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「き」


2005年鑑賞作品

帰郷
2004年 82分 日本 カラー
監督:萩生田宏治 脚本:萩生田宏治 利重剛
撮影:伊藤寛 音楽:今野登茂子
出演:西島秀俊 片岡礼子 守山玲愛 高橋長英 光石研 相築あきこ 吉行和子


2005/6/21/火 劇場(新宿武蔵野館)
荻生田作品は二作目の「楽園」で初めて観て、曇り空の美しさがまず心に染み入った。私は日本映画の、美しい曇り空が大好き。曇り空をネガティブにとらえるんじゃなくて、日常の美しさとしてそこにある曇り空を切り取っている日本映画は、まず間違いなく、優しいのだ。ぶっきらぼうに見えたり、不器用に見えながらも、優しいのだ。まさしく「楽園」はそんな映画だったから、私はすぐにこの監督のファンになった。
あれから何年経ったんだろう。随分と待たされた気がする。その荻生田作品に、西島秀俊が、その美しい曇り空そのままにふわりと降り立った。ああ、彼は曇り空の似合う人だ。つまり、荻生田作品に似合う人だ。この人は全然、作らないから、特別な晴れや、憂鬱な雨ではなく、そこにふんわりといる曇り空の人。
そういえばつい最近、彼を「徹子の部屋」なんぞで見かけて、初めてのトーク番組出演ということだったんだけど、イメージが全然違って、凄くステキだったのね。白のスーツが爽やかに似合ってて、ずっと照れくさそうに笑ってる、その笑顔が、驚くほどハンサムだった。そういやあ私、「すべては夜から生まれる」で、それまでイイ男だなんて一度も思ったことのなかった西島秀俊がすっごくイイ男だったんで、その時からすっかり彼に対してはイイ男モードで見るたびドキドキしちゃうんだけど(笑)、そこでの彼は、そのイイ男っぷりとはまた違って、テレ屋の、本当に普通の青年。そう、全然作らないように見える彼のスクリーンでのたたずまいは無論、奇跡的なほどのナチュラルな演技力なのだということに思い当たる。

そうして、そのテレビで見かけた西島秀俊に、本作の彼はちょっと近い気がする。30過ぎという、立派に大人だけど、社会的にはまだまだ若造である、結婚のことや、将来のことや、親のことなんかもそろそろ本気で考えなければいけないけど、青春の思いを捨てきれずにいるような、そんな、ちょっと子供っぽいところを残した、30過ぎのギリギリ青年が、愛しい。愛しいのは、彼がそんな青年の青臭さを残しながら、彼の中の変わらぬ純粋さで大人になろうと必死に努力しているところなのだ。
女はその点、割と早くしたたかさを覚えてしまう。西島秀俊の相手役となる片岡礼子、この二人のコラボレーションというのも、今までなかったのが不思議なぐらい、何というか共通のワールドを感じさせて、お似合いで、キスシーンなんかドッキドキしちゃうぐらいなんだけど、やっぱり片岡礼子のしっかりぶりが際立つのね。ここでの彼女の役柄は、離婚して田舎に帰ってきたシングルマザー。でも離婚して、とハッキリ言っていたかな、とも思う。子供を連れて帰ってきたことで、周りがそんな風に言ったんじゃないかとも思う。とにかく、もう小学生の娘一人を抱えて女一人決然と生きているんである。

騒動は、この片岡礼子扮する深雪が、西島秀俊扮する晴男に思わせぶりなことを言って忽然と姿を消したことに始まる。
いや、その前に、晴男は母親の再婚で久しぶりに故郷に帰ってきており……この年になって母親が再婚するというのにも彼は驚きと戸惑いを隠せずにいて、それも相手が同級生の父親だったりするもんだから、「ええ?俺、お前の義弟になるの?」などと久しぶりに会った仲間と呑みながら……で、その彼の前に現われたのが、深雪だったのである。
深雪とは、8年ぶりの再会だった。そう、この故郷を離れてからの年月。
他の仲間たちとの再会とは違った特別な意味があった。だって深雪は晴男の初めての相手だったから。
しかしその直後、深雪は彼の前からいなくなってしまった。街を出てしまったらしい。それ以降、晴男は彼女の行方を必死に探したけれど、杳として知れなかった。

再会した晴男に深雪は、「晴男君、全然変わらないね」と言う。 そして、あの時の気持ちがよみがえって、何かそんな雰囲気になっちゃって……その後、深雪はこんなことを言うのだ。「やっぱり、晴男君変わった。何かショックだったな。あの後、男としていろいろとあったわけだ」
それはこの房事の濃密さをうかがわせてなかなかに生々しい台詞である。
そしてこうも言う。「私のこと、本当に探してた?」
そりゃあ、晴男は8年間ずっと探していたわけではなかっただろう。
最初は必死に探して……その後はアキラメになって、自分の人生を過ごすのにいっぱいいっぱいだっただろう。
そんな思いだったのか、晴男はふと黙ってしまう。
深雪は自分の娘の話をする。「チハルっていうの。晴男君のハル。目元なんかソックリだよ」!?
それって、それって意味するところは一つしかないじゃない!深雪が晴男の前から姿を消したのが8年前。チハルは7歳。そしてこの台詞!

深雪は明日娘に会いに来て、と誘ってその晩は別れる。しかし翌日晴男が訪ねてみると、娘のチハルはいるけれども、深雪はいなくて、勤務先のスーパーにもいなくて、しかも夜バイトに入っている同級生の居酒屋から4万円が消えているんだというんである。
晴男はうろたえまくる。「やっぱりだよ。しちゃうといなくなるんだよ。なんでしちゃうといなくなるんだよ!」という台詞はかなり笑えるんだけど……本当はね、そんなに深刻な話じゃなかったのだ。
いや、深刻な話だったのかな……私ね、ちょっと疑っちゃってるの。最終的に(中途半端にオチバレしちゃうけど)、チハルは晴男の子ではなかった、って深雪は言う。あまりにも変わらない晴男に、つまり、自分はこの8年間、すっごく苦労したのに(そりゃそうだろう……キャリアウーマンというわけでもなく、女手ひとつで子供を育てているんだから)久しぶりに会った青春の恋人はあまりにも変わらなくて、だからちょっと憎らしくなっちゃって、ちょこっと困らせてやろうとかその程度の気持ちで、ふっと行方をくらました、そんな感じに後で深雪は言うんだけど、でも、本当にそうだったんだろうか、って。

本当に、チハルは晴男の子じゃなかったの?本当の本当は晴男の子だったんじゃないの?
深雪は、晴男としちゃった後、オバサンになったでしょ、と自嘲気味に言い、晴男君の中ではいつまでもあの頃のままでいたかった、てなことを言うじゃない。それがね、なんか……もう晴男とは会わない決心をしたという意味じゃないかと思ったりして、晴男の子供を育てることで、もうあの青春の日々を完結させたんじゃないかって、思っちゃったりしたんだ。
ロマンティックにすぎるのかな、こんなこと思うの。
でも彼女のみならず、晴男の母親も、晴男とチハルが二人連れ立ってご飯を食べに来た時、「あんたの子供みたいね。目元なんてソックリ」なんて言うじゃない。
これはなんだか不思議な符号なんだよね……。

このお母さん、吉行和子が良くってさあ。若くしてダンナに死に別れた彼女、一人息子を女手ひとつで懸命に育てたんだろう、ようやく落ち着いて、一緒に余生を過ごそう、なんて言ってくれる人が現われて、しかもちょっと年下だったりして「年下の男と付き合うのが夢だったの!」なんてはしゃいでいるお母さん、最高にカワイイ。
突然の結婚の知らせに晴男が駆けつけるのが、田舎町の小さな寄り合いみたいな大広間だったりするのもなんともイイ。
それまでは時々なんてことなく帰ってくる故郷の実家だったところに、母親の再婚相手がいて、「いらっしゃい」なんて晴男を出迎える。晴男はその言葉にはただいま、と言うことも出来ずに、あ、どうも、おじゃまします、なんて風情である。しかも「ゆっくりしてって」なんてまで言われてしまう。
そりゃ、この義父の立場からすればその言葉は当然なんだけど……実家でお客さんになってしまったような寂しさがつきまとう。
仏壇には若くして亡くなった父親の写真が飾られていて、マズいんじゃないの、とたしなめる晴男に、母親はキョトンとした顔をして、どうして?仏様なんだから。仏様は大事にしなくちゃね、あの人にも、亡くなった奥さんの位牌を持ってきてって言ってるのよ、とこともなげに言う。そして、「あんた、お父さんの年を越えちゃったね」と言う……。

故郷って、変わるよね。故郷に変わらないことを求めることが、傲慢なんだよね。いつでも変わりなく自分を受け入れてくれる、なんて、自分がその故郷を離れている間、何もそこに貢献していないのに、いつまでも変わらないでいてほしいと、思うなんて。
実際、久しぶりに懐かしい土地に帰ったりすると、その変貌に驚いたりする。何にもなかったところに大きな道路がバーン!と出来ちゃってたりして、のどかな風景が失われていることに呆然としたりする。
でも、そんなことに失望する資格なんて、その間ずっと離れていた自分にあるんだろうかと、確かに思ってしまうのだ。
晴男は、母親が自分を安心させるために再婚という道を選んだんじゃないか、と危惧するのね。そりゃ自分はこの故郷には帰れないけど、ちゃんと考えている。東京に呼び寄せることだって、と。
でもそれこそ、故郷での生活から離れた人間の、勝手な言い草なんだよね。
母親はそんな息子の言葉をありがたく思いながらも、イヤよ、今更住み慣れた土地を離れるなんて、と正直な言葉を口にする。長らく故郷を離れた人間にとってはいろいろと変わってしまっていても、そこに住み続けている人間にとっては、その変化もかけがえのない日常である、大事な生活の場なのだ。

そして、その故郷での、自分の娘かもしれないチハルとの出会い。
この子とのツーショットのシーンがなんといってもこの映画の見せ場である。父親?な西島秀俊が、想像以上に父性を発揮しててかなり素敵だったりし、彼の新しい魅力にかなりドキドキとさせられるんである。
いや、それでもやはり最初はかなり気まずげだった。「学校は楽しい?」とか、「絵が好きなの?」とか「ブランコに乗りたいの?」とか、あまりにもいかにもな質問や会話しか出来なくて、それを見透かすようにチハルちゃんは冷たくあしらうばかり。ブランコもとりかえせない晴男に「もういいよ」と失望するぐらいなんである。
いつから、ってわけじゃない。本当に、徐々に、徐々に、二人の距離が近づいてくる、この演出と役者の演技の絶妙さに、うなる。
本当にいつからだったのか判らない。でもいつしか確実に、二人は親子になってた。どこがきっかけというわけでもなく……。

でも、確かにきっかけはあったのかもしれない。それは、母親の深雪が行方不明になってしまったという事実。それも晴男の同級生で深雪の夜のバイト先である居酒屋の主人のカン違いがなければ、こんな大ごとにはなっていなかったんだけど……四万円収支が合わない、ってヤツね。それを聞いて晴男は、深雪は相当困っているんだ、とか思っちゃったわけ。四万円という大した額じゃないけど収支としては大した額、というのが生々しかったし。でも、それは結局この同級生のカン違いで、こともあろうに、彼がみんなにおごろうとして彼自身がハネておいたカネだったっていうんだから!
チハルが、お母さんは絶対ここにいるはずだ、と長距離バスに乗るところから、二人の小さなロードムービーは始まるんである。
それもまた、かなり生々しいトコである。「優しくてイイ人」だというそこは、深雪のメル友の男のアパートなんである。場所を知っているということは、チハルも来たことがあるハズ……なんだけど、チハルは顔を知っている男が、なんだかチハルのことを認識していなかったりするのが、やけに生々しい状態を想像させたりしてアレなんである。
でも、ここに深雪はいない。それどころか男は、「もうここには来ないみたいだよ」という言い方をする……。

来たバスで帰るも、突然チハルは途中下車する。絶対ここにいる!と入ったのは、観光地によくある、団体様収容可能の、デカイ割にしょぼくれた食堂である。当然そんなところに深雪はいない。「どうしてここにいると思ったの」「ここでサザエのつぼ焼きを食べたの。ママはビールを飲んで、はしゃいでた」……ここにいるという根拠なんて、まるでない。ただ、ママとの思い出の場所をたどっているだけなのだ。
なんて、寂しい……。
でもチハルちゃんにとって楽しい思い出はこんな風にママとのそれしかなくて、なんだか学校でも今ひとつうまくいってないみたいな雰囲気だし、近所に友達もいなさそうな感じだし……それをね、なんか晴男に見せているような気もするんだ。
晴男はそんな風に見せられることで、自分の知らなかった時間の中の深雪を思う。
私、こんなところでもついつい思っちゃうんだけど……子供の直感的なもので、晴男のことをパパだと、彼女が知る由もないパパの感覚を本能的にかぎつけたんじゃないかと、思ったりしちゃったわけ。
違うかな……。

だって、海岸でのシーンとか、メチャクチャいいじゃない。探し疲れてたどりついた海岸で、黙り込んじゃったチハルをふと思いついた晴男がひょい、と肩車して、ビックリしたチハルがヤダーと暴れるのを、大丈夫、絶対手を離さないから、としっかりと足を支えて……するとね、チハルちゃん、晴男の頭(というか髪の毛(笑))にしがみついていた手を離して、鳥が羽ばたくように、大きく手を広げるのね。「トランペットが壊れちゃった」を二人して歌いながら海岸線の奥の方に二人が小さくなってゆく引きのショットが美しい。
それも、やっぱり曇り空の中。青空じゃないっていうのが、優しくて柔らかくていいの。それに時刻もそろそろ夕闇に入ってきてる。
すると、お祭りの告知が小さなワゴンの宣伝カーで流れてくる。

祭り太鼓に惹かれて、二人はその夜祭りにやってくる。射的に挑戦したり、仲良くたこ焼きをほおばるトコなんか、これはホントに親子でしょう!という微笑ましさになぜだか胸がしめつけられる。でも、ふと、晴男が深雪の携帯の留守電にメッセージを吹き込んでいる間にチハルがいなくなってしまうんである。
うろたえて、焦りまくって晴男が探しまくる。自分の娘がいなくなったんだと言って、すっごく、焦って。すると、ふいにチハルちゃんが物陰から現われる。晴男は激昂して、なんでいなくなるの!って怒鳴って……多分、絶対、いつもいつも自分が愛しいと思ったとたんにいなくなってしまう深雪のことを思い出していたんだと、思う。チハルちゃんは怒鳴られて、クシャクシャの泣き顔になって、「いなくなってないよ、チハル、いなくなってないもん」って……晴男がチハルちゃんを抱き寄せて、チハルちゃんは大粒の涙を落として……もう、もう、たまんないの。これのどこが、親子じゃないっていうの!
その後、チハルちゃんが熱を出してしまって、深夜の救急病院を探し出し、晴男が必死になってドアを叩く。疲れたせいで発熱したんでしょうという医者に、晴男は納得のいかない様子で、そこに連絡を受けて晴男の母と義父と、……そして深雪がやってくるんである。

そう、深雪はね、ここで、先述のように、ほんの出来心だって言って、チハルは晴男の子じゃないし、そう思わせて悪かった、って言うんだけど……そう言われても晴男は、自分がチハルちゃんのお父さんになってもいいと思ってる、と言うのね。
このたった半日の旅で晴男の人生が大きく変わったのだ。日常はいつもイヤになるぐらい膨大な時間が流れているのに、それはいつでもただ流れていくばかりで、特別な何かを残すなんてことはない。こんな風に、ふと起こった半日が、思いもよらぬ感情を引き起こす。
でも、深雪は、その日常の感情を忘れずに、といった雰囲気で、それを固辞する。何度言われても、「……それは、ないと思う……」と言うのだ。
何でだろう、何でなんだろうと、ちょっと思ったりもした。だって、何より当のチハルちゃんが、そう言った晴男に対して「チハルのお父さんになりたいの?」と問い返し、深雪に向き直って、「でもママはイヤなんだよね。どうしてイヤなの?」とまっすぐな目で問いかけるんだもの。
それに対して深雪はハッキリと答えを出すことが出来ない。ホント、どうしてイヤなんだろう……。
ママがイヤなら仕方がない、とチハルちゃんは晴男の手を引っ張っていって、みんなから聞こえないところで、「そしたらチハル、お嫁さんになってあげる。そうすればずっと一緒にいられるでしょ」と言う。思わず微笑む晴男。。
そして、晴男は東京に帰ってゆく……。

晴男があの祭りの時に入れていた留守電を深雪が聞いている。
「今まで千春ちゃんを育ててくれてありがとう。尊敬しています。これからは僕が千春ちゃんを守っていこうと思います」
電車に乗っている晴男のカットバック。その留守電にふと動きが止まって、涙っぽくなっている深雪。きっと、こんな言葉を彼女はずっと聞きたかったんじゃないかって思うんだ。ずっと一人で頑張ってきた彼女、でもこんな台詞をサラリと吐ける晴男に、やっぱりちょっと憎たらしい、と思うのかもしれないけど。

哀しいけど、そして寂しいけど、多分、二人はこの後やっぱり別々の人生を歩んでいく、んだろうと思う。
でも、きっと何年後かに再会して、お互いにイイ人が側にいるかもしれないけど、恋人も友達も超えた存在になっているんだろうと思う。
たった、二泊三日の故郷への帰郷だったけど……。

あの時、晴男のお母さんが言ったことを、思い出すんだ。ちょっと物騒なもの言いだけど、何で仏様を気にするのかって。仏様は大事にしなきゃって。
無論、晴男も深雪も死んでなんかいないけど、なんか、近い感覚のような気がしちゃって。あらゆることを超越して、大事に、尊敬して、心の中にしまっておける相手。

利重さんとの共同脚本なんだ。利重さん、この人も、とてつもなく優しくて、涙が出るほどイイ人、って感じさせる映画人。そして音楽は利重さんの奥さんである今野登茂子で、「クロエ」でも泣きたくなるぐらいキレイなピアノを聞かせた人。荻生田監督は「クロエ」でも共同脚本だったし、利重さんとは盟友なんだなあ。★★★★☆


喜劇 陽気な未亡人
1964年 98分 日本 カラー
監督:豊田四郎 脚本:八住利雄
撮影:岡崎宏三 音楽:団伊玖磨
出演:フランキー堺 新珠三千代 望月優子 岸田今日子 水谷良重 中尾ミエ 坂本九 淡島千景 乙羽信子 池内淳子

2005/6/18/土 東京国立近代美術館フィルムセンター(豊田四郎監督特集)
この映画の見どころは何たって、タイトルクレジットでフランキー堺(九役)と、ずらーりと役どころが並べられるところでいっせいに笑い声が起きたぐらい、次から次へとフランキー堺、フランキー堺ばかりが出てくる奇想天外なところにあるんだけど、でもその面白さはそれこそこのタイトルクレジットで終わってしまっているような気もするほど、結局主人公、いや、主人公“たち”は、タイトル通り、“陽気な未亡人”たちなんである。そう、一人じゃない。何人もの未亡人、そして夫と不仲の妻とか。ただ一人、これから結婚を控えているラブラブカップルは出てくるけれど、その夫だけはフランキー堺じゃなく、坂本九。だけに、坂本九の可愛らしさがことさら際立ったりして。だってフランキー堺ときたら、役によっては「あのふとっちょ」と呼ばれるぐらい、まああんまりイイ男とは言えないもんなあ……というか、この作品では彼本来のチャーミングさがあまり出ていないように思える。次から次へ、でおなかいっぱいになっちゃってるせいだろうか。

このただ一組のラブラブカップルの片方は中尾ミエなんだけど、彼女は夫婦であっても経済基盤を侵害しない、という理想を持っていて、結婚して女が仕事を辞めるなんてことに断固反対、相手が北海道に転勤になってもついて行くことは出来ない、でも一緒にいたい、と逡巡した結果、「真ん中の土地」である仙台で週末婚をすることを取り決めるんである。今はラブラブの二人だからそういう選択も出来るとはいえ、この現代の女である中尾ミエのキャラは、この作品の未亡人たちの究極の理想像とも言えるのね。
それこそがこの作品のテーマなんだもん。未亡人という言葉に対する糾弾もきちんと行なわれてる。「まだ死んでない」という言葉の意味への反発、前向きに生きていくべきだと、死んだ夫の幽霊にいつまでも縛られてちゃダメだと、中尾ミエ扮する修子は言うんである。彼女は、結婚したら女が仕事を辞めさせられる会社を自分から辞めて、車のセールスウーマンとして活躍している。そりゃみんながみんな彼女のようにさっそうと仕事できるわけではなく、修子の妹の専業主婦で、只今夫と倦怠期中である禎子(水谷良重)はヒスを起こしたりもする。そんな彼女が、いわゆる女一人生きていくことをもくろんで夫に頼らずに選択すべきことが、夫に保険をかけることだっていうのがなかなかにブラックユーモアであり、なるほど、彼女も“陽気な未亡人”予備軍だと言えるわけで。

フランキー堺の、唯一全編通してのキャラである尾形俊次の幽霊が、どうにも気になることがあって成仏できずに妻の圭子(新珠三千代)にまとわりつく、というのがメイン。んで、夫が死んだことに対してそう哀しんでいるようにも見えないこの圭子が、しかし夫の墓にひっそりと訪れていた女の存在から、その心中をかき回されるところから始まる。この女というのがバーのママ、お良さんで、演じるのは岸田今日子。声は今とまんまだけど、やっぱり今とまんまの超ぼってりな唇が若いだけに愛人としての生々しさを濃ゆーく感じさせる。彼女は俊次を愛していたけれど、実は俊次はそれほどでもなかった。それは後に彼が残した日記によって明かされる。彼はついつい作ってしまった愛人を、捨てるには情けがない気がして、ついズルズルと付き合い続けてしまった。なんてこと、彼を真実愛したお良さんにとってはキツい事実に違いないのに、それが明かされても、彼女はそんなこと判っていたと言って、それがホントかどうかも怪しいけど、とにかく最後まで圭子や、正子(淡島千景。イヤー相変わらず匂うような美女だ)の理解者であり続け、幽霊となった俊次が「イイ人だ」というのもうなづける……でもそれはなんだか哀しく、だってイイ女でさえないんだもの、好きな男にとってさえ、イイ人ってだけなんだもの。女としてカッコいいけど、女として哀しい。それはやはり岸田今日子だから生々しいリアリティがあるんだなあ。

圭子は夫の死にもそれほどショックを受けてないし、自分が困らないだけの保険をかけていたことに対して感謝してるぐらいで、次の男にも目星をつけてるし(またもやフランキー堺だけど(笑))でも、この愛人の存在に心そぞろになって、日記を見つけて更に動揺して……つまり、思いも寄らないぐらい自分が愛されていたことに対して、次の恋愛をすることに躊躇を感じるんである。
それを叱咤するのが彼女の友人である正子。正子もまた未亡人で、立派な料亭を切り盛りしている酸いも甘いもかみわけた女であり、「週に三日の宿泊人」を抱えて圭子のアパート(俊次の保険金で建てたのね)を借りるようなヤリ手である。ウジウジしている圭子にイライラして、男の本質を見せてやるから!とニセの手紙で引っ掛けた男のブザマな姿を覗き見させたりする。んで、このブザマでヤラしい男もフランキー堺。忙しいな……。
その場には夫との倦怠期に悩んでる(後に、それがただの欲求不満だったことが明らかになるんだけど(笑))禎子もいて、女はソンだ、男と同じことをしてやる!と料亭で大宴会。呼びつけられた圭子の母親も早々に未亡人になった人で、酔った圭子からしつこく問いただされて「お父さんが死んだ時はホッとしたわよ!」と白状してしまう。「それが聞きたかったのよ!」と圭子は喜んじゃって、もう飲みに飲み、乱れに乱れちゃう。

もう一組この輪から離れたところに、未亡人であり、圭子と違って子持ちであり、新しい男が出来(またフランキー堺……)、その男に溺れるあまり子供をないがしろにしてしまって事件を起こしてしまう伸枝という女がいる。夫に保険金をかけていたことで未亡人になってからピカピカのオート三輪を手に入れ、新鮮な野菜の行商が修子の住む団地の奥様たちに重宝がられている。その保険を勧めた、といって修子にも執拗に保険の勧誘をしているのがやはり未亡人であるくめであり、彼女は夫が死後唯一残してくれるものだと言って、保健の必要性を強調するんだけど、何か、夫が死ぬのを待っているようなものの言いようは否めなく(そこが痛快なんだけどね。演じる乙羽信子のからりとした可愛さがイイんだよなあ)、彼女に言いくるめられて保険に入ろうとする圭子に夫は、その思いを感じ取ってすっごく反発するのね。
でもさ、おっかしいのは、禎子が指圧の講習会で(ここの講師もフランキー堺……)男性の精力を回復させるツボを習い、それを夫に施して首尾よく欲求不満を解消、しかも子供まで出来ちゃって、アッサリ夫との仲を回復させちゃうところなんである。そこにはちょっと……子供が出来てしまえば先も安泰だ、みたいな意識が見えなくもない。つまり、子供のないまま夫が先に死んでしまったら、専業主婦である自分の行く末が不安だ、みたいなさ……。それにその妊娠の事実を恐る恐る夫に言って、黙って寝室にハケた夫を追いかけると「俺も同罪だから」って言い方を彼がしてさ、禎子はその言い方をとがめるわけでもなく、産んでいいよと言われたことに喜ぶっていうのがなあんか……引っかかるんだよね。それを無邪気に喜ぶ禎子もなんだと思うんだけどさ。

一方、母親の恋人に反発して家出をし、ボヤ騒ぎを起こした伸枝の息子、そんな息子の姿に、自分が女としての欲望におぼれたことを恥じ、息子と共に祖母の故郷に身を寄せることを決意した彼女。これもねえ……まあ、判るんだけど、母性の聖性を強要している感じも、するのよ。子持ちの未亡人が直面せざるを得ない問題ではあるんだけどさ。その彼女が恋した相手が、こんな判りやすいヤクザな、ヤルことしか考えてないような男で、未亡人=欲求不満みたいな図式で彼女がこの男に溺れるのが、あんまりね、好きじゃないのね。
若さの情熱ゆえとはいえ、やはり颯爽としている修子が素敵である。週末婚だなんて、女性の社会進出が進んだ現代でもナカナカ難しいのに、彼女たちならサラリとやってのけそうな気がするんだもん。未亡人、というキーワードを掲げつつ、この若いカップルが最も素敵に見え、ここだけ何役も演じちゃう老練なフランキー堺ではなく、フレッシュな坂本九を持ってきたというところが、未来への展望を感じさせるんだよなあ。いや、やっぱり何より中尾ミエがイイ。ハツラツとしていて、可愛くて、その意志の強さは男を尻に敷きそうな感じなんだけど、彼女の理想が高潔だから、そういう理想を実現する元で尻に敷かれるならまったくもってオッケーでしょ、という好ましさがイイんだよなー。坂本九演じる稔もそんな彼女を尊敬してるから彼女の提案を受け入れるわけでさ……それに彼らのラブラブっぷりが、イイのよ。レコードにあわせてダンスしたり、車の中でチューしたり。一緒にすき焼きをつついて、お互いに食べさせあうなんていうラブラブシーンで、双方共にしらたきしかすくいあげないトコは、妙に気になったけど(笑)。牛肉、煮詰まってるぞー!

最後は、圭子が夫への感謝の気持ちを確認しつつ、新しい恋へと踏み出し、それを夫が確認して、無事成仏するところで終わる。圭子の新しい相手である建築家である木田助教授(これもフランキー堺……)の不器用なキスに嘆息しながらも、安心して空へとのぼってゆく俊次。

この時代はまだCGっていうんじゃなかったんだろうな、この半透明の幽霊の“特撮”は、これもなかなかに見どころ。しかしそれより、まーかなり、女への理想主義を感じる部分も少なくなかったけど、“陽気な未亡人”をまんま実践しているところはお見事である。フランキー堺の九役もどこへやらの、これはまっこと女性映画に違いないんだわね。★★☆☆☆


キス・オブ・ライフKISS OF LIFE
2003年 86分 イギリス=フランス カラー
監督:エミリー・ヤング 脚本:エミリー・ヤング
撮影:ヴォイチェフ・シェペル 音楽:マーレイ・ゴールド
出演:インゲボルガ・ダプコウナイテ/ピーター・ミュラン/デヴィッド・ワーナー/ミリー・ファインドレイ/ジェームス・E・マーティン

2005/1/18/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
世界中から続々と出てくる若き女性監督。深層世界に潜り込んでゆくこんなタイプの監督さんも現われた。生と死のはざま、死の感覚に興味を覚えること、何となく判る気がする。この年代になってようやく死が恐れだけではなくなってきて、かといって身近なものというわけではなくて、だから客観的に冷静に興味深く見られるっていうのが。死ぬとはどういう感覚なのか……確かに考えてしまうもの、最近。
そしてこれから形作っていくであろう家族のことも。自分が生命を受け渡していくであろう未来の命のことを、自分が死ぬ時になってどう考えるのかを。それこそが自分の命の証しなんじゃないかということを。こんな風に突然死んでしまった時、その命の証し、自分が愛する人たちをどんなに愛していたかをどうやって残すべきか、残せるのかということを。

時間にすれば、ほんの数日、いや数日でさえなく、一日かせいぜい二日ぐらいの物語なのかもしれない。冒頭、難民救済のための国連活動に参加している夫から、妻の誕生日には帰れないという電話がかかってくる。その前の時点で、この家族がもうそのことを気にしていて、それがひとつの原因になって、家族崩壊まではいかないものの、なんとなく冷ややかな空気を抱いていることが判る。妻がとにかくイラついている。娘にはそれが伝染しているような感じで、パパは絶対帰ってこないわよ、と言い放つ。この電話は案の定であり……すまなそうに謝る電話の向こうの夫に妻はイライラとあたる。夫はため息をついて電話を切ってしまう……。

この時点では、まあよくある夫婦のすれ違いからくる家庭の冷たさだなーなどと思い、こんな世界の果て、クロアチアなんていう治安の悪い国でがんばっている夫を思うと、そう、国境を越えることさえ難しいんだから、観客はついつい、妻や家族の方がワガママだとか思ってしまうんだけど。「私たちにもあなたは必要よ」と言う妻に、うん、そりゃ判るんだけどね、でもねえ、などと思ってしまう。
でも、一方で判ってはいる。夫もすっごくすっごく帰りたいんだってことぐらい。
妻と口げんかしてしまって、夫はすぐに帰ることを決意する。タイヘンなことなのだ。一人で帰るなんて。とにかく治安が悪い。国境までにどんな目にあうか判らない。そこで命を落とすかもしれない。案の定その道のりは平坦なものじゃなかった。武装兵士に家族の写真以外すべてとられてしまう。途中で車がエンコしてしまう。エトセトラエトセトラ……。
でも、この夫が、すぐ帰ることを決意したのには、何か、予感があったのかもしれない。妻の誕生日、ただそれだけではここまで決意させない何かが。
夫が地元の人の車に乗せてもらって国境に向かう、そのすぐのところで、車すれすれに立っている女性を見かける。彼はハッとして振り向く。誰かに似ていたのか……。
ちょうどその同じ時間軸、妻は車にはねられてしまった。

夫とツーショットで撮った一枚のポラロイド写真をぼんやりと眺めながら道路を横断していた彼女は、はねられてしまった。倒れ、転倒する彼女。きれいな足があらわになるその場面を……こともあろうか幼い息子が目撃していた。
恐ろしさのあまり、その場から逃げ出してしまう息子。そのためにトラウマになり、彼の頭の中に何度も何度も現われる、きれいな足を剥き出しに横転する母の姿……。
彼女は、死んでしまった。私はこの時には、意識不明になったぐらいなのかと思っていたんだけれど、もうこの時点で死んでしまっていたらしい。
身体から魂の離れた彼女が、いまだ事情をつかめずに、それでもだんだんと判ってきて、そして……家族を愛していたことを思い出して、後悔せずに死にたいと(と彼女が言った訳じゃないけど、そんな風に感じる)、帰ってきた夫に家族を引き渡すまでの、魂の旅なんである。

それは夫の帰途の旅と重なり合う。それは彼が妻の死を知ることになる旅でもある。きっとどこかで予感しながら……そう感じるのは、妻の魂の旅と夫の現実であるはずのこの旅がこんな風にその最初から不思議にリンクするから。夫は死が日常である戦場にいて、でも死が悲哀と神聖である葬列に参加したりもして、妻の死に近づきながらもその身を浄化させてゆく。
ああ、そうだ、この物語から感じるのは、死が穢れではなく、浄化なのだということなんだろうと思う。
こんな風に突然の死に襲われたら、そう……どこか日本的な感覚で、この世に未練を残して思いが残って、みたいなことがあるけれど、むしろだからこそ、本当に魂が召されるまでの間に、こんな風に愛する人たちを本当に愛していた自分の気持ちを思い出すことが出来たら、浄化して、キレイにその大気の中に消え去っていくことが出来るんじゃないのかな……なんて思う。

娘にもどこか予感、というか予言めいたものがあった。まだこの事故が起こる前、忙しい朝の時間に、娘は母に話し掛けていた。イヤな夢を見たの、と。でも夫が帰ってこないこと、娘の男友達のこと、家族の世話などでイライラとしていた彼女はその話をあとで、とさえぎってしまう。
あとの時間なんてなかったのに……。
このイヤな夢というのは、母が雨の中レインコートを着て家の中の家族を見守っている様子なのだという。そしてそれはラストシーンにリンクする。夫が帰ってきたのを見届けて、この家の人間ではなくなってしまった妻は静かにこの世から去ってゆくのだ。
魂となった妻は娘の部屋に入ってゆく。いつもならばそれだけで口げんかになってしまっていたであろう……でも娘は母を優しく受け入れる。髪を整えてやる。そしてあの夢の話をする。……ママがよその人になってしまったみたいでとても哀しかったと。
彼女は黙って聞いている。こんな風に娘とゆっくりと、心を通わせて話しかったはず。それが今までどうして出来なかったんだろう。
娘はこんな風に、ちゃんと彼女を愛していたのに。

さまよう妻がまっさきに出会うのが、今ここにはいないはずの夫なのである。いつ戻ってきたの、と彼女は驚く。再会を喜びたいはずが、さっそく口げんかになってしまう。
後悔していると、もう一度チャンスが訪れる。ベッドに夫が寝ている。静かにそのベッドに潜り込む妻。優しく抱き寄せる夫に身をまかせて。「行かないで」と言ってみる。夫は「判ってくれ。行かなきゃいけないんだ……行かせてくれ」となかば自分に言い聞かせるように妻を諭す。妻はその言葉を噛み締めて「いつでも私たちが待っていることを忘れないで」と言う。「忘れるもんか」夫が言う……。
すべて判っていたこと。愛し合っていることさえ。でも口に出して確かめ合わなければならなかったこと。お互いにいつでも言いたかったはずのシンプルな言葉が、それだけの言葉が、今まではどうして言えずにいたんだろう。

二人は、とってもラブラブな夫婦なのだ。子供たちも無論愛してはいるけれど、まずお互いが一番なんであろうという夫婦。だからこそこの果てしない空間の距離が、気持ちをさえぎっているように感じてしまっていた。本当は気持ちなんてさえぎらないくらい、愛し合っていたのに。だからこんな風に、空間を飛び越えて気持ちを確かめ合うことも出来たのに。
いや、でももう遅いんだ。この時妻は死んでしまっているのだから。妻が会っているこの夫と、夫がうたた寝の中で会っている妻とは違う。現実の相手同士ではない。
いや、でも遅いんだろうか。そんなことない。お互いずっとそう思っていたことを、こうして判っているんだから、ちっとも遅いなんてこと、ないじゃない、とも思う。そりゃ、夫が事実を知る時のことを考えると、あまりにもあまりにも哀しいけれど……。

夫の旅の途中、彼はそのうたた寝の夢の中で、廃墟の中に走ってゆく息子を見つける。息子?遠すぎてよく判らないけれど、息子のように見える影。追ってゆく夫。廃墟の中に入り込む。ぐるぐるとのぼるらせん階段。勢いよくドアを開けると、その中にはおびえる家族三人が……男の子と女の子と母親とが、おびえて彼を見ている。
大黒柱の、主人のいない家族。この戦場の廃墟の中でおびえて生活している家族。それは無論、夢だったんだけれど……。
彼は決心する。ようやく見つけた公衆電話で家に電話をかける。これから帰るところだと。これからは遠くに行ったりはしないと。
そりゃ、彼の仕事は尊い仕事だ。でも何より大切な家族を優先しなきゃいけない時もある。でもその時は、……やっぱり少し遅かったのかもしれない。
夢の中じゃなくて、お互いがお互いを現実のものとする時間の中で、もう一度二人が抱き合えたら良かったのに。本当に、そうだったらどんなにか、良かったのに。
愛があるのに、それ以上のことを望むのは、欲張りなんだろうか。
でも、だとしたら、愛があること自体、あまりに非情だ。

たった一人、この彼女の魂の旅を現実とリンクして感じ取ることができるのが、幼い息子である。生まれ出てこの世で過ごした時間がまだまだ短くて、だからこの世じゃない時間を感じ取ることが出来るのかな、なんて思う。あの事故現場から逃げ出してしまったことがトラウマとなってうなされる息子を、優しく寝かしつける彼女。この時間もまた、今までの、目の前のことにイライラするばかりだった生活の中では得られなかったものだ。そしてそれは今の、魂となってしまった彼女側の時間軸なんだけれど、それを息子は優しい夢の中に見て、ハッとして身を起こす。
息子はお姉ちゃんの部屋に行き、お姉ちゃんは弟を一緒のベッドに入れてやり、仲良く眠る。
いつもケンカばかりしていた姉弟が、母の死でお互いを慈しむようになった、その懸命な思いが切なくてたまらない。
愛する人の死が子供たちを成長させるんだとしたら、これほど皮肉なこともないんだけれど、確かにこの子供たちは、死んでしまった、そして今生きている愛する人たちのために、一生懸命、早く大人になろうとするだろう。

森のイメージが再三現われる。妻の誕生日をそこで祝おうとしていた。多分それは、毎年恒例の行事らしいんである。でも、寒い季節である。この森は、森からイメージされるような湿度に満ちたみずみずしく暖かいものではない。冬の、枯れて寂しい森。大きな森の時間の、死の時間。いや、死に見えて、生へのゆっくりとした準備の時間。それは今の、この家族が彼女の死によって大きくダメージを受けながらも、必死に必死に、取り戻そうとしている時間に似ている。森の時間はゆっくりとうねって、どこが最初でどこが最後なんてものはない。大きな時間が、途切れなくその中で、流れるともなく、降りている。
森の中に、彼女は迷い込む。その頃、幼い息子は祖父(彼女の父)が探し出した古いフィルムを観ている。息子が生まれた頃、家族みんなで森に行った時の。やっぱり立ち枯れて寂しい森なんだけど、まだおくるみにくるまれて抱かれる息子、はしゃぐ娘を追いかける夫、今はもういない祖母は祖父とこれまたラブラブだったりして、そして……その中に彼女ももちろんいる。

でも、不思議なのは、妻の姿はそのまんまなのだ。いや妻だけじゃなくて、子供たち以外の、夫や祖父も、今とまんまなのだ。
だから妻はこのフィルムの中の世界にすんなり入り込んでしまう。小さな子供たちがいる。娘を抱き上げる。夫も、自分が愛している、現在進行形の夫だ。自分の父も……そして死んでしまった母も。そして、今はその自分こそが死んでしまっているのだ……家族たちは自分を置いて笑いながら、幸せそうに森の奥へと去ってゆく。彼女が待って!と声をかけても、まるで聞こえないのか、どんどんと去ってゆく。
この過去はもう、大きな時間の中に飲み込まれてしまって、愛していた過去は確かに存在するけれど、愛していたことに固執する必要なんかないのだ。
だって、彼女は今、家族を愛していて、家族も今、彼女を愛していて、そして彼女が死んでしまっても、それは過去の時間軸で愛していたと思うんじゃなくて、ずっと愛している時間を未来へ、未来へとつないでいくんだもの。
森の途切れない大きな時間は、今が寒く寂しい冬の時間であるからこそ、確かに来る春の時間への希望を抱かせてくれるから。

別れの時間が近づいている……。

ずっとずっと長い道のりを、家族に、何より愛する妻に会えるのを楽しみに帰ってきた夫。やっと、ロンドンに着いた。雨。その雨に何かを感じただろうか。走る。そしてドアを開けると……。ブラックアウトされるけれど、そこには妻の横たわる棺があるのだ……。
その前に子供たちが父親に抱きつく。きっと今まで以上に万感の思いを込めて。義父もたまらない思いで彼を見つめる。
窓の外には、レインコートで雨にうたれている彼女……。
そして、彼女は去ってゆく、きびすを返し、後ろを振り返らず。

こんな時間を本当に神様はくれるの?
愛のないまま死ぬことが、今はまだ怖くて仕方がない。★★★☆☆


揮発性の女
2004年 80分 日本 カラー
監督:熊切和嘉 脚本:宇治田隆史 熊切和嘉
撮影:橋本清明 音楽:赤犬
出演:石井苗子 澤田俊輔 星子麻衣子

2005/1/6/木 劇場(渋谷シネ・ラ・セット)
こういう企画モノでも、あいかわらず佳品を作ってくる熊切監督。それにしてもこれはちょっと不思議な香りのする物語。いやアウトラインはシンプルではある。寂れた田舎町。寂しいガソリンスタンドは、中年の未亡人が一人ほそぼそと経営している。そこに若い強盗犯人が押し入ってくる。何だかんだでその家にいつく。男と女の関係になる。そして……みたいな。
でも、なんだかなんだか、不思議な描写が入り込んでくる。女が風呂の中に飼っている?ぬらりとした一匹の魚。今時名前もすんなり出てこない、あの懐かしきウーパールーパーも水槽の中に寂しく棲んでいる。そして彼女は時々虫捕り網を持って外に出て、荒れ地で振り回す。そんな彼女の姿を近所の人たちは気味悪がって、人付き合いもないらしい。
別にそれについてなんの説明がなされるわけでもなく、そこまでイッちゃった、気のふれちゃった人、という訳でもないみたいな感じ。ただ、寂しい。強烈に寂しい。

だって、この土地自体が寂しい。荒涼としている。グレイで、多分今は季節が冬で、草木もまだ芽生えていないから余計そう感じるのかもしれないけれど、田んぼか畑か、そんな感じでただただ見通しがいいばかりで、そこにはまだ生命の息吹きを感じない、いや、まだ、どころかなんだか全然感じない。こう言っちゃホント失礼なんだけど、土地自体に覇気のなさを感じるような、寂しさ。
その覇気のなさが、ヒロインにそのまま反映しているみたいで。その土地の、ガソリンスタンドのヘンクツな未亡人、だなんて。気もふれてないのに気がふれた、と言われそうだよね、一体毎日、何を楽しみに生きているの?みたいな。

中年女が若い男の闖入によって女を思い出してゆく、というジェネレーションギャップ、セックスギャップの面白さがあるんだろうけれど、実はそれはあんまり感じなかったんだよね。彼女の家に若い男がいる、そのことで、「あのオバサンに子供がいるなんて知らなかった」ってガソリンスタンドに来た女の子が言うんだけど、その台詞でえー?と思ったぐらいで。いや、親子なんてそりゃあんまりでしょ、って。
いや、それぐらい石井苗子がそんな、“中年女”なんて年に見えないのよ。キレイだし肌の張りもピンとしてて、劇中のオバサンくさいスリップ姿が似合わないくらいで。でも確かに彼女って、女優以前からずっと活躍してたし、そんな年なんだ。でも50になってたなんて、本当にオドロキの美しさ。40代にさえ見えないわと思うぐらい。
だからなんか見え方が、ちょっと年上の女、ぐらいにしか思わなくって。いや、これはうらやましいけど、実年齢に頼るだけじゃなくて、もちょっと老け目に演出してくれないかなー、などと。ま、あんまりやっちゃうとグロテスクになるんだろうけど。

そうか……でも、本当に親子ほどの年の差なんだ。彼女は未亡人。いつダンナを亡くしたとかそういうことさえ語られないけど、なぜか、何となく、ごく若い時に亡くしてしまったんじゃないかって気がする。子供もないまま死んでしまったということはそういうことなんじゃないだろうか。彼女は彼の中に亡き夫を見る。若い時に死んでしまった夫は彼女の中ではずっとずっと若いまま。だから彼女にとって彼は親子ほどの年の差なんて、多分感じてなかったに違いない。
一方のこの男の方はといえば、まず押し入った最初、わずかばかりの金を奪って逃げ、そしてまた戻ってくる。その時彼女はスリップ姿で、そんな彼女に「意識すんなよ」などと言う。別にそんな言うほどの態度を見せてないのに、それは彼自身が自分を牽制しているように見える。確かにこのスリップ姿の彼女はなまめかしい肉付きで、その眼鏡さえもヘンにエロティックに映る。そしてこんな風に言っていたくせに、彼の方から彼女を押し倒す。そして逆に彼女に撃退されてもんどりうっちゃう。

この彼もね、なんかヘンなのだ。最初に押し入った時、そしてまた戻ってきて勝手に上がりこんで彼女の夕飯をぶんどった時、そんな傲慢な(ま、強盗なんだから)態度なのに、突然吐き気をもよおして、ゲーッとやっちゃうのだ。この彼の吐き気は冒頭の二回だけ。一体なんだったんだろう?と思うんだけど、これってやっぱり、なんか緊張してたの?という感じで。
彼は、後にそれとなく語られるけど、どうやら歌舞伎役者の卵だったらしい、のだ。そんな役者の卵が緊張してゲーゲーやっちゃうなんて致命的、だよね。あるいは彼のこの暴挙はそんなところに原因があったのかもしれない。彼は彼女の部屋にいついたあとも、何となくって感じではあるけど、歌舞伎の練習を続けてる。そこには明らかに未練がある。こんなことになっちゃって、どう考えたってその道の未来はないのに。

縛り上げられちゃった彼女、でも翌朝、その縄を彼の持っていた包丁で切って、お風呂場に追い詰めた彼にその包丁で迫る。つん、と突く。刺されたと思って大騒ぎする彼をいさめて傷を確認させ、「全然、大したことない」と言う。かすり傷を見た彼、「全然大したことない」とおうむ返しに言う。なんだか、可笑しい。
そんなこんなで、なんでだか、彼は彼女の家にいつくようになった。彼女は彼がニュースでやってた銀行強盗だってことも判ってる。でも背格好が似てたんだろうか、亡き夫の洋服を彼に与え、居候を自ら受け入れるような形になる。そして……今度は彼女の方から誘って男女の関係になる。まるで赤ちゃんがお母さんにすがるように、その豊満な胸をむさぼる彼。

これって形式は、ま、“ストックホルム症候群”だよね?男が強盗だったんだからさ。でも、早い段階に男女の力関係が逆転してるから、それを追究しているという感じは、ないんだよね。弱い男を女が母として受け入れ、でも本当は、その女こそが弱い心を彼の存在によって、何とか支えて生きているということ。
“揮発性の女”っていうタイトルの意味が、なんか、判らなかったんだ。でも何となく、……何となく判るような気もする。ガソリンスタンドに勤める彼女。揮発性、それってその時には発火してるって意味合いを感じる。あるいは今まではただただ揮発するだけだった。それはなんだろう……女として、体の中に欲望のエネルギーとして潤って、噴出するのを待っている何かなのか、あるいは愛する人もいなくなった人生そのものなのか、とにかくただただ揮発していくばかりだった。蒸発どころじゃない、もっと早い、揮発、それによって一瞬にして乾いてしまうような。発火する能力が十二分にあるのに、それを発揮できないまま、空しく逃がしてゆくような。

でもそれが発火した時、あまりに激しいのだ。見ていて辛いほど。
彼女は、彼に執着する。言ってしまえば性の奴隷状態である。いや、彼だって確かに彼女を求めてはいた。彼女が風邪をひけばかいがいしく看病して、その後なんだかソウイウ感じで倒れこみはしたけど、それはなんだか、恋人を越えた家族のようなあたたかさだった。ああ、そうだ、彼はむしろそれを欲していたのかもしれないんだ。でも彼女は……自分がうつしてしまった風邪でダウンした彼の布団にもぐりこんだ。彼は、「痛いからヤメて」と言った……。
男女の力関係が逆転した状態。それは、いままでいつもいつも組み伏されてきた女にとって、きっと喜ばしい事態のはず、なのに。
なんでだろう。そのとたんに、なんでこんなにみじめな気分になるの。

そばにいるのに、寂しい。嫉妬の感情まで思い出してしまった。余計に寂しい。こんなことなら、そんな気持ちを思い出さなければ良かった?でも、彼がいまさらいなくなってしまったら、知ってしまったこの気持ちを手放したら、寂しさで死んでしまいそう。
彼は彼女の束縛に耐えられなくなって出て行こうとする。でもそれだけだったのかな。やっぱり彼は、歌舞伎役者の道をあきらめきれなかったんじゃないのかな。そんな気もする。でもとりあえず彼は彼女にガマンならなくなったと、そういう言い方をして出て行こうとする。すると彼女はキレて、「どうせ私はヘンタイよ!」(オイオイ!)と叫びつつも、彼を必死で止めようとする。しまいには、ガソリンを彼にかける。火をつける。ついに揮発性の女が着火した。相手を傷つけることでしか、相手を止められない。傷つけても、止めたいと思う。
愛しているなら、相手を傷つけたくないと思うなんて、ウソかもしれない。
そうやって去ってゆく相手は、自分のことなど忘れてしまう。忘れられるのは、嫌われるよりもっともっと辛いことだから。
それは死んでしまった夫と、大して変わらない存在意味のなさだから。
そうだね、愛なんて傲慢なものなんだ。自分だけで抱えている愛は、あまりに辛くて、彼女はそれを一度、夫を亡くしたことで経験しているから、もう耐えられなかったのかもしれない。
やけどを負った彼はそのまま彼女の家に伏せることになる。
そして、桜前線が来る……。

この物語のラストって、ハッピーエンドなのかな。ちょっと、微妙な気もするけど。桜前線のニュースを聞いた彼は彼女に言う。「花見にでも行くか」
親子ほど年の離れた二人なのに、その言い方はもうすっかり落ち着いた夫婦みたいである。
彼は何たって追われる身だし、そういう意味でもこのヤバい土地を早く去りたかった。でもそれを彼女がワザとカブを壊しちゃったりして、そしてこんな修羅場もあってのびのびになっていた。季節は冬から春になっていた。何かの希望を感じさせる春……。
そんな時、前々から指名手配されていた彼についに手が伸びてしまう。やっぱりあれは、あのバカそうな女の子がついもらしたのかなあ。そんな捕り物帳を楽しそうに携帯で写真を撮りながら観ているこのコはうーん、やっぱりちょっとバカだ。いや、周りのヤジウマも、そんな感じではあるんだけどさ。その中に猛然と突っ込んでくる彼女。警官に石をぶつけて失神させ、直していたカブで彼と二人乗りし、のどかな田舎道をのどかに逃げてゆく。
桜咲き乱れる中へと……。

本当はね、女はそんな寂しい生き物じゃないと私は思ってるんだけど。それは男性側の妄想で、男性の方がその傾向が強いんじゃないかとか。でもそれはお互いがお互いに対する希望にも似た妄想、いや欲望かもしれないな。相手が寂しさを感じてくれている方が、自分は寂しさを感じずに済むじゃない?★★★☆☆


キングダム・オブ・ヘブンKINGDOM OF HEAVEN
2005年 145分 アメリカ カラー
監督:リドリー・スコット 脚本:ウィリアム・モナハン
撮影:ジョン・マシソン 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
出演:オーランド・ブルーム/エヴァ・グリーン/リーアム・ニーソン/ジェレミー・アイアンズ/エドワード・ノートン

2005/5/30/月 劇場(有楽町日劇1)
そういや、リドリー・スコット監督が作る映画って、カラーとして私の苦手印の中に入っちゃってるから、ほとんど観てないや、と思う。しかも、こういう歴史モノって更に正直、かなり苦手。世界史の時間、思いっきり寝てたもんなあ……何度中野先生にフルネームで起こされたことか……。中盤まではかなり判りづらくてどことどこがどう敵なんだか味方なんだか、状況が今ひとつ判らない状態。いやしかし、まあ、敵も味方もなかったのかもしれない、というか、主人公のバリアンも、あるいは彼を指導者へと導いた悲劇の、そして偉大なるエルサレムのキリスト教の王、ボードワン四世も、争いたくないと思っていたし、それは敵や味方という観念を作りたくはないと思っていたってことなんだろう、と思う。

なるほど、今この映画をつくる意味はあったのだ。かの地で、この時代とほとんど同じ理由で、さらに狂信的なそれとなって争いと殺戮が行なわれているのだから。
このボードワン四世と、回教徒のリーダーであるサラディンはお互い異教徒であるけれど、お互いを尊重して、その抑止力によって平和の均衡を保っていた。それは確かに危ういバランスの上にたつものではあったんだろうし、まだ人類の文化が成熟していない、争いで勝つことこそが平和だ、みたいな考えが一方であった時代では難しいものだったんだろうけれど、そう、二人はそういう意味で人間としてとても成熟していたんだ。それが今の人類ならきっと出来る、そんな意味でこの作品があるような気がする。
しかし、偉大なる王ボードワン四世は、らい病におかされて早死にし(この、イコールハンセン病については、映画終了後、今はそんな危険な病気じゃないとのクレジット)、アホな妹婿、ギーに王の座が渡されたことによって、この均衡は崩れ去ってしまう。……本当はボードワン四世は自らこれと決めた青年、バリアンに王座を渡し、この平和を維持してほしかったのに。

と、なんかいきなり話をどんどん進めちゃったけど。私自身頭が悪いから、判ってるうちに書いとこうと思って!?(笑)。で、この主人公のバリアンがオーランド・ブルーム君である。ははあ、オーリーですか。なんかまず彼ありきで語られているのは、彼が今一番旬の若きスターってわけだからなのね。なるほどキレイな顔をしたおにいちゃん。こんなにキレイな顔をしているのに笑顔のシーンがほとんどない(微笑み程度)のがもったいない。うーん、私、彼の作品ほとんど観てないな、私があんまり観ないタイプの映画ばっかり出ているせいだろうか……彼、と認識して観るのは、初めてである。
なんか、かつてバル・キルマーに熱狂していたことなどを思い出すよ……。なんて言ったら怒られる?(笑)いやでも、彼だって当時美青年だったでしょー。

バリアンは、まず鍛冶屋の青年として登場する。もういきなり仏頂面である。……というのもムリはない。彼は妻子を亡くしたばかり。まず赤ん坊が死んでしまい、それを悲観して妻も死んでしまった。
この時代に限らず、キリスト教というのは、自殺者が地獄に落ちてしまうため、彼はそれも含めて悲嘆にくれているんである。
……「コンスタンティン」でもすっごく思ったけど、この、自殺者は地獄に落ちちゃうって、宗教なのに救いがねーよなー、と思う。で、そんな悲嘆にくれているバリアンの前に、十字軍の騎士、ゴットフリーが現われるのね。自分は彼の父なんだと。……ちょっと生々しい台詞なんだけどさ、「君の母親はもちろん抵抗した。だが、力づくというわけではない。私なりに彼女を愛していた」……おいおいおい、そりゃかるーくレイプってことじゃねえのかい?しかも父親の存在を知らなかったってことは、それっきり捨てたんだろうがよ(まあ、レイプだったらそうだよな)。しかしバリアンはそれに対しては別に糾弾することはないんだよね……まあ、冷たい態度を貫いているからそれが糾弾なのかもしれんが、これは今更父親として現われたって、とか、今の自分には父親なんて関係ない、とか、そういう態度の方に思えるし。

ま、これは物語にはそんなに関係ないことだからこだわらなくてもいいんだけど、なんかついついこだわっちゃう。で、ゴットフリーは自分と一緒に来てほしい、エルサレムを目指そう、というんだけど、いきなりはバリアンもその提案をのまない。今の彼には何の希望も思いつかないから。しかしひょんなことから司祭を殺してしまって、……あるいはあれは確信犯的だったのかもしれない。地獄に落ちてしまう妻と一緒の場所に行きたい、あるいは全てが許されるエルサレムの地に行くためのより確実な理由がほしかったのかも……勿論自分ではなく、地獄に落ちてしまう妻の許しを請うために。
実際、エルサレムで全ての罪が許される、ということを彼が実感することはついになかったわけなんだけど……エルサレムは罪が許される穏やかな地どころか、この聖地を巡って血で血を洗う抗争が繰り広げられるところだったんだから。
しかも、彼を導いてくれた父親、ゴットフリーも、バリアンを殺人者として追ってきた村人たちとの争いで負った傷によって、死んでしまう。彼に、エルサレムの王につかえるよう、重々言い含めて。
このゴットフリーを演じているのがリーアム・ニーソンでね、こんな風にあっという間に死んじゃうけど、キーパーソンだし、今まで見た彼の中で一番イイな。父の苦悩が色濃くにじみ出ているのが、彼のやさ男っぷりを渋く変えていて。

そして、バリアンはエルサレムを目指す。かの地につくと、父親の部下たちが彼を丁重に迎える。そしてそこには美しき王女が、ひとめ彼を見て心を寄せ、彼もまた美しい彼女に目を奪われる。
彼女はシビラ。ボードワン四世の妹であり、次期の王とささやかれるギー・ド・リュジニャンの妻である。
しかしこのギーってのがアホまるだしの男で、意味もなく戦争するのが大好き、というか、彼にはやっぱり自己顕示欲というか、所有欲というか、支配欲があるんだな。サラディンと平和のバランスを保っているボードワン四世が、彼にとっては異教徒を駆逐することも出来ない腰抜け王にしか映っていない。
ボードワン四世はそのらい病で崩れた顔を常に仮面で隠しているんだけど、つまりかなりコワい外見ながらも、思慮深く、平和を重んじ、民を愛し、そのためにこの難しい均衡を作り出した、まっこと偉大なる王なんである。
彼は、自分の命が長くないことも知っている。だからこのアホなギーに王座が渡り、民が争いに巻き込まれることを予想して憂いているのだ。

そんな時、現われたのがバリアンだった。かの名騎士、ゴットフリーの息子。いやそんなことがなくても、この見る目のある王様には、この若き青年が自分の意志をついでくれる男だということを見抜いたわけで。
実際、バリアンはこの若さに似合わず、義を知り、魂を売らず、勇気のある青年だった。このエルサレムへの厳しい道のりの中、幾多の困難に出会うも、その基本理念を忘れずに、ここまでたどりついた。
その困難の中には、サラディンの騎士との戦いもあったけれど、彼の義を尽くした態度に、倒されたサラディンの騎士も彼に一目置く。そう、ボードワン四世と同じように、バリアンもまた異教徒との信頼関係を築いていたんである。

ボードワン四世の願いどおり、バリアンが王座をついでいてくれたなら、こんな事態にはならなかったんだろうと思われる。でもそのためにはギーを葬り去らなくてはならない。こんなくだらない男、ボードワン四世の言うように、彼の名のもとに処刑したってかまわないくらいだけど(私もランボーだな……)、バリアンは、良心がとがめる、と言ってそれを拒否、まあ判るけどね……そんなことしたら、それこそこのアホなギーと同程度の男になっちゃうんだもん。
ただ、この条件の中にはあの美しきシビラを、ギー亡き後娶ってほしいとのこともあり、ひそかに愛し合っていた二人、だからこそバリアンはよけいに良心がとがめちゃったんだけど、シビラはね……このくだらない夫と別れるチャンスを逸したこともあっただろうし、愛する人が自分をモノにするチャンスを自ら捨てたことに対する、嫉妬のような感情が働いたんだろう……このあたりが女のコワさなんだよなー……その感情で、世界を変えちまうんだから……そう、彼女が自らギーを次期王に指名したことで、サラディンとの戦いの火蓋がきっておとされてしまうのだ。ギーのバカはわざわざサラディンにケンカをうったんである。

死の直前、ボードワン四世は妹のシビラに、美しかった時の自分を思い出してくれ、と言った。16歳で勝利をあげた、伝説の若き騎士。それこそ今のバリアンのように美しき騎士だったはずの彼。そうするわ、と彼女は答えた。
でも、本当に彼が美しかったのは、最後まで高潔な心を失わずに民を守り続けたことなんだよね。
死後、妹である女王が仮面を取ってみると、やはり王の顔は醜く崩れてしまっていて……。
シビラは一時の感情でこんな戦乱の世になってしまった後に後悔して、反省して、自身の姿を鏡に映す。ゆがんだ鏡は、あの兄の崩れた顔が重なる。
でも、それは、今や豪華に着飾ることも出来なくなった彼女だけれど、愛する人の、兄の思いを受け継いでくれたその高潔な心に触れて、心の美しさを取り戻したということなんだよね。

そう、バリアンは頑張っちゃうから。ギーから邪魔者として当然命を狙われるんだけど、その運と力の強さで、戦い抜き、仲間たちの前に再び姿を現わす。ギーに進言する。サラディンの地に乗り込んでいって皆殺しにしてやろうとしているギーに、水のあるこのエルサレムにとどまって戦った方がいい、かの地に乗り込んだらやられてしまうぞ、と。
……そうは言ったけど、バリアンは本当は、そもそも戦いたくなんかなかったんじゃないかと思うわけ。やっぱり。
最終的にギーのしりぬぐいみたいな形でサラディンと戦わざるを得なくなり、そのことによって彼は英雄になるけど、やっぱり、やっぱり、戦いたくなんかなかったんじゃないかって。バリアンが今の時代に生きていたら、本当はこんな戦争なんてしたくなかったし、やらなかっただろうって思う。
そのことは、敵であるサラディンにも判ってる。だって、ギーに対して彼、「立派だった先王を見習おうとは思わなかったのか」って言ってるんだもん。
でも、平穏を勝ち取るだけでも、敵に武器を持って立ち向かわなければいけない時代と状況だった。それが悲劇。 ある程度闘わなければ、敵との対話すら出来ない。本当はお互いに血を流したくなくても。

最初はバリアンは、エルサレムをサラディンに明け渡す気はなかった。そう、言っていた。それはたとえそうしても、ギーのまいた種によって、民が皆殺しにされるのは判っていたから。
自分たちのエルサレムへの思いを判ってもらうために、あれだけの血を流さなければいけなかった。壮絶な、戦いだった。騎士たちはギーのアホが無謀な戦いに連れてっちゃってほぼ全滅。ここにはいわゆる市井の人たちしか残っていない。しかしバリアンは、武器を持つことが出来る者なら、それが皆騎士だと、神の為ではなく、民の命を守るために、このエルサレムを死守しようと呼びかけ、民衆の心をつかむ。どう見ても多勢に無勢、サラディンの大軍勢(……こういうのは映画だよなーって感じがする。スクリーンにいっぱいに、アリの大群がごとき軍勢!)に抵抗するなんて、無謀にしか見えないんだけど、バリアンたちは抵抗を続け、相手に甚大な損害を与えるのね、そうすればいつかサラディンは和議を申し入れるに違いないから、と。

勝つことではなく、負けると判って犠牲を重ねるのでもなく、この和議こそを引き出すために、ここまでの戦いをしなければならないなんて。
でもそれを、バリアンは最初から民衆に説いているわけじゃなくて、戦えばこの地は守れる、とそれで押しているんだよね。だから彼にとってはこの和議の申し入れを受け入れる……つまりエルサレムは明け渡す、その代わりに民を安全なキリスト教国に脱出させる、というのが、希望通りだったんだろうとは思うんだけど、その条件を飲んだ時、彼が民衆に拍手を持って迎えられたのが、えー、もうここで判ってもらっちゃってるんだ、とか思って……。
だって一応大前提は、このエルサレムを守り抜くことだったじゃない?
やっぱりタイミングなのね、まあ確かに最初から民の命が一番大事だとは言っていたし。
民の命を守るために、民の命を散らさなければいけないというこの矛盾、でもそれを納得させられるからこそ、彼は英雄なんだな。
そして心の中にエルサレムを刻んで、彼らは海を渡った。

あの、サラディンとの最後の対話で、バリアンは彼に問う。エルサレムには何があるんだ、と。サラディンは答える。なにもない、無だ。しかしまた振り返って、胸の前に両手のこぶしを握って、だが同時にすべてがある、と笑顔を見せる。
なんというか……こういう、神聖な土地への思いは、私たちのようなアイマイな神道&仏教徒にははなはだ判りにくい。
そりゃ敬虔な仏教徒にとっての聖地はいくつかあるだろうけれども、そこを異教徒に奪われないために!なんてこんな戦争を起こすなんてこと、あったっけ……ないよね、多分(歴史苦手だから自信ない)。
まあ、ある意味仏教はそれだけアバウトで、無数の宗派を生み出すことに寛容だったからだろうけれど。
あるいは、こんな風に連帯意識も必要ないからなんだよな、と思う。一人で悟り開けばいいから、キリスト教みたいに布教活動もしないし。
はあ、やっぱ、仏教は平和だなー。

そういえば、劇中、彼らが、神様に見捨てられたとか、神様に愛されたとか、再三言うでしょ?自殺者が地獄に落とされるのも、ある意味見捨てられたっていう感覚だと思うんだけど、こういう感覚って、やっぱキリスト教的よね、と思う。
イスラム教的かどうかは判らない……イスラム教はキリスト教以上に私たちには身近じゃないから。
神は万人を愛するもんじゃないのかなあ……でもこういう選民思想があるから、戦争が起こり、神に愛されている人なら戦争を起こして人を殺しても許されるみたいな思想が生まれる気がしてちょっと怖い。
いや、別に、仏教礼賛しているわけじゃないんだけどさ。

でも、あれはティベリアス(ボードワン四世の軍事顧問。ジェレミー・アイアンズ、イメージ違ったなー)だったかなあ、いや違ったような気がする、あの台詞を言ったのは誰だっけ……神への愛のために戦っているはずだったのに、実際は富と栄誉のための戦いだった、それを恥じる、って言ったのは。
多分、その言葉を今の世にも投げかけているんだよね。……それをハリウッド発で言っちゃうのはちょっと危険だけど。
そういやあ、バリアンなんて思いっきりフランスからスタートしてんのに、最初から英語だしなあ……このタイプのハリウッド映画で毎回思うことだけど。

ただの鍛冶屋の青年が、民を率いるカリスマになるまでを、実にドラマティックに描くその手法は、やはり手練の監督である。ほんと、ただの鍛冶屋の青年だったのに、まさにカリスマに見えるんだもん。
まあ、オーリー君が美しいからだろうけれど。
風がいつも強くて、砂漠の砂を舞い上がらせて、彼の衣服のすそをはためかせ、しなやかな黒髪がその苦渋の整った顔にまとわりつくのがやたら美しい。この風の強さはそれだけでなんとも宗教的な感じがする。
ラスト、愛するシビラを伴い、ちゃんと亡き妻の墓に寄るあたりが泣かせるじゃないの。
そうそう、サラディン役が、ちゃんとシリアの役者さんだってのもおおっと思ったなあ。シリア映画で活躍するベテランさんなんだって。シリア映画なんて、初めて聞いた。そりゃあるに決まってるけど、まだまだ世界中には私の知らない映画世界がいっぱいあるんだなあ……しみじみ。★★★☆☆


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