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「い」


2005年鑑賞作品

苺の破片 イチゴノカケラ
2004年 91分 日本 カラー
監督:中原俊 高橋ツトム 脚本:MicA
撮影:柳田裕男 音楽:MOKU
出演:宮澤美保 梶原阿貴 押尾学 小市慢太郎 木村佳乃 余貴美子 カルーセル麻紀 甲本雅裕 塩見三省 長内美那子 宮谷恵多 石橋蓮司 高橋かすみ


2005/3/4/金 劇場(渋谷アミューズCQN)
ああ、何か、すっごく好きだなあ、これ。この映画が作り出されたスタンスも、とてもいいと思う。まず最初にありき、あの名作「櫻の園」。そこでデビューした二人の女優が再会して共同脚本を書き上げたものを、その二人を女優として世に送り出した中原監督自身が、彼女たちをまた改めてそっと送り出すように、手がけてくれた。最近は結構激しく濃密な物語をつむぐことの多い中原監督が、あの「櫻の園」、そしてその頃に手がけていたような優しくて柔らかくて甘やかで、でもちょっぴり心がチクリと痛いような世界をまた再現してくれて、本当に、そういう世界が好きだったから、何か私も恥ずかしながらもその頃に戻ったように浸ってしまった。だってこの二人、私とほぼ同じくらいなんだもの。だからね、なんだか、何となく、判るっていうか、判るというのとはちょっと違うのかもしれないけど、この時代に生きている、この年のオンナの空気っていうのが、やっぱり共有できるものがあるような、気がするのね。それはオンナと言ってしまったけれども、ひょっとしたらまだオンナと言えるほどでさえないのかもしれない、と。

「櫻の園」あれは、吉田秋生の傑作コミックが原作だった。その少女マンガの独特の空気感というのは、確かにあの映画の中に濃密に漂っていた。そして二人がともに執筆したこの映画の世界は、その、「櫻の園」の年頃に代表作「チェリーロード」をかっ飛ばして、そしてその後スランプに陥ってしまった少女マンガ家が主人公である。その「チェリーロード」に彼女は自分の少女時代のすべてを捧げ、そして不幸な事故が原因で、その時代から抜け出せないままに12年が経ってしまった。このヒロイン、イチゴに起きた出来事はドラマチックではあるけれども、そんな出来事がないにしても、私たちこの時代に生きる30前後のオンナたちには、そんな風に、女の子時代を引きずる、トラウマというほどではないにしても抜けきれない気分、というものがあるように思える。あの頃愛読していたマンガは捨てられないし、その世界にはいつでも浸れる。でもそんな、いまだに女の子時代を引きずっているような自分を気恥ずかしく思う一方で、そんな風にココロが揺れ動くだけで満足していた少女時代とは違って、カラダも満たされたいという欲求もある。でもカラダもココロも実際に満たされているわけではなくて、前へ進む一歩をずっとずっと模索し続けている……みたいな。

イチゴは、イチゴとしか劇中で呼ばれないけど、これはあくまでペンネームである。猫田イチゴ、だなんてロマンティックな名前、本名であるわけはない。いかにも少女漫画家らしいペンネームである。でも10代の頃ならいざ知らず、30歳も過ぎてしまった彼女にとって、そしてその10代の頃にすでに代表作を放ってしまって以来すっかりヌケガラのような作品しか描けないでいる彼女にとって、“イチゴちゃん”“イチゴ先生”という響きは、なんだかちょっとイタイようにも思える。それは……その代表作がすべてで、それでしか語られることのない痛々しさも含まれる。「チェリーロード」の猫田イチゴ先生ですよね、としか言われない。パーティーの席上頼まれてコースターに描いたサインとイラストは捨てられ、コップの水蒸気に滲んでいる。あまりに、キビしい。
でも、演じる宮澤美保は、そんな名前がピッタリとくるような愛くるしい容貌の持ち主。年相応に見えながらも、“イチゴちゃん”であるコケティッシュなキュートさが白々しくない。

でも、彼女、冒頭いきなり仏頂面で登場である。後輩の、今や自分を追い抜いてすっかり人気漫画家になってしまったコの結婚パーティーに出席しなければならないから。
この時には彼女のコト、まだ何も描かれていないから、すんなりと見逃してしまいそうな冒頭シーンなんだけど、これは彼女自身そのものを語る上で、確かに重要な冒頭なんである。そう、彼女は猫田イチゴ。本名は別にあるのに、猫田イチゴ以外の何者でもない。猫田イチゴとして、生きていくしかない。それが、大げさに言ってしまえば、彼女の使命なのだ。
イチゴと対照として描かれるのが、彼女の大親友で担当編集者から専任マネージャーとなった知子である。イチゴのことなら何でも判る、あうんの呼吸でありながらも、イチゴのあり方と知子のそれは、180度違う。

それを端的に顕わしているのが、イチゴの行きつけのバーのママが言うこの台詞なんである。
「知ちゃんと、別れちゃダメよ。あの子はイイ女よ。でも普通の女なの。子供しか産めない。でもあんたはそれ以外のものも産み出せるでしょ」
うっわ、イタタタタッ!“普通の女なの。子供しか産めない”ってスゴい台詞だなあ……。この台詞をこの二人の主演女優がそれこそ産みだしたっていうのもスゴいけど、それ以外のものどころか子供も産め(ま)ない女はどうすればいいのじゃ……(ふっと、わが身をかえりみたりして……)
しかもこれを、カルーセル麻紀に言わせるっていうのが、さらに凄みのある説得力なのよね。カルーセル麻紀は本当によかった。これぞ、人生がにじみ出るってことなんだろうなあと思う。イチゴが何か答えを求めてこのバー「どん底」(スゴすぎる店名……でも、あったな、昔住んでた鶴見に)に通いつめるっていうの、判る気がする。チーママであるオカマのメリッサは、実際にはフツーの男性である甲本サンが演じてるから、やっぱりホンモノの、男から女に飛び越えた麻紀さんの凄みにはかなわないんだよね。彼女は時に厳しい言葉をイチゴに投げかけるんだけど、例えば「女の悪いクセが出た。すぐ他人に甘えようとする」とかね。やっぱり彼女だからこそ、その台詞にズシンと重い意味を感じるんだよなあ……私も相談にのってほしいよ……。

そうそう、イチゴはね、このメリッサとヤケクソで寝たりもするわけ(それにしても、切ってないとはいえ、オカマさんと寝られるもんなの?女相手には勃たないんじゃないのかなあ)。イチゴは“女の子”の気分を引きずったまま大人になってしまって、カラダは求めていても、それに比例する心になっていない。彼女のスランプはそれが原因。
イチゴは多分、あの「チェリーロード」に描いた、大好きなセンパイ以来、恋というものを、していない。セックスは、してるけど。いや、そのセンパイに対しては、やっと手紙を渡せたぐらいで、その恋は片思いのまま終わってしまったから、その恋だって、完成形の恋と言えるものではなかったのかもしれないと思う。
だとしたら、イチゴは、ひょっとして、今まで一度も恋をしていないのかも、しれないんだよね。
それなのに、カラダは求めてしまう。心が満たされないままだから、カラダが満たされてもその空虚さがカラダの空虚さの方に侵入してきてしまう。
そして、イチゴはトラックにはねられてしまった。三日間の昏睡状態の中、あのセンパイに再会した。

センパイは、海辺でバイクメンテナンスの店を営んでいる。電話などない(ま、夢の中だし)。「オレに会いたいヤツは、ここに会いに来る」その台詞に、ずっとずっと彼に会いたかったイチゴは嬉しそうにうなづく。
彼女が着ていたパーティー用のチャイナドレスは、センパイが「似合わないから」と焼いてしまっていた。センパイから借りたダボダボの部屋着をまとうイチゴは、ホントに少女の無防備さそのものである。
ハデなカッコが「似合わない」と言われたことの、嬉しさ。あの頃、いつもセンパイの隣りにいた彼女の存在をまたここでも目にする。だけどセンパイは自分が出した手紙をまだ持っていてくれて、そしてその手紙にも書いた、念願だったセンパイのバイクの後ろに乗ってのドライブがかなう。
夢の中のセンパイとの接近遭遇は、この、センパイの背中にしがみつくのがギリギリせいいっぱいである。セックスはおろか、キスも、手をつないだりさえ、ない。センパイはイチゴの気持ちを知っていながらも、それに応えようというわけではない。ただ、イチゴの夢をかなえて、バイクの後ろに乗せてくれるだけ。
でも、あの頃のイチゴにとっては、それだけでもいいと思ったし、恋が成就するってことさえ考えていなかったんじゃないかと思う。
そして、大人になって夢の中で再会したセンパイに対しても、同じことを思ってる。センパイの恋人の存在にドキリとしながらも、それを排除しようとか、自分がとってかわろうなんて思わない。
思うだけで、精一杯だった、恋の季節。それさえも乗り越えないまま大人になってしまった自分。
乗り越えられなかったのは、このセンパイが死んでしまったから。

イチゴはセンパイへの思いを込めて、「チェリーロード」を描く。大ヒットとなった、彼女の代表作。でも、ラストシーンは、遠く続く道の真ん中に倒れるバイク。イチゴは作品内でセンパイを殺すことで、その恋を乗り越えようと思ったに違いない。それは間違っていなかったと思う。普通なら、それで彼女はそれを乗り越えられて、ホンモノの、大人の女へと、そして漫画家へと、成長できたんじゃないかと思う。
でも、こともあろうに、センパイは、まるでイチゴが予言したかのように、本当にバイク事故で死んでしまった。
私が、あんなことを描かなければ、センパイは死ななかったかもしれない。そう、イチゴが思ったのも、ムリはなかったかもしれない。
でもそれは、どこか甘美な思いでもなかっただろうか。センパイをこの手にしたんだっていうような思いが、無意識下でもなかっただろうか。
でも、確かにイチゴはこの時、センパイを手放そうとしていた。これが少女の時を脱する儀式だってことを、判っていた。そうできれば、センパイへの思いなんて、青春の思い出、言ってしまえば大したことではなかったはずなのだ。
でも、センパイは死んでしまって、イチゴが思う以上に、重い存在になってしまった。彼女が大人になることを許さないような、束縛になってしまった。
でもそれが、イチゴはどこか恋がかなったように、思ってはいなかっただろうか。

イチゴの親友であり、マネージメントする知子は、このセンパイに会ったことはないというし、元は彼女の担当編集者だったというから、高校卒業以降の付き合いであろうと思う。つまり、あの青春時代を共有した相手ではない。
この知子には小さな男の子がいるけれど、実家に住んでいて、夫の影はない。離婚というより、シングルマザー的な雰囲気がある。
そういう意味をすべてひっくるめて、この知子は、イチゴよりもはるかにしっかりとした、大人の女、という雰囲気がある。
でも、この知子は、イチゴがそういう、世間知らずな子供っぽさを持ってて、友達としてほっとけない、という気分を確かに漂わせながらも、イチゴの側を離れない理由は、何よりこのイチゴのクリエイターとしての才能を尊敬しているから、というのがとてもステキなんである。
「どん底」のママが、知子のことを“普通の女”と言いながらも“イイ女。別れちゃダメよ”と言ったのは、この部分こそを重視してるんじゃないかと思うのだ。確かに知子にはクリエイターとしての才能はない、のかもしれない。でも、イチゴのクリエイターの才能を、友達という枠を超えて評価する器があるし、それこそが、編集者としての才能、なんだと思う。
イチゴのような才能の持ち主もうらやましいと思うけど、知子もそうした才能の持ち主だし、やっぱりうらやましいなと思う。
何より、こんな友情がうらやましい。女の友情って男のそれに対してとかく懐疑的に語られることが多いし、私は我ながら友達甲斐のないヤツなので、自己嫌悪的にそう思ってしまう部分はあるんだけど、女の友情はこんな形がステキだな、イイな、と思うんである。

女の友情は、男で壊れると、よく言われる。
ここでも、イチゴの担当編集者であり、今回「チェリーロード」の続編を持ちかけてきたサカイは、イチゴ自身が気に入っており、カマかけてオトそうとするんだけど、実は彼は知子とデキており、そのことで一度、イチゴと知子は絶縁状態になってしまうのだ。
実際、サカイ自身、それが発覚した時(思いっきり、ナマナマしい状況で)ヤバいと思い、ひたすらイチゴに頭を下げるんだけど、イチゴは知子ではなく、サカイに嫉妬したんじゃないかと思ったりも、するんだよね。
知子を、とられてしまったというような。別にそんなレズビアン的雰囲気があったわけではないんだけど、サカイが知子との真剣交際を口にすればするほどイチゴがスネたっていうのが、そんな感じを受けちゃって。
やっぱり、イチゴは、まだまだ、女の子、なんだよね。知子はもう大人だから、イチゴへの友情と、そして彼女の才能をのばすという使命、それとサカイとの恋愛はフツーに同時進行できてる。なんたってサカイ自身もイチゴの才能にはホレ込んでて、いい作品を見たいと思っているんだから、尚更である。
でも、イチゴはセンパイに対する思いがそうだったように、知子に対する思いも、他と同時進行が出来ないんだよね。こういうのって、女の子な気分の特性だと思う。
そして、そういう気分を、ついつい引きずっているのが、この彼女たちと同じ時代、同じ年代の、私たち元オンナノコだったりするんだと思う。
だからどうにもこうにも、見てて、痛くて切なくて、仕方ないんだよね。

それにしても、このサカイを演じる小市慢太郎である。よーちゃん目当てに見ていた「救命病棟24時」キャストに彼の名前を見た時、あ、なんかの映画で、すっごく素敵だなって思ったんだよなー、と思って、でも何の映画だったか思い出せなくて、どんな役だったかも思い出せなくて、とにかく彼が素敵だって記憶しかなかったのね。その時点で調べりゃ良かったのにそのまま「救命……」に突入して、ああッ、アマノジャクな日比谷先生がステキッ!とか思ってたところに、本作で、うわ、小市さん、すっごい素敵!この素敵さは、以前素敵だと思ってたあの感じだわ!とようやく調べたら……同じ中原監督の「コンセント」だったんですねー。きっと中原監督にとっての小市氏は、こういうイメージなんだろうな。それはまるで松岡錠司監督にとってのトモロヲさんがひたすらイイ人であるかのように。それにしてもほんっとに素敵、小市さん。もう、素敵としか言いようがない。イチゴがホレ込むのも判っちゃう。全てを包み込んでくれるような優しく柔らかな笑顔、イチゴのことで悩む知子をしっかりと抱きしめるあの包容力、そして、こんなにイイ声だったということを、なぜ今更ながら気づいたんだと歯噛みしたくなるような、低音ながらもベルベッドのような心地よさの声……はあああ、小市さん、もお、素敵すぎるんですけど……知子の息子と遊んでるあのエンドクレジットのトコなんて、もー、そのパパそのものの笑顔で、私陥落してマグマ行きだよ!主演作「張り込み」を見逃したことが、今更ながら激しく悔やまれるッ!

その、知子を演じる梶原阿貴は、「のんきな姉さん」の主演で、私の中にとても強い印象を残した女優さん。そりゃ「櫻の園」は好きだったけど、私にとって梶原阿貴といえば、「のんきな姉さん」の揺れるキャリアウーマンの印象が味わい深く残っている。ヒロインの宮澤美保のアイドルっぽいかわいらしさを残す風貌と比べて、彼女には生々しい女っぽさを感じさせ、同時に何かを一途に信じるが故の折れてしまいそうな純粋さも感じる。「チェリーロード」の続編をうながしながら、センパイとの願望を描き連ねることしか出来ないイチゴに「チェリーロードには触れてはいけなかったのかも……」と親友の心をかき乱した自分を責めるように震えて涙する知子。その彼女の顔を両手で挟んで、そんなことない、って言い聞かせる小市さんが……はあああ、素敵すぎ……そしてわああ!と泣き出して彼にしがみつく梶原阿貴が、うう、ちょっとうらやましいかも……。

あの、冒頭で、後輩の結婚式に、憮然としていたイチゴ。新郎に「シアワセにしてあげてね」なんて言いながら、なんか、白けてて。
別に、イチゴにコレ以降、知子にとってのサカイのように、大切な人が現われることがないっていうわけじゃないんだけど、でも「どん底」のママが言うように、イチゴは“子供以外のものを生み出せる”女であり、この結婚式に対して憮然とした表情をさせるイチゴ、というのは、実に意味があるプロローグだったんだよね。
「シアワセにしてあげてね」なんて、冗談じゃない、と私としては思うわけ。まあ、イチゴがそこまで思ってるかどうかは判んないけど、それが知子に対してはある程度、50%ぐらいは(知子は結婚したってイチゴのマネージャーは続けるだろうからさ)当てはまるだろうことに対して、イチゴにとっては、本名ではない、イチゴがイチゴである限り、シアワセになるには、自分でそうするしかない、わけでさ。
シッカリしたキャリアウーマンとしてカッコよく見える知子より、孤独でも、孤高の人としてカッコイイのは、スウィートな外見ながらこのイチゴの方かもしれないのであり。

でもね、知子がいなきゃ、いけないんだよね。いいな、こういう女の友情が欲しい。誰かに必要とされるとか、誰かに尊敬されることが、うらやましいと思う。

センパイの13回忌で初めて対峙したセンパイの彼女は、今は結婚して、子供が二人いるという。そのセンパイのことをその彼女も忘れられない記憶として刻みながら、今の生活を「大変よー!」とイチゴに語る。
彼女なんだよね、イチゴの名前を聞いて、思わず笑ってしまったのは。「あんまりカワイイ名前だから」と。イチゴは別にそれにムッとすることもなく、「漫画家なんです。ペンネーム」と言う。彼女は「ぜひ読ませていただくわ」と言う。イチゴが渾身の心を込めて書いた、センパイへの思いの「チェリーロード」を、この彼女はどう受け取るのだろうか。
ずっとセンパイのことが忘れられなくて、今まで生きてきたイチゴ。
センパイのことは大事な思い出として持ちながらも、結婚生活を忙しくすごしてきた彼女。
センパイに対する思いは、どちらが重いというわけではないと思うんだ。いやむしろ、やはり恋人だった彼女の方が重いんじゃないかと思う。でも、恋を思い出に出来るかどうかが、大人への別れ道なのかもしれないと、思うんだ。センパイへの思いを持ち続けながらも、それと両立して、矛盾ない形で、結婚生活を忙しく過ごしている彼女。センパイへの思いを昇華しきれずに、自分を克服できないでいたイチゴ。
過去の恋の思い出は、その人生の中に両立しながら進めるのだ。きっと、それが大人の女性への別れ道。

「俺に会いたいやつは、皆ここに来るんだ」そう言っていたセンパイ。
センパイの13回忌に来たイチゴは、そんなセンパイの幻影に言う。「判ってます。でももう、来ません」。ふり返るとセンパイはいない。親友の知子だけがかたわらにいる。
恋人も、家族も、大事だけど、人生に必要だっていう点で唯一なのは、友達じゃないかって、思う。
恋人は、一生いない可能性だってある。それでも人間は生きていける。家族は必要という以前に、絶対的に存在してしまっている。必要というより、まず、肯定してからその関係性を築いていく存在。
でも、友達は。恋人みたいに思い出の中にいて満足という存在じゃない。友達は、今、いなきゃいけない。恋人よりも打算がないから全てをさらけ出せて、家族よりも、絶対性がない分、大切にする努力をする存在。
友達が、いないのは、キビしいかもしれないなあ……。

前提としてありがならも、そんなに「櫻の園」を引きずった印象はなかった。イチゴの母親の余さんが、キョーレツだったなあ……。少女マンガ的甘さの中に、それに先導されているからこそ痛烈に感じる恋の痛みと友情の重要さと恋人の大切さ、そして自分自身という避けては通れない存在を突きつけられる。★★★★☆


いつか読書する日
2004年 127分 日本 カラー
監督:緒方明 脚本:青木研次
撮影:笠松則通 音楽:池辺晋一郎
出演:田中裕子 岸部一徳 仁科亜季子 上田耕一 杉本哲太 鈴木砂羽 香川照之 渡辺美佐子

2005/7/12/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
高校生の時の、もしかしたら初恋を、初めて相手と同じ思いを抱いた恋を、50歳になるまで持ち続けているなんて、しかも結婚もせずに、誰にも知られずに、でも相手とはその思いを共有していることを確信に近く思い抱いて生きている女なんて、そんな、メロドラマにも程があると思いながらも、ひどく、ひどく憧れる。そんな風に恋をしたいと激しく焦がれる。
この美奈子の恋が恋として成就するのはたった一日。いや、私たちが、恋にはそれがつきものと思ってしまっているセックスというものを絡めて考えれば、の話。
決して昔はそうではなかったはずなのに、いつの頃からか、セックス抜きに恋愛を語れなくなってしまった。純愛ものと言われるものさえ、必ずセックスの挿話は入ってくる。そうでなければ、心が通じ合っていることを確かめられないような時代になってしまった。
確かに、二人は最後、本当に最後、ずっとずっと押し殺してきた気持ちを爆発させるようにして、「今まで思ってきたことをしたい」「全部して」という、胸を締めつけられるような台詞のもと、その何十年間を一晩に凝縮させるように求めあうけれど、ずっとお互いを思い続けてきたその気持ちは確信としてお互いの胸に持っていて、いわばその一晩の出来事は、ずっとその愛しい人に触れたかった思いが顕われたもの、といった方が近い気がする。

「私の思いは決して知られてはならないのです。神様が本当にいるなら、二人っきりでそれを確かめる時間が欲しい」
美奈子はいつも聞いているラジオ番組に、そう丁寧にハガキを書いて投稿する。パソコンも携帯電話も持っていない美奈子は、いつも時間をかけて、丁寧に字を書く。
それを読むラジオパーソナリティ。「キレイな字ですね。文面からすると20代でしょうか?」でもリクエスト曲は『雨の日と日曜日は』「懐かしい曲ですね。20代じゃないかもしれませんね」……美奈子はせいぜい20代の気持ちのまま、生きているんだ。
でも、これは本当の物語なのだろうか……というのもヘンな言い方だけど。劇中フィクションのような趣もある。
ずっと一人でいる美奈子を心配する作家の皆川敏子が、彼女をモチーフに小説を書いていて、それが美奈子と槐多の物語に重なるからである。つまり、ずっと一人でいる美奈子の中にある、秘めた情熱を、槐多という人物を作り上げて投影したんじゃないかって。
などと思うのは、緒方監督が槐多を演じる岸部一徳に、物語の中の人物として、感情を殺して演じてくれと言ったという話とも重なるからである。

美奈子は、この年まで一人で生きている。この坂道の多い、斜面にびっしりと家が立ち並ぶ、お互いによく見知っている小さなコミュニティの土地で、浮いた噂のひとつもなしに、牛乳配達とスーパーのレジ打ちで生計を立てながら、判で押したような、他人から見れば何が楽しいんだろうというような暮らしを続けている。
美奈子は言う。「私は15の時に、一人で生きていくことを決めた」んだと。
一方、槐多は妻に言う。「俺は平凡な人生を送ると決めたんだ」と。
妻にそういうこと言うかなあとも思ったりするけど……まあそれは平凡な人生がイコール幸せな人生だとして言っているんだろうとは思うけれど。
しかも、そんな人生を送るためには、あの人(美奈子)はジャマなんです、とまで言う。美奈子が特別な存在であることがアリアリである。
この美奈子と槐多の台詞というのは、一人でいる美奈子と結婚した槐多という違いはあれど、何か、どこか共通するものを感じるのだ。

美奈子は両親を亡くしている。未亡人だった母親は、槐多の父である若い画家と不倫関係にあり、その最中に二人でトラックに跳ねられ、共に死んでしまった。それは美奈子が槐多と付き合っていた高校時代に起こった。美奈子が一人で生きていくと決めたのは15の時だというからこの出来事が原因になっているわけではないんだろうけれど、でも美奈子は15の時からこの母親の不倫を知っていて、だからそう思ったんじゃないかと思わなくもない。
「……お兄さんやお姉さんたちはこの町を出て行くけれど、 私は出ていかない。一生この町で生きていく……」そう作文に綴った美奈子。確かに今は誰もが出て行ってしまう。好きな人がそこにいたとしても。好きな人に対する思いは、今はその程度のものなのかとも思えなくもない。

今でも少女の潔癖さを引きずっているような美奈子、スーパーの店長と同僚の子持ち出戻りのマリが朝っぱらから激しくキスしまくっている現場に出くわした時など、からかい気味のもう一人のおばちゃんとは対照的に、あからさまに嫌悪感をあらわにする。「犬や猫じゃあるまいし」「悪いことです。やるなら家でやって」と、あまりに生真面目に言うもんだからちょっと笑っちゃうぐらいなんである。
でも美奈子の中に、その少女の頃からの、奔放な母親の記憶がずっと消えずにあるのだとしたら……。
彼女は、自分にもその母親の血が流れていることを嫌悪していたんじゃないだろうか。
槐多への思いは幼いながらも真剣なものだったに違いないけれど、それがセックスということで揺らぐのが怖かったんじゃないだろうか。
美奈子が槐多のことを忘れたいと思っていたら、この土地から出ていったはず。彼とは一緒になれないけど、同じ街で暮らし続けたいと思ったんじゃないのか。
確かに、その事故以来二人は疎遠になってしまった。美奈子は槐多に、どうして冷たくなったのか、と聞くと槐多は、「プールで溺れた俺をお前が笑ったから」とヘンな理由を挙げて……でもそれはラストへと見事に収斂していくんだけど……でもやっぱり、そんな美奈子の思いを槐多も感じていたからなんじゃないかと思う。
スーパーの店長が美奈子にバカなことを聞く。「大場さんて……バージン?」でも美奈子はそれに答えない。憤然とした表情でドアを閉めて行ってしまう。
もしかしたら、いや多分、本当に、そうなんじゃないかと思う。
50になる年まで、あのたった一晩までそうだったんじゃないかと思う。
それはおかしいどころか、ひどく幸せなことのように思う。

美奈子は、心配してくれる敏子(死んだ母親の友人)に言う。「私、そんなにつまらなそうな女に見えますか」と。
敏子もかつては、妻も子供もいたダンナを略奪した過去を持っていた。「だから、私、絶対にこの人を看取るって決めてるの」と敏子は言う。
このダンナはかつては英文学者だったんだけれど、今は認知症が進行し、どんどん昔へと返っていっている。
英文学者だったせいなのか、彼は言葉の中で生きている。言葉が失われていくことを、彼自身が実感しながら症状が進行している。彼の中で言葉や言葉を調べるすべを無くしかけて、うろたえる。うろたえている間に、あっという間に時間が過ぎて、更に彼はうろたえる。切り貼りのような大きな字幕で示されるそれはコミカルだけれど、人生の最後に近づいたそんな哀しい喜劇性を思わせて、泣きそうになる。敏子はそんな夫に、とにかく言葉を大事にして接して、ずっとずっと付き添っている。愛する者の側にずっといられるのは嬉しいと思いながらも、突然いなくなって食堂で二人分のカレーライスを前に呆然としている夫を見つけたりして……泣く。彼の中でどんどん時間がさかのぼって、もうそこに自分はいないから。

街には、スプーンを持って、夕食にカレーを用意する家庭に現われるカレー小僧出現のウワサが流れていて、でも彼の前に現われるそれは、明らかに戦前の、彼自身かもしれないザシキワラシ。
そんな風に突然いなくなるこのダンナさんを探すのを、偶然通りかかった美奈子と槐多が協力する。ようやっとダンナさんが見つかり、ちょうど橋の向こうに探してくれていた槐多が佇んでいるのを見つける。「高梨さん」と声をかけても気づかない。美奈子は、きっとあの少女の頃と同じように、「槐多!」と怒鳴るように叫ぶ。
槐多が、驚いたように振り向き、そこに重なるドラマティックな音楽!
きっと、あの頃以来だったに違いない。美奈子が彼を名前で呼ぶなんて。そしてハッキリと目を合わせたり、こんな近い距離で対峙するのも、あの頃以来。
そして美奈子と槐多の目の前には、長い長い時間を夫婦として過ごして、いまや夫が妻を忘れてしまっているこの二人がいるんである。でも、お互いにお互い同士しかいない二人を。

美奈子と槐多は、最初から最後まで、恋する二人の結びつきだから。槐多には末期癌で自宅療養をしている妻がいる。この夫婦には子供がいる雰囲気はない。というのも、市役所の福祉課に勤めている槐多が、育児放棄されている子供を救い出そうと児童福祉司に働きかけるんだけど、早急な解決を渋る福祉司は、「引き離されて子供は傷つくんですよ。あなたも子供の親なら判るでしょう」と言い、槐多が鼻白んでしまう場面があるから。
そして、実際に子供を救出に行くと、確かに母親もその恋人の男もヒドいし(全然子供の存在を気にしていない……というか、子供たち自らが洗濯ロープに縛られてじっとしてる!)救い出さなければ大変なことになる、だろう、とは思うんだけど……やはりその場になると事務的になってしまうというか、子供を奪い去る、みたいな感じになって、槐多はまるで気にせずに起きようとしない母親を揺さぶり起こして、「本当にいいのか!子供をとられるんだぞ!」と絶叫するんである。でも、母親はまるで腑抜けたように無反応で……槐多は車の中で一人、やりきれないむせび泣きをする。
彼はもしかしたら意図的に子供をつくらなかったのかもしれないと思う。男として世間的なこともあって、縁もあったということだろうけれど結婚をして、でも彼の中には美奈子の存在がいたわけだし……そのことをどこか、後ろめたく感じているようにも映る。

そういえば、この作品には親子関係をフツウに幸せに感じさせる描写がまるで排除されている。敏子のところにも子供の影はないし、店長との結婚をもくろんでいたマリは子持ちだから再婚を焦っているみたいなんだけど、子供は登場しないし、子供がどうこうという話も特に出てこない。
でもこのマリは、美奈子に対比して興味深い存在である。
マリは店長が結婚する気はないことにショックを受けて、いまだに一人、いつも一人、で凛と生きている美奈子に言うんである。「一人で寂しくないんですか」と。美奈子は「あなたには子供がいるじゃない」と言い、「くたくたになるまで働けばいいのよ」と言う。
前半の台詞には、やはりどこか、マリにはある子供というよりどころへの憧れを感じなくもないけれども、一方、後半の台詞には、それをいろんな言い訳にしている女への反発のようにも思える。
美奈子の高潔な生き方は素敵だし、寂しいんじゃないかとか言われることに大きなお世話だって思うし、人生の幸せは一人一人違うものだし……ては思うんだけど。
そう出来る女と、出来ない女がいるんだよね。
美奈子の台詞に「そっかー」と納得していた風なマリは、しかしその後、チャッカリ別の男にアプローチしている。それを見て同僚のオバチャンは「あっらー」みたいに呆れたような嘲笑のような笑いを浮かべるんだけど、美奈子はどこか憮然とした表情をしている。
これからの経済的なことを考えて、男に寄りかからなければと、精神的なことをむげにしているマリに失望したのかもしれないし、そんな風にあからさまに(つまりは正直に)男に人生を頼ることを選択できてしまうマリをうらやましく思ったのかもしれない。

美奈子がうらやましく思ったのは、マリよりも、やはり圧倒的に槐多の妻の容子に違いない。
演じる仁科亜季子の抑制の効いた、しかし中にうずまく執念を感じさせる、死へ向かうはかなさと生きているうちに残しておかなければという気迫のミクスチャーが何ともはや絶妙である。私は役者としての彼女を初めて観たけれども、家庭に収まって(収まらされて?)いたのが実にもったいないと思えるほど。
この妻は、槐多と美奈子の、何もないけれども、気持ちはずっと思い続けていることに、気づいた。それを確信したのはなんてことはない、中学の同級生である美奈子が槐多の家に牛乳を配達しているという、それだけのことだったんだけれど。
もう体力もない容子は牛乳を飲めないし、槐多も一口飲んだだけで流しに捨ててしまう。なぜそれでも取り続けていたのか、妻のカンなのか、女のカンなのか、死にゆく者の執念なのか……容子は判ってしまうんである。
もうムダだからやめようか、と夫が言っても、容子はそれを頑として否定する。平凡な人生を望んでいたんだと言っていた夫が、それを体現するかのように自分を看護する生活を淡々と続けていることに対して、この小さな事実と大きな推測は、容子を幸せにさせた。
それは、自分を献身的に看護してくれる夫に対して、ただひとつ出来ることを見つけたから。
容子は確かに、槐多を愛していたに違いない。槐多も容子を愛していたと言えるかもしれない。美奈子にずっと恋していたとしても……。

結婚する相手と、恋をする相手が違うというのは、確かにそうなのかもしれないと思う。
容子に呼び出されて、自分が死んだ後は気にせずにあの人と一緒に暮らしてほいと言われた美奈子が、首肯することが出来ずに、涙を流して懇願する容子に「ズルイです」と言うばかりで……美奈子はなぜだか腹がたってしまって、なぜ腹がたつのか判らないけど、それは多分自分に腹がたっているんだ、って思うのが、何だか判る気がして。
美奈子は容子がうらやましかったに違いないんだ。だってやっぱり槐多が好きなんだし、こんなこと、妻の立場でなければ言えない。残されるダンナの行く末さえも案じて、嫉妬という感情さえも超越して言える彼女がうらやましかったに違いないんだ。
この物語は美奈子と槐多の視点で描かれているから、恋の切なさに焦点が当てられているけれど、容子と槐多の視点だったならば、こんな美しい夫婦愛ってないと思う。
それは、どっちが上か下かというわけではないのだ。決定的なライバル関係である美奈子と容子だけど、容子はそもそもライバルになる気なんてなかっただろうし、美奈子だってうらやましい気持ちに胸が焦がれていながらも、槐多と距離を置き続けてきた決心を、この奥さんの懇願を受け入れる形で解いたのだから。
槐多を呼び出して、彼女の母、彼の父の事故現場に花と線香を手向けようと提案する。そして奥さんの提案に応える形で、あなたの言うとおりにするから、と、この街を出て行けと言うならそうします、と美奈子は言うのだ。
そんな風に頑なに言う美奈子だけど、槐多がどう思っているかぐらい、判ってた筈。
そして、二人は30数年の思いをとげることになるのだけれど……。

その夜が明けて、美奈子はいつものように配達に出かけた。槐多は美奈子の小さなベッドで目を覚まし、雨の中を一人、出かける。
あの、保護された男の子を見つける!川に入り込もうとしている!!槐多は夢中で川に飛び込む。泳げないのに……。
そう、泳げないはずなのだ。観客はそれを知らされている。「泳げなかった俺を、お前が笑って見ていた。俺はお前に笑われながら死ぬんだと思ったんだ」というあの台詞。
まるで冗談ぽかったのに、こんな伏線があったなんて……。
男の子は槐多に助けられて助かった。だけど槐多は川下から発見された。不思議な笑い顔のままで、引き上げられた。「お前に笑われながら死ぬんだ」と言っていた槐多が、自ら笑いながら死んでいった。彼はそれを夢見ていたのか、それとも予期していたのか。
あの時、配達途中の美奈子が騒ぎを聞きつけて川べりに駆けつけた時、遠かったけど、彼の笑い顔が見えていたと思う。
たった一晩に、数十年の恋を実らせた男の顔が……。

結婚する女と恋をする女は実際、違うのだ、きっと。結婚しててもずっと心の中で恋をし続ける相手はこんな風に、いるのかもしれないと。それが成就されたとたん死んでしまった男は、まるで禁断の果実を食べてしまったよう。あっという間に奥さんの元に行ってしまった。それまで思ってきたことをたった一日で味わいつくして。

何が楽しみなの。そう敏子に問われて、一瞬考えた美奈子が言う。街中の人に牛乳を配りたい。それが私の夢、と。ささやかな、とてもささやかな夢だけど、彼女が恋だけじゃなくて、この小さな街にこだわり続けたのが判る気がするのだ。
容子の死に、街中の人が路地に参列する様、誰の息子が就職したとか、人事消息が不思議に伝わってしまう小さなコミュニティー。
美奈子が配る牛乳の数の変動も、そのままそれにダイレクトに反映するんである。
実際、槐多の妻が亡くなって、牛乳は一本になる。しかも今までは飲んだフリしてた槐多はそのままその牛乳を飲まずに返すんである。
人間の、思惑までも含めた人生が生々しく映される。
美奈子は、容子が生きている時も、そして一本の牛乳が返されるようになってからも、そして更に、槐多までもが死んでしまって、もう配達する必要がなくなってからも、長い長い石段を「……よし!」と言って登って、誰も飲まない牛乳を届け、そのままの牛乳を回収する。
今はいない槐多に届けているに違いない、それはどこか、奥さんへの意地のようにも、同時に思いやりのようにも思え。
きっちり時間を刻んで牛乳を運んでいた美奈子。槐多の家には6時5分ピッタリに届けていた。容子が指摘するまでもなく、奥さんのベッドの横に布団を敷いて寝ている槐多には、牛乳のびんが軽やかにすれあう音が聞こえていた。
そうして、彼が死んでもいつものように運び、緑の丘にのぼり、風を吸い込み、晴れ晴れとした顔をする美奈子。長い恋から解放されたような……真の意味で一人になれたような。

最後、本当に何もかも終わって、敏子から、これからどうするの、と問われた美奈子、「本でも読みます」と言う。いつも新聞から本の広告を切り取ってた美奈子。家の本棚は図書館のように本がビッシリで、それは槐多との思い出の本屋さんそのままだったに違いなく。

目の回るような路地や坂道。窓から見える、坂道にびっしりと立った家々。そこは監督の故郷の長崎。でも劇中、長崎、とは言わない。海も出てこない。坂道と路地と路線電車が印象的で、どこなのかなって、画面の中に地名をひたすら探してしまった。監督が故郷に戻って撮った作品が、ことさら故郷を強調しないのが、いいな、と思う。

少女の面影を残す田中裕子だからこそ出来るこのヒロイン。その上で、一人で生きてきた、その後も一人で生きていく女の、気負わない凛々しさがとても素敵で。それにしても岸部一徳となんだもんね!ついつい、ジュリーの奥さんがタイガースのメンバーと……とか考えちゃうなあ。★★★☆☆


刺青一代
1965年 87分 日本 カラー
監督:鈴木清順 脚本:直居欽哉 服部佳
撮影:高村倉太郎 音楽:池田正義
出演:高橋英樹 花ノ本寿 山内明 伊藤弘子 和泉雅子 松尾嘉代 小松方正 小高雄二 高品格 日野道夫 野呂圭介

2005/2/23/水 劇場(浅草新劇場)
だって何たって、私多分、高橋英樹主演の映画、いや、つーか、高橋英樹が出てる映画、さらに言うと、映画スターとしてならしていた若い頃の高橋英樹、を観るっていうの、初めてなんだよね。いやー、でも、あんまり変わってないな。大抵若い頃の映画なんか観ると、うっわ、わっけー!って驚くもんなんだけど、きっと彼は基本的に老け顔だったのね。今の印象とさほど変わらない。既にしっかりと出来上がっている。劇中、彼は、ハイカラだのなんだのと言われるんだけど、まあそれはあの背の高さがあいまってのことで、そんな言うほどバタくさくも感じない。今の時代劇一辺倒のイメージのせいもあるのかもしれないけど、着流しスタイルが既にして実によく似合ってる。

まあ、何たって刺青一代、だからさ、彼の身体には、もう背中全面、お尻までビシッと刺青が緻密に描かれているんだわ。でもそれは……何ていうのかな、どこか若さを象徴しているようにも感じるのよね、不思議と。若気の至りでやっちゃった、みたいな。だって彼、物語始まって早々にヤクザじゃなくなっちゃうんだもん。劇中はもっぱら元ヤクザであり、元々足を洗うつもりで最後の仕事をしたらしかったから。それは敵方の組の親分さんを殺すこと。首尾よく仕事を済ませた鉄太郎は、しかし、まあよくある話で、約束は違えられ、彼は自分が属していた組のヤツに消されそうになってしまう。しかしそこを、鉄の弟、健次が通りがかって、兄を助けようとして、その刺客を殺してしまった。弟は勿論カタギであり、絵描きの才能のある自慢の弟。だから自分が身代わりに自首しようと鉄は思うんだけど、人殺しをして芸術なんか出来ない、とマジメな弟はそれを断固拒否。ならばもともと身寄りのない兄弟、二人で満州に逃げよう、という話になるわけ。

満州に行くはずが、まあ騙されたり何だりと色々あって、結局二人は木下組という工事現場に雇われることになるのね。そのことに奔走してくれたのが、この木下組組長の妹であるみどり。これが和泉雅子なんだけど、うっわあー……か、カワイイ……。登山家となった後のタクマシイ彼女を思うともう本当に……失礼ながら、ウソみたい。だって、まず、華奢なんだもん。で、生意気な感じが小悪魔的な魅力なの。男勝りで、その威勢のいいタンカは、現場のあらくれ男どもを黙らせるほど(ま、彼女がカワイイから、皆黙っちゃうところもあるんだけどさ)。で、彼女は最初からこの鉄を気に入っていること、まるで隠そうとしないわけ。周りのみんなの目のあるところで、猛烈アタックしちゃうんだもん。でもそれがまた、すっごくカワイイのね。うろたえて目を白黒させる鉄なんておかまいなしに、「あたしのこと、好きか嫌いか、それを聞いてるの!」だなんて、あー、こういう台詞をあっさりぶつけられちゃう、自信満々な若い可愛さがうらやましいよ……。

それに対して鉄は、そんなみどりがカワイイと思っていることはミエミエなんだけど、そうハッキリと言えないのだ。だって彼は元ヤクザで、前科者なんだもん。ということを気にしているあたりが、彼女への好意をまさにハッキリと物語っているワケだけど……。鉄はね、絶対肌を見せない。皆と一緒に風呂にも入らないし、何よりみどりの前ではきっちりと襟元を合わせてる。それはヤクザだったことを恥じているからに他ならないんだよね。あんな立派な刺青、きっと彼はそれを入れた時には、ヤクザであることを誇りに思っていたに違いない。でも才能ある弟にハジをかかせたくないとか、こんなカワイイ彼女や、そしてこの現場の仲間たちもホントいい人たちばっかりで(それは、鉄と健次の事情を知ってからも変わらないっていうのが、泣かせるの)、だから今彼は、それをホントに恥じてて……泣かせるのよねー。

でもね、面白いのはこの兄の方の話じゃなくて、実は弟の健次の方なのだ。健次を演じる花ノ本寿って人、他の作品は私、全然観たことないし、映画界に限ってはかなり限定された期間でしか活動していなかったみたいだからナゾな人なんだけど、彼の、もう何とも純情で乳臭い青年っぷりが、高橋英樹の既にパーフェクトに完成されたそれと実に対照的でイイのよね。健次ってば、組長である木下勇造の女房である雅代に恋しちゃうのよ!いや、恋しちゃうというより、恋い慕う、という方がより的確かもしれない。母親を知らずに育った健次、そしてその乳臭い雰囲気、さらに無垢な芸術家としての目が、この雅代に対する思いを実にピュアに昇華させてて。もう、まっすぐ、一直線、止まらないのよ。いきなり、「あなたの裸を見せてください!」と懇願する直球さ。別にナニをしたいってワケじゃなくて、本当に、この恋い慕う人の体をじかに見て描き残したい、彼は本当に純粋にそう願うわけね。とはいっても雅代は人妻、そんな川っぺりで(川っぺりなのよ!)ハダカになるわけにもいかず、でも彼の純粋な心根にうたれて、お風呂をのぞけるようにとりはからったりする。そして彼女を模した釈迦如来の木彫りを、その目をじかに見て完成させたい、と言う健次に根負けする形で、雅代は逢瀬のように夜半、健次の待つ小屋にやってくる。口づけしそうな雰囲気になるんだけど、それさえも、二人はしない。

この間に、敵対する、これはいかにもヤクザって感じの赤松組との攻防があったりして。あのね、この木下組ってのはマジメな組、そして組長の勇造も、ホントイイ人物でね、だから雅代がこのカワイイ青年に一瞬クラッと来つつも、ダンナを裏切ることが出来ないのがよく判るのよ。勇造は建築の近代化によって日本が発展していくことを夢見ていて、だから金儲けだけでズサンな工事をしようとする赤松組が許せないわけ。しかも、勇造は鉄が元ヤクザで二人が前科者だって知っても、更には、健次が自分の女房に恋慕してるのを知っても、とがめたり追い出したりしないでかばってくれるのね。でもいよいよ二人がここにいられなくなると、勇造は自分のコネを使わせて、二人を満州に脱出させようとしてくれるの。イイ人なのよー(涙)。それが判ってて健次のバカは、どうしても最後に奥さんに会いたい、と兄を待たせてきびすを返す。お前なー、勇造組長の心意気を判れよ、イイカゲン、バカなんだから、ホントにもう!……でもその乳臭さが彼の本当に……母性本能くすぐるところなんだけどさ。

と、このあたりから、そう、仁侠映画としての趣が出始めるところから、あ、そうそう、これ、鈴木清順監督だったのよね、ってことを思い出すワケ。健次は結局舞い戻ったことで赤松組に殺されてしまった。この弟の死、そして世話になった木下夫婦がとらわれの身になったことに激怒して、鉄は単身斬り込みを決意する。そう、このシーンから……弟のなきがらが横たわる部屋の照明が急にふっと落ちて、鉄の決意が示されるかのごとく、彼がぼんやりと浮かび上がる。窓の外は真っ赤に燃え上がる。赤松組に乗り込み、黄や水色に塗られたふすまを次々と開けてゆく。ふとカメラワークが直角に移動し、ふすま一枚隔てて彼を待ち受けている赤松組が映る。かと思えば、ガラスの床の下にカメラが潜り込み、鉄と赤松のじりじりとした一騎打ちが下から覗き見される……それまでは割とベタに時代任侠モノをまっすぐ撮っていたのが、後半からそのカラフルさとカメラワークの美学を爆発させてくる。このある意味でのバランスの悪さが、逆に鮮烈。

ラストの、官憲にしょっぴかれてゆく鉄と、みどりが海岸の砂浜に足をとられて倒れこみ、彼をいつまでも待っている、と涙ながらに言うシーン。鉄と健次が勇造のはからいで再び満州への脱出を試みようとした時、あの男勝りな調子で彼と一緒に行こうとして、鉄から拒絶され涙を流したみどり、ここでの涙はまた趣が違って、男勝りからケナゲな女になったっていう感じ?あれだけクライマックスでいきなり清順全開しながら、ちゃーんとヤクザものの王道に立ち返ったラストっていうのが、ある意味義理を果たしてるよなー。★★★☆☆


イン・ザ・プール
2005年 101分 日本 カラー
監督:三木聡 脚本:三木聡
撮影:小林元 音楽:
出演:松尾スズキ オダギリジョー 森本レオ MAIKO 岩松了 ふせえり 三谷昇 市川実和子 田辺誠一

2005/5/31/火 劇場(シネセゾン渋谷)
さあ……これはどうなんだろう。予告編は最高に面白かったから(って、最近特によく言ってる気がする……)、もうワクワクで観に行ったんだけど、さあ、これは……どうなんだろう。松尾スズキはそりゃあ最高に面白い人だ。この人の不条理さは、他の追随を許さない。この怪しい神経科のお医者さんに、そりゃー、ピッタリだろうとは思う。でも彼の不条理さをそのままほったらかしにして、それを面白さにまで昇華させてないような気がするのは、彼のギャグが高度すぎるんだろうか……。

この監督さんは初めて見る名前。ダウンタウンの番組や、「トリビアの泉」などの構成作家さんなんだという。それ以外に舞台の演出もしているみたいなんだけど、前段のプロフィールで既に偏見めいっぱいの私はそうか……などと思ってしまう。
これって、確かに、そうだな、たとえば15分の深夜番組なんかだったりしたら、大好きになったりしたかもしれない。
緊張感が自分だけで持続できる時間だから、15分ぐらいが。映画の場合、それを構成や演出で助けてくれないと、気持ちがすぐどっかに行っちゃうんだもん。
こういう、何人かのエピソードが同時進行するオムニバス風の話の場合、求心力になる核がないと散漫になっちゃう。いや、ないっていうわけじゃない。それこそそのものズバリ、それこそが主人公の松尾スズキ扮する伊良部なんだけど、彼にはそんな風に、不条理さを自由きままにやってもらっている風があるから、責任のある求心力が足りなくて、なんかグダグダなの。
やっぱりその辺を演出サイドできっちり固めてもらわないと、せっかくの彼の面白さも薄まってしまうし。

これはいわば、最近よくある脱力系コメディ。割とこれがハズレが多い。脱力系ジャンルはまだ発展途上の未成熟であって、これで傑作を作るのは意外に難しいのだ(今んとこ、その最高傑作はヤジキタ)。脱力系というのは、画面の中が脱力系であって、スクリーンのこちら側は大笑いしてなきゃいけない。それってかなり難しいことだと思うのね。
松尾スズキの不条理ギャグは、不条理だから、物語の進行にまったく関係ない、というか影響ない形でガンガン入れられてくる。物語に関係ない上に唐突だから、タイミングとバランスが悪いと、そこで観客の思考が止まっちゃう。可笑しくて笑っちゃうならまだいいんだけど、え?と思って止まっちゃうそれが少なくないのがイタい。不条理ギャグは好きだけど、まず物語が前提にある映画の場合、ある程度の共感を持つ部分をバランスよく入れていかないと、結構引くんだよなー。
うーん、ホントに偏見な言い方だけど、テレビバラエティの構成作家が映画監督かあ……などと思っちゃう。
それは、それこそこの監督の肩書きなんだろうなと思う、「トリビアの泉」ネタが何度か入れられていたり、どこかの芸能人が言っていたネタだな、と気づいたりすると、白けちゃうんだよね、正直。
やっぱりそれは映画の進行になんら関係なかったりするもんだからさあ……。

ま、いいや。気を取り直して。この物語は、怪しい神経科のお医者さん、伊良部のところに相談にくる、現代社会ならではの症状を抱えた人たちを活写してる。んで、伊良部はその人たちを治すどころか、彼らの訴えもろくろく聞いてなくて、おっそろしく傍若無人にふるまっちゃって、しかしなぜだか彼らはいつの間にか治ってっちゃうというオハナシで。
森本レオのもっともらしい解説(医学会の発表っぽい)から始まるのがまあちょっと可笑しいっちゃ、可笑しい。彼が解説するのは、物語の中の登場人物とは関係ない話なんだけど、“大切にしているものを女王様に踏まれることで喜びを感じる人たち”で、その中で最も人気があるのが“しらたき”だっていうのが、実際に映像を見せられると、うう、生々しくて、なるほど、とこれがなかなか可笑しいのよね。
でも、やっぱり物語にはあんまり関係ないんだけど……。

三人のエピソードが同時進行で語られるんだけど、一人一人片付けてっちゃおう。まずはこの人。今の若手役者の中で演技力もセンスも更に美しさもピカイチであるオダギリジョーである。
彼は継続性勃起症という症状を抱えてやってくる。つまり、「勃ちっぱなし」っつーわけなんである。
最初は泌尿器科に行った彼、地下の神経科に回されて、そこでご登場するのが、この病院のグータラあととり息子の伊良部なんである。
「勃ちっぱなし」のオダギリジョーを見てやたらはしゃぐ松尾スズキはかなり可笑しい……いやオカしい。「交感神経と副交感神経、つまり、スイッチのオン・オフが上手くいってないんですな」などともっともらしいことを言う一方で、膝蹴りを食らわして「こうやって治るってこともあるじゃない」などと、オダギリジョーを悶絶させる。いや、死ぬって……。
伊良部が聞かれもしないのに、巨額の慰謝料を請求されている別れた妻の話をするトコは微妙に可笑しかったりもする。すごい美人だった、とさらさらっと似顔絵を描く伊良部。なんか少女漫画みたいなキラキラ目とバチバチまつ毛の似顔絵が笑えるんだけど、それを見たオダギリジョーが、「すごい美人じゃないですか」というのは、あまりにもまんまで更に可笑しい。

あー、なんか、書いてるとやたらと断片的だなー、困った。

あ、そうそう、この「勃ちっぱなし」の男、なんていうのを、オダギリジョーが演じるからイイんだよね。彼みたいな美しい人が演じるから、可笑しさになる。少しでも不潔感を感じる人だと、結構シャレにならんことになっちゃうもの。
勃起し続けているのを隠すために、会社では女子社員みたいに膝掛けを手放せなくなったり、接待の温泉旅行に行くことになって、露天風呂に行く前にせっぱ詰まって非常ベル鳴らしちゃったり、彼の勃起症は可笑しくもかなり深刻なんである。
しかも彼は、別れた奥さんにもそうだけど、女性に対してハッキリとモノが言えない。明らかに部下の女性のミスなのにそのコに逆ギレされて、側で聞いていた男性部下は、「なんでガツンと言ってやらないんですか」と呆れ気味。
まあ、そんな性格的なこともあるんだけど、何か心に気になることがあるんじゃないですか、と伊良部に問われ、彼はたったひとつだけ、しかし最も重要なことを思い浮かべる。
彼は、別れた奥さんに未練タラタラなんである。

それをちらっと言うと、伊良部はもう、絶対そのせいだ!とばかりに攻めだし、それに彼の勃起症は全然治る気配がないし、ヨシ!その別れた奥さんに文句言いに行こう!と。なんでそうなる!
でも、実際に会いに行って、この奥さんがね、つまりはこの奥さんの浮気で別れたのに彼女ってば、再婚するっていう話をしにきたんじゃないの?私はあなたに悪いことをした、それは一生忘れない。私ばかりが幸せになるのが心苦しい、だからあなたが再婚してくれれば、少しは安心するんだけど……などと言うのね。
私、気づかなかったんだよ。この奥さん、徹頭徹尾、なんつーか、感じのいい方向のキャラなんだよね。そんな風に言われてオダギリジョーもうなだれるばかりなんだよね。だから、伊良部がこの彼女にイライラして吠え立てなければ判らなかったんだよ。この彼女が、実はかなりムカツク女だってことが。
だって、つまりは自分で自分をおとしめて、彼みたいな人がそれを責められないのを判ってて、イイ人になろうとしてるんだもん。
伊良部はギャーギャーと責め立てる。その中でもこの台詞はさすがに吹き出しちゃった上に、この彼女の感じをよく言い当ててる。「野球帽をアミダにかぶって、テヘッとか言ってたクチだろ!」おっかしい、これ!それにこれを言われて、あー、そういう感じだ、確かに、そしてそれってすっごくムカッとくるんだよな!と思い……。

でね、その後オダギリジョーは、この症状がすごく珍しいものだってことでエラいお医者さんに呼ばれて、すりガラスの向こうでお医者さんたちがひしめき合って彼のモノを驚嘆して覗き込み、ものさしだのビデオだのと言って記録を撮られ、診療することもなくお礼なんぞ差し出されたもんだから、激怒しちゃうのね。
全然、怒ることのなかった彼が、劇中初めて怒る。暴れまくり、ガラスを割りまくり、書類をバラまき、警察に連れてかれちゃう。
でも、そのことで、彼の勃起症、治ってしまうんである。彼の身元を引き受けに来た(ってあたりが……)伊良部に、「チンポ治りましたよ!」と嬉しそうに言う彼はちょっと笑えたかな。

あー、やっと次にいける。次はね、強迫神経症の女の子。演じるのは市川実和子である。
彼女って確かに、そんな感じなんだよなー。信じられないぐらいでっかくってせり出した目に、これまた信じられないぐらいでっかくってせり出した唇、なんか、いつでも驚いている小さな熱帯魚みたい。そんでこの手足の細さで、でっかいバッグ抱えて(強迫神経症だから、あらゆるものを持ち歩いてないと不安なんだろう)、自分のテンションで何とか支えている感じ。
ガスを消したか、アイロンのコンセントを抜いたか、エアコンのスイッチは切ったか、カーテンは閉めたか、etc,etc……もう彼女は家から出て何度も何度も引き返しちゃう。判るけど、ちょっとイライラ。特に「がびーん」の連続はしつこいし(ほんと、しつこい。これは面白くないよね。古いし。)取材先(彼女はルポライター)にお礼に行く途中でも、ガスの火を消さないまま家を出たような気になって、慌てて引き返すも、ちゃんとガスは消されてる。当然、仕事はすっぽかしちゃう状態。
彼女はイイカゲンなんかじゃなくて、その逆、すっごく生真面目だから、そんな風に仕事をすっぽかす自分にすっごく嫌悪感を感じているんである。だから自分が強迫神経症なんだ!と自身の症状からキチンと調べ上げて、伊良部のもとに行く。「自分で自分をヘンな人だって言ってくるなんて、変わってますね」と伊良部に言われる……そう、マジメすぎるというのは、まあ一種の変人である。

伊良部もランボーな人だからなー、彼女に対してはオダギリジョーよりは一応、診療らしいことをしている、ような気もする……。つまり彼女の生真面目な性格をショック療法よろしく治そうと……いやでも、それは彼自身の都合の良さから出る行為ってだけなんだけどさ。「今日は雷雨になるんですよ」と、当然折り畳み傘を持っている彼女から傘をぶんどり、そのとおり降ってきたどしゃぶりに彼女はズブ濡れ。でも、最初はあーあ、ってな顔をしている彼女なんだけど、次第に笑顔になってきて、嬉しげにどしゃぶりの中歩いてく。しかもその後、伊良部は「あの傘なくしちゃった」「いいですよ」「小汚い傘だったしね」……。あるいは、「悪徳病院の中に石を投げ入れてやれ!」っていうのは、伊良部がその病院のエリート医者に悪口を言われたっていうだけの逆恨みなんだけど(笑)、その子供じみた仕返しに彼女を巻き込んで、しかしこれもまた彼女、大分スッキリしたと思われ。
彼女が出入りしている編集者の女編集長が実に良くてね。その編集室は積み上げられた本に激突するたびになだれ状態という、市川実和子とは正反対のアバウトな職場。身の回りのことばかり気にしている彼女を気遣ってのことだろうな、この女編集長は社会派のルポをやんなさい、と彼女にハッパをかけ、取材を設定してくれたりするんだけど、その強度の神経症のために彼女はまたも自宅に舞い戻ってしまい……ビデオカメラを持ってチェックするというのはいい方法だと思ったんだけど、そのチェックした映像をご満悦で繰り返し観ている彼女は、カーテンが開いていることに気づいちゃって……でそこから、いくらなんでもありえないよ、という妄想がふくらんじゃって……で、またもとの木阿弥ってわけ。

それでも、この女編集長、彼女を責めることは決してしないんだよね。「私、心が病んでるんです……」「判ってるわよ、そんなこと」と彼女を見舞って、その仕事を続けなさいと言ってくれる。「不法投棄された冷蔵庫の中に、子供が閉じ込められていたりしたらどうすんの」そう言われて、彼女はまた思い出さなくてもいいような記憶を呼び覚ましちゃうんだよね。「私、あの時冷蔵庫の中のナントカ君を出したっけ??」
……これはちょっと、かなりシャレにならないんだけどね。そう、冷蔵庫って中から開けられないから、子供が入って遊ぶと窒息死しちゃうって、よく言ってたもんなあ。んで、その話を聞いた伊良部、喜んじゃって、「じゃあ、今から見に行こう!本当に出してなかったら、今ごろガイコツだ。ホンモノのガイコツが見られるぞー!」……オイオイ。

で、本当に行ってみたらね、驚くべきことに、本当に冷蔵庫は、あった。しかも、沢山。そう、その場所こそが、不法投棄の現場だったのだ。はしゃぐ伊良部が「ビギナーズ・ラック!」(笑)と一発目にケリをいれた冷蔵庫の中から本当にガイコツが出てきて大パニック!
それは勿論、ナントカ君なんかじゃなくって、この不法投棄の疑惑に絡んだヤクザさんだかおエライさんだかだった、というわけで、ルポライターとしての彼女にようやく火がつくわけね。で、そこに編集長も来てくれる。なぜか伊良部と言い合いになり、「このマグロ侍!」「それ、どういう意味だよ!」「…………判んない」「なンだよ、その微妙な間は!」……微妙な間、まで台詞で言っちゃうと面白くないけど、マグロ侍、という不条理はちょっと面白かった。この女編集長のダルーい、それでいて行動がすばやいあたりが好きなんだわー。

で、最後。タイトルにも関わっている、プール依存症の男、が田辺誠一なんである。
あーん、田辺誠一、好き好き。私はこの人、今最も美しい日本人男優だと思ってるからねー。顔かたちっていうんじゃなくて、全身から立ち上る空気感がね。でも一方でこの人って、カワイイのよね。こんな細身のスタイルの良さとクールな風貌をお持ちなのに。最近、そう、多分「ハッシュ!」あたりからだと思う、このカワイさが出てきたのは(橋口監督は実にその点、見抜いていたんだなあ)。
部下を数多く抱え、大きなプロジェクトを任されている彼が、ストレス解消のために始めた水泳、それで実際に調子が良くなったもんだから、毎日水泳をせずにはいられなくなり、泳げないとイライラが募るようになってしまう。
夫婦関係は、悪くはない。たまには妻の相手をしないと、などと家に帰って彼女の手料理をほおばる。「私も水泳しようかな、連れて行ってよ」、と言う奥さんに、言葉を濁す彼。その気持ちを見透かすように、「いいのよムリしないで」とニッコリと引き下がる奥さんは、ただ聞き分けのいい妻に見えもしたのだけれど……。

一方で彼は愛人をかかえてもいる。部下である美人の女性。ある日深刻そうに電話で呼び出されて、「だから、今はまだ離婚する時期じゃないって言ってるだろ」「そうじゃなくて……病院に行ってくれる?」彼女は性病になっちまって、彼にも感染してるんじゃないかっていうわけ。
でもこれがどちらからだったのか?尿道炎を確認した彼は、その間プールに行けないことで余計イライラが募る。プロジェクトが終わり、愛人の女性は会社を円満退職し(彼との縁を切ったんだろうか……このあたりはアイマイ)、よーし、これからプールに行けるぞッ!てな時に、電話がかかってくる。なんと警察。彼の奥さんが万引きでつかまったんだという。
慌てて駆けつける彼。おまわりさんは初犯だから……と言ってはいたけど、実際は、どうだろう……。
この奥さん、専業主婦として、良き妻として、発散する場もないまま、彼以上にストレスをため込んでいたんじゃないの?

んで、こんな奥さんをいたわるように、ホテルに泊まってプールで泳ごうと誘う彼に、彼女は強硬に拒絶する。エンリョしているんだとムリに引っぱっていこうとしたら、彼女のバッグから、見慣れた抗生剤が……。
このあたりはなんか、なんというか、どういう結論を導き出しているのか今ひとつ不明瞭。つまりはこの奥さんも感染してたってことで、まあ夫婦生活を普通に送っていれば奥さんにも感染するのは当然なんだけど、それはつまり、始まりが誰だってことだったり、あるいは夫からこの病気を移されたんだと奥さんが思った時、更にその先の感染源を思って、浮気の事実を知ってしまったのかもしれないし……なんかね、このあたりを決着つけないままなんだよね。あー、もどかしい。
んで、プールにも行けない、奥さんはそんなことになってて、ストレスが最高潮に達した彼は、一時休業中の市民プールに強引に押し入り、高い飛び込み台から気持ち良さげに飛び込んで、タイホされちまうんである。

で、ラストは、彼が伊良部の診察室を訪れるところで終わる。そ、彼だけは通っていた患者じゃなかったのよね。
二人の患者が治っちまったことで、新しい患者に飢えていた伊良部は、喜びを隠し切れず、「いらっしゃーい」と迎える。実は伊良部もあの市民プールに足しげく通っていて、彼とは何となく顔を見知っていたわけで。

うーん、なんかただただあらすじを書いて終わっちゃった……つまんない映画だと、ただただあらすじ書いちゃうな、私。だってつまんないと思うと、あっという間に忘れちゃうそうなんだもん。別に忘れていいんだけど。
病院の、天へと続くようなながーい階段とかはちょっと好きな造形だったな。でも伊良部の診療室は地下にあるんだし、あの造形も意味ないけどさ……伊良部のとこにいる、伊良部を無視したっきりのやる気なさげなお色気ナースは定石どおりすぎ。でも注射だけは好きで、その点は伊良部と共通してて、「保険の点数を稼ぐためにやるんだよ」(!)とムダな注射をオダギリジョーに施し(しかも、浣腸かよ、ってなでっかい注射器!)「この(血の)逆流がイイよねー」とうっとりと見つめるあたり、二人、同志だったりするんである。……うう、私は針が刺さる接写だけで直視出来んのに。

でもまあ、私としては、むしろ、彼の××××をぢっと見つめる、泌尿器科のナースの方が良かったな。良かったなっつーか……こけしみたいなあっさりした風貌で、棒っきれみたいな体型、あきらかにモデル並のいでたちの伊良部のナースとは違うんだけど、それが、その方が、そんな冷ややかな目線でぢっと見られる方が、ナースマニアの心をくすぐりそうな気がするんだけど?(うーむ、なんか書くことないと、だんだんエスカレートしちまう)
観終わって頭にこびりついたのは、オダギリジョーの再診に、「出た!チンポ人間」と出迎える松尾スズキ。あー、ダメだあ。★★☆☆☆


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