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「し」


2004年鑑賞作品

幸せになるためのイタリア語講座ITALIENSK FOR BEGYNDERE/ITALIAN FOR BEGINNERS
2000年 112分 デンマーク カラー
監督:ロネ・シェルフィグ 脚本:ロネ・シェルフィグ
撮影:ヨーゲン・ヨハンソン 音楽:
出演:アンダース・W・ベアテルセン/アネッテ・ストゥーベルベック/ピーター・ガンツェラー/アン・エレオノーラ・ヨーゲンセン/ラース・コールンド/サラ・インドリオ・イェンセン/エルセベス・スティーントフト/リッケ・ウォルク/カーレン・リセ・ムンスター/ベント・マイディング/クラウス・ギャービング/イェスパー・クリステンセン/カルロ・バルソッティ/リーネ・ティムローツ/アレックス・ニューボーグ・マッセン/スティーン・スバーレ・ハンセン/スザンネ・オルデンボーグ/マルティン・ブリクマン


2004/2/23/月 劇場(シネスイッチ銀座)
どんなに大人になっても恋をしていいんだ、……と思ったのは映画もだいぶ後になってからで、最初のうちはかなり低めのトーンに落とされた。それも強かったのは繰り返し訪れる人の死。それも、肉親の死。自分もそれなりの年になってきて、そうすると身近な人の死も体験するようになってきて、凄く、思うのだ。死の悲しみ、死の痛み、そして死が人生の中に必ず訪れる、日常になってゆくことを。そしていつか、この作品の中のように自分の親が死んでしまう日が訪れるんだと。

本作中では、父と母二人ともが、間をおかずに亡くなってしまう。
そして、父と母、それぞれについていた娘同士、長い間お互いの存在を知らなかった姉妹として、めぐり合う。
死に際のそれぞれの父と母は、一緒にいる娘に毒舌吐きまくりで、メーワクばっかで、それでも娘は娘だからそんな親を突き放すわけにはいかなくて、面倒を見ているんだけれど、でもその最期は、娘の二人とも、ほんのちょっと、自分のワガママを優先させてしまった。そしてその間に親が死んでしまった。
父と暮らしていたオリンピアが、唯一通したワガママ、市役所のイタリア語講座に通うために家を空けた、その間に父は死んでしまっていた。
母の面倒をみていたカーレンは、母の請いに従う形で、モルヒネの量を多くしてしまう。でも彼女の心の中にはやはり、この母から解放されたい気持ちがあったに違いない。
でも、と思う。そんな風に罪悪感にさいなまれる彼女たちだけれど、この親たちは判ってたんじゃないか、ってそう思うのだ。

オリンピアは手が思うように動かせない。それは母親が妊娠中にアルコール依存症になっていたためだということが後に示される。オリンピアはそのことを知らない。
父親は、出て行ってしまった妻のことを毒づきながらも、きっといつまでも愛していたんだろうと思う。そして娘をこんな目に合わせてしまったことを申し訳なく思いながら、妻を愛している自分、体を動かせない自分を憂いていたのだ、きっと。
妻の悪口を言うのは、娘のため。そして自分をも責めるため。妻にどんどん似てくる娘を見て複雑な思いもきっとあったろう。娘を毒づくのは、気を使う必要なんかない、憎んでいいんだ、憎んでくれという気持ち。
そして母親の方もきっとそうだ。自分こそが守らなければならない子供に守られて、自分が情けなくて、頼むから自分を憎んでくれと、ワガママを繰り返す。看護婦がモルヒネの量を増やしてくれない、とカーレンに点滴の量をコッソリ調節するように言う。でもそれはきっと……これ以上娘に迷惑をかけたくないと思ったからなのではないのか。
自分がもし、親になったら、こうはなるまいと見ながら思ったけれども、すべてが終わってしまって、こんな風に考えが及ぶと、胸が詰まってしまう。
親は、子供に嫌われて憎まれて、それでも子供が幸せになれるのならその方が自分も幸せなのだ。
親って、凄いな……。

カーレンとオリンピアは、カーレンが面倒を見ていた母親が死んだ時点で、お互いが姉妹であるということが判明する。お互い、遠いところに住んでいると思っていたのに、こんなに近いところに肉親がいたということに驚愕する。カーレンの方にはかすかに妹の記憶は残っていたのだけれど、それぞれの親は、そんなことを娘たちに何も言いはしなかった。
だけど、感動的なのは、こんなにも長い長い年月がはさまっているというのに、つまり全く見知らぬ他人としてそれぞれ暮らしてきた二人なのに、その事実が判明したとたん、ちゃんと姉妹同士になるということなのだ。
お互いの顔の中に、見知らぬもう一人の親と、自分と過ごした親の顔を見出す二人。
それ以降、仲良く二人でイタリア語講座に通ったり、外食に出かけたり、悩みを相談しあったりと、とても微笑ましくって、ああ、いいな、良かったな、と心から思う。
姉妹は生まれてから死ぬまで、姉妹だものね。

という、メイン登場人物六人のうち二人のエピソードでいきなり筆が進んでしまったけれど、基本的には、この男女六人の恋愛模様、である。人生模様を織り交ぜた恋愛模様というべきか。
男女六人いて、フクザツな恋愛事情にならずに、パズルのピースがピッタリとはまるみたいに理想的な三組のカップル(オクテな一組がまだ固まりつつ……てなところだけど)が出来上がるというのは、しかし全然ご都合主義じゃなくって、前述のようにそれぞれの人生のエピソードが結構シビアなだけに、素直に良かった、良かった、と言いたくなるのだ。

舞台はデンマークのある街。映画の始まりは、アンドレアス牧師の着任から始まる。妻が死んでしまったばかりの若くハンサムな牧師さんである。実際、三人の男性陣の中で彼が一番好み。イイ男という点ではハルの方なんだろうけど、この積極的ではないけれども人を惹きつけるチャーミングさが一種のカリスマ性を思わせる、牧師としては実に最適なアンドレアスにかなりドキドキなのだ。ふふっ。
彼の相手となるのが先述のオリンピア。父を亡くしたばかりの彼女と知り合い、お互いにかなり大人しめなもんだから実にその歩み寄りは遅く、ラストになってもハッキリとした形はとっていないんだけれど、絶対、大丈夫だよね?この二人。手が上手く動かせなくて仕事が思うように出来ないオリンピアが自分のふがいなさに打ちのめされて、教会の、アンドレアスの元に行く。彼は無論、牧師として彼女を諭している立場なんだけれど、一人の男として、彼女を慰めているというのがしみじみ伝わるいいシーンなのだ。牧師という立場だから、あーもう、牧師じゃなかったら、ここで一発(!?)とか思うんだけど、それがないのが二人のイイところなんだよね。彼らには幸せになって欲しいな。

アンドレアスが泊まるホテルの受付係をやっているのがヨーゲン。彼はアンドレアスを市役所のイタリア語講座に誘う。ヨーゲンがこの講座に通っているのは、イタリア娘、ジュリアに恋しているから。そのジュリアとは、ヨーゲンの勤めるホテル付きのレストランのウェイトレス。そこの店長がハル、ヨーゲンの親友である。ハルは元サッカー選手でユベントスに憧れイタリア語を勉強、今やペラペラである。しかし短気で(というより、理想主義者なのかな)行儀の悪い客を怒鳴りつけるもんだから評判は良くなく、ヨーゲンは上司から、ハルにクビを申し渡すように言われている。
ヨーゲンが客に勧める美容院の美容師がカーレン。ここにヨーゲン自身も、そしてアンドレアスやハルもやってくる。そこでハルはカーレンと恋に落ちる。
さて、これで全員、出揃ったかな?

イタリア語講座、というのは効いている。デンマークがどんな国かというのは今ひとつイメージが沸かないけど、イタリアといえば、陽気な恋の国だ。フランスがもっと成熟したアムール(愛)の国ならば、イタリアは恋の国。始まりの国なのだ。前途と希望に満ち溢れている。
こんなに大人になっていたって。顔にしわが刻まれたり、メイクのノリが悪かったり、頭が薄くなったりしたって、いつだって恋をしてもいいんだよと、イタリア(語)は言ってくれているように思える。
イタリア娘、ジュリア(びっじんだなー)に恋するヨーゲンは、自分が彼女より10も年上なのを気にやんでいるんだけれども、イタリア娘の彼女はそんなこと最初から気にする様子はない。恋は恋なのだ。実は最初から両思い、ヨーゲンを恋する彼女の方が、彼に好かれようと、自分を大人に見せようと頑張っている。カワイイ。

カーレン一人で切り盛りする美容院に、ハルは何度となく通ってくる。
というのは、その度にいろんなジャマが入って中断してしまうから。そのほとんどは、カーレンの母親の問題である。ハルはまた来るよ、と辞する。また来る理由が出来た、とばかりに。
ハルは何のこだわりがあるのか(元サッカー選手のプライド?)そのうっとうしい髪を切ろうとせず、ま、そろえる程度に、と言うんだけれど、カーレンは会った最初から、スッキリ刈り上げたらステキよ、と言う。それでもハルはそれに首肯しないので彼の言うとおりに切ろうとはしていたのだけれど。
いつも、切る段階まで行かずに、シャンプー台で髪を濡らすまでである。
温かい湯で髪を優しく濡らしてゆく……気持ち良くて、穏やかで、そして何とも官能的なシーンだ。
指先から伝わる思い……。
ハルの髪をカーレンが切る機会が結局は訪れなかったのは、切る、が縁を切るみたいな、何かそんな縁起の悪さを思わせるせいもあるのかなと思うけれど。でもやっぱり、カーレンに会いたくて美容室に行くんじゃなく、ハルは自分の意思で髪を切った、ってことなんだよね。揃える程度、のはずが、カーレンが提案したみたいに、刈り上げて、バッサリと。
スッゴク、いい感じ、イイ男になった。そして大人になった、ハル。
と、いうのは、イタリア語講座のメンメンで行くことになった親睦?旅行、ベニスでのことである。
オイオイ、しかし、いくら仲直りしたからって(ハルが冗談半分にカーレンの母親をクサしたのを聞いて、ケンカになっていたのだ)路地でヤルのはヤバイだろー。うーむ確かに彼らカップルは、最初っからそういうオトナな空気が漂ってるけどさ。

そういう意味では、この三組のカップルはそれぞれに全然違うタイプなのね。ヨーゲンとジュリアは、母国語が違って言葉が通じないカップル。お互い最初から思いあっているんだけれど、意思の疎通が上手くいかないからそこに到達するまでが長い長い。でも到達しちゃえば、早い。いきなりプロポーズだもん。
そしてアンドレアスとオリンピアのカップルは、てめえら言葉通じてんならさっさとくっつきやがれ!とどつきたくなるようなしり込み系カップル。いわゆる世間的常識ってヤツにがんじがらめにされてるタイプなんだけど、それだけにそのジリジリ感がたまんないのよねー。恋の醍醐味はこのカップルが一番教えてくれている、かも。

だってね、二人とも凄いマジメで。アンドレアスの方は牧師として何たるか、ってことで凄く悩んでるし。前任者の牧師はオルガニストとトラブって謹慎中で、イジワルというか何というか、何か生臭坊主みたいな雰囲気のオヤジなんだけど、アンドレアスはすごおくマジメに牧師の道を模索しているんだもの。というのも、死んでしまった妻が自分以上に信心深い女性だったからということもあるんだろうけれど。そしてこの生臭坊主な前任牧師のもとに酔った勢いで乱入する。神の概念や牧師としての立場について、激しい議論を戦わせる。この前任牧師も、妻に先立たれた人だった。その時から、神の存在意義についてどこか否定的になっていた。酔った勢いでしか議論できない弱さがアンドレアスらしいというか、実に人間臭いけど、正反対に見えたこの二人が実はどこか似ている部分があること、しかし二人同時にこの場所にはいられないということが、何だか……切ない。アンドレアスはこの議論で、本当の意味で牧師になれたんだって、気がする。でもホント、人間って、出会いと別れ、だね。別れは確かに必ず訪れるけれども、出会ったことが一番大切なんだよね。

オリンピアのエピソードも心に迫る。彼女の手が上手く動かないのは、無論彼女のせいであるはずがない。でも、ひと目会うこともかなわなかった、母親のせい、であるというのは辛い。しかしとにかく彼女は生きていかなければならない。家に閉じこもりっきりの父親を抱えて、糊口をしのがなければならない。
手が動かないために、40何回も職を変えたという彼女がパン屋で長く続いているのは、落としてしまったパン代はレジに入れればいいから、というのは……更に辛い。
オリンピアの場合、というのはいわゆる、判りやすく描かれてはいるけれども、そうでなくったって、人間って大人になったって、きちんと大人になんてなれやしない。自分が子供の頃描いていたような大人に、そうなるはずだったのにと思いながら、なれないのだ。
大人ってもっと、しっかりしているはずだったのに。大人って自分で何でもできるはずだったのに。大人って自分で何でも決められるはずだったのに。大人ってもっと……大人なはずだったのに。
子供の目からは、そう見えていた、そう思い込んでいただけだったんだ。大人は大人というヨロイに苦しんでいるのだ。
でも、それでもいいんだ、大人だって大人でなくてもいいんだってオリンピアを通してアンドレアス牧師に言ってもらっている気がして……何だかちょっと、涙出てしまった。

デンマークとイタリアの関係性、言葉のニュアンスが、判らないながらも上手い効果になっている感じ。女性監督!なのね!頼もしいなあ。女性感覚、みたいなのはとりたてて言うのもヤなんだけど、女性キャストの女性ならではの感情が、ああ、何か判るなあ、と思っちゃっただけに何だか……うん、嬉しかった!★★★★☆


シークレット・ウィンドウSECRET WINDOW
2004年 96分 アメリカ カラー
監督:デビッド・コープ 脚本:デビッド・コープ
撮影:フレッド・マーフィ 音楽:フィリップ・グラス
出演: ジョニー・デップ/ジョン・タトゥーロ/マリア・ベロ/ティモシー・ハットン/チャールズ・S・ダットン

2004/11/17/水 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
こんな監督さん知らんし、スティーブン・キングというのも知らずにいたから。で、宣伝のポスターとかもいかにもハリウッド映画って感じで凡庸だしさ。いつもの私なら通り過ぎてたんだけど、でも、だって……。
ジョニー・デップなんだもおん……。
とかいいながらヒットしてた「カリブなんたら」(調べろよ)は観てないんだけど。それはねー、やはり私の欲するジョニー・デップじゃないって感じで触手が動かなかったのですよ。
本作に関しては、ちらと解説読んで、あ、これは絶対私の好きなジョニー・デップに違いないわと思って。
で、ドンピシャ。これだわ。
もう、このひと言だけで感想終わってもいいぐらいね。「かっ、カワイイ……」
ヤバい。ヤバイくらいカワイイジョニー・デップ。ありゃっ、だって、彼、いくつよ!?それに前に観た映画では、色っぽい男っぽさにメロメロになっていたのに、ここでのジョニー・デップときたら、もおっ、すっごい、すっごい、カワイイ。以上。
あー、もう、本当にこれだけで終わりたいぐらい。

そうそう、スティーブン・キングだったんですね。というのもなんだか久しぶりに聞く気がするなあ。一時期はやたらとキング映画が多かったけど……。有名な話みたいだから、もうイイよね、いきなりネタバレしても。つまりはこりゃあ、二重人格の話っす。何か、原作と細かいトコとか結末が微妙に違うらしいんだけど、原作を読む気もないので映画にそって話をすすめますと……突然訪ねてきた見知らぬ男、ジョン・シューターと名乗るその男が、自分の小説を盗んだだろう、とジョニー扮するモートに迫るんである。しかし最終的にはその男はモートが頭の中で作り出した彼の中の別の人格だったっていう、オチ。
いや、いくらなんでも、そんなに単純にアッサリオチるわけじゃないんだけど……。

と、いうわけなので、ジョニー・デップは作家さんなのね。それも、別に売れっ子シリアス系じゃなくって、通俗大衆系の。そして今は全然アイディアが浮かばなくて、でもそれはスランプなんていうカッコいい感じじゃなくて、なんっか、ただひたすらやる気なくて、ただひたすら惰眠をむさぼっている、ヨレヨレの生活なのね。カウチに身を縮こまらせて、しかもいつも背もたれの方に向かって身を縮こまらせて、寝てるの。脇のところに穴のあいたガウンはおって。
でね、そんなんだから、起きるといつも頭が寝ぐせ大全開で、ボサボサのボッサボサ。金髪に染めているみたいなんだけど、根元から黒髪がかなり侵食してきていてプリン状態。
さらに、マンガみたいなダサダサのメガネ。
ああ、カワイイ……ヤバイくらいカワイイ……。
このヨレヨレがなんでこんなに、なんっでこっんなに母性本能を刺激するのッ!ああ!どこか顔面神経痛気味に口をアーとか開けたり、ピクッと唇を片方上げたりするのさえ、なぜカワイイのだ……参る……別にそう思っているのは私だけではない。劇中で、このモートが宅配便を取りに来た郵便局のセクシーなお姉ちゃんもモートをからかって、彼の去った後「……カワイイ」とたまらなさげにつぶやくんだもの。

オチが明らかになる前は、つまりホントにモートがジョン・シューターに脅されていると観客は思っているわけなので、それに対応するモートのドジというかボケっぷりがまた、やたらとカワイイんである。オチが判ってからは、そりゃまあ彼の中の人格だったわけだし、彼の中でつじつまを合わせているから、そのドジやボケもそれを合わせる為にあったんだと判るけど、そうと判っていないうちは、……カワイイんだよなあ。
例えば、ジョン・シューターを目撃した(とこの時点ではモートが思っている)大切な参考人のトムと刑事さんとの約束の時間に、こともあろうに単純に寝坊してしまったり。 ジョン・シューターが(ま、自分だよね)殺した重要参考人と自分の味方の刑事の死体を見つけたとたんにビックリしちゃって失神し、3時間も起きなかったり。
かすかな物音にもビクビクして、やたらと鉄槌を振り下ろし、「鏡を殺した」「そしてバスルームのドアも」と自嘲気味に独り言を言ったり。
もう、びっくり屋さんなんだから。ああ、カワイイ、カワイすぎる……。

そういやあ、彼は、結構一人でいる時につぶやき系で、まあ最初は愛犬のチコがいるから彼相手に喋っているみたいな感じなんだけど、チコがジョン・シューター(だから、彼自身ね。しつこいか)に殺されてからも、ただただ独りごと言ってフラフラしてる。こういう男は結構、アヤしいかもしれない。
割とだからそう、説明的なこととか独り言で彼に喋らせてて、そういう意味で脚本的に??なのかもしれないけど、それを感じさせない(つーか、ジョニー・デップがカワイイということにだけ目を奪われているせいかしらん……)芝居をするジョニーはやっぱり、凄いなあと思ったりするのね。

なんでモートはここまで錯乱しちゃったのか。それには、この物語の冒頭で示される一つの事件と、それによって彼が置かれている状況が作り出していると言える。冒頭で示されるのは、モートが妻の浮気現場であるモーテルに乗り込んで、銃を振りまわした事件である。そして、現在のモートはこの妻、エイミーと協議離婚の調停中。いや、もっと正確に言えば、その話し合いはもうすんでいるのに、モートは意固地になってサインをしようとしないのだ。もう完全に別居しているし、エイミーはその浮気相手と結婚同然の生活をしているのに、である。モートはとにかくこの男、テッドが気に入らないんである。

なんかね、でも、この元妻も訳判らんというか。彼女はよくモートに電話をかけてくるのね。例えば「なんだかイヤなことがあなたに起きているような気がして、我慢できずにかけてしまった」とかね。確かにその時モートには、あのジョン・シューターが現れていたわけで当たっているんだけど、なんだかいつでもこの調子で、期待を抱かせる、まではないけど、彼女に執着しているモートは常にこれでイライラさせられてるわけ。
彼女は一刻も早く離婚の書類にサインがほしいわけだけど、でもだからモートにしょっちゅう電話している、という感じでも何となく、ないんだよね……何かそこにはやっぱり親密の情が感じられるというか。

だって、彼女の浮気相手のテッドなんて、まるでバカそうなんだもん。うう、ごめんなさい。別に演じるティモシー・ハットンがバカそうってわけじゃないけど(いや、その……)、なあんでこんな相手と浮気したのかしらんって、ちょっと思っちゃう。
まあでも……創作活動に没頭して、一緒に暮らしてても心がいつも別のところにあったモート、しかも最後の二年間は完全にそういう状態だったというし、彼女にしてみれば多少バカでも?いつでも自分のことを考え、愛してくれる相手を欲していたんだろうなあ……。
モートは浮気をしたことを今でもエイミーに当り散らし、このテッドを敵視するんだけど、でも、そんな強気な割に、彼女に頼みごとひとつ出来ないんだよね。だってこの事件、ジョン・シューターにモートの方がこの小説を先に書いてた、って証拠を早く見せてれば問題なかったわけでしょ?まあ、二重人格だったわけだから、そうもいかないんだろうけど……。で、その掲載雑誌は彼女が持ってる、なのにモートはそれを言い出せなくて……。うーん、イライラするッ!これは、ヤキモチかしらん。
彼女からの電話にイライラするモートは時に電話線を引っこ抜いてしまう。実にアナログな、そして音もジリジリとアナログな電話。この電話のベルの音が、物語の展開点のキーになってる、のだな。
この電話線をズルズル引っ張りながら電話に出るジョニー・デップがまたサマになってるんだよねえ……。

作家で、自堕落で、独り言キングで。つまり彼、一人が大好きなくせに、それなのに、完全に一人になることを恐れてる。
なかなか離婚に同意しないのもそうだし、違う人格を作ってしまうのだってそうだ。
寂しいヤツなのだ……彼は。
違う人格によって、妻にチョッカイだして、自分の方を振り向かせようとしたのかな。果ては家に火までつけて。自分だって思いいれのある家だったに違いないのに。

そう言えば全然触れなかったけど、このモートの中の別人格、ジョン・シューターを演じてるのは、ジョン・タトゥーロである。
ミシシッピー訛りというのはエーゴのさっぱりな私には判んないけど、それにしてもなんともはや気色の悪い男。
で、モートが、全て自分のやったことで、このジョン・シューターというのが彼にしか見えていなくて、彼の中の別人格だと判って……その前に彼が彼自身の何人かと自問自答みたいなことを繰り返す場面があるんだけど、鏡をのぞくと正面の顔ではなく、その後姿が映っているのはちょっとゾッとする。
彼には、自分の顔が見えていないのだ……自分自身が。

そこに、エイミーが訪ねてくる。部屋は荒れ放題で、そこここに、“シューター”の文字。そしてドアの影から現れたモート、いやもはや彼はモートではない。“シューター”が、“シュート・ハー”になってる。「彼女を撃て」
エイミーと、後から来たテッドは彼によって殴り殺されてしまう。この時にはもう彼の中にはジョン・シューターしかいない。いや、モートという人格がこの事態に悲観して“自殺”してしまったというのだ。自分が作り上げた人格に殺されてしまったモート……。
ジョン・シューターになってからの“モート”は、髪もきちんと手入れしているし、メガネも今風の細いフレームの上品なものをかけて、実にハンサムモードになって、まるで別人。こういうジョニーもスッゴク素敵ではあるけれど、あのボサボサでキュートな彼がやっぱりカワイかったのになあ……。

彼はゆでたてのコーンをかじる。意味ありげに。死体達(達、っつーのもヘンだけど)が見つかれば、もうすぐ君はつかまるよ、と進言しに来た保安官にも淡々と応じて。そして窓の外を見ると、一面のトウモロコシ畑。
……んん?ひょっとしてエイミーとテッドはコーンの養分になっちまったってこと?
それでも死体は見つかるだろう……骨が残るしさあ……。
川に投げ捨てた死体二つだって、それぐらい予測がつくと思うなあ……。
いや、いずれ捕まる、っていう含みのラストなのかもしれないけど、彼の態度が見つかりっこない、みたいな自信満々に見えたりしたもんだから……うーん。

まあ、とにかく、ジョニー・デップがカワイかったってことだけさ。それだけ。それにしても、ただ顔をドアップに映してるだけの、あのカワイイジョニー・デップがかけらも判んないポスターは、ないよな。★★★☆☆


ジェリーGERRY
2002年 103分 アメリカ カラー
監督:ガス・ヴァン・サント 脚本:ガス・ヴァン・サント/マット・デイモン/ケイシ―・アフレック
撮影:ハリス・サヴィデス 音楽:アルヴォ・ぺルト
出演:マット・デイモン/ケイシー・アフレック

2004/10/26/火 劇場(渋谷ライズX)
うっ……ゴーモンだ……私、結構どんな映画でも割と好きになっちゃう方(と言えば聞こえがいいけど、まあ節操ナシってことか)だと思うんだけど、これは、いくらなんでもヒドいと思う。“許せない”くらい思っちゃうよ……イイ人的な感想、言えない、とても。だって、何かこれって、自分勝手だと思うもの。
もう、ガス・ヴァン・サント監督、観ないぞ!!もともとあんまり得意じゃなかったし。マット・デイモン、あんたもねー……うーん、こういうのが“才能”っていうものなの?判んないなー。
青山真治監督が「体感する映画」とか言っているのを劇場に来てから(貼ってある記事を見て)知ってイヤーな予感はしたんだけど……。青山真治監督っていうのもこの手のゴーモン映画っていうイメージがあって、基本的に苦手だから。でも青山監督の比じゃなかった。も、ヒドいゴーモン。

ぜっっったい、お勧めしない。あ、不眠症の人には勧めるよ。絶対、眠れるもん。日本の観客って我慢強いし礼儀正しいから、どんなにゴーモン映画でも最後まで頑張って観ちゃうけど、頑張っちゃうから観終わった後、カンベンしてよ……って思う。他の国ではさぞかし席を立たれたんじゃないのと思っちゃう。
大体さあ……これだけ高名な監督が、さまざまな映画祭に本作を出品しているというのが、公開のためのハクをつけるためだけのように思えてならない、というのは、言い過ぎなんだろうか。
だって、それぐらい、一般的観客から遠く乖離しているんだもん。
それに賞を受けてるの(というか、ほとんどがノミネート止まり)、撮影賞ばっかだし。そりゃ撮影賞はとるでしょー。これはガマンくらべの撮影だもん。

ああ、腹立ちまぎれにメチャクチャに言っちゃった……でも、確かに、やりたいことは判る。すごおく、判る。私はガス・ヴァン・サント監督がそんなに他の芸術にも多方面に才能を発揮している人だと知らなかったけど、そういう人だからこそ、映画で出来る可能性を追及したいと思ったのかもしれない。でも……多方面にも才能があるなら、これはそっちでやってよ、というのが正直なところだなあ……。
二人の青年。あてどもなく砂漠を歩き出すまでも延々、車がその道をゆっくりと運転する様子が、もう本当に延々、映される。この時点で既にイヤな予感はふつふつと……でもまあ、この時点ではまだこのゆるやかさに、そう、“ゆるやか”だというぐらいの余裕はあったのだ。
何をしに、何のために彼らがこの砂漠に入り込んだのか判らない。休憩のために、とストーリーには記されているけれど、そんな風には思えないし、とぎれとぎれの会話からも、漠然と何かを目的にしているように匂わせている。そんな理由はいらないのかもしれないけれど。
つまりはこの、世界観、閉塞感だけが必要だったのだ。あまりに息苦しい閉塞感。こんなに果てしもない砂漠なのに。地平線が見えるぐらいの広さなのに。ここから出られないという閉塞感。
つまり、彼らが生きたいのは、閉じこもった、狭い、ゴチャゴチャした、空気の悪い、文明の世界なのだ、という皮肉。こんな広いところで息苦しさを感じる……水がなきゃ、どんなに新鮮な空気のあるところでも苦しげに口をパクパクさせる魚みたいに。

……というような、世界を描きたいんだろうな、と。それは判る。判るんだけど、これに対して安易に美しいとか言いたくない。だってだって、ゴーモンなんだもん。
他の芸術でやってよ、と言っちゃったけど、そりゃまあ……その息苦しさをここまで体感できるのは映画でしか出来ないんでしょ。でもさあ……それに観客巻き込まれるのはちょっとさあ……体感アトラクションじゃないんだから。
そうだ、これはもはや体感アトラクションじゃないの。映画っていうのはある一定時間拘束されるものだから、エンタメじゃなくったって、やっぱり条件が違うんだもの。
スクリーンの観客を考えてないわけじゃないでしょ?うーん……考えてないのかも。だって、実験映画の原点に立ち戻った、とか言ってるんだもん。原点?でも、原点に戻るのだって、今の立場で撮るんなら、責任だってあるし、客観性だって必要なんじゃないかしらんと思っちゃう。

ここから、あの「エレファント」が始まったんだという。思えば「エレファント」も判りづらかった。説明を一切はぶいてて、ま、説明的映画よりはいいけど、でも意識的に省いて、意識的に理解を遠ざけようとしている感じがあった。
でも本作には、説明できるだけの要素すらない、んだよなあ……。
あまりにも何の展開もないから、二人がたまーに交わす会話に必死に耳を傾けたりするんだけど、それはこの旅に対する疑問を何も解消してくれはしない。
ナントカ王国を征服したとかいう、ゲームの話とか延々としてる。
こういう“若者=ゲーム社会の汚染”みたいな図式は、「エレファント」にもあったけど、どうも短絡的過ぎる気がしてしっくりこなくて、ますます心が遠ざかる。

私は、基本的に長回しが苦手です。長回しを使っただけでホメられるような風潮もキライだから。
だって、こういう感じなんだよ?黙って歩いている二人の横からのドアップを延々映してるの。ここはもう、かなり後半、二人が焦り始めているのが判る。でも、そんなの、長々と映さなくっても判る。もういいよ、というぐらいに、このドリー撮影をやめない。ドリー撮影を自慢しているみたいにやめない。フレームに二人を同じ位置でつかまえ続ける……絶対、あのカットだけで5分じゃきかないよ、10分はあったんじゃない?いくらなんでも長すぎだよ……。
そんで、疲れ果ててぼーぜんと座り込んでいる男の子の周りをゆっっっくりと回るカメラ。そのいやらしいぐらいのゆっっくりぶりにもウンザリしたけど、このカメラってば、一周してもやめないから、おーい!もう一周したからいいでしょー、もう判ったよ!と慌てて叫びたくなっちゃう。結局一周半してようやく次のカットに……ゴーモンだよ……。
そして、極めつけ。夜明けの暗いうちからだんだんと明るくなる時間帯、距離を置いて歩く二人は数ミリずつしか動かないっていう画。これはやりたい、っていうの判る。確かに、リアルに、ナマに、時間を感じさせる。確かにその画としては美しい。目を凝らさなければ判らないほどの闇の中、確かに二人の影がゆっくりと動き出し、それがじりじり、じりじりと明るくなってくる、という……でも、それを、ここまで付き合わせる必要がはたしてあるのかっていうとさ……。
だってこれ、絶対20分近くは回してるよ。
途中目をつぶって20とか30数えちゃったもん。そして目を開けても全然場面は変わらないし。ほっんとうに、疲れた。これを凝視し続けるの、絶対身体に悪いよ……。

こんな描写が三日三晩分続くのだ……。
こういう、恐ろしいほどの長回しは「ヴェルクマイスター・ハーモニー」などを思い出すけれど、あの作品は長回し自体がスリリングで、そのつなぎ方にリズムがあったのね。だから、この長回し拒否症の私でさえ、やられた!って思った。
でもこんな、長回しのギネス記録挑戦!(そんなギネスはないか)みたいなやり方はホント、やめてほしい。その“記録”をただただ並列つなぎにしている。映画のリズムはどこに行っちゃったの?
大自然に点景のように二人の男性が小さく映りこむのは、確かに魅力的な図柄だとは思うけど、それをずーーーーーーーっと観せられるこっちの身にもなってほしい。大自然の美しさなんて、それこそそこにナマで行った場合のそれに勝るわけもないし……ここの劇場、スクリーンちっちゃいし……。

二人はお互いを「ジェリー」と呼び合い、何かというと「ジェリー」と使って、そこに色んな意味を込めている、らしい。基本的にはネガティブな意味において使っているらしいけれど。
でも、なあんか、この、何でもかんでも「ジェリー」と片付けるのにもだんだんウンザリしてくるのは……この長回しの繰り返しに疲れ果てているせいだとは思うんだけど。「ジェリッた」(ドジった、という感じらしい。まあ、日本語字幕だけどさ)と何度もイライラしたように使われると、あー、もう、判った判ったとか言いたくなる(ホント、疲れてるな……)。
まあ、でも、ネガティブな意味が込められているらしい、このジェリーという言葉を、互いへの呼びかけにも使っているという皮肉が、すこうし気になったりも、しないでもない。
二人は仲良さそう。友達、なんだろうと思う。でも友達……一体こんなところにこんな軽装で何しに来たんだろうと思う。車を置いて歩き出したのはなぜ?百歩譲って本当にちょっと散歩するぐらいの気持ちだったとしても、この砂漠に、まるでコンビニにでも出かけるようなスタイルで車で乗り入れたのも、なんだか非現実めいていて。

こんな、場面がある。突然、とても登れそうにない岩場で降りられなくなって、立ち往生する一方の“ジェリー”。
相手を探すために、勢いで登ってしまったんだと言う。
“勢いで”というには、あまりに突拍子もないほど大きく高い岩。その岩が突然そこにあること自体、不思議なくらい。
やけにリアルに生々しい砂漠での迷い子に見えて、もしかしたら最初から、お伽噺のようだったのかもしれない、と思う。
ここから彼がようやく飛び降りるまでの描写も、長−い、長ーい、長回しなんだけどね。

歩き続ける二人。もうダメッてくらい疲れ果てて(観客も、疲れ果ててる)幻想まで見はじめる。でもその幻想も、希望的なことを言ってくれるもう一人の相手が見えるという幻想。結局最後まで、二人以外の人間が現れない、この息苦しさ。
そして、倒れこむ。もう、ダメだ、と言う。一方が、一方の“ジェリー”に手を伸ばす。そうすると、それに呼応したかのようにその手を伸ばされた方の“ジェリー”がもう一方の“ジェリー”にのしかかる。
首に、手をかけている。組み倒されてもがく“ジェリー”。首をしめ続ける“ジェリー”。
二人は二人に見えながら、ずっと自分自身と会話していたように思えてくる。二人いても、迷い続けるだけだった。どんどん、迷宮に入っていくだけだった。それは飛躍のない、二人だったから。あの岩場に登った“ジェリー”も、もう一人の“ジェリー”が助けることは出来なかった。結局、“ジェリー”は自分で飛び降りた。

一人の“ジェリー”が殺され、殺した“ジェリー”は歩き出す。ずっとずっと、歩いてゆく。しだいに、ゆらめくように遠くに小さく見えてくる幹線道路。この道路を目指して二人はずっと北に歩き続けていたのに。もう少しだけガマンしていれば、二人は助かったのに。
二人、本当にいたんだろうか。道路という文明の世界に出るために、この砂漠に放り込まれた“ジェリー”が通過しなければいけない儀式だったのか、それとも、この閉塞の中に、二人でいるのさえ、耐えられなかったのか。
こういう、遠くに小さく見えてくるスリリングって、「アラビアのロレンス」にあったよなあ……などとエラく古いことを思い出したりして。でもあれは、その他の部分がスペクタクルだからこそその場面が生きてたんだ。その全編に渡ってこういう状態だと……やっぱりキツい。

こういう、もはや観念的な領域にまで達する世界を描くには、また他に方法があったような気がしてならないんだ……だってこんなに、ガマン強くないんだもん。疲れた……。★☆☆☆☆


69 sixty nine
2004年 113分 日本 カラー
監督:李相日 脚本:宮藤官九郎
撮影:妻夫木聡 安藤政信 金井勇太 水川あさみ 太田莉菜 三津谷葉子 新井浩文 井川遥 村上淳 星野源 加瀬亮 与座嘉秋 三浦哲郁 柄本佑 瀬山俊行 桐谷健太 澤田俊輔 宮内陽輔 嶋田久作 峯村リエ 豊原功補 森下能幸 小日向文世 原日出子 岸部一徳 國村隼 柴田恭兵

2004/7/20/火 劇場(丸の内東映)
うーん、何だかエッチなことを想像させるタイトル!?まあ、そのあたりも計算上なんだろうなあ。未読である村上龍の原作には興味が湧くものの、なんとなーく離れたところから妙に冷静に観ている自分自身がツマラナイ奴だと思う。画面分割なども多用した、疾走するスクリーンはすっごく楽しそうなのに、なぜだろ、とそればかり考えていた。あー、入り込みたい、あー、ハマりたい、何でこんなに冷静に観てるのって、思って。

つくりとしてはホント、隙がないと思う。その面白さはあくまで好感の持てるそれで、寒くもなければ引きもしない。このあたりはさすが才人脚本家のクドカンの力量だと思いはするものの、その隙のなさがプラスティックの壁みたいに立ちはだかって、こっちの気持ちが入り込めそうで入り込めないような、寄せ付けない薄い圧力を感じてしまう。クドカン脚本って、その色から監督の色に塗り替えるの、ホント難しいと思う。クドカンの脚本はクドカン監督作品と言ってもいいんじゃないかっていうぐらい。あの行定監督でさえ、「GO」ではやっぱり行定作品というよりはクドカン作品と言った方が正しかったし……で、息がつまるとまでは言わないけど、それと似たような感覚……最後に観客が入り込んで仕上げる、みたいなヌケの部分がないのがツライなあ、と最近クドカン脚本作品に思うようになってしまっていたことを、ハッキリと今回、気づかされたのね。

それを、妻夫木、安藤両主演の二人がさらに鉄壁なものにする。特に妻夫木氏は、その無敵の笑顔のチャーミングは、邪気の全くないこのハッタリ高校生、ケンにピッタリ。ピッタリ過ぎて、完成されすぎてて、もちょっと抜いてくれよと思ってしまう。特に彼、ずーーーっと主役出ずっぱりでしょ?そろそろ観る方もちょっと疲れてきちゃったのよ。彼が主演であることに。安藤君みたいに、たまにはピリッと脇役、にも回ってほしいと思う。ある意味何でも無難にこなす彼に、少々観疲れしてきちゃって。

「1980」でもそうだったんだけど、時代の共通語をバーッと羅列して、懐かし印をつけるようなやり方も、少々ついていけないものを感じる。特に、ケンがアダマを仲間に引き込む場面の、カルチャーの知識を押し付けるようなケンのもの言いには、今でもこういうヤツ、ヤだなと思っちゃう。この時代を肌で感じさせるには、顔の売れまくっているスター共演だと、難しいものがあるのかも。そういうのを小道具として使いつつ、高校時代の何かとてつもなく楽しい気分、という普遍的なものを描いているということなのかしらん。体罰教師とのくだりは、まあ、あんな教師は今はいないから、その点だけは少々時代的な反体制を感じなくもなかったけど。

実はね……ケンのキャラクター自体、少々私にとってはニガテ印。演じる妻夫木氏は確かにチャーミングだし、憎めないヤツではあるんだけど、平気で要領よくウソついて、それが罪にならないようなタイプの、こういう、学校の誰もが知っているキラ星系って、ニガテなんだな。それを特に感じたのはラスト(もうラスト言っちゃうのかよ!)、ケンが体罰教師に説教くらっている時、そのケンと同調して学校側に3年生全員が反発する場面。「マス・ゲームとグラウンドの清掃の廃止を要求する!」っていうほどに、皆がそれを嫌がっていた描写がなかったこともピンとこない大きな理由だったけど、つまりは彼らがケンを自分たちの代弁者みたいに思ってそういう行動を起こした、という流れで、それもどうも、書き込み不足だなって気がしたのだ。っていうか、私だったらあの場にはいないわ、多分。彼みたいなキャラには同調できないもん。ま、つまりは私が単にクライってだけなんだけどさ……。

ケンは、とにかく楽しいことをやりたいってことしか考えてない。彼自身もそう言っているし、その行動自体もそうなんだから、彼を自分たちの代表みたいに押し上げる描写にムリがあるのはそれこそムリからぬことなのだよね。この映画のメインになっている、ケンが突然言い出す“バリ封”(バリケード封鎖)にしたって、そう、イワセがいうように、主張も何もない、ただその行動だけをする、なぜって楽しいから、ということで。あのね、この場面には少しばかり期待があったのよ。予告編で見てたから。こういうお気楽系高校生が、半ば思いつきのようにバリ封して、そんでどういう展開になるのかなあ?って思ってたら、夜中じゅうかかって“バリ封”風の施しをして、で、翌朝騒ぎになった時にはその場にいないんだもん。これにはかなり拍子抜けしたなあ。これってバリ封というのか?って。その場にいないんじゃ……えっらい無責任だよなあ、ただのイタズラじゃん、って。

まあ、確かにただのイタズラなんだよね……ケンがこれをしたいって思ったのは、夜中に学校に忍び込んで、それ風のラクガキやらなんやらする、そのスリリングが楽しい!と思っただけだし。そういう、夏休みのお楽しみ的な感覚、判らなくはないんだけど……でもそういう事件が生徒たちに体制(学校)への反発心を鼓舞させて、そのことにケンもしてやったりの表情を浮かべる、だなんて、何か違うんじゃないのと思っちまったりする。うーん、でもケンも無意識にそういう部分での成長をとげてたということなのかなあ。確かにね、あの体罰教師に対する目つきは尋常ではないものがあったけど……それこそ最初は逃げてばかりいたのに、あの時は落ち着きはらって、凄い目つきで見据えてたもんなあ。

ケンのそういう、成長の部分っていうのは、ビミョウなのよ。あのバリ封事件でアッサリリーダーがケンだってバレちまって、警察でしぼられ、しばらく停学になり、っていう事態になるでしょ。でもその時ケンは、まその場ではそれなりにショックは受けるんだけど、謹慎中はまるで夏休みみたいなお気楽な過ごし方してて、この経験によって何か考えるところがあった、というのがまるで見えないの。ま、それがケンがケンたるゆえんなんだけどさ……。でもバレた原因になったイワセや、義理がたいアダマなんかは、すっごく悩んで、考えて、多分その後の人生が変わるぐらいなコトになったっていうのに。イワセはね、彼のキャラっていうのは、演じる金井勇太がその風貌からもうピッタリで(何か、「青春デンデケデケデケ」の永堀剛敏を思い出すなあ)私としては、彼にこそ、シンパシィを感じちゃうんだよなあ。ケンとアダマに憧れてて、パシリを買って出ているような彼、いざって時にドジッて、迷惑をかけてしまう自分に自己嫌悪しきりの彼に。

アダマの方が、クールだし、思慮深いし、イイ男のキャラに属するんだと思う。ケンはアダマがヒドいなまりだ、と再三言うけれども、長崎なまりの判らないこっちとしては、ケンのなまりもアダマのそれも、大して違わないようにしか聞こえないんだな。アダマもフツーに女の子は好きだけど(というか、イケてない女の子に対して「ゴリラ」とか評価厳しすぎ!)、ケンはそれに対してあまりにも正直すぎて……ケンの行動ってのは、もちろんやって楽しいってコトが第一にはあるんだけれども、自分の憧れてるマドンナがきっかけってことも大いにあるんである。英語劇部に所属する通称レディ・ジェーンと呼ばれる松井和子。彼女が言ってもいないことを妄想して、バリ封も決行したんだから。確かにこのコぁカワイイよねー。ちょっとホレちゃうなあ。この長っ細い手足にキメの細かいお肌、ケンの妄想の中で、バラの花びらの中歩いてくる場面の、何と可憐に美しいこと!でもこの松井和子とは、彼女からアプローチがあったにも関わらず、キスひとつしないのね。「ジョゼ虎」でエロエロな妻夫木君だったから、思わず意外!と思っちゃったりして?

うん、脇役はなかなか面白かったなあ。ケンのお父さん役の柴田恭平がまず良かった。画家という設定が、ああいうニュートラルな父親像を生み出しているんだけど、それにしても、バリ封して、警察に拘留されて、校長に呼び出された息子に対して「下を向くな、卑屈になるな、まっすぐに前を向いていろ」だなんて、ナカナカ言えないよ。だあってさあ、こおんなイーカゲンな息子を信頼できるなんて、凄いと思っちゃうし、そういう風に信頼されたことでそのイーカゲンなケンもまた、思うところがあったんだと思うし。

街のマドンナをフェスティバルのメインキャラクターに引っ張り出したことで生じたトラブルで顔を合わすことになる、番長役の新井浩文との対峙場面がかなり好き。それにしても妻夫木VS新井浩文っていうのは、何度目?ってぐらい……縁があるんだよなあ。悪いけどやっぱりこういう役柄がハマるのよ、新井氏は(笑)。そしてこの場を仲裁するコワーイお兄さんで出てくるムラジュン、彼は確かに優等生タイプの役者ではないけど、こういうまんまチンピラが似合うとまでは思ってなかったから結構ビックリ。でも、トマトジュースで兄弟の盃を交わさせる、ビシッと仕切るムラジュン、めっちゃカッチョ良かったなあ!

そしてそして。ケンの担任である岸部一徳がやはりね。さっき言及した「デンデケ」でも、彼自身がGSだったのに、「ユーアーマイサンシャインより、長崎(!)の人の方が好きや」と言っていたのが印象的だったけど、ここでも、教え子であるケンが、お母さんに「(テレビに)ジュリーが出ているよ!」と(もちろん実際は長崎弁でね)叫ぶシーンが、あ、ということはそこに岸部さんもいるんやん!と思えて、しかも劇中の岸部さんは、そいういう新しいことは自分にはよう判らん、みたいな態度で、そういうのってかなり面白いのよね。このあたりの遊びは絶対確信犯的だよなあ。そういうことやりたくなるもん、やっぱりこういう時代の映画に岸部さんを出したらさ。

まあ、そんなとこですかね……のめり込みたかったなあ、少し、それが残念。★★★☆☆


死に花
2004年 120分 日本 カラー
監督:犬童一心 脚本:小林弘利 犬童一心
撮影:栢野直樹 音楽:周防義和
出演:山崎努 青島幸男 谷啓 宇津井健 長門勇 藤岡琢也 松原智恵子 星野真里 加藤治子 小林亜星 吉村実子 白川和子 岩松了 土屋久美子 ミッキー・カーチス 高橋昌也 鳥羽潤 戸田菜穂 大和田獏 依田司 大石美佳 大下容子 森繁久彌 中森祥文 中村靖日 佐藤佐吉 枝光利雄 小川俊彦 山田良隆 長沢一樹 大沢ちさと 吉田能里子 ポール・カミンスキ 北村英治 江草啓介 稲葉國光 近藤和紀 野口武都 足立信彦 猪岐英人 鈴木亮平 佐藤愛子 高橋のぞみ 小花幸彦 幸将司 折原凛 高橋香おり 赤山健太 近江テツヒロ 菅原実里 小笠原美博 川村謙介 水谷浩久 山藤実花 藤本恭子 村山昌子 昼間忠久 近藤久美子 佐野福美 加納恵美子 窪田節子 黄田明子 窪田かね子 澤登ひほり 梅岡南斗 中谷諭紀 近藤淳子 三矢澄子 松本君子 守屋まり子 佐藤久子 鈴木三四子 中野寿美子 佐藤肇 斎藤豊子 児玉理一郎 山田照子 水瑠イキ 熊谷伊勢子 柴田敬介 足立知恵子 田中保則 鈴木久美子 加部純夫 井上弥子 四家絵捺 高橋明莉 武藤正人 麻貴まき 二葉緑 川本浩司

2004/5/21/金 劇場(丸の内東映)
犬童監督、大メジャー映画!うわあああ。東映という以上に、この真の、凄すぎる映画スターたちの競演がまず凄いッ。メインの山崎努、谷啓、青島幸男、宇津井健、松原智恵子、だけでも凄いのに、だってだってだって、森繁久彌まで出て来るんだよッ!
はあ、興奮してしまった。キラキラしてて切ない青春映画、のイメージの犬童監督が、こんなキャストで撮るなんて思ってもみなかったけど、でもこういういわゆる“老人映画”(失礼な言い方かな……)でもカラッと、そしてふわっとはじける犬童監督。嬉しいなあ。

昔はとにかく若者が全盛で、こういうことが論じられることさえそうそうなかったと思うんだけど、人口におけるお年寄りの比率がアップするごとに、非常に語られるようになった。
第二の人生。生き様ではなく死に様。
メインになるのはこの老人ホームのジーサン四人がひと花咲かせましょ!と決行する銀行強盗である。完璧な計画に基づき、押し入るのではなく、地下から穴掘って金庫に辿り着き、ゴッソリせしめようというんである!
その計画を授けて亡くなった源さん(藤岡琢也)が、そもそもこのジーサンたち、あるいはここの老人ホームの入所者たちに、さざなみをたてたのだ。彼は本当に、死に花どころか、大花火を打ち上げて亡くなったから。

まあそりゃ銀行強盗ってのは凄いけど、そう……老後の生きがい、っていうなら、よくありがちな話なのかもしれない。でもここではもう一つ語られることがあって……老人になってからの恋愛や、セックスなんである。
死んでしまった源さんがまず皆に強烈な印象を与えたのは、生前に計画し、彼の流儀で行われた陽気なジャズ葬であったんだけど……これは本当にステキだったんだけど、もっと、本当にドギモを抜かれたのは、その後だったのだ。
源さんには、ラブラブの恋人がいた。一緒に入所している貞子さん(加藤治子)。少女のようにはしゃいで彼に寄り添う彼女にテレつつ応える源さん。誰もが微笑ましいカップルと見ていた。
あの日、源さんの死に意気消沈しながらも、菊さん(山崎努)の差し出した手をとって源さんに見守られながらダンスを踊った貞子さんだったんだけど、何と、何と彼女は!
荼毘に伏された源さんの遺骨を引き上げてみると、そこには二人分の人骨があったのだ!!

だって、もう、この年になると、本当に最後の恋人、だ。いくら人生最後まで判らないって言ったって、70になって新しい恋なんて考えられない。それに本当に本当に好きだった源さんについていこうと思ったであろう貞子さんを思うと……。
男たちは源さんをうらやましがり、女たちはそこまで最後の恋人を好きになれた貞子さんにショックを受けながらも讃える。
菊さんと、彼の親友の嫁さんだった鈴子さん(松原智恵子)はもともと惹かれあっていた二人だった。このことをきっかけに、二人の距離は急速に縮まり、温泉旅行に行ったり、するんである。
そして、ソウイウ場面も出てくるんである!
おっど、ろいた。恋愛のみならずセックスにまで踏み込むとは、と。でもそれは確かに切り離せないものだし、大人といったらこれ以上大人な人もないんだから当然入り込む領域なんだよね……でもビックリ。
バスの中のキスでもう既にビックリしてたから(でもロマンチック)、松原智恵子がここまで肌を出すとは、ということに(ここまでってほどでもないけど、充分あられもないことを想像させるじゃない)さらにビックリするのである。

そういえば、最近、あったじゃない。老人ホーム内での恋愛を他の入居者が拒否したために、思いつめたおばあちゃんがおじいちゃんを殺してしまった、っていう事件。
やっぱりどんなおじいちゃんおばあちゃんになっても、恋愛ってあるんだ、と思っていたところにこの映画がきたもんだから、何か凄く……考えちゃったんだよね。
特に女性としては、男性は女が若ければ若いほどいいんだよな、なんて思ったりしていたから、同じく年をとった同士の恋愛がきちんと成立するんなら、それはいいな、ステキだな、って思っていたのだ。
最後の最後に、誰かをすごおく好きな気持ちを持っていたら、本当に幸せな人生の終焉だと思ったから。そしてそれを体全体で感じることが出来ていたら……更にステキだと思ったから!

えっと、銀行強盗の話に戻そうね。
この四人がまずそれぞれ個性的な、強烈なメンメンなんだけど、私は特に青島幸男が好きなのだ。彼はこんなジーサンになっても女ったらしで、千人斬りまであと54人!とか言ってるスケベなじーさん。
でも何ともいえずチャーミングでさあ、彼に抱きつかれてお尻モミモミされたり、人工呼吸とはいえ何度もキスできる星野真里がうらやましいッ!!
あ、でも、そうそうジーサンなんて言うのは本当にはばかられるというか……ここに出てくる老人キャストの大スターたちは、普段とてもそんなジーサンには見えやしない人たちばっかりなのに、ここではすっごく、ジーサンなのね。髪も多分白くしているんだろうけれど、それだけではなく、本当に、ジーサンオーラなの。
役者だから、とはいえ、コレは凄いと思った。役者にとって老醜って……しかも年をちゃんととっててのリアルな老醜って、きっとかなりヤなもんだと想像できるから。
でも、だからこそ、そのジーサンたちが泥まみれになってハンマーをふるう、その姿に力が入るのよ。くそう、ジーサン、カッコいいぜ!って。

勿論、必死に掘り続ける一生懸命さはあるものの、そこは人生を生きてきたジーサンたち、いーい感じのユルさもあるのがステキなのだ。
ホームレスを仲間に巻き込んで、その彼には山のような桃の缶詰が報酬(笑)。これがなきゃやってられないだろ、と、ハンマーだのウォータージェットだのを調達する時既に、どっさりと缶ビールが用意されているんである。そして、ちょっと掘ってはビールで乾杯。休憩してはビールで乾杯。いいなあ、めっちゃ楽しそう。
だって、これほど美味しいビールって、ちょっとないんじゃない?こんな美味しい状況って。

だから、ひょんなことから穴池(青島幸男)の後をついていって彼らの仲間になっちゃう星野真里がうらやましいんである。まあ、「何か、凄えなあ、年寄りって!」という台詞はちょっとワザとらしい響きがあるけど……(これは役者の問題かな??)。
でも彼女だってさ、つまりは年寄りになれば年寄りらしくおとなしーくなるもんだと、何となくそんな風に思っていたと思うんだ。若いうちってだって、想像できないもの。大人のことだって判んないのに、それ以上の、お年寄りがどんな風に考えて生きているかなんて。
でも、きっと変わらないのだ。一緒なのだ。だからこんな風に仲間にもなれる。こんな楽しい共犯って、ない。
この映画の狙いはひょっとしたらここにこそあるのかも、とも思う。たまたま入り込んだ若者一人。でもそこには境界線はなくって、それはつまり、同じ人間同士だから。そして仲間だから。
それがきっと、今の人間社会には出来ていないと思うんだ。いや今のというか、これまでずっと年齢間は隔てられ続けてきた。無論目上の者に対する尊敬とか、そういう面では必要なことではあるんだけれど、でも一緒に生きているのに、そんなのって、つまらないじゃない?

もう少しで金庫に掘りあたるよってところで台風が襲ってくる。土嚢を積みに菊さんが向かうんだけどなんと彼は……自分が何をしにきたか、忘れてしまうんである!
豪雨の中呆然と立ち尽くす菊さん。心配した仲間たちが集まってくる。
もうとっくに……あんなに皆で汗水たらして掘り進んだトンネルが水没してしまっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!!」とズブ濡れになりながら地面に頭をこすりつける菊さんが……辛すぎる。
ずっと、兆候はあった。彼はボケが少しずつ襲ってきていることを、自分でも自覚していた。必死に必死にボケ防止の手の運動などしてたけど、数さえ満足に数えられなくなっていた。
そしてこんなとりかえしのつかないことになってしまって……仲間に申し訳ないし、自分が情けないし、彼の心情を思うと、もう、もう……。
でもね、神様は味方してくれたんだ。その後のクライマックス。これが凄いんだ!

なな、なんと、その銀行がぐらり、ぐらりと傾き出したんであるッ!ピサの斜塔みたいにッ!つまり、そのトンネルから急速に入り込んだ水が、持ち上げたのだ!!
彼らの努力はムダじゃなかったどころか、最大の力を発揮してくれたのだ。
ビルの根っこの、亀裂が入ったところから死に物狂いで掘り続ける皆。途中ふっと休憩する時の穏やかな時間にちょっと涙しそうになりながらも、とにかく時間がない。掘れ、掘れ!掘れ!!

ビルが隅田川にドボーン!と沈み込むハリウッド映画ばりの画と、「ビルを倒壊させて17億強奪!」のニュースに、すっごい、爽快感。最高!
確かに「凄えなあ、年寄りって!」ここで言ってほしかったね!

このお話にはもうひとつ、オマケがある。彼らが掘り続けて、カツンとまず行き当たったのは……防空壕だった。子供も含めた無数の人骨、遺品が出てくる。その中には写真があった。
その古い写真をクリアに復元してみるとそれは、入居者の中で最長老の青木さん(森繁久彌)だったのだ。
つまりは、源さんは銀行強盗として彼らをノセながらその本当の目的は、青木さんの一生抱え続けてきた悔いを癒してあげることだったのだ。
防空壕の中に閉じ込められた家族。一人生き延びてしまった自分。
手渡された遺品と写真を手に、彼は震えるようにつぶやく。これでやっと一緒に……、そう繰り返す。
涙が、出るんだ。彼がなぜこの99歳まで生き延びてきたかの理由がきっと、ここにあったんだと、そう思い当たったから。
確かにそれは哀しい生き方なのかもしれないけど、でも、でもたまんなく、美しい、って思う。
森繁久彌だもんなあ。彼じゃなきゃ、できないよ。

最後のシーンは、菊さんが子供に戻ってゆく。少年の頃のまま、河原ではしゃぐ。それを鈴子さんと仲間たちがどこかほろ苦く見守りながら、鈴子さんは手をふって駆け寄り、仲間たちは彼に向かって歩いてゆく。
こんな風に心が解放されているのなら、ボケも怖くないかもしれない、と思う。
だってこの彼も、何だかとても美しかったんだもの。★★★★☆


下妻物語
2004年 102分 日本 カラー
監督:中島哲也 脚本:中島哲也
撮影:阿藤正一 音楽:菅野よう子
出演:深田恭子 土屋アンナ 宮迫博之 阿部サダヲ 小池栄子 荒川良々 本田博太郎 篠原涼子 岡田義徳 矢沢心 生瀬勝久 樹木希林

2004/6/3/木 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
もおー、何から書いていいか判らない。こうアタリが続くとホント困っちまうね。フカキョン、最高、土屋アンナ、最高!あんたらみたいな友情を築きたいよ、本当に!

まずはこんなビジュアル先行みたいなお話に、原作として小説があるっていうのがかなりのオドロキなんだけど。だってロリータファッション全開の桃子と「夜露死苦」的なヤンキーであるイチゴってだけでもう、強烈なビジュアルじゃない?それだけでもスゴイのに、この下妻というステキなクソ田舎(褒めてるのよ、褒めてるのよ、当然!!)の、どこまでも続く田園、ではなく田んぼ風景に、牛がウンコしてるだなんて、もうたまらなく映画、じゃない?(映画的とは……言うまい)。
基本的にはイナカモノの私には結構ツボなところも多いのよ。レディースのイチゴの服を買うのがジャスコだと聞いた桃子が思わず、「やっぱりジャスコなんだ……」とフクザツな嘆息をもらす。街中の人がジャスコ礼賛、ここで皆お洋服を買っているから。いや、ジャスコは素晴らしい。田舎人にとってね。ジャスコ、サンロード、サティ!でしょ。判るんだなー。それと、コンビニはホットスパー。一瞬映るだけだけど、コンビニはホットスパー!なのよね。
一時間に二本の電車。あのー、うちの実家もそうなんですけど……街(駅前)に出る電車が一時間に二本なのよ。こういう感覚も判る判る!ってね。今ではすっかり住宅街になっちゃったけど、私が小学生の頃はこおんな感じに田んぼだらけだったし。何か嬉しくなっちゃうのよ。あ、牛はいなかったか……。

うん、やっぱりこれは桃子役のフカキョンを得ての物語だって、思う。相棒の土屋アンナもコワいくらいのはまりっぷりだけど、フカキョンがね、彼女のロリータはだって最高でしょ。こりゃあ、田中麗奈じゃできまい(私もシツコイ……)彼女はトンでるところのあるコ。それこそが女優の資質。麗奈ちゃんのような優等生がやったら、ヌケがなくて見ててツラいのよ(だから比べる必要は……ないんだけどね、そりゃ)。
劇中で桃子が、大好きなBABYのお洋服を買うために父ちゃんをだまくらかして金をせびりとる場面があるじゃない?かわいい娘のベタウソに涙を流して騙されるお父ちゃんも大好きだけど(宮迫さんってば……)それを受けて「私、根性腐ってます」と、にっこりロリータを驀進するのは、そう、やっぱりフカキョンじゃなくちゃあー。こういう毒が、もともと彼女には備わっているのよね、麗奈ちゃんにはないけど(だからしつこいってば)。
フカキョンがこの桃子役について解釈している、“洋服で武装してるような感じ”っていうのは、うん、実に彼女判ってるのだ。

桃子の生い立ちから追ってゆくこの物語。父親はヤクザで母親は水商売の女。指をつめられる段、「ピアノが弾けなくなるう!」と泣きを入れる場面でそのナサケナサが判る父親。一方ノリで子供を作っちゃったような母親は出産間際でうんうん言っている時に、その主治医とデキちゃうというヤリ手の?女。昔から冷めてる子だった桃子は、母親がこの医者の方を選んで家を出て行く際にも、「女としての幸せを追うには(その年齢は)ギリじゃない?」とクールに送り出す(うう、私もギリだな……)。元々住んでいた関西から父親が事業に失敗して祖母のいる下妻に移り住むも、大好きなBABYの本店がある東京、じゃなくて関東ということで大喜び。しかしそう、下妻は東京に出るのは非常に、非常に困難なド田舎だったのだ。
しかし、そんなことで桃子はメゲない。桃子にとってはどこに住んでいるとかは問題ではなく、自分が自分でいることが重要なんだから。こんな田んぼで牛いても、平気でロリータしてるんだもん。たとえそのウンコを踏んじゃっても!
父親が昔みたいにバリバリカネを稼いでいないから、何とかしてお洋服を買う資金を捻出しなければと考えたのが、父親が昔作って在庫の山を築いているベルサーチのバッタモンである。劇中ではピー音が入ってるけど(笑)。
それを小学生もかくやと思われるほどのキッタナイ字でお手紙書いて買いに来たのが運命の相手、イチゴ。改造しまくりの原チャリでパラリラ鳴らし、特攻服着たバリバリのヤンキーだったのだッ!

本作の面白さに、合いの手のごとく入れる桃子のモノローグがあるんだけど、それがまず際立って登場するのがこの二人の出会いのシーン。なんせイチゴはレディースだから、キミョーに乱暴丁寧なコトバを使う。それを桃子が、間髪いれずにカメラを振り返ってツッコむのが絶妙なんだなあ。最後には「……時代劇!?」爆笑ッ!
そんで、イチゴはバッタモンだというのにベル○ーチに大興奮。バッタモンだっていうのに、「ベル○ーチが二千円のわけないだろ!」と逆ギレ。だけど「……二千円にしてもらえると助かる」そしてそして、「あんたには借りが出来ちまったぜ」!!!
すごい、すごいな、こんなにもこんなにも思いっきり対照的なのに、この二人の会話が成立しているのさえヘンなぐらいなのに、もう既に確信しちゃう。「この二人、キッチリマブダチになるぜ!」ってね。
この後さまざまに展開される二人の怒涛のぶつかり合いが着々と友情を築き上げる様は、まさしく見事というほかないのだッ!

イチゴの方が先に桃子を気に入って、何かにつけ彼女の家に入り浸ったり、行動を共にしたりする。そんなイチゴにクールな桃子は「これからはこれがあなたのダチ」と八百屋でキャベツを買って差し出すのだ。
しかしイチゴはそれを叩きつけて桃子を“地獄”へと引きずっていく!
イチゴは尊敬する先輩、亜樹子さんの引退のために、代官山にある伝説の刺繍屋に、特攻服にメッセージを刺繍してもらいたいと思っている。そのための資金を稼ごうと、桃子を引きずってパチンコ屋に出かけるんだけど、イチゴはさっぱり。しかし、桃子がパチンコの天性の才能を持っている!ジャンジャンバリバリやってるパチンコ屋に、このロリータファッションは田んぼの中以上に浮きまくり。しかもこのパチンコ屋でイチゴは“一角獣”と呼ばれているヤクザに恋しちゃうのだ。
ヤクザがねー、阿部サダヲなの。まさに一角獣!としかいいようのないアホアホなリーゼントと、桃子が釘付けになるエナメルの靴。「どうしてエナメルなの?」と桃子は聞き、彼がヤクザだと知ると、「だからエナメルなんだ……」とナットク。あのー……その疑問もそのナットクも理由が判んないんですけど……。

とまれ、資金調達に成功した二人は、代官山でその刺繍屋を探すのだけれど、雲をつかむようにまるで見つからない。その刺繍屋ってのは、イチゴ得意の伝説の中に出てくる話。伝説バカ、なんて桃子に揶揄されて、二人は一時、ケンアクになってしまう。
イチゴは……図星だったんだよね。伝説ばかり追っててリアルな生活をイチゴからは意外に感じないのだ。それを桃子は指摘していたわけ。
甘いお菓子みたいに見えている桃子の方が現実的で、コワいイチゴの方が夢見ているなんてね。
でもだからこそ、二人は現実と理想の部分で逆だけど、似ているんだと、やはり思う。
そして、そのことに気付かされてヘコんでいるイチゴを見て、桃子は思わずこう言うわけ。「私にその刺繍やらせてくれない?」自分が気持ちいいことが一番大事。人のために何かやるなんて考えたこともなかったであろう桃子が……。
でも、イチゴのために頑張ることは、そう、桃子にとって確かに自分に気持ちいいことなのだ。彼女は数日の間、食事もせず、学校に行くことも忘れてイチゴのために刺繍に没頭する。
そして出来上がった刺繍のできばえは、本当に素晴らしくて、全開で喜ぶイチゴに、桃子は泣きたい気持ちになって……なぜ、そんな気持ちになっているのか、判らないのだ。
バカね、桃子。だったらなぜ、そんなに一生懸命になってやったの。それが何よりの答えじゃない。

個人的には、イチゴが積極的(というか行動的)に出る場合が好き。桃子にからかわれて彼女に頭突き食らわしたり(引きの画面でふっとぶ桃子!)、田んぼの中の別れ道を“地獄行き”の方へ桃子を有無を言わさず引きずっていったり、桃子が彼女にとって神様のBABYの社長にナマで会って倒れちゃった時、彼を突き飛ばして「見ただけ?お前目から何出した!」と息巻くところとか。
つまりは、イチゴはその外見と中身は正反対というかそのまんまというか、直情型で純で素直で、それがどうしようもなく愛しいわけなのよね。
桃子は外見はロココそのままのフリフリ、フワフワだけど、ドライでクールで毒っ気をたっぷり持っている。ただ彼女はそれを自分で充分に自覚していて、その意味では彼女もまた自分に素直な心を持っているとも言えるのだ。
なるほど、案外似た者同士なのかもしれない、この二人。その発露の仕方があまりに対照的で、だからこそ自分にはない部分をお互いに見つけることができる。そして友達としての損得勘定を全く行わないから、遠慮もない。だからお互いのナマな人間がまるでジャマされることなくいつでもハッキリと見えているんだ。

いいな、うらやましいな。こんな風にはとても出来ない。だって、友達って損得勘定で付き合っちゃうもの。頼ったり、自分の助けにならないかなとか思いながら付き合っちゃうから……こんな風に自分そのままを見せるなんてとても怖くて出来ない。
二人にはそれが出来ている。つまり、二人とも自立しているんだということなんだ。ねー、金八っつあんが「人という字は人と人が支えあって〜」なあんて言ってたけど、でもそれぞれが自立していなければ、ズルズル倒れてしまうじゃない。
友情はお互いに頼りあうことではなく、まず自分が自立していなければならないんだな……本当は。
二人は、特に友達なんかいらないと思っていた桃子はそのことに気付かずにいたんだけれど、それが出来ているからこそ二人の友情は強固なモノになるのだッ!

そう、桃子は気付かずにいた。でもイチゴは気付いていた。彼女は桃子のそういうところが気に入っていたのだ。
イチゴはギンギンに突っ張っているけど、レディースという組織の一員であり、その中に頼り切っていた先輩もいた。
そんな中出会った桃子に、素直なイチゴは自分にない自立精神(彼女の言うところの根性)を認めて、その先輩とは違う尊敬を抱いたに違いない。
イチゴはレディースを抜ける決心をする。その尊敬していた先輩ができちゃった結婚で引退することになったとたん、そのレディースは今までみたいな純粋な走りを楽しむ集団ではなくなってしまったのだ。
でも、それにはいわゆるケジメというヤツが必要……。
その頃、桃子も大きな転機を迎えていた。BABYの社長に刺繍の腕を認められ、大きな仕事を頼まれたのだ。
珍しく怖気づく桃子。彼女が母親に自ら言った言葉の意味を、真の意味で悟ることになる。人は大きな幸せに直面すると、ビビる。大きな幸せを得るのは不幸のままでいるより、難しいのだと。

「会いたい」桃子はイチゴに初めてそう電話する……。
しょんぼりとしている桃子に、そう言われて嬉しそうなイチゴという微笑ましい場面は本当に可愛くて、当然イチゴは「あんたの才能を認めてくれる人がいるのに!」と桃子の背中を押せ押せに押してくれるわけなんだけど……その時、イチゴの“ケジメ”の問題も同時進行していたのだ。
そのことに気付いてしまう桃子。納期の日が、イチゴの運命の日でもあった。桃子はBABYの社長に電話する。どうしても、友達に会わなければいけないんだと。
ここねー、ここもすっごく、好きなの。BABYの社長はね、今日までと約束したでしょ、と最初はすっごく厳しい口調なのだ。そして、自分には友達がいない、とまで言うの。それよりも仕事が大事だって。でも、あの時の彼女なんだねと彼は言い、行ってあげなさい、行くべきだ、と言ってくれるのよ。これ、感動したなあ、マジで!つまり彼はあの時、イチゴにあんなコワイ目にあわされたのに、つまりはそれだけイチゴが桃子を大切に思っていることを判ってくれてたんだよね。あんな、カルそうな社長なのに(笑)
そして桃子は爆走する。おばあちゃんのスクーター(イチゴが伝説の機種だと感激した)を借りて。
巨大な牛久大仏(ブキミ!)の見える空き地で、今やイチゴはリンチされんとするところだった!!

いやー、カッコよかったなあ、フカキョン。彼女ね、ここに乗り込んで、最初は手出しできないわけ。でも彼女のご自慢のフリフリBABYの服に泥がかかった瞬間、彼女の中の全てが停止する。しかも泥水の中に蹴飛ばされもする。もう、ダメ。
あの時、桃子が叫んだキョーレツな方言は、(桃子が幼少時を過ごした)関西弁に聞こえたけど、違う?下妻の言葉なの?いちびってるとか、そういうこと叫んでたよね?と、とにかく……このふわふわ少女からそんなコトバがほとばしるんだから、しかも鬼の形相でッ!そして彼女、手近の鉄パイプ持って振り回しまくる!くわっ!

しかもである。もっとスゴいのはこの後の彼女の一世一代の大ぼら。ま、父親をあれだけだまくらかしてきた彼女だから、うそっこ作り話はお手の物ではあるけど、それにしてもこのコワーいオネエ様方を前にして、自分は伝説のレディース、ヒミコの実の娘であり、よってヒミコがお前たちなんかに勅令を下すわけがないッ!と啖呵を切る場面の爽快さときたら、もう、フカキョン、最高なんである。いやー、彼女だね。やっぱり彼女ならではだよね。
それを聞きながら、あごが外れんばかりのオドロキを示すイチゴ=土屋アンナちゃんの表情の可笑しさときたら……私、もう恥ずかしいぐらいの声だして噴き出しちゃったよ。
でもね、このウソが通ってしまったのにも理由があったわけ。つまりヒミコという存在自体もイチゴが作り出したウソだったのだ。なら何でそんなにアツく語ったのかと桃子に問われたイチゴ、「だって、お前があんまり否定するから……つい」かっわいんだよなあ、イチゴ。そして二人乗りしたイチゴと桃子は下妻の美しき田園風景の中を疾走してゆく。

ロココさながらの懐かしビビットな色合い、シュールなアニメーションが攻撃的に展開に割り込んでくるリズムといい、もう有無を言わさず引きずりまわされた!ここまでくると、もう、なあんか、クヤシイわ!★★★★★


上海異人娼館 チャイナドールLES FRUITS DE LA PASSION
1981年 88分 日本=フランス カラー
監督:寺山修司 脚本:寺山修司
撮影:鈴木達夫 音楽:J・A・シーザー
出演:イザベル・イリエ/クラウス・キンスキー/アリエル・ドンバール/新高ケイ子/山口小夜子/高橋ひとみ/大野美雪/中村研一/石橋蓮司/藤田敏八/ピーター

2004/10/5/火 劇場(シネアートン下北沢)
ひょっとしたら今の映画人よりずうっと、積極的な国際意識を持っていた寺山修司。青森くささをあれだけ残していながら、同時にすべての境界線を取っ払う彼のそうした意識というものに本当に驚かされる。第一義は作家でありながら、舞台も美術もそして映画も、表現する場はすべて彼のフィールドだった。知れば知るほど、その天才ぶりには驚かされるのだ。

テラヤマの映画作品はいくつかは観ているけれども、そのどれもフツウの映画となりうるわけはないので、本作は映画というスタンスとしては一見異様に見えながら、テラヤマ映画としてはフツウの領域に入るように思う。というのも、テラヤマオリジナルではなく、原作がフランスのエロチック古典、「O嬢の物語」をベースにしているから。この話、他に同タイトルで映画にもなっているし、聞いたことはあるけれども、原作も映画作品も観たことはないので……それをいきなりテラヤマ映画で観てしまうなんて、ちょっと危険だろうか?

何といっても驚くクラウス・キンスキー!この容貌魁偉のマニアックな大スターを持ってきちゃうあたり既に天才である。キンスキーはその時テラヤマのことを知っていたのかなあ、なんて興味をそそられる。だってこのコラボって聞いただけで鳥肌が立っちゃう異才同士の顔合わせだもの!
舞台は1920年代の上海。飛び交う言葉は中国語にフランス語に英語に日本語。娼婦にキ印にいわゆるフリークス。SM、革命……何ということだろう!テラヤマってば、この人ってば、なあんてゼイタクなの。見せたいものを、見せたい世界を、あらゆる魔法を、危ない魔法をかけてくる!
キンスキー扮するステファン卿に「花の家」(と言っていたと思うが)と呼ばれる娼館に連れてこられたO(オー)と呼ばれる美しいフレンチドール。Oは彼の愛人。恋人ではなくて愛人。別にステファン卿が妻帯者というわけでもなさそうなのだけれど、やはり愛人、という響きがしっくりする。だって二人は恋人なんて子供っぽい関係ではもういられないから。二人はお互いの愛を試すためにここにやってきた。通された殺風景な部屋に、「私の部屋?それとも牢獄?」とつぶやく。そう、Oは娼婦になるためにここにやってきた。下卑た男たちに身を任せる。それをステファン卿は見つめ続ける。お互いの愛を確かめるために。

まあ、こんな展開だし、Oも最初から脱ぎまくりだし、舞台が娼館だから当然、画面はボカシの嵐。これも時代、よね。今ならこんなに執拗にボカシはつけないと思う。ボカシが大きすぎて、何やってんのか全然判んない。特に二人のカラミだと、さらに判んない。別にイイけど、逆に隠微よね。
そんな風にエロティックに見えそうでいながら、その本質は実は驚くほど精神的だったりするのだ。だってこのOとステファン卿のセックスの場面は一瞬だけである。しかもかなりの動物的なものを思わせるセックスで……なのに二人は愛し合っているという。愛し合っているのに、更にその愛を確かめたいといって、お互いを嫉妬の炎で燃やすのである。ステファン卿はOを娼婦に貶めて、そしてOはステファン卿が別の愛人を囲っているのを見て。二人は目線を絡ませあい、触れられない身体をお互い遠くに置きながら、実体のない“愛”というものをつかもうとしているのだ。

……などという、精神世界を描いていながら、見えている舞台はずいぶんとドギツイ。Oとステファン卿のこんな哲学的な関係よりも、周りの人間たちの方が面白かったりするあたりは、テラヤマらしいシニカルさなのかもしれない。存在感ありすぎの、娼館の女将を演じるピーター、自分を銀幕の大スターだと思い込んでいるキ印の娼婦には新高けい子、聾唖を装う娼婦の山口小夜子。新高けい子の役どころなんか、時としてヒロインのOをかき消すほどのエピソードである。ぬらりとした水草が揺れる沼の底に沈んだグランドピアノ、その上に乗って浮かんでくるんだもの……身投げした彼女が。そのグランドピアノの話も、キチガイの彼女の戯言だと皆思っていたに違いない話。でも彼女の死と共に浮かんできた……彼女の死を、悼むように。凪いだ沼からのそりと顔を出すグランドピアノ!

そんなそうそうたる異彩を放つ俳優たちの中で、しかし一番目を引くのは、SM専門にしながらも、ひょっとしたら何も知らないのではと思わせるような初々しさを響かせる、高橋ひとみである。いわずと知れた、テラヤマ最後の秘蔵っ子。今では色香漂う美女である彼女、ここではケバい化粧もウブに見えるほどの少女なんだけど、これぞ高橋ひとみ、の目じりのホクロがやはり何とも色っぽいのだ。でもOがこの高橋ひとみ扮する白蘭に対してはかすかにではあるけれど親愛の情を寄せるのが凄くよく判る……その色っぽさはやはりまだまだかすかで、無邪気でウブな少女そのものを思わせるのだもの(高橋ひとみが!)。

ヒロインであるOを演じるイザベル・イリエは、まさにフレンチドール。全裸姿はアバラが浮くほどに華奢で、この娼館で全身に化粧を施される場面は倒錯的な美しさ。白蘭が、長い大きな紅筆で、Oの乳首に紅をさす場面など、まさに……。テラヤマワールド全開。
実際、エロティックさよりも、映画の観客に対する見世物小屋的な感覚の方が強い。まさしく、ブラウニングの「フリークス」そのものの小男もいるし、ヤバいくらいデブデブの娼婦もいる。登場場面でこれから仲間になる同僚たちに、挨拶代わりに大股広げてすべてをさらけ出すOもまた、もちろんそうだろう。それにこの物語の大きな転換点として、彼女は娼館の隣の飲食店に勤める青年に覗き見られて懸想されるのだ。ここにも秘密の覗きの美学がある。

この青年。ここ上海で中国人の権利を手に入れるための革命に手を染めた。いや、彼自身にはそんな野望はなかった。彼、王学は、ただOを抱きたかったのだ。窓辺でいつも哀しそうに外を見ていた美しい異人女性。まさに籠の鳥が外界に憧れている。
彼は彼女を買うために、革命に手を染めた。その資金協力をしていたのが皮肉にもあのステファン卿だった。卿は別に、中国人に味方しているわけではなく、Oとの関係と同じようにスリリングな賭けを楽しんでいるだけだったのだ。そう、この時には卿はOに対するそれも、たかが賭けと思っていたのかもしれない。愛していることに確信が持てないから、確信を持ちたいからこその、ラブ・ゲームだったのかもしれない。でもOの方にはそんな疑問はなかった。何の疑問もなく卿を愛していた。だからこのゲームに従ったし、どんな男に抱かれたってただただ無感動に受け入れるだけだったのだ。

でも、この王学は違った。卿はOに花を贈り続けるこの青年に、ゲームが面白くなる程度の興味を抱いたに過ぎなかったのかもしれない。卿がOに王学を会わせた。でもそのことを卿は後悔することになる……いつものようにOの客との睦言を卿は覗き見ていた。「君を買うためにケガをしたんだ」片腕を包帯でつった王学の愛撫はぎこちなくて、でも一途で……王学の純粋な心にうたれてOは口づけを許し、客とのセックスで初めて歓喜の表情を浮かべる。
口づけの段階で卿は「信じられん。キスを許すとは」とひとりごちる。こんな場所に追いやっておいてそんなことを言う。やはり娼婦にとって口づけはご法度なのか。何となく判るような気がする……唇とともに、目と目もかわす。セックスよりずっと、心が、移りそうだもの。それに彼とのセックスもまた違った。他の客とは心ならずに陵辱される、という感じだった。望んでいないセックスだからこそ、卿は嫉妬しながらも、哀れな愛人をより愛しく思っていたはず。でも王学とのそれは、見るからに違った。当然手の中にあるはずのものが、思いもしない人間によって奪い取られたのだ。

キンスキーは、何たって容貌魁偉だからさあ。その金髪はやけに明るくて、そして筋肉バツバツで、コワイのよ。彼がこの娼館で女を抱く時の、筋肉がバリバリ盛り上がって、女を二つ折りに押しつぶしながらのセックスが、レイプさながらに怖くって。しかも彼、Oを鎖で縛り上げたその目の前で、別の愛人とセックスしたりする冷酷さでさ……そんな彼がOが他の男とセックスしているのをじっと見つめているその様は……ううう、コワすぎ!
でもそんなコワい風貌の卿を、どうやらOは父親の面影で見ていたらしいのね。というのは、彼女の回想で出てくる父親の場面。幼き日の彼女は大好きな父親と連れ立って歩いている。ふと父親が立ち止まり、彼女の周囲に白いチョークで大きな四角い枠を書く。父親は歩いて行ってしまう。彼女はその枠からなぜか出ることが出来なくて……その父親の顔が一瞬、卿にダブるのだ。
無力な自分を救ってくれたのがこの卿だったのかもしれない。でも今、Oは逆に一人のけなげな青年を、自分の慈愛で救ってあげることが出来た。その時、彼女の中で卿の存在意義がなくなってしまったのかもしれない。愛していたわけではなかったのかもしれない。むしろその愛を軽く考えていた卿の方が、新しい愛人にも去られ、Oもまた他の男に心を移し……彼は王学を殺しにゆく。銃弾を撃ち込んだそのドアをあけると、そこは海の荒波!す、凄い場面転換!卿はそこに、人生の何を見たのだろう。

卿が王学を殺したことを聞いたOは失神する。彼女には卿の声が聞こえている。「お前は自由だ、好きなところヘ行くがいい」港に立ち尽くすOの姿は、希望に満ちているように思える。ここまで女を陵辱する倒錯的な趣味で溺れさせながら、最後はカンペキフェミニズム。いや、最初からフェミニズムだったんだ。女性礼賛、だったものね。

テラヤマの世界を追いかけるには、人生の時間がなさすぎる!★★★☆☆


上海家族假装没感覚/SHANGHAI WOMEN
2002年 96分 中国 カラー
監督:ポン・シャオレン 脚本:ポン・シャオレン/シュー・ミンシャ
撮影:リン・リャンチョン/ジュ・トンロン 音楽:
出演:チョウ・ウェンチン/リュイ・リーピン/ソン・ハイイン/チェン・チェンヤオ/リュウ・ジャーチェン/シャー・ジュン/ティン・タンニー/ワン・チンチャオ

2004/7/6/火 劇場(神保町岩波ホール)
中国までもが、こういう問題を抱える国になった、というのは少々乱暴な言い方かもしれないけれども、こういう、現代、女性が一人生きていくことの難しさを中国の映画で見るとは正直、思わなかった。男の庇護を脱し、そして子供も抱えてひとり生きていくことの難しさ。それは女性へのエールとか、現代のカッコイイ女性とか、そんなノーテンキなハリウッド型じゃなくて、本当に、リアルにシリアスな、現実に直面している大問題なのだ。女性が一人、あるいは子供を抱えて生きていく姿はカッコイイ。でも皆が皆、キャリアウーマンなわけでもないし、強くもないし、男性の経済力に甘えたいのは本音なのだ。でも自分を捨ててまで、それは出来ない。昔の女性は忍耐強かったのに……なんて古い人には言われるのかもしれないけれど、ならば昔の女性はいち人間としての存在を男性社会に認められていたのか。否!やはり辛くても辛くても、女性は頑張らなきゃいけないのだ。人間としての、尊厳を保つために。

天も突けよとばかりに林立する住宅ビル群、自転車や自動車の群れ、まさに、今音をたてて急成長を遂げているのが判る上海の街並み。娘をバイクで学校に送っていく父親。一見、幸せそうな親子。
でも、その父親は帰りに若い女をピックアップして、どこへとも知れずに走っていくのだ。若い女。明らかに、不倫である。
もう二年、だ。別れる、別れると言いながら、一向にその気配のない冷たい態度の夫に妻はさすがに堪忍袋の緒が切れる。離婚を言い渡し、娘のアーシャを連れて家を出る。
でも。しがない教師である彼女には、家賃を払って娘と一緒に暮らしていくだけの経済力がない。かの夫はヒドい男ではあったけれども、経済力はあった。とりあえず身を寄せた実家では弟が近々結婚しての同居を控えていて、いい顔をされない。彼女の老母は、簡単に離婚してしまったことを、責める。

浮気は男の甲斐性。女はガマンするべき。確かにこのおばあちゃんは古い時代の人間ではあるのだ。でも一方で真実をついてもいる。母(娘のアーシャから見て。アーシャが基本の人間関係で役名がないのだ……ややこしい)は働いているとは言えど、完全に夫の経済力のもとで裕福に暮らしてきた。一人で娘を育てる覚悟がないのなら、離婚なんかしなければよかった、とそういうことなのだ。でもだからといって、彼女の尊厳をむげに否定しているわけではない。復縁した方が無難だと勧めはするけれど、娘と二人暮らしていける部屋を見つけなさい、と、まず言っているし。この祖母は……そう、自分では出来なかったことを、この時代の娘なら出来ると知っているから。でもそれには自分では助けてやれないし、大きな辛さを伴うことも、ちゃんと判っている。

この時点では、なるほど、アーシャの言うとおり、“マンガに出てくるイジワルばあさん”ぐらいにしか見えないこの祖母なのだけれど、母が再婚相手ともモメて二度目に出戻ってくる時に、確かに祖母こそが正しかったことが判るのだ。そう、この祖母は最初から言っていた。ここを出て、娘と二人で暮らしなさいと。
でもこの時の母にはそれが出来なかった。そこまでの強さがなかった。だから、祖母は再婚の世話をしたのだけれど。
この二度目の男も、トンでもなくヤーな男だったのだ。

堅実な男性だからということで、李さんとの再婚を決めた母。彼には小学生の男の子の連れ子がいる。まあ、普通のオジサン、って感じである。若々しくて二枚目っぽかった元夫とはちょっと対照的だ。
でも、この“堅実”ってのが落とし穴だった。これがとんでもないケチな男。ケチだけならまだいい。ケチが彼女の善意や人間性をことごとく拒否することになるのである。
ちょっと、ビックリした。ケチっていうことが、これほどまでに、イヤな性格になるものだなんて。分類分けするとケチになるってだけで、つまりは自分中心、自分勝手、相手への思いやりの欠如、という点で、元夫と大差なかったのかもしれない。例えばこうである。彼の連れ子の男の子の靴がボロボロだからと、彼女の給料から新しい靴をプレゼントしてやる。そうするとまずそれがゼイタクだと怒り、さらに息子がそれをサッカーの練習に履いていったと知るともったいない!と古い靴を持ってグラウンドまで押しかけ、息子にまでいらん恥をかかせるのだ。さらに「お前たちが来てから水道料が二倍になった」(当たり前だよ!人が二倍になったんだから!)と、毎日の洗濯と風呂の回数までケチをつけ(だって、今までは週に一回だったとか言うんだよー。汚いだろー。ましてや女の子にそれを強要するなんて……)、水道代はお前が払え、とこうくるのだ。

うう、サイアク。だってさ、家族なんだから。そんな風に家系を父側、母側と分けるなんてヘンだし(それじゃ家族じゃなくて、単なる同居だよ)、家事は一切、この母がやってるのに……。でもそれに関して、李さんの息子の強強は、「そんなの、大したことじゃない。家政婦と変わらない」なんて言うの!うー、父も父なら息子も息子ね。やっぱり!
それに加えて……マア、これは副産物的というか、大したことじゃないのかもしれないけど、食事の時にテレビをつけてゲラゲラ笑ってるのもね!そりゃ、前の家庭での食事場面は、テレビもつけずになんか気まずくシーンとしちゃって、それはそれでツライものがあったけど、テレビつけて、そっちばっか見て、こんなんじゃ一人で食べてるのと変わらない、家族の会話なんてありゃしない騒々しい食卓ってのも……ヤなもんだわね。だって最初から会話する気なんて、ないんだもん。確かに、難しいんだけど。食事の時に家族の絆を温めるっていうのは理想だけど……難しいんだよな。どちらのパターンでも出来てなかったもの。

結婚って、結婚って……ほおんとに、タイヘンなんだなあ!
特にこの場合……母はぶっちゃけ生活の安定だけをもくろんで結婚したわけだからさあ……そりゃ口では「堅実な人」とか「幸せになれる」とか言ってるよ?でも、そう……ある意味、彼女は李さんに対して、札束以上の価値を見出してなかったとも、言えなくもないんだよね、キツいけど……。それに彼女自身がそこまでの自覚を持っていたかどうかも疑問だし。でも、疲れきった彼女が選択してしまったことを責めることも出来ないけれど。

李さんがね、結婚早々彼女をロコツに求めるでしょ。ま、この新しい嫁さん、美人だしまだまだ若いし、それに何たって結婚したんだから当然、みたいな雰囲気でさ。でも彼女の方はこれまたロコツに戸惑うのね。ここらへんに……二人の思惑の違いがほおんと、如実に現れているんだよなあ。
つまりは、カネ(経済力)で女を買った、みたいな意識がどこかにある男と、経済力の下にいれば安心、ってことしか考えてなかった女、っていう……。
これってかなり、どっちもどっちというか、かなりどっちも、相手をバカにしているとも言えるんだよね。私は女だから、やはりついつい女を身びいきして見てしまうけれど、それでもやっぱり、そう思ってしまうのね。

そんな母を間近に見ている娘のアーシャは、ホントに、タイヘンである。だって15歳、多感も多感、多感度ピークな時期なんだから。母が女であり、女としての弱さを持っていることを間近で見、支えなければならないなんて、ホントにタイヘン……でもその割には、母と李おじさんとのセックスの振動には笑ってられる余裕があるのが凄いけど(うーん、私は考えられないなあ。これは時代かなあ)。
アーシャは何たって年頃だから、自身の淡い恋心の問題なんかも抱えている。まさに成長期で、性徴期。スレンダーで、スラリと背の高いアーシャは、乳房も淡く息づき始めている。思えば冒頭の、父親とのバイクの二人乗りなど、ちょっと少女期のファザコンを感じさせたりもする。アーシャはいつでもお母さんの味方ではあるけれども、あの時にはお父さんととても仲良さそうだった。彼女が母親を支えて生きていこうと決心したのは、あの家を出て行く別れ際、父親が何の声もかけてくれなかったことが……本当に、大きなショックだったのではなかったか。

あの時、アーシャは、父親が何か言ってくれるんじゃないかと、期待していた。わざわざ、忘れ物だと戻ったりして。でもこのヘタレ男は何も言えなかった。
父親たちよ!気をつけなきゃ、いけないよ。ここぞという場面でしっかり出来なければ、娘は本当に、見限ってしまうのよ。アーシャは多分、年齢的に潔癖な部分があったせいもあると思うけれど、それ以来、父親の話題は異常なぐらい嫌う。李さんとも別れた母親が、生活のため、なによりアーシャのために元夫との復縁を考えた時も、アーシャは必死に、止めるのだ。
確かに、確かにね。そこにはその問題だけじゃなくて、子供を理由に別れるとか別れないとかを決めてしまう親たちの、これは本当に子供にとっては頼んでもいないのに!という辛い部分があって。だって、自分が両親を不幸にしている原因だなんて、それって、これ以上なく、辛いことじゃない!アーシャはこんな台詞も母親に浴びせるのだ。「ママは離婚を選んだ。私は何も選べないの?」これが子供の哀しさなんだよなあ……キツい。
だからアーシャも、私のために(ガマンして)お父さんとの再婚なんて考えないで、と懇願したわけで。でもアーシャのそういう父親への強烈なアンビバレンツな気分というのは、やはり考えずには、いられないのだ。ただ二人乗りして学校に送り迎えしてもらっていた場面だけだったのに、本当に仲睦まじく、恋人同士のようにさえ、見えたから。

ちょっと、アーシャの話ばっかりしちゃったけど、やっぱり、年齢的に近い分、お母さんや、その周囲の大人たち方にシンクロしちゃうんだよなあ。お母さんが、実家に戻ってきた時、特に二度目なんか、弟が結婚してその奥さんも入り込んでいるから、この小姑が一番、いい顔をしないわけよ。ハッキリ言ってほおんと、ヤなヤツ。義姉さんたちが住むなら、私は実家に帰ります、みたいな、あからさまなイヤミを言うのね。さすがにおばあちゃんが「大事な我が子を道端で寝起きさせられないから」とかばってくれるんだけど。でも……多分、そう、私がこのアーシャぐらいの年だったら、それこそ彼女みたいにロコツにイヤな気分、イヤな態度になるんだろうけれど、この小姑の言うこと、判っちゃうからさ……。だって、彼女だけがこの中で血のつながりのない、他人なわけでしょ?せっかく家族を頑張って築いているところに、元から家族の義姉がしかもまたしても男と別れた、って言って入ってきたら、……この小姑の彼女が一番、立場の弱さを痛感すると思うもん。だって彼女はただでさえこの家の中での優先順序は最後なのに、更に二人割り込まれて、やっぱり最後なんだもん。たまらないと思うよ。夫は味方しているようで、どことなくアイマイだしさ(一番悪いパターンだわ)こんなことを想像できるようになったなんて、私も年をとったなあ??

だから、実家に帰ったって、自分を助けてくれる人なんて、いやしないんだ。自分を心配してくれる人はいても、自分が生きていくためには、自分でなんとかするしか、ないんだ。
一度は元夫との復縁を考えた母だけれど、娘の「私のために再婚しないで」という言葉で思いとどまる。そしてこれは、慰謝料ということだろうな。この元夫から家を売った分け前をビシッと受け取って、かなりボロではあるけれど、娘と暮らすための、小さな部屋を手に入れるのだ。
アーシャが最初見た時は「とても住めたモンじゃない」とまで言った部屋。でも、母娘二人だけの、お城である。ウォーターフロントで、とりあえず、眺めだけはバツグンにいい。ドリフみたいだったこの部屋が、次のシーンでは女性が手を入れたっていうのがホントに判りやすい、見違えるほどキレイなお部屋に大変身して、母と娘が幸せそうに暮らしてくる。
どこだって、人に頼らない生活は天国。
まあ、それもいわば慰謝料で買ったんだけどね……と思うとちょーっと、フクザツだったりもするのだ。でも離婚するって決めた時からちゃんと調停して慰謝料はもらうべきだったよね、なんて。それがないと女が生きていけないというのもフクザツだけど……。

あーあ。やっぱり女ばかりがソンしているような気もし……いやいや!頑張った分、女ばかりが得をしているような気もしないでもない!でもそれには……かなりの努力と気力とギセイが……必要なのね。★★★☆☆


ジャンプ
2004年 118分 日本 カラー
監督:竹下昌男 脚本:井上由美子
撮影:丸池納 音楽:大友良英
出演:原田泰造 牧瀬里穂 笛木優子 光石研 鈴木砂羽 金久美子 唯野未歩子 菅原大吉 秋山菜津子 寺島進 佐藤恒治 榊原めぐみ 佐藤隆太 平泉成 上田耕一 伊武雅刀

2004/5/19/水 劇場(テアトル新宿)
リンゴを買いに行くと言って出て行ったまま、失踪してしまった彼女。
この、しんしんとした胸騒ぎがずっと続く感じがたまらない。胸騒ぎ、なのに、なぜか心地いい感じ。心地いい……違うな、そういうのともちょっと違うんだけど。ガラス窓の向こうはざわざわとした雑踏なのに、自分はその内側の静けさの中に取り残されているような、胸騒ぎ。
そのせいなのか、正直、謎解きはされないのかと思っていた。彼女の失踪した理由は明かされない。何故なのか、気になったまま劇場を出る、そうだったらいいのにな、なんて思ってた。
でも、その謎解きからはまた俄然、面白くなるのだ。

だから謎解き以前と以後は、その面白さや印象が異なるとも言える。うん、やっぱりちょっと……この感覚を最後まで味わっていたかった、気もする。だってパラレルワールドとか考えたりしちゃったんだもん。SFだけど……でもパラレルワールドってきっとあるって、思ってるし。
劇中でも語られるけれど、理由も何にもわからない突然の失踪が、日本で年に10万人もあるという。
それを一個一個考えると、それこそパラレルワールドに取り込まれちゃったんじゃないかとしか思えないほどの不可思議さなんだけど、ここではその謎解きをキッチリとしている。それはどんな失踪にも理由があるんだと言っているような気もした……想像もつかない、理由が。
失踪者を夜も眠れず心配している近親者たちに、希望を与えているような気もした。

やっぱりちょっと残念、なんて思ってしまうのは、理由がないなら、自分が消えてしまう可能性だってあるんだろうなと思ったから。……消えたいと思ってるわけじゃない筈なんだけど。
それは、自分の親しい人が消えてしまうかもしれないという恐怖よりは、その方がイイと思ったせいかもしれない。だって、この理由はかなり恐ろしい色に染められているから。自分がどこかの時点で違う選択をしていれば、その人を助けられたのかもしれないと、一生を後悔して過ごすなんて……考えるのも滅入る。
でもそれこそが、運命なのだ。だって、だからといって現状に不満があるわけではない……少なくとも本作の登場人物たちは。現時点での生活に生きがいや幸せを感じているし、過去の苦さも時を経て美味しくなる美酒のように、ほろ苦くも甘やかにとろけているのだ。

みはるが消えてしまったことによって仕事が手につかなくなった三谷は、力を入れていた企画課から営業への異動を命ぜられる。もう自分は終わりだと思った彼だったけれど、むしろ営業に才能が発揮されて、昔迷惑をかけた上司を助けるほどの敏腕ぶりである。営業で鍛えられて、飲めない酒まで飲めるようになった。
みはるは、三谷を愛する早苗によって陥れられ、愛する人から去る結果となったけれど、そのことによって自分のルーツである父親と会い、漠然と疑問を持っていた何となくの人生から脱却して、陶芸という生きる道を見つけた。
確かに好きあっている二人が引き裂かれたんだけれど、二人とも現状に不満かといえばそうではない。すべての始まりだったリンゴを再会したみはるから三谷に手渡した時、終わったのだ。実に5年もかかってみはるは、三谷に約束のリンゴを手渡した。

この二人を引き裂くことになった早苗。みはるの口から彼女の失踪の真相を聞かされた時、戦慄したのは正直なところ。コワイ、なんて恐ろしい女!と思ったのは確かにそうなんだけれど。
でも、三谷のことを本気で愛していた彼女が、彼に愛されていることに自信を持っていないみはるが腹立たしかったんだろうことは確かに判るのだ。
みはるが姿を消したのは、この早苗からの手紙が原因だった。自分は三谷と結婚を前提につきあっていたのに、あなたがジャマをしたのだと、ものすごい迫力で書かれていたんだという。
実に周到に、会社のパーティーの待ち合わせを使って、みはるに自分と三谷が深い仲だと思い込ませた。
しかし逆にそれだけで身を引いてしまうみはるの方は、確かに彼のことをそこまで真剣じゃなかったのかもしれないとも思う。それどころか、愛されるほどの自信が持てなくて、不安を覚えていた。彼を愛する以前に、自分を愛することさえ、出来ていなかったみはる。
でも今、5年後三谷と再会したみはるは、その点をちゃんとクリアしているのだ。

再会した二人の切なさときたら、それはもう……ひとことでは言えないものがあるんだけど、やっぱり運命だったとしか言いようがない。今の自分になるための、運命。
そりゃ、早苗はそういう点ではコワイ女だった。愛する男を手中にするためには、どんな手段さえ辞さないほどの。でも三谷と結婚した彼女はいい奥さん、いい母親であり、三谷は彼女との暮らしに平穏と幸せを感じている。
……難しいな、なんて、難しいんだろう。今が幸せなら結果オーライと、本当はここで書きたかった。でもそれを躊躇する自分がいる。
でも、だからこそ、人生なのだ。王子様とお姫様が結婚してハッピーエンド、なんていうのは、人生ではなく物語。
幸せにたどりつくには、苦さを味わうことが必要なのだ。だってそうでなければ、幸せが幸せだと判らないから。

三谷は、みはるが自分から去ったのは早苗のせいだということを、そう、実に5年後に知るのである。
彼はずっと胸の中に戸惑いを抱きながらみはるを探し続ける。何が起こったのか見当もつかないから、性急に焦ることも出来なくて、それも歯がゆくて、一応は仕事をこなしながらも身が入らなくて。
例えばこれが、生命の危険が及んでいるかもしれない恋人を必死になって探す、というのなら、判りやすい。でもこのぼんやりとした不安、社会人としての自分の立場、誰よりも知っていたはずの彼女が急速に遠のいていくことをひしひしと感じながら右往左往する男、というのが、原田泰造、素晴らしいのだ。
うーん、本当に驚く。彼がこんな、全身からそういう空気を立ち上らせる役者だなんて。

この三谷は割とどつきたくなるような部分も持ち合わせている。大体、アンタが原因を作ったんだとさえ言いたくなる。だって、早苗の気持ち、いくらなんでも察せられるだろうと。ネクタイもらったり、香水を買ってくるように頼まれたり、はたまた入院先に手づくりの弁当なんて持ってきたら、彼女が自分に気があるくらいどんなバカでも判りそうなもんだ。でも三谷は、早苗が親身になってくれる女性という認識程度しかなくて、だから彼女に何でも相談するけれど、どうやら気付いていないらしい。それはつまり、結果的に彼女を利用していたことになるのだけれど、そんな意識すらないから、ちょっと許せないほど罪な男なんである。
でも、その程度のことで、その贖罪がここまで課せられるのはやはりちょっと……可哀想なのだけれど。三谷にとって何より辛いのは、みはるが去ったことよりもむしろその後。追えば追うほど彼女が遠ざかっていく。つまり、彼女が自分の意思で自分から遠ざかっていく痕跡を残していくことなのだ。

一番近くにいたと思っていたのに。一番好きだと思っていたのに。一番知っていると思っていたのに……何ひとつ、知らなかった自分。自分が恋人だということさえ、はばかられてくる。
三谷の焦燥はどんどん深くなってゆく。追いかけているのが、空しくなる。みはるが自分から逃げているのが判るから。追いかけられたくないという気持ちが伝わってくるから。彼女がそこにいないのに!
ただ、そんなみはるの“意思”が伝わった時、三谷もまた受身から自発的行動へと変わる。それは……みはるを忘れると決心することだった。
何か、何か!やっぱり痛いよ、切ないよ。

しかし、こんなに偶然が重なるもんだろうか……。最終的には早苗の手紙がみはるを動かしたわけだけれど、リンゴを買いに行ったコンビニで突然倒れた女性を介抱し、つきそった病院先で昔の友人がダンナを亡くしたところに遭遇し、そのダンナは隠し子が発覚したことで突然死していて、今度はその隠し子の女の子をその子の家まで送っていった、だなんて。
ただ、自分の人生に漠とした不安を抱えていたみはるが引き寄せた“偶然”だと考えれば納得できる気もする。つまりはそれは、彼女が自分の人生の道を見つけるための“必然”だったのだ。
早苗の手紙がきっかけとなったとはいえ、みはるは自分の意思で三谷の前から姿を消している。みはるを探し続けるとはいえ、次々と明らかにされる現実にひたすら受身の三谷とはそこが決定的に違う。

冒頭、三谷とみはるとが待ち合わせているシーンがある。雑踏の中みはるを探してキョロキョロとしている三谷。それをみはるがじっと見つめている。
みはるは後からこう言うのだ。「人ごみの中、私を探してくれているのが嬉しかった」と。
今なら判る。それは恋愛中の恋人の台詞としても確かに充分魅力的だけれど、それ以上に、彼女が見失いかけている自分自身を自覚していたのだということが。
みはると過ごした最後の夜、新しいカメラつき携帯で彼女を撮った写真を、三谷はスタンドに貼り付けている。電気をつけるたび、みはるがぼうと明かりの中に浮かび上がる。
そうでもしなければ、彼女を忘れてしまいそうになる……そんな感覚を起こさせる。スタンドの、非現実的なオレンジの光の中だから余計に。
それは、彼女自身がそう思っていたことを、端的に示してはいないか。自分がここにいることを確信できないでいる、不安。

もっかい言っちゃうけれど、何たって、原田泰造がイイんである。なんて、書くことになるとはよもや思わなかった、だなんて失礼だけど。ポスターでの彼のたたずまいというか表情が凄く語ってて、あ、イイ感じとは思ったけど、その期待がストレートにかなえられるなんて、ホント思ってなかった。
あの三人の中で最も??な人だったのに。まさか役者の才能があるとは。
サラリーマンが、やたらと板についてる。奥さんや子供への接し方が自然なのはさすがだし。正直、途中コントのハダカの彼の姿とか頭をよぎるかなと心配したんだけど、ぜえんぜん、そんなことなかった。上手さが際立つ宮迫氏とはまた違ったタイプのナチュラル演技に唸る。むしろ相手役の笛木優子の方が、手をどこに持っていったらいいか判らないようなぎこちなさがあるぐらい。
笛木優子という女優も、まるでこの劇中のみはるのように、突然日本映画界から姿を消した女優。「新・雪国」のヒロイン以来でしょ?いつのまにやら夕子から優子になってるけど……(もともとこっちの名?)その後の韓国での展開はホント驚いたけど、予想外の原田氏はじめイイ役者に取り囲まれて、韓国のスターもちょっとツラい感じ。
そう、それぐらい、原田氏ったら、良かったのだ。

原田氏演じる三谷が雑踏の中にまぎれる。ああ、あれ、やっぱり望遠だったんだ。長回しだなんて気付かなかった。それぐらい、彼が一人のサラリーマンとしてそこに迷い込んでいたから。こんな超有名人が気付かれないなんてと思うけど、それは納得。だって本当に一人のサラリーマン、三谷でしか、ないんだもの。
この、長回し拒否症の私がそれに気付かないなんて、かなり凄いことなんである。それぐらい、ナチュラルで胸騒ぎが続いていたんだろうな。

人ごみの中に感じる心地のいい孤独感を、ある日寂しさや不安に感じる時があったら、この映画を思い出すかもしれない。
その時私は、自分の人生を探しに出かけるだろうか。★★★★☆


十字路
1928年 87分 日本 モノクロ
監督: 衣笠貞之助 脚本:衣笠貞之助
撮影:杉山公平 音楽:――(サイレント)
出演:千早晶子 阪東寿之助 小川雪子 相馬一平 中川芳江 関操 二條照子 小沢茗一郎

2004/3/14/日 東京国立近代美術館フィルムセンター
「CROSS ROAD」と出て、横文字でキャストクレジットが出た時点ではまだ気づかず、あら、外国紹介版かしらんと思っていたら、あーん、あーん、あーん、英語版だったなんて!聞いてないよお、と思っていたら、プログラムにしっかり書いとった(爆)。かなり焦りつつも、サイレントなのでもともと字幕の字数は簡潔で少なかったのが幸いし、心配するほどでもなく意味を読み取れてあー、良かった。でも、英語は昔からからきしダメで、もう頭の中の記憶を必死に取り戻しつつ観たもんだから、集中出来ること、出来ること(良かったじゃん)。でもいくつか判らない単語はやっぱりあったけど(笑)。割と満員だった場内のオッチャンがた、みんな判ってて来たのかなあ、私みたいに焦らなかったのかなあ。ふわー、ナサケナイ日本人そのもの。

でも、これは英語版なんだから、それこそ外国人の人なんかにも観てほしかった、と思う(おそらく、いなかったよな……)。でも何で英語(海外)版?ひょっとして日本版は消失しているのかなあ……だとしたら、これはヒドい損失だよ!だっからあ、日本は自分の文化を大事にしないんだから……(でもさ、それでも日本語字幕くらいつけてくれよと思わなくもないけどッ)。
衣笠貞之助監督作品はいくつか観てたかなあ……せいぜい2、3本?何にせよ、ビギナーには違いない。“ドイツ表現派に影響された実験的演出とセット、強烈な陰影と斬新なカメラワーク”という紹介につられて観に行ったんだけど、ホント、まさしくそんな感じ。これで全て言い当ててて、もう私なんか言うことないぐらい(笑)。一見してまがまがしさを感じるような独特の美しさ。それは絶望感がつねにひたひたと押し寄せているというような。彼らにハッピーエンドはこない、絶対に、ともう最初から判っているような。それでいて……たまらなくその絶望感に心惹かれるような。

ありゃ、このお菊さんはお姉さんだったの。妹かと思った。きゃしゃな肩身に貧乏暮らしでほつれまくった髪はしかしつやつやとしていて、可憐ながらも女ざかりを思わせる。地味でつつましやかな顔立ちながらも、おびえた子猫を思わせるようなその風貌は確かに“beautiful girl(字幕でね)”。弟は、甘ったれな顔立ちながら、目がくりくりとした美男子。彼は吉原の矢場の女に恋して、この惨劇を引き寄せてしまう。まったく、そんな身分じゃないでしょ。二人は身寄りのない、この世にたった二人の姉弟。笠屋?の二階に下宿させてもらっている(多分)で、姉はほそぼそと繕い物などしつつ生計を立てている。冒頭は、弟がいきなり血だらけで倒れこんでくるところから始まる。この弟君のケガからタラリ、タラリと垂れる流血を猫がチロリとなめたりする。度肝を抜かれるオープニング。

それにしてもこの弟がホレている矢場のお梅という女、吉原の中でもたくさんの男たちが狙っている上玉、ってな感じなんだけど、しかしどこが?何がいいワケ?下品な笑い方して、歯ぐき出てるしさあ、もう何だか胸クソ悪いわけよ、この女!この女に言い寄る男たちもみんなタチ悪い。その中にこの弟君が紛れ込んでいるのは……悪いワナに引っかかったというか、神様のいたずらというか、そんな風にしか思えない。
この吉原のシーンは、いかにも空疎な遊び場の感覚をあおる、二重露出と細かいカッティングが非常に印象的。ひたすら笑い続ける遊興に溺れた男女の群れ……くるくると回る大きなぼんぼり?や射的の的、ここには人間の欲望の全てがあり、そして堕落の全てがある。下衆な意味で大人じゃなければ、ここで楽しむ資格はないのかもしれない。弟君は、すっかり溺れきってしまった。
お姉さんのお菊は……きっときっと、この弟が、弟である以上に好きだったんだと思う。この物語のクライマックスはそんな予感を確信に変えるほどの、耽美な美しさである。無論、その先には破滅が待っているんだけれど……。

弟君は、お梅を巡る攻防戦で、男を殺してしまった、と思い込んだ。
と、弟君を陥れた奴は本当に下衆野郎。弟君に浴びせたあれは、本当にただの灰だったの?いや違うだろう。目がつぶれたと思った弟君が一瞬光を取り戻したのは、姉の危機を察知しての本能的なものだったと今からすればそうとしか思えないし。あの弟君の狂い死には……あれは確実に、目から入った毒物が脳に回ったとしか思えない異様さだった。
いきなりラスト言っちゃったけど、この弟君の死に様ときたら……凄かった。
目が、イッちゃってるの。究極の寄り目がほとんど白目になって。顔を頭をかきむしらんばかりに苦しさに身もだえする弟君……見ていられないほどなのに目を離せないだなんて、そんな矛盾がすんなり通ってしまうような……もの凄さ、だった。
でもでも、何で、弟君、お梅なんかのところに行ったのよ。あんたを何より、誰より愛しているお姉さんのお菊を置いてさ。あんただって、これは愛の言葉だろって、いう台詞、お菊さんに言ったじゃないの。

お菊さんは、弟の目がつぶれてしまったことと、何より弟がどうやら人殺しをしてしまったらしいことに、苦悩する。
下の笠屋に出入りしている男が、あれは何ていうんだろ……英語字幕じゃ判んないんだけど、ホラ、時代劇で御用だ、御用だ!って言っている人が持っている、先が二股に割れている棒があるじゃない。あれを持っていたもんだから、お菊さんは、その人がいわゆるポリスマンだと思うわけ。弟が捕まってしまう、と。
本当は、ソイツはそんな輩じゃないのだ。その棒は往来で拾ったんだという。何でそんなもん拾うんだと思うけどさ。でもソイツはお菊さんがそう思い込んでいるらしいことを知ると、鬼畜なことを思いつきやがるのだ。ひと目見た時からお菊さんが気に入っていたこの男……つまりは弟を助けてやるから自分とナニを……てなわけ。

歯抜けで、残ってる歯も味噌っ歯で、なんか高田純次風で、もうきっもち悪い男なのよ(いや高田さんは好きだけどさ)。その気味の悪い口でくちゃくちゃと団子をほおばるのを大写しにするカットが、お菊さんがこの男を初めて目にするシーンで出てくる。もうもう、気色悪いの!それにこの時点でこの男、笠屋の主人に、お菊さんが気に入ったことを口にしているし、凄く後の展開を……予想させるのだ。
弟は人殺しなんかしていない!とついつい口走ってしまうお菊さんに、ポリス棒を後ろ手にして近寄るこの男、黙っててやるから、何て言いながらそ、その後のカットがさあ……意味深というか何というか……男の足元(破れた足袋から親指が出ているのも気持ち悪い)と、正座してるお菊さんの膝、その前に所在投げに組まれた彼女の手……そして後ろ手にした男の手からぽとりとポリス棒が落ちて……これってさ、これってさ!!!え?考えすぎ?でも、この男、お菊さんが気に入っていたし、つまりはそういう風に……脅したわけでしょ。その次には、もっと踏み込んで彼女の身体を狙ったわけだしさ……そうじゃないの??そうでなきゃ、こんなアングルのカット、入れないよねえ!?

目から血を流して、笑いさざめく吉原の群衆の中からようよう姉のもとに帰ってきた弟。しかし、その目はあかず、それに加えていつ捕まるかも判らない弟をかかえてお菊さんは苦悩する。しかしその一方でどこか穏やかな時間ももたらされる。目に包帯がわりの手ぬぐいを巻きつけ、姉に寄りかかる弟。こんな風にしている時間が昔から好きだったと……そんな弟を優しく抱き寄せる姉。
もう、この時点で、いや最初からこの二人には何か、禁断の、そしてたまらなく美しい愛の形が見えていたのだ。
寄りかかる弟を支えながら居眠りをしてしまったお菊さん。そこにあの鬼畜男がやってくる。寝ているお菊さんに見とれて、そのほつれた髪をなおしてやったりする。頬に触れる。目を覚ましたお菊さんは男を見てビクリとする。
ついに、やってきてしまった、この時が、と。

愛する弟のために一度はその身を売る決心をしたお菊さんだけれど、どうしてもどうしても思い切れずに、失神してしまう。目を覚まし、男の、欲望がしたたりおちているような、おぞましいその口元を間近に見て、お菊さんは震え上がる。やっぱりダメ、と逃げ惑う。台所の包丁を目にしてしまう。そして……。
震える足を一歩、一歩と必死に差し出す足元のカット、崩れ落ちてフレームアウトするお菊さん、ヌチャッとした男の開いた口のアップ……サスペンス並みのスリリングなカメラワークにドキドキする。しかも外は豪雨。悲鳴を上げても誰にも聞こえない。笠をけちからして必死に逃げるお菊さん。迫り来る男。そしてお菊さんは包丁を手にしてしまった。
この時、目を覚ました弟君は、ずっと闇だったその目に光を宿した。
そこにいない姉、悲鳴を聞きつけ、探しまわる。弟がその修羅場に辿り着いた時……既にお菊さんはその男を刺してしまっていた。本当の人殺しになってしまったのは……姉の方だった。

豪雨の中、姉弟は走り続ける……行く当てなどないのに。
しっかりと姉の肩を抱き寄せる弟。廃小屋に辿り着き、つかの間の安息を得る。疲れ果て、横たわったお菊さんは、雨が黒髪に玉のしずくを作り、その小さな顔にもしずくを垂らし、悲壮な美しさ。姉に弟は言う。どこまでも、世界の終わりまで、一緒にいる、と。
うわ、言ったね!やっぱりあんたもね!と思ったのに、思ったのに……弟君たら、その時からまた頭がぐるぐるヘンな妄想めいたモノにとらわれてしまうのだ。
またも浮かんでは消えるあの歯ぐき女、お梅。
姉を置いて、フラフラと弟は外に出てしまう。白い十字路。その道を左に折れて、吉原に向かってしまう。お前なー!

どうして、どうしてだろ。弟君は、なぜこの段になって、お梅を思い出したの?だって、辿り着いて弟君が耳にしたのは、お梅の薄情な台詞、いかにも商売女のその場限りの移り気を思い知らされただけだったのに。
打ちのめされた弟に、毒までが回ってくる。目を抑え、頭をかきむしり、狂わんばかりに苦しむ弟。
だけど、だけど……その弟の脳裏に浮かんでくるのは、お梅ではなく、貧しく慎ましいながらも仲良く暮らしてきた姉の面影なのだ。
姉と一緒に笑っている自分がそこにいる……。
そのお菊さんは、髪もほつれていなくて、健康的で……つまりは、弟がこの矢場に、そして女に溺れてしまったためにあんなにも見るかげもなくやつれてしまったのだ。
弟は倒れる。バッタリと。

弟がいなくなったことに気づいたお菊さんは外に出る。
白い十字路に出る。その十字のところで……どちらに行ったものやらと戸惑う。
彼女にはずっとずっと聞こえ続けている。弟が言った、「いつまでも、世界の終わりまでも、一緒にいる」という言葉が。
あんまりだ。その頃弟は他の女のもとにいき、決定的に裏切られてこと切れてしまったというのに。でも……弟の脳裏に最後に焼きついたのはお菊さんだったのだから……ねえ、やっぱり弟君だって、お姉さんのこと、さあ……そう思わなきゃ、あんまりすぎるよ。

一階の笠屋から、姉弟の暮らす二階に通じる長い長い階段、二階で客をとるお梅を下から男(たち)が見上げる作り、行き止まりを思わせる廃小屋……いい具合に大げさな美術とこれまた大胆なほどに陰影に富んだ光彩に胸騒ぎをかきたてられる。お菊さんの髪のほつれ方だって、そりゃほつれすぎだろうと思うぐらい、それも大げさと言えばそうなんだけど、それがもう既に、この先の展開を予期させるなまめかしさにいつしか転換しているというのが、すばらしいの。とにかく、美しいんだってば!!

かぁー!これ、ちゃんと、日本語版で観たい!★★★★★


12月のうた
1971年 2分 日本 カラー
監督:岡本忠成 脚本:岡本忠成
撮影:吉岡謙 田村実 音楽:小室等
出演:

2004/7/23/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
2分、あっという間に終わってしまいながらも、小室等御大の聞き入ってしまうフォークと、童話のような、描き絵がそのまま動き出してしまう可愛らしさに心奪われてしまう。どこか“みんなのうた”風。人間だけが、12月忙しくしている横を、動物はノンビリと過ごしている様子、確かにそういう点ではシニカルではあるんだけど、とってもチャーミングに描写。ツカミとしてはかなりオッケーで、この岡本忠成にハマりそうになる予感が!★★★☆☆
オリオンの殺意より 情事の方程式
1930年 107分 日本 カラー
監督:根岸吉太郎 脚本:いどあきお
撮影:森勝 音楽:浅岡典史
出演:山口美也子 加納省吾 戸浦六宏 亜湖 根岸明美 古川哲唱

2004/3/23/火 劇場(銀座シネパトス/レイト)
これはかなり濃密な心理合戦のサスペンス。操っているはずが操られて、最後に笑うのは……というラストまで実によく出来ている。アホな私はヒロインの山口美也子とワキながら印象的な亜湖の形のいいおっぱいに気をとられて(笑)全く予測できずに素直に驚いてしまった。え?え?いつからこの青年、敏彦はそこまで計算していたの?って。いつからどころか最初からだったのだ。無論、彼が言うとおり、ウソと本気は半々だったろうと思う。母親と呼ぶには若くて美しすぎる義母、麻子。それは本当だったろう。自分の計画に利用するために彼女への思慕を日記につづる形をとりながら、そこはそれ、若い男の本能として正直な部分があったのは一目瞭然。彼は麻子とイケナイ関係になる……秘密を共有するために。

もともと、共通目的はひとつだったのだ。それを自分だけ気づいていると麻子が思っていただけで。敏彦の秘密の日記を盗み読んでいるはずが、盗み読まされていた。敏彦は引き出しの奥にセロテープを貼って、日記を取り出したら判るようにと細工する。どこか夢見がちな青年がやるようなそうした行為に少々口元がゆるむ。敏彦は高校で手製の飛行機を飛ばすクラブに入っていて、部屋中にその試作品がたくさんある。そういう部分も彼の青臭さを象徴しているような気がしたのに。

つまり、彼の父親への憎悪は、麻子が思っていたよりももっと本気でずっと前から真剣で、麻子が彼女の肉体を使って操れるような、そんなフラフラしたものじゃなかったのだ。と、いうことを観客の方にも最後の最後までのらりくらりと騙し続ける本作は、ちょっとズルいと思うような上手さ。敏彦が父親を殺そうと思うまでに憎悪していく傾斜は、それは後から考えればまるで彼が自分自身を騙していた……自分で自分の心理を操作していたんじゃないかというほどで、そりゃ麻子が騙されるのも無理はなかった。それに麻子の肉体の誘惑は本当だったし……麻子の肉体の誘惑が本当だったから、敏彦も相手を騙しながら自分の気持ちを高ぶらせていくリアルさを追及できたのだ。

彼の日記は読まれるための日記。刺激的な、思わせぶりな言葉が連ねられている。それを盗み読んで麻子はこっそりと笑う。彼女の乳房にオリオン星のような三つ並んだ星があることを彼は知っていると書かれている。思わず麻子は胸元をあけてそれを確認する。彼女の中の何かが、うずく。
その時、敏彦は彼女のそれを思い出しながら、プラネタリウムを見ていた。いまはなき渋谷東急の五島プラネタリウム。

麻子には昔からの恋人、北畠がいて、家族の目を盗んで密会を重ねていた。敏彦が麻子に気があるのなら、それを利用してやれと北畠は言う。北畠は恋人というより……麻子のヒモのような男。彼女を激しく抱く一方で、彼女から金をもらって悪びれもしない。
北畠にそうそそのかされても、麻子はあまり気乗りがしない。いや、気乗りがしないだけで身体はノッているといってもいい。彼女の夫とのセックスは決して満たされるものではなかった。一方、北畠とのセックスは燃えるけれども、彼女の身体を動けないほどにガッシリと押さえ込むようにして挿入するそのシーンは、……何となくこの男の性格が見えるような気がした。
麻子の方こそが、敏彦の若く初々しい肉体を欲していたのかもしれない……。

父親が海外出張に行っている間に、麻子と敏彦はそういう関係になる。いきなり敏彦の入っている風呂に入ってくる麻子!驚いて動けない敏彦……彼女はおもむろに敏彦のつかっている浴槽に一緒に入ってくる。そして「……学校はどう」なんじゃそりゃ!こういう状態で聞く質問!?思わず吹き出してしまうけれど、山口美也子の美しい胸のふくらみに目が釘付けになる。いやそれまでだって、夫との、そして北畠とのシーンでナメまくられ、揉まれまくられしていたけれども、そうじゃない状態で、純粋に裸身の状態でのその美しさに……。敏彦が恐る恐る、という感じで彼女に触れ、その乳房を口にふくむ。ゆっくりと時間をかけたそのシーンは、あわただしく入れて終わるほかの二人の男とのそれとは明らかに違っている。しかし結局この二人……何度かそういうヤバ系のシーンはあり、敏彦が射精はしたけれども、最後までは、実は、いってなかったんではなかろうか?結構そういう部分は道徳的なのねと思ったりして……。

敏彦がストリップ劇場で出会った紋子(亜湖)が非常に印象的。ストリップ劇場に女一人で観に来ている、というあたりもイカしてるが、さびついた小さな車に乗っているというのも妙に堂に入っている。カギもかけないこ汚い部屋にはベッドだけでいっぱいいっぱい。かつてアメリカ人と同棲していたという彼女、そのカレシがおいていったウォーターベッドの上には雑然とモノが散らばっている。下にはすぐに川(用水路?)が見え、ベッドに揺られながら外を見ると、まるで船の上にいるようだ、と敏彦は言う。紋子は得意げに「そうでしょ。ここが私の箱舟なの」と言う。今度はアフリカに行くかもしれない、誘われてるの、と無邪気に世界地図を広げる彼女は、いつでもどこでも縛られない、自在な船の旅人だ。

顔立ちはまるで幼くて、こけしのような素朴さなのに、脱ぐとスゴい。彼女が脱ぐのは物語も大分後になってから。彼女自身はかなり経験をつんでいるようで、敏彦を最初に部屋に上げた時からそういう気分満々だったみたいなんだけど、敏彦自身はまだまだオクテで、というより若い母親の方に気がいっているのと、父親殺しの策を練っているせいで、紋子とは気のあう友達、というような付き合い方をしていた。二人が関係をもったのは……彼の父親が死んだ夜。転がり込んできた紋子の部屋。彼女のかつての、ノイローゼ気味だったアメリカ人の恋人とのセックスを聞かされていた敏彦は請われるままに彼女を縛る。「いつもこんな風にやっていたの」と敏彦は聞きながら、高ぶる気持ちを押さえきれなくなって、ナイフで衣服も縛り上げた紐も切り裂いて彼女を抱く。麻子とはそこまではいかなかったのに……。
白くて大きくてマシュマロみたいに柔らかそう。おかっぱ頭を揺らして彼に柔らかく抱きつく紋子は、麻子との駆け引きの関係とは違う。彼女はまるで打算なく、すべてを投げ出してくるから。

その時点では、敏彦が殺したんだとばかり思っていた。彼が父親を殺すのを夢想する映像の繰り返しからの流れで、この父親の頭にブロックが振り下ろされる影が敏彦だと思い込んでいた。でも、違ったのだ。敏彦は確かにその手で殺してやりたいくらい、父親を憎んでいた。若く美しい後妻を迎えた父親。そしてその義母に思いを寄せると、その若い母親が父親と愛人ともに相手にしていることを知った。出て行った母親は既に年若い男と関係している。
敏彦はもしかして、最後のギリギリまで自分自身で殺すということもアリだったのかなとも思う。それこそ、半分は、本気だったのかもしれないと。
敏彦が首尾よく父親殺しを麻子と北畠に仕向け、敏彦は麻子と最後の別れをする。日記に書いていたのは全部ウソだったのかと問う麻子に、半分ぐらい、とニッコリする敏彦。

白バックに日記の言葉が浮かび、それが迫るように大きくなってゆくという手法、どこかアナクロな気がしながらも、畳み掛ける効果がバツグンで、言葉ってこんなに人の気持ちを揺らすことが出来るのだということを改めて思う。確かに、映像は言葉に負けてしまうのかもしれない。団鬼六のしつこいまでの文章描写は、畳み掛けるほどに想像力を鼓舞させる世界で、ダイレクトに見せてしまう映像の無粋さとは明らかに対照的なのだ。想像力を喚起させる言葉から感じるエロティシズムとダイナミズムをどこまで表現できるか……そんなことを追及しているように思う。

花を手前にしたシーンが印象的だった山口美也子。激しいセックスに上下しながら花びらをくわえる耽美。でも、女として勝負する厚化粧より素顔の可愛らしさが意外だった。★★★☆☆


少年猿飛佐助
1959年 83分 日本 カラー
監督:藪下泰司 大工原章 脚本:藪下泰司 大工原章 村松道平
撮影:大塚晴郷 石川光明 山本明生 音楽:船村徹
声の出演:中村賀津雄 桜町弘子 宮崎照男 松島トモ子 薄田研二 赤木春恵 吉田義夫 堺駿二 伊藤亮英 岸田一夫 杉山徳子 岸井明 麻生みつ子 香椎くに子 木下華声

2004/7/30/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
出来れば日本初の長編アニメ「白蛇伝」の次に観たかったけれど、こっちを先に観てしまった。悪を憎み、正義を愛する少年、佐助の心踊る冒険物語は、古きよき日本のお伽噺の、そう、和のテイストがたっぷりでワクワクしてしまう。こういう作品をドキドキしながら観ていたであろうその頃の少年少女たちを思うと、ああ、いいなあーって、思うのだ。何か、たまらなく。

美しい姉、そして森の無邪気な動物たちに囲まれて、快活な少年、佐助は暮らしている。生来身軽で、野生の動物たちからも一目置かれる存在。まさに、少年の理想の姿である。
この企画上映に足を運んで毎回思うことなんだけど、動物たちがすっごく可愛くって、しかも動きが素晴らしいのね。もおー、このキュイキュイ言ってるりすさんとか(よーく耳をすましてみると、ちゃんと言葉を早回しっぽく言ってるのだ)、首にリボンに通した鈴をつけた、バンビみたいな小鹿さんとか、おっとり親子のくまさんとか、もうたまらなく、カワイイの!特にこの小鹿さんにはヤラれたなあ。最初親子なんだけどね、オオサンショウウオのオバケから、小鹿さんを救おうとしてお母さん(多分)が死んでしまうわけ。お母さんが消えてしまった沼の岸で、無言で涙をぽろぽろと落とす小鹿さんがたまらないんだよなあ!あ、無言も何も、この小鹿さんは一貫して言葉を喋るわけじゃないんだけど、佐助と一番心が通っているっていうのも、イイのね。しかも名前がね、エリっていうの!いやー、テレるなー(お前じゃないって)。佐助がエリとかエリちゃん、とスクリーンで発するたびに、いやー、いい名前だねと悦にはいったりして(バカ)。

この沼にいた怪物は何なのか、それは自分より美しかったり幸福だったりする人がいると、嫉妬して妖術によって不幸にしてしまうという夜叉姫だろうと、姉から聞いた佐助は決心する。人々の幸せな生活を脅かすそんなやつは許せない。オイラは忍術を身につけて、このバケモノを倒すんだ、と。あなたはまだ子供なんだから、と姉は佐助を止めるんだけど、一度言い出したら聞かない子だということも、判っていた。夜こっそり出て行った佐助、追いかけるエリ(あーん、このコったら、またぽろぽろ泣くんだよー!)、でも佐助はそのまま背を向けて歩いてゆく。忍術を身につけるまで、帰らないという決心をして。
佐助が山奥の仙人のお爺さんを訪ね、そこで忍術をマスターするのに実に三年もの月日がかかった。佐助のやる気を買ったお爺さんの熱心な指導と、佐助の粘り強さが実った結果である。そしてその三年の月日の間に、子供だった佐助は、まだまだ若々しくも凛々しい青少年となり、今、お前の力が試される時だ、とお爺さんに言われて、ここを辞するのだ。

この忍術マスターの過程はかなりのワクワク度よねー。じわじわ消えたり、垂直を歩いたり、宙空をひらり、ひらりと回転したり、やはりこういうアニメの初期から、アニメならではの独壇場なのね、と思う。すさまじい上下左右の空間移動を使ってて、軽やかで、実にカッコいいんだ!そして佐助が懐かしい家に到着してみると、そこは既に夜叉姫の手下の山賊どもによって火を放たれ、黒焦げになっていた。佐助の呼びかけにエリが応じ、姉さんと三年ぶりの再会を果たす。すっかり立派になった佐助に涙を流す姉さん。しかし追っ手はもうすぐそこまで来ていたのだ。

この姉さんがほおんと、キレイでねー。雪のような白い肌に、すその短い着物の桃色がよく映えて。こういうのはまさに、古きよき時代の、日本の、時代劇の、美女だよなー。目の縁取りが赤くってね(あ、それは佐助もか)、ちょっと歌舞伎調な風合いも入っているような絵柄で、こういうの、今じゃ絶対観ることが出来ない絵柄。山賊を追って若き殿様、真田幸村がこの森深くを訪ねてきて、彼女と出会うんだけど、この森の中にかくも美女が……って目を奪われるわけ(いや、どっちかっつーと、奪われているのはおつきのおっちゃんの方かな(笑))。そんで、この真田様も凛とした、美しい若殿様。敏捷で、腕も立ち、気配にも敏感で、後にこの殿様と相対した佐助がすぐに気配を気取られ、「姉ちゃんの言うとおりだ!」と驚いたという、実に大したカリスマなのだ。もう、この時点でカップル成立はキマリでしょ。

実際、ラストにね(いきなりラスト飛ぶんかい!)自分のそばにいて助けになってくれないか、とこのお殿様は佐助に言うんだけど、佐助は、おいら、まだ子供だから、と仲間の動物たちと一緒に、野山を駈けて行ってしまうのね。でもこの美しいお姉さんは殿様のそばにしっくりと寄り添って、弟を見送るわけ。佐助は誰の束縛も受けずに自由であるからこそ佐助なんだと思うけど、でも心はずっとこのお殿様の忠義なんだろうな。そしてずっと自分を育ててくれた姉さんともここで別れて、姿かたちだけでなく、本当にここで大人になった、ということなんだろうなあ。

おっとっと、思いっきり先走っちゃったよ。クライマックスすっとばしちゃった。だから、ひと悶着あるんだってば。それは佐助と、ウラの主人公と言うべき夜叉姫との対決である。この夜叉姫っつーのがね、すっごいのよ。何がって、すっごくコワいの。佐助の姉さんが、日々の糧に感謝して生きているような、慎ましやかな美女だというのなら、この夜叉姫は多分美女だったんだろうけど恨みつらみで醜女になってしまった、という……まさしく正反対なの。夜叉姫がこの姉さんを一目見て、嫉妬に狂ったというのはさもありなんっつーか。だって夜叉姫、コワいんだもん。

この造形は、スゴいと思うよ。キャラの中で多分、一番力入ってると思う。鬼と口裂け女を足して2を掛けたようなオッソロしい形相なんだもん。あのね、輪郭が青で描かれてるのよ、彼女だけ。それが何ともはや恐ろしいんだわ。陶酔したように、踊りを踊るその様も、結構尺を取ってて、魅入られているって感じで、凄いの。で、そのたなびく黒髪が、実に粘着力っぽくねとっと動くのよ。細やかな動きといえばそうかもしれないけど、それよりも、ねとっ、て感じなのよ。で、白塗りに赤い唇がガッと裂けて、白装束でしょ……夢に出そうだわ。
キャラとして力が入っているだけ、彼女が悪役で、倒される運命にあるっていうのは判っているんだけど、何か、哀しく感じちゃうんだなあ……うん。基本はこの夜叉姫を倒す勧善懲悪なんだけど、メインに近いくらいこのキャラに力注がれてるから、あんまりイヤな気分にはならない……哀しく思っちゃうぐらいで。

猿飛佐助、って聞いたことは無論あるけど、こうして物語で観たのは初めてかもしれない。佐助や山賊のテーマソングもあって、ちょっとした音楽劇の雰囲気もある。この、少年合唱団やら、青年合唱団の感じも何ともいえずイイ感じなんだなあ。あー、何か、タイムスリップしたくなっちゃう!★★★★☆


白いカラスTHE HUMAN STAIN
2003年 108分 アメリカ カラー
監督:ロバート・ベントン 脚本:ニコラス・メイヤー
撮影:ジャン・イヴ・エスコフィエ 音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ニコール・キッドマン/アンソニー・ホプキンス/エド・ハリス/ゲイリー・シニーズ/ウェントワース・ミラー/ジャシンダ・バレット/アンナ・ディーヴァー・スミス

2004/7/8/木 劇場(日比谷みゆき座)
原題は「人間の傷」。直接的に見えて、実は逆にこっちの方が哲学的なんじゃないのかと思えるこの原題の方が好きだったりするのだけれど。「白いカラス」という邦題、その暗喩を充分に感じとるのは少し、難しい。それはここで描かれていることがとても、深刻で、深い傷だから。

もう老齢の男が親子ほども年の違う女性との間に築く「最後の恋」。そしてその男、コールマンが抱えてきた傷は、とてつもなく重かった。
彼の傷が最終的に明かされるまでは、女、フォーニアの傷の方がずっとずっと、深く重いように思える。いや、傷に程度なんてあるわけでもないんだけれど……その時点でのコールマンの傷は、誤解から職を解かれたことと、そのショックで妻が死んでしまったことぐらいだったから。ぐらい、だなんてもんじゃないんだけど、確かに。

フォーニアは、小さい頃から義父に性的虐待を受けていた。幸せをつかもうと結婚して子供をもうけたら、自分の過失かもしれない事故で子供を失う。そのことを元夫が責め続け、彼女をストーキングしている。
彼女は、まさしくゆきずりで、コールマンを誘い、彼と寝る。彼女にとってはいつものことだったんだろう。こんなに深い仲になるつもりもなかったんだろう。でもコールマンは……その彼女の中にある傷に共鳴したんだろうか。
フォーニアは、決して泊まらない。セックスすれば、必ず帰るし、帰ってもらう。でも、二人の関係が深まり、ついつい泊まってしまった彼女は……取り乱す。コールマンに悪態をつき、飛び出してしまう。
これは、何だろう。幸せな家庭を想像させる、愛する人と一夜を過ごしたすがすがしい朝が、自分には許されないと思っているからだろうか。
でも、彼を愛しているから、あんな風に取り乱したことを彼女は後悔して戻ってくる。
でも、その直後、二人には最期の時が待っているのだ。
これは恋。最後の恋。愛に昇華するのを待たず、だからこんなにもあっけない結末が訪れたのかもしれない。

コールマンの隠している秘密、それは、彼がカラード(黒人)だということだった。
何たってアンソニー・ホプキンスが演じているのだし、最初彼が紹介される肩書きは“アテナ大学初のユダヤ人学部長”である。白い肌のコールマンがカラードだなんて、一見しては判らない。
現在のコールマンと同時進行で、若き日のコールマンも描かれる。青年時代、ボクシングにうち込んだコールマンは、確かに肌の白い、白人といっても差し支えない外見だった。その情熱的な漆黒の髪が、有色であることを匂わせなくもなかったけれど。
彼の両親は見た目から明らかにカラード。この両親からこんなに白い肌の子供が生まれるなんてこと自体が何だか不思議なほど。でもこれは、よくある話なんだとも聞く。
彼は別に、カラードであることを恥じてなんかいなかった。隠すつもりがあったわけでもなかった。しかしボクシングのコーチは彼にユダヤ人だと名乗れと言い、突然死してしまった父親が、いかにもインテリだったその父が、カラードであるがゆえに配膳係の仕事にしかありつけなかったことを父の死後に知り、そして決定的なことには……初めて愛した彼女が、彼の母親と会い、初めて彼がカラードであることを知り、愛しているけれど……でもダメ、と言って去っていってしまったこと。

最初から、彼の肌が黒ければ、その方が逆に良かったのかもしれない。否応なく直面する人種というアイデンティティを、考えざるを得ないから。彼は自分でそうとは気づかないまま、それを考えることを免除されていたのだ。彼の母親が言う、自分の人種に誇りを持てという言葉は、彼が主張する自分自身であることの方が大事、という言葉に比して古いように聞こえもするけれど、そうではない。彼が自分自身であるそのことの中に、明らかに人種の問題は入っていることに、彼自身が直面せずに来てしまった。自分を主張するなら、自分を受け入れなければならないから。自分でだけいるなんて、出来はしないんだ。だって両親から生まれ、祖先が連綿と続いてきているんだから。つまり、彼の言っていることは、完全ではない、リッパに見えて、子供の、言葉なのだ。
それをコールマン自身、どこかの時点で気づいていたのかもしれないけれども、ユダヤ人として生きる決意をした彼に、後戻りは出来なかった。

一見してカラードだと判る家族たちと決別し、妻にも両親は死んだと言って会わせず、黒人教授を初採用したユダヤ人学部長として、人種差別問題に積極的に取り組む人物像だったのだ、彼は。
でも、このウソに彩られた人生のなんと哀しいことだろう。彼が職を解かれたのは、そんなつもりもなく口にした言葉が、人種差別だとあらぬ疑いをかけられたためだったのだけれど、彼の人生の選択を考えると、何と皮肉な話ではないか。そして彼を信じ、愛し続けた妻を、彼のために心臓ショックで死んでしまった彼女を、これ以上ないほどの卑怯なやり方で、最期まで欺いたのだ。そのために、彼女との間に子供も作らなかったんだろうし。

彼の人生の傷、人生の辛さというのは、いわばこんな風に、自分で招いた傷である。でも自分で招いた傷が、もっとも深く、重いのかもしれない。フォーニアの傷はとてつもなく深く重いものだけれど、ただ哀しみに沈んでいられる楽さがあるとも、言えるのかもしれない……コールマンのそれに比べれば。
そしてフォーニアの元夫は、ベトナム従軍兵だった。国の英雄として帰ってくるはずだったのに、この戦争は失敗だったと言われ、戦場で人を殺し、子を失い、妻に逃げられた彼。恐らく、強烈な孤独に耐えられないがために、妻をストーキングし、彼女の持っている子供の遺骨を思っている彼。
確かにここまで悲惨ならば、この上元妻に対する思いやりを持てっていう方が酷なのかもしれない。
もう少し普通の状況だったならば……子も死なず、心に余裕のある妻が傷ついた彼を迎えることが出来たならば。 彼にもまた、さしのべる手が必要だったのだ。確かに。
彼らに比べて、コールマンの傷というのは、ある意味自業自得に近いものなのだけれど、それがこんなにも、こんなにも辛いなんて。

自業自得、だなんて、言える立場じゃない、日本人は。人種差別というものを、私たちは真に理解できるところにいないから。全くないとは言わないけれども、日本国民の中にここまでハッキリとした差異はないから。あるいは、日本の中でもそういう人種的な存在や問題があるってことに対して、見えないフリをして、あるいは本当に見えてなかったりするから。
でもそれは、幸せなことなんだろうか。人種差別があるということは、それは逆に言えば、その人種が存在することを認めているということでもあるのだ。日本人はそんな認識すら認めずにここまで来てしまった。だから今、国際化社会になって、外国人が入ってきて、対応できずにいるのだ。
そう、ひょっとしたら日本人の方が、恵まれない立場であるといえるのかもしれない。

いわば、自分で招いた人生の不幸にヘタレているコールマンに対し、運命の悲劇に苛まれ、人生に疲れきっていながらも、その疲れきっているさまがやたらとカッコいいフォーニア=ニコール・キッドマンが素晴らしいのね。
彼女は何たってカンペキ美人だし、だから今まではどちらかというとお育ちの良いキャラクターというか、ノーブルな感じが多かったんだけど、そう思っていたのがフシギなぐらい、このはすっぱと言えるほどに人生に老練な女が、恐ろしいほどに、ハマる。
せかせかと、たばこをふかして(吸う、というより、こっちな感じ)、30は年が違うだろう、しかもクセ者役者、アンソニー・ホプキンスを相手に、彼女の方が明らかに上手(ウワテ)である。上手、まさに女性上位(セックスも!)。

コールマンが味わっている人生の悲劇というのは、もともとがそうした、アイデンティティが熟さないうちに子供の弱さで選んでしまった悲劇だから、その点、フォーニアが上手なのは確かにさもありなん、なのだ。コールマンがフォーニアに恋したのは、どこかそんな……彼女を守ってやりたいというよりも、意外に逆……マザコン的な感覚があったんじゃないかと、思ったりもする。
周囲からは、フォーニアとの関係は止めておけと忠告されるコールマン。見た目、ナゲヤリでハスッパだし、ヤバい元夫にはつけまわされているし、確かにそう忠告されるのも道理である。でもコールマンがそんな友人たちを、独善者!と喝破するのは非常にカッコいいし、嬉しい。もう老齢のコールマンにとって、いわば奇跡の、最後の恋であるというのも大きいけれども、自身、人生に疲弊しきったコールマンだからこそ、彼女の同じ痛みが判ったのだから。彼だけに、判ったのだから。決して、決して、色ボケなんかじゃないんだから!

この物語には語り部の存在がいる。失意のうちに教授の職を辞したコールマンが、理不尽な大学側を糾弾するノンフィクション本を書いてほしい、と依頼する、隠遁生活を送っている作家、ネイサンである。
演じるのはゲイリー・シニーズ。ようやく彼の顔が怖くなくなった(笑)。彼は、自分はフィクション作家であると断り、コールマンに自分で書いたらどうかと勧めるんである。その勧めに従ってコールマンは執筆を始め(途中で挫折するけど)ネイサンとも親友同士になり、お互い曇った人生に光がさし始めるのだ。
一緒にマラソンをしてみたり、まるで恋人同士のようにダンスに興じたり、こちらもまた、かなりの年の差の友人同士でありながら、とても濃密な関係だ。若い恋人が出来たコールマンにネイサンが苦言を呈したのは……彼に限っては、ちょっとした嫉妬もあったのかもしれない。

コールマンとフォーニアは、二人車に寄り添って乗り、誰も見ていない雪道で、フォーニアの元夫に正面から突っ込まれ、コールマンはハンドルを切りそこねて氷の河に突っ込んでしまった。
哀しいけれど、完璧なまでに、美しい二つの死だった……。
突然の親友の死に、ネイサンは呆然としながらも、その足跡をたどり始める。フォーニアの元夫に会う。孤独に、彼だけの秘密の場所で、氷の下の魚を釣っている彼。ネイサンは、コールマンに初めて会った時のことを思い出す。自分のことを書いてくれと言われたことを。
そして、決心するのだ。コールマンという一人の男の物語を書こうと。
コールマンの死によって、ネイサンの作家の命がよみがえる。……皮肉というよりは、不思議なえにし。

でも、やっぱり考えてしまうのだ。コールマンとフォーニアの“恋”のことを。
二人は「恋」のまま終わった。恋のまま死ねたのは、良かったのだろうか。
二人の関係は愛まではいかなかったのか、それとも恋だからこそ、完全燃焼できたのか。
そういう運命だったのだろうか。★★★☆☆


白い象
1981年 23分 日本 カラー
監督:岡本忠成 脚本:岡本忠成 東川洋子
撮影:神部彰 音楽:広瀬量平
声の出演:岸田今日子 草野大悟

2004/8/6/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
まあ、思いっきり宗教な話ではある。そういう教えを伝える作品。そのために作られた作品。だあって、後押しが霊友会なんだもの。霊友会、よく聞くけど、これって具体的にどういう活動してるのかしらん、文字通り霊とお友達?なあんて。
でもその、思いっきり宗教、という用意された舞台だからこそ、思いっきり世界に没入できるってものでもある。天才、岡本忠成の尋常じゃない様式美のなんたること!

仏教の母なる国、インドを舞台にして、争いの無意味さを説いたこの物語、こんな、道徳の話に出てくるような話、ちょっとやそっとじゃ目を耳をそばだてさせるなんて出来ないんである。だけど、だけどッ!
だって、なあんて、きれいなの。
言ってしまえば、人形アニメには違いない。いや、人形とさえ言えない。半立体ではあるけれど、ぺったりと二次元に収まってるもの。ちょっとぼこぼこした、中の人物が動く良く出来た紙芝居、みたいな趣なのに、なあんて、緻密で、深くて、美しいの。

王様の半透明の薄絹のようなマント、指に光る大きなダイヤの指輪、小さな王子も宝石のちりばめられた豪華な衣装を幼いながら堂々と着こなしてる。王や王子の豪華さは言わずもがなだけれど、城の中の兵士たち、そして下々のものに至るまで、衣装のデザイン、布地の選択、全てがミニチュアドールの世界のように、素晴らしいの。人形じゃなくて、あくまで二次元の、言ってみれば紙人形の世界なのによ!

その舞台だって、遠近法も何もあったもんじゃない。それはまるで、そう、あのブリューゲルの絵画のように、全てが並列に記されてる。下に道があって、上に城があって、象を探しに行く森も、あくまでその延長線上。山は高いから上、谷は低いから下、単純明快。
その、すごろくみたいな世界が、なんていうのかな……世界を平易に見るっていうのはこういうことなんだよね、という単純の美しさで、圧倒させる。あ、ほら古代の絵画で、人間がひたすら真横を向いているってあるじゃない。これがここでもそのままなんだよね。ナナメはないの。真正面か、真横か。それがこの平面の構図の中でとても美しいし、その単純さだから、細密な美術、衣装も映えて。

このインドの国で、長い長い間、戦ってきた二つの国。とにかく隣の国は敵なんだ、倒さなければならないんだ。そうして続けられてきた戦争。
ある日、森の中に大きな白い象を見つけたという報告が入る。これはわが国の軍の大きな助けになるに違いない。わが軍の強さの象徴として生け捕りにし、敵国の軍を驚かせ、退いてやろう。
かくして、父である王から命ぜられて、少年王子は森の中へと白い象を探しに出かけるのだ。
本当に、見事な象。しかしその象は年老いた母象と一緒にいた。母象を哀れに思い、この白い象だけを連れてきたけれども、白い象、食べ物も食べず、日一日とやせ細っていく。
心配した少年王子、夜半象のもとへ行くと……戦いのために使われるのはイヤだという。少年王子が母象をかばってくれたから、自分はあなたについてきたけれども、それだけはどうしてもイヤだと。
まだまだ幼くて、敵は敵でしかないとしか考えられなかった少年王子には白い象の言うことは計りかねたのだけれど、あの母象の、息子を思う悲痛な叫びがずっと忘れられなかったから……父王の怒りは判っていたけれども、白い象を逃がしてやった。
白い象は何度も礼を言い、去ってゆく。母の世話が済んだら、必ず戻ってくると言い残して。

この時は本当に少年、だったんだよね、この王子。でも次の場面では、こんな二次元半立体人形のキャラクターでも、凛々しい青年王子になってて、おお、と思わせる。
まだ二国の戦争は続いてて……父王が負傷して戻ってきて、王子は頭に血がのぼるのだ。
まだ、彼には判らない。争いの無意味さは。父王を傷つけられたことに憤って、敵国を激しく憎む。争いのない世界だと?そんなのは、あの敵国を倒してからだ!と。
争いのない世界、それは、あの白い象が言っていたことだった。王子は、この三年の間、その意味をずっと考えていた……でも今の彼にはまだ答えは出ていなかったのだ。

いさんで隣国に攻め入った王子は、しかし捕らえられてしまう。過酷な労働を強いられる。彼の頭の中は、敵国への憎しみと復讐でいっぱいだった。
でも、牢獄の中で、彼は聞いてしまうのだ。民衆の声を。
それは、彼のように、敵国に対する好戦的な声ではなかった。もう戦争なんてコリゴリだ。こんなもの、やりたくてやっているんじゃない。そう言い合う民衆の声。
王子は更に民衆の様子に気を配って見てみる。そうすると……子供を失って哀しみにくれる母親、恋人が兵士に取られる娘、飢えた子供、傷ついて帰ってくる兵士……誰一人として、この争いを望んでいる者などなかったのだ。
王子はやっと、判った。あの白い象が言っていたことが。
その時、三年前の約束を守って、白い象が王子を迎えに来る……。

単純な展開だけど、言い換えればとっても判りやすい展開だって思う。争いがおこるのは、自分の憎しみに目を向けている者がいるから。その憎しみ以外見えていないから。王子もこの時、見えていなかった、それ以外。
でも、王子には見えてくる。哀しみにくれる民衆。争いを望んでいるものなんて、誰もいないんだと。
自分の父である王、そして敵国の王が争いを続けているのも似たような理由だ。自分の父が殺された、あるいは、祖先からの悲願である領土拡大を自分の代で絶やすわけにはいかない。こんな大義名分も、青年王子にかかれば、民衆を苦しめるだけの憎しみと欲に過ぎない。

うん、とっても単純。世界の争いもこんな説得でなくなればそりゃあいいやと思いつつ……でも確かに世界の争いも元を正せばこの程度に単純なんじゃないかって気もするし、若き王子のすがすがしい凛とした主張に聞き入ってしまうのも事実。そしてまだまだ幼い隣国の王女は無邪気に白い象に乗るのに有頂天で、敵国の王子ともあっという間に仲良くなってしまう。大人には出来ない無邪気さ。
そうだね、やっぱり子供、そして若さは、大人には出来ない力や行動力を備えているんだ、って。

白い象の、フェルト地のあたたかさがまたいいんだなあ。大きくて威厳のある象、そういう設定なんだけど、幼い王女が無邪気に戯れる象の日だまりのような暖かさ。
ほんの23分の中に、理想的な純度の高いメッセージがぎゅっと詰まってて、そしてこれだけの細密で夢のような美しさで……岸田今日子、草野大悟の語りがまたすっばらしいんだわ、芸術だよ、まさしくこれは。★★★★☆


深呼吸の必要
2004年 123分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:長谷川康夫
撮影:柴主高秀 音楽:小林武史
出演:香里奈 谷原章介 成宮寛貴 金子さやか 久遠さやか 長澤まさみ 大森南朋 北村三郎 吉田妙子

2004/5/31/月 劇場(東銀座 東劇)
どこまでもどこまでも、ちょっと唖然とするぐらいに果てしなく続くサトウキビ畑。そこを延々と刈る。仲間と。果てしなく、果てしなく。

あっ!

これって、まさしく「草の上の仕事」ではないかあ、と実に観終わってからそのことに気付いて俄然、嬉しくなる。篠原監督のデビュー作。
本作みたいに登場人物の心の変化や成長、仲間としての意識がドラマティックに変わるわけじゃないけれど、草いきれの中で、ただひたすら一心不乱の中で、何かがほんのちょっとずつだけれど変わっていくあの秀作の中篇を思い出して一気に嬉しくなってしまう。
最近はすっかり何でも器用に撮る職人監督だけど、初期の頃は、こんな風に緑を印象的になびかせる画面の映画が多くて、ああこの人は草食動物みたいな穏やかさだなあ、と思っていたものだから。

5人の男女が沖縄の宮古島に降り立つ。一ヶ月間のサトウキビ刈りのアルバイトをするためだ。
彼らを迎え入れるおじいとおばあの平良家には、ベテランキビ刈りの田所豊が先乗りしている。
週一の休みで、朝から晩まで。想像以上にキツい仕事に、慣れない5人の仕事は遅々として進まない。期間内にキビを刈り終わらなければこの平良家の経済状態に大きな打撃だというんだけれど、先輩風を吹かす田所への反発を覚える若者や、リゾート気分で来ているブランド女などが波風を立て、脱走騒ぎを起こしたりする。
しかし、皆何かを抱えてここに来ているのだ……それを平良家では聞き出したりしない。言いたくないことは言わなくていい。それがここでのルール。
そして一つの事件が起きる。それが彼らの結束を固くさせるのだ。

篠原監督作品だということもあるけれど、なんといってもこの作品を観に来る気になったのは長澤まさみちゃんが出ているからである。
この中では最年少の彼女、決して長袖を脱ごうとせず、無口どころかひとことも口をきかない、内向的な少女、加奈子。
彼女、笑顔を見せないと、本当に別人のよう。だから「ロボコン」で全開の笑顔を見せるまで、フシ穴の目の私は彼女の魅力に気付かなかったのだ。
重たい髪の毛に顔を隠しながら、どこかしょざいなげに皆と一緒の部屋で寝起きし、生活する彼女。

彼女一人だけがお風呂に入りそこねてしまう場面がある。「一緒にすませてくれなきゃ困るよ」と相変わらず高飛車に出る田所はシャワーだけは使えるようにしてあげると提案するんだけど、彼に反発している大学生の西村が「……親切とおせっかいは紙一重」とつぶやく。
彼女はそれを断って外に出て行く。水道水で直接髪を洗う。
タオルを探っていると、後ろから手が出てくる。おばあだ。
「拭いてあげるさ」そう言って彼女の髪を丁寧に拭いてくれる。顔も丁寧にぬぐってくれる。
風邪をひかないようにとか、そんな何でもない言葉をかけるだけなんだけど、背の高い彼女の顔や髪を丁寧にぬぐってくれるそのおばあのぬくもりがたまんなくって……その時見せるまさみちゃんの、とまどったような伏し目がちの表情も良くって。

彼女の変化は他のメンバーに比べても本当に微妙で、夜一人でおじいとおばあの部屋に行ってみたりとかする描写も、その後何を話したとかいうことが描かれることもなく、ささやかなんだけど、彼女の中に小さなさざなみがたっていくのが見えるような気がして。
多分彼女は、その腕に傷がある。キビ畑で転んで起こされた時に、ちらりと見える。
自殺未遂だろうか、それとも誰かからの暴力?それもこの「言いたくないことは言わなくていい」場所で明かされることはないのだけれど、彼女が容易ではない心の闇を抱えているのは間違いようのない事実。
でもある日、ふっと彼女がいなくなる。朝、荷物はそのままになっていて。皆探し回る。
しかし現場に行ってみると彼女が一人先に来ていて作業をしている。皆口々に心配した、探したんだよと言うんだけれど、ふとそのうちの一人が気付いたように言うのだ。
「そうか、明るくなれば作業できるよね」と。
このままでは終わりそうもないキビ刈り作業に皆が俄然やる気を出すきっかけを出すのが、この加奈子の行為で、彼女はそれを性格上口に出して言うのは出来なかったんだけれど、こうしてその行為で示して、そしておじいから「ありがとう、加奈子ちゃん」と言われて……ああ、やっとやっと、あのひまわりのような笑顔を見せてくれるのだ。でも、やっぱりチラリと。すぐに深くかぶった帽子に隠してしまうのだけれど。

物語の主人公は一応、ひなみという女の子。彼女一人は特にここに来るために抱えてきた問題もそう深刻なものではなさそうで、わりと印象は薄いのだが……。ただマジメで優等生っぽい彼女は見ていて安心するし、他のメンバーのそれぞれをあぶりだす役回りとしてうまく機能している。
彼女とマジメという共通点でちょっと惹かれあうっぽくなる最年長の青年、池永は、小児外科医だった。子供が好きで選んだ道だったはずなのに、それが多くの子供の命を見送らなければならないということに大きな心の重荷を感じてここにきている。
お気楽女、悦子はツラい作業にネをあげて脱走を図るんだけれども、おばあのおいしいおにぎりでアッサリ戻ってくる。彼女はあまり悩みはなさそう?
途中から参加する、この土地で生まれ育った美鈴は、最初に登場した時、伸びをした上着からチラリと見えたお腹がたぷんとGパンの上にのっているのにあららと思ったんだけど、まさかそこまで役作りっていうわけじゃないよねえ……彼女は妊娠していて、その先を決めかねているのだ。

そして田所に反発している大学生の西村。田所が「ここには逃げてくるやつが多い」と言うのにひどく反発する。日本全国の農家に収穫を手伝うため飛び回っているのを自慢げに話す田所に、観ている私たちもどこか拒否反応を覚えるんだけれど、その気持ちがなんなのか、西村は非常にストレートに提示してくれる。言ってしまえばいいとこどりの田所。会社という組織にしばられることなく、必要とされる時に必要な時だけ行って、そこの新人さんには先輩風をふかすことが出来る。……そんな彼に、西村はあんたこそ逃げているんじゃないかと、かみつくのだ。
ああ、そうか、私たちが感じていた憤りはこういうことなのかと思う。どこかに属さなければいけないと、一般的に私たちは思ってて、そしてそのことによっていろんな重荷を背負うことになる。加奈子も、池永も、そして甲子園で完全試合を達成したけれど大学野球で思うようにいっていない西村もそうだ。

田所に反発を覚えるのは、それが一方で彼へのうらやましいという気持ちだということも充分に判っているんだけれど、彼のような生き方がズルいという気持ちもまた大きい。
西村に糾弾されて田所も黙り込んでしまう。彼の中にもそれを否定しきれない気持ちもあったと思う……。
でも、生き方にいい悪いなんて、ないよね、と思う。ここで感じるのは……皆誰かに必要とされたいと思っているってことなんだ。
だからこそ田所は今生きがいを感じているんだし、それが皆の気にさわるということはつまり……うらやましいのだ。
子供たちが好きなのに、それを救えない池永、野球が好きなのに大学では相手にされない西村、命をお腹に宿す美鈴はもうその赤ちゃんに必要とされているとは言えるけれども、どうやらその父親からは必要とされていない雰囲気。そして加奈子は……多分かなり、辛い理由。

この場面での気まずい雰囲気を、一気に吹き飛ばす事件が起こる。それは田所の起こした事故。
豪雨の中、田所ひとりがサトウキビを心配して車を走らせる。いつまでも帰ってこない彼に皆が心配して駆けつけてみると……!
田所は右モモを大きくケガしていて、看護婦の美鈴のみたてによると、どうやら動脈をキズつけてしまっており、危険な状態。しかし島には医者は一週間に一度しか来ないのだ。
田所のケガを見つつも躊躇している池永にひなみは請う。彼女一人だけが彼が医者だということに気付いていた……「お願い、助けてあげて。お医者様なんでしょ」と。
ふと我に返ったようになる池永。手袋をはめ、てきぱきと指示を出し、処置をし出す。そしてこの時……田所に貧血が起こるぐらい血を提供してくれたのが、あの彼に反発していた西村なのだ。
これは、良かったなあ。だって、もう倒れるぐらい血をとられちゃったんだよ、でも西村、強がって「大丈夫だよ」なんて言う。皆にひやかされながら。
後日、田所は西村に……そう、かなり気まずそうで目も見てないけど、礼を言うのだ。それをやっぱり気まずそうに受ける西村。クスリと笑う周囲の女の子たち。カワイイ。
同じ血液型だったんだもん、案外似たもの同士だったんだよね、この二人。
ケガをした田所も松葉杖をつきながら、みんなで必死になって詰めの作業に入る。もうゴールは目前。

そう、あんなに、果てしない海のようだったサトウキビが、もう見渡せる、一角だけになっている。この感動。
少し皆も余裕が出てきて、昼休みにキャッチボールをしたりする。野球がキライになってしまった、と言う西村を誘うためもあって、「フィールド・オブ・ドリームスだね」なんて言って。
ああ、「フィールド・オブ・ドリームス」かあ……そうだね、ホントに。吹き渡る気持ちの良い南風。優しく揺れる緑。まぶしげな太陽。のんびりとしたキャッチボール。
そして、ついに、サトウキビは最後の何本かだけが残った。それを誰が刈るかで皆で競走をする。スローモーションに、かすかな風の音だけが聞こえる。走るみんなの笑顔が、まるで永遠の焼きつけられるフィルムのように、ゆっくりと流れてゆく。
その、最後の栄冠を勝ち取ったのはひなみだった。彼女はその何本か……人数分のサトウキビを刈り取り、皆に一本ずつ手渡してゆく。ここで共に頑張った証を。

「朝はくるんだね。くたくたになるまで働いてご飯を食べて、寝ても、朝はくるんだ」スケジュールも後半になって、朝日にのびをしながら加奈子が言う台詞。
「……あんた、声出るんじゃん」なんて言うのは、あの脱走を図った悦子。彼女の去った理由も単純なら戻った理由も至極単純なんだけど……それだけに、やる気が出てからは非常にタフになって憎めなくなる女の子。
加奈子のこの台詞には……いつでも朝が来る、そんなことにさえ気づけていなかった、つまりずっとずっと夜であったであろう彼女の辛い生活が垣間見られて……彼女のさわやかな笑顔に救われるものの、そんなことが想像されて、ちょっとチクリと胸が痛いのだ。
でも、ここでは皆必要とされている。そんな生活を続けている田所に西村が反発したけれども田所は皆が必要とされる手助けをしている人だとも言える。だから皆……必要とされる人間になれるのだ、なれる場所があるのだ。

「なんくるなーさ」という言葉に象徴される、沖縄言葉の陽気で優しい響き、労働の後の沖縄料理がふんだんに盛られた食事のなんというおいしそうなこと。人間の生きていくエネルギーの全てがここにある。確かにここでなら失われた何かが取り返せる、そんな気がする。
そこから先、どうやって生きていくのかは、彼ら自身にかかっている、それは勿論。
でもきっと、「なんくるなーさ」そう、大丈夫だって、思うのだ。★★★☆☆


ヤングパワー・シリーズ 新宿番外地
1969年 分 日本 モノクロ
監督:帯盛廸彦 脚本:高橋二三
撮影:中川芳久 音楽:伊部晴美
出演:峰岸隆之介 渥美マリ 河原崎長一郎 平泉征 夏純子 田中邦衛 八代順子 大川修 山谷初男 南部よし子 中村是好 須賀不二男 小野川公三郎 森矢雄二 谷謙一 小山内淳 金子研三 木島進介 夏木章 米山ゆかり 前田五郎 河島尚真 橋本力 井上大吾 稲妻竜二 横尾忠則

2004/1/20/火 劇場(銀座シネパトス/レイト)
“ヤングパワー・シリーズ”っていうのがまずかなりの恥ずかしさなんだけど……。“新宿は若者を育て、若者が新宿を育てる”……なぞという冷静なナレーションによる展開に、へぇ、なぞと思う。だって今だったら、やっぱりこの形容詞、あるいは劇中の無軌道な若者の感じって、渋谷におけるそれだよなあ、と思うから。田舎から新宿に憧れて上京してくる女の子、という描写だって、あるいはその女の子がワルい男の手管によって新宿の毒にあっという間に染まり、細眉つけまつげのケバメイクにくるんくるんのヘアスタイル、ミニスカートで闊歩する、というあの感じも、これが驚くほど今のシブヤの女の子にソックリなんだもの。メイクもカッコも。それは60、70年代懐古というよりはうーん、繁華街での女の子、というのが結構不変なんじゃないかと思わせるようなそれなのよね。これは意外な発見だったなあ。

峰岸徹が三回も名前を変えているとは知らなんだ。まー、そりゃ顔で一発で判るけどさ。日本人離れしたバタくさい顔。引き締まった体に前をだらしなくあけたシャツと着古したジーンズが良く似合って、ヤラしいくらいイイ男。こういう“男!”っていう男優はホント、ついぞ昨今お目にかかることは出来ない。彼、荒垣健二郎は恋人の山代ユリを探しに田舎から上京してくる。とにかく血気盛んな若者で、風俗店を怖いもの知らずで告発し、ヤクザから指を落とされちゃうんだけど、その指を焼き鳥の串で串刺しにしてそのヤクザの組事務所に乗り込み、一同から一目置かれてしまう。その一件で一気に新宿中に“一匹狼のケン”として名を馳せるんである。

一方で、山代ユリも一晩でこの新宿の女王になった。新宿でぼんやりしているところを、アングラ劇団の座長、悪之介に拾われたのである。そして舞台上でレイプさながらにホンバンをやらされ、そこから彼女は新宿の毒をなめて歩くような転落の人生をたどりはじめる。この悪之介が、これまた顔も声もそのまんまだけど異様に若い田中邦衛。怪しげ、と言うよりはくだらないと言った方が良さそうなアングラ劇団を至極マジメに主宰し、ユリへの陵辱も、“セックスは奪い奪われるものだ”なんてどこで聞きかじったか知らないけど安っぽい哲学論にすりかえてしまうような男。ユリの消息をたどって悪之介に行き当たったケンが、彼がユリの処女を奪ったと知って逆上(え……恋人だったのにユリと寝てなかったの?ていうか……ひょっとして恋人だっていうのもケンの思い込みだったりして……)、悪之介の妹をユリと同じ目に合わせちまうんである。ちょっとそれはいくらなんでも……さあ。しかしそれでも“それは妹の運命だから仕方ない”みたいに冷静な悪之介。う、うーん、ちょっとさすが、なのかなあ……いや、妹さん助けた方がいいと思うんだけど。だってこの子がちょっと、というかかなりカワイイ子でさ、いくらスクリーンの中の出来事でも見るに忍びないんだもん。

このアングラ劇団もそうだけど、歌声喫茶とか、フォークゲリラとか、フーテンがラリパッパしているたまり場とか、山代ユリが転々としてゆく先は、この時代の先鋭的な時代を象徴するようなところなのだ。歌声喫茶はま、何となく他の映画でも見たような覚えがしてたけれども、フォークゲリラというのが、その言葉は知っていてもどういうことなのか今ひとつピンとこなかったのが、なーるほど、映画というのはまさしく教科書だなあと思い当たる。そりゃまあフィクションで、そのために作られた画ではあるんだけど、やっぱりその時代ドンピシャリに“再現”されるとなると臨場感が違う。新宿西口の歩道いっぱいに膨れ上がった若者たちの群れ、機動隊が警戒するピリピリムードの中、ベトナム戦争反対を訴えてギターをじゃかじゃか鳴らすミュージシャンに反応してどこか宗教に入っちゃったみたいな恍惚を示すその黒山の若者たちは、異様な迫力なんである……そりゃまあ、時代なんだけど、今の若い人たちが戦争に反対することで、ここまでの盛り上がりを示すかなあと思ったら、この事態もかなり異様だとは思うんだけど、でもやっぱり今はお寒い状況なのかな、なんて思ってしまう。いや、でもやっぱりこれもちょっとだけど……。

指を落とされて血だらけになってはいつくばっているケンを拾ったのは、風俗嬢のわか代(わか子だったかな……渥美マリがキレカッコいいー)。一文無しでユリを探すケンを彼女はヒモとして面倒を見てやる。「“一匹狼のケン”を用心棒にしたっていうんで、あたしの株もだいぶあがったのよ」なんていう奔放でしたたかな新宿の女でありながら、しかし心ひそかにこのケンを愛し始めていたのだが……。そしてその“一匹狼のケン”にホレこんで、勝手に弟分になるのがチンピラの辰三(平泉征)。アニキ、アニキと慕い、この新宿で死んでしまったユリの消息をたどる手伝いをする中、ケンと二人新宿の理不尽さに対抗して暴れ回る。そう、あんなにケンのことを慕っていたのだが……。

そしてそして、最も強烈なキャラクターが大学生の身で高利貸しをしている平山和夫(河原崎長一郎)。きまじめに学ランを着込み、手提げかばんの中には借金の証文をいっぱい詰め込んでもうけている彼。ユリの行方を知りたがるケンにも、ユリの借金の証文を突きつけ、これを払ってくれるなら……と駆け引きする手練ぶりである。あのしれっとした顔は最後まで変わらず……そう、彼が一番、変わらなかったかもしれない。だって、ケンはもとは田舎者だったのがこの新宿で数々の修羅場をくぐりぬけ最も有名な男になり、わか代曰く“肩で風切って”歩いていたわけだし、辰三はケンへの憧れがいつしか野望に変わり、自らの男をあげるために、ケンを殺してしまった。“スペシャルでもホンバンでも何でもござれ”の風俗嬢、わか代は、男を見るだけでげっぷがするぐらい、男には飢えていないと言っていたのに、ケンを愛するようになってしまった。しかし平山だけは、変わらなかったのだ。

父親が借金のために自殺してしまったことから金の亡者になったという彼は、ケンがユリを探す手助けも欲得ずく。新宿中に敵を作って歩いているようなムチャなケンに、こりゃ長生きしないだろうと、平山が受取人の保険をかけるようなしたたかさなんである。でも、なぜか、不思議なことに、彼はこの新宿でのケンのたった一人の友達、一番理解してくれた人、に思えるのだ。確かに平山の言うとおりになった。いつもいつもケンの後をくっついて歩いていて一人では何も出来なかった辰三が刃を向き、ケンは死んでしまった。瀕死のケンが冒頭ユリがぼんやりと立っていた新宿の地下歩道まで歩いてゆき、苦しそうにのたうちまわるのを、離れてじっと見守っていた平山は「やはり僕の勝ちでしたね」と淡々とした表情で言う。おいおい、救急車ぐらい呼んでやれよと思わなくもないんだけど、それぐらい冷たくはあるんだけど、確かに彼だけが、ケンのことをその最期まで見通し、理解していたと言えるのだ。究極の理解者だけれど……。

ケンは、もう田舎に帰るつもりだった。ユリが自殺だったことを知ってしまったら、もうこの新宿にいる意味はなくなってしまった。行く先々で聞くユリ=リリーは、喜んで男に身をまかす、ケンの知っている彼女とはまるで違う女だったけれども、でも結局はケンの、ケンだけが知っているユリのまま、変わっていなかったのかもしれない。心の奥深くではいつもユリだったのかもしれない。彼女は「新宿日記」と題した日記帳を残して死んだ。託されていたのはユリが最後にいたフーテンのたまり場の、ヤクでもうすっかり前後不覚となり、タバコの火を押し付けられてももはや判らないぐらいの女。だけどケンが訪ねてきて、その女は意識がないような状態でも、ユリからの預かり物を手で指し示してくれた。彼女はユリの、そうケンにとっての平山のように、たった一人の友達だったのかもしれない、と思う。

日記につづられたユリの姿は、自らの堕落を客観的に見つめる、正気の姿だった。ラリッて転落死してしまったわけでも、殺されたわけでもない。もはや花ではない自分を、彼女は自ら消し去ったのだ。それを知ったケンは打ちひしがれる。むしろケンにとってはユリは殺されていた方が良かったのかもしれない。だって、それなら、復讐が出来るから。自分の知らないところで死を選んでしまったユリを、助けるすべはもう、ない。

ケンもまた、死を選んだのかもしれない、なんて、ちょっと思った。あの時、もう帰ると決めていたのに、辰三の懇願に応じたのは、どこか覚悟の予感があったのかもしれないって。

ユリが最後にいたフーテン達は「大したことしてない。性の奴隷をやらせてただけ」とぶっ飛んだこと言うんでのけぞった。大したことあるって……なんつーか、万事が万事、この調子でさあ。
この監督は初見なんだけど、フィルモグラフィをつらつら見てみたら、同じく峰岸氏と組んだもので「タリラリラン高校生」なんてイカしたタイトルに釘付け。み、観てー!★★★★☆


真珠の耳飾りの少女GIRL WITH A PEARL EARRING
2002年 100分 イギリス カラー
監督:ピーター・ウェーバー 脚本:オリビア・ヘトリード
撮影:エドゥアルド・セラ 音楽:アレクサンドラ・デプラ
出演:スカーレット・ヨハンソン/コリン・ファース/トム・ウィルキンソン/キリアン・マーフィー/アラキナ・マン/エッシィ・デイビス/ジュディ・パーフィット

2004/8/6/金 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
フェルメールの傑作絵画「真珠の耳飾りの少女」を題材にした、もちろんこれはフィクションである。画家はフェルメールとして出てくるし、時代背景や、恐らく彼の家族構成云々も、相当に史実に忠実なものであろうと思われる。だけどだけど、これは無論、フィクションなんである。この絵のモデルとして描かれるグリートという少女が実在したなんていう証拠はどこにもない。
けれども……。
これは本当の話なんじゃないのかと、思うような生々しさがあるのはなんだろう。いや、本当の話じゃないかというよりは、スクリーンの中の画家とモデルの関係の生々しさがストレートにリアルに感じられるということだろうか。

画家とモデルは別に関係を持つわけではない。指が触れただけでビクッと身体を震わせるぐらいウブな反応を示す少女グリート。そんな関係に至るわけもない。
いや、でも、けれど。
逆に、彼女のこの反応はなんだかやけにセクシャルなのだ。触れるか触れないかのかすかな手のタッチで、まるで感電したようにビクリとする。それでいてその指を自ら離そうとはしない。触れるのを、待っていたかのような敏感さ。
もちろん、スクリーンの中で、二人がそういう関係に陥るわけではない……んだけど。
見えているもの全てが本当というわけではないよな、なんて思ってしまうのはやっぱり下衆の勘ぐりなんだろうな。私には二人が、スクリーンに映らないところで、秘密のナマな関係を持っているようにも感じてしまった。何を暗示させているというわけでもないのだけれど……だって、見えないところにだって真実はあるわけじゃない?
グリートが、自分をモデルに描いた絵を見てうろたえて、「心まで描くの?」と言ったように……彼女に見えたその心は、そんな生々しい心だったんじゃなかったのか。

画家、フェルメールの家に、貧しい家庭の家計を支えるために、まだ年若い少女、グリートが奉公にやってくる。画家である夫にヘンに遠慮している奥さん、一家を切り盛りするその奥さんの母、そして……なぞめいた画家、フェルメール。
グリートの、色彩に対する才能をかぎとったフェルメールは彼女を自分のアシスタントに使う。微妙な色の絵の具の調合を任せるぐらいだから、相当な信頼の置き方。次第に二人でいる時間が多くなる。二人の間に漂う空気もだんだんと変わってゆく。いや、最初から違っていたのかもしれない。

グリートには純粋に愛してくれる恋人がいる。精肉屋の息子のピーター。彼とは恋愛のイロハを最初からきちんと踏んでゆく。無邪気なおっかけっこ、そのふとしたタイミングに顔を見合わせてのキス、家族への紹介、そして……セックス。
でも、このセックスのシーン、グリートの方からいきなり誘ってきた。前後の脈絡なくグリートが突然ピーターの元に走ってきて、彼を引っ張っていって、物置の片隅みたいなところで、立ったまま交わる。
私は何だかここに、グリートの中に、フェルメールの影が見えるようで仕方がないのだ。彼女の衝動に、フェルメールのそれがあるような気がして。
それは実際に、フェルメールとそういう関係になった、というのはやはり早計かもしれないけど……でもピーターに抱かれていた彼女の頭の中に、フェルメールがいなかったとは、とても思えない。
直後のピーターからのプロポーズに言葉を濁すグリートに、どうしてもそう感じずにいられない。

ごめんなさい、こんな俗っぽい見方ばかりをしてしまって。正しい見方はやっぱり、フェルメールとグリートはあくまでプラトニックで、プラトニックだからこそ深い信頼と愛情で、プラトニックだからこそ逆説的に……官能的だっていうことなんだよね、それは判ってるんだけど。
何より、フェルメールがグリートを信頼したのは、彼女が絵画のことを理解できる同志と思ったから、なんだ。奥さんは、ダメ。この貧しい暮らしにキイキイとなるだけだから。でも彼女とはセックスはする。子供は間を待たずして産まれる。それをグリートはフクザツな思いで見ているのだ。
姑である奥さんの母親は、実質的なこの家の主。フェルメールの才能はかっているし、そのためにはグリートが力になるべきことも判ってくれてる。でもそれはあくまでプロデューサーの目からであって、フェルメールの芸術、絵画や色彩の魅力を判っているわけではない。彼の絵は、描く前から値踏みするものにすぎない。
そんな中、現われた、初めての理解者だったのだ、グリートは。

映画の冒頭、まだ奉公に出される前のグリートが色とりどりの野菜を切り分けて、美しく皿に盛ろうと苦心している場面が出てくる。もう既にここでグリートの才覚は示されているし、決定的なのは、フェルメールのアトリエを掃除する係になったグリートが、窓を拭くことに「光が変わりますが」と奥さんに注進する場面。
奥さんは、部屋の掃除なんて単純なこと、と光のことなんて思いもよらなかった。この時グリートにそう言われて、でもここは女の直感で即座にグリートが……自分にとって厄介な存在だと感じたに違いない。

グリートは確かにフェルメールの才能を理解する人間として、一番近いところにいた。奥さんが嫉妬に狂うのも仕方ない。
でも、これもまた微妙なところである。二人が主人と使用人の間柄以上の心を共有していたのは間違いないところだ。それは二人の素晴らしい俳優による、素晴らしい内面演技でこちらにもじんじんと伝わってくる。でも……本当のところを言えば、そうした感情の部分では、やはりグリートは奥さんと同じように負けていたんではないか。
観てる時は、そんなこと、思いもしなかった。フェルメールの理解者であるグリート、そして画家フェルメールのモデルであるグリート、特に後者においては、画家に隅々まで見られるモデルという立場は、視姦という言葉を思いつくほど、エロティックな恋愛感情を共有していたから。

グリートをモデルにした絵を見た奥さんは嫉妬心に狂う。絵画には無知な(というのは、フェルメールがそう判断しているだけとも言えるけど)奥さんでも、この絵を描いた夫の心が、自分をモデルにした絵より何倍も込められていることが判ったんである。獣のように取り乱して、グリートに出て行けと叫ぶ奥さん。
正直この時は、うっわ、女の嫉妬って、みっともないわあ、って思ったのだ。見てられなかった。明らかに勝者のグリートがうっすらと浮かべた笑顔(だったと思う……かすかに口角があがってたもん)は背中がぞくっとするものがあって……そりゃ、グリートは家族のために稼がなきゃいけないってのに奈落に落とされたって形なんだけど、あの勝ち誇ったような(それは本当にかすかなんだけど)顔は、すっごく怖かったのだ。
でも、本当にグリートは勝ったんだろうか。

確かにグリートは奥さんよりずっとフェルメールの芸術のこと判ってたし、同志だったし、傑作を生み出したモデルでもあった。でも……それだけだったとも言えはしないか。フェルメールのグリートに対する感情は、果たして愛までいってたのか。愛に似たもの、どまりではなかったのか。
だって、フェルメールにとっては、絵こそが彼の命、彼の愛、なんだもの。それを喚起させたに過ぎなかったと言うのは言いすぎだろうか。
そういう意味では奥さんだって同じようにかわいそうではあるんだけれど、奥さんには彼との血を受け継ぐ子供がいる。
あまりこういうことは言いたくはないけれど、よく言われる女の幸せというものがあるんだとしたら、グリートのそれは“女の”幸せではなかったのかもしれない。
グリート自身はフェルメールに対して女の感情を持っていたのが判るだけに……。

物語のラストは、フェルメール家を追い出されたグリートが、フェルメールから届けられた真珠のピアスを見てかすかに微笑む場面である。
絵のモデルになるためとはいえ、たかが女中に高価な真珠のピアスをつけられたことに、狂ったように取り乱す奥さん。いや、彼女が取り乱したのは、それを夫が画策したからなのだ。男が女にアクセサリーを贈ること……アクセサリー、ではなく、身につけるもの、と言い換えた方がより正確かもしれない。そこに流れる特別な思い、そして官能。
グリートがあの絵のモデルになるために、この真珠のピアスをこっそりつける場面はこの作品の白眉である。ピアスだから、耳たぶに穴をあけなければいけない。火であぶった針でフェルメールに穴を開けてもらう場面のなんという……なんというピュアなエロティシズム。

思わずうめき声をあげるグリート、耳たぶから流れる血、彼女に至近距離で寄り添ってその血をおさえるフェルメール、彼女の目から、痛さなのか、フェルメールの距離を感じとったからなのか、ひとしずくの涙が流れて……それを指でぬぐうフェルメールに、まるでくちづけを請うように彼の方を向くグリート、だけど、フェルメールは絵を描くために立ち上がってしまう。
この場面、完璧にストイックで、完璧に美しいだけに、この立ち上がったフェルメール、に、考えてしまうのだ。この立ち上がるタイミングにそれほどの躊躇はないように思えた。……やはりフェルメールは画家、なのだ。
この時、思ったのだ。だからグリートは案外……奥さんよりも負けの立場だったのかもしれないって。それはあくまで一般的な“女の幸せ”的な見方、あるいはグリートのフェルメールに対する感情の一部に対してのものだけれど。

女は、男を、あるいは男の仕事を理解なんか出来てない方がいいのかもしれない、なんて、ヤケクソ気味に思ったりもする。グリートはフェルメールの同志だった。それは確実。でも恋人だったのかと言われれば……それは即座に首肯できない。
その隙間をグリートがピーターでうめていたんだとすれば、それはあまりに哀しいのだ。
もちろん、グリートはピーターをフェルメールとは別の(それこそ一般的な)感情で愛していたに違いないのだけれど。

恋人のピーターには一度も髪を見せなかったグリート。いつも尼のようにきっちりと隠していた。でもフェルメールの絵のモデルとなったグリートは、ターバンを巻くためにいちど解いた髪の毛を見られてしまう。
いつもの、きっちりと隠したストイックなイメージとはまるで違う、燃えるような赤茶の巻き髪……ストーカーのようにのぞき見るフェルメールに、はっとこちらを向くグリート。
こんなさりげない場面がなんでこんなに、圧倒的な力を持つんだろう。
カットが割られているのに、二人の絡み合う視線を否応なく感じる。そしてフェルメールが彼女から意志的に外した視線に、ひどく心臓が痛くなる。
髪だけなのに、まるでハダカを見られたような気分、いや、ハダカならまだいい。自分の“女”を見られたような気分。
グリートはあの時、完璧に“女”だった。あの場面以外にあれほど“女”だった場面はない。ピーターとのキスやセックスの場面よりも、ずっと。

グリートを奥さんとは違う角度からイジめる、娘もかなり印象的である。でもこれもまた、“娘”なんだよな。女のコワさをここでも感じてしまう。この娘はでもちょっとカワイソウな気分もするんだけど……だって大人たちはこんな風に自分の事情でいっぱいいっぱいで、彼女は躾というものからはあまりに遠いところにいるんだもの。そういう意味ではちょっとかわいそう。この作品では子供だというのにカンペキ悪役だし。
それにしても、グリートを演じるスカーレット・ヨハンソンである。彼女を初見だった「ゴーストワールド」の時には、ほっとんど言及してなかったぐらい判ってなかった私。うーむ、うかつであった。何たってこの、下唇と同じぐらいぽってりとした上唇がすっごい存在感どっしりなんである。この唇で半びらきにされると、ほおんと、エロなんだよなあ、いろんなこと想像しちゃう(笑)。★★★☆☆


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