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モーロー牛温泉
2000年 3分 日本 カラー
監督:山崎幹夫 脚本:
撮影: 音楽:
出演:山崎幹夫 山田勇男
監督の記憶の中に、モーロー牛温泉、というものがあって、どこにあるのか判らない。名前からして北海道だろうとあたりをつけ、ガイドブックなぞをめくってみるが、一向見つからない。それならばとアイヌ語辞典を引いてみる。モーは小さな、ローは道、ウシは何かがある場所。つまり、小さな道のある場所。これじゃ手がかりにも何にもならない(でも、詩的ね)。
とりあえず、と監督は東武池袋線札幌行き(!?)に乗って、醜悪な高層ビルに変わってしまった赤レンガだった道庁を嘆く(って、そりゃ新都庁だわさ!)。そこで出会ったオジサン(山田勇男監督!)に、そりゃあ、イルクーツクにあるだべさ、と言われ、監督は即座に西武新宿線イルクーツク行き(!)に乗って(この電車の種類は、双方入り食っているか、間違っているかもです。メモ取っとけば良かった)着いたイルクーツクのバイカル湖(いやいやあれは、どう見たって荒川かなんか……)の湖水の水はあくまでも青く、とか言ってる。しかしモーロー牛温泉は、ついに見つからない(当たり前だっちゃ!)。
と、こう書いてみると、これが3分間の中に押し込まれているのって、結構驚異的。いや、最高ですよ、これは本当!★★★★★
ほとんど舞台なみの密室劇なのに、まるで退屈することがないこのスリリングさ。文学特有の台詞の多さをそれそのままに映画に料理してしまうこの手腕。それこそまるで本を読んでいるみたいに台詞が多いんだけど、潔いほどに数多く切られるカットと、彼女たちの喋りのリズムで読ませるのでも、聞かせるのでもなく、“観せて”しまうこの素晴らしさ。まるで「藪の中」のごとく、喋る人物がどんどんシフトするのに従って、謎の見え方がどんどん変わっていくのだけど、決して混乱することがない。
耽美派大作家、重松時子が謎の薬物死を遂げて4年、それまでも何度となく彼女の家に集まっていた5人の女たちは、彼女の命日をはさんで3日間、このうぐいす館に集まって、時子と同居していたえい子の美味しい手料理と美酒に酔い、時子を偲ぶことを常としていた。そして4年後のこの3日間、納得できないながらも自殺とされていた時子の死の真相?が彼女たちの手によって推理されることになる。女たちは一人を除いて全員、もの書き。その一人、えい子も辣腕編集者で文章のプロ。そしてやはりえい子を除いて皆、時子と親戚同士。
その親戚である女たちの中でただ一人、血のつながりのないことと、ノンフィクション作家という立場で狂言回し的に冷静な目で事の成り行きを見つめているのが絵里子(鈴木京香)。最も血のつながりの近い妹の立場で、まさにアンビバレンツな感情に揺れ、姉として作家として愛するがゆえにその裏返しとして最も殺してやりたいと願っていた静子(原田美枝子)。同時に時子に魅せられ、女学生時代から共にうぐいす館に通った二人、尚美(富田靖子)とつかさ(西田尚美)。ミステリー作家である尚美は、純文学作家として先にデビューし、ジャンル的にも時子に近いつかさに複雑な思いを抱えており、自分が時子の名を継ぎたいと思ってある行動に出ていた。つかさはこの中で最も年若く、その好奇心がチャーミング。暗さを抱えた尚美とは対照的。
この中で、時子を過保護にしすぎだったと静子によって最初に糾弾されるものの、どこかカヤの外のように見えていたただ一人の他人、えい子が、しかし物語のカギを最も握ることとなるのだ。他人だけれど、同居人。家族同様に時子を最も近くで見ていたえい子は、この4人、そして静子以上に、時子の堕落を厭った人物。編集者としてというよりは、時子を愛する一人の女として、時子の潔い引き際を、自らの死を願った人物。4人の女たちは、その実力をだんだん衰微させていった時子を、妄想の世界に引きこもったせいだと推理していくのだけれど、それもまた、実力が落ちたと思われたくないための時子の心理作戦だったのだ。……いや、えい子の、というべきかもしれない。
それにしても、このえい子に加藤登紀子を振るなんて、驚いた。彼女が対峙する時子=浅丘ルリ子の圧倒的な存在感に一歩も引かず、静かな迫力で映画を引っ張っていく。むしろ、この浅丘ルリ子と加藤登紀子の一騎打ちの映画、と言ってもいいくらい。浅丘ルリ子は、そう……ついこないだ、若くて美しかった頃の彼女の映画を観たばかりだったので、本作の彼女のキャラクターはなんとも皮肉に見えたのだけど、それを演りきってしまう女優としてのこの凄さ。だって、正直、この時子、醜いのだもの。内面も外見も老醜にしんしんと侵されてて。美しいはずの浅丘ルリ子が、外見的な醜さをさらしているのが、衝撃的だった。ちょっと笑っちゃうぐらい大きな宝石を身に着けていて、確かに似合うんだけど、どこか滑稽で。自分を静めるために冷たいシャワーを浴びるシーンは特に、あまりに醜くて、哀しくて、そして怖かった。
そんな時子を見つめるえい子。“おときさん”、である加藤登紀子が、“時子”を見つめている、なんてちょっと不思議。彼女が時子の希望に従って自分の筋書きを全うさせるために選んだのが、親戚の中でも唯一血のつながりのない絵里子だったというのは、時子を愛する者としての一番近い感情を持つ人物と感じていたからだったのか。時子とえい子は仕事仲間である同居人だったけど、……でも、彼女らは、絶対、愛し合っていたよね?だって、だってさ、あのシャワーのシーンだって……えい子はそんな時子を止めに入るわけだけど、何かやっぱりそうした匂いを感じたし、何よりもあのシーン、二人うたた寝でもするかのように並んで横たわってて、時子がえい子の方に体を向けるシーンがあったでしょ。何か、その動きだけでゾクッとしちゃったんだよね……彼女たち二人の関係が、見えた気がして。そしてあの画は同時に、どこか情死のような気分も感じさせた……思い込みすぎかなあ?
これはもちろん、時子とえい子の筋書きではあるけれど、4人の女たちは“偶然”の悲劇で時子を死に追いやってしまった、という結論に至る。表面的には時子を最も精神的に追いつめた(時子の堕落した姿をことこまかに小説にして送りつけた)静子が「こんな大役、誰にも渡さないわ」と時子殺しの願望を口にするのだけど、そうはっきり明言した静子と同様に、彼女らの誰もが、殺すなら自分が殺したことになればと願っただろう。彼女を、愛しているから。でも、その“大役”をただ一人、時子の愛を得ていたえい子だけが得ることが出来たのだ。薬を含む時子を屋敷の外から息をつめて待つえい子。木枯らしの寒さが観ているこっちにも染みてきそうなえい子の立ち姿、口元を両手でおおい、愛する人の死を待つ彼女の姿は、強烈だった。実は、このえい子を演じる加藤登紀子は、結構全編、コワいというか、その顔がコワいなんて言ったらかなり失礼なんだけど、その小さな目が何を見ているのか判らなくてホント、怖いんだけど、時子の死を見届け、彼女と共に考えた筋書きを4人に導かせて、ほっと肩の力が降りた時、何か、凄くキレイなのね。晴れやか、というか、それが、それこそが愛の恐ろしさを感じて、一番怖かったなあ……。
4人の女は二手に分かれて、来年の再会、そして時子の物語を書くことを約束して、うぐいす館を後にする。男の子のように煙草を吸う絵里子を残して(でも京香さん、本当は煙草吸えないんだってね。でもサマになってたなあ。男の子のような背中を丸めた吸い方がカッコよかった。携帯灰皿を使うのも堂に入ってたし)、静子が先に帰り、ここで絵里子がえい子に協力していたこと、そして真相が明らかになる……しかしこの真相、原作とは異なっているというから、驚く。やっだ、もう、どう違うのか、すっごく気になるじゃない!これは原作を読めってことなのか……上手いんだから、もう!そしてもう二人、若手組は、かつての少女時代、二人してうぐいす館を訪ねたあの頃、雫が滴る低いトンネルを通っていったあの頃を思い出させ、そしてそのトンネルを逆方向に抜けたこのシーンは、時子を慕うだけの少女をようやく脱して、大人の女になって帰ってきた……やはりこの辺は、少女映画で瞠目させられた篠原監督、という感じがするんだよなあ。
なんと言っても、えい子が作るグルメな料理の数々があまりにもあまりにも美しくて美味しそうで、たまんない。焼きたてのほうれん草のキッシュ、温かいお豆腐にカニ肉のあんかけを乗せたようなものや、タイと思しき白身魚のカルパッチョ、そしてあれはスペアリブ?骨付きのカモ肉かなんか?黒胡椒をきかせてて、なんておいしそう!二日目は豪華なタイスキ。「おつまみが足りない時は、おなべのポトフを温めてね」だなんて、何という贅沢な台詞!夕食のみならず、朝は香ばしく焼いたパンケーキにホイップクリーム(ヨーグルト?)にジャムを添えたものが出てきたり、もうほんとに困っちゃうぐらい美味しそうなのだ。そう、このえい子の手作り料理があまりに美味しそうなので、唐突に小腹がすいた4人がお手軽に缶詰のミートソースで作るスパゲッティが危うく彼女らを殺しそうになる、というのは、上手いんだよなー、まさに。
それに加えて、この女たちの嬉しくなっちゃうぐらいのウワバミなこと!いくらある程度人数がいるからって、あんなに赤ワインのボトルをバカバカ空けて、よくまあ、しれっとした顔で議論できるわ!しかもそのあと、あれは何?結構強そうなライムのリキュールみたいなのをロックでいっちゃったりして、んで、その他にビールもスタイニーボトルを口飲みでしょ?酒の強い女数人でガバガバ呑むのって、かなりキツいことも言えちゃったりして、そいでもって、この最高の料理でしょ?この晩餐には参加したいよなあ……でもここには、時子を殺したいほどに憎み、愛している者しか参加する資格はないのだ。だから、こんなに浮世離れしているほどに、豪華な料理と美酒に酔いしれることが出来るのだ。
原田美枝子も富田靖子(一瞬の歯紅が気になっちゃった)も篠原組は2回目だし、その他の女優陣も多かれ少なかれ篠原監督と縁があるんだという。ついこの間まで新鋭だった篠原監督が、あっという間にそうした縁と信頼関係を数多く持つベテラン監督になっちゃって、ちょっとだけ寂しいなあ、なんて思うのは、ほんと、ファンの勝手な心理よね。でも、男優たちとそういう縁を持つ男性監督は数あれど、女優と、という監督は少ないから、うん、やっぱり嬉しいな。そこが、幅広いジャンルを器用に撮る職人監督といえども、最初に感じたままの、篠原監督らしいところなんだよね。今回初めての“縁”だった西田尚美主演で、いつか撮ってほしい。彼女、とってもキュートだったんだもの。★★★★★
音楽への夢をあきらめて印刷工場を継いだ夫は、しかし事故で下半身付随になり、なお一層フテくされ、リハビリも真面目に受けようとせず、ひたすら好きな音楽を寝たきりで聴いている生活。そんな彼の母親であった、ヒロイン富子にとっての姑が大往生の末、他界した。動こうとしない夫の代わりに喪主代理をつとめ、遺骨を持って家に戻る富子。一階が作業場、二階が住居になっているマッチ箱のような小さな印刷工場。暗くて狭い階段を一段一段踏みしめながら上っていく彼女の様子に、既に暗い予感と抑圧された欲望が匂い立つ。母親の遺影と遺骨を前に彼女にフェラを要求する彼だが、勃たない。彼女は収まらない体を夫から離し、別の部屋の卓に自身を横たえ、姑の遺骨をその手にしながら自らを慰める。薄い喪服の下から固く突起する乳首と、その快感にみるみる紅潮していく彼女の白い肌。
ひたすら暗いエロを感じさせる数々のセックスシーンで印象的なのは、この彼女の肌が本当に、見る間に上気していく様だ。まず顔に、そののぼせた紅色が浮かび、その紅が彼女の体全体の肌の白さを順々に奪ってゆく。雇い入れた住み込みの職人隆三が全身汗まみれでともに働く彼女にあっという間に欲情し、レイプ同然に彼女と関係を持つ、その最初のセックスシーンからそれは顕著である。ことにこのシーンは鮮烈だった。彼の目が暗く光り、それを察知した彼女が後ずさりし、逃げ惑うと、獣のように追いかける。その間、印刷工場のバタン、バタンという機械音だけが鳴り響き、時折挿入される何も知らずに音楽に悦に入っている夫のカットには華やかなクラシック音楽だけが響き、機械音とクラシック音楽、交互に繰り返されているというのに、なぜか不気味な静けさを感じる。彼女自身の欲望も手伝い、抗えなくなった末に、まさしく交尾といった感じで機械にもたれながらするセックス。事後、彼女のしゃがんだ足の間から垂れ落ちる精液、というワンカットは衝撃的。「二度としないで」という彼女の言葉は、勿論、その後再三空しく裏切られるのだ。
富子は、夫が不能になってから出会い、なぐさめてもらっていたと思しき女医と、以前から関係を持っていた。富子の方はおそらくその欲望を静めるのがもっぱらであったのだろうが、この女医は本気で富子が好きだったのだろうと思う。診察室で二人きりになった時に見せる柔らかなキスから切ない情愛を感じさせ、隆三が去ってしまったと思い込んだ富子がこの女医と仏壇(!)の前で激しく愛撫しあう様は、一体どういう体位になっているの?と思うほどの一種アクロバティック的な激しさで、観るものを圧倒する。この場面に、出て行ったと思い込んでいた隆三が帰ってくる。「おいおい、レズかよ。入れられるならバイブでも何でもいいんだな。このインラン女!」とさげすむように言い放つ彼に、富子は「そうよ、何でもいいのよ!」とまるで自虐的な激しさで、今度は彼を求め出す。居たたまれなくなってその場を辞する女医が、あまりにも哀れ。
隆三とのセックスに溺れる富子。人生やり直したい。どこか遠くに連れて行って、と彼の精液で顔中をぬらぬらと光らせながら懇願する彼女のすさまじい迫力に背筋が寒くなるほど。しかしこの男もまた、精力だけは絶倫で、アナルをはじめとするさまざまなテクニックで富子を喜ばせはするが、子供のような我慢の効かない、人生をたくすには疑問のある男である。一度は隆三との逃避行をあきらめた富子だが、結局彼から離れられず、夫の殺しを切望するようになる。その後ろ暗い欲望を感づいた夫は、隆三に背負われた階段でわざと失禁したりといった、陰湿なイヤガラセを試みるが、それがあだとなり、二人転げ落ちる。その興奮が何の刺激となったのか、「富子、俺、勃ってる、お前を抱けるよ!」と叫び、彼女に向かって血を流しながらはいずっていく夫に、富子は悲鳴をあげながら後ずさる。その背後に回った、これはもっとひどい流血を負った隆三が夫の頭に致命傷の一撃を加え……そして夫は絶命してしまう。
母親の初七日も過ぎないのに、と遺族たちから疑いと責めの目線を浴びながら、葬儀を終えた富子は隆三の待つ、工場の二階へと登っていく。激しく愛し合う二人だが、頭を打った隆三はものがはっきり見えない後遺症が残ってしまっている。「氷を取ってくるよ」またあのみだらな遊びで彼女を喜ばせてやるつもりか、そんなことを言って階下に向かった彼は……。肌のほてったまま彼を待っている富子の耳に聞こえてきたのは男の悲鳴と、階段から落ちていったとおぼしき鈍い音。そして、彼女の悲鳴が、黒一色の画面の中から聞こえてくる。そして、カットアウト。
次々に人が死ぬ、その中に何も結実しない、ただ欲望を満たすだけの、しかも不実なセックスが濃厚に入り乱れる。暑さのせいなのか、感じているせいなのかわからない汗をだくだくとかきながら、理性などどこかに吹っ飛んだ、押え切れない本能で絡み合っているかのような男と女、あるいは女と女の図は、日本特有の閉じられた、いや閉じ込められた、あるいはすすんで閉じこもっている薄暗い住居空間の中で、まるで自分たちの中にある暗い欲望を照射しているようで、そのむせ返るような湿度が、自己嫌悪感に近いほどの生々しさを放つ。髪を振り乱して、爛熟した肉体を体操選手並に激しく運動させる佐々木麻由子がまさしく圧巻。いわゆる芝居部分ももちろんだが、セックスシーンにも女優の演技の力量がこれほどまでに出るかという……こうしたシーンで役者としての上手さに圧倒されるというのは、かなり凄い。獣のような職人、隆三役の木村圭作も、ひたすらネガティブ思考に陥りながらも、妻への欲望だけは捨てきれない夫、松木良方も、彼女の熱に反応するかのような熱演で素晴らしい。★★★★☆
主演の中居正広からしてまずそうで、山崎努をのぞいてメインのキャストのみならず、ゲスト出演みたいにチラリと出るさまざまな人物たちが、みんなテレビ画面で見ている人たちばかり。爆笑問題の二人が真正面からのカットで延々と掛け合い漫才よろしくシャベくる段に至っては、それを楽しむ気にもなれなかった。映画を観ているという気がしなくて、もうテレビ放映されることとか容易に想像できてしまう。いや、別にテレビと映画と分けて考える気持ちはなく、面白く見せてくれればそれでいいわけだが、いかにも森田監督にいいように動かされているという感が強いのだ。まるで道具のように。役者それ自体の面白さが感じられなくて。で、監督が面白がってやっているであろうことが、どうも面白く感じられないというのも。あるいは原作にある表現もあるのかもしれないけれども、練乳のミルクをチューチューやりながらイチゴを食べるというような描写には正直言って辟易した。オフィシャルサイトで、その意味をもっともらしく解説してたりするけど、ワザとらしいだけで全然ピンとこない。あるいは、ピース(中居正広)&栗橋浩美(津田寛治)の、特に浩美における会話の調子の、キザったらしいヘンな抑揚は一体……?
そして「黒い家」の時にすでにヤだなー、と思っていたのが本作でエスカレートした、画面の意匠の凝り方。そのまた前作の「39 刑法第三十九条」ではそれも絶妙だったのだけれど、それ以降は明らかにやり過ぎ。あん時みんなホメたりしすぎた?マルチメディアを使った犯罪、ということでこれ幸いとばかりにガタガタ画面をいじってくるのだが、どうにもうっとうしい。それにこういう画像表現って、その時にはいかにも斬新に見えるけれども、それだけでは時間が経てば陳腐な表現になってしまうのは判りきっているのに。というより現時点ですでにそう……それだけで突っ走ってしまうのが。その中に正直何も見えてこないのが。心を動かす何も。
実際は家系図的な緻密さを持つ作品。このかなりの長大な原作を映画にした場合、何を切り捨てるのか、あるいはどう編集するのか。ピースの怖さは複雑な家庭環境から生み出された残虐な犯人が、理性的、知性的な頭で快楽殺人を行い、その外見が世の人々に好感を持って受け取られるという面。ピースマークに似ているといわれる温和な笑顔を持つ彼は、話術だけではなく、人を惹きつける先天的な魅力を備えている。というのが、中居正広にどれだけ表現できているのだろう?森田監督は彼しか考えられないといい、ファンで埋め尽くされたオフィシャルサイトのBBSは何だかやたらと彼を賛辞しているのだが(またしても二言目には邦画を観るきっかけ云々だ。もうちょっと映画らしい映画でそういうことを言ってほしい)、犯人としての顔の時は勿論、メディアに出るようになってからもやたらとクールな感じで押し通しているので、それは逆なんじゃないの、と思ってしまった。
実際の中居君はそれこそあっけらかんと明るい魅力で人を惹きつけるタイプの人であり、そういう魅力をそのまま出せてたら、その裏側で彼が何をやっているかとのギャップ(それこそが大事なんじゃないの?)で相当怖いキャラクターに出来たはずなのに。中居正広にしても津田寛治にしても、そしてかなりイイ役を振られている(割には凡庸な)藤井隆にしても、監督が手取り足取り演技指示を出している感じで、どうにも面白くない。
多くの女性を誘拐、監禁し、そのむごたらしい状態を挑発的に配信し、デジタル加工した声でさまざまな言語をあやつりながらメディアを翻弄する愉快犯。殺人のライブストリーミングという発想は、一時期映画の題材としてもてはやされたスナッフフィルムの更に先を行っていて、時代の恐ろしさを感じる。かつて家族を惨殺され、一人生き残った少年、彼を取材した女性ルポライター、ピースたちによって孫娘を殺されてしまった頑固一徹の豆腐屋の親父……最初こそピースによるシナリオによって結び付けられていた彼らが、次第に不思議な縁と自らの意思で、関係を持つようになる。もともと、この豆腐屋の親父有馬の孫娘である鞠子がさらわれたのには、彼女を呼び出した不思議なメールがあった。そして彼女はそのことをおじいちゃんには知られたくないといい、どこか死と引き換えにその秘密を守ったような感があった。私にはその謎解きは判らないけれど、そこにも人間の優しく哀しい縁と関係が見え隠れする。
ピースが恐ろしいのは、彼がそれの強さを充分判っていて利用してくることだ。彼が浩美とともに殺した高井和明(藤井隆)の妹に、兄を失って力を落としている彼女を手の内に落とすために囁く言葉がある。「日本人は家族っていう単位には絶対的な信仰を抱いているから、死んだ兄さんには負わせることのできない責任を由美ちゃんたちに負わせようとしているのさ。家族は一緒くただって。僕はそんなバカな大衆の攻撃から由美ちゃんを救い出したいんだ」あるいはこの台詞には、彼自身の本音が覗かれるのかもしれない(救いたい云々は別にしても)。家族のみならず、同じ傷を持つ人間同士が不思議な縁も手伝って結びつく力。それは彼が望んでも手に出来なかったものであり、あるいは自分にならそれを外側からコントロールできると思っていることでもある。物語の最後の最後までそれは作用してくる。彼がメディアのど真ん中で鮮やかな自死を遂げ(チープなCGだったが……)その後、自分の赤ん坊を公園に置き、有馬にこの子を育てるように指示する。血ではなく、環境によって人間が形成されるのだということを証明しろと。有馬が育てれば、自分のような悪人は育たないだろうと。
こういう人間が自分のことを単純に悪人などと表現するのも、このキャラにしてはそれこそ単純にすぎておかしな感じがするけれど、あるいはそれもまた彼の計算ずくだったのかもしれない。だってこの子は確かにピースの子に違いないだろうし、それだけでもかなり皮肉めいているけれど、恐らくは殺された有馬の孫娘、鞠子との子供ではないかと推測されるから。私は最初、高井の妹の由美子との子供かとも思ったが、有馬に対する挑戦状として、最後の最後まで完璧に書かれたシナリオという観点と、鞠子が姿を消して10ヶ月が経過してから遺体が発見されたことを考えると、そのあからさまな伏線を無視するわけにはどうしてもいかない。まさしくピースは人間をコマのように動かす、神の役割を演じるのを楽しんでいたのだ。
なんてことを考えていると、ここ数作の、そして特に本作の森田監督そのもののようにも思えてくる。このやたらと自信に満ちた人物の動かし方なんてまさしくそのもので。確かに優れた監督というのは、その作品に出ている全ての登場人物がその監督自身に見えてくるほどに、役者を掌握して動かす能力に長けているものだが、森田監督の場合はそれともちょっと違う気がする。森田監督自身のパーソナリティさえもそこには刷り込まれることなく、まるで紙芝居のように人物が薄ーく右往左往しているといった趣。木村佳乃などそのあまりの表情のなさに呆然とするほどで、ベテランの山崎努はさすが踏ん張ってみせるものの、やはり監督の紙芝居の世界に白々しく突き放された感じがしてならない。森田監督自身が手がけた脚本、その言葉がまるで生きていないからそれもむべなるかなだ。いくら役者が大ベテランだって死んだ言葉を生きかえらせるのは、あまりにも無理というもの。ピースの台詞だけが死んでいるのなら、それは実に奥の深い、シニカルな描写とも言えるのだけれど、むしろピースの台詞は結構生きていて、死んでいるのは生きていなければいけない人物たちの台詞ばかり。
ピースと、それと共犯の浩美がいつもいつも手にして口に含んでいるペットボトルの水が、何となく気になる小道具。女たちの血を想起させる赤ワインを食事時にいつも傾けていながら、それと対照的にいつもいつも欲しているのは水だというのが、自然の恵みの水が商品としてペットボトルに詰められ、犯罪者の咽喉を潤しているというのが、何となく気になる。
原作ではもっと意味を持っていたのであろう模倣犯というタイトルが、本作ではほとんど意味をなしていない。だってルポライターの滋子がピースが模倣犯だと言ったのはピースが切り返したように、確かに彼を引っ掛けるためだけに持ち出した話題だとしか思えないから……本作の薄さは、そのあたりに端的に象徴されているような気がするfont color=#ffefd5>★☆☆☆☆
ところで、この子供の悲鳴、最終的に笑いをエネルギーにする、っていう設定、何か覚えがあるなあ、と思って考えていたら昔読んでいた童話に似ている設定のがあったのだ。大好きで、ボロボロになるまで読んで、いまだに捨てられずにとってある「いたずら小おに」という、ポーランドの、1938年に書かれたものの翻訳童話。この小おには自分が笑うことによっておなかをふくらませるんだけど、最初のうちは子供を泣かしてその様をみてあざ笑うことによっておなかいっぱいになっていたのが、そのうちに子供を喜ばせて、その様子を見ていい気持ちになって笑うことに方向転換する、イヒッチェクがニコッチェクになるというお話。子供に対する態度が脅かす、あざ笑うなどのネガティブさから、喜ばせる、笑わせるへのポジティブに転換するところ、子供がエネルギー源になるところ、とても良く似ていて。子供は未来へのエネルギーをたくさん持ち合わせているという発想からくる相似かなあ。落ち着いて考えてみると結構説教臭い物語なんだけど、とってもチャーミングで、面白くて、何だかそんなところも共通している。
子供を驚かし、その悲鳴を採取して街のエネルギー源にしているモンスターの世界。サリーはその悲鳴獲得ポイントのトップゲッターで、モンスターズ社、ひいては街中の人気者。でもライバルのランドールがズルしようとしたことから、人間の子供がこの世界に入り込んでしまう。人間の子供に触れるだけで死んでしまう(それはどうやら間違いで、彼らの思い込み、あるいはこの会社の社長が作り出したウソだと後々になって判るのだが)と思っているモンスターの世界では、恐るべき存在。子供を脅かす彼らこそ、最も子供におびえていたのだ。それでももともと心優しきモンスターであるサリーは、このブー(というのは、彼が名づけた)を何とかもとの世界に戻すまで守ってやろうと決意する。
こ、このサリーが、サリーがああ!初の全CGデジタルアニメである「トイ・ストーリー」ですでに驚いていたけど、こんな柔らかい毛の感じまで、なんでこんなに完璧に表現できるのか!と大驚嘆。もう、もうね、ふあふあで、ふあふあで、さわりたい抱きつきたい埋もれたーい!サリーとブーが別れるシーンで、ちっちゃなブーがサリーにふんわり抱きしめられてまさしく埋もれちゃう場面では、ああうう、ブーになりたいよー!と本気で思っちゃう。これがさ、決して造形はカワイくないのよ。何たって子供を脅かすモンスターなわけだし、それに配色とか最悪で、だって青緑地に紫の斑点だよ?それがふあふあになっちゃうだけで、何であんなに優しげになっちゃうのッ!正直、サリーの相棒の一つ目のマイクにしても、その彼女で美人だといわれている蛇の髪を持った受付嬢セリアにしても、トカゲみたいなライバル、ランドールにしても、複眼ニョロニョロ足の社長やナメクジみたいな姿のロズにしても、はっきりいって可愛くない、実にキモい。このあたりは同じモンスターでも、妖怪がみーんなやたらとかわゆかった宮崎駿監督に軍配が上がっちゃう(ま、日本人だから日本の好みは出るよね)。でもこのサリーのふあふあ感には、完璧に、負けた。これがね、ヒマラヤに追放される場面で、粉雪がついたりする時のふあふあ感にもすっごい驚いちゃうの。CG、CGとはいうけど、本当にどうやっているのか全然、見当もつかない!
このサリーの一つ目ギョロ目の相棒マイクは、ああ、確かに爆笑問題の田中さん、その吹き替えで観たかった、と思わせる、口八丁手八丁のツッコミキングで、あ、あのシーンが好き……ロッカールームで彼専用のおっきなコンタクトレンズ(だよね?)を取り出してかぱってはめるでしょ。あれ、すっごい好きだなあ!あんな顔?してくどき上手で、美女(一応)のセリアを落とす。この彼女とのシーンはなかなかに濃厚で、彼女をぐっと横倒しにして、ラブラブチューな場面まである。うう、モンスターなのに見ていてテレちゃう。彼女とのデートに街一番の人気店をセッティング。でもその予約は街のスターであるサリーを使って取らせてるんだけど(笑)。しかしこの店がさあ、寿司屋(笑)。ちゃんとした日本語で「いらっしゃいませー」とか出迎えてくれちゃう。しかも板前はタコ(笑)。何でも彼が自分の足を切ってしまって、それがスシネタになる(!)、なんていう小ワザが使われていたらしいのだけど、気づかなかった。
ここを皮切りに日本の描写が気になっちゃうのよね。クライマックスで、ドアからドアへ飛び移りながら追っかけっこする、大スペクタクルシーンがあるんだけど、その際、敵ランドールから逃げるために、危なくなると適当にドアに飛び込んじゃうわけ。それぞれのドアは世界中の子供の部屋につながっている(どこでもドアと、のび太の机の引き出しが合わさったみたいだな)わけだから、その中に日本もあって、ドアの隙間から畳が見えてる!と思ったら案の定日本の子供の部屋だったんだけど、あ、あれが“子供の部屋”!?部屋からばっちり富士山が見えている、まるで銭湯の様な趣にまずのけぞる。「横に開けるんだ」と障子を開けるのは、なかなか芸が細かいけど、それも含めて、あのちょうちん風照明がかもし出す隠微な暗さといい、子供部屋っていうより、まるで遊女の部屋みたいなんだもんなあ(笑)。それが本当に笑いのネラいだとしたら高度すぎるぞ?
でも、この場面で悪役ランドール、そしてあくどいことをやっていた社長も追放されちゃうんだよね。昔だったら単純に、あー、爽快、とか思えちゃったのかもしれないんだけど、今ははたと考え込んじゃう。特に、ランドールをドアの向こうに押し込んじゃって、そのドアをはるか高みから地上に落として粉々にまでしてしまう、決定的に許さない、決定的に追放してしまうあのシーン、サリーやブーたちの見下ろす目が何だか冷たく感じられて、背中がヒヤリとしてしまった。それこそモンスターアニメ映画として共通している「千と千尋の神隠し」のことを思い出しちゃうと、あれって許容、寛容(いわば、仏教的だ)の世界だったじゃない。やっぱりこのあたりが文化の違いかなあって。宮崎監督があの作品について、特にアメリカ人あたりから、なぜ悪役が退治されないんだとやたら言われてかなり頭にきたみたいなことを言っていて……そしてその部分を変えなきゃ、この映画は買えないとか言われ、そんなことをするぐらいだったら出すつもりはないと。ホント、思い出しちゃったんだよね。ピクサーといいつつディズニー製作である、しっかりディズニー映画である本作、ディズニーってアメリカ文化そのものっていう感じだから、それでそういう部分を見せられると、……うん。やっぱり考え込んじゃうよね。改心する余地も与えられないのか、と思って。一度見限られたら終わり、って凄く厳しく、恐ろしいことじゃない?怖がらせるより、笑わせる、喜ばせる、っていう部分の方向転換は凄くいいんだけど、確かに。
それこそ「千と千尋……」もそうだし、先述した「いたずら小おに」もそうだと思うんだけど、子供にしか見えないオバケ、子供にしか見えない、入っていけない世界という、世界共通の認識をうまーく使ってる。つまるところはその子供にしか見えない世界というのが、子供が作り出すウソの世界ではなくて、本当に子供にしか見えない、感じ取れない世界があるんだという姿勢が、いいんだろうな。それは得てして忘れがちなそうした子供時代をちゃんと覚えてて、大切にしてて、そうした上でこういう作品を作っていく、っていう姿勢なんだよね。
ラストシーン、親友、マイクの尽力によってサリーがブーと再会できたことを暗示させて終わる。それは「千と千尋……」の千尋が、あの世界には二度と戻れない、ハクとも違った形での再会はあるかもしれないけど、お互いそのままの再会はあり得ないと感じさせるのと実に対照的。千尋はあの世界で少女期を脱し、いわば解脱して、自立できる精神を持った……同じ画を使っていても、あのトンネルを通り抜ける彼女は最初と最後では明らかに違ってた。でもここでは……ブーがまだ幼いということもあるのかもしれないけど、子供にしか見えない世界と決別せずに終わるというのが……通過儀礼を完結できずにいるというのが、危険な子供っぽさに感じられて、私はちょっと怖いな、と思ってしまった。そういう無邪気な精神が先述の、単純な悪役追放にもつながるような気がしちゃって。
絶対にジャッキーから始まったラストクレジットでのNG集は、アニメでNGなんてありえないんだから、当然作られたNG。物語中では最後に正体が明かされるまで、単なるワキ役に過ぎなかったロズが、ドスの効いた笑い声とともにオチャメに荒らしまくる。やはり偶然の生み出すNGの可笑しさにはかなわないな、と思いながらも、こういうオマケ的なものだって作るのは大変だろうに……作り手の、作品への愛、なんだなあ。★★★☆☆