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「は」


2004年鑑賞作品

バーバー吉野
2003年 96分 日本 カラー
監督:荻上直子 脚本:荻上直子
撮影:上野彰吾 音楽:(監修)井出博子
出演:もたいまさこ 米田良 大川翔太 村松諒 宮尾真之介 石田法嗣 岡本奈月 森下能幸 たくませいこ 三浦誠己 浅野和之 桜井センリ


2004/5/12/水 劇場(渋谷ユーロスペース)
ツッヤツヤのマッシュルームカットがズラリ、聖歌隊の格好をした男の子たちがなだらかな丘の上に立ってハレルヤを斉唱する。
オオッ!
なあんか、めちゃめちゃ心惹かれるオープニングなんだなあ!何で彼らが一様に同じ頭をしているのか判らないけど、その同じ頭がやたらカワイイッ!
“何で彼らが一様に同じ頭……”なのかっていうのは、劇中でその理由を聞いても、それで何でその頭だと天狗に襲われないの??って部分がやっぱりよく判らなかったんだけど、つまりはながーい伝統に基づいて、この町の小学生までの男の子たちだとひと目で判るように、吉野刈りと呼ばれるそのまんまるい頭にしなければならないんだという。
おしゃれざかりで女の子に興味が出てくる年頃の彼らがそれに反発するのは当然と思いきや、彼らは“そう決まっているんだから”とそんな様子もない。いやしかし!
運命の転校生、坂上君が、彼らの自由と権利を獲得するためやってきたのだ!

東京からの転校生、坂上君。やっぱりこういうキャラはお約束といえどドキドキするんである。彼は茶髪をさわやかになびかせる。
当然、女子からはモテモテ。だって女子はおんなじ、しかもダサい髪型の男子にウンザリだったんだから。
当然、男子たちは面白くないし、コイツもさっさと吉野刈りにしちゃえばいいのにと思ってる。
更に!尋常ならぬ情熱を持って彼を吉野刈りにせんとするのが吉野のおばちゃん。吉野刈りの伝統をずっとずっと昔から代々守ってきている由緒ある理容室なのだ。
あやうし、坂上君!

この転校生、坂上君がいつまでたっても坂上君で、仲間となって仲良くなってからも坂上君なのが、なあんとなく、判る気がするんだな。うーん、私も転校生だったからさ(こんなスマートな転校生じゃなくてクラかったけど)。
しかし面白いのは、彼らがこの坂上君を仲間に入れるきっかけである。彼が父親愛蔵の(でも現時点で彼に父親はいないみたいなんだけど……)珠玉のエロ本をたくさん持っていたからだっていうことなのだ。もうエロ本だけで崇め奉られちゃうのだ。この単純さが愛しい。
だって秘密基地に“坂上文庫”だなんてスペースまでもうけちゃうんだから(笑)。
坂上君も最初こそは、こんな町に長くいる気はない!なんて突っ張ってたんだけど、秘密基地を目にしたとたん目を輝かせる。東京風のスマートさを身につけていても、やっぱり男の子なんだよなあ。そりゃどんなに素晴らしいエロ本を持っていても(笑)家の中で閉じこもって見るより、秘密基地で友達とコッソリ見る方が100倍楽しいに違いない。
しかし、自らのアイデンティティを象徴するカッコいい髪形を守り抜きたいのはやはり変わらない。自由と独立の精神をかかげるこの坂上君に、少年たちもだんだん感化されてゆくのだ。

本当はね、これは大人のズルさなんだけど、彼らにいつまでも吉野刈りを守ってもらいたいなー、と思っていたのは事実なのだ。
だって、守るべき伝統があるっていうのは素晴らしいし、うらやましいし、何より……カワイイんだもん。
彼らが坂上君に啓発されて、こんな髪型イヤだッ!僕たちもカッコよくなりたい!ってバスに乗って隣町の都会に行くでしょ、そうするとまず女子学生に「あー、隣町の子だ、カワイイッ!」とさっそくめっけられるわけ。まあ、同じ小学生に「だっせえ!」とも言われるけどね……でもどっちにしても、隣町の子だってことが一発で判るっていうのが……彼らにとってはそれがさぞかしイヤなんだろうけど、あまりに日本全国横一列になりすぎた現代で、何だかステキと思っちゃうんだもん。
まあ、だからこそ、この隣町という規律によって彼らの個が束縛されているのはそうなんだけど……。

この吉野のおばちゃんが、もたいまさこ。「まっちなさーい!」とはさみをふりかざして追っかけてくるのが恐ろしくも似合いすぎる(笑)。
彼女はとにかく、この伝統を守ることに命をかけている。それは彼女だけの問題ではなく、何代も続いてきたバーバー吉野が果たした責任を、彼女の代で途切れさせるわけにはいかないという信念も手伝っているから。
まあ確かに……おばちゃんの立場や信念、判りすぎるくらいに判るんだよな。何たってもたいさんだからコミカルに描かれちゃってるけど、これは彼女だけの問題ではない。町の問題だし、祖先の問題だし、それは少年たちのオシャレの自覚なんかつぶしちゃっても当然と思うのも仕方ないくらい、重い問題なんだもの。

でも、時代は変わらざるをえない。
少年たちは、隣町での散髪が不発に終わり(バーバー吉野では子供料金700円なのに、3000円もかかるというのだから!)肩を落として帰ってくるのだけれど、それでもあきらめきれず、町の伝統行事の場に、パンクバンドもかくやと思われるようなカラフルな爆発頭に固めあげて颯爽と?現われるのだ!(その手があったか!)
吉野のおばちゃんの息子、ケイタは勇気を一生分ぐらい振り絞って(あの言い出すまでの葛藤の長さはそれぐらいを感じさせるよなー)叫ぶ。吉野刈りなんてもうイヤだ!と。
でも……お母さんがみんなに嫌われるのもイヤだと……。
か、か、カワイイィィ!!普段はお母さんにそっけなくしているようなケイタが、くしゃくしゃの顔をして言うこの台詞に、吉野のおばちゃんも何かもう……たまらない顔、するのよ。はああ、もたいさん、素晴らしいなあ。そして夜空にどどん、と花火が。

吉野のおばちゃんの手によって、このガビガビに固められたカラフル頭がバリカンで剃られる。……ということは、つまり、少年たちの革命は成功したのだ。
果たしてケイタの心配していたことはどうかというと……。
マッシュルームカットの時と同じように、バーバー吉野にいりびたる少年たち。髪はもう伸びかげんで、イイ感じにカッコよくなっている。その中には坂上君もいて、彼らと共に棚の漫画をむさぼり読み、おばちゃんにお菓子をねだる。そうすると吉野のおばちゃんはぶつぶつ言いながらも、ホレ、ホレ、と袋菓子をほおり投げてくれるのだ。
その光景は以前と変わらないだけに、変わってしまった少年たちの頭にほろ苦い切なさも残る。勝利の味はちょっとだけ……いろんな誰かにとってしょっぱいのだ。
でもちょっと意気消沈している吉野のおばちゃんに、常連のおじいちゃんが声をかけてくれる。「時代は変わらざるをえない。伝統は伝説になるんだ」とああ……いい言葉だなあ。そう消えるわけじゃない。伝統は、伝説として残っていくんだ。でもそこにはやはり……守りきれなかった切なさがあると思うのは、大人だから、かなあ。

あるいは、伝統がステキだというよりも、この穏やかでノンビリした町ですくすくと育つ環境がステキだということなのかもしれない。あの伝統はあくまでそれにスパイスを与えるためだけのもので。どこまでも緑の風景、その中をどこまでも続く小道、なだらかな山稜、ゆっくりと日が暮れていく中スピーカーで流れる吉野のおばちゃんの下校アナウンス(笑)。
子供たちが町の隅々まで知っていたり、ヘンなおじさんがいてもその存在を認めていたり、都会は隣町にあったり、カブトムシのとれる木があったり、理容室が町に一軒しかなかったり、……こういうの、こういうのやっぱり必要!って思っちゃう。もし、万が一子供を育てるなんてことになったら、やっぱり都会よりも、こういう場所で育てたい。一度は都会に出てもいいけどそれは大人になってからで充分というか、都会は……うん、大人のものだと思うんだな。

それにそんな田舎でも、子供たちはちゃんと大人の世界を垣間見て育っていくんだし……それはむしろ、都会にいるよりキチンと味わうことが出来るんじゃないかって思う。子供と大人の距離が近くて、しかし大人が厳然たる大人という存在であるから。あのヘンなおじさんも大人だから怖いんだし、ケイタが偶然見てしまう年の離れたお姉ちゃんの下着姿や、男に追いすがる女の姿というのは、まさに大人の世界、どこか畏怖を感じる大人の世界、なのだよね。
ケイタは同じマッシュルームカットのお父さん(笑)に、大人になるってどういうこと?と問い掛けてみる。只今リストラ真っ最中のお父さんは考え込む。ここで息子にちゃんとしたこと言っとかないと、ホントにカッコ悪いぞ、と。
出てきた台詞は、少々凡庸な、「優しい気持ちになれること」的なことで、まあつまりこの言葉が今のケイタにどれだけ判ったかは判らないけど、お母さんに対するあの泣きのひと言が、それだったのかも、しれないな。

あのヘンなおじさんっていうのは、実に重要。彼は確かにヘンなんだけど、なぜかしら……時々真理を語るのよ。町中の大人から冷たい目で見られる坂上君や、会社を辞めたことを家族に言えずにいるケイタのお父さんに、励ましの言葉を投げかける。その時だけ、彼は目も言い方もマトモになる。普通の人みたいに。でも普通の人がかけてあげられない時に、彼は声をかけてあげられる。……こういうあたり、ああ、どんな人間にもそれぞれ役割があるんだよね、なんて思っちゃう。

あの頃、頑張って自由を獲得した少年たちは、しかしどこか甘酸っぱさを持ってこの思い出を思い出すんだろうなあ……なるほどまさしく、「和製スタンド・バイ・ミー」なわけだ!★★★☆☆


ハウルの動く城
2004年 119分 日本 カラー
監督:宮崎駿 脚本:宮崎駿
デジタル撮影:籔田順二 高橋わたる 田村淳 音楽:久石譲
声の出演:倍賞千恵子 木村拓哉 美輪明宏 我修院達也 神木隆之介 伊崎充則 大泉洋 大塚明夫 原田大二郎 加藤治子 保村真 村治学 つかもと景子 香月弥生 佐々木誠二 高橋広司 八十川真由野 菅野莉央 高橋耕次郎 櫻井章喜 栗田桃子 目黒未奈 大原康裕 田中明生 山田里奈 半場友恵 鍛冶直人 関輝雄 片渕忍 乾政子 大林洋平 宮島岳史 水落幸子 小泉真希 西岡野人 明石鉄平 大西玲子 尾方祐三子 上川路啓志 清田智彦 金子加於理 中島愛子 桑原淳 小林優太 野村悠子 福士珠代 竹谷敦史 田中宏樹 藤崎あかね 松岡依都美 中川義文 佐藤重幸 音尾琢真

2004/12/14/火 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
あっ……こういう感じなんだ、と思ってしまった。こういう感じ、というのは、「もののけ姫」で感じたちょっとした違和感である。宮崎監督の正義はとてもよく判るんだけれど、それがエンタテインメントとして伝えるまでに消化し切れていないような、宮崎監督の思いの強さに戸惑うような、感覚。思えばナウシカの最初から、多かれ少なかれ宮崎作品にはそういう匂いというのはいつでもあったとは思うんだけど、それがちょっと異様なぐらいに強く出ていたのが「もののけ姫」で、拒絶反応を示す人とそうでない人がハッキリと分かれていた。でも、その後の「千と千尋の神隠し」にもそういう正義や常識を問うヒューマニズムはかなりの直球で描かれてはいるものの、それと同じぐらいのインパクトで祝祭的なエンタテインメントが実に魅力的に描かれていたから、それほど気にならず、というか、逆にすんなりと受け入れられた。つまりだから、「千と千尋……」は奇跡的に非常にバランスのとれた映画だったわけ。

だからつまり多分……(うーん、宮崎作品だと力作なのが判るだけに、ついつい言いよどんじゃう)この作品はバランスが悪い、んだと思う。アラも目立つ。バランスが悪いことが気になるからアラも気になるのか。予告編や露出の、パット見の印象は、「魔女の宅急便」だったのね。私はもーう「魔女……」がだっい好きで、だからかなり期待するところがあった。そう、私はエンタメに関しては単純なので、ああいう風にあっさり素直にきゅんとくるさわやかな物語が大好きなのよ。で、ヒロインが90歳のおばあちゃんだという点に関しては、作品ごとに主人公のキャラに関して挑戦を続けてきた宮崎監督らしい選択だな、って思ったのだ。豚や狸や可愛いわけではない普通の女の子や……みたいな(「もののけ姫」に関しては、ナウシカに通じるリスクのないヒロインだったけどね)。 90歳のおばあちゃんが若くてハンサムな魔法使いと恋に落ちる。これぞ究極の恋愛!みたいなね。まあそれにはカラクリがあって、中身は若い女の子、悪い魔法使いによって90歳のおばあちゃんの肉体に変えられてしまっただけで。いくらなんでもリアルに老女と美青年の恋を描くのはそりゃあキツいし、それはいいんだ。つまり恋愛、恋愛に限らず人の心、人間同士のふれあいは外見や年齢ではなく心が大事、それは宮崎監督が自作でずっとずっと言ってきたことだったんだもの。

でもね、このおばあちゃんにさせられたヒロイン、ソフィーは魔法が解けた、という場面はついに一回も来ないまま……まあ魔法は実際、解けなかったのかもしれない、髪が白いままだから……物語の波に応じて、容貌がじりじりと若くなって、髪以外はすっかり若い女の子に戻ったかと思いきや、ふとした台詞のきっかけで、また一気に老女の容貌に戻ったり、ということを繰り返すのだ。これってつまりは……彼女の心理的な状態がかなり影響しているような描写に思えるんだけど。つまり“ふとした台詞のきっかけ”っていうのは、その年齢のことだったり、年齢から関係する美醜のことだったりして、もともと自分の容貌に自信がないソフィーが(そりゃまあ、あんなハデな妹とお母さんだったらねえ……)、その問題にぶつかった時に、じりじりと若い容貌を取り戻していたのがまた急にしわしわのおばあちゃんに戻ってしまう、のね。まるでそれは、彼女が最初からこの魔法になんぞかかっていなかったんじゃないかと思えるような、あるいは、このおばあちゃんの姿に甘んじているのは彼女の心の問題で、それがハウルとの出会いと、張りのある生活によって少しずつ取り戻されるんだけど、でも彼女の心の根本にこの自己嫌悪みたいな部分がどうしてもあって、なかなか本来の自分を取り戻せない、みたいなさ。でも、そんな風に悩む彼女に対してハウルが、君はきれいだよ、と言ったのは、おばあちゃんの姿のままのソフィーになのか、はたまた戻った彼女にそう言ったのか、どちらかによって大分話は変わってくるんだけどなあ……。

そういう意味ではハウルとソフィーというのは両極の鏡のように、ある意味似た存在なのかもしれないとも思う。ハウルは自分の美しさにのみ依存している青年。ナルシストのように思えるけれど自分自身の全てが好きなのではなく、自分の美しさの部分にしか自信が持てない青年なのだ。ソフィーは逆で、自分の外見に自信が持てないから、他の部分には絶対の自信がある。いわば地道な生活力という部分。彼女自身はそのことに気付いていないようだけれど、自信のない部分があるからこそ、その他の部分を補おうと自然と努力しているのだ。ハウルはそういう意味では外見ばっかりのヘタレみたいにも思えるけれど、それを鎧にして自分の弱さを必死に見せまいとしている努力が、彼の強さなのだ。本当に、面白いぐらいに、鏡のように、対の両極の二人。ソフィーがバスルームを掃除したことで髪の色が変わってしまい、つまりは美しくなくなってしまったことで異常に落ち込むハウルにキレて、「私は美しかったことなんかない!」とソフィーが飛び出す場面は二人の象徴的かつ、その関係性に大きな転機が訪れるところ。バケツ並みの大量の涙を浮かべて泣くソフィーだけど(このあたりの描写はカワイイ)、立ち直るのも早くて、心配して迎えにきたハウルの弟子のマルクル(ちょーかわいい)に連れられて城に戻る。ヘタレ王子のハウルってば、落ち込みすぎてどろーっと緑色の液体出して溶けてんだもん。そんな彼を「絶望で死んだ人はいないわ」とたくましくズルズルとベッドルームに引きずっていくソフィー。いい場面である。

……などと小難しいことなどガタガタと考えずに、「魔女の宅急便」のようなさわやかな魔法物語として吸い込まれたいなと思っていたのだけれど……そんな小難しく考えてしまうのは、魔法使いの不思議世界と自分の中のものを補うように惹かれあう恋人同士の話、がそのサワヤカ部分にあたるとしたら、それとは異なるものとして、戦争と戦争の無意味なること、が壮麗に描かれるからなのだ。
そりゃ私だって戦争はキライだし、戦争を糾弾する映画には大賛成だけれど、ここでやるべきことだったのかなあ……などと思うのである。それこそ、それなら、「もののけ姫」なら確かに納得がいったのだ。ファンタジーとの融合がイメージに肩入れしすぎる違和感はあったけど……。

でも本作では、その一方のサワヤカ部分と融合しているとはどうも、思われない。乖離しているような気がしてならない。だから、バランスが悪いような気がする、のだ。
実際、この戦争の部分というのは原作にはないんだという。原作にはない部分、というのは継ぎ足し感なく描くのは難しい。ネット小説で話題になったという「猟奇的な彼女」も原作にはないハッピーエンドの部分だけ急に涙っぽいカラーになって戸惑ったものだった。
しかも本作の場合、その戦争を糾弾する部分にこそ宮崎監督の気合いが集中しているものだから、余計に客観と主観のバランスが崩れて、違和感を感じてしまう。
それに、この継ぎ足しの部分の描き込みに力が入ったせいなのか、なぜハウルが心を亡くしてしまったのかとか、カルシファーとの契約の顛末とか、荒れ地の魔女がなぜソフィーに魔法をかけたのかとか、そういう部分があいまいなまま投げ出されてしまっていて、何となく居心地が悪いのである。まあ、そんなことは瑣末なことなのかもしれないけれども、そういう骨組みの部分がスッキリとしないままだと、テーマや主張を受け入れるのにも、うつろな心のままになってしまう。

言ってしまえば……言い過ぎかもしれないけど……宮崎監督が自分の言いたいことを語る場として、この、当り障りのないアニメーションの、ビジュアルとして魅力的なアドベンチャーものを選んだような気にさえ、なってしまうのだ。
観客をひきつけるために、少女漫画的な金髪碧眼(髪の色はすぐ変わっちゃうけど……変わってからの方が、ダークにセクシーよね)な美青年であり、キムタクが声なんであり、みたいな。いや、彼の声はとっても素晴らしかったけどね。ヘンに欲張らずに、落ち着いて当てた声が色っぽくて、こんな声だったっけー?みたいな。時々この人ワザとらしくてヤだけど、声だけだと実にいい仕事。声だけの方がステキだわね?

ハウルが心を失うことが、その意味のない戦争に絡めて描かれる。つまりは、人間は心を失うと争いごとがおきる、という図式。
でもここにも少々の矛盾があって。ソフィーは「ハウルは心を失ってなんかいない」と言うのね。実際ハウルが失っているのは心臓であり、心ではないのかもしれない。心っていうのは身体全体に宿るものだものね。
でも(さらに“でも”だけど)キュートな火の化身、カルシファーがハウルの“心臓”を戻してやると、それまで軽々と身軽だったハウルが急に体が重たくなった、と言う。そう、それだけ心っていうのは重いものなんだよ、と。
微妙に、少しずつ、矛盾を感じるのは私だけなんだろうか……。

荒野の魔女にしても、女王サリマンに全てのパワーを抜き取られてすっかり恍惚の人になってしまい、ソフィーに引き取られるところなんか、完全に老人介護のテーマを入れてきてるよなー、なんて思う。いや別にいいんだけど……きっちり、少年マルクルにも彼女の世話を命じたりして、さ。それが自然になされたりして、さ。この荒れ地の魔女は、別に荒れ地の魔女のままで良かったんじゃないかと思うよー?つまりは彼女が、魔法によって本来の姿をいつわって生き長らえていることに対して、人間は自然のまま生きていくのがいい、てなことを多分言いたいんだろうなーと思い、そりゃもっともだよなー、とも思うけど……多分、盛り込みすぎ、と思ってるんだな、私。「学校」シリーズの山田洋次的、みたいな。それぞれの問題ってそれぞれにとても大きいし、二つ以上は多分、ムリなのよ、ムリが出てきちゃう。

ハウルはだんだんと強くなる。それは、「守る人が出来たから」。当然、ソフィーのことである。本当は全てが最初から決まっていた。偶然通りでソフィーと遭遇したように見えたハウルだけど、本当はずっとずっとソフィーのことを待っていた。ハウルが心を失いかけて窮地に立った時、ソフィーが飛び込んだのは過去の世界。子供の頃のハウルにソフィーは出会い、絶対に行くから、待っていて!と叫んで、時空の穴に落ち込み、現在の時間軸に戻ってしまう。そのソフィーをハウルはずっとずっと待っていたのだ。
魔法によってソフィーがおばあちゃんとなってしまっても、ハウルは意に介さなかったし、自身魔法使いの彼の目には、ソフィー自身が見えていたんだろう。
自分を守りに未来にやってきてくれたソフィーを、今度は自分が守る番、と思ったのかもしれない。
ハウルの台詞が一見、フェミニズムっぽく聞こえながら、女性が守られるばかりじゃなくて、最初に男性を守っているっていうのが、イイよね。

ハウルはその身を危険にさらし、怪鳥に身をやつしたような体はだんだんと元に戻ることが難しくなって、でもその満身創痍の体で無意味な争いごとを沈めようと飛び込んでゆく。そして彼のおっしょさんであるサリマンは、「このばかげた戦争を終わらせましょう」と言うんだけど……この台詞もやけにアッサリ。そうまで思ってるんなら、最初からそうしろよーとか思っちゃう。戦争はどんな戦争だってばかげているに決まってる。この台詞はその点でちょっとアブなくて、聖戦を肯定するように聞こえなくもない。彼女が何のためにこの戦争に加担したのかもいまひとつ判らないし……こういう細かい矛盾点がどうにもこうにもいろいろあるんだよなあ……。それでいてソフィーのキスでなにもかもが元通りという、最後になって矛盾も何も寄せ付けないファンタジーのステキな単純さに急に戻ってしまうというのも、面食らっちゃう。

そりゃもう、空飛ぶアニメーションのジブリだから、ハウルとソフィーの出会いの場面の空中散歩や、ソフィーが運転を任される立ち乗り飛行機のスリリングなスピード感、そしてなにより動く城のオリジナリティーあふれるチャーミングな造形とそのアナログな動きのキュートさや……そりゃあもうもう、アニメーション、いや、ジブリアニメでしか出来ない魅力は満載なのね。それだけで十二分に満足はできる、当然。
それに、中身は若い女の子といえど、声を当てているのが倍賞さんであり、声とはいえ、倍賞さんとキムタクの恋愛というのはそう思うとなんか聞いててドキドキなんである。

あー、でも声……。よーちゃんがさ、よーちゃんが……いや、キャラ自体がこんなに全編出てくるもんだとは知らなかった。もう最初っから最後まで、メインとは言わないまでもメインに限りなく近いサブメインで出てくるカカシのカブ、でもカカシの間はカカシだからずーーーっと喋んないわけ。でもこの役だってことは知ってたから、あ、もう出てきた!あ、また出てきた!って具合で、いつ喋るか、今喋るかとずっとドキドキして、待って、待って、待って……待ちくたびれた。結局カカシから元の姿に戻っての二言三言だけである。あー!……キャラがずっと出続けてただけにさあ……待ちくたびれたよ、ホントに。クレジットはすっごく目立ってたけど、実際に喋ったのは……うーん。それに、他の四人のNACSさん、どの役だか全然判んなかった……(もともと自信はなかったけどさ……)
それにしても、そのキャラ名が“カブ”とはホントに……よーちゃんのためにそうしたんじゃないかと思っちゃう。★★★☆☆


白蛇伝
1958年 79分 日本 カラー
監督:藪下泰司 脚本:藪下泰司
撮影:塚原孝吉 石川光明 音楽:木下忠司 池田正義 鏑木創
声の出演:森繁久彌 宮城まり子

2004/8/3/火 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
うわあ、なあんて、キレイなんでしょ!これは観なきゃと思っていた、国産初の長編アニメーション。高い評価は知っていたけれど、本当に素晴らしくて。何でこんなにキレイなの、品があるって、こういうことなんだよなあ。今のアニメに品がないわけじゃないけど、あるわけでもないというか、そういう論点で語られるような雰囲気はもはやないじゃない?それに今回のこのアニメーション史でつくづく思ったんだけど、アニメっていうのは本当に様々な形があって、セル画で動かすっていうのはそのひとつにしか過ぎないわけで。千代紙アニメから始まった日本の動画は、そのバリエーションのアイディアから始まってそれに相応した語り口を持ってきたりと、実に素晴らしいんだよなあ。で、セル画アニメの先駆となったのがこの作品と言えるんだろうけど(これは……セル画だよなあ、多分。どっちにしろ、セル画の手法ではあるよね)それは今のアニメの、絵を動かす方法として取られたセル画手法じゃなくって、墨絵風のバックから、衣擦れの音が聞こえてきそうな柔らかな布の感じとか、あらゆるところにこの世界を生かす工夫がなされてて、とにかく素晴らしいの。匂やかな、そう、そんな感じ!色使いも、古風な色をわざわざ選んでいるのが判るんだなあ。昔の作品だからってんじゃなくて、渋い色を最初から選んでるのよ。

そういえば、墨絵風、中国風、というのは、ディズニーアニメ「ムーラン」でなされてて、その巧みなワザに感嘆したものだけど、なあんだあ、こっちが断然先じゃんよ!思えば中国、つまりは異国を舞台にしたっていうのも、断然こっちが先じゃない。案外これに影響されてたりして?ありえない話じゃないでしょ。日本って、特に漫画文化って、結構平気で外国を舞台にして、それが本家本元のその外国に逆輸入?されたりなんてこともあるじゃない?そういう部分、日本の漫画、アニメ文化の方がずうっとセンパイなんだよな。やっぱりね!

本当に、何でこんなに質感が出るんだろう。さわったら柔らかそうなその布地の感じは本当に素晴らしい。セル画の枚数としては今より少ないはずだし、動きは制限されているのに、何でこんなにしなやかでやわらかなの!……実際、セル画の枚数を自慢するような昨今のアニメが見失っているものがここにはあると思うなあ。最初の線からして、違うんだもん。緩やかな弓なりの線。かわされる流し目、引きずり、舞う裾……止まっている絵で、もう動いてるのね、線が、生きてる、息づいてる。重ねあわされるしなやかな手指、追いかけても追いかけても透明に消えてゆく妖精の女の幻……女性キャラの長いまつ毛とか、今のコミック、アニメ文化につながるものも感じられるんだけど、とにかく完璧に中国なの、中国文化なの!それは日本人が異国情緒として憧れる中国文化の美しさではあるんだけれど、それにしても微に入り細にうがち、ここまでやれば文句はないでしょうというような、しっとりとした中国お伽噺の空気。うっとり。

少年の許仙が救った白蛇。可愛くて、ずっと一緒にいてあげようって思った。でも大人たちは気味悪がって、その蛇を捨ててくるように命じた。泣く泣く森の中で別れを告げた許仙。
……という冒頭は、哀しげに響く童謡風の歌と、郷愁をそそる色紙切り絵風の絵で描かれる。そうそう、こういう感じよ、日本のアニメが独自の路線で試行錯誤してやってきた空気がここに感じられるのね。
そして数年後。ある嵐の夜。あの時の白蛇が雷の力か、美しい人間の女、白娘に変身する。彼女にお供するのが、魚の精の少青。許仙が奏でる笛の音に合わせて胡弓のたえなる響きを聞かせる白娘。少青の手引きで白娘に会った許仙は……ひと目で恋に落ちた。

でも、ジャマが入る。高僧の法海。彼は何たって高僧だから、白娘が妖精だってことも、その妖精に(彼から見れば)許仙がとりつかれてるってことも見えている。法海は高僧だから(しつこいな)、許仙を助けなければと思う。よって、二人の仲を引き裂く。バカモノッ!
こーいうところで本気で腹を立てるところがガキなんだよなー、私。でもさー、ホントにバカモノだよお。妖精と恋に落ちて何が悪いの。とり殺されるっていうのかなあ。白娘も許仙を愛してるし、そんなことするわけないのに。
ま、でも言ってみればね、終わりよければ全てよし、バンバンザイのハッピーエンドではあるんだけどね。最終的には白娘が人間になることを選択して、二人はメデタシメデタシ、で結ばれるの。相手が人間なら問題なし、と法海も味方になるし。でもそれまではこの法海め!と思ったなあ。そう、最終的には良かった。それは判ってんだけどさあ。

永遠の命があり、何でも出来ちゃう妖精の座を投げ捨てるってことは、本当に本当に大変な決断、だということを、まあ、法海は高僧だから(だからしつこいってば)判ってたわけで。だから白娘が許仙の命を救うために宇宙のかなたの竜王のもとに行って(銀河系の中をすいすいと舞い泳ぐ白娘の美しいこと!)、許仙を生き返らせる命の花との引き換えにその取引をしたことを知るや否や、二人の味方になってくれるのだ。
でもさー、その前が結構ひどいよー。だって白娘は本気で許仙を愛していたし、許仙もまたしかりだし、はっきり言って許仙が死んだ(一時的に)のも、そこまで追いつめたのも、法海がことごとく二人のジャマをしたからでしょお。ま、それで白娘が人間になれたんだからいいけどさ……。

だってさ、許仙ってば流刑に処されちゃうんだよ?まあそれは許仙のおつき?のパンダとミミ(アライグマかな)と少青が、ちょっとムチャしてあらぬ疑いをかけられたせいなんだけど。許仙は白娘をかばって一人罪をかぶる。流刑の土地では、華やかな祭りが行われていて、彼の孤独がいっそうあぶりだされる。その日暮らしの肉体労働をしても、その金を脅して巻き上げられる。白娘を思って過ごす毎日。……そして白娘は愛する人を思うがあまり、彼にとりつき(と法海には見えたんだな)幻となって現われる。その頃パンダとミミは敬愛するご主人様を追って遠い遠い陸路を歩いてこの地に到着していた。

この地、とは、蘇州、なんだねえ。名曲「蘇洲夜曲」を思い出すなあ。あ、そうそう、このパンダ(呼び名まんまね)とミミがまた、イイのよお。日本の初期アニメーションにおける動物キャラの素晴らしさには本当に瞠目させられるんだけど、このご主人ラブ!の二人(二匹か)の愛らしさときたら、たまんないんだよなあ。だって、まず彼らも動きが素晴らしいの。柔らか、しなやか、軽やか。その動きだけで、毛並みのすべすべした感触を感じちゃう。ぜえったい、なでたらすべすべしてるに違いない!!っていう。彼らがご主人様を追って蘇州の街につき、そこで街の愚連隊の動物たち(愚連隊が動物ってのがスゴいけど)に出会う。その愚連隊たちもイイ味出してるんだよなあ。柔らか、しなやか、軽やかが、よりずる賢い方向に生かされてて、アヒルなんか、その羽の構え方が、あたりをうかがってて、ワルなんだもん(笑)。目をつけられるパンダとミミなんだけど、なぜかパンダがやったら、強いの。もう、笑っちゃうぐらい。こんなに愛らしい外見なのに、殴り飛ばされても、ハンマーで土ん中にガンガン打ち込まれても、フツーの顔してよっこらしょって、復活しちゃうの!このとぼけた味わいには笑っちゃったぁ。

この、動物キャラの素晴らしさは、長編第二作である「少年猿飛佐助」に見事継承されている。第一作が異国情緒だったから、第二作は日本にして、しかもしっとりとした第一作に対する形でアクティブなモティーフにしたんだろうな、という、対照が凄く良く判るんだけど、このコミカルでカワイイ動物キャラはほとんどそのまんま。
こういうカワイイ動物キャラが、涙を落とすシーンっていうのは、「佐助」も本作もたまんないものがあるんだわ。それは実際、動物が涙を落とすなんてことはないっていう前提があるから、グッとくるのかもしれないけど……本作でパンダとミミが涙を落とすのは、ご主人様の許仙と白娘がめでたくむすばれて、小船で幸せの国に旅立つ、というラストで、ご主人様との別れに涙を落とすわけよ。あーん、もう、可愛くって、せつなくって、胸がキュンッてなっちゃうッ。

それにしても、白娘は本当に、ほーんとうに、キレイだったなあ!この作品は森繁久彌と宮城まり子の二人だけで全ての声をまかなっているというスゴさなんだけど、宮城まり子のお伽噺チックなお姫様口調が別の世界へ連れてってくれるのね。妖精の時には輪郭とか髪の色とかが、はかなげな青なの。でも、竜王との交渉で人間になった彼女は、輪郭も髪もハッキリとした黒。それだけで、いきなり生命力を感じる。ま、正直言って妖精の時の方がキレイだったかも!?
彼女が死んでしまった許仙を助けるために、命の花を携えて小船に乗り、疑う法海との戦いのためにヒドい嵐にさらされるクライマックスはドキドキしたなあ!映画だし、しかもアニメだし、そんな、大丈夫だって判ってはいるんだけど、もはや白娘は妖術を使えないし、使える少青は白娘そっちのけでなまずのオジサンを味方につけて大波、大嵐にしちゃうしさ……オイオイ!って感じだよねー。いやー、こういうスペクタクルを既に用意しているっていうのが、初の長編アニメにして、素晴らしいじゃないの。やっぱり日本はアニメ大国!先駆の作品を観ても、確信するよなー。でもこういう作品がもう生まれないのかな……っていう思いはあるけど……。

ジャパニメーション(という言い方はあまり好きじゃないけど)を語るなら、コレがあるんだってことを、知ってしまった今となっては声を大にして言いたい。「アキラ」じゃなくって、「白蛇伝」なんだってば!★★★★☆


花とアリス
2004年 135分 日本 カラー
監督:岩井俊二 脚本:岩井俊二
撮影:篠田昇 音楽:岩井俊二
出演:鈴木杏 蒼井優 郭智博 相田翔子 阿部寛 平泉成 木村多江 広末涼子 大沢たかお

2004/4/4/日 劇場(日比谷スカラ座)
きらきら光る、宝石箱のような映画。バレエを舞う妖精のような女の子たちや、桜吹雪の中じゃれあいながら走ってゆく二人の少女に、まったく邪気なく、見とれてしまう。文化祭の学校、誰もいない教室に男の子と女の子、窓の外には大きなバルーンの鉄腕アトムがいたりするようなキュートな非日常ですら、何か胸を締めつけられるほど懐かしく切なく感じるのは何故なんだろう。二人きりの校庭の、強い風にあおられる砂ぼこりなんかも、何だか、たまらない。砂浜で見つけた、思い出のハートのエースといい……何たって、記憶喪失からの恋の始まりなんだから。岩井俊二監督はなんだって、こういういい意味での少女漫画的な繊細な画作りが上手いんだろう。

岩井監督が新聞のインタビュー記事か何かで語っていた、記憶の中にある風景を映画にしているという話が、そしてそのインタビューは勿論、本作を前提に行われたから当然、とても納得の出来るものがある。鉄腕アトムって、そういう記憶の連鎖の共通項というか象徴というか、そんな気がする。誰もが知っていて、誰もが愛しく思うキャラクター。そしてこの高校は手塚高校で、彼女たちが中学生の時、この高校に通う男の子を追っかけていたローカル線の駅には、手塚治虫周辺の漫画関係の言葉があふれていて、そのあたりの遊び心もなんともそそられる。

すべてがファンタジックというわけではなく、少女の生々しさもするり、するりと描かれていながら、しかしそうやってちゃんとコトワリを入れているという気がする。マンガチックな世界。それは肯定的な意味で。だって私たちは漫画に育てられてきたんだもの。その中に世界があって、正義があって、恋や人生があったから。
大きな目の鈴木杏と、サラサラ髪の蒼井優は、確かに少女漫画の中のヒロインそのものだ。
可愛くて、おてんばで、むちゃで、でも純粋で、こんな女の子になりたい、いやなりたかったと憧れるような。

キットカットによるショートフィルムがまずあって、そこから映画化の話が進んだ本作。でも岩井監督は最初から映画化を視野に入れていたという。
CMも含めてそうしたマーケットに関わっている作品ながら、非常に映画的なのは、岩井監督がそういう境界線のバランス感覚に優れているせいだと思う。岩井監督は“デジタルによるフィルムの手触り”にこだわる、そう公言している監督だから。まさに、映画が映画としてマーケットも獲得して生き残る手段を知っている、貴重な監督なのだ。

でも、正直心配していた。だって、岩井監督、前作「リリイ・シュシュのすべて」を撮った時、これを遺作にしたい、だなんて言っていたんだもの。まさかとは思っていたけれど……例えば周防正行監督みたいに、代表作を撮った後ピタリとなりをひそめる、だなんてことにならなければいいなと念じていたから。
確かにそう監督が言いたくなるのも判る作品ではあった。全てを捧げつくしたんだろうと思える、美しいけれど辛い辛い、物語だった。
そして次の作品となった「花とアリス」、ふと、あ、「四月物語」みたい、と思った。
春の、桜の季節が印象的に映るというせいもあるけれど、リラックスした、肩の力を抜いた、息抜きに撮っているようでいて、決して忘れられない珠玉の作品であるという点が、そう感じさせたんだと思う。それに双方とも音楽が岩井監督自身!知らなかった……。でもそんな風に、監督自身が音楽を手がけようという作品としての共通項がやっぱり、あるって気がする。掌の中に、大切に包んでおきたいような映画。
今時こんな甘くてロマンティックな物語なんて、と思いそうにもなる。それは同じ年頃の女の子映画「問題のない私たち」をつい先日観たばっかりで、それがあまりに辛かったから……でも、岩井監督は何たって「リリイ」を撮っているのだ。若さが引き起こす辛さも充分に判っている。その後でこの「花とアリス」が来たのだから。ロマンティック万歳!

ショートフィルムを観ていなかったのは、良かったのか、悪かったのか。映画版との大きな違いは、花とアリスとの三角関係になる宮本先輩が記憶喪失になる部分なのだという。物語の構成の大きなポイントとなる部分であることは間違いないのだけれど、それはこの映画を支える骨組みではあるとはいえ、骨組みでしかないとも言える。それは花とアリスの関係にそこそこフクザツな絡み合いを残しはするものの……これはあくまで、花と、アリスの、物語であり、彼女たちそれぞれのパーソナリティが描かれるちょうつがいぐらいでしか、ないのだ。
いや、確かに花の方には重要なことかもしれない。花の成長物語にはこの宮本先輩は常に存在している。最初はアリスに引きずられて見に行かされた彼(アリスは連れの留学生にゾッコン)、そして花は、恋に落ち、同じ高校を受け、同じ落研に入った。
「ジュゲム」を覚えるために前を見ずに歩いていた宮本先輩がシャッターに激突して失神、それを利用して花は彼に記憶喪失だと思い込ませる。自分のことを好きだと告白したことを忘れている、と。
そして、アリスに元カノの役をふったのが、ややこしい展開の始まりだった。

アリスの方は、このゲームに興味しんしんでノリノリである。彼に「ねえ、これ覚えてる?」とありもしない思い出をふっかけてくる。次第にそんなアリスに巻き込まれていく宮本先輩。
……いや、ありもしない思い出では、なかったのだ。
アリスは母子家庭。しかしその若いお母さんは、現在進行形の恋人のことが第一義であるらしい。たまに会う父親と恋人のような時を過ごすアリス。しかし、アリスが覚えている大切な思い出を、父親は覚えていてはくれない。「そんなこと、あったかな」と笑う。仕事で中国語をマスターしている父親が教えてくれた「我愛イ尓」を、アリスは別れ際、父親にささやいてみる。
アリスが宮本先輩にふる記憶は、すべてこの父親が覚えてくれていなかった思い出なのだ。

宮本先輩は、頭を打った直後、花に、そして、自分が記憶喪失だと二人して騙していたことを知った後アリスに、それぞれ「君、誰?」と問う。それは、……特に後者のアリスにとっては、かなり酷なアイデンティティの否定だ。父親が覚えていてくれなかった記憶。自分だけの記憶は、本当に存在していたのか。自分はちゃんとここにいるのか。誰かに覚えていてもらえるのか。自分の持っている記憶は誰かと共有できているのか。
そして宮本先輩にもささやく「我愛イ尓」……。

花のウソだって、彼女はウソを重ねれば重ねるほど、それが本当のように思えていたんじゃないか、と思う。共犯者に巻き込んだアリスに「記憶をなくした先輩に思い出を作ってあげなくちゃ」と言った時の花は、何だかそんな感じを受けた。それは少女特有の無邪気な想像力。少女はだからこそ罪深く、そして愛すべき、愛さずにはいられない存在。
二人ともだから……何だかまだまだどこか、恋に恋する少女で、そんなの、現代においてちょっと信じられないほどウブなんだけど、岩井俊二の画だから、信じられてしまう。
それに、恋に恋するのも、立派な恋じゃないかと思うから。
もはや他は考えられない篠田カメラマンは、岩井俊二の作品を撮る時、岩井俊二だけの画を撮る。
忘れられない少女の時を。

個人的には、バレエ教室での、少女たちの永遠に続くかのようなピュアな美しい時が、大好き。
同じ高校に通う写真部の女の子がいて、その大切な友達たちを写真におさめる。白いチュチュを着た妖精たち。様々な遊び心あふれるポーズをとらせて。そのどれもが、本当に、本当の妖精のように、花のように、美しいのだ。小さい時こんな妖精を見たことがあるような、そんな錯覚にとらわれるような。
文化祭で彼女はその写真を披露する。彼女はバレエ教室の時もずっと言っていたけれど、花に、アリスとケンカしちゃだめだよ、と説く。この子、なんてことない、フツーの女の子なんだけど、このひかえめでやわらかな発音といい、まっすぐに見据える瞳といい、女の子が本当に心配している感じが、たまんなく、イイのよ。何かもうそれだけで、きゅっときちゃうんだなあ。女の子って……奇跡。

「リリイ」で出会った蒼井優は、まさに岩井ワールドの住人だ。「リリイ」では悲惨だっただけに、彼女のための映画を作ってくれて嬉しい。そう、これは蒼井優のための映画だと言っても過言ではないのだ。
正直、先に名前の来るヒロインである鈴木杏はちょっと大味というかメジャー味というか、そういう感じがするのだけれど、蒼井優はその点本当にパーフェクト。
彼女のデリケートな皮膚感覚がなんともいえず好きなのだ。一本一本が細そうなサラ髪も。彼女がバレエをやるとは知らなかった。まさしく独壇場のピンでのバレエシーンは、本当に本当に……宝石だった。街角でスカウトされてプロダクションに入った彼女=アリスが、それまでなあなあで受け続けては落ちていたオーディション、バレエに関してだけは譲れなくて、紙コップとガムテで即席のトウシューズを作って、“ちゃんと”踊ってみせる場面。制服姿のまま生き生きと踊る彼女のなんてミラクルなこと!!

しなやかに空気を抱くその舞はたっぷり尺がとられていて、それだけの価値のあるシーンになっている。ちっとも、飽きない。劇中の登場人物たちと同じく、見とれて、最後の、高く足を上げてしなやかに腕を丸く形作るポーズに、思わず涙しそうになってしまうぐらい。
彼女が落ち続けるオーディションや、花に頼まれて宮本先輩に対して喋る用意された台詞などで、大根演技というか棒読みというか、そういうのを披露するんだけど、彼女自身はまさに映画女優だからさあ、そういうヘタ演技が何だかやりにくそう。でもやりにくそうでいて、楽しそうにこなしている。やはりそこは上手いから出来るんだな。

でも、杏ちゃんにもオオッと思わせる見せ場がある。宮本先輩がどうやらアリスに気があるらしいと察した彼女が、あきらめる決心をして、文化祭の舞台に出る直前、先輩に帯を結んでもらいながら、その決心を口にする場面。
ドアップでカメラに切り取られながら、泣き出しそうに口がイーの形になるのをガマンしつつ台詞をしぼり出す花=杏ちゃん。ここはやや大げさなメジャー演技が、際立つ。それにこういうのは逆に蒼井優には出来ないかも、と思う。蒼井優は生っぽさ、境界線上のスレスレを表現させるとバツグンなタイプだから。二人は役柄も対照的だけど、女優としてのアプローチも対照的。だからこそ、面白いのだ。

やたらゴーカなキャスティングで脇役をそろえていても全然イヤ味にならずにそれもまた遊び心って感じで、さらりと楽しめるのもイイ。
今風のミニスカートの制服より、中学時代の重たいセーラー服姿の方が好み。冒頭、気になる男の子を追って、普段乗らない電車を乗り継いでいく、あのスリルにワクワクした。あれはああいう紺サージのセーラーじゃなくっちゃ、ダメよねえ、と思う。それにしても、輝ける少女時代はやっぱり……一瞬、なのね。それを切り取りたいと思う映画監督たち、観客たちの思いを彼女たちが本当の意味で知るのはやはり……オトナになってからなんだろうな。★★★★☆


花と蛇
2003年 115分 日本 カラー
監督:石井隆 脚本:石井隆
撮影:佐藤和人 小松高志 柳田裕男 音楽:安川午朗
出演:杉本彩 石橋蓮司 野村宏伸 遠藤憲一 未向 伊藤洋三郎 山口祥行 中山俊 有末剛 寺島進

2004/3/13/土 劇場(銀座シネパトス)
これが5回も映画化されているとは知らなかったけど、私の唯一知っている小沼監督版とあまりにも違うので驚く。それは作品のカラーだけではなくて(カラーもぜっんぜん違うけど)物語そのものが。本当に、あまりにも違うので一体どっちが原作に沿っているの?と思うぐらい。いや、そりゃ原作を読めばいいわけだけどさ。ヒロインの社長夫人が不感症だったことや、その社長夫人に心酔するメイド(本作ではボディガード)の存在、それぐらいでその他は本当に違うんだもんなあ。

今回の映画化はこの作品に出演することを口説かれた杉本彩自身が、石井隆監督ならと指名したという。へえ、とちょっと驚き、さすがアニキは(もちろん彩さんのことだ)おっとこらしくもうガッツリ脱いで、おっぴろげて見せてくれるのだけれど、……根本的に似合わないんだよなあ。面白いことに、小沼監督版で描かれていたようなヒロイン像なら、彩さんも似合ってたと思う。つまりは、あちらは陵辱されているというのは表面上で、最初から最後まで彼女は女王様だったから。彩さんは、やっぱり、女王様なのよ。貞淑で、ひたすら陵辱に耐える女なんてどう考えても似合わない。演技で乗り切れればいいけれども、そこまでの演技力があるかというと……(すいません、アニキッ)。

それに一番問題なのは、彼女自身が自ら公言しているように、“露出狂”だということなのだ。どんなに一生懸命、脱ぐことに恥じらい、おびえ、泣き叫んでも、喜んで脱いで喜んで股広げているようにしか見えない(すいません、すいません、アニキッ!)。まあそれだけ“全てをさらし”ているというのは本当なんだけど……それもどこか記録的な感じで。見せられすぎると感心はするけど、何かをかきたてられるとか刺激的に興奮するとかいう部分は薄れてしまう。それは第一として石井監督の見せ方がどうかっていう部分にくるから、決してそれは彼女のせいではないんだけどさ。ある程度展開が固まってしまうと、あとはどれだけのバリエーションの縛りを見せるかみたいな部分になってきて、しまいにゃ温泉場の余興みたいに高下駄はいてお着物着て、とか、刺青彫って馬にまたがって、とか、何かそれ風の台詞を言ってみたりとか、……これが小説の段階ならまだいいのかもしれないけど(これは原作に……あるんだろうなあ)、映像でそこまでやっちゃうとあたたたた、って感じ。

確かに石井隆の世界ではあるんだけど。そう、小沼監督版が女王様で、石井監督版が被虐される女というのはさもありなんというか、だからどっちが原作に近いかとかいうのは関係ない部分になってくるわけで。青い光の中に満たされた、黒子のカッコで顔を隠したセレブ達がうごめく性宴の狂態……どちらかというと、石井監督版ではエロティシズムというよりは、殺しとか殺されるかもしれないとか、そういう凄惨さの方に傾いているような気もする……だからそういう駆け引きがある程度終了してしまってあとは緊縛のバリエーション見せましょってな後半になると、もはやエロはもとよりスリリングもすっかり薄れ果ててしまうんだよなあ……。

未読だから大きなことは言えないんだけれど、この「花と蛇」っていうのはSMの世界が基本テーマでありながら、実はかなり難しい部分をついているんだと思う。不感症の女が、こともあろうに陵辱によって女を開発されていくという物語なんだから。現実的にはそりゃねえだろうと思うけれども、それをどこまで納得させられるものにするのかというのが、監督としての、あるいは役者としての腕の見せ所なんじゃないのかしらん、などと思うのである。小沼版の谷ナオミにしても本作の杉本彩にしても、その点については、最初からうっそん、と思ってしまうようなところがあって……。「あんな顔と身体だが、不感症」だなんてダンナが言ったって、ぜえんぜん説得力ない。まあそれは、静子としての彼女ではなく、スクリーンの外での彩さんのキャラがあまりにも立っちゃっているせいだけどね。でもスクリーンの中でだって、ね、彩さん、この性宴に連れ去られる前の、ダンナとのセックスシーン、かなり気合入ってんだもん。最後に「痛い」というだけで、感じてない、不感症だというのはかなり……無理があるんじゃないのかしらん。

それにしても杉本彩のダンナ役が野村宏伸とはねえ。すっごい意外。というか、野村宏伸が彩さんとこんな風に絡む画自体が予測していなかったというか。でもこの二代目のプレッシャーに押しつぶされるぼんぼん社長の役柄自体は、彼が演じることによって実に説得力のあるものになっている。まさに、そんな感じだもんね。しかし野村宏伸が全裸になるだなんて予想だにしなかったもんだから、彩さんが全裸になるよりよっぽどこっちの方が驚いちゃったけど(笑)。

このぼんぼん社長に見初められる形で結婚した彩さん扮する静子は、世界的なタンゴダンサー。ダンスに目覚め、アルゼンチンタンゴに没頭している彩さんの面目躍如の役どころで、あるいはこの設定は彼女だから生まれたものかな、やはり。体が柔らかいから、こりゃ股関節筋肉痛になりそうだわと思うようなもんのすごい型の緊縛にもばっちり対応できちゃうのはさすがだけれど、さすがどまりというか……だって彼女、緊縛が似合う体型じゃないんだもん。足がすらりと長くて、余計な脂肪がついていない、すばらしいモデル体型。全く形が崩れていない程よい大きさのオッパイはステキだけれど、やっぱりもうちょっと、荒縄がぐいぐいと食い込む程度のもっちり加減は欲しいんである。それこそその点谷ナオミがあまりに完璧だったために……(だって何たってSMの女王だもん)比べちゃいかんとは思うのだけれど、だけどやっぱり、緊縛むきの身体じゃ、ないよなあ。

でも利尿剤をどくどく飲まされて(うっそ、あれ、マジ?)だらだらよだれをたらすとか、乳首にまで鍼打たれるとか(ひえええ、やめてくれええ)、そういうのまでやっちゃうのはアニキ、凄ぇ!と思う。やっぱり彩さんだもんなー、おっとこらしー。

司会役のピエロ男が寒いというかうっとうしいというか。確かに異形の世界の特徴的な存在だけど……ちょっと、引いてしまう。ピエロ男というよりは何かロリコンコスプレみたいな感じで、登場はセーラームーンもどきだし、チュチュ着てくるくる回るのには、その寒さに彼の方にばかり気が散ってしまって、余計に世界観に没頭できない。一体あのキャラは……果たして正解なんだろうか。
静子夫人を助け出そうとして捕まり、哀れ正視できないような形に縛り上げられ、バイブ責めにされるボディガードの京子。そうなの、どちらかというとこういうちょっとカワイイ感じの女の子が縛り上げられると(しかもこんな恥ずかしい形に)ギョッとするし、そそられるのはこっちの方、なのね。彩さんは一見SMが似合いそうだけど、やっぱり見たいのはMよりSの方だからさあ。ビシッ、バシッとやる方の、これぞ彩さんっていうSが観たい。しかしこの京子ちゃん結局……助かったんだろうか?

いくらなんでもまだこんなおじいちゃん役は可哀想でしょ、な石橋蓮司が、しかし圧倒的迫力。老けメイクでほとんど顔の表情も動かず、身体も動かせないこの狂った性宴の首謀者であるご老体は、しかし自分の最期の願いをかなえるために、必死に必死に静子へとはいずってゆく。京子が上に乗り、激しく運動し、彼の望みをかなえてやると……幸せそうに息絶える。なあんか結局最後は石橋蓮司にさらわれちゃったじゃない、って感じよね。まあ仕方ないかあ、役者としての格が違うんだもん。

何かちょっと夢落ちみたいな中途半端な最後にガクッときたけど。それにしてもドレスからボンテージ風のランジェリー姿になって、最後はハイヒールだけの素っ裸になって(ヘアも丸出しかよー)一人踊り続けるラストは……ちょ、ちょっとギャグ入っちゃわないか??★★★☆☆


春夏秋冬そして春  /SPRING, SUMMER, FALL, WINTER ... AND SPRING
2003年 102分 韓国=ドイツ カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:ペク・ドンヒョン 音楽:パク・ジウン
出演:オ・ヨンス/キム・ジョンホ/キム・ヨンミン/ソ・ジェギョン/ハ・ヨジン

2004/11/9/火 劇場(渋谷Bunkamuraル・シネマ)
昨今の韓国映画の出来の良さにはいつもいつも嫉妬と焦燥で胸がかきむしられてしまうけれど、キム・ギドク監督はそれさえも、突き抜けてしまう。いや、というより、彼以外の韓国映画は確かに奇想天外や斬新な作品もあるけれども、最終的にはエンタテインメントという枠組みの中でキレイに収斂されていく、言ってしまえば優等生的上手さ、がある。対してギドク監督にはそんなキレイさを完全に超越した部分があって……そりゃ、上手いといえば圧倒的に上手い。でもその上手さとはまったく別次元にある、これこそが、作家性だと言いたい、まとめ上げるのではなく、とにかく吐き出す、語り尽くす、さらけだす、そんな……勝負、がある、この人には。だから、もう、勝てないのだ。ただただ呆然とその前に座り込むばかりで、ああ、とため息をもらすばかりなのだ。
韓国の監督の中では、そう、一番大好きで、一番注目すべき作家だと思っているのに、何となく日本での公開事情はお寒いし、宣伝展開も毎回あまり丁寧ではなくって歯がゆい思い。劇場のカラーも徹底してないというか……作品ごとにガタガタ移動させられている感じで。これが9作目、でもギドク作品を観るのはやっと3作目。最初に観た「魚と寝る女」からもう、もう……とにかく圧倒されっぱなしなのに、まだ3作目で、そして実際は9作目の本作でこんな境地に至ってしまったというのに、なぜ、3本しか観ることが出来ていないの!もう……悔しい!

そうだ、こんな境地、だ。それまで観たのがたった2本でも、ギドク監督、というのを強烈に印象付けていたのは、呆れるほど美しい画面の中で展開される残酷性と生と性、そうして描かれる激烈な愛情の世界、だった。でも本作は……もっともっと、高い、まさに神様の目線から、深遠な、崇高な高みから静かに見つめ続ける、人生、いやもっと大きな、人間の、生きとし生けるものの、大きな流れ。こんな映画を撮ってしまうのだ、撮ってしまったのだ。
昨今の韓国映画の秀作には、ハングルを感じていたんだけれど、本作は、全く持って、漢字の世界。韓国はキリスト教徒が多いと聞いていたし、今の韓国映画の現代的な雰囲気も、やはりそういう感じから来ていたから……だからハングル、だったのかもしれない。でも、本作は初めて観る仏教的な韓国映画で、漢字の世界で、だから日本人の感覚と深い部分で共鳴できる。逆に、どうして日本でこういう映画が作れなかったんだろうという、思いもある。いや、「阿弥陀堂だより」のような素晴らしい作品もあるけれど……。

水の上にぽっかりと浮かぶ庵、庵……寺、だよね。この画で既にもうドキドキする……こんなの、あるのか、あるわけない、お伽噺、そう、まさにお伽噺なんだけれど……そこには神様の(もちろん、この場合は仏様)の目線がちゃんと行き届いている世界があるから。
寺の門からその庵へは、手こぎの小さな船に乗ってゆく。季節によって水の満ち潮に変化があるから、海の近くなのかと思ったら、ラスト、高い高いところから見下ろすそこは、山々に囲まれた、小さな、手鏡のような湖なんである。このラストがまた胸かきむしられるんだけれど……それはまた、後で。
春夏秋冬、それはその季節を語りつつも、その季節になぞらえて、人生を語る旅、だ。この庵をひっそりと営む老僧に預けられた愛しき童、それが春の季節、少年になった夏の季節、青年になった秋の季節、そして……彼が童だった頃の老僧の年齢に行き着く冬の季節、そしてまた巡る春の季節……。

春。まだ歩きさえもおぼつかない童、くりくり坊主のこの幼年僧が本当に可愛くて。老僧も目を細めながら彼を慈しみ、僧としてゆっくりと育てているのが判る。霧が立ち込める山々、その湖から出て、薬草を取りに行く。渓流の心現われる清らかさ……もう既に、この小さな、そして大きな自然の、東洋の、美しさが、惜しみなく供出される。
その中を、童は無邪気に歩く。ここでは老僧と二人きり。その寂しさにさえ、彼はまだ気づいていないのが、なんだか余計に愛しさを募らせる。渓流の中に見つけた魚、そして大きな蛙、果ては蛇さえも臆せずに掴んで、石を結び付けてはよたよたになるその動物たちに無邪気な笑い声をあげる。その姿を老僧は後ろからそっと見ている……。
この童の残酷な無邪気さは、あまりに無邪気で、悪魔にも天使にも同時に見えて……どちらにもなることが出来るんだと思わせて……子供の養育の重要さを思い知らされる。老僧は、すやすやと寝入る童に大きな石をくくりつけ、翌朝目覚めた彼に諄々と諭す。助けに行きなさい。その中の一匹でも死んでいたら、お前はその業を一生背負っていくんだよ、と。

かろうじて生きていたのは蛙だけ。魚と蛇は死んでいた。ことに、血だらけになって死んでいた蛇を目にして、童は泣きじゃくる……本当に、おんおんと、号泣する。なんかもう……胸を衝かれてしまった。なんだろう、この単純であり深い衝撃は……蛇の聖なる象徴というのが、やはり西洋と違って日本でも共感できる部分だなと思う。こんな小さな頃にこんな大事なことをと思うんだけど、小さな頃だからこそ、大事なことを知らなければならないのだ。
でも、知ったはずなんだけれど。人間は愚かだから……彼はまさにこの「業」に一生苦しめられることになるんだけれど、多分きっと、この子供の頃のことを思い出したのは、彼が秋……青年期に犯してしまった罪、その後だったのだろうな……。

夏、少年僧となった彼は、心を病んで庵を訪れた少女と恋に落ちる。恋に落ちるというより、肉欲に落ちる。こんな俗世から隔絶されたところで、なんの情報もないまま青年になった彼でも、そうなってしまう。いや、だからこそ、あまりにも流れ込んでしまったのかもしれない。
この少女は、天使だったのだろうか、悪魔だったのだろうか……。
本当に、影の薄い少女だった。肌も唇までまっしろで、今にも倒れてしまいそうな生命力のなさだった。
でも、可憐だった。つやつやとした黒いおかっぱの髪。白いワンピース。初めて近くで、触れることの出来るほどの近くで見る若い少女に、僧であることも忘れてしまう少年……は無理なかったのかもしれない。
いや、彼には僧であるということの自覚さえも、あったのだろうか。老僧は彼を慈しんで育てた。でも、この夏の季節に語られるように、この少年僧は、読経をすることさえ、珍しいと言われるような状態だったのだ。もしかしたら……老僧は彼を慈しむあまり、少々手綱が緩んでいたのかもしれない。

そして、思春期真っ只中の彼の目の前に現われた、少女。もうこれは運命としか言いようがない。
老僧の目を盗んで、渓流の岩の上で全裸で抱き合う二人の清冽な生々しさ!
少年と二人、身体と心を重ねるたびに、少女は生気を取り戻してゆく……だんだんと、女になってゆく。その目と表情で少年を誘い込む、“女”を彼女は自分の中に発見してしまった。
二人がそういう意味で“デキ”ていることを知らないうちは、その仲のよさ、元気になってゆく少女に目を細めていた老僧……でも真実を知って、老僧は少女を帰してしまう。
泣きながら訴える少年僧。そしてついには、彼女を追って、彼は僧を捨て、俗世に行ってしまう。でもそのリュックサックの中には、石仏を入れていた。

でも、当たってたんだ、老僧の言っていたことは。少女と別れたくないと涙を流した少年に彼は言った。「欲望は執着を生み、執着は殺意を呼ぶ。だから持っているものを手放さねばならぬときがある…」でも、それを振り切って少年は行ってしまった。そして秋……あれから10数年は経っていると思われる時、少年は青年となり、「妻を殺した」と言って戻ってきた。それは、あの少女ではなかったのか。
30代というような年恰好の彼は、一番美形。香川照之を美形にしたような感じ。一番愛していた人に裏切られたという呆然とした様が、ますます彼を美しく見せるというのは、皮肉なのか。怒りをぶちまける彼に老僧はこともなげに諭す。それが俗世なのだと。お前はそれを知らなさ過ぎたのだと。お前が相手を愛するのと彼女が他人を愛するのは同じことなのだと。仏の前で死のうとする青年。でも死にきれない。老僧は叱責し、自ら床に般若心経を書き出す……猫の尻尾で、というあたりがなんとも愛らしい。ニャーニャーと抵抗する猫をしっかと抱き抱えて老僧は般若心経を書く。そして青年に……その妻を殺してきたという血だらけのナイフで、この般若心経を彫れと命ずる。そして心穏やかにせよと。

やがて、彼を捕まえにきた刑事たちがやってくる。般若心経を彫る間は彼らは待とうと言う。一心不乱に彫り続ける彼に、次第に刑事たちも心を動かす。朝までかかってやっと掘り終えた青年は手を血だらけにして泥のように眠り、刑事たちはその上からそっとジャケットを羽織らせてやる。そして老僧と一緒に青年の彫った般若心経にとりどりの色をつけてゆく……。
般若心経に色、だなんて考えもしなかったことなんだけれど、でもなんだか、なんというか……老僧の、青年へのはなむけのような気がして、そして刑事たちもその老僧の気持ちを汲み取ったし、絶望のふちで一心不乱に般若心経を彫り続ける青年に心を動かされたから、手錠をうたずに彼を静かに連れて行くのだ。小船に乗った青年は振り返り、彼に老僧はおだやかに手を振る……青年の、泣き出しそうな、感謝とも名残惜しさともなんとも言いがたい表情に、胸が、つまってしまう。

でも、その後、愛しき教え子を見送った老僧が選んだ道は……!!あまりにも、あまりにも……。
目、耳、鼻、口、すべてに「閉」と書かれた紙を貼り付け、息も出来ない状態で、小船に木切れでやぐらを組み、火をしかけて座り込む。水の中、炎に包まれる。ウソでしょ、なんで、どうして……自分の中に青年の罪も何もかも持って焼き尽くされ、すべて無に帰すという意味なの!?
老僧は判ってたんだ。人生の全てを、過ちなく完璧に過ごせる人などいないことを。そんな人は、かえって完璧じゃないんだ。最初から判っている人など、最後まで何も判っていないのと同じなんだ。青年は人まで殺してしまって……大きな罪を犯したけれども、だからこそ穏やかな「冬」が来た。それを老僧は願って、あんな風に姿を消したんじゃないんだろうか。
人間は、こんな風に、送り出してくれる人間がいるからこそ、順々に命が与えられるのかもしれない。
そして、冬が来た。

刑期を終えたと思しき壮年期となった彼が帰ってくる。もう、かつて自分が教えられた老僧と同じ年ぐらい。庵は氷の中にうずもれ、小船も氷の中に閉ざされ、厚い氷の上を歩いてゆく彼。……こんなに、厳しい季節になるんだ……その厳しさゆえの高潔な美しさに見とれながらも、寂れた庵、そしてこの凍った小船の中にまさに高潔に眠る老僧を思って胸が締め付けられる。
たたんで置かれた老僧の衣服から悟った彼は、凍った小船を懸命に掘り出す。そして、老僧の遺骨を厚い厚い氷の中からほんの少し(歯?)だけようよう取り出すことが出来た。
夏の季節、少年だった彼が持っていった石仏、そして秋に持ち帰ってきた石仏。夏から秋の、俗世の彼にもきっと何かを与え続けてくれたその石仏、その下にひっそりと泳いでいた鯉も、氷に閉ざされていた。
刑に服していた間の、秋から冬の彼は、もしかしたら一番神様に近かったのかもしれない。そしてこの閉ざされた庵をずっと思っていたに違いない。……もしかしたら、愛しすぎたゆえに殺してしまった妻よりも。
氷を削り、仏を彫る。拳の教則本を見つけ、寒い寒い中、上半身裸で身体を鍛える。
ため息が出るほどストイックな生活の中、顔を隠した女性がまだあかんぼの男の子を抱いてやってくる……。

愛しい童僧だった彼もまた、こうして連れてこられたのだろうか。世の中に老僧とたった二人だけだった彼が、一体どんな境遇なんだろうと思っていたけれど……。
この状況はまごうことなき子捨て、だろうけれど、その母親は顔を隠した布を濡らして泣いている。
そして我が子のために祈り続ける。それでも顔の布は外さない。私はその布を外したらあの少女の顔が出てきそうな気がしてドキドキしたのだけれど……。
彼が寝ている間に、こっそりと帰ろうとする彼女は、しかし厚い氷の、穴のあいているところで足を滑らせて……うわ……なんてこと!そして母親の悲劇を感知したのか、あかんぼが泣いて氷の上を這っていく。うっわ、冷たいよ、冷たいよ、ねえ……子供のそうした感覚ってきっとあるんだろうなと思うけど……凄い、よ。
驚いた彼が慌てて追って抱き上げて、その小さな手を温めるようにこすってあげて、でもその子は泣きやまないの。氷に向かって何かを叫んでいるように見える……そうしたら、厚い氷の下に女性の姿がうっすらとあって。
彼は、哀れなその母親を穴から引き上げてやる。彼は布を外して彼女の顔を見たけれども、観客にはその顔は示されなかった。

彼は、大きな大きな石を引きずり、美しい仏像(釈迦像?)を手に、高い高い山を目指す。険しい山である。石の重みもあって(だって、とんでもなく大きくて重そうな石!)何度もつまづき、何度も転び、仏像を取り落とし、取りに戻り……めまいがするほど高い高い、その山々の中で本当に、一番高いと思われる場所まで登ってゆく。その彼にかぶさる、心震える魂のアリラン!ああ、なんだかこういうのも、ずっとずっと継承されてきた伝統の民謡のような、そうした本当に、魂の、としか言いようのない力強さが、日本人にも実に響くんだ……ああ、見えるの、そこからは。手鏡のような愛らしい湖。その中にぽつんと浮かぶ小さな小さな庵。本当に小さくて……でも山あいの、隠された神様の宝物のような場所、その場所をちょうど見下ろすような格好に彼は、あの美しい仏像を端座させるのだ。なんて、奇跡。
そしてめぐりくる春。あの頃の彼と同じような年頃の童となった、あのあかんぼは、彼と同じようにまた過ちを繰り返していくのだろう。でも、それでいいのだ。それは、神様の目から見ればちっぽけなもの。でもそれを繰り返し、繰り返し、愚かな人間はそうして、ちょっとずつしか神様のみもとへは進めない。

画が、すべて完璧。ため息が出るほど、震えがくるほど、名画が連続して目の前に現われる。あっていいのかと思うほど。
でも、ただキレイな画なら、他の人だって出来ると思うのよ。でも、これが、……ちっぽけな人の人生が、単純な人の人生が、ちっぽけだけど、単純だけど、愚かなことも繰り返すけれど、それを許し包み込み、また始めることが出来る、未来永劫から脈々と続いているまさに深遠が、ここに横たわっているんだもの。
観てる時はどちらかといえば淡々と観ていたのに、思い返せば思い返すほど、胸に迫ってたまらなく、泣きたくなる。神様のみもとで、深くこうべを垂れたいとまで思ってしまう。
水に浮かぶ庵。こんなお寺、本当にあったらいいのに。これぞ、“動く城”じゃないの!いや、突然動き出すのはラストになってからで、うわ、動くの!?と驚かされるんだけど……。
動いたのは、でも、どういう意味があったんだろう。少しでも、神様に近づけたということなのか、それとも逆に、俗世に近づいてしまったということなのか……。
でも、この浮かぶ庵、水の流れを回りにいつも見ていると、最初から動いているように感じる。
こういう感じ、「魚と寝る女」にも似ているなと思い……あの頃から既に、ギドク監督の中にはきっと、あったんだ、この世界が。

ありがとう、キム・ギドク監督。★★★★★


半落ち
2003年 121分 日本 カラー
監督:佐々部清 脚本:佐々部清 田部俊行
撮影:長沼六男 音楽:寺嶋民哉
出演:寺尾聡 原田美枝子 柴田恭兵 吉岡秀隆 樹木希林 鶴田真由 伊原剛志 國村隼 高島礼子 石橋蓮司 

2004/2/10/火 劇場(銀座丸の内東映)
原作は未読なんだけど、ただ直木賞候補になった時のちょっとした騒動を新聞記事で読んでいたので頭の隅にひっかかっていた。突然ヒステリックな論陣を張る林真理子氏は苦手だけれど、その論争が話のオチに関わることだったので記事でも奥歯に物がはさまったような書き方をしていて、ずうっと気になっていたのだ。本を読めばいいわけだけれど、結局ズルズル来て、映画化作品をまず観てしまった。観てしまったので、その論争がどういうものだったのかをちょこちょこ検索してみた。

それはこの主人公の梶が妻の後を追おうと一度は思いながら、なぜ思いとどまったのかという理由の部分。白血病で最愛の息子を亡くしてしまった梶夫婦は、骨髄バンクへ登録して、その結果、息子と同じ年頃の少年を救うことが出来た。妻はそのことを、息子が帰ってきたようだととても喜んだ。しかし彼女のアルツハイマーはどんどん進行し、自分が息子をちゃんと覚えているうちに死にたい、殺してくれ、と夫に彼女は懇願した。そして夫はその通りにしてやった。夫はその後妻の日記を見つけた。骨髄提供者に梶が命を与えたこと、それを見たいと、見せてあげたいと繰り返し書かれていた。会いたい、会いたい、会いたい……と。

つまりは、受刑者はドナーになれないんだというんである。それが事実誤認だといって、論じられていた。私はなあんだ、そんなことかとガクリとくる。それって単純にそのことを梶さんが知らなかったってだけでいいと思うし、そうでなくても、こと人の命を救うという事由なのだから、特例だの例外だのが発生することぐらい充分にありえるし、そう想像もできる。むしろそんなことで事実誤認だなんて言うなんて、作家さんなのにずいぶんと想像力に欠けるのねと思った。だからそのことについてはまるで違和感は感じなかったんだけれど……。

ただ、この映画が、とにかく泣けると、号泣できるんだと宣伝してやまなかったものだから、もうゴウゴウ泣く気でいた私は、いつ泣かせてくれるのか、いつなのかとじりじりしていたのだ。しかし、泣けなかった。そんな風にガチガチに構えていたせいもあると思うけれど、さあどうだとばかりに切り札のオチ(先述の)を出された時、えー?これでなの?と思ったのが正直なところなのだ。梶は自分が命をつないだその少年を守るため、頑なに彼にこっそり会いに行ったことを隠し続ける。もう逃げようがないぐらい固められても、頑として黙っている。その梶の決心というか態度自体が、ムリとは言わないけれど、納得させるには弱いような気がしたのだ。で、そここそが感動のポイントなんだろうから、余計にうーーーん、と思ってしまうのである。彼に会いに行ったのを隠すのはそんなに彼を守ることになるのだろうか……そりゃ、殺人者に命を助けられたってことになるから判らなくもないんだけれど、弁護士をはじめ、周りの人がジリジリする気持ちの方にこそ正しさはあるような気がして。つまり、言うべきだと。自分が正しいと、守ろうとしたその思いを言うべきなんだと。梶のガンコさはそこまでくると何か、自分だけで完結して誰にも入らせようとしないだけの、理不尽さにさえ思える。確かにそれはピュアなまでの愛と信念に貫かれているんだけれど……。

などと感じてしまうのは、彼が妻を殺す、最愛の妻をその手にかける、その気持ちにあまりシンクロできないということもある。でもこれはそれこそ想像力というか……活字の力と映像のそれの差にあるような気もしている。活字で書かれるそれは、ある程度の理想というか、多少現実的ではないロマンティックなことも、心情を書き込むことと(どの程度書き込んでいるかは判らないけれど)読者の想像力によって、リアルであるとさえ、感じとることが出来る。でも、映像は、映像、実際の、実写であるからこそ、そこで現実の世界として完結してしまっていて、想像力の介入する余地はなかなかない。だからこそ映像の力というのは凄いともいえるのだけれど、逆にそのバランスが悪いと、観客の気持ちが離れたまま終わってしまう。

この罪が裁かれる場で、若き判事、藤林が問い掛けた。魂を亡くした人間は生きているとは言えないのかと。梶は黙っていたけれども、その目は、その表情はそれを肯定していた。人間でなくなることを恐れた妻を、愛しているからこそその妻の気持ちをくんでやりたくて、殺したのだと。この藤林判事にもボケてしまった父親がいる。バリバリの裁判官であった父は、今や恍惚の人となって、藤林の妻が面倒を見ている。彼女は今回の事件を担当することになった夫に、自分もお義父さんから、殺してくれと言われたことがあるといい、彼の死を願ったこともあると告白する。たまらず藤林は彼女の言葉をさえぎる。
藤林はその点、確かに甘いともいえるのだ。自分の父親が同じ状況になっているという苦しさを抱えながらも、それに直接には相対していない。だから、梶に憤りを感じながらも、100パーセント強くは出られない。もしかして、自分も梶と同じ立場だったら、直接の身内だったら、その相手の気持ちを尊重する方を選んでしまったのかもしれないと思ったんじゃないだろうか。
梶に執行猶予をつけなかったのは、藤林判事の温情だと思う。51になって、ドナーの資格がなくなったら死のうとしている梶を生かすために。
でも、執行猶予がつかないことで厳しい判決だとざわめくマスコミにちょっと驚いた。いくら嘱託殺人とはいえ……人を一人殺したのに。

でも、やっぱり、“魂を亡くした人間は生きているとはいえない”というのは、やっぱりやっぱり、ロマンティックに過ぎると思う。それこそ、小説の段階まではいい。でも映画はどうしても社会性を帯びてしまうものだ。同じ芸術作品であっても、その点が大きく違う。先述の、殺人の罪に対して執行猶予がつくかつかないかという問題もそうだし、実際にこうした介護をしている人に、納得させられるだけの描写になっているとはとても思えないし、映画で、そこまで言い切ってしまっていいのかということに、ひどく抵抗を感じる。自分がこんな風に恍惚の人になってしまったことを考えると、自分も殺してくれっていう気持ちになるかもしれないと思う反面、そう訴えるのは自分で自分を支えきれないから、その弱音を含めた自分そのものを大きく受け入れてほしいからなんじゃないのかなとも思う。愛しているなら、本当に愛しているなら。

息子を亡くしてしまったことが大きな起因で、アルツハイマーになってしまった妻。そして息子のことをちゃんと覚えているうちに死にたいと言う妻。それだけが彼女の存在理由なのだとしたら、親になるのって、哀しすぎる。
そしてそんな妻を手にかけた夫。それはその哀しすぎる存在理由を肯定していることになるのだ。彼もまた息子の死にこれ以上ないショックを受けていたわけだけれど、目の前にいるのはたった一人の愛する妻なのに、息子の死の哀しみを理由にする彼女を殺してしまうのは、“たった一人の愛する妻”であるという定義をさえ、否定していることになりはしないのか。判らない。私には子供を持った経験はないから。子供に対する執着は、母親の方が強いのかもしれないし、だから彼女はもう打ちひしがれてしまって、死んだ方が幸せだったのかもしれないけれども、でも、子供を持った経験がない、という立場から見ると、前向きになれなくてもいいから、傷をなめあってでもいいから、たとえ魂を失っても、何もかもを共有して夫と二人で生きていきたいと、私なら思いたい。

でも、本当は、納得できない理由でも、納得させてほしいと思った。このロマンティックな理由での殺人に、共感できたら、涙が止まらなくなると思った。でも、ダメ。切迫感がまるでないんだもの。やはりこれも、映像の直截さが、それに頼ってしまって逆に弱くなってしまったせいがあると思う。構成がユルいというか……。なぜ梶が妻を殺したか。最初にもうそれは明かされてはいるんだけれども、その言葉が回想の形で映像によって語られる、それが弱いのだ。断片的で、しかも間があいていて、夫が妻を殺してあげたいと思うほどの切迫感をまで感じさせてくれない、だから納得できないのだ。
壊れていくにしては、原田美枝子はきれい過ぎる……壊れゆく女の美しさは充分すぎるほどなのだけれど、ここでそれは必要なんだろうか?

ただこれは、この物語の面白さ(というのもちょっと抵抗があるけれど)は、そういう精神的な部分というよりは、それぞれの立場がこの事件であぶりだされる人間性の生々しさ、という部分にあるのだろうと思う。梶は昔優秀な刑事だったのだけれど、妻の病気で警察学校の教官になった。そんな、警察官の鑑とも言うべき男が起こした殺人事件で警察は揺れに揺れ、警察と検事との間で隠ぺい工作やら告発やらの泥沼が繰り広げられる。罪を公平に摘発するのが仕事のはずの警察官が、大切な家族がいるから、などとそれがまるで正義の発言みたいに言って、しりごみをする。正しいことを追求しようとするのが、昇進への野望なんだとか、この人間同士の見苦しい泥沼試合はフィクションではあるんだけれども、こりゃますます警察なんぞ信用できんわ、なぞと思ってしまう。
マスコミ側の視点が一番面白くはあるけれど、一人勝ちというか、ちょっと得過ぎる様に感じたのは、この原作者自身が記者経験があるせいかしらん、などとちょっとイジワルなことを思ってしまう。鶴田真由かあ……彼女じゃ清廉すぎる。おちょぼ口が妙に気になる。上司で恋人(不倫関係?)の田辺誠一は相変わらずステキだけど。

主人公の寺尾聡を向こうにして、メイン張ってた佐瀬検事役の伊原剛志が意外に(失礼)かなり良かった。微妙に若くて、そのせいの向こうみずさがあって、野望もありつつも一方で共感できるだけの正義も持ち合わせている。と、こう書いてみると結構複雑なキャラクターなんだけど、その全てをすんなり飲み込んでいる素直さが良かった。最初に梶を取り調べる志木警視に扮する柴田恭兵は……うーん、年とったね、さすがに。肌のつやがないよー。
あのもぐもぐの発音の斎藤洋介が気になっちゃうんだよなあー。脇役なんだけどその発音にばっかり気がいっちゃって。うーむ。

もろ手を挙げて共感するわけにはいかない、と思う物語。主人公の寺尾聡にも迷いがあったように見えた……ような気がする。★★☆☆☆


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