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「ひ」


2005年鑑賞作品

PEEP“TV”SHOW
2003年 98分 日本 カラー
監督:土屋豊 脚本:土屋豊 雨宮処凛
撮影:二宮正樹 音楽:
出演:長谷川貴之 ゲッチョフ・詩 上田昭子 梨紗子 初山涼 石岡秀俊 冨 白田寛一 さくら


2005/4/19/火 劇場(渋谷シネ・ラ・セット)
「PEEP“TV”SHOW」というサイトに集まってくる、様々な人々を活写してゆく。長谷川という青年によって盗撮映像がのせられており、同時にあの9.11の映像、そしてその実行犯と言われるテロリストの行動がカウントダウンされてゆく。宗教色が色濃く感じられながらも、確固たる意志をもって突入した男の“遺書”を挿入しながら、それとは一見、いや一見どころか本当に何の関係もない、都会の人々の“日常”が盗み見される。そこには一体どんなつながりがあるのか、などと思ったのだけれど。
いや、確かにつながりなど、ないのだ。あの9.11が映し出されたテレビ画面、そして縦横無尽に張り巡らされたネット社会の窓であるパソコン画面は、その点において同じことを感じさせる。確かにそこで起こっているに違いないこと、という点において。そして、確かにそこで起こっているに違いないのに、それを実感できないこと、という点において。
あの、9.11が、まるで映画のようだとか、まるでテレビのようだとか、言われた。映画のようだというのもヤバい感覚だけれど、でもテレビのようだという方が、さらにヤバいと思われる。だってそれは、じゃあ、テレビから流されるものが、すべてフィクションだと、私たちが無意識に思っていたってことが、露呈されているから。
決して、そんなはずはないのに。ニュース映像だってナマの映像だって刻々と流されているのに。テレビ画面という小窓は、それをアッサリと芝居じみたフィクションに変えてしまう。
でも、さすがにあの9.11は、あれだけ大きな事件は、さすがにそうじゃないと、これは本当に起こっていることなのだと、テレビはそういうメディアなんだということを、今更ながらに人々に知らしめた。と、同時に、今までは世界のニュースもどこか他人事だったのが、自分もそれに関わらなくちゃいけない、考えなくちゃいけない、そうでなければこの世界の住人として認めてもらえない、などという空気が出来てくる。
そのことが、いいことだったのか、どうか。

はじめはバラバラだったイメージが、次第に9.11という軸に向かって吸い寄せられていく。あの9.11が起こった日。あの日は確かに、テレビというものが、映像というものが、メディアというものが、最も判りやすい形で象徴的にとらえられた日だった。劇中サイトに吸い寄せられる一人である女の子がこう言う。「あの日は、みんなが一緒に哀しめた記念すべき日」だと。はっきりとした哀しみは喜びであると彼女は言う。日々は、わけの判らない哀しみにあふれている。そんなもので哀しむのはイヤなんだと。
哀しみは、孤独というものに包まれていて、哀しみに浸るというカタルシスは孤独に浸るそれでもあるはずなのに、同じ哀しみを共有できることを求め、それが喜びであるという。
自分ひとりの力で、哀しみも孤独も、感じきれなくなってしまっているのかもしれない。言ってしまえば自分とは関係のないところで起こっていることに、訳知り顔で、みんなと一緒に“哀しむ”ことを、望む。それは自分自身の哀しみや孤独が、その関係ないところで起こっていることの足元にも及ばないことに不安を感じるからなのかもしれない。あの時WTCにいた人たちに比べれば、自分の哀しみも孤独も、大したことない。そうやって比すれば、人の哀しみも孤独も全部大したことがなくなってしまう。そうやって、自分が否定されるのが、怖いのかもしれない。だから、自分ひとりの哀しみや孤独ではなく、みんなで共有できる“喜び”である哀しみを選ぶ。哀しみの順位づけに負けるのが怖いから。

でもそれは、本当にあったことかどうか自分で確かめるすべもない、画面の中の出来事なのだ。
世界の平和と、それに対して世界や日本や日本人である自分たちがしなければいけないことをエラそうに語る男がイラつくのは、多分同じ理由。彼はコンビニで働いており、時おり集会のビラに見入っていたりしている程度の男の子である。熱っぽく語る彼に対して恋人の女の子が、そんなこと言う前に貸したお金返してよ、と言うのがやたら痛快なのも同じ理由。
彼が言っていることは確かに正当だし、何にも間違っていない。でも、この女の子が言うように、彼の言葉はひどくイラつく。この女の子は決して共感を生むようなキャラクターじゃないのに。足をおっぴろげてタバコスパスパ吸うし。でも彼女が「自分の足元も見てない様なヤツがそういうエラそうなこと言うのがムカつくんだよね」と言い、「世界のことの前にカネ返してよ」と言うのが、そうだそうだ!と言いたくなるのは、
この青年の中に、自嘲気味な自分の姿を見るからなんだよね、多分。
恐らく、私も彼と同じようなこと、酒でも呑めば力説しかねないと思う。本気でそう考えてないというわけではないけれど、そんなことと無縁の日常を繰り返している自分が、こういう深刻な世界のことを考えていないと、つながっていないと、世界から消え去ってしまう、ような、不安にさいなまれるからなんだ、多分。

彼の言葉がムカつくのは、全部誰かからの受け売りだからなんだよね。でも、それが情報ってことなんだ。自分で考えるためには受け売りの情報を手に入れることしか出来ないんだけど、それを咀嚼するだけの余白がない。情報はあまりに緻密に流れてきて、それを自分のものにする残された部分がないのだ。
緻密、というのは真実の緻密なのか、作り上げられたものなのか、それを知るすべさえない。
だから、もうどっちかになっちゃう。彼みたいなウンチク王になるか、彼女みたいに、全てはもう判ってることで、それを繰り返したってしょうがないでしょ、となるか。
結局、情報が最初から決められたある方向に向かって導かれていて、それがいい方向なら無論いいんだけど、あとから考えて悪い方向だったとしたら、少数意見の反対など、流されてしまって、抗うことなど出来なくなってしまっている。
情報社会ではない昔なら多分、こんなことはなかった。議論によって変えられる余地があった。今は議論することさえ、出来ない。その前に、情報の段階で、もう出来上がってしまっているから。しかもそれが誰かによって操作されているならその相手を考えればいいけれど、情報という大きな波は、明確な敵さえも、見えにくくしてしまっている。

監督が本作の中で目指した、こうした映像社会によってリアリティが薄れてしまったこととは、こういう受け止め方はちょっと違うのかもしれないけれど、世界のことを考えましょうと言われるたびに、そうだよなと思いつつ、でも世界のことを私なんかが考えたって、何も変わらないじゃんと思い、そのことに自分の存在の希薄さを思い知らされ、そんなことを言われなきゃ、その事実に気づくこともなかったのに、などと思う。
世界と自分のつながりがない、と不安を口にする女性がいる。あの9.11が起こった時、自分が世界の中で何が出来るのかと考えた。結果、何も考えつかなかった。自分は無力。自分は世界に対して何も出来ない。自分は世界とつながりがない。それが、不安なのだと。
あの、9.11は、その映像は、世界というものを強烈に感じさせるものだった。自分が暮らしている世界なんて、ちっぽけな範囲に過ぎないのに、ワールドワイドな世界に生きているんだと、いわば錯覚させるようなものだった。だから、無力であるなんてことを考えてしまう。だったら自分が、世界を動かす何かが出来るとそれ以前に考えていたかといえば、そんなことはないのに。

長谷川は、この盗み撮りした、多少はパンチラもあるけれど、なんてことはない、道ゆく人の足元からのぞき上げられた映像で自慰をする。世にはエッチな雑誌もアダルトサイトもあるのに、そんな作られたものはイヤなのか、彼はそこから必死に妄想をかきたてようとしているように思える。
そして、めぼしをつけたOLをつけては、その部屋の外に隠しカメラと盗聴器を仕込み、さらにはポストから電話明細を盗み出して、覗き見しながらイタ電をかけるなんてこともする。「誰?誰?」とおびえるその女性。誰かに、誰と言ってもらうことが、自分が確かにここにいると言ってもらっているような、妙な安心感を覚える。自分が本当に存在しているのか……。特に東京の、特に渋谷なんていると、本当にそんなことを感じることがあるから、こんな許されないことをしている長谷川の気持ちが判るような気がしちゃって、戸惑ってしまう。
街の監視カメラに世が言うほど拒絶感を感じなくなっている現代。長谷川がしていることにもそれほどの驚きを感じなくなっていることこそが怖いのかもしれない。

そうして集めた映像を、長谷川は自身のサイトにUPする。彼にとっては作られたエロなんて、クソだ。こんな何でもない女性の日常、そしてそこに揺さぶりをかけてみたりすることの方が、よっぽどリアルなものなのだ。同じことに共感する人々がこのサイトをかぎつけて、三々五々やってくる。あるいは長谷川自身が自分と似た匂いを放つそうした人たちを街中で見つけて、サイトアドレスを書いたカードを渡したりもする。
同じようにパンチラ盗撮をやっている青年、世の中の鬱屈や「絶対に殺してやる」という台詞をブツブツとつぶやき続けているサラリーマン……。
その中で、自分から近づいたのが、ロリータファッションの少女、萌である。
彼女は、「覗きたい部屋があるんだけど」と彼にもちかける。その結果、自分の恋人と女友達のセックスを見ることになってしまう。彼女が恋人を疑っていたかどうかは定かではないけれど、それを見ても彼女はさして動じる様子でもなく、「私、何を覗きたいんだろうね」とつぶやき、そのただただむさぼるセックスに「みっともないね」と言う。長谷川も「猿みたいだ」と返す。

今のこの、都会の生活の中で、唯一生命力を感じるのがセックスだというのも皮肉だけれど、この都会の中だからこそ、そのセックスというものが「みっともなく」「猿みたい」に感じるというのは、さらに皮肉だ。
そうなってしまうと、もう、長谷川が恐らく嫌悪しているであろう、作られたエロとさして変わらない。
だから彼は通りゆく足元だけで自慰が出来るのだし、彼のサイトに集まってくる人たちも、所詮は他人の日常にしかすぎない隠しカメラの映像に興奮する。
自分のような存在が“社会的ひきこもり”とテレビで言われていた、と話す青年は、このサイトのことを興奮気味に話す。かなりキテますよ、と。
なぜこのサイトを彼はこんなにも勧めるんだろう。他人の日常だって自分と同じように平凡なのに、自分の日常に飽き飽きしてしまったのだろうか。彼の日常は確かに、そういうものだと象徴的に表わされているけれど、誰の日常だって似たようなもんである。誰のものだって、結局は繰り返される日常に過ぎない。

そんな、平凡な日常の中のひとりの女性が、落ち込んだらしく、やけに多くの薬を飲んでいたりすると、たまに起こるイベントみたいに、「心配する」なんて気分が起こったりする。長谷川がそんなコメントを書き込み、サイト閲覧者はそんな気分で映像を覗き込む。
ここにも、みんなで共有する哀しみの構造が見え隠れする。
“社会的ひきこもり”の彼は、この渋谷が火の海になったら面白いのになんて言う。思わず共感する。でもそこに自分が飛び込みたいと思っているのかもしれないとも言う。……思わず共感……するかもしれない。彼は、わざわざ外に出る必要なんかないという。部屋の中だけで必要な情報はとれるし、ネットで友達も出来ると。前者に関しては、前述したような、情報過密に対する不安もあり、後者に関しても、それは否定しないけど、それがいい方向に行くか悪い方向に行くかの過渡期であるように思う。ネットで出来た、ネットだけで話す友達が本当に“リアル”な友達になれるかというのは、ネット社会の恩恵にひたっている私も、まだ自信がない。
ネットでの友達というのは、実際社会よりも比較的容易に出来る。それは顔が見えない分、本音を言いやすいから、あるいは、第三者を介さない、純粋な一対一が成立するから、いろいろな理由があるとは思うけれど、それは実際の友達構築の障壁を取り除かれた場である分、ズルがあるような気がするというか、実際に会って本当に友達になれるか不安に感じるというか、とにかくそれは、やはり“リアル”ではないのだ。
ネット社会にリアルを求める一方で、その点においてそれを回避し、しかもそれに気づかないような気さえしているというのは、やはり“本当の自分”の希薄さに直面することを暗に恐れているからなのかもしれない、と思う。
その自分こそ、リアルじゃないのだから。

サイト閲覧者の一人である、風俗嬢のエピソードが印象深かった。彼女は、仕事は本当にツラいと言う。でも収入はいいし、それは仕事に対する正当な報酬をもらえているように思う、と語る。だから彼女は自分が風俗嬢であることを恥じたりしないし、肩書きとして堂々と名乗る。需要があるからこういう仕事がある。要求されていることをするんだと。いわゆるフツーのバイトをして、新人が長くやった自分と同じ時給なんて許せないと。判る気がする……。
仕事に対する正当な報酬、という感覚や、需要があるから、要求されているから、という意識は、自分の存在を認めてもらっていることを、チョクに感じることが出来る職業だから、ということを痛切に感じさせる。この映画の本質的なテーマが自分の存在、存在意義なんだとしたら、彼女のエピソードは肉体的精神的な意味で、最も直截に、そして象徴的に語ってくれる。
恋人は勿論こんな仕事やってほしくないんだけど、それを彼女に説得するだけの言葉を持てない。やめてほしいという理由が、嫌悪感と嫉妬だけで、彼女を自分が必要としているからというまでに納得させられないから。
それはつまり、そこまで彼が彼女を必要としていないから、とも言えるのだけれど、それはキツい事実ではあるんだけど。
本当の本当は、世界の役に立ったり、世間に自分の存在を認めてもらったりすることよりも、たった一人の人に、できれば愛する人に必要とされるだけで、いいはずなんだよね。でもそれは、全ての人が得られるわけじゃない。たとえ恋人でも、そこまでの感覚を得るのは難しい。ならば自分が自分を必要とすれば、それだけでもいいんだけど、自分をよりどころとするほど、自分自身は強くないし、こんな風に情報があまりに大量に入ってくる中で、自分を必要とするほど、自分が頼れる人間だと思うのは難しいのだ。

萌とロリータファッションの趣味を同じくする少女たち。そのうちのひとりが、なぜロリータファッションをするのかということをカメラに向かって話す。
この格好をしている自分が本当の自分、自分を、他人と比較した形ではなくて好きになれたんだと、自信が持てたんだと語る。その一方で、ならば、いつもの自分は誰?それをこうして語ってる自分は何?と自問し、「よく判んないんだけど」と、結論は先送りされる。
本当の自分云々という議論は、この年頃、確かにやっていたように思う。でも、空しくなってやめてしまった。自分はそんな、“本当の自分”なんて探すほど、中身のある人間じゃないと気づいてしまったから。
本当の自分を模索するということは、いつもの自分が自分だと思いたくないのだ。こんなつまんない人間だと思いたくない。
何かを介して、ようやくこれが自分ですと納得できる。でも何かを介しているから、それが介さない時の自分は何なんだろうと不安になる。
その介するものがファッションであるという少女たちを持ってきたことは、より判りやすい形でそれを提示しているように思える。透明人間のようなものに、服を着させればやっと人間の形をしている、みたいな……。
ただ今は、カワイイ年頃の女の子であることがそれを支えているわけなんだけど……。

長谷川のサイトの中では、「REAL」と呼ばれるナマの映像がウリとなる。「REAL」今、ナマで、本当に起こっていることを。ネコをビニール袋に入れて殺す様を見せようとする。SM女王にひたすらしばかれる。それは、それこそあの9.11に比べればしょーもない「REAL」なんだけれど、あの映像に“テレビみたい”と思ってしまった人たちは、パソコンという、個人でつながることの出来るここにこそ本当のリアルを感じて、群がる。でも、同じなのに。結局は他人から提供されるだけの、受け身であることに変わりはないのに。一応は、参加型にはなっている。ネコを殺すか否かをサイト閲覧者に問いかける。でもそれを自由に操作でき、楽しんでいるのはサイト管理者だけであり、結局はテレビのニュースとさしてかわりはない。今はネット社会でそのことに気づいていないけど、いつか気づいてしまう日が絶対に、来てしまう。
その空しさに、萌はいち早く、気づいたのかもしれない。だから、「REAL」を見守るんではなくて、自らがその「REAL」に出たいと思ったのかもしれない。
でもそこで自分は何が出来る?彼女は本当に、他の覗き見されているOLたちと同じように、フツーに生活している様をさらすだけである。見られているということを判っているのに。ただ見られることに、誰かとつながっていることに、彼女は充足感を感じている、感じたい、と思ったのか。
他人のナマの日常は、自分が触れることが出来ないもの。今の私たちは、自分以外の他人の私生活というものから、あまりに遠いところにいるから。でもそれさえも、萌のように作られてしまう。閲覧者はそれに今は気づいていないけれど、それさえも暗黙の了解となる時が来るかもしれない。だったら、この最後の砦のここでさえ、本当のリアルを得られないなら、彼らはどこに行けばいいのか。

萌の左腕には無数の傷がある。恐らく自傷行為と思われる。生きている、リアルな実感を求めるためだったんだろうというのは、想像に難くない。
そんな自傷行為や、セックスや、セックスを覗き見ることが今まではリアルだったのに、いわばそんな即物的な、イベント的なハレであるセックスよりも、退屈だけれど生々しい人の日常を見ることがリアルへと変わってゆく。そうすると、それこそあの9.11はどうなってしまうのだろうか。
あの映像が美しかったと長谷川は言う。釘づけになって、「三機目を待った」と。
その長谷川の言うことが、判ってしまって、うろたえる。恐ろしいことに、私も、あの残酷であるはずの映像を、何度見ても飽きることがない。そう思ってしまう自分が、本当に恐ろしい。
戦争の映像も覗き見の感覚だということなのだろうか。それも需要のひとつだと?

9.11で死んだ人のことも語られる。それは、萌の彼氏と寝た、彼女のロリータファッションつながりの友達。彼女は死にとりつかれている。死の感覚に。それもまた、リアルな実感を求めていることに他ならない。
2,843人の人間が、あのWTCへの飛行機の突撃で、死んでしまった。
その中に、ビルの中で死んでしまった人ではなく、窓から飛び降りて死んでしまった人がいた。
自分の意志で、飛び降りた人の存在。
数の中のひとりではなく、何か大きな力に押しつぶされるのではなく、自分の死を、自分で選び取った人たちのことを、彼女は賛美する。
私もそういう“屍体”になりたい、と。
死体、ではなく、屍体、というのは、それこそが数に含まれた意味のなさを感じさせるものなんだけれど、たとえそうであっても、その中で何とか踏ん張りたい気持ちがきっとあるんだ。
もはや、私たちは、そんなギリギリのところでしか、生きていけない。

長谷川と萌が、女子トイレの盗撮の後、トイレをボコボコに破壊するシーンに不思議なカタルシスを感じ、彼らが、自分たちのグラウンド・ゼロはここなんだと、あのWTCの衝突シーンをバックにしっかとこちらを見据えるラストシーンに、何とか、かすかに、スタートの希望を感じさせる。テレビの窓から見えるシーンではなく、今、ここ、なんだと言うことができた彼らに。

終戦記念日、戦没者の追悼集会に天皇が参加するニュース映像なども使われ、そのテレビを寝っころがって萌がダルそうに見ている。確かにアルアルな“日常生活”なんだけど、映画としては結構ヤバい。それ以外にもさまざまヤバいこの映画は、映倫を通してないんだという。小さな小屋にかけるんだし、自主規制団体なんだからということらしいんだけど、このアグレッシブさには嬉しくなってしまう。映倫こそが、リアルをなくしてるもんね、ホントに。★★★★☆


ビタースイート (濃厚不倫 とられた女)
2004年 分 日本 カラー
監督:女池充 脚本:西田直子
撮影:伊藤寛 音楽:
出演:向夏 林由美香 石川KIN 佐野和宏 福島拓哉 藍山みなみ 松本寛樹

2005/12/13/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
これほど演技の水準の高いピンク映画は久しぶりに観た気がする。それにこれ、同録じゃないのかな……ピンク特有のアフレコの不自然さがまるで感じられない。早世してしまった林由美香も私の知る限りではあるけれど、最も素晴らしい演技をしてる。それを思うと彼女の死がホントたまらないのだけれど……。
でもやはり、メインを張っているキャスト二人が私、初めて見る女の子であり男優さんなんだけど、非常にセンシティヴで、演技の技術としても高く、セックスシーンがただピンクとして挿入される感じじゃなくて、本当に、気持ちが溢れてて、苦しくなってしまうのだ。

ここでのセックス、本当にその意味合いの違いがハッキリと判る。出会ってしまった運命の二人の、セックスというよりは、距離を、この距離を縮めたい、一番近くにいたい、っていうような抱きしめ合っている感覚の強いセックス。男は女の子を折れるほどに抱きしめるし、女の子は男に、小さな頃お父さんにそうしたように、ぎゅっとほっぺたを寄せて密着するように、そう、すがりつくように抱きつく。この不安を、取り除いてくれるんじゃないかって、そんな感じで。
一方、男が妻とするセックスは、身体が離れてて、本当にただ、つながってる、入れてる、まるで機械みたいなピストン運動。何だか見ていて虚しくなる。虚しくなるのは見ている側だけではない、妻は夫の気持ちがここにないことを判ってる。女の子にしたように、放出したあとも抱きしめ続けたりしない。

運命の二人、結婚を控えた祥子と、妻との結婚生活に限界を感じている工藤は、役所で出会う。祥子は婚姻届を取りに、工藤は離婚届を取りに。
双方ともに、こんな紙切れ一枚で人間関係や人生が変わってしまうことに虚しさのようなものを感じてる。
祥子は友人とレストランに入る。そこのシェフが工藤だった。その時は二人とも気づかないような顔をしてやりすごした。でもその深夜、祥子はそのレストランをもう一度訪れる。お互いを覚えていたことを確認する。結婚前の不安を打ち明ける祥子に、「大丈夫、幸せになれますよ」と言う工藤。「どうして判るの」「そう言ってほしいように見えたから」祥子は工藤にいきなり抱きつきキスをする。「何のつもりだ」「自分でも判らない。でも不安なの」

光をたくさん抱き込んだ、吸いつくような接写のカメラが、皮膚感覚というか、本当に二人の体温を感じてしまうかのような、温かみとスリリングを同時に感じさせて、本当に素晴らしいのね。
それ以外でも、工藤の友人の吉田が回想する、彼のかつての恋人、恵子と工藤との不貞行為が、壊れた8ミリフィルムを映写しているかのように、不安定に、どこか非現実的な白昼の光に満ちていたりと、キャメラの肌合いが、それ自体が人恋しいような肌のぬくもりを求めている。

吉田を演じるのは、監督作が見たいけど、やっぱり素晴らしい役者である佐野和宏。冒頭は彼が吸うでもないタバコを口の端にぶら下げて、飲んだくれた夜から目覚めた、といった風情で始まる。彼は恵子を工藤にとられ、その後結婚したらしいんだけど離婚し、彼曰く、「天涯孤独の身」で、すっかり諦めきった自堕落な生活を送っている。そしてある日倒れ、病院に担ぎ込まれる。憎むべき相手だけれど、彼しか頼る人がいなくて工藤を呼ぶ。胃がんを患っていることを医者から知らされる工藤。今でも恵子を思っているらしい吉田に会ってやれ、と工藤は妻である恵子に言う。初めて本気になった女を奪って、でもその妻を本当に愛せずに、週末婚状態の工藤。

工藤こそが、本当に女を愛することを、知らなかったのかもしれない。吉田がそれを知ったことを、嫉妬したのかもしれない。だから恵子を奪ったのかもしれない。
吉田は工藤のことを恨んでるけど、でも親友なのは変わりない。このあたりは、やはり男の友情のうらやましさを感じる。でもだからこそ、工藤は何かいたたまれないような気持ちでいるんじゃないかと思うんだ。
自分はまだ本当の愛を得ていないと。
あの時区役所でもらった離婚届を、妻もまた持っていた。二人の子供のうち上の息子が、吉田の子だと恵子が彼に告げた時、彼女はそれを工藤にも突きつける。工藤が手にした離婚届は、決して本気じゃなかった。ただこの結婚生活に実感が持てなかったから、吉田に対する意地もあったから、だから……でも恵子の出した離婚届は、もう彼女の分の記述も終えていて、本気だった。
なんか……負けるんだよね、男はいつだって、女に。
男が逃げで考える時、女はいつだって本気で突きつけるから。
もし、なんて考えずに、もうこれしかない、と突きつけるから。

ひと時の気の迷いのはずだった祥子が、それ以来毎晩のようにレストランを訪れ、しまいには婚約者に浮気がバレ、結婚を取りやめてしまう。その前兆を工藤は感じてて、「一人で突っ走るなよ」と彼女にクギをさしていた。
でも、浮気がバレた祥子、もうその時点で、結婚は出来ないと、相手に言い渡してしまうのね。そう、ここでも、女はいつだって自分の直感を信じてて、本気。逃げ腰の男を土俵際までがぶりよる。このシーン、かなりの長回しで撮ってて、そのフィックスの画面の左右両端に据えられて動きを封じられた役者二人が、その位置で凄まじい感情のぶつけあいをする、もの凄い緊張に満ちたシーンで震えがくる。本当に演技がハイレベルなんだよなあ……。
3年も付き合った相手、年齢的なこともあって、このまま結婚するのが幸せなんだと彼女が思ったっていうの、判る。実に平均的なスタンスだもの。この年で、こうきたら、もう他にどういう選択肢があるのか、って、でもそういうことを思わなくちゃいけないのって、やっぱり女だけだって気がするし、……不公平、だよね。

でもでも……確かに工藤の言うとおり、彼女は一人で突っ走ってしまっただけなのかもしれない。平均的な道を選んで、結婚していれば、平均的な幸せが得られたのかもしれない。
「工藤さんの言ったこと、本当だった。寝たら情が移るって……」そして彼の背中にとん、と額を落として後ろから抱きつき「……移っちゃったよ」とつぶやいた彼女の声の不安と愛しさに満ちた声が、忘れられない。
でも、工藤は突き放してしまうのね。彼の元に帰れって。

それでも、彼女は戻らない。
結婚を解消したことで、色々辛い目に遭った。式場のキャンセル料なんてのはヤボなもんだけど、母親には泣かれるし、相手の親には怒鳴られるし、散々だった。
工藤はだからこそ、バカなことは考えないで、素直に彼の元に戻れって言ったんだけど……でもそんなことで本当の幸せを逃がさずに済むなら、安いことだ。
でも、でも……本当の幸せってなんだろう。
マリッジ・ブルーというのが、本当の幸せがなんなのかを考えるチャンスなのだとしたら……。

工藤は、俺と一緒にいても幸せにはなれないよ、と祥子に言った。そりゃそうだろう。彼は今の時点で結婚しているし、祥子とはこのレストランでセックスするだけの間柄といってしまえばそれまでなんだもの。たとえ週末だけでも、彼は家族との時間を持っている。祥子はベッドもないこのレストランで、厨房の作業台に押し倒されてセックスするだけなんだもの。
確かに、祥子と工藤の関係には未来とか、家族とかいう感覚はない。
でも、平日の5日間をお互いを狂おしく求め合うのと、週末だけ、機械的に家族を演じるのとどっちが愛なんだろう。
ああ、でも、きっと工藤と恵子だって、そんな時間があったに違いないんだ。それが工藤の吉田に対する嫉妬心だったとしたって。
「俺と一緒にいたって幸せになれないよ」そう言われながらも、彼のモノをしゃぶり、「よけいなこと言うと、噛み切るわよ」と何か、必死に、“彼”を愛する彼女のその背をさすり、髪の毛をなで、その背中を狂おしく抱きしめる彼は、本当に、本当に、彼女を慈しんでいる、まるで娘のように、世界でたった二人のように。

夫からうながされたとはいえ、吉田の看病をする恵子は楽しそうである。あの洗濯のシーンは、「洗濯物とかあったら遠慮なく出してよ」と言っていたし、おそらく吉田のものだろうと思われるんだけど……それがやけに幸せそうなのだ。
一方、工藤はどう決着をつけたのか……。次のシーンで祥子が道の向こうから歩いてくる。それまでの彼女とは印象の違う、胸が寄せられた真っ赤なトップスに細身のジーパンの、カジュアルながらセクシーないでたちである。人気のない往来、こちら側から歩いてきた工藤と行き会う。祥子は静かに彼に、いつものように、ぴったりと頬まで密着させて抱きつく。「一緒に行こう」「どこへ?」
二人、これ以上密着することはないってぐらいに抱きあって、まるで溶け合いたいぐらいに抱きあって、工藤は祥子の肩を抱き、歩いてゆく。
ああ、こんな風に抱き合いたい。抱きしめあいたい。セックスもキスもなくてもいいから。この世にたった二人だけみたいに、抱きしめあえたら、どんなに幸せだろう。

本当に、どこに行くんだろう。含みが、あるの。まず、恵子の乗った列車。吉田の子供である上の子を、余命いくばくもない彼に会わせるために。「稔に会いたいって人がいるのよ」「誰?お父さん?」「……そうね」
その列車ではなかっただろうか、踏み切りの鐘が鳴ってる。列車がせわしなげに行き過ぎる……その迫り来るショットでキャストクレジットにカットアウトする。あれは、まさか、工藤と祥子が、「一緒に行こう」と行った先なの?

祥子役の向夏は可愛いけど結構普通だしおっぱいも小さめだし、工藤役の石川KINは決してイイ男とはいえない、くたびれてちょっとミョーな顔した(ごめん!!)おっちゃんなわけでさ、でも、それが何でこんなに胸がしめつけられるんだろ……本当にね、キャメラが二人の体温を、そしてもやもやした説明のつかないはやる気持ちを、焦燥感を、そのまま飲み込んでいる感じなのよ。二人そのものになってて……キャメラが。こんなにキャメラ自体に接触感というか、もぐりこむ感じ、が染みこんでいるのを感じるのは初めて。

マリッジ・ブルーも、結婚生活の倦怠期も、一時的にあるんだとは、思ってた。でも、それは人間の本能的な直感で、本当に求めるものが他にあるんじゃないかって、思ったら、何だか怖くなった。自分に正直な、本当の幸せをつかむには、とてつもない代償を払わなければいけないんじゃないかって。でもその代償の末に得た幸せは、……ひょっとしたら死の先にあるものかもしれないの?でもそれが最上の幸せかもしれないと思うなんて、何だか宗教の域にまで達してしまう、んだろうか。でも、少しだけ、少しだけうらやましい。★★★★★


ヒナゴン
2004年 121分 日本 カラー
監督:渡邊孝好 脚本:山田耕大
撮影:安田圭 音楽:岩代太郎
出演:伊原剛志 井川遥 上島竜兵 嶋田久作 鶴見辰吾 松岡俊介 柳家花緑 馬渕晴子 佐藤允

2005/8/21/日 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
劇中カラオケで歌われ、ラストクレジットでノスタルジックなセピア色の、古きよき田舎の風景にのせて流れる「すばらしい日々」にホント、まさしくそうだよなーと思いながら感慨にふけってしまう。
全然違う映画だけど、こないだ観た「妖怪大戦争」でもね、やっぱり同じようなことを思った。現代の、特に都会では秘密がなさすぎる。闇がなさすぎる。だから妖怪やら怪獣やらを信じられないし、彼らは出てきてもくれないんだ。
で、この比奈町でヒナゴンが出現するのは、ここが健全な秘密や闇を持っているからなんだろうなあと思う。
住宅地の外には田んぼがあって、そのまた外には森があり、山がある。うん、これぞ健全なる日本の集落の姿だよね。
どこまで行っても街並みばかりで、照らし渡らされまくっている都会の姿は、やはり健全とはいえない。集落を抜けたところにはうっそうとしげっている緑があって、その中には町の中にはない秘密がいつだって隠されていて、子供たちはワクワクするし、大人たちは畏怖を抱き、それが自然信仰になるんだもんね。

30年前の、実際にあったヒバゴン騒動をベースに書かれたこの物語は、そもそもヒロインの井川遥の映画作品を作るため、彼女に当て書きされたんだという。妖艶な美女である彼女にこういうチャキチャキ女性を当て書きするなんて意外だけど、彼女は実際すごくイイ女優さん、映画女優だと思ってるし、その生命力がこのヒロイン、信子にイキイキと投影されているのを見ると、それが証明された気がして嬉しくなっちゃう。
彼女たち30前後の年齢と、それよっか5、6才年上と思われる登場人物でメインが構成されているんだけど、この誰もがすっごくイイんだよね。キャラがきっちりと立っていて、それぞれに物語があり。
ヒナゴン、なんていうひょっとするとマユツバものの話が白々しくならないのは、ヒナゴンそのものにスポットが当てられているんじゃなくって、ヒナゴンによってあぶりだされる彼らの物語だから、なのよね。

30年前に相次いで目撃情報が寄せられ、謎の怪物ヒナゴンでにわかに盛り上がった比奈町。毛むくじゃらの、ゴリラのような風体のヒナゴンは、結局週刊誌にウソツキよばわりされて、盛り上がった比奈町は一転、大恥をかくことになってしまった。でもその当時子供だった町長のイッちゃんをはじめ、最初にヒナゴンを目撃した、ホラ健の孫娘の信子、いつだって未知なるものを子供の時の純粋さを失わずに信じている小学校教師の順平など、ヒナゴンの存在はウソじゃない!と思っている大人たちがこの町にはまだ住んでいる。

いや、正確に言うと、信子に関しては東京から比奈町に戻ってきたんである。呼び戻されたと彼女は言うけれど、東京での生活になにがしかの違和感がなければ簡単には帰ってきまい。他にも東京からの出戻り組には、早稲田を出たものの比奈町の役場に就職した西野君もいる。
若くして町長に就任した、小学校の頃のあだ名はイナゴのイッちゃん、高校時代は暴走族の頭、だった五十嵐一郎が、意気揚揚として“復活”させた「類人猿課」から物語はスタートする。いわずもがな、類人猿とはヒナゴンのこと。でこの課の唯一の専門職員に信子が入るわけね。

それにしても、このイッちゃんを演じる伊原剛志ときたらかなりサイコーである。私、彼は最近ホントイイと思うんだなあ。……以前は割と平凡な印象だった気がするんだけど、「半落ち」での彼から見る目が変わった。なんていうのかな、役に気合いが入っている。特にこの熱血町長さん、こともあろうに永ちゃん命で、ことあるごとに彼の著書から言葉を持ち出し(もったいぶって言った後、何ページ、とおもむろにつけくわえるのが可笑しくてたまんない)、白のスーツをビシッと着ちゃったりして、いちいちアクションが永ちゃんで、もおー、すんごく可笑しいのだ。
トップのイッちゃんがこうだから、彼の周囲のキャストもつられる形で勢いが良くなり、ぽんぽんとシーンがはずんで進んでゆくのが気持ちいい。彼の下で補佐する形の、小学校時代はハブにされていたドベを演じる上島竜兵なんて、これが意外にイイのよ、竜ちゃん。彼のキャラクターがまず前提として確立されていることもあるけど、案外演技が達者なのでビックリしてしまう。始終お腹ゴロゴロさせていたり、必死に走っても信じられないほど遅かったりするあたりが竜ちゃんって感じなんだけどさ(笑)。

イッちゃんは確かに若くて情熱あふれる町長さんなんだけど、なんつったってヒナゴン再発見にだけ燃えているようなところがあってね。実際、今比奈町で問題になっているのはそんなことじゃないんだよね……この小さな町は財政難にあえいでいて、備北市に吸収合併される話が着々と進んでいる。でもイッちゃんはこの比奈町を愛しているから!とばかりに長いものに巻かれるのを断固拒否、今比奈町に必要なのはヒナゴンだ、ヒナゴンこそ町の宝だと叫ぶんだけど、無論問題はそんなに簡単ではない。
全編、ヒナゴンの存在はいかに、てことで押し進めながらも、最終的には町の存続を議論するクライマックスが待っており、これがかなり見せる&泣かせるんだけど、まあそれはここではおいといて。

当然のことながら、現代の子供たちはあの頃のイッちゃんのようにヒナゴンを簡単には信じない。ていうよりどーでもいいって雰囲気である。類人猿課の外部スタッフに起用されている小学校教師の順平は子供たちにヒナゴンの絵を描かせようとするんだけど、下書きを禁じる彼に不公平だと大攻撃、しかも描かれたヒナゴンの絵はどれもこれも似たようなものばかり。
まあ、確かに仕方ないといっちゃ仕方ない。この時点ではヒナゴンに関する情報が出揃っているわけだし、それをもとに考えて描いたらある程度似たようなものが揃いぶみするであろうとは思うんだけど。
でも真摯な先生、順平は落胆するのだ。同級生である信子にグチる。「自由に想像するってそんなに難しいことか?何かを覚えることよりも?」少し考えて信子は答える。「……時々は」「考えろって言ってるんじゃないんだ、想像しろっていってるんだ」信子返して「子供にとっては同じことだよ」順平、黙ってしまう。

なんかでも……順平の言うこと、判るな。子供の素晴らしさはやはり想像力の豊かさにあると思うもの。子供の自由な発想っていうのは、人生の経験値がないから、つまらない常識に縛られることがないから、出てくるものだと思うんだけど、今は子供の頃から擬似経験値とでもいった情報が氾濫しているもんだから……しかもその情報は有益なものばかりとは限らなくて。
こんな田舎では子供の教育に良くない、とニュータウンが建設される備北市に移住する親たちが増え、この小学校の生徒数もどんどん減っている。この町でさえ子供はこんな具合なのに、これ以上都会に行って、どこが教育上いいというんだろうかという思いがする。どんどん秘密が減るばかりじゃないの。
そういえば、ヒナゴン目撃情報をやたらと寄せてくるおじいちゃん、ま、つまりはウソツキおじいちゃんなんだけど、その荒川さんっていうおじいちゃんがね、なんでそんなウソをつくのかっていったら、彼の息子が奥さんに逃げられちゃって……というのも、やはり子供の教育を考えてってことだろうが、おじいちゃんはかわいい孫に去られて、話し相手もいなくて、寂しくて寂しくて、ことあるごとに信子達を呼びつけてありもしない目撃情報を話していたっていうんだよね……。

ちょっと話が脱線してしまった。んで、順平のクラスにいる平野さんという冷めた女の子が物語にからんでくるんである。彼女はそんなヒナゴンの基本情報があってさえ、ヒナゴンを想像して描くことが出来なかった。苦しまぎれに透明人間だといって白紙で提出した。それが掲示された役場のスペースに彼女のお母さんが見に来ていて涙を流している。「あの子、何も頭に思い浮かばなかったんだと思うんです」
お母さんがそのことを判ってて、しかも涙を流している、んなら、この親子にはまだまだ救いがあるのだ。
いや、実際、ありきたりのヒナゴンを描くことが出来なかった平野さんは、現代風にクールな女の子に見えて、実はとても素直な心根の持ち主なんだと思うのね。
彼女は山での写生会で、ヒナゴンを見た!と言う。その時の彼女の興奮の仕方は、私はね、本当だったと思うんだ。後に彼女は自らそれを否定し、ウソをついてごめんなさいと言うんだけど、でも本当だったと思うんだよね……。
あっと、それも後ほどの話だ。ここではおいといて。

ドベとともにうんこ兄弟と言われたナバスケ、演じる嶋田久作もなんとも良かったんだなあ!彼は離婚してこの町に帰ってくる。健康器具だか健康薬品だか、そんな商品の販売会社を設立したという。ラテンパワーなんていういかにも怪しげな栄養ドリンクをイッちゃんに飲ませて、こっそり彼を広告塔にし、しかもその後で薬事法違反の疑いで捕まっちゃって、ただでさえ類人猿課を非難されていたイッちゃんを窮地に追い込んでしまうのね。
彼がなんたってケッサクなのは、自分が窮地に追い込んでしまったイッちゃんを救おうと思ったのか、ヒナゴンの着ぐるみを着てウロウロし(スタスタ歩きすぎ(笑)。)、しかし捕まっちゃってますますイッちゃんの立場を悪くするところなんである。
……こーいう、何やっても裏目に出るヤツっているんだよな……でもこれが不思議と憎めない。
着ぐるみ脱いでアセびっしょりの下着姿で(そりゃ、暑かろう……)取り調べを受けているナバスケ、窓からあのウソツキおじいちゃん荒川さんがのぞいていて、窓辺に置かれていた着ぐるみの頭の部分を持っていってしまう。かぶって逃げていく荒川さんを警官が慌てて追いかける。「待ちなさい、荒川さん!」顔が見えないのに荒川さんだって判るところが(笑)。

彼らは皆、小学校時代同じ先生に習ってて、特にイッちゃんは、ヒナゴン目撃をただ一人信じてくれたのがこの宮本先生だったこともあってすんごく思い入れがあるのね。でイッちゃんの幼なじみで、政治上は反対派なんだけど暴走気味のイッちゃんのことをいつも心配しているカツ(鶴見辰吾。彼もまたイイんだなー)が先生の行方を突き止めて皆で会いに行く……んだけど、先生、すっかりボケてしまっていて、皆のこと、必死に話しかけるイッちゃんのことも、全然、判らないのだ。それどころか必死に先生に語りかけるイッちゃんをじっと見つめたと思いきや、「コワイ!」と逃げ出してしまう……。
先生に信じてもらったことを糧にして頑張ってきたイッちゃんは涙を抑えられない。ナバスケは先生に話しかけることも出来ずに号泣である。
歳月は人間をこんな風に、様々に変えてゆく。彼らも基本はあの頃の仲間って部分は変わらないけど、ナバスケみたいにやたらメーワクかけてみたり、政治的に対立してしまったり。でも、やっぱり基本は変わらない。先生はボケちゃったけど、この先生に信じることの大切さを教えられたのは変わらない。
ってことを、この時にはただ黙り込んで帰ってゆくしかなかった彼らもきっと判っていたんだろうと思う。
それにしても、30年前の姿も馬淵晴子にやらせんでも……黒髪のヅラがキビしすぎるよ……。

クライマックスは、リコールされてしまったイッちゃんと、立候補した西野君が一騎打ちになる町長選である。西野君みたいにおとなしげな人がなぜ立候補なんてしたのかっていうのは、合併が進んでいる備北市の市長と西野君はつながりがあり、西野君は財政難の比奈町を救うためには合併しかないと思っているから、そっちと手を結んで立候補することになるのね。
でも、イッちゃんは、西野君が結果的に備北市のスパイみたいになっちゃったことに気づいて、お膳立てに乗る前に、と辞職してしまう。そして備北市の片山市長とサシで話をつけるんである。永田町帰りのいかにもエリート然とした彼と暴走族上がりのイッちゃんとが話し合いがつくはずもないと思いきや……この片山市長、確かに「政治はこういうものだ」とコネやら根回しやらといったイッちゃんから見れば胸糞悪い手を使う人ではあるんだけど、ふるさとを思う気持ちは同じだってことを、イッちゃんは知るのだ。
そう納得するのがイッちゃんの偉いところでもあるんだけどさ。

東京でエリートコースを進んでいたのになぜ帰ってきたんだ、とイッちゃんは問う。片山は「ふるさとだから」と応える。永田町にいると、地方がいかに国に食い物にされているかが判る、地方は戦わなけりゃいけないんだ、このままでは比奈はつぶれてしまう。合併しかないんだ、と。
男気あふれるイッちゃんはこの言葉で完全に彼に降伏してしまうのね。
イッちゃんは片山に、「成人式はここで出たのか」と聞くのね。すると片山は、「いや、東京で出た」と。イッちゃんは一度もこの土地から出ていない。でも皆東京やら大阪やらに出て行って、地元での成人式はいわば負け組ばかり。そこで「未来へ羽ばたいてください」なんて言われてもな、とイッちゃんは言う。
でも、だからこそ、ここでずっとふんばってきたイッちゃんにはこの町を愛しているという誇りがあり、その町を守るために納得できるならば、と合併を決意する。
ただ、イッちゃんの立場ではそのまま町長ではいられない……。

彼は立候補は取り下げないんだけど、ひたすらヤル気ナシなんである。引き下がれない、とこちらも立候補したままの西野君はいかにも気弱げで、街宣活動なんか全然上手くいかない。業を煮やした信子が、「どうするんですか!二人ともすごく不人気なんですよ!」と怒る。
なあんて、さ。信子、一度はこんな田舎、もうウンザリ!とか言って出て行きかけたんだけどね……この時田舎のうっとうしさをブチまける信子に、「田舎の悪口を言うヤツこそが、イナカモンなんだ!」と怒鳴り返すドベが良かったなあ……。
ま、信子はなんて言いながらも帰ってきたのだ。それはヒナゴン捕獲の知らせを受けたからなんだけど、それはナバスケだったわけでね。
おっと、話が脱線しちゃった。だから、クライマックスは、この頼りない西野君がいかにして町長になるかっていう話で……ここに至るまで、イッちゃんの本心が今ひとつ判らなかったのだ。どうするつもりなのかなって。イッちゃんは比奈を愛している気持ちは負けないけど、でも自分には今の比奈は救えないって、断じたんだろうね。だからいわば一芝居打ったわけ。今のままの西野君じゃ、いくら政策がきちんとしてても頼りなさすぎる。町民を説き伏せる力をつけさせるために、討論会にワザと遅刻してヤジを飛ばす町民にまず主張させる……実はこの時点で大丈夫なのかなと思ったんだけど。

西野君を演じる柳家花禄がまたイイんだよー。この場面では泣かせるの。比奈の財政難を涙ながらに訴える彼がね、泣かせるの。どんなに赤字でも、たった一軒のために橋を渡さなきゃいけないし、たった一人のお年よりのために2時間かけて福祉士を回らせなきゃいけない。弱いものは切り捨てられない。そのためには、悔しいけど、悔しいけど、合併しかないんだ、って……最初壮絶なヤジをとばしていた聴衆はシンとなってしまって……。
そこに、イッちゃんがやってくる。嬉しそうに、「西野も男になったな」なんつって、「じゃ、仕上げといくか」と永ちゃんタオルのかかったスタンドマイクに向かい、「だけど、ヒナゴンは町の宝じゃ!」と挑発、西野君、「いや、町の宝は町民です!」これで決まったね、決まっちゃったんだね。

その頃、あの女の子、平野さんが順平と、そして週刊誌の女記者と一緒に山に入っている。ヒナゴンを見つけるためだ。この週刊誌は、かつて比奈町をウソツキ呼ばわりしたところで、取材の申し込みを、だから信子は言下に拒否していた。この女記者、作りこんでいるのはわかるんだけど、おもっきし腹が立つカルさでさあ。平野さんが、「ごめんなさい。ヒナゴンを見たなんてウソなんです」と言うと、「えー?やっぱりそうなのー?」って判った風に大げさに言うのがもー、ちょームカつくッ!
でも、だから、ね。先述したように、絶対、平野さん、そんなウソじゃなかったと思うんだ。ヒナゴンが見つからないから、何か悪いと思って言っちゃったと思うんだ。あるいは、自分が見たヒナゴンのこと、自信がなくなっちゃったのかもしれない……そんな時!懐中電灯の電池が切れて、うっかり足を踏み外して崖を転がり落ちてしまった平野さんを受け止めたのは!

ヒナゴンー!!

順平も、そしてあの腹立つ女記者も、バッチリ、見た!しかもそれだけじゃなくて、偶然シャッターが押されたカメラもその姿をとらえていた!かくして、西野君が町長になって類人猿課はなくなったけれど、ネットで世界中をかけめぐっているこのヒナゴンの写真のおかげで、比奈町役場は以前よりずっと忙しくなったのだ。

もう、町長ではなくなったイッちゃんが、祭りの日、浴衣姿で信子の前に現われる。
粋なその姿は、信子の憧れていたおじいちゃん、ホラ健をほうふつとさせる。
もうすっかり肩の力が抜けたイッちゃん、よっこらせとばかりに川岸に座って、流し灯籠をながめている。すると、その隣に座った毛むくじゃらは……。

このラストのファンタジックさで思ったんだけど、ヒナゴンは出現してくれたけれど、結局のところは本当にいるかどうかって、それほど重要じゃないのかもしれないな、やっぱり。
信じることが大切だって結びなんだよね。
信じていること、信じているものがあることこそが、幸せなんだもの。イッちゃんの言葉の、もっと深い意味が判る。ヒナゴンは町の宝。確かにそうだったんだ。信じる気持ちが持ってくる豊かな心の幸福は、確かに人間の宝だから。★★★☆☆
『ヒナゴン応援サイト』


火火
2004年 114分 日本 カラー
監督:高橋伴明 脚本:高橋伴明
撮影:栢野直樹 音楽:梅林茂
出演:田中裕子 窪塚俊介 黒沢あすか 池脇千鶴 遠山景織子 岸部一徳 石田えり

2005/2/14/月 劇場(シネスイッチ銀座)
先日、骨髄バンクのドナー登録をした。実家のお父ちゃんはそれを聞いて渋い顔をしたみたいだけど、ゴメンね。でも、前からそういうことは結構考えていて、登録にあたっても一週間くらいはいろいろ勉強して考えたんだよ……まあ、結局きっかけになったのが映画によってというのは単純だったのかもしれないけど、でも、最近特に考えるのだ。死んでしまうということを。未婚で子供を産まないことによって危険性が大きくなる婦人病系の癌とか、すっごい怖いし、それにそんな風に家族をなさずに生きていって、命を与える子供という存在がいないことは、自分の存在がそこで途切れてしまうんじゃないかとか。でもだからといって、そういう理由で子供を産みましょうというわけにもいかない。子供を産み育てている人は本当に凄いと思う。だから自分の両親を始めとした世の親御さんたちは、本当に尊敬している。それが出来ない私ということを、最近よく考えるのだ。……で、その考えの延長線上に、骨髄ドナーのことがあった。骨髄が一致したら、自分の子供なら、きっと躊躇なく与えるだろう、骨髄といわず、何でも持っていってくれ、と思うだろう。私にはそういう存在はいない。ならば、誰かに与えることが出来たら、そう思った。

その考えがキチンと頭の中で形になったのは、この映画の存在があったから。観ながら、この男の子かわいそうねとか号泣しといて、映画館出たら、あー感動してスッキリ、なんて、そんなこと、出来なかった。
でも今までは白血病の映画観ても、それこそセカチューでも「半落ち」でもそんなこと、思わなかったのに。
多分それは、白血病の患者が主人公なんじゃなくて、そのお母さんが主人公であり、しかもそのお母さんが息子の病気のために奔走するだけの話ではなく、もっともっと人間とか人生とか、いやもっと大きな信念とか世界とか、そういうものに貫かれている人だからなんだろうと思う。ああ、なんか、全然上手い言葉が出ない。なんでこんな、アホみたいに単純な、幼稚な言葉しか出てこないんだろう。歯がゆい。

田中裕子ミーツ神山清子。最高である。神山清子という陶芸家は無知な私、知らなかった。知らなかったけど、田中裕子のこのもの凄さ。肝っ玉母さんなんてもんじゃない。肝っ玉陶芸家。いや肝っ玉人間。
彼女は信楽焼きの新時代を切り開いた人。その女一代、陶芸家としての道のりと、彼女の息子、賢一の発病から骨髄バンク成立への奔走、この二本立てを同時に見せる。なんという、いわば、ムチャな。それぞれ一本だけだって、一つの映画にするのに相当大変に違いないのに。同時に見せて、しかもどちらの要素も圧倒的な力で拮抗しまくっている。
そして、この神山清子という人の中で、それが対立していないのだ。同時に成立しているのが、彼女そのものなのだ。そう、それはオープニングシーンからつながるラストシーンに象徴的に現われる。息子の賢一が死んでしまい、白装束の喪服で彼女は息子のなきがらと共に家に帰る。その時、穴窯の火加減が弱くなる。泣き顔が一転、引き締まり、「賢一、ちょっと待っとってな」そう彼女は言って、着物の裾をガバッと開けるぐらい足を踏ん張って、そいや、そいや!とばかりに窯に薪を次々と放り込む。息子のことを忘れているわけじゃない。どちらかがより大事だとかそんなんじゃない。彼女の中にはどちらもきちんとある。息子の闘病中も、陶芸の手を休めたりしない。そういう人。
だから、逆に、どちらか一方だけで描こうとしたら、神山清子そのものを描くことは出来なかったんだろうと思う。それぐらい、凄い人なんだろうと思う。そしてそんな凄い人をカラリと、そしてドッシリと、演じてしまう田中裕子。この人って、かわいらしい女優さんで、もともと好きだったけど、こんな凄い人だったの。いや、凄い人だってことぐらいは判ってた。判ってたつもり。でも、こんなに凄いなんて。

このオカアチャンの強さに、最初のうち子供たちはホンロウされる。いや、オカアチャンのことは大好き。父親が愛人を作って家を出ていった時も、生活が苦しくなることを承知で姉と弟はこの母親のもとに残った。でも、なんたってこんな母親だから、同属嫌悪か、姉はこの母と、そしてこの町を嫌って進学を理由に出て行ってしまった。

だってね、この清子さんてば、もう正直すぎるんだもの。お金がないから、進学なんておいそれと言えない、ってことは二人とも判ってる。だから賢一は試験場で陶芸の勉強をすることにするんだけど、姉の久美子はだからこそガマンならない。確かに親が子供のために最大限の努力でしてやるということは、親の義務ではあるんだろうけれど、でもそれを求めるのは子供の権利ではない。同じように見えて、それは違うんだということを、清子さんはハッキリと示す。それはただ彼女が正直なだけに見えて、実はそうではない。借金がようやくチャラになった、と喜んで踊りまくった矢先、久美子の短大合格を知らされて「……えぇ?」と困惑する清子さんにはあまりに正直すぎて爆笑モノなんだけど、進学のためにかかる費用にほとんど途方にくれる状態で頭を抱えながらも、そうなったらそうなったで、清子さんはその費用をなんとか捻出するんである。だから、久美子がその後結婚し、子供を産み、結婚祝いも出産祝いもよこさない、と文句を言ってきた時、彼女のために今まで使った費用を突き出して、これを返したら、いくらでもお祝いやったるわ!という言葉は説得力がある。それに対して娘が、賢一のドナー探しのためには大金を使ったくせに!と反論すると、お前は弟の命を金に換算するんか。じゃあ、そのあかんぼの命はいくらや!とどやしつけるのが、そりゃもう、ぐうの音が出ないとはこのこと。カネという、あまりにロコツなものに対して、あまりにロコツに正直な清子さんだから、久美子はこの台詞に何にも言えなくなっちゃうんだよね。

そう、賢一が突然倒れちゃって、親族の型も全部合わなくて、広くドナーを募るために結成された救う会が、後の骨髄バンク成立の大きな力になるんである。

賢一が突然倒れるまでは、この親子三人、こんな調子でユーモラスが多分に含まれた調子で進行してゆく。賢一は母親と同じ陶芸の道を選ぶんだけど、生半可な気持ちではないこの母親の陶芸への思いの前で、彼は自分の道を見いだせず青年らしく苦しみ、そして恋人が出来たりして、その彼女に強引にリードされて初体験を済ませたりと、かなりサワヤカに甘酸っぱい調子で話が進む。
信楽自然釉の再現。それが清子さんの使命。仕事だとか、生きがいだとか、もちろん趣味とか好きだからとかいうんでもなくて、使命だから、と彼女は言う。これが食い扶持だと思ってないから、ゴルフのキャディーのアルバイトで生活費を稼いだりなんてこともアッケラカンとする。仕事より生きがいより趣味より好きなことより、使命、という言葉は、神から与えられた、そんな絶対を感じさせる。
その実現まで、実に5年もの歳月がかかった。そしてようやく清子さんは認められた。女名義の窯なんてとオエラ方から言われようと、歯を食いしばって頑張って来たことがようやく報われた。その矢先だった。賢一が倒れたのは。
清子さんの才能を認めて、何かと気にしてくれる岸部一徳が泣かせるんだよなー。女のクセにという態度むき出しの組合のトップに向かって、「ケツの穴のちっちゃい奴らや」と決然と言ってのける。理解者、親友、そんな言葉では足りないぐらいの。こういう異性の結びつきって、本当に憧れる。でもそれは、清子さんみたいに才能がある女性だから可能なことなんだよなあ、うらやましい。

賢一の発病からは、基本カラーは深刻な色合いと変わるんだけれど、こんな風に清子さんのキャラが前半で確立されているから、一見アッケラカンと見えるそれが、何より彼女の強さなんだと判って、それが死にゆく運命を受け止めるしかない息子にも伝わって、ああ、こんな風に出来たらいいけど、出来るだろうか、って。
それは例えばこんな感じ。ドナーが見つからないまま、組織の資金も底をついて、ドナー探しが中断を余儀なくされてしまって、一か八かの完全ではない叔母の骨髄液移植も結果は再発に終わり、そう、それは死をただただ待つしかなくなってしまった、希望を口にすることさえ無意味になってしまった時間。訪れた賢一の誕生日、清子さんは「最後の誕生日やな」とサッパリと口にする。周囲が驚いてそれはキッツイわ、などと言うんだけど、言われた本人の賢一は「そんなにオレを死なせたいんか」と笑顔で。それは、こういう正直なオカアチャンだって判ってるから、告知も真っ先にしてくれた正直なオカアチャン、キッツイけど、それこそがこのオカアチャンの優しさだって判ってるから、だから……嬉しいんだよね。このお母さん、息子にウソは一切つかない。だから信頼できる。キツくても信頼できる。思う存分最後の時を燃やすことが出来る。
これって、本当に、本当に、難しいことだって、思う。

清子さんは、その裏では当然、泣いてる。彼女がウソをついているとすれば、その哀しんでいる姿を見せないことだけ。でもそれは、賢一には、当然、充分に、判っていたこと。
賢一の、最初で最後の恋人である、我が愛しの千鶴嬢演じるみどりは、賢一の発病で、清子さんに請われ、そして賢一からも「弟子解消やな」と言われて、去っていった。彼女はその時、「ケンちゃんは、私とお母さんはとても似てるって言っていたけど、全然違うわ」と泣き笑いして、去っていった。清子さんはその後ろ姿に、「堪忍してな」とつぶやいた。
清子さんは、彼女のこと、気に入っていたと思う。賢一が初めて連れてきた女の子、しけったおせんべいやカビの生えた最中を取り出し、「なんもないわ」とアタフタしていたのが可愛かった。賢一に弟子入りする、という形で工房に入った彼女を実質指導していたのは清子さんだったし、女々しく悩む賢一に張り手一発食らわす彼女を好ましく思っていたのは、賢一の方に出て行け、と言ったのでよく判る。
でも、その賢一が、病に倒れてしまった。こんな年頃の娘さんにとって、恋人とは結婚を意識する相手であり、その先には出産もあり、穏やかで幸せな家庭生活がある。
最初からその病気を知っていたなら違うけど、そうじゃない。恋人同士だということを隠していた彼女に「私だって女だから判る」と清子さんは言って、彼女に別れてくれるように頼むのだ。
彼女が清子さんと違ったのは、賢一の目の前で涙を見せてしまったこと。それだけだけど、それが、決定的なこと。
いさぎよく去っていったちーちゃんはとても素敵だった。賢一の最初で最後の恋人にふさわしいと思った。

賢一の発病後に、この工房に他の女性が弟子入りする。清子さんに手紙を出して、押しかけてきた状態の瑞香である。タイトスカートにハイヒールという、彼女にとっては勝負服であったであろういでたちで訪れながらも、清子さんの指示で、泥まみれで窯たきをして弟子入りを認められる場面がイイ。「陶芸はキレイな仕事だと思ってたやろ」と言われて黙り込んでしまう瑞香だけど、その後は作業着姿で陶芸に邁進し、賢一の闘病姿にショックを受け、自ら丸坊主になるような純粋さ。
彼女にとって、年下の賢一も清子さんと同じように先生であり、陶芸の同志である。だからこの場にいられる。哀しいけど、悔しいけど、こういう時、恋人という立場は、こんな風にもっとも弱いのだ。
友達なら、そばにいられるのに。賢一を何とか助けようと、ドナーを募る組織を作った同郷の友達たち。
恋人って、こんなに弱い立場なの。家族の一歩手前のはずなのに、こんなに弱いんだ。
そんなことが、やけに哀しく思える。

でもこの、黒沢あすか演じる瑞香は、凄く、良かった。「六月の蛇」の後の作品ではいまひとつあたらなかった彼女、美しくはないんだけど、まっすぐで、凄く、良かった。清子さんと陶芸作品の計測をしている場面、賢一の作品を誤まって取り落として割ってしまう場面があるんだけど、彼女、ケモノのような叫び声をあげて、おびえるようにうずくまって泣くのね。それだけでもかなりの衝撃だったんだけど……つまり、陶芸っていうのは、それだけの重みがあるもんなんだと。煩悩を一切消し去って形作る過程(みどりも、賢一も、そしてこの瑞香も、何度清子さんにカッコつけるなと粘土状態のものをつぶされたことか)、すざまじい高温で長時間にわたって焼きあげる過程。一見無難に焼きあがったものを、清子さんは惜しげもなく割ってしまったものだった。それは、彼女の目指す自然釉が出なかったから。それぐらい、厳しいこと。それは生きることに通じること。
そんな彼女に清子さんは静かに歩み寄って、モノはいつか壊れるもんなんや、と。でももう二度と、同じものは作れない。それはそう……賢一のことを、そのまんま言ってるんだよね。
陶芸とは、生きることそのもの。
だからなんだ。清子さんの中で、陶芸と、賢一の病気のことが矛盾なく両立しているのって。それぐらい、清子さんは激しく生きてきた人なんだ。

確かに人間はいつかは死んでしまうし、その長さは人によって違うけれど、でも確かに助かる方法があるのに、それがお金がどうしてもないことで叶わないなんて。本当に、なんて不条理なんだって、それが身内に起こったら、誰だってそう思うよね。でも、そう思った個人の思いから骨髄バンクの成立を成し遂げた、それは確かに感動的な話ではあるんだけど、国はそうした個人である国民で成り立っているのに、個人の提案が出るまでそれがなされなかったこと、いわばギセイによってなされたってことが、今までのあらゆること、そしてこれからのあらゆることもそうだろうと予測されて、少々絶望的な気分になってしまったりもする。
賢一を救う会、そして賢一自身の闘いは、本当に壮絶だった。テレビに出てくれないかと言う組織の仲間の提案に、さらしものになるのはイヤだと一度は断わる賢一。でも、「お前は死にたいんか。なら、死ね。そしたら皆楽になるわ」と言う清子さんの言葉に説得されて、やせこけた身をさらす賢一。この清子さんの言葉、強烈だけど、こんな真実の言葉って、ない。何より息子に生きてほしいから。そして皆頑張ってくれていることに最大限努力しなければいけないという、まさにこれこそが義侠心。ホンモノの義侠心。
お金がないという理由で助けてあげられない、こんなツライ現実ってない。自分たちがきっと助けるからと、そう信じて立ち上げた組織が、こんな世の不条理によって頓挫させられて、それを清子さんに言わなきゃいけなかった。こんな辛さって、ない。
骨髄バンクが生まれるだけの、悔しさや哀しさのパワーがあるってことを、思い知らされるんだよね。本当に。お涙頂戴の白血病物語では通じない、ホンモノのパワーが。

自分の命は間に合わないかもしれない。でも、今後、自分のような人に、生きるチャンスを与えてあげたい。そう言って病をおしてテレビや講演会などに参加する賢一。そして清子。完全に一致してはいないれど一縷の望みを託して、賢一に骨髄液を提供した叔母。演じる石田えりが、もう思いっきりポジティブで、私の骨髄液は働き者だから大丈夫!とはげましてたんだけど、でも結局賢一は再発して死んじゃって……ごめんね、ごめんね!と謝る彼女がたまらない。
自分の精子を残しておかないか、と言われたのも拒否して、もし生きていられたら、子持ちの女性と再婚するよ、なんて言っていた賢一。もうダメだと覚悟していたからこそ、精子を残さなかったんでしょ。自分が死んでしまった時の、その残された精子の空しさ、そして、死んだ後に万が一作られてしまうかもしれない子供が、生まれる前にもう父親が死んでしまっているという不条理の恐怖への回避。

若いほど病気は進行が早い。残せるものなんて、限られてる。若くして死んでしまったら、自分の存在なんて、どこに残るんだろう、自分が生きていたことを知っていてくれる人がいるんだろうかって、不安になる、きっと。陶芸家の道を志した賢一が、病をおして(清子さんも止めなかった)作品を一生懸命残した。それを知っていたから、瑞香もそれを誤まって壊してしまった時、あんな悲痛なケモノ声をあげたんだと思う。若い命を奪う病気なんて、なんであるんだろうと思う。
「神様はなんてことするんやろうな」ホントだよね。勝手だよ。神様!

看護師役でちょっとだけだけど出てた吉井怜嬢、彼女がこの作品に出るのは、本当に意味があるよなあ……。これがデビューの窪塚俊介のこの役にかける気迫が伝わって、あの凄い田中裕子に一歩も譲らぬ熱演が素晴らしかった。★★★★☆


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