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「さ」


2001年鑑賞作品

魚と寝る女
2000年 90分 韓国 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:ファン・ソシク 音楽:
出演:ソ・ジョン/キム・ヨソク/バク・ソンヒ/チョ・ジェヒョン/ジャン・ハンソン


2001/9/11/火 劇場(テアトル池袋)
正直本当に、嫉妬してしまう。隣の国なのに今まで全然入ってこなかった韓国の映画が、まさに未知の国の映画が、こんなに優れているなんて。「シュリ」を初めとする、ここ最近隆盛を極めている韓国映画はどちらかといえばエンタテインメント志向で、それはフレッシュな魅力とでもいった感じだったんだけど、本作は、まさに成熟した芸術としての映画であり、それは瞠目すべきアーティスティックさとともに、観る人を惹き付けてやまないスリリングさも持ち合わせていて……ああ、やっぱり嫉妬せずにはいられないほどに、完成度が高いのだ。脚本も兼ねているからこの監督、キム・キドクは存分に自分の頭の中の世界を具現化しているのだろう。ぬめりをもったカメラも素晴らしい。嫉妬せずにはいられない才能。

この設定からして、もう負けた!と思ってしまった。凪いだ大河にぽつん、ぽつんと浮かんでいる小屋船、そこを巡回する釣り場の管理人の女。釣り客の男たちは魚釣りをするかたわらこの女や、外から呼び寄せる商売女を抱く。水墨画のような美しさの中にうずまいているのは醜い性欲と、垂れ流される汚物。その河の水は、そうしたものを浄化するにはあまりに凪ぎすぎていて、そんな人間の出す醜いものをどんどん溜め込んで行く。行き過ぎる旅人たちは見ないふりをすることが出来る。唯一、それを見つめ続けている管理人の女はひと言も口を聞かない。顔に小さな傷があるのは、この女優にもともとあるものなのか、それとも、この中では言及されない、何か深い理由があるのか。

観ていくうちに、彼女が言葉に価値を見出していないせいなのではないか、と思いが及ぶ。言葉ほど無力なものはないから。言葉が発達したのは、言葉が無力だから。力を得たくて発達したのだ。でも、ゼロに何を掛けてもゼロなように、やはり言葉は無力な存在であることには変わらない。そして本作は、だから言葉には頼らずに、言葉を排除した力を信じた。その象徴がこの彼女。

体つきはエロティックなのに、無愛想な顔で行き来し、淡々と身体を提供するこの女、ヒジンに扮するソ・ジョンが圧倒的である。最初こそ何を考えているのかわからない、ものを言わない女、という印象だったのが、孤独で謎を抱えた男、ヒョンシクに執着していくうちに、今まで観た映画の中で最高クラスの情念の女へとその本性をあらわにしていく。その眉、その目、まさしく蛇に絡め取られる蛙のごとく、この女に捕まったら、ヒョンシクならずとも、逃げられない。恐ろしい、そして恐ろしいほどに魅力的な、女。ヒョンシクの飼っている小鳥のエサにするために大きな蛙をたたっ殺し、皮をメリメリとはぐ、なんていうことまで吹き替えなしでやってのけるこのソ・ジョンの凄さときたら、脱ぐだけで体当たりの演技とか言われる昨今のなまっちょろい女優たちなど、足元にも及ばない。本気で参った。

何が彼女をヒョンシクに引き寄せたのだろう。孤独かもしれないし、人には言えない過去かもしれない。そしてその双方が合わさってあふれ出てくる暗黒の絶望かもしれない。しかし自分から近づいていながら、彼女はヒョンシクが身体を求めると強固に拒否し、商売女をあてがう。しかし彼はこの商売女を抱かない。手先の器用な彼はヒジンにもプレゼントした、針金細工をこの女に作ってやる。この商売女も彼に惚れこんでしまう。こんな顔して、罪深き男なのだ。実際、この可愛らしい針金細工は、女の心をとらえるのに充分。そして彼の元に昔の恋人?がやってくる。彼は彼女を抱くが、その行為が自分の感情ではないと断固として否定するためか、彼女に金を払う。その女はまたやってくる。ヒョンシクをからめ取り始めていたヒジンは彼女を縛り上げて空いている小屋に放置し、その間にヒョンシクと愛し合う。しかしこの女、逃げようとして、河に転落し、命を落としてしまう……。

ヒョンシクは警察から追われている。警察が釣り場に捜査にきた時、彼は釣り針を何本も一気に飲み込んでしまう。それは自殺だったのか、自殺にしては何だか奇妙な行為。自殺というよりは自傷行為。この自傷行為は、後にヒジンにも反復される。そしてこの自傷行為は、その釣り針に引っ掛かった身体を釣竿で引き上げるという行為によって、他傷?行為ともなる。イコール共犯関係。たまらなくエロティックな響き。ヒジンがヒョンシクののどの針を、そしてヒョンシクがヒジンの陰部の針を一本一本抜いていく行為は、その血と、歪められた双方の顔がセックスの高まりよりもさらにエロを感じさせる。ヒョンシクの痛みを和らげてやるために、ヒジンは彼にまたがって彼の息子を受け入れてやるのだが、その実際の行為よりもずっと官能的に感じられる。そして傷の熱を冷ましてやるために患部を扇いでやるのは、事後の放心した、妙に穏やかな空気を感じさせる。痛さというのも、多分にエロティックだ。究極の快感は……快感が究極に達すると、それは痛みなのではないかというのは、SMなどという卑俗な例を持ち出さなくても容易に思いつく。

本作は、SMのみならず、スカトロにも目配せが効いている。河に垂れ流しをするこの釣り場で、水の中から排泄する尻の穴をライブでとらえる、なんていう映像まで出てくる。小屋の中に設けられた穴がトイレとなっており、排泄物が拡散するとは言っても、その穴からヒジンがヒョンシクと女の情事を覗き見する場面はやはりいささかの狼狽を感じる。しかしそれですら、人間のナマな部分の美しさを感じさせるのだから、この作品の力にはただただ感嘆するしかない。それはどこか逆説的な美しさで、見るからに美しいものばかりだけで構成されている時には決して見えてこない美しさ。ヒジンの先述したようなタフさが重なるほどに、逆に孤独な女の弱さが見えてくるような。彼女がヒョンシクを引きとめるためには、自分を傷つける行為でしか……それもヒョンシクのやった行為の模倣しか出来ないというところも。それはヒョンシクのその行為によって彼にどうしようもなくホレてしまった自分を露呈することでもあって、恐ろしいまでの情念の女が実はひらりと翻ると、弱い、孤独な女なのだと判るのだ。

死んでしまったあの女を捜して乗り込んできた男も殺してしまって、双方共に河の底に沈められる。ヒジンから逃げようとしたヒョンシクも、彼女の目も覆う自傷行為、その情念に負けて彼女と共に逃避行する。しかし、幸せではないか。とてつもなく幸せではないか。ヒョンシク、これほどまでに絶望的に愛されるなんて。ヒジンは叫び声以外発しないし(言われていたように、あえぎ声は出しているのか……どっちにしろ、言葉は発しない)、愛しているなんてひと言も口に出さないけれど、愛しているという言葉の何倍も、何十倍も、何百倍も、これほどまでにこれが愛だと断言できるほどに強烈な愛があるものか。一生に一度、あるかないか、人生を狂わせるほどの愛に出会えたヒジンとヒョンシク。

あの、ラストシーン、河の中に繁った葦?の中にヒョンシクが入っていって、しばらくガサガサと草だけが動いていて、その次のシーンでは、小船に全裸で横たわるヒジンの陰部に緑の草が置かれていて、ジ・エンドというのは……ヒョンシクはヒジンを殺してしまったんだろうか。そして彼はどこへ……。でもそれはもしかしたら、ヒジンが望んだことだったのかもしれない。痛みが究極の快感ならば、そして愛する人から快感を得ることが愛情表現だとしたならば、愛する人から殺されるのは、これは、究極の愛に違いないのだ。もし、もし死ななければならないのだとしたら、殺されなければならないのだとしたら、やはり愛する人に殺されたいと、願うだろう。それは家族とか友人に抱く愛情の感情とは全く別個の、別種のもので、愛は凶暴であればあるほど、深く、そしてピュアなのかもしれない。

魚が、ものすごく印象的。彼ら?は切り刻まれ、水を抜かれて苦しそうにバタバタし、半身をそがれて水の中へ放たれたりする。水は性的なものの象徴であり、それは雨の中ヒョンシクの元に向かうヒジンの画などにまさしく象徴的なのだが(これはめちゃくちゃ名場面)、その水の中でしか生きられない魚がそんな風に描かれるのは、そしてその描き方に画以上の痛みを感じるのは、やはり人間のそうした部分を象徴しているんだろう。性と愛と性愛、感情、快楽、その不可分のものを不可分のものとして受け入れることにためらう人間たちの心がうごめいている。ああ、本当に、なぜ人間は、そして人間が生み出してしまった、これと規定できない愛という感情はヤッカイなものなのか。そして言うまでもなく、水は生の象徴でもある。水がなければ生きていけない。生が性、そして性が愛に結び付けられるのだとしたら(それはかなり楽観的な見方なんだけれども)、ああ、やっぱり言葉を廃したこの作品の確固たる強さに感嘆せざるを得ない。

なぜ、オフィシャルサイトが作られていないんだろう。この作品、予告編も妙にチープな作りだったし。こんなん、絶対にもったいない!小規模でもヒットを願っていたら、こんな仕打ちは絶対にないだろうに。映画はひとつひとつ、丁寧に宣伝展開して欲しい。これは、韓国映画に対する先入観を打ち破る秀作だ。そして、日本映画が一番と思っている(例えば私のような)人たちが、嫉妬するほどの傑作。たまらなく、嫉妬してしまう。★★★★★


ザ・コンテンダーTHE CONTENDER
2000年 127分 アメリカ カラー
監督:ロッド・ルーリー 脚本:ロッド・ルーリー
撮影:デニス・マロニー 音楽:
出演:ジョーン・アレン/ゲイリー・オールドマン/ジェフ・ブリッジス/クリスチャン・スレイター/サム・エリオット/ウィリアム・ピーターセン/ソウル・ルビネック/フィリップ・ベイカー・ホール

2001/6/29/金 劇場(新宿ジョイシネマ)
女性がアメリカ副大統領になる、その過程を、政治の内幕、取引、政治における女性の立場、等々をめぐって暴いてゆく作品。私は女性の強さ、カッコよさを見られる映画だと思って期待していた。確かにヒロインのジョアン・アレンは凛々しく美しくカッコよいけれど、観ているうちにムカムカ度は増すばかり。一言で表すならば、

こんな映画を作って女が喜ぶとでも思ってるのかー!!!

の一言につきる。
女が政治家になるには、いや、女が社会で生きていくには、なぜ必ず女性であるという点をつかれなければいけないのだろう。いや、逆に、私は女性が、例えば政治家になる場合に、必ず女性である点を持ち出してくるのがイヤだった。主婦の観点だの、女性ならではの優しさだのと。一個の人間である前に女性だとでもいうような、まるであべこべのことをいっているかのようで。これまでの長い長いルートがあるから、女性がいろんな場面で切り込んでいくためには仕方のないことなのかもしれない。それならば私は一万年後に生まれたかった。それぐらい経っていれば女性が女性である事を意識しなくても、ただただ普通に生きていけたかもしれない。ただナチュラルに、ただ1人の人間として生きていくことがどうしてできないのだろう。

副大統領候補に指名されたレインは、大学時代のセックスパーティ参加のスキャンダルや、今の夫を前妻から奪ったことなどを暴かれる。なるほど、レインのいうように、男ならば大学時代に何人の女の子と寝ようと、こうしたパーティーに出ようとさして問題にならないのだろう。だからといってレインがいうように、男が許されるのに女は……だなどとは思わない。確かにそういう点での憤りは感じるけれど、だからといって、それを権利のように振りかざすのはやはりいささかおかしいし、こっけいだからだ。いや、昔は思ったかもしれない。同じ人間として男も女も全くの平等に扱うべきだと。でも大人になるにつれて、それが口でいうほどに簡単ではないことがわかってきた。実際に男と女は違うものなのだし、平等にと願っている女性の思いが、今現在リーダーシップをとっている男性に判るはずもないからである。声高にいうことよりも、ただ頑張って男性にまじって社会の中で生きていくことで、それが示せるようになればいいと思った。そうやって頑張ってきたのに、結局女性の話となると必ず女性性、セックス、これで終わってしまうのだ。

例えば女性のみに与えられた能力である妊娠、出産にしても、その地平の外にセックスを見ている。いくら女性が主人公でも、政治家の話なんだから、もっと政治についてのおもしろい部分を見せてくれるのかと期待し、深遠なテーマにまで切り込んでいくのかと思っていたら、本当にセックスネタだけで話が終わってしまった。あぜんである。それは冒頭も冒頭、ヒロイン、レインの登場シーンからそうで、彼女が夫とベッドでイチャイチャしているところに大統領からの副大統領指名の電話がかかってくる、という徹底ぶりなのだ。男性政治家の話だったらおよそ考えられないことだ。いや、というよりも作り手の姿勢の問題だろう。悔しい。悔しくて涙が出そうになった。私は女性だからといって、女性という視点を武器に使うということをしたくなかった。女性問題というのは深刻なものだけれど、女性問題を語る場には女性しかいない。それが私はイヤだった。本作品のオフィシャルサイトのBBSなんてまさしくそうで。でも私は女性なんだから、それもおかしな意地っ張りかな、と思ってそういう点も大事にするようになったけれど、結局はこんなもんなのかと……。一生懸命平気なふりして頑張ってきたのに、それこそ七転八倒になるぐらい大激痛の生理痛も顔面蒼白になりながらじっと耐えて、効きゃしない鎮痛薬の飲みすぎで胃を荒らしてまで平気なふりして仕事をしてきたのに、女性の云々は結局セックスの話だけで終わりなの?

おっと、思わず話が脱線してしまった。脱線ついでに、実は私は犯罪者の数が女性より男性のほうが多いのは、マトモでない精神状態にあっても、女性は月に一度のその痛みで、現実社会に引き戻されるせいではないかと思っているのだが。

それにしても。日本の政治でも思っていたけど、政治家って、一体何をする人なの?まるでポストを埋めることが仕事みたい。あるいは、攻撃や、やゆすることが仕事みたい。いいですとも、私は女性ゆえの甘さで思うことなんだろうけど、国をよりよくしていくために政治家みんなが協力して仕事をしていくということは、それは無理な話なの?

話を戻すと。このレインという人もちょっとおかしな部分がある。不倫問題についてのあれやこれで、独身であった自分が家庭持ちのウィルと関係したのは、それは家庭を持っていたウィルにとっては不倫だけど、独身だった自分にとってはそうじゃないと思っているらしいことなのだ。姦通には当たらない、などと言ったりして思わずぼーぜんと口をあけてしまった。なんだそりゃ、屁理屈やん!

結局、このレインの政治家としての魅力など、何一つ描かれることなく進んでゆく。全然能動的に動けない。政治家という要素より女性という要素を重視し、彼女が政治の汚い部分をまったくまとっていないというのも、女性=世間知らずと見ているとしか思えない。女である彼女をダシにした男性政治家の話でしかないのだ。と、いうことを確信したのはラストである。なんとまあ、大統領の有終の美を飾ってもらうために彼女は自ら指名を辞退したのだといい、それに対して大統領は裏切り者、ラニヨンを名指しで非難し(えげつな〜)そして、やたら感動的な口調でレインを副大統領にと呼び戻すのだ。おいおいおい、結局大統領の、つまり男性の“偉大なる理解力”によってでしか女は躍進できないとでもいうつもりなのか。あほくさ〜!あー、もう、ほんとにイヤ。人生投げたくなってきた。

それでなくても、ラスト前の、大統領がレインの過去を個人的に聞きだす場面でウンザリしたのに。このセックス話で映画が終始したのがもっともイヤだったのだが、それを大統領が、興味津々と聞いてくるのもイヤだった。それになんであんなに顔を接近しなくちゃいけないんだよ?キスでもしたらどうしようかと思ったぞ、マジで。

アメリカって、男女平等の先進国のように見えて、実は違うんだ。差別がこんな風にあまりにもくっきりとあるからこそ、男女平等が声高に叫ばれているんだ。ああ、ただナチュラルに、ただの1人の人間として生きていければどんなにいいか。

クレジットを見るまで全然気づかなかった、敵役、ゲイリー・オールドマンの仰天の変貌ぶり(面目躍如!)といい、劇中の役の年齢がかなりサバ読んでいる、役者としてビミョーな立場に来たクリスチャン・スレイター等々、はー、やっぱり面白いのは男性役者陣ばかりかあ。ジョーン・アレン以外、重要な女性キャストなんて出てこないもんね。道はまだまだ遠いなあ。★☆☆☆☆


さすらいの恋人 眩暈(めまい)
1978年 74分 日本 カラー
監督:小沼勝 脚本:大工原正泰
撮影: 音楽:
出演:小川恵 飛鳥裕子 高橋明

2001/3/8/木 劇場(ユーロスペース:小沼勝監督特集)
「生贄(いけにえ)夫人」「花と蛇」といったサイケなサドマゾの傑作のあと、小沼勝監督特集の最後にこの作品を選んで鑑賞。ふいをつかれた。本当に泣いてしまった。それまでに観てきた中で感じてきた小沼監督らしさ、絶妙のユーモアのタイミングを残しつつ、ここに描かれているのは愛の切なさ。男と女は愚かで惨めで、キズをなめあっているような感じなんだけど、でもそれが愛の強さにもなる。でも、切ない。このまま再び会えないんではないだろうかと思わせるラストが……。

ファーストシーンからクラッときてしまった。どんよりとした色の、薄く氷の張った上を女の手がその表面をそろそろとなぞっている。カメラが引くと、それが公園の噴水の池だと判る。冬の、寒々しい公園。ちょっとフザけ気味にその上を歩いてゆく女。と、途中で氷がわれ、女はほんのひざ下ぐらいの深さではあるけれどその池の中に落っこちる。ヘンにはしゃぐ女。そこへ偶然通りかかった男が慌てて彼女を助け上げる。粗末なアパートにつれてゆく。二人せんべい布団に一緒に足を突っ込んで暖をとっている。男がふと女に欲情して抱きつく。女はちょっとだけ抵抗して「おねがい、優しくして」とつぶやくと、男はうんうん、と言いながらも服も脱がずに性急に彼女を求める。若さと貧しさが混然となったセックス。

男は徹、女は京子。ともに田舎から出てきてこの東京の片隅にひっそりと身を置いている。徹はなにやら事情があって身を隠しているらしい。京子はスーパーの店員で、そこの上司とあてのない関係を続けている。でもこの日、二人は出会ってしまった。京子は足しげく徹のアパートに通い、インスタントラーメンばかりすすっている徹に「苦学してんのね」とつぶやく。セックスをする。隣からのぞいている男がいる。あやしげな訪問販売員のその男は、謝りつつも唯一の楽しみだと言い、この男が二人の運命を変えてゆく。……それがいい方向にだったのか、悪い方向にだったのか、いまだに判らない。

徹はかつて仲間から金を横領した。しかも仲間の一人の女をレイプしてしまったことで、逃げ続ける日々。この女とレストランで偶然出会ってしまう。焦って店を出る徹に京子が問いただすと、徹は草むらであの女を襲った話をする。「その人のこと、好きだったのね」ポツリと言う京子。「昔のことだよ」とこれまたポツリとつぶやく徹。不思議だった。徹がその女の事をどう思っていたかなんて、全然言ってないのに、レイプしたことだけを話したのに、京子はそう感じ、しかもそれは事実で、この女もレイプされた恨みというカクレミノの下で、自分から離れていってしまった徹を意地になって追いかけていることが後に判るのだ。それはあまりにもあまりにも哀しくて切ない美しく残酷なラストで……。

二人はあの怪しげな隣人、ヒロタから仕事をもらっていた。白黒ショー。退屈している上流階級の人々の目の前で、二人がセックスをするのだ。最初、何も聞かされていなかった京子はその屈辱に耐えかねて一緒に住むようになった徹のアパートを飛び出してしまったりするのだが、徹のその事情を知って、二人でがんばってショーをこなし、金を返そうということになるのである。時には徹が興奮した上流夫人に請われてお相手をさせられることもある。ショックでその場を飛び出す京子。帰ってきた徹は彼女の激しい哀しみにとまどう。「コノヤロウ!」と雑誌を壁に投げつける徹。「なにすんのよ!」「いや、ゴキブリ」キャッと言って徹に抱きつく京子。二人は笑いあい、しっかりと抱き合う。ああ、いいなあ、この仲直りの仕方……徹は京子の気持ちが痛いほど判って嬉しかったし謝りたい気持ちだったろうし、京子も仕事だと割り切っていた徹に対してある種のすまない気持ちもあったろうし……。なんか、こんな白黒ショーなんてことやってるのに、二人の愛情がどんどんピュアになって、水晶のように透明になっていく気がするのだ。ううん、ガラスかもしれない。いや、冒頭に指し示されたような氷かもしれない。清冽に美しくて、でも壊れやすくて、熱くなればほどけてしまう。それは愛情がなくなってしまうというのではなくて、愛すれば愛するほど追い詰められる運命にあるということなのだ。

この時、徹と京子はとても幸せで、徹の事情なんて忘れてしまったかのように幸せで。二人がじゃれあいながら街をさまよう映像に、しかし中島みゆきの「わかれうた」がかぶさる。ドキッとする。なんで?なんでここで「わかれうた」なの?なんでここでみゆきさんなの?画面の中の二人はあんなにも幸せそうなのに、何故だか不思議と哀しい色合いを帯びてくる。この時、確信したのだ。きっとこの歌はまた再びあらわれて、その時に徹と京子ははなればなれになってしまっているって。でも、そうならないでほしい、その予感は外れてほしいと、願ったけれど。

徹を追っていた三人の男たちが、ついに二人の居場所をつかんでしまった。徹の留守中に家の中に押し入り、一人でいた京子をひきたおす。服を引き裂かれた京子が必死に窓の外に裸の上半身を出して助けを求めるのもむなしく、その抵抗がかえって男たちに火をつけてしまい、かわるがわるレイプされてしまう。最初の男に入れられた後、必死に玄関の方へと逃げる京子を二人目の男が追い、殴り倒し、さるぐつわをかませ、また入れる。あまりにもあまりにも、痛ましくて、だけどいつまでも終わらないそのレイプシーン。その画面の片隅で三人の男のうちの一人が参加せずに、「俺たちはこんなんじゃなかった」と泣き伏していて……。それはラストシーンの、かつて徹にレイプされた女が「みんな、変わってしまったのよ」と泣き叫んだ、あの言葉に呼応してゆく。

徹が帰ってくる。京子がいない。引き裂かれた服の破片が落ちている。途端に事態を把握して京子を探す徹。トイレのドアから彼女の足が出ている。はだしの、剥き出しの、おびえた爪先。徹はひどい姿になった京子を助け出し、向きを変えるのももどかしく、後ろから抱きしめる。「あいつらが、来たんだな」「……徹がいなくて良かった」彼女をしっかり抱きしめ、号泣する徹。それは長く長く続いて……ああ、今、こうして思い出しても、涙が出てしまう。あの時、あんなに劇場内が込んでいなければ、もっと手放しで嗚咽すら出てしまうほどに泣いてしまっていたかもしれない。

しかし、そのあとの二人が素晴らしいのだ。二人はこんな生活から抜け出すために、あの仲間たちに金を返して、二人、京子の田舎の四国へと旅立つことに決意していた。お互いが田舎出身だということ、徹は修学旅行で生地を出るまで海を見たことがなかったこと、そんなことを海岸で話し合う。四国に行かない、と誘う京子に、徹は、そんな田舎なんか行けるかい、と言いつつ、まんざらでもない様子。かくして二人は手っ取り早く金を作るため、今までのお上品な顧客とは違う、野卑な男たちを一堂に集めての白黒ショーを催すことになる。その、直前の、京子のレイプ事件。しかし京子は私は大丈夫だから、と気丈である。その仕事は今までとは全く違い、徹が勃たなくなるほどの、下卑た雰囲気に満ちていた。男たちは押し合いへし合い覗き込み、女のアソコが見えないから頭を下げろだのと文句をつけ、挙句の果てには徹が勃っていないから代わりになろうと罵倒する始末。京子は自ら自分の大切なところを男たちの眼前にさらす。男たちはざわめき、覗き込み、明かりを照らし、ポーズを要求する。この色つやが……などとアホなことを言う男たちの目の前で腰を高く浮かし、みずみずしいモノをさらけだす京子は、なんという凛々しさだろう。……それは女の誇りに満ちたカッコよさも勿論あるのだけれど、それ以上に彼女の、徹に対する微塵も揺るがない愛情を感じて、凄く凄く、目頭がツーンとしてしまうのだ。

翌日、旅立つことを決めた二人は、久しぶりに二人っきりの、優しくて柔らかで穏やかで、そして情熱的なセックスをする。……これが、最後の、なのか。翌朝、徹は京子を起こさぬまま、あの女に金を返しに行く。女は、徹が“あの子と”白黒ショーをして稼いだ金だということを知って、ショックの表情を浮かべる。徹は京子と駅で落ち合い、つかの間二人が離れた一瞬をついて彼はあの男たちに連れ去られてしまう。京子があの女と一瞬間駅ですれ違い、女は勝ち誇ったような、いや、そう彼女が思いたがっているような笑顔を浮かべてて、京子が振り向きざまにあッ、と思うショットのなんという鮮烈さ。京子は急いで徹がいるはずの切符売り場へ行く。いない。狂ったように探し回る。いない!

徹はあの男たちにどこかのビルの屋上に連れられていた。縛られ、殴られる徹。それを冷たい目で見ている女。徹は狂ったように「京子!京子!」と叫び、そのたびにその女はピクリと反応するように思える。そんなにあの子が、と。「徹だけじゃなく、私たちも変わっちゃったのよ!だから、もっと、もっと殴って!」女の言葉はどこか矛盾していて、でも妙な説得力がある。ボコボコに殴られた徹を残して、皆を排除し、彼の傷にそっと手を触れる女、……勿論とうに判っていたけれど、このシーンが、一番確信が持てる。女は、徹が好きだったのだと。だからレイプされたことに……愛するが故のセックスではない(と彼女が思い込んだだけなのだが)ことにショックを受け、同志としてそして恋人として自分にとってかわった京子に強烈な嫉妬を抱いたのだと。その頃、京子は徹と初めて出会った公園に向かい、当然そこに徹はいなくて、そして渋谷をさまよい歩いている。その時だ。みゆきさんの「わかれうた」が流れるのは……。ひどい、ひどい、ひどい。このまま二人を再会させないつもりなのか。泣きながら歩く京子。いまでもある生地屋のマルナンのあたりを。それにかぶさるクレジット、カットアウトだなんて、あんまり、あんまりひどすぎる!涙が、止まらない。

徹と京子を演じる二人が、ぜっんぜん美男美女じゃないのが、イイのだ。この、80年代を目前に控えた微妙な時代感を実にリアルに伝える二人の顔立ちと肉体。徹は金の匂いがしつつも貧乏であるという、まさしく70年代と80年代をブレンドした顔のリアルさ。京子は不幸を呼び寄せそうな、しかも幼い顔だちと、一方で感じやすそうな、ふっくらとした肉体がなまめかしい。彼らを見ていると、確かに、まっとうに幸せになんてなれっこない、ってしか思えなくて。でも、でもやっぱり幸せになってほしいのに。切ない、って感覚を、これほど文字どおり痛切に感じた経験って……ホントに稀だ。

ハッピーエンドじゃない映画にこれほどのシンパシィを感じるのって、不毛なのかもしれないけれど……。★★★★★


ザ・セルTHE CELL
2000年 109分 アメリカ カラー
監督:ターセム 脚本:マーク・プロセトヴィッチ
撮影:ポール・ローファー 音楽:ハワード・ショア
出演:ジェニファー・ロペス/ヴィンス・ヴォーン/ヴィンセント・ドノフリオ/マリアンヌ・ジャン=バティスト/ジェイク・ウェバー/ディラン・ベイカー/タラ・サブコフ/ジェイク・トーマス/ジェームズ・ギャモン/パトリック・ボーショー/キャサリン・サザ−ランド

2001/4/16/月 劇場(丸の内プラゼール)
もはや完全なオリジナル、完全な独創性、というものは映画界において作ることが不可能になってしまったのかな、という気分がしてしまう。肉体が現実世界にあって精神がほかの世界にいるという状態、それが単なる夢見ているようなボンヤリとした状態ではなく、自分の、あるいは他人の明確な意思によるものであること、という世界は、ふと気づくと、「マトリックス」「アヴァロン」、ともはやひとつのジャンルを確立するまでになってしまい、それももともとはゲーム世界の“ヴァーチャル・リアリティ”からの発想であり、決して斬新なものではなくなってしまった。言うまでもなく、精神異常の犯罪者による殺人という映画は枚挙にいとまがない。実際、宣伝においても、やれ「羊たちの沈黙」よりどうだとか、「セブン」よりどうだとか、比較形容詞が乱舞している。見た目にはひどく斬新なように見えてそうではない、という現代映画のいわばひずみが、すでにしてクラシックになってしまった、という趣なのである。石岡暎子の衣装と、それを受けた美術が作り出す世界も、「タイタス」あたりを思い出させてしまう。ことほど左様に全く斬新、全くオリジナルを作ることは本当に難しい。

しかし本作に関してはそうした犯人をどう裁くか、裁くべきなのか否か、ということを掘り下げているという点があることに、ちょっと目が行く。といっても、「39 刑法第三十九条」を即座に想起してしまうのは否めないのだが。このターセム監督、インド出身だということで、まあ今の時代、どこの出身だからどういう思想だとかいうのはあまり意味をなさなくなってしまったのかもしれないが、それでも「39 ……」がまだそうした犯人に対する不信感を拭い去れなかったのに対して、本作では同じアジアの中でもやはり仏教の根源であるインドの血がそうさせるのか、こうしたさまよえる者、弱き者に対する許し、救いを感じとることができる。しかもそれをラテンシンガーでもある、また全く別種の、濃い血を感じさせるジェニファー・ロペスが演じているというのも、もしかしたら面白いのかもしれない。

表面上は最先端の科学技術による特殊装置によって、という体裁ではあるものの、このジェニファー・ロペス演じるヒロイン、キャサリンが携わっている“人の精神世界に入っていって、その心を治療する”という行為は科学的、医学的というよりは、哲学的、宗教的なものを感じさせる。それこそ、仏教の世界である。一見荒唐無稽な、アヴァンギャルドな夢世界に最終的に感じられるのは、諦念と許しの感情の美しさなのだ。許し、とは昨今跋扈している癒しとは明らかに違う、相対している相手に積極的に責任を持つ形での、行為であり、感情である。癒しという言葉にどこか拒否反応を示していたのは、このへんに原因があったのかもしれない、と気づく。癒し、には責任がないから、その人が勝手に癒されている、という視点を感じるから。

そうしたものを一身に体現する彼女と対比させる意味で登場するのが、刑事のノバック(ヴィンス・ヴォーン)である。立場上のみならず、感情的にも被害者第一主義である彼の主張はいちいちもっともだし、今までだったら彼が感じるようなことだけで映画は、いや世界は成立してしまっていただろうと思う。曰く、精神異常などは罪逃れのための言い訳であり、そいつより百倍ヒドい子供時代をおくった人間だって、殺人など犯さず立派な大人に成長している、という言である。比較論、それは何かを説明、主張するときに実に有効な手段だけれど、その一方でそのことによって全ての対象物を均一化してしまうという落とし穴がある。彼の言っていることが有効だとすると、全ての人間は同様の精神的強さを持ち、同じ条件ならば同じように精神世界が構築されていくはずだ、ということになってしまう。それは差別論であるのみでなく、まるでコピー人間こそが良しとされているような、一種の空恐ろしさを感じてしまう。

殺人者が個性だという気はさすがにないけれど、殺人者であり、宗教を信奉している人であり、あるいはもっと広範に前衛芸術家であったり、同性愛者やバイセクシャルであったりという、自分の、あるいは世間一般の規範の線から少しでも外に出ている人間に対して、彼らは同じ人間ではないのだと、許すべき存在ではないのだと、まるで神の視点から言っているような恐ろしさである。それに対立するキャサリンのような存在があって初めてその恐ろしさに気づくのだから、それこそが最も恐ろしいのかもしれない。

タイトルの「ザ・セル」とは、キャサリンが心の中に入っていって許しを与えた、くだんの精神分裂者で殺人者、……それは子供の頃の父親からの虐待によって形成されたものなのだが……が作った、誘拐した女性を監禁して、40時間たつと水が注がれいっぱいになるという装置。恐怖のうちに水の中で溺死していく様子をビデオにとり、その溺死した女性を漂白剤で真っ白にして死姦する彼。父親の虐待によって生まれた水に対するトラウマ、真っ白なものに対する執着は自らを不当に汚した父親に対する複雑な愛憎のせいなのか。自らを鎖でうがち、宙空に吊り下げる彼の姿といい、この残酷一辺倒の描写も、どこか深い精神的、哲学的なものを感じさせる。

精神が病んで故の犯罪にここまで踏み込んで描写した本作は、アメリカ映画において「性善説」を初めてはっきりと感じさせた。やはりそれはアメリカ人監督では、ダメか……。★★★☆☆


サディスティック&マゾヒスティック
2000年 91分 日本 カラー
監督:中田秀夫 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影: 音楽:
出演:小沼勝 谷ナオミ 片桐夕子 風祭ゆき 木築沙絵子 小川亜佐美 坂本長利 荒井晴彦 黒沢直樹 中田秀夫

2001/2/20/火 劇場(ユーロスペース)
日活ロマンポルノ時代にデビューし、1999年に初の一般商業映画「NAGISA」を10数年ぶりに撮るまで、一貫してロマンポルノに従事した小沼勝監督を中心に、かの時代を振り返る、その後半期に小沼監督の助監督を経験した中田秀夫監督によるドキュメンタリー。今や時代となった当時の女優やスタッフが数多く出演して証言する小沼勝という監督は、先日「ラブハンター 熱い肌」で今更ながら小沼作品を初めて観た私にとって、本当に未知なる巨匠との出会いだった。今まで私はロマンポルノやピンク映画というものが、セックスシーンをある程度入れれば後は全く自由な、いわゆる作家主義を発揮できる場、として認識していたのだけれど、そしてそれもまた真実なのだけれど、ここで描かれる日活ロマンポルノと、それにほとんど滅私奉公したこの小沼監督という人はそれとはまたちょっと違う。“ある程度入れれば”ではなく“10分に一回入れる”という確固たる制約と、小沼監督のみならず同時期の監督が追及したSMという表現方法において、作家主義的というよりは、実に職人的に仕事をこなしていった人物であり、職人的でありながら、そのソフィスティケイトされたSM世界という、作家主義的な面も成熟していた監督なのだ。

作品そのものを観ていてもそうだし、こうしたドキュメンタリーを観ているとさらにその感を強くするのだけれど、いわゆる成人映画と呼ばれるものに出演する役者というのは、特に女優の場合、一般映画のそれよりも、非常に肉体的、精神的、そして演技の技術に置いて高いレヴェルを要求されている、ということである。だから時々とんでもない才能を持つ女優も輩出するのだが(本作の中に置いて語られる谷ナオミとか、今だったら葉月螢とか)そうした女優たち(特にロマンポルノという、終焉を迎えたものに出ていた)がある程度の年を重ねてしまった時に、それ以上の活躍の場を絶たれてしまったのは非常に残念である。

ことにセックスシーンというのは、想像するに、これほど絶対に女性としての拒否反応を起こしながら演技をしなくてはいけないものはあるまい、と思う。まあ、ただの演技といえば言えるし、慣れもあるだろうけれど。でもそれを確信したのは、本作の中でもその部分は大いに語られていたから。片桐夕子などは、一個でもそういうシーンが減るとホッとしたというし、経験がないから(!なくて、こういう映画にトライするのか!)監督に見本を見せてもらって(家で一晩中練習したという監督を想像すると異様に可笑しい)必死に真似したという女優や、動きをつけることでよりエロティックにするために、画面の見えないところでスタッフが足を引っ張ったりすると「自分で頑張るから(足を引っ張ったりするのは)やめてください!」と言ったという女優たち。精神的拒否反応を起こしながらも、その演技で観客を感じさせなければいけないという、それは観客の最も本能的に根ざした部分を掘り起こさなければいけないという実に職人的な作業であり、もちろん監督の演出もそうなのだけれど、それを体現するために必死にあがいたこうしたジャンル映画の女優たちの技量には感服してしまうのだ。

時代が違うというのもあるけれど、でも一般的映画ファンとしての観客、ことに女性にはこうした映画になかなかふれられる機会がなく、ほんの時々こうして目の前に現れる未知の世界に、私は驚き、打ちのめされ、そして大いに嫉妬してしまうのだ。これは観客差別、映画環境差別だぞ!と……“男性に向けられてる”と言うけれど、なぜ男性だけに向けられるのか。そりゃ扇情的なタイトルやポスターで臆してしまうところはあるけれど、女性だってこうしたスゴい映画は観たいし、成人映画の前提にある、セクシーなものに対する興味だってもちろんある。“男性に向けた”という部分で、女性蔑視的な部分がある、と必要以上に男性側が思い込んでいる気もする。そんなことはない、と思う。少なくとも全世界的に女優が主演、女性主導型の映画がこれほど少ない中で、成人映画は完全に女性の作り出す世界なのだから。むしろフェミニズムと言いたいくらいだ。

そして、小沼監督である。女優やスタッフによって語られる小沼監督像は、サディスティックなまでに妥協を許さず、しかし「最終的には裏切らないから、憎めないのかもしれない」と言わせる一種のカリスマ性のある人物。「獲物を狙う前の、じっと見つめてる狼みたいな目、ブルーに見える目をしている」とある男優は言う。実際にそうして演出している場面が出てくるわけではないけれど、全編でインタビューというよりはフランクに世間話をしているような小沼監督を見ていると、フランクなはずなのに、そうした目の強さ、目だけではなく、監督としての動物的感性が見え隠れする。なんというか、……やはりフツーの、そこら辺にいるオジサンじゃないな、というのは、一見して判るものなのだ。

ロマンポルノやピンクに対して興味があるとは言いつつ、それでもいままではどこか、それはそうした映画を手がける監督にとって一般映画に“進出”するための踏み台のように感じていた感覚が、今更ながら大いに間違いだったことに気付いた。それらの映画世界というのは、ひょっとしたら“一般映画”よりもずっと追求すべき部分のあるジャンルであり、そしてそれを許してくれる唯一の場であるのだと。現在のピンクの監督たちにしても、一貫してピンクで撮っている人、おりおり一般映画を、あるいは一般劇場にもかかるピンク映画を撮りつつも、スタンスはあくまでピンクに置いている監督たちが多く、時折その作品を観る機会があると、その独自性に毎回打ちのめされてしまうのだ。これは“一般映画”の比じゃない!と……。それらの作品は60分強という制約もあり、そしてその中に10分に1度(ピンクもそうかは判らないけれど)セックスシーンを入れるという制約があり、よって語られるのは男女の(女同士、男同士もあるが)さまざまな形の愛情に限定されるのだけれど、これらの制約、限定が、途切れることのない集中力度、結晶度の高さを生み出している。昨今の、イタズラに長ったらしい映画を作り、それを大作だの叙事詩だのと思っている映画作家たちとは職人としてのプライドがまるで違うのだ。

本作で語られているのは小沼監督、かつての日活ロマンポルノの記録、そして中田監督のそれらへのオマージュなのだが(小沼監督はじめ、当時のスタッフ、キャストにインタビューする中田監督のやたらと嬉しそうなこと!)、そこからいろいろと考えることがやけに軌道を外れてしまった。何はともあれ、どんなジャンルのものでも映画は映画、素晴らしいものは素晴らしいのだ。これはオマージュだの、ナツカシ印がテーマなのではなく、これほどの才能を、その活躍した時代もとっくの昔に終わったあとに、一人の心ある映画監督によって掘り起こされなければ知ることもなかった(少なくとも私は知らなかった)、などというこの理不尽な状況、これこそが問題なのだ。★★★★☆


サトラレ
2001年 130分 日本 カラー
監督:本広克行 脚本:戸田山雅司
撮影:藤石修 音楽:渡辺俊幸
出演:安藤政信 鈴木京香 八千草薫 寺尾聰 内山理名 松重豊 小野武彦 小木茂光 深浦加奈子 半海一晃 田中要次 川端竜太 高松英郎 藤木悠 武野功雄

2001/4/2/月 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
私はてっきり、“サトラレ”とは、さとるの化け物からヒントを得たものだと思っていて、実際観ていてもそう感じたのだけれど、どこにもそんな記述はないので、別に関係ないのかもしれない。まあそれはいいとして、このたった一つのアイデアで、これほどまでにエンタテインメントを引き出せるというのは凄いかもしれない。原作は未読だけれど、本広監督ならばどんな題材でも安心できるエンタメを作ってくれるとは思っていた。映画ではまだこれで3作めだけれど、その辺の職人的な作り手としての安心感を感じさせてくれる監督。ハリウッド映画と並んで堂々メジャーの公開規模でかけて安心できる、という部分での。でもだからこそ優等生的な感じもしてしまうのだけれど……。

自分の考えていることが他人に筒抜けになってしまう、俗称“サトラレ”と呼ばれる人たちは、IQが高く、国家的財産として保護される立場。彼らは自身がサトラレだとは知らずに生活していて、それというのも町、国全体でそれを彼に悟られないようにしているからだ。……ウソの祭り場面にウソの状況を作り出すあたりに顕著に見られる、どこか「トゥルーマン・ショー」を感じさせる世界は、しかし一人の人間としての彼を必死に守ろうとする人たちによって、健全な作品世界を形成している。仕事として従事しているとはいうものの、SPの面々、特に小木茂光扮するそのリーダーなぞは、サトラレである里見健一に対する愛情を充分に感じさせるし。もちろんヒロイン、小松洋子を演じる鈴木京香もしかり。当初は研究対象として興味シンシンだったのが、次第に彼への理解と愛情を深めていく過程が、コミカルでありつつ真摯に演じていて。彼女、終始自分が30過ぎの女だということを自嘲気味に言うのだけれど、そしてこれは実際鈴木京香自身のアイデアらしいんだけど、なんかそのかわいらしいリアリティ?もイイのよね。……実際いつまでも若くてキレイだと思っていた彼女も、そうした年輪を感じさせるようになって、勿論イイ意味で、ではあるんだけど。ちょっとほほのあたりとか、気にならなくもなかったりして。でもそのへんの乗り切り方が、上手い、のよねえ。

主演の安藤政信も言っていたけれど、本広監督は状況説明してしまうクセがある、と思う。メインの役者の演技だけでつなぐのではなく、ということ。もしかしたら安藤君(と呼びたくなっちゃうんだよなー、彼)は自分の演技だけを信頼してくれていない不満の気持ちがあったかも、しれない。実際それが最も顕著に出ている、彼が屋上で号泣するクライマックスでは、彼の心の声が聞こえてくる病院内の人々が随所随所で沈んでいる画が挿入されて、こりゃあ、ここに力を入れた彼にとってはそう思うだろうなあ、と思ったものだ。かくいう私もここでガマンしきれずに泣いたクチなので。そう、安藤君の“泣き”だけで、充分泣けるのだ。別に病院内の人々がシンクロしちゃってる場面を入れなくったって、そんなの判るし。監督の性分なのかポリシーなのか判んないけど、時々こういう“親切”が観客がバカにされてる、とまでは言わないまでも、信頼されていないように感じられちゃうんだよなー。

思えば、この“サトラレ”という設定だって、そんな本広監督の特徴的な部分を示唆しているのかもしれない。その時の彼の心情をことごとに説明してしまう意味での、サトラレの心の声。役者の仕事はこれと全く逆の作業なわけだから、安藤君がことさらに作りこもうとせず、ナチュラルに演じているのも頷ける。その上これ以上説明的なものを付加されて、不満に思う気持ちも、充分頷けるのだ。

“ガマンしきれずに”と書いたけれど、別に我慢する必要ないじゃない、とは思うんだけど、くっそう、こんなんで泣くもんか、という気分にさせられたのは、やっぱりこの辺に理由があって。思わず恥ずかしくなっちゃうほどの大盛り上がりな音楽が、私はどうもダメなのだ。泣け、泣け!って言われてるみたいで、ぜえったい、泣くもんか!と思ってしまう。でもそう言いつつ、サトラレ=里見健一の祖母、キヨが入院し、彼の立派になった姿に思わず涙する場面から、手術でキヨが手遅れだとわかり、こんなに切り刻んで、助けてあげられなくてごめん、と何度も何度も心の中でつぶやき、あの屋上でのクライマックスまで、……こ、これはさすがに泣かずにはいられなかった。というのも、キヨ役の八千草薫と安藤君が、良すぎるんだもの!八千草薫はまさしく八千草薫!って感じで、いい意味でのステロタイプ、これ以外彼女はやっちゃダメよというぐらいの、慈愛溢れるおばあちゃん役があまりにもあまりにも似合いすぎる。ここまでのベテランになると、この人にはコレ、というこうしたキャスティングはアリだと思う。というのは、「天国までの100マイル」での彼女とほとんどカブってるな、と思うんだけど、常に違った役柄で冒険するのが使命、のような若手や中堅の役者と違って、こうした大御所は、あれを演じてくれれば安心、という部分が存在していて、それを本人もプロとして良く判っているから、なんだよなあ。

ところで、“サトラレ”だからこそ純粋だとか、正直だとか、ウソがつけない、という雰囲気で展開されているのは、ちょっと違うと思ったんだけど。あ、でもそれはあくまで宣伝としての部分でかなあ。いやいや、本編を見ていても、やっぱりそう思った。なんたって安藤君が演じているんだから。でも彼は自分がサトラレだとは知らないわけだし、彼が“無防備に”思うという行為は、同じように他の人間だってやっているわけで、それがウソがつけないということにはならないはず。しかしまあ、そう感じさせてしまうところが安藤君の、そして本広監督の手腕と言えば言えるのだけれど、ただ、やっぱり人間が他人に筒抜けだとは知らないまま心の中で考えていることっていうのは、決してこの里見健一のようにあたりさわりのないこと(としか思えない)であるはずもなく、自分を振り返って考えてみると、あーんなことや、こーんなことまで普段考えちゃってるよ、もし私がサトラレだったら(それを知ったら)恥ずかしさと自己嫌悪で即自殺だよ!と思っちゃうんだけれど。

劇中、里見健一と彼を保護、監視する精神科医の洋子が無人島へバカンスへ出かけ、そこで第一号の、自分がサトラレだと知ってしまった人物と洋子が出会うのだけれど、彼こそがそうしたサトラレであるが故の最も重要な部分を一身に体現している。彼のような人物を出さなかったら、ほんとにイカッちゃうところだが、しかし彼も出しっぱなしで、その場面以外まるで触れることなく、あたかも彼と純粋な里見健一とは違うんだと言っているかのようである。

でも、彼がこの島にいること、特能委員会は絶対判ってるはずなのに、なんでまた二人を行かせたんだろう?おかしいよね、だって健一が同じサトラレと接触する恐れがある場所に行かせるなんて、ちょっと考えられない。隣町に祭りに行くだけであんなに大騒ぎしてたのにさあ……。そーゆーツッコミは、しちゃダメ?

ああ、でもでも、良かったの、ほんとに。純粋に面白かったし、ムチャクチャ泣いたし。別にケナすつもりは全然、ないんだけど。少々過剰に親切すぎるきらいはあるけれど、自分だけ楽しんじゃっている昨今の映画作家と違って、あくまで観客を面白がらせようというプロ意識が凄く感じられるし、実際それが成功しているし。海外の映画祭でどうのこうの、というのがやたらと多い最近の邦画界において、それとは別のところでしっかりしたエンタテインメントを作ってくれる監督というのは実は少なくて、だから頼もしいのだ。★★★☆☆


ザ・メキシカンTHE MEXICAN
2001年 123分 アメリカ カラー
監督:ゴア・ヴァービンスキー 脚本:J・H・ワイマン
撮影:ダリウス・ウォルスキー 音楽:アラン・シルベストリ
出演:ブラッド・ピット/ジュリア・ロバーツ/ジェームズ・ガンドルフィーニ/ボブ・バラバン/J・K・シモンズ

2001/10/6/土 新宿シアターアプル
正規の公開時には観ていなかった本作。何故観ていなかったのか、何となく観る気が起こらなかったのだが、その“何となく”の部分が、こうした作品であることを予期していたのか。実際の公開時には、本国アメリカからの情報も全く入ってこなかったこともあって、いわゆる作品の評判というものはあまり聞こえてこなかった。割とあっという間に終わってしまったような気もする。世に流布していたのは、作品の内容が全く予測できないブラッド・ピットとジュリア・ロバーツのラブラブなワンカットのみであり、まさしくこの二人のスターのみで売っているというのがミエミエだったから……。監督の名前も全く聞いたことのない人(マウス・ハント……うーん、観てない)。しかしハリウッドきっての大スターとはいえ、作品選びにはかなりの慎重派であると思しき二人が、こんな、明らかに数字ねらいなだけの作品に出るなんて、どういうことなんだろう?

超多忙の大スターである二人が、お互いのスケジュールが合わなかったせいじゃないかなんて、うがった見方もしたくなるほど、二人一緒の展開が少なく、完全に分断されている。いや、これはやはり、ブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ双方の主演映画を合体した趣であり、やはり大スターゆえの、軋轢を避けるゆえであると考えた方が正しそうである。しかし、こちらとしては、せっかく彼ら二人が出ているんだから、終始二人がベタベタしてほしいし、二人一緒ゆえの展開を期待していたんだから、正直言ってかなり拍子抜けである。宣材写真から言ったって、ちょっとだまされた気がするのは仕方ないんじゃないの?という……。ブラピ&ジュリアの映画!って言ったら、普通ゴージャスなラブストーリーを期待するっつーの、違う?

一応、ラブストーリーのつもりなのかなあ。これはハリウッド映画の常で、妙に愛の意義とか、本物の愛とかぐちゃぐちゃこねまわしてはいるけれど、それが感動的に響くには、彼らの恋人としてのエピソードがなさ過ぎて、ちょっとムリ。だって結局、彼らが今ひとつ上手く行っていない、というのを顔合わせりゃ口げんか、とか、他人(リロイ。いや、ウィンストンと言うべきかな)へ愚痴をたらたら訴える、とかいうやたら説明的な部分でしか表してないから、全然切実性がないんだよなあ。

んで、もちろん主題は、タイトルロールでもある、ザ・メキシカンという銃の争奪戦にあって、その銃が持つ、殆どラショーモン並みの様々な逸話の方が、よっぽど愛の何たるかを伝えてくるのである……といっても、あくまでこの二人に比して、ってだけで、それもまた、ちょっと可愛らしすぎるんだが……。まるで昔のサイレント映画を再現するがごとく、セピアな色合いで展開される、呪われた銃と呪われた恋人たちの物語は、ちょっとしたおとぎ話、ってな趣向で悲恋モノにしちゃあ、ちょいと伝承性が強すぎる?まあ、好きだけどね、こういうおとぎ話は……。

ああ、そうそう、愛の何たるかを教えてくれるのは、ブラピ&ジュリアでも、この銃の持つおとぎ話でもなく、非情な暗殺者であるリロイ→ウィンストン(めんどくさいから、リロイで統一)に他ならない。目ざといサマンサ(ジュリア)にゲイであることを見抜かれ(あの一瞬の目配せでねえ……空気の作り方も上手いけど)、そして理想の恋人と出会うことになるリロイは、しかし自分の忌まわしい職業のせいで、その恋人を失ってしまう。暗殺者と人質という関係を超えた、奇妙な、しかし真摯な友情関係を彼と築いていたサマンサは、ショックを受ける。あまりにも悲痛なリロイと、彼に心底同情し、一緒にいてあげたいと思うサマンサの、性差も性的志向も超えた本物の友情関係はなかなか泣かせる。

リロイは彼だからこそ言える、愛の何たるかということの意味をサマンサに伝授する……というところは感動的だが、しかしそれが彼らに当てはまるかっちゅーのは、先述のとおり、疑問なんだけどね。だってさ、仕方ないとはいえ(仕方ないのかなあ……)こともあろうにジェリー(ブラピ)はリロイを殺してしまい、親友を恋人に殺されたサマンサをどん底に突き落とすんだもん!それでもリロイの残したその言葉をジェリーに投げかけて、同じ言葉が返ってきたことで、サマンサはジェリーの愛を確かめ、抱きしめ合う二人。……いや、いや、私だったら、ぜえったい、イヤ!恋人が親友を殺したら、その天秤はかっんぺきに親友の方に傾く!と思うんだけどなあ……だってさ、これって、それこそ恋人と親友を天秤にかけて、どっちが大切?っていう問いかけに対して、そりゃ、愛こそすべてじゃーん、とでも言ってるみたいなんだもん……いかにもアメリカっぽいけどさ。

ほっとくとどこまででも喋るパワフルなおしゃべりのジュリアは、うーん、やっぱり上手いよね。このおしゃべりもそうだし、恋人のことで常に頭がいっぱいだったり、カウンセラーを信じちゃう部分とかも、女の子(って年でもないが……)の最大公約数的な部分をいやみなく体現している。一方のブラピは、ドジなちんぴらという、これまでの彼には想像つかなかったようなキャラを、しかしもともとの甘いマスクをナサケナイ男、てな方向に最大限生かして、まるでハマリ役とでも言いたいほど似合っている。つまりは二人のキャラに関しては文句は全くないんだけど、このつまらなさは……脚本と監督のせいなのか?やはり……。★★☆☆☆


惨劇の週末EL ARTE DE MORIR
2000年 102分 スペイン カラー
監督:アルヴァロ・フェルナンデ・アルメロ 脚本:
撮影: 音楽:
出演:フェル・マルティネ/マリア・エステベ

2001/2/6/火 劇場(新宿シネマ・カリテ)
隣の劇場の「シベリア超特急2」が長蛇の列を作っているのを横目で見ながら(……)ガラガラの劇場で鑑賞。このホラー映画としてはあまりにも平凡なタイトルが、でもなあんか、懐かしかったんだよね。今は訳の判らないカタカナタイトルばっかりだから。ホラーに限らずだけど。んで、これはスペインホラーなのである。イタリアホラーには一時期熱を上げてたけど、スペインホラーというのは初めて。ストーリーだけ聞いてると、確かに「ラストサマー」っぽくもあるんだけど、その殺された相手が友人の一人であり、復讐を果たしていく彼の姿が彼の親友にはハッキリと見えているところが、本作の重要なポイントである。オチも、怪談話の王道のひとつではあるけれど、それまで全く気付かせずに引っ張っているので結構驚かせてくれて、小気味よい。

しかしねえ、コワいのは、この殺された前衛芸術家で変わり者のナチョ(チーズみたいな名前だなあ……)の亡霊よりも、そのナチョの親友で主人公の彼女、マリアの歯が全然見えないことなんである!?笑っても前歯がほんのちょっと見えるときがあるかな、って感じで、いっつもお歯黒状態。もうね、これが最初から最後まで気になって気になってしょうがなかった。こんなコワい顔の女の子をヒロインにしないでほしい、って違うか……。主人公の彼(役名忘れちゃったので、このよーな回りくどい言い方)はというと、この人もハンサムなんだかそうじゃないんだかよく判らない顔立ちのお人で、ふち無しのメガネをかけて髪をきちんと抑えている時なんかは結構端正に見えもするんだけど、なんかすっごいヤボったく見える時もあって。この殺しにかかわった友人グループの中で、モデルみたいにキレイな女の子もいたりするんだけど、彼女は一番平凡な役で真っ先に殺されてしまう。あ、でも彼女の殺され方が一番ヤだったかもしれない。何匹もの猛犬に追いかけられて、追い詰められて、……まッ、その後は、ね。お決まりでズルズルと下がってく手だけ見せるという、今時珍しい慎ましくもクラシックな見せ方なんだけど、「闇のパープルアイ」(なつかしい〜ん)の一巻最後でヒロインの妹が同じような目にあうシーンがあったじゃないですか。私あれが当時ものすごい衝撃で、ずーっとあの場面ばかり頭にリフレインしてて、それを思い出してしまったなあ。うおお。

ナチョは、多分この友人グループの中でただ一人、突出した才能をもつ特別な人間だったのだと思う。彼が個展を開いてそこにその友人たちが見に来る場面があり、彼らはナチョの絵をクダラナイものだと斬って捨てるのだけれど、それが、彼らの方こそが平凡なのだという証なのだ。ナチョは皆に嫌われている。というか、疎ましがられている。それもまた芸術家の宿命である。やっぱり平凡ではっきり言ってカイショのない主人公が、何故ナチョの親友なのかは不思議なのだけど、彼は親友であるからナチョの才能を信じていて、皆との不仲を何とか修正しようと躍起になっている。しかしナチョにはそんなものはいらないのだ。ナチョはマリアにチョッカイ出したりもするけど、多分あれはナチョのことだもの、本気なんかじゃなかった。だってナチョはゲイだって疑われてたりしたような気がしたし(……なんてテキトーな記憶……)親友の彼のことが好きだったんじゃないかなあ。

この変わり者のナチョはこれら凡人友人たちから多少の腹いせもあって、イタズラのつもりで寝袋のままプールに投げ込まれ、あえない最期を遂げてしまう。主人公の彼は、その時ナチョがマリアにチョッカイ出してたことで怒ってて、ただ黙ってそのイタズラを眺めてて、結局ナチョを見殺しにしてしまった。死体を埋め、事件当時は何とか隠しとおせたものの、4年後、行方不明の扱いだったナチョのIDカードが発見されたことで、また彼らは事件現場へと集まることとなる。死体を移動しようというのだ。しかしその作業の最中、現場の廃墟は火に包まれる。この時、彼らは命からがら逃げおおせた、……ハズだったのが、実はこの時みんな死んでいたというのだ。ナチョは言う。「生まれるのに10ヶ月かかるように、死もまたゆっくりと知らされるものなのかもしれない」しかしこれはどう考えたってナチョの復讐の仕業なんだけどなあ。彼は自分を殺したコイツらを、アッサリと死なせず、その罪をもう一度じっくり思い出させて、その恐怖で追い詰めた上に、すでに死んでしまっている彼らをもう一度殺していく。

「自分が存在していたことを覚えていてほしい」からだとナチョは言う。これって、人間の、ほんとに根源的な、そして最終的な切実な願望だ。なんか、思わずすっごいナットクしてしまった。亡霊となったナチョはいつもいつもすっごく哀しそうな顔して現れて、何かを言いたそうにして、何も言わずに去ってゆく。主人公の彼は、ナチョが自分に何かを訴えているんだろうと思いながらも、それがなんなのか判らず、その間に友人が一人、また一人と(一見)不慮の死をとげていく。バーに何故かお客が誰もこなかったりするコワさとか、何故か開かない駐車場の扉とか、死にいたる前までのシチュエイションもコワくて、殺しのバリエーションも豊かである。何故ナチョがこんなことをしたのか。答えは簡単、実に簡単。ナチョは自分を覚えていてほしかったのだ。それはまさしく芸術家の孤独でもあるんだなあ。

これが現実世界じゃないと知ってから、いや知る前から徐々に周囲のモノがだんだんと失われていく。例えば、マリアが飲み物を取りに行こうと台所の方に行くと、そこには光り輝くタイルの壁しかなかったりする。これはかなりコワい。でもこういうのって、夢でよく見るような光景。それが死へのカウントダウンの光景なのだと思うと、なんかゾッとする。こうして考えると、現実世界って、ほんとにゴチャゴチャしてて、いろんなモノで構成されてるんだな、と思う。自分が生きているということを確信するために、生きていくのに必要なモノなんだと称して、さまざまなもので周りを固めている人間たち。それが失われていく恐怖。もしかしたらそれが本作における一番の恐怖かもしれない。

最終的にこの火事でこの主人公の彼とマリアだけは命を取りとめているんだけど、彼が捨て身でかばったおかげでかすり傷程度だったマリアに比べて、彼は虫の息である。ナチョは、他の人たちはみな一押しで死なせることが出来たけれど(っつーか、一押しして殺したんだな)、この親友に対してだけは、それを躊躇している。マリアが助かったことが、ナチョの意志だったかどうかは判らないんだけど……ただ、ナチョはこの親友にだけは惨劇の警告をしているし、秘密を明かしてもいる(これを知らされた時、主人公の彼が工藤静香ばりの崩れ泣きべそ顔になるのがスゴい)。そして彼が結局死んでしまうかどうかは告げずに、去っていってしまう。しかしラストは、彼のパルスメーターがまっすぐになってしまい、あれは、死んじゃったんだろうな。ナチョは愛する彼を連れて行ってしまった、ってことだろうか。愛しているから、生き延びさせるのか、また逆に愛しているから自分の世界に連れ去るのか、どっちだろ、って思ってたんだけど。……そして残されたマリアが、4年前何があったのか、口を開きかけるところで(やっぱり歯は見えない)物語は終わる。

しっかし、スペインホラーは(っつーか、この作品しか観てないけど)独特の泥臭さがあって、それは日本のホラーの怨念モノとも違う、情熱系の泥臭さで、結構胃に来たなあ。★★★☆☆


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