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「ま」


2005年鑑賞作品

マゴニアMAGONIA
2001年 112分 オランダ カラー
監督:イネケ・スミツ 脚本:アルチュール・ジャピン
撮影:ピヨッター・クックラ 音楽:ジオ・ツィンツァーゼ
出演:ウィレム・フォースト/ディルク・ローフトホーフト/アミラン・アミラナシヴィリ/ノダル・ムガロブリシヴィリ/ラムゼイ・ナスル/ナト・ムルバニゼ/リンダ・ファン・ダイク/アダマ・クヤテ


2005/4/12/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
うーむ、はっきりいって判りづらいような。というのは私が眠かったから?いやいや!眠かっただけで眠りに落ちてはいないのよ。必死に必死に落ちないように指でまぶたを押し広げて見ていたのよ。いや、つまんなくて眠かったんじゃなくて、これは本当にただ単に眠かっただけで、それはわたくしの過失です。いや、ごめんなさい。じゃなくて……うーん、と、解説を読んで初めて判ることが、いきなりこの作品のキモだったりするんだもん。
いわく、「これは架空の楽園マゴニアを描いた物語」
……うーん、私、本当に寝てたかもしれない。こんなにハッキリしたこと、言ってたっけ?まあ確かに父親が息子に、空に見える大きな船を指し示したりはしていたけど(でも、んなもんは見えないのよ)ヨーロッパではこれは、皆が知ってる言い伝え、のようなものみたいで。少々説明不足に感じるのは、だからなのかもしれない。

少年は週に一度、美しい島にいる父親に会いに行く。父親は、その度にいろんな話を息子に聞かせる。で、どうやらそれが、マゴニアでのさまざまなエピソード、らしいんだよね、解説を読むと(私もしつこい)。
でも、じゃあ、あの父親がいるところは何なの?この父親はなぜこの島に、まるで幽閉されているかのごとく、なんだろうか。なぜ少年と離れて暮らし、ここから一歩も出てはいけないような雰囲気になっているんだろうか。衝撃のラストと言われ、最近よくあるみたいに、このラストに関してはネタバレ禁止みたいに言われているんだけど、そのラストの意味も私にはよく判らず……私には、この島こそが、マゴニアであるとしか思えなかったんだよね。地図にない国、マゴニアとして、いわばどこか御伽噺的に語るには、父の話はイスラムの香りが濃厚な街や、寂れた港町など、人間臭さがやけに感じられて。でも父親のいるこここそが本当にマゴニアなのだとしたら、あのラストは、マゴニアに憧れ続けた人間の哀しいなれの果てなのかもしれないんだけれど。

父親が語るひとつめの話。それはある声をめぐる物語。
その街の老師は、ある時間になると塔に登り、人々にその美声で朗々と聞かせた。敬虔なその街の人々は、彼の声によって信仰をますます深めていた。でもいまや衰えた師の声は街の人々には届かない。彼に付き添う青年は、師を尊敬しつつもその限界を感じていた。師の声を届かせようと拡声器を使ったことがあだになり、確かに人々に声は届くけれども、その醜く衰えたガナリ声は、彼らの耳をふさがせてしまう。ひそかに美声を誇っていた青年は、師の代わりに歌いだす。すると人々は窓をあけ、彼の声に耳を傾けるのだけれど……。

語られる三つの話の中で、一番寓話的でありながら、最も厳しい話のように感じるこの一話めが、残酷ながらも美しくて、好きである。青年は確かに師を尊敬してた。それは本当なんだけれど、ただひとつ間違っていたことは、師の美声が街の人々の信仰心や、師への尊敬を生んでいたと考えていたんじゃないかということ。そして自分が美声を持っていたことで、そのあとを継げるんじゃないかと思っていたことなんである。
彼が、いわゆる文明の利器によって師の声を聞かせようとしたのは、こういう結果が判っていたとも言えるし、本当に純粋に師の声を聞かせたかった心も確かにあったんだろうと思わせる分、人間が同時に持ちうる相反する心の皮肉さを、感じざるを得ない。
しかも、青年は、美声が信仰を生むのだと、自分ではそう考えているとは思っていないながらも、どこかでそんな妄想をしていた。彼もまた敬虔な宗徒だったはずなのに、敬虔だからこそ、師のあとを継ぎたいと無粋な考えをめぐらせてしまった。
確かに彼の美声によって、薄れかけていた人々の信仰心は戻ってきたように見えた。のだけれど、彼が愛していた女性の心は失ってしまった。師を世話していた女性。彼女にはそんな青年の心が手にとるように見えたに違いないから。そして何より、たった一つの生きる希望を失った師は、死んでしまった。

ここに、マゴニアであるべき、希望が描かれているとしたら、なんだろう。青年は自分の声をあの拡声器の機械に録音して、旅立つ。師が、毎日同じ時間に、塔に登り、聞かせていたあの声を、彼は毎日同じ声をリプレイさせることにして、旅立つのだ。師への、そして愛する人への贖罪の気持ち、なのだろうけれど、彼が“逃げ出す”先に、希望はあるのだろうか。
青年が愛する女性に飛ばし続けた紙ヒコーキ、女性は鳥かごの中に大事にしまってあった。それを大空に、まるで鳥を自由にさせるかのように羽ばたかせるシーンは美しいけれど、美しいだけに、ひどく皮肉に感じられた。

そしてふたつめの話。車が故障して砂漠に投げ出された一組の夫婦の話である。
倦怠期を迎えていると思しき、文明社会に浸りきった彼ら、特にセレブであることを前面に出している奥さんの方が、このアクシデントに妙にノリノリである。
彼女曰く、これこそが本当の旅なんだと。砂漠の中にぽつんとひとつだけある(のが、妙に不自然な)家に助けを求める。
そこは父親と息子の二人暮らしだった。この“旅の醍醐味”に奥さんが妙にノリノリなのは、どこか、痛々しい。そんなことを新鮮に感じるのは、彼女が文明人だからだし、そしてダンナの方はそんなことにも無関心で、彼女がこの“醍醐味”にどこかムリヤリ乗り気なのは、何よりこの夫婦間の虚無さに問題があると判るからだ。
ただただ世話になるだけのこの砂漠の親子に、彼らが与えてしまったものは、無駄な憧れとしか言いようがないように思える。

息子の方は明らかにこの奥さんに、恋にも似た思慕を覚えていた。奥さんがダンナとの不仲(というほど情熱的でもない、置いてきぼりにされた気持ち)に悩んで(そんなうっとうしい悩みを砂漠の親子に持ち込むこと自体が……ねえ)夜一人でタバコを吸っていると、そのそばにこの息子がすっと座ってくる。そして息子は翌朝、故障した車がなおった二人が旅立つのを追いかけて、奥さんは乗せてしまい、遠い文明社会へと旅立ってしまうのだ。
そんなことに別になんとも思わずにそのまま車を運転してしまうダンナの態度は、妻への無関心をさらに思わせて痛々しいし、この息子が文明社会へのあこがれを奥さんへのそれとどこか混同しているんだろうことも痛々しい。さらに、彼が文明社会に降り立って、この夫婦が砂漠に降りたった時みたいに、どこかちぐはぐな、いるべき場所を間違えている感じになりはしないか、というのも怖い。

実は、このお父さんの方も、奥さんのことを好きだったんじゃないかと思えなくもない。
好き、というより興味、だろうか。こんな砂漠にぽつんとある家で息子と二人暮らしているおじいちゃんにとって、生身の女、なんてどれぐらいぶり、だろう。このお父さんを男だなんて見なさず、無防備にまっぱだかで粗末なシャワーを浴びている奥さんに、お父さんだって男なんだからさ、釘付けになるんである。
でもお父さんは、それがつまり、単なる“興味”であることをちゃんと判っているから、つまり、奥さんがこの砂漠に、そして息子が奥さんを通した文明社会に抱いている感覚と同じだってことを。だからそれを確実に判っていない息子を止めようとするんだけど。
で、ここにはどんな希望が隠されているの?
息子は若いから、文明社会の新鮮な驚きに触れて、柔軟にその中に入っていくかもしれない。それは一見、希望のようにも思えなくもない。だけど。
この砂漠は、希望がない場所として、うち捨てられる、のだろうか。その中に、お父さんも入っているのだろうか。

みっつめのお話は、とある港町での寓話である。
ヨセは待ち続けていた。初めての男、ラムジーを。彼は船乗りで、その街にたまたま立ち寄って彼女を抱いた。そしていつか必ず迎えに来ると言った。彼女の話で、街の誰もがラムジーの存在を知っていた。男の中の男だと。ヨセは勿論、街の人たちも、その男の出現を待ちわびていた。
のは、彼女の思惑とは逆で、ラムジーが彼女の言うような男ではないと判っていたからなのかもしれない。だから、そんな約束を覚えているはずのない男が来るはずもないだろうけれど、来るものなら顔を見てみたいと思っていたのかもしれない。
ただ一人、ヨセを愛する船の設計士のアレントは、ラムジーなど来るわけはない、自分を愛してほしい、と思っている。

そう、来るはずなんかなかった。自分の意志では。ラムジーは来てしまう。それは偶然に違いない。ラムジーはヨセのことを覚えている風を装ったけれど、覚えているはずもない。そして皮肉なことにもう7年も前のことで、ヨセもラムジーの顔だけでは、彼がその人であると、確信できないのだ。
証拠となるのは、彼の両腕に刻まれたイレズミである。
初めての男は忘れられない相手。確かに女にとってはそうだろう。でもそのことだけを大事にして、ヨセは他を見なさすぎた。本当に愛する人を見失った。ヨセはラムジーと念願の再会を果たし、当然愛の睦みごとをするのだけれど、彼女が考えていたようなロマンチックな様相はまるでない。ラムジーは言葉とは裏腹に、ただ女とヤレる機会を得たぐらいにしか考えていないことは、その暴力的なセックスでアリアリである。そしてヨセもまた、最初だからこそ運命を感じていただけで、今は酒場のデブ店主と関係を持っているような、安い女なのだ。
そして、その店主は、ラムジーに彼女をとられてしまって、こともあろうに少年であるオレを犯してしまう。

ヨセがソデにしたアレントは、自分の設計する船で、いつか彼女をこの街から連れ出してやると言っていた。そんな話をヨセは一笑に伏す。こんな夢みたいな設計図、とばかりにろくに見もしない。でも夢を見ていたのは彼女の方だったのに。
アレントは姿を消してしまう。ヨセがラムジーの正体を思い知ってアレントの部屋に行くも、もぬけの殻である。彼女は愛してくれる相手を失ってしまった。それでも彼女は、あの人は私のために船を作ってくれると言ったと、絶対に戻ってくると、そう言ってきかないんである。彼からもらった、小さな錨のペンダントを胸にして。
それが、彼女の希望?でも、アレントは、確かに彼女を純粋に愛しはしたけれども、夢見る彼女を救い出すことは出来なかったじゃない。それだけの行動力は確かに彼には、なかったのだ。

私には、このアレントが、この話を息子に語って聞かせている、お父さん自身の話のように、ちょっとだけ思えた。
この作品は、お父さんが息子にこんな風に語り聞かせる三つのエピソードと、その語っているお父さんと息子の姿、というのが交互に挿入されていて、どこかその境界線はアイマイで、渾然一体となっている感じである。で、お父さんは息子に、アレントがヨセに手渡した船の設計図を手渡す(だったような気がする(笑))。お父さんがいる島の、住んでいるらしい、洋館みたいな場所は、息子は決して入ることは出来なくて、面会できるその日曜日の最後、他の少年たちとともに、洋館の門の前で別れを告げるんである。ガシャーーン……と重々しく閉じられるその中では、……あの三つの話に出てきた登場人物たちが、もうあまりにも希望など喪失した表情で、呆然と座っているばかりなんである。
これが、衝撃の、ラスト?それとも、この後が?とにかく、この中にお父さんがいるってことは、彼もまた希望を希求し、それを失った人、ってことなんじゃないだろうか?
あの中に、アレントはいたっけ……(覚えてない)。
でも、お父さんは、この牢獄からの脱走を試みる。もしかしてそれこそが衝撃のラスト、だったんだろうか。彼は、消えて、いなくなってしまう。まるでいつも息子に語り聞かせていた、雲の上のマゴニアに旅立ったかのごとく。……あれ?だとしたら、一体マゴニアは、本当に、何なの?どこにあるの?そしてそれは、本当に楽園なのだろうか……。

どうもね、よく判らないの。この作品の構造自体も、なんだかただ三つのオムニバスをナビゲーターの親子が進行しているだけという気もする一方、このラストシークエンスできっと重大な何かを語っているんだろうなと思いつつ、美しいだけに漠然としてて、明確なメッセージが見えない、気がする……うーん……「希望は最後には消えるもの」だというメッセージは、果たしてどこまでの深い意味があるんだろう?★★☆☆☆


マシニストTHE MACHINIST
2003年 102分 スペイン=アメリカ カラー
監督:ブラッド・アンダーソン 脚本:スコット・コーサー
撮影:シャヴィ・ヒメネス 音楽:ロケ・バニョス
出演:クリスチャン・ベール/ジェニファー・ジェイソン・リー/アイタナ・サンチェス=ギヨン/ジョン・シャリアン/マイケル・アイアンサイ//ラリー・ギリアード/レグ・E・キャシー/アンナ・マッセイ

2005/2/22/火 劇場(渋谷シネクイント)
この監督の前作は観てなかったんだけど、「ワンダーランド駅で」はボサノヴァのために作られたような映画で、とても心地よかったから(でも、それだけって感じもしたけど)だから今回、かなり毛色が違うみたいだなー、などと、その程度の認識でフラフラと観に行ったら、こ、コワかった……何が怖いって、クリスチャン・ベールその人。予告編でチラリと顔を見た時は、あれ?彼、こんな顔だっけ?と思ってたんだけど、全身を見て、納得し、驚愕。「アメリカン・サイコ」での彼の恐ろしいほどのなりきりっぷりには、そういうイメージのお人じゃなかったせいもあってかなりのドギモを抜かれたものだけど、本作での彼は……死ぬって!そりゃ、ちまたで散々この作品での激ヤセについては言われてて、そうなんだー、などとは思ってたんだけど、こ、コレは……クリスチャン・ベール、ヤバいよ、やりすぎだよ、本当に、死んじゃうって!というか、人ってこんなに痩せられるものなの。特に横から見た時が、もう本当にホラー並の恐怖。お腹が、お腹が、紙みたい。本当にお腹と背中がくっついちゃうよ。そうか、こんな顔だっけと思ったのは道理なんだ。つまり、彼、こういう頭蓋骨をしてるってことなんだ。頭蓋骨に皮が張りついてるだけみたいなんだもの。まるで、ノスフェラトゥみたいだよお……。
デ・ニーロアプローチ?太ったり痩せたりっていうの、太るというのはよく見るし、痩せるにしても、男性の俳優が凄い筋肉をつけた身体になるとか、そういうのはあったと思うけど、これはだって……だって生命にかかわるもの!観てるこっちがドキドキしちゃう。彼、スクリーンの中で本当に倒れて死んでしまわないかって!

確かにこれだけやらないと、劇中で彼が再三言われる、「それ以上痩せたら死ぬわ」とか、「その痩せ方は異常だ。どう見てもヤク中だ」という台詞が、言葉だけになって、ただ彼がそうなんだという説明にしかならないわけで、こんな台詞なんていらないほど、彼がその身体そのもので体現しちゃっているんだもの。まあ、でも、私としてはね、最後の謎解きまでされても、なぜ彼がここまで異常なぐらいに痩せてしまったのか、考えられる要素がいくつかあるもののどれもアイマイな感じがして、今ひとつピンとくるものがなかったんだけど、ただ、この彼の造形が、作品自体に流れているオカルティックな雰囲気を率先して牽引しているのは間違いなく、だって彼を見ているだけで、コワいんだもの。
決してホラーというわけではない。最終的に言えば、人の心理に巣食うものが恐怖となって世界に流れ出す、そんな感じである。でもそれがこれだけ怖いというのは、人の心がそれだけ怖いものを抱え込んでいるということでもあって、それが心だけでなく彼自身の身体をこんなにまで怖く変えてしまうということでもあるのかもしれなくて。

なぜ、彼がこんなに痩せてしまったのか。彼が言うように、「365日、一睡もしていない」というありえないほどの強度の不眠症が、それだけでこんなに痩せてしまうものかどうかっていうのは判らない。それに、眠れない、ということが、この一種のミステリーの謎解きのヒントになるわけでもないし。いくつか考えられる点は、まあいきなりいつもどおりのオチバレやっちゃうけど、ひき逃げをしてしまった罪の意識から生きていくためのエネルギーを摂取しちゃいけないという……この時点で彼はこの事実を記憶から排除しているから、あくまで無意識下での意識というわけだけど。あんな身体で女を買おうってんだからスゴいと思ったけど(そして、こんな身体の男とセックスしようってんだから娼婦も凄いよなー)セックスもエネルギー放出のためだったのかな、などとも思う。だって、想像しただけで死んじゃいそうだもの、こんな身体でセックスしたら。
そして、もう一つは、そんな罪を犯した自分を否定したいがために、その時の自分ではない自分になろうと、これも無意識に思うことによって、こんな別人28号の激ヤセ状態になっちゃったのかなとも。それは、この激ヤセの彼とはまさに真逆な分身、アイバンが登場することで、そう思う。この男に彼は運命を引っ掻き回されるわけだけど、実はそれは自分の心が生み出した自分そのもの、言ってしまえば自分の良心そのもので(の割にはいかにも悪人そうだけど……)彼を最終的に自首に導くんである。

そう、このアイバン。あまりに彼、トレバーと正反対。大男の、しかも黒人で、やたら自信たっぷり。魂さえもどこかに置いてきたようにフラフラと生きている今のトレバーとあまりに違いすぎる。この陰鬱で寒々しいブルーグレーの世界の中で、アイバンの乗っている真っ赤な車だけが、非現実的にぴかぴかと光っている。その色は、まるで、闘牛の前にかざされる赤い布のように、トレバーをイライラとさせるのだ。車備え付けのライターでタバコに火をつけるたびに不吉なデジャヴにおそわれる。
この男が現われてから、すべての運命が悲劇へと向かって回り出した。いや、少なくともトレバー自身はそう思っていた。彼にだけ見えるアイバン。工場で機械工として働くトレバーは、駐車場で彼に会う。アイバンは、同僚が強盗で捕まった替わりに自分が入ったんだと言う。一緒に酒を飲む。工場でアイバンが働いているのを確かにトレバーは見、ちょっと会釈して、気をとられて……トレバーのミスで旋盤機械を修理していた仲間のミラーの腕がはさまれ、切断されてしまった。

うー、この場面の、なんとエグいこと。ぐいぐいと挟み込まれるミラーの腕、断末魔の叫び声、そして腕がちぎれて床に座り込むミラーと、彼のちぎれた腕が機械の上でぐるんぐるん回ってて……いいよ、もう、お願いだから、見たくない。
この時トレバーは自分のミスだということは全面的に認めたものの、原因を追求する工場側にアイバンのことを話すと、そんな男はいないという。しかも、アイバンが話した同僚の強盗の話もどうやら事実無根らしく、強盗にさせられた同僚はもちろん、仲間全員トレバーに冷たい目つき。どうにもこうにも四面楚歌の状態に追い詰められてしまった、のだ。
ミラーにはアイバンは見えているし、話もしている。だからアイバンをはじめ、みんながグルになって自分を陥れようとしている、と感じている。そのことに対して彼はやっきになって原因を追求しようとし、疎ましがられてついにクビになってしまう。
大逆ギレ映画、なのかも、なんてことも思ったり。トレバー、本当は自分こそが最も卑怯だと、無意識下で判ってる。でも今は判ってない。故意に忘れてるから。だから、誰かが悪いんだと思いたくて。ありもしない原因を追い求めるこの空しさ。
彼にとって癒しとなるのは、心を寄せてくれている寂しい娼婦、スティービーと、彼が毎日コーヒーを飲みに通っている空港のカフェのマリア。この二人のヒロインは、彼にとって疑うことなど何もないはずだったんだけど……。

でもね、スティービーはホンモノ。演じるジェニファー・ジェイソン・リーがイイんだよねー。彼女はこういう役をやらせたらもう天下一品、右に出るものはございません。これまでの人生に、正直いいことなんてあんまりなくて、どこか運命のようにこんな職業に身を落とし、それでもピュアな何かを信じたくて、客の一人ではあるもののトレバーは自分を必要としてくれる、話をしているだけでもいいと言ってくれる客で、お互いにとってとてもやすらぎとなる相手で。
リーはね、そのふくよかなおっぱいあっさり出してくれるし、そう、その“女”であり、ふくよかさが、アイバンとは別の意味でトレバーとは対照的で、それはトレバーが求めるふくよかさで、だから彼女が夢見るささやかな生活が、本当にトレバーと一緒に現実のものになればいいなと思っていたんだけど。彼女が彼のために、「男のために初めて作った」という卵料理は泣かせるんだけど、その直後、彼女のそんな思いは、ぶち壊されてしまう……。

一方のマリアは、いきなりぶっちゃけちゃうと、彼女は現実の女ではなかった。アイバン同様、後にトレバーがカフェに彼女に会いに行くと、いつも相手していたのは私だと言って出てきたのは全く違う女。マリアなどというウェイトレスはここにはいないと言われるのだ。
マリアは彼に、孤独な人同士だから判るの、と言ってくれた。母子家庭である彼女は、彼を母の日の息子とのデートに誘ってくれて、遊園地でまるで家族のように三人楽しく過ごした。母子をカメラにおさめようとして、トレバーは一瞬、何かを思い出したように目を上げる。デジャヴ。彼が子供の頃に、この遊園地にこんな風に遊びに来た。家に帰ったトレバーがその写真を取り出す場面がある。でもそれをファインダーを覗いてデジャヴとして思い出すのは、本当は少しヘンなんだよね。だって子供だった彼はファインダーのあちら側にいたんだから。だから、これは彼が持っている要素で作り上げた妄想であり、幸せな記憶に戻りたいという願望だったのかもしれない。
でも、こんな楽しい時間も、途中までだった。あの不気味な乗り物に乗るまでの。
「ルート666」と名付けられた、地獄行きの乗り物。血だらけのちぎれた腕や足はミラーの記憶を容赦なく思い起こさせ、首吊り死体や“ギルティ”の文字は、トレバーに厳しく浴びせられた。そして、血だらけの布がかぶせられた死体は……?
マリアの息子はひきつけを起こしてしまう。白目をむいて、泡を吹いて。慌てるトレバーに駆け寄ったマリアは、てんかんの発作だから心配ないとは言うものの……「しばらく出ていなかったのに」と。
マリアの自宅に寄って親しく親愛を深めるトレバー。でもそこに置かれていたハングマンゲームのメモに、彼は不穏な空気を読み取る……。

という、“ハングマンゲーム”というのが判らなければ、今ひとつこのカラクリというか、ちょっとコワい遊び心が判らないよなー、とも思う。私はこんなゲーム知らんかったし。
トレバーの冷蔵庫に、彼には覚えのない、書きかけのハングマンゲームが貼られているのね。そしてそれが誰かの手によってだんだんと完成されてゆき……。
マザーかと思い、ミラーかと思い、タッカーかと思い……という具合に、トレバーは疑わしき人物を片っ端からせめる。自分のミスで片腕になってしまったミラーは、補償金でゴーカな生活を享受しており、そこでもアイバンの影を見たトレバーは、コイツらはグルかと疑ってかかる。しまいにはひき逃げ事件を偽装するためにワザと車にぶつかったりまでするんだけど(うわ、ヤメてよ、その身体で。死んじゃうって!)だんだんと現われてくるのは衝撃の事実ばかり。
あの、アイバンの乗っていた車は、トレバー自身の車で、「事故で廃車にした」ものだという。事故?廃車?トレバーは混乱する。そしてアイバンが存在する証拠だとばかり思っていた、アイバンとあの同僚と一緒に写っている写真が、こともあろうに最後の砦であるスティービーの部屋にあり、トレバーはこいつもかと激昂すると、訳が判らない、とスティービーはこう言うわけ。あなたが置いていったものだし、この男の隣りに写っているのはあなたじゃないの、と。
それはこんなに痩せている時ではない、ああ、これならクリスチャン・ベールだと判る写真。でもトレバーにはそれが自分にはどうしても見えない。混乱が頂点に高まってマリアに会いに行くと、先述どおりマリアの存在も否定され……。

トレバーは、気づいたことを忘れないようにとメモをとるクセがあるのね。例えば公共料金を支払う、とか、漂白剤を買う、とか。それが冷蔵庫に貼られたハングマンゲームのメモとビミョウにリンクする部分もあるんだけど、何より自分がイヤな記憶を排除しているという部分にこそ、シニカルにリンクするものがあるわけ。つまり彼は、忘れていることがあることを、意識下で判ってる。だから今必要なことは忘れないように書き留めておく……そんな彼の頭の中での矛盾が、覚えていること、忘れていること、忘れていると思っていること、思い出せないこと……そんなごちゃごちゃの中でありもしないものを生み出してしまう。
冷蔵庫から、血があふれ出ている。それをトレバーは見やるものの、開けようとしない。部屋には悪臭が立ち込めていて、大屋さんも心配して見に来る……。電気が止められたままにしているのもおかしいし、あんな血だらけの冷蔵庫を開けようとしないのもおかしいし、ひょっとしたらこの悪臭に気づかない、気づこうとしていないのもおかしい。
でもそれは、無意識下での彼が、つまり彼の分身であるアイバンがやっていることなのだと思えば全てに得心が行く。アイバンは無論、トレバー自身。
良心であるアイバンが、そこから遠く離れてしまったトレバーに思い出してほしいと思ってやっていること。当の本人のトレバーは意識下で判っているから触れようとしない。冷蔵庫も開けないし、それがあえて見えないようにと電気も止められたままにする。
冷蔵庫の中には、腐った魚の頭が大量に入っている……。
あの、強盗扱いしてしまった同僚とは釣り友達で、あんな写真を残すぐらいだもの、きっと仲が良かったに違いない。そして多分、その帰り道、彼はあの事故を起こしてしまった。あの、ご自慢の赤い車で。そうあの時は、こんな赤い車を選んで乗るような、そんなカラフルで明るい世界に彼は確かにいたのだ。

トレバーが会っていたマリアはホンモノじゃなかったけど、確かにマリアは実在している。そして息子はもういない。トレバーがひき殺してしまったから。
その場から逃げてしまったトレバーが一瞬見た、泣き叫ぶ母親と、倒れている男の子……。
マリア、というのはトレバー自身がそう名付けたに違いない。スティービーに母性のふくよかさを感じたように、母親のようにただただ優しく包み込んでくれるものに、何より自分を許してほしい相手に、そんな要素を与えたかったんじゃないだろうか。
そして、それが自分勝手で所詮ムリなことだっていうのを、トレバー自身が何よりよく知っていたから、こんな悪夢の迷宮に苦しめられた。
「ガッカリさせるなよ、相棒」そんな風にアイバンに言われて、トレバーは自首しにゆく。狭い監獄に入れられ、「これでようやく眠れる」と……一年365日、一睡もしていなかったトレバー。哀しくも不思議に安堵するラスト。

トレバーが自身のひき逃げの記憶を取り戻す場面で、ああ、これはクリスチャン・ベールだ、良かった……という、もとのお顔に戻ってるんだけど、これは本編撮影後三ヶ月たっての再撮影だったという……って、あの状態、30キロ減からたった三ヶ月でこんな元に戻っちゃうの!?それもちょっとコワい気がするんだけど……大丈夫かなあ、クリスチャン・ベール、こんどは凄いリバウンドになっちゃったりして……。

ハリウッドでは敬遠されてしまって、スペインで撮影されたという本作。確かにハリウッド的ではないかも……ホラーというより、サスペンスというより、どこか寓話的なナイトメアー。だからかなりエグい描写もちょっと怖いお伽噺を見ているような感じで、だからダメなんだよ、気をつけようね、みたいな気分で見ていられる。ハングマンゲームにしても、遊園地の乗り物にしても。その辺のさじ加減が絶妙だからこそ、ただのエグい映画にとどまらない説得力がある。★★★☆☆


またの日の知華
2004年 114分 日本 カラー
監督:原一男 脚本:小林佐智子
撮影:岡雅一 音楽:上田亨
出演:吉本多香美 渡辺真起子 金久美子 桃井かおり 田中実 田辺誠一 小谷嘉一 夏八木勲 吉岡秀隆

2005/1/23/日 劇場(歌舞伎町シネマスクエアとうきゅう)
60年代から70年代の激動の時代。激烈な学生運動があり、あさま山荘事件があり、そうした実際のニュース映像を盛り込みながら、その、時代が大きく動いていくすぐ近くにヒロイン、知華はいつでもいて、その中で彼女自身も人生の大きなうねりを生きていく。その知華を四人の女優が演じ分ける。それぞれの女優にはかなりの年齢差がありつつ、劇中のヒロインはその間さほど年をとっているわけではなく、でも相手役の男優は変わらないから、恋人役の田辺誠一と三番目の知華である金久美子のツーショットなどは見ていてかなりツライものが……。女優に年による差をつけたくはないけど、なんだかこうやって女だけがどんどん年をとっていくっていう感じに見えるのは、それはやっぱり意図的なの?彼女が悲劇のクライマックスに向かって進んでいるからなの?何かちょっと……キビしいなあ。でも一方で一番年かさである四番目の知華、桃井かおりは田辺誠一と全然アリだっていうのがさすが桃井さんの凄さではあるんだけど。確かに彼女は若いけど、でもちゃんと熟女なのに、その上で田辺誠一と、アリなんだもん。この二人のキスシーンなんでまぢでドキドキしちゃったもんなあー。

で、これが、ドキュメンタリーの名匠、原一男監督初のフィクション映画であり。でも、でも……うーん、うーん……原監督はドキュメンタリー映画の方が、いいかも……(ごめんなさい)。何だろう、何かもう最初から、うー、何かダメ、ヤメてくれーというような違和感とも違う、拒否反応ってまで行っているわけじゃないんだけど、なんかキビしかったのは、言葉のせいだろうか。そりゃ舞台が70年代ってことがあるんだろうけど、そしてそれはどこか……今とは違って、高邁なる理想を追い求めることが出来た、ある意味ではいい時代だったんだろうけれど、今の時代にカサカサと生きている私にとっては、まるでなんだろう……雲をつかむような実体のなさなの。

一番目の知華が、ダンナの帰りを暗い部屋でぼんやりと座り込んで待っているでしょ。で、彼に、ふっと精気が抜けて死に近づいたような気がする、とかいう話をする。あなたはセックスの時、そういう感じがするって言っていたでしょ、と。上手く言えないんだけど、こういうやりとりのあたりもそうなのね。あと、四番目の知華が二股かけている男と交わす会話、女は名前で呼ぶもの、男は苗字で呼ぶもの(これには正直激怒)とか、いくら時代でも、いや、こんなのって、まるで時代系譜にただ“女”と書かれる戦国時代のノリじゃないよ、とか思ったり。女は男がいなくても生きていける、でもあなたは特別、なんて言うでしょ。この台詞って、前半部分は一見良さそうに聞こえるんだけど、後半部分があるから余計に、女の、女としての部分の女々しさが、でもどこか物語っぽく感じてしまう。
二番目の知華が、恋人に別れを告げにいって、突然狂ったように笑い出したり、生理なのにヤッちゃったり、そして家族を捨ててその恋人と逃げたりっていうくだりもそうで……物語としての“女”で、人間の女としての生々しさを感じないのは、そこに知華、ではなく女として見ている男の視点の頑なさがあるからなんだろうか。

でも、アレね。多分キビしかったのは、一番目の知華が吉本多香美だったからだと思うんだなー。ああ、ごめんなさい。でもね、彼女、他の三人の女優陣がまさに女優、一人の女を確実に生きる、こんな物語的な女でも、物語的な台詞でも、それを自分の血と肉にできる女優たちなのに、その中に何で彼女がいるのかと思うぐらい、彼女だけが、あまりにも、……かけ離れてレベル低いんだもん。ごめん、だって、聞いてられないんだもん、見てられないんだもん、彼女だけ。で、これが一番目の知華だから、本当に、キビしい。これは大事なアプローチの場面。一見普通、いや清純そうにさえ見える彼女が、“淫蕩の血が流れている”ことを感じさせなきゃいけない一番目の知華である。ダンナにする男はイトコで、マジメ一徹な感じのさわやか青年である。彼、良雄を海辺に呼び出す彼女。あなたと私は実の兄妹かもしれないと言う……それは彼女の幻想なのか、本当のことなのか。どこか戸惑い気味に彼女のそんな台詞を聞いている良雄。彼の視線を避けるように彼の周りをぐるぐると回る知華。で、この“彼の周りをぐるぐると回る”ってだけで、吉本多香美は既にサムいのが逆に凄い。なぜこれだけのことが、彼女の場合見てられないんだろうと不思議。彼女が自分を、ドキュメンタリーのインタビューっぽくカメラにど正面で語るところも、イタくて見てられないんだよな……正視できないのよ、なんかもう、言葉がよそよそしくて。淫蕩の血とか言われても、彼女だけは言葉上にしか聞こえない。他の三人はそれを内から滲み出すだけの演技をしてるのに、と思っちゃって。

二番目の知華が出てきてようやくホッとする。だって、渡辺真起子だもの。一気に言葉に力が吹き込まれる。しかもここで彼女はまず自分の支えがない状態で現われる。体の弱いダンナは遠いサナトリウムで療養していて、母子家庭の状況にある。毎月一回会いに行っているけれど、その女ざかりの身体が捨て置かれているのが、細身のからだを黒のストッキングの足がすんなりと伸びたタイトスカートのいでたちで、即座に判る……ああ、これこそ女優よねーと思う。法事?葬儀?とにかくそんな場所に彼女は出席していて、その場所には同僚教師の和也(田辺誠一)がおり、彼女をずっっっと見ているのね。恐らく大分前から狙ってたみたいで。
知華は、かつてオリンピックも狙えた天才体操少女だった。でもある大会、たった一回の落下で、体操界から姿を消した。和也の家にはその時の様子が収められたフィルムが残っており、それを見た時から彼の胸はうずいていて……、で彼女をムリヤリ自分のものにしてしまう。ムリヤリ、なんだけど途中から知華が自分の力を抜いてしまったのは、当然、置き去りにされていた女の身体をもてあましていたからに違いなく……。

いやー、田辺誠一に無理やりヤラれちゃうなんて、もー、うらやましいね、渡辺真起子ッ!いやー、ドッキドキするわ。だって田辺誠一、イイ男なんだもん。でもこういう役はちょっと意外な感じ。初めて見るな……ボンボンの、だだっこのような、こんな男なんて。だってコイツってば婚約者がいるのよ?まあそれで言えば知華だってダンナと子供がいるわけだけどさ……でもこのボンボン、その事実を知った知華が冷静に対処しているのを見て逆ギレすんの「女だろ、嫉妬とかしないのかよ!」ってお前ねー、って感じ。で、別れようとする知華を強引に押し倒し、彼女が生理なのにヤッちゃって、で、彼女に家族を捨てさせてしまう。この男と、逃げ落ちるのね、知華は。

このあたりが一番、腑に落ちないんだよなあー。ダンナばかりか子供までを捨てるだけの厳しさが正直私には、感じられないの。多分ここで三番目の知華にバトンタッチされてしまうというクッションがあるせいもあるんだと思うんだけど。
ただ……久しぶりに会った妻と子どもと、ささやかながら幸せな時間を過ごしていたはずの良雄が、妻が恋人に会いに行くのを、どこか薄々感じてて、彼女を送り出す乱れ髪の彼はゾクッとするほどイイ男なんだよなあ。いやー、相変わらずイイ男だよね、田中実。昼ドラだの二時間サスペンスだの、映画もマジメ系ばっか出てないで、彼にはホント映画にもっと出てほしいと思ってるんだけどさー。
それに、知華にどてらを着せ掛けられ、そのどてら姿の後ろ姿が、なんか一気に老け込んじゃったって感じの寂しさでね、彼のこの後ろ姿だけで、ああ彼は、彼女に捨てられてしまうんだなって……予感させられるものがあるんだよなあ……。

で、三番目の知華である。もういきなり彼女は女一人、生きている。和也と暮らしてはいるけれど、この和也は何たってボンボンだからカイショナシで、実家からおめおめと彼女との手切れ金を受け取ってくるもんだから(彼は彼女と別れるつもりはないんだけど……明らかにヒモ状態なんだもん)知華はそれを受け取って、彼の元をいったん離れてしまう。
というのも、別の男に出会ったからなのね。一番目の知華の時、高校教師だった彼女が担任していた問題児、幸次と。実験動物解放をうたい、アナーキーなゲリラ活動をしている彼と再会して、行き詰まっていた彼とともに、彼の田舎に旅立つ。いかにも青年らしい若々しさで、この田舎での筒花火の男としての儀式に熱中する彼を、知華はまぶしく見つめる。かつて体操選手だった自分もそういう時期があったと。幸次はゲリラ活動をしている時よりずっと生き生きと充実しているように見える。

姉のように、いやどちらかというと母親のように彼女を慕う幸次。彼を蚊帳の中に入れてやり、そして……と暗示させるその後はだだっこのようであった和也と似ているようで似ていない。だって和也は子供っぽいけれど自分の男としての力で彼女をねじ伏せようとしていたから。幸次は力を抜いて知華のふところに入ってゆく感じ。愛する子供が遠くにいる知華にとって、この感覚はきっと嬉しいものだったに違いない。
でも、ゲリラ活動をしている幸次の姉が、彼を迎えにやってくる……。
迷う幸次の表情を見て、迷うだなんて、迷われるだなんて、それって女として、男にやられるのイタイよ、って思い……ああ、弟のように、子供のように思っていたつもりだったけど、でもやっぱり、男としてちゃんと見ていたんだなと気づき、「本当のお姉さんのほうが大事に決まってるでしょ」と彼を送り出す知華に痛みを、感じる。
そして、この台詞って、幸次がこのお姉さんを、そういう意味で見ているんじゃないか、あるいはそういう関係だったのかも……ともちらりとうかがわせて。
お姉さんがレズ行為にふけるのを、幸次は辛そうな表情でのぞき見ていた。頭のいい姉を尊敬していた幸次。
それは知華が、実の兄妹かもしれない、と思った良雄と結婚した、あの禁断の感情と少し、似ていた気がする。

そして、四番目の知華である。この頃には私ちょっと疲れちゃって、肝心な場面でうたた寝しちゃった……。えーと、あの、最終的には殺されてしまったんだよね?知華は。ここで出会ったいぶし銀の男、瀬川に。女を刺した前科がある男として、スナックのママに注意をうながされていたこの男に、なぜ知華は近づき、あまつさえ恋人にまでなったのだろう。
一方で、あのヒモ男、和也との関係も続いていたのに。かいがいしく知華の世話をする田辺誠一がカワイイなー。焼きそば食べるところとか、ヒモっぽくて、泣けちゃう。
瀬川は賭博師である。でも知華と一緒に暮らすなら、それをやめるという。知華にアパートを借りるための金を預ける。最後に一発勝負をかけるから、あのお金を、と言うと、知華は、使っちゃったからもうない、と言うんである。裏切られた彼女とともに、彼の田舎へと旅する二人……。

この時にね、知華の子供、純一が彼女を訪ねてきていて。彼は和也とじゃれあう一方で、瀬川と知華とともに遊園地に出かけたりもして。このあたりの関係性がすっごく危うい。
知華は瀬川との旅の途中、ふと見かけた公衆電話で純一に電話をかけている。でも純一は祖母にうながされ(っていうのは、エピローグで明かされるんだけど)知華につれない返事をする。そして瀬川と海岸で……ごめん、このあたりから私記憶ないわ。目えあけたら、もう息のない、血だらけの知華が瀬川に海の中にひきずられてたの……。
瀬川が以前女を刺したのは、その女のことをとても愛していたからだと思う。幸子命、という刺青が腕に彫られてた。そして多分また知華に裏切られて……彼はどうしたんだろう、その後。
エピローグとして、成長した純一がこの海岸を訪れるのね。そうすると“知華命”と彫られた大きな石がある。これは当然……瀬川によって掘られたわけでしょ?

正直、なんとなーく、ついていけない気分を残したまま終わってしまった感じ。一人のヒロインを四人の女優が演じる、というのが興味深かったけど、そのヒロインの造形が、女のサガ!!って、もう感嘆符がもっといっぱい後ろについちゃうようなさ。時代のエッセンスもそうなんだけど、生々しくなりそうで、全然そうじゃないんだよなあ……なんて思ったりして。★★☆☆☆


真夜中の弥次さん喜多さん
2005年 124分 日本 カラー
監督:宮藤官九郎 脚本:宮藤官九郎
撮影:山中敏康 音楽:ZAZEN BOYS
出演:長瀬智也 中村七之助 小池栄子 阿部サダヲ 柄本祐 森下愛子 岩松了 板尾創路 竹内力 山口智充 清水ゆみ ARATA 荒川良々 中村勘九郎 生瀬勝久 寺島進 大森南朋 古田新太 松尾スズキ 楳図かずお 毒蝮三太夫 麻生久美子 研ナオコ

2005/5/18/水 劇場(池袋シネマサンシャイン)
もおー、何から書いていいのか、ホント困っちゃうよね。確かに宮藤官九郎は天才に違いない。彼のたぐいまれなる脚本を、彼以外の監督が演出すると(特に映画のように、作家性が問われてしまう場合特に)、クドカン臭が鼻についてしまうほど前面に押し出されすぎてしまうか、あるいはクドカンの世界に振り回されてリズムが破綻してしまうかどちらかで、やはり彼の脚本は彼の演出でしか、そのパーフェクトな世界を作り上げることは出来なかったんだな。クドカンは脚本家だけど、多分、彼の頭の中にはもう最初から誰がどういう風にこの台詞を言うとか、その台詞の間はこれぐらい、その声のボリュームはこれぐらい、そんなことが全てあるんじゃないかと思うわけ。映像に関しては多分、これは原作者であるしりあがり氏の世界を大事に(かつメチャクチャに)していると思い、それはクドカンの世界観とも共通するものだからこれだけ弾けられたんだと思うんだけど、クドカンの面白さはやはりその会話のあっちゃこっちゃであり、それはこの人が、こういうリズムで、こういう間で、このぐらいのボリュームで、と書いた本人が思い通りに演出するとこれほど面白いのかってことを改めて思っちゃう。

ホント、言い出すとキリがないんだけどさ、例えばこういうシーン、色男の長瀬が演じる弥次さんが、露天風呂で幻覚症状を観ている七之助演じる喜多さんに向かってざぶざぶと入り込んで、こともあろうに喜多さんのキンタマをゴムのようにグイーーッと引っぱり(!!!)しかしトンでもないことをしたと反省、喜多さん、俺にも同じようにやってくれ!と迫るのね。当然、固持する喜多さんに、迫りまくって、しまいには「そこをなんとか」と弥次さん、ささやくわけ。
はあー、こういうところなんだよなあ、一瞬の、ささやかな部分なんだけど、こんなとこで「そこをなんとか」という台詞が出てくるオドロキと、その完璧な間とリズムと、しかもそれが小声でささやくように、というのが本当に、書いた本人でしか出来ない完璧な面白さなんだもん。しかもゼータクにもこの場面もパッと切り替わっちゃって、またこんな風に、奇跡的な間とリズムとボリュームのやりとりが、息もつかせずてんこもりで出てくる。
実はテーマ自体はかなり深遠で哲学的なんだけど、やはりそれ以前に、クドカン唯一絶対のこういうところが、まさに彼が監督しなければ出来なかったんだな、という思いがある。

こういうオフビートな会話の妙味というのは、彼と同時代の演劇人が映画監督に進出した時に似たようなものが実は見られたりする。松尾スズキケラなんかに。多分それは、この同時代の芝居の上において、どこか共通言語気味に使われている会話の雰囲気のようなものなのではないかと思う。どこか膝カックン的に「えぇ〜?」みたいなね。その雰囲気は実は映画の観客である、つまりは芝居の観客よりは一般人度が高い俗客にとっては、その雰囲気についていけないことがあって、思いっきり俗客である私がそれらの映画作品にノレなかったのは多分そのせいだと思うのね。
クドカンはそういうものを全面に押し出しながらも、巻き込んじゃうんだよなあ、なんでだろ。この作品の作り自体も、江戸、笑の宿、喜の宿……といわばエピソード自体がそれぞれに分断されていて、その間をスムーズにつなごうということさえ彼はしていないんだけど、思いっきり痛快にぶった切っていく感じさえも、痛快にノレちゃうんだよね。やはりこれは紙一重に違うものを持っている、これこそが才能ってヤツなんだろうなあ。

彼が、宮藤組などと呼ばれることをくすぐったがって、普段呼ばれているクドカンをもじってくど監組にしてください、と言ったのは、それが思いっきりベタなのは彼自身が最もよく判っていることなんだけど、だからこそ、彼のその記号的なものを武器に出来る、彼だけの世界を構築できると思ったんじゃないのかな。
しりあがり氏の原作は未読だけど、このコミックスのシュールさは、多分クドカン自身の中でパーフェクトに鳴り響くものなのだろうと思う。多分、これは10年待ってかなえられた、奇跡的なまでに完璧なコラボレート。しりあがり氏のテイストは、弥次さんが手にするDM(!)や、喜多さんの部屋の壁に描かれた落書きや、エピソードの冒頭ごとに使われるクレジットで、ふんだんに盛り込まれている。クドカンが自分だけの世界を構築するんじゃなくて、いや彼自身の世界の中にしりあがり氏の世界は矛盾なく入り込んでいて、100パーセントクドカンでありつつ、100パーセントしりあがり氏でもあるんだろうというこれは、まさしく完璧なコラボレート。

それにしても、予想以上にラブラブなヤジキタには驚いた。いや、特に長瀬氏である。あまりテレビを見ない私は、彼の役者としての認識は非常に貧弱なのだけれど、それに何たって絵に描いたようなハンサムだし、どうなんだろうぐらいに思ってたのが事実。しかし彼の、まるで臆することのない、喜多さんへのラブラブ攻撃には降参せざるをえない。彼には妻がいる。つまりは多分、もともとゲイだと(劇中ではホモという言い方)いうわけではないんだろうと思う。でもだからこそ、初めて好きになってしまった男である喜多さんに、これほどまでにベタベタにのめりこむのが何だか妙に生々しく説得力がある。弥次さんはとにかくスキンシップが好き。喜多さんにベタベタと抱きつき、実にスウィートな接吻をする。あれは絶対舌入ってるよな……。

一方の喜多さんはというと、劇中女の子に恋をする場面は出てくるものの、彼自身はもともとゲイなんじゃないかと思わせるフシがある。でもって、ヤク中である。……江戸時代にヤク中だなんて、しかも注射器や青と白のカプセル薬なんかヘーキで出てくるし、そのあたりがなんともイイんだけど、でもその一方でバイクでお伊勢参りに行こうとする二人を岡引が追いかけてきて、今何時代だと思ってるんだ!と……いやそういうアンタも白バイで追いかけてるってば(笑)。
こういう、確信犯的に時代考証を無視しつつ、意識しているバランスが絶妙なんだよなあ。劇中、ヤジキタは二人でCDを出し、ちゃんと現代風の音楽スタジオでレコーディングをして、しかしそこの音楽ディレクターは頭の上にちゃんとチョンマゲを乗っけてて、しかも江戸時代なのに“オリコンで三週連続一位”っていう号外チラシ?が出回り、しかししかし、それがソノシートだったりするあたりがナンセンスなアナクロで、ああッ!もうメチャクチャなんだけど、このメチャクチャが、それこそメチャクチャ計算されているあたりが、もー憎すぎるのよお。

うー、何か、ストーリーも何も語る前からメチャクチャに書いちゃったけど、でもこれってストーリーもハチャメチャだからなあ。まず、えーと、何だ、弥次さん喜多さんは江戸にいる。ラブラブなカップルなんだけど、弥次さんには奥さんがいるし、喜多さんは先述のようにヤク中で、ラブラブなんだけど、かなり問題を感じさせる状態である。
しかも冒頭、弥次さんが観ている夢が凄い。
暗い川面を、次々と流れてくる戸板。くるりとひっくり返ると、それは喜多さん!そしてまた流れてきて、奥さんのお初!三枚並んだと思ったら、はさまれた戸板がオセロゲームのごとくくるりとひっくり返る!?そうかと思ったら大量の戸板が流れてきて、今度はテトリスがごときに並んだ列が次々に消滅していく……って、アホかー!もうこの時点ですっかりわしづかみにされちゃったよ……でね、ここでは、つまりは弥次さん喜多さんがお伊勢参りに行く前までは、ずっとモノクロなのね。てやんでいとべらんめいで言い合って喜多さんの言い間違いを引き出し「引っかかったー!」と無邪気に弥次さん笑い転げたり、てやんでいバックドロップかましたり、明るいんだけど、喜多さんはヤク中でフラフラになってるし、壁一面に描かれたしりあがり氏による落書きはユーモアはありつつそれはブラックユーモアで陰鬱なシュールさをかもし出してるし、何より二人は、一人は所帯もって一人はヤク中と言う、哀しき不毛なゲイカップルなのだ。

どこまでもアッケラカンと弾けていそうで、この辺の計算はさすがである。で、喜多さんが凄い早業で旅の支度をととのえたことに弥次さんが「えぇーーーーー?」とながーく語尾を引っぱって(だからね、こういう台詞がね、ちゃんと観客に面白く感じられるかどうかなわけ)うろたえつつも、二人が旅に出るその場面からはもういきなりのミュージカルだったりして、そしてイージーライダーもかくやというでっかいバイクに二人乗りで、極彩色。
彼らが、江戸で、いかに肩身の狭い思いをしていたかが判るってもんである。アッケラカンとゲイカップルをしていそうで、案外二人は悩んでいるのね、多分。
喜多さんがヤク中に苦しんでいるのは、この江戸という町に「ちっともリヤルを感じねえ」からなんである。そんなときにあのDMが届くんである。「リヤルは当地にあり」とね!
思いっきり、現代的テーマだよなあ。人はごちゃごちゃいて、情報もゴチャゴチャあって、だから、そういう風に周りの数があまりに多いから、個々のそれらが薄まっちゃって、薄っぺらになっちゃって、だから彼が苦しんでいる、感じられない“リヤル”というのは、その中には彼自身も入ってるんであろうっていうのが実に皮肉なんだけど。で、弥次さんはただただ純粋に喜多さんが好きで心配して、“リヤル”を感じられるというお伊勢参りに行こうとするんだけど、実は喜多さんの根本の問題はもっと別のところにあって、それがこのシュールな旅で徐々に炙り出されてくるわけで。

江戸の町で、象様の話題を瓦版で話している生瀬さんが、おっきな指差し棒を使っているのがミョーに好きだったなあ、こういうキュートなナンセンスはホント、クドカンならではだと思う。
そして、ヤジキタの旅が始まる。最初はまず、笑の宿(箱根の関所)。町を行き交う人々は皆男の二人組で、弥次さんは無邪気に「ホモだらけだ!」と喜ぶんだけど、実はここのお大名様が、笑わせなければこの関所を通させない!というコワーい竹内力であり、二人はやむなく即席のお笑いコンビを組むことに。
ここで出てくる、江戸時代なのにフツーにメガネのおぎやはぎなんかが意外に笑わせてくれたり、しかしなんといっても、このお大名の行列に幻覚を見て、OLの群集だのを見ちゃう喜多さんが面白すぎる。特にアーミーのミニチュアモデルの行列に熱狂して、これ欲しかったんだよ!とはいつくばっちゃうんだもん、もう爆笑。
それがボケツッコミだと思いこんだ大名様、二人を気に入っちゃって御前に呼ばれるんだけど、喜多さんのヤク中がバレて、二人は引き裂かれちゃう。
で、箱根の関所ぱーと2である。喜多さんは笑いの神様の前にいる。更にそこには、弥次さんが出会ったホット師匠がいる。彼もまたヤク中である。ホット師匠は幻覚に負けてしまう。喜多さんは布団に寝ている弥次さんを幻覚で見る。追いかけるも、追いかけるも、ふすまが次々に開いて、するするするすると弥次さんは布団ごと後退していく。ひたすら追いかける喜多さん。……この場面は実に、日本的な幻覚の魅力、とでもいったものが効いていて、単純だけどかなり好きなシーンである。
そして、喜多さんはふっと、現実世界に放り出され、弥次さんと再会するんである……。

そして次は喜の宿。ここでは清水の次郎長を追っかけてる女子高生軍団がいて、しかしその頭は日本結いでヒマワリなんか差してかなりシュール。ガングロもいる(今時……)。喜多さんはその中にとりこまれちゃって、彼もまた女子高生姿で(笑)。しかしその女子高生たちが、「掲示板に書いていた」(……)ということだけで、色男(らしい)次郎長親分を追っかけてるんだけど、それは古田新太なんだもん(爆笑)。

でまあ、ここはさらりと抜けて、次は歌の宿である。
ここでは、このラブラブカップルにある転機が訪れる。
富士山が最もキレイに見えるという御茶屋は歌声御茶屋。ぐっさん扮するオカマの女将が、茶を注文される度に「ロッキー・ホラー・ショウ」もマッツアオのショーを繰り広げまくる。そしてここでは、歌を歌うと富士山がいつでもキレイに晴れて見えるんだという。でも女将のお嬢さんのお幸ちゃんは救いようのないオンチで、彼女の歌声では、富士山は霧がかかっちまう。
ヤジキタは不憫に思って、彼女のレッスンにかかるのだが、喜多さんは彼女にホレちゃって、仲良くレッスンする二人を弥次さんは嫉妬のまなざしで見つめるんだけど、お幸ちゃんは弥次さんにホレちまっているんである。
お伊勢参りへの先を急ごうとする弥次さんに、「おいらのリヤルはお幸ちゃんなんだ!」と喜多さんは彼の手を振り切って走り出してしまうのが……双方、あまりにも、あまりにも切ないんだよね。
喜多さんにとっては、本当に本当の、恋だったんだろうけれど、彼の弱っている心での恋であり、何より、彼の台詞が証明しているけど、「本当のリヤル」を求める、それこそが第一義だったんだもの、彼にとって。でも弥次さんはそんなことは関係ナシにずっと喜多さんの側にいたわけで、そのことを喜多さんはこの時まだ気づいていないんだと思うのね。

で、この時に“オリコンチャート三週連続一位”が出てきて、それまでの一位だった、ひげのおいらんが松尾スズキだったりするのね!うー、これももうすげー爆笑。ひげのおいらんってだけで可笑しいのに、その歌詞世界が……ううッ!大人計画の盟友である松尾さんと、そしてこのひげのおいらんにほれ込んでいるのも同じく盟友である阿部サダヲであって、彼はまるで蒲田行進曲の銀ちゃんみたいな、ドハデで、どこかオカマちゃんな要素の入ったお人なんである。
彼の名は金々。そして彼の相棒は呑々(柄本祐)。キンキン、ノンノン……。金々が呑々の身長の高さをいちいちいましめるのが可笑しすぎるんですけどおーッ。阿部サダヲ、サイコーだなー、彼の相棒として堂々とタイ張る柄本祐もまた、やはりタダものではないッ。
そしてヤジキタのディナーショウ。弥次さんとお幸ちゃんが歌っているステージに、あの美しい富士山の景色をビリッと破って(!!!)乱入する喜多さん。おいおい!“富士山が一番きれいに見える”って、絵かよ!こだまがやけに遅れると思ったけど……(この間がまた可笑しいんだ!)。この後、二人を追ってキンキンノンノンが訪れた時、ガムテープで破れたのを補修しているシュールさがたまらなく好きッ!

このシュラバな一件で、どこがどうしてどうなったものやら、何と、弥次さん喜多さんの腕がつながっちまうんである。お幸ちゃんの歌は上手くなったけど、喜多さんは失恋して、弥次さんも複雑な思いを抱えたまま、次なる旅へと向かうんである……。

で、次が王の宿である。なんつーか、一番ハチャメチャである。毒蝮三太夫の手の間から出てくる、絶対食いたくない名物の「とろろ汁」、そしてアーサー王だという、ちょうちんパンツはいた王様が、「DNAを断ち切るエクスカリバー」だと言って、大道芸人よろしくパフォーマンスしている。そしてその「エクスカリバー」で、喜多さんは弥次さんとつながっていた腕を断ち切ってしまうんである。
……ここからは、喜多さんの幻覚もヒドくなって、どうもアイマイになってくる。
突然、喜多さんは映画館の椅子に座っている。まさにこの、「ヤジキタ」を観ている。で、なんと……自分が弥次さんを殺している場面をその中に見てしまう。ポップコーン食べながら(……)ボーゼンとする喜多さん。
そして一方、喜多さんに殺されてしまった弥次さんは、三途の川あたりをさまよっている。
弥次さんも喜多さんも、生と死の端境にいる、奪衣婆と会っている。喜多さんは、弥次さんは生きていると思い込んでいれば会える、とアドヴァイスし、弥次さんは三途の川で彼女と出会って(三途の川に研ナオコだぜー。コレ以上ないキャスティングだよなあ!)、彼はどうしても喜多さんに会いたいんだと、彼に殺されたとしても、生きて彼と旅を続けたいんだと訴えるんである。
あー、しびれたなあ、この台詞。
「喜多さんと一緒に旅を続けたいんだよ!」って、心臓を撃ち抜く台詞だよなあ。
殺されたのに、こう言ってくれる恋人なんて、魂を売り飛ばしてでも、欲しい。

次は、魂の宿、である。弥次さんを探してさまよってきた喜多さんがたどりつくそこには、バーがあって、バーテンダーは繊細さにかけては右に出るものがいないARATAである。相変わらず究極の繊細さで、このバーのバーテンダーをつとめている。キレイなピンク色のカクテルを喜多さんに進呈する。死んでしまった相手を存在させ続けるには、相手のことを思い続けるのが必要だと、彼は説く。
そこには、彼のことをずっと思い続けてくれている奥さんがいるんである……。
もう、幻覚キノコまみれになってしまったその奥さんはどこか夢うつつで、ダンナであった彼のことを日常のように夢見ている。そのことをこのバーテンダーはとてもありがたく思っている。だから彼はそう喜多さんに説くんだけれど、それはとてつもなく美しいながらも、何かあまりに、哀しくもあって。
ヤジキタはね!それ以上の展開にまで進んでしまうんだよ!

ここで初めて明かされる、ヤジキタが旅に出る以前の話。弥次さんはなぜ喜多さんを旅に誘ったのか、なぜあの世界がモノクロだったのか。それは……。
弥次さんの奥さんが、ダンナの浮気に苦しんで、どこか、狂ってしまってもみあって、自分自身を刺して、死んでしまった。
この二人の珍道中には、そんなことがあったなんて暗い影はどこにも見えなかったのに、弥次さんは何も言わずに人知れず、苦しんでいたんである。
弥次さんが、喜多さんを好きだというのはホント。でも、ズルいけど、ズルいんだけど、でもやっぱり弥次さんが並行してこの奥さんもちゃんと愛していたのもホント。……恋と愛の違い、もしかしたら、奥さんへの愛は、喜多さんへの恋より深いものがあるのかもしれないけど、恋は瞬間的な温度がとても熱いものだから、弥次さんはそっちに行っちゃったんだよね、だって、ヤジキタの関係って、やっぱり“まだ”恋なんだもん。勿論、恋は愛とは違った意味で、とても尊いものなんだけど……。

妻殺しの容疑で、キンキンノンノンが弥次さんを追って来てて、彼を待ち続ける喜多さんのいる森のバーにたどりつく。その時、弥次さんは三途の川の源流までさかのぼっていって、“不健康ランド”でいまだ成仏できないでいる魂たちに出会い(荒川良々の大群!すっごすぎる画!まあったく、大人計画ってのは、トンでもない人たちの集まりだわね!)、そして、三途の川の源流で、姿は荒川良々なれど(笑)、それが自分の奥さんだということが判るんである。
三途の川の流れは、彼女のとめどなく流れる涙。そして喜多さんが待っている森のバーで喜多さんの幻覚として現われた弥次さんは(背中に「USO(ウソ)」のロゴを背負って(笑))、魂で追って来た奥さんのお初と対面している。
双方ともに、現実ではない、どこか夢のような場面で対峙しているのが、並行して描かれるのがなんともフシギである。
弥次さんの正直な気持ちの吐露に、涙を流しながらも気持ちよく納得してくれて、そして三途の川では、「自分のお尻の下を通って」と言ってくれたお初さん、無邪気な仕返しで、ぶおお!とばかりに屁でふっ飛ばしてくれたけど(笑)。そしてめでたくヤジキタ再会、再会のディープキスを交わして(濃すぎ!)喜多さんに生えてる幻覚キノコを食っちゃたりして、そして改めて、二人は、お伊勢参りへと向かうのであるッ!

ゆかたに、おいら、とかおまい、とか、まんま、ゆかた、とか書いてあるのが好きすぎたり、「喜多さんも薬を我慢しているんだから、自分も何かガマンしないといけない」と腰をウンッとばかりに持ち上げて小便をガマンする弥次さんも長瀬氏がやるからやたら可笑しいし、「ばかばかばか!」とふた昔前の少女漫画みたいに喜多さんを責める弥次さんがくすぐったくもカワイイし、「頭ぱっかーん。メチャメチャホットやで」なんていう、よー判らんギャグを持ちネタに、しかしその濃い顔とキャラで強烈な印象を刻む板尾創路氏や、奥さんが覚えていてくれることで、何とかこの世に存在しているバーのマスターがARATAだなんて、まるで「ワンダフルライフ」のごときであり、もー、もー、好きな部分を言い出したらキリがないんだけど、ネタにしてもキャラにしても、これ以上なくビシッと活かしてるのよねー!でもやはり、喜多さんをラブラブに愛しちゃってる弥次さんを演じる長瀬氏の、迷いのない演技が何より素晴らしかったなあ。受けの七之助氏は、やはりまだ若さのせいなのか、あるいはこのヤク中という設定のせいか、そうでなくても頬がゲッソリで、一人シリアスな内面世界を担いまくっているからさ。

ハマッた映画はいつもそう思っちゃうんだけど、こういうのこそ、海外に出したいよなあ!こんなん、アメリカとか持っていったら、一体どんな反応されるんだろうとか、興味ありあり!★★★★☆


マラソンMARATHON/
2005年 117分 韓国 カラー
監督:チョン・ユンチョル 脚本:ユン・ジノ/ソン・イェジン/チョン・ユンチョル
撮影:クォン・ヒョクジュン 音楽:キム・ジュンソン
出演:チョ・スンウ/キム・ミスク/イ・ギヨン/ペク・ソンヒョン/アン・ネサン

2005/7/19/火 劇場(有楽町丸の内ルーブル)
ちょっと前のドラマ、「光とともに……自閉症児を抱えて」を興味深く見ていたせいもあって、この映画には興味をひかれたんだけど、韓国で大ヒットだから、感動作だから、そんな感じでエンタテインメントと一緒に大スクリーンにかかっているのが、何となく、うーん、そうか……などと思ってしまった。
私は、何となく身構えちゃうのだ。私にはこういう障害はないし、こういう障害を持った身内や知り合いもいないから、実話を元にしているとはいえ、感動作に仕上げてくるこうした映画に泣いちゃうのは、何か無責任みたいな気がしてしょうがなくて。
……なんていって、「光とともに……」では毎回号泣してたんだけどさ。
ただ、こういう障害を持った人を描いた映画って、ドキュメンタリーでいくつも秀作が残されているから、やっぱりフィクションになってしまう“映画化”にしり込みしてしまう気はある。モデルになった人は、自分を形から演じている役者さんを見てどう思うのかなあ、とか。

劇中にね、こんな言葉があったでしょ。「チョウォンの心の中は誰にも判らない」って。
そう、彼の心の中は誰も判らないし、推測することさえ出来ないから(そういう障害を自分では持ってないから)それで簡単に感動して泣くとかいうのが、どうしても失礼というか無責任な気がしちゃうのだ。
でも人間の心の中なんて、どんな人間だって結局判らないよな……とも思う。多分この映画はその部分をこそついているんだとも思うんだけど。
そりゃ、この映画は意識的にエンタメの部分は十分に持ってる。一歩間違えれば危険だと思うけれど、自閉症という障害の持つ頑なさを親しみのこもった目線でのユーモアに変えて、何度もクスリと笑わせてくれる。でもそこで笑っちゃうたびに、やっぱり何だかヒヤリとしてしまう。
気にしすぎなんだけどさ……実際。

この主人公、チョウォンがマラソンの完走を果たすまでを、彼自身、そして彼にかかりきりになる母親の成長、そして周囲の人々の変化を交えて描いていく。この自閉症という脳の発達障害は、誤解を恐れずに言えば、子供のまま時間が止まっているような部分があって、大人としての成長は見込めない、みたいに私たちは思っていたし、多分劇中の母親も思っていたんだけど。
でも、チョウォンはほんのちょっと、ほんの少しだけど、大人としての成長を劇中で遂げるんだよね。
人とのやりとりをしない彼が、マラソンのコーチに手渡したペットボトルの水。たったそれだけなんだけど、それまでの描写で彼がそんなことを決してしないということを私たちは知っているから、とても驚く。
チョウォンは絶対に、そんなところに到達できない、と思っていたのは、やはり“自閉症”というくくりで考えていたからなんじゃないのか。

お母さんは再三、うちの子供は走っている時は他の子と一緒だ、と言う。前段部分も、本当は否定したいんだと思う。確かに人間のフツウだフツウじゃないという違いは、直截にコレ、と指し示せるものではないから。
でも、彼女が自信をなくしてしまった時、あれほどその点にはガンコにこだわっていた彼女が、「ウチの子は、他とは違うんです」と言い放つ。本当は心の奥でずっと思っていたけれど、怖くて口に出せなかった、そんな趣で。
実際、お母さんというのはこういう場合どうしても負担を負っちゃって、劇中のお父さんは頑なな妻に追い出されたのか、この子供をもてあましてしまったのか判らないけど、家を出てしまっている。まあそれもちょっと判りやすすぎる形ではあるんだけど……。
こんなに頑張っているお母さんに、非難めいたことなんて言えない。でもマラソンのコーチは言っちゃうのね。もともとこの人だって、かつては金メダリストだけれど、このお母さんにムリに頼み込まれた、すっかり落ちぶれて酒びたりの男。でも彼は、お母さんとはこのチョウォンに対する接し方が明らかに違うのだ。
それは、……これも誤解を恐れずに言えば、対人間として接しているということ。お母さんが、子供として接しているんだとすれば。

確かに、お母さんにとって、子供はいつまでも子供なんだけど、全く文字通りの意味でチョウォンは子供であり続けているわけで、このコーチが、「チョウォンがあなたなしで生きていけないんじゃない、あなたがチョウォンなしじゃ生きていけないんだ」と言ったのは確かに言いえて妙、だったのだ。
自分が必要とされることに、世のお母さん、そしてもっと言ってしまえば女、さらに言ってしまえば世の中全ての人が、渇望している。
このコーチがそういったことから全く切り離されてチョウォンに接することが出来たのは、彼にとってチョウォンに必要とされたいんじゃなくて、彼がチョウォンによって目覚めさせられたからなんだろうと思う。
マラソンがこんなに楽しいものだったことを、彼はずっとずっと忘れていた。一流の選手だったからプレッシャーに押しつぶされて、コーチを頼まれた時も、「マラソンは苦しいだけだ。走っていて、車に飛び込みたくなるほどなんだ」と言っていた程。

マラソンはペース配分を考えなければならない頭脳スポーツだから、チョウォンには出来ないと、彼は思っていた。
その考えをくつがえしたのは、チョウォンの驚異的な記憶力である。実際、お母さんもそれこそを自慢にしていた。大好きなシマウマに関することなら何でも覚えてしまうチョウォン、シマウマ柄のバッグをひったくった、と警察に連れていかれた時、被害者の女性から、「こんな子は外に出すべきじゃない」と言われて、怒っちゃって、「ウチの子はあなたの千倍も記憶力がいいんだから!」と叫んでいたお母さん。
しかし……この女性の台詞、「光とともに……」でも出てきた問題だったけど、キツいよね。というか、これってある程度五体満足な人たちしか暮らせないような、排他的な都会をホント象徴していると思う。都会は、ちょっと規範に外れると、これが意外に田舎よりも生きづらくなるような気がしてならない。それは、ここまでの例じゃなくても、たとえば歩くのが遅いお年寄りとか、赤ちゃんを連れたお母さんとかっていうレベルでもそう。共生の意識が薄いのだ。

ちょっと話題が飛んでしまった。そう、だから、コーチはチョウォンの、興味あることへの集中力に驚いて、彼ならマラソンも完走できる、と踏んだんだよね。
多分、この時点からコーチはチョウォンを自閉症の子供としてではなく、一人のマラソンランナーとしてとらえていたと思う。
でも、その前の時点から、やっぱりこのコーチの接し方はなかなか痛快だった。サウナに連れて行き、酒を飲ませ、競馬を見せる、といった具合。お母さんは、このコーチの汚い言葉やしぐさを息子が覚えてくるだけでもイヤだったから、さすがに腹に据えかねて怒鳴り込むんだけど、返り討ちにあうのね。あの、「チョウォンなしで生きていけないのはあなただ」ってヤツ。
チョウォンは知能年齢は5歳かもしれないけど、確かにもう20歳の成人なわけだし、酒を飲んだって競馬をやったって問題はないのだ。でもこのお母さんも、そして私たちも、そんなこと考えてみもしなかった。それはチョウォンを、そのまんま、5歳児だと思っていたに他ならない。

こういう知能的な障害を持っている人を、世間的に純粋無垢だとか天使だとか、とらえてしまう向きがある。それは逆に言えば、そんな都合のいいワクに閉じ込めてしまっているとも言える。まるでハレモノに触るように、神棚にまつって。天使じゃなくて、彼らは人間なのだということを、このコーチの接し方と母親への叱責で気づかされる。
このコーチってば、ホント人間臭いんだよね。チョウォンが昼休みに食べると決めているプラムを盗み食いしちゃったり(それに気づいたチョウォンが、バッグを抱えてグラウンドを走るのには爆笑!)、最初からこんな具合で、チョウォンを天使としてなんて扱わなかったから、だから多分チョウォンはコーチのことが大好きになったんじゃないかなあ、と思う。

もちろん、母親のことも大好きなんだよ。でもそれはより複雑な感情。チョウォンは一度、捨てられてる。という表現をしたのはお母さん。お母さんがまだ年若かった頃、育てる自信がなくて、動物園でぐずるチョウォンの手を離した。もしかしたら彼女はその時の気持ちをずっと引きずって、贖罪の気持ちでチョウォンを過保護気味に育ててきたのかもしれない。まさかチョウォンがその時のことを覚えているなんて思わなかったのだ。彼が迷子になった時、お母さんに言うのだ……「動物園で、僕の手を離すから……」
チョウォンが驚異的な記憶力の持ち主だということを示すエピソードであり、お母さんだってチョウォンの記憶力を誇っていたはずなのに、この点についてはまさかと思っていたというのは……チョウォンは自分の興味のあることしか覚えない。興味……つまりそれだけチョウォンがショックだったということなんだよね。

お母さん、打ちのめされてしまう。
チョウォンが走ることを好きだと言うのは、どんなに辛い練習もやりとおすのは、私が15年間、イヤだと言わないよう、叩き込んだからだ。あの時みたいに捨てられるんじゃないかと思って、あの子はイヤだと言えなくなったんだ、とお母さん……。
その時、お母さんはベッドの上である。胃に穴が開いてしまって、それをずっとガマンしてて、倒れてしまったのだ。……彼女の心労は想像するにあまりある。
彼女にはもう一人息子がいて、チョウォンの弟にあたるんだけど、お母さん、チョウォンにかかりっきりになるあまり、この弟にまったく時間をかけられない。で、多感な時期の弟は少々グレてしまって、母親に「自分の言うことを聞いてくれたことあるのか!」と思いをぶつけるんである。
確かに、このお母さんの中は、チョウォンでいっぱいになってしまっている。
ただ、それがチョウォンを愛しているからという意味なのかどうかは、コーチからのあのシンラツな指摘でなかなか難しいところである。
お母さんがあまりに一生懸命になってしまって、息子たちへも、夫へも、愛という気持ちで接する余裕がなく今まで来てしまっていたのだとしたら……。
弟君はね、でもイイ子なの。このお母さんが倒れてしまって、兄が動揺しているのを見て、幼いながら、この事態を必死に受け止めようとしているのが判る。ハッキリ言って一番ズルくてヒドいのがお父さんだよねー。そりゃ、この奥さんについていけなかったのかもしれないけど、微妙な時期と立場のこの弟君に、「俺と一緒に暮らすか?」などとコッソリ言うなんて、ズルすぎるじゃない。

お母さんの夢は、チョウォンが自分より一日早く死ぬこと。「そのためには100歳まで生きなきゃ」と言っていた。自分がいなきゃ、チョウォンは生きていけないと思ってた。
いつでも側にお母さんがいて、弟君からは、「一人でトイレにも行けない。アニキは反抗も出来ないでウンザリしてるよ」とはき捨てるように言われる。実際そうかもしれない、と思う。何も出来ないと思われているのを、否定さえ出来ないことを。
そんなことを、軽々とチョウォンは越えてしまうのだ。ずっとつぶやき続けていたマラソン大会の日、彼は誰にも聞かず、頼らず、一人でバスに乗って会場に辿り着き、会長からゼッケンをもらって、参加する用意を万全にしていた。お母さんはね、自分がマラソンを強要したと思っていたから……チョウォンがイヤだと言えなかったからここまで来ちゃったと思っていたから、もういい、もうマラソンはヤメるの!とチョウォンを連れ戻そうとする。

ここまできて、またしても頑ななお母さんである。障害としての頑なさを持つチョウォンに負けず劣らずじゃないの。彼女は、自分が強いていたことを辞めさせるのに必死で、チョウォンがここまで一人で来たことがどんなに凄いことか今ひとつ判っていない感じで……今までマラソンを頑なにやらせるように仕向けていたその同じガンコさで辞めさせようとしていることに気づいていない。彼女、だから今の時点で何も変わってないんだよね。
でも、チョウォンは変わっている。今まではお母さんに逆らうことはなかった。でも帰ろう、と手を引っ張られても、決して、決してそれに従わないチョウォンは今までと明らかに違っていて……なあんか、遅い、すっごく遅い反抗期?なんて思ってちょっと、微笑んじゃう。
かくしてチョウォンは夢のマラソンのスタートを切るんである。
飲んだくれていたコーチもかけつけて、自転車で後ろに弟君を乗せてチョウォンを追いかけ、ゆっくり、ゆっくり!と声をかける。あとは彼を信じて引き返す。今の彼なら大丈夫、やれると。
チョウォンは見事完走、途中の、草原をシマウマとともに駆け抜けたり、今までヒドい言葉をかけられた人たちに応援される幻想なんかは、ちょっといらなかったかな、って気もするけど……。

あの時お母さん、15年間、イヤだと言えない様に叩き込んだ……私はヒドい母親って言っていたけど、でもだからといってチョウォンは走るのが嫌いだったんじゃなかったわけで、大好きだったわけで、好きなものを見つけてあげたかった、と必死だったお母さんは、やっぱりお母さんだから、彼の好きなものが判ったんだよね、と思う。なんだかんだいって、お母さんはお母さんなだけで凄いんだ。

ホント、お母さんって、凄いんだなあ……。★★★☆☆


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