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SWEET SIXTEEN/SWEET SIXTEEN
2002年 106分 イギリス=ドイツ=スペイン カラー
監督:ケン・ローチ 脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:バリー・エイクロイド 音楽:ジョージ・フェントン
出演:マーティン・コムストン/ウィリアム・ルアン/アンマリー・フルトン/ミッシェル・アバークロンビー/ミッシェル・クルター/ガリー・マコーマック/トミー・マッキー/カラム・マッカリーズ
イギリスは豊かなように見えて、実は失業者問題が先進国のどこよりも深刻なのだという、のは、このローチ作品によって世界に示されてきた。そして失業者問題が、大人だけの問題ではないということを、本作によってあぶりだす。昨日今日始まったわけではないこの失業者問題が、教育を受けられなかったり、マトモに親に育てられることさえなかったりといった子供社会の問題に発展するのは、そう、思えば当然のことだったのだ。主人公のリアムは15歳だけれど、学校には行っていない。それは彼から見ればゼイタクに見えるかもしれない不登校なんてもんじゃ当然なくて、行くことができないのだ。彼は7歳の頃から煙草を売って生活している。母親は悪い恋人のせいらしく獄中におり、この母親の恋人、スタンはリアムに対して悪い道を共謀させようとし、抵抗する彼に対してあからさまな暴力をふるう。信じられないことにリアムの血を分けた祖父までもがスタンとワルの共謀者で、孫を救うことをしない。
……一体これは、どういうことなのだろう。こんなことがあって、いいのだろうか?いや、これは確かに現実なのだ。日本にだってきっと、隠れている部分でこんなひどい現実が存在しているに違いない。血を分けた肉親や、その肉親の恋人が、子供にとって悪魔になるということが。そしてこの血のつながりはやっかいというか……他人ならば、こんな人でなし、切り捨てられるのに。子供とはいえ、やろうと思えば、そう、リアムほど小さな頃から苦労している子なら、一人で生きていくことだって出来るのに、切り捨てられない。いや、このスタンと祖父に関しては、彼は切り捨てた。リアムが切り捨てられなかったのは、母親のジーン。でも、でもどうして、どうしてリアムはこんなにもこの母親が絶対で、彼女を信じてしまうんだろう?リアムを心配する姉のシャンテルも、そして観ている観客も、それが、それこそが破滅への道だと判りすぎるほどに判るのに、どうしてリアムにはそれが見えないんだろう?
本当にリアムのことを真に心配しているのは、血がつながっているのは母親と同様である、このシャンテル。彼女は母親を嫌っている。なぜなのかハッキリとは示されないものの……このシャンテルはシングルマザーで、その理由も、示されない。もしかしたらシャンテルも男にだまされたのかもしれない。だからこそ、男にだまされ続けるこの母親が許せないのかもしれない。それは確かに女の感覚、女の生理的感覚で、リアムには……この少年のリアムには理解の及ばないところだろうと思う。そしてこの頑なに母親を拒むシャンテルに対するリアムの気持ちも確かに判るんだけれども、でも、彼女の方が正しかったのだ、やっぱり。同じ女だから、同じ血を分けているから判る。そしてリアムに比べれば確かにこのシャンテルには、どこか世間に対して甘いところはあるんだけれども、でもやっぱりリアムよりは少しだけ大人だから。だから判るんだ。
そう、シャンテルは小さな子供を抱えて一人で頑張って生きている割には、少し甘いところはある。小さな家を買うことが出来るほどの大金を稼いだ弟の“大量の煙草を売って金をつくった”という言葉を信用してしまうほどの。いや、でも判っていたのかもしれない。彼がヤバいことをやっていたことを。でも友達に対して「この子は7歳の頃から煙草を売っていたのよ」と自慢げにいう彼女、この殺伐としたハキダメのような最下層で、小さな頃から頑張っていたこの弟が彼女にとっての誇りで、だからきっと、信じたかったんだ、彼のことを。そしてこんなお姉さんがリアムにとっては少々歯がゆく映ってる。地道で誠実な彼女、確かにリアムの方がさまざまな修羅場をくぐりぬけてきたんだろうから、そう思うのは無理ないんだけれど、でもやはり、彼女の方が正解なのだ。歯がゆく思う彼の方がやはりまだ、逆に甘く、若いのだ。
リアムが小さな家を買ったのは、無論母親のため。もうすぐ出所する母親を、スタンと祖父から離して、リアムとシャンテル母子と母親、家族水入らずで暮らすため。そのために、彼はヤクの売買に手を染める。あのスタンから首尾よくヤクを盗み出し、売りさばく。パートナーは幼い頃から兄弟のように育ったピンボール。ピンボールの父親はヤク中で、リアムと同様、すさんだ家族環境のもと育っているのだけれど、そんなピンボールにリアムは言う。「俺たちは、ヤク中じゃない。ヤクはやらない。金を稼ぐためにヤクを売るんだ」そしてテレくさがるピンボールに対して、パートナーとしての絆を確かめる握手をする。ピンボールがすすめる護身用のナイフを、彼は頑なに拒む。こんなヤク中やヤクザがゴロゴロしているようなところで、奇跡的に気持ちが汚れていないリアム。母親のために、家族のために無鉄砲なこともする彼を心配するピンボール。みんな彼を助けたいと、後にリアムと出会うことになるヤクザのボスでさえそう思うんだけど、このリアムの純粋さこそがあだになってしまうのだ。
ピンボールがすすめた護身用のナイフ。リアムは絶対に持ちたくないと言い、ヤクザ社会で人殺しを命じられた時もその持つ手はガタガタと震え、しかしそれは実は度胸試しだったわけで実際に使われることはなかった。彼の大事な一軒家を燃やしてしまったピンボールの元を訪ねた時も、ピンボールは自分を刺しに来たと思って、やれよ、やれよ!と挑発したけれど、結局は自暴自棄になったピンボールの方が自ら自分の顔を斬りつけることになってしまう。それほどまでに、リアムは人を傷つけることをイヤだと思っていたのに、ナイフを忌んでいたのに、この物語のラスト、彼はそれを使うことになってしまうのだ。
家を買うためにヤクを売りさばいたため、この一帯でヤク売買を取り締まるヤクザのボスに目をつけられてしまう。しかしリアムの度胸のよさと純粋さが、このヤクザのボスのおめがねにかなう。勿論、売人として使えるという判断だったのだけれど、裏社会に入っても家族のために、と真摯でひたむきなリアムに、この百戦錬磨のボスでさえ、彼をまっとうに生きさせたい、と思う。確かに裏でヤクは流しても、カタギのピザ屋をやらせ、キレイなマンションを提供し、悪い友達や母親の恋人に引っ張られずに生きていって欲しいと願う。悪い友達……決してピンボールが悪いわけではなかったんだけど。リアムに対してヤクザの腰ぎんちゃくになった、と裏切り者呼ばわりし、彼の家を燃やし、ボスの車を盗んで暴れ回るピンボールは、これは大事な親友をとられたダダッ子の行動にほかならず、明らかに嫉妬の感情なのだ。いくら口汚くののしって、裏切り者扱いしても、ピンボールは寂しいに違いないのだ。リアムにとってもピンボールはかけがえのない兄弟分なのに、どうしてこうなってしまうんだろう。でも、こんな風に、友達を切らなければいけない時って、確かにある。どんなにかけがえのない友達でも。自分がマトモに生きていけないと思ったら。そうやって、だんだんと理想ではない自分になっていってしまうと判っていても。でもその時が、15じゃあまりにも、早過ぎる。15で友達を切らなければいけないなんて、そんなのって……。
でも、それさえも、リアムは乗り越えることが出来たのに、やっぱり母親は、母親だけは切れなかった。この母親も切らなければいけなかったのだ。シャンテルが言うように。シャンテルには、判っていた。あるいは、この母親自身にも判っていたのだ。リアムの自分に対するまっすぐな思慕の念。でもそれに彼女は応えることが出来ないんだということが。出所した彼女はビシッとスーツ姿にキメたリアムに迎えられ、リアムご自慢のキレイなマンションに案内される。それまでの、ハキダメのような住まいとは打って変わった明るく、何もかもが揃った部屋。意気揚揚のリアムとは対照的に、この母親の顔色はどこか冴えない。まさか……と思っていたら、やはり。彼女の歓迎パーティーが盛大に催された翌朝、早くも彼女は消えていた。リアムはシャンテルに、何か言ったんだろう、姉さんが追い出したんだろう、と詰め寄る。リアム、もう判りなよ。もう判ったっていいでしょ、と観ているこっちは思うのだけど、彼には判らない。リアムはシャンテルを殺さんばかりの勢いで床に押し倒し、罵倒し、母親を追ってスタンの元へ走る。ダメだよ、行っちゃダメ!
やはり母親はスタンの元にいて、リアムが一緒に帰ろうと懇願しても、シャンテルには出て行ってもらうからと言っても(……リアム、あんまりだよ、それは……)、首を振るだけ。ムリなのよ、ムリなのよ、と言うだけ。こんな彼女のこと「他人を世話することで、その他人から離れられなくなる共依存症」だと解説されもしているんだけど、そうだろうか……私にはそうは思えない。この母親は、男がいなくちゃ生きていけない人種。そういう女。息子よりも、男をとるそういうどうしようもない体質なのだとしか、思えない。彼女自身もそういう自分を判り過ぎる位判ってて、だからリアムから離れたのだ。でもリアムはそこまで悟るほどオトナじゃない。こんなにしっかりしてて、ハキダメから抜け出してキレイなマンションに住めるほどの人格と才覚を持っていても、ダメだったんだ。ダメ……ついに、リアムがそのナイフを使う時が来てしまう。頭に血がのぼったリアムはスタンを刺してしまうのだ。この期におよんで、彼の恨みの矛先はやはり、母親ではないのだ。なぜ、なぜそんなにも?この、男の子の母親に対する気持ちの強さって、女にはなかなかはかりしれない。女の子は父親に対して、あるいは母親に対しても、こんな風には思わない。距離が存在しているように思う。リアムのこの強い思慕がどこかうらやましいと思っても、でもやっぱりそんなの、いつまでも続けるわけにはいかないのだ。ああ、でも、リアムはまだ15歳なんだもの。こんな風にその他のことがすべて大人と同じように出来てシッカリと生きていても、15歳なんだもの。お姉さんのナイスバディーな友達にヒューヒュー言ったりしたって、それが恋愛に結びつくまでにはまだまだ行かないほどに、それよりもまだずっと母親の方が大好きなほどに、子供なんだもの……。
ラストシーン、彼は川べりを歩く。事態を知って心配したシャンテルから携帯に電話がかかってくる。「みんな、探しているのよ。リアム……哀しいわ」彼は電話を切り、まぶしさに目を細めるような、泣き出しそうな、悟りきったような、そんな顔をして、歩き続ける。この日は彼の誕生日。16歳。やっと、16歳。スウィート・シクスティーンだなんて、ちっともスウィートじゃない。でも、彼自身は、確かに、確かにスウィートな子なんだ。でもそれは……これから救いになってくれるのだろうか?
英語が判らなくても、このスコットランド訛りははっきり判る。誰もかえりみないような、寂れた田舎町での物語。この少年の、生々しい演技!母親に対するどうしようもない思慕の念を、いったいどうやってこんな演技を引き出すんだろう。プロのサッカー選手なんだというんだけれど、ちょっとそれが信じられないような華奢で白い肉体で、なんだかそれが切ない。カネを稼ぐためにムチャをしてケガをする彼をシャンテルが再三介抱する場面、傷口を消毒しながら涙っぽく心配するお姉ちゃんと無口な弟のこの場面はリリカルで、やっぱり切ない。それこそスウィートな場面で、この短い姉弟水入らずの時間が、もしかしたら最も幸福な時間だったのかもしれない、と思う。もう一度こんな時間をリアムは取り戻すことが出来るんだろうか。でもこの物語、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」で悲惨な最期を遂げたリアムの前日談だというのだ。どうして……。★★★★☆
そう、一時期は、確かに観てて面白いんだけど、金太郎アメというか、ひとつの映画の中にたくさんの登場人物によるたくさんの物語が同時進行している、というオムニバスぶち込み方式が何作か続いてて、タイトルを観るだけではその中でどんな話が展開していたのか……つまりは印象がどれも似通っていたんだけど、「ギター弾きの恋」あたりからかなあ、ようやくタイトルでストーリーが思い出せるようになった。それはもしかしたら、それまでのアレンはここに到達するためにそうした映画の中でさまざまな試行錯誤をしていたのかもしれない、と思うほどシンプルに洗練された世界に昇華していて、もはやスタイルが確立されたと思っていたアレンの世界に新たな息吹が吹き込まれたことは、何か感動的。
そして本作は、小粋でシャレたオールドクラシックを思わせる一品。あ、時代設定も1940年なんだ、ということに後から気づく私はやはりニブいか(笑)。確かにこのアレンの格好は象徴的にその古きよき時代なんだ。彼の役はベテランの保険調査員、ブリッグス。しかし劇中で自嘲的に示されるように、どこか私立探偵くずれというか、それに対するアコガレがありありというか、コートにソフト帽のいでたちは、まさしくまんまフィリップ・マーロウ!しかしまあ、アレンだから、マーロウのようにさっそうとできるはずもなく、どちらかといえば中身はジャック・レモン風?女の子大好きで、おっぱいとお尻がユサユサのお色気秘書のジルや、セクシーな富豪の娘ローラ(この場合のお色気とセクシーは、当然まったく意味合いが違うのだ。二人とも、いい意味でのステロタイプ)に心奪われている一方、社内改革のために会社に雇われリストラの嵐をちらつかせるやり手の女、ベティ・アン(などとはとても呼べない……フィッツジェラルド女史)には自分のポストが一掃されてしまうんではないかという恐怖も手伝って戦々恐々。しかし犬猿の仲の彼女こそが、深層意識下で求める女性だったのだ!?
まさしく夫婦漫才。丁々発止の二人のやりとりは、よくまあこうぽんぽんと投げ返し出来るもんだと感心するぐらい、それこそ台詞の応酬の天下一品と言ってもよく、もしかしたら彼ら以外の誰もが(あ、ベティ・アンと不倫しているマグラダーも除くか)二人はお似合いだと心の中で思っていたかも。その彼と彼女が運命を変えるきっかけが、ジェイド・スコルピオン。翡翠でできたサソリによる催眠術だ。同僚の誕生パーティー会場(こういうことやるようなアットホームさが好きだわ。これもこの時代ならではかな)で披露されているマジシャンによって、「自分は絶対に催眠術になんかかからない」と豪語していた二人ともが、実に笑っちゃうぐらいアッサリとかかってしまう。そして熱愛の魔法をかけられる。催眠下での二人の熱愛ぶりに会場は爆笑の渦。その場で呪文は解かれたはずだったのだけれど、実はこのマジシャン、稀代の知能犯の大ドロボウだったのだ。
催眠術にかかるキーワード。ブリッグスは「コンスタンティノープル」。保険調査員として、数々の大富豪の家に防犯設備を取り付ける仕事もしているブリッグスに目をつけたこのマジシャンは、彼に電話でこの呪文をささやき、そうした豪邸からつぎつぎと宝石を盗ませるのだ。朝目覚めた彼は当然そんな記憶は残っておらず、自分が防犯を手掛けた家があっさりと破られているのに呆然とするばかり。ベテラン保険調査員としてのメンツをかけて犯人探しをするものの、自分が犯人なんだから突き止められるはずもなく、リストラ推進のベティ・アンによって、外注の私立探偵にその仕事を奪われてしまうありさま。これはベティ・アンこそがアヤしいと(保険会社社員による犯行、と推測するまでは鋭かったんだけどねえ)いろいろとかぎ回るブリッグスなんだけど、そうこうするうちに彼が犯人であることが次第に動かしがたくなってくる。
証拠を探すためにベティ・アンの部屋にまんまと忍び込み、思いがけずマグラダーとの不倫の修羅場に遭遇しちゃって、絶望して窓から飛び降りようとしたベティ・アンを助けるブリッグス。当然なんでコイツがいるんだと思いっきり驚くベティ・アン。この場面のブリッグスのメチャクチャな言い訳といい、ほっんとうにもう、可笑しくてたまんない。ブリッグスはでも、ベロ酔いの彼女を放っておけず、彼女の様子を一晩、見守ることにする……気づいてないんだろうけどこの辺りですでに、彼女の惚れてるっつーことなのよ。しかししかしブリッグスの気づかない間に、彼と同じ魔の手が彼女に忍び寄っているのだ。ベティ・アンのキーワードは「マダガスカル」。電話でこの呪文によって催眠状態に陥った彼女は、ブリッグスと同じように鮮やかに宝石ドロボウとして仕事をしてしまうのだ。
そのことがいっそうブリッグスの首をしめることになって、あえなく彼は御用。しかしセクシー娘、ローラの手助けによってまんまと脱走を図る。この場面!手錠の鍵を口に含んでブリッグスにキスの口移しで渡すという、この素晴らしいお約束!いいね、いいねえー。ローラ役のシャーリズ・セロン、彼女ってばこんなに美女だったっけ?気づかなかったなあ。しっかしさあ、ブリッグス、いや演じるアレンてば、もしかして死刑にさせられるかもしれない!?(んな、バカな!)ような深刻な事態に陥っているのに、本人は大マジメ?に深刻なんだろうけど、そういう重さが当然、ぜーんぜんないところがイイんだよね。でなければ、美女から脱走の鍵をプレゼントされるなんてさあ、出てこないでしょお。で、ブリッグスは街の中に彼御用達の情報屋を何人も持ってて、彼らから得た情報で糸口をつかむ。同僚たちもブリッグスが犯人なんて心から信じているわけではないから、特にブリッグスと親しい二人の同僚が真犯人探しに協力してくれる。こういうのもねー。確かに現代が舞台だったら出来ないかもしれない。寂しいけどね。で、ようやく、彼らは真犯人があのマジシャンだったということに気づくのだけれど、そのことを解明している最中にも同僚の「コンスタンティノープル」の言葉にいちいち催眠状態に陥って、半目で動きが止まっちゃうアレンが最高に可笑しいの!もうハラ抱えて笑っちゃうよ!
その頃ベティ・アンは、このマジシャンに呼び出されて盗んだ宝石を届けに行っている最中。駆けつけてアンを助け出したブリッグスは、催眠状態なので彼に恋しているベティ・アンと花火(爆竹?)の火花がドラマティックに吹き上がる中、熱烈キス!この時にはもうブリッグスは彼女に対する気持ちに自覚的だったんだけど……。
結局、ブリッグスはこの会社を去る決意をして、そしてベティ・アンはマグラダーと新婚(婚前?)旅行に出かける直前。同僚たちに彼女が好きなんだろ、と図星をさされて、実は、恥ずかしいんだけど……とその恋心を素直に認めるブリッグス。あと3分しかないぞ、ぶつかってこい!と背中を押されたブリッグス、何といきなり彼女に「結婚してくれ!」のプロポーズ!い、いきなりプロポーズ!やん、もう、私にしてよって感じ!?当然彼女ははねつけるんだけど、「マダガスカルにでも行ってこい!」とか何とか、そんな台詞だったっけ?とにかくブリッグスのこの言葉にあの例の催眠状態に!すっかりブリッグスにメロメロになってマグラダーに「私、この人と残る」と……。ええ?でもいいのかなあ、催眠状態であって、目覚めればまた……と私が心配しているのと同じく同僚たちもそう言っているんだけど「朝目覚めるたびに「マダガスカル」と言えばいいんだ」「おとぎ話みたいね」ってそ、そりゃないだろー!?しかしもっとビックリな結末が待っているんだ。
いつか催眠状態ではなく、本当に愛してもらえるように、とかそんなことをブリッグスが言うのね。「キスのたびに花火は出せないけど」っていう台詞もちょっとイイよね。とね、ベティが「私だって呪文なしであなたを虜にしたのよ」って!え?え?ちょっと……ブリッグスうろたえまくり!そう、手品と催眠術オタクの気のいい同僚は、ちゃんとベティ・アンの催眠術だって解いてくれていたんだから、彼女もしっかり目覚めていたのよ。そしてブリッグスと同じように自覚していた。そういう伏線は一応示されていたものの、あまりの幸せなどんでん返しに目がテン!えー?でもさあ、これってブリッグスが「マダガスカル」って言わなければつかないオチだったわけで……いやそれ以前にブリッグスが愛の告白をしなければ……あ!もしかしてもしかして、ベティ・アンとあの同僚さんたち、グルだったんじゃないでしょーねえ……。そんで、ブリッグスに「マダガスカル」と言うように催眠操作していた、とか……違うかなあ?ま、いいや。こういう粋なハッピーエンドは大好きだから。
観客さあ、なーんかカップルばっかでさあ……。オフィシャルサイトのBBSでも「クリスマスイブに彼と観ました」「女の子との初デートで行ってまいりました!」「デートにはこの映画しかないのでは?」 なーんて、さあ……一人じゃダメなのかい?ふっ……。でも、アレンの映画には、どんなに大人になっても年をとっても、恋をしていいんだという勇気をもらえるよね。ことにアレンの相手は前作から引き続いて以前のように若い相手じゃないし。あっ、ところでアレン、67歳!もうすぐ70歳になっちゃう!でも恋をする彼、全然違和感ないの。凄いよね。愛する、ならまだしも、恋してる、が違和感ない70歳って……ていうかさ、その年で保険調査員の仕事、してる?もう定年なんじゃないの?
このアレンお得意のあったかブラウンの画面、大好き。カメラマンは今作で3本目のコンビだというんだけど、彼もまたアレンカラーに染まったということかしらん。オールドジャズの粋さはいわずもがな。台詞の小粋さといい、本当にオールドクラシックの名作を観ているみたいで。もともとアレン作品にはそういうところはあったけど、本作は特にそれを感じる。あのクレジットの出し方も不動だしね。それにアレン映画に出ることは役者のステイタス、と言われるという、その役者たちをあっさりとアレンカラーに染めてしまうのが本当に凄いところで……。ジル役のエリザベス・バークレー、「ショーガール」プラスアルファ以来、って感じで意外に主役級では伸びなかったけど、いい脇女優もいいもんよね。そ、それにしてもマグラダー役のダン・エイクロイド、どうしたの、そんなに太っちゃって!と前も言ったような気がするけど……。アレンの相手役のヘレン・ハントは厳しい表情が多い役なんだけど、ラスト、ニッコリと笑った目尻の下がったその顔に、あ、そうそう彼女のこの顔!と嬉しくなっちゃった。★★★★☆
「巨人の星」「タイガーマスク」「あしたのジョー」といった漫画の原作者として活躍した梶原一騎を長兄にした三兄弟、その真ん中の真樹日佐夫の書いた回想録が原作、である。梶原一騎のことはもう当然の前提、誰でもが知っているものとして進行していくのは私にとっていささか、辛い。もちろん知らないわけではなのだけれど、それこそそうした漫画の原作者としての彼の名前を知っているだけで、もちろんリアルタイムでもないし、それにバリバリの少年漫画だし、スポーツ嫌いだし、やっぱり私にとっては、当たり前の存在ではないんである。例えば梶原一騎が逮捕されたこととかも、なぜ逮捕されたのか、映画の中では新聞の見出しを映す程度で、全く触れない。その新聞記事はチラリと読めるけど、それだけでは全然判らない。梶原一騎の汚点にわざわざ触れないようにという配慮なのかもしれないけれど、こんな男くさい世界の割には、ちょっといさぎよくないって気もする。
しかし、梶原一騎のことに関しては、そんな風に当然の前提、になっている割には、その他のこと、特に彼ら三兄弟が生き抜いてきた日本の社会情勢とか風俗とか、そういった描写に関してはニュース映像などもふんだんに盛り込んでやたらと懇切丁寧。更に言えば、彼ら三兄弟がその時々にどんな風に行動し、どんな風に思い、などといったことまで、一から十まで全部ナレーションで説明してくださるのには、正直、参った。だって、それって、役者の仕事でしょ?例えば小説を書き始めたという一個の事実にしたって、ナレーションなんか入れなくても、彼が書いている場面があればそれで充分だし、さらにヒドいのは、精神的に行き詰まったとかいう描写にまで、役者の演技にそんな風にナレーションで説明を入れてくるんだもんなあ。こりゃ……まるで写真つきのラジオドラマみたい。
梶原一騎が大前提、ではあるものの、なんといっても弟の真樹日佐夫が書いた物語であるので、結局は彼の物語に行きついてしまうのも、どことなくすわり心地の悪さを感じさせる。真樹日佐夫もまた作家でありルポライターであり(でも、ごめんなさい。私彼はもっと知らないわ)そして兄によって空手と出会って、むしろ今ではそちらで名を馳せているようである。だから、なんていうか……終わってみると、偉大なる兄の影で、そして兄が凋落していくのを見ながら自身が成長していく真樹日佐夫の物語、みたいな印象になってしまうのだ。これは脚本もまた真樹氏が書いており、ということはつまり、あの説明過多のナレーションばかりの構成も彼の手によるものなのかあ……何かちょっと、彼のワンマン映画、って気がしないでもない。
でも、この真樹を演じることになる哀川翔は、相変わらず、哀川翔である。彼はいつでもそうなんだけど、まず哀川翔で、外見や雰囲気から役になりきろうとか、そういうことをすることが全くなくて、で、それで映画にその存在感を、まったく飽きさせることなく強烈に植え付けるのだから、やはり凄いんである。そういえば今回に関しては、あの全身役者である奥田瑛二も、割と奥田瑛二のまま入っている。いわずもがなだけど、赤井英和や力也も、そうである。まんま、彼ら自身。今回に関してはこれこそが正しいアプローチの仕方なのかも。なんて思うのは、男が男であることを誇りに思い、というか、それだけを頼りに生きていっているような、そんな匂いがするから。人間、というよりは、男であることが先、みたいな。女は出てきても、彼らの人生に絡みつくなんてことは、全く、ない。それこそいさぎいいくらいに。そんなことはちょっとねえだろうと思うぐらいである。理想、なんだろうなあ、これが男の世界っていう。
赤井英和は、哀川翔演じる真樹とだけからむ。街の荒くれ者として。しかしその登場シーンは、雨の中、迷子になった子猫を探しに来る彼と、その猫にかまってやっている真樹、として。双方共に子猫とたわむれるなんて雰囲気じゃないけど。実際、哀川翔の子猫の扱い方の手荒いこと(笑)首根っこつかんで、みたいな感じよ。再会した時は、決闘の時。一対一のケンカを、まさに死闘を繰り広げながら、そのパンチひとつひとつに全身の力を預けてくる相手に、真樹はソウルメイトな気持ちを感じるわけだ。このシーンは、赤井英和はもちろん元チャンピオンなわけだし、哀川翔は実戦の達人と噂されるお人で、本当にそのパンチが実に重そう。さあすが、この二人のケンカシーンは迫力が大違い。奥田瑛二扮する梶原一騎もケンカっぱやいという設定なんだけど、いかんせん奥田瑛二では哀川翔と比べても線が細すぎて。そうそう、もう一人の相手である力也サンが、凄いの。何が凄いって、彼、外国人レスラーの役なんだもん!髪をチープな金髪に染めて、実に簡単な英語だけを喋る(笑)。そりゃ、見えなくはないよ、見えなくはないんだけど、力也サンだって判ってるから、もうおっかしくて。誰か本職の外国人レスラーにしとけば良かったのにね。ボブ・サップとか!?
ところで、あのう、あのう……オープニングとラストクレジットで流れているのは、あれはやっぱり……哀川翔の歌声、なんだよね?違う?あの声はそうだと思うんだけど……と、とーっても、ビミョウ、なんだよね、これが……今にも音程外しそうで、しかもこの朗々とした節回し!いやー……なんつーか……ちょっと……なんだよね(思い切り言葉を濁す私)。哀川翔はね、哀川翔は……加えて言えば文章書くイメージでもないんだよね。彼が原稿用紙に向かってエンピツを走らせている図は、これはかなり違和感。ひえー、哀川翔が原稿用紙に文章書いてる、なんてね。そりゃ、哀川翔は「RUSH!」でもんの凄い長さのプロット書いたっていうし、そりゃ書く人なのよ。そうなんだけど、スクリーンの中の哀川翔が原稿用紙に向かってるって……何かありえないのよね。あ、でもね、エンピツを走らせつつ、煙草をふかしまくっているのは、やたらとカッコイイんだけど。暗い部屋の中で、スタンドの明かりだけをつけて、闇の中に煙草の煙が白く充満し、そして闇に溶けていく……煙草は嫌いな私だけど、煙草がカッコよく決まる人は、やっぱり否定できないんだよなあ……どうしても。
数々出てくる脇役の中でお気に入りなのは、編集者の國村隼。マンガチックに強烈な編集長役の内田裕也より断然、その真摯さが心を打っちゃうの。彼の真剣さにほだされる奥田瑛二、というのが、実にナットクできるのだ。ちゃぶ台を出してきて、冷や酒で乾杯、のつつましやかさが、そして、ささやかな宴の後、外に出たら満天の星空で、それを見上げる二人も、いい。「タイトルには、“星”を入れましょう」そして生まれたのが「巨人の星」!
やっぱりやっぱり、哀川翔と奥田瑛二が共演、っていうのが、凄いのよね。それを、改めて感じさせたのはラストカット。もう劇中では梶原一騎は死んでしまって、真樹は兄を回想するんだけど、そのラストカットは、彼ら二人が笑いあいながら、こちらに向かって歩いてくるスローモーションで、長いコートを翻しながらとか、そのスローモーションの笑顔とか、そして二人ともスタイルバツグンでスクリーン映えしちゃうから、もうこれが鳥肌ものにカッコイイの!これを観ただけでも足を運んだかいは、あったかな。★★☆☆☆
水橋研二と大森南朋。何だか、この二人が共演しているのをよく見かけるような気がするのよね。で、何かしっくりくるのだ。似ているわけじゃないんだけど、似た者同士のような雰囲気。もしかして仲がいいのかしらん。水橋研二は小説家志望?のとっぽいお兄ちゃん。一応カノジョはいるんだけど、カフェの女の子、トリミにホレこんで通いつめている。このカフェが舞台で、ここに集っている人たちはいつもおなじ。愛しの三輪明日美ちゃんもいたのに、思いもかけない位置のキャラで気付かなかった(涙)。
で、大森南朋がかなり面白い役。これが“風変わりなキャラ”の登場なんである。衣装はまんま、マトリックス。しかし服の裏生地みたいなテロテロ感がチープで確信犯的。彼は結論から言うとつまりは、宇宙人だったということよね。母星に帰るための手がかりとなる“味”が必要だったらしい彼は、このカフェに突然現れてコーヒーを注文するんだけど、いつも一口だけで帰ってしまう。そしてコーヒーを淹れたトリミは落ち込む。水橋研二は当然それが許せないわけ。で、このマトリックス男を追いかけて問い詰めるのだ。
しかし彼、このトリミのことが気になっていることは自覚しているんだけど、それがどういう気持ちなのか、それとハッキリと向き合えないでいる。そのことをマトリックス男に「自分の気持ちが判らないなんて、不思議だ」と指摘され、頭を抱える。逆ギレする。その間もマトリックス男はぽわんと彼を見つめ続けるばかりである。公園かどこかなのか、緑豊かな場所で、純な男とヘンな男の何だか噛みあわない会話。しかし何だかホノボノ。日だまりのあったかさ。
フルーツミックスジュースを飲んで、このマトリックス男は旅立ってゆく。甘酸っぱい味が、彼の母星の味。突然車の前に現れた彼に驚いて急ブレーキを踏んだタクシードライバーのボヤッキーがフェイドインしていく中(ツダカン、はりきってんなー)、いつまでもいつまでも空を見上げる二人。
こおんなにカワイイパクリのマトリックスなら大歓迎しちゃう。だって話の内容は全然関係ないし、何たって宇宙人だし(笑)。突然、ホントにマトリックスみたいな動きで意味もなく伏せする大森南朋に爆笑。うーーん、彼やっぱり好きだなあ。★★★☆☆
とは言いつつ。私は今回のクローネンバーグ作品、うーん、と、ちょっとピンとこないような気はした。などと言うほど今までちゃんと観ているわけではないんだけど、やはりクローネンバーグ作品というと、映像でのインパクトが精神的、心理的なところに肉迫するまでの凄まじさ、それをどうしても期待してしまうから。本作品に関しては監督自ら、「記憶の客観性と主観性の問題を追及した」とはっきりと語っている。判る。確かに判るんだけれども、その示し方が、正直、あまりにステレオタイプ。やはりこの人は映像の衝撃からそうした部分に肉迫することを目指すべきなのでは、と思う。あるいはそうしたイメージからの脱却を図るつもりがあるのかなとも思うのだけど、そういえば、「クラッシュ」などにも本作と同じ雰囲気があって……クライマックス、あるいはラストの集中までの語り方がとても静かで、タイクツに感じられるほどに静かで、映像のグロテスクさで緊張感を保ち続ける一方の作品群とはかなり趣を異にしている。別にグロテスクマニアだというんじゃないけれど、やはり私はグロテスク・クローネンバーグが好み。
主人公の男、クレッグは精神を病んでいる、らしい。その彼が一人列車を降り、福祉施設?に向かう。どうやらそれまでは精神病院に入っていた、らしい。彼の視点で語られているので、どうも判然としない。その福祉施設らしきものも、イメージするような明るく、病気を和らげるようなものではなく、ヒステリックな女監視員によって、患者たちがおどおどと、あるいは無気力に毎日を過ごしているような灰色の場所。小さなスーツケースひとつでやってきたクレッグは、馴れ馴れしく話し掛ける男に「それほど長くいるつもりはない」と言うが、その男はニヤリとして言う。「自分も最初はそう思っていたんだけどな」
クレッグは過去の記憶を旅していく。彼がこんな風になってしまったことを……いや、彼は自分が病んでいるという自覚もあるのかどうかさえあいまいなのだけれど、とにかく、探っていく。何かモヤモヤとした、つかめない部分があると感じているのかもしれない。彼が暇つぶしにやっているジグソーパズルを、完成しそうなのに、その完成しそうなことにイラだつかのようにめちゃくちゃにしてしまうみたいに。彼はシャツを何枚も着込んでいて、襟元が何層にもなっている。何かを気づくとメモする手帳が、誰にも気づかれないようにとカーペットの下に隠される。歩き方から非常に慎重で、煙草の吸い過ぎなのか、爪の中まで真っ黒になった手も、やはり偏執狂的な狂気を感じる。いや、狂気と見えないようにと、過剰に自己防衛しているような、これもやはり狂気なのだけれど。
彼の過去への旅。彼は自分の思い出すさまざまな場所で、小さな自分や両親とともに実際に立ち会う。記憶のある台詞を口にしてみると、彼らは思ったとおり、その台詞を口にする。彼はじっとたたずんで見守っている。最初のうちは、彼の思ったとおりことが運ぶ。いや見た目はずっと、彼の思ったとおり進んでいるようである。しかしそれも、どこか雲行きが怪しい。記憶をたどろうとする彼と、たどられている小さな彼とが、当然のことながら、すでにその主観を共有しているから。彼は今の自分の主観で、小さな自分の主観を思い出しているに過ぎない。それでもあの頃、確かに見ていた別の事実を、自分の心の中に、自己防衛本能で隠していた。それを彼はモヤモヤとしてつかめない不安から、この過去への旅へ出たのだろうけれど、果たしてそれをもう一度見てしまうべきだったのか。
少年は母親が殺されたと思い込んだ。母親をないがしろにした父親と、その父親の愛人である淫売とで。その淫売は母親の後釜に座った。彼の記憶では、その淫売は「確かにあんたの母親を殺したわよ」と言い放っている。しかし父親は執拗に、彼女がお前の母親でなければ、一体何なんだ、と言い聞かせる。その父親の表情は真剣で、嘘を隠蔽しようとしているようには思えないし、大体殺人を犯して野菜畑の下に埋めるだなんて、単純に過ぎて、しかもファンタジックにも過ぎる。などという矛盾点が、この少年には見えない。過去を探ろうと思った大人になった男は、もしかしたらだんだんと、その子供じみた矛盾点が気になり始めたのかもしれない。とにかく、少年は愛する母を殺したヤツらを自分の手で殺してやろうと思う。そうしたら、女だけが死んだ。しかし、その女が遺体となった姿を見ると、彼の見知った本当の母親だった。つまりは母親が殺害されたというのは、彼の妄想だったのだ。
いささか、予想がつきやす過ぎる、と思う。遺体が元の母親の顔になった時(しかし、どちらもミランダ・リチャードソンが二役?として演じている、んだよね?本当に全くの別人のようだったけれど)正直、やっぱりな、などと思う。そしてこの少年の妄想が、母親も淫売と同じく女であり、淫売になる要素をさえ持っていることを、少年は、いや男は母親に対して決して認めようとしないことに起因しているというのが、かなり使い古されすぎている、と思えてしまう。でも、クローネンバーグの作品は、おどろおどろしく見える時でもいつも哲学であり、哲学が最も根源的な部分に立ち返ったら、こんな風に泥臭いものになるのかもしれない。それは今まで何度も何度も繰り返し語られていたことだから。
少年をおいて、母親が父親とともにパブに行く。玄関の入り口で、父親が母親を前戯さながらに愛撫する。そこから、だったように思える。少年の妄想にも近い思い込みが始まるのは。かなり判りやすい。先述の要素が、その始まりから全て説明がつくようになっているのだ。ちょっと拍子抜けがするほどに。少年にとって、母親が男(この場合、こうした行為をする父親は既に父親ではなく、単に男である)に愛撫されて好きよ、と答えるだなんて、その母親は、既に母親ではないのだ。この時から、彼の中では母親は既に、死んでいる。あるいはもっと前から。新しいスリップを着て「お父さん、気に入るかしら」と鏡の前でポーズをとった母親に、少年は眉をひそめて逃げ出した。うだつの上がらない父親に我慢を続ける母親を不憫に思っていたはずの彼の心が、ほんの少し、違う方向を向き始めた最初だった。
少年にとっては、母親はだらしない父親に悩まされるかわいそうな女でなければならなかったのだ。もしかしたら母親であること以上にそういう哀れみの対象であることに、彼は喜びを感じていたのかもしれない。それはかなりサディスティックな感情で……いや、母親にシンクロしていたのなら、彼女の心を想像する上でのマゾヒスティックなそれと言えるのかもしれない。どちらにしても、少年の理想に母親がそうした女であるように望むものがあるのは、男の原始的な本能であるのかもと、しかもそれを納得してしまうのが、それこそが何だか怖いように思われる。そしてそうではない、母親はかわいそうな女ではなく、父親にいまだ恋人のように愛されていると知ったとたん、その事実を心から追い払おうと別の物語を作り始める少年の心は、すでに成人の男にも見られるような、ゆがんだストーカー的な愛憎なのだ。
あるいは、そこまでうがち過ぎなくても。彼の気持ちは単なるヤキモチ。父親が母親を女として扱う、扱えることに対する嫉妬の感情なのだと言えばもっと簡単。息子にとって、母親は永遠の恋人。手出しが出来ないだけに、そんな能力も技術もまだないだけに、純粋だとも、妄想がふくらむ分この上なく不純だともいえる。息子が母親を殺してしまった時、父親はその妻の亡骸を抱えながら、息子の気持ちやその動機を考える余裕すらなく、ただただ悲嘆にくれ、息子を糾弾した。父親としては、失格だったかもしれない。しかし彼は妻をちゃんと愛していた。それがこの少年には許せなかったのだ。夫としては、合格だったことが。それは、息子にとってはまさに残酷。自分の存在が揺るがされることなのだから。
彼の少年時代の記憶も、大人になってからの世界と大して変わらない色合い。父親から言われるように、この少年に友達の影は全くなく、それどころか学校に行っている感じさえない。暗く、灰色で、いやもっと暗闇に満ち満ちている。彼が作り上げた物語の中で、愛する母親は父親の浮気にうろたえて真っ暗な夜道を行きつ戻りつする。一本道が家からパブのある街へとずっと続いているのは、何かツクリモノめいて見える。当然かもしれない。少年はそんな母親を見ていたわけではなく、彼の創造した想像……子供じみた一幕だったのだから。作られたもの、記号的なものに、彼は偏愛があったのかもしれない。母親から聞かされた蜘蛛の話に彼はとりこになり、自らの部屋に切れそうで切れない細い荒縄で、蜘蛛の糸さながらの幾何学模様を取り付ける。
しかし彼はどこか誤解していたのだ……感覚に置いて。彼の中ではその蜘蛛の糸は自分を守ってくれるような、そんなイメージだったように思う。部屋の中で、自分が取り付けた蜘蛛の糸を見上げている彼、膝を抱えた少年の彼にはそんな表情が見え隠れするから。あるいは大人になった彼が、子供の頃を思い出したかのように同じことをするのも、おびえた彼のその行為はもっとはっきりと、自己防衛の現われだから。しかし蜘蛛が糸をしかけるのは、攻撃なのだ。獲物への。少年の頃の彼には、確かに一方でそのことは判っていた。だからこそ、この糸を巧みに家じゅうに仕掛けて、首尾よく相手を殺した。望む相手ではなかったから、彼の中で糸の攻撃性の記憶が、消された。あるいはこの知識を正しく持ち続けられたら、彼はまっとうな大人になれたかもしれない。自己防衛と攻撃のバランスが、著しく欠けた大人になってしまったのだ。守ってばかりいたら、人間は完成されない。
しかし、あの糸を張り巡らしていた時の彼は、一番高揚していたように思う。これぞ、ツクリモノへの偏愛の、まさに最高傑作に他ならない。だからこそ、それが否定された時の突き落とされようは、尋常ではなかったのだ。母親からもスパイダーとあだ名されるほどの、蜘蛛を偏愛した少年。その彼が、蜘蛛を真似たときニセモノであることが喝破された。少年は、著しくバランスを崩した。それまでも、崩れていたけれども。
監督は、この少年が間違いを犯したことをきっかけに妄想状態に入ったのではなく、最初から妄想癖があったのだとし、最近での学説、遺伝によって、こうした精神病が現われる、という部分を採ってこの作品を作った。それは何かがきっかけで、とか、人生の転回期とか、そういうものを否定することでもあって、哲学というよりは学問的。映画における幸福な切り札が、そこでは一切失われる。それにしても、遺伝で精神病が受け継がれるだなんて……たまらない話だ。自分の意志とは無関係なところで、しかも精神病だなんて人間だけが持つ疾病を、代々受け継ぐ運命だなんて、もしかしたらこれが最も、映画的なのかもしれない、と逆に思う。だって、こんな運命だなんて、どんな運命よりも……哀しいから。
彼が過去に旅をし、どんどん自分の思い出したくない領域に入って行くと、今現在、見えているはずのものさえ、怪しくなってくる。福祉施設の女監視員が、突然、老女から若い女になる。その時のクレッグの衝撃の顔。こんな老女までもが、女、というカテゴリの中に入るのか、という恐怖のように思える。女、は母親に化けたあの淫売にすぐにつながってゆく。彼の中では母親も、老女の女監視員も、女、ではないのだ。女、は彼を脅かす存在。それは母親を殺したとか、父親を誘惑したとかそういうことではなくて、もっと根源的な……彼自身の、“男”を揺るがすことを、彼は本能的に察知しているのだ、きっと。だから、老女が“女”になった時、あんなにもうろたえ、すぐにでも殺そうとしたのだ。
レイフ・ファインズは、マザコンがはまる。今までぼやけた色男、ぐらいにしか思っていなかったのが、このキャラクターこそが彼の最終兵器だったのか、と思ってしまうぐらい。ちょっと表現過剰気味の演技も、こういう世界だからなかなかリアリティがある。ハンサムはどんなことしてもハンサムだと思っていたけれど、ここでのファインズはちっとも色男じゃない。そこが、何といってもイイ。色男じゃないのに、彼が気になって仕方がない。女はハンサムばかりが好きなわけではないのだ。
それで、彼が再び精神病院に送られて終わり、というのは、衝撃というよりも、何だか陳腐にさえ思えてしまったのだけど……。そりゃ確かに残酷なラストなんだけれど。★★★☆☆
なんだか、胸の動悸が止まらないのだ。それは観ている時も、そしてこうして思い出している時も。そのドキドキは、普段映画を観ている時に感じるような直接鼓舞されるドキドキとはまったく違っていて、胸騒ぎのそれ。夜の闇にとけてしまいそうになっている彼ら……時々、本当に顔の、体のほとんどが闇に包まれて、片目だけがふっと瞬いたりする。切り返しのカットで描かれる会話は、確かに相手と喋っているはずなのに、受け手の人物は画面の手前でいつもフォーカスが外されていて、彼らの言葉はあいまいな空気の中に揮発してしまうように、相手の心に届かない。でも確かに。相手に届いていると確信できる会話なんてないかもしれないと思うと、この胸騒ぎのドキドキはいっそう止まらない。暴力的だと感じるのは、こういうところかもしれない。知っているはず、気づいているはずのそういうことを、思い知らされること。
ワイドではない、真四角に近いような比率の画面で、人物でもあるいは家具やなにかそうしたものでも、何かにフォーカスが合わせられると、それと別方向のものはいつでもフォーカスが外されている。それは同じものを映していても……例えば画面の手前に電話が映されていて、電話の片側だけにフォーカスが合わせられている、なんていうこともある。フォーカス・イン、フォーカス・アウトの手法は他の映画でも折々見られるけれど、同一画面でここまで徹底的にフォーカスを計算している映画には初めて出会ったような気がする。確かに私たちには、通常映画で描かれているように、隅々まで明確に、すべてが見えているわけではないということに気づく。それは文字どおりの意味でもそうだし、気持ちが大きく作用する部分でもある。見たいものだけに焦点が合い、その他のものは、目には入っているけれどこんな風にぼやけている。画面の相手がいつでもぼやけているのは、そんな気持ちを見透かされているようで胸騒ぎが大きくなってしまう。そしてそれは多分当たっているのだ。彼らの破綻への道筋は、きっとここからもう始まっていた。
ひとつひとつブラックアウトしていく手法は、それはシーンの切り替えだけではなく、同一場面でも折々ブラックアウトが差し挟まれ、そのブラックアウトの間に何かが起こっているのではないかという想像を観客に起こさせる。想像の余地を観客に与えてくれる映画というのは、随分と久しぶりのような気がする。必要以上に饒舌で、おせっかいなまでに解説好きで、観客はバカな子供に扱われているような映画が多いから。そしてこの想像の余地というのは、一人一人の観客の中で完成されるこの映画が、それぞれ違っているかもしれない、いや違っているはずだというドキドキを感じさせるのだ。これも胸騒ぎのドキドキかもしれない。
二つのカップル。ひとつは売れない役者と彼より少し年上っぽく見える恋人の女。もうひとつは、これまた売れない画家と彼の表現活動を邪魔しないようにひたすら待ち続ける恋人の女。売れない役者、山形と、売れない画家、上原は、深夜のカフェで出会う。……の前に、後に描かれることになる山形と上原の恋人、綾との一夜限りの関係が示唆されているのだけれど、それは声だけで示されているので、それがどういう展開になるのか、まだここでは気づかない。上原は、カフェでヒゲ面の男をスケッチしている。時折目を上げて、さらさらとクロッキー帳にペンを走らせる。静かな中にさらさらと息づくペンの音……いや、静かと言っても、そこにはちゃんと外の車の轟音なども聞こえているのに、このほかのどんな静かな場面でも都会の騒音は聞こえているのに、それがいっそうシンとした空気に震わせられているのは、これはどうしたことなんだろう。彼らの声は消え入るような囁きなのに、こうした騒音や轟音がまるでシンとした空気になっているかのように、その不条理な静寂の中に響くのは。
上原がスケッチしている男は、どうやら彼に気があるらしい。と、上原が山形に語らなくても、何となく判ってしまう。シャツの袖を几帳面に二の腕まで折り返しているのがなぜだかゲイっぽくて(ヘンな偏見で、ごめんなさい)上原になにげなく送っている横の目線も、そんな合図を感じる。そこにやってくる山形。座り、何をするでもなく彼らを見ている。……びっくりした。何がびっくりしたって、演じる西島秀俊がこんなにイイ男だとは思わなかったから。彼のこと、イイ役者と思いこそすれ、イイ男だと思ったことなんてなかったのに(って、私、下元史朗氏の時もそんなこと言ってたな……失礼きわまりない)ここでの彼は、これは本当にドキドキするほどイイ男である。何が違うんだろう……この映画のムードが彼にぴたりとはまっているせいなんだろうか。この台詞の紡ぎ方も、他の三人はどことなくこう喋ろうという意図が感じられなくもないんだけれど(それは不自然というんではなくて)西島秀俊だけは、彼本来の喋り方がそのままここにピタリとはまり込んでいる感じなのだ。このカフェの場面、照明が落とされ、キャンドルの光でソフトブラウンに落ち着いた中にひっそりと座って、見るともなしに見ているその深いまなざしが、薄い笑みを含んだ口元が、こちらの動悸がおさまらないほど素敵で驚く。スリムなスーツにシャツの胸元は適度に崩されている、なんていう格好も初めて見た気がする。これがとても似合っているというのも何だか意外?で。山形のスケッチをはじめた上原に気づいて、つむっていた目をふとあけ、「何を描いてる」と見据える彼とか……顔の半分は夜の闇にとけていて、片目だけが上原を見据えていて、それがもう、やたらとイイ男なのだ。本当に驚く。
そしてもう一人の男性、上原役の川口潤が非常に独特な存在感。この人は、初めて見た。どこか野性味を感じさせながら、ひたすら静か。叩きつけるように描かれた油絵の前にペインティングナイフを持ってすっと立つ姿に、夜の闇の中を、数を胸のうちでただただ唱えながら歩いていく姿に、胸騒ぎを感じ、彼の凶行に、ああ、やっぱり……などと思ってしまう。
車中のシーンが多い。優子を乗せて夜の闇をゆく車を走らせる山形。運転している彼、西島秀俊の、前方の、具体的な何かではなく進行方向を無心にぼんやりと集中しているその顔が、またたまらなくいい。無心なのに、エロティックにさえ思える色気がある。そして彼らは歩く。車の中でも、一緒に歩いている時でも、あの奇妙にズレた会話シーンのように、二人は同じ方向を向いていて、向き合うことはない。思えば、スケッチしている上原とされている山形という図も、そのスケッチという部分に柔らかく、しかし強固なクッションがあって、二人の視線や関係は交差することがない。「何を描いてる」という山形の台詞は、その柔らかで残酷な冷たさを思い知らされる言葉なのだ。上原は数を唱えながら歩く。夜の闇の中を、その中に溶け込んで消えてしまわないように唱えているかのように思う。彼が絵を描くたびに部屋を追い出される綾は「いいじゃない、毎晩別れて、毎晩よりを戻すみたいで」と言う。でもそれは……毎晩別れる彼と、よりを戻す彼は、きっとその間に生まれ、飛び去り、別のものがまた闇の中から生まれた別人なのだという気がするのだ。彼女が、「ちくちくするから、イヤ」と言ったマフラーをまた再びかけてやる彼に、何だかそんな気がしてしまって。
上原は山形を気に入って、自分の部屋へと連れて行く。気に入って、というのは、その夜が明けた朝、上原の恋人、綾から聞かされる言葉なんだけれど、それは観客にも感じ取れる。アーティスト独特の、ホモセクシュアルな魅力。しかし上原の部屋に泊まったこの夜、山形は綾の一糸まとわぬ姿を見てしまう。暗闇にぼんやりと浮かび上がる女の肢体。山形はもう一度彼女に会いたい、と思う。でもそれは、実際にそれを敢行することになっても、そこから何かが変わるわけではない、どこか思いつきに過ぎないのだ。絵を描く上原を邪魔しないようにカフェで待っている綾を山形は連れ出し、フェリーに乗ってどこか遠くまで行こうとするけれど、そこから先はまるで見えない壁に閉ざされているかのように突破できないでいる。というより、最初からこのあたりだと思っているかのようでもある。「その程度なのね」という彼女に「その程度でいいじゃないか」と返す彼。
正直、こうした“展開”が示されてからはちょっとトーンダウンしてしまう感じがしたのだけれど……多分それは、私の中に展開して欲しくない気持ちが作用していたんだと思う。ただただすれ違う彼らを見ていたかった、みたいな……それにそこは夜じゃない。どこかうすぼんやりと曇っているけれど、明るい。不思議だけれど、夜の闇の中の彼らが現実で、この明るさのもとに引き出されると、すべてがあっけなく壊れてしまうような気がする。……いや、壊れてしまう、と思うのだから、やはりこの明るさの方が現実だということなのかもしれない。壊れてしまうのが怖いから、いつまでもこの夜の闇の中にいてほしいと思ったのかもしれない。
こうして彼らの運命がまわっている間に、折々差し挟まれるキーワードならぬキーシーンがある。上原の住むアパートの薄暗い廊下、山形の住むアパートの階段の踊り場、冷たく重いアパートの扉。あるいは葉が切り絵のような影を作っているポストとか。何度も繰り返し現われるそれらの画は、いつでも同じはずなのに、現われるたびに違う。彼らの運命が刻々と変わるたびに、違う意味を持ってそこに現われる。これぞ映画のマジック、と思う。廊下を足早に行き来する上原、踊り場を上がっていく山形の恋人の優子、何度となく示されるのに、いつでもその意味は違うのだ。同じ画なのに……。二人のカップルが激しく行きあうクライマックス、さびついたエレベーターですれ違う彼らに動悸が激しくなり、山形が住むアパートには画面の手前を行きつ戻りつする綾と、彼女を見つめる優子がいて、そしてそのアパートの階段でぴたりと重なって止まる二組の足がある。ひとつはきびすを返し、ひとつはそのまま階段を上がり続ける。アパートのドアが開く。「刺された」まるでただいま、と言っているかのような声でそう言い、山形は玄関に崩れ落ちる……。
山形のことを気に入っていた上原。上原は、綾を連れ出した山形に嫉妬したというより、山形に連れ出された綾に嫉妬したんじゃないかと思う。二人の女もそれをどこかで感じていたように思う。芸術家にとっての殺人は、愛の行為に他ならない気がするから。病院に連れて行く、と車に乗せる優子はでもどこかうつろで、本当に病院に連れて行く気があるのか怪しい。車がエンコし、一緒に乗っていた綾は「死んだわ」と呆然としたように言う。微動だにしない山形。でも……彼は本当に死んだの?まぶたは微かに、震えるように動いているし、それにカットアウトの最後の一瞬、薄くその目を開けて、外の車の轟音に驚いたような動きを見せたじゃない?本当に本当に一瞬だったけど……まぼろしのように、一瞬だったけど。男からは物理的に殺され、二人の女から心から追い出されるようにして殺された?そんな……。
上原が自分の絵に仕上げに書き込む赤い絵の具でのサインが、彼らがすれ違っていくガラス張りのカフェに書かれた店の名前の赤い文字に重なってゆく。まるで、血のよう。山形が友人の紹介でバイトする現場は「建築現場なの?それとも解体現場なの?」と山形が問うように、混沌とした、時間をただ潰すような場所。建築資材なのか、ゴミなのか判らないクズの集まりにも、山形は揶揄するように問い掛けるのだけれど、彼がここにいることに対してこそ、自嘲しているように聞こえるのだ。それも、全く冷静に、冷めた目線で。シーンごとに差し挟まれ、そしてラストのシーンにもぼうと映し出される都会の遠景には、どこまでも高く高くと建設中であるビルの上に、機材の明かりが点滅している、この空しい美しさ。
こんな風に、携帯電話が出てこない映画が好き。確かにこの映画に携帯電話は似合わない、と思う。上原はピンク電話で彼女に連絡をとろうとし、彼らの家の電話もコードレスではなく、どこかアンティークな気がするぐらいの重い受話器の電話機。携帯電話がないことも含め、連絡が、意志が、気持ちが伝わらない、もしかしたら伝えたくないのかもしれない、そんなもどかしさがたまらなく映画的だと思う。この狭い比率の画面の中で収まらない気持ちを、収まっているかのように偽って。二組のカップルの片割れ同士、その禁じられたキスシーンは、秘密の小箱にしまわれるみたいに車のミラーに小さく映り込み、玄関脇の半身鏡に映る、女の声を背に去る男の姿は、きっと次に映る時にはまるで違う意味を持って映るんだろうと予感させる。この甲斐田監督が、編集から出てきた人だというのが、とても納得できてしまう。ストイックで緻密で洗練された画面構成で、魅せる。それが鼻につく自己満足的な感じが全くしないのが凄い。きっちりと、魅せ方が計算されているのだ。そうした職人的なワザがある一方で、酔わせるサムシングにあふれていて。
漆黒の闇に浮かぶ、多角形に滲む色とりどりの光。都会の光がこんなに寂しいなんて、知らなかった。★★★★★