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「つ」


2001年鑑賞作品

追悼のざわめき
1988年 150分 日本 モノクロ
監督:松井良彦 脚本:松井良彦
撮影:手塚義治 村上聡 井川義之 音楽:菅沼重雄
出演:佐野和宏 隈井土門 村田友紀子 仲井まみ子 大須賀男 日野利彦 白藤茜 皆渡静男 高瀬泰司


2001/12/28/金 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
この映画を今年最後、20世紀最初の年の、最後の映画として選んだ(選んでしまった)ことを、喜ぶべきなのかどうか……。タイトルだけは聞いていて、その美しくも残酷なタイトルに心惹かれていて、ずっと観てみたいと思っていた作品で……実際の作品像はある意味で予想どおりの流れであったのかもしれないが、その流れのレベルはその予想の針を大きく振り切っていた。
スクリーンで上映される可能性のある限り、ビデオ化の予定はないという点で、園子温監督を思い出させ(しかし、この間CDショップで「自転車吐息」がDVDになっていたのを見かけたが……)、この作品を暮れも押し迫った、気分も押し詰まった中で、上映の最終日に時間もぎりぎりに滑り込み、中野の小さな小屋に閉じ込められて、しかもレイトショーで観る、というシチュエイションがあまりにもハマり過ぎて、ちょっとヤバいと思うほどだった。
劇場でしか観られない映画。そんなのあるの、とごく平均的な映画人生を送っている人なら言うかもしれない。でも、あるのだ。ただたんに商売価値がないと判断されただけでそうなってしまうものもあるだろうけれど、監督自身がそれを決断し、映画というものの意味を改めて考えさせてくれるような映画が。そんな映画には、出会いに行かなければいけないのだ。偶然を待っていてはいけない。必然に向かっていかなければ。

「ハトポッポ」と「私の青い鳥」
この二つの無邪気な曲をまったくの正反対のものにしてしまった監督に、思わず憎悪さえ感じつつ、そんな世界に連れ込まれたことに陶酔感も感じていることを隠せない。
物語は一人の青年が「ハトポッポ」を口ずさみながら公園でハトに餌をやっているシーンから始まる。しかし青年の目はどこか揺れている。さまよっている。ふと気づくと腰にはくぎ抜きが差し込んである。一瞬、青年の目が暗くきらめいたような気がする。
と、青年は無心に餌をついばむハトに向かってそのくぎ抜きを振り下ろす。一気に世界が暗転する。青年は噴水に横たわり、ハトの死骸をぶちりと引きちぎる。暗転した世界がぐるぐる回り始める。

この青年を演じるのは、佐野和宏氏。ラストクレジットを観て思わずびっくり。なぜ気づかなかったんだろう……11年前(クランクインはさらにさかのぼって18年前)だから、そうとう若く見えたのか。体格も今よりももっとやせぎすで、きっと今の佐野氏だったら、ある程度長く生きてきたことによる芯があって、こういう役はやれないのだろうと思う。
世の中への憤りというほどにはっきりしたものがあるわけではなく、狂気も暴力も静かで、“長く生きてきたことによる芯”があれば、それをもっと完全に消え去らせる事も可能だったろうけれど、それも出来ない。
公園には二人の女子中学生が無邪気におしゃべりを楽しんでいる。しかし一人の女の子が、昨夜見た夢の話をしている。白いハトがその弱さを補うために人の死肉を食らって黒いカラスになるという話。その話はあまりにも象徴的過ぎるようにも思えたが、その話をしているのが世の暗い部分をまだ何にも見ていないような健康的な女子中学生で(というのも、今は幻想に過ぎないと思えるのだが)彼女らがラストシーンに今度は「私の青い鳥」に乗って現れた狂気に襲われる事を考えると、今になってぞっとするものがあるのである。無垢で無邪気な精神が、打ち砕かれる暗転に。

彼女らが金を恵んでやる傷痍軍人に、この青年、石川は容赦ない鉄槌を振り下ろす。お前ら、日本人の振りした韓国人だろう(チョンル、とかそういう発音をしていたか……)とろくに体の動かない彼らを殴り倒し、アコーディオンを噴水に投げ捨てる。
どこか押し付けがましい哀れさと、騒音に聞こえるほどの口の回らなさをその傷痍軍人に感じてしまっていたこちらの心の闇を見透かされたように思って、心臓の動悸が激しくなってしまった……。
それにしても、この韓国人、という物言いは、その後もちらりちらりと姿を見え隠れさせて、見ないように、触れないようにしていたこちらのうそ寒い偽善者を暴いているようで……。石川自身が在日であるという暗示があったように思ったのだが、そういうことに関してより暗い時代であったその頃と、表面上は友好ムードになってきた今、でもどれほど、本当にそうした意識が払拭されたのか、自信がなくなってしまった……。

石川はこちらを見据えたような証明写真を撮って履歴書に貼り、仕事の面接へと赴く。その経営者は小人症の男。その妹も小人症の女。今まで面接にきた奴らは、自分たちを見るだけで逃げ出してしまったとその男は言う。
しかし石川は彼らがそういう人間だということすら見えていないような、興味のないような感じで、それは何か、差別意識がないという“美徳”が、実は正反対の、無感情の“悪徳”に過ぎないのではないかと思わせてぞっとする。果たして差別意識をなくするということは、それを見つめ、理解し、初めて成り立つものなのではないかと。
石川の視線は彼らがどういう人間で、どんな風に生きてきたということにはまるで興味がない。本当に、ただの経営者の兄妹というだけ。それが証拠に、この妹がバスに乗るのに居合わせ、彼女が屈辱的な目にあっても、彼は眉ひとつ動かさない。そこにはいかにも偽善者風のキザな男がいて、彼が彼女を助けるのだが、二回目に彼女がまたヒドい目に会うと、今度は笑うばかりで助けない。一体、彼女に対してどっちが真摯な対応なのかというと、私には即座に答える事が出来ない。たとえ、二回目の出来事がなかったとしても、である。

石川はマネキンの美女を囲っている。彼女の体に殺した女の臓物を詰め、ヴァギナの道を作ってやり、毎夜ほおずりして愛撫する。彼が夢想するのは、彼女との子供。石川が全裸になってこの美女と真夜中ダンスするシーンは奇妙になまめかしく、ひょっとしたらヘタなセックスシーンよりも官能的なのではないかと思わせるほど。
この内臓もそうだし、日光浴にでも連れて行ったのか、田んぼに横たわらせたこのマネキンに鳥が糞を落としていくのを丁寧に舐めとるシーンといい、そして後述するさまざまなスカトロ趣味の描写が、決して奇をてらったものではなく、本当に怜悧に見つめた、硬質な輝きをすら放っている事には驚嘆する。愛の描写。愛とは相手の内臓も汚物も触れ、食べられるほどの感情。ということは、数あるカニバリズムの映画でわりと平均的に描写されていたことではあるのだけれど、その相手がマネキンだということで、よりその衝撃性が倍加する。
それに、愛を返さないマネキンのはずなのに、石川のいない間彼女を“犯そう”とする浮浪者の男が、石川が彼女のヴァギナに仕込んだ割れたガラス瓶の口によって、哀れその大事なモノがグッサリやられたとき、彼女の瞳に確かに、冷笑のような安堵のような、石川以外の男に触れられることを拒むような光が見えて、思わず映画館の座席から飛びすさりそうなほど、驚愕したのだ。

このマネキンに最後にリンクするまで、物語の筋とは関係なさそうに展開する、こちらは唖然とするほど美しい兄妹がいる。兄妹、なのだろうな……。ちゃんとそう説明されたわけではないような気がするのだが。
言葉をほとんど交わさずに、よりそい、手をつなぎあい、呼吸を触れ合わせるように二人だけの世界を生きているこの兄妹。兄の方は高校生ぐらいなのだろうか。妹の方はせいぜい行って中学生?彼らの声なきコミュニケーションは、その息づかいと、さやさやと耳に触る衣擦れの音がドキドキするほどの色香を思わせて、思わずうろたえてしまう。清純なのに、その壊れる様が目の前に迫っているようで。

彼らはシャッターの閉まった倉庫?のそばを歩く。シャッターの取っ手の穴から光が入り込むのが、その倉庫の内側にカメラが据えられているので描写される。彼らの目がその穴をのぞく。つるりと光るその瞳の気味の悪い美しさに、またしてもうろたえる。絶対、絶対、ここを開ければきっと破滅が待っている。そう思ってこちらが焦っているのに、彼らはまるで吸い込まれるようにそこに入ってしまう。
兄が石蹴り遊びの陣地を地面に描く。懐かしい、と思ったけれども、その形はまるで勃起したペニスを思わせて、またしてもうろたえてしまう。彼女は無心にケンケンパを繰り返す。彼も繰り返す。
しかしそうしていると、なぜかシャッターが閉まってしまう。このシーンの、二人がたたずんでいる中に順繰りに音を立ててシャッターが閉まってゆく場面は、まるで儀式の美しさとこれから始まるそれの残酷さを予期させて余りある、脳裏にこびりつく印象的なシーン。

彼らはその暗闇を逃れるかのように階段を上ってゆく。するりと手をつなぎ合わせる彼らの姿に、胸のざわめきを抑えられない。
ふと明るい場所に出たと思ったそのビルの屋上は、石川とあのマネキン美女の愛の巣である。少女はそのマネキンに引き寄せられてゆく。彼女の目には、そのマネキンが子供を宿しているのが“女の目”で見える。
そのマネキンによりそう彼女を後ろからとらえると、ストライプの清楚なワンピース姿でひざまずく彼女の、そのワンピースがちょっとだけたくし上げられて、すそがやわらかく幼い太ももにゆらいでいる様は、それを見つめる兄でなくとも、心ざわめく色香を放っており、この衝撃的な作品中でも一、二を争う素晴らしいショット。
やはり……兄は妹のつぼみを摘み取ってしまう。そのシーン、おおいかぶさった兄が挿入を試みるその下で、長い黒髪をコンクリートの地面いっぱいに広がせ、苦痛の表情を浮かべる幼い妹の、何という、何という、禁断の美しさ!息苦しくなるほどに美しいその“瞬間”を終えた後、妹からはとめどなく処女の証である血が流れ出す。どんどんどんどん流れ出す。止まらない。妹の目はうつろになってゆく。兄は妹のその流れた血に唇を寄せ、死に行く妹になすすべもなく寄り添う。屋上いっぱいに流血が充満する。ああ、まるで……「処女の泉」のよう。

兄は、たった一人の、愛する妹を自らの手で殺してしまったことで、おかしくなってしまう。彼女を土に葬った後も、また掘り返し、うじのわき始めている妹の腐肉を食らう。
あの美しかった妹の、変わり果てた姿、でもその行為はやはり先述のように、愛を、ただただ愛を感じずにはいられない。自分が“入れた”ことによって死んでしまった妹を、自分の中に“入れて”許しを請うているかのような彼の行為の、ぎりぎりのその感情に。
白骨と化した彼女を往来に横たえさせ、狂ったようにフラフラと舞い踊る兄を俯瞰で(!)とらえるショット。魂となった妹が彼に近づいていくというのは、この流れで言うといささかファンタスティックに過ぎるのかもしれないけれど、でもこの美しすぎる兄、妹にはそれぐらいの幻想も与えてあげたい。

あの小人症の兄妹はというと、“親の遺言”によって、男を知らなければかわいそうな妹のため、彼女の誕生日にのし袋型の布団(!)の中でセックスをする。遺言をしんみりと話す兄に、多分毎回聞かされているのであろうこの妹は「黙って、さっさとやりいや」と冷めている。
そうだ、この舞台は大阪で、みんな大阪弁を喋っているんだけど、あのコテコテの、ケバい大阪のイメージの中でしゃべられている大阪弁と、何という違いだろうか……。
そのセックスを覗き見ている石川。彼はその声を聞きながら、籠のインコを手で捕まえる。また殺してしまうのかとヒヤリとするも、石川はそのインコを手を離して逃がしてしまう。そのインコは、兄妹の、のし袋の布団にぴたりと止まる。それを目にする妹。

次のシーンで兄は血を流して絶命しており、そのインコも絶命しており、一人残された妹は、ひどく冷静に着替えをし、屋上のマネキンを見つけ、そのはらんだ(!)赤ちゃんを取り上げ、あのハトのようにぶちりと引きちぎる.牛乳のような、にごった汚水がしたたり落ちる。
彼女は笑う。狂ったように、いや、狂ってしまって。女になれない、母になれない哀しさなのか。それをマネキンにまで越されてしまった強烈な嫉妬を征服した笑いなのか。彼女は屋上に火を放つ。ゴウゴウと音を立ててすさまじい火が燃え上がり、もうもうと黒い煙を排出する。!!!いくら撮影と断っているであろうからって、何というすさまじすぎる火災シーン!いわゆるインディーズ映画のカテゴリに入るであろう作品とは思えない気迫のこもったカット。

彼女はそんな凶行を終えた後とは思えないほどに、普通にふらりと外に出る。本屋で、パチンコ屋で、そして生徒が逃げ回る中学校で、彼女は暴れまわる。ほら、赤ちゃんの肉や、めずらしいやろ、と人々を追いまわす。
それをカメラは俯瞰でとらえ、ちょこまかとした彼女の動きも中学生たちの動きも同じく見えてきて、そしてそこにかぶさるのがあの「私の青い鳥」で……♪クッククック、というあの明るいと思っていた歌の響きが、これほど無機質で、これほど恐ろしく聞こえるなんて、知らなかった、知らなかった……。

この、鳥が死ぬイメージが頻発するのは、何だろう……。ハトやインコだけではなく、鶏も出てきた。でも、確かに鳥というのには、何か奇妙な気味悪さがあるのは事実。群れて騒いで、与えられた餌をただただついばんでいて、何を考えているのか、さっぱり判らない。
いや確かに、動物なんてみんな何を考えているのかは判らないけれど……でも鳥が一番、判らない。だからヒッチコックもあんな映画を作ったんだろうし。その鳥を、でも確かに無抵抗で無防備なその鳥を殺してしまうことによって感じる、禁断の征服欲、そしてさらに感じる自己嫌悪と自己焦燥のむなしさ。
何を考えているか判らない、理解していない、ただの行きずりの相手を殺めてしまうその行為が、鳥を殺すという、それに比べれば無邪気な行動とぴったりとリンクしてしまうことに思い当たる恐ろしさは!

石川の最期はあまりにも唐突で不意打ちで、アホらしいほど。中学校の校庭に面した土手に座っている石川。つかの間の、ふとした凪の間のようなおだやかな時間。そこに飛んできたカイトを石川が拾うと、追いかけてきた女の子が目の前にいる。思わずまた石川が何かやるのかと緊張で身が縮む。しかし石川からそれを取った女の子は、人見知りの小さな声で、ありがと、とかすかにつぶやき、その場を去ってゆく。
その時、校庭で練習していた円盤投げの学生のその円盤が、すかっとホームランを放つ。思わずほのぼのとしかけた石川の後頭部にヒットする。横顔からザーザーと(!)鼻血を出す石川。昏倒する石川。なぜ、なぜ、この男の最期がこんなものなのか!不条理なほどのあっけなさに呆然と口が開いたままふさがらない。

陰影のくっきりとした、昼の光の不気味さと、夜の闇の漆黒を驚愕の美しさで映し出すモノクロームによる、残酷な映像御伽噺。いつまでもスクリーンでしか出会えない作品であってほしいと、切に願う。まさしくこれぞ奇跡の映画なのかもしれない。★★★★★


ツバルTUVALU
1999年 92分 ドイツ カラー
監督:ファイト・ヘルマー 脚本:ファイト・ヘルマー/ミヒャエラ・ベック
撮影:エミール・クリストフ 音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:ドニ・ラヴァン/チュルバン・ハマートヴァ/テレンス・ギレスピー/フィリップ・クレー/カタリナ・ムルジア/ジョコ・ロジッヒ/E.J.カラハン/トドール・ゲオルギエフ

2001/2/26/月 劇場(シアター・イメージ・フォーラム)
なんともフシギな映画である。チラシの水色、そしてカラフルなセピア色は、チラシ用なんかじゃなくって、ほんとにそれそのままの映像なんだもん。大体タイトルからして……え?ツガル?スバル?といった感じで。ツバル、とは南太平洋上の諸島群からなる国だそうで、えー!?実在の国名なのお!というオドロキ。映画を観ている間は絶対架空の地名だと思っていたから。アバウトな地図にアバウトな地形が描かれるだけだったし、なんといってもこの作品の雰囲気がね……思わず高校時代に使ってた地図帳(……笑)で調べてしまいました。あー、ほんとにある、うわ、ちっちゃあ!ええー、第一次産業にも第二次産業にも第三次産業にも従事してる人がいないことになってるけど……いったいこの国の人たちは何して暮らしてるのー!?(まあ、ただ単に資料を残してないだけだろうけど)

上映される前“特殊に作られた言葉によって……云々……世界中の人が同じ条件で楽しめるように、字幕がありません”とのクレジットで、これまた、えー、うっそお、判るのかなあ、とちょっと不安に襲われる。しかし観てみると、劇中の人物たちはほとんど台詞は発せず、かといって寡黙なわけではなく、喜怒哀楽を声で発しているような、どこかサイレント映画のような趣、大きめのジェスチャーと豊かな表情で充分に表現しているオドロキ。いやー、驚いてばっかりだなあ。一番驚いたのは、さっきもちらっと触れたけどこの画面の色。モノクロなんだけど、モノクロじゃない。セピアなんだけど、セピアじゃない。しかもシーンごとにその色合いを次々と変えてくる。セピアに抑え目のカラフルをほどこしたような独特な色合い。モノクロ撮影のフィルムにあとから少しずつ色付けしたのだという。「EUREKA ユリイカ」のクロマティックB&Wともまた違った雰囲気。実に実にオー、ファンタスティック!

というわけで、この映画。とにかくフシギモードなのだ。ここがどこなのか、判らないし、主たる舞台はもはや寂れたなんもかんも壊れかけた室内プール。そこから出たことのない青年アントン(ドニ・ラヴァン)。彼の父親でオーナーの、盲目のカール。もぎり係の太った中年女性のマルタ。今や客なんてほとんど来ないのだが、アントンとマルタはプールがにぎわっている音をテープで聞かせ、カールにプールの監視員を勤めさせ、彼の生きがいを保っている。そこにやってくるのが数少ない常連客、グスタフ元船長の娘であるエヴァ(チュルパン・ハマートヴァ。くうううう、カワイイ!カワイすぎる!!!)。彼女の名前は私、最後まで判んなかったぞ。アントンは名前を発せられるけど、彼女はとんと呼ばれないんだもん。というか、アントン以外はほとんどキャスト名が判んない。別にいいけど。

アントンの兄であるグレーゴルはプールの再開発をもくろんでいるらしく、この古びたプールがジャマらしい。ジャマというのは判ったけど、再開発をしているまでは……ま、これは単に私がニブいだけですな。アパートの爆破でグスタフとエヴァが住むところを無くしてアントンのところに転がり込んできたというのも……私って、ホントに理解力に乏しいんだ、トホホ。とにかく、このグレーゴルが悪役。金に対する執着心と、父親の手元に置かれている弟アントンへの、そして美少女エヴァがそのアントンと仲良くしているということに対する彼への二重の嫉妬心。ま、そう考えりゃコイツもちょっと可哀想かもしれない。しかもこのグレーゴル、さらにとんでもないことをやらかした。単にプールをぶっ壊すつもりだったのか、最初から誰かを殺すつもりだったのか知らないけど、とにかくプールの天井をぶっ壊しにかかり、その破片の石がプールに落下、グスタフ氏に直撃して彼は帰らぬ人となってしまったのだ。アントンのせいだと思い込んだエヴァは彼をとことん責めまくって、救急車と共にプールを出て行ってしまう。しかもしかも、このオンボロプールを廃業に追い込もうと、グレーゴルの手の内の監査員がやってくる。実際オンボロなんだから、こんな監査が入ったらひとたまりもない。次々にマイナス評価が下される施設。期限が切られ、その日までに問題を解決しなければプールは取り壊されてしまう。

ひとり残されてしまったエヴァは、父親の残した地図に描かれたツバルへの航海を夢見る。そのためには、あのプールにあった水温&水圧を調節するオンボロながら見事に稼動している機械に使われているピストンが必要。あ、なーるほど、だからかあ。今ごろ気付くなよ。でも私なんでエヴァがあのピストンを取ろうとしているのか、良く判んなかったんだもん。しつこいけど、ホントに私ってアッタマ悪いよなー。

エヴァはアントンの隙をついてそのピストンを盗み出す。取り返そうとするアントン。でも彼女に惚れてる彼は、彼女の胸に触れてハッとなったのを気付かれ、エヴァはとっさに彼にキスしてそのピストンをまんまと奪って逃げてゆく。まあ、彼女もアントンのことをまんざらでもないと思っているからこその行為なんだよね。だって嬉しそうなんだもん。それこそ出会いの最初から、更衣室から下着のひっぱりあいっこをしたり、逸しまとわぬ姿で泳いでいるのを見られたりしても、嬉しそうに笑ってたんだもの。かくして、一度もプールの外に出たことのなかったアントンは、ついに意を決して外の世界へと踏み出す。これがラストの、夢の航海への第一歩なのである。

ああ、そうそう、この更衣室でも、ひとり泳いでいる時も、こ、こ、この美少女が(あ、でも童顔だからついそう言っちゃうけど、もう24とかそれぐらいらしいんだけどね)ああッ!その神々しいまでの清楚で清冽ななんという美しい裸体!(なんか、裸体っていうと、イヤラしい?)ああ、もったいない、そんな惜しげもなくなにもかも(いや、ホントに!)さらして……でもキレイ、なんてキレイ。やわらかい陶磁器のよう。このヌードの時のみならず、彼女ミニのワンピース姿が多くって、そのすんなり伸びたきめ細かい肌のなめらかな美脚にもうドッキドキなのだ。常に髪はきちっとアップにしてて、そのしなやかに弓のような曲線を描くうなじといい、……これほど完璧な美少女は、ちょっと私他に思いつきません。「ルナ・パパ」の時もとんでもないカワユイ子だと思ったけど、本作での彼女はまさしく天上の美しさで、しかもキュートで愛くるしく、ああん、もう、たまんない!

このチュルパン・ハマートヴァの超絶カワイさだからこその、ドニ・ラヴァン、なのだよね。まあ、一見すると正直美女と野獣(……失礼)。でもこのドニ・ラヴァンという人のイメージは、とにかく純粋さ。もう結構年だとは思うんだけど、こうした世間知らずの青年が実に良く似合う。彼の親友でプール再監査の大切な協力者であるホームレスの面々も彼のこうした純粋さが良く判ってて、ダッチワイフの差し入れをしたりする(笑)。んで、そのダッチワイフにエヴァから奪ったブラジャーをかぶせて、それをかたわらに(ま、使ってはいないだろうな、彼のことだから)寝入ってしまうカワイサね。そこに、ピストンを盗むために忍び込んできたエヴァが、自分のパンティを脱いでダッチワイフにはかせるというのも、好きだなー!

サイレントを思わせるからこそ、コミカルな早送りとかがすごくキュートにハマってるし、ドニ・ラヴァンの横ストライプのTシャツとか、夢の国への航海とか、ジャン・ヴィゴの「アタラント号」をちょっと思わせるようなところもそうしたクラシカルなファンタジックさでイイんだよなあ。何か、ワクワクする童話を読んでいるみたい。さまざまな職人的なワザを使っているんだろうなと思いつつも、そうした童話的なキュートさに酔わされてしまって。

なんと言ってもドニ・ラヴァン&チュルパン・ハマートヴァの顔合わせを思いついた時点でもう勝利!だけどね。いやいやいや、なんと言ってもなんと言ってもチュルパン・ハマートヴァだ!一体この子は、ホントに現実に存在する人間なのかと思うほど!★★★★☆


冷たい一瞬(とき)を抱いてBASTARD OUT OF CAROLINA
1996年 97分 アメリカ カラー
監督:アンジェリカ・ヒューストン 脚本:アン・メルデス
撮影:アンソニー・B・リッチモンド 音楽:ヴァン・ダイク・パークス
出演:ジェニファー・ジェイソン・リー/ロン・エルダード/ジーナ・マローン/グレン・ヘドリー/ダーモット・マーロニー/クリスティーナ・リッチ/マイケル・ルーカー/ダイアナ・スカルウィッド/スーザン・トレイラー/グレース・サブリスキー/ローラ・ダーン

2001/1/23/火 劇場(俳優座トーキーナイト/レイト)
出来ることならこういう物語は観たくない。矢野顕子さんが「ホーホケキョ となりの山田くん」の音楽を担当した時、現実がすでにひどいのだから、楽しむための映画でまで絶望的な物語を観たくない、と言ったけれど、それがなんだかよく判る。時々たまらなくなるのだ。こんなことまで映画で語るべきなのかと。つらくて画面を見ていられないような映画を。

これは、その誕生からついていなかった女の子の話。交通事故でフロントガラスを突き破って外に飛び出した母親が昏睡状態(というか眠っていた状態)のまま生まれたボーン。その母親、アニーはとにかく男運が悪くて、ボーンの父親にあたる男はしょーもない男として町から追い出されているということで登場すらせず(だからボーンは私生児になってしまう)、ボーンもなついていた二番目の男は雨のスリップ事故でアニーのおなかに子供を残したままあの世行き、そして三番目にあらわれた男は、アニーとお互いどうしようもなく愛し合っていたものの、ボーンに対して性的なものも交えた暴力をふるう、とんでもない奴だった。

ボーンは、この三番目の男を一目見たときから、どこか子供の直感で判っていたんだろうと思う。二番目の男に見せたのとは全く違う、硬い表情。それは少女期特有のバリヤーが働いていたとも思えるのだけれど、それが逆にこの男を惹きつけてしまう。彼が最初に手を出したのは、アニーが彼の子供を今まさに生まんとしている時。待っている車の中で、ボーンをひざに乗せ、一人で興奮し、ものも言えない彼女にいきなり突っ込んでしまう。……最悪。この後こうした描写が続くんだろうと予期できるので、もはや劇場を出たくなってしまう。レイプ描写はただでさえ最悪なのに、それがこんな小さな、まだ10歳かそこらの女の子に対してやられるので、吐き気すら覚えてしまう。……しかもこの男が待ち望んだ男の子と信じていた赤ちゃんは、死産だった。

その予感は案の定当たってしまって、この男がベルトで彼女を打つ場面が再三現れ、きわめつけは彼女を殴り、血だらけの彼女の顔を押さえつけての再度のレイプである。その描写自体も本当に本当にイヤだし、それを演じている役者としての女の子に残る傷さえ気になってしまうほどのヒドさ。なぜ、こんな物語を紡ぐ必要があるのだ?しかもこれ、監督はあのアンジェリカ・ヒューストンで、原作も女性で、出演者も女性が大挙していて、いろんな意味で女性映画といえる代物であり、それだけによけいその疑問が心の中でふくれあがってしまう。

ボーンと並んで彼女の母、アニーも主人公の一人と言えるのだけれど、彼女はこの男を絶望的に愛していて、離れられない。彼がボーンにしている仕打ちを知っていても、である。もちろんアニーはボーンの母親で彼女をも愛しているから、必死に彼女を守ろうとするのだけれど、男を愛する女の弱さで、彼の懺悔を聞き入れてしまう。ボーンは母親を愛しているから、抵抗できない(まるで萩尾望都の「残酷な神が支配する」の条件をちょっとずつ変えたみたいだ)。加えて言うとこの男のボーンに対する暴力はいつでもアニーへのこれまた絶望的なほどの愛情から発している。なぜ愛情がこれほどまでに残酷な結果を生むのか。それも一番弱いものに向かって?アニーは彼がボーンをレイプしている場面に遭遇し、彼をビンで殴りつけても、それでも彼と別れられない。すがってきた彼を車から締め出しても、それでも哀れに泣き請う彼の髪を優しく撫でてしまうのである。何故?何故?と思うけれど、それが女なのか。

そういえば昨今の映画に出てくる女性は強くて、子供がいても一人で生きて行けて……ってパターンが多かった気がする。でも確かに、現実はそう簡単ではない。そして愛する相手がヒドい男だって判っても、相手も自分を愛しているのならなおさらこういう事態になってしまうのかもしれない。これが先述したように女性映画であるという意味がこの辺りにあるのだろうか。男に依存し続けてきた女性が、そうではないということを描くようになった現代、でもその半ば理想のグラフの傾斜が、ある点で現実のそれと裏腹になってしまった、それに対しての、反論。でもやっぱり今更弱い立場の女を見たくはない。それを愛情のせいにされてしまうのならなおさらである。

とは言うものの、この母親アニーを演じるのがジェニファー・ジェイソン・リーだというのだから、やっぱり説得力はある。大好きな女優。彼女が見たくてこの映画を観たのだもの。男に依存することでしか生きていけない、そしてどうしようもない男への愛情をどうしても断ち切れない女を演じながらも、そこはJ・J・リーだから、不思議と底知れぬ強さを感じさせる。それも、どこか不気味とも言えるぐらいの。ボーンをこの男から守るためとはいうものの、彼女をふるさとの姉に預けて去ってしまうアニーに対してボーンが「ママなんて嫌い」と言うのは確かにその通りなのだけど、その後訪ねてきたアニーが、自らの女の弱さ、愛する男に対する弱さを正直に打ち明け、そしてボーンを愛しているのだと、ふりしぼるように言う。彼女が立ち去った後、「愛してるわ、ママ」と涙をボロボロこぼしながらつぶやくボーンにシンクロしてこちらもボロボロ泣きながら、そう、そうだよね、と大納得してしまうのだ。このあたりのJ・J・リーの力はさすがにスゴい。J・J・リー自体、強い女性なのだけど、その強さは一人で生きていけるという強さではなく、もっと精神的な強さ、と感じさせるところがある。どうしようもない男を突き放す強さではなく、そういう男すらも愛し続けてしまう強さ、そして娘に対する愛情も微塵も揺るがないところ。これはドンピシャのキャスティングである。

妹のアニーを盲目的に大事にしているお兄ちゃんや、ボーンの虐待をいち早く察し、そしてボーンの気持ちもアニーの気持ちも痛いほど理解しているお姉ちゃんが、この救いようのない話を何とか救われるものにしてくれている。アニーは自分が溺れている愛は愚かなものだとちゃんと理解していて、彼らに未来のあるボーンを託すのである。アニーのこの自虐的ともいえる強さは、ほんと、凄いと思う。

こう考えると、確かに女の強さの物語なのかなあ。でも、やっぱり観たくないけど……。気分的に滅入っている時だとなおさらだ。★★☆☆☆


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