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恋する幼虫
2003年 110分 日本 カラー
監督:井口昇 脚本:井口昇
撮影:太田丈 井口昇 音楽:北野雄二
出演:荒川良々 新井亜樹 伊勢志摩 村杉蝉之介 唯野未歩子 乾貴美子 松尾スズキ
でも、観て、井口監督の過去作品を観ていないことをひどく後悔してしまった。とはいえ、観るチャンスがあったものとして記憶にあるのは「クルシメさん」だけだけれども、まあちょこっとは気になっていて……ただちょこっとで、だから見過ごしてしまった。あああああ!後悔!だってその「クルシメさん」は本作でどんどん変貌していく驚異のヒロイン、ユキを演じた新井亜樹と、冒頭で主人公のトラウマとなる強烈な印象の唯野未歩子の両主演だっていうんだもの。しかも同性愛チックな話だったなんて。あああ、後悔。
そう、驚異のヒロイン、なのである。あの荒川良々の不思議パワーとサシで相対する新井亜樹の素晴らしさには感嘆してしまった。いや、最初は特に思わなかったのよ。荒川良々演じる漫画家、フミオの担当になった新人編集者のユキ。彼女の彼に対するおどおど加減や、編集長に叱られて泣きながらお弁当を食べる姿など、イイ感じでネガティブで好みだなあとは思ったけどそれぐらいで。しかし自分を律する事が出来なくなったフミオが彼女の頬にペンを突き立て(!)その傷がグロテスクなもう一つの口となり(!!)生肉、レバーを欲し(!!!)ついには人の血を欲しがるようになる(!!!!)その、トンデモナイ展開に合わせての彼女の変貌ときたら、どんどん、色っぽく、キレイになっていくんだもの。女って、女優って、コワッ!
この傷が元で恋人も仕事も失い、押入れの中にヒッソリ隠れていた彼女をフミオが見つけた時、もう彼女は変貌をとげていた。いや、ほっぺただけじゃなく、今までのおどおどがウソみたいに傲岸不遜な態度に大変身、自分をこんな目に合わせたフミオをあごでこき使う。見た目はやっぱりおどおど系の地味な女の子なのに、その態度がやけにしっくりくるというかリアルというか……こういうのが一番、怖いのだ。自分に非があるからとはいえフミオがこの彼女に気圧されて、怖くて、逃げ出せないのも、その絶対の怖さがあるから。ただただ従うしかないフミオなのだけれど、その気持ちが、次第に……。
と、いうあたり、トンデモナイ展開、しかもグログロの描写の中に、かなりのセンシティブさを込めなければいけないという離れワザで、しかしこれが二人とも非常にすんなりと見せてくれるのだ。ということを、後から気づいて結構、驚く。この強烈な設定と画の中に、決してハデな外見ではない二人がのみこまれずに意外にもしっとりとした演技を見せていたということを、後から、気づくのだ。とはいえ荒川良々は何たって荒川良々だから!彼のあの不思議な言い回しは何なんだろうなあー。一体どこからこういう役者が出てくるの?左卜全を唐突に見たらこんな衝撃かなあ(訳判らん例えだけど、何かそういう感じなんだもん!)。
ユキの傷を初めて見た時、そのグロさにフミオは鼻から口からデロデロ吐く。おおーい、頼むから鼻からゲル状はヤメてくれえ。ユキはその傷のみならず、恋人から捨てられたことでも深く傷ついている。ユキの恋人は……ひやあ、松尾スズキ!わー、気持ち悪……(ゴメン!)。ユキはトラウマか何かがあるのか、男性に触れられることが出来ない。生理的に拒絶反応をする。恋人はそんな彼女でも優しく接し、いつまでも待つよと言ってくれていたのだけれど、途中で仕事放棄したフミオに振り回されて朝帰りをしてしまったユキを、彼はもう待てないと押し倒してしまう……控えめな映し方ではあるけれど、そのレイプさながらの強引さにイヤイヤをするユキの痛ましさ!
そしてその後、恋人は出て行ってしまうのだけれど……でも、ユキは彼のことが忘れられないのだ。いや、むしろ、最初からユキの中には、トラウマに縛られ続ける自分への嫌悪感もあいまって彼に接していたようなところがあった。それがあんなふうに突破されて、しかも恋人としての自分も否定されて、ネガにネガが重なって、傷をどんどんえぐるように、ユキの記憶から恋人を排除することが出来ないのだ。
ユキの体は生肉では足らずに生き血を欲するようになる。あの恋人、確かにユキを愛してくれてはいたけれど、その愛はどこか押し付けがましくて(具ばっかりたくさんよそってくる中華丼なんて、上手いこと象徴してるよ)、愛しているならこれだけのことをするのは当然だとか、自分ならそうするとか、欲することばかり。しかし実はその愛への解釈の描写は、フミオが最後の最後に獲得する本当の愛への見事な伏線になっているのだ。
フミオは最初、昔の同級生をユキへのいけにえとして紹介するのだけれど、ユキがほっぺから気持ち良さそうに男の血を吸い出す、そして吸われている男も恍惚の表情になる、そのさまに怖気づきながらも目を奪われる。ユキの次のターゲットは、その過去の恋人だった。今でもユキのことが好きだと言ってはばからないその彼は、自ら頬をカッターナイフで切り裂き(あの錆びて切れ味の悪そうなカッター!)「有り得る痛みだな、うん、有り得るよ」なんて妙に落ち着いて言うあたりが可笑しくてコワイんだけど……とにかく、ユキにその血を与えるのだ。その場面は、一人目のいけにえの時よりも、さらに……観ているフミオの、いや荒川良々の表情も、うわ、なんて顔するの、こんな繊細な!と驚かされるぐらいなのだ。いや、見くびっているわけじゃないんだけど(笑)。でも荒川良々にこんな顔されると、何か、やっぱり、驚くよ。そうフミオは……いつの頃からかユキを愛するようになっていたのだな。そして自分もあんなふうにユキに血を吸われたいと思うんだけど、自分の頬にカッターナイフをつきたてることがどうしても、出来ない。「本当に吸われたいと思っているのに!」と哀しく叫ぶフミオにユキは静かに言う。「いいよ、ムリしなくて。キャラじゃないもの」
あの時のユキの静かな口調には、やはりどこか落胆の色があった。こんな風にネガにネガに押し切られて、自分をこんな目に合わせた男、そしてその男をあごでこき使う自分、どんどん別の生き物のように自我を持ってくる頬の傷……。その中でも、変わらず自分のそばにいてくれるフミオに、それはフミオが自分を傷つけたからだということが判っている分、彼への思いが傾斜していくのは、やはりさらに彼女にとってネガを強要するものだったのだ。フミオが自分の血を吸ってほしいといった時、彼女はきっと本当に嬉しかっただろうけれど、それが無理だと判った時、更に落胆は大きかったに違いない。自分がバケモノだということを再確認することでもあったのだから。
ユキが発端となって、街はさながらドラキュラが次の血を求めて跋扈する状態になっている。しばらく、考え沈んでいたフミオはその中をひた走る。ユキの携帯に、あの場所で、とメッセージを残す。さまよっていた自分をユキが見つけてくれた場所。カッターナイフを手にして笑顔で「吸っていい?」と聞くユキ、フミオは「いいよ」とこれまた満面の笑顔で返す。「死ぬかもしれないよ」これまた笑顔のユキ。そしてフミオは笑顔でうなづく……。この間にどういった意味でのふっきれがあったのかどうかっていうのは……微妙だけれど、吸われたいと思うのと、与えてあげたいと思うのとでは、恋から愛への成長があったのかもしれない。
首までガッツリ食われてしまい、血だらけのフミオ(って、顔がないのに!)がユキと仲良く手をつないで帰ってくる。その状態で二人は末永く幸せに暮らすのだ!?フミオ(だから顔がないのに!)の体にぴったりと寄り添って眠るユキに、かつてのトラウマの影はすっかりなくなっている。し、しかしフミオ、何でその状態で生きてんの!こ、これも愛の力!?
最初から最後までグロとピュアと切なさで突っ走るという驚異のラブストーリー、それは冒頭から凄くて。これは監督自身の過去意識というか、それこそトラウマが感じられる部分なのだけれど……。フミオのトラウマとなった過去の記憶。子供の頃、優しくてきれいなイトコのお姉さんのお家に泊まった彼がのぞき見た、彼女と彼女の恋人のむつごとは、お姉さんの目玉をぐりぐりと取り出し(!)、ビローンと伸ばし(!!)、その目玉を指先でこちょこちょと愛撫する、というものだった(!!!)。痛い、痛い、と言いながら目玉を取り出されたお姉さんは、しかしその目玉を指先でこちょこちょやられると、嬉しそうにけたけたと笑い出すのだ。す、凄い画。唯野未歩子はまさしくタダモノではない……。彼女、何だかいつまでも少女のようなキュートなイメージだったけど、ここでは、幼きフミオが憧れるような、そんな優しくてオトナのお姉さんで、そのフミオを風呂場に閉じ込めて(出てきちゃダメよと言い含めるその目がコワい!)、恋人とそんな×××をやっちゃうなんて、ああ、女優なんだわああー。この描写、わっけ判んないけど、でも、何ていうか、子供の頃に知ってしまってショックを受ける、セックスに対するグロテスクさとか、慕っている大人が自分の知らない、これもまたグロテスクな存在になってしまうというのが、うんうん、あったなあって……何か観ているこっちも軽くトラウマを呼び覚まされる。
自分が暴力的で自己中心的で、都合の悪い記憶は忘れてしまうようなヤツだという自覚が今ひとつない、というフミオは実は結構ヤバいキャラクターなんだけれど、それを観客に引かせず、見せきっちゃう荒川良々はやはりこれは……天才?かもしれない?と、とにかく彼は替わりのきかない一点モノ。ホレるわ。★★★★☆
この作品は松尾スズキがホレこんだ5巻もののコミックスが原作。時間の制約がある映画という中に収めるために、シリアスなエピソードや重いキャラはやや除いているということなんだけど、その中の1エピソードを選んで、とかいうことではなく、基本的に5巻を駆け抜けるスタイルにしたんだという。
そして、松尾監督自身が言っていた。「日本のラブ・ストーリーはもたもたしているのが、前からキライだった」だから本作ではとにかくスピード感を大事にしたんだと。5巻分のエピソードを114分の中につめこんだのも、そうしたスピード感を重視してのこと。
判る、凄く判るんだけど……。
確かに、どんどん語られはする。もたもたはしてない。でも、“スピード感”というんじゃない気がするのね。だから、そういう……並列の印象。細切れの、並列の印象。それは松尾スズキが「もうコネを使い切った」と言う、カメオ出演も含めた豪華な出演陣にも言えてて、次から次へとちょっとしたエピソードにゴーカな人が出てくるのも、何というか、ぶった切った印象に思えてしまう。カットは細かいんだけど、スピードというよりは……そうだなあ、急いで語っている、という感じ、かなあ。
映画って、リズムとクレシェンド・デクレシェンドだって、気がするから。生身の人間を使っていても、フィルムという物質に焼きつけてるから、やっぱり無機質なものだよね、結局。それを生身の状態に解凍するっていうのが、技量なのかなあ、なんて思ったりする。判んないけど。フィルムをつなげて、それがつなげた印象以上のものにするのって、想像以上に難しいことなんだろうな……きっと。
あー、ごめんなさい。わけ判らんことばかりぐちぐち言っちゃって。何で自分の中にイマイチ響かなかったのかを、ちょっと考えたかったから。だって、例えばその「1980」よりは好きな映画だなって、思うのよ。石の漫画を描く主人公は松田龍平。彼は、もちょっと若い頃は(って、今だって充分若いけど)その独特の雰囲気からちょっとでもハズれる役柄だと、なんかこう、こなしきれていないような印象があったんだけど、経験値があがったのか、やはり松尾演出が良かったのか、こういう役を演じたら違和感があるかも……という危惧をまったくよせつけずに、石の芸術家で、かなりヘタレの門を気持ちよく演じてる。ヘタレだよお、とにかく。お金にキュウキュウとしてる割には、カノジョにお金貸してもらえるって思ったら、即バイト辞めちゃうような超ヘタレ。それをカノジョは「この人、弱ってる……」と解釈しちゃうんだから!まあ、確かに弱ってるけど。弱り通しだよなー。
松田龍平であるコアを残しながら、自在に変化するようになってる、という感じかなあ。ふてぶてしい印象がとにかく持ち味だった彼が、その情けなさっぷりが、カワイイと思わせるようなある意味余裕が出ているというか。確かに松尾監督言うように、彼が20年間生きてきて一度もしたことのない表情を沢山引き出されているんだと思うわ。“微妙な笑顔”とか、ぶんなぐられて「えーーー?」と言いながら横一直線に飛んでいくとこなんか、もう、笑っちゃったもん。
そして、ヒロインの酒井若菜。彼女は映画には殆ど出てないから、私みたいにドラマを見ない人間にはあまり明るくない女優さんなんだけど、そんな私でも見ていた「私立探偵 濱マイク」での彼女が、本当に脇役だったんだけど、コメディエンヌとして、凄く、達者だわあ、と思って見てた。可愛らしくて、毒があって、その毒がイヤミにならない華がある、みたいな。
うん、それが、まさに本作でのヒロイン、恋乃に発揮されているんだなあ。彼女はね、緩急の処理が上手いの。キレる場面も出てくるんだけど、そのキレるとこを印象的に見せる、彼女の中でのリズムの作り方が、制御されてて、緻密、って感じがするんだなあ。あんなダイナマイトなバストしてて(って、関係ないか!)職人役者の風情が漂う。
松尾スズキが彼女を門と取り合う毬藻田を自ら演じたのは、若菜嬢とそーゆー(結構ドキドキな!)シーンを演じたかったからじゃないのお??なーんて、勘ぐっちゃう。
昼間はごくごく普通の、というより、かなり暗めのOL。本領発揮はアフターファイブ。漫画同人誌の作家であり、何より漫画オタクであり、それが高じてのカンペキなコスプレーヤー。彼女の恋愛の基準は、彼女の好きなアニメヒーローのコスプレが似合う男であること。その点において門はピッタリだったわけで。しかも門は“漫画芸術家”奇しくも“漫画”という点で共通しているのは運命的であったと言えるんだけど……共通しているからこそ、その中でのあまりのジャンルの違いは、全く共通していない時よりも、隔たりが大きくって、二人の恋は前途多難なわけだ。
石を使って漫画を描く、という奇抜な発想が何より命。これは映像化した時に恐らく、コミックスよりもずっと強烈な印象を与えてる。ナルホド、言うように“恐山”みたいな部屋である。門は実はフツーの漫画だって描けるのだ。そして父親は日本画家の権威。しかし日本画家という芸術の分野で、職業作家であった父親を拒絶し、漫画も職業漫画を拒絶した門が行き着いたのは、石の漫画、というオリジナリティあふれる分野だった。しかしこれも、そういう経緯を見れば、かなり苦肉の策であることが判る。しかもこの石への執着は、彼自身も忘れていたけれど、何より父親から教えられた、“石は全ての物質と同じ”という哲学的な境地であり、そして職業漫画家という世界で、運命の相手恋乃にも、恋のライバル毬藻田にも負けてしまうという窮地に立たされるんである。彼は、何とかバランスを保ってきた自分の世界をすべて、ゼロにリセットされたのだ。
へえ。こうして考えてみると、結構人間成長物語じゃない、と思ったりする。それをまあ、こういう世界観だからことさらに重くとらえないのが松尾ワールドなのかな。だってさ、門なんて、プータローの域を越えてる万年貧乏青年で、恋乃もまた、コミケでの失敗で、アヤしげな通信販売に手を出すほどに借金地獄になってるし。しかも二人の間にはあまりにも乗り越えるのは難しい、カルチャーギャップの隔たりがあって……いやあ、とにかく前途多難、なわけよ。
これは、人間のコミュニケーションとディスコミュニケーションの映画でもある、と思う。重くとらえすぎる?でもさ、門と恋乃が、相手のあまりにもついていけない世界に直面した時にさ、ゲロ吐くんだよ?これ以上究極の拒絶反応もないじゃない。人間は文化の細分化が進めば進むほど、それぞれの世界に没頭していって、お互いの世界へのパイプがなくなってった。門と恋乃のように、同じ漫画という入り口があってさえ、こんな状態。案外これって、究極的な、世界の相互理解の問題にだって発展して考えることが出来ないかな?(いくらなんでも考えすぎ?)しかも本作では答えが出てない。一度ね、門は、門の方から、歩み寄る姿勢を見せるのよ。門の方から、っていう部分が、フェミニズムの現代って感じがするけど、とにかく、彼は元売れっ子漫画家であるライバル毬藻田によって愛する恋乃を失わないために、新人漫画賞で彼と勝負することを決意するのだ。しかしそこで、自分をネタにして勝手に勝負するなんて人身売買と同じ!と激怒する恋乃も参戦。さらに、現代風フェミニズム全開。だって、アンタが毬藻田と危うく浮気しそうになったのが原因なのに(笑)。そのあたりもフェミニズムなのかな?ヤバいねー。しかもこの勝負で頂点に立っちまうのが他ならぬ恋乃なんだから、本当にフェミニズム礼賛、なのだ。彼女は同人誌の世界でも行き詰まり始めていた。ラブコメの王道を得意とする彼女、同人誌で求められる、“王道からの逸脱”に応えられないでいたのだ。その“王道しか描けない”ことを、「門君みたいなオリジナリティも、毬藻田さんみたいな技術もない」と否定しっぱなしの彼女だったんだけど……実はそれこそが、他ならぬ彼女のオリジナリティ、だったわけで。
この、締め切りまでの一週間、恋乃はパソコンを使い、毬藻田は手塚治虫風のベレーをかぶり、門は一番フツーで(これはでも、彼の芸術家気取りを考えれば、返ってシニカル)、とにかく、なんだかそれぞれ時代を反映させているんである。彼ら三人がそれぞれの意地をかけて漫画を描く、という過程ながらも、あまりにも時間的にキツい追いつめられた状況で、だからこそ漫画を描くということを究極に追い詰められることによって、濃密なトランス状態に陥って、それぞれがすっごくキモチイイ境地にまで達してしまうというのは、実に皮肉、よね。だってこの時には三人とも、お互いのことなんて絶対考えてないもの。その絶頂感覚の気持ち良さに浸ってるだけに違いないんだもの。だって、人間なんてそんなもんでしょ。例えば極端に、セックスの最中の気持ち良さだって、似たようなもんよ。相手を思ってるからこそ、なんてフリをしながら、実際は相手の力を借りての、自分の気持ち良さだけに没頭しているんだから。なんかここでの、三人の“並列”の三角関係って(ここでの“並列”は、かえって、効いてる)そういう皮肉をすっごく、感じちゃう。
そういえば、この話にはさらに皮肉っぽいというかなんというか、そういう、クレジット後のオマケがつく。毬藻田はこの後、元の漫画バーのマスターに戻るんだけど、門は結局漫画家としてスタートしたことが記される。しかしそれは、オリジナリティなんてところからはとおーく離れた、「パクリじゃん!」と揶揄されるような世界で……父親の職業作家、そして大衆文化のフツーの漫画を拒絶し、芸術家を標榜していた門の行き着いた先としては、ほんとーに皮肉な結果、だよね。恋乃と門の行く末だって、決してハッピーエンドに終わらせてるわけじゃない。恋乃のコスプレ趣味に合わせるべく現われた門は、全身石をしょってる!まあ、確かにコスプレには違いないんだけど……またしても恋乃は拒絶反応でゲロっちゃって……しかしそこでメゲないのがこれまでの門と違うところ!彼女を追いかけて、追いかけて……しかし石だらけだから、重くて転がっちゃって、転がりまくって、なぜかガスボンベに激突して、爆発しちゃう!?駆け寄った恋乃は彼の情熱にまんざらでもない雰囲気だけど、さあさあ、二人の恋はどうなるやら……。
実はね、登場人物全てが、松尾スズキ自身に見えちゃったりしたんだ。確かに、彼の監督作品と思えば、それは完璧な世界観だったんだろうと思うし、多かれ少なかれ、そういう感覚って監督の個性や技量が強ければ強いほど、感じるものではある。ただ、それを役者自身が処理しきれるかって問題で……って、すっごいエラソーなこと言ってるけど!いや……つまり、本作ではね、極端に言えば、松尾スズキが全ての役をやったら、カンペキに面白いものが出来たんじゃないか、って感じがあったもんだから。
すべてのキャラクターに松尾スズキ自身が見え隠れするけど、多分彼がやるほどにカンペキじゃないから、どことなく居心地の悪さを感じるのかな……なんて思ったりして、ね。
例えば数多くの脇役の中でもかなりの印象を残した、毬藻田が経営するバーの常連客の小島聖は、もう鼻血が出そーなほどいろっぺーけど……そのエキセントリックっぷりは、面白いながらも、側転まではやりすぎじゃないの、なんてさ。
妙に昔の文学みたいな、断定的な言い方とか、それも面白いけど、そう、これも、“松尾スズキ自身”っぽいって感じちゃう、のね。
恋乃が出展するコミケや、門を連れていく一泊声優ツアー、そして恋乃が罵倒されまくってる、2ちゃんねる的な掲示板の異様な世界はいかにもそれっぽくて生々しいけど、生々しいだけに、その世界の人に怒られそうでコワい……と思ったりして。
“一泊声優ツアー”の、あのアニソンの帝王、みたいな描き方って、実際歌ってる、影山ヒロノブをイメージしてるんじゃないの?いやー、そうだとしたら……あのいかにもオタクでオカマチックな感じって、ちょっと影山氏に対して気の毒なような気が……だってこの毒気に当てられて門はゲロまで吐いちゃうんだもん。
まあね、確かに門は、自分の世界が世の中の人に判ってもらえない、その判ってもらえない苦しさを恋乃もまた味わっているんだ、って思って、だからこそ余計に彼女に惹かれたんだとは思うけど、それはある意味ムリヤリ思った理由付けみたいに感じてしまうのは……多分、このキッツイアニソン帝王の登場があったからだと思うんだな。
コメディだからなんだろうけど、そうじゃなければあのオカマ大魔王みたいなキャラに、バッチリコスプレでキャーキャー言う世界って、門の困惑以上に理解できないもん。
あまりに突き放しすぎて、むしろこの世界を描くことから逃げているような気さえ、しちゃう。
それでいて、もんのすごい御大、迎えているんだよねえ……。
恋乃が熱狂している劇中テレビアニメ、ほんのちらっと見えてるだけのこれを、庵野秀明が手がけてるんだから!ほんのちらっとだけど、その明朝体の活字クレジットとか、思いっきり、エヴァンゲリオンの世界、まんま。庵野さん、ある意味開き直っちゃってる……。
恋乃の両親、特にその母親役である大竹しのぶのはじけっぷりが好きだなあ。この親にしてこの子あり!のコスプレ両親。大竹しのぶのメーテルのカッコが、似合うんだな、これが。大竹しのぶはあれだけの大女優なのに、一般的でないというか、アヴァンギャルドな雰囲気があるんだよなあ……そこが好きよ。
そうだそうだ、アヴァンギャルドといえば、これ以上アヴァンギャルドな人もいないっていう……忌野清志郎御大も出ているんだった。テーマソングを突然ミュージカルで歌いまくる。うー、でもこの突然ミュージカルは……突然ミュージカルって、面白くなりそうで、案外、え?という感じというか……それまでにないところに入り込んでくるから、余計に切り張り的な感覚が強くなっちゃう。忌野さんほどの人を使って……彼を始めとする、門が住んでるボロアパートの個性的な居住者の面々の描写も、そのちょっとワザとらしいヒッピー的な衣装のせいなのか、何か舞台的に感じちゃうせいなのかなあ。
ぜーんぶ通して、心に引っかかってるのは、カルチャーギャップを感じた門が恋乃から逃げ、それを恋乃が追いかけに追いかけて、追いつめて、「……もう、離さないんだから」と彼の胸元をつかみつつ、しかしうつむきかげんでつぶやくシーンだったり、するのだ。きゃーん、キュンとくるじゃん!みたいな(笑)。やっぱり、それこそ、“王道なラブストーリー”を求めてるんだなあ……私ってば。ハズカシー。★★★☆☆
このテレビシリーズは、実は、お気に入り。というより、テレビ(ドラマ)はとんと見ない私も、ウッチャンのだけはチェックしてたんだよね……。で、最初の頃はやっぱり演技にテレがあるというか、そういう感じが見受けられたんだけど、変わったのはこれと、ついこの間の「ぼくが地球を救う」からだったと思う。やっぱりちょっと、テレがありつつも、味わいが確立したという感じだった。そして何よりこのシリーズは最初からウッチャンの思い入れが違うのがハッキリ判っていたし。
だってさ、だってさ、ウォン・カイコーなんだもの!
映画がやりたくて上京してきたウッチャンが、チャンスはいつだってあったと思うけど、映画が好きで好きでたまらないからこそ、なかなか行けずにいた映画への思いが、このキャラ名には込められているのが判るんだもん。誰が見たって判る。チェン・カイコーとウォン・カーウァイを足した名前。ま、そりゃ、脚本家の君塚さんもその点は映画フリークだからアリだと思うけれど、企画から参加しているウッチャンがこのキャラ名に絶対に関わっているに違いないじゃない。テレビシリーズでこの名前を聞いた時、もう、手ぇ叩いて喜んじゃったもの。
その時から確かに、このシリーズは映画に向けて突き進んでいたのだ。最終章が劇場版になったのは当然の帰結で、そして、これがちょっと、驚くほど“映画”になってた。
最初は、このシリーズでウッチャンがやりたかったのは、アクションだと思ってたのだ。
それまでもバラエティではよく挑戦していたアクションを、でも本当に、ちゃんとした形でやりたいというのがあったんだと。
でも最終的にこういう劇場版という形になって、そうだ、ウッチャンは映画をやりたかったんだもんなと思い、そしてその劇場版では、テレビシリーズほどにはアクション満載ではなく、その結果、より密度の濃い映画らしい映画になっているのだ。
でも、ホントは、ちょっと、残念なような気もしたんだけど……今回はスナイピングに徹するウッチャン、確かにそれは超絶カッコいいんだけど、せっかくデキるアクションを大きなスクリーンで観たかったから。
そういう意味では、アクション女優、水野美紀のそれもテレビシリーズほどに尺をさいていなかった。しかも、わりとカットを割ってて、顔が見えない場面もあった。彼女のことだからよもやスタントなんぞは使ってないだろうけれど、それがちゃんと見えないのはちょっと残念……テレビシリーズでは引きで長く撮ってたのになあ。
今回重きをおいたのがそっちではなかったということなんだろうけれど……ならばウッチャンにしても水野美紀にしても、アクションにどっぷりつかった映画をぜひ観てみたい。
だって、このシリーズが成立しているのは、ウッチャンにとっては水野美紀が、水野美紀にとってはウッチャンがいてこそ、なんだもの。アクションを、そしてアクション映画をやりたいと熱望している、そしてそれを確実にこなせる唯一の同志、お互いの夢を叶えることが出来る運命の相手といっていいんじゃないだろうか。
テレビシリーズはだからこそ成功したし、その余裕があったから、アクションを抑え気味にしてドラマを見せる劇場版も作れた。
彼らには、また一緒でもいいし、ピン同士でもいいから、ちゃんとしたアクション映画を作らせてあげたいなあ、と思う。
そういう、戦友であるからこそ、劇中のホイさん(と呼んでしまおう……本当はウォン・カイコーだけれど)ときなこの、そうした特別な関係もきちんと際立つんだと思う。二人は確かに男と女として惹かれあってはいる。でも、それは未来に幸せが待っている、いわゆる男女の恋愛感情とは違うのだ。だって彼らが穏やかな家庭生活を送っている図なんて想像できないし……危機的状況でこそ二人の結びつきは運命的に強くなる。
確かに、こういう相手って、いるんだよね。というか、いればいいな、うらやましいな、というのが正直な気持ち。
一緒にいられるのはいつもほんのちょっとの間だし、それはいつでも危険と隣り合わせ。でも誰よりも信頼していて……そして避けられない別れが待っている。
特にホイさんは、スナイパーとして生きてきた自分がきなこを幸せになんて出来ないことが判っているから、だから、誰よりもきなこに幸せになってほしいと願っている。そしてそれが自分の幸せでもある。
きなこの婚約者(田辺誠一。これまたイイ男だなー)はいいヤツだってことも、ホイさんは知っている。きなこの背負ってしまった人を殺してしまった罪(正当防衛だけど)もホイさんは受け取り、待ち受けるバリケードの前に銃を手にして一人出てゆく……。
このラストは「俺たちに明日はない」風?250年の刑に、長生きしなきゃねなんて冗談を言っていたホイさん、長生きしてよ!と思ったけれど……でも、きっちりと、完結させた潔さは、良かったと思う。もしかしたら続編が……だなんていう甘さを残さずに、ピシャリと終わらせた潔さ。だってウッチャンにはこれからも映画で違った可能性を突き進んでいってもらわなきゃ、困るんだもん!
ウッチャンはねー、世界一パーカーがダサく似合う人ね。あ、ホメてんのよ、一応。正直、こんなにスクリーン映えするとは思わなくてビックリ。このパーカーがひるがえる感じも、そして長めの髪がはずむのも、アクションの動きを感じさせる。うん、このあたりはジャッキーね。ジャッキーに観せたいわあ。いつもウジャン、ウジャンと言ってくれてたのに(どうしてもウッチャン、とは聞こえない(笑))、口ばっかりでぜえんぜん映画に呼んでくれなかったじゃない。ホント、観せたいよ、観やがれ!って感じ。
ウッチャン、今回のキャラにテレはなかった。ギャグシーンもほんのちょっとだけだった。本気だ、と思った。
考えてみれば、映画に関しては、ウッチャンの方こそがやりたくて仕方なかったはずなのに、ナンチャンがさ、濱マイクシリーズで凄くいい役をやってたりしたじゃない?ウッチャン好きとしてはやっぱり何か……歯がゆかったもの。まさかホントに「七人のおたく」で終わるつもりじゃないでしょうね、なんて思ったり……。でも今回演出協力にも名を連ねてた。日本映画学校出身の彼なのに、同じ学校出身の同期あたりや後輩たちが(三池監督とかさ!)先に、どんどん映画を撮っていくのもファンとして悔しかったし。満を持しての映画進出、遅すぎたような気もするけれど、今までいろんなことをやってきたことが見事に糧となって、このスクリーンに映える役者としてのウッチャンになってるなと思ったら、嬉しかったよ。ホントにね、ちょっとノミネートされてもいいぐらいだと思う。
今や平田満よりも、階段落ちの役者ね!(笑)今度はちゃんと監督やらなきゃね。
そりゃ、もちろん、水野美紀だってバツグンなんである。今回はアクションシーンは少なかったけれど……しかし彼女はホント、見た目ですでにアクション女優だからさ。顔は文句なく美女なのに。肩が張ってるのは知ってたけど、ウエストというか、腰というか、あの骨格、あの筋肉のバーン!は凄いね。だって全然ラインが、くびれてるとか曲線がないんだもん。いやー、モノホンね、アクション女優!
しかも彼女タッパがあるし、ウッチャンとのラブシーン(ってほどじゃない、せいぜい寄り添う、とか軽く抱擁するぐらいだけど)が結構ツラかったりして……ホイさんの肩にしがみつくっていうシーンだけで、腰を落としぎみにしなきゃいけないのが判って、しかもあのシーン、きなこがやむをえずとはいえ初めて犯してしまった殺人にうちのめされ、それをホイさんが受け止めるという超シリアスシーンだから、ツラいのよね。
でもお互い死ぬか、ってぐらいなアクションを繰り広げた後の、そう、あの、ホイさんがきなこのために散る覚悟をする直前のシーンの、ほんのつかのまの穏やかな時を共にする二人は……良かったな。あれは、あれこそは、アクション女優である水野美紀でなければ、成立しないシーンだった。
今回は西村京太郎の、つまりは過去に確立された原作があるせいか、テレビシリーズにあったほんわかした雰囲気とはだいぶ違った。それの象徴であるきなこ一家もあまり出てこないし(いかりやさん、遺作なんだよね……)。でもこの物語、設定には今だからこそ深いものが多々あった。
日本国民一億数千万すべてを誘拐したと宣言してくる犯人。つまり、無差別テロだ。
政府に要求した額は五千億円。それをつっぱねる政府のことをマスコミに暴露し、ならば一人5000円でピースバッジを買えという。それをつけた人間は殺さない、と。
バッジ購入に人々が殺到する。しかし、きなこの父親(いかりや長介)は金で平和が買えるか!と一喝し、それを断固、拒否するのだ。
そして、犯人側があざ笑うかのように言う、銃や戦車(自衛隊)で、国民を守れるなら守ってみろ、と。
あまりにも、重なるではないか。イラクに派遣された自衛隊。そのことによって発生してしまったあの人質事件。
国民がパニックになるからと、事態を知らせようとしない政府、そして命の危険にさらされる国民が“自己責任”によって安全を金で買う。
政府(政治家)は、もっと多額の金で安全を買っている。国民を守る前に。しかもそれは命ではなく、自分の保身なのだ。
偶然だろうけれど、なんとタイムリーに皮肉な話なんだろう。
確かに、銃や戦車で平和は守れない。それは実際に銃や戦車ではなくても、軍隊という存在そのもの(自衛隊は日本の軍隊だという認識はぬぐえないだろう)が、守るどころか破壊してしまうということなのだ。
それに、人一人の命の重み。国民全員、一億人以上が人質になったといったって、全員が殺されるわけでもないみたいにノンビリしている政府(彼らが恐れているのはそれによって失われる自らの政治生命なのだ)と、正当防衛とはいえ人一人を殺してしまったきなこが抱えるたとえようのない胸の痛み、そしてそれを何度も経験し、今や自分の中の命はなくなってしまったと、自分はすでに死んでいるんだというホイさん。その意識は……あまりに違いすぎる。
田口トモロヲ、阿部寛、古田新太、大沢樹生といった、脇にちゃんとハデめながらもいい役者を揃えているのもポイント。言うと思った「なんじゃこりゃ」で倒れたはずの竹中直人と、きなこに倒されたはずの中村獅童はなぜピンピンしているの?★★★★☆
別々に暮らしているどうしようもない父親。一緒に暮らしている、ジグソーパズルばかりしている祖母。愛を感じられないたった二人の身内。そして彼は自分の生きる道、やりたい道が見出せない。授業はタイクツだからフケて、唯一の友達である本屋のオヤジとテキトーにゲームや会話をして、ガソリンスタンドのゲーム機をごまかしてコインをちょろまかす。いつも変わらぬ日常。この寂しい町には面白いことなんて一個もない。
確かに、イイ子ではない。でもとびぬけて悪い子にも思えない。でもたったこれぐらいの行動で、この閉ざされた小さな町の学校では、“手を焼く不良”になってしまう。“学校ではもう手におえない”……これだけで?彼は誰とつるんでいるわけでもないし、言ってみれば自分だけの責任で行動しているだけなのに。
裏を返してみてみれば、彼だけがこの授業がタイクツだということを知っていて、あるいは態度で示している。彼だけが、生きる意味ややりたいことがないことを知っている、あるいは態度で示している。他のみんなは……気づいてさえいないかもしれない、あるいは気づかないふりをしているのかもしれない。
まだ、ティーンエイジャー。もがくだけの権利はあるはずなのに、もがくエネルギーを使う気さえない生徒たちの中で、ひょっとしたらノイ一人だけが正常なのかもしれないのに。
ノイだけが異端児であればいいのだ、そう考えたのか学校は精神カウンセラーにノイをみてもらう。そうすると何と結果は天才児。
でも、それでも……そうだ、それもまた異端児であるということの証拠なのだ。この結果に校長先生は何とかノイを学校に残そうとするのだけれど、先生(あのたった一人なの?)は、ノイを退学にしないのなら自分が辞めると言う。そしてノイは退学させられてしまう。
学校は、生徒のためのものじゃないのか?先生のためにあるのなら、学校なんて、いらないじゃない。
ノイはガソリンスタンドに新しく入ったイーリスという女の子に恋をする。彼女は本屋のオヤジの娘。都会に暮らしていたというイーリスはいわば外の場所を知っている人間だ。
でもそれは逆なのかもしれない。ここ以外の、たった一箇所を知っているということが、彼女の世界をせばめてはいないか。
デートのためにこっそり入り込んだ夜の自然博物館。大きな世界地図のパネル。ボタンを押すと主要都市が光るあれだ。その中にアイスランドのボタンは当然というべきか……見当たらない。そのことを彼女は最初から知っている。世界から、無視されている場所だと。
世界地図の片隅に小さく小さく息づいている島……。
ノイはイーリスにここから逃げ出そうと囁く。目をつぶって押した場所はハワイ。ここアイスランドからは想像も出来ない土地だ。
この、いつでもニット帽をかぶっているノイがハワイの海岸にいるなんて、本当に、全然想像つかない。
それぐらい、世界はある土地、ある人々にとっては今でもとてもとても遠く広いのだ。
価値観や土地という世界観がそれを無限に隔て続ける。
決して逃げることが出来ない。
でもこの場所以外知らないノイにとって、いまだ世界は無限だ。この場所があまりに閉塞感に満ちていて……隔てられていることさえ、気づいていないのだ。
やりたいことが見つからなくて……もがくノイ。銃で巨大なつららを撃ち落す。この強大な自然にはそんなやり方でしか立ち向かえない。
確かにこの厳しい自然の中で、自分の無力さを感じることの方が純粋なんだといえるのかもしれない。皆はそんなことは当たり前だと、見上げもしないんだから。
退学後、父親が墓堀の仕事を見つけてきてくれた。自分のようなヤサグレにはならないでほしいという思いからだ。祖母も孫の行く末を心配して占い師を頼む。でも二人とも……つまりは、ノイ自身のことを心配しているようにはあまり思えない。彼のしたいこととか、いや普段の会話さえ、あまりろくに聞いていないんだもの……父親にいたっては、自分のしりぬぐいさえ息子に頼む始末。
ノイは少々思いつめて、銀行強盗をやってみる。町でたった一つであろう、小さな銀行は皆が顔見知りで、誰も彼の行動を本気にとらない。
誰にも、何にも、相手にしてもらえない!
天才と言われたノイが自分のやりたいことを見つけたら、きっと本当に、邁進するんじゃないだろうか。
イーリスとのことを彼女の父親である本屋のオヤジに問い詰められるノイ。将来のことを考えているのかと。ノイは思いつきからなのか、将来は弁護士になると答え、このオヤジから一笑にふされる。
つられて彼もまた笑ったけれども、案外本気だったのかも……と思う。
この本屋のオヤジは、つまらないと言っては哲学書を投げ捨てたりする。ノイにその本をくれと言われても、もったいないからとやらず、勝負に負けてもエロ雑誌しかくれない。
つまりは、ノイがそんなマジメな本に興味を持つはずなんてないと思っているのだ。バカなのは多分、いや確実にこのオヤジの方だ。
子供の興味がどこかに向いたら、それをムリだと笑うのではなく、導いてやることが大人のつとめってヤツなんだとつくづく思う。自分にはもう枯れ果ててしまった可能性が、子供にはあるということを、どうして大人は忘れてしまうのだろう。子供だから何も出来やしないと、思ってしまうのだろう。
どこかに、一緒に逃げよう。イーリスにそう囁いて、彼女がうなづいたその言葉をノイは信じていた。この町では何にも出来やしない。学校も追い出されて、仕事は凍った大地を3メートル掘れと言われるムチャな墓掘り。祖母が頼んだ占い師からは死しか見えないと言われ、うろたえ、荒れるノイ。彼はすべて投げ捨てて、有り金を引き出して上等なスーツに身を包み、車を盗んでイーリスを迎えに行く。
でも当然というべきか……世界の限界を知っている、あるいは限界があると思っているイーリスにそんな気はさらさらなかったのだ。戸惑いの中にうっすらと侮蔑の表情を浮かべて、カウンターからノイを見つめるばかりのイーリス。
行き場がなくなったノイは、捕まり、連れ戻される。そしていつものように地下室に閉じこもってしまう。彼が一人になれる場所。
しかし、真に一人になれる瞬間が訪れたのだ。一人になれる、と言ってしまっていいのだろうか……突然の、驚愕の出来事が。
突然揺れ始める大地。地下室の明かりが消え、地上へと通じるドアがどうしても開かない。焦るノイ。いくら叫んでも誰もやってこない。一体何が起こったのか。
どれぐらい時間が経ったのだろう……ふいにあけられる地上へのドア。そこはいきなり雪の外界で……家は無残に崩れ去っていた。
大地震、だった。ノイの知る人、この町でつながりのある人みんなが、まるで選ばれたように10人の死者の中にすっぽりとおさまっていた。父親も祖母もイーリスも本屋のオヤジも校長も担任も占い師も、みんなが!
救い出されたノイは呆然とテレビ画面を見ている。呆然と、なのだろうか。その表情は……どこかちょっと違う気もする。
怖いのだけれど、本当に怖いのだけれど、彼は確かにこの瞬間、全くの自由になれたのだ。彼を拒否する人も、彼の可能性を笑う人も、彼を信じない人も、誰一人もういなくなってしまったのだから!まるで、まるで一人の天才の未来のために、大したことない人間を天がつまみ出したみたいに!
確かに彼の無限の可能性が試される時が来たのだ。今がその時なのだ。
でも、でもひとりぼっちだ!例え彼の未来にとってジャマでしかなかった人たちであったとしたって……。彼は今、ひとりぼっちだ!
こうでもならなきゃ、彼は自由を獲得することさえ、出来なかったなんて、なんて……結末だろう。
「魂がこもってない」とオノでアプライトピアノをガンガンに壊す父親を、ノイは冷たく見つめていた。魂がこもってないのは自分じゃないかと、そう彼は……思っていたに違いない。
この町が、壊された。まるであの時のアプライトピアノみたいに、ノイを残して、壊されてしまった。
そう、ノイは今一人ぼっち。でも魂を込めて、生きていってほしいと思う。
壊されたピアノが奏でられなかった音を、奏でて生きていってほしい。★★★☆☆
あー、ダメ、やっぱりげっぷが出る。いや、確かに純愛モノは、好きよ。でもこのたった一度のキス、というアイテムをジュード・ロウ&ニコール・キッドマンなんていう、修羅場くぐりぬけまくりの美男美女が演じると、そりゃどうかな、って気がしちゃうのよ。いや私、ニコールは大好きよ、大好きだけれども良家のお嬢様育ちの一人娘、というのがまあ、その育ちは似合ってるけど、やっぱりさすがにトウがたっているというか……あんまりハリウッドはそういう年齢的なことを気にしないみたいだけど。
しかもこのキスシーン、そう言うわりにはかなりバックリいっちゃってるし……はあ。ま、宣伝ポスター見た時点で、ありゃりゃ、かなりバックリいっちゃってるなとは思ったけど、ご丁寧に何度も何度も角度を変え重心まで変え、バックリバックリいっちゃってるのね。
たった一度のキス、というキーワード自体のピュアさと、実際のキスシーンと、そしてお二人のベテランっぷり、何か、微妙に、微妙にズレるのよ。まあでも……これくらいバックリキスだからお互いに忘れられなかったのかも?(私もしつこい)。
でもさでもさ、このシーンはこの映画のいわば切り札なのに、そんな風に宣伝写真でバッチリ使っちゃってるのもね、あーあー、と思っちゃうんだけど。勝負に出る前にエース持ってるのバラしてどうする!みたいなさ。
ヘタすると、どっちかが思い込みのストーカーになりそうなギリギリの設定。目配せだけで気持ちの高まりをお互いに信じあえているというのは……まあそこは、戦争というドラマティック(だからこれがイヤだというのだ)さがなせるワザではあるんだけど。
エイダ(ニコール)の鶴の一声で畑仕事に精を出しているインマン(ジュード)が、ピアノを運びながら演奏している(凄いわ)エイダをまぶしく見守る、なーんていう詩情豊かなシーンは確かに魅力的だけど。
正直言うと、もう戦争モノもいいかげん、いいよ、っていう気持ちも大きい。戦禍のリアリズムなんて何度見させられたことか。そんなことに慣れたくない。
そう、イヤなことに、このことに慣れつつあるのだ。しかも作りこんだそんな世界に慣れるなんて一番、イヤ。でもこんな風に戦争モノが絶えないのは、実際の世界に戦争がなくならないせいだというのは判っているんだけれど。
でも、今回は確かに慣れてしまった、という気分のほかに、別の気持ちもわいた。ああ、やっぱり人間だけがバカなんだなって、思えたこと。他の動物は生きるために生きる、それだけが真実だと判っているのに、人間だけが累々と無駄な死体をさらしているさまが、残酷を通り越して滑稽に見えてきたのだ。俯瞰で、まるで鳥が空から見ているような気分というか。
しかも、同じ国民同士で争い、果ては義勇軍という名のもとに、脱走兵狩りをして身内同士でまで殺しあう。脱走兵じゃなくても、殺しちゃう。ここまでくると、残酷とか何とかいう以前に、アホらしく見えてくる。残酷という時点にとどまっていれば、そういうことがマニア的に好きな人間っていうのはまあ、いるだろうから、戦争がなくならないのは案外そのせいかもとか思ったりもするのね。でもそこさえも突き抜けて、こんな風にアホらしいと思えるようになれば、戦争もなくなりそうな気がする、だなんて思うのは、かえってナゲヤリな気分なんだろうか。
ま、正直、南北戦争のことはよく判らないんだけどさ……。
でももっと正直に言うと、そんなリアルな戦争モノにいつまでもこだわっている映画業界こそが、最もアホらしいような気もしているんだけど。それにこれ……その、危機的状況を、そりゃムリだろって状況を、主人公はくぐりぬけて愛する人のもとにたどりつく。それがね、ホントにそりゃムリだろなのよ。そこまでくるとまるでゲームなのよ。あるいは、これだけの純愛を胸に秘めているから神の加護があるとでも言いたいのかってぐらい、奇跡的に生き延びるのよ。だってあんな大動脈が突っ走っている首を撃たれて何で生きてんのよ。
戦争っていうのはね、たとえどんなに愛し合っているものがいたって、そんなこと関係なく、容赦なく殺してしまうから、戦争なんでしょ。だから悲惨なんでしょ。私がこんな風に嫌悪を感じるのは、げっぷの出る純愛をつらぬくための、ドラマティックにするための舞台設定としてしか戦争が存在していないことなのだ。
まあ、そりゃ言い過ぎかもしれない。劇中には戦争に息子を取られ、脱走してきた息子をかくまったために、息子だけでなく夫まで失ってしまった気の毒な婦人も出てくる。でもここで思うことはまた違うこと……男はまーったく、判ってないのよね。つまり、戦争で男は死にゃいいけど(!)残されるのはいつも女で、女はその哀しみを抱えてこれから先、生きていかなけりゃならんのよ。そのことも本当に判ってるのかな、っていう……。
あのね、オチばらししちゃうけど、待っていた女、エイダのもとに、男、インマンは帰ってくるのね。で、彼女とつかの間の幸せな時を過ごす。ホントつかの間だよね。だって寝たのは一度でしょ?で、あっという間にインマンは死んでしまう……義勇軍の横暴な仕打ちに正義を貫いて。
でね、次のシーンではエイダは娘をもうけて、亡き夫を思いながらも穏やかで幸せな時を暮らしているわけ。たとえ数日間だったとしても、互いに結婚の誓いを交わしたから、ちゃんとインマン夫人となって、娘にも亡きお父さんの話を言い聞かせている。
あのたった一回で首尾よくタネを残し、燃え上がった気持ちだけを残して男は死んでしまって、そしてこのラスト。ううーむ、何か釈然としない気持ちになるのは私だけなんだろうか。そりゃ、これなら恋愛として完璧だわよ。結婚がハッピーエンドである御伽噺に異を唱えたフェミニストも確かにコレなら納得するかもね。だって、同時に男が死んじゃうんだもん。
でも、これってさ……男はタネで、女は産むことで、そこに存在の意味があるって、ものすっごく端的に言っているみたいで、抵抗あんのね。だって、それでやけに幸せそうなんだもん。
最終的な結末よりも、それまでの過程、エイダは何も知らないお嬢様だったのがたくましく生きるひとりの女性に、そしてインマンは、愛するエイダのもとにたどりつくまでに出会う人々によって、成長していく、という部分こそが見所なのだ。ついついこの甘甘なラブロマンスに目くじら立てちゃうけど、違うんだよね。
牧師だった父に死なれて、生活がキュウキュウになって、ホント死にそうになっていたエイダを救ったのが、山から降りてきたみたいなたくましさのルビー。演じるのはレニー・ゼルウィガー。いやー、ビックリした。あの唇美人の、あの唇が、イモ姉ちゃんのそれになってしまうっていうのが。ほこりだらけでドカドカ歩き回る独立独歩のこの女が、やたら似合ってるんだもん。
この対照的な二大ビジュアル女優が、加えて二大実力派女優なわけで、これはゼイタクな演技合戦。このルビーによってカッコいい女性になっていくエイダ。二人が闊歩するツーショットはカッコいい。実際、この二人って何だか気が合いそう。そんないい雰囲気も醸し出してる。
ルビーは、何をやるにも、「一つ、○○は……」てな具合に数を数えるのがクセ。ついには百いくつまで数え出して、いくつまでなのか判らなくなるあたりが笑わせる。いかにも無教養に見えながらも、エイダの寝物語に次を催促して自ら読み出すような好奇心旺盛なトコロがカワイイ。
フィドル奏者である彼女のお父さんが重要な役回りで出てくるんだけど、この親子関係が、イイんだなあ。幼い頃の彼女にとって決していい父親ではなかった彼に対してルビーは冷たいんだけど、このお父さん、憎めないんだよね。愛する娘に対して窓の外で演奏したりする無邪気さに素直に泣けちゃう。で、このお父さんが横暴な義勇軍に殺されかけた時、探し当てるまではいい気味だ、みたいに虚勢をはっていたルビーが、倒れている彼を見つけて我を忘れて駆け寄るところは、泣けたなあ……うん、ここだけは、泣けた。
一方のインマンは、いっつもイイ人に恵まれて助けられる。彼のためにヤギを一匹つぶしてくれる老婆も良かったけど、やはりあの戦争未亡人の母子が印象的。彼女は亡き夫と背格好が似ているインマンに、隣で寝てくれるように請う。何もせずに、ただ寝てくれと。彼の胸に泣きむせぶ彼女。そこに軍隊が襲ってくる。一旦は逃げたインマン、彼女が襲われているのを見逃せず、引き返して助け出す。しかし、外で待機していた若い兵士は逃がそうとした……のを彼女は撃ち殺してしまう。
この若い兵士は、上官の言うとおりにするしかなくて、でも吹きっさらしにされた赤ちゃんを不憫に思って自分の上着でくるんであげてたのだ。でもそれをこの彼女は見ていなかったし、赤ちゃんにヒドいことをしようとしたと思ったのか、もう鬼の形相でこの若者を撃ち殺してしまうのだ。敵は敵で、戦争に情け容赦などムダなことなのかもしれない……けれど、あの時の、インマンの何か呆けたような表情が、後から思うと……こんな風に、誰か一人を助けて、そのために何人も何人も殺してしまうことに、何かもう虚無感を感じていたのかもしれない、なんて思う。エイダに辿り着いた彼は、もう目的は果たしたというような、達成感にもまた辿り着いていて、だから、もう安心して正義を貫けたし、その正義によって死ぬことも厭わなかったのかもしれないんだ。だって彼女と結婚する夢も果たせたし。
それまで一体何人自分は人を殺してきたのか、それだけの価値が自分にはあるのか。……とまで言っているわけじゃなかったけど、でもエイダたち、愛する人たちを守るために果し合いに殉じた彼は、幸せそうだった。でもね、でもねここも……つつこうと思えば、つつけちゃうのね。つまり、愛する人を守るためなら人を、何人殺しても許されちゃうの、と。あー、言いたかないけど、そりゃ今の戦争そのもの、特にアメリカの大義名分のさ。
ちょ、ちょっと、言い過ぎちゃったかな……。★★☆☆☆
冒頭の、女子高校生の制服姿で、みんなで写真を撮るってだけで何でこんなにキャイキャイ言えるのかっていうような、仲の良さがすっごく判りやすかった場面。そう、この時の彼女たちは、女の子ってだけで文句なしにカワイくて、若さが希望に直結していて、この未来に何をやってもうまく行くような気がしていた。
でもその仲の良さっていうのは、この年頃でだけ成立する仲の良さであったかもしれないのだ。
インチョンという、ソウルから電車で一時間ほどの港湾都市。彼女たちはそこでは有名な商業高校に通っていた。そして卒業後、一人はソウルの証券会社に就職し、一人は行く先を決められないまま家業のサウナの手伝いなどし、一人はテキスタイルの勉強をしたいと思いつつ仕事が見つからなくて、双子の二人は露天商で手作りのアクセサリーを売っている。
高校時代の友情を保とうと、何かと声をかけて集まり、あの頃と同じようにハイテンションに騒いでみるものの、何かが少しずつ、ズレていく……。
この五人の中で一番のお気に入りは、家業を手伝っているテヒ。「ほえる犬は噛まない」でドカンとキたペ・ドゥナである。「ほえる……」よりは判りやすいカワイさを印象付けるけれど、彼女の魅力は今まで出てきた、韓国女優の完璧系の美しさとは対照的な、リアルな生活する女の子の可愛さ、ファニーなカワユさなのだ。
市川実日子あたりと同じ匂いがする。でも、彼女よりととのってるけど(いや、実日子嬢はそこがイイのよ!)。
おっきな目えして、猫っぽくて、チャーミングなショートヘアを揺らして、実にイイ。実にカワイイ。
彼女扮するテヒは、このインチョンから出たいという思いは人一倍持っている。でもどこに行きたいのか、何をしたいのか決められないまま、家業を手伝い、小児マヒの青年詩人のタイプを打つというボランティアなぞもしている。この青年詩人をちょっと好きになったりもする。言葉で世界を広げられる彼に。
この彼も多分彼女に好意を持っている。彼女がここから去ってしまうことをとても恐れている。「残る人か去る人か、どっちかだ」という彼の台詞は……みんな去っていってしまうということを暗に示していて、哀しい。
そう、テヒの思いは彼にしてみればノンキで、彼女なんてその気になればどんなところにも出て行けるのにと、彼こそがそのことを一番判っているから。どんなにテヒが「去っていくからって、キライになったってワケじゃない」と言ったって、彼にとっては同じことだから。
見た目一番の美女のヘジュはソウルの証券会社でビシッと働いている。友達からの携帯を仕事中に受けるというイイカゲンさを持ちながら、二言目には「仕事が忙しい」であり、インチョンにとどまっている友達を明らかに見下げているのが判る。
でも、彼女のやっている仕事は、雑用ごとに過ぎないのだ……。
とにかく見た目がイイから、男性社員にもチヤホヤされる。トップの女性上司に夜間大学に行ったらどうだと勧められても、あなたのもとで仕事を勉強したい、などとのらりくらりで、とにかく今の地位を保つこと……社内で一番の女の子、であることに余念がないのだ。
でも、新人の女の子が入ってくると、その立場はアッサリと崩れ去ってしまう。男性社員の目はすぐに若い子に向いてしまう。女性上司も、ヘジュに勧めていたその言葉を新人の女の子たちに振り替える。
でも、ヘジュはそれでも、視力回復のレーザー手術を受けたり、果ては整形しようかと思ってみたり、見た目を保って振り向いてもらうことに必死なのだ……。
お金は洋服につぎ込んじゃうし、友達には明らかに優越感の態度ミエミエだし、かなり鼻につくこのヘジュなんだけど、彼女の価値観はこんな風にかなり浅くて、遠くない将来、誰からも振り向いてもらえない自分に傷つくであろう彼女を考えると……苦しいのだ。
ヘジュは日ごろから友達に、「社会はあんたたちが思っているほど甘くない」なんて言って、「あの高校はインチョンでは有名だったけど」なんて言い放って(ま、そういう感覚は判るんだけどね)大都会で働いている自分を誇っているんだけれど……実は社会を最も甘く見ているのはヘジュ自身なのだ。
彼女はつい最近、両親が離婚した。日ごろから両親との折り合いはあまり良くないらしい。姉とは仲良くしている。「お姉さんがいればそれでいい」とヘジュは言い、両親の離婚はあまり気にしていないように見える。
いや……それはように、見える、だけだったのかもしれない。
彼女がこんなにも若さと見た目でみんなから好かれようとするのは、そのあたりから来るゆがみを感じなくもないから。
彼女は高校時代、あの無邪気さの中にいた、女子高生の、その価値を今でも信じている。20になったって、それが通用すると、それこそが武器だと思っている。たった20を超えるぐらいでそれが揺らいでしまうという苦さ。ティーンエイジャーの頃は、あんなにも女の子であることが無敵だと信じていたのに。
そのヘジュといわば犬猿の仲になってしまうのが、ジヨン。
高校時代は最も仲が良かったというのが、今となっては不思議なほどである。全く対照的。ジヨンは、もうあきらかに……ビンボー。今にも屋根が崩れ落ちそうなバラックに祖父母と一緒に住んでいる。仕事が見つからなくて、友達から借金を重ねている。
ヘジュが、金を返さずに暗い顔ばかりしているジヨンを疎ましがるのは、確かに判るんだけど、ジヨンの焦りをヘジュよりは近い立場で感じることが出来るテヒは胸を痛めている。それはジヨンの切羽詰った状況もそうだし、何よりヘジュとジヨンの不仲という亀裂が、この仲良し5人組の関係を壊してしまうことを、恐れているのだ。
テヒは「連絡係はいつも私」と言いながら、みんなで集まる算段を常に調整している。文句を言っているように見えながら、実はみんなと会いたいと一番思っているのが、テヒ。
でも、やっぱり、いつまでも昔のようにはいられないのだ。
ジヨンに両親がいないのは……彼女がなかば捨てられた運命にあるから。彼女が捨てられた子猫をどうしてもほっておけないのは、そこに自分を見たからなのだ、きっと。
身体の不自由な祖父母のいるここでは育てられないからと、一旦はヘジュのバースデイプレゼントになるこの子猫、しかしヘジュは一度はその子猫の愛らしさに有頂天になるものの、手がかかる、と翌日にはジヨンに返してしまう。
ジヨンは仕方なく自分の狭い屋根裏部屋で子猫を飼いはじめるのだけれど、それも出来なくなってしまう。それは、ジヨンに悲劇が襲い掛かってしまったから。彼女の住むバラックが本当に、崩れ落ちてしまったのだ。彼女たち五人がソウルで会って、ジヨンが帰ってきた時、もうその家は見るかげもなくなっていた。
呆然とするジヨン。祖父母もその事故で……。
唯一の身内を失って、本当に天涯孤独になってしまったジヨンは、警察での調書にことごとく黙り込み、何の罪もないのに少年院に送られてしまう。
でも、この時の警察官、サイアクなの。だって、何て言ったと思う?「これでせいせいしたろ」なんて、言うんだよ!信じられない。黙り込んでいたジヨンもこの言葉にはキレて、出された食事をひっくり返して暴れ出す。
少年院送りになってしまったジヨンをテヒは人一倍心配する。警察に連れて行かれたテヒにつきそい、彼女から子猫を手渡されて世話をはじめる。ヘジュは「あの子もドジね」と言うだけで仕事が忙しいとテヒの電話を切ってしまうし……思い悩むテヒ。
ジヨンが祖父母を大事にしてきたことを、誰よりも知っているテヒだから。ジヨンを心配して彼女の家を訪ねた時、おばあちゃんから「あの子の友達が来るなんて初めてだ」といくつもいくつもお饅頭を勧められたテヒ。
ジヨンは多分、自分を責めていたんだろうと思う。テヒが面会に行った時、自分には行くところがないから……と言葉を濁したジヨン。その言葉の切実さにも胸が苦しくなったけど、それもまた本当だろうけれど……でも、あの時、彼女の目に飛び込んだあの光景。一緒にいて助けてやれなかったことを後悔していたに違いないのだ。
テヒは決心する。夜中、荷造りをする。出て行く。ジヨンを多分、保釈金を積んで出してやったのだろう。「一年間、タダで働いたから、その分のお金を計算してとってきた」とテヒは言い、「あんたと一緒なら楽しいと思って」……その言葉に、ようやくうっすらと笑みを浮かべるジヨン。
どこかに行きたいというばかりで、その言葉はどこか夢見がちだったテヒが、本当に旅立ってしまった。最後に残った本当の親友と共に。
一緒くたに無邪気に、みんなが親友と思えていた時が過ぎ去ったのは確かに切ないんだけれど、少しずつ、少しずつ、変わっていくしかないのだ……それが大人になるということだから。
物語の展開にはそう重要にひっかかってはこないんだけど、仲良し五人組のあと二人、双子の女の子が不思議な位置関係。お伽噺のようなくったくのなさなのだ。他の三人からはいつも間違えられる。それどころか「双子に会ったの」などといっしょくたに言われもするけれど、大して気にしてない。本当に二人で一人みたいな、合わせ鏡のような、ちょっとコワいような?このちょっとホロ苦い物語を柔らかいマジックに包み込む役目をしているのだ。彼女たちが営むアクセサリーの露天商は、何だか楽しそうで、遊んでいるみたいにさえ見える。本当はキツイんだろうけど……そういう意味では彼女たちが意外に一番、オトナなのかもしれないという逆説的な感じも楽しい。
携帯のメールやタイプライターで打ち出される文字が、スクリーンの端々にそのまま打ち出される手法が、新鮮。ありそうで、なかった。文字が彼女たちの気持ちを……時にはその文字上ではおさえている気持ちをよりあぶりだしているように思う。ハングルは判らないけど……判ればもっと切実にそう思うんだと思う。
携帯のメールはホント今世界中で凄いんだな。でもこれだけ文字でやり取りしながら、どれだけ気持ちを共有できているんだろうと思うと……それは以前よりも薄れているような気がするのはどうしてだろう。
メールの返事がなかなか返ってこないジヨンとこそ、気持ちを分かち合うことになるテヒ。
携帯のメールで本当の、心の底にある叫びが送れるとはどうしても思えないから。……携帯を持っていないからそう思うのかもしれないけど。★★★☆☆