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「ふ」


2003年鑑賞作品

ファインディング・ニモ(日本語吹替版)/FINDING NEMO
2003年 101分 アメリカ カラー
監督:アンドリュー・スタントン 脚本:アンドリュー・スタントン/ボブ・ピーターソン/デイヴィッド・レイノルズ
撮影:シャロン・カラハン/ジェレミー・ラスキー 音楽:トーマス・ニューマン
声の出演:木梨憲武 室井滋 宮谷恵多 山路和弘 津田寛治 乃村健次


2003/12/7/日 劇場(池袋シネマサンシャイン)
実写だとやっぱり抵抗があるけれど、アニメ作品だと吹き替えの方が好きなんである。ことに、画面の隅から隅まで細密につくりまくっているディズニー、そしてこのピクサーアニメーションは吹き替えで観なくちゃ小さなモノを見逃してしまう。海の中!海の中なんて、まあよくまあ、やる気になったもんだ。いっちばんめんどくさいじゃない。まず、水の中における動きの複雑さ、光線や浮遊物や泡の複雑さ……普通だったら絶対避けて通る道だもの。アニメーション作品だからいささかキャラクター(つまり海生生物)がカラフルすぎたり単純化されている(あのピンクのイカはほとんどオバQだもんねえ)きらいはあるけれど、あの魚の動きのリアルさ、いやリアルさよりも美しさは驚異的。ゆらゆらと、ほとんど動いていないかのようにそこにとどまってヒレを動かしている穏やかな時と、ぴゅーんと飛ぶように自在に泳ぎまくるそのスピードと。海の中とはいえ本当に空を飛んでいるみたいで、やはりこの辺は宮崎アニメを尊敬するラセター監督(っと、今回は製作か)の意識が働いているんじゃないかと思うわけよね。つまり海の中も陸上と同じ、いやそれ以上に巨大なひとつの世界であり、泳ぐということは歩くよりも飛ぶことに近いということで。海の中で深呼吸する場面などもあるもんなあ。

でもその一方で物語に複雑な面白さはあまり、ない。言ってしまえば思いっきり普遍的。親子の愛情と大アドベンチャー。その二つに尽きている。これはいい意味でも悪い意味でも。いい意味で言えば、それはこの世界に自分たちと同じ視線ですっと入っていけるということ。悪い意味では、海の物語なのに、普通の物語と一緒だよなあ、などと思ってしまうこと。豊かなキャラクターたちや息もつかせぬ展開、そして細かなギャグなど飽きさせることはないんだけど、いや、ないかな……私はちょっと途中、中だるみしてしまった。カクレクマノミの父マーリンが、息子のニモを探して繰り広げる大冒険。彼は怖がりなんだけれど、息子を探すためならそんなことはお構いなし。そして一方の息子のニモは捕まった先の人間の水槽の中で、出会った仲間たちによって成長していく。つまりは父子共々の成長物語。ことにマーリンの大冒険は確かに凄い、凄いんだけれども、何かいろんな寄り道、遠回りで、だんだん冗長に感じてきてしまって、おーい、早くしろよお、とか思っちゃう……のはさすがに私だけかもなあ。

父と息子が引き離されるのが結構早い段階で起こって、そこから先はいつ父が息子に会えるかという一点につき、そのゴールのためにひたすら突っ走る。それは今までのピクサーアニメではなかったことなのだ。今までは大冒険は確かに前提にあったんだけれども、その大冒険の過程において複雑な問題が提示され、解決されていった。明確なゴールではなく、その中で織り成すものがあったんだけれども、今回は、まあ親子ゲンカはあったにしても、ゴールの目的はかなり単純だから、いくら大冒険が繰り広げられてもついつい退屈してしまうのだ。
つまり、ピクサーにとってこの海の世界を描くということがまず挑戦だったわけで、ストーリーは普遍的なもので良かったと、そういうわけなのかな、などとうがったことを考えてしまう。
まあ、それは、最初のうち、キャラがつかめていないせいもあるんだけれど。こんなイイお父さん、マーリンにもついイライラしちゃうし。

お父さん、マーリン。声を当てる木梨氏の雰囲気が、大好き。彼はやっぱりプロの声優さんでもプロの俳優さんでもないから、いわゆる演技の上手さや台詞の聞き取りやすさという点ではアレなんだけど、この人のこの味わいと、相棒、ドリーに突っ込む間がほんわかしていてイイのだ。やっぱり声に人間性って出るのよね、と思う。何か……彼そのものなんだもの。だんだんマーリンが木梨氏の顔に見えてきてしまう気がするほど。
そしてそして、相手役の室井さんが素敵過ぎるんだけど!
この忘れっぽい(つーかほとんど健忘症)ドリーにピッタシ。ほんとかよ、と突っ込みたくなるスローモーションなクジラ語に大笑いし、きまじめなマーリンにお説教されて「ゴメン」と唐突に謝る“間”など、木梨氏と対照的な猪突型で、もうおっかしくてたまんない。いやー、これほど声が風船のように自在に膨らむ人もないもんだ。
この役は相当な芸達者じゃなきゃこなせない。室井さんを思いついたキャスティングの人こそがエラい!と褒めたいわ。

マーリンはカクレクマノミ。オレンジに白い大ぶりなしましまが印象的な小さな魚。妻と新婚のラブラブ生活を送っていた時、突然襲った恐怖。もうすぐ生まれる子供たちを守ろうとした妻と、あんなに沢山いた子供たちはひとつの卵を除いてみな食べられてしまった。
なるほど、マーリンが心配性の子煩悩になるのもむべなるかな、である。息子のニモは片方のヒレが上手く動かないこともあって、マーリンは息子が心配でたまらない。ニモが6歳になり学校に行くことになるんだけど(って、まんま人間の数え方なのね。クマノミってそんなに長生きするの?んで、ジョークが上手いというのはどこからくるの?)、まだ早いんじゃないか、先生がついているとはいっても危ないところでの授業があるし……などと過保護そのものでついてまわってニモにうとまれ、ついにはそれが大事件の発端になるんである。

と、こんな風にマーリンが海の怖さ、それに息子が巻き込まれるんじゃないかという恐怖をさんざん口にしている割には、……あんまり海の怖さは、伝わってこない。
それこそ、一番最初、マーリン夫婦が襲われたシーンは怖かった。目を大きく見張り、下にいる子供たちに視線を落とし、マーリンの静止も聞かずに子供たちのもとに飛んでいって、襲われてしまう妻、この静寂の恐怖、この場面だけがリアルな恐ろしさを表していた。海の生活の恐ろしさ。
つまり……その他では海の恐ろしさを描いているとは思われない。だって、あの恐ろしいサメたちが、海の嫌われ者の自分たちを改善したいと思って菜食主義者を目指すだなんて、そりゃ可笑しいけどあり得ないもん。このサメたちとマーリン&ドリーの攻防戦は、確かにハラハラさせるけど……でも、サメが「魚は友達」なんて言うのよ?彼らにそんなこと言わせていいわけ?これって子供たちが大勢観に来ているのに、食物連鎖とか生態系とか、あるわけだしさあ……。まあ、魚の学校なんて描いていたら、そんなもんまで盛り込むのはムリだとは思うけど……。
魚の学校の描写はでも、好きだけど。背中に子供たちを乗せて海をゆくエイ先生が素敵なのよ。エイって確かに先生っぽいもんなあ。赤坂泰彦のハイカラ?な声!

マーリンは慎重派だから、結構どんな場面でも危ないよ、危ないよ、と言っているんだけれど、本当にマーリン&ドリーが怖い思いをするのは、せいぜいがクラゲの群れに遭遇したところだけ。その他は結構ギャグにまぎれて通過してしまうようなところがあって、海の恐怖ってほどじゃない。だって、クジラに飲み込まれてさえ、潮吹きで飛ばされちゃうってんだから。で、本当に怖いのはクラゲだけ?うーん、こんなことでいいんだろうか……。

どっちかっていうと、海の恐怖というよりは、人間の方に警鐘を鳴らしているのかもしれない。海から魚をとってきて、それを「助けた」だなんて意識で狭い水槽に囲い、とくとくとしている人間たち。とらえられたニモが目覚めた時、自分の置かれた状況が判らなくて、焦って泳ぎ回って、ガン!ガン!と水槽の壁にぶつかってしまうシーンに、海とは比べ物にならない狭いところに閉じ込められてしまった彼の絶望がひしひしと伝わってくる。この中にいる仲間たちもそうである。いや、海からきたのは一匹しかいなくて、他はみんなペットショップからだけれども、それでも皆、母なる海への帰還を心から願っているのだ。
これは熱帯魚なんぞを飼っている人には実に耳の痛い話だろうと思う。熱帯魚に限らず、ペットならば何でもそうだとは思うけれども、特に魚は、その元いたところが広大な広大な、ほとんど無限に近いほどに広い海だったのだから、それはなおさら。そして彼らは力を合わせて海への脱出を試みるのだ。
水槽の中でも成長することは出来る、のよね。しかし仲間になるための儀式っつーのはアレだったけど。

ニモがとらえられたのは、アメリカではなくてオーストラリアはシドニー。何でまたシドニーが選ばれたのかは判らないけれど……このシドニーに向かって果てのない旅を続けるマーリンとドリー。その噂が二人を助けた海亀たちの口から、様々な生物に口伝えされてシドニーへ運ばれてくる。マーリンの冒険譚と、息子を探しているという父子愛に皆夢中になる。
シドニーの海岸で彼らを助けるのがペリカン。大きなくちばしに水をためて二人(?)を入れ、ニモのいる歯医者に運んでくれる。追いかける“ちょーだい”部隊のカモメたち、大好き過ぎるなあー。この可笑しさはやっぱり吹き替え版じゃなくちゃね、と思う。大勢でちょーだい、ちょーだい言っている、あの無表情な点目といい、不気味な可愛いおかしさ!でもあれって、「ウォレスとグルミット」のコワいペンギンに造形がソックリなんだけど……。

そんなことをしている間にもピンチが訪れている。歯医者の姪っ子、ダナにニモがプレゼントされることになっていたのだ。このダナというのが魚を入れたビニール袋をぶんぶん振り回してしまうようなおっとろしい子で……歯列矯正つけてニカッと笑った彼女が歯医者の扉をバーン!と開けて入ってくる場面の、その音楽は♪キーン!キーン!というあの「サイコ」!
彼女にニモを渡すわけにはいかない、と仲間たちが一致団結し、そしてそこにマーリンとドリーを運んできたペリカンも加わった大騒動は、出色。待合室で待っている子供は、悲鳴を上げるダナをガラスごしに見ると、確かに歯の治療に逃げ回っているように見えるんだもん。目を真ん丸くして見つめるこの子の可笑しいこと!それにこの歯医者かなりのヤブだからなあ……。
死んだフリをしたニモを見てしまったマーリンは悄然と海へと帰ってゆくのだけれど、ニモは仲間たちの協力で首尾よく排水溝へ!そして海へとたどり着き、マーリンに去られたショックでまたまた健忘症になっているドリーと出会い、そして無事マーリンと涙の再会。拍手拍手の大団円。

魚はまぶたなんかないんだよー、本当は。と最後の最後にそういう無粋なツッコミをしちゃダメかしらん。
だってさー、目をつぶると、マーリンもニモも粘土細工の人形みたいになってちょっとコワいんだもん。★★★☆☆


福耳
2003年 111分 日本 カラー
監督:瀧川治水 脚本:冨川元文
撮影:栢野直樹 音楽:大谷幸
出演:宮藤官九郎 田中邦衛 高野志穂 司葉子 坂上二郎 谷啓 横山通乃 弓恵子 多々良純 千石規子 室田明 上田耕一 池内万作 六平直政 徳井優 ガダルカナル・タカ 津田寛治 山田幸伸

2003/9/17/水 劇場(有楽町スバル座)
誰かの身体に誰かがとり憑いての騒動、っていうのは、考えてみればコメディでよくある設定ではあるんだよな、とあとからふと気づいたりもする。あるいはこのお年寄りたちの物語にしたって、どっかの機関が推薦したがるような、若者を教育するのにいい映画、みたいな部分があり、それでいてご都合主義が否めないところもたくさんあるし。でもそれでも、きっちりと面白いのは、やはり主演の宮藤官九郎の上手さにつきるんだわ。脚本家という以前に彼は舞台人であるわけだし、脚本家としての彼を知る前に「グループ魂のでんきまむし」等で役者の彼も見てはいるんだけれど、何たってあの映画はキテレツだし(笑)。つまりは、普通?に役者をしている彼を見るのは今回が初めてであって、その上手さには唸った。

これは何たって喜劇だし、一人の肉体を二人が共有するという、いわばありえない部類の設定であり、つまりはある程度のオーバーアクトが前提にはなるんだけど、そのオーバーアクトでありながら、肩の力が抜けてて実に上手いんだな。御大田中邦衛を相手にしてここまできっちり暴れられるのは実力があるから。周りの人には見えない、という設定で、しっかり笑わせてくれるし。個人的には「きゃっすで」が好きだわ(状況説明ナシかい!)。さすが、舞台でたたき上げられた役者。しかも彼の中に入る(設定である)のが田中邦衛だというのに(しかもって失礼か……)、モノマネではなく、田中邦衛の物腰や声のトーン、喋り口などを無理なく再現するあたりにも感嘆。正直言って主役をやる容姿じゃないんだけど(ホント、失礼)。だってあの歯並びはどーしたって気になるしさあ。「(とり憑くのは)本当はもう少しハンサムが良かったんだけど」などという邦衛サンの台詞がそのあたりのフォローになっているような気がするし(笑)。でもこれを、今で言うイケメン俳優がやったりしたら、もうその時点でダメだったろう。

クドカン扮する高志は、自分が入院していた時に気になっていた看護婦の信長さん(苗字よ)を追うような形で、つまりは使命感とかそんなものは何にもないし、お年寄りなんて口うるさくてうっとうしいぐらいにしか思ってないのに、この老人向けマンション、東京パティオの厨房に職を得る。彼が初出勤してきた日、中へと導いてくれたのが田中邦衛扮する富士郎で、しかしこの時点で彼がそこにいるはずはなかった。だって、その日の朝には心筋梗塞で担ぎ込まれた彼は、亡くなってしまっていたから。つまり、ここにいるのは幽霊。富士郎は高志の、ホクロのあるふくよかな耳たぶ、つまり福耳がいたく気に入り、高志にとり憑くことを決めてしまう。富士郎にはどうしてもこのまま成仏できない問題があるという。それは、このマンションのマドンナ的存在である千鳥(司葉子)への想いだった。

人間はいくつになっても恋をする。富士郎は気味悪がる高志にそう言う。「年をとれば、恋もセックスもしないと思っているんですか」と。田中邦衛の口からセックス、なんて言葉が出ることにギョッとするけれど、田中邦衛ならば、確かにいくつになっても恋、というのが、しかも純粋なそれとして感じることが出来る。しかしそういう場合、やはり女性の方は年をとったといえども司葉子のように、美しい人でなければやはり説得力がない。若いクドカンの姿で押し倒してキスしようとしたって(もう見ててドキドキハラハラ!)違和感、ないんだもの、彼女なら。男性の方はそんなこと問われないのに……やはり女はちょっとソンだよな、という気もしたりして。

恋愛という観点じゃなくっても、この東京パティオには、やたらに元気で華やかな人ばかりが集っていて、その点も違和感がある、のだ。カルい気持ちでここに就職した高志をいさめて信長さんは「ここでの仕事を甘く見ないほうがいいですよ。お年寄りのお世話って本当に大変なんだから」と言うのだけれど、その実、その大変さというのは、作品内でまるで描かれていないから。本当ならばもっともっとボケてしまった人たちがいたりして、例えば食事のシーンなんかは見た目にも汚くなったり修羅場になったりするんじゃないかと思うのに、そんな人はただの一人も、いない。つまりはこれが老人ホームではなく、老人向けマンション、つまり、自活できることが条件の場所であるからなのだろうけれど、それならば信長さんの台詞の方こそおこがましいし、やはりご都合主義の感は否めないものがあるのだ。お年寄りが集まっていながら、その場合のさまざまな問題点が排除され、普通に人間が集まった時のそれのように語られている。いや、ある意味それは真実ではあるのだけれど……特別視する方が差別、なのかな。老人が集うから即老人ホームとか考えてしまうことや、若者、老人と区別してしまう考えの方が。それはそうなんだけど、このかなりのご都合主義は、物語が展開するために強いてしまっている気がどうしてもしてしまう。

まあ、でも、ファンタジーということをきっちりと定義しているいさぎよさ、なのかもしれない。だって、高志が勤務する喫茶兼レストランは“タイムマシン”だし、そこに置いてあるピアノはヤマハでもカワイでも、無論スタインウェイやベーゼンドルファーなわけもなく、“アポロ”なのだから!このあたりのシャレた選択は、ちょっと好きだなあ。思えばあのふくよかな耳たぶの福耳だって、ファンタジック、だし。
とか言いつつ……でも確かに今のお年寄りって、元気だし、恋のひとつもしそうだし、リタイアしてからゲイのカミングアウトだってしそうだし(宝田明、ハマりすぎ!)。つまりは、老いの先の死が間近に感じられるからこそ、何も怖くない、この先後悔しないで生きたい、ということなんだろう、と思う……恋のアタックもカミングアウトも出来るのは。こういう境地というのは、確かに若い時には判らないこと。つまりは、今のワカモンはまだまだ悩みが足りないってことなのだ。人生悩みに悩み倒して、年を重ねていけば、いつかこんな風に、怖いものなんて何にもなくなっちゃう。そう考えれば、老いることなんて、怖くない、かも?

実年齢よりも若く見えるクドカンが、彼自身はとてもしっかりとしている人だろうけれど、その若い風貌は、イマドキのワカモノを演じるのに実に説得力がある。高志が、なぜ定職につかないのか、何が不安なのか……彼にとり憑いた富士郎に問われ、あらゆる情報が入ってきてしまうこの世の中で、やる前から結果が見えてしまうし、結果が見えないものは不安で手が出せないからだ、と彼は言う。実を言うと、今の若者(あるいは若者に限らず)の抱えている不安は、こんな風にしっかり説明できるものでもないと思うのだけれど。もっともっと漠然とした不安、なんじゃないのかと。説明もできないような。その台詞だけを取り出して考えてみると、そんな風に、うーん、単純すぎるんじゃないのと思うんだけど、やはりそのあたりは役者の上手さ。それにそんな高志に富士郎が諭す、見えない未来に飛び込む勇気がなくちゃダメなんだ、という台詞も、田中邦衛ほどの御大だからこそ、説得力があるんだよね。これも言葉だけを見るとやっぱり、そう簡単にはいかないよ、などとつい思っちゃうから。その辺はかなり微妙なんだよなあ。

このやりとりが交わされるのは、鏡の迷路の中。高志の中に入り込んでいる富士郎は、時々その身体からたたき出されて肉体が二つになることもあるんだけど(というのも、高志にしか見えない)通常は、高志が鏡を見ると、自分にとり憑いている富士郎が見えるというしくみ。この手法は時々クドカンの早い動きに田中邦衛が追いつけなくなるあたりがご愛嬌なんだけど(笑)。で、この鏡の迷路では、無数の鏡に彼らの姿がとらえられて、お互いがお互いを見つめ合う、そういうどこか形而上学的なものを感じたりもする。しかし、この鏡のシーンはボロもあって……富士郎を正面からとらえたシーンで、バックに映った無数の高志、という場面の、その無数の高志、が髪の分け具合とか、上着のシワの寄り方とかがちょっとずつ違うんだよー!!CGや特撮に頼らないってのは結構だけど、こ、これは……それとも、いろんな高志、とかいう深い意味合いだったりして?いや、その割にはその違いが微妙すぎるんだけど……うぅ、気になる。

千鳥さんは実は富士郎のことが好きだった、つまりは富士郎の“思い残したこと”は見事、成就されたわけだけれど、嬉し涙をこぼしながらも(の田中邦衛はこっちも泣かせる!)それでもまだ、富士郎にはこの世にひっかかりがあるらしい。それは選ばれたのがなぜ高志だったのか、そこに理由があった。後から判ることだけれど、高志は富士郎の、彼が先立たれた息子に似ていたのだ。その福耳も。息子の悩みを聞いてやれないまま、彼は(多分)自ら命を投げ出してしまった。そのことを、富士郎はずっとずっと消えない傷として抱えていたのだ。思えば千鳥さんと心を通わせていたのだって、彼女もまた子供を置き去りにして生きてきた過去を抱えていたからに違いないのだ。千鳥さんは高志に、藤原(富士郎)さんによろしくね、と言ってその娘さんと一緒に暮らすために東京パティオを去る。千鳥さんは、高志の中に富士郎がいることを知っていたのだ(!凄い!)。それはもしかしたら高志が富士郎の息子に似ていることを、彼女は気づいていたのかもしれない。そして自分よりも高志の存在こそが、富士郎の成仏に必要だということも。

“自分の生きてきた証し、生きていく証し”これが映画のキーワード。そして富士郎が思い残した、二つ目の理由。富士郎が高志に残したベンチャー企業、先の見えないことに飛び込めなかった高志に、先がちょっとだけ見える未来を、見えるけれどもまだ作り上げられていない未来を用意してくれた。子供に何が必要なのかを見極めて、レールを轢くんじゃなく、きっかけを与えること。それこそが今、失われていることなのかもしれない。自由っていうのは確かに素晴らしいことだけれど、その名のもとに多くのことが放り出され、人は道を見失ってしまう。子供に、ではなく、後の世代にこうして道を残していくこと。“お年寄りの知能と、ワカモノの体力を合わせれば、怖いものはない”という富士郎の台詞は、それを示唆していた言葉なのではないか。

高志、つまりは彼の中の富士郎と千鳥さんを取り合う小林(谷啓)、緑川(坂上二郎)は面白いんだけど、“飛びます、飛びます”、と“ガチョ〜ン”の内輪ギャグは、うーむ、ビミョウ。あるいは、信長さん役の高野志穂が化粧ケバいのとかも気になる。この人はこのショートカットが似合うナチュラルキュートが魅力なのに。しかもクドカンの芝居の上手さの前では、ちょっとキツいし。一方で、軍人かぶれ?(というのはちょっと言い方違うかな)の多々良純や、100歳を迎えるひと言も喋らない(ラストで初めて喋るシーンがおちゃめ!)の千石規子はさすがやねー。役者としての年輪を感じる。

クドカン主演と言ったけれど、これはクドカンと田中邦衛両主演の映画、よね。田中邦衛、映画の主演は初めてってスポーツ紙に書いてたけどホントかなあ!?彼がやはり素晴らしいのだな。この御大とがっぷり組めるクドカンも確かに凄いんだけど、逆にこの若い感性にすんなり寄り添えるこの人の柔軟さがあってこそ。★★★★☆


船を降りたら彼女の島
2002年 112分 日本 カラー
監督:磯村一路 脚本:磯村一路
撮影:柴主高秀 音楽:押尾コータロー
出演:木村佳乃 大杉漣 大谷直子 照英 村上淳 烏丸せつこ 桑原和男 林美智子 佐々木蔵之介 桜むつ子 小山田サユリ 村上ショージ 六平直政 綾田俊樹 ベンガル 齋藤歩 小池幸次 富岡忠文 神戸浩 森田彩華 利根川鈴華 中山卓也 岡田剛義 サエコ 古川洋太郎 石神国子 小糸秀

2003/2/20/木 劇場(有楽町スバル座)
予告編を観た時から、この人、やっぱどうも薄いやね、と思っていて、実際に本編を観てみると、やっぱり薄々だった。なんでこう、この木村佳乃という人は演技は薄いし、表情に乏しいんだろ?すっかり忘れていた「ISOLA 多重人格少女」もそうだし、何よりこの間の「模倣犯」での彼女の、そのあまりの乏しさにかなり呆然とし、しかしあの映画は監督のねじ伏せが画面からありありとしていたので、この乏しさは監督の意図でワザとじゃないかと思ったんだけど……つまり、それぐらい、ハッキリと乏しかったわけで、しかしそれがワザとじゃなかったのね、ということが今回判った。悪いけど、彼女は映画でピンを張れるような人じゃない。脇でも、その乏しさが気になってしまってどうもいけない。それに20代中盤の女性が主役になるというのは、年齢的に中途半端というか、若さゆえの揺れる心情とかそういうものはまず10代にかなわなくなってくるし、かといってこの年齢はまだまだ女性としても人間としても未成熟で、つまりは彼女自身の演技力が相当問われないと、この年代でピンを張るというのは、難しいのだ。と、いうことを、彼女を見ていて気づいた。今までこの年代でピンを張ってきた女優さんたちは、ちゃんとそこをクリアしていたということなのだ。

正直、物語自体があまりといえばあまりにありがちな展開なので、確かに難しいのかもしれない。地方発信映画でたまに陥ってしまうことなんだけれど、この“ありがち”というのが。もはやありがちでさえなくなって、アナクロニズムにまで落ちてしまっている……というのも、結婚を目前にして故郷や親に心を馳せるとか、思い出をたどって心揺れるとか、ま、言っちゃえば、女性が結婚で幸せになるとかならないとか、なんていうことを、今更やるか?という感じなのだ。ありがちというのは、確かに普遍性と言い換えることも出来る。この普遍性を持ちえて、こうした題材でも色あせずに名作となりえている映画は、確かに過去に数々存在している。でも、やはり、映画というのはまずその時代にイキイキと生きていなければダメなんだ。まずは、時代性のものがどうしてもあるのだから。それに、語り方と役者の力加減によって大きく左右される。ヒロインの彼女がまずこれなので後者はかなりキツいものがあるのがひとつ。そしてその語り方も、第一にかなりの部分を回想シーンに頼っていてそれだけでもヤボなのに、その描写自体までもがヤボなアナクロニズムで、困ってしまう。しかもこれまた地方発信映画が最も陥ってしまう罠、全編観光スポット映画になってしまっているので、やはり脱力してしまうものがあるのだ。

地方発信映画は、本当にこれは気をつけなくてはいけない。しまなみ海道だなんだと観光スポットを次々に紹介している、と観客が気づいてしまうと、一気に熱が冷めてしまう。そうは気づかせずに物語の中にそれがちゃんと吸い込まれていれば、言われなくたってあのロケ地に行ってみたいとか思うもので、例えばそのあたりは大林監督なんか、とっても上手いわけなのだ。あるいはいわゆる観光スポットを全く紹介していなくても。本作は廃校舎を民宿にしてヒロインの両親が切り盛りしているんだけれど、この廃校舎に住み着く、というのは、あの秀作「月とキャベツ」を思い出させる。あの映画はたまたまロケ地としてあの群馬の地が選ばれているだけで、地方発信映画というわけじゃないのかもしれないけれど、ヤボな観光プッシュを全くしていないそれが、その土地の美しさが物語に寸分たがわず寄り添っているそれが、その土地の魅力を200%引き立てることに、なっているのだ。

ヒロインの思い出めぐりがそのまま観光地めぐりになっているというのは、思い出めぐりという時点でかなりヤボなのでヤバいのだ。郷土演劇に郷土の民話まで出てくるというカンペキさに至っては、こりゃ郷土紹介の文化映画かと思ってしまうぐらい。何でもかんでもという貪欲さは、見え方としてはストイックになっているこの映画にあまりにもそぐわない。この映画の中で一番映画的に魅力的だったのは、日本的なおどろおどろしげスポット「三つ首さん」で、子供の頃の、ちょっと肥大化された記憶の造形とかもなかなか魅せるものがあった。のだけれど、結局今ひとつナゾが解き明かされずにぐずぐずになったのが残念。でもこれは、意図的なのかな。ここを探して訪れてくださいな、っていうような……でも、なあんとなく、この部分だけが妙に浮いて見えたような気もするのも事実で。つまりはこの他のベタな思い出めぐりがあまりにベタ過ぎたっていうことなんだけれど。

あ、もうひとつ、映画的魅力のある場所があった。取り残されたゴーストタウン、まるで遺跡のような鉱山の跡の残る街。島に“シーサイド留学”していた男の子が、彼女に外の世界を示唆した街。そこが、誰一人いなくなった、おとぎ話の中のような、そしてちょっと怖いようなこんな街だったなんて、まるで彼のその後の悲劇を予感しているような……。さらりと触れられるだけなのはあまりにもったいない場所。壮観で、荘厳で、人知れず異世界の何かが住んでいそうな場所。

それにしても、このヒロインは結構ヤなヤツ。もう結婚が決まっているのに自分に気のある幼なじみの男をしっかり利用して、自己満足の思い出めぐりに同行させるなんて、あまりいい趣味とは思われない。そのあたりを今ひとつ自覚していないらしいちょっとカマトト入ったあたりが、更に許せなかったりするのだよ、もう。でもこの幼なじみを演じる地元の漁師、照英は意外にかなり良かったりしたんだけれどね。そう、木村佳乃より数段良かった。年とガタイに似合わずウブなあたりが。でもこのキャラは朝ドラ「まんてん」とほぼおんなじだっていうらしいんだけど(笑)。いや、この映画から「まんてん」に移行したんじゃないのかな?

良かったといえば、彼女の両親、大杉漣と大谷直子は実に良かったのだ。ほおんと、もったいないぐらいに。大杉漣は、ひょっとしたら親役なんて初めてなんじゃないだろうか?特にこんなに大きな娘のいる役なんて。まだそこまで年はいってないんじゃないかな……ちょっと老け役に挑戦した、という趣。この典型的に無口なお父さん、娘の突然の帰郷にヤキモキで、彼女の結婚相手が現れた時の、他人を装った対応の仕方とか、なーんか好きなのだ。そしてお父さんをサポートするお母さん、大谷直子は、この無口で不器用な夫のことを「お父さんは何も言わないけど、判るの」と。この台詞がちゃんと生きて、そうだと思わせるのが凄いのだ。そして寡黙なお父さんとは対照的に、このしんとした二人暮しの中で明るくて、素敵なのだ。この民宿を始めるにあたって、今までは作ったこともないような本格フランス料理を作っちゃって、クリーム味のペンネ(フィットチーネだったかな)に感動した娘に「お母さん、凄−い!」とまで言われるんだもん。娘が結婚相手とともに去っていくのを寂しそうに見送る夫に、今までは娘に、と編んでいたのを今度は「来年までは生きてるでしょ」と彼にマフラーを編む。アイテムとして使われる編物が、重くならず、ほんわりとさせるのがいいのだ。編物って、結構諸刃の剣で、そのあたりの使い方は難しいんだもの。

彼女の結婚相手としてひょこっと登場して、さらりと場面を食ってしまう村上淳。この人のこの独特の存在感は、ほっんとに、彼にしか醸し出せないもので、大好き。この許されちゃう感じが。でも彼が言う「彼女がなぜあんなに明るいのか……この風景を見て育ったんですよね」という台詞は、どーう考えてもあの乏しい木村佳乃にはあまりにしっくり来ない表現でううむ、彼の演技も彼女の乏しさをカヴァーするまでには至らないのだよ。

あー、でもそれにしてもさあ……何度も言っちゃうようでヤなんだけど、彼女の思い出めぐり、自分探しの出発点が、自然豊かな小学校での初恋物語で、しかもこの初恋の相手であるシーサイド留学生(これはそのまま、良くある転校生の男の子モノだよな)は訪ねてみると死んじゃってて、なんてさ。しかもしかも、その男の子は彼女が彼のことを忘れている間も、彼女からもらった鈴をずっと大事にしていたなんてさ、正直、ケッ、てな感じなんだもん。それで「私このまま幸せになっていいの?」だって、アホかー?とか言いたくなるよ。大体、お前は今まで幸せじゃなかったんかっつーの。結婚=女の幸せだあ?ヤメろよー。まるで、女は結婚が、それだけが一大エポックメイキングだと言いたいみたい。だって、だってさ、出版社に勤めて、なんてバリバリのキャリアウーマンなのに、そうした部分はやたらすっとばされちゃてるじゃない?しっかしさあ、出版社勤務で彼氏が報道カメラマンってさあ……トレンディドラマかよ!(三村さん風)。結局、もうこういう起点の時点で私的にアレルギー反応を起こしているんだから、やっぱダメかも。

この、小学校の廃校舎が民宿になった、という話は実話なんだという。木造の校舎を経験したことのある人なら、誰もが懐かしさを感じる使い込まれた校舎で、例えば理科室に彼女の小さい頃の道具が置いてある、なんていうのは、ちょっときゅんとくるものもあるのだ。この学校で先生をしていた父親が、離れがたくて、ずっと住んでいた家を取り壊してまでここに住み着いた、というのが、男性特有のロマンチシズムで、それにニコニコついていっちゃう奥さんの方こそがやっぱり素敵だなと思う。このお父さんは、最後までロマンチスト。去っていく娘を見送る後姿がスクリーンの端っこにシルエットで映し出されるラストシーン、ここだけはちょっと涙が出そうになった。出なかったけどね。

若くてちょっとイイ男だとすぐに取り上げられちゃうって気もするけど、今話題の押尾コータローの音楽はストイックでナカナカ良かった。しっかし、彼、あっという間に時の人になっちゃって、まあ、私も知らなかったけど、びっくり。モントルーのジャズ・フェスに出ているのをテレビで見て、おー、なんだなんだ、この人は、と思っているうちにどんどんビッグネームになっていって、いつのまにやら映画音楽まで手掛けてた。この才能の逆輸入スタイルは日本のちょっと恥ずかしい部分なんだけど……。

ところで、どうしても気になってしまったんだけど……オフィシャルサイトの監督のプロフィル、89年の「ギャッツビー/僕らはこの夏ネクタイをする!」で監督デビュー、ってなってるでしょ?つまりは、一般映画のデビューから。……なあんで、ピンク時代を隠すようなこと、するのかなあ。何かそういうのって、気分悪い。★★☆☆☆


ブラウン・バニー/THE BROWN BUNNY
2003年 90分 アメリカ カラー
監督:ヴィンセント・ギャロ 脚本:ヴィンセント・ギャロ
撮影:ヴィンセント・ギャロ 音楽:テッド・カーソン/ジェフ・アレクサンダー/ゴードン・ライトフット/ジャクソンCフランク/マティス・アッカルド・カルテット
出演:ヴィンセント・ギャロ/クロエ・セヴィニー

2003/12/2/火 劇場(渋谷シネマライズ)
「バッファロー’66」に続く第二作目は、監督、主演は勿論、製作も脚本も撮影も美術も、全てがギャロ自身の手によるまさしくワンマン映画。そう、最初はそう言ってしまいたくなるほどだった。いくらなんでもワールドに入りすぎじゃないかって。彼ひとりが、劇中で何もよせつけずに、目を合わせずに、ただただひたすら入り込んでいて、戸惑った。戸惑うどころか、何なの、これ、と苛立つ気分さえ起こさせた。一体、いつまで観客を拒絶し続けるつもりなのかと。何をしたいのか判らないだけじゃない。それだけなら何をしたいのか判るまでを待とうとも思えるのだけれど、この“目を合わせない”彼には本当に困った。カメラと目を合わせない。行きかう人々とも目を合わせない。いや、正確には後者とは目を合わせてはいる。彼が声をかけ、一緒に行こうと誘い、抱きしめキスをする女たちとは。でも合わせているはずの目が、いや、彼は実際には彼女たちの目など見ていない、その目は通り過ぎている。彼自身にさえ、判らないのだ。自分が何を失ってしまっているのかが。
哀しすぎて、そこから目を背けてしまった過去。
そして彼はその記憶を手繰り寄せる旅に出る。

最後まで観れば判る。実に四分の三の行程が彼自身の迷いを、その表情をひたすら映し続けるだけの旅だということ、その必要性が、最後まで観れば確かに判るのだ。
でもその四分の三の間はどうしてくれようかと思う。まだ?まだ起承転結の“承”は現れないの?と。永遠に続くかと思われるような“起”。しかし、そう思わせながらじわじわと“承”が侵入していることに気付かないでいたのだ。
そして、“転”が訪れた時、あの長い長い行程が、確かに、それだけの長さが必要だったんだと、“転”が訪れてしまえばあの戸惑いも苛立ちも氷解してしまう。
この辺ギャロってちょっとイジワルだな、という気がする。まるで観客の忍耐力を試しているみたいだ。
“転”はクロエ・セヴィニーがやっと出てくる場面において。二番目にクレジットされていて、ポスターの印象などではギャロと両主演を担っているような印象の彼女は、実に行程の四分の三を過ぎてやっと現われる。
しかし、長さでいえば本当に短いにも関わらず、終わってしまえば確かに両主演の一翼だったなと思う。ずっとずっと旅をし続けていたギャロ演じるバドの中に、彼女演じるデイジーが常に存在していたことがこの時には判っているからだ。

バドはバイクレーサー。次のレースが行われる地に向けて愛車をワゴンにつんで出発する。それがとりあえず実質的な旅の目的。
しかし彼の中には別の目的があった。いや、この時点ではそれが明確にはされない。彼自身も明確に意識しているとは思われない。
まず最初に、彼は唐突に一人の女を誘う。ガソリンスタンドの近くの雑貨屋のヴァイオレット。まるでひと目惚れをしたように、自分と一緒に来てくれないか、と懇願する。
それを承諾したヴァイオレット。しかし彼女が荷物をまとめてくる、と家の中に姿を消したのを確認すると、バドは車を走らせてしまう。
え?と戸惑う。どうしてか判らずに。この時点ではバドがどういう状態におかれているか知らないから、それこそなんて気まぐれな男なんだろうとさえ思う。でもその後次々と知り合っていくリリー、ローズといった女たちとも一時だけのふれあいですれ違っていき、そして少しずつ少しずつ、彼の記憶の中のデイジーが顔をのぞかせていくに従って判ってくるのだ。
デイジーと同じように、彼女たちは皆、花の名前を持っている。
そして皆寂しげな面影を持っている。

そう、二番目にクロエ・セヴィニーがクレジットされているから、最初の彼女、ヴァイオレットが出てきた時に、え?クロエじゃないよね?などと、一生懸命クロエの顔を詳細に思い出そうと焦るぐらいなのだ。しかしその彼女を通り過ぎ、四人目の女にしてやっと、クロエ演じるデイジーにたどり着く。
しかしその間にちらっと、回想場面で彼女がよぎる。本当に、ちらっと。もどかしいぐらいに一瞬に。そしてバドのモノローグも少しずつ、本当に少しずつ出てくる。じれったいぐらいに少しずつ。彼はいなくなってしまった彼女を追い求める旅に出ているのだと、だんだんと感づいてくる。いや、必死に彼の中にその答えを求めようと食い入るように探っている自分に気付くのだ。最初はあんなに、ちょっと独りよがりすぎじゃないの、などと思っていたのに。

次々と出会う、花の名前を持った、デイジーに似た女たち。最初の女、ヴァイオレットをあまりにも唐突に、アッサリ捨て去ったのには唖然としたけれども、でも今なら判るのだ。きっと彼女たちはデイジーと同じように実体ではなかったんじゃないかと。皆が皆花の名前を持っていたこと、そして、心の中に封じ込めていたデイジーの記憶を取り戻す要素を、各々が少しずつ持っていたことでそれが判る。彼のために用意された、あるいは彼が作り上げた幻影だったのかもしれない、と。
そう、デイジーは幻影。デイジーは死んでしまっていたのだ。それは途中から予期できる。彼女は決して現れないと確信できる。彼があまりにもあまりにも、閉じこもっているから。本当はその彼女を思い出したくてたまらないのに、思い出してしまえば彼女が死んでしまっているという現実に気付かなければいけないということを知っているから、だから心を閉ざしているということが判る。その思いは、もはや空家となった家にたどり着いて、デイジーの名を呼び続ける時点で確信となる。
だからデイジーが彼の投宿しているホテルに、突然現れた時にひどく驚くぐらい。でもそれは本当に突然であり、いきなり彼の後ろに立っている。だから、やっぱり彼女が今生きてはいないことが判る。彼女はそこにいてそこにいない。これは現実の、実体ではないのだ。

と、その前に。この旅の道行きの途中で、バドは一軒の家を訪ねる。そこはデイジーの実家。デイジーとバドはもともと幼なじみ。愛を育み、そして二人でロスに出て暮らし始めた。
バドはデイジーの両親に彼女のことを尋ねる。両親はずっと連絡がないという。それどころか、バドのことも全く記憶にないようだ。
バドはこの両親に、生まれるはずだった二人の子供のことを小さな小さな声で話す。生まれるはずだった……生まれることが出来なかった赤ちゃんのことを。
デイジーが飼っていたという小さな茶色いウサギがいる。
ウサギは寿命が短いはずなのに、その小さな子ウサギはまるで昔そのままに愛らしい姿をしている。
この時にもう、気付くべきだったのだ。バドの旅が現実のそれではないことに。バドもこの時、それにどこかで気付いていながら、……それに気づくということはデイジーのこと、その死を受け入れることに他ならないから……それを振り払うように、ペットショップに行って店員にウサギの寿命のことなどしつこく聞いたりする。でも、この時点では観客の側は彼がなぜこんな旅をしているのか皆目判らなかったから、彼の行動が今ひとつ理解できなかったんだけれど、今なら判るのだ。
年をとらずに、死なずに、愛らしい純粋な姿のままでそこにいるウサギは、彼の願望の中のデイジーそのものなのだ。
それが壊れていくことに、彼はきっとこの時点で知らず知らず予期し、こんな行動に出ているのだということ……。

ホテルに突然現われたデイジー。バドがそのデイジーと交わす生々しい触れ合い。
最初、バドは彼女とのキスさえ拒む。執拗に拒む。デイジーに会いたくてたまらなかったはずなのに、拒む。デイジーはあなたのキスが好きだと、一番好きだと、お願いだから……と懇願し、彼に触れる。抱き合う。唇が触れる。何度も吸いあう。バドの褐色の髪と、デイジーの金髪が、小動物がじゃれあうみたいに重なり合う超クローズアップのここまでは、ひどくロマンティックだった。思わず、二人の仲は元にもどり、ハッピーエンドが迎えられるのかと錯覚した。
しかしこの後、甘やかなメイク・ラブが展開されるのかと思いきや、デイジーはバドのモノをしゃぶりだす。ボカシなんか使われるとホンバンなのかと思ってギョッとするぐらいの生々しさ。結局そのままバドは果て、二人はひとつになることはない。彼はしかし、そうした行為をしたデイジーを売女とののしる。胎児のように彼女に背中を見せてうずくまる。
この間ずっと、バドはデイジーと目を合わせていない。うつむいたままである。キスをする時でさえ。目を合わせると、彼女が消えてしまうのではないかと恐れているかのように。これは現実ではないから。それを彼は知っているから。

そしてデイジーから、明かされるのだ。バドが思い出したくなかった事実を。
バドはデイジーが、浮気をしたと思っていた。いや、そう思い込むことで、自分こそが彼女を遠ざけ、彼女はいなくなってしまったのだと、そういう風に思い込んでこの哀しみから逃れようとしていた。
しかし実際は、デイジーはレイプされたのだ。パーティーでドラッグをやらされ、ふらふらになった彼女を、数人の男があらわに引き剥がし、かわるがわる……。
そしてそれを、バドはその目で見ていた。
バドはデイジーが男たちとヤッていることにショックを受けて、レイプだと意識のどこかで感じていながらもその場を逃げ出し、彼女を助けることが出来なかった。それをデイジーはもうろうとした意識の中で気付いていた。その後デイジーは、吐瀉物がのどに詰まって死んでしまう。レイプをした男どもはまるで他人のような顔をして、救急車で運ばれてゆく、もはや死んでしまった彼女を見下ろしていた。駆けつけたバドはデイジーのなきがらにすがって泣く。そう、彼は彼女が死んでしまっていることをこれ以上なく判っていたはずなのだ。なのに。

こんな風に、夢が生々しいって、矛盾しているかもしれないけれども凄くリアルに感じる。確かにそうだと。夢の中では100パーセント満たされる。実際はそんな筈ないのに。でも“実際はそんな筈ない”というのは、実は現実世界の方こそがそうなのだ。メイク・ラブも100パーセント満たされることは現実世界では難しい。でも夢では現実の時間の介在がないから、実際に肉体的な感覚がないはずなのに、それを100パーセント感じることが出来る。
しかしその夢の中で、バドは彼女と昔のように愛し合うことが出来なかった。彼女に売女と同じことをさせた。そのことでムリヤリ彼の記憶を引き出した。
彼は彼女を思い出せなかった。あまりにも哀しくて。あまりにも信じられなくて。そして段々と手繰り寄せていく。ただそこにいた彼女、寂しさをまとっていた彼女、そして彼が彼女を思い出せなくなった原因となった、他の男に身をまかせる彼女……。それが、ヴァイオレット、リリー、ローズだった。最初は自分がデイジーを追いかけていることすら判っていなかった。そしてようやくたどり着いた本物のデイジーは……もう手の届かない彼女だったのだ。いや、そのことも彼は判っていた。現実から逃げ続ける彼の心の奥底で、デイジーがもう死んでしまったことに直面しなければならないという意識がきっと働いていたのだ。
こうしてバドの前に現れるデイジーは、しかし決して彼のために自ら現われた幽霊なぞではない。彼自身が望んで作り上げた幻影。彼女の口から愛しているともう一度聞きたかった。そして自分が彼女を見捨てたことを許してほしかった。
しかしもうデイジーはいない。死んでしまった。それはもはやかなわないこと。
この贖罪の旅はその点で、とても惨めで独りよがりだと言えるのに、だけどそれは何て哀しく、哀しいほどに美しいのだろう。

全てを思い出したバド。そしてふと目覚めると、彼女は消えていた。

何が何だか判らないと思っている四分の三までも、画は非常に映画的。対象に無遠慮に近づき、カッティングも無造作に見えながらも、非常に計算されている。風景は汚れたフロントガラスごしに見え、心の内側に閉じこもっている彼そのもの。そしてそれは、平凡な街の風景から、走っても走ってもずっと変わりばえのしない砂漠地帯へと移ってゆく。いつでもバドの顔越しに車内が映され、時々はその焦点がボケていたり見切れていたりする。そのどれもが彼の不安定な道行を思わせ、しかも非常にアーティスティック。
やはりギャロは画家というだけあるなと思う。しかもフレームに収まらない構図、というのを常に意識している。きっちりとした構図を非常に嫌っている。その安定が映画を殺すことを彼は知っているから。観客を安心させたくないのだ。この不安な道行に、観客をまるごと連れて行ってしまう、そんな画。
真っ白な砂漠?の中でバイクをワゴンから降ろし、地の果てまで疾走する場面、フィジカルをまるで感じさせない精神世界の美しさが、あとをひくように脳裏に焼きついて離れなかった。★★★☆☆


フラットワールド/FLATWORLD
年 30分 イギリス カラー
監督:ダニエル・グリーヴス 脚本:
撮影: 音楽:
声の出演:

2003/1/21/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト/英国職人アート・アニメーション特集)
驚くべき実験的な秀作。人も車も建物も家具やなんかの小道具も、みんなペラペラに薄っぺらいアニメーションと、いわゆるフツウのアニメーションとの間を行き来する世界で……とこう書いてみて、でも“フツウのアニメーション”って、だって、それもまた立体な訳じゃないんだし、やっぱり紙の上、二次元の世界に違いないんだけど、切り絵アニメーション、と解説されるとおり、まさしく“フラットワールド”、ぺらっぺらなのだ。かといって市川崑監督の「新選組」みたいに、紙人形をさまざまに置いて撮るというのではなくて(ひょっとしたら手法は似通っているのかもしれないけど)、そのペラペラの人物も猫も魚もちゃんと表情豊かに動いているのだ。……何て言ったらいいのかな、つまり向きを変える時とかに紙を裏返すような感じ、正面は正面のみ、横は横のみで、ペラペラに“見せている”のだ。主人公の男は自分のズボンにはいたまま直接アイロン当てて足ペラペラだし(!)。てことは、これって、かなり難しい手法なんじゃないんだろうか?いわゆる人物や動物の動きを計算してコマで追うよりずっと緻密な計算が必要そう。それでいて薄墨のような白黒の世界はどこか懐かしいアナクロニズムで、主人公の部屋でかかっているテレビでは、そんな世界でやってそうな怪盗モノの映画が映し出されていたりする。しかしひょんなことからこのテレビの世界とこちらの世界があっちゃこっちゃになってしまうのだ。

どうやらこの主人公、電気技師らしい。地下の切れた電線を直そうとすると、そこから電波が飛び出して、テレビの中の怪盗がこの男のいる世界に現われてしまう。彼と彼から追い出された猫、そしてついにはその猫にイジワルしていたお魚までもが水たまりから不思議の世界へとあっちこっちと追っかけっこ。この水たまりの向こうの世界は、いわゆるフツウのアニメーション。立体?的でカラフルで、動きもディズニーがごとくに柔らかく、しかし不思議と“フラットワールド”に比べて野暮ったい感じ。鮮やかなオレンジ色になっちゃう猫より、元の世界のドンくさい猫さんの方が、好きだわ。そう、この猫さん、ホントどんくさいの。壁にかけられた魚にいっつもバカにされて、ワナにはめられてご主人に誤解されてすごすご家を出ちゃう。可哀想なの。でも誤解だったことに気づいたご主人がこの猫さんを追いかけて行った先が、この水たまりの向こう側のカラフルな世界。そこでは彼が普段見ていたテレビ番組が、リモコンのボタンでさまざまに変化する世界なのだ。

この電気技師のカバンと大金が入った怪盗のカバン、それをめぐって二人プラスアルファが、こっちの世界とチャンネルを変えるごとに変化するあっちの世界とを、めまぐるしく追っかけっこするこの見ごたえ。そう言えばこの世界、誰もひと言も喋らない。しぐさと表情と相槌のような返答で全てを表現しちゃう。素晴らしい!で、不思議なのはね、カラフルで動きの滑らかな水たまりのあっち側より、ペラペラで白黒のこっち側にこそ本当の生活があって、誤解をといたご主人と猫さんと魚さんは、仲良くこっちの世界に帰ってきてめでたし、めでたしになることなのだ。これって豊かな世界へのシニカルな視線というか、警鐘というか、うん、そんな感じがしたんだな。チャンネルを次々に変えられるカラフルな世界よりも、あたたかでささやかな生活の方が幸福だってこと。些細な誤解もありつつ、それがとけた時には以前にも増して幸せになるって。この猫さんがね、ペラペラなのにとっても表情が豊かで、素晴らしいのだ。イジワルな魚さんもにくったらしいくらい豊かだけど。動物をこれだけ表情豊かに描けるというのは、意外に日本だとちょっとないというか(あ、でも手塚治虫は上手かったけど)結構キャラクター頼みだからなあ。

うん、これ本当に素晴らしい秀作だと思う。職人芸、そんな感じ!★★★★☆


BULLY ブリー/BULLY
2002年 111分 アメリカ カラー
監督:ラリー・クラーク 脚本:サカリー・ロング/ロジャー・プリス
撮影:スティーブ・ゲイナー 音楽:ハワード・パー
出演:ブラッド・レンフロ/レイチェル・マイナー/ニック・スタール/ビジョウ・フィリップス/マイケル・ピット/レオ・フィッツパトリック/ケリー・ガーナー

2003/5/27/火 劇場(シネセゾン渋谷)
「キッズ」で大いに衝撃を受けたラリー・クラーク監督作品は、時を経た最新作でも、衰えることはなかった。筋だけを落ち着いて眺めてみれば、ちょっと意外なぐらいに道徳的な作品なんである。つまり、重い罪を犯したものは、重い罰を受ける。本当に、宗教的なぐらい、保守的で、道徳的。しかし、それをここまで徹底的に生々しく見せられると、ショックで身体が震えるのだ……そして、それはこんなことは自分たちには関係ないこと、と構えているこちらに、くるりと裏返しをさせる恐ろしさを持っている。それが、それこそが、この作品の最も衝撃的で、最も恐ろしいところなのだ。

学校に行くでも、働くでもない、見るからに自堕落なワカモンたち。ヒップホップにのせて、汗がまとわりつくような夏の暑さの中、やることといえば車を飛ばすこととドラッグとセックス、それだけのコイツらがひたすら描かれる前半に、いいかげん大人になっちまったこっちはひたすらイライラさせられ、こんな映画、観に来るんじゃなかったと思うほど。本当にまあ、よくもまあ、飽きもせずにセックスばっかやってるもんだ、と思う。今さらティーン映画のセックスには驚かなくなってしまっている自分もイヤだが、さすがにラリー・クラーク映画のそれは、動物の交尾のようにせわしげな上、くいこみ気味の大股開きだの、何でここまで扇情的な画が必要なのかと思うぐらいに、生理的拒否反応を起こすシーンばかりで、滅入る。本当に、こんな映画に足を運ぶんじゃなかったと、しきりに思う。しかしそれは、これ以上なく、必要な描写だったのだ。彼らに嫌悪感を持たせること、そのことで、クラーク監督は実にイジワルな仕掛けを用意しているのである。いや、仕掛け、というのは、当たらないかもしれない。何せこれは実話。しかも非常に忠実なリサーチのもとに、実際にその事件が起こった場所で撮影されたというんだから。でも、ならば尚更、クラーク監督はこの事件を実際の地平から見つめれば見つめるほど、それがバカな子供たちによるバカな犯罪とだけ片付けることが出来ないことが、判ったのだと思う。そう、それこそ、この前半の描写では、バカな子供たちによるバカな犯罪としか、思えないのだ。なのに……。

幼なじみのマーティとボビー。ボビーはいいとこのぼっちゃんで、マーティを、一応親友という関係ながら、奴隷のように、使いっぱにしている。マーティはそんなボビーに憎しみを抱きながらも、それでもやっぱり友達だし、何よりボビーにあらゆる面で確かに頼っているから、関係を断ち切ることが出来ない。ボビーはほとんど独裁者のように振る舞い、マーティに男娼をさせたり、暴力さえ振るうのに、である。
このままであれば、マーティは彼自身が望んでいたようにいつかはこの土地から引っ越してボビーから離れるか、あるいは双方共に大人になってこんなガキそのものの幼稚な生活が自然と収束に向かうかして、あの頃は若かった、的な結末になったのかもしれない。しかしそこにリサとアリが彼らと関わってしまう。マーティとボビーがナンパした女の子たち。いかにも遊び慣れしたアリと、それなりの遊びの経験はあるだろうけれど、どこかにまだ恋に対する夢を持っていそうなリサ。そう……リサの、このヘタに持っている純情さが、女の恐ろしさなのだ。彼女はマーティと会ってすぐに車の後部座席でセックスし(ちなみにボビーとアリは運転席と助手席で×××)マーティを運命の人、と確信してしまう。

リサが母親に「新しいボーイフレンドが出来たの。とてもキュート。ママに会わせたいわ」と嬉しげに喋るのには少し、驚く。しかし彼女に限らず、ここに出てくる子供たちは別に親とまるで喋らないとかいうのではなく、家に寄り付かないというのでもなく、普通に親と同居しているし、友達の家にたむろしても、そこの親に一応は挨拶もするんである……たとえベッドでイチャイチャしながらでも。しかしこれがまた、クセモノである。親は自分の子供にどんな友達がいて、どんな恋人がいて、そういうことはちゃんと判っているのに、彼らが何を考えて、何をしようとしているのかは、まるで判っていないのだ。でも、だったら、私達が彼らのような子供だった頃、親にそんなことまでさらけ出していただろうか?あるいは、さらけ出したいとか、さらけ出す必要性を感じたりも、しただろうか?答えは否、である。はっきり言って、そんな子供はちょっと異常だとも思う。でも……こんな風に凄惨な事件が引き起こされてしまうと、やはり親の不干渉を感じざるを得ないのだ。ならば、親は、どこまで、子供の中に入っていけばいいのか?どこまでが放任で、どこからが過保護なのか?……なんという、難しさだろう。

どんなにいっちょまえに車を乗り回したりセックスしたりしても、やはり子供は子供、なのだ。彼らの語る愛や、犯罪を犯す動機になる感情は、ちょっと驚くほどに幼稚である。確かにマーティの子供を宿したことを手放しで喜ぶほどのリサの愛は純粋だろうし、ボビーにレイプされたリサやアリがコイツを殺したいと思う感情ももっともなものだ。だけれども……そこにはやはり、目の前の心地よさを享受し、イヤなものは排除すれば幸せがやってくる、という、まるで足し算引き算並みの単純さで人生を語れると思っている(そこまで考えてさえ、いないんだろうが)まさしく子供の本能しかないのだ。彼らがそれを思い知るのは、実際に犯罪を犯したその場において。道徳的、理性的なんてめんどくさいことではなくて、それがまず理屈ぬきにどんなに恐ろしいことなのかを、いやというほど思い知らされることになる。

しかしこのレイプという問題にしても、こうして状況を再現されると、本当に難しい。リサがマーティとセックスしている時にボビーがマーティを殴り倒して“交替”した、というのは確かにヒドいが、アリに関しては彼女の方がボビーをベッドへと誘い、お互いに自ら服を脱ぎ捨て、彼女はベッドに仰向けになってセックスの体勢をとるというところまでしているから。実際に絡み合ってからボビーは豹変し、リサを暴力的に“犯す”わけだけれども、ハンカチひとつ敷いていただけでレイプが成立しないなどとされることを考えると、これがレイプと認められるには、アリ自身の責任もかなり問われることは必至なのだ。

しかし何よりボビー殺害計画が発進してしまったのは、前述したリサの、マーティに対するヤバイほどの純粋な愛情によるもの。リサはマーティとの愛の行為を鬼畜な方法でジャマしたボビーを、そして愛するマーティを奴隷さながらに扱うボビーを、心から憎んでいた。アリがレイプされたことを持ち出すのは、この殺害計画に誘い出すていのいい言い訳に過ぎなかったのだ。それが証拠にアリは、すわった目でボビー殺しを着々と進めていくリサに、どこか及び腰である。マーティだって、確かにボビーのことを憎んでいたんだろうけれど、その一方で親友だったことも事実である。何よりボビーの方が……彼は父親から、マーティみたいな、付き合っても何の得にもならないような奴とは縁を切れ、と言われているのに、それをのらりくらりとかわすばかりなのだ。私は、ボビーはマーティのことを本当に親友だと思い、本当に好きだったんじゃないかと、思う。ゲイナイトにマーティを出場させる、なんていう、マーティにとっては真に屈辱的なことも、ボビーのマーティに対する、どこかホモセクシュアルな気分さえ、感じる。ボビーの暴力的な態度や行為は、“野心のある息子”が自慢、だなんていう、本気で親バカな両親の間違った育て方によるところも大きいと思うし、彼の愚かさは若さゆえの部分を酌量して、充分に更生できる余地があったはずなのだ。

リサはボビー殺しを完璧なものにするために、殺し屋までも雇う。確かに本気だったんだろう。いや……本気のつもり、だったのだ。この殺し屋が、彼らガキチームのゲームみたいなノリに心配して、これはマジメなことなんだ。本当に殺す気があるのか、と再三尋ねる。このガキどもには、これからすることがどんなにヤバいことかが、今ひとつ判っていない、と。確かに判っていなかった。あれだけノリノリに威勢の良かった彼らが、実際に殺しが行われる現場に来ただけで震え、実際にナイフを突き立て、バットが振られ、本当にボビーが死んでしまうと、その恐怖におののき、逃げ惑い、疑心暗鬼に駆られ、皆が自らその秘密をバラすなどという行動に及んでしまうのだ。あれだけ威勢が良かったくせに、なんというナサケナさ、私ならもっと……と思いかけて心底ゾッとする。これが、これがこの映画の真に、真に恐ろしい本質なのだ。前半さんざん自堕落なコイツらを見せられて、で、用意周到のはずだった殺しに失敗し、それ見たことか、所詮ガキは心の準備も出来ないんだよ、私ならもっと落ち着いてやり遂げて……ええッ!?、い、一体私、何をシュミレーションしているの!?と心の底からガタガタ震えてしまうのだ。確かに……ある程度大人になってしまえば、こんな場面でも落ち着いてしまうんじゃないかって。

しかも、である。彼らが結局、恐怖からみんなして自ら暴露するような感じで逮捕されてしまって、手を出してなくても何十年という刑が与えられ、言い出しっぺとか、手を出していれば終身刑とか死刑とかそんな罪が与えられていて、いけすかないヤツを友達みんなで殺すって、そんなことであんなに重い刑が?などと一瞬思ってしまう自分に驚愕してしまうのだ。何で、そんなこと、だなんて思うの!?いや、それは彼らが、それほど重大な罪を犯しているという自覚がないのを見せられているからであって、決して、こんなことぐらいで、と思っているわけじゃなくて……などと自分の中で必死で言い訳して、自分の中の罪への自覚のなさの恐ろしさに心底、戦慄する。あるいは、日本では未成年だと、殺人とかの重い罪を犯しても、ここまで重い罪にならないから、そう思ってしまうのかもしれない。若い故の罪。だから更生も可能だと。でも……殺されたボビーの、殺された理由になっていた愚かさも、更生可能なものだったわけで……大人になって、あの頃は若かったから、と振り返る余地が残されない悲惨さって、まるで想像がつかない。

一人、一人だけ、ホッとさせられる女の子がいた。クローディア。リサたちのグループには入っておらず、マジメにバイトして、いつでも一人で過ごしている女の子。ボビー殺しに動転したリサに、アリバイ作りを強要させられそうになるのだけれど、きっぱりと断り、そのことを誰にも漏らさない。メガネをかけて、いかにもマジメそうなこの子は、ティーンの頃にはこういうワカモンたちにバカにされそうな女の子なのだけれど、物事の理屈を非常に冷静に見る目が備わっている子。確かに若い頃にはある程度ムチャすることも必要で、そのことが後の人生にプラスになることもあるのだろうと思うのだけれど、そのムチャを制御できずにこんな事件を引き起こしてしまうワカモンを見てしまうと……。クローディアのような女の子も、親には言っていないこともあるだろうし(実際、パニクりまくったリサから漏らされたボビー殺しは言わなかったし)、決して品行方正なだけの女の子ってわけじゃ、ないんだろうと思う。つまりは、クローディアが彼らとどこが違うかというと、彼女は一人でいられる子なのだ。一人の価値が判っている子。自分自身だけの、価値が。自分だけの価値、魅力など考えたこともなく、マーティを愛する自分こそが自分で、誰かと一緒にいなければ不安で、誰かを憎んで殺したいと思ってもそれを一人では実行できずに実に6人もの人間を巻き添えにしてしまうリサと違うのは、そこなのだ。それは子供とか大人とかいうこととは少し、違うかもしれない。リサは、そしてリサに巻き込まれた彼らも、皆一人ではいられない、かわいそうな子供たち。

クローディアのような子なら、ボビーのようなヤツをどんなにいけすかないと思っても、どんな人間でも死ぬに値するなんてことは絶対にない、ということが判っているはず。それは殺す側の人間が、一人の人間を殺す、なんていうほどの価値があるのか、という、逆説的な問いにもイコールとなる。人間はひとりひとり、それだけの価値があり、でもそれ以上の価値は、ないのだ。人一人の重さしか、ない。人が人の存在価値を云々するなんて、愚かなことなのだ……でもそれを考えれば、罪を犯した人間を裁く場というのもまた、愚かなものなのだけれど。

独裁者のように、マーティや女たちを征服していたボビーが、自慢げにその鍛えた身体を映し出していた鏡。そんな息子を誇らしげに見ていた父親は、しかし息子が殺されて、その犯人グループが裁かれる法廷に出ても、涙ひとつ見せない。このどこか冷たい親バカは哀しく、親の希望に添うよう期待されていたボビーが何か、可哀想に思えてくる。鏡は、そんな理想と、そして裏腹な現実を映す。鏡はまた他に印象的な使われ方がしていて、ボビー殺しにうろたえたリサがマーティに電話している時に自分の姿を映し出すそれが、ちょうど顔のところに鏡の境がきていて、彼女の顔はいっそう不安げにゆがんでいるのだ。リサ。彼女はある意味で本当に、純粋だったと思う。計画を練っている時には、これは完璧、と満足げで、殺しのギリギリまで落ち着き払っていたのに、計画が達成された後、最もうろたえ、愚かな行動に出るのは彼女なのだ。マーティの子供を宿したことを喜び、それをマーティも喜んでくれると思う信じられないほどのウブさ。実際は動揺したマーティから「堕ろせ!」と暴力を振るわれてしまうのだが……。彼女のさらす裸体は、まるでこれから咲きほころぶ可憐な花のつぼみのような乳房が何か痛々しく、演じるレイチェル・マイナーが、ヌードになることにかなりの抵抗を感じた、というのが頷ける、清らかさなのだ。彼女の思いつく殺人計画もまた、ある意味清らかだったのかもしれない。愛という観点からは。映画を観ていると、何度も思う。大人になることは、この純粋さ、清らかさを失っていくことなのだと。その汚れによって、犯罪を犯す愚かさを抑えることが出来るのだと。

マーティを演じたブラッド・レンフロの言うように、死刑から終身刑に減刑されたマーティが、その罪を一生背負っていくという点で、果たして本当に減刑だったのだろうか、ということ。彼には人生をやり直すチャンスは与えられなかった。それは確かに当然の、仕方のないことだったのかも、しれないのだけれど……。★★★★☆


ぷりてぃ・ウーマン
2002年 111分 日本 カラー
監督:渡邊孝好 脚本:高橋美幸 真崎慎
撮影:安田圭 音楽:佐藤俊彦
出演:淡路恵子 西田尚美 風見章子 草村礼子 イーデス・ハンソン 正司照枝 絵沢萠子 馬渕晴子 山田邦子 津川雅彦 益岡徹 市川実日子 風吹ジュン 岸部一徳 新晋一郎 斉藤洋介 竹井みどり すまけい 蛭子能収 高橋ひとみ 出川哲郎 チューヤン 山田隆夫 高田聖子 佐藤允 風見しんご 土屋久美子 ミッキー・カーチス 鈴木正幸 秋野太作 金子貴俊

2003/5/21/水 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
やばッ!そんなつもりなんて全然なく観てたのに、もう最後には涙ボロボロ。最初は正直、ばーちゃんたちのかなり確信犯的なオーヴァーアクトに引き気味だったんだけど、クライマックスのベタなお芝居になんでこんなにシンクロしちゃうの?ってぐらいにボロボロに泣いちゃってる自分に大いに戸惑う。平均年齢80歳以上のこの劇団を、信じられないほどのエネルギーで引っ張っていってるこのスーパーばーちゃんたち、すっげえ!しかもこれが実話がもとになっている上に、その劇団はなんと27年間も続いて、今やちょっとした人気劇団だというんだからさらにスゲーんである。だって、27年、だよ?一回芝居をやるだけでも凄いと思っちゃうのに、定年後からの27年、人一人がいい大人になるだけの年数をやり続けてきたなんて、もう凄すぎる。普通の劇団だって、こんなに続かないでしょッ。

定年後の人生、老後。ほんの10年、いや、5年ぐらい前までは考えることさえなかったけれども、今は悲観的な意味で、凄くそれを考えるようになった。老後なんて、くるのかとさえ。その頃には路上でのたれ死んでいるんじゃないかとか、それぐらい現状から余裕のある老後を迎えるのが厳しいと思える今。だから正直、このいきいきと輝くおばーちゃんたちに対して、ちょっとした嫉妬も覚える。「老人は老人らしく、大人しくしていればいい」と思いっきり言いたげな市役所職員の態度にムカつきながらも、心のどこかで、実際自分もそう思っていたところをチクリとやられているのに気づく。それはあるいは、今の現状に疲れ果てて、大人しく、ただただボーッとする老後を早く迎えたい、という希望なのかもしれない、とも思う。

でも、このおばーちゃんたちときたら。こんな今ぐらいで根性なしに疲れ果てている私たち世代なんかより、もっとずっと苦労してきたに違いないのに、“待望”の老後を迎えてまで、何でまたこんなに元気なワケ!?ああ、でもでも、「老人だって、やりたいことをやってもいいじゃない」いいじゃない、どころか、こんな人生の大先輩に向かって、老人らしくしろだのなんだのと言う、いや言ってなくったって、ついつい思ってしまっていたなんて、本当に、何という身勝手でナマイキなことだったんだろうと、今更ながら気づく。だって、私がこのぐらいの年になって、こんな孫ほどの年の若造からそんなこと言われたら、もうむなぐらひっつかんで、「ナマイキ言ってんじゃないよ、ガキが!」なんて台詞のひとつやふたつ、言いたいに決まってるもん!ああ、何でそんなことに気づかなかったのかなあ。“先輩”を見下す態度が横行しているこの日本社会の愚かさ、情けなさ。

無論、このばーちゃんたちはそんな風に大人しくしたがっているようなタマではない。でも確かにそれまでは、大人しい?老後を楽しんできた。公民館に登録している彼女たち「ともしび会」は何をするでもない集まり。集まっちゃ茶を飲み菓子を食べ、役に立たない通販商品を組み立ててほっぽり、囲碁サークルで来ているマジメなじーさんをからかい、たまーに様子を見に来る市役所の福祉課職員をおちょくる、それだけの日々。今まで一生懸命働いてきたんだから、こんな気ままな老後でいいじゃない、と確かに彼女たちは思っていたはずだったのだ。

でも、市民文化祭が開かれることになって状況は一変する。何をするでもない「ともしび会」だけが不参加なんて、そんなのけ者になりたくない、とリーダー格の葵(淡路恵子)が提案したのが、芝居。ちょうど葵の孫娘、加奈子(西田尚美)が、シナリオライターの夢破れて帰ってきており、未練たらしく持ってきていた脚本がうってつけ、と、しかも加奈子に演出まで依頼してコトを始めてしまったのだ。最初は腰が引き気味だったほかのばーちゃんたちも、役決め、脚本の読み合わせ、となっていくうちにノリノリ。市役所職員の用意したフラダンスなど目もくれず、晴れの舞台に向かって突っ走っていく。

この市役所職員の鮫島光吉(益岡徹)と木村真由美(市川実日子)のコンビが、もうケッサク。ちっとも思い通りにいかないばーちゃんたちに翻弄される、つまりはばーちゃんたちを思い通りにしようってなあたりがホント、福祉課職員の風上にもおけない傲慢な鮫島のうろたえっぷりと、そんな上司を冷ややかーに見つめて思いっきりマイペースな女の子、木村の、この絶妙の間合いの可笑しさときたら、ちょっとない。益岡徹がまずバツグンに上手くて、市川実日子はコメディエンヌとしてのセンスが大爆発。市川実日子、地顔からすでに不機嫌な彼女、その個性が今まではシリアスな方向に遺憾なく発揮されていたんだけど、実際はコメディにこんなにドンピシャリなのね。そういやあ、「とらばいゆ」でもそういう感じはあったんだけど、あれは作品自体が消化不良気味だったからなあ……。何たってサイコーなのは、あのめんどくさそーにフラを踊る彼女!

コメディエンヌとしては市川実日子の先輩格にあたる西田尚美なんだけど、ここではすっかり株を奪われている……というより、彼女はここではシリアスパートを担っているんである。東京の生活に疲れて戻ってくる孫娘、というのはちょっと「ナビィの恋」で彼女がやった役を思い出させる。この加奈子はシナリオライターをあきらめたことを、親には言えないんだけど、このばーちゃんには話せる。ま、でもすぐバラされちゃうんだけど(笑)。ホントくえないばーさんなんだから。でもこの加奈子が家族に言えずに悶々としているのを見越してバサッと言ってくれちゃうんだから、やっぱり孫にとってのおばーちゃんっていうのは、親とは違う理解を示してくれる存在、なんだよね。

ところで。このともしび会のメンメンというのは、本当にかなりスゴい顔ぶれ。森下葵(淡路恵子)、室田梅子(風見章子)、川部幾代(草村礼子)、茂森ジェーン(イーデス・ハンソン)、石倉琴江(正司照枝)、畑中小夜(絵沢萠子)、生駒頼子(馬渕晴子)……うーむ、凄すぎる女優陣。で、そのファッションでキャラクターがビシっと決まるのね。私、それこそばーちゃんって、みんなおなじよーなカッコして、おなじよーに見えてるって印象で……多分今の世のばーちゃんたちは確かにそういう傾向にあるから(ばーちゃんたちに限らず、世代ごとにそういう幅の狭さって、あるよね)この映画を観て、皆がもっともっと個性的になればいいのにな、と思う。細身の身体にカジュアルな若いカッコがキマる淡路恵子、地味ながら上品さを感じさせる草村礼子、ハデでオオサカ風の絵沢萌子、ケンケンのプリントTシャツが良く似合っているイーデス・ハンソン……などなど、ホントみんな、ドンピシャリなんだよなあ。

ところで、これからが本題。芝居の稽古をはじめたものの、ド素人のばーちゃんたちがいきなりそんなことをやったって、そうすんなり上手くいくはずもない。あがり症の幾代(草村礼子)が上手く台詞を言えなくて、つっかえてどうにも進まないあたりから暗雲が立ち込めてきた。無責任なギャラリーも増えに増えて彼女たちを笑いながら見ているもんだから、余計にその雲行きは怪しくなる。責任転嫁も上手いばーちゃんたちだから、果てはやりづらい脚本のせいだとか、適当にはしょってやっちゃえだのと言いたい放題。で、当然、自分の脚本を勝手に使われた加奈子はキレて、「私、もうやめる。こんなの、やってらんない」と飛び出してしまう。葵がとりなそうしても、加奈子の腹の虫はおさまらない。メンバーの気持ちのノリも今ひとつだし、もうここでこの芝居は空中分解かと思われたんだけれど……。

正直、この時点では、加奈子の言い分の方に共感を覚えていたものの、次のシーンでその気持ちがコロッと裏返しになってしまうのだった。だってだって、あの不器用であがり症の幾代が、夜遅くまで公民館で練習しているところを加奈子は見てしまうんだもの。車椅子に乗ったヘンクツなダンナがその練習に付き合ってくれているのも、泣かせる。何度も何度も、あのつっかえて進めなかったところを繰り返し繰り返し練習している幾代……あー、もうもう、今こうして思い出してもあっという間に目に涙がたまってきちゃうんだよお!ヤバい、こんな単純なことでと思うんだけど、シンプルな一生懸命さが、一番人の心を打つんだなあ……小細工なんか、必要ないんだ。加奈子がその幾代を見て、もうなんともいえない表情で涙を浮かべる……彼女、自分の書いた脚本を芝居のドヘタなばーちゃんたちにやられる時点でかなりガックリきていたのに、その上脚本自体をケナされて、頭に来ていたわけじゃない。でも、自分が大切に大切に書いた言葉を、こんな風に一生懸命練習してくれている幾代に、心を打たれたっていうのが、ホント、これまたシンプルなんだけど、本当にグッときちゃうんだもん。芝居の上手い下手じゃなくて、一生懸命にやってくれることに、自分の脚本の存在意義を、加奈子は多分、初めて感じるんだ。

もうここですっかり涙モードになってしまっているので、その一生懸命が絶妙な笑いにまで昇華するクライマックスの本番舞台では、ほとんど手放しでオイオイと泣いてしまうんである。あ、実はその前にもうひとくさりあって……この芝居の主役を演じていた梅子(風見章子)が途中で死んでしまうという深刻なアクシデントに見舞われる。この“事件”は正直あまりに唐突で、冗談じゃないかと思ったぐらいなのでうっかり泣きそこねてしまった(苦笑)。このことによって芝居続行が絶望的になり、すっかり意気消沈した葵……あんなにアクティブで、他のサークルを蹴散らしてまで稽古のスケジュールを入れていた(この場面は結構笑える。特に詩の朗読会とバッティングするとこが)葵が、この梅子の死に責任を感じて布団を引っかぶって動かなくなってしまう。でも、葵が梅子の息子夫婦に謝りに行くと、彼らは逆に葵に感謝の言葉を口にするのだ。もう先が短いのは、判っていたんだと。芝居をはじめてからの梅子は本当に楽しそうだったと。この言葉を受けて、葵は再び立ち上がるのだッ。

で、市役所に直訴に行くんだけど、もうここでの市川実日子がまたバツグンなのだ。もう中止の書類を通してしまった、という鮫島に、その書類って、コレですかあ?とたかだかと掲げる木村。すいません、出すの忘れてましたぁ、って、もう市川実日子、そのトボケっぷりがナイスすぎるッ。葵が礼を言うと「本当に忘れてたんですって」と彼女。確かに、本当に忘れてたんだろうなあ……その陽気なやる気のなさがイイのよ、実にッ。

梅子の替わりに舞台に立つのは、加奈子。人情喜劇の家族芝居は、アクシデントの連続で、やっぱり決して上手くはないんだけど、だからこそ、もう最後には涙、涙。このベテラン女優たちが、“ヘタな芝居”を演じる上手さにふと思い当たり……やっぱりベテランだわ。ホントにヘタだもんね、見事に。芝居じゃない、普通の部分でも全体的にかなりのオーヴァーアクトなのは、そうした作品カラーを汲み取ってのことなのだということにも、今更ながらに思い当たる。だって最初こそちょっと引いてたけど、もはやホラ、全然シンクロしちゃってるんだもん。この芝居を見守る観客たちも次々にハンカチで目頭を抑えるんだけど、何たってボロボロに泣きまくるのは、舞台の上のばーちゃんたちの家族。年寄りがこんなミットモないこと、と反対してきた家族たちなんだけど、座布団運びの山田クンなんか本気で顔を真っ赤にしてボロ泣きだもんね。この家族たちにもかなり魅力的なキャストが勢ぞろい。今ついつい先走って(笑)言っちゃったけど、山田隆夫に風見しんご、高田聖子、高橋ひとみ、蛭子能収、……何たって葵の息子夫婦は岸部一徳に風吹ジュンだもん。その中で良かったのは、亡くなった梅子の息子夫婦、斉藤洋介と竹井みどり、そして頼子(馬渕晴子)のダンナの苦虫つぶした顔の佐藤充。この佐藤充はホント無口で、何を手助けするという訳でもないんだけど、でも不思議に優しく見守っている感じが、するのよね。梅子の死で落ち込んでいるばーちゃんたちを横目に、ヤケクソ気味?に道に水をまくところとか、凄い好き。

ベテラン女優たちの変身願望が爆発したという、舞台上の彼女達がかなりのスゴさ。何たってセーラー服の淡路恵子にのけぞる。赤いミニのタイトスカートはいた草村礼子もかなりのインパクト。足がやたら筋肉質なのは……やはり彼女が「Shall we ダンス?」だからかしらん?一人外国人であるイーデス・ハンソンがかなり印象的なんだけど、彼女は舞台上ではなぜかもっぱら男役で、これが本当にやけにリアルな男性に見えてしまうあたりが微妙にウケる。本当に外国映画のおとーさんみたいに見えたりするんだもん。ハンチングにドロボーひげの、まんまドロボーもやっぱり昔の外国映画っぽい。キャラに頭数が足りないので一人何役もやるため、舞台裏は怒涛の着替えラッシュなんだけど、ババシャツも下着も丸見えで着替えをするベテラン女優たちにこれは本気でのけぞる。う、うわ、これはさすがに見たくない!?らくだ色だよ、ひえッ。

鮫島との約束どおり劇団ともしびは解散したものの、そこはしたたかなばーちゃんたち、チャッカリ劇団ほのおの旗揚げを高らかに宣言し、痛快なラストを迎える。やや単純だけど、加奈子が思い直してもう一度再チャレンジ、と東京へと戻っていくラストも爽快。

オフィシャルサイトに監督の言葉が載ってて、これが凄く気合が入っているのだ。こういう風に監督の言葉が載ることって折々あるけれど、こんなにも長く、力をこめた文章は珍しく、本当に監督の気合が感じられて嬉しい。このメンツがそろっちゃえば、そりゃそうならざるを得ないよね!★★★★☆


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2001年 116分 日本 カラー
監督:安藤尋 脚本:本調有香
撮影:鈴木一博 音楽:大友良英
出演:市川実日子 小西真奈美 今宿麻美 仲村綾乃 平山葉子 太田綾花 高岡蒼佑 天岸将 尾道凛 村上淳 吉田朝 河原崎建三

2003/3/31/月 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
確かにこんな情景を見た覚えがある。
それは、目に見える「光景」ではなく、心に映る「情景」
異質なものに本能的に惹かれる恋愛ではなくて、自分の理想や憧れを投影した分身としての、同性に惹かれる気持ち。そしてそれは、そういう、精神的な感情だからこそとてもピュアなのだけれど、それだけに、自分や相手の柔らかな羽のような心を傷つけてしまう気持ち。
憧れていた人を追い抜いてしまう切なさと、それでもその時には憧れは好きだという気持ちに変わっているから、その相手を変わらず愛しく思う気持ち。
女の子にとって、異性との恋愛の味を知ってしまったら、確かに同性の友達は二番目になるのかもしれないけれど、その二番目は恋愛の一番目と全く違う、もしかしたら一番目以上の大切な価値を持つものなのだ。
だって、恋愛は裏切られることがあるけれど、友達は、裏切らないから。
あの時、「私はずっと遠藤が一番だよ」と言った桐島は、勿論遠藤にとっての自分はいつも二番目でも、という意味だったわけだけど、無意識下でそういうことを判っていたんではないかと思う。
だって、きっと、桐島にも、違った一番がやってくると思う。
その時桐島は、遠藤を、それでも一番に置き続けると思うから。

出会いは高校三年生になって同じクラスになってからだけれど、その前、二年生の時に桐島は遠藤を「見つけて」いた。
試験最中、集中できていなかった桐島が、ふと窓の外に目をやった時。
音の消された救急車、タンカに乗って運ばれる女子生徒。
それが、遠藤だった。
三年生になり、同じクラスになった遠藤、いつも一人でいる大人びた印象の彼女を、桐島はいつも目で追いかけていた。
通学のバスで一緒になる遠藤は、時折いつもと違う場所でバスを降り、海につづく小径をまっすぐに歩いていく。
その後姿を桐島はじっと見つめていた。
遠藤は二年生の時に停学になったのだという。しかしその理由は誰も知らない。

桐島はある日、ふとしたことで遠藤と親しくなる。授業中、「寝ていた」と教師に注意され、落ち込んでいた桐島に遠藤が声をかけたのだ。「知ってるよ。寝てなかったよね」
声をかけたのは、遠藤の方が先だったのだ。
でもその前に桐島は遠藤を見つけていた。
やはりどこか運命の出会いを感じる。

桐島は遠藤をお弁当の仲間に混ぜ、クラスで孤立していた彼女を皆と親しくさせる。その一方で、二人だけの親密な時間も発展する。
遠藤は桐島の知らない音楽のことをたくさん知っていて、桐島が今まで見たこともなかったような画集をたくさんそろえている。「これを見ていると、心が落ち着くの」と。
そんな遠藤を桐島は憧れのまなざしで見ることになる。遠藤みたいに、遠藤になりたい、と。
後にそのままの言葉が告げられることになるのだけれど、それは実は残酷な愛の言葉だったのだ。

桐島は、気のすすまない合コンで、向かいに座っていた男の子と成りゆきでホテルに行き、寝てしまう。
あるいは、やはり、成りゆきではなかったのかもしれない。彼女にとって、それは初めての経験だった。
その男の子を気に入っていて、それを桐島にも告げていた、お昼のグループの女の子が、桐島を罵倒する。「サイテー。カヨコは汚いよ」
桐島はカヨコ、という名前だったのか。いつでもみんな苗字を呼び捨てで呼び合っていて、何かそれは少年のような、透明な時間だった。でもこんな風に女の子同士特有の裏切りが発生した時に下の名前で罵倒すると、急にその時間が濁ってきてしまう気がする。
そうして、桐島と遠藤は二人してこのお昼のグループを離れてしまう。いつまでも皆仲良く一緒にはいられない。後にグループ内の別の女の子が桐島に言う台詞がそんな切なさをよく物語っている。「あんバタのお金が割り切れないのよね。遠藤が入っても割り切れていたけれど、桐島と遠藤の二人が抜けちゃうと、割り切れなくなっちゃうの。別に責めているんじゃないよ。割り切れないなあ、っていつも思うの」
皆で仲良く等分して食べていたあんバタ。
確かに一人で一個食べるにはちょっとクドすぎる甘い菓子パンは、皆で分け合うからこそ美味しかったのだ。お金も公平に等分。学生らしい正義にも似た連帯感。
しかし、いつまでも同じ平等な立場ではいられない。そのことが図らずも表面化してしまったのが、この事件だった。

でも、桐島にとってその行為が彼女を傷つけてしまったことは、言われてみて初めてああ、そうか、と気づくことだったんだろうと思う。あの時の、彼女のふいを打たれたあの表情は。
桐島が、好きでもない男の子と寝たのは、遠藤に追いつきたかったから。
遠藤とセックスの経験の話をしたわけではなかったけれど、自分の知らない、経験していないことを全て知っているように、桐島には思えたのかもしれない。
それは、ある意味では当たっているけれど、外れてもいる。
そのことが、遠藤にはもう判っている。心ならずも、桐島より先に大人の世界を見てしまっているから。

遠藤が音楽をはじめいろんなことを知っているのには、理由がある。
桐島が見とれた、火をつけるしぐさの美しい遠藤の吸うたばこも、その始まりは同じ理由だったかもしれない。それは、一人の男。
彼女が停学になったのは、既婚者の男性との子供を宿し、中絶し、それが学校にバレたからだった。
彼女のそろえていた音楽は、その男の趣味。
遠藤は何でも知っているから、と心を寄せる桐島に、遠藤は哀しそうに言う。知っているだけなんだよ、と。私の中には何もない。遠藤になりたいという桐島に、彼女は、「私になんかなったら、桐島、きっとガッカリするよ」
桐島はあの時、窓から救急車が到着するのを見ていたこと、そのことが停学に関係があるのか、とおそるおそる問う。
遠藤は驚く。「救急車が来たこと、知っている人がいるなんて、思わなかった」
そして中絶の事実が桐島に告げられる。「中絶してね、スッキリしちゃったの」

夏休み、呼び出されて男のもとに行ってしまった遠藤。それを「友達と旅行に行っていた」とウソをつく遠藤を許せなくて、桐島は彼女を遠ざける。
庭にひろびろと開けられた和室。そこに受験生の夏休みなのに、何をするでもなく横たわる桐島。本当は遠藤をおばあちゃんのところに連れて行きたかったのに……。 遠藤の家で見て以来、心をとらえて離れなかったセザンヌの静物画。彼女のいない空虚な時間を埋めようとして、桐島は絵を描き始める。
それが桐島の見つけた、自分のやりたい道だった。

何をやりたいのか判らない。先なんて見えない。
そんな中で何かを決めなきゃならない焦燥、不安。
桐島もそんな、もやもやした高校生だったんだけれど、遠藤と出会って、変わった。 でも遠藤は……変わることの出来ない自分、カラッポな自分に苦しむ。 「中絶してスッキリしちゃった」あの時、彼女はスッキリにカラッポの意味を重ねていたのではないのか。
遠藤は、何をやりたいというのではなく、ただここから逃げたかった。出て行きたかった。「どこか遠くへ行きたい。例えば東京」 東京というのは、具体的なその場所というより、こんな風に逃げ場のない故郷にいる時に、違う場所の象徴として表されるあいまいな憧れだ。
実際に、その場所としての東京に出てしまえば、故郷とは違った孤独が待ち受けていること、この時の彼女には判らない。ただ、逃げたいだけ。そういう部分、大人びて見えても彼女はまだ子供なのかもしれない。

それに、結局遠藤はこの地から出て行くことが出来ない。それが出来たのは桐島の方だった。桐島は、一緒に東京に行こう、そして一緒に住もうと遠藤を誘うけれど、遠藤はその言葉に遠い憧れのまなざしを向けるものの、うなづくことは出来ない。
遠藤に追いつきたいために、男の子と寝て、遠藤に追いつきたいために、絵を描き始めた。そして東京に出て行こうと思ったのも、遠藤がそうしたいと言っていたからだ。でもそんな風にしているうちに、桐島は、遠藤を追い抜いてしまった。憧れ、好きだった遠藤を。
その点、確かに遠藤は自分のこと、そして桐島のことがちゃんと判っていたのだ。カラッポな自分と違って、桐島はそれを生み出すことができる子。
男に呼び出されて誰にも告げずに会いに行ってしまった遠藤は、そのことを、二年生の時の友達の中野には告げたけれど、桐島にはどうしても言うことが出来なかった。
でも、それを中野から聞いて、遠藤を避け続ける桐島に、遠藤は桐島を失ってしまうことを恐れたんだろうか……。桐島を追いかけ、拒絶されて走り去り、今度は桐島が遠藤を追いかけ、一日中、街にとばりが降りるまで、二人はただただ歩き続ける。

「桐島には言えなかったよ。桐島よりあいつが大事だなんて」
彼女の告白は、自分を変わらず好きでいてくれる桐島に言うにはあまりに辛いこと。
でもその一方で、遠藤にとっての桐島も、充分に残酷なのだ。
こんなカラッポの、男に趣味まで左右されるような自分のことを、遠藤になりたい、とまで好きでいてくれる友達。
そう言いながら、自分を追い抜いてしまう友達。
遠藤はあの男がやっぱり忘れられないし、一番なんだけれど、でもそれでも、「桐島がいるから」と、彼女のもとに戻ってきた。
桐島にとって遠藤はいつでも一番。 確かに遠藤にとっては桐島は二番なのかもしれない。でも一番の意味とは全く違う意味での二番。

「火星のカノン」を思い出す。あの作品でも、絹子さんを好きな聖ちゃんは、絹子さんにとっての一番が男だっていうことを充分に知っていて、それで良かったのだから。
相手がこっちの気持ちと同じだけ自分のことを好きでいてくれる確証なんか、持てっこない。
自分が好きでいる、そのことだけで充分だと思えるようになるのが、大人になることなのかもしれない。

女の子同士の柔らかなキスシーンが印象的なこの映画。愛の行為においてセックスよりもキスの方がずっと官能的だと思っていた私にとって、このスピリチュアルなキスシーンは新鮮で、鮮烈だった。
でも確かに、キスは官能的だから、それをどこか押し殺しての精神的なその行為が、強く印象づけられるのだと思う。
遠藤はともかく、桐島は彼女のことをそういう意味で好きだと、はっきりと自覚しているのに、キスはいつも遠藤から受けるだけ。彼女は確かに遠藤に触れたりしたいに違いないのに、好きだからこそ、彼女に触れられない、そんな痛々しい想いが伝わってくる。男のもとに走った遠藤が桐島に抱きついてキスしようとした時、たまらず突き飛ばした桐島に、そんな痛々しい想いを感じてしまう。
桐島は、本当に本当に遠藤のことが好きなんだな、って。

それにしても……今の高校生映画には不可分なものとしてセックスが必ず出てくるのは、今更ながら少なからずショックでもある。
いや、あるいは、昔から高校生にもなればそういったものは当然つきものだったような気もするけれど、今のそれは、もっと何か、彼女たちを傷つけるしかないこととして出てくるように思えて仕方ないのだ。
それでなくても多感な時期だけれど、時が進化するにつれて、現代という時間はどんどんカサカサ度が増してくる。
そこで行われるセックスは、本来持ちえる湿度がやはり失われて、カサカサしている。カサカサしたセックスは、特にそれに湿度を必要とする女の子にとって、痛みと傷を必ず連れてくる。
気持ちの方に、湿度がとられれば、とられるだけ。

家族がほとんど登場しないこの映画。友達や恋人や、片思いの相手のことを考えている時には、確かに家族の存在は、視界の隅っこのぼんやりとした部分にしか存在しない。つまり、これは本当に感情が目になって展開していく映画なのだと思う。家族が登場しなくても、不自然さは感じない。
でもそれだけ、孤独度も増す。
友達や恋人や片思いの相手を思えば思うほど、人は孤独になるんだという逆説のようにも思えてくる。
人間は、孤独な生き物なんだと。

市川実日子、小西真奈美。これだけで、この映画の完成度は保証できると言っても過言ではない、完璧なキャスティング。
どこか不自然にも思える女の子特有の浮遊した喋り方が逆に生々しく、いわゆる演技っぽい演技が時としてウソになることを、教えてくれる。
市川実日子は、「ラヴァーズ・キス」でも同性に恋をする役。割とアグレッシブに見える外見とは対照的に、受身で苦しむ役をしっかりとこなす。
この彼女の登場は、真野きりなが現れた時のような衝撃。安藤監督は真野きりなが非常に魅力的だった「dead BEAT」も手がけていると知って、かなり嬉しくなる。あの映画は本当、めちゃくちゃしびれたのだもの。
趣はかなり違うけれども、ひとつの世界感を作り上げる手腕は確かにこの人、と思わせる。紺サージの、ジャンスカの制服、地方の、のどかなことが逆に閉鎖的になるようなこの空間で、おしこめられる息苦しさと、爆発しようとするんだけど、しきれないもどかしさ。

個人的には、中野がとても、良かったと思う。彼女は遠藤が桐島に出会ったことを心から喜んでいて、桐島のことを遠藤の大切な存在として尊重してて、アネゴ肌で、とってもいい子。彼女が「桐島ちゃん」とその最初からフランクに呼びかけるのがいい感じ。階上の窓際に立っている桐島に中庭からゆるゆると手を振る姿など、不思議に絵になる。独特の空気を持っている。
そしてまたしてもムラジュン。出演シーンが少なくて、しかしキーマンで、作品全体に影響を及ぼす男の役、というと、最近必ず彼が出てくるような気がする。そして彼はいつも、見事その存在感でこの要求にきっちりと応える。好きな雰囲気の人だとは思っていたけれど、まさかこんなにいい役者になるとは思わなかった。

こんな映画が作られて、新潟の人がうらやましいな……。★★★☆☆


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