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オー・ド・ヴィ
2002年 123分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:鵜野幸恵 篠原哲雄
撮影:上野彰吾 音楽:あがた森魚
出演:岸谷五朗 小山田サユリ 松重豊 村田充 朝加真由美 山田辰夫 あがた森魚 寺田農 鰐淵晴子
続々と出てくる函館映画の、その一端を担っているのは、この映画も含める函館イルミナシオン映画祭。映画祭の名前自体が既に美しく、スクリーンに映し出される函館は、そう、見たことのない函館で、既に映画のための街になっているのだ。驚く。観光地のそれではなくて。そういえば、夜景は一度も映されなかった。むしろ、夜の光は極端に少なくて、ぼんやりとしていて、目を凝らさなければ表情が見えないくらい。現実を見えなくしているような、色ガラスの闇。でも夢のように見えた呑んだくれの視界が、朝が来て目覚めると、そこには確かに見覚えのある雑然とした街が広がっている。でもそれはまるで一瞬で、駆け抜けるように夜が来て、また滲んだ色ガラスの世界になる。思えば、大人になってから“帰る”函館では、私はいつもいつも酔っていたような気がする。大手を振って酔っ払える場所のような気がしていた。夜景を観に行っちゃ呑み、叔母のスナックに行きゃ呑み、ホテルに帰っては呑み……いつも酔った視界で見ていた函館は、確かにこんな色をしていたような気がする。そこは、酔っ払いのための、聖なる世界。
実際、酔っぱらいというのは、100年を数える映画の世界の、ひとつのジャンルと言ってもいい要素を担っていると思う。あるいは、世界の、人生の。不思議とそれは聖なるものとして存在しているのだ。確かに、このタイトルのように、そして劇中で何度も示唆されるように、蒸留してしまえばどんなものだって純粋な透明に、妙なる美酒に生まれ変わる。アルコールの持つ、何もかもを殺し、洗い流してしまう性質も、そこには勿論含まれている。それはでも、洗い流してほしくないものも、時として一緒くたに流れていく。時として……時さえも。そして、すべてを洗い流すために、蒸留し尽くした100パーセントのアルコールで、聖なる酔っぱらいになった女たちは、何もかもを脱ぎ捨て、より聖なる姿になって、母なる海の、そのふところたる砂浜に横たわる。これ以上ない幸せそうな笑みを浮かべ、息絶える。女だけが。男たちはそんな女たちを、心底うらやましがるのだ。
函館は、東北からの流れの古びた野暮ったさと、新世界である北海道の冷たい美しさを併せ持つ街。そしてシャレた観光地として人気の異国文化は、でも実はどこかさびついて、うら寂しくて、他の異国文化を持つ街とは少し趣が違うように思う。海はあるけれど、津軽海峡の海は決して明るくなくて、その湿り気のある潮風が、さびついたうら寂しさを運んでくるような。女の死体が横たわる砂浜は、夜が明けると、静かな海の向こうに、まるで海を抱くように、臥牛山がふっくら横たわっている。閉じ込められた、うら寂しさ。
そして、こうした異国文化の港町にはどこにでもある赤レンガの倉庫街がある。昼間はニギヤカな観光地であるのかもしれないそこも、夜になると、ゴーストでも出そうなほどに暗く、ひっそりとする。目を凝らしてみると、そこここに呑み屋の小さな明かりが灯っている。しかしその中には、舞台となるバーはまだ見えていない。倉庫街をくぐりぬけ、いつもいつもしとしと滴っている路地を渡ると、小さなバーが階段の上に隠れるように存在している。中は意外と広く、カウンターの奥の壁際に、オモチャの宝石のような色とりどりの酒瓶が、ほのかな光を放ちながらぎっしりと並べ尽くされている。アプライトピアノ(出来れば洋物が良かったな)が置かれ、バンドネオンとブラスが演奏されると、ボーイのカオルの気が向いた時、彼の手によってそのピアノも鳴らされる。客もバーテンダーも踊る。静かに、でもとても楽しそうに、幸せそうに。……少なくとも、幸せそうには見えるけれども。
ここのバーテンダーをつとめる順三郎が主人公。演じる岸谷五朗の色気に驚いてしまう。上手い役者さんだというのは判っていたけれど……特に、「新・仁義の墓場」の彼には心底撃ち抜かれたけれど、まさかまさか、こんなに色っぽい味を出せる人だとは。彼はこのバーのオーナーである義母、あやこと禁じられた関係にある。その一方で、年若い少女のような火露見と砂浜でセックスしたりもする。特にそれぞれの相手によって演じ分けているようではないのに、あやことの時には、この熟女と激しく愛し合うけれどやはり確かに彼女の子供で、火露見との時には少女を愛でる、包容力豊かな大人の男なのだ。そしてそのどちらも、何かひどく、艶っぽい。さっと脱いだ時のしなやかな上半身、そしてボトムの黒とのシルエットのバランス。客に酒を出す、すっ、というゆっくりとした手の動きに時間が一瞬、止まったように思える。洗いざらしのような髪の毛が、少年っぽささえあって、ドキドキしてしまう。
謎の酒を呑んで死んでしまった女たちの中に、順三郎にかなわぬ恋をしていた人妻がいた。彼女は足が悪い上、片方の乳房がニセモノである。彼女が死んだ時、このシリコーン製のニセモノの乳房が波に洗われて哀れなしわがよっている。順三郎の幻想の中で、彼女は足が治り、乳房もホンモノになるのだけれど、それは彼女が抱いていた願望であって、残酷なことに、彼女の魅力はその悪い足と、ニセモノの乳房の方にこそあったのだ、という、哀しいフェティシズム。思えばこの作品は、全編非常なるフェティシズムに満たされている。溢れる光ではなく、ほのかな光。オモチャのような色とりどりの酒瓶、さまざまなものから作られた酒と、いつかは女の脂肪で酒を作ってみたいと思う男の願望。男は女の典型的な美しさではなく、蓄積された脂肪や、塗りたくられた栄養クリームや、派手な厚化粧を偏愛し、「厚化粧の年増女にヤラレっぱなし」であることに、密かに充足を感じているのだ。そう言われた“年増女”が傷つく顔にさえ。
この“年増女”あやこを演じるベテランの鰐淵晴子が凄い。本当に、凄い。この年ですっぱりと脱ぎ、岸谷五朗と濡れ場を演じ、ここまでスクリーンに圧倒的存在感を見せる。こういう女優を、これから先、日本映画は残していけるのだろうか、などと、今の女優事情にいささか不安になる。しかし、残していかなければ、こうした先人たちに失礼になるとさえ、思うのだ。
順三郎に、実は彼が愛してやまない腹の脂肪をつかまれて、「ひどいわ、この年でこの程度ならマシな方なのよ」と、しかし彼の愛撫に喘ぎながら言う。このベテラン女優を相手にがっぷり組む岸谷五朗の凄さも同時に感じる。全裸で、笑みをたたえて死んでしまうこのあやこを発見した時の、彼の呆然たる様!
酒をこよなく愛する彼と、彼の友人の酒屋の主人。嬉々として密造酒を作るこの主人、群造を演じる寺田農が実に素敵。100パーセントの酒を呑んだ形跡のある女が次々と死を遂げる怪事件を聞き、彼の酒をチョロまかしてもろ手をあげていい気分になっている順三郎をヨソに、「この世に俺の知らない酒があったなんて!」と悔しがる彼は、陰のフェティシズムの順三郎に対して、いわば陽のフェティシズム。
この順三郎側での世界とは別に、少女のおもかげを残す女性、火露見の側の物語が描かれる。彼女は見習いシェフで、師匠のシェフである井ノ上(松重豊。またも怪演)に、レイプまがいの行為を受けている。彼は、彼女の方から誘っているのだと、「お前はなんていやらしい女なんだ」などと言うのだけれど、彼女の表情はまるで苦悶で、でも、確かに彼女はどこか、待っているようにも見えるのだ。でも、暴力にも近いその行為に耐えられず、彼女は夜、路地にへたり込んでいる。暗くのぞかれたフレアスカートの中は何もはいていないように見えて、それは無垢とも欲望ともとれてドキリとする。その火露見をウェイターのカオルが仔犬のように拾ってくる。バーに連れられてくる彼女は、男と旅に出てしまったあやこに不機嫌な順三郎と話が盛り上がる。朝まで呑んで、夜明け、砂浜で女の変死事件を再現する二人。もちろん彼女は素裸。「私、やられるのが好きなの」なんて言って、順三郎とセックスするのだけれど、それは井ノ上との行為とはやはりまるで違っているのだ。
でもそれでも。彼女はやっぱり井ノ上を愛していたんだろうか。彼女が彼に火を放ったのは、やっぱり憎しみがあったから?それとも……あんな風に苦しげに身体を許していた彼女、一方で、身体が反応する自分をもてあましているようにも見えるのが、見ていて辛い。演じる小山田サユリは、やっぱり少女のように清潔感のあるキュートな女優。脱いでも、ジャガイモの猿ぐつわを噛まされてアスパラガスで×××されても、男の指に滴る生クリームをしゃぶっても、顔に飛ばされた生クリームを男になめられても、活きたイカにかぶりついても?不思議な清涼感がある。だからこそ、このギャップに時々ハッと気づかされて、やたら動悸が激しくなってしまう。
彼女の世界である料理も、そして勿論酒も。すべてがセックスのための栄養分のように思えてしまう。先でも後でも。準備するための、補うための。生きていくための、ではなくて。ただ純粋に生きていくためなら、酒なんか必要ない。酒は、確かにもはや前戯のひとつなのだ。そして、生きていくための食べ物に、こんなシャレたフランス料理が必要なわけはないし、順三郎が言うように、白いソースにからまれたアスパラガスはひどく隠微な感じがする。生殖のためではないセックスは、ただ空しく、退廃で、しかしだからこそやめられようもなく魅力的なのだ。
火露見は突然のつわりによって、思いがけず子供を宿してしまったことを知るのだが、その第一声が「……やだ」である。しかも、その時床に投げ散らかしたのは無数の玉子。しかし彼女はその事実を知った時、いつものように襲ってきた井ノ上を突き飛ばす。事態に気づいた彼が、彼女の腹にせせら笑うようにその割れた玉子をなすりつけた時に。これもまたいやに暗示的だ。……そして火露見は彼のコック服に“100パーセントの酒”をたらす。彼が厨房でフランベした時、あっという間に火柱が上がった彼を、じっと、射抜くように見つめる。順三郎のもとに行くも、彼はあやこの死で茫然自失状態にあり、前をはだけて誘いこみ、やろうとしても、達することが出来ない。そしてその後、彼女が全身包帯だらけの井ノ上を人形のように介抱する場面が出てきて、彼女はなんだかひどく充足しているように見えるのだ。
思えば、篠原監督の長編デビュー、「月とキャベツ」はさっぽろ映像セミナーの脚本をとっており、今回は函館の映画祭の脚本賞の作品。そしてどんどん大人の映画を撮る篠原監督には本当に驚かされてしまうのだ。監督自身、何だか草食動物のような、少年のような外見のお方だから……。そしてその脚本を手掛けた鵜野幸恵氏。彼女の撮影日記を読んでいて、その文章がとても美しくて、読みふけっていたら、あ、ダメ、これ読んでたら、とてもこの感想文書けなくなる、と気づいて、慌てて読むのを止めた。文章がそのまま映像になって浮かぶ人。画家で詩人というのに心底なるほどと思う。この人にはまた映画の脚本を書いてほしい。彼女のバーテンダーの経験から生み出された本作は、一般的にバーテンダーから浮かぶイメージであるカクテルが一切出てこないことに気づく。ストレートなお酒そのものの魅力に溢れていて、本当にお酒に心酔している人だという好感度が高い。
そして函館は、やはりGLAYなどではなく、あがた森魚なのだ!耳の底に酒の澱のように沈殿していく、この音楽。男と女が、くるくると酔いながら踊り続ける、この音楽。洗練とヤボの境界線上を、確信犯的にフラフラしているような、この音楽。この映画そのものの、この音楽。たまらなくいい。あやこさんの浮気?相手のヤブ医者を演じて出演もしている彼は、全身これ函館映画な人なのだ。嬉しくなる。
順三郎の幻想に出てくる路面電車に胸をかきむしられる。路線が少なくなっている函館の路面電車だけれど、やはり映画の街ならなくしてはいけない。いつ明けるとも知れないほっこりとした闇の中を、柔らかな音を立ててゆっくりと走る一両の小さな電車は、異次元の小さな箱。そこでは、時間軸が混ぜ合わされても、記憶が混ぜ合わされても、気持ちが混ぜ合わされても、すべて起こりうる空間なのだ。
函館映画。でも、実は私、ずっと「とどかずの町で」を超える函館映画を待ち続けているのだ。超えてほしくないと思わなくもないのだけれど。本作は、うん、危ういところ?だった。そういえば、「とどかずの町で」も呑み屋さんが舞台のひとつである映画だった。私、やはり函館には呑んだくれを求めているのかもしれない。★★★★☆
ほおんとに、この子、サンウはもう憎たらしくって。おばあちゃんをバカよばわりし、あざけるように口先で笑い(上手いのよ、こういう憎たらしい演技が!)、おばあちゃんがきれいに洗ってきた便つぼを蹴飛ばして割り、サンウのためにとせっかく料理してくれた鶏をフライドチキンじゃない、と拒絶し、サンウにとようやっとお金を作って買ってくれた靴を罵倒し、おばあちゃんの使い込まれた靴を隠し、電池を買うために寝ているおばあちゃんの髪から櫛を盗み……その他にももう色々色々。挙げればキリがない。
しかし、この子は謝ることひとつとっても、何も教えてもらえていなかったかわいそうな子なのだ。目上の人を敬うことや、お金の価値や大切さ、労働で得る糧、そうしたものを、何も教えられなかった。シングルマザーの母親はいつもピリピリしていて、こんな田舎に来るのに(しかも自分の故郷なのに)ハイヒールなんてはいてくるような女で、子供のことは、口うるさく叱ることしか、判らない。これだけ口うるさく叱っていても、きちんとした理由があって真正面から叱っているわけじゃないから、この子はちっとも躾けられていなくて、ワガママに育ってしまっている。
そんなサンウがこんな田舎に連れてこられてしまう。ゲームボーイのバッテリーはあっという間に切れるし、しかもこれがボタン電池だから、遠く離れた雑貨屋までえいこら行ってみてもそんな特殊な電池は売ってないし、インラインスケートは舗装された道路のないところでは出来なくて狭い縁側でひっきりなしに往復するしかないし、都会とはなにもかもが違う。それでも都会での遊びを意地でも続行しようとするサンウ。
確かに、判るのだ。サンウの母親は、この田舎からひとり都会に飛び出し、たった一人子供を抱えて仕事もなく、この子を育てていくために、なみなみならぬ苦労があるに違いないから。別れた男にそれなりの養育費とか慰謝料とかももらえていないんだろうからこんな状態なんだろう、そういう面でも運の悪い、不幸な女なのだ。だから彼女がこんな風にイライラ、ピリピリするのはしょうがないと思うし、逆にそんな時でもマリアのような母親だったら、ウソっぽいというか、そりゃそこまで自分を律することができたら理想だけど、人間なんて弱いもんだから、そう簡単にはいくはずがない。だからこの母親も、可哀想な女。子供を存分に愛する余裕さえなくて、とりあえずおもちゃを与えて缶詰を与えて、大人しくしてて、と言うしかないような……子供を子供として愛せる時期は限られているのに。
このおばあちゃんは、その点がしっかりと判っているのだと思う。娘が、孫を預けに来た。2ヶ月、仕事が見つかって落ち着くまでこの子を預かってくれないかと。もうそれだけで、この子がこと愛情という面で不憫な子なのだということが、判ったのだと思う。あるいはこの娘に対しても、おばあちゃんは相当に心配だったとは思うのだけれど。とにもかくにも、このサンウを預かることになるものの、おばあちゃんは声を発することが出来ないのだ。ついでに言うと、読み書きも出来ない。サンウのあからさまな罵倒は聞こえていても、落書きされたそれを理解することは出来ない。サンウはそのことに対しても明らかに軽蔑の色を浮かべるのだけれど、でもおばあちゃんにはサンウの知らないたくさんの大切な価値観が判っているのだ。
このおばあちゃんは、声が出ないから、それを口に出して教えることはない。それにこの孫を叱ることも、その点物理的に出来ない。寝転んでゲームをしている孫の間を掃除し、何をされても無言で片づけ、特に気にしている風でさえないのだ。ヤキモキしてこの子のことをぶん殴りたくなっているのは観客のこちら側だけで。つまりは、観客もまた、あの無責任に怒るばかりの母親と同じレヴェルなのだ。さすが、おばあちゃんは年の功。怒って判らせようなどとしない。何が大切かとか、そんなことは、黙って生活しているだけで(特にこの、お金などという概念がカンタンに通用しない田舎では)判るのだということ、なのだ。
でも、口には勿論、態度にも出しているようには思えないけど、このおばあちゃん、やっぱりサンウがとっても可愛いんだろうな、と思う。だから、この子がワガママいっぱいでヒドイことを言ったりしたりしても、気にならないんだろうな、と。そしてそのことが、躾になっているのだ。母親が始終小突きまわっているのがちっとも躾になっていないのは、この子の目線で、この子の言うことを聞こうとしていないから。いや、なまじこのおばあちゃんと違って普通にコミュニケーションがとれている、と思い込んでいるから、ちゃんと向き合おうとしなくて、逆に何のコミュニケーションもとれていないということなのだ。でも、声の出せないおばあちゃんは、一生懸命この子に伝えようとし、この子の伝えたがっていることを聞こうとしている。
おばあちゃんは彼の言うことにじっと耳を傾け、この田舎で出来る限り、彼の望みを叶えてやろうとする。とんでもない田舎なので、この出来る限り、というのはかなり限られた範囲のことなのだけれど、それでも出来る限り、である。しかしそれがこのサンウにはなかなか判らない。先述のフライドチキンのことなどは実に判りやすいことだけど、おばあちゃんが鶏を一羽調達してくるには、それなりのものとの交換条件があったに違いなく、お金でホイホイファーストフードを買えると思っているサンウには判らない世界なのだ。で、サンウはフライドチキンじゃない、とダダをこねてその煮鳥には手をつけようとしないのだけれど、ついには空腹に負けて、むさぼり食う。絶対に美味しかったに違いない。空腹の末に我慢できずに食べる、というのだってサンウの日常にはなかったことに違いないし、それにこれは田舎の地鶏。ケンタッキーのチキンなんかよりずっとずっと、美味しいに違いないのだから。
でも翌日、おばあちゃんはこの鶏を調達してきた時に雨にうたれたせいか、寝込んでしまう。そのおばあちゃんに自分の掛け布団もかけてあげて、出ている足にも別の夜具をかけ、ひたいにはしぼったタオルを乗せ、自分の食べ残しだけど食事も用意して……と、何かと面倒を見るサンウの顔は、輝いている。初めて、人の世話が出来た、役に立てたという喜びではないかと思う。今までは、ただただ与えられていたばかりだったから。もしかしてサンウの、どこか母親に似た苛立ちは、そこにこそ理由があったのかもしれない、と思う。そしてそのあたりから、サンウは少しずつ変わってくる。おばあちゃんに触られても嫌がらないし(それでもおばあちゃんは遠慮がちにつんつん、と……子供の肌は、ホント、柔らかそうね。それだけで、愛しい)、髪を切らせたりもし(思いっきり大失敗。でも可愛いけど))あいかわらずワガママながら、ハッキリと、心を開いていく。
サンウはいろんなことが、だんだん、判ってくる。街に野菜を売りに行くおばあちゃんについていく彼。おばあちゃんは、何とか得たなにがしかのお金で、サンウに食事をさせるけど、おばあちゃんはお茶だけ。そして支払いの時、ふところから差し出したお金のほとんどが持っていかれてしまうのだ。サンウはそれをじっと見つめている。現金が出来たから、この街でなら特殊な電池もあるだろうし、とおばあちゃんにそううながされるんだけど、彼は首を振る。
でもそれでも、このワガママ都会っ子はまたしてもワガママを発揮し、サンウのために、とチョコパイを買ってきてくれた(でもその街の雑貨屋のおばあさんも、気をきかせてくれてタダでくれたのだけれど)というのに、おばあちゃんと一緒に帰るのをいやがり、村の子供と一緒に帰ってしまう。ま、このサンウがそのうちの一人の女の子のことをほのかに想っていたせいかもしれないけど。で、サンウはおばあちゃんのことを、次のバスでくるか、その次のバスでくるかと待っているのに、なかなか帰ってこない。サンウがさすがにやきもきしだしてくると、何とおばあちゃん、歩いて帰ってきたのだ。この年で、杖をつきながら!節約するためか、あるいはバス代がなかったのか、とにかく、お金の大切さを物語るエピソードで、おばあちゃんを待ち続けたサンウは「何で遅かったの!」と責めるような口調で言うけれども……でも、判ったでしょ?お金はキミが考えているように言えばもらえるような便利な紙切れっていうんじゃないんだってこと。
と、いうのが決定的にサンウに思い知らされるのは、もうひとつのエピソードを待たなければならない(この生粋?の都会っ子はほんと、一筋縄ではいかんのだ)。この田舎で知り合ったちょっとおませな女の子のところに遊びに行くサンウは、プレゼント攻撃で、自分の持っていたおもちゃを彼女にあげようと意気揚揚と準備をしている。髪型は大失敗のざんぎり頭になってるけど(笑)、それも、おばあちゃんから唯一の風呂敷を借りて、海賊スタイルにキメている。おばあちゃんはそんなサンウに、これも持っていきなさい、とゲームボーイを差し出す。もう電池がないから、とサンウは断るんだけど、おばあちゃんはとっておいた包み紙で丁寧に包んで、サンウの袋にそっと入れてやる。
彼女からはぬいぐるみをもらって(やはりこの土地は物々交換の習慣?)ウキウキで帰ってきたサンウ。ふと、お尻のポケットに入れてあった包み紙を破いてみたら、ゲームボーイにはお札が添えられていた。これで電池を買いなさい、ということなのか、それを見てぼたぼたと涙をこぼすサンウ。ま、この時点では、うーむ、まるで「北の国から」のようだわとか思って冷静に見ていたんだけど、果ては転んでキズだらけになって、しかも暴れ牛にまで追いかけられてボロボロのサンウがようやく戻ってきて、彼を迎えに出ていたおばあちゃんを見るなり大声で泣き出すに至ってはうッ……判っちゃいるけど、泣いちゃうんである。ここで、唐突と言えるほどに一気に、サンウはおばあちゃんに心を開いた。でも、その時母親から、迎えに行く、との手紙が来ていて……。
都会に戻らなければならない。おばあちゃんとも、もうさよなら。声が出せないおばあちゃんとは電話も出来ない。さらにおばあちゃんは読み書きできないから、手紙のやりとりもできない。そんなおばあちゃんに、手紙を書いてよ、と字を教えるサンウ。もう、そうしながらも、彼はボロボロと泣いている。「体が痛かったら、何も書かずに手紙を送って。そうしたら、すぐ飛んでいくから」うー、なんてケナゲなことを言いやがるんだ、このワガママだったおぼっちゃんが……泣いちまうじゃないかッ。おばあちゃんのためにと、何本もの縫い針に糸を通しておいてやるのも、泣かせる。あんなに、めんどくさがっていたのに。そして母親が迎えにきて、バス停でのお別れ、となる時、ここのバス停はホント、なかなかバスが来ないんだけど、街に野菜を売りに行く時はそのあまりの待たされようにさんざんイライラしたんだろうけど、この時は、きっといつまでもバスが来ないでほしい、と思ったんじゃないかな……サンウも、そしておばあちゃんも。サンウは別れ際、彼が大切にしていたロボットの絵葉書をたばで手渡す。去っていくバスの後ろの窓からおばあちゃんをいつまでもいつまでも見送る。おばあちゃんが、あとでその絵葉書を見てみると……こういう風に書いて、とばかりに、絵と「会いたい」「体が痛い」といわば手紙のマニュアルが書かれているのだ。そしておばあちゃんはゆっくりと自分の家に戻っていく。泣いちゃうなあ。
サンウがこの田舎で得た最大の収穫のひとつは、謝ることを覚えたこと、なんだけど、それはおばあちゃんからではなくて、この村にいる数少ない子供たちから。あの、サンウが想いを寄せたおませな女の子がまず、サンウに「謝らないの?」とせまり、そしてサンウの悪質なイタズラで怪我をした男の子にも、サンウはごめんなさいが言えない。おばあちゃんがいつもそうしていたように、胸のところを手で撫で回すしぐさをして駆け出してしまう。でも、サンウがようやくようやく、この男の子に謝ることが出来た時、この子は、二度も謝らなくていいよ、と言うのだ。二度?あの胸を手で撫で回すしぐさがそれをさしているということなのか、あるいはこの子がサンウの気持ちをくんでくれていたということなのか。いずれにしてもこの男の子は声を出せないおばあちゃんの言いたいことが判る、と言っていた子だったし(それがあるから、サンウはちょっとこの子に対してひっかかりみたいな感情があったのかも)。
そういえば、サンウは結局、田舎ならではの遊びとかすることはなかったんだけど、唯一いるこの同じ年頃の男の子が、毎日家の仕事をきちんとしていて、ただただ遊ぶ時間しかないサンウとは違うから、なのかな。そのあたりの描き方も結構、シビアである。
都会に暮らしていると、本当に、こういう田舎の人々に対して、恥ずかしさ、申し訳なさを感じる。いかに自分たちが傲慢に、曖昧な価値(お金とか、娯楽とか)を享受していて、それが実はカラッポだということを、思い知らされるのだ。都会に出て行ったことで、いろんなことを失ってしまうこと。この母親、サンウを預けると、さっさと帰ってしまう。最初は気づかなかったんだけど、この村は彼女にとっての故郷であるはずなのに、友達に会っていくとか、しないのだ。だって、もはやこの村にはこの母親ぐらいの年の人はほとんどいなくて、皆出て行った過疎の村、となってしまっているのだ。それは都会の便利さにだけ価値を求めてどんどんと出て行ってしまう人間のおごり。そして、こんな美しい生活を絶滅状態に追い込んでしまう、のだ。
本作は、「美術館の隣の動物園」の監督さんの第二作目。かなり、驚く。あのファンタジックな恋物語をポップに描いていた人が……ナマイキを承知で、成長したねーなどと言いたくなってしまう。しかも、これがまだ二作目とは。まるで老練の腕。しかもしかも、こういう映画を自分で撮りたい、と思って、しかもそれを実現して、これだけのクオリティに仕上げるというのが素晴らしい。
だって、このサンウを演じた男の子以外、全員が素人だっていうんだから。おばあちゃんも含めてみんな実際にこの村の人たち。予想はしていたけど……これって、すごい演出の力。このおばあちゃんを見つけ出したのも、この監督の直感から行ったロケハン先だというんだから、もはや神がかり。オフィシャルサイトに撮影中の写真なのか、このおばあちゃんとサンウ役の男の子との、満面笑顔でのツーショットが出ていて、映画中では笑顔などいっぺんも見せなかったから、何か嬉しくなってしまった。
こういう映画が大ヒットする韓国は、実にまとも。果たして日本でそれがありうるかと考えると、うーん、ちょっと暗い気持ちに、なってしまう。。★★★★☆
ふるさとに帰ってきた男。まあ、ここまでは地方映画にあるパターンかもしれない。でもその男を追ってきた女は、東京生まれの東京育ち。彼女は最終的にこの鹿追の町を、こんなところ……みたいな感じで、結局「東京の女」を捨てられない。彼を愛しているのにこの地を去ってしまうのだ。その東京の女としての自分を捨てられない彼女はとても哀しく見えるし、だから彼女の存在は地方映画のイメージの上でリスクということもできる。でもそのリスクを充分に背負いながら、個性的なひとつの映画として存在させているのが素晴らしいのだ。
実は彼女は彼の兄の女房で、この兄は死んでしまった。それはこの弟である男と彼女が関係を結んでしまったせいではないかと、二人とも罪の意識にかられている。弟は兄の夢であった蕎麦屋をはじめようと、このふるさとに帰ってきた。女には黙って、逃げるように。女はそんな彼を追ってきた。いや、名目としては、死んだ旦那の生まれ育った場所を見たいといって。それもまた、本当だったのかもしれないのだけれど、彼女は彼に、ふるさとに逃げ帰った彼に、帰ってきてほしかった。彼は彼女のサルサダンスのパートナー。この田舎町で片手間に町の人たちにダンスを教えているような彼が歯がゆかった。本当に、あなたはそれでいいの、と。ついには激昂して、彼をどなりつけるようなことをしても、男は黙って背中を向けるばかり。
この彼女は、哀しい。そう、彼女は東京生まれの東京育ち。彼のように帰る所、逃げる所なんてありっこない。東京でずっと頑張ってきた自分自身が全てで、そこで出会った彼が東京を離れてしまったら、こんな風に彼女にはなす術がない。彼女には彼がずるいと映る一方で少しうらやましさもあるかもしれない。でも、やっぱり彼女の中には彼や多くの東京における上京人たちのように、帰るとか、逃げるとか、そういった感覚がないのだ。判らないのだ。それが彼女の一種のぽっかりと開いた穴のような哀しさや寂しさ。それは強さでもあるけれども、彼に対してどうしようもない彼女はやはり哀しい。この大自然の中で、赤い唇が印象的なメイクをきっちりとして、すらりと形のいい脚をヒールに包んで歩く彼女は、異邦人そのものなのだ。
大自然に憧れて、横浜から来た青年や、あるいは憧れで東京に出ようとした女の子はどうだろう?彼らも彼女にとってはうらやましい存在なのかもしれない。彼らは生まれ育った土地を離れることができる。その時点で帰る場所や逃げる場所が出来る。彼女ももっと年若いころに何かに出会っていれば、そうした人間にもなれたのかもしれない。でも今の彼女にはサルサがあり、それはここでは出来ないことなのだ。そのパートナーは誰より愛する人。なのに……。
彼女は試しに「蕎麦屋のおかみさんもいいかもしれない」と言ってみる。彼から帰ってきた言葉は「お前には似合わないよ」 「そんなの判らないじゃない。出来るかもしれない」「出来る出来ないじゃなくて、お前には似合わないんだよ」彼の言うことは、彼女をそのままズバリと言い当ててはいる。だけど、あまりにも、あまりにも残酷な言葉だ。東京でならば、勿論彼女の方に存在価値がある。でもここでは……このどうしようもない、もどかしさ。黙ってそばを打ち続ける彼に「やめてよ!やめてよ!」と絶叫する彼女は、そののどが切れてしまうような叫びはあまりに悲痛で、胸がつまる。そんな彼女に背を向けてまき散らされたそば粉を淡々と拾い集める彼。ヒールを履いた彼女の足元に、まるで彼女が踏み散らかしたようにそば粉が散乱する。白い前掛けをして特訓中の彼とは、確かにあまりにも“似合わない”のだ。
彼の理解者で、蕎麦打ちを伝授してくれているのが、たった一人で畑を維持し続ける老人。彼女にとっては、この老人は最大のライヴァルかもしれない。彼女には基本的な感覚として、この老人のような生き方を自分に置き換えることがどうしてもできない。彼女の老人に対する視線は都会人そのもので、畑を愛し、土を愛する老人を、この土地に生まれ育った人の心を、芯から理解しきれず置いてけぼりにされているような感覚を彼女の中に感じる。彼を追いかけて、帰ってきてほしくて、ここに来た筈なのに、彼女は自分がここにいられない人間なのだということを、確認させられるばかりなのだ。彼が、もう決して東京には戻ってこないことも、その肌身で感じる。彼は東京で知っていた彼ではなくなっているから。
彼女が彼の友人の結婚式で踊ることを決意したのも、そういう立場でなら、そういう立場でしか、ここにいることが出来ないから。そしてそのダンスの間だけ、パートナーとなる彼を自分の位置に引き寄せておけるから。真っ赤なドレスと勝負メイク。ゆらりと式場に現われて、彼を誘うような扇情的なダンス。彼は上着を脱ぎ、彼女の誘いに応える。周りには群衆がいるはずなのに、それがふっと一切消え去り、闇の中、二人だけにスポットライトが当たる。そこからのダンスシーンの官能的なことといったら……!!彼女は汗にべっとりと濡れ、真っ赤に塗った口を半開きで、男の差し入れられた足を太ももではさんで、あえぐように上半身をグラインドさせる……その表情、あまりになまめかしく、そのものズバリ、セックスをしているみたいなのだ。何というセクシーさ。濡れてる感じがしてしまう。
この時、でも彼の方は皮肉にも、彼女が大切な存在なのだということを、自分の中で必死に否定し続けてきたことを改めて気づかされることになるのだけれど、もうこの時点で彼女の決意は固まってしまっている。突然部屋からいなくなった彼女を全速力で探し回る彼は、ある画家の美術館でスーツケースに座った彼女を見つける。この画家は、この土地の人なんだろう。彼に影響を与えた人物として紹介されている。その馬の絵はどこか哀しく、自然にはなじめない彼女にも、絵の中の馬にはどこかにシンパシィを感じている風がある。絵の中の馬に、なんて、やっぱり哀しいけれども。「俺、お前と……!」と言いかける彼にひしと抱きついて「ごめんね……」とつぶやく彼女は、あのダンスの時と同じような表情をしている。その時よりも、少し泣きそうな。セックスの時の表情がどこか泣きそうな顔と似ているのは、どこかにこのせつなの後の別れを感じているからなのかもしれない。そんな彼女を折れんばかりにぎゅっと抱きしめ返す彼。折れんばかりに……。
彼女は彼と別れ、バス停に向かう途中で、この土地で出会った美容院の女の子と再会する。髪を切っていこうかな、そう言って鏡の前に座る彼女の髪に、女の子はふと顔を近付け、言うのだ。「やっぱり東京の人だね。結構長くいたのに、鹿追の匂いが全然しない」
この台詞に、なぜ泣きたくなってしまうのだろう。言われた彼女とともに、涙があふれる。彼女はそのことが判って、この土地と彼から離れる決心をしたに違いないのに、ダメ押しのように他人から言われると、やはりそうなんだ……と思ってしまうせいなのか。
バスに乗ってやってきて、バスに乗って去ってゆく彼女。バス、というのは列車とはまたどこか違ったもので、なかなか上手くいかない人生や愛を抱えた人が乗るものだという気がする。特にこうした、のどかな風景が広がる地方をゆっくりと走っていく大きなバスは。
ヒロインの戸田菜穂はバストひとつ出さないけれど(ちょっと、残念だな)、しかし体を全身さらすより、はるかにこのサルサダンスのシーンのなまめかしさには目を見張るし、まさしくこれが本当の意味での体当たりというやつじゃないかとさえ、思う。戸田菜穂はもともと、いい女優なのだ。彼女が大人しいイメージに甘んじていたというのは実にもったいない話で、こと映画に関しては役柄的にも作品的にも(質というのではなく、話題性とかヒットがどうとかいう部分で)今ひとつ決定打がないのが本当にもったいなかった。だから今回の彼女には特に意外という感はない。ようやく彼女の真価がスクリーンに置いて発揮された、と非常に嬉しいのだ。彼女はスクリーンの女優だと思う。本当に。
そしてエンケンが!そばを打っている普通の時と、ダンスの時のオールバックに胸元を緩めたスーツ姿と、全然違うのだ。後者のなんとセクシーなこと!ダンスの時は、ウエストの位置も高くて、足も長く見える。スタイルが別人みたいに良くなるのはどうしたことだ!普通の時は、決してイイ男じゃないのに(失礼)、キメるとなんでこんなに違うのだろう。その外見だけで、彼女が、いや女が濡れてしまいそうなぐらい、違う!
彼が蕎麦屋の開業準備をしている時、店の中を片付けたり、老人の所に手伝いに行ったり、蕎麦打ちをしたり、いつも着ている皮ジャンを脱ぎ捨てる描写が何度となく現われる。そしてあのクライマックスのダンスシーンになった時……それまでの蕎麦屋の兄ちゃんとは打って変わった姿の彼は、でもいつもと同じように上着を、いつもよりはゆっくりと脱ぎ捨てて彼女とのダンスに臨む。何だかこの対照がなんとも言えず、そうだ、彼だ、どちらも同じ彼に違いないんだけれど……と、まるで別人の彼に見惚れながら思う。この彼を、東京で彼女は愛し続けていたんだと。違うように見えても、この土地での彼も彼に違いないのに、と。
無論、これは一般映画なんだけれど、小沼監督が傑作を連打していたロマンポルノの趣を即座に感じることが出来る。セックスシーンがないだけ、と言ってもいいぐらい。なくても同じぐらい、それ以上に官能的。土着の感覚や、人間が普通に、そして必死に生きていくこの土地の描写があるから、余計にその生や性のエネルギーが際立つのだ。★★★★☆
どうも歯切れが悪いのは、そう言いつつも結局は観て、でもやっぱりうーーーん、とか思って、なぜうーんと思うのか、明確には判らなかったから。「陰陽師」と何が違うのか、何かが劣っているのか、そうまではっきりと言えるまでのものが見つからないんだけど、でもやっぱりピリッとしない感じがしてしまうのは、なぜなのか。やはり前作が良かったのは、それが新鮮だった、からなのかなあ。野村萬斎の魅力に驚き、打たれ、伊藤英明の意外な好演に心和まされ……メインである彼ら二人の魅力は本作でもなんら変わるところはない、んだけど、やはり前作ほどに射抜かれはしないのは……しょうがないのかなあ。萬斎さんはやっぱりとっても素敵だし、伊藤氏はやっぱりとっても微笑ましいんだけど……飽きたってわけでもないんだけど、なぜだろう。
ひとつ、考えられるのは、やはり彼らと対峙するゲスト的役割のキャストのせいなのかな、と思う。前回の真田氏に対するそのキャストは今回中井貴一。役者として何も不足はない。充分すぎるほどの俳優、配役ではあるけれど、役柄が問題。前回の真田氏が演じた道尊は、とにかく全面悪だった。いやらしいくらいに。あの真田さんが悪を嬉々として演じている、というのにもゾクゾクさせられたし、一方の萬斎さんが全面善を受け持って、まさしく白と黒が真正面からぶつかるクライマックスは、それぞれ100パーセント対照的ながらも立ち回りを極めた同士の二人が織り成す美しくも素晴らしいアクションで、もうこれを観られただけでも幸せ、てなぐらいだったのだ。
で、中井貴一は真田氏のようにアクション俳優の側面を持ってはいないから、そういう点での満足はやはり得られなかった。中井貴一は確かにいい役者ではあるけれど、真田氏ほどには、萬斎氏とここまでタイは張れないのだ。それに役の位置するところが何だか……中途半端。つまり彼は全面悪ではない。彼の野望というか志は、ちょっと理解できちゃったりするから、マズいんである。マズいというのは違うけど……確かに人間的ではある。真田さんと比べれば、いわゆる複雑なキャラではある。映画により深みを与えるためにはそういう方向が必要なのかもしれない。でもエンタテインメントをスカッと観に来ているつもりであったせいか、あるいはその“深み”もまたツッコミ不足のせいか、なんか消化不良なのだ。
つまり、晴明(野村萬斎)に対する幻角(中井貴一)、がっちり四つに組むべきはずの二人がその関係性において微妙にすれ違っているのが、スッキリしないんである。幻覚の子供たちである日美子(深田恭子)や須佐(市原隼人)に流れてしまっている。あるいは、日美子や須佐こそがこの物語のメインを引っ張っていっているとも言えるのだけれど、彼ら若い役者は野村氏や中井氏を向こうに回して話を牽引するほどの力を持っていないから、そこもまたどこかユルユルというかズルズルというか。何というか……深田恭子と市原隼人が姉弟役というのは健全すぎてある意味面白くないんだよな。って、ナニを期待しているんだか……。
特に深キョンがいけない。彼女……なんかあんまり上手くないんだな。この平安エンタメという舞台、そして萬斎氏や中井氏といった強力な役者を従えて若さが薄さになってしまうせいもあるんだけど、どうも、良くない。このキリリとした日美子というもうけ役が、観ているこちらにきっちりと刻み込まれない。前回の小泉今日子がそれほど良かったわけでもないけれど、でもやはり女の人生のキャリアを積み重ねてきただけの説得力があったというか。あるいは夏川結衣の湿度にも全然かなわないし。やはり女としての年数の違いなのかな、などと思う。
彼女の弟、須佐役は今や売れっ子の市原隼人。彼は声ですぐに判った。独特の発声が彼の武器のひとつ。搾り出すような繊細な声で、キャラの真摯さと必死さを体現している。彼は自分の意思とは反するかたちで、でもその衝動に抗えずに、鬼に変貌して人々を食らうのだけれど、先述した彼の健全さが、本来のキャラと相反するはずのそうした変貌の描写の時に、ただ直のモンスターであるだけで、付加するものが何もないのがうーん、てな感じなのである。妖しさがない、妖しさが欲しかったんだよな。でもそれは萬斎氏があまりに素晴らしいから……ムリ、だろうか。
ほおんと、萬斎さんの妖しい魅力ときたら、天下一品である。今回はよだれもたれまくりの、女形の舞を披露してくれちゃうんだから。烏帽子の中にきっちりと纏め上げていた髪をはらりと解き、その白い肌に黒い髪がさらり、さらりと降りかかる。薄絹の衣装を翻しながら、誘うように舞う彼の美しいこと!そしてエネルギーを使い果たして倒れこんでしまった晴明を抱きかかえる博雅、その画の耽美なこと!何か私、前作でもこういうところでキャーキャー言ってたような気がするんだけどさ……女はいくつになってもこーゆー世界が好きなのよ。ふふふ。
博雅を演じる伊藤英明のポカンとした魅力は相変わらず。おっとっと、とバランスを崩して「結界を破るヤツがあるか」と晴明と蜜虫に怒られちゃったりするあたり、ほおんと博雅だなあーって感じ。日美子にひと目惚れし、その気持ちは第三者にはバレバレ。彼女に嬉しそうにニッコリしたまま晴明に固まらされるシーンはあまりに博雅らしくて爆笑モノ。
晴明は博学だし無限ともいえる力を持っているし、博雅はそんな彼にかなう筈はないんだけれど、時々、彼自身そういう意図はないながら、ふっと晴明にヒントを与えたりし、晴明を喜ばすのである。晴明が調べ物をしているところに割り込んでくるあのシーン。巻物が飛び交う中を(何かハリポタみたいね)、「お前はやめた方がいい」と言われながらムキになって覗き込んでいる博雅が何の気なしにふと漏らした言葉が晴明にヒントを与える。「博雅、お前は凄いヤツだ!」と言わしめる。この時の晴明の嬉しそうな顔ときたら。本当に晴明とは対照的だけど、対照的だからこそプラスとマイナスが惹かれあうように二人は運命共同体なんだなあ。
晴明に従う式神の中でもっとも重要なのがこの蜜虫。博雅と同じく彼女もまた晴明と運命を共にする。命に危険があるおとりになったりもし、なかなか謎めいている。正直この蜜虫を演じる今井絵理子のヘタレ演技には前作では、えー、なんでえ?とまで思ったものだけれど、それが二回目ともなるとそのぶきっちょさが妙な味になっているというか、これが蜜虫、その可愛らしさや神秘さに思えてくるから不思議なものである。そう、深キョンや市原君よりも、このぶきっちょ今井絵理子に神秘があるんである。判らないものよ。
平安の優雅さと、晴明の静的な頭脳、そしてエンタメとしてのアクション、これらをどう折り合いをつけるのかが問題、ということなのかなあ。今回は天岩戸だ、出雲だ、大和の国だ、ってその時点でうーん、ごちゃごちゃだあ、と思ったんだけど(それは私だけか……頭悪すぎ)。そのごちゃごちゃが、そういう先述の要素の折り合いの悪さからきているような気もして。そう、平安の優雅とエンタメのアクションはそりゃめちゃめちゃ折り合い悪いわよ。ならばもっとどちらかに対しての思い切りが必要なんじゃないのかなあ?希望としてはもちろん前者。晴明の静の魅力が失われることがあってはならないのだから。平安を舞台にした映画なんて今や他にないんだから、貴重な作品とは思ってるんだけど。
前作より画面に暗みがある感じは良かった。って、そりゃ劇場の設備が悪いのか??★★☆☆☆