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「く」


2005年鑑賞作品

空中庭園
2005年 114分 日本 カラー
監督:豊田利晃 脚本:豊田利晃
撮影:藤澤順一 音楽:ZAK
出演:小泉今日子 板尾創路 鈴木杏 広田雅裕 ソニン 大楠道代 今宿麻美 勝地涼 山本吉貴 渋川清彦 中沢青六 千原靖史 鈴木晋介 國村隼 瑛太 永作博美


2005/11/1/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
女優、小泉今日子を開花させる監督は豊田監督だったんだなあ、と思いながら、こんなことになっちゃったけど、大丈夫、大丈夫、絶対、立ち直って帰ってきてくれる、と心に念じながら、観ていた。
豊田監督の暴力性は、内面へ内面へと向かっていく。彼は傷つきやすい人だったのかも……。
未読だけれど、原作とは、特にラストが大きく変わっているんだという。ということは推測するに、明るい未来の方へと、監督は変えたに違いないと思う。血の雨を浴び続け、叫び続ける小泉今日子が、家族の「誕生日おめでとう」の声に向かうラストは、そう変えたとしか、思えない。
だって、中身のテイストは、ブラックユーモアに再三笑わせられながらも、空虚な中であがいているような虚しさに押しつぶされそうなんだもの。この中でどうやって明るい未来を願えばいいのと思ってしまうんだもの。
そういう意味で、あのラストにねじふせていくのは、かなりの力技だと思う。だけど、違和感はなかった。監督がそうしたいと思う未来にちゃんと思えたから。
だから、こんな結末をきっちりつけられる監督だから、絶対に、立ち直って帰ってきてくれると思う。

その話題からはとりあえず離れよう。それにしても!男の子の、それもハダカのトンガった部分を隠せない痛い青い男の子の、あるいはかつてそんな男の子だった男たちの、純粋すぎて突き抜けてしまうようなヒリヒリした映画を作り続けていた豊田監督が、女性を描くというだけでも驚きなのに、その上ホームドラマだというんである。
私は家族に隠していることがある。それはこの家族が自分の計画通りに作られたことだ。娘は偶然出来ちゃったわけじゃない。中学生の頃から基礎体温はつけていた。高校では美容と家事修行にいそしんだ。……そして高校卒業後、十分見極めた上で、ダンナを選ぶ。ホテルに誘い、出来ちゃったといい、この男が逃げるか、観念するか。

でも、ここでの、自分で確信的に作り上げたはずの家族が、実は自分の手からすっかりこぼれおちていることに目を向けたくない主婦、絵里子は、やはりそんな豊田作品の中に確かにいた住人のように思える。
自分が育った家族が失敗した(と思い込んでる)から、自分でイチから理想の家族を作り上げようとした。まるでレゴブロックのように。
でも家族のひとりひとりはちゃんと生きている生身の人間で、一緒になってじゃなきゃ作り上げられないのだ。

学生の頃、ひきこもりで、いつも笑ってばかりで、ナヨコとつまはじきにされて、母親には生まなければ良かったと思われて、とにかくとにかく、行き場がなかった彼女。
私はこんな悲惨な青春時代だったわけじゃないけど、少しも判らないというわけでもない部分もある。学生時代は、結構イタかったから。ま、いまでもイタいけどさ。
ただ、あの感受性の強い時代に、彼女のこの記憶やトラウマが、どこまで真実に沿っていたかということであって、改めてそうつきつけられると、私も、あの時代に実際どう存在していたんだろうと、考えてしまったりもする。
でもちょっと、この決着のつけ方は、こうくるのか、と思ったんだけどね。息子のコウが言った、「それが思い込みなんだよ」というのがそのまんま突きつけられる、みたいな。
パート先の女の子に、「なんでいつも笑ってるの?ウソを見抜かれないため?」とバカにされたように言われる絵里子。ちなみにこのコの母親は絵里子と同級生で、絵里子がナヨコと呼ばれていじめられているのを知ってる。だから二代に渡ってイジめているんである。
そうやって、絵里子の弱みにつけ込む形で、カネを借りたりするんだけど、とにかく笑顔を崩さない絵里子は、自分の妄想の中で、「バレないウソはウソとは言わないんだよ」と、顔がどんどんパーツで崩れてゆく。そしてこのナマイキな女の子をフォークでザックザク!
直後、現実に戻って、ショートケーキのいちごをゆっくりと口に運ぶ小泉今日子の恐ろしいこと!!

絵里子は、母親に憎まれていると思った。でもそうじゃなかった。
自分も、母親を憎んでいると思った。それもそうじゃなかったのかもしれない。
そして、隠し事をしない理想的な家族を作り上げたはずが、隠し事ばかりの家族であり、そのことを絵里子は最初見ないようにして、直面したら愕然として、でも、彼女が思った以上の、というか予想外の、彼女自身を大切に思ってくれている家族になっていたというラストは、うろたえてしまうぐらいの直球な幸福感なのだ。
絵里子は、自分が愛されるということを、きっと予測してなかったんじゃないかと思うの。
しかも、自分が家族を愛するということさえ、考えていなかったんじゃないかな。
絵里子は自分が母親に愛されてないと思ってて、だから愛という概念を最初から排除してて、とにかく裏切られない家族を作ろうということしか考えてなかった。
排除したのは、考えたくなかったから。愛ということを考えてしまったら、それが壊れることしか考えられないから。

冒頭しばらくは、本当に幸せな家族像なの。四人家族。反抗期というより無気力気味の中学生の息子コウ、ハツラツとした平均的な女子高生といった趣の娘マナ、そしてかつてのホームドラマのように朝から完璧な朝食を用意して家族を迎える主婦、絵里子と、一見平均的なサラリーマンに見える夫、貴史。
朝からマナは、「私が仕込まれた場所ってどこなの?」なんて質問をする。絵里子は躊躇せず「ラブホテル」と答える。この京橋家では、とにかく隠し事をしないことがルールなのだ。
確かに一見、このあからさまな会話は、いかにも何の隠し事もしていないように、まあ見える。
でも、あからさまなこんな話題だからこそスケープゴートになっていて、家族は皆それぞれに、もっとディープな隠し事を抱えている。

子供たち二人は、平均的に健全な学生に見えるけど、二人ともまともに学校に行っていない。ことにマナなぞ、かつての絵里子のようにイジメられていて、「それには慣れたけど、なにもわざわざ積極的にいじめられに行くこともないでしょ」とドライを装って、不登校なんである。
このマナの彼氏と思われる森崎君と、自分が仕込まれた場所であるラブホでヤろうとするんだけど、森崎君、勃たず(……)未遂に終わってしまう。
彼氏、と思っていたのも、マナの思い込みだったのかもしれなくて、この後、マナが彼に冷たくあしらわれる場面なぞも出てくる。しかも彼女、その後ヘンな男にひっかかって、盗撮雑誌に載ったりしてしまう。
思い込み、というのはこの作品のキーワードであり、それは、こう信じていれば幸せになれるはず、という信念のようなものでもあって、だからそれが崩れた時、彼らはどうすることも出来ずに、ただ呆然と立ち尽くすばかりなのだ。

大体が、この街自体、きっとこういう街は高度成長期やバブル時にあちこちに出来たんだろうと思うんだけど、今にも崩壊しそうな危うさをはらんでいるのだ。
好景気にあやかって、まさに林立といった感じで建てられた高層マンションは、いまや団地とあっさり片付けられるに至っている。その箱庭を手に入れることがステイタスだったはずなのに、この街はその後の発展に乗り切れず、巨大なショッピングモールも拡大計画が頓挫に追い込まれている。
ちなみに、このショッピングモール、“ディスカバリー”は、マナの心のよりどころである。こんな空虚な街で、ここだけが救い。「ここがあるから、スタバったり出来るじゃない。ディスカバリーがなきゃ、生きていけない」でも、それさえ……。
だって、この団地からは、どんどん引っ越されていくばかりで、その後に入ってくる人なんていやしない。
発展を見込んで建て込んだ筈の街から、どんどん人が抜け落ちていく。そこで擬似家族を演じている絵里子たちの虚しさは……計り知れない。

そう、擬似家族、なのだ。この時点では。絵里子がそう仕向けたし、その彼女の意向を汲んで、家族のみんながそう演じていた。
夫、貴史の若き愛人ミーナが、ひょんなことから京橋家に入り込んでしまうことになり、皆がこの自体を判ってて和気あいあいとしていることにいたたまれなくなり、事態をぶっ壊してしまう。「そうだ、学芸会だ。みんなウソだと判ってて、役割を演じてる」そう言うミーナに絵里子は泰然と笑顔で言い返す。「学芸会のどこが悪いの。楽しいじゃない」うぎゃッ!
楽しいのかな、楽しいのかもしれない……いやッ!でもでもでもッ!?
ミーナが来てからは、ホント、そこにいるメンツのほとんどがこの事態を判ってるのに、演じてて……怖いの。ミーナを家庭教師として連れてきた息子のコウだって、そうハッキリとは示されないけど、なんかそのあたりあいまいなんだけど、父親の愛人だって判ってたんでしょ?いや偶然にしちゃあんまりだって……。

このコウに関しては、無気力な中学生、という設定のせいもあるんだけど、ちょっとナゾな部分が多くてさ。どうやら彼は建築オタクらしい。あ、そういうことなの。パソコンで建物のシュミレーションプログラムみたいなの作ってるの。で、ミーナを誘ったのは、「ラブホテルに窓がない」ことを確かめるためだった、らしい。
それだけなのかなあ……やっぱり判ってたんじゃないのかなあ。それに彼女とはホントに何もなかったのかなあ。いやあっただろうなあ……劇中言われるように、ソニンちゃん、おっぱいおっきいんだもん(ホントにおっきいのね!)
そう、ミーナを演じるソニンちゃんは、かなりのインパクトである。そのおっきいおっぱいもそうだけど、煮え切らない愛人、貴史に対して、無表情のままテーブルの下で足で彼の股間をグリグリしたり!かなりショーゲキ的な場面がいっぱいある。

でも、同じ愛人としては、もう一人の、永作博美にはかなわない……うう、彼女、キョーレツ。どうやら貴史からはすでに疎まれているらしい腐れ縁、家の場所をごまかそうと、彼女の車から降りて別の方向へ歩き出し、様子をうかがいながら元の場所に戻ってくる彼の元へ、彼女の車がまた戻ってくるところが!!しかも彼女、始終なんか陰鬱な歌かけててさ、その歌を遠くから鳴らしながら戻ってくる車、ってのが、もお、キョーレツでサイコーなの!コワイ!永作博美!しかもミーナが自分は貴史の愛人だと京橋家の前でバラした修羅場で彼の携帯に電話してきて、それをとった絵里子の母親のさと子に、「チョロキチいます?私セフレの飯塚でーす!」とか言っちゃって!セフレの意味が判らないさと子、大声で、「貴史さん!セフレさんから電話!」とか言っちゃうんだもん!もうボロボロ!

あ、そうかー。強烈という意味でいえば、このさと子役、大楠道代には誰もかなうまい。かなり重い病気にかかっているらしい。しかし手術を拒否してるし、病室でもタバコバンバン吸ってるし、コウをたぶらかした?ミーナをラブホでぶんなぐるわケリ入れるわ、しかもその後そのラブホで回転ベッドにご満悦だしさ。絵里子が家族に隠してきた暗い学生時代を(彼女、家族には自分は生徒会長とか言ってたんだもん)あっけらかんと暴露してしまう。あのね、クライマックスまで、絵里子の視点で彼女が語られるから、ほおんとトンでもないヤツだとか思っちゃうのね。でもこのお母さんこそ、どこにもウソのない人だということなのだ。絵里子の視点で見てるからトンでもなくムカつくけど、彼女の出来ないことをやってるんだ、この人は。

だって、それまではイイ子、イイ主婦を必死に演じてきた絵里子がついにキレちゃって、この母親に対して、「もう死んじゃえば」「あなたには母親の資格がなかったのよ。母親っていうのは、子供に汚いものを見せないように、きれいなものを見せるように守るものでしょ」「お願いだから、死んでよ。そうしたら私が今度は母親になって、お母さんを育てなおしてあげるから」とまで言うぐらいなんだもの。でも、この物語の決着が、「思い込み」にされちゃうもんだから、クライマックスの時点でくるりと、彼女の印象が変わってしまうの。
それは、たったひとことで。
ずっと承諾しなかった手術を母親が受けることになって、それまで話の上にはのぼっていた、絵里子の兄が登場する。優秀な兄で、絵里子は、この兄と比べてずっとないがしろにされていた、と。
でもこのお兄ちゃん、こう言うのね。「おふくろ、いつもお前の話してる」と。「お前が鉢植え持ってきてくれたとか」そして、「お前、おふくろと仲良かったじゃないか。俺と違って」絵里子は驚いて、言葉を失ってしまう。お兄ちゃんだけがずっと大事にされてきたと思ってた。そしてふと振り返ると、大嫌いなはずの母親の世話をするために、病院に通ったり、実家の掃除をしたりしてる。

呆然と、本当に呆然と言葉を失う絵里子に、観客であるこっちも言葉を失ってしまう。
ずっと愛されてきたんじゃないの。それを気づかずに、いや気づこうとせずに過ごしてきたんじゃないの。
そして、極めつけ、あの電話である。
入院先の病院で、点滴ひきずって、さと子が電話をかけてくる。「あんたの夢を見てたの。いつもお兄ちゃんの誕生日ばかり祝って、自分は祝ってもらったことがないって言ってた夢」そして「もうすぐ明日になっちゃうから、慌てて電話したのよ。お誕生日、おめでとう」
予期せぬ言葉に固まる絵里子。
その時、絵里子は、家族全員の帰りが遅くてイライラしていた。息子の部屋に入ってカレンダーにその日、花丸がつけられていたのを見たけど、自分の誕生日なんて、思い出しもしなかった。

その時、いつもよりずっと遅いバスに、それぞれに偶然一緒に乗り合わせた家族たち。
その手には皆、お母さんへのプレゼントが用意されている。それぞれ、「それ、なんだよ」と軽く突っ込みつつ、「別に」とテレながら。
マナは父親に言う。「お母さん、最近ヤバいよ。死ねとか殺すとかブツブツ言ってる。ちゃんとお母さんのこと、愛してあげてる?」
貴史は言う。「いくら遊んでもちゃんとその日のうちに帰って、少しでもいい仕事があれば必死にとりに行って、この小さな団地の生活にしがみついて必死に守ろうとしている。愛がなければ出来るかい」
ちょっと、キュンとしちゃうんだよね、この台詞。ただ、最初の方の描写にもあったけど、「お母さん、最近チューもしてくれへんけどな……5年もエッチしとらん」っていうの、まあ、それじゃ男の浮気も仕方ないか……なんて思うようになるなんて、私もオトナになったのかなあ??うーむ。

「お母さん、忘れてるかな」「絶対、忘れてるよ。他人の誕生日は覚えてるのに」
そう、関係ないミーナの誕生会までやって、相手を困惑させたぐらい。「なんで私の誕生日を祝うの?」と、ダンナの愛人であるからこそ戸惑いまくっていたミーナ。
しかもその時、母親のさと子の誕生会もかねている。
幸せな家庭を維持するために、大切でないものまで大切なフリをして、傷つける人たちを増やしていた絵里子。
そして同時に自分の傷を広げていた絵里子。

全てに目を向けざるを得なくなって、自分の気持ちがむき出しになって、豪雨のベランダ、まるで事態をとりつくろうかのように世話を続けていたベランダのガーデニングが枯れかけていて、その中で、雨がいつしか血の雨になり、真っ赤に染まりながら、ケモノのように叫び声をあげる絵里子。
家族の呼び鈴に、気づかない。
ちょっと、ハラハラとしてしまう。
カットが切られ、豪雨の風にあおられる、窓開けっ放しのカーテンが揺れていて、彼女の姿が見えない。
ドアの外の家族は、絵里子が寝ているのだと、呼び鈴に気づいてくれるのを根気よく待っている。
しばしの時間……絵里子が、血の雨に濡れていたはずの絵里子が、さっぱりとした顔で、雨に濡れた状態でベランダから室内に入ってくる。呼び鈴に導かれてドアに向かう。
ドアを開ける。
息子の持っている白い花が大映しになる。
そして、カットアウト。
幸せでしょう、幸せな、ラストカットでしょう。

小泉今日子は、壮絶だった。彼女のキャラからこの役は考えにくいけど、でも彼女のキャラだからこそ、生々しいものがある。
小さな、箱庭みたいな団地だけど、「当時は憧れの的だったのよ。この団地に住めれば幸せな生活が手に入る、それが叶ったの」そんな絵里子の言葉に息子のコウは、「それが思い込みなんだよ」と言ったけれど、でも、でも幸せはちゃんと、あったと思うんだ。
最初は、揺れるカメラに不安感をかきたてられるばかりだった。けど、次第にカメラが落ち着いて、だから、だから……幸せを信じたいって思うのだ。
原作が、どうなのか、判らないけど……。★★★☆☆


クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ3分ポッキリ大進撃
2005年 88分 日本 カラー
監督:ムトウユージ 脚本:ムトウユージ きむらひでふみ
撮影: 音楽:若草恵 荒川敏行
声の出演:矢島晶子 ならはしみき 藤原啓治 こおろぎさとみ 坂井真紀 波田陽区

2005/4/26/火 劇場(渋東シネタワー)
原監督じゃなくなってからは、悩みつつも足を運ぶんだけど、今回はまた監督が変わった。それまでは原監督の片腕と思しき水島監督だったのが、うーん、名前を聞いたことない人に変わってる。しかも原監督の名前はわずかに絵コンテの部分に残るのみで、作品世界に関わる部分からは遠く離れていく印象を受ける。
今回はねー、今回はねー、うーん。声優さんたちによると、ここ数年の感動路線ではなく、本来の、とにかく笑って笑って楽しめるクレしんに戻ったってことだったんだけど、でもさー、「温泉わくわく……」なんかは、笑って楽しめるクレしんだったわけで、その上でヒネリもたくさんあってすんごく面白かったわけじゃない。やっぱり原監督とは違うんだよなー、ってついつい思っちゃうのね。

今回のお話は、変身モノ。時空の亀裂がどーたらで(このあたりの説明は、水道管をたとえに使って話すんだけど、大人でもバカな私にはすでにムズカシイ)怪獣が現われ、地球は存亡の危機にたたされているとか。三分後の未来に現われている怪獣を、その3分間のうちにやっつけて吸収してモトの世界に戻さなければ、現実の地球に怪獣が現われてしまう。3分っつーのはまさしくウルトラマンよねー。肉体を持たない時空調査員が、カップめんの匂いにつられて、しんのすけのお尻丸出しのゴジラみたいな人形に入り込んじゃって(あの人形はちょいと可愛かった)その場にとどまっちゃったもんだから、野原一家がその大役を担うことになる。自分のイメージするどんな姿にも変身できることで、野原一家はもうノリノリで、自分が、自分がって大変なわけ。
ことにみさえのやりたい放題ときたら、少女趣味のフリフリだのセクシーなマーメイドだの、しかもすんごい巨乳になっちゃって(笑)。風貌も変わるみたいで、最初にみさえの変身姿を見た時、ひろしもしんのすけも「あのおねえちゃんカッワイイ」と鼻の下をのばしたくらいで。ひろしも最初はイメージの貧困でダッサい正義の味方くずれみたいな感じなんだけど、イメージすることに慣れてくると、スーパーマンかスパイダーマンみたいな筋肉ムキムキのカッチョイイ姿に。

と、いう、ひたすら変身しまくって、怪獣をやっつけるという繰り返しが、ちょっと繰り返しすぎじゃないのってぐらい前半に押しまくるんで、まあ……チビッコならどんなに繰り返されてもワクワクして見ることが出来るのかなあ。でも私はというと、何か、だんだんタイクツになってきちまうんである。いや、別に私だって毎回感動モノをと思ってるわけじゃないし、「温泉わくわく……」みたいにバカ笑いできるものも心待ちにしてたりしたけど、画的なモノだけでそれを刺激するにはやっぱりちょっと、ヨワい気がするんだな。でもこの怪獣の現われる世界も3分後なだけで同じ地球(というか同じ春日部)だったりするから、ひろしは偶然出会った部長を助けたことを現実世界の部長は当然何にも覚えてなかったり、風俗のねーちゃんにもっとカッコイイところを見せたかったのにと思ったり、どうせ3分後の地球ではチャラなんだからと、会社のグチをテレビカメラに向かって叫んでみたりするんである。そういうあたりはちょっとしたヒネりを感じなくもないけど。
ひまわりが一回だけ変身するんだけど、それがやたらと可愛かった。巨大化して、あひるのおまるに乗っちゃったりしてさ。

怪獣と闘う力の強さは、自分の中に持っている正義の思いで決まるんだという。今回の物語のキモはそこんところなんである。冒頭、まだこんな事態が展開されない時に、しんのすけは夢の中でアクション仮面に出会う。アクション仮面は正義の味方。でもしんのすけにはその正義というのがどういうことなのかよく判らない。その疑問をぶつけると、アクション仮面はそれは自分で見つけるものだと言う。
ひろしは有給までとり、みさえは家事も投げ出して怪獣退治、いや変身に夢中になって、時空調査員が現われる掛け軸の前で布団にもぐりこんだまま待機しているありさまである。みさえなんか、毎日の忙しい生活で、ふと鏡を見ると白髪や小じわを見つけて「私こんなにオバサンだったかしら」などと呆然としていたぐらいなんで、この変身願望が満たされるのが、自分の理想の姿に変身できるのが、楽しくて仕方がない。敵を倒す自分のカッコ良さにも自己陶酔してしびれちゃってる。「ビデオに撮れればいいのに……」などとつぶやくぐらい。海獣たちをどんどん倒していって、終わりが見えてくる。終わっちゃうのが寂しい。
自分の中の正義がモノをいうんだったら、こんな調子で大丈夫かなと思ったりしていると、案の定、最後のツメとなって怪獣は強力さを増してくる。3分以内で片付けるのも難しくなってくる。で、怪獣退治でケガをした両親を気遣い、しんのすけは自ら、たった一人で、その怪獣に挑むことを決心するんである。

そーなんだよねー。毎回しんのすけに感心するのはココでさ。今回は赤ちゃんであるひまわりの世話さえ放棄してしまったみさえのかわりに、ひまちゃんをおぶってキコキコ三輪車で幼稚園に行くんだよね。ひまちゃんに対してはいつも、ほおんと、ちゃんとお兄ちゃんなんだよなあ。しんのすけは「ひまが女子大生になったら、おともだちの女の子を紹介してもらう」という妄想入ったことを赤ちゃんのひまに何度も約束させるんだけど、でも基本的に、しんのすけは妹の面倒見がすこぶるいいんだよね。
そして、しんのすけは自分にとっての正義を見つけることになる。3分後の未来を立て直さなければ、自分たちにとっての未来はない。家族みんなで未来にいきたい(行きたい、と生きたい、をかけてる?)。だから頑張って怪獣をやっつけるんだと。
なあんとなく、「オトナ帝国」の二番煎じみたいな気もする台詞だったけどねー。「オトナ帝国」があまりに強力だからそこんところは難しいよね、やっぱり。で、最後の超強力な敵はしんのすけ自身をコピーした怪獣であり、これにはしんのすけもひるんでしまうんである。超強力な怪獣を倒したしんのすけ自身こそ最も強い姿なのだということでのコピー怪獣であり、ナルホドと思わせる一方で、自分自身と戦うということには何かちょっと、深いものを感じさせなくもなかったりして。しかしこの時点では元の世界に戻してもらったことを感謝した怪獣たちによって、アクション仮面とカンタム・ロボとぶりぶりざえもんが応援に駆けつけており、しんのすけは皆の助けによって無事、地球を救うことが出来るんである。

ぶりぶりざえもんが出るとドキッとしちゃうんだよね。今度こそ、ああ今度こそ、代わりの声優さんがあてがわれているんじゃないかって!塩沢さんが鬼籍の人になってから、ぶりぶりざえもんはすっかり姿を現わさなくなり、現わしたとしても、それは実はぶりぶりざえもんじゃなかったとか、声が全くベツモノでアリという展開だったりした。だから今回も、ぶりぶりざえもんに対してひろしが「久しぶりだなー」などと言うように、いわゆる、ホンモノのぶりぶりざえもんは本当に久しぶりの登場なんだけど、ぶりぶりざえもんはしんのすけが生み出したキャラクターであり、つまりは紙に描かれたそれとして現われるのだ。喋らないから判らなかった、と言うしんのすけに、紙の上のぶりぶりざえもんは吹き出しに書かれた文字で「だって、紙の上だから」と言い(書き)、紙に描かれた状態のままかさかさと動くんである。
こ、これにはちょっと感動しちゃったなー。書き文字で喋り、かさかさと動くぶりぶりざえもんは何ともはやカワイイし(まあでも、そんなだから活躍は出来んけど)、そこには塩沢さんに対する敬意がひしひしと感じられたんだもの。でもここまでくるとさすがに限界値って感じもするんだけど……次にぶりぶりざえもんが出てくるとしたら、一体どうなるんだろう?

で、ですね。みさえは、やっつけたしんのすけのコピーロボットに、「ホンモノのしんちゃんの方が、何倍も何十倍も何百倍も何千倍もカッコいいんだから!」とかみつきまくるんである。うんうん、このあたりは母親の愛情表現だよねー。でもこれも、「戦国」「ブタのヒヅメ」で見せていたみさえのそれを思い出すと、やはり弱い気がするんだよなあー。直截すぎるというか。
自分の心の中の正義の分量に従って力が決まるこの勝負。怪獣たちが手ごわくなってきて、もっと正義心の強い人の方がいいんじゃないかとひろしは弱音を吐くんだけど、時空調査員は、それまでの戦いの経験値もあるから、いまさら他の人に替わっても変わらないとは言う。でもその言で言えば、ひろしやみさえに比べてそんなに戦っていないしんのすけが力を発揮できるというのは、やはりここでは正義の心の力が働いたにちがいないんだよね。これまでは今ひとつ判らなかったその正義の心の意味が彼自身、判ったから。それは家族を守りたいという心。

今回のお楽しみは、ギター侍こと波田陽区が怪獣になって出てくることなんである。怪獣と言っても巨大化してるだけで、彼まんまである。前回のNO PLANよりは数段マシかな……。デフォルメされたそのお顔もちょっと可哀想なぐらい?ソックリだし。何年たっても5歳児であるしんちゃんを斬ったその刀で、しんちゃんから「でもあんた、怪獣ですから!」と返されてしまう(笑)。この絶叫型のネタは、アニメのキャラとしては確かに映えるんだよなー。
怪獣を倒した後は、その怪獣を一度吸収しなければいけないんだけど、その吸収するのが、なんとまあ、しんのすけの場合はその“ぞうさん”の部分で、当然ギター侍もそこに吸収されちまう(笑)。ぞうさんのなかにピタリと収まると、ああん、ってなばかりに身をくねらせるしんのすけ。不憫だよ、ギター侍……。

怪獣の名前が実はちょっと面白かったりする。ラストクレジットで絵コンテみたく紹介されるのね。炎の形のファー・イヤーンだの、魚の形のサバシオだの、ウサギの形のラビビーン関根だの(これが一番笑った)。
まさしく「地球防衛軍」だった野原一家。でも今回は、ホントの地球防衛軍の仲間たちの活躍がなくて残念だったなー。私はボーちゃんファンなんだもん。 ★★☆☆☆


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