そしてそれは自然から気をもらっている忍者の(これって見落としがちだけど、忍者という深い精神世界に根差した存在にとって、とても大事なことだよね?)、非常にコアな部分に響きあい(赤影が川原で傷を癒す場面なんか顕著)、ああ中野監督だよなあ、などと思ってしまった。

本来なら勧善懲悪のエンタテインメントに、争いごとや殺生をまっこうから否定するテーマを盛り込むのは、いささか無理があるというものだが、そこを譲らないのはこうした中野監督の資質ゆえだろうと思う。そして本作ではそれがかなりの成功を収めている。最小限に人が死ぬ、その死んでしまう最小限の人たちは、皆家族や家族的な情愛を引き摺るから。そして他人を殺した青影にしても、その相手の顔が自分とそっくりだったというくだりには、そう来たか!と唸ってしまった。青影に扮する村上淳のあまりの人間臭さが、その苦悩をリアリティのあるものにしている。

時代劇らしからぬという意見も、その決め事こそがナンセンスであり、その時代のリアリティを言うならまだしも、時代劇としてのリアリティなどあるわけがない。ましてや、時代のリアリティなど、見た人がいないんだから判りようもない。つまりは、時代劇の最も特徴的な点というのは、思いっきり作り事であるという点なのであり、思いっきり作り事にできるという利点でもあるのだ。それを中野監督はよーく承知している。長い間に作り上げられてしまった時代劇のムードを一新することは、中野監督でなくったって、今までの映画監督なら誰しもがやっていることだ。しかもその作り上げられてしまった時代劇というのは、多くはそれこそテレビドラマで作られたものなのだ。そしてテレビは映画の最大のライバル。それならばそれに挑むのは当然ではないか。破天荒な時代劇。その時代、その監督だからこそ作り出すことのできる時代劇というだけのことだ。

赤影の安藤政信は、確かにその“哀しい目”で主人公を張るだけの魅力を放つ。若々しいペーソス溢れるその存在感は、同世代の俳優たちの中で他の追随を許さない。そして彼の相棒ともなる青影の村上淳が、ものすごくイイ。この人特有の眠たげな目がユーモラスなチャームで、子供っぽくケチョンとしているさまが哀しさというよりも可愛らしさで、そしてたまらなくイイ奴。二人共に懸想していた幼なじみのくの一、飛鳥が殺されたことも手伝って、忍びの仕事に大いなる疑問を持つ。赤影の「いつか平和な世が来るから」という言葉の方が、確かに空虚に感じられてしまうほど、青影の持ってしまった疑問は重く、暗く、しかしそこは村上淳だから「美人 あんま」(この言葉の間のスペースが重要!)にだまされたりして笑わせ、救われる思いでほっとする。しかしこの「美人 あんま」は好きだなあ。妖艶に微笑む篠原涼子がナイスである。

いやあ、それにしても、それにしてもである。飛鳥を演じる麻生久美子がッ!この人って最初に観た「カンゾー先生」こそお尻ペロリの無邪気な色気で圧倒したけど、その後は行定勲のヒロインが続いたせいか(つっても、「贅沢な骨」はこれからだけど……予告編のイメージではまたクラそうなんだもん)、なーんかちょっとクラいイメージになっちゃったんだけど、ホントはこんなに陽性の役が似合う人だったのねー。いや、「Stereo Future」でもその明るさは垣間見えていたけど、キャラとそれに連動したちょっと頭悪そうな喋りが受けつけなかったから(というより、緒川たまき&桃生亜希子の姉妹がストライクだったから)その魅力に気がつかなかった。ネズミの真似してチュウチュウ言うつややかな唇に釘付け。それに何と言っても本作の彼女の悩殺くの一スタイルには本気で鼻血が出そうである。その、ほどよく豊かな太ももが網タイツ?に包まれ、スーパーミニミニの(スカート?パンツ?)奥が、アクションのたんびに見えそで見えないそのチラリズムッ!あの衣装デザインは反則なほどに悩殺だよねー。コスプレ心をくすぐられる!?

一応ベテランの忍者のはずなんだけど、どうも心もとない白影の竹中直人は相変わらず達者。これ以上出番が多かったら、また必要以上に作品を食ってしまうところだが、中野監督の出し加減が絶妙。奇妙な擬音を駆使するあたりはまさしく竹中節で爆笑モノ。後半のヒロインとなる奥菜恵は、前半のヒロイン、麻生久美子の印象が脳裏に焼きついているのでちょっと不利で可哀想だし、多分本人はもっと男勝りの女の子で暴れまわりたいと思っていたんじゃないだろうかという気もする。ま、やっぱり可愛いんだけどね。あまりにも多彩で渋すぎる脇役陣の中では、やはり根津甚八が頭一つ抜けてるかなあ。赤影らの影一族と対立する、忍びながらサムライの夢を持つ根来流忍者たち。そのルーツは同じだからこそ、青影が苦悩する原因ともなる彼らは、影一族と表裏一体であり、人間の価値観を揺さぶるだけの説得力がある。赤影をライバル視する藤井フミヤ扮する乱丸は、いささか悪ノリしすぎ?面白いけどね。その弟である力丸の舞の海が、せっかく土俵の上で空高く?舞っていたお方なんだから、もっと活躍させてあげたかったなあ。哀しい最期に見せ場はあったけど。

作り事であるという前提があるんだから文句を言うつもりもないけれど、スタントとキメのカットがはっきりしてて、本人じゃないのがあまりにも判りすぎるのはツラかったかなあ。でも顔がわかっている部分でのアクションは充分キレがあったからヨイけど。特に、麻生久美子のハイキックなぞは運動が苦手だというのが信じられないほどのカッコよさだった。そして音楽。またしてもむしかえすけど、昨今のミュージック・クリップ出身の監督の使う音楽はどれもこれもドラミングとエレキギターばかりがうるさいものだけど、本作の音楽はそうした中でもメロディアスで、実に泣きが効いている。ラストクレジットの曲なんぞは(これは布袋さん?)特にツボツボ。

切れ味よくて、カッコよくって、面白かった、と私は思うけどなあ?★★★★☆


連弾
2000年 104分 日本 カラー
監督:竹中直人 脚本:経塚丸雄
撮影:佐々木原保志 音楽:
出演:竹中直人 天海祐希 箕輪裕太 富貴塚桂香 北村一輝 及川光博 鈴木砂羽 佐藤康恵 松尾れい子 片桐はいり

2001/4/3/火 劇場(渋谷シネパレス)
すでに二回観てしまったのだけれど、二回目を観終わった途端、またしてももう一回観たくなってしまった。ああー、もうもう、ヤバいっすー。スキでスキでたまんない、この映画ッ!ピアノものというだけで“私の好きな映画”第一段階をあっさりクリアしてしまう上に、この楽しさ、この可笑しさ、この愛しさ、この切なさ。そう、一回目に観た時は、楽しさ、可笑しさで涙を流して笑ってて、それでもう一回観に来たい、って思ったんだけど、二回目に観たら、琴線に触れる部分が違うのね。勿論やっぱり面白くて可笑しくてクスクス笑いっぱなしなんだけれど、家族の痛さや切なさ、特に子供の傷ついている部分が、キューンと胸に来ちゃうのだ。映画って二回、三回と観ると、違う部分に目が行くってことは判ってたけど、この映画でこれほどまでに違う感覚が如実に判るとは思わなかった。それでまたさらにスキでスキでたまんなくなった。竹中直人監督作の中でもいっちばん好きだ。これまでの竹中作品は、人間の滑稽さを映すというのはあったけど、それをここまで笑いを前面に押し出すのではなく、しんみりと、小津安二郎チックに、といった感覚が強かった。「119」ですらそうだった。竹中直人の魅力の一つである笑いを、惜しげもなく披露すると、こんなに楽しい映画になっちゃうのか。しかも、それが作用して切なさすらも余計に感じられちゃって。

脚本家との相性が良かったのかもしれない。城戸賞受賞のこの脚本家さんとは、だいぶ意気投合したと聞く。映画化に際してどこまで脚本に沿ったのか、キネ旬に載った時には読まなかったので(とっとけば良かったな)判らないけれど。家族は勿論、脇役に至るまでの登場人物が、愛しすぎるんだよなー!竹中直人演じる主人公、正太郎のなんて楽しそうな専業主夫ぶりといい、その妻でキャリアウーマンの美奈子を演じる天海祐希が「竹中直子になろうと思った」という(大正解!特に娘に突っ込まれて顔を揺らして笑うあの顔はまさしく「笑いながら怒る男」そのものではないか)思い切りのいいコメディエンヌぶりといい、その二人の子供たちの、絶妙の悟りぶりといい、竹中監督の演出の手腕、ここにあり、という感じなのだ。

天海祐希、初めてイイと思った。彼女、トーク番組なんかで拝見すると、ホントにサバサバしててそれがすっごくイイ感じだったから、これまで映画で振られた役がどうもシリアスすぎるというか、彼女のビジュアルのイメージでのキャスティングで、それがつまりはあまりに平凡な思いつきで、逆に彼女自身の味が薄れてしまうという結果に終わっていたわけなんだけど、今回は、まさしく彼女の一番の良さをようやく生かしてくれた、って感じ。不倫相手(北村一輝!!)との情事の後で、窓際でタバコをふかしながら一言「良かったわ」だなんて、完全に男女が逆転してて、痛快!

子役が良かったなあ。この姉弟の二人も、ピアノ教室のピアノのヘタな男の子も。監督の意図どおり、ヘンに芝居ずれしていない、それでいて竹中作品に染まった独特のユーモラスさがすっごく良く出てて。竹中監督の演技指導もそれに耐えた君たちもエラい!

畳敷きの襖の大きな部屋にどんとグランドピアノが置かれているかと思えば、リビングは板張りでテーブルで食事する。外観は洋館風なのに、縁側があって、なんていう、実にステキな和洋折衷のお家。使い込まれた、それでいてちゃんと手入れされている(正太郎の働きぶりが目に浮かぶ!)家のしっとりとした落ち着き具合。冒頭の、夫婦の力関係を即座に理解できる、妻のベッドの方が大きい寝室もグー。あちこちに置かれた彫刻や絵画などの調度品が絶妙中の絶妙。特に「……私は気も弱かった」てなことが味わいぶかい毛筆で書かれた掛け軸には、正太郎の気持ちをあまりにも思わせて大爆笑である。真っ白なあじさいが雨に打たれている美しさ、その庭に流れ出る流麗なピアノの調べ。映画としての美しさとユーモラスさが違和感なく共存しているのにも、ふと気づいて驚かされる。

妻の美奈子が不倫して、離婚ということになって起こる家族の協奏曲。正直言って美奈子は自分勝手なヒドい女で、子供がいるんだからそんなアッサリ離婚とか、あるいはその不倫相手とまだ続けちゃうとかいうのはあんまりだと、普通だったら思うんだろうけど、いや思ってないわけじゃないんだけど、何が良かったのかなあ。この妻の造形を救いのあるものにしようというようなヘンな色気がないところか、天海祐希が徹底した気が強くてワガママな女をユーモラスに転化して演じているせいなのか、どちらにしろ、双方共にキャラクターに対してかばうところがなくて、例えばホラ、昨今のハリウッド映画でよくあるような、悪人でも心に傷を負ってるとか、そういうヘタな背景描写がないところが、上手く作用してるんだと思う。

母親の浮気が許せない、まだまだ心にそういうフクザツなことを持ち込めない下の弟が、でもそれでもやっぱり母親を慕う気持ちを隠せなくて、その葛藤でものすごーく揺れ動いていて。上のお姉ちゃんも、口では世間ずれしたことを言いながら、それはお姉ちゃんであるからこそのある種の見栄であり、やっぱり彼女も弟と同じ葛藤で苦しんでて。一回目に観た時にはとにかく楽しさに心奪われてあんまり見えてこなかったこの子供たちの苦しみが、二回目に観てみると驚くほど心に直球で入ってくるんだ。クライマックスのピアノの発表会で、母親の脱ぎ捨てたビスチェに顔をうずめて泣く弟や、舞台の袖で「真理、死ぬ時は一緒だよ」(なんという、素晴らしい台詞!)と母親、美奈子に言われてこれ以上ないくらいの嬉しそうな笑顔を見せるお姉ちゃんの描写が、母親への思慕を痛いくらいに切なく感じさせて。そうこのシーンの前に、自分が母親を思う気持ちが許せない弟がロビーでグルグルしてて、正太郎が入らないのか、と迎えに来る。弟は、「母さんのこと、まだムカついてる?」と正太郎に聞き、正太郎は一瞬の後、ニコッと笑って「いいや」と首をふる。このシーン、親と子の、お互いがお互いを思いやる気持ちが凄く凄く感じられて、キューンと来ちゃった!

お姉ちゃんの真理に関しては、母親に対する気持ちが、女の子であるが故のもう一クッションあるところが面白い。彼女が妙に世間ずれしたことを言うのも、女の子であるが故で、彼女は今恋しているから、つまりは自分が“女の(母親の)気持ちが判る”と思っているから、なんである。でもそんな彼女が恋するピアノ教室の先生(及川光博。スバラシイ!)が、恋人(松尾れい子。当然スバラシイ!)とセクシーにイチャイチャしているところを(キャーキャー!)見てしまって動揺し、母親に会いに行ってそのひざに泣き伏す場面は彼女の子供らしさ、女の子らしさがとっても良く出ていて秀逸。しかも母と娘でなければ出せないこの関係性もまた、とってもイイのだ。

竹中監督は間が上手いんだよなー。これだけ笑わせる映画で、しかも妻の美奈子と夫の正太郎は顔を合わせりゃ口げんか、取っ組み合い、とアクティブに戦うのに、騒々しさよりも、不思議な静けさの魅力の方をより強く感じてしまうんだもの。それがまた、絶妙な可笑しみで。こういう部分はホント、竹中節だと思う。そういやあ今までは散々小津監督カブレみたいに言われてたけど、本作ではそういうのは全く感じなくって、その竹中節の絶妙さが、こちらの琴線をくすぐりまくるのだ。ああ、そうだ、天海祐希の“竹中直子”のみならず、もう全員が、竹中直人状態なんだ。間のとり方がとにかく絶妙。それを一番感じたのは、ピアノ教室の事務員、佐藤康恵嬢だなあ!彼女の奇妙なノリ、奇妙な美しさ、奇妙な空気感がステキすぎるッ!彼女、あんなに歯が大きかったかしら……でもそのお顔のアンバランスささえ、絶妙なのよ。これは絶対竹中監督、その辺も計算に入れてるに違いない。だってそれでなかったら、あんな顔のアップだけで、そういう“間”を感じさせることなんて、できないもの!

ひっぱりに、ひっぱりまくりました。実を言うと、この作品の最重要ポイント項目は、“鼻歌”なのッ!鼻歌、というより、もっとずっとしっかりメロディも歌詞もついてるんだけど、これは勿論竹中直人監督のオリジナルソング。劇中の登場人物たち、それこそチラリ脇役に至るまでが楽しそうに口ずさんでいたそれらの歌が、ラストクレジットに、ずらーっと並んでいるのには、会場内に満足げな笑いが起きるほどで、本当にもう、嬉しくなってしまうほどの楽しさと可愛さなんだからー!!!個人的なお気に入りは、正太郎が料理をしながら歌う「やっぱり大根」と、受付嬢、佐藤康恵嬢がほんわりと歌う「彷徨えるオランダ人」。ことに「やっぱり大根」は♪トーマトとホウレンソウ♪と映画を観て以来ずーっと口ずさんでしまう始末。ううッ、ヤバいッ!

やたらと脇役で出まくっている竹中直人にはちょいと閉口してたんだけど、やっぱり彼は主役が映える人なんだよね、ってことで。水族館での、特にシロイルカとの共演??の彼にはホレまくったなあ。娘からナサケナイと罵倒されまくってるけど、彼の演じる、じっつに楽しそうな専業主夫はステキすぎるよ!私、専業主婦って、一日中働きづめだし、休みないし、ほんと地獄に飛び込むような過酷な“職業”だと思ってたんだけど、あんなに楽しそうにやられちゃうと、参っちゃうなあ、ほんとに。女弁護士、片桐はいり(彼女もまた、面白すぎ!)が言うように、私だったら絶対こんなダンナ離さないッ!って、私はこんなキャリアウーマンじゃないけど、でも、この正太郎とはホントに結婚したいわああ!

あー、ほんとのほんとに、もう一回観ちゃうかもしれない……この映画、大好き!!★★★★★


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