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「か」


2007年鑑賞作品

学生社長
1953年 93分 日本 モノクロ
監督:川島雄三 脚本:柳沢類寿
撮影:西川亨 音楽:木下忠司
出演:鶴田浩二 川喜多雄二 桂小金治 日守新一 高橋豊子 角梨枝子 日守新一 小林トシ子 東谷暎子 大坂志郎 桜むつ子


2007/6/14/木 東京国立近代美術館フィルムセンター(川島雄三監督特集)
前回観た初見の川島作品はかなりハチャメチャだったので、今回はちょっと安心して観られる。やはり古今東西を問わず、初期の頃というのは大なり小なり肩に力が入るものなのかしら、などと思って、ナマイキにも微笑ましく思ったりする。
本作は軽妙なコメディ精神を全編に貫いて飽きることなく、台詞も気が効いていて非常に洒脱。何度も吹き出してしまった。ああ、こういうの好き。そりゃ現代のコメディ映画と比べればカットも台詞回しもテンポは違うんだけど、そのゆるやかさも、ゆっくり味わって笑わせてくれる余裕を与えてくれるっていうかさ。

しかしこれ、アルバイト合資会社とか言いつつ、彼らは単につるんで同じアルバイトをし、その資金をひとつに集めて共同生活してるだけじゃないの、という趣。我々の会社の資金だとか言いつつ、別にそれを元手に何か事業を興すというわけでもなく、定食屋のツケやたまった家賃に消える有り様なんだもの。しかもその金をスられてしまうんだからどーしよーもない。
実際、物語自体は学生社長の話なんぞではなく、このスリ一家に秘められた涙の物語なんである。学生社長、というのはほんの導入なのよね。

まあ、とか言いつつこのボンクラ三人組の描写はなかなかにおかしいのだが。学生服に身を包んだ彼らは大学生。まだ大学生が学生服を着ている時代。
で、唯一学帽をかぶっているのが社長の山地丈太郎、演じるは鶴田浩二。改めてこの人のフィルモグラフィを見ると、判っちゃいるけどその膨大な出演作品の数に度肝を抜かれる。私は生きているうちに一体このうち何本観られるんだろう……その前に池部良の出演作を観なくては……いやいや。
それにしても学ラン学帽が似合わないな、この人は。いや、こーいう感じが似合っていると言うべきなのだろうか。すでに顔かたちが完成されているせいか、お父さんが学生服着ているみたいなんだもん。

んでもって、彼をトップに木原震二(川喜多雄二)、梶英雄(桂小金治)がそれぞれ“重役”なんである。あ、ウソウソ、経理係長の梶が電車の中で資金をスられたことで、彼だけは小使いに転落。それ以降“重役会議”から彼だけがハズされてしまう。
やはり三人集まればコメディリリーフは必要なんだよなあ。だけど梶に大金を預けるのを、衆目の集まる電車の中であんな大声で話した山地が悪いような気がするけど。
しかも山地ったら、二人のオーバーを質に入れちゃうんだもん。自分のジャンバーはそのままなのに。その言い草たるや、「寒いのぐらいガマンしろ。僕?社長がジャンバーぐらい着ていないとカッコつかないだろ」おいおいおいー。しかもジャンバーってあたりが微妙。オーバーの方がまだマトモだ。
しっかし冒頭、外国人たちに観光案内をしている三人は笑える。英語、中国語、とそこまではまあマトモなところなんだけど、「社長は俺たちにめんどうなのを押し付けるんだからな」とインド語?を必死に駆使する梶。インド語なんてあったっけ……と後から思うんだけど、まあここら辺はお約束のギャグってところよね。

さて、スリとのカーチェイスや追っかけっこにも結構尺を割き、なかなかのエンタメ映画っぷりを見せる。しかしこのスリには逃げられてしまい、しかもこの時運転手が休憩中だったタクシーをムリヤリ拝借したもんだから、車番をしていた女の子は自動車会社をクビになってしまったんであった。
そんなことでこの山田瑞枝(小林トシ子)という女の子と知り合い、しかも彼女の転居先は偶然彼らのアパートと同じ、この美人に山地と木原はホレちゃうのよね。あ、梶は隣の食堂、ワンダフルの女の子ラン子ちゃんひと筋なのだが、ラン子ちゃんは梶などには目もくれず、木原にホレているという図式。

ところで、実はもうひとつスリ事件がありまして、今度はスリに気をつけようってな紙芝居興行を打っている彼ら、そんなこと言ってる矢先にまたスリにやられた!と木原が叫ぶもんだから、山地は今度こそ!と逃げ出した初老の男を追いかけて捕まえるんである。
んでもって「君にも子供があるだろう」とかこんこんと説教し(年上に対する言葉遣いじゃないよなー)彼から金を返してもらう。律儀にも「ホラ、おつりだ」とスられた金額だけを返してもらった。
と思いきや、スられたということ自体が木原の勘違いで、山地はそりゃあ悪いことをした、会って謝りたいと思うのだが、これが奇妙な縁。実はこの初老の男、野島は瑞枝のまぶたの父であり、さらにややこしいことに野島にソックリな男というのが存在して、それが山地たちが雇われることになる日本一興行という会社の社長なのであった。

ま、ここらあたりでほとんど材料が出揃って、もうこっからは瑞枝の父親探し、彼女の気持ちを手に入れるための恋のさやあて、山地に恋するお松というジャマも入りつつ、浪花節な親子の情愛の話にもつれこんでいく。
まあ、メンドくさいので詳細ははぶくけど(爆。ここまで頑張りすぎた)、このお松という女の子がなんといってもキーパーソン。表向きはスリの大親分、野島の娘であるお松なんだけれど、実際は孤児だった幼い頃彼に拾われ、育てられたんであった。その恩義もありこの“パパ”を深く愛しているお松は彼の仕事であるスリも継ぎたいんだけれど、それは固く禁じられている。お前だけでもまっとうに育ってほしいと言われている。

でもお松は、このパパには本当の娘がいて、その娘の安否を気遣い、会いたがっていることを知っている。だからいつかその娘が見つかったら捨てられるんじゃないかと、不安を感じているんである。
なーんてタマにも見えないんだけどね。もう乱暴な言葉をポンポンぶつける、いかにも社会の下層でたくましく育ってきた女の子。しかも彼女、父親の敵を討とうと山地にぶつかるも、ウッカリ彼にホレちゃうんである。この時の二人の会話が最高。「あんた、イイ男ね」「うん。大方そういう評判だな」マジメな顔して肯定すな!こんなおとぼけの鶴田浩二は初めて見るわあ。
山地は瑞枝にホレてるけど、どう見たって瑞枝よりこのお松ちゃんの方がイイ女だと思うけどなあ……いや、顔だけじゃなく(顔も美人!)きっぷのよさや、心根の素直さがイイ。そのまっすぐな気持ちゆえに嫉妬も起こして事態をメチャクチャにもするんだけど、それを素直に反省して真人間になろうとするのも可愛いじゃないの。

でも山地が言うとおり、お松ちゃんがとった行動こそが正しかったんだと思うんだよな。
いやつまりね、山地は瑞枝の父親がスリの親分だということを隠そうとするのよ。大会社の社長とソックリだってことが事態をややこしくさせてて、同じく瑞枝にホレている木原はこの社長こそが彼女の父親だと思って進言してしまうし、そうなるとますます、彼女が真実を知ったらショックを受けるだろうと山地は心配したわけだ。
いや、でもそれは結局は言い訳に過ぎない。つまり山地は瑞枝にホレているから、彼女だけにいいカッコして事態を丸く収めたいだけだったのだ。
それを証拠に木原を出し抜いて、「これからは木原には相談しないでください。なぜなら僕が君を愛しているから」と完っ全に抜け駆けしやがるんである。それはやっちゃイカンだろう!うーむ恋にルールはないとはいえど、これはヒドイよ。
しかもその抜け駆けを木原は目撃してしまい、二人の仲は決裂。一人カヤの外に置かれたヒラの梶は、呑気にタダメシを食ってるだけっていうのが、深刻になりすぎることなく、癒されるのよねー。

しかし山地のそんな目論見は、瑞枝との仲を嫉妬したお松によってぶち壊されるわけ。瑞枝の父親は大会社の社長なんかじゃなく、スリの親分であるとバラしちゃうのよ。
でもね、お松の気持ちだって山地はもっと判ってやるべきだった。だってさあ、確かに瑞枝はおっかさんを亡くしてから天涯孤独でカワイソウな女の子だけど、お松ちゃんだってさ、自分が尊敬し慕っているパパが、こんな風に社長と比べられて蔑まれて、しかもそのパパは自分の血を分かつ娘のことをいつも思って会いたくてたまらなくて、そんな様を目の前で見せられたら、そりゃあ不安になるってものさ。
しかもこの人のために真っ当な人間になろうとまでホレこんだ山地は、その瑞枝のことが好きなんだから。そりゃひねくれてもしょうがないってもんである。

でもお松のエラいところは、自分で引っかき回した事態をちゃんと自分で収拾するところなのよね。アパートを出て行った瑞枝は、しかし思いあぐねて山地に会おうと日本一興行を訪れる。そこにあの、野島の親分とソックリさんの社長がいて、彼は彼女の事情を山地に聞いて知っているから(なんたって、山地との初対面で、ボクの金をスッただろう!といきなり言われたぐらいだもん)、親身になって話を聞いてくれるのね。
しかも、これも何かの縁だ、自分の養女にならないかと言うわけ。自分たちに子供はいない、しかも君の父親に自分はソックリだなんて、ひょっとしたら兄弟かもしれない、ならば君はボクの姪というわけだ、なんて言ってね。その会談の様子を、そっと手引きされた野島の親分は涙を流しながら見守っている。

そこに知らせを受けて到着したお松、そして山地たち。こんな聞き捨てならない話があるものか、ってな勢いで隣の間に飛び込んでいきかねない彼女を、野島の親分は涙ながらに必死で止める。
そのパパの様子で何もかもを察したお松は、制止を振り切って飛び込み、瑞枝に言うのね。この間言ったことはウソだ。あんたの父親は身寄りのない私を拾ってあんたの替わりに育ててくれた立派な人だ。悪人なんかじゃないんだ。でも死んじゃったんだ……と。もう一人の娘の心遣いに、新たな涙を流す野島の親分。そして彼はお松のためにもきれいな人間になることを誓い、自首するためにそっとその場を去るんであった。そしてお松も。
ええー!どんな収拾になるのかとは思ったけど、こんなのってちょっと切なすぎない?うー、でも、これしかないのかなあ……しかしラストシーンはこの本当の親子じゃないけど本当の親子以上の二人が、肩を並べて歩いていく姿が小さくなっていく坂道で、親子の絆というものがひと口では語れないことをこのショットだけで雄弁に物語ってて、上手いのよね。んでやっぱり、タイトルの学生社長ってのが、単なる狂言回しにすぎなかったことも判る。

しかしなぜ、あの社長と野島の親分があそこまでソックリなのか、本当に二人は実は兄弟だったとかいう秘密はなかったのか、そこらへんがちょいと気にはなったけど。一人二役を演じている日守新一が、特に野島の親分の時にはすっごい湿度100%の演技をしてて、けっこうグッときちゃう。
この山地という男に彼もまたホレこんで、お松をよろしく頼むという場面、しかし山地は瑞枝さんに惚れているから、と告白すると、「そうですか……瑞枝を……」というのがね、両方とも父親の顔なんだよね。立場の違う“娘”ではあるんだけど。それが上手いんだよなあ。

学生さんを、あのセイガク、とはすっぱな逆さ言葉で言うのが、おお、ちょっと時代っぽいと思ったりして。今じゃ学生さん自体言わないもんな……。★★★☆☆


貸間あり
1959年 112分 日本 モノクロ
監督:川島雄三 脚本:川島雄三 藤本義一
撮影:岡崎宏三 音楽:真鍋理一郎
出演:フランキー堺 淡島千景 乙羽信子 浪花千栄子 清川虹子 桂小金治 山茶花究 藤木悠 小沢昭一 加藤春哉 益田キートン 沢村いき雄 加藤武 市原悦子 渡辺篤 西岡慶子 頭師満 長谷川みのる 津川アケミ 西川ヒノデ 宮谷春夫 青山正夫 中林真智子 守住清 楠栄二

2007/7/1/日 東京国立近代美術館フィルムセンター(川島雄三監督特集)
この川島監督特集での収穫は、メインはフランキー堺の軽妙さと、サブの小沢昭一の怪優ぶりを堪能できたことにあったんじゃないかしらん。この作品なんてね、もう芸達者たちがぞろぞろぞろぞろ出てきて、どれから言っていいのやら困るぐらいなんだもん。フランキー堺がウッカリ食われそうになる御仁がざらざらいるんだもん。それはキレイどころのヒロイン、淡島千景に至っても、彼女がまた実に洒脱なんだもん。
でもその中で、フランキー堺と爆笑のコンビっぷりを見せつけ、場をさらいまくった小沢昭一の可笑しさときたらないんだなあ!観客も皆もう判ってて、彼が登場するだけで何もしないうちからクスクス笑ってるんだもんね。

フランキー堺演じる与田五郎は「どうすれば……になれるか」という指南本シリーズが大ヒットをかっとばしている。かといって作家先生というわけではなく、四ヶ国語に堪能な彼は翻訳業も請け負うし、その他家庭教師やら何やら、とにかく何でも引き受けますってな、よろず稼業を看板にしているんである。
実際、彼の四畳半の部屋の中ときたら、その旺盛な好奇心を示すようなキテレツなガラクタ品で溢れかえっている。壊れかけたオープンリールのテープレコーダーは時に隣人たちの声を録音しては場を盛り上げ、イス替わりのタイコは座るたびに人をびっくりさせる。古ぼけたオルガンは聞きたくない話をそらしてとぼけるのにはピッタリのアイテム、風邪を引いた時には実にアンティークな加湿器で喉をあたためたりと、よろず引き受け業というよりは、カワリモノの発明家といった趣さえ漂う。

ところで、登場はこのフランキー堺じゃないのよ。五郎が下宿している“アパート屋敷”の住人、ハラ作がヤクザに追っかけられて飛びこんだ本屋が五郎のよろず屋広告を掲げてて、それを見て話しかけてきた学生、江藤とのシーンなわけ。江藤を演じる小沢昭一が、後にフランキー堺を思いっきり引っかき回すことを考えると、なるほど彼から物語が始まるのだわねと思うんである。
もう一方で五郎を引っかき回すのが、ヒロインであるユミ子。演じるは淡島千景。ある美術展のパンフレット執筆の依頼に五郎を訪ねてきたんだけれど、ユミ子自身は陶芸に没頭していて、こんな美人なのに男に目もくれないわけ。

そう、実際彼女が最初にこのアパート屋敷を訪れた時、もうアパート中の男たちがソワソワして、小股の切れ上がったとはああいう人のことを言うんだねえと鼻の下をのばし、ミツバチを飼っている男は彼女の尻に止まったハチを割り箸でつかみ、彼女の脱いだハイヒールを二人の男が片方ずつ嗅ぎ(爆笑!)しゃなりしゃなりとした彼女の歩き方を真似て「あれは処女だよ」と言いたい放題。
しかし実際、ユミ子はそうなのかもしれないと思わせるのは、自分を卑下するかのようにことさらに、私は三十娘だからと言い、ホレた五郎にもなかなか素直になれず、素直になったと思ったら猪突猛進、というギャップがあったりするから。彼の頼みを受けるかわりに心理的貸しを得ようなどという心理戦も試みながらも、そんな姑息なことは恋愛においてそう功を奏することもないってこと、彼女はまだ知らないんだもの。

そうした、強気だけど純情、ってなユミ子のキャラクターは、ここに住む他の女どもが揃いも揃って精力絶倫(!)、したたかでエロエロだってことと好対照をなすんである。
まずは洋酒ブローカーをしている島ヤスヨ。演じる清川虹子のふてぶてしいまでのエロな存在感が圧巻。こういうあけっぴろげな女のカッコよさって、なんか憧れちゃう。黒のスリップからにょきりと出たたくましいふくらはぎで男をキック、キック!うう、中が見えるって!
「私のパンティ盗まへんかった?舶来品のズロース!」と有無を言わさずユミ子のスカートのジッパーを下ろすシーンには爆笑!しかもその下着(ブラまでも!)はヘンタイ男、ハラ作が身につけていたというオチがまた最高。風呂場で普通に衣服を脱ぎ捨てたその下が、レースひらひらの女の下着なんだもん!

そして女の住人の中で最も物語を引っかき回し、五郎も引っ張りまわしまくるのが、三人の“ダンナ”をたらいまわしにして稼ぎまくるお千代さんである。演じるのは乙羽信子で、その愛らしい外見からは想像も出来ないタフなプロフェッショナルなんである。
この愛らしい外見に騙されて、彼女の“面倒を見ている”ダンナ方はよもやそんなライヴァルが他に二人もいるとは思いもしないってあたりが、この役を演じるのが乙羽信子っていう強みなんだよなあ。
ホント、彼女ってそういうのバツグンに上手い。結局ね、お千代さんの正体がバレても、三人のダンナたちは彼女を恨もうとかは思わないんだもの。やっぱりゾッコンなんだもの。罪な女!

結婚が決まって故郷に帰るというお千代さんとダンナ方を、円満に別れさせるために五郎が手打ち式を行う場面はもう最高!式次第に沿って、彼女との最後の別れを五分以内にとか、おごそかに餞別まで徴収して、しかも「今日初めてお会いする三人ですが、兄弟の盃を」って、悪ノリしすぎだろ!
三人の中で一番のおじいちゃんが、「金(きん)が入っているから、指輪にでもして」と入れ歯をバカッと外して渡したのは笑ったなあ。しかも彼女、それを泣きながらおし戴いて懐に収めるんだもん!

そしてそして、五郎を最も困らせる女といったら、古物商宝珍堂の若い女房である。彼女はことあるごとに「あぁーん」と欲求不満の切なげなあえぎ声を発し、不老長寿の強壮ゼリーを用いてみてもこの女房を満足させられなくなった宝珍堂は、もうどうしようもなくなって、五郎に彼女を満足させてやってくれないかと頼み込む始末なんである。
この、宝珍堂が五郎に相談をもちかける場面も爆笑モノ。だって、住人のもう一人の男が噂話を聞きたがりで、飲み屋での二人の話をとにかく聞こうと、ずっとついてくるんだもの。その度に座卓ごと持って移動する二人、このしつこいまでの攻防戦が可笑しくってたまらない。

だってこのついてくる男ってのがね、彼はいつでも猫を抱えているんだけど、その間もずーっと猫を抱いたまま、何食わぬ顔で二人の側まで行っちゃあ、聞き耳立ててて、で、その猫が妙に大人しいのがやけに可笑しいのよ!
そういやあ、「幕末太陽傳」でもやけに大人しい猫、がやたらと可笑しかったよなあ。この猫の存在感はスゴすぎるよ。黙って出てくるだけで可笑しい、というのは小沢昭一ばりかもしれない。しかもこの男、ぼーっとしてるようで実に食えない男だということが後に判明する。その噂好きのせいでお千代さんを自殺にまで追い込み、この猫の肉で佃煮を作り(!)毛皮をはぎとるんだもの(!!!)。

あ、で脱線したけど、宝珍堂の女房に迫られまくる五郎、というシーンがひとつのクライマックスのごときで、もうフランキー堺、強姦されようかって勢いなのが、もおー、笑いが止まらん。
二人きりにさせられた部屋で必死にこの欲情女から逃げようとするも、宝珍堂がふすまをガッチリロックしていて出られない。部屋中の骨とう品でガードを作って必死に抗おうとするも、それで頭打って一瞬気絶し、この絶倫女、生卵を割って彼の口に入れるという絶倫女らしい?気付けをするのにも大笑い。しかもそこにあの猫男が覗き見の末に忍び込んで、あわよくばこの恩恵にあずかろうとするのにも大爆笑!

しかししかし、そうした隣人たちとの騒がしい日々よりも、外から飛び込んできた唯一のよそ者、江藤が最もぐっしゃぐしゃにかき回すんであった。
彼は故郷の父親を安心させるために、模擬試験の替え玉を五郎に依頼する。しかしもうそこから彼の策略は始まっていたわけでさ、最終的には五郎を福岡まで連れ出し、大学の本試験を受けさせようとするんだもん!もう最初から、そのために計画的に動いていたことは必至。

この江藤、いや演じる小沢昭一が、とにかくやけに理論詰めなのがおっかしくてさあ。模擬試験の替え玉を依頼するのに、やけにまじめくさった契約書を作ってみたり、領収書までチャッカリ用意していたり。そう、結局はチャッカリさんだったのよ。だって彼ったら、福岡の大学受験からさすがに五郎が逃げ出しても、「東日本大学の受験は80パーセント確実!そうですか!いや、謝礼の方はたっぷり……」と電話がかかってきてんのよ!抜け目がないったらありゃしないのよ!結局五郎ばかりがバカをみたと、こういうことでさ。
しかし、江藤は五郎に受験させようと必死で、試験を放棄して出てきた五郎を、グラウンドをぐるりと取り囲んだ観客席がわりの石段で問い詰めまくって、五郎がスクリーンから見切れてゴロゴロゴロッ!と転げ落ちるシークエンスが何度も繰り返される、ちょっとしつこいぐらいのギャグシーンには、しかしもう、大いに喜んじゃう。こんな理不尽なことを、妙に理詰めの言葉で追いつめる小沢昭一のアホさが、もー、たまらなく好きっ!

そして何といっても、こういうドタバタ喜劇はヒロインとのハッピーエンドとあいならなくてはいけない。でも、そうハッキリと大団円にならないあたりが、なんだか切ない後味なのよー。
あのね、五郎はこの旅の前、ちょっとユミ子とケンカしちゃうわけ。せっかくイイ雰囲気になったところで、彼女に「個展に客が一人も来なくても全然ヘイキな強気な女」みたいな言い方しちゃうわけ。でもそれは好きな女には反対のことを言っちゃう、小学生レベルなタチなせいでさ。
一方でユミ子の方は、よろず引き受け業だなんて、誰にでも好かれたい八方美人のすることだ、と喝破。彼女の言うことはあながち外れてもなかったと思う。だってその言葉を重く受け止めた五郎は、このままでは彼女に会わす顔もない、と、この九州の地で偶然会った友人の斡旋で、温泉旅館の番頭になる話がまとまりかけるのだもの。

しかし五郎への気持ちに気づいたユミ子は、そちらに向かう旨の電報を打ち、「今日はつんつん」と二人だけに通じる言葉でシメる。それはお千代さんの故郷で、男と女がオッケーだと承諾する秘密の言葉だった。しかしこんな自分じゃ彼女に会えないと焦りまくった五郎は、慌てて逃げ出す。
ラストシーンはアパート屋敷の住人たちがそんな二人の噂話をしていて、「福岡から逃げ出した五郎さんを、追跡中」(追跡中って言いっぷりがイイ)というユミ子からの手紙が届いている。あのユミ子さんなら、きっと五郎さんを捕まえるでしょうよ、と彼らは疑ってない。
そんな中へ、お千代の去られた三人のダンナ衆を引き受ける、とやって来た女は、しかしお千代ソックリ!つーか、お千代だっていう含みでしょう、あれは!
でさ、最後までユミ子と五郎が再会することはなく、二人の仲を一番心配していた洋さん(桂小金治。あ、彼のことは全然触れなかった、まあいいか)が、外で立ち小便をしている場面で幕。ええー……なんかちょっと、切ないなあ。

温泉旅館で、ふんどしを高めにしつらえたフランキー堺が、裸の大将のマネなぞするのが可笑しかった。に、似てる……。
洋さんがお千代さんの送別会などで連呼する、あの有名な台詞「サヨナラだけが人生だ」はこの作品で発せられ、そして川島監督の墓碑銘にもなったんだという。そういう意味でも実に感慨深い作品なのだね。★★★★☆


河童のクゥと夏休み
2007年 138分 日本 カラー
監督:原恵一 脚本:原恵一
撮影: 音楽:若草恵
声の出演:冨澤風斗 横川貴大 植松夏希 田中直樹 西田尚美 なぎら健壱 ゴリ

2007/8/12/日 劇場(東銀座 東劇)
オトナ帝国で大人のハートをグッとつかみ、きっと本作はそんな大人ファンこそが先導して観にきているんではないかと思われる。だってあの時、上映終了後、子供たちを連れてきた大人たちから沸き起こった拍手が、忘れられないんだもの。
クレしんを離れてから原監督の名前をさっぱり聞かなくなってはや5年。どうやら本人企画の新作を進めているらしいという話がちらちらと聞こえてはくるものの、全く確証がないまま、クレしんに戻ってきてくれないかなあという願いも虚しくなった頃、ようやく来てくれた!

とはいうものの、そのタイトル、その内容を予告編で知った時にちょーっとばかり不安になったのは事実。だって、なんかいかにも、夏休みの子供向けの、ファンタジー&道徳的アニメって感じだったんだもん。
それは確かに、ある意味当たっていたかもしれない。しかしファンタジーな設定なのにひたすら日常であり、その日常が破られた時に、まだまだ子供には見せたくない社会の厳しい現実がある。それを残酷なまでに、しかも繰り返し叩きつける。道徳というものはそれを前提にしてでなければ子供に納得できる形で教えられないということを、ただ頭ごなしなばかりの大人に示すという、蓋を開けてみれば実に原監督らしい、厳しく、だからこそ優しいナカミだったのだ。

世間のアイドルとなる河童のクゥちゃんは、おっきな黒目がちの目がうるうるとして、もうホントにカワイイし、サムライの時代からタイムスリップするというアニメーションならではのファンタジーのワクワクは言うに及ばず。
いつの時代も共感できる、決して忘れることのない、永遠に続いていくかと思われる夏休みの、青い青い空と、びしょぬれになってもすぐ乾く照りつける太陽、吹き渡る気持ちのいい風……そして涙の別れ、などなど、ハートウォーミングなものもビッシリとつまっているんだけれど、一筋縄じゃ、いくわけないのだ。
私は、ずっと身構えていた。ちょっとやそっとじゃ泣かないぞ、と思ってた。

そんなこっちの気持ちを見透かすかのように、クゥを見つけてきてからしばらくの展開は、新しい小さな家族が出来た、微笑ましいドタバタ喜劇といった趣で、しかもそれがかなりの長尺を使うんである。
お父さんと息子の康一は、伝説の生き物だと思っていた河童がこうして目の前にいることに興奮して、お父さんなんていつも仕事で遅いくせにガゼン帰りが早くなるぐらい。こういうあたりはいくつになっても男は男の子だよなーという微笑ましさ。お母さんが「こういう時は、早いんだ」という皮肉も、一瞬しか聞こえてないもの。

一方の母親と下の娘、女の子チームは、最初はかなり及び腰。母親はもともとあまりイキモノが得意じゃないのに、息子が拾ってきた犬の世話をさせられていることにちょっとモンクがあるらしいし、まだ幼稚園児の瞳に至っては、家族の関心がクゥに向かうのが明らかに気に入らなくて、お姫様らしいワガママなヒステリーを起こす。
でもね、結局は女の子チームの方が、クゥに肩入れするってあたりは、やっぱり母性本能なのかなあ。ま、お母さんが懐柔されるのは早いんだけど、瞳は結構時間がかかる。時間がかかるだけに……本当にクゥと別れなければいけなくなった時、それを本能的に察知して声をあげて泣くヒーちゃんもらい泣きしてしまうんだ……。

って、またまた先走ってしまった!!最初はね、時代がずっとずっと遡るわけ。歩いているのはお侍と商人。そこに意を決してお願いをしようと申し出た河童が一人。
冒頭は、この河童とその子供のミニ河童が話している場面。のどかな田園風景、とびかう蛍の光、大きな魚をみやげに、これを贈ればきっと判ってもらえる、だなんて、その時から既に、河童は人間の汚さに対して純粋すぎた。
お父さん河童は、怯え、奢った侍に腕を切り落とされた後、真正面からザックリと切られた。
それを目の当たりにしてしまった子河童。衝撃に身を震わせたのもつかの間、大地が揺れた。
あれは、大地震だったのか……とにかく、その子河童は必死に這い上がろうとしたけれども、割れた大地の闇に落ちていった。
そして数百年。東京郊外の小学生、康一が河原に埋まった石にけつまづく。割れた石の中から亀の化石のようなものが現われて、「すげえ!」と彼は持って帰るんである。

確かに、運命だったのかもしれない。後に康一にクゥと名付けられたこの子河童は、「オレ、こういちに会えて良かった」と言った。
でもね、印象的だったのは……というか、決定的だったのは、このクゥの最後の台詞、彼がようやく世の喧騒から抜け出た時に、でも今までを振り返って、「ごめんね、とうちゃん。オレ、人間の友達が出来たよ」って、言うことなのだ。
ゴメン、ってのがね……。
確かに、そりゃそうなのだ。クゥの父親は、人間にこそ殺された。それは、“さむれえ”という、ある種、別の存在として定義されてはいるけれど、そうやって昔のことなんだと、今はいないんだと一度は逃げてはいるんだけれど、結局は今の人間も“さむれえ”とさして変わらないことを提示するってことは……更に人間に対しての痛烈な批判なのだもの。

クゥは言った。河童(妖怪)はウソは言わない、と。ウソをつくのは人間だけだ、と。
しかもその台詞、というか定義は二回繰り返される。つまりはダメ押しである。一度目は、康一がクゥの仲間を探しに河童の里、岩手の遠野に出かけた時、宿で出会った座敷わらし(2.5頭身。コワカワイイ!)が「ここ100年ばかし、河童は見てねえな」と言った時。クゥはこのひと言で、この地での仲間探しを断念するんである。
そして二度目は、誰とも知らぬところから、「にもつでおくってもらえ」とハガキが来た時。クゥは「これは人間が書いたんじゃねえ。判るんだ」と言い、本当に誰とも知らぬのに、河童であるかどうかも判らないのに、その身をゆだねるのだ。どんなに康一たち家族が心配しても。

それを、康一が恋してる女の子、菊地は「クゥちゃんみたいに新しい世界に飛び込んでみる。そうしなきゃ、何も変わらないもの」という表現の仕方をするのだけれど……それもまた、彼女が別の世界に飛び込むべき、感動的なシークエンスではあるんだけれど。
でもやっぱり、ウソを覚えてしまった人間には、クゥのようにそれを絶対的に信じるだけの確証を得ることはもう不可能だし、だから、飛び込んだ先で傷つくこともあるのだ。
それは人間がウソを覚えてしまったことの、代償なのだろうか。

康一はクゥを仲間に会わせたくて、家族を説き伏せて遠野へクゥとの二人旅に出る。家族で行こうと言い張っていた母親が息子を送り出す時、小さくなっていく後ろ姿を見つめて「振り向きもしない」と彼女の目に涙があふれる。
「え?なんで?」とうろたえる父親。うー、こういうの、母親にしかない感覚なのかなあ。
なんか、こんな、ささやかなことでも、自分の手の内から出て行ってしまうような、そんな、寂しさ。
遠野はとても魅力的なところで、クゥもここになら仲間がいるんじゃないかと思った。人のいない静かで、澄んだ川、久しぶりに生きた魚を食べ、思いっきり泳いだ。康一はクゥの泳ぎにひたすら感嘆し、彼もまたこんなにのびのびと泳ぐなんて、学校のプールなんかじゃとても出来ないこと。
でも、クゥは宿で出会った座敷わらしの言葉で一気に意気消沈し、もう仲間には会えない、と落ち込むんである。

菊地という女の子は、実に魅力的。物静か=クラいとされる彼女は、クラスのハデめの女の子たちからあからさまなイジメを受ける。それは、彼女に対してに限らず、本作で出てくるいじめの描写ではほぼそうなんだけど、言葉の暴力である。
いじめが肉体的な暴力を伴う場合、やはり実写には勝てないから、っていうのもあるのかもしれない。しかし、ここで再現される現代の子供たちの言葉のイジメは、聞き慣れてはいるけれども……聞き慣れているって思ってる自分が許せなくなるぐらい、あまりにヒドい。キモイという言葉は、こんなにも残酷なのか、そんなことさえ、判らなかっただなんて、あの勝ち誇ったような冷笑にひたすら呆然とする。

それは、後にクゥが世間の興味にさらされたことで、いじめられる側に回ってしまった康一もまた経験することである。彼が浴びせられるのは、“河童菌”という言葉。“菌”をつけてイジメの言葉にするのは確かによくあるけど……そうだ、それって、こんなにヒドい言葉だってこと、何で私、忘れていたのかなあ……言われた記憶、あるし。
しかもこの菊地さんね、お父さんの浮気で家庭がガタガタになってて、そんなことも子供たちはちゃんと知ってて、相手が傷つくことも考えずに、まるで確実な武器みたいに、自信満々にぶつけるんだ。子供ってザンコク……。

イジメの描写は、そう、言葉の暴力に絞ってる。これがリアル。しかもリアルな長さ。きちんと見せる。これに耐えられなければ、この映画を見ることは出来ない。
康一は、クゥから伝授された相撲のワザでいじめっこを撃退するんである。
どこか呆然とした康一、「ケンカなんて、初めてした」とつぶやく。「ケンカなんてしない方がいいよ」と、最も傷ついた筈の菊地さんは言う。「うん」素直に頷く康一。
でも、いわゆる殴り合いの健全なケンカが出来なくなってしまっている子供たちだから、陰湿ないじめもきっと起きてるんだよな。
ある程度は、必要なんだ。だってこれ一発でいじめっこは黙ってしまったんだもの。

クゥは康一たちの家に来てから、結構楽しく日々を過ごしてた。サムライのいない時代、あまりに人ばかりのいる世界、自分が住んでいた沼ももう埋め立てられて、アスファルトに覆われ、車や自転車や人がひっきりなしに行き来する。
後にクゥが、東京タワーのてっぺんから地上を見渡して、「まるで、人間の巣だ」とつぶやくのは、確かに当たっているのだ。
クゥは自分の息を吹き返してくれた康一、そして家族に感謝していた。というより、恩義を感じているから、その報いを返さなければと思っていた。だから、河童を“飼って”いたとバレてマスコミが殺到した時、家族の頼みに折れてビデオ撮影や生番組への出演をOKしたのだ。でもそれってさ、ギブアンドテイクみたいで、哀しい気もする。
と、一瞬考えて、違う、逆じゃん!と気付く。ああ、なんて人間って、愚かで自分勝手なのだろう。人間が、エサを与えてクゥを好きなように扱ったんだ。奴隷と変わらない、こんなの。

クゥが絶対的に信頼し、真の部分から判ってくれているのが、この家の飼い犬、オッサンである。彼とはテレパシシーのように、心の中に浮かべた言葉で会話が出来る。
会った時から、相思相愛だった。お互いをペロペロとなめあう様を見て、瞳は「オエー」と顔をそむけた。オッサンのふかふかの背中に飛びつき気持ち良さそうなクゥ、クゥにあおむけにした腹をさすられるオッサン。絶対の信頼。
雨の町を散歩しにいこうとするクゥは、オッサンがつながれていることを哀れむのだけれど、オッサンはこう言うのだ。
「そうでもないさ。そのかわりに、食べさせてもらっているからな」
この台詞は、なんつーか、あまりに哀しいし、そして……なんつーか、あまりに深いんである。

そりゃ、人間と飼い犬が対等にはなれない。クゥみたいに言葉を喋ることだって出来ないんだから、なおさらである。
しかもオッサンは、傷ついていた自分を救ってくれた康一に対して恩義がある。このあたりはクゥと一緒だ。
でもそれが結局、康一、そして家族の皆との隔たりを作り、クゥを助けようとしたオッサンを死に至らしめた気がして仕方ないんだな……。
オッサンの元の飼い主は、いじめられていた。大好きだった仲良しの飼い主は、そのはけ口をオッサンに求めた。でもそのことによってもっともっと傷ついていたであろうことを、オッサンは気付いていたけれど、どうしようもなかった。
当然、それは人間が悪い。
でも、それって、どうすればいいのかなあ……。

という問いを、実はラストにあっけらかんと、癒したっぷりに解決してくれるんだけれど、ここではそう、オッサンの死という哀しい結末が待っている。

マスコミに囲まれ、お父さんの仕事の取引の関係とか色々あって、クゥは義理堅いし、結局テレビに出ることを承諾してしまうのね。
……ていうか、この騒ぎに対して自体、あまり家族は深刻じゃないんだよなあ。いかにも現代らしく、ネットで噂を書きたてられて逃げようがなくなったってことなんだけど、写真週刊誌にムリヤリ撮られても、取材陣が家を取り囲んでも、悲壮感がないわけ。
困惑する感じはあるけど、お母さんは買い物先で取材に応じてるし、お父さんも仕事に行けないとか言いながら、玄関先でマスコミに説明してる。
それをテレビ画面で見ながら、お母さんは「ヤだ。お父さん、老けてるわ」と言い、ワイドショーのVを見て、「やだー、私、老けて映ってる」と嘆く。それを聞いて、ただでさえこんな騒ぎを引き起こした罪悪感で一杯のクゥが「オレのせいで、ユカリが老けちまった」と落ち込むのには爆笑!
でもやっぱりこれも、皮肉なのかもしれないなあ。だってクゥは本気でこの騒ぎを引き起こした自分を憂いているのに、彼らはどこか、ウキウキとしてるんだもん。

そう、ウキウキとしてるのだ。全然外に出られなくて、家の中でプチプチなどひたすら潰している場面などはご愛嬌だけど、浮かれているのだ。
テレビ局に向かうクゥが怯えてムリヤリついてきてもらったオッサンに、「康一、なんだか今までと違う」とこぼす。するとオッサンは、「人間ってのは、変わっちまうものだからな」と言うのだ。
このシーンはホント、辛らつである。
だってね、オッサンがあまりにそれを冷静にとらえてるんだもの。彼は少なくとも、この一家を「悪くない」と評していた。でも前の飼い主に裏切られた経験があるから……だから……人間が、弱くて、だからこそ変わってしまうことがあると、そう、弱いからウソもつくし、でも、だからといって、オッサンが死んでしまうなんて!

さらしものって感じでテレビに出たのもキツかったけど、なんとそこに、これぞ運命的な出会い、クゥのお父さんを殺した侍にソックリの、つまりその始祖が現われたのだ。
あの時切り落とされた腕、父ちゃんの腕。それどころか、父ちゃんは無残にも殺されたってのに、お侍にソックリの子孫は、「イタズラな河童の腕を切り落とした」と言いやがったのだ。
それまで折々表面化していたクゥの“超能力”が爆発する。
スタジオ中の照明が割れ、見かねてここまでついてきたオッサンが、クゥを背中に乗せて走り出した。

「おめえさまたちには、恩があるからな」とクゥは言ってこの事態を受け入れた。でも、たったそれだけで、あんなさらしものにされるなんて……。
こういう場合に陥ったドラマにありがちな、みんなで鬱入る描写はない。そこまで深刻に考えてない。
でもそれが逆に、クゥの存在を軽視、というか、事態の深刻さを判っていないのだ。

オッサンは、ホント、助けるつもりだった。クゥの、「人間のいないところに行って」という願いにヨッシャ!と気合いを入れた。でも東京はどこまでいっても、一見、人通りが少ない閑静な住宅街に見えても、必ず人が行き過ぎる。「とんでもねえところだ。どこもかしこも人だらけだ。人のいないところなんてねえ」迷い込んだ東京タワーの駐車場で、追いかけてきた野次馬のクルマに轢かれて、死んだ。

そうなんだよね。オッサンは、クゥを助けたかったんだ。人間のいないところに連れて行ってあげたかった。でも東京のど真ん中につれてこられたら、それは本当に困難。

絶望したクゥは東京タワーに登りだす。どんどんと登りだす。でもそんなことしてもどうしようもなくて、ある地点でクゥはぼんやりと、鉄鋼の上に座りこむ。どこまでもビルが広がる東京の街をながめて、「まるで、人間の巣だ……」とつぶやく。
どこまで行っても人がいて、河童なんて住むところはない、と絶望する。オレも父ちゃんのところに行きたい……と。日照りでもう皿もからっからに乾いてしまって、下にはクゥを野次馬根性で見に来た群衆やマスコミがたむろしている。
その時、どんどん黒い雲があたりを急速に包んでいった。はっと見上げたクゥの目に飛び込んできたのは……龍!
恵みの雨が、クゥに降り注がれる。
必死の顔してクゥを助けに来た康一たちに気付く。康一の顔は本当に後悔してて、クゥを必死になって呼んでいた。
クゥは静かに頷いて……助けにきたレスキューにぎゅっとつかまった。

タワーを登っていくのが、胸をしめつけられる名シーンになってるのは、「オトナ帝国」でしんのすけが必死に駆け上ったあの涙あふれるシーンへの、セルフオマージュのように思えるんだなあ。

そして一家は再び倒れたオッサンのところへ。
「オッサンはクゥを助けたかったのね……」雨に打たれたオッサンの亡き骸を前に、お母さんは泣いた。

でね、オッサンが叶えてやることが出来なかったクゥの願いを替わりに叶えてくれるのが、沖縄のキジムナーなんだ。
クゥを、人のいない場所へといざなってくれる。
もう、これが、優しくて優しくて、涙があふれるんだ。
マジで、イイ!
キジムナーさんはね、テレビでクゥがさらされているのを見て心配するんだよね。
で、ハガキをおくるわけ。
クゥはそれを、同じ妖怪からの字だと確信して、行く!と即決する。
家族たちは皆最初、反対するんだけど、結局はクゥの強い決断で送り出す。

家族、というか、やはり強く反対しているのは康一。お父さんがね、困り果てながらも何とか息子を説得するのだ。お前は、遠野に行った時、クゥの泳ぎがすごいことを話してくれただろ、って。いきいきとしてだろう、って。康一はそれでも、だから川に遊びに行こうって言ったじゃないか、と食い下がるけれど、お父さんは静かに言う。
「毎日は行けない。クゥと僕たちは違うんだ」
うなだれる康一。
ずーっとクゥを目の敵にしていた瞳が、家族の誰よりも哀しんで泣きじゃくるのが、グッとくるんだ……。
クゥはでも、約束した。
「いつかは、判らねえけど、いつかきっと、会いに来るから」

で、そうそう、キジムナーの優しさの話だったっけ。でね、ハガキに応じてこの地を離れることを決意したクゥ、おとりを使ってマスコミを遠ざけ、そして康一は念には念を入れて隣の駅からクゥを配送することにした。その前に康一はクゥを菊地さんに会わせるんである。
その前、突然菊地さんから両親の離婚が決まって母親について引っ越すことを聞かされた時、康一は突然泣き出す彼女に何も声をかけることが出来なくて、そのまま置いて帰ってきてしまった。
せっかく淡い思いを寄せていた彼女と、話すことが出来るようになったというのに、もおー、男の子ってヤツは!とやきもきしていたから、このシーンは本当に良かった。

「菊地にクゥを会わせたかったんだ。菊地は僕なんかより、ずっとクゥの気持ちを判っていたから」
箱から顔を出し、菊地の顔をじっと見つめるクゥ、そしてそのクゥの顔をまたなんともいえない、涙っぽい顔で見つめる菊地さん。
「クゥを見つけたのは、菊地のおかげなんだ」そう、康一は言い足した。
クゥは言うのね。「おれを見つけたのがおめえたちで良かった」と。康一が「偶然だよ」と言っても「偶然なんてもんはねえ。きっと、ずっと前から決まってたんだ」と。
こいつ、泣かせるんだなあ……。
駅まで送る、と康一と共にドアを出た菊地は、最後の話し合いに来ていたと思しきお父さんの靴を、マンションの階下に放り投げた。
子供の、これぐらいしか出来ない、ささやかな抵抗が切ない。
そして駅で、手紙書くね、と菊地さんは言った。「お正月にもらった年賀状、とっておいてある」
彼女とはもしかしたら、これが最後の別れかもしれない。けれど、きっとまた会えると信じているあの頃の甘酸っぱい気持ちを思い出して、大人は泣けるんである。

で、そうそう、だからキジムナーの優しさの話なんだってば。どうも脱線するわね。
でもまだ、その前にひとくさり。ついにクゥを“発送”する時。
割れ物扱いにするのが、康一がクゥのためにしてやれる、最後の、せいいっぱいのこと。
コンビニに預けただけでは心配で、回収車が引き取りにくるまで康一はじっと待っている。
いよいよ箱がトラックに乗せられる。その時、康一の頭の中に声が響いた。
康一がさ、テレビに出られるとか浮かれて変わってしまったから、そういう変遷があるから、最後の最後、クゥと心の会話が出来るようになるのが、もう、じいんとせずにはいられんのだ。
変わってしまったままの康一だったら、きっと出来なかった。
走り出す車。康一も走り出す。クゥの名前を呼んで、どんどんどんどん溢れ出す涙。あああ、もおお、とりあえずここで泣いとく!もう!
ついに追いつけなくなって、まだしばらく泣き続けて、でもその涙をぬぐった後、康一はもう涙をこぼすことなく、澄んだ瞳で口元に笑みを浮かべて、小さくなっていく車を見送った。
ああ、少年が大人になったんだあ……(号泣)。
夕闇が康一の小さな体を包んで、それもまた大人への儀式を思わせた。

で、ようやくキジムナーの話に行けるな。ぐたっと疲れ果てて箱から出てきたクゥに水をくれて、心配そうに覗き込んでいるのは、大きな巨体の人間。
かと思いきや、クゥが、「おめえさまは何故人間の形をしているんだ?」と問い掛けるや、赤い大きな、まんまるい目に飛び出た牙を持つ愛嬌のある姿に戻る。
「人間に変身しておくと、何かと便利なんだ。オネエちゃんのいるスナックにも行けるしな」と言って豪快に笑う。
きょとんとするクゥに気付いてこそこそと咳払いをし、「お前にも変身する方法を教えてやるから」と言い、「ここには人間は来ない。好きなだけゆっくりしていっていいさ。とりあえず裏の山に川があるから、ひと泳ぎしてくるといいさ」と言ってくれる。

で、まあなんかフツーに書いてるけど、もちろん、思いっきりウチナー口なのよ。文面で再現出来なくてゴメン。これがもうね、泣けるんだよー。優しくて優しくて。声を当てているゴリの、明るいウチナー口に泣かされるんだなあ。
しかもね、「オレのことはオッサンとでも呼んでくれ」と言った時にはもう更に、涙がブワー。
ああ、確かに偶然なんてものは、この世にはないね!
でもクゥはここにもまた留まらないんだ……。それも切ないけれど。

というのも、キジムナーが人間に変身できているのと同じように、河童の仲間たちも人間に変身してこの世界にまだ紛れているかもしれない、とクゥは思うわけ。
新たな希望。不幸中の幸いがひとつだけ。まだ希望がある。もう世界でたった一人の河童かもしれないと思っていた彼にとっての希望。希望さえあれば、生きていける。


ガックリしたクゥが康一に腕をつかまれてだらんとのびちゃったり、お父さんのビールを頭の皿に受けて、「これはイキのいい水だ!」とあっという間に赤くなったり。なんともキュートなクゥにハートをわしづかみにされまくる。
そして、クゥに教えられるのだ。クゥが来たばかりの前半の描写、その長尺、家族の何気ない日常がどんなにか魅力的だったこと。それこそが大切なんだと。テレビに出て有名になることなんかより。
クゥがね、キジムナーに自己紹介した時、「人間につけてもらった名前だ」と言ってくれたのが、胸にしみた。
結末をどう締めるのかと思ったんだよね。ただ人間と河童が一緒に過ごすだけならば、ウソのファンタジーだ。いや、まあ、もともとファンタジーなんてウソなんだけれど。でもその中に本物の心があるから、原作品は素晴らしいんだ。★★★★☆


神々の深き欲望
1968年 175分 日本 カラー
監督:今村昌平 脚本:今村昌平 長谷部慶治
撮影:栃沢正夫 音楽:黛敏郎
出演:三國連太郎 河原崎長一郎 北村和夫 沖山秀子 松井康子 加藤嘉 小松方正 細川ちか子 扇千景 浜村純 殿山泰司 水島晋 石津康彦 徳川清 長谷川和彦 原泉 中村たつ 嵐寛寿郎

2007/5/17/木 東京国立近代美術館フィルムセンター
全編、異様なテンションに包まれていて、ひたすら圧倒される。ただ迫力があるというわけではなく、随所随所に軽く笑わせるユーモアにも満ちてるのだけれど、ここで笑っていいのだろうかとふと躊躇してしまうほどの圧倒的な世界観。
これが、今村昌平なのだ。「うなぎ」程度でパルムドールをとったりしてはイカンのだ。この作品によって今村プロダクションは莫大な損害をこうむったという。仮にこれが興行的に成功していたとしても、利益が出ることはなかなか難しかったんじゃないかと思うほどのスケールだし、これが大ヒットするというのもコワイ気がする。
人間の絶望を鋭い社会性でとらえる一方、なくしてはいけないとは思うけれど、どこか畏怖を感じる土着的な神々への畏敬の念。いや、これが怖いと思うからこそ、それぐらいの思いの強さがあるからこそ、日本人は、人間は、きっとこうして生き長らえていられたのに。

舞台のクラゲ島は恐らく架空の島であるとは思うのだけれど、南方面のキツい訛りでバンバン喋っていくので、最初のうちはなかなか登場人物の関係性やこの島の慣習などが判らない。
一応、語り部となる老人はいる。蛇皮線を弾く足の不自由な老人、徳里(浜村純)が、子供たちを相手にこの島の歴史を語って聞かせている。彼が落とした魂を探して森の中をさまよう描写など、やはり何となく沖縄の孤島を思わせる。
それにしても、このザ・土着の圧倒的な表現はどうだろう!もう圧倒的ばかり言っているけれど、本当にそうなのだもの。
文明に荒らされていないこの土地で、日照りに悩まされている島民たちはすっかり土ぼこりまみれになっている。井戸水も枯れ果てて、しょっぱい水を飲んでいるありさまである。いや、文明に荒らされていないとはいえ、これでも昔とは大分趣は違ってるのだという。金を稼ぐために水田を全てサトウキビ畑にしたせいだ。しかしひたすら続く日照りが、島民の生活を圧迫している。精糖工場が払うと約束してくれた金も、長いこと先延ばしにされている。

この島で、すっかり村八分にされている家族がいる。太(ふとり)一家だ。この家の長男、根吉が、妹であるウマに手を出したことで神の怒りを招き、台風で島がメチャクチャにされたと島民たちは思っている。しかも根吉の父親もまた、戦友の女房を抱いた不届き者として冷ややかな目で見られていた。
双方共に言い分はある。父親は、女房が抱けなくなった戦友の替わりに抱いたのだと言い、その結果生まれた根吉は、ウマを妹という存在を超えて心から愛していた。なんにしても、忌まわしい絆で結ばれているのは事実である。

しかも根吉の娘、トリ子は少々気がふれてしまっている娘である。そのふくよかな身体を無防備にさらして踊り、島の男たちの欲望の対象になっている。実際、理性など持ち合わせていないこのトリ子は、島中の男たちと関係を持っているらしいのである。
それを象徴的に示す場面に、殿山泰司扮する比嘉がみやげのズロースを手に、トリ子を訪ねて来る場面がある。はいたっきりのパンツを脱がせて、「キタネーな」と顔をしかめる殿山泰司には爆笑するのだが、ことは笑っていられる事態ではない。
そこへ帰って来た根吉は比嘉を追い払うも、そんな根吉をもトリ子は「耳が痒いー!」と言って誘惑にかかるのである。いや、誘惑しているという自覚さえトリ子にはないに違いない。この耳が痒い、というのだって誰に“開発”されたのやら、そこが彼女の性感帯ってことなのだろうし、あまりにも哀れな娘なのだ。

このトリ子を演じている沖山秀子、(新人)とクレジットされていたから、この作品で今村監督に見いだされてのデビューということだろう。これでデビュー!鮮烈なデビューっていうにしても、実にとんでもなく鮮烈なデビューである。ぐしゃぐしゃの黒々とした髪を振り乱し、歯をムキダシにし、父親だろうと兄だろうとおかまないなくヤリたがる白痴娘、強烈。白痴って、ひょっとして今は言っちゃいけないのかな……。
しかし男の愚かさというか単純さというか、島中の男が彼女とヤリたがったのは、そりゃ彼女が娼婦よりもカンタンに言いなりになったからだけれど、でももしかしたらそれ以上の意味があったのかもしれないと思うのは、後に登場し、トリ子に骨抜きにされてしまう精糖会社の技師、刈谷の存在なんである。
男は女を征服したいという欲望を恐らく潜在的に持っていて、文明の恩恵から取り残されたような島の、しかも白痴の女にすっかりヤラれてしまうというのが、なんだかひどく皮肉に思えるのだ。征服しているようで、逆に征服されてしまっているような。

しかしこの作品のキモはなんたって、この根吉、演じる若き日の三國連太郎にノックアウトされるのであった。三國連太郎!私のような若輩者にとって若く躍動感のある三国氏なんて、想像のはるかかなたであった。やっぱり佐藤浩市に似ているんだな……などと思いつつ、しかしその佐藤浩市の男っぽさなど棒高跳びではるか遠くまでふっとばしてしまうこの猛々しさ、荒々しさ、ザ・男!ビックリした……スーさんを演じる三國連太郎をのほほんとながめている場合ではなかったのだ。
赤銅色の肌は常に汗の玉と土ぼこりに覆われ、ぼうぼうと生えた黒々としたひげ、ぼろぼろの衣服、まるでヤマザル、いやそれ以上の野生の男だ。それもムリはない。彼はかの罪を償うために、神田に突き刺さった岩を落とすことを命ぜられ、もう20年も鎖に足をつながれ、基盤を崩すべく穴を掘り続けているのだから。
彼はそんな理不尽を課せられることに憤りを感じる一方で、しかしそれが取り上げられそうになるとひたすら拒絶するんである。何かにとりつかれている。神々への畏敬の念が強いこの土地の中でも、不届き者である彼が一番、その思いが強いんじゃないかと思われる節がある。

実際、この土地の信仰心の篤さは、都会から来た者たちには理解できないものがあるんである。工場に引く水源が欲しいのに、豊かな神の水には手をつけることは許されず、森の枝を一本折るだけでも神の怒りに触れると本気でおののく。
この場面、まだ年若い根吉の息子、亀太郎が工場の技師である刈谷を案内していて、亀太郎は東京への憧れもあるし、島のあらゆる慣習に対しても迷信だと言い放つような、いわば“現代っ子”なのだけれど、そんな彼でさえ、森の木の枝一本折ることが出来ないのだ。それは刈谷のような都会人にとっては無論、理解しがたいものである。
現代っ子を装っている亀太郎にしても、心の底では深く神を信仰しているのかもしれないと思う部分もあるんだけど、彼は根吉の息子だということで仲間はずれにされているし、妹のトリ子と関係を持っているだろうと邪推されているほどなのだ。そんな彼が、この島の因習を否定し、都会に出て行きたいと思ったって不思議ではない。

んで、このザ・都会人、刈谷を演じるのが追悼、北村和夫なのである。この作品のコメディ部分は彼が一身に背負っていると言っても過言ではない。島の因習をひたすら冷ややかに眺め、しかも製糖会社の社長の娘婿である彼は、そうした“都会の因習”にがんじがらめに縛られている。
そんな彼が、「技師さんをもてなそう」としたウマの誘惑に目を白黒させて逃げ惑ったのに、トリ子の無邪気で純粋なアプローチについには落ちてしまうというのが、非常にシニカルなのよね。おざなりな約束を信じて刈谷を一昼夜待ち続けたトリ子の純粋さにまいってしまって、海岸でヤッちゃうわけ。
それ以来、あの都会人のビジネスライクはどこへやらで、トリ子とイチャイチャすることにひたすら邁進する刈谷は、東京に妻子がいるにもかかわらず、トリ子の婿として太家に迎えられることになるのだが……。

クラゲ島に観光化の話が持ち上がる。刈谷の社長が進めている観光事業が、クラゲ島に入ることになったのだ。あれほど水源や土地の開墾に拒否反応を示していたのに、次々と土地を手放していく島民たち。一方で刈谷は、トリ子を残して東京に帰らねばならなくなる。もはやトリ子に首ったけな彼は必ず帰ると約束するのだけれど、当然、東京で目が覚めた彼は、彼女の元に戻ってくることはないのである。
ところでね、島に久しぶりの大雨が来て、もう大雨過ぎて太家を直撃してしまうのね。それが功を奏して根吉が掘り続けていた岩が落ちるんだけど……これさえ落ちればきっと判ってもらえると思ったんだけど、やはり一人だけ土地を囲い込んでいる根吉への風当たりは強いばかりなの。
そんな中、根吉の父親も死に、刈谷は帰ってこないし、あれほど信仰心の強かった島民たちもどんどん土地を手放して飛行場設置の現場で働いて、「根吉は粘って土地の値段を釣り上げている」「結局、根吉はこの島で一番頭のいい男だから」という言われ方をしてしまう。

いつも、根吉はソンというか、人々の価値観に利用されてしまうところにいた。だって、根吉は全然ブレなかったのに。根吉はただウタを愛してて、この島の神様を信じてて、だから理不尽な島民たちの要求を受け入れてきたのに。ただ漫然と因習を受け継ぎ、神様を信じているフリをし、文明の豊かさに触れたらアッサリと鞍替えしてしまった島民たちとは違ったのに。
なのに、台風が起きれば根吉が神様に背いたからだと言われ、その舌の根も乾かないうちに、文明に従わない根吉を計算高いヤツだと言う。
これが、人間の姿なのだ。
愚かで汚い、人間の姿なのだ。
最初、私はこんな土着信仰がかつては日本にあったのだと、それこそが日本のエネルギーだと、それが失われた今は、寂しい限りだと、衰退の一途だと、思ってた。
でもそんな強い信仰心の人間にもズルさはあり、ちょっとした隙間にあっという間につけこまれる。そしてそれに動じることない強い人間さえも駆逐してしまう。そのことこそが、恐ろしいのだと。

ウマを囲っていた土地の実力者、竜は、ある日ウマの激しいセックスの途中に死んだ。
その時、ウマを抱くことができない根吉がしのんできていて、竜の正妻にその姿を見られてしまった。
二人は手に手をとって島を出る。二人が目指すのは、隣国の領地である無人島。そこで一から始めるんだ。鶏を増やし、畑を開墾し、今度こそたった二人きりだと。
しかし、追っ手が二人を追い詰めた。根吉とウタが乗っていた船はエンジンがせいぜい5時間しかもたなかった。一昼夜かけて亀太郎を含めた小船が追いついた。

皆が、神に捧げる祭りの時に使っているんであろう面をかぶっているのがコワいんである。波間に浮かぶ小船にぎっしりと詰め込まれた男たちが一様に面をかぶり、ひたひたと根吉とウタを追い詰めるのが。
亀太郎が、あまりにかわいそうで。彼は父と叔母をこの手にかけなければいけない。そうしなければこの島で生きてはいけないこと、そんな究極の選択にせまられて頭をかかえてて。
追いつめられた根吉は銃弾に倒れた。海の中に落ち、迫り来るサメの背びれ。恐らく……食い殺されたのだろう。
サメが迫り来る、というのは、豚を海路で運んでいるという冒頭の描写でも、落ちた豚が襲われるシーンで既に出てきている。
本家?のジョーズもまっさおな、生々しい恐怖。
そしてウマは船の帆先にくくりつけられて、いつ果てるとも知れない海に放置された。

そして時は過ぎる。たった5年でクラゲ島は観光の島になった。ジェット機が降り立ち、小さな鉄道が引かれ、その運転手は亀太郎だった。
本土から妻を含めた来賓を案内してくるのは、あの刈谷である。あれほどトリ子に執心してこの島にいつくつもりだったはずの彼が、しれっと妻を傍らに、観光事業としてのこの島を訪れているんである。
亀太郎は一度、刈谷の斡旋で東京で職を得ていたけれど、戻ってきた。東京は好きだったけれど、そしてこの島は辛いけれども、東京はしっくりこないんだと。父を殺し、妹を見捨てた自分が、その意味は何だったのかと考えなければいけないんだと。
その話を聞いて、皮肉っぽく水を向けられても、刈谷は空とぼけるだけである。あの時は、そのお、そういう空気でサ、しょうがなかったんだよ、みたいな。

トリ子は、巫女としての才能があったのだ。それはウマが見抜いていた。自分は神に見捨てられた人間だ。根吉への思いを断ち切れない。神の声が聞こえてこなくなった。だからやめたかった。いや、トリ子にこそその天賦の才があることを見抜いていたからかもしれない。
トリ子は父親が死んだ時、まさにその父親にとりつかれて彼の言葉を伝えた。その時のトリ子は白痴特有のあっけらかんさを失い、凄まじい苦悩に絶叫しながら父親の言葉を伝えていた。信仰心篤い島民たちはひたすらひれ伏し、闇夜の中に彼の姿を見た。
それをスクリーンで示された時は、現実で見ているこっちとしては正直、あららら、やっちまったと思わなくもなかったけれど、村八分にしてもずっと神を守ってきた太家の当主の姿に彼らがひれ伏したのは、この時には確かに、畏敬の念があったはずなのだ。

自分の欲望だけに純粋で、好きな相手にひたすら真っ直ぐなトリ子は、この島でただ一人まっとうな人間だったのかもしれない。だから彼女には死する者の言葉が聞こえたのだ。聞きたいと思っていなくても、聞こえてしまったのだ。
でもそんな人間は、今の窮屈な文明の世界では生きていけない。
文明の世界は、人間の欲得をアッサリかなえてくれて、たとえその彼女に魅せられた人間も、引き離してしまうのだ。
愛する刈谷を待ち続け、父も叔母も失ったトリ子は絶望して死んだ。
そのことを、刈谷が、あの時は正気を失っていたんだと、アッサリ片づけてしまうこの哀しさ。
いや、哀しいのはトリ子が彼に捨てられたことではなく、あの時こそが刈谷がマトモな人間だったということを、彼が判っていなかった、いや、忘れてしまったことなのだ。
そうやって人間は、マトモな人間になる機会を、自ら手放してゆく。

涙が出るほど美しい瑠璃の海、そしてうっそうと茂る森。なのにそこには、美しい物語なんかない。そう、突きつけられる。
この美しいロケーションでさしずめ今の日本映画なら、「マナに抱かれて」的なカン違いなヒーリング映画しか作れないのだろう。日本映画は面白い、力がある。それは本当にそうなのに、その一点だけで、全てが打ち崩されてしまう気がする。
こういう、骨太で、何かにとりつかれたかのような凄まじい気迫で、画の美しさなんかよりも、とにかく人間のドロドロしたものを役者が体から心から全てが泥まみれで体現しなければいけない、もうとにかくメチャクチャなのにひどく完成度が高くて、だけど笑っちゃう部分もあって……こういう映画、絶対、出来ないよ。

まず、泥まみれになれない。いや、物理的に泥まみれにはなれても、違うのだ。顔が身体が、内臓の奥からすべてが、今の日本人は軟弱に過ぎるのだ。三國連太郎が、沖山秀子が演じた役を、彼らのように演じられる役者は今の日本にはいない。いや、演じていたのかどうかさえ疑わしいぐらいだもの。
しかも信心の中で描かれる野性的な、野卑ともいえるほどのエロス!もう、おっぱいわしづかみだもの。あれは、女優の表情が歪んでいるのは決して演技ではない、あれは相当激痛だろう……。
セックスが快楽じゃないのだ。相手とつながるために、気持ちをつなぎとめるために身体を奪うための行為、だから絶望的に必死なのだ。それは決してレイプではなく、相手にも気持ちはあり、お互いにつながりたいんだけど、ただぶつかり合う激しさの苦しさだけなのだ。そりゃ、おっぱいわしづかみなのだ。イくなんて、もうここにはないのだ。そんなセックスを演じられる役者が今いるとは思えない。

亀太郎は、亡き妹の幻影を見る。そして海岸にはトリ子の思いが形になったといわれる岩がぽつんとはるか海を見つめている。その海の向こうには彼女が愛した刈谷がいて、そして海に沈んだ父親の根吉がいるのだ。
信仰心がまだ残るクラゲ島を、だからダメなんだと、客を案内する島人。ああこれで、もう日本はダメだと、脱力した。自分こそ、文明の恩恵にひたりきっているのに。手つかずの自然、そんなものはもうない。それを売り物にしている時点で、もうこんな風に、すべてが人の心と共に根こそぎ失われているのだ。

香川照之のエッセイで、日本は中国が作るような土着的な、骨太な社会派映画が作られない、作れない、と言ってて、ああ本当だなと思ったもんだけど、かつては、ほんの40年前は作られていたんだ。これがリッパな証拠だ。それが商業的に成功しないのが日本の性質ゆえんかもしれず、その後そうした系譜が受け継がれないのが日本の弱さかもしれない。でもそれに挑んだ人がいるんだ。私は今村昌平のことを、何も知らなかった。★★★★☆


観察 /永遠に君をみつめて
2007年 137分 日本 カラー
監督:横井健司 脚本:永森裕二 横井健司
撮影:下元哲 音楽:遠藤浩二
出演:緒川たまき 小沢和義 光石研 江口のりこ 小倉一郎 河合美智子 平田満 遠藤憲一 鈴木砂羽 小沢仁志 岡本奈月 石堂夏央 山本剛史 大西武志 山本浩司 松田賢ニ 小林且弥 鈴木亮介 新井みやび

2007/11/13/火 劇場(渋谷Q−AXシネマ/レイト)
それは最初から決まっていた恋だったのか。初めて自分の部屋をもらった茂樹は、その窓から白亜の豪邸を見上げた。手伝いに来ていた友人は、あんなところに住んでいるのは絶対にイヤなヤツだ、とくさした。あんなところに住めていいヤツだったら、俺たちどうするんだと。そんな言葉は茂樹の耳には入っていなかった。ただ、窓のところでゆらめく少女の影に心が躍った。
ためていたお年玉をはたいて、お父さんから半分出してもらって、天体望遠鏡を買った。しかしそれで星など見ない。遠い窓の中の少女を見つめた。見つめ続けた。ちっとも遊ばなくなった親友が嫉妬するぐらい。
しかし茂樹一家は、引っ越すことになってしまう。父親が念願のマイホームを手に入れることになったから。茂樹は、一世一代のラブレターを彼女の家のポストに届けた。
そして、20年が経ち、彼は再び彼女を見つめ続けていた。ある日偶然街で見かけた彼女の居所を突き止めて、その窓が見える向かい側に住んで。
それは本当に、茂樹の一方通行の恋心なだけに思えたのだが……。

茂樹だけが、主人公ではないのだ。私はあまりにいつまでも緒川たまきが出てこない、あるいは遠くにぼんやり映るだけなので、ええ?彼女をこんな贅沢な使い方しちゃうの!?と思ったら、後半は弥生のチャプターに切り替わるのであった。茂樹の場面で示された、いわば単純な伏線が、弥生側の物語で実はもっともっと深いものだったことが示される。
彼が初めて買った望遠鏡で幼い彼女の姿を眺めていた頃から、雨宿りのトンネルで彼女の後ろから息を潜めてついてきた茂樹のことも気づいていたし、その望遠鏡で見られていることも、茂樹とちっとも遊ばなくなって彼女にヤキモチやいた彼の友人から聞かされていた。
そして大人になった今、変わらずに見つめ続けられていることも。

視姦、なんて言葉がついつい思い出されちゃうような、見るだけの恋っていうのは、手を出さないから究極の純粋であるはずなのに、生々しい想像をしてしまう、のは、対極であるからこそその逆に限りなく近づく、対のような関係であるからなのかと思う。
だから本作に関してはある意味、拍子抜けする部分は正直あった。まあ、そんなこと考えるのはありがちの野暮天であり、本作はいわば予想のウラのウラをかく、といった趣があるんだろうと思う。
純粋が妄想になると思わせておいて、更にひっくり返って最後までひたすらに純粋。彼は彼女を見続ける。彼女もそれを判ってて見られ続ける。そこに一つも生々しい感情を挟まずに、二人は初恋のような感情を最後まで持ち続けるのだ。一度も話したことさえ、いやそれより以前に、目を合わせたことさえないというのに。

茂樹と弥生は大人になった実際社会でも、ひたすらオクテなんである。二人はそれぞれ別の人と結婚もし、子供ももうけるけれど、それもそれぞれの彼らに恋い焦がれてくれた相手が現われたからなし得たこと。
かといって彼らがムリヤリ押し切られたって訳ではない。むしろ彼らの伴侶となる二人は、それぞれ真摯に彼らを愛してくれた。ことに弥生の夫となる医師、美津野に至っては、妻が自分のことを見ていないこと、それはどうやら他に心に思う人がいるらしいこと、ってことまで察知し、しかしそれでも君の側にいたいんだ、と言って、病を得ても入院すら拒み、寂しく微笑みながら彼女に看取られて死んでいった。
茂樹の方は奥さんの美咲が弥生の存在を知って、ショックを受けて子供ともども出て行ってしまったけれども、弥生の方の夫婦の関係は、こんな具合に泣けるものがあった。弥生も自分を愛してくれる夫を、茂樹への恋の気持ちとは別に、真に愛情として感じていたに違いないし。

だって、美津野を演じる光石研が素敵なんだもの。彼はほんっと、最近私の心に響きまくる。ヘンなの。もう10年も前から映画で観続けているのに。
弥生の主治医である美津野は、なかなか社会に出て行けない彼女を見守り続けてきた。彼が登場してきた途端、その目が弥生を好きだと訴えてて、何があっても彼女が何を思ってても、好きだから、受け止めるっていう真摯さがあってさ……。
美津野が弥生に決死の思いで告白する場面、忘れられない。医者と患者の立場だから、長い付き合いなのに、なかなか一歩を踏み出せなかった。しかし一歩を踏み出すと、それまでの勇気を温め続けていたこともあって、早かった。

「僕は、名取さんと家族を作りたい」絶句する弥生に、「プロポーズになっていなかったかな」と焦る彼。「いえ、……なってはいますけど」なんと言うことも出来ない彼女。
そして、もう緊張しまくりの彼は、倒れそうになりながら彼女にそっとキスをし、死にそうなため息をつきながら、彼女を抱き締める。
もう、いいんだなあ、いいんだよなあ、光石研が……なんで彼、最近急に、こんなに、いいんだろ。いや多分、最近になってようやく、こういう役を彼はステキにこなしちゃうんだよ!ってことが、作り手さんの側で認識されてきたってことなんだろうなあ。
もう絶対、光石研がいいに決まってる。絶対!!!愛するよりも愛されることを欲する、なんてありがちな弁だけど、でもこんな愛され方したら、それまで愛してなくても愛しちゃうよ、絶対!

だって、彼女を見つめ続けたのが、小沢和義だっていうんだもの。これはあまりにもあまりにも、意外なキャスティングだった。っていうか、このキャスティングでこの設定を聞いた時、私の頭に単純に浮かんだエロな妄想系に違いないと思ってしまった。
まさか小沢和義が、純愛をやるなんて。彼女を見つめ続ける一方で、実生活ではオクテそのもので、江口のりこに迫られて固まっちゃうだなんて。あまりにも似合わなすぎて、観てるこっちが固まっちゃう。
弥生の方は、愛情に溢れた夫に彼女もまたある種の愛情を抱き、最後まで看取ったのに、茂樹の方は彼女の存在を知ってショックを受けて出て行った奥さんを追うこともしない。息子もいたのに、まるで頓着しないんである。

確かに、息子との関係はそれほどいいものとも思えなかった。夜通しガソリンスタンドで働いている彼は家族とはすれ違いの生活だったし、息子の運動会に寝坊して出席できないという致命的な失態さえおかしてしまった。
確かに、美咲は彼を愛してくれた。というか、殆んど美咲の片思い状態だった。だから、切なかった。
二人の出会いは平凡だった。ある日、美咲の働くガソリンスタンドに茂樹がやってきた。いい年して、技術もあるのに総合職につこうとせず、あくまでガソリンスタンドに勤め続け、居を転々とする彼のその理由を、その時はまだ美咲は知らなかった。あくまで現場の先輩としてたくましく彼をサポートした。
左右がとっさに判らなかったり、コンビニのおにぎりを上手くむけなかったりする不器用さが自分と似ていて、彼女の方が恋に落ちた。

美咲は茂樹から、「一人暮らししていそう」と言われるようなしっかり者たけど、実際はそれまで実家暮らしで、見た目によらず愛されたがりだったのかもしれない。だって、茂樹が転々としている理由、何か理由があるはずだとどこかで気づいているはずだったのに、うん、気づいていたと思う。でも気づかないフリしてたように思えてならないのだ。
そりゃ、茂樹は不倫してたわけじゃない。ただ、見てただけだ。でも、天体望遠鏡で仔細に見つめ続ける。しかも弥生の転居先を画材屋を装って往復はがきのDMを送り追跡して、引っ越しを繰り返してまで。
久しぶりに息子の元を訪ねてきた年老いた父親は、あの頃から一人の女の子を見つめ続けていることにいつの頃からか気づいていて、それがいまだに続いているのを知って頭を抱える。しかし茂樹はそんな父親に申し訳なさを見せながらも、「誰も傷つけてへんよ」と弱々しくながらもキッパリと言う。つまり、自分はそれをやめる気はないと宣言しているんである。
確かにこの時点、彼が独身の時点では、誰も傷つけていなかった。茂樹がそこまでの自覚と覚悟があるのなら、美咲と結婚すべきではなかったのだ。自分を愛してくれる美咲と。

美咲は息子に、通っている小学校を望遠鏡で見てパパは安心するんだと説明していたけれど、独身時代から望遠鏡は持っていたんだし、いくらなんでもこの説明はムリがあり過ぎる。彼女が知らなかったとは思えない。いや、知らなかったかもしれないけど、何かがあるぐらいは気づいていたはず。これって、ホレた弱みってことなのかなあ。
でも私はね、美咲は全てを飲み込んで結婚したんだと思ったの。だってそうじゃなければ、理由もなく引っ越しを繰り返し、星を見るでもない天体望遠鏡で何かを見ている夫を許容できるわけないじゃない。
だから彼女が真相を知り、「不倫される方がマシだ」と吐き捨てて、息子を連れて出て行った時、なんか違う、と思ったのだ。なんで弥生の夫の方にはあんな寛容なキャラを与えて、こっちは話し合いさえさせないのかと。なんかそれってさ、所詮女はヒステリーを起こしちゃったらもう判んねえよ、とでも言われてるみたいでさ、ちょっと気に入らないのよねえ。

でも、それは逆に、最後まで家族の愛に包まれて生を終えた弥生の方が、家族に捨てられて彼女を見つめ続けることだけが生きがいだった茂樹よりも、今、彼女が死んで、何を生きる糧にすればいいのか呆然としている彼よりも、数段、数十段幸福だったということを示しているのかな、とも思う。ある意味弥生はしたたかだったのかもしれない。
茂樹は弥生を長年見つめ続けて目の疲労がひどく、もうぼんやりとしか視界がきかなくなっていた。
「何かをずっと見ていますか。どこか遠くを見るといい」と眼科医に言われるシーンは、なんだかギャグのように思えたけれど。
窓に佇む彼女を確認できなくなってから幾日か、彼女の娘の名前で届いた段ボール箱を、彼は疑問を抱きながら開けてみた。すると中から、弥生の小学生時代からの日記が出てきたのだ。

それは、つい最近まで綴られていた。気づかれていないと思っていた自分の存在が、認識されていた。画材屋のフリしていたことも、気づかれていた。見られていることを判ってて、医者とのキスシーンも窓際で見せたのだ。
なんかね、弥生の気持ちがちょっと判らない部分がある気がするんだ。茂樹の方はそんな複雑さは抱えてないと思う、多分。それは女の私には男性のことはイマイチ判らないと投げ出しているせいかもしれないけど。
でも、弥生がわざわざ自分が死んだ後に、そんな証拠を送りつけるみたいなことをしたのが、彼女に気づかれている筈がないと思っていた彼に、バッカじゃないの、とばかりに示したように思えちゃって。バッカじゃないの、私は最初から気づいてた、なんで直接アプローチしてくれなかったのと、そう彼女が最後の最後に皮肉で言ったような気がして。

だってさ、茂樹の方は望遠鏡で見つめ続けるだの、せいぜい手紙を投函する程度で、彼女と面と向かう勇気はこの数十年(!)ないわけよ。でも弥生の方は、彼が見つめ続けていたことを知り、そのことがイヤじゃなくて嬉しかったと自覚して、引っ越しした彼を小学生ながらタクシーに乗って追跡したり、かなり積極的なんだよね。大体、見つめ続けられることを数十年も許容し続けるなんて、見つめ続けることよりも、何倍もしんどいに決まってる。いくら相手を好きだからって……それも、話したことさえない相手にそこまでの気持ちを注げるなんてさ。
だから、これは意外に、弥生の方が茂樹を好きだったっていう結論なんじゃないだろうかって思っちゃう。最後まで見つめ続け、弥生を追い続けることをある意味達成感にしていた茂樹が、彼女の死によって全てを知り、愕然とするラスト、苦い達成感という、不思議な感覚を得るのはそのせいか。
なんだか、負けたのか勝ったのか、よく判らない……。

だって、ひょっとしたらね、お金持ちのお嬢様って感じに見られていた弥生の方が、人生苦労してんだもん。
彼女が、避け続けていた実家に一度戻る場面がある。喪服を着て、父親と対峙している。彼女の母親が亡くなったのだ。それも二度目の母親。
最初の実母は、彼女が子供の頃亡くなっている。その時父親は、「弥生の病気で、母さんは寿命を縮めた」と言った。それを、37回(多分)も言われたんだと、弥生は父親に言った。黙り込む父親。このことを、この年になってようやく言えたとばかりに、弥生は吐き出した。その度に、自分が否定されている気がしたのだと。
そして今、後妻の義母が死んだことも、そのせいだと言われるのかと。

弥生が得た仕事は、イラストレーター。対象と接近する、独特の絵を描く。「私、人との距離感がおかしいんです」と、弥生は後に夫となる美津野に常々言っていた。それはまるで、他人を牽制しようとしているようにも見えたけれど、茂樹との距離感だけが彼女が安心するものなのだとしたら、それは恋ではなく、人と触れ合うことにただ恐れているようにも思えた。
最後の最後、彼女の側で死にゆく夫は、「ようやく、君との距離感がつかめたよ」と笑った。
弥生の絵は、自分ではどうにも自信がなかったのだけれど、ある編集者がその才能を見い出す。子供の見る絵本は、10年ぐらいたって、思い出すような個性がなければいけない。いわば刷り込みだと。大人の平均的な目線ではダメだと。
弥生の独特の接近感が、編集者の心をとらえ、仕事を得ることとなる。そんな彼女と仕事の現場で出会ったのが写真家の若菜。乳房、いや乳首を接写する写真を見せて、「エロやってます」とニッコリ笑う彼女は、臆していた弥生の心を開かせる。

若菜を演じる鈴木砂羽が素晴らしい存在感。弥生に何を決意させるとかじゃないんだけど、人見知りする彼女に全く臆せず声をかけ、接する。それは若菜自身が、弥生に興味を持ったからだろうけど。
対象に限りなく近づく距離感が弥生と若菜は似ているけれど、そのくせ、人との距離感をつかめないという弥生を、若菜は不思議にリラックスさせる雰囲気を持ってる。
若菜は弥生に、撮らせてくれないかと言う。写真は物語るよ、と。結局弥生が被写体になることはなかったんだけれど、その物語る、という言葉が弥生に臆した気分を甦らせたのか。
ある日、弥生が若菜の家を訪ねると、黒人のダンナが出迎えた。今まで乳首を接写した写真ばかりだったのが、くるぶしに替わっていた。それはダンナとの絆を感じさせる、不思議な写真だった。
若菜は弥生の変化に気づいていた。「……なんかあった?」って聞かざるを得ないほど、張り詰めた空気を弥生は出していた。でも弥生はこんな若菜にさえ、何も相談することが出来ない。結局は茂樹以外には弥生は心を閉ざしたままだったのかもしれない。あの愛情溢れる夫にさえ、本当のことを何ひとつ言えなかった、いや、言わなかった。

茂樹と弥生の二人の子供同士は、どうやら淡い気持ちを持っているんじゃないかと思われる。いや、これはあまりにチラリのエピソードで判りづらいんで……でも少なくとも、彼の息子の方は彼女の娘に懸想している感アリアリだし。
しかし、たて笛にマーガリンをつめる、というイタズラ、教師は単なるイタズラだと言って処理するけど、どうなんだろう?この場面は、これを発端に間に入った彼の息子がとばっちりを受けた形になったんだけれども……娘がケガをしたことに、弥生が妙に拒絶反応を示したから……ひょっとして彼女の娘はいじめられていたんじゃないの?
これが奇しくも、茂樹がやはり自分を追って、そう、結婚してまでも自分を追ってきてくれていることを弥生に確認させることとなったんだけれども。

夫婦して、息子がケガさせた女の子の家に謝りに行くと、現われた奥さんが弥生だったのだ。あの時、雨の中、一歩下がって黙ったままでいる茂樹をじっと見つめている弥生、よそゆきの主婦の顔の下に見え隠れする喜びと驚きの感情が、何かが起こる予感を起こさせたのだけど……結局何も、起こらなかった。
二人とも思いが強すぎて、それが逆にストッパーになったんじゃないかと、そんな意味不明な矛盾が通ってしまうような、何十年もの、恋だったのだ。

ラスト、二人は恐らく50近い年齢になっている。茂樹の方の子供は出てこないけど、弥生の娘はもう大学生になっているのだから。
しかし弥生は娘のボーイフレンドが驚くほど、若いお母さん。実際に若いわけはない。彼女はひたすらオクテで、ダンナに口説かれた時、もういい年って雰囲気だったもの。むしろその時が、実年齢に近い気がした。
でも緒川たまきに、ワザとらしい老けメイクなど施さない。髪型とミドルなファッションに替わっただけ。でもそれが、つまりは美しいままで死んでいくことを強調しているようで、切ない。
だって茂樹の方はそれなりにちゃんと年とった風情を醸し出しているのに、弥生の方は、娘と変わらないほどの若々しさなのだ。
確かに緒川たまきは年齢不詳なところがあるというか、今回、久しぶりに見たけど、あまりに変わってないんでビックリしたんだもの。なんか彼女、夢の国の住人みたい。現実味がなくて。
そして、彼女は最後の写真を娘のボーイフレンドに撮ってもらう。彼の望遠鏡の光が写りこむ、いつもの窓際で。

解説やストーリー紹介を読む限り、作り手の意識と、私の受け取る感覚は大分違うみたい。
弥生が家族に対して窮屈とか、距離のとり方が判らなくて戸惑うとか、あんまり感じないんだよね。セリフではそう言ってるけど。
それは演者の意識なのかな。それが作り手の意図を曲げてしまったということなのか。
私は、弥生が「仕事が決まったことを、美津野に話す、他に話をする人もいないから」なんて風には思えなかった。彼だから話したようにしか見えなかったし。
それに、これが「泣ける純愛」だなんて、どうしても思えないんだよなあ……。★★★☆☆


カンバセーションズ/CONVERSATIONS WITH OTHER WOMEN
2005年 84分 アメリカ カラー
監督:ハンス・カノーザ 脚本:ガブリエル・ゼヴィン
撮影:スティーヴ・イェドリン 音楽:スター・パロディ/ジェフ・エデン・フェア
出演:ヘレナ・ボナム=カーター/アーロン・エッカート/ノラ・ザヘットナー/エリック・アイデム/ブリアナ・ブラウン/ブライアン・ジェラーティ/オリビア・ワイルド/トーマス・レノン/セリナ・ヴィンセント/フィリップ・リトル

2007/2/16/金 劇場(シネスイッチ銀座)
うーむ、ヘレナ・ボナム=カーターの、下腹の出っ張りが気になる……いや、この年にしては出ていない方なのかもしれんが。うーむ。
一夜のセックス、が重要な話の割には、上と下の下着姿までしかなってくれないのだが、胸を出すよりこの下っ腹の方がハズかしいような気がするなあ。なんかね、「トップレスになる予定だったけれど、ベッドの中で1枚ずつ脱いでいく方が美しい」と彼女が言ってた。そうかなあ……。あの下っ腹で?(しつこい)。
それにしても彼女、最近はもっぱら夫の作品でしか観ていないような印象があったけど、その間を実にもったいなく過ごしてしまったような気がする……下っ腹出ちゃって(だからしつこいんだってば)。

で、本作が他の作品と違いたらしめているのはただひとつ、常に画面が二分割されてること。すっぱり、真ん中から二分割。それをデュアル・フレームと言うらしい。
その左右の画面に映し出されるのは、角度を変えて違うカメラから同時進行に映した二人だったり、近づいて行く二人をそれぞれのカメラで追ってたりする。
あるいは、二人が思い出す過去の回想がどちらかの画面で展開されもし、そのことによって台詞で解説されることなく、自然に二人の過去が判ったりする。
更には、通常の映画なら見せないOKテイク以外のアクトを、片方の画面でタイミングをズラして見せたりして、彼らの心の中で、常に次の行為が一瞬一瞬、いくつかの選択肢から選び取られていることが判る。それが会話の方向や、ひょっとしたら思いがけない展開を生み出すことをも示唆している。

とても実験的で斬新な取り組みで、特にこの、他のテイクをOKテイクと同時進行に見せてしまうのにはすっごいスリリングを感じたんだけど、頭からケツまでずーっとずーっと二分割っつーのは、なんだか逆に単調でメリハリがなくなっていった気もするんだな。
そりゃ、前述のような様々な手法が駆使されているけれど、全編の中ではやはりそれが繰り返しになってきてしまうし、左右の画面を常に追っていなければならないから、かなり疲れる。
まあ、それだけ観客に緊張感を持たせようってことなんだろうけど、それもやっぱりメリハリがあるからこその緊張感だと思うんだよなあ。

で、これがどーゆー話かというと、まあ、言ってしまえば、男と女の一夜限りの再会の話、それだけ。
とある結婚式で二人は出会う。いや、再会する。最初のうちは初対面の雰囲気さえあるんだけど、段々と初対面どころではないワケアリが明かされいくんである。
まあ、ね、ワケアリの二人だから、やっぱりヤッちゃうし、ヨリを戻すかなんて話にもなるし、そういう意味ではありきたりでヤボな話とも言えるのかも。この二分割手法がなければ、そうなっていたかもしれない。
逆に言うと、この二分割画面が前提になってしまっているから、あまりフクザツな話には出来ないというウラミもある。
ストーリーは重要ではないってことよね。あくまで二人の掛け合い、男女の駆け引きにかかってる。つまりは一見、斬新に見えても、これは男優と女優のガチンコ演技合戦の映画なのだ。

最初のうちはね、二人がどういう関係なのかホント判らないの。マジで初対面のようにさえ感じてしまう。
場所は男の妹の結婚式。それさえも初めは明かされない。新郎新婦へのお祝いビデオを撮っている記録係からカメラを向けられた男が「妹の結婚式」と言うと、女はハッとしたような苦笑を浮かべるのね。だからさ、本当にここでの初対面、男が女をナンパしたように思えちゃうのよ。
後から考えると、彼女がその事実を知らなかったわけはない。だって、二人はたった半年間とはいえ、夫婦だったんだもん。つまりここでの彼女の表情は……カメラマンに対して他人を装っていたのか、そんなことも忘れていたくらい、大昔のことだとしまいこんでいたのか?

いやいや、いくらなんでも……だって、彼女はこの結婚式にイヤイヤやってきた。彼女はそれを、7人目の付添い人が急なケガで、そのピンチヒッターだと説明する。花嫁とはそれほど親しくなくて、突然連絡が来たのだと。突然じゃなかったら、考えすぎて来なかったかもしれない、などと皮肉っぽくお祝いビデオで吐露する。二度も三度も新郎の名前を間違える始末だし。
通常は未婚(処女)が付添い人の条件なのに、結婚してるしトウもたってるし、当然花嫁が投げるブーケなぞに興味があるわけもなくて、一人つまらなそうにタバコ吸ってる。

そんな彼女に「ドレスが似合ってる」と近づいてきた彼に、トウのたった女の余裕なのか、さして驚いた様子も見せなかったから、最初はまさか、二人が元夫婦の関係なんて思いも寄らなかった。
しかもね、彼女が結婚している、ということを聞いて、男は驚くのよ。最初はそれが、男が女をナンパする目的だったからちょっとアテがハズれた、ぐらいな印象なわけ。
でも……男は自分がそうだったように、彼女も彼のことをずっと忘れられないでいるに違いない、とか思ってたみたいで、だから結婚している事実にビックリしたのだ。まあ確かに彼自身は結婚はしてないけど、軽い付き合いだ、とか言いつつ、若い女の子と付き合っているのはまるで、保険だよね。ズルいんだから。

出会いの場面を繰り返し思い出す二人。それも最初のうちは、ああ、若かりし頃は恋人同士だったのか、と思う程度。いや、最初の最初は、彼が彼女を若い頃もナンパしたことがあるのか、と思う程度なのよね。
二人の記憶はあいまいで、木陰で彼女が読んでいた本は何だったのか、ランチを呼びに来た彼に彼女が何と言ったのか、なかなか思い出せず、双方の記憶をたぐり寄せてゆく。
まるでそれが、二人の一番大切な記憶だったとでもいうように、その後の短い恋愛期間と結婚生活は軽く流すだけで、出会いのシーンばかりを何度も思い出そうとするんである。
読んでいた本のタイトルは二転三転したけど、ランチを呼びにきた彼に言った彼女の台詞は、最初から二人の記憶が一致していた。
「食事を待たせておいて」
そして、彼女の腕を引っ張って立たせた彼は、思わず彼女にキスをした。

結婚式のシーンに戻ってくる。ラストダンスのコールがなされ、周囲の華やかさから離れ、二人久しぶりのダンスを楽しむ。
なんだかそのあたりから、二人の空気がアヤしくなってくる。顔の距離が思わせぶりに近寄ったり離れたり。
このあたりで、OKテイク以外のテイクがじりじりと使われ始め、男と女の心の駆け引きが、面前に現われてくるんである。いや、これは面白いわ。
そして結婚式が終わり、会場も片づけを初め、あと一杯だけ、というのもバーテンダーに無視されちゃって苦笑する二人。
男は最初から、女の部屋に乗り込む気マンマン。女の方は、一泊しか出来なくて、明日の朝早いから……と尻込みの姿勢を見せるけれども、結局は彼を部屋に誘ってしまう。

ところで、彼は15も年下の、スタイルバツグンの美人大学生と付き合っている。それはこの辺のお知り合いの方々には周知の事実らしく、二人と同じエレベーターに乗り合わせた花嫁付添い人の一人がその話題を振ってくるもんだから、せっかくのエッチなノリを(いやいや!)壊されてしまって、二人は気まずくなってしまうのね。
彼はそのコのことを、あまりにも若すぎるから、結婚なんて当然考えていないし、あれ以来、真剣な恋愛は出来ないと言うんだけれど……。
あれ以来、というのは当然、彼女との結婚生活が突然の終焉を迎えたこと。
でもそれも、一夜限りの口説き文句なんだよね。まあ彼の方は彼女がキライになったわけじゃなく、彼女が一方的に去ったって感じらしいから、未練タラタラで、いつ彼女が戻ってきてもいいようにと、恋愛はいつも軽めで、って意識だったのかもしれないけど、そう匂わせているのさえ、この場限りの口説き文句に含まれているとしか思えない。
いや、それは最終的にはなんだけどね。私みたいな未熟者だったら、ああ、彼は私のこと、ずっと好きでいてくれたんだわー、などと流されそうな気もするけど、彼女は最後まで冷静さを失わない。

ただ、彼女は、結婚式で再会した彼と言葉を交わした時、「彼とファックする」ことは直感で確信したと語る。それを彼女は何度も繰り返す。ファックするんだ、ファック、ファック、ファック……。
そんなオゲレツな言葉で、自分の燃え上がる気持ちを隠そうとしているようにも見えるんだな。
ただ、女は冷静で、これが一夜限りの感情だってことは判ってる。一夜限りだからこそ、やけに濃密に、ホンモノの気持ちのようにカン違いしやすいってことも。
彼の方はこの一夜こそを待っていたような言動をするけれど、それこそカン違いなのだ。男は浮気な気持ちをロマンティックにすり替えるために、自分の記憶や感情さえも、すり替えることが出来るのだ。
冷静な女の方が、だから時には純情で、純粋なのだ……。

なんかね、彼と別れた時に、そのお腹に赤ちゃんがいた、みたいな感じに思えたんだけど、ウソ!……違ったかしら。
なんか、そういうニュアンス、匂わす場面、なかった?だって彼女は本当に唐突に彼の元を去ったような描写だったから……。
彼女が再婚した医師は大分年上で、連れ子もいる。最初、彼女から子供の数を聞いた彼は仰天するんだけど、思わず、「全部、君の子?」なんてまー、失礼な聞き方したりしてさ。
でも彼女は「まさか、皆向こうの前の奥さんの子供よ」って言うんだけど……皆、なの?それも不自然な気がする。
大体、この医師がホントにバツ付きなのかってのも、言ってしまえば判んないじゃない。妻である彼女にやけにラブラブなもんだから、初婚のような感じもするしさ。
それとも、あえてその理由を詳細には語らせなかったのかもしれない。ここではそれは重要ではなく、それを語ってしまえば、「一夜限り」のテーマが薄れてしまうから。

医者と結婚するのはどんな感じ?嫉妬からか、彼はそんなことも聞いた。女はしれっと、弁護士よりはマシだわ。結婚していたから判るの。と言う。
実はこの台詞が吐かれた時は、二人の過去や経歴がまだ明確には判っていなかったから、へー、そうなんだ。彼と別れた後、一度弁護士と結婚してたんだ……ぐらいに思ってたんだけど、実はその「結婚した弁護士」っつーのが彼だったわけ。
彼女のこの言葉を受けて、彼が弁護士稼業をやっていることが苦笑まじりに明かされ、あらま、気まずい展開ね、などと思ってたんだけど、実際は彼女は思いっきり、アテツケで言っていたわけだ。
セックスすることを前提にしながらも、彼のヨコシマな気持ちをきっちり牽制にかかってる。
男はセックスの先に、ひょっとしたらの思いを抱えてる。
なるほど、惹句の「男はズルいロマンチスト、女は罪なリアリスト」ってのは上手いことを言ってるわけだ。

この一夜はどれぐらいの長さだったのか……でも、本当に、ほんの数時間。感じとしては5、6時間てトコだろうか。
その5、6時間を、セックスを挟んで喋りまくる。会えなかったこれまでを清算するかのように、朝一番の飛行機に乗るためにホテルを出る時間まで。
こんなこと、それこそ若い時にはよくやったんじゃないかしらん。恋人同士でも、仲間同士でも。それが信頼や友情や愛情の証しのように思っていたけど……いわばハレの時間だったんだよね。ケの時間には、そのことが懐かしい思い出として甦りはするけれど、決して前提にはならない。
恋人、新婚時代のセックスの回想が、頻繁にもう片方の画面に挿入される。声は聞こえないけれど、楽しそうに喋っている様子も。そう、これがあの頃の、ハレの時間。もうあの時から思い出になることは、決まってたんだ。
あっという間に時間が経ち、慌ててシャワーを浴びて洗面所でドライヤーを使っている彼女に、未練がましい台詞を繰り返す彼。
彼女はドライヤーの音で聞こえなかったと言ったけれど、果たしてそれが本当だったのか……。

本当は彼は、彼女に帰るなと言いたかった。部屋だけで展開されていたのが、飛び出した彼女を追っていった屋上でのやりとりは、閉じ込められた空間の外で更に気持ちが爆発したように見えて、ひょっとしたら本気じゃないかと思わせちゃう空気もあった。
ずっと愛していたんだと。やり直そうと。ここでの二分割が最もスリリング。彼女に近づいていく彼。通常の映画なら、引いた画のツーショットとそれぞれの肩越しから相手の表情をとらえるショットのカットバックで描いていくんだろうけれど、本作はとにかく二分割だから、どこまでいっても彼と彼女で分割されているんである。
それは、二人が寄り添う距離まで近づいても。だから二人がどんなに抱き合っても、いつまでも二分割だってことが、逆に二人がもう一度一緒になることはない、と断じているみたいに見えるのだ。だから、もう、最初から。

彼の言葉はどこまで本気だったのか……。最終的に、彼が彼女を止められないテイクがOKのまま物語は進行するけれど、彼や彼女の反応が微妙に変化するテイクがもう片方の画面で進行するもんだから……。
でも、20年近くもたってヨリを戻すなんて、それも結婚式で再会してだなんて、お互い家族や恋人もいて、だなんて、やっぱり、あまりに浅慮過ぎるものね。
これはやっぱり、この手法のために用意されたシンプルな設定なんだ。

彼女はこの再会の記憶さえ消し去りたいとでも言うように、付添い人のピンクのドレスを捨ててくれるように頼む。すると、彼はどこかダダっ子のように、それを窓から放り投げた。
そして最後の最後、未練たらしく彼女がタクシーに乗り込むところまで彼は送っていくけれども、ギリギリまで引き止めたい空気はアリアリだけど、結局彼は、彼女がタクシーに乗り込むのを止めることが出来ない。

そして、彼女の乗ったタクシーを見送った後、彼もまたタクシーに乗って家路に向かう。
二分割の画面は、ここで一番の見せ所を用意している。
空港に向かう彼女と、家路に向かう彼、後部座席の右と左にそれぞれ陣取った二人が左右の画面に配置され、それぞれの運転手と会話している。
当然、別々のタクシー。そりゃそうだ。運ちゃんのリアクションもズレてるし。でも、バックの車窓はまったく一緒でズレもなく流れてゆき、二人はまるで、同じタクシーに知らぬ振りして乗っているようにしか見えないの。
この確信犯的なラストシーンは何を意味してるの?
まさか二人がヨリを戻すとか?いやそれはないよな……。
でもあまりに思わせぶりなラスト。このシーンを思いついたために、ずーっとしつこく二分割にしていたんじゃないかと思うぐらい。

男、を演じるアーロン・エッカートは、ちょっとイイ男。毒のない、あの無邪気さはちょっとズルいと思いつつ、なんだかチャーミングでドキドキしてしまう。女のお祝いビデオのメッセージのあまりに失礼さに、口を大きく開けて笑いをこらえているトコで、もうなんかグッとハートを引き付けられちゃう。
その相手が、ベビーフェイスがなぜか派手なメイクで映える、手練手管のヘレナ・ボナム・カーターだから、女の立場とはいいつつ、何となくこのバカで素直なチャーミング男に肩入れしちゃうのよね。ズルいよなあ。

ところで、この監督と脚本家は、実際に昔の恋人同士だったんだという。うーむ、その事実こそが最もスリリングだぞ!ひょっとして、思いっきり二人の過去を反映している?んなことはないか。★★★☆☆


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