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「こ」


2007年鑑賞作品

恋とスフレと娘とわたし/BECAUSE I SAID SO
2007年 102分 アメリカ カラー
監督:マイケル・レーマン 脚本:ジェシー・ネルソン/カレン・リー・ホプキンス
撮影:ジュリオ・マカット 音楽:デヴィッド・キティ
出演:ダイアン・キートン/マンディ・ムーア/ガブリエル・マクト/パイパー・ペラーボ/トム・エヴェレット・スコット/ローレン・グレアム/スティーブン・コリンズ


2007/10/10/水 劇場(シネスイッチ銀座)
ハッピーでスウィートな邦題がつけられているけどこれが案外さにあらず。いや確かにハッピーでスウィートなのだけど、これが案外アダルティー!?いやいや、それがすっごく面白い。
いやー、母と娘でこんなにアケスケにアダルティーなことを話し合えるなんて、さすがアメリカ!?いや、アメリカは関係ないか。いやー、でも女同士のアケスケ感がとにかく楽しくて、撮影現場自体もきっと楽しかったんだろーなーというのが見え隠れする。主演のダイアン・キートンを慕って若い女優たちが集まってきたというこのキャスティング、三人の娘と母親の会話の、まあなんてかしましくも、楽しそうなこと!
ダイアン・キートンは予想通り、いや予想以上に知的な可愛さ大全開で、彼女は特に若く見えるわけでもなく、年相応に見える年のとり方をしているんだけど、それが、それこそがカッコイイんだよね。
そして、だからこその可愛さがある。ああ、こういう年のとり方っていいなと思う。あがかず、自分に対する信念がしっかりしてて、しかしガンコにはならずに可愛らしさを忘れない。カッコ可愛い大人の女。素敵。

この母と娘三人はとにかく仲良し。揃ってコリアンマッサージに行き、全裸になるの!?と慌てるお母さん(笑)。そのオバチャンくさいのびのび生地の単色パンツに、「今時ハイレグ?」「そんなオバサンくさい下着じゃなくて、今度プレゼントしてあげる」と、レースやらTバックやらのセクシーな下着をはいた娘たちがかまびすしい。ま、まさかダイアン・キートンにパンツ姿を披露させるとは……。
そんな具合に、とにかく遠慮がない。母と娘三人で、一回に何度イクかとかいうお喋りまでする。えええ!そんなこと話すか!?しかも「それに関しては、私が家族でナンバーワンのはずよ」なんて得意げに娘の一人が言うし!

そしてこの会話シーンが象徴的なんだけど、母が娘のミリーに聞くわけよ。「オルガスムスってどういう感じ?」って。!!!な、なにその質問!娘は顔を赤らめながらも、とにかくとても気持ちが良くて、頭が真っ白になって、満たされる感じ、と今にも喘ぎそうになりながら説明する。
そ、そんなことを母にこと細かに説明するアンタもアンタだが!それともこれがアメリカなのか??って、私もしつこいけど。
でも娘、ふと不思議になって聞いてみる。「パパとはどうだったの?」夫と早くに死別した彼女は、女手ひとつで娘三人を育て上げているのだ。
すると母、ダフネは答えた。「忙しかったから、いつも急いでた」思わず息をのんで黙り込んでしまうミリー。つまり母は、父と運命的な恋に落ちて三人もの娘をもうけたけど、その「オルガスムス」の素晴らしささえ知らぬまま、ここまできてしまったのだ。

この父に関しては、私観ている時には死別だということさえ気付かなかったんだけど(爆。どっかで言ってたっけ?)、つまらない男ばかりつかんでは泣きを見る末娘のミリーに「娘には、私のようにはなってほしくない」とか言うもんだから、父もそういうつまらない男で、離婚したのかと思ってたら、違ったのね。
なんか結構夫のこと、クソミソに言ってなかった?それは、自分を残して死んでしまったというウラミゴトだったのかしらん。
まあ、それはいいんだけど。で、ダフネが心配しているのは、そのミリー。パティシェの自分の血を受け継いだか、彼女はすばらしい腕のシェフであり、ケータリング会社でバリバリ働いている。しかし付き合う男は揃ってロクデナシ、しかも“ハイエナ笑い”(後に出会うジェイソン曰く。というよりブタみたいなフガッて音が入る、アレね)で、初対面で逃げられることも多い。

劇中ではミリーの料理よりは、ダフネの焼いたケーキが全面に出てくる感じではあるけど、それにしてもとにかく食べ物やスウィーツの幸福感に溢れている。それが、母も娘たちもキャリアウーマンなんだけど冷たくならなくて、イイ感じなのだ。
で、だから、どうも話が脱線するけど(いつものことだ)、ミリーを心配するあまりダフネは、ネットに娘の結婚相手募集の広告を載せることを思いつくんである。いつも間違った男ばかりを選んできたミリーのために、自らイイ男を選び出してやろうと。
うわっ、それってサイアク!と思うのだけど、ダフネを演じるダイアン・キートンの猪突猛進なママがなんか可愛くて、イヤミな感じがないのだ。しかも事態は思いもよらぬ方向へと展開していく。

ところでさ、ダフネがネットを必死んなって駆使していると、なぜかアダルトサイトにアクセスしちゃって、しかもなぜか画面を閉じられずに慌てる場面、これがケッサクでさ!
いや確かにベタな場面ではあるんだけど、その時ちょうど娘から電話がかかってきたりなんかして、パソコンから聞こえてくる喘ぎ声をごまかすのに大慌て。
しかもそれに反応しまくるワンコがまたすばらしい演技(?)を披露してもうおかしいの何の。画面を布で隠すもその声に反応して、ソファに向かって腰を使い出すワンコ(爆笑!)。や、やめなさいって!しかもこのシチュエイション、  ギャグのごときに、もう一度繰り返される。しかも忘れかけた頃の絶妙のタイミングで。うう、ちきしょー、二度目もしっかり笑わされてしまったよ!

で、だから話がまた脱線しましたけれども(笑)、広告を見て集まってくる男どもは、まー、ロクなのがいないわけさ。こういうヤツらを、よくもまあいろいろ取り揃えたと思うんだけど、しかもイヤミにならないあたりも凄い。ま、それは応対するダイアン・キートンの力だろうけれど。
ニカッと笑うと歯がヤニで染まってたり、英語が全く通じなくてオウムのようにくりかえしたり、あとギャランドゥな感じとか!?もうスライドショーかって感じで、次々にダメダメ男が現われて、しまいには子離れできない母親のためのセラピーを勧める女までもが現われ、困ったダフネを「僕と約束しているから」と救い出してくれたのが、そのカフェでギターを弾いていたミュージシャンのジョニーなのであった。

うっ、このジョニーがハンサムなのよっ。帽子の下からのぞく笑いを含んだ優しげな目のイイ男っぷりに、私ゃ心の中でキャーキャーと叫びまくるんである。いやー、普段あまり西洋映画?を見ないもんだから、たまに遭遇すると免疫がなくってさあ(笑)。
「随分と年下シュミなんですね」と言う彼に、ダフネは笑って事情を説明する。すると彼は、僕も立候補させてくれないかという。あなたの娘ならきっと素敵な女性だろうから、と。
そうそう、ここなのよね。その後、ダフネの眼鏡にかなうことになるジェイソンもそうだったと思うんだけど、この母親の娘なら、という男性側の視点が今までのラブストーリーにはなかなかなかったと思うわけ。だってまだその当の本人に会う前なんだよ?ちょっと考えられないけど、ダイアン・キートンならありかなあと思っちゃう、というか、思わせちゃうダイアン・キートンはやっぱ凄いんだなあ。
私は一瞬、このハンサムなお兄ちゃんとダイアン・キートンが恋に落ちるのかしらとついつい妄想して、また心の中でキャーキャー言っちゃったけど。
うーん、それもいいなあと思ったけど(爆)。だってダフネだって幸せになったっていいじゃんと思って。娘のことばかり心配してさ。でも大丈夫。そのあたりはアメリカ映画だから?ちゃんと彼女にもハッピーな恋を用意しているのだ。“年相応”のね!私妄想しすぎだからなー。

で、ダフネは、ジョニーのことは好青年だとは思うものの、娘の相手としてはNGを出す。「ミュージシャンは浮気者」だからなんだという。それもまた随分と極端というか古いイメージだけど。
ジョニーは苦笑して「確かにミュージシャンは浮気者だね」と鷹揚に反すのだけれど、恐らくダフネはそれは一種の言い訳で……ま、今までのミリーの男たちは浮気したり実はゲイだったりしたからその理由もあったろうけど、やはり結婚相手となるからには、もっと職業も固くてしっかりした経済状態の人がいいと思ったんだろう。ことは、その直後に現われるジェイソンに「ウソみたい。完璧だわ!」と狂喜することで判る。だってジェイソンは建築家のボンボンで、しかもハンサム、申し分のない相手だったんだもの。
その彼を見たジョニーは、「目がうつろだ。どうしようもない男に違いない」とか言うんだけど……観てるこっちも後にジェイソンのとんでもない正体が明らかにされるのかなとか思ったんだけど、そんなにヒドイ男でもなかったんだよね、最終的には。ミリーにフラれるジェイソンは少々カワイソウな気もしたんだけど……。

おっと!またオチを言ってしまったが、詳細は後述!
ダフネはジェイソンとミリーを彼女には内緒で引き合わせるために、ジェイソンの会社のパーティーをミリーのケータリングに任せるよう提案する。そこでミリーに声をかけたジェイソン、ミリーは今度こそ運命の男に会えたとキャーキャーで母親のダフネに電話をしてくる。ダフネはしてやったりのガッツポーズ。
一方でミリーはジョニーとも出会う。というか、どうしてもミリーが気になったジョニーがこっそり彼女の職場のケータリング会社あたりをうろついていたのだ。って、結構アヤしい(爆)。
そこに現われたミリーは、スカートの下のスリップの静電気をしきりに気にして、しまいには路上でスリップを脱ぎ出す!おいおいおいー!しかも静電気はまだおさまらず、ヒップに風船がくっついたままなのを、彼女は気付かない。
ジョニーはその一部始終をあのハンサムな笑顔で見守り続け(ああ、イイ男)、ミリーに「静電気をおさえるには、アイスクリームを食べるのがいい」とかワケの判らない口説き文句で近寄り、こここそに、本当の運命の出会いがあったんである。

というわけでミリーはしばらくの間、二股をかけることと相成る。それもシッカリ両方の男と寝てるし。
この描写をね、またしてもスライドショーのごとくエッチの様子を交互に見せてくトコが、そのアケスケっぷりに結構ウワッと思うのだが。イイ男二人にいっぺんに出会って迷うにしてもミリー、二股長く続けすぎだよ……。
母親のお膳立てがあったとはいえ、そしてそのことをミリーが知らなかったとはいえ、一番タチが悪いのは、二股女のミリーなのではないだろーかなどとついつい思っちゃうのは、私道徳的過ぎ?いやいやそんなことはないだろう……それがバレてあやうくジョニーに去られてしまいそうになるし。

で、そのジョニーなんだけど、実はバツイチ、幼い息子と父親の三人暮らしなのであった。
意を決したジョニーがミリーを自宅に招いた時、何も知らなかったミリーは突然現われた小さな男の子にビックリしたんだけど、しかもこの息子と来たらとんでもない耳年増で、いきなりミリーに向かって「ヴァギナある?」と爆弾を浴びせてきたりするし!
でもミリーは不思議と、それほどショックを受けている様子はなかったんだよね。この無邪気なおませさんとも自然に仲良くなれたし。
それにジョニーのお父さん!現われた途端、こりゃー絶対、ダフネの相手になるって、直感したもん!お父さんもまたミュージシャン。風来坊なカッコよさがある。一方で不憫な息子を心配してて「お前が女の子を連れてくるなんていつ以来だ?」とミリーの来訪を大歓迎し、しかしジャマになってはならないと、孫をつれて二人きりにさせようとしてくれたり。
ジェイソンのように裕福ではないけれど慎ましく、温かい生活の匂いがある家は、ミリーをほっとさせてくれたのだ。

そうなの、ジェイソンはとにかく裕福でゴージャスで、普通に考えたら、ジェイソンとの方が何不自由ない暮らしが出来ただろうと思う。
でもミリーも自分の才覚を生かした仕事をしているんだし、結婚相手にそれほど経済状態を求めることはなかったんだよね。今時そんなのナンセンスだし。まあ、ヒモになるような男はイヤってぐらいで。
あるいは今までの“失敗した男たち”には、そういうヒモ男もいたのかなあ。だからダフネはその点も気にしたのかもしれないけど。
ジェイソンはまず、都会が一望できる高級レストランにミリーを誘う。メニューを見ないうちに「君に食べてもらいたい」と既にオーダーされたものが出てきた。ミリーは「いつも決めなくちゃいけない生活で疲れていた。決めなくていいのはラク」とその時は言ったけれど、なんかその言い様もヘンな気がした。
もちろんそれは、彼と別れる時に叩きつける台詞、「決めなくていいのはラクだけど、何も考えない女がいいの?」という言葉に直結するわけだが、その時に判明するんだけど、この時の料理も最悪だったらしいのだ。

でもジェイソンは、やっぱりそんなにヒドイ男でもなかった気がするんだけどね。
ミリーはジョニーにジェイソンとの二股がバレてしまって、しかもそれが、ジェイソンが家族を招いて引き合わせるなんていうかなり進んだ段階に行っていたから激怒して、彼女がすがるのも振り払って去ってしまう。そりゃムリもない。
で、上の空のミリーは、ジェイソンと過ごす部屋で燭台を割ってしまう。弁償するというと、曾祖母の形見だからムリだと、ジェイソンは顔をこわばらせる。
ミリーはそんな彼にも失望したらしいんだけど、この点についてもジェイソンは大人気なかったと後に謝って、「これも曾祖母の形見だ」とブレスレットをミリーにプレゼントするんだから、あまり彼を責めるのも酷な気がするんだけどなあ。

二股をかけていたことを告白されてもジェイソンは、「これから僕だけにすれば問題ない」とひるむことがない。それも結構男らしいと思うが……などと私は思っちまうのだが。
しかしここでミリーは、母親の出したネット広告でジェイソンと引き合わされたことを知って、ガクゼンとするのだった。でもこれもねー、ジェイソンの言う、きっかけなんて関係ない。こうして出会ってお互い恋に落ちたんだから、という台詞の方がそうだよねと思わせるし、このことでジェイソンを毛嫌いするミリーもどうかと思うのだが……。

ケータリングパーティーの時、母親の好みの水玉のワンピースを着せられたことも、ミリーだという目印にするためだったと気付き、「あの水玉、似合ってたよ」と戸惑うように言うジェイソンに、「ママにアタックすれば?」と逆ギレ。彼の部屋で焼いていたスフレも失敗し「今まで一度もスフレの焼き加減を失敗したことなんてなかったのに……」とうなだれる。ちなみにジョニーの家では見事なタイミングでふっくらとスフレが焼きあがっていた。
で、捨て台詞は、「あの最初の料理は最悪だった。部下はあなたの陰口を叩いていたし、私が泣きたい時に笑うし。決めてもらうのはラクだけど、何も考えない女がいいの?」なんかジェイソン、カワイソ……。

で、まあミリーの二股をどうしても許せなかったジョニーなんだけど……つーか、やはりこれは男の最も気になるところ、「あの男とも寝てたのか!」ってヤツだったらしいんだけどね。それに対してミリーは何も言えない訳で……。
で、ダフネはなんたってジェイソンの方がお気に入りだったから、ミリーの抵抗に、あなたはまだまだ判ってないのよ、私の言うことは絶対なんだから!という口癖を繰り返すばかりだったんだけど、娘から、それも娘三人共から干渉への困惑を示されて、もうダダッコみたいに爆発しちゃって、「娘が崖の上に立っていると判ってて、笑って手を振るの?そんなことできない!」と声を荒げて……で、喉頭炎になっちゃったわけなんだけどさ。
でもね、そんな母親を、誰が看病するの?今度はじゃあジャンケンで……なんていう娘たち、このお母さん、幸せだよね。しかもミリーが出そうとしているチョキを、彼女の背後から姉二人にバラしたりしてさあ、オチャメなんだから!

まあ、ミリーに関して、そんなに深く掘り下げて考えることもないか。だってこのあたりで、ダフネが恋に落ちるんだもん!
そう、相手はジョニーの父、ジョーである。ミリーとジョニーがデートに行っている間、孫の面倒をみていたジョーは、鍵を無くして家に入れなくなり、困った挙げ句にダフネの家を訪ねたのだった。その時ダフネは娘たちとケンカして興奮した挙げ句に喉頭炎になって声が出なくなり、部屋にこもっている状態だった。
いきなりハンサムなオジサンの登場!ダフネは筆記で彼と会話をかわしているうちに、次の場面ではいきなりソファに二人座って、彼女の大好きなゲーリー・クーパーの映画を観ている。しかもなぜかやけにくっついて隣同士座ってる。

あらららと思ったら、画面ではロマンチックなキスシーンが。ジョーが彼女の方に腕を伸ばしてくる!焦った彼女が身をよじろうとしたら予想に反して、ジョーはサイドテーブルからダフネの筆記ノートを取った。で、そこにサラサラと書いた。
あれ?別に彼が筆記することはないのに……と思っていると、そこに書かれたのは、「今あなたにキスしたいのを必死にガマンしてる」キャアー!
それを読んで、思わずジョーと見つめあう。おおっ、これはキスの雰囲気!と思うも、とりあえず知らないフリをかますダフネだけど、次の瞬間には自分でジョーの頬を引き寄せてキス!
やった、やりやがった!うわーい!と思ったところへ、ミリーとジョニーが仲良くご帰還。焦ってソファからズリ落ちるダフネ。事態を察した二人が思わず破顔一笑するのを、ダフネはなんとかごまかそうとするも、バレバレだって(笑)。あああ、でも、いいトコだったのに!

今まではコブ付きのミュージシャンなんて絶対反対だったダフネだけど、こんな状態になっちゃあ、考え直さないわけにもいかない。それに、いわば自分の撒いたタネなんだし。
ミリーは必死にジョニーに復縁を申し出るも、もう遅い、と冷たいジョニー。ダフネは最後のでしゃばりとばかりに、ジョニーの家でジョーとともに待ち構える。そんなことを気にしていてどうするの!そして、「私の言うことは絶対なんだから!」後ろでジョーがナイスフォロー。「今回ばかりは、彼女が正しい」

ジョニーはミリーの仕事場に急行。ご老人たちを相手にカンタンお一人料理を教えていたミリーにジョニーがかき口説く。
一番グッときたのは、君の、あっちこっち行くけれどもちゃんと筋道が通っているお喋りが好きだ、というトコ。とにかくお喋りで、しかも支離滅裂にお喋りなミリーは、それが男性から敬遠される要因でもあったのだ。
「誰も判ってくれないと思ってた……」とミリーはつぶやく。ハイエナ笑いだって好きだとか言うぐらいしか出来なかったジェイソンとは、やはり一味違ってた。
そしてご老人の前でミリーとキス!ご老人方、お一人料理を教わっているぐらいだから、恐らくお一人になってしまった方々、それが二人に当てられちゃって、手近な相手を捕まえてはキスしちゃう。おいおいおい、そこは女性同士がキスしてないかっ!もういいか、ハッピーならば!

ラストシーンは、結婚パーティー。てっきりジョニーとミリーのかと思いきや、なんとびっくり、一足先にとばかりにジョーとダフネ!しかし式の前にしっかり愛の一戦を交えているお二人。
ようやく皆の前に出てきたと思ったら、浮かれ気味のダフネがウエディングケーキのワゴンによりかかったままズルッといっちゃって、見事なケーキが崖の下に落下!
その下にいた、精神カウンセリングに来ていた悩める男性の頭に直撃!(爆笑!)。カワイソウなこのお人、少しは幸せのおこぼれをもらえたかな。

歌好き、音楽好きという設定のこの母と娘、ミリーを演じる歌手のマンディ・ムーア、そしてダイアン・キートンも二人の姉も、見事なソウルフルな歌声を披露してくれるのも楽しい。そう、楽しいのだ。いやー、楽しかった!★★★★☆


幸福な食卓
2006年 108分 日本 カラー
監督:小松隆志 脚本:長谷川康夫
撮影:喜久村徳章 音楽:小林武史
出演:北乃きい 勝地涼 平岡祐太 さくら 羽場裕一 石田ゆり子

2007/2/8/木 劇場(東銀座 東劇)
なんだか不思議。「紀子の食卓」「酒井家のしあわせ」そしてこの「幸福な食卓」、とまるでしりとりでもするように、こんなタイトルの作品が続いている。
そのどれもが大なり小なり、さまざまな家庭崩壊を描いているんである。
その決着のつけ方は様々だけど、これも不思議と、その中で誰かが死ぬということだけは共通している。
本作だけは、それが家族ではなかった。お父さんが死にそうにはなったけど、死なずにすんだ。でも、他人が死んだ。娘の大好きな人が。ある意味、他人が死ぬことで、家族の喪失をまぬがれた。そんな風にも見えた。
「恋人や友人はなんとかなる。でも家族はそうはいかない」そう指摘したのも、他人だった。

お母さんは家を出て行き、兄は成績優秀だったのに大学に行かずに農業を始め、そして今、お父さんが重要な宣言をしようとしている。
その宣言がされるのは、いつも朝食の席。家族みんなそろって朝ごはんを食べるというルールが決まってた。
それは、それこそ「幸福なルール」のように思える。
でも、お父さんは、そんなひとつひとつの幸せそうに見える決まりごとが気詰まりだったんだろうか。
娘の佐和子は、朝に深刻な宣言をされることで、一日の始まりがブルーになる、とこぼした。
でもそれは、そのルールを決めたお母さんの前では言わなかった。
そして今、お母さんがいない朝食の席で、三度目の家族の重大宣言がなされようとしている。
そんなわけで、お父さんはお父さんを辞める宣言をした。仕事を辞め、しかも大学を受験しようと思う、と。

その宣言を聞いても兄の直ちゃんは「あらら」としか言わないし、後からその話を聞いたお母さんもやっぱり「あらら」としか言わないんである。
いつの頃からか、家族の深刻な事柄が、傷つかないでもすむように、みたいに軽く受け止められている感じがする。
いつの頃からか……?それはハッキリしてる。
佐和子はいつも乾いた風呂場を覗いていた。それがどういう描写なのか、最初のうちは判らなかった。
後に挿入されるお父さんの自殺未遂。手首から血を流して風呂場で倒れているお父さんを呆然と眺めるばかりのお母さん。佐和子の脳裏に焼きついている記憶。
そして、お母さんは家を出て外にアパートを借り、お兄ちゃんは進学校でトップの成績だったのに、大学へ行かずに農業を始めたのだ。
でも、そして……って?なぜ、二人はそんな選択をしたのか、佐和子にはまだ、判ってない。

佐和子だけが、この中で奇跡的な程、まっとうに育っているんである。
いや、というのもヘンか。この家族は外見で言えば、別に誰一人奇妙じゃないんだもの。お父さんはちょっと気弱そうだけど世にいる普通のお父さんだし(演じる羽場裕一は、不安定な目とたたずまいがコワい)、優しくてきれいなお母さんは家を出て行った後も夕食を作りに来たり、佐和子は決まってお母さんのところへお昼を食べに寄ったりするし、家族の関係は今でも密にとれている。お父さんを辞める宣言をした夫と違って、「お母さんはお母さん、辞めてないから」と佐和子を安心させる。
お兄ちゃんは音痴なのを除けばさすが優秀な血なのか、野菜を作らせてもビックリするほどリッパな作物を実らせる。
だから佐和子から「ウチの家族」の話を聞かされる転校生の大浦は、びっくりまなこを隠しきれないのだ。

この大浦君っていうのが、佐和子に輪をかけて素直でイイ子。ちょっと、奇跡的なぐらい。お家は裕福で、親が佐和子の兄の通った西高に受からせたくて、わざわざ彼の卒業した中学に入れるために引っ越してきたという。そんな事情だけを聞くとエリート意識を鼻にかけたイヤなヤツか、冷たいガリベン君なんかを想像するけど(って、私も相当、想像力貧困だけど)、大浦君はまさに天然そのもの。
わざと教科書を忘れたフリして隣の席の佐和子が一緒に見る?と言うと、机の中から教科書を取り出し、「隣のヤツがどういうヤツか、知りたいだろ。これで中原のことが判った」とニッコリ。佐和子をイイ奴、と認めると、友達宣言して、お前には負けないぞー!って大ハリキリなんである。
ちょっと意外だったのが、この大浦君を演じる勝地涼。今までどの映画で見ても凡庸な感じしかしなくてピンと来なかったけど、こういう役がハマるとは驚きである。かなり年齢にムリがあるけど、案外こういうちょっとバカ入ってる素直な役が似合ってカワイイ。

一方の佐和子役、ヒロインの北乃きいは、「あなたみたいなお嬢さんで良かった」という観点から選ばれたんじゃないかと思うような女の子(この台詞は、後述ね)。
順撮りかどうかは判らないけど、スロースターターなのか、味を出してくるのはクライマックスも過ぎてから、という感じ。それまではどうもピンときてなかった。誰かと会話している時なんか、手はだらんと下がりっぱなしだし。

このムリヤリな友達宣言に気圧される形ではあるものの、希望する進学先も一緒だし、こちらこそまさにイイ奴である大浦君と佐和子は自然、仲良くなる。
それまでは塾に行っていなかった佐和子は、大浦君と同じ塾に通い始めた。
携帯を持たず、自転車で通ってくる佐和子に、大浦君は目を丸くして言う。「中原って、かわいそうな子なの?」ええっ!?なんで!?と思ったら……うわっ、お車でお迎えが来てるう!
「大浦君って、発想が貧困だよね。自転車なんて普通だよ。携帯なんか持たなくたって、話したければ会って話せばいいじゃん、それとそのバッグ(どー見てもアタッシュケース!)すごくヘンだよ」
バッサリ斬って捨て、自転車を駆って去って行く佐和子に、更に目を丸くする大浦君。
大浦君は佐和子に、父は仕事ばかり、母は自分の成績ばかり、弟はクワガタに夢中、と言って「うちって、家庭崩壊してるんだ」なんて言ってた。でもそうなら、お家からのお迎えの車に素直に乗ったりせんだろう。全然そんなんじゃないんじゃないの。お父さんはまあ判んないけど、彼が死んだ後に出てくるお母さんと弟を見れば、彼がこんな風に素直に育ったことがよく判るもの。

うっ、そうなの……大浦君は中盤になって死んでしまうのだ。
それにしてもね、佐和子にしても大浦君にしても、家庭崩壊の話には信じられないほど素直でいい子。後に大浦君てば、電動自転車を「買ってもらったんだ!」って満面の笑顔。小学生かよ!
でも、確かに今までの家庭崩壊のドラマでは、決まって子供が大人にとって理解不能で曲がってっちゃってたけど、全ての子供がそう出来るわけじゃない。家族に納得がいかなくても、佐和子みたいに「そうなんだ……」と受け入れてしまって、自分の中でどう処理していいか判らなくなる子もいるに違いない。
そう、家庭崩壊の家庭の子供が、みんな家族を憎んでいるわけじゃないんだ。憎めないから悩む。自分がどうしたらいいのかって。憎めるなら、話はカンタン。見限ってしまえばいいんだもの。
そういう意味で、これは案外リアルな子供像なのかもしれないんである。

お兄ちゃんの直ちゃんに、新しい恋人が出来た。小林ヨシ子。いかにもハデではすっぱで、だけど持参するお土産がサラダ油だの海苔だのという、夕食に貢献するようなものばかりの、これまたちょっと変わった女である。
演じるさくら嬢、映画に出ているのを見るのは初めてだけど、そのちょっとエロな顔つきをイジワルそうに引き締めると、なかなかにスクリーンによく映えるんである。
彼女もまた、不器用な人。実は彼女こそが、佐和子に「恋人や友人はなんとかなる。でも家族はそうはいかない」と進言した人であった。そう、大浦君が死んで(だから後述だってば)落ち込んでいた佐和子にね……。

お母さんがお父さんの自殺未遂を機に家を出て行った、みたいな位置づけなんだけど「お父さんの自殺未遂を見つけて呆然としているお母さん」だけじゃ、彼女が出て行った理由としては今ひとつ了解しきれなかった。
ずっと側にいたのに、お父さんのこと、判っていなかった?
お父さんの自殺に至るまでの不安も、兄の不安も実はよく判んない。解説では判ってるでしょ、みたいに書かれてるけど。
父親が自殺未遂した時、自分もそうなるんじゃないかって、お兄ちゃんは恐れた。自分の中でどんどんズレが生じてくる。小さい頃はそのズレをカンタンに直せたけれど、中学、高校とズレが段々ひどくなってくる。そしてもうどうしようもなくなって、自分は死ぬんだな、と思った。
彼は、死にそこなったお父さんの遺書を大切に持っている。
「この遺書に長生きの秘訣が書いてあるんだ。だから俺はハタチになっても生きている」
その長生きの秘訣、とは、“真剣になることを排除すれば、こんなにも生きることに困難にならなかったかもしれない”という記述だった。

つまり、いい家庭を作ろうとしてお母さんが決まりごとだらけにした、それに息がつまったみたいにね。
でも、それは観ててもあんまり判んなかったなあ……。確かにお父さんが「一度やってみたかったんだ」と言って、ごはんにお味噌汁をかけるのを子供二人が驚いた様子で見る場面なぞは用意されている。そんなことに驚いた顔を見せるっていうことこそが、確かにオドロキで、そんなことさえ出来なかったのならさぞかし窮屈だったろうなあとは思われるけど、でも言ってしまえばそれだけ、示されるのはたったそれだけなんだもの。
お母さんは「距離を置いているから、判ることもある」と、今の状況のメリットを佐和子に説明するけれど、彼女はイマイチ了解出来ない。私もまた、ちょっと了解出来かねてしまう。

でもその台詞は、ヨシ子が佐和子に言った台詞と重なるんだよね。
「お兄ちゃんが大好きなんだろうけど、直君て、凄くいいかげんでずるいよ。ずっとべったりいるから気づかないんじゃないの。それが判りやすい分、私の方がマシだと思うけど」
この人も、不器用な人。だってこの台詞で、彼とは似た者同士、だから彼のことが理解できるんだ、好きなんだって言っているようなもんだもん。
それを感じとったから、佐和子はお兄ちゃんに、彼女に本気でアタックしたらと言ったんじゃないの。
「他人でしか救えないことって、あると思う。小林ヨシ子(フルネーム呼び捨てが妹っぽくてカワイイ)はきっとお兄ちゃんを救うよ」
確かに他人でしか救えないことがある。思いがけず、佐和子こそがヨシ子に救われたのだ。

小林ヨシ子は複数の恋人を持ったり、かなりトンでもないヤツなんだけど、本当の相手を見つけるためにそうしてるんじゃないかっていう不器用さが、同じ女である妹には見せてて、憎めないんだよね。
ある日、家の前に立っている。何ごとかと問う佐和子に、「アンタの家の研究。今度は直君の部屋の研究するから、案内して」とズカズカと入り込む。彼の机の上にツーショットの写真がおいてある。「こんなブスな私を毎日見ているなんて耐えられない。私が描く」
後に見事なセルフスケッチが飾られているんである。小林ヨシ子、一体何者!?
しかも持参するのは、「皮がカリッとしているのもいいけど、こういう、一体となってしっとりしているシュークリームが好みなんだよな」というシュークリーム。しかも手作り!5個中4個に卵の殻が入ってる。しかもお兄ちゃんの育てている鶏の卵!
実は、シュークリームが好物なのは佐和子。彼女のために小林ヨシ子は手作りして持ってきてくれるのよ。「これ、全部あんたが食べていいよ」なんてさ。
「今こんなこと言うの、最悪だって判ってる。でも友達も恋人も、なんとかなる。でも家族はそうはいかない。あんたはもっと家族に甘えていいと思う。家族はそう簡単になくならないから」
ぶっきらぼうで、あつかましい、決して自分を上手く見せられない不器用な人。

ううー。あまりにも哀しいから、大浦君が死んだ場面に行きたくないのさ。だって二人はあまりにも甘酸っぱい時を過ごしているんだもの。
二人、希望の高校に入学がかなって、別々のクラスにはなっちゃったけど、お昼を一緒したり、それぞれクラス委員になったりして、相変わらず仲の良い友達関係を続けてる。
いや、友達関係は、壊れた。だって神社で、ファーストキスしちゃったから(キャー!)。
彼はおみくじを引き、「恋愛 あきらめなさい」の結果に悄然とする。お正月でもないのにおみくじなんて引くからだよ、とからかう佐和子に、彼はしれっと言う。「中原の気持ちを聞く前に、神様に聞いておこうと思って」
オイー!それって告白する前に告白しているのと同じだろー!相変わらず天然なヤツだな、もう!
かくしてお互いの気持ちを確かめあい、大浦君は佐和子に「中原、キスしていい?」と聞く。
佐和子は呆れて、「どうしてそんなこと聞くのよ」と返すと、「だって、俺とお前って身長差があるだろ。このスパンの間に逃げられたりしたらショックだし、確認しておこうと思って……」……バッ、バカ!!バカだけど……なんて愛しい男の子なんだろう!
「逃げるわけないでしょ」もはやお姉さん気分で彼をリードし、目をつぶる佐和子。これが幸せの絶頂だったのに……。

大浦君は新聞配達のバイトを始める。「汗流して働いて稼いだ金で買ったプレゼントの方が、中原は感激するだろ。マックとかも考えたけど、中原はそういうチャラチャラしたの、キライだろ」
もうね、全てが佐和子の価値観優先なの。それがとても嬉しそうなの。これがもうほんの、2、3年大人になってしまったら、そのギャップに苦しむことになるんじゃないかと思うんだけど、いや、やはり大浦君だからこそかな。彼女の価値観で自分が生きるのが嬉しくて仕方ないって感じなんだもん。
「24日に、塾の前で会おう。それまでは、会わない!」「どうして塾の前なの?」「俺たちが一番一緒にいた思い出の場所だろ!」
なんてカワイイことを言うのだ……。
でも、思い出の場所って、まるで自分の運命を予期していたみたい。だって16歳で思い出の場所だなんて、早すぎるもの。ただマセているやっちゃ、と言えれば良かったのに。

小さな駅のホームで甘酸っぱい未来を語ってた大浦君。二人で迎える初めてのクリスマスにハイテンションだった。「俺も中原も絶対に長生きするから、あと80回は出来るな」なんてカワイイこと言うの……。
記念すべき第一回のクリスマスになるはずだった。人生はいつでもそうだけど、楽しみにシュミレーションしていることほど、その通りには絶対にいかない。
でも、こんな最悪の形で訪れるなんて、あんまりだよ……。
ベンチに荷物を忘れた佐和子は、大浦君と一緒に電車に乗ることが出来なかった。それが、彼と至近距離でマトモに話した最後だった。
あの時、列車の窓から大浦君は佐和子に向かって何て言っていたの?

佐和子は、毎朝自分の家にも新聞を届けに来る大浦君を、早起きして窓から見つめているんである。
……なんてカワイイことをするんだ……。
寒さのために曇った窓ガラスを、大浦君が見えるようにふきふきして、自転車で坂を懸命に登ってくる彼に笑みをこぼす。
佐和子もまた、彼のためにマフラーを編んでいた。手編みのマフラー!なんて古典的で心ときめくアイテム!こんなの、今でも通用するの!?
ひと目ひと目、彼を思って編むのが幸せでたまらなかった。
そして約束のクリスマスイブの朝、いつも二階の窓から眺めているだけだった佐和子は、配達に来た大浦君に声をかけた。驚いたように顔をあげる大浦君。久しぶりの対面。
まるでロミオとジュリエットのよう……それは二階と階下というだけじゃなくて、彼が死んでしまうのが……予告編で予測できちゃったのもあって、判ってたから。
「頑張ってね」「おう!」彼がキコキコ自転車をこいで坂の向こうに消えて行ったのを見届けて、佐和子は「おう」と繰り返す。彼の前では決して聞かせなかった、秘密のハイタッチ。

雨が降っている。もうそれだけで判っちゃう。大浦君は、死んでしまった。
自分のクリスマスプレゼントを買うために頑張っていたバイト中に、死んだ。佐和子がその自責の念に駆られている感じがちょっと薄かったけど……。

中学の時、給食のサバの味噌煮が食べられなかった時も、高校に入って、合唱の練習に皆が協力してくれなかった時も、いつもいつも助けてくれた。それも常にニコニコして、サバだって本当はキライなのに、合唱の練習だって、佐和子に女の子の弱みをクラスの男子に見せて協力させるなんてカレシとしては本意じゃなかっただろうに、佐和子のために、いつもいつも、尽力してくれた。しかも、嬉しそうに。
「知らないところで、中原はいろいろ守られてるんだよ」その台詞を言った時も、大浦君は嬉しそうだった。
それは、彼が死んでからも続く。彼の弟もまた、彼女の気持ちが折れそうになるのを救ってくれる。
しかし、クワガタに夢中だったということは、小学生?もう充分大きいが……。

大浦君の死にひどくショックを受けた佐和子は、家族が集まった朝食の席でヒドいことを言ってしまう。「自殺に失敗したお父さんが生き残って、死にたくなんてなかった大浦君が死んじゃう。不公平だよ」
そこには、娘を心配した母親も駆けつけていた。しかし何も、言えない。
「……ごめんなさい」とりあえず、佐和子は謝るけれども、彼女の気持ちが皆、判り過ぎるほど判るから……。
お兄ちゃんが、妹を助けるようにやっと口を開く。
「家族には役割があるよね。うちはそれを皆放棄してる。……俺もか」……自爆しちゃった。

佐和子にね、大浦君のお母さんが、彼が用意していたプレゼントを届けてくれるのね。カシミヤと思しき肌触りの良さそうな小豆色のマフラー。佐和子が彼のために編んでいたニットのマフラーと、色がちょっと似ている。
二人ともお互いにマフラーを用意してて、しかもなんだか似た色のっていうのがね……。
そして、入っている手紙が、あまりに初々しくて、あまりに甘酸っぱくて、こんなの成就するはずないってスレた大人が嫉妬気味に思ってしまうぐらい純粋なんだもん。
高校までは何とか一緒に来れたけど、大学は絶対に別々だ、そして就職して俺はOLに言い寄られるかもしれないし、中原も素敵な上司に気に入られるかもしれない。
でも俺たち、絶対一緒にいるよな。そうすると中原は大浦佐和子になるわけだから、いつまでも大浦君、中原、じゃおかしい。だから今日から俺は、中原を佐和子と呼ぶことにする。
カクカクと力の入った文字で書かれた、この、あまりにも青い手紙!
今の高校生でこんな初々しいこと、書くかな……いや書いてほしいけど。

佐和子は、彼の仏前にマフラーを届けるつもりで大浦君の家を訪ねる。
彼のお母さんは、落ち着いてて柔らかそうな、いいお母さん。親子の場面は出てこずとも、大浦君のような息子が出来上がるんだから、判る。
お母さん、このマフラーは使ってもらった方がいい、下の息子にあげてもいいかしら、と佐和子の返事も聞かずに渡しちゃう。佐和子はこの時点で「長すぎるよね」と言ったりして、イマイチ納得できていない様子だったんだけど……。
そう、そのマフラーの長さが大浦君への思い。あるいは昔の少女マンガみたいに、二人一緒にぐるぐる巻きすることを想定していたのかもしれない。

しかし、そんなフクザツな佐和子の心を見透かしたわけでもないんだろうけど、この弟君が外まで佐和子を追っかけてくるのだ。
母親からマフラーをかけられた時は、状況も判らず、呆然とした面持ちだったけど、今、彼はお兄ちゃんのカノジョだった佐和子に真剣な目をしてこう言うんである。
「僕、大きくなるから」
うおっ!な、なんて青いのじゃ!くわー!
「そっか」佐和子はニッコリと微笑み、地面に着きそうなほど長いマフラーを、もうひと巻き巻いてやる。
すると、雪が降ってくる。天を仰ぐ。ニットのマフラーが、殊更に暖かに感じられる。ちょっとグッと来たなあ。

そして、佐和子は食卓につき、こう言った。
「お父さんが自殺に失敗してくれて良かった。もしお父さんが死んじゃってたら、私まだ16なのに、二回もこんな目に遭わなきゃいけなかった」
「そうか……」娘を包み込むように微笑むお父さん。

お父さんを辞めると宣言しても、子供たちはお父さんと呼ぶしかないし(ひろしさんと呼ぼうとしたけど(笑))、結局お父さんは大学受験をやめ(諦め、ではなく)、バイトだった予備校の講師から「楽しくなったから」と正社員へと昇格するんである。
完璧だと思える道筋にも落とし穴はあって、その人にとっての本当の幸せは、案外とても意外なところにあったりするんだよね。
幸せなシュミレーションが決して叶わないのと同じように、人間には予期せぬ幸福が用意されているものなのだ。
神様は、案外考えてくれているんだと思うよ。

夏服のセーラー服のまぶしさ、しんしんと降ってくる雪、早朝、曇った窓ガラスから彼を眺めるときめき、久しぶりに、四季の移り変わりが美しい映画だった。★★★☆☆


コースト・ガード/COAST GUARD/湾岸線/
2002年 94分 韓国 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:ペク・ドンヒョン 音楽:チャン・ヨンギュ
出演:チャン・ドンゴン/キム・ジョンハク/パク・チア/ユ・ヘジン/キム・テウ

2007/3/2/金 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト/キム・ギドク監督特集)
朝鮮半島の境界線を守る兵士たち、そのタイトルからも、ウッカリ社会派路線に行きそう、というか、連想しそうなところを、さすがはキム・ギドク監督、そうはさせないんである。
というか、この監督が社会派を描くということ自体、いわゆる商業映画を目指さないことがハッキリとしている今、考えられないことだけど、この頃は多分、判んなかっただろうからさ。
まあ、私はこのタイトルの意味も判らずに、ただギドク監督作品を制覇したくて足を運んだんだけど。

というか、ギドク作品としか意識してなかったんで、あんな濃い顔のチャン・ドンゴンに全く気づかず観ていた私って一体……。
まあそれだけ、監督の創作力の凄さが、彼のイッてる演技を上回っているということなのかもしれないが。
当時既にトップスターだった彼が、破格の低いギャラでギドク作品に出たって話、そーいやー聞いたことある。更にそーいやー、こういうタイトルだった……我ながらなんとテキトーな記憶だ。
ギドク作品に、こんなネームバリューの人が出るって、後にも先(は判らないけど)にもないもんね。彼の才能にホレこんで自ら出演を志願したチャン・ドンゴン。ちょっと、見直す。って、何様よ、私。

どうしてこれ、日本で正式公開されなかったんだろ。その前作の「魚と寝る女」がギドク監督作品としての初公開で監督自身も認知され、チャン・ドンゴンも、日本でもう有名だったよね?
まあ、てなことはどうでもいいのだが……このタイトルが示す、社会的、政治的意味を持つ境界線。しかし、その境界線のあっち側がなんら関わってこず、結局はそれが理由ともならず、境界線のこっちがわの、軍隊内の身内の恥みたいな、そして極めて個人的な内面、人間そのものの内面へと深く深く掘り下げられていく。
コースト・ガードというタイトルと、そこを舞台にした物語だからこそ、その対象が皮肉なほどにハッキリしていて、このコースト・ガードが大義名分だということを、まったく別の角度から示しているようにさえ思える。

カン上等兵は、とにかく気合いが入りまくっていた。それは仲間や上官がちょっと呆れるぐらいのギラギラっぷりだった。訓練の時には芝居でもすんのかというぐらい顔中にスミを塗りたくり、「敵の頭を先に撃ちぬく」と言って、ヘルメットもかぶらずにいた。ただ単に目立ちたがり屋じゃないの、コイツというような印象さえ受けた。
北から侵入してくるスパイを殺せば名誉除隊、そして多額の賞金。でも彼はそれを狙っているというよりは、敵を殺すカタルシスを狙っているような感じだった。
お気楽に昼から酒を飲んでいる海辺の住人に、その気合いの入ったカッコをからかわれてケンカになって、境界線に入ってきたらブッ殺す、なんて凄んでたけど、人を殺すという本当の恐ろしさを彼は、判ってなかった。彼が撃ったのが本当に北からのスパイだったら、それを知らずに済んだのだろうか……。

ただでさえどんぐりまなこのチャン・ドンゴン(と、観ている時には判ってない私。ただキケンな兄ちゃんとしか思ってない……)、スパイを殺す話をする時、住人にガン飛ばす時、くわっとムイた目が、イッちゃってる。
と、確かにそう感じたんだけど、この時はまだ、オタクな目のイキ方に過ぎず、人間が本当にイッちゃった目というのは、こんなものじゃなかったのだ。
この後、彼は、もっと遥か遠くまでイッてしまう。帰って来れない場所まで、狂ってしまう。
そうだよね、この時カン上等兵は、ミリタリーオタクに過ぎなかった。草むらの中に潜み、リフティング遊び(というより、あれは蹴鞠のような感じ。韓国伝統の遊び方かな)から外れたボールを取りに来た仲間に銃を突きつけて驚かして、「お前はもう死んでいる」なんて。
あれ、字幕から即座に「北斗の拳」を想像したけど、本当にそうじゃないの?観客も思わず笑っちゃってたしなあ。そんなお気楽なオタク気分が入っていたような気がする。

カン上等兵はいつも、夜の警備に気合いが入りまくっていた。持ち場を離れ、海の向こうから来るスパイを待ち焦がれていた。
でも、本当に来ると思ってたんだろうか。確かに、彼の顔は怖いほど真剣だったけど、何か、ホントのホントには判ってなかったような気がして仕方がない。
「北からのスパイは、昔はこっそりと入ってきた。でも今は、堂々と入ってきて、こっちの首をかき切る」軍では彼らにそう厳しく説いてはいたけれど、一体、どれだけの人間が、だから視界に入った人間は即座に撃つんだ、と解釈しただろうか。
それは、危機感がないということなのかもしれない。彼は先んじて撃った。民間人かもしれないと考えもせずに、撃った。
それが本当にスパイだったら、彼は殺されていたかもしれない。でも、彼は本当に、そこまでの覚悟があって撃ったのか?
頭の中だけでシュミレーションしていた“敵”が侵入してきたことで、怯えただけなのではないか?
あれだけ、スパイを撃ち取るんだと言っておきながら、本当の本当は、それが本当に現われるとは思ってなかったんじゃないか?

夜に海岸線に出てきた人間は、無差別に撃つ。それが基本、タテマエ。実際、民間人が撃たれている。だから地元の人間は、カン上等兵をからかうぐらいなお気楽さを持ってはいても、その怖さを知ってるし、ルールを守ってる。
でも、本当に民間人を撃ってしまえば、当然、軍隊は叩かれる。どんなに適切な処置だと言っても、住民たちは許しちゃおかない。だけど、それも結局は一時なのだ。結局、軍と住人は共存せざるをえない。なんという皮肉。
軍隊もまた、適切な処置だったと言いつつも、そしてタテマエは、境界線に入ってきた人間は無差別に撃つと言っても、よく確かめもせずに撃ってしまったカン上等兵に対して、やっぱりコイツ、イキすぎなんだよ、という目線がハッキリと感じとれる。これもまたなんという皮肉だろう。

しかしこのシーンはね……後々の展開にまでカン上等兵、被害者の恋人、軍内部、そして何より観客である私たちに大きなトラウマを残すために手を抜いてはいけないとは判ってるけど……うう、思い出したくない。バカ、カン上等兵、なんであそこまでやるのよお。
彼の目から見えていたのは、男の尻。下の女は見えていないにしたって、ピストン運動してんだから、判るだろ……。
つまり、彼は、普段から凄いマッチョなこと言ってるけど、結局はマトモに判ってなくて、この事態に本気でビビってたってことだよね。まあ、ケンカの時あれほど脅しつけたんだから、住民が入ってくるなんて思ってなかったのかもしれないけど。
いや、この時の彼の頭には、そんな判断力もなかったに違いない。北のスパイだということさえ、この時の頭からは飛んでいたかもしれない。ただ、恐怖、それだけ。

カン上等兵はこの男、ヨンギルの背中に銃弾を撃ち込む。しかも何度も。
ヨンギルの下にいたミヨンは、彼の血を浴びて悲鳴を上げる。
ヨンギルは死にもの狂いで海岸へとはいずって逃げようとする。カン上等兵はそれを見て……うう、何も手榴弾まで投げずとも……。
一瞬だけど、血まみれ、脳みそ飛び散り、四方八方千切れまくりの死体が映される。
ウゲッ……。
これは、これはミヨンが狂っても仕方ないよなあ……。

でもいくら酔った勢いとはいえ、ヨンギルを境界線内に引き入れ、しかもそこでセックスまでした彼女もどうかと思うけど……。
ヨンギルの方は、そんな彼女に正気か、と怯えてたくらいだし、つまりそれが、常識的に考えていかにトンでもないことかってことなんだよね。そりゃそうだよな……。
しかし酔ったミヨンは、それさえも恋人同士の駆け引きとしか思ってなかったんだろうか。「怖いの?私を本当に愛しているなら、ここで抱いて」なんて言って、こんな事態になってしまった。そんな言葉にヤラれちゃう男も男だけどさあ。

カン上等兵は、休暇をもらった。ヨンギルの母親、そしてミヨンの兄からなじられ、殴られ、海岸の住人たちは騒ぎたて、心身ともに疲れていた。うん、この時はまだ、疲れているって程度だったんだよね。
しかし、ヨンギルの母親は、いかにもポジティブな韓国のオンマという感じ。泣き崩れるというより、泣き叫んだ上にもんのすごい攻撃的、暴力的。日本の母親の描写じゃ、泣き崩れるトコでへたりこんじゃうだろうな。しかも、こんな状況なのに、まあ家からそのまま出てきたんだろうけど、やけにハデな部屋着を着てるし、このあたりも監督のネライなんだろうなあ。
実際、そんな肉親の苦しみを殊更に掘り下げるわけでもない。確かにカン上等兵は、殺した相手の肉親や地元の住民に罵倒されることにショックは受けてるけど、彼が本当にショックを受けているのはそういうトコじゃなくて、自分が思い描いていたカッコイイことが、実はリアルなことじゃなかったってことに気づいたことなんじゃないかと思うんだ。

それは、民間人だから、だったのだろうか。休暇の後、隊に復帰したカン上等兵は、後輩からカルい感じでその時のことを聞かれる。「ベトナムでは敵兵を殺すことが快感になっていくといいましたから」としたり顔で言われた彼、激昂してコイツをブチのめす。
殺してしまったのが民間人だったこと、しかも手榴弾であんなに無残に殺してしまったことは、ひょっとしたら……なんか言い様が悪いけど、良かったのかもしれない。ああ、そんなことを言ってしまったら語弊ありまくりなんだけど、何て言ったらいいのか。
だってさ、あれがホントに北のスパイだったら、きっと彼はそれにカタルシスを感じただろう。そしてそのまま人生を送っていっただろう。
それ以降は、スパイが入ってこずに一人も殺さずに人生を終えても、殺人者であるということに、罪悪感など感じなかったかもしれない。

でも、そのためには、そんなカン上等兵のためには、更に彼の同胞も、そして街ゆく人でさえ、巻き添えにならなければいけないならば……ホント、なんとも言いようがない。
表面上は常識人の顔を保ちながらも、その心根では曲がった心根を持って一生を終えた方がいいのか。
その間違ったことに心が耐え切れずに、つまり、正しい心持ちを知ったがゆえに、苦しみ、狂い、人を巻き添えにした方がマシなのか。
世間的には前者なのだろうけれど……。

おっと、いつものようにまたしても先走ってしまったけれども。休暇で地元に帰ったカン上等兵、当然のことながら気楽に楽しむことなんて出来っこない。
久しぶりに会った恋人や友達たちはそんな事情など知らず、「休暇がもらえるのは、スパイを仕留めて名誉となった場合と、過って民間人を殺してしまった場合」などと酒を飲んで笑い合う。まさかホントだとは思ってなかったから。
黙りこくっていたカン上等兵は、突如激昂して彼らに殴りかかる。本当のことなど、言えはしない。

カン上等兵の恋人、ソナは、彼の様子がおかしいことを心配する。二人きりになっても甘い言葉など囁いてくれず、一人苦悶の表情を浮かべるばかりの彼に、何があったのか話してほしいと言っても沈黙するばかり。久しぶりに一夜を過ごした後、ベッドの隣から彼女の姿は消えていた。
ソナを追って、なぜ自分から逃げるんだと責め立てるカン上等兵、しかし彼女は泣いて逃げ回るばかり。彼から直接聞いたのか、どこかから聞き出したのか、この描写ではちょっと判然としなかったけど、事実を知った彼女がそれを受け入れ難く、彼から離れていったことだけが判る。
彼が本格的におかしくなったのは、ここからだったのか。でもそれって……つまりはそれまでは、苦悩はしていたけれど、正気は保っていたのに、女に見放されたことで狂うなんて、男の情け無さみたいで、何だか可笑しい。
一方、ヨンギルを目の前で無残に失ったミヨンは、その時からハッキリと狂ってしまった。

ギドク監督は、水や魚のイメージが多いよね。海もよく出てくるし。ここでも舞台自体が海岸だし、ミヨンのお兄ちゃんは、魚の養殖業と思しき商売を営んでる。
その妹、狂ってしまったミヨンは、まだその狂いがフレッシュなうちは、怒りが含まれてる。水槽の中の魚をブチまけ、兄の目の前であられもなく放尿する。
しかし彼女は次第に、無邪気な幼児に戻っていく。魚をヒモで引きずってお散歩したりする。そしてムリヤリの堕胎手術の後、彼女は水槽にその身を沈め、血で水槽が染まり、その中の魚を片っ端から頭からかじり、放り投げるのだ。
……って、私、また先走っちゃったか?あー、つまり彼女、誰のことも知らん赤ちゃんを妊娠しちゃうのだ。

正気を失った彼女は、軍施設の中に何度も入り込んでしまう。何度追い払っても、追い払っても。もはやそれが、日常になってしまった若き軍人たちは、彼女が最も手を出してはいけない女であるということさえ、トンでしまったのか。
彼らとの追いかけっこを、無邪気に楽しんでいるようなミヨン、その無防備さが誘惑になることさえ判っているのかいないのか、その計算のなさに、長らく禁欲生活を送っている彼らは、アッサリ参ってしまう。いやこれが全て計算だったらどうしよう……女は怖いから。
そして、何人もの男とセックスする。その描写は、彼女とヤッた男を見つけ出そうとする場面とともに、コミカルに描かれる。思わずクスリと笑ってしまう。こんなトコで笑っちゃマズいと思うのに、笑ってしまう。

それでも不思議と、女に対しての陵辱感はない。こういうところが、ギドク監督の凄さだと思う。哀しい思いをした狂った女が男に犯されるというのは、映画における定石のひとつで、最上級の憤りと哀しさがあるからこそ定石なのに、なぜかここでは、狂っているはずの、この事態が判っていないはずの彼女が、確信犯的に動いて、あっけらかんと復讐をしているみたいで、胸がすく笑いがおこってしまうのだ。
だからこそ、計算、なのか。計算のなさの中の計算。女の無意識の中の強さ、ずぶとさ、なのか。

妹のデカイ腹に気づいた兄が、怒り心頭で彼女を連れて軍に乗り込む。上官が、犯人に自首するように呼びかける、しかしその上官自体が犯人なんだから、困ったもんなんである。
ミヨン自らが犯人を次々と見つけ出してチュッとやり、その相手がしまったー!という顔をする。不届きモノが一列に並び、それを彼女は実に楽しそうにキャッキャッと笑って眺めてる。
完全にコミカルに描いてて、笑っちゃうのよ。そして彼らを罰するために泥海の中でスパルタ訓練が行なわれるんだけど、それをミヨンったら、自ら旗を持って、楽しそうに先導するんだもの!
兄は怒っている。当然だ。妹が狂ってしまったことだって、この軍隊の中で起こったことだ。そのことで友人も失った。妹をたぶらかした友人だからなのか、そのことは全然怒ってないみたいだけど(それも凄いが)。

しかしなあ、狂ってしまっていたから仕方ないとはいえど、あんなに腹がデカくなるまで妹の妊娠に気づかなかったというのも……。
それを、「こうするより仕方ない。我々も辛いんだ」と、判ったようなことを言って、経験もない軍医にムリヤリ堕胎手術をさせるというのも……。
うう、そうなの、そうなの。これが怖いんだよー!そりゃ、ここでお兄ちゃんが更に激昂するのは至極当然だよ!
でもあんな、ハッキリお腹が目立つ状態になって、堕胎なんて出来るの?あんな屋外で、経験のない医師に、しかも麻酔ナシで!コワすぎる……。
ミヨンの悲鳴が豪雨の中かき消され、そして彼女は、足に血を滴らせながら帰ってきて、水槽の中にその身を沈め、魚たちを頭からかじり出した。

しかし、男たちの愚かさ。恋人の死で気が狂ってしまったミヨンを、誘惑されたとは言え、それで、それっぽっちで平常心がトンじゃって、ヤッちゃったなんて。外出しさえも(多分)せずに。で、彼女は誰の子とも知らない子供を妊娠してしまった。
いつもいつも彼女は、自分の上で撃たれ、波打ち際で切れ切れになって死んでしまった恋人の名を呼んでいた。ヨンギル、ヨンギルと……。
最初のうちは、ヨンギルを探し求めて、顔を挟んで「違う」なんて言って、ちょっとは平常心が残っていたみたいなのに、次第に、ただ男をその手にかき抱くようになった。

カン上等兵はもう手のつけようもないほどに荒れまくって、結局「名誉除隊」を言い渡されてしまう。
しかし、彼はふいと戻ってきた。まるで古巣に激励に来たような彼をウッカリ入れてしまう。しかし傍若無人なふるまいをまたしても繰り返す彼は、「俺は除隊されてなんかいない!」と叫ぶ。その迫力から、後輩たちは彼の言うことを聞いてしまって、その命令に従い、スパルタ訓練を受けてしまう始末。
ミヨンの時には笑えた描写が、カン上等兵の時には笑えないというのも、どっちが是とすべきなのか……ホンット、監督に試されているような気がして仕方がない。

笑えることがポジティブだというわけでは決してない。でも、笑えないカン上等兵の描写の方に、救いのない悲惨さが満ちているのは何故だろう。悲惨さの点でいえば、ミヨンだって最悪に悲惨なのに。
明るい狂気と、暗い狂気の差なんだろうか。
何度追い出しても、除隊されていないと言い張って戻ってくるカン上等兵。鉄網をペンチで切ってまで侵入しようとする。
彼にとっては、軍を除隊されたことが、即座に過ちを思い出させることになるから、だから否定しようとしているんだろうか。
除隊も、あの休暇さえなかったと、全てが起こる前に戻って、また軍人となれたら、そりゃ、彼の人生はリセットするだろうけど、そんなことあり得ないのに。

ついに、精神病院に送られる。しかしそれも途中で逃げ出すカン上等兵。度重なる不始末で上部から再三厳しく注意を受け、頭を抱える上官。彼は、見つからない。
でもどんなに狂っても、一緒に苦労した仲間だと、同輩は彼をかばってしまうんだよね。どこかで、彼の気持ちが判ると思ってしまうせいなのかもしれない。
軍人として讃えられるべき態度で臨んでいたのは、確かに彼だった。日常生活ではそれは狂気だけれど、こと軍隊の中ではカン上等兵こそが正解だったはず。なのに誰もが、国に置いてきた日常を捨てきれなかった。だから悲劇が起きた。そんな気がする。

彼らがリフティング遊びをしている、その地面には朝鮮半島の輪郭が描かれている。北と南の境界線にアバウトな横線が引かれ、チームが別れていた。
ここがコースト・ガードだから、そんな単純な理由にも思え、単純と言うなら、それこそスパイに対してだって、入ってきたボールを蹴り返すのと同じ、単純なことだと言っているようにも思う。
でも、その単純さが恐ろしいのだ。ボールなら蹴ろうが破裂しようがどうってことない。でもそれが、人間なら……いくら北でも、同輩なのだという、劇中では決して触れなかった社会派な視線が、かすかに見えた気がした。

そして、すべてが終わったと思ったラストシーン、カン上等兵は、突如ソウルの街中に姿を表わす。
まるで、非日常。白昼夢のよう。明るい昼日中の、人ごみ。突然キビキビと銃剣をふりまわす彼に、パフォーマンスかと人々が輪を作って見守っている。明るく、笑いながら。
しかしその笑いは、途端に悲鳴に変わる。キビキビとした動作のまま、彼は人ごみの中の一人の青年の腹を、その銃剣で突いたのだ。
まさに白昼の惨劇。この都会の人ごみは、あの寂しい海岸線の狂気がウソみたいな、でもこれもまたひとつの狂気に違いない。その狂気に、全く逆のベクトルの狂気が侵入する奇妙な可笑しさと恐ろしさ。

やはり、ギドク監督は恐ろしい。★★★★☆


国道20号線
2007年 77分 日本 カラー
監督:富田克也 脚本:相澤虎之助 富田克也
撮影:高野貴子 相澤虎之助 音楽:
出演:伊藤仁 りみ 鷹野毅 村田進二 西村正秀 田中哲也 平沢絵里子 渡邊利己 藤沢一雅 久保田正仁 久保田公男 松本茂 中込明彦 松本寿徳 近藤寛 古屋暁美 中盾純 池田記代子

2007/11/13/火 劇場(渋谷UPLINK X)
本当に事件が起きるのは地方だと、誰かが言っていたのを思い出した。空虚な何かが彼らを狂わせる。
特に明確に示されるわけじゃないけど、甲府のどこかの物語。ヒサシはジュンコと同棲してる。同棲?そんな甘い響きが彼らの間にあるんだろうか。
二人は特に仕事につくというわけでもなく、時々パチンコで稼いだりしてダラダラしてる。ジュンコは時々ホステスに出かけたりはするけれど。
ヒサシは幼なじみの小澤に誘われてゴルフセットを売り始めた。売り始めた?実際彼がゴルフセットを首尾よく売った場面はあっただろうか。絶対にヤバイ橋なのに、彼はそれがちっとも判っている風じゃない。

全てが中途半端に過ぎ行きながら、ただただだだっぴろい国道だけがどこかへ向かって真っ直ぐに伸びている。これに乗ってどこまでも行けば、この中途半端から抜け出せるかもしれないのに、彼らは決してそうしない。お互いにぶつぶつ文句を言いながらも、最後の最後、“事件”が起こるまで、そんなことは頭にものぼらないのだ。
それは、ここがちょっと手をのばせば必要なものは手に届く場所だったからなのか。
まるで、籠の中でエサを与えられている鳥みたいに。

なんか台詞が聞き取れなくて、それは甲府弁と思しき言葉だからなんだけど、それも最初だけなのかなと思ったら結構ずっとそうで、でも途中から、恐らくそれは承知の上でやっているんだと思えてきた。おもねる必要はないのだ、何に対しても。
でも彼らの言葉にはいわゆる標準語とされるものも混じっていて、人によっては完全に訛りのない人や、チョーだのウザイだのと言ってる場面もあるし、なんだかそれが、それ自体が、段々と彼らの悲しさを物語っているような気もしてきた。
地方というより、郊外。だだっぴろくて、でも必要なものはある。車を走らせればパチンコ屋もコンビニもファミレスもカラオケもなんでもある。あくまで車を走らせれば。そして、“必要なもの”は、彼らにとってその程度。

そのだだっ広い中に人は点在しているだけだし、人間関係もすごく狭いから、彼らはお互いに対してある意味気兼ねがなさ過ぎる。主人公カップル、ヒサシとジュンコの、特にヒサシの方はファッションセンスはサイアクだし。一体あんなデレデレの恐ろしい模様の上下ブルゾン?、どこで買ってくるんだろ。
ジュンコの方は、まだ他人と会う時は気張ったカッコをしているからマシかもしれない。でも彼といる時は、こっちもお世辞にもセンスがいいとはいえない白いスウェットの上下と安っぽいサンダルを引っかけてる。彼と一緒の時はパチンコ屋ぐらいにはそのカッコで出かけちゃう。股広げてヤンキー座りもしちゃう。当然、スッピンだし。
なんかそれが……恋人だから気を許しているというより、彼に対するあまりの気兼ねのなさが、何にも未来がないこととイコールのような気がして、見てられないのだ。

恋人のトキメキは最早なく(というか、最初からあったかどうかさえアヤしいが)あるいは長年付き合った信頼さえ、ない。二人は定職を持たず、新装開店のパチンコ屋でいかに稼ぐかしか考えてない。その先など考える訳もない。それどころか、子供を持って落ち着いたヤンママ連中に対して、勝ち誇っているウザさに唾棄せん勢いなんである。
いや、そんなことを意識しているのは彼女の方、そして女の子たちの方だけだ。女の子たちだけで集まる時は、メイクもカッコもビシッとしてる。一応、友達の筈なのに、気安い口も叩くのに、そこには気兼ねなどというものはなく、ヘンに緊張感が張り詰めている。口では結婚組に対してののしりながらも、心の底ではうらやましがっているのはアリアリ。

それは、彼女たちが恋愛なしでは生きていけず、そのゴールに結婚があったらと、やっぱり考えずにはいられないからなのか。
それが証拠に、ひとしきりののしった後、恋人との危機話を持ち出した女の子に「あんた、また?」と一方の女の子がウンザリする場面で判るのだ。本当に結婚組がウザイと思うのなら、恋愛自体がウザイと思わなければ、ウソだもの。
今それがウザイと思うのは、結婚によって発生する子供や社会への束縛を考えるからだけれど、その点、やはり女は、現実的ってことなのかもしれない。

だからやはり、男は幼稚でバカだってことだってば。私もひどい言い様するけどさ。だってね、女の方が寿命が長いって、別に女がそう望んだわけじゃないよ。長く生きるってことは、それだけ生きることへの不安を抱えるってことなんだと思うもの。
だから男は女より、人生への不安などに悩まされず、ただ目の前のことに飛びついていればいいのかもしれないと思って、ちょっとはうらやましいのだ。
でもその“目の前のこと”が、彼が常に目の前に据えてきた夢や目標なのか、あるいはただ単に目の前に差し出されたエサだってだけなのか、ってことで事情は大いに変わってくる。

なんかね、車さえあればテキトーに暮らしていけるんじゃないかって錯覚を起こすような、この微妙に狂った地方の郊外だと、こういう男が量産されているんじゃないだろうか。むしろ、人が気持ち悪いほどにひしめき合っている東京のような大都会の方が、まずその人ごみから首を出して息をしようとする努力の分だけ、自力で生きるという意識が働くんじゃないかと思うもの。
地方の、やたら大きな道路ばかりがこさえられた(これが公共事業やら、道路特定財源予算やらってやつなんだろうか)郊外は、ある種独特の荒廃された雰囲気に満ちている。
でも、絶対に、昔はそんなことなかった。私、20年ぶりぐらいに子供の頃を過ごした土地に帰って呆然とした。まさに、ここで描かれているような、ただただだだっぴろく、コンビニやファミレスや消費者金融だけが点在している大きな道路だけで構成されているような白茶けた場所になっていたから。徒歩や自転車さえも、そこから排除されていた。ここにもある狂気が、ジワジワと育てられた結果がそこにあった。

本作では意識的に、消費者金融の看板をそのだだっ広い道路の両側に据え、主人公の男は当然のように多重債務者に落ちている。そこにつけこまれて、「俺のところで借りて、借金キレイにしちゃえよ」というワナをはられ、まんまと「一本化ッスか。いいですね」とバカみたいに(つーか、まんまバカ)ノッちゃうわけでさ。

彼にそんな甘い言葉をかけてきたのは、しかし昔からの知り合い、小澤だった。むしろこういう田舎というのは、それがワナになったりする。
だってコイツ、ヒサシと違って完璧な標準語で通すんだもん。その時点で彼と距離をおいていることは明瞭。なぜそれに、ヒサシが気づかないのかと思うぐらい。
小澤はまあ、ありていに言えば、ヤクザにさえなれない、タチの悪いチンピラ。悪徳業者ってなところ。しかし言ってることと身なりと言葉遣いだけは、妙にキチンとしている。
小澤は、やたら範囲という言葉を使う。お前の範囲で頑張ればいいとか、それがお前の範囲だとか。不思議に知的に聞こえる一方で、ひどく蔑んでいるようにも感じるんである。それによって、彼自身が最初から高いところにいて、お前の範囲に俺はいないんだよ、と言っているみたいに。

でも結局小澤も、この田舎の“範囲”からは逃れられないんだけど、やけに頭が良くて色んなことを知っている一方で……そう、ヒサシがバカだからそれが余計に際立つんだけど、だからこそ、彼はこの郊外の田舎でがんじがらめになっているんだよな。
潰れた会社の在庫品を買い叩いて、通常よりも安い値段で売るゴルフバッグ、多分に胡散臭い匂いはするものの、買い手にとってもソンはない筈だった。だけどヒサシが一個もゴルフバッグを売れなかったように、今の若い人はゴルフなんてやらない。古いのだ。大体ヒサシ自体がゴルフにさして興味もないのに、売れる訳がない。
そして、いわゆる“消費者”は弁護士先生を味方につけて権利を主張してきやがる、と小澤は憎々しげに言うんである。借りたものを返してもらうののどこが悪いんだ、悪いのは向こうだ、こっちはいわばマジメにやっとんじゃと。それをヒサシは彼の苛立ちをまるで解せず、アホ面して聞いているんである。彼が心配なのは、小澤を信じるがままにいつのまにやら膨れ上がりまくった300万の借金のことだけ。

ヒサシはシンナーの常用者。今時シンナー。時代から取り残されている彼の位置を如実に示してる。
しかしシンナーで見る幻想世界に、彼はトリコになってる。ぐるぐると渦巻くその先の世界を、うっとうしいぐらいヤケに熱く語る。シンナーがなくなったのか、黒いスプレー塗料をビニールに噴射してまで吸い、顔が真っ黒になったり。ジュンコにもこの世界を見せてやりたいとばかりに吸わせたり。
そして、昔の思い出話をやけに覚えている切なさ。それをとくとくとして小澤に語って聞かせる。当の小澤はそのことを、全然覚えてないのに……。
未来さえないこの場所で、思い出を語ってどうなるのか、って顔を、小澤はしていた。

どんなにビンボーで、というかビンボーという自覚すら持たずに、街のサラ金を自分の財布のごときに思っているヒサシが、当然のように携帯を駆使しているのがなんか不思議で。300万の借金があっても、携帯は手放さない。私が携帯持たないからかもしれないけど、すっごく不思議に思えたのね。ニュースで家のない日雇いの人たちが、仕事の連絡が入ってくる筈と携帯を手放さないのとはなんか違う気がして……あれもなんだか妙な感覚を覚えるんだけど。
なんか、アナログな考えだと、まず電話なんか真っ先に切られて、電気、ガス、水道、て順番、みたいな。でもホント、それってアナログなんだろうな。今や水自体、小銭を出してコンビニで買う時代。ガスなんて、自炊自体しないし、電気を止められて困るのは、テレビが見られなくなることぐらいかもしれない。

田舎に帰るとホント顕著だなと思ったけど、それを改めてスクリーンで見せられると本当に如実に感じる。あの、消費者金融のカラフルで堂々とした存在感。本来あるべきの、というか、昔はあったような卑屈な奥ゆかしさなどどこにもない。
そう、小澤が言うように、昔は金貸しがこんな堂々となんてしてなかったのだ。信頼第一ナントカローンなどという、うさんくさいケチな金貸しが地方をある意味丸く治めていて、まあつまりは、一見してヤクザだと判る仕組みだし、世の人間たちもここに行ってしまったら身の破滅だということぐらい、判ってた。
でも今や、そこらへんの清潔な銀行と変わらない消費者金融が、悪びれずに信用第一なんて言って、消費者金融だけがズラリと入っているビルが建ち並ぶのが、このいわゆる“地方の郊外”ではやたらに存在感を放つのだ。
大きな道路に、ひゅん、ひゅん、といった程度の感覚で走る車、そこにドーン、ドーンとパチンコ屋やファミレスと同等のあけっぴろげさで消費者金融の看板が現われるんだから、そりゃマヒするのだ。なんか、街中に自分の財布が落ちているような錯覚に囚われる。借金という意識が薄れる。手持ちの金がなくなったら、ちょっと車を出せば財布が落ちている、みたいな。

私、思い出したくなんてないけど、どうしても思い出しちゃうのよ。いや、思い出すどころか、いつも心の片隅に苦く存在している。多重債務者だった同居人のこと。この映画の中に堂々とそびえている、レイクだのアコムだのといった消費者金融からの督促状や電話がバンバン来てた。私は彼女を、私はそうじゃない、というより、そうはなりたくないから、巻き込まれたくないから、切って捨てたのか。連絡先も教えず、教わらず、ただ背を向けて行方をくらました。
怖かった。自分がそうなるのが。それが一番怖かったから、友達だった筈なのに、忠告することさえ出来なかった。いや、そんな甘い考えも、自分の可愛さでこんなにもカンタンに壊れてしまうことに呆然とした。つまり、巻き込まれたくなかったのだ。それどころか、軽蔑の思いさえ否めないくせに、その相手にさえ嫌われたくないと思う私はサイテーだった。
もう思い出したくない、記憶だ。

実際、ヒサシだって、多重債務の時点でかなりな借金があったと思われる。でも、あちこちからちょっとずつだから、自覚がないんだよね。それでも一本化されるというんなら喜び、その時点でカモにされたことにも気づかない。
彼がジュンコに言う口癖は、「これで貸し借りなしだかんな」である。お互いカネのない者同士、相手の財布からカネをパクったり、あの時は私がお金を出したでしょとか、言うことがセコすぎる。つーか、お互いのサイフを自分のサブ財布だとみなしているような、ダレダレの刹那が、なんかミジメで見ていられなくなる。そのミジメさを、彼らがどうやら気づいていないらしいことが、更にミジメさを加速させる。
それでも、ジュンコはさすがに途中で気づく。女の子同士でヤンママをののしっていた場面から、彼女だけ表情が微妙だった。ののしりきれないでいた。いや、その話題を俎上に乗せるだけ、女の子たちは自分にそういう願望があるって、判ってたのだ。

劇中、彼女たちがカラオケに興じる場面がある。ジュンコが歌うのはアムロちゃんの「CAN YOU CELEBRATE?」あまりに直球な選曲だ……。しかもそれはジュンコのオハコ。音の強弱やビブラートを効かそうとしているのか、やたらマイクを下にぐーっと動かすパフォーマンスが、あまりにやたらすぎて気に触る。のは、勿論確信犯。
しかし他の女の子たちは興味なさげに携帯をいじったりしている。まあよく見る光景といえばそうなんだけど、それがなんか凄く、哀しくなるっていうかさ……。
いかにもヤンキーなジュンコが、きちんとしたOL風の女性が散歩させている犬をムリヤリ可愛がるシーンも、やけに印象に残ってる。いつまでも犬をぐりぐりなでまわしているジュンコに、戸惑うというより、明らかにメイワクそうな飼い主の女性。そりゃそうだ……。しかもジュンコはこの女性に、可愛いワンちゃんですねとか、話しかけることさえしないのだ。彼女の顔も見ずに、ただ犬にだけ突進して、彼女の行く手を阻んでいる。なんかそれが、決してこんなプチブルには行けないジュンコの哀しき抵抗のように思えて、見てられなかった。

彼女たちの友情が、どの程度まで機能しているのか。一番ドライにみえたユカリという女の子が、恋愛に依存する他の子をいいかげんにしなよと叱り飛ばしていたその子が、実は薬物依存で一番弱かったことが示される場面がある。
いつまでたっても連絡がなく、彼女の部屋を訪れたジュンコともう一人、そこで眠剤をあおって二日も眠りこけている彼女を発見するんである。
別に自殺という訳ではなかったのかもしれない。ただ眠れなくて、そうしただけなのかもしれない。でも彼女は「セックスなんかしなくても気持ちいい」注射も常用していたし、明らかにアブなかった。
ユカリはもうそれらを見たくない、捨ててもいいから持って帰って、とジュンコに言う。この程度でユカリがここから這い出せるとも思えない。そして、ジュンコたちがユカリを引っ張り上げられるとも思えない。引っ張り上げられるどころか、ジュンコはこの時ユカリから引き上げたクスリによって、地獄に落ちてしまうのだから。

ジュンコはヒサシに、結婚を切り出す。彼はあの“範囲”男に感化されたか、妙にリクツっぽい、しかし全く意味のない言葉を暴力的に吐いてジュンコを退けようとするけれども、彼女の、ある意味感情的な「でも、結婚して子供が出来たあの子ら、凄く落ち着いて、幸せそうじゃん」と泣きそうになりながらの反論が、何の根拠も裏付けもない彼の不遜を打ち砕くのには十分なのだ。
でも、イヤな予感はしてた。ヒサシから、しょーがねーかみたいな感じで結婚を了承されたジュンコが、嬉しくて彼にまとわりついて、彼がそれをひたすらウザがっていた描写が……テレている様子でもなく、ひたすらウザがっていたのが……イヤな予感がしたのだ。

それは思った通りになってしまった。車から降りたヒサシがスコップを手にしていたもんだから、ああ、やっぱり、と思ってしまった。
でもそれは、ゴキゲンになったジュンコがユカリからもらった注射を打ったことが原因だったのか。がくがくと全身を震わせてうつぶせに倒れたまま動かなくなってしまったジュンコ。別にヒサシがジュンコを殺したというわけではないんだろうけど……。
でも、ただ……ちょっとだけ大人になって、未来を見てしまった彼女が、大人も未来も意味がよく判ってなくて、受け入れる度量を持つことが出来なかった彼に、拒絶反応として葬り去られたように見えたのはなぜだったんだろう。
彼女を受け入れるには彼は幼稚すぎたし、彼を受け入れるには、彼女もまたまだまだ未熟だったのだ。セックスが出来る身体になってても、やっぱりその先は、違う。

ラスト、ヒサシは初めて、ちょっとセンスあるカッコで、ラスト、どこともなく走り去ってゆく。あのだだっぴろい道路を、コンビニでもパチンコ屋でも消費者金融でも立ち止まらずに。
ジュンコを、埋めるでもなく、うつぶせに半ケツのまま、放置して。

クラシックな丸いヘルメットをかぶって、バイクにまたがる姿のチラシはまるで、「オートバイ少女」を思わせるノスタルジーも感じたけれど、そのノスタルジーは、時代だけじゃなくあらゆるものから置いていかれた苦いノスタルジーだったのだろうか……。★★★☆☆


呉清源 極みの棋譜/THE GO MASTER/
2006 107分 中国 カラー
監督:ティエン・チュアンチュアン 脚本:アー・チョン
撮影:ウォン・ユー 音楽:チャオ・リー
出演:チャン・チェン/柄本明/シルビア・チャン/伊藤歩/仁科貴/大森南朋/井上堯之/宇津宮雅代/米倉斉加年/野村宏伸/南果歩/松坂慶子

2007/12/9/日 劇場(新宿武蔵野館)
谷啓の軽妙なナレーションの予告編と、そこで見せたチャン・チェンの美しさにつられて足を運ぶ。
最近の予告編、ことにハリウッド以外(爆。だってハリウッド映画は、もう予告編から向こうから入ってくるの使ってるって感じで、リズムとか決まりきってるんだもん)のものは、こんな風に色々工夫してて面白い。「月曜日に乾杯!」なんかはおひょいさんの飄々としたナレーションが寓話的で実に魅力的だったし……実際に見てみると結構シンラツだったりするんだけどね。

えーとだから、そういうことではなくて。だからそう、この作品だって谷啓のナレーションのように軽妙にはいかないのであった。大体、私囲碁って全然判んないし。
将棋も判んないけど、将棋はまだ字が書いてるだけなんか王手とか上がりとか、そういう要素が想像は出来るけど(テキトー)、囲碁ってその盤を見てもほんっとに何が起きてどう勝ってるのか全然判んないんだもの。だからこのタイトルと内容だけでは、とても足を運ぶ気にはなれなかったと思う。
しかしそこで見せた伝説の棋士、呉清源になりきったチャン・チェンの凄みを感じるほどの美しさ、予告編のワンカット、ふと仰いだ横顔、そのワンカットだけで、呆然とするほど美しくて、囲碁が判らなかろうが何だろうが、足を運ぶことに大決定。

とか言いつつ、やっぱり気になるので、オフィシャルサイトからリンクされている囲碁入門のシュミレーションをやってみたりする。ちょっとだけ判ったけど、でもやっぱり難しすぎる……。オセロが100倍難しくなったような。
オセロも連戦連敗の私にはムリだ……。
でもって、囲碁の様々な手やワザをちらちらと目にするたび(よせばいいのに、ついつい気になってウィキペディアなんぞ引いてしまう)どーにも書きにくい感が増しまくる(だからよせばいいのよ、ホントにね)。

そういやあ、私この監督の作品、案外観ていないんだ……チャン・イーモウと並ぶ巨匠と称されているのに。てゆーか、チャン・イーモウ自体、割と苦手印だったかもしれない……。
んで、この主人公、呉清源なんだけど、チャン・チェンが凄絶なほどの美しさで演じているから、なんかもう、夭折した悲劇の棋士とか勝手に思い込んでいたんだけど(なんて失礼な)、全然。今だってちゃーんとご存命だし、何より物語の冒頭、その現在の呉清源のホンモノ(93歳!)がゲスト出演しているんである。
でも確かに、どこかの時点で死んじゃっててもおかしくないような壮絶な人生。まあそりゃ、戦争という時代は誰もをそんな数奇な人生に巻き込みはするけれど、その戦争というものが、囲碁のために中国から日本に渡った彼には普通の人以上に大きな影響を及ぼしたし、結核に体を蝕まれ、心の平安を求めるために信仰した宗教の“現人神”が、彼の純粋さとは程遠い存在だったり、心身ともに多きな流転の渦が彼をゆさぶるのだ。

その中にたゆたっているチャン・チェンはどの場面を切り取っても壮絶に美しく……まるで刹那に生きているように見えるもんだから、夭折なんていう言葉も浮かんでしまうのだ。
でも彼はちゃんと生き抜いたし、愛する妻と宝である子供ももうけたし、囲碁に人生を捧げ、それを極められなくなった時、すっぱりとその道を断った。
彼が辿るかもしれなかった道……彼を中国へと導いた瀬越先生は、囲碁へのモチベーションが高められずに苦しんで、もう80を越えてから自死を選んだ。慕っていた兄弟子、木谷実も、彼より先にこの世を去った。
終わってみれば、呉清源は、最も大変な状況におかれながら、一度は信仰のために囲碁を捨てようとさえ思いながら、現在までたくましく生きぬいた人。現在の呉清源の姿は、そんな荒修行を潜り抜けた高僧のような威厳に満ちている。

彼が信仰に身を投じるくだりが、最も尺を割かれている。つまり、棋士である彼が棋士であることを捨てた期間が、彼にとっての最も大きな出来事だったということ。
しかし、彼が故郷の中国で信じていた紅卍教と、繋がっていると思っていた日本の璽宇(じう)教は著しく違っていた。最も違っていたのは、その権力を握っていた教祖の璽光尊=長岡良子が、信仰よりも、勢力拡大に重きを置いていたこと。それに呉清源は利用されたのだ。それを説く女流棋士の喜多文子を演じる松坂慶子が静謐な美しさ。彼女は大きな母性で呉清源を包み込む。
でも、実際に彼の永きに渡る囲碁人生は、この宗教に没頭した場面を重視したためにかなりはしょられた感は大きいと思う(とか言っちゃうのは、私ってばウィキペディアに頼ってるし)。
でもこれこそが、映画におけるマジックなのだろう。彼の苦悩と美しさを際立たせるための。

少年時代、天才的な棋譜が日本に伝わって、家族と共に日本に呼ばれた呉清源。でも時代が悪かった。何たってあの世界大戦の真っ只中。日本は中国にヒドイことをしたし、蔑んでたし……家族たちはいわれない侮辱に苦しんだ。
呉清源は囲碁の世界に没頭していたから、家族ほどにはその状況を感じることがなかった……というように、映画の展開だけでは見えたけれど、彼にだって相当の辛い思いはあったに違いない。それがなければ、後に宗教に没頭することだってなかったと思うし。
彼は若い頃結核を患っていたから、徴兵されることもなかった。でも身体検査で「本当に君は、あの呉清源なのか?」と検査官に確認され、検査もそこそこに免除されたように……見えてしまった。
実際は勿論「古い肺病を持っているから」だったにしても、なんだかそれに対して呉清源が、いやチャン・チェンが、ひどく哀しそうな顔をしたように見えた。だって彼の周りの親しい人々は次々に戦地へと赴いていくから。「これが呉先生との最後の一局になるだろう」と涙をこぼして。

ま、それはさておくとして……家族は呉清源を残して中国に帰ることとなる。彼が帰らなかったのは、日本人の恋人が出来たから。母親は、「彼女を好きなのね?」と彼に聞く。彼ははにかみながらうなづく。その次のシーンで、美しい神前挙式が描かれる。
この時点で、呉清源は日本への帰化を果たしたということだろうと思う。その前の時点で、国の情勢が不安定になってきて、彼を呼び寄せた瀬越憲作(柄本明が素晴らしく滋味のある演技!)が日本への帰化を勧めるけれど、その時、彼は首を縦には振らなかったから。
しかしこの場面、彼女の国の形式にのっとった挙式を行ったことが、何よりの答え。でもそれは彼女のためとか、戦争で国がどうとかってことじゃないのだ。呉清源はただ、囲碁に人生を捧げた。囲碁に生きたかった。三々九度をとり行う紋付き袴のチャン・チェンは、ひどくストイックに美しい。でも彼の意識は、彼女への愛や故国への思いとは違う、遥かかなたに飛んでいる。

それは別に、嫁さんや生まれ来る赤ちゃんをないがしろにするということではない。そう見えそうになるところをそうしない、させないのが、チャン・チェンの繊細な美しさゆえである。もう、ほんっとに美しいんだもん……。
その前に、囲碁への純粋な思いが高じるが故に、つまりそれが信仰へと転化して、危うく囲碁を捨てそうになる時代が訪れる。というか、ある一時期、実際に彼は囲碁を捨ててしまう。
しかしその“現人神”(南果歩、凄い迫力)が、彼の知名度を利用して自分のテリトリーを強引に広げようとしてるだけだと知ることとなる。
でもこの展開に、もしこの主導者が本当に彼の信仰に応えるほどの素晴らしい人物だったらどうなっていたんだろうとも思ってしまう。いや、囲碁に没頭しきれない彼に……それはこの時代とか国とかいう問題もあったと思うけど……つけこんだからこそ、彼は囲碁より信仰を選ぼうとしたってことなのだろうけど、なんだかそんなことを、ついつい考えてしまうのだ。だって彼の佇まいは本当に、ストイックな修行僧そのものだったから。

でも彼が宗教にのめりこんだのは、奥さんが彼よりものめりこんだからなのか。彼女は璽光尊の正体を見切り、自分のせいで夫を巻き込んでしまったと悔いて一時、彼の前から姿を消す。
その期間がどれぐらいだったのか、映画では明かされはしないけれど、ある日、彼が帰ると彼女が戻っている。二人は久しぶりの再会にしばらくはなんというリアクションも見せず普通にしているんだけど、台所でお茶を入れるためのお湯を沸かしながら泣き出した彼女に気づいて、そっと寄り添い、ひかえめに彼女を抱き締めるシーンが、なんともはや、心に染みるのよね。
しかもその後、彼らの宝である赤ちゃんが出来るのだし!

彼の嫁さんを演じる伊藤歩は、そりゃー、チャン・チェンの嫁さんを演じるには彼女ぐらい精神性の高い女優じゃなきゃムリだわねと思うんである。
彼女はホントに精神の深い部分で、チャン・チェンと渡り合っている、そんな気がする。だって彼のような美しい役者を目の前にしたら、もうただ鼻血ブーだと思われるのに(って、自分を基準にして言うな)、なんたって彼女は、彼を信仰に巻き込むって部分では、ある意味悪の要素も担っているのだし、難しい役どころだと思うのよね。
でも囲碁一辺倒だった彼を、生まれ来る赤ちゃんへの喜びに導き、最終的には彼が子供たちと楽しげにたわむれる場面が心に染みるまでに至るのは、やはりこの奥さんの、伊藤歩の、これまたストイックな演技によるところが大きい。

そうなの、このシーンもグッとくるのだ。だって伏線というか、彼が結核療養所にいた時、やはり同じように楽しげに子供たちと戯れかけるシーンがあるのだけど……それは彼らが旭日旗をかざして、戦勝に浮かれているということを知ると、当然彼はさっと顔色を曇らせ、その群から外れるのだもの。
そのシーンが先に用意されていたから、時代が落ち着きを取り戻し、赤ちゃんが生まれ、彼が見せる幸せそうな笑顔が心に染み入るのだ。

呉清源を呼び寄せた瀬越憲作を演じる柄本明が、実に実に素晴らしくて。物語のラストには、自死を選んだことがクレジットだけで示される人物である。それも、呉清源が電話のベルにふと立って、画面から見切れる。電話の報に、息を呑む、その気配だけで記されるのだ……どこまでもストイック。
呉清源の迷走を親身になって心配してくれた人が、自身の碁の道には果ててしまったことが、その知らせだけで示されるのがひどく悲しく映る。だってその時、呉清源自身が、交通事故にあったことで体内リズムが狂ったのか、勝負に勝てなくなり、棋士としてどうしようかと悩んでいる時期だったんだもの。これからはテレビで後輩たちを指導して、などといった話が来ていた矢先だった。

師匠の死は、呉清源に引き際の難しさを示すことになった。しかも83歳になっての自殺。この年になってもまだ、囲碁界に貢献出来ないことを苦にするなんて……。しかも友人の川端康成が、やはり自殺によってこの世を去った三ヵ月後だった。
呉清源は引退を表明、ホテルオークラでその一席が設けられる。実際彼は、本当に色々あった人生だったけれども、幸せな棋士人生だったのだろうと思う。本当に強い天才は、人生にも最後まで勝ち残る。それを、現在の呉清源の姿に見せられた気がした。

だから、チャン・チェンが演じたのは、ひょっとしたら呉清源の弱い部分をピックアップしたのかもしれないと思うほどなのだ。強さも美しさだけれど、弱さはその強さが育てられるために必ず通らなければならない道程。強い人は弱い部分を潜り抜けてこそ強くなる。
その弱い部分をチャン・チェンは、限りない繊細さと美しさで演じていく。雪が降りしきる中、マフラーを巻き、まんまるい大きな眼鏡の奥の小さな目を細めながら、「私は囲碁を捨てます」と言い放った時のチャン・チェンの美しさは、壮絶なほどだった。
それにこれは監督の視点だからだと思うけれど、日本の景色なのに、まるで中国の水墨画のような美しさで……ことにエノコログサの群生する場所に彼が瞑想にふけりに行く場面は、中国の名僧が何か悟りを得に行く場面としか思えなくて、ああやっぱり、人間の視線というものは、生まれ育った場所の文化によって培われるものなのだなあと思う。

それにしても、瀬越先生、呉清源を自身のふるさとの広島に疎開させようとして、呉清源はその時、なんたって璽宇教に没頭していたからそれを拒否したのだけれど、そう、広島なのだ、先生自身の家族が原爆によって亡くなってしまうという、何たる皮肉。
しかもこの時、先生の奔走で第3期本因坊戦対局中だった。劇中では爆風に飛ばされた後も、対極を続行している場面が用意されている。この時点では、彼らはなんと言っても棋士であり、何があってもこの対局を完遂させることしか考えていなかったのだろう。凄い、名シーンなんだけど、その後、何が起きたかを彼らが知った時のことを思うと、なんとも胸が潰れるのだ。
その、柄本明の独特の存在感も圧巻なのだけど、私がお気に入りなのは、呉清源を囲碁から離れた部分での友人として支えた、川端康成を演じた野村宏伸。彼は不思議に老けない人だけど、でもその中でも絶妙に年輪を重ね、清廉さを残した年輪が、この川端康成という人物にピッタリなのだ。

そして呉清源と囲碁の名著も共に残した兄弟子、木谷実を演じる仁科貴の誠実さも忘れ難い。ことに彼と呉清源の、伝説の対局シーンは圧巻。呉清源のキリキリに詰めていく手に、木谷実が突然鼻血を吹き出して倒れる。周囲の人間が驚いてバタバタを彼を介抱する中、呉清源はそんな騒音も耳に入ってはいないといった風情で、微かに天を仰ぎながら次の一手を考えている(美しすぎる……)。木谷はフラフラになりながらそれでも、呉清源の考えているところを見たい、その棋譜を見たい、とこけつまろびつ座に戻ろうとする。
そこには戦いやライヴァルといったものではなく、ひとつの対局に魂をぶつけあう、信頼などという言葉も遥かかなたにぶっ飛ばすような、棋士同士にしか判り得ない深遠で聖なる世界があって、うらやましいというか、神々しいというか、もう私は椅子から倒れそうになってしまった。

若干、エピソードの羅列に終始して、単調に思えた節はあるけれど、読売新聞のゴシップ的な記事を批判したり、へえーと思う部分も結構ある。
当時、読売新聞の嘱託として抱えられていた呉清源は、逆にこの新聞に様々に苦しめられていたのだろうか。しかし、遥か昔のこととはいえ、「読売の記事が……」などと映画内で名指しで言われるのはなかなかキツイなと思ったり。というか、案外こういうの聞かないよな、と思う。周知の事実でも、架空の新聞の名前にしたりすることが多いから。やはりそれは、外からの公平な、いや冷静な視点だからだろうか。日本映画として作られていたら、こうはいかなかったようにも思う。

私にはサッパリ判らないけれど、白と黒の碁石が、直角の碁盤の目に並べられていく美しさは、チャン・チェンのストイックさに合わせて、ひどく心にグッとくる。
幾何学的なのに心に来る、あの感じは一体、なんなんだろう……。ひとつの木から彫り上げられた、碁盤台自体が芸術品と言えるその上に、カチリと音をたてて置かれる碁盤が、ゆらゆらと揺らめく。将棋のように、置かれた時点で安定しない、あの不安定さ、その揺らぎをスローで横から眺めるショットは予告編でも使われていて、なんかもう、心が騒ぎまくったのを覚えている。

それに、チャン・チェンはストイックな(何回ストイック言うのだ)和服がひどく似合うのだ!中国人というキャラだから当然のぎこちない日本語も、不思議にストイックさを増幅させるのだ。そりあげた剃髪が、高僧をイメージさせていた、ずっと。
棋譜が、名盤として言い伝えられる。まるでミュージシャンの名アルバムみたいに。美しさと独創性。そりゃ私にはサッパリ判らないけど、判らないだけに、判る人にとっての呉清源が大スターであることが、悔しいほどに羨ましい、気がした。★★★☆☆


今宵、フィッツジェラルド劇場で/A PRAIRIE HOME COMPANION
2006年 105分 アメリカ カラー
監督:ロバート・アルトマン 脚本:ギャリソン・キーラー
撮影:エド・ラックマン 音楽:リチャード・ドヴォスキー
出演:メリル・ストリープ/リリー・トムソン/リンジー・ローハン/ギャリソン・キーラー/ケヴィン・クライン/ウディ・ハレルソン/ジョン・C・ライリー/トミー・リー・ジョーンズ/ヴァージニア・マドセン/マヤ・ルドルフ/L・Q・ジョーンズ/メアリルイーズ・バーク/スー・スコット/ティム・ラッセル

2007/4/22/日 劇場(銀座テアトルシネマ/モーニング)
数々の名作を世に送り出している巨匠と呼ばれるこの監督。だけど私は、あまり観る機会がなくて、だから本作に足を運ぶのもちょっと迷ったんだけど……だってうかつなこと言ったら、もうツッコミされまくりそうなんだもん。そんな風に映画に臆するのはイヤなんだけど、どうも小心者なものだから。

で、上映終了直前に滑り込みで観る。うーん……と悩む。考えてみれば私、あまり群像劇っていうのが得意じゃないんだった。この監督さんは、まさに群像劇の名手だっていうからなあ。 予告編の影響のせいもあると思うんだけど、次々に繰り広げられるライブステージにワクワクすることをちょっと期待していたから、何となく、あ、違う……と思ってしまったのもある。
いやそれは、「ドリームガールズ」を最近観てしまったウラミもあるのかもしれない。全くタイプが違うのにね。
歌と物語のつながりが大してないから、あんまりワクワクしないのかもなあ。
まあ、そこがいいんだろうけれど。何に関係があるわけでもなく、たとえ今夜この番組も劇場も終わりを迎えても、いつもと同じように進行し、同じように歌を歌い、同じようにお下劣な歌でふざけて、激怒したステージマネージャーが、「もう出さない!」と言ってみたって、今日で終わりなんだもの。

でもこの、ライブ感がビミョーな感じというのは……私だけが感じていることなのかどうか、意外にちょっとネラっている部分もあるんじゃないかとか思ったのは、観客の顔が全く見えなかったから。
それはこれが、ステージではあるけれど、音源として放送されているラジオであることが大前提だからじゃないかと感じる。この華やかな舞台は、リスナーの目に触れることはないんだもの。
リスナーはほんの数百人。もう人気のある番組ではない。
でもこんなに大勢の観客がつめかけて、拍手喝采で、そんな風には見えない。だけど……観客はいつも暗闇でバックショットで、誰の顔も見えないんだよね。こういう映像でよくあるような、ノリノリの観客の笑顔なんて一切排除されている。
これがラジオであるということと、ステージ上の彼らには、ひょっとしたら観客の顔が見えていないのではという皮肉を思わせる。彼らはこの番組が好きで、歌を歌うのも勿論好きだけど、観客への感謝や、歌を聞かせること自体をあまり深く考えていないのかもしれない、と。特に今日、この日、仲間との別れやショーの終わりを惜しむ雰囲気はあっても、リスナーや観客へのそれはないんだもの。

しかしこの、「プレイリー・ホーム・コンパニオン」というのが、実在するラジオショウであり、落ち目どころか、実際は全米のみならず世界中の4,300万人が聴く大人気番組なんだという。そういうことを身を持って実感していれば、この確信犯的なギャップももっと楽しめたかもしれない。
司会者のギャリソン・キーラーは、名前もそのまんまのご本人様。実に達者な話術&歌声の持ち主で、(劇中では架空の)CMソングを舞台に登場する歌手と共にサクッとハモっちゃう。ハプニングがあってもそ知らぬ顔でつなげていく手腕は、ラジオDJならではである。

ざっと登場人物を紹介しますと、ヨランダとロンダのジョンソン姉妹は、もとは姉妹四人のカルテットだったのが、まあ家庭内の色々な事情がありまして、今はデュオとして活動している。演じるのはメリル・ストリープとリリー・トムリン。
ヨランダの娘ローラは、自殺の詩などしたためているちょいとクラい子。しかしこのショウの最後にチャンスを得て、一曲歌声を聞かせることとなる。
カウボーイスタイルでオゲレツなコミックソングを歌うダスティ&レフティは、ウディ・ハレルソンとジョン・C.ライリーが扮する。本作の中でふと息がつけるコメディリリーフ的存在。ま、言語の壁があるせいもあって、笑えないのがツラかったけど。実際のラジオショーの中で、ギャリソン自身が作り上げた人気キャラクターだという。
このショウにゲストシンガーとして呼ばれているチャック。かなり老歌手といった雰囲気で、演じるL・Q・ジョーンズはお世辞にも上手いとは言いがたい。そのかすれ声は魅力というよりも、いつ出なくなるのかとハラハラとさせる。しかしそれは、物語の中にしっかりと伏線が張られているということなのだろう。
そのチャックの恋人であるイヴリン。ちゃんとチャックと年相応に、バッチリオバチャンである。それが何となく嬉しい。この楽屋にはしょっちゅう出入りしているらしく、他の誰よりも今日が最後だということを悲しみ、手作りのサンドイッチを配って回っている。

探偵気取りのガイ・ノワール。演じるはケビン・クライン。彼もまたギャリソンの作り上げたキャラクター。ケビン・クラインはこのキャラが登場する回を聞き込んで役に臨んだということで、ちょっと気取り屋の、でも憎めない探偵オタクってな感じがナイス。本作の狂言回し的存在で、キーパーソンをつれて来る役割でもある。
そのキーパーソン1。この落ち目のショウと劇場を買い取った、「首切り人」企業家のアックスマン。トミー・リー・ジョーンズがこういうアーティスティックな作品に出ているのを初めて観る気がする。
そしてキーパーソン2.天使アスフォデル。本作中でハッキリと現実味のない唯一のキャラだけれど、そうやってふと顧みてみると、ガイだって結構浮き世離れしているし、この昔ながらのショウに、いわばしがみついて生きている歌手たちの古い世界観も、もしかしたら現実味のないものなのかもしれない。古きよき時代のアメリカをどこか懐かしむような雰囲気があるのかもしれないけど、そういう空気自体、私にはあまりピンとこないせいもあるのかもしれない。

といったメンメンが繰り広げる老舗の公開ラジオショウ「プレイリー・ホーム・コンパニオン」最後の日。冒頭は、ガイが劇場近くのダイナーから、私立探偵を気取りまくって出てくるところから始まる。今はこんなケチな仕事しかなくなった、とかなんとか言いながら彼が糊口をしのいでいるのは、そのショウが公開生放送されているフィッツジェラルド劇場の警備と情報収集(後者は彼が勝手につけたと思われる)。
そこで彼は、白いトレンチコートを小粋に着込んだ女を見かけた。いかにもガイのかぶれているフィルム・ノワール(ガイの苗字は絶対ここからきてんだろうなあ)に出てきそうな謎の美女である。彼女は特定の人物にしかその姿が見えず、自らを天使アスフォデルと名乗る。
天使といいつつ、彼女の役割を聞いてみると、どことなく死神の雰囲気である……。

妊娠している進行係の女性が印象的。司会者のギャリソンがあまりにも言うこと聞かないので、陣痛のフリしてみたりする。彼女だけが、本当にビジネスライクに仕事してる雰囲気。ほかの皆は口には出さないでいつもどおり振舞ってるけど、今日が最後だということを、すごく意識してるんだもん。
遅れて楽屋入りしたジョンソンシスターズが、かしましくお喋りをしている。同行してきたヨランダの娘のローラはどこかそれを疎ましげにしているけれど、ここについてきたのは、やはりなにがしかの思いがあったんだろうと思われる。
もともとは四人姉妹のカルテットだったのが、ドーナツの払い忘れで長姉ワンダがつかまってしまったことで、家族の運命は転落した。父親は失望して自殺した。そして今は二人の姉妹でのデュオである。
ローラに、そして観客にそれを説明すべく、二人は、というかロンダがメインを張ってマシンガントークを繰り広げるんだけど、ひたすらお喋りなロンダに、訂正か補足か、それらしいことをヨランダが口を挟んでるんだけど、悲しいかな、字幕ではそれが判らないのだ。
こういう時は、英語が判らんのがやっぱちょっと、悔しいよな……。

加えて、どうやらヨランダは、司会のギャリソンとちょっと過去があるらしい。
というのは、ステージの上でね、ギャリソンが軽妙にスポンサーの宣伝を立て板に水のごとく喋りまくる場面でね。例えば、パウダーミルクビスケット、または、たった何ドルかでこんなメニューが食べられるレストランとか、ひとしきり軽妙に宣伝した後、何でも修復できるダクトテープ、ってとこで進行が上手く伝わらなくなっちゃってギャリソンが色々つないでいたら、ステージにスタんばってたヨランダが、口を出しながら段々にキレてくるのよ。
最初は、ギャグで孔雀だのヘリコプターだのの音マネをして場をつなぐ手助けをしていた男性にやたら絡む感じだったから、彼と何かあったのかと思ったら、ギャリソンとだったのね。
そういやあギャリソン、ローラにそんな話、してたっけ。ヨランダとケンカ別れして、彼女を置き去りにして、その彼女が出会ったのが夫だとかなんとか。人間関係だけは修復できないけど、それ以外はたいてい修復できるダクトテープだと、キレるヨランダをなだめるようにまとめるギャリソンだけど、でもこの場で、この日に突然くってかかる彼女がよく判んないしなあ……。

一方で、一番の大事件は、老歌手、チャックが死んでしまったことなんである。
ステージ袖で遠慮なくイチャイチャしていたチャックとイヴリンの老カップル。チャックの出番が終わって、彼は部屋で恋人を待っていた。用意周到、下着姿でローションまで用意して。
何を夢想して、彼は死んでしまったのだろうか。
イヴリンは彼の遺体にすがりついて泣きむせぶ。そこにあのナゾの天使がいて、そんなに哀しんじゃダメ、と彼女に言っているんだけど、彼女の耳にはその天使の声は届かない。

この天使、アスフォデルの存在というのが、ナゾというよりはなんか曖昧で、パッとは理解しがたいものがあるのよね。
彼女は人間だった頃、このショーをよく聞いているリスナーだった。その日は、愛人に会いに行く日だった。二ヶ月も前から計画していた。ラジオから聞こえてきたギャリソンのジョークについ笑って、ハンドルを切りそこね死んでしまった。
オフィシャルサイトでは、彼女がギャリソンのストーカーだったってな解説してんだけど、うっそお、そんなの、映画観てて判った?
まあ、それはとりあえずおいとくとしても……彼女は、ハンドルを切りそこねるほどの、そんなに面白いジョークだったかと、思うわけ。そう思って、ギャリソン自身にも問いかけてみるわけ。
確かにそのジョーク、実際聞いてみても、全然面白くない。というか、理解できない。それは多分、言語の違いによるんだろうけれど……。

この天使、アスフォデルが見える人と見えない人がいて、最初は見える人が死ぬ運命にあるのかとも思ったんだけど、死んでしまったチャックは見えてなかったんだよね。
見えていたのはガイとギャリソンの二人のみ。彼らに見えていた意図とはなんだったんだろう。
ただ……ラストにね、もうショウも終わって、劇場も取り壊されて、なんか、何にもすることがなくなった風のジョンソン姉妹、ダスティ&レフティたちがダイナーに集まって、今までライヴを見られなかったリスナーたちのためにツアーを組もうじゃないかと盛り上がっている場面があるんだけど……。
そこにあの白いトレンチコートのアスフォデルが入ってきて、どうやら彼らには彼女の姿が見えているらしいのよ。いや、確証はない。なんとなく、その表情で。なんかすっごく、怪訝そうな顔してるんだもん。
正直彼らが計画している(というより夢見ている)このツアー自体、実現しそうにもない感じだし、あのショウのラストを飾ったローラはもう歌のことなんかうっちゃって、今の仕事にまい進してるしさ。彼らは自分たちの輝きを取り戻したくて言ってるだけのように思えるのよね。天使が見えちゃってるんだとしたら、余計に決定的な気がする。

そうそう、ローラがこのショウの終わりを務めるのだ。
思いがけず6分残ってしまった最後のワクに、ローラが「期待の新人歌手」として飛び込むことになる。
なんかもう、あまりにも救いようのない歌なのよ。恋人の暴力、それへの仕返しでブチのめす。好きな男はろくでもない男……陽気なメロディに乗せて歌い上げるローラは、自身の緊張にばかり気を取られて、それがウケてるのかウケてないのかなんて二の次。無事歌い上げたことにだけ興奮して感無量で、母と叔母も拍手喝采。しかしそれは本当の気持ちだっただろうか……。
だって、その歌詞にかなりハラハラとして見ていたんだもん。なんたって自殺の詩を書いていたコだからね。
しかしさ、ローラが空き時間を埋めることになって、急いで身支度して(せめて、とメガネを外してピンクのショールをまとうあたり、女の子やのお)ステージに急ぐ時、楽屋に、詩集の間から何か落とすでしょ。それにカメラが寄っていくのに、それが何だったのか明かされないんだよね。
ステージに上った彼女が、それがないことに気づいて困るとかいうこともないし。うーむ、あれはなんだったんだろう。自殺なんていうネガティブにとらわれていたことからの脱却?それにしては実際に歌った歌もクラ過ぎたが……。

で、こんなトンでもない歌で最後のショーを締めてしまったことへのシニカルな笑いもいまひとつなんだよなあ。相変わらず観客の反応は示されないし。恐らくドン引きだっただろうと思われるのに。その辺は、描写に対してストイックだということなのかなあ。
だけどさ、ローラはあれだけ、死んだ人に番組内で敬意を表さないのは冷たいとか、いろいろエラソーに言ってる割には、この歴史あるショーが終わること、この劇場の終わりであることを結局は考えずに、自分のためだけのヒドイ歌を歌っちゃうんだもんなあ。これも相当の皮肉。

実は、首切り人アックスマンは死んじゃったのよ。天使アスフォデルが「交通事故には気をつけて」と彼に囁き、一緒の車に乗って去っていった。
でも、一人の人間がいなくなったぐらいで、事態は変わらなかった。翌日には解体業者が入り、あっという間にフィッツジェラルド劇場をぶっ壊していった。
ガイはその作業の中、独りグランドピアノの前に座っている。しかしいよいよそのグランドピアノも荷造りされる時が来る。ガイはそっとその場を辞する。

「自動的に音楽を流すだけのラジオになる」このショウの終焉に、誰かがそう嘆息した。それこそが当たり前で、それ以外の、それ以上のことがあるの?と思ってしまう今、テレビよりもラジオの方が受け手と送り手の距離が圧倒的に近く、反応も受け止めることができる貴重な媒体を、「自動的に流す」だけの媒体に変えてしまうことの愚かさを思った。
そうやって人間はどんどん、奢りの社会となり、美しい世界を潰していくのだろう。★★★☆☆


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