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「て」


2007年鑑賞作品

ディス・イズ・ボサノヴァ/THIS IS BOSSA NOVA
2005年 129分 ブラジル カラー
監督:パウロ・チアゴ 脚本:パウロ・チアゴ
撮影:グィ・コンサルヴス 音楽:
出演:カルロス・リラ/ホベルト・メネスカル/ジョアン・ジルベルト/アントニオ・カルロス・ジョビン/フランク・シナトラ/ジョイス/ワンダ・サー/ジョアン・ドナート


2007/8/21/火 劇場(渋谷Q−AXシネマ)
ボサノヴァは、世界で一番美しい音楽だと、私は思ってる。
心地いいという言葉が真に当てはまる、唯一の音楽。生きている静かな脈動のままに入ってくる。それでいて聴いたことのないようなハーモニー(和音)に驚かされたりする。でも、驚かされても、やっぱりそれは力みがなく、頭の芯がふんわりしびれるような、心地よさ。comfortableという言葉がこれほど似合う音楽はない。
当然、ボサノヴァの中にも色々あって、軽快にリズムを刻んでいくライトなものもある一方で、まるで静かな湖面のようにたゆたっているものもある。
その全てを、それを体現してきたミュージシャンたちを、歴史を語っていきながら、見せてくれる、聴かせてくれる。ああ、こんな映画を待っていた。まさに、This is BOSSA NOVA。

ナビゲーターはカルロス・リラ&ホベルト・メネスカル。二人はギターを抱え、ボサノヴァの誕生から今までを、その場所を訪れ、語り、その場所で生まれた曲を演奏して、ひもといていく。なんと贅沢な時間。
それに!この生きた伝説の二人、特にカルロス・リラ、70を越えてるなんて全然見えない。うっそ、50代と言っても通りそう!わっかー!これも音楽のチカラ!?凄い!こんな風に年とりたい!
村松健氏はボサノヴァが自らの音楽を作り出したルーツのひとつだと語って、よくカヴァーしてくれるんだけれど、その中でも一番のお気に入りの「ロボ・ボボ」の作曲者であるカルロス・リラをこの目で見ることが出来たことはこの映画の大収穫。それにしてもかの曲が半世紀も前に生まれたというのが信じられないこの若さ。

でも一方で、早世しているミュージシャンたちもたくさんいる。ミスターボサノヴァとでも言いたいアントニオ・カルロス・ジョビンをはじめ、多くのミュージシャンたちが60代で亡くなっているし、劇中紹介されるジョビンの最初の相棒のニュートン・メンドンサは33歳の若さで夭折、私の大好きなナラ・レオンも45歳でこの世を去っているし。
そうしたミュージシャンたちに敬意を払いながら、この二人、そして膨大なポートレートや歴史の証言者によって、ボサノヴァが語られていく。「リズム」「歌詞」「ハーモニー」「ビート」というボサノヴァを語るのに不可欠なチャプターに分け、それぞれの貢献者たちをあぶりだしてゆく。

ジャズでだったらこういう映画、割とあったと思うんだけど。いわゆる歴史なりミュージシャンなりその音楽なりを見せて聴かせるドキュメンタリーね。でもボサノヴァでは初めて、と思う。
大体、ボサノヴァがジャズの一種だと、あるいはジャズだと思われているような向きも、なきにしもあらずだからさ。
そういやー、フィギュアの村主さんが先シーズンのエキシに「イパネマの娘」を使ってて、その実況をしていたNHKの女性アナウンサーがこともあろうに「ジャズの名曲」と言いやがったのにイカりまくって、クレームのメールを送っちゃったよ。
しかしこのプログラムはステキだったんだけどね。ボサノヴァがフィギュアに使われているのも初めて観たし、そのあたりのパイオニア精神は、さすが村主さんだと思った。でもこのシーズン彼女は調子が悪くて、このエキシを観る機会が二回ぐらいしかなかったのが実に残念だった。

そりゃ、ジャズの要素がないとは言わない。でも絶対に、ジャズではない。
ということも、本作でメインに語られていたひとつだったのが嬉しかった。私がこういう場面に遭遇するたびに憤ってた気持ちを代弁してくれた!と思って。私はそれに対して、だってボサノヴァなんだから!としか言えないでいたんだけど、やはりそこは音楽のマエストロたち。きちんとした解答をくれて溜飲が下がった。
つまり、ジャズではなく、ボサノヴァが流れを汲んでいるのはサンバのリズムなのだと。サンバの独特のシンコペーションがボサノヴァには息づいているんだと。そうだ!そうだよね、なんたってブラジルなんだもの!
そしてジャズというのは、全てを飲み込んでしまう。クラシックもロックもジャズに取り入れられてしまう。ジャズと言ってしまえば、全てがそうなってしまう、という言及も、そうそうそうそう!ともう頷きまくって、首が痛くなっちゃったぐらい。

でももちろん、ジャズの影響は否めないし、敬意はしっかりと表している。ジョビンはシナトラの大ファンで、ガーシュインも敬愛していたという。そうそう……シナトラとジョビンが共演した「イパネマの娘」のシーンには、マジで鳥肌がたった。ボサノヴァの、音が極力まで減らされたストイックな洗練が、豪華に音を足されるシナトラのジャズの大管弦楽団によって盛り立てられ、そこに華やかなシナトラの声と、会話のようなジョビンのかすれ声が不思議にマッチしたハモリを聴かせた時、ああ、こんなイイもんを観させてもらえるなんて、生きてて良かったと、大げさじゃなく、思った。
「イパネマの娘」は、やはり特別なんだよね。ボサノヴァといえば、っていう曲だし。でも本当に、難しい曲だと思う。旋律の繊細さ、そして大胆さ、セクシーだけど、大仰に歌われたら壊れちゃう。初めて聞いた子供の時には、ピンとこないような気がしてた。つまり、判らなかった、難解だった。でも今では本当に、大好きな曲。

そうだ、「イパネマの娘」あたりなら、子供の頃から知ってた筈なんだよね。でも私がボサノヴァと「出会った」のはもっと後。ナラ・レオンによってであった。
その時には知る由もなかったんだけれど、ナラ・レオンが他の音楽への変遷を経て、ボサノヴァに帰ってきた最晩年だった。私が青春を過ごした80年代。
当時、彼女の歌がビールのCMに使われてた。そして小野リサがデビューし、注目され始めた頃で、日本においてのボサノヴァ元年のような趣があったと思う。
まるで力みなく、普通に話しかけるような涙が出るほど優しい、絹のように美しい歌声と、今まで体験したことのない、予測のつかないメロディラインやハズしているのに美しく噛みあうギターの和音に、カルチャーショックを受けたことを良く覚えてる。なけなしのおこずかいを握って当時出たてのCDを買いに行った。CD時代初期の頃、今ほど気軽に買えなかったことも、印象に強く残っている所以。

そして何より彼女の印象を忘れられなくしたのは……好きになり始めたと思ったら、本当に1ヶ月も経っていなかったと思う。彼女の死亡記事を新聞で目にしたから。ガンによる逝去。45歳の若さだった。
自分でも、ビックリするほど落ち込んだ。彼女の歌声をナマで聴いてみたかった、と思った。当時地方にいた私は、彼女が来日したら、きっと東京にでもどこにでも駆けつけようと思ってた。せっかく好きになったのに、突然目の前から去られたことに、本当にショックを受けた。
日をまたいでまでガックリきてる私に、「いつまでウダウダしてんの!」とかーちゃんから言われてショック受けたことも覚えてる。かーちゃん、覚えてるう?覚えてないだろーなー。
ボサノヴァのミューズと言われていたということ、CDのライナーノーツでしか知らなかった彼女のことが、このボサノヴァを語る映画の中でどういう位置づけをされているのかも、興味のひとつだった。

私の思ったとおり、いや、思った以上に、彼女が女神として位置付けされていることに感動した。マエストロのジョビンの次ぐらいの扱いだった。コパカバーナ海岸に現われたミューズ。若く美しく、誰をもとりこにした。彼女のアパートにあらゆるミュージシャンが集まって、新しい音楽であるボサノヴァを作っていった。
この映画の語り部の一人であるメネスカルは、当時彼女のボーイフレンドだった。誰かに電話すれば、すぐに飛んでくる。そんな風に、どんどんそのつながりが伸びていく、その場所に彼女がいて、不思議な吸引力を持っていた。

そして、彼女はボサノヴァに関わる女性として全てのパイオニアだった。そのことも、初めて知った。ボサノヴァミュージシャンの定番であるスツールに座って演奏、歌ったのも女性では彼女が初めて。そんなことはふしだらだと思われてた。そして政治的な発言をする女性としても開拓者だった。写真で綴られる彼女の姿は情熱的でかつクールでカッコ良く、そして実にキュートだった。
彼女こそが、イパネマの娘だったんじゃないかと思うぐらい。
本作ではあまり語られなかったけれど、ナラはその後社会派に傾倒し、ボサノヴァとは袂を分かち、長いこと彼らの間から姿を消していたということなんだけど、私の知った優しいナラのボサは、まさに最晩年だったのだ。でも私は、ナラをボサノヴァのミューズとして出会うことが出来たことを嬉しく思っているし、そんな経過のことはあまり興味がない。

そう、実は案外新しい音楽であるボサノヴァ、それが既に名前で示されているというのを本作で知って大いにうなづく。
ボサ・ノヴァ。新しい傾向。国家が推し進めた唯一の音楽であると言っていたのは誰だったのか……それは時にはいいことばかりでもなかったんだろうけれど。
「クビチェック大統領の政権下で、文化的、芸術的な豊かさを謳歌し始めていた」という前置きは、つまりいわゆる政治的な支配下に置かれていたという意味も含んでいると思うし。
最初は受け入れられなかった“新しい傾向”。しかしそれまでの、重く暗いブラジル音楽に飽き足らなくなった若い人たちの敏感な嗅覚が嗅ぎ付けた。そして建築大学の野外スペースで行われた初のボサノヴァコンサートは、その周辺に渋滞を巻き起こすほどに人が押し寄せた。まさにこの夜が、伝説となった。
その熱気を伝えてくる、音までも聞こえてきそうな、モノクロのポートレイト。数々のミュージシャンが駆けつけた熱い夜。ボサノヴァが息をし出した夜。まるでその場にいたように感じて、胸が熱くなる。

マエストロと呼ばれるアントニオ・カルロス・ジョビンが、ボサノヴァを、余計な音を極限まではぶき、結果、モダンで洗練されたものに昇華させたと、語られる。
本当にそうだと思う。ボサノヴァには余計な音がない。余計な力みもない。
演奏している彼らは、時にまるで本でも読んでいるみたいな静かな表情で、その音を奏でていたりする。その平穏さに、普段、“音楽を演奏する”という、力みや劇場性に慣れ切っているこちらは、驚かされる。
会話をするように、その延長線上をボサノヴァにしたいんだと、あるボサノヴァミュージシャンは言ったのだという。ジョビンだったかもしれない。ちょっと定かではないけど。
それも本当に本当にそうだ。演奏中も、次の音の打ち合わせのようなやりとりを歌のままに乗せる日常性があり、それが実にしびれちゃう。こういうところも、ボサノヴァの魅力と言いたい。

そしてその、マエストロのジョビンである。この作品には当初のボサノヴァに関わったミュージシャンたちが語り部として大勢出てきて、その二世たちもまた今、実に自然にその音楽を継承しているのがステキなんである。親とのセッションを、こんなにスラリとフツーにアドリヴのようにやってしまう音楽なんて、ボサノヴァぐらいじゃないかと思っちゃう。
そして、ジョビンの息子、パウロもまた、父を語る語り部として現われて、父の歌をギターをつまびいて歌う。彼だけは、親とのセッションは当然、出来ない。亡き父の曲をどこか生真面目そうに歌うのだ。

グッとくるのは、彼が父親の曲を採譜する作業をしていて、その中に、その音に、父親を感じる、と語る場面である。
言葉でもなく、写真でもなく、思い出のエピソードでもなく、その音に、採譜されたスコアの音符ひとつに、父親を感じる、これは父の音だ、と感じる、と。
なんて、ステキなの。なんて、うらやましい。
彼が父親を語る表情には100%尊敬が現われていて、本当にそれって、うらやましい。小さな頃から父親の音楽をたっぷりと浴びて育ってきた彼は、楽譜に採られたたったひとつのおたまじゃくしで、父親の音だと、そこには父親が生きているんだと感じることが出来るのだ。
ああ、ホント、なんて、ステキなんだろう。

ジョビンはクラシックの素養のある人だった、という。彼の曲はショパンやドビュッシーやラヴェルのようだ、という言及も出てくる。それはこの息子、パウロの言によっても裏づけされている。
ミスター・ボサノヴァとでも言いたいマエストロであるジョビンが、そう語られるなんてちょっとオドロキだけど、確かに彼の旋律はショパンのように軽やかで、ドビュッシーのように流麗で美しい。
ボサノヴァの源流であるサンバとも、影響をまぬがれないジャズとも、ジョビンの旋律は明らかに乖離しているのだ。
しかし、だからこそとでも言うべきか、ジョビンの出現こそがボサノヴァを唯一絶対の音楽として確立させたんだとも思う。
サンバとジャズに縛られていたら、ひょっとしたらボサノヴァはここまで洗練された音楽にならなかったのかもしれない。
ホント、洗練、sophisticationという言葉がぴたりと来る。

そして、詩と出会ってジョビンはより完成される。彼の代表曲のひとつ、「ワン・ノート・サンバ」は、詩と音楽が完璧なのだという。詩で、この音に戻ってくる、と歌えば、旋律もその通り戻ってくる。そんな内容の詩だなんて判ろうハズもなかったから、ビックリする。
しかも若きジョビンの映像が残っていて、アメリカ人と思しきブラス奏者と英語でやりとりしながらこの曲をコラボしてる。英語、といっても簡単な言葉だけでその殆んどは、お互いの音によって会話していることに、大いにしびれるんである。

私の知っているボサノヴァミュージシャンはナラ・レオンとジョビンとあと一人か二人、ぐらいで、ほおんと一般的な知識しかない、ボサノヴァ好きなんて言うのもはばかられるような輩で、だからこそ本作は勉強する意味で臨んだんだけど、それにしてもバンバンと知らない名前が次から次へと出てくるので、覚える間もなく、うわああ、とひるんじゃう部分は正直、あるんである。
しかし、ナビゲーターであるリラとメネスカスが問わず語りにワーっと出してくるミュージシャンの名前、そのモノクロ写真に圧倒されながらも、中盤になってくると次第に整理されてきて、ボサノヴァを語る上での重要な数人に絞り出され、後半からは、その各個人を掘り下げるという趣になってくる。
それは、勿論ジョビン、そして嬉しいな、ナラ・レオン、数々の名曲を残し、そしてボサノヴァ独特のギター奏法を編み出した功労者であるジョアン・ジルベルト、ジャーナリストとしての関わりから始まってリラと共に数々の名曲を生んだホナルド・ボスコリ、そしてそして……ボサノヴァに欠かせない詩においての関わりを持ったヴィニシウス。

スイマセン、このヴィニシウスに関しては、詩人についての言及だったせいもあって、演奏シーンも少なかったし、この連日の猛暑で身体が疲れてることもあって、ちょっと寝ちゃった。ごめんなさーい!
まあそれは、ボサノヴァ音楽の心地よさがもたらしたと思ってくだされ。ヒドい言い訳だが……。
そしてこっからは、新たなブラジル音楽としてブームを巻き起こしたボサノヴァが、全然ボサノヴァではない部分でまで使われて、ボサノヴァ大統領だの、ボサノヴァなんたらだの、まあこのあたりが、国家的なボサノヴァの推進、なのかなあ。日本にいると、こんな美しく心地いい音楽であるのに、そんな思いもしないところに巻き込まれているんである。
そのあたりが、ナラ・レオンがボサノヴァから離れた理由なのかもしれないと思ったり。

ボサノヴァの音楽としての成り立ちが、人の歴史と寄り添う形で出来上がっていく姿にも感動する。
ボサノヴァの三大要素は、ハーモニーとリズムと詩なのだという。それぞれを確立した功労者たちが上げられる一方で、リラやメネスカスがギターの先生よろしくその模範例を示してくれる。実際二人は知り合った学生時代、共にギター教室を主宰していたというんだから。しかも当時の生徒たちには、ナラをはじめとしたそうそうたるミュージシャンたちが!
なんといってもしびれるのは、バチーダと呼ばれるギターの奏法。これは、もはや発明と言っていい奏法。ベース音を抑えたままでコードをシンコペーションに刻むのが基本なのだけれど、それぞれのミュージシャンによって違う色合いを持っている。

これぞ、ボサノヴァ。和音とリズム、それだけで、ボサノヴァ。ピアノやフルートなど様々な楽器が介入してくるけれど、やはり基本はギター(当地ではヴィオラォン)のハーモニーなのだよなあ!
サンバが源流とは思えない、まるで対照的なcomfortable。同じリズムが正反対の音楽を作り出す妙味に浸る。「愛・微笑み・花」がそのテーマ。ブラジルが、サンバの情熱と正反対の、まどろみの文化を獲得している不思議さ。

ちなみに、私の家のサボテンはナラちゃんで、冷蔵庫はジョビン君なんである。ラブ、ボサノヴァ!★★★★☆


転校生 さよなら あなた
2007年 120分 日本 カラー
監督:大林宣彦 脚本:剣持亘 内藤忠司 石森史郎 南柱根 大林宣彦
撮影:加藤雄大 音楽:山下康介 學草太郎
出演:蓮佛美沙子 森田直幸 清水美砂 厚木拓郎 寺島咲 石田ひかり 田口トモロヲ 斉藤健一 窪塚俊介 根岸季衣 中原丈雄 細山田隆人 原舞歌 関戸優希 高木古都 高橋かおり 勝野雅奈恵 小形雄二 林優枝 吉行由実 小林かおり 宍戸錠 山田辰夫 入江若葉 小林桂樹 犬塚弘 古手川祐子 長門裕之

2007/7/13/金 劇場(新宿ガーデンシネマ)
そりゃ大林監督の作品選択にはいつも驚かされてはいるけど、でもまさか、あの「転校生」を、大林監督を世に知らしめたあの「転校生」を、セルフリメイクするなんて思いもしなかった。いや、セルフリメイクということ自体、思いつきもしなかった。
でもこれはまず、長野からの映画撮影の依頼があってのことだという。監督が語るに、海から山への思いの変化によると。それは外への意識から、内への意識、人間としての、日本人としての、何より自分としての、意識への回帰、なのか。

でも、うーん、リメイクしてほしくはなかったなあ、というのが正直な気持ち。そりゃ大林監督にこそ映画化所有権は存在しているんだから、ハリウッドとかのリメイク作品に対するような苛立ちは感じないけど、でもやっぱり、あの「転校生」だから、大好きな「転校生」だから、そのままにしておいてほしかった。
それでも観ないと始まらないよな、と思って足を運んだものの、観終わってみても、ああ、やっぱりリメイクしてほしくなかったという気持ちは変わらなかった。
だって、あの「転校生」にかなうはずがないんだもの。あのレジェンドとなった、あの、一夫の8ミリフィルムの中で後ろ姿でスキップして去っていたあの一美こそが、最後の一美だったんだもの。一体なんだって、一美を死なせちゃったりするのよお!

そう、驚いた。一美が死んでしまうのだもの。舞台は尾道から長野に移ったものの、中盤まではオリジナルと変わらない展開だったのに、突如一美が調子を崩して原因不明の病で入院し、余命いくばくもないとかいうんだから!
ええ!?わざわざリメイクして一美を死なすのお!?ともう、本当にビックリ。それとも実は原作がそうだとか……いやこればっかりは未読だから知らんが、それにしても、そんな、ヒドい。これは一体何の意味があったんだろうか。監督は、『前作では、さよなら、オレ、さよなら、わたし』だったのをきちんと『さよなら、あなた』にしたかったとか言ってるけど、それって一体どういう意味なの。

少女を、より永遠の少女にするための措置だったんだろうか。そりゃ大林映画は永遠の少女映画であることこそが大きな価値ではあるけれど、そのために死なせるなんてあんまりじゃん……。
この推測があながち外れてないんじゃないかと思うのは、ラスト、一美の墓を見舞って尾道へと戻っていく一夫のシーン、彼を見送る形の一美の姿におっかぶせて、“彼女は子供のまま死んでしまった。永遠にそのままだろう……”とかいうナレーションがつけられるんだもん。
そりゃ永遠の少女は理想であり、「さびしんぼう」なんかもそれを守るためにさびしんぼうは雨に消えていったし、その他にもあまた思いつく、それこそが大林映画ではあったけど、でも、何もそれを大好きな「転校生」でやっちゃうことないじゃん!ただ後ろ姿で去っていくだけでは、それが不完全だったからやり直したってことなの?そんなのないよお。

ところで、本作はオリジナルよりほんの少し登場人物が増えている。一美のボーイフレンドの弘は前作にも出てきているけれど(とか言いつつ、あまり覚えてない)、本作ではもっと重要なポジションを占め、そして尾道に残してきた一夫のガールフレンド、アケミという女の子も重要なキーパーソンとして出てくる。一夫と一美、そして弘とアケミという男女二人が渾然一体となって、この青春物語を語っていく。
今回、男女二人組の構成にしたのは、原作者、山中恒氏のアイディアなんだとか。

この増えた二人は、いつの間にやら大林監督の三人目の秘蔵っ子になってる厚木拓郎と、「理由」でデビューした寺島咲嬢。厚木君ってば、「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」のあの可愛い子が、なんとまあ成長したこと!子供の頃には判らなかったけど、こうして大人の顔になってみると、なんだか尾美君に似ているような気がする。大林監督はこういう顔が好きなのね。
そして寺島咲嬢。「理由」で初々しさを撒き散らし、そして「水の花」でその才能が、単なる青田買いってだけではないことを証明した彼女。
一美から、一夫と中身が入れ替わってしまって、その一夫が死にそうだ、なんていう信じられないメールをもらって、しかしその真相を確かめに長野にやってくる。外見は一夫である一美をひと目見たとたん、これは自分のカレじゃないと確信する。女の子の直感をさわやかに示してる。
だって弘はしばらく逡巡して哲学的に悩んだ後、やっとその結論に達したんだもの。でも彼も自らその結論を導き出したんだからエラいんだけどさ。

今回、一夫と一美が入れ替わるのは神社の石段ではなく、「さびしらの水場」という、湧き水のあふれ出る場所である。一美の家のそば屋が、そこの水を使っているんである。一夫を案内した一美、ひしゃくを持って押し合いしているうちに、二人ドボンと落っこちる。
これは、二人がまた元に戻るところで同じことが繰り返される場面、濡れた二人が抱き合い、お互いに大好きだという思いをぶつける場面でハッキリと判ることなんだけれど、やはり男と女が入れ替わるという性的なモノを、本作の方が赤裸々に示していると思うのね。
まあ、というか、私自身、オリジナル、うろ覚えかも。入れ替わった二人の異性に対する思いの描写を覚えていない。自分の中で勝手に聖なるものにしてしまっているのかな……。

お互いの性の違いに戸惑うシーンは何となく覚えてて、本作にもそのまま使われているシーンはあったと思われる。
トイレの後、紙で拭いたら形が変わっちゃった!と焦りまくって電話する一美に、「そんなもん、2、3回振ってしまっときゃいいんだよ!」と一夫が、つまり身体が女の子なのにそんなトンでもない台詞を電話に向かって叫ぶという可笑しさは、なんか覚えがあった。それに対して「判った。でも私のはちゃんとふいてね」と返す一美、つまり身体が男の子なのにそんなことを言っちゃう可笑しさも。
更に、「俺、生理になるの!?」とうろたえるシーンもなかなかに可笑しい。そりゃ男の子として育ってきた一夫が、女の子の最も神秘である生理になるなんて、女の子の身体になってしまうこと以上に、想像の遥かかなただろう。しかも生理、というのは最も性的なものへのダイレクトな言及だよね。

でもやっぱり、オリジナルが素晴らしかったんだもん。オリジナルの二人が。特にヒロインの一美を演じた小林聡美があまりに鮮烈だったから、やっぱり蓮佛美沙子嬢じゃ物足りないって思っちゃうんだもん。まあ、彼女はいかにも未完成っぽいところが魅力ではあり、そういう少女女優を大林監督が好んで使っていた(石田ひかりなんて、その顕著な例よね)ことを考えると、実に納得のキャスティングではあるのだが。
ホント、この蓮佛美沙子に関しては、大林監督ベタ惚れなんだよね。「小林聡美は思いっきり夏の少女であったのに対し、美沙子はしっとりした山の里娘の風情を湛えていたのは幸福だった」とか言っちゃってさあ。
ベタ惚れしすぎて、過剰評価してしまっている気がするのは、やはりオリジナルばかりを頭に置きすぎなのかしらん。

あ、そっか。かの小林聡美があまりにも堂々と完成度が高かったからこそ、もしかして大林監督の中では不満があったのかなあ、などと、もう色々勝手な妄想大爆発だけど。
だって観客の側からすれば、あれほど完璧な一美をやり直す必要なんてないって思っちゃうもの。
でも小林聡美は実は大林映画の中では割と異質で、その後「廃市」という実験的な佳作でも彼女は登場しているけれど、そこではもはや少女ではなかったし、その後オールスターキャスト映画「理由」まで、大林映画に使われることはなかった。
一度出てしまえば結構チョイ役で使われることが多い大林組の中で、やっぱり異質だったんじゃないかと思われる。だって石田ひかりなんて、ヒロイン二回、そして教師役がこれで二回目、やっぱり気に入られているんだよね、なんか中途半端なところが(言いたい放題)。

小林聡美の一美が何より素晴らしかったのは、ほんっとうに中身が入れ替わったんじゃないかと思うぐらい全く躊躇がないことだった。やっぱりね、小林聡美と比べちゃうのよ。いくら美沙子嬢が一生懸命ガニマタで歩いてみても、乱暴な言葉遣いをしてみても、判っちゃうんだよね。
もう、小林聡美はあの若さで思春期まっただなかで、それを見事にすべて払拭してしまったんだもん。私があの作品で強烈に覚えているのは、巻いていたバスタオルを一夫(中身は一美)に向かってバッと広げて見せた場面。とーぜん、ペチャパイ丸出しである。そりゃ大林監督は女優を(意味なく)脱がせる名手ではあるけど、ひとっかけらも色気のないヌードを見せた女優は、小林聡美ただ一人であったろう。やっぱりあの時から、小林聡美は恐るべき女優だったのだ。

だって美沙子嬢、やっぱアイドルってことなのかなあ、しっかりおっぱいガードしてるじゃん!男と女が入れ替わる話、しかもオリジナルより性欲への言及もハッキリとあるにもかかわらず、あんなしっかりガードされたら何だかガックリきちゃう。
ま、そのガードが一夫役の森田君の手によってであるというのはなかなかに萌えるものはあるものの、やはりねえ……。あわやセックスしかける場面まであるのなら、やっぱりそれぐらいの覚悟は欲しい。だって高橋かおりなんて何の意味もなく脱いでたんだよ?(あれも問題だと思うが)

その相手役の一夫にしても、ずううーっと大林監督のジャンピエールレオーであり続ける尾美君にはやっぱりかなわないと思うんだよなあ。
尾美君には、一美になることへの恥じらいがちょっと感じられたけど、それこそが女の子の恥じらいに転化してて、小林聡美のオットコマエと実に好対照をなしていたのであった。森田君は達者だとは思うけど、達者だからこそ、すんなり女の子の中身になっちゃって、逆に物足りない感じがした。って、私、ホント勝手なこと言ってるな。一美に対する言い様と真逆じゃん……。でもそこが、映画のマジックの妙であって、やはりオリジナルは全ての映画の魔法がピタリとはまった映画だったと思うんだもん。
私はいまだに小林聡美と尾美としのりが同じ作品で同じ画面に収まっていたりすると、ああ、「転校生」だ……と深い感動を覚えずにはいられないんである。
それぐらい、特別な作品。一美のお兄ちゃん役で一瞬だけ出てた、中川勝彦様の可愛さも忘れられないしね!
そのお兄ちゃんは、本作ではもっと年が離れて幼い娘を家に残して遠くに単身赴任しているという設定。演じるは窪塚俊介。こういう違いも時代を感じるなあ……。

うーむ、なんか本作自体の話になかなかならないが……。だってしょうがない。以降、数ある入れ替わりものが、オリジナル「転校生」と比べて語られてきた、それだけ基本の作品なんだもの。
これを言っちゃあおしまいなんだけど、正直、尾道から離れたというのもショックだった。「転校生」が展開された尾道の様々なロケ場所をめぐったりしたからさあ(照)。一美と一夫が入れ替わる神社の石段なんて、もうホント、伝説の場所だよ。

ピアノというのも大林監督の重要アイテムであり、リメイクである本作が、オリジナルと隔するひとつの要素でもある。一夫は元カノのアケミとピアノの思い出を共有した。そして一美と身体が入れ替わってしまって、入れ替わった一美に、先生はピアノを披露してくれと言った。それをたまらない思いで見つめてた。一美は当然、ピアノは弾けない。でも身体はピアノを愛していた一夫なのだ。見ていられなくなり、身体が一美になってしまった一夫は教室を飛び出す。

そして、学校行事の温泉一泊旅行。女子更衣室で「だって、お宝いっぱいじゃん」と鼻血をぶっ放すという青春シーンもありつつ、そこで一夫(しつこいようだが、身体は一美ね)は、旅館に置いてあったピアノをかなでるんである。無意識に指を動かしていたのを先生が、「一美さんもピアノが弾けるの?」と気付いてくれたから。
その静かな弾き語りはしかし、自分だけの物語を語るのが得意な一美の言葉で綴られていた。
このあたりから二人の意識は徐々にシンクロを始める。
後に一夫は「俺の声じゃ歌えるわけないじゃん」と一美の意識が移っていたことを語る。
一美は一夫のことが大好きだから、幼なじみの記憶を忘れなかった。
一夫は一美のことが大好きだから、その記憶を消そうとしてた。
その二人の気持ちが、シンクロしてゆく。

で、そうそう、一美は不治の病にかかって死んでしまうのだよ。何度も言うようだがもうビックリ。
しかし正直、この一美が死ぬ、というエピソードが足されたことで、やけに尺が長くなって冗長に感じてしまったのは事実。まあそれは、私の中で、「なんで一美が死ぬのよ!」とずっと拒否反応を示していたせいかもしれないけど……。
この時二人の家族は、お互いに会わせないようにしていた。だって入れ替わった当初、一美が裸同然のカッコでウロウロしたり、一夫は急に女々しくなるし、事情を理解できないお互いの家族は、これは向こうの子供が悪いんだ!となってしまったんだもん。

だから、身体は一美だけど心は一夫の一美は(ややこしいな)、もう死ぬってのに、一美はもちろん、本当のお母さんに会うことも出来ず、元カノへの思いもかかえて、切ないのだ。
一美(だから、身体は一夫の一美ね)は見かねて、一夫のお母さんを何とかお見舞いに引っ張り出す。「なんで私が一美ちゃんに会わなきゃいけないの」と躊躇していた一夫のお母さん、だけど実際会ってみたら「なぜか自分の子供のような気がして……」と涙を流す。
更に一美は、一夫の元カノのアケミを呼び出すのだ。
弘も加え、不思議な関係の男女四人は、死にゆく一夫、いや肉体が死に行く一美を車椅子に乗せて、あてどもない旅へと向かう。

一美が死んじゃうっていうのもそうだけど、このあてどもない旅、というのが本作の重要な部分、ではあるんだけど、やっぱりなんだか長い!って気がしちゃったんだよな。
途中二人は、旅芸人一座に偶然出会い、温泉宿まで同行させてもらう。旅芸人一座なんていかにも映画的なファクターではあるし、中身が一美の一夫に「女形の素質がある」と言われるのは上手い設定ではあるんだけど、ちょっととってつけたような感がなきにしもあらずのような。山田辰夫が女形なんていうショーゲキのキャスティングなのに、なんだか生かされきっていない気がする。
それこそバリバリの男臭い山田辰夫が女形であり、男と女の気持ちの溶け合いを判っているからこそ、このワケアリの二人を同行させてくれた、ってあたりの機微がね、うーん、なんかイマイチね。

宴会で盛り上がる一座、一美と一夫は同じ布団に潜り込む。そして……「あんた、男なんだから判るでしょ」身体が一夫となった一美が、どうやら欲情してしまったようなんである。身体が一美の一夫もそれは理解したけれど、でも……二人は結局、交わることはない。交わったらどうなっちゃったんだろう。自分相手にセックスするっていうのは。身体が一美の一夫は、そのことで子供が出来ることにまで言及していたけれど。
ただ、「最後にあたしの身体を見せて」と懇願する一美。手ずから脱がせ、客観的に見る自分の体。「きれい……」と嘆息する。その胸を両手で包み込む。やっぱり、オリジナルよりずっと性的な匂いが強い。
でもそれは、あくまで自分に対する性の確認であり、アイデンティティであり、それが客観的に示されることによってエロティックになるというのは、人間が、いや男と女がいかに、まだまだ遠く離れた存在で、互いを理解しあってはいない、ということなのかもしれない。

「25年前の、「転校生」の子供たち、そして未来への子供たちに捧ぐ」うう、そう言われちゃうとなあ……結局私は大林教の信者だから。しかしせっかくリメイクなんだから、オリジナルの小林聡美、尾美君を何らかの形で出してほしかった、気もする。
テーマソングが、なんか大貫妙子風で、心に染みた。ピアノを弾き語りする美沙子嬢のうららかな声も良かった。★★★☆☆


天国は待ってくれる
2007年 105分 日本 カラー
監督:土岐善將 脚本:岡田惠和
撮影:上野彰吾 音楽:野澤孝智
出演:井ノ原快彦 岡本綾 清木場俊介 石黒賢 戸田恵梨香 中村育二 佐々木勝彦 蟹江敬三 いしだあゆみ

2007/2/20/火 劇場(渋谷シネパレス)
うわー!ホントにメチャメチャ築地じゃん!凄い!えー、布長さんだー!
全然知らなかった、築地が舞台で撮影してたなんてさ。公開間近になって、河岸のあちこちにポスター貼られるようになってからようやくなんだべと思ったよ。
自分が普段見慣れている風景がスクリーンに映ってると、なんか動揺しちゃって、マトモに中身を追えないわ……。
だって、市場に勤めている武志やその伯父さんのカッコなんて、私とおんなじだもん。ポケットのいっぱいついた藍色の作業着に、ドカジャン着てさ!
しかし、あのドカジャンは新品だね。襟のボアが毛玉になってなくてフワフワだから判る。河岸のベテランのおっちゃんが、新品のドカジャン着てたらいかんよー。判っちゃうんだよなー、こういうの。……ついそういう細かいところまで見ちゃう。

まあ、築地が舞台とはいえ、河岸っつーよりは、宏樹、薫、武志の三人が子供時代を過ごしたのが、築地という土地であるということなのよね。確かに今でも三人の実家は築地にあるし、集まるといえば薫の両親がやっている市場から程近い喫茶店だったりするんだけど(こういう喫茶店も、実際あるんだよな……)今の時間軸だと築地に残っているのは、市場で働いている武志のみである。宏樹はそのすぐそばとはいえ朝日新聞社に勤めていて、薫は銀座の文具店、鳩居堂で働いてる。なんか築地からは離れてる感覚がする。
築地はホント面白いところで、映画になったりしないのかなと思ってたけど、こんな映画で実現するとはね。

こんな、というのは、別にこの舞台が築地である必要はそれほどないっつーか……なんとなく、新聞社=エリート 銀座のOL(しかもあの鳩居堂だよ、わざわざ)=デキる女、みたいな図式で、この三人の中で武志が一人疎外感を感じててさ、それが市場に勤めていること、って言ってるみたいで……。いやいや、そりゃ私も、ちーと被害妄想爆発してるんだけど。でもなんかそんな気がしちゃうんだよなあ。
武志だけが勤務時間帯が違うってこともあるんだけど、取材に出かける宏樹をまぶしそうに見つめる場面とかあるじゃない。んでもって、眠い目をこすりながら二人が帰ってくるのを待って、「オレもオシャレな店に行く」っつって、夜の店に繰り出す。だけど自分が魚臭いんじゃないかなんて気にしたりしてさ。

私は築地が好きだから、スクリーンに登場するなら、築地のハチャメチャな魅力をこそ見たかったってずっと思ってきたから、ついついそんなことを思っちゃう。
それにねー、確かに時間帯は違うけど、河岸の中の武志ぐらい若い子だったら、案外ヘーキで夜起きてたりするし、夜遊びも行ってるよ。休み前とかだったら全然問題ないしさ。
……などとやはり、ついつい河岸の部分にばかり反応してしまう。しょうがないよー。だってまさに私、あそこにいるんだもんなあ。

しかし、やたら河岸の様子を映しているようにみえて、落ち着いて見てみると、場内の入り口のところの駐車スペース……正門から沢山のトラックやターレや仲買人たちが行き来しているところ……が俯瞰で映されているショットが一番多いんだよね、場内じゃなくて。
この位置だったら、いくらでも撮れるよね。確かに河岸の喧騒を象徴的に表わしてるし(あの位置なら、ホント私歩いてるよ……)
場内はというと、魚の並べられた店先と行き来している狭い通路がちょこっと映り、そしてこれは見せ場なんだろうけど、マグロのセリは何度も繰り返し映される。まるでマグロしかセられてないみたいだけど。でも実際、河岸では相対取引が多くて、こんな風に直接セリが行なわれる品目は少ないっていうもんなあ。ウチの店でも実際セリに出てる人なんて一人ぐらいだし。

でも彼が店で働いてるシーンでは、荷物を運び込んで若手にちょこっと指導しているぐらいで、お客さんとのやりとりや、それこそ帳場なんで全然出てこないし、他の築地の場面はひたすら人のいない場所や時間帯ばかりで、私としてはなんとなく不満足なんである。
まあ、河岸の中の撮影なんてあれが限界なのかもしれないけど……その割に、貼られてたポスターには築地市場、仲卸全面協力!とか書いてたけど、私の周囲の人は誰もそんな話してなかったし、知らないみたいだったけどなあ……。

それに子供の頃の彼らが築地の中を走りぬける場面で、ここ2、3年で乱立した24時間すし屋チェーン店なんて映らないようにしてほしいなあ(あー、ヤだ。私細かい)。
それにさ、ラスト、武志の妹がお兄ちゃんの代わりとばかりに、勇ましくターレに乗って河岸の中で働いている場面が出てくるでしょ。彼女を際立たせるためなのかもしれないけど、河岸の中で働いている女性、全然映らないよね。
世間が思ってるより、河岸で働いている女性は多いんだよ。なんかワザと排除しているみたいで不自然だし、気分が悪い。
ううう、私ホントに細かい文句ばっかり。河岸にいるからついついイチャモンつけたくなるんだわ。ゴメンナサイ。

でもこの妹もなあ……。演じる戸田恵梨香嬢、キツいよ。特に、お兄ちゃんである武志が植物状態になって3年たって、「薫姉ちゃん、もう、いいと思う」とカメラ目線で理解のある笑顔を見せるトコなんて最悪だよ。カメラ目線て!
まあ、それは演出の責任かなあ。でも、一見泣き所とか器用にこなしているように見えて、彼女が自身のカワイく見える見せ方を知ってそうしているのが、このカメラ目線カットに象徴的に現われてる気がしてさあ。
受ける岡本綾がどんなに絶妙な表情をしたって、ちょっとキビしいよ。そんなカンタンなもんじゃない、忘れられるわけない!と薫が絶叫しても、この妹、判ってるよ、って笑顔を崩さないんだもん。薫の気持ちにシンクロしちゃうおいぼれ姉さんたちとしては、お前に何が判るんじゃ、ガキ!とか思っちゃうもん。

……何か私、ちょっと怒りモード入ってる?観てる時は確かにタイクツではあったけど、そんなイカっているというほどでもなかったのだが。
ま、ここでさらっとストーリーを追っておくとだね、三人が出会ったのは宏樹が転校してきた築地の小学校。なかなか自己紹介の言葉が出てこない宏樹に薫は「ガンバレ!」とつぶやき、武志は席を立って黒板に自分の名前を書き、宏樹によろしく、と笑顔を見せた。薫もそれに続き、クラス全員がならって黒板じゅうに名前が埋め尽くされた。三人はともに笑いあう。
……今から思えば、三人の出会いであるこの場面のワザとらしさで既に、私は少々引いていたような気もする……。

宏樹の父親は、もともとこの築地の出身だった。宏樹は父子家庭、武志は両親がいなくて仲卸をやってる伯父が面倒を見ている。薫だけが両親そろってて、築地で喫茶店「春」を経営している。宏樹の父、武志の伯父、そして薫の母もやはり築地の同級生同士で、それはこの三人のような関係だったかもしれない、などと推測されるんである。
宏樹、武志、薫の三人は、「聖なる三角形。それは大人になっても変わらない」と手をつなぎあって友情を誓い合った。
武志は伯父と同じように大好きな築地の市場で働くこと、宏樹は父親の夢を受け継いでそのすぐそばの朝日新聞に勤める夢を語った。それを聞いた薫は、「築地でしょ、そしてあそこ……三角形なら……銀座かな。私、銀座のお姉さんになる」とニッコリする。

この時点で、彼女だけが仕事への夢じゃなくて“銀座のお姉さん”という漠然としたコトを言うことと、しかもそれが男の条件に従ったことだってことで、ちょっと引っかかっていたような、気もする。
でも、子供の頃の話にそーゆーミソをつけるのもあまりにもヤボなので、そこはスルーするも……でも結局根本的には、ずーっとその要素が最後まで引っかかっていたような気もするんである。

武志は二人を呼び出し、三人が集まったところで薫にプロポーズした。宏樹は一瞬、言葉が詰まるも、「いいじゃん!それが一番いいよ!」と賛成し、薫は複雑な表情を見せながらも「……そうだね」と同意する。
この時の宏樹を演じるイノッチの、あくまで親友の立場に一歩下がる感じはグッとくる。実際、イノッチは凄くイイんだよな。
めでたく二人の結婚が決まったものの、披露パーティーの「春」に、主役の武志はなかなか現われない。皆がじりじりと待つ中、鳴り響いた電話は……事故を知らせるものだった。武志は植物状態に陥った。そして、3年が経った。

武志の病室に宏樹と薫が見舞いに行く。薫は花屋で「三度目だね」と店主に言われて、スイートピーを買い求める。
しかしこのスイートピー、もうちょっときちんと花束で買ってくんない。一輪、いや二輪?あまりにショボくないか……まあ、しょっちゅう花を替えてるからなのかもしれないけど、花を買っていく、という描写をするのに、二輪だけ頼りなーく白い紙に包んで持ってくなんて、しおれそうな貧乏臭さばかりが目につくんだけど。

まあ、そんな細かいことはどうでもいい。あ、細かいといえば、眠りっぱなしの武志のヒゲがさ。あごの輪郭だけを覆うラインの、あの今風の形ね。3年眠っている間、ずーっとあの形をキレイに保ってんだよね。毎日誰かがあの形に丁寧に剃っているんだろうか……。
闘病生活に入ったら、もう全部剃っちゃうんじゃない?そこまで手かけるかなあ。意味ないような気がする。まあ、彼がいつ目覚めてもいいように、皆がそれだけ彼のことを大切に思ってるってことなんだろうか。と、そこまでうがった考えをするのもヘンな気がするし。
んでもって、桜の季節のたびに、病室で花見しながら酒盛り。ホントマンガっぽいな。医者を巻き込もうとするトコもねえ。

やっぱりなんだか不満足、なのよね。散々言った割には、築地の描写について不満足ってわけじゃない。確かに見慣れた風景が映し出されてドキドキしちゃって、なんかマトモに映画自体を見てられなかった感じはあるけど、あんまり入り込めなかったのは、そのことだけが原因じゃない。
これって、凄く純粋な設定だし、グッときちゃうんじゃないかと思ってたんだけど、なんかすんごく引いて見ちゃったのはなぜなんだろ……。
こんなこと言うの、ヤなんだけど、お前らこの年になるまで、そーゆー生々しいコトがホントになかったのかよ、などとムダに年ばかり重ねてきたこっちは思っちゃうからなんだろうか……。
まあ、ね。三人が大人になるこの時点まで、聖なる三角形を信じきってたとはさすがに思わないよ。このままじゃいられないと思ったからこそ、武志は薫にプロポーズしたんだろうし。でも、そういう気持ちの部分だけの変化でこの年までくるっつーのが、いくらなんでも不自然でさあ……。

こんなこと、10年前、いや、20年前なら思わなかっただろうな。でも今じゃ、さすがにすんなりと受け止められない。
だってこの感じだと、友情の聖なる三角形を大切にして、三人ともそんな色恋沙汰を拒否している感じじゃない。しかも色恋沙汰どころか、他の友人も全然出てこない。せいぜい、武志を慕ってて、その上彼の妹に恋慕してる店のワカイモンぐらいで、でも完全にそれだけ、の飾り脇役だし。全部、彼らのコトを判ってる身内だけで固めてて、なんかキモチワルイ。
これが、もう5歳彼らが年若かったらまだ受け止められたかもしれないけど、こんな純粋をすんなり受け止めるには、三人ともあまりに長い春を過ごしすぎなのよ。

それを言うと、三人が片親、伯父、両親、という形の家庭環境っていうのもね。それぞれ両親がいたら、親の人間関係が六人も来ちゃうわけでヤヤこしくなるのは目に見えてる。で、この構成にしたんじゃないかって気がしちゃう。
こんなことするぐらいなら、親は(妹も)彼らの人間関係に口出さない形にしてほしかった。しかも植物状態に陥る武志に関しては、面倒を見ているのは伯父であり、親代わりとはいえ、本当に親なら、「武志の替わりに薫を幸せにしてやってくれ」という台詞を、本当に宏樹に言えただろうか。親までもがこの三角形の方を大切にする?その問題を逃げるために、設定を親ではなく伯父にしたような気がしちゃう。

で、3年間、宏樹と薫は武志の見舞いに日参した。宏樹は忙しい社会部からローテーションがきっちりしている整理部に異動させてもらい、大人になってからはすれ違いの日々だったことを詫びるかのように、三人の時間を大切にした。
でも武志は眠っているんだし。いくら「毎日三人で会って、ガキの頃みたいだ」と宏樹が言ったって、目覚めて会話しているのは宏樹と薫なわけだし。なんかこの3年間が、宏樹と薫の絆を深めたようにしか思えない。
そういう大人の皮肉を、避けて通ってほしくない。結局聖なる三角形のまま、いっちゃうんだもんなあ。

武志のプロポーズを受けたまま、目覚める確証もないまま3年が過ぎ、周囲はまるで未亡人のような状態の薫を心配し始める。
……これもね、判るけど、そもそもは彼女自身が考え、決めなきゃいけない問題だよね。
結局、周囲から押される形で宏樹は薫に「武志が目覚めるまででいいから」とまで言ってプロポーズし、薫もそれを了承するんだけど……。
しかしさ、結婚披露をする日に武志が事故に遭い、薫が宏樹のプロポーズを受けて皆に祝福を受ける日に目覚めるなんて、なんか、いくらなんでもタイミングが都合よすぎるというか、せめて二番目に関してはもう少しズラしてもいいんじゃないの。ちょっと出来すぎで、見てて冷める。

実際は、武志の伯父が言うように、薫は宏樹が好きだったの?
基本は永遠の友情、聖なる三角形。だから、そんなカンタンなものじゃないと、薫の母親も援護していた。「女心はそんなカンタンじゃないの」と。そりゃそうだけど、なんかちょっと違うような。
あの感じだと、薫の母、弘樹の父、武志の伯父も、同じような関係だったみたいだしさ。これもまた、ちょいと出来過ぎだな……。
なんか、女心を理解してそうで、根本的なところで判ってない気がする。
女は、ことにこの年まで来た女は、そんなに純真じゃないよ。この三角形を壊さないためにってだけで、二番目に好きな人と結婚なんかしない。正直、それは男の幻想だとしか思えない。
だって、先のことを、絶対考えるもの。

三角形を壊さないためなら、一番の宏樹も諦めて、まったく他の人と結婚することを選ぶと思う。それこそが真の純真でしょ。そう、薫の母親がそうしたようにね。この親世代の三人の間に、どんな事情があったのかは明かされないけど、
しかし思い出とはいえ、薫のお母さんたら、「宏樹のお父さんは私のこと好きだったのよねー」などと言って、薫の父親だけが完全にカヤの外で、コレもなー。ただ美味しいオムライスを作ってるだけのお父さんかい?
でも、薫はそうしなかった。一番目の男にウンと言ってしまった。コレじゃ、自分が幸せにするからと宣言する男に、じゃあよろしく、と言っているようにしか思えない。
まあ、そこんところをさすがの岡本綾は上手く回避して、傷ついたヒロインをイヤミなく演じてはいるけど……後から考えると、どーにも違和感ばかりが残っちゃうのよ。

しかも、目覚めた武志はあと1ヶ月の命だっていうんだから。
これを告げる医者もねえ……。最初っからこの医者はどうなのよ。顔ばっかり作って、武志の重篤な状態にどれだけ真摯に取り組んでるのか、全然伝わらないよね。いくら物語の主題がそこじゃないにしても、医学的な部分があまりにテキトーすぎる。
「このまま植物状態」「目が覚めたのは奇蹟」ってのがさ、具体的に頭のどこにどう損傷があるからそうなったのかとか、ウソでもいいから解説してくんないと、目覚めた時に記憶喪失で、しかもあっという間に死んじゃうって部分と抱き合わせで、半世紀前の少女マンガかよ!って突っ込みたくなっちゃう。
こんなんなら、かえって医者は出てこない方がいいよ。だって、言うにことかいて「医者がこんなこと言うべきではない」を二度も繰り返すんだよ。今の医学に比して、あまりにテキトーに済ませすぎだろ!

脚本家の岡田氏は、男2人と女1人の間の友情というテーマを長年温めてきたんだという。
そりゃ、男女の友情は成立するよ。でもそれは、こんなズルい形じゃない。
少なくともここで、男二人とも彼女にホレている。しかも恐らく、出会った子供時代からだと思う。それは友達の感情じゃない。男二人の間でしか、友情は成立してない。
そこで既に、女は裏切られているんだよ。三人の“友情”を保つために、“幸せになる”という脅迫的条件をチラつかせられて、どちらかの所有物になることを強要されてる。

それは、彼女が幸せになることじゃなくて、それどころか誰一人幸せになることじゃなくて、今を変える勇気のない男を立てなきゃならない女の不幸ってだけだ。
男二人に女一人、これが逆だったら成立しないことが、それを如実に物語ってる。女が二人で男一人だったら、その女二人はそんな幻想をあっという間に見破ってしまうだろう。
結局この三角関係で、男二人は一人の女に対して友情を結べるとは思ってないから。
少なくとも大人になってからは、絶対にそう思ってない。表面上はいつまでも変わらないなんて言ってるけど、結局は女が、男の友情のダシに使われてるだけなんだもん。

死を悟った武志は、弘樹に薫を幸せにしてくれと頼み、二人の結婚式を見たい、と言う。
喫茶店「春」で行われた、ささやかな二人の結婚式。……ウェディングドレスとは言わないまでも、せめてヴェールぐらいかぶってほしい。薫が白で弘樹が明るいグレーになっただけで、フツーにスーツ姿じゃん。武志はうっとりと薫に「キレイだ」って言うけど、あれじゃ普段の薫とどこが違うんだろう。準備が間に合わなかったというのだろうか。しかしあまりにヤボではないか。
しかも、その結婚式を幸せそうに見ながら、目を閉じた武志の顔がゆっくりと傾けられるって、まさかここで死んでるわけじゃないよねえ……もしそうなら、あまりにベタすぎで、怒るよ!いや、実際そうでなくても、この描写は怒るだろ!
んで、時間が経ち、宏樹と薫はベビーカーを押しながら隅田川沿いを散歩している。「あの時、武志は天国を待たせてくれたんじゃないかな(ちょっと表現が不正確かも)」笑顔で頷く薫。そうかそうか……。

イノッチは想像通りにイイ。彼の反応は、そんな先のことも根本的なことも考えずに、自分が諦めれば三人仲良くこのままいける、という、間違った純真バカの考えで、それこそが愛しく思えてしまう。
彼女にプロポーズするのも、周りからのお膳立てがなけりゃ出来ない。それもハラ立つけど、友情ばかりを考えているキャラにイノッチがあまりにハマるから、ついつい許せてしまうのよね。

しかし、一発でオチがばれてしまうこのタイトルはどうなのだろうか……。★★☆☆☆


転々
2007年 101分 日本 カラー
監督:三木聡 脚本:三木聡
撮影:谷川創平 音楽:坂口修
出演:オダギリジョー 三浦友和 小泉今日子 吉高由里子 岩松了 ふせえり 松重豊 岸部一徳 笹野高史 石原良純 鷲尾真知子 広田レオナ

2007/11/27/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
三木監督デビュー作の「イン・ザ・プール」がなんか好きになれなかったもんだから……。あまりに小ネタばかりをちりばめるだけで終わっちゃって、それを面白いだろ?って自信満々な感じも引いちゃったし、小ネタばかりで収集がつかないというか、最低限のまとまりっていうか、まるで落ち着かなくて。脱力ったって、最初から最後まで脱力されても困っちゃうしさ、なんて思って。
なもんで、「亀は意外と速く泳ぐ」も「図鑑に載ってない虫」も「ダメジン」もことごとくすっ飛ばしてしまったのだけど、今回はこの二人の顔合わせ、ことに最近すっかり力の抜けまくっているのが魅力的な三浦友和に惹かれて足を運ぶことに。

しかし、私、やっちまった。だってまさか5分で予告編が終わってるとは思わなかった。どうしても5分は遅れてしまって、でも予告編、最低10分はあるもんねと思っていたら、ヤられた。
私が飛び込んだ時、オダギリジョーが三浦友和にぶっ飛ばされて、金返せと言われている場面だったのだけど、これは本編開始からどれぐらい経っていたの?ああ、気になる、何か肝心なセリフとかすっ飛ばしちゃった?ああ、気になる。もうそれが気になって気になって、中盤ぐらいまでずっとドキドキしながら見てしまった。
しかし、借金が84万って、随分ビミョーというか、こんな問題に巻き込まれるには少なすぎるというか……そのビミョーさもまた、三木監督ということなのかなあ。

というわけで、ゴメンなさい、映画ファンの風上にも置けないことをしてしまって……。
で、なので私の感覚では、オダギリジョー演じる竹村文哉が両親に捨てられたとか、借金のことに関してもなんかあんまり明瞭に判んない感じがしたんだけど。
彼が家族に恵まれていない、というか、家族というもの、親というものの感覚が根本的に欠如しているから、そのことに対して寂しいとか不満だとかいうことさえなくて。
その感覚は、フツーに親がいて結構幸せな家族関係だった私には判ろう筈もない。でも「ニセモノの両親」に対して気を使ってなんだか疲れちゃってるんだな、みたいな彼は、ちょっと寂しいなと思うし、三浦友和に対して……こんなトンでもないオッチャンに対して、どうやら父親ってこういうものなのかも、と彼が思っているらしいことが、判るのだ。

そう、三浦友和。かつてのちょっとピントのぼやけた(失礼!)青春スターをキレイに脱して、貫禄というよりはちょっとダラしなくお肉のついた大柄さもオフビートに見えてくるという独特の存在感を獲得した近年の三浦友和は、そりゃ昔から彼のことは好きだったけど、大いに驚くんである。
老け待ちされた「なごり雪」の枯れた色気も良かったけど、思えば「悲しきヒットマン」(大好き!)の時から既に、この独特なオフビートは発揮されていたんだものなあ。

借金取りの福原が、竹村の84万の借金をチャラにして、更に100万やる、という条件の元に、強引に彼を散歩に連れ出すストーリー。一枚だけハズれそうな100万の束をチラつかせる福原に竹村は、「その一枚、ハズれそうじゃないですか。そういうの、気になるんですよ」とゴチる。のが、ただの脱力台詞と思いきや、意外にもラストへの伏線になるあたりも面白い。
福原の目的地は霞ヶ関。それだけが決まっていて、それまでに何日かかるのかも、なぜ霞ヶ関なのかも判らない。

しかし二人の距離が近づいていくごとに、福原はぽつりぽつりと話し始める。奥さんの不倫にカッとなって、殺してしまったこと。その奥さんを部屋に放置したまま、一番リッパな警察で自首したい、と霞ヶ関の警視庁を目指しているんだと。
福原の父親は、昔から散歩が好きだったという。そんな父親のことを作文に書いた福原、「散歩をしなければならない性質(タチ)なのです」という言葉が家族にウケて、それ以来彼の家では散歩のことをタチと言うようになったんだと。そんな、自分の家だけで通じる言葉ってなかったか?と問い掛ける福原に、竹村はいや……と否定する。ニセモノの家族でしたからね、と。
しかし福原が家族のことを話すのはこの場面くらいで、あまり彼にも家族の匂いは感じない。このエピソードだけが妙に出来上がりすぎていると感じるぐらい。

恋やファーストキスの話なんぞは、二人の距離を縮めるには格好のアイテムだが、本格的なファーストキスはカラオケボックス、などと言う竹村に福原は背中に蹴り入れる。「つまらないヤツだな!」「まあ、そうでしょうけど……」
竹村は自分がいわばトキメキを解さないままここまで来てしまったことを自覚していて、奥さんの浮気にショックを受けた福原のことを、そして殺してしまった後でもどうやらまだ愛しているらしいことを、うらやましく思っているのかもしれない、と思う。だって福原ってば、「浮気した相手はどうでもいいけれど、たった一人だけ、許せない奴がいる」というそのたった一人とは、奥さんが唯一、ホテルまで行って寝なかった相手だというんだもの。心をとられたのがショックだったのだ。

福原の提案で、竹村の初恋の女の子に会いに行ったりするエピソードも笑える。そもそもこの初恋自体がハズかしい過去。お誕生会というイベントも懐かしく、ラコステのポロシャツが流行った時期、というのもなんか判るというか。
畳屋稼業の彼女の家を訪ねてみるといきなり畳が飛んできて(!)「畳が当たると割と痛いよ」と笹野高史、畳屋似合い過ぎ。竹村のオヤジさんと自分の奥さんが浮気していたことに逆上したらしい。目を白黒させる竹村。こんなところにもまだトラウマの火種が……。
その初恋の彼女、今やコスプレオタクになっていた。コスプレの店に会いに行って見ると、開口一番「ラコステのフミヤ君でしょう!」竹村は彼女へのお誕生日プレゼントに、高くて買えないラコステのポロシャツの替わりに、ラコステの靴下のワニだけ切り取って無地のポロシャツの胸に貼り付けたのだ。笑顔の彼女がポロシャツを手にした途端、ポロリと落ちるワニ……ああ、思い出したくない辛い過去(笑)。

「街で岸部一徳を見ると、幸せになれる」とか、「たき火にあたる工事現場のおっちゃんって、なんでチンチン触ってんだろう」(ちょっとワザとらしい触り方だが……)とか、どーでもいいことをちりばめながら、とぼとぼと、二人の冴えない男は歩いていく。
福原が奥さんとケンカした時にいつも仲直りする場所だったという、「愛玉子」と大書されたお店、どんなギョーザかと思ったら(いや、なんかそういうたたずまいなんだもん)レモン味のゼリー。
そこで店の女将さんが暴力息子に手を焼いていると思ったら、でてきたのがつぎ当てだらけの石原良純(爆笑!)だったりと、絶妙なキャスティングにも抜かりない。

うーん、でもバスケのヘタな黒人のエピソードまでくると、なんかしつこい感じもしたかな。
竹村からのパスを受けそこねておでこに当たって、うずくまる。「えええええ!」とガッカリ奇声をあげるオダジョー。このえええ、の脱力気味の言い方って、最近の流行りなのか、結構映画でも聞くのでちょっと食傷気味。

二人して小さな旅館に泊まる。窓からすぐそばに信号が見えていて、「信号ってこうして見ると、大きいですね」と竹村はつぶやく。「そういうもんだ」と福原。
確かに信号をこんな位置から見るなんて新鮮だし、でもそれだけで、別になんてことないシーンではあるんだけど、なんとなく時間がゆったりしてて、目的を忘れそうになって心に残る。

というわけで、これは、“車に乗らないロードムーヴィー”とでも言うべきだろうか。こんなに静かな東京があったんだと驚くばかり。三木監督の静かな脱力感も、こうした場所を知っているから、こういう場所が好きだからこそ培われたものだと思われる。
「ブレードランナー」の昔から近未来的なネオン輝く東京が活写される映画の中の東京、あるいは最近のアキバブームやらスシブームやらの東京ではない、時から忘れ去られたように全く変わらずにそこに残っている東京。
特にその路地の佇まいには特筆すべきものがある。こんなにも人のいない東京も初めて見た。「ここはあんまり変わんないな」と福原がつぶやく小道は、まるで時代劇に出てくるような、茶店が顔を出すような閑静なたたずまい。見たことのない東京がゾクゾク出てくる。

特に、建物と建物に挟まれた細い細い路地が、まるで天まで届けとばかりにスクリーンのこちらから向こうまで鉛筆の線の様にずうっと走っていく中を、二人がとぼとぼと歩いていく引きの場面には思わず息を飲んでしまった。寂れた街の路地が夕闇のほの暗さの中、これまたずーっと続いていたりとか。
たとえば曲がりくねった小さな路地、といった美しさは大林映画なんかで観てきたけれども、これは今まで観たことのない道の感覚で、土地に家々がひしめいている東京の、雪山の溝のような危うさがあって、こんな東京があったのかと驚く。
どこまでも続いてほしいと思う道。でも、こんな寂れた寂しい道が、どこまでも続く筈もなくて。

ところで、私はかの有名な「時効警察」を観てないもんだから、この作品が大いにそのテイストを継承しているということも勿論判りっこない。でも、基本的にはイヤミなぐらいに色気のあるオダギリジョーが、しかしトボけた三枚目をまるでこっちが本業であるかのように味わい深くこなす部分が、きっと「時効警察」もそうなんだろうなと思わせる。
大体、稀代の色男にこんなトボけたパーマ頭が成立しちゃうなんて(よーちゃん、ゴメン!)やはりこれは例えば、キムタクなんぞには出来ない芸当だろうなーなどと思ったり(意味もなくアンチキムタク。アンチ巨人のようなものだと思ってくれ)。
全く意味なく、意味ありげに振り返る通行人に麻生久美子が出てきたり、見てなくても判る「時効警察」の足跡がちらほら。
松重豊、岩松了、ふせえりの三人組の、まるで「踊る大捜査線」のスリーアミーゴスを思わせるようなオフビートっぷりも、恐らく時効警察テイストから引き継いだものだろうしさ。

ホント、物語とはまるで関係ないんだよね、この三人。一応、福原の奥さんがパートで勤めていたスーパーの上司と同僚たち、であり、無断欠勤を続ける彼女を心配して家まで様子を見に行こう、という流れはまあ真っ当だとは思えるんだけど、その実この三人、最終的には彼女の様子を見に行かずに終わっちゃうんだもん。
まず、何日か無断欠勤を続けていることにも、それほど心配している様子も見せず、そういやあ、来てないよね、どうしたんだろうね、というようなぼんやりした感じで、電話をかけてみようとしても、店長の「おれのつむじが臭いって言われた」という話題であっという間に吹っ飛んでしまうんである。ほんっと、どーでもいい話題で。
しかも三人はその話題で、「うわ、臭っ。これはどっかでかいだことのあるにおいだ」「あ、はい、判った。ガケの匂いよ」「そうだ、ガケの匂いだ。この湿っぽいコケの感じといい」などと、もうほんっとに、どーでもいいことで盛り上がって、見舞いに行く件を忘れちゃう。

その後も、見舞いに行こう行こうとするんだけど、なぜか岸部一徳の出演する映画のロケに遭遇してエキストラになっちゃったり。
出た!街で岸部一徳を見ると幸せになれる話!「あ、見たことある、誰だっけ」「岸部一徳だ」「岸部一徳にサインなんかもらわなくていいのよ(言い回しちょっと違ったかな。しかしどういう論理でそうなるのだ(笑))」なんてコソコソ言い交わす三人。
で、ロケ現場に行くバスで彼と向かい合わせに座った彼らは、興味津々。弁当を食べる岸部氏に「岸部一徳が、チクワ食べた」とコソコソと報告したり。実際は皆同じ役者仲間なのに、こういうシーンを撮るのって、可笑しいだろうなあ。

で、その日もお見舞いに行けなかった三人、次のシーンではまたスーパーの事務所に逆戻り。店長が自分のつむじの匂いをかぎたいとゴムホースでかごうとし、「ゴムの匂いだよ」と言うのに対して他の二人もやってみて「ホントだ、ゴムのにおいだ」と感心するのには超脱力。だれか、これがゴムホースだからだとは言わないのか!!
そもそも、無断欠勤の福原夫人のことを、冗談のつもりか「死んでたりしてね」などと言い合って爆笑し、留守番電話に「死んでるんですかー?腐っちゃいますよーギャハハハ」と吹き込むのは、うう、かなりのブラックジョーク。
しかしこの、スリー・アミーゴズに10倍毒をかけたような三人がいないと、案外この物語がそもそも持っている暗い部分に引きずられたかもしれないのよね。

そう、このオフビートにウッカリ忘れそうになるけど、福原は不倫した妻に逆上して殺してしまったんであり、その妻を部屋のベッドに置き去りにしたまま竹村と散歩の旅を続けているんであり……。
いくら木枯らしの吹く乾いた東京の冬だからといって、この数日間で死体がじわじわと腐っていくだろうことは自明の理なんである。
展開の最中には、ホントそのことを忘れそうになるんだよね。
福原が寂れた商店街の時計屋のオヤジに「時計なんてロクに売れないのに、どうやって生計を立てられるのか?」なんて、まあ確かにウチらが素朴に疑問に思っていることをぶつけて予想外のカンフーオヤジの逆襲にあっちゃってケガしちゃう。で、小泉今日子演じる麻紀子の家に転がり込んだ時、そのことを急に思い出すのだ。
だって福原、女房のところに行こう、と言うんだもの。当然竹村はヤですよ、だって死んでるんでしょ!?とうろたえる。しかしその女房は、ニセ女房。様々な仕事を経験している彼は、天涯孤独の人のために披露宴でニセの親戚を演じる、という仕事の経験もしていたんである。

ちなみにその仕事場で相手方の姉として出席していた広田レオナにつきまとわれるエピソードもある。つまり福原が自身をデザイナーだとウソついてて、画家をやっている彼女のアンテナに引っかかっちゃったということなんだけど。
ここでは、そのニセ家族をやったことがあるという伏線と、広田レオナの先天性のストーカーの恐ろしさを見せるためだけって気もするが。
彼女のその恨みがましい目力と色白の肌、闇に引きずり込むような漆黒の髪は貞子のように無造作にザラザラと長くて、一見したとたんに、実にゾワッとするのよね。福原の「うっとうしい女だ」という言葉をはるかに越えるインパクト。

で、麻紀子である。ここでこそ、竹村は福原に擬似父を感じていたことを実感するんである。ここではまさにザ・擬似家族が出現する。当然麻紀子は擬似母親だし。
加えて彼女の姪っ子だという風変わりな女の子、ふふみが突然現われて、彼女は昔からここに住んでいたかのようにすっと入り込み、まるで、そう、竹村の妹のようにじゃれあうのだ。お風呂で奇妙な鼻歌歌ったり、パンツいっちょでキャーと奇声をあげながら部屋を横切ったり。
そして家族団らんの象徴、スキヤキのなべを囲む。スキヤキにマヨネーズをかける彼女に、自分の小皿にもかけられて、あからさまにマズい顔で台所に駆け込む竹村。でもホントはそんなにマズくもなかった、と彼は心の中でつぶやいた。ただそんな風に家族みたいなやりとりをしてみたかっただけなのだ。

どてら姿を笑われる、でも大真面目な福原。ああ似合い過ぎる三浦友和。これしかないのだと。ザ・旦那であり、ザ・父親。ここにも家族への憧憬、希求が見える。
それは出かけるのにやたら時間がかかる女、という描写でもそう。それに対して福原はイラ立つけれど、多分どこかで嬉しがってるんだよね。この家族って感じに。
ジェットコースターに父親と乗ったことがないという竹村のために、皆で花やしきに出かける。竹村と福原の乗るジェットコースターを見上げて笑っている麻紀子とふふみ。アットホーム、ニアイコール、ショボい感覚があたたかで、切ない。

麻紀子は竹村に、外見は似てないけど、あの人と雰囲気が似ているわ、と言う。息子さんかと思ったぐらい、と。そういえば福原は奥さん以外の自分の家族体系について喋らないし、奥さんとの間に子供もいないし、奥さんの不倫に……言ってしまえばそれだけのことに、殺すまで逆上したのは、彼にもまた家族という感覚がなかったのかな、と思うのだ。
奥さんは、スーパーのパート勤務の往復で、単調な日々を過ごしていた。福原に黙って渋谷に乗り込んで若い男を漁ってた。福原は、たった一人、許せない奴がいると言う。たった一人だけ、妻と寝なかった男がいるんだと。そして彼女はその彼だけが忘れられないんだと。
奥さんが、誰か他の人間になりたいと思うのも、ここに満たされた家族の感覚がないからだと思われるし、やっぱりどこまでも、家族の感覚の欠如がそこにはあって、それを何か他のもので埋めようとして、結局出来なくて、その寂しさで横溢しているように思うのだ。

だって、奥さんが“寝なかった”男を、彼は許せないと言うんだよ。寝た男じゃなくて。
寝た男は、もうその時点で終了だから。でも寝なかった男は、その後ずっとずっと彼女の中で生き続けてる。
何の条件もなしに人の心の中で生き続ける家族という存在(それだけに、時にはうっとうしいこともあるけれど)を、違う角度で示しているように思えるのだ。
だから奥さんも……奥さんの家族のことまでは描かれないけど、寂しい人だったんじゃないかと思うんだ。
それを似た者同士の夫婦で察知したから、殺した後で察知しちゃったから……彼はつまり、贖罪の旅に出たんじゃないのかな。

最後の食事は何がいいんですか?と問うてみる竹村。焼き肉?NO ラーメンじゃ未練が出過ぎるし。やっぱりカレーかな、と福原は言っていた。
麻紀子の家で過ごし始めて数日、昼からカレーを煮込んでいる麻紀子とふふみに竹村は呆然。「今日、カレーなんですか」
すると後ろから福原が声をかけた。「うん。そろそろ、カレーを食べたいかなと思ってさ」
ただただ呆然とする竹村にふふみが不思議そうに、「カレー嫌いな人って、初めて聞いた」と首を傾げた。
チャツネを入れなければ美味しくならない。買ってきてくれる?と麻紀子に言われて、呆然としたまま買い物に出かけた竹村。手にしたチャツネを見つめながら公演でぼんやりと座り込む。しかし……あんなワサビみたいなチューブのチャツネあるの?これもまたナンセンスなんだろうか……なんとビミョーな……。

最後の道行き。もう霞が関が見えている。後ろ向きに歩くと若返るのだ、とまるで小学生みたいなことを言って二人は道を後ろ向きに歩く。ぶつかった老婦人。「私は若返りたいとは思わないんですよ」と言い、しかし後ろ向きに歩きながら、二人に笑いかけながら去って行く。それをなんとも言えない表情で見送る二人。
福原は約束の百万の束を竹村に渡す。と、はずれかけていた一万円が風に飛ばされる。慌てて追いかける竹村がそれをつかまえ、最後の言葉を渡そうとすると、もう福原は道の向こう。

ラスト、何の感慨もなく、さっさか警察署へと小走りに去って行く福原に、竹村が「……なんだよ」と脱力気味につぶやく。きっと竹村は、自分が満足するための、しんみりした別れの言葉でも用意していたに違いない。
それは、感動的な別れを予想、期待していた観客の気持ちを代弁し、それをさらりと裏切った三木監督に、これぞ三木ワールド!と喝采も浴びさせる。

そういえば前半、散歩が始まった時、彼が携帯電話で断わった仕事って、なんだったんだろう。福原には最後まで謎が多かった。★★★☆☆


天然コケッコー
2007年 121分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:渡辺あや
撮影:近藤龍人 音楽:レイ・ハラカミ
出演:夏帆 岡田将生 夏川結衣 佐藤浩市 柳英里沙 藤村聖子 廣末哲万

2007/9/6/木 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
原作を読んでから観るべきか、観てから読むべきかと悩んで、結局未読のまま突入。観た後に原作を探し回ったのに、なぜか手に入れられず。うう、映画とはそれそのものと対峙しようといつも思ってはいるのだけれど、つい弱気になる。だって結局照らし合わせて自分の思い出話と化しちゃうんだもん。
まあ、いつものことだから、今更言ってもしょうがないんだけど……。
でも当然のことながら、全てにそうそう!と共感の思いを抱けるわけではない。田舎で育った経験のある人は多いだろうし、いわゆる中学生の普遍的な思いもあるだろうけれど、特に本作は、多くの人との共有事項は少ない。
だって、小中学校の生徒あわせて数人という、廃校寸前の学校に通っていただなんて思い出を持っている人は少数に違いない。「初めての同級生」だなんて感覚、想像もつかない。
そして、その中にはほのかな恋心も描かれるけれども、そうした多くの人の共通事項になることが、この作品の、ひいては原作のメインテーマではない気もする。

小中学校が合体した、全校生徒たった6人の学校は、中学生が小さい子の面倒を見ていて、学校以外でもいつも一緒で友達以上の家族みたいな関係。広がる田んぼの緑、鳴くひぐらし。のどかで、ゆっくりとした時の流れ。
夏の前に東京から転校生、大沢広海がやってくる。この学校の最上級生の中学二年生、右田そよにとっては初めての同級生。心の中で「ほお、イケメンさんや」とつぶやく。冷たく、クールに見えた大沢君だけれど、そこは中学生、そよの弟の浩太郎とプロレスごっこに興じたり、一緒に海にも遊びに行った。そして、そよとはちょっと淡い気持ちを抱きだす。
夏休み。透き通る海での海水浴。そこで起こった幽霊騒ぎさえものどかで温かかった。秋、お祭り、神社でのチュー。冬になるとバレンタイン。心配するそよをよそに、一つ下の篤子と伊吹はちゃんと弟の分までチョコを用意してくれたエピソードが心に染みる。そして春、弟の浩太郎が小学校クラスから中学校へと上がる。夏、進路で悩む時期。秋、修学旅行。冬、受験。そよと大沢君は二人手をつないで寄り添い汽車に乗り、結果を聞きに行く。そして春……。

という。それぞれにゆっくりブラックアウトして描かれる様々なエピソードは、実はどれが先だか後だかちょっと自信がない。記憶に間違いがありそう。なんかね、どれが先でも後でもいいような気がするんだよね。だって話の流れや筋が、本作の大事なところじゃないんだもん。
恋の盛り上がりさえも、重要点じゃない。二人の恋は初めから終わりまである一定のほのかさとかすかなドキドキを心地よく保ったままのように思える。ヤボな大波は、来ないのだもの。

本作は東京からの距離、が特異性のような気がした。こと映画に関して近年の地方映画は、東京に手が届きそうな近郊の地方を描いていたことが多かった気がする。いつも東京が意識の片隅にある、みたいな。名作、「リリイ・シュシュのすべて」も、本年度の傑作「檸檬のころ」もそうだったし。あるいは、まるでザ・地方!ご当地映画!みたいな、東京を対極に置いて、時には敵とみなしてるんじゃないかみたいな姿勢のものとか。
本作は、こうした、どっちにしてもある東京への強い意識が、ないんだよね。確かに東京からの転校生は、特別な存在。そしてテレビには東京発の番組が流れている。でも東京からの転校生も、こんな人数の少ないコミュニティーの中ではいつまでも異邦人でいることの方が難しく、あっというまに家族同然の仲と化してしまうし、テレビの中の東京は、同じく映る外国や宇宙の映像とさえ、差がないのだ。

だって、他のクラスどころか、中学校で一教室、小学校で一教室なんだから。一人の転校生が小中全学年の生徒から受け入れられまくるなんて、通常ありえないもの。
むしろ、多くの生徒の中に飛び入りさせられる“転校生”の方が、一見紛れそうなんだけど、いつまでも紛れられない異質の存在であるように思う。
それは、まあ、自分が転校生の経験があるから思うのかもしれないけど。んでもって、私は人見知りっ子(いまだに)だったからなー。
彼らにとっては東京は遠すぎて、“東京の人”を意識したり排除したりするより、受け入れてしまう方が早いのだ。

でも、大人にとってはそうもいかないのかもしれない。
東京から来た、というより、東京から出戻ってきた大沢君のお母さんに、そよのお父さんはやけに敵愾心を燃やしている。
どうやらそれは、二人の間に過去、何かがあったらしいということが、ちょっとした嵐の予感で描かれるのだけれど、殊更に嵐が起きるわけではない。何より当のそよのお母さんが、「少しぐらい浮気してくれた方がいい。私への愛が重すぎるから」と泰然自若としてるんだもの。夏川結衣、素敵っ。
勿論その心の中には、子供たちには見せない波風が立っているのかもしれない。しかしそこまでは見せない。そのあたりは脚本や演出に、潔い取捨選択が効いているんである。

そして、郵便局に勤めているシゲちゃんはそよにホレているらしく、そよと一緒にいる大沢君に、「男に捨てられて舞い戻ってきた息子」的な強烈なイヤミを浴びせかけるのだ。
この時の、シゲちゃんを演じる廣末哲万の威嚇するような目力!が、なぜか逆に可笑しい。
しかしそんなそよのお父さんにしろ、この“ウザい”しげちゃんにしろ、なぜか憎めない。
それはやっぱり、そこまでの悪意は感じないからかなあ。そういうイヤミにしろなんにしろ、異質なものに対する単純な防御姿勢のように感じるから。

で、その共有事項の少ない物語が、なぜここまで心を打つのか。
マンガ原作はエピソードが膨大で、その積み重ねで世界を作っていくから、映画化して成功させるにはとても難しい、と思う。
筋を追えばいいってもんじゃない。それをやって大失敗したいい例が「NANA」あたりである。
登場人物の関係性、お互いにどう思ってるかとか、そういう微細な部分までを、映画という決められた尺の中で表現するには、数多くのエピソードや、判りやすい筋ではなくて、一発の必勝場面なのだ。それを選び出す脚本家の手腕であり、その場面を演出する監督の腕だと思う。
原作を未読だから、それに対して大見得きっては言えないけれど、四季にまたがって綴ってゆくこの物語は、その必勝場面の勝率の高さが成功のゆえんだと思われる。

原作のくらもちふさこ自身も、原作そのままの台詞を使っていることに(つまり映画化に当たって手を入れていないことに)驚いたという。つまりそれだけ、尺に収めるための整頓をするようなヤボをしていないんだよね。
私が、グッときたのは、膀胱炎になってしまったさっちゃんをそよが見舞いに行く場面。
まだ一人でおしっこに行けない最年少のさっちゃんの面倒を、そよはいつも見ていた。でも皆で海水浴に行った帰り道、大沢君が二人きりになるために彼女を誘ったことで、「そよちゃん、しっこ」と言ったさっちゃんを見捨てたのだ。
自責の念に駆られ、大沢君からのデートの誘いも断わるそよは、実に誠実な潔癖さをもつ愛すべき少女なのだけれど、それを迎えるさっちゃんが、泣かせるんである。

もしかしたら罵倒されるかも、と観客も、そよも思っていたに違いない。でもお見舞いにきたそよが意を決してさっちゃんの部屋に謝りながら入ると、さっちゃんは彼女の足にぎゅっと抱きついてきて、そよちゃん、と見上げるのだ。そのぷっくりとしたほお、愛らしい黒目がちの瞳!
……なんか年々、子供の愛らしさにヨワくなっているのは、年なのかしらねえ。
その後のカットで、女子たちが皆している、スイカの皮で顔をマッサージする、というのを、さっちゃんがそよにしてあげているのがまた泣かせるのだ。幸せそうな笑顔で、さっちゃんのマッサージを受けているそよが、泣かせるのだ!
もう、ここで、キマリだな、と思ったもの。
さっちゃんのお姉ちゃんのカツ代もまた、お姉ちゃんらしい、マセた感じで可愛いのよね。
恋の筋も、中学生としての成長物語も関係ない。子供たちは確かに成長していくけれど、それを目に見える形で示さなくても、こうしたエピソードの積み重ねで、そのゆるやかな変化を感じ取ることが出来る。
それは、まさにマンガ原作と同じ手法なんだよね。

それにしても、あの海へ行く道への場面、女性が飛び降り自殺をした橋を渡りたくないために皆、遠回りをしていくんだけど、その橋を渡った時、さっちゃんは、幽霊が本当に見えたんだろうか。見えたんだろうな。このぐらいの年の子は、私たちが見えないものが、見える。
「あそこに人がいるよ。こっちにくる……」こ、コワイ……。
逃げ出したそよが、線路の真ん中で転んで起き上がれなくなり、足をつかまれたと感じたのはひょっとしたらカン違いだったかもしれないけれど。

大沢君がその道を自ら選んだのは、「親から言われてたんだ。海に行くことがあったら、橋で拝んできてくれって」という理由からだった。お母さんの友人だったのだ。帰り道、二人でその道を行く。どこかチャカして自殺した母親の友人の話をする大沢君に、「そんな風に、ふざけていうもんじゃないよ」と制して、道端の花を摘み、手を合わせておがむそよ。
ひょっとしたらこの場面が、大沢君がそよにホレたトコなのかもしれない。道行につき合わせたのは、単にこの話をする相棒が欲しかった、それがただ一人の同級生であっただけなのかもしれないけど。
彼女の顔を覗き込んだ大沢君、絶対、キスしようとしてたに違いない。
いや、もうやっぱり二人きりになれるよう画策した時から、そうだったのかな。

実は、大沢君のそよに対する気持ちは、こと本作に関する限り、あまりハッキリとはしない感じがする。
東京からの転校生に女子だけではなく皆が浮き立つし、大沢君の母親から「彼女?」などと、いかにも東京から来た女、みたいな態度で、ふーっとタバコの煙など吹きかけられるし。でも大沢君、そよに対して好きだとか付き合ってくれとかいうことは、言わなかったよね?
そよは最初、大沢君がさっちゃんのおもらしの後始末をした彼女に「ちゃんと手洗った?おしっこくさいデザートってやだろ」と言ったもんだから、浮かれてた気分が一気にしぼんだ。しかしその後、村にずっといるじっちゃんの孫だと知って急に親近感を抱くようになり、その後は、大沢君とチューしたりもするし、順調なカレカノのようにも見える。

ただ大沢君は、ことこのチューに関しては、東京の友達と競っているような部分があり、しかも中学生の男の子なんて、女の子のロマンチストと比べて、エッチなことで頭いっぱいになっているはずなんだから、とにかくチューにこだわる大沢君の気持ちはよく判るのだ。
ただ、中学校卒業の時、またしてもそんな場面になった時、「私のお祝いなんだから、私からする」とそよが、大沢君の肩をつかまえて、ちゅっ、ちゅっ、と「なんか違う」とか言いながら二度三度繰り返す場面、大沢君は、もういいよ、と彼女を押しのけ、「なんか愛がない」と言い捨てるんである。

まあ……愛があるキスなんて、そりゃ君たちにはまだ早いよね、と思い、それはやっぱりセックスを感じさせるキスのことだよな、と思うのだ。
実際、そよにチューしようとする大沢君は橋での一度目も、神社での二度目も、卒業の時の三度目も、かなりアダルティーな雰囲気で迫ってた。
実際は、女の子の方が成長が早いけれども、こと、この場面に関しては、そよはまだまだ子供だった。
いや、そのフリをしていたのかもしれない。むしろ、セックスで頭でっかちになっている形ばかりがアダルティーな大沢君こそが、子供なのかもしれない。
そよは、父親の浮気(かもしれない)現場を観ているんだし、はぐらかすということは、その本質を知っているということなんだもの。

ただ一人の同じ年頃の男女、ある意味選択肢がなさすぎて、二人が好き合うようになるのは単純すぎるようにも思えるんだけど、でも逆なのかもしれない、と思う。
選択肢が多くなればなるほど、人が多くなればなるほど、その関係はどんどん薄くなる。東京の雑踏でそよが流されていきそうになる場面は、それをよく象徴している。
人が少ないから、選ぶ余地がないから、じゃないのだ。それが運命なのだ。ここにこんな少人数で放り込まれるなんて、運命。運命の間柄だから家族みたいに仲良くなるし、そして、好き合う仲にもなるのだ。運命なのだ。
選択肢が多すぎる世の中になると、逆に、「出会うチャンスがない」などと近場を見ずに高望みする、のかもしれない。周りに人が多すぎるから、運命が薄くなる。

そうそう、東京に行くんだよね。修学旅行で。男女一人ずつだけの修学旅行、引率する先生の方が多い修学旅行、という図も、ホント、不思議な画である。まるで家族旅行のようだもの。
そこで先生がそよに言う、この台詞が印象的なのだ。
「田舎がいいと判っただけでも、収穫だったな」
これも、今までの地方映画にはなかったことだよね。
若者は、いずれ、都会に出て行く。それの象徴が東京だった。
でも、そよは、あるいは本作は否定する。
それは、大沢君が来なければ、わざわざ提示することの程でもなかったのかもしれない。

まるで外国に対する憧れのように、修学旅行は東京!と押したそよ。もちろんそれは、大沢君のふるさとだから。好きな人のふるさとを見たいという思いから。
そう、そよの思いは、こんな田舎から出て東京に出たい、という意味での憧れではないのだ。完全に外の世界。
でも本当は違うのに。だってそよだって、村から街に買い物には出かけてた。そこにはそれなりの数の人間がいた。たとえそこがイトーヨーカドー程度でも、その雑踏は皆が顔見知りのような村とは違った筈。あるいは高校の下見に行った時だってそうだ。全校生徒6人のような学校と、何百人も生徒のいる高校とも違うはずなのに、東京の雑踏にいた時のように怖じ気づいていなかったのに。
やっぱりね、ベツモノだと思ってるんだよね、東京は。村から街への地続きの延長線上にあると、思ってないし、思えないんだよね。
それが幸せなことなのかどうなのかは、判らない。
田舎がいい、好きだと思うのとは、若干違う気もする。

みんなのお土産ばかりを気にしているそよに大沢君は、「東京にいても田舎のことばかりじゃん」と言う。東京の人ごみに酔い、倒れる事態にまでなりながらも、人のいない川面を行くフェリーにはホッとし、それを、「人がいないからだ」と思うそよ。そして、山のゴウゴウという音と同じ音が、東京の雑踏からも聞こえてきた時、東京の人工物が田舎の愛しい物たちと同じように彼女の中を吹き抜けて行く。東京タワーも、浅草の雷門の大きな提灯も、都庁も。そのうち仲良くなれる、とそよは思うのだ。
それはどういうことなのか。

本作は、東京の高校に行くかもしれないと言っていた大沢君が、結局は木村町に留まって、ボウズ頭になることさえ受け入れて、そよと一緒の高校に行くことになったところで終わる。でも、あの東京の修学旅行のエピソードが、四季を映し出す木村町での日々よりもずっとヴィヴィッドに心に残るのは、異質だからという意味だけではないように思う。
テレビからは東京や世界の情景が映し出されているし、村から買い物に出る街には、東京に共通するものがたくさんあるのだ。
それに、東京で大沢君が久しぶりに出会った友達たちも、そよの周りにいる子供たちとなんら変わりなかった。そして彼らも、「俺らの学校、建て替えられたんだ」と拾ってきたコンクリートを大沢君に投げてよこした。学校が失われることを憂える気持ちは、そよたちと変わらないのだ。
東京との隔絶を見せているように見えながら、実は違うという、この絶妙さ。

それにしても、こんな子がいまだにいるのかと思ってしまう。そよ役の夏帆どの。いや、もちろん、この映画のために化けているのだろう、何たって女優なんだから、とは思いつつ、輪ゴムで止めたお下げ髪、愛らしいアーモンドアイ、ふっくりとした唇、美少女なんだけど、そう、大沢君の東京の友達から結構カワイイじゃん、と言われるほどの美少女なんだけど、この地方訛りがとても愛らしく似合う素朴な女の子なのだ。
芝居がキッチリできて、サムシングもあって、泣きの演技も心震える。やはりリハウスガールはひと味違う。
もう、数々のコスプレ?アイテムが心躍る。海に泳ぎに行く前、縁側でのたっとしている彼女、水着を下に着こんでハーフパンツをはいているいでたちにそそられるのは、アブナイだろうか。あるいは、東京に修学旅行に行った彼女が、後輩二人の分もルーズソックスを買ってきて、三人揃ってはいて登校するところなんかさ、でもやっぱり東京の子がはくような地面にくっつきそうなずるずるしたはき方じゃなくて、遠慮がちに真ん中でゆるゆるしているのが、カワイイ。

そよの、一つ下の篤子や伊吹との関係で、つい余計なことを言ってしまうクセで悩む描写は、なんかそんな覚えがあったなあ、と思い出されて胸がキュンとなる。特に祭りにみんなで行く場面、大沢君の母親が東京で美容師をやっていたことで浮き立つ彼女たち、そよは「ここにはダサイ床屋しかないから」とついつい言ってしまって、気まずくなってしまう。そして篤子と伊吹は、そよを、彼女に片思いしているシゲちゃんの元に置いてきてしまうのだ。
笑顔で仲間はずれにされるショック。どうしていいか判らず、だって自分が悪いんだから……。そしてオトナも理解ある立場ではなく、自分のことしか考えてない。
祭りの、音を消された中で、ぼんやりした表情から、みるみる大きな瞳に涙をためて、ついには嗚咽をもらして泣く。

そこも胸をつかれるんだけど、もっとイイのは、その後、戻ってきてくれた友達と、一緒にトラックに乗って帰る場面。そよの肩を抱きながら、いいよいいよ、大丈夫だよ、という雰囲気で伴う友達の絆、そして、トラックで、三角関係だよと、どうするのと突っ込まれたシゲちゃんが、黙って目を閉じたまま何も言わなかったこと。
多分彼は、そよがなんで泣いたのか、判ったんだろうし、それって自分にとって辛いことでもあって、……その辺は、理不尽なことを言いつつも、やっぱりオトナなんだよね。
逆に、この場面のそよを一切救うことのなかった大沢君のまだまだガキっぷりも明らかになったりするんである。
せつないね。

でも一方で、東京でそよがお土産を買っている時に、二人のためにと癖毛を直すスプレーやら色白になるセッケンを手にとるものの、やっぱり自分は考えナシだとそよは一旦棚に戻すんだけど、それを「伊吹はそんなこと気にしねえよ」と大沢君がまたカゴに戻してくれる。
それだけ友達たちのことを深い部分まで知っているってことだし、それこそが友達だってことを、大沢君が教えてくれたってことだと思うんだよな。
うん。そこだけは、大沢君、エラいかもしれない。

その大沢君とのシーンでは、いかにもだけれどいかにもだからこそ、胸キュンなトコが好きである。二人、土手に座って、大沢君のガクランのボタンをつける場面。
この時には、大沢君は東京の学校を受ける、という決意をしていた。
ボタンのとれたのを送るから、ボタンをつけて送ってくれ、とか。バレンタインにはチョコを受け取りにきてくれ、とか。さまざまな例をあげて、「じゃあ……」黙り込んでしまうそよの言いたい気持ちを、察した大沢君。
ここはワンシーン、ワンカットで撮ってる、その長回しが、二人の切なさや気まずさがあふれ出ていて、素晴らしい。うつむいたそよと、大沢君の繊細な表情に心動かされてしまうんである。

「もうすぐ消えてなくなると思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」そうそよは心の中でつぶやいた。こうして一緒に登校したことも、なにもかもが。
でもそれって、大人になってそうだったなと思うことなんだよね。
本当に、宝石のようなキラメキがあったって。
本当に中学生の彼らがナマで思うかどうか。その時には絶対に判らないことだと思う。だからこそ、後から思った時のキラメキがあるんだもの。逆なのよ。
彼女たちにそういう思いを託してる気がする。
そしてそれは……願望であり、少しザンコクなことでもある気がする。

これがコミックなのかと驚くような世界観。こういう世界観がコミックで成立するようになったとは、時代は変わった、というか、文化の幅が広がった、というか。
すべてが太陽の輝きの下にある。
東京のような、人のよどみのような曇りがない。
でもさ、子供の少ない情景は、決していい状態、自然な状態じゃないんだよね。
多くの、未来を背負う子供たちがいるからこそ、自然な状態。
なのに、この家族のような関係に癒されるのは、どうしてなんだろう……。
それに、どんなに田舎でも、無医村でも、雑貨屋みたいな店やダサい床屋しかなくっても、休日に“街”に出るぐらいは出来る。
やっぱり、今日本には、完全に隔絶された田舎はないっていう反証なのかも……。

原作のくらもち氏のコメントは長く心のこもったもので、大満足したらしいことが伺える。私が少女漫画に溺れてた時期に活躍していた大ベテラン作家だ。
今回の映画化に際しては、脚本を担当した渡辺あや氏が、山下監督を推薦したんだという。
へー。
なぜ、彼女が関わった市川準でも、犬童一心でもなかったのか。この二人の方が少女映画、少女漫画系であるのに。
山下監督って、ミスターオフビートだし、ちょっと意外な方向性だよね、一見。
でも、だからこそかな。感傷に惑わされることがない監督ではあると思う。もちろん、いい意味で。★★★★☆


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