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サイドカーに犬
2007年 94分 日本 カラー
監督:根岸吉太郎 脚本:田中晶子 真辺克彦
撮影:猪本雅三 音楽:大熊ワタル
出演:竹内結子 古田新太 松本花奈 谷山毅 ミムラ 鈴木砂羽 トミーズ雅 山本浩司 寺田農 松永京子 川村陽介 温水洋一 伊勢谷友介 樹木希林 椎名桔平
と、いきなり全く関係ない話から入ってしまったけれど。
本作は、芥川賞をとった作家、長嶋有のデビュー作の一遍。未読だもんで、その不思議なタイトルが一体何を示しているのか興味があった。
冒頭は、不動産会社に勤めるミムラ嬢が、客に部屋を案内している様子からスタートする。「トイレに窓がない」とかゴネる客は、その後も会社にクレームをつけてくる。何か、くさくさする彼女。
そして、喫茶店で弟と顔を合わせる。どうやら久しぶりの様子の会話。弟の結婚式の招待に来たらしい。「親たちもこれを機会に久しぶりに会わせようと思うんだ」と言う彼は屈託がないのに、何となく冴えない様子の彼女。「姉ちゃん、そんなんじゃ女としての幸せつかめないよ」弟の軽口に戸惑ったような顔をあげる彼女。
……というシークエンス、あれ?竹内結子がヒロインの映画を観に来たんだよな……劇場間違えたかしらん、などとちょっと不安になる。しかしこれは、20年後の薫の、現在の姿。
彼女、薫は20年前を思い出す。弟と、そして父と離れ離れになった現在の原因となった出来事が起こった、20年前の夏。
ある日、母親が突然出て行った。それが家出だってこと、もう一度母親が戻ってくるまでピンと来ていなかった。
お父さんが突然中古車販売業の仕事を起こしたことが、気に入らなかったのか。いやそれだけではなさそうなのだけれど、子供である薫にはよく判らない。
母親が出て行ってすぐ、一人の若い女性が突然、薫だけがいる家の中に入ってきた。「おっす!……じゃなくて、はじめましてか」などと、なんだかひどくざっくばらんな。
「この人は、ヨーコさん。食事作りに来てくれるって」そんな風に父親は彼女を紹介した。
ウエーブのかかった長い髪、ハーフパンツにスニーカー、まるで自転車レースに出るみたいなカッコイイドロップハンドルの自転車にまたがった彼女。
カレーの皿に麦チョコ入れて「ホレ、エサだ」なんて渡してくるようなおおざっぱさ。タバコをスパスパ吸い、薫に対してはまるで男同士のクラスメイトみたいな口調で接してくる。
薫は、小さな弟が無邪気で明るいのに対して、聞き分けのいい、いや大人の目から見ればやけに冷めて可愛げのない子供だった。
でも、そうではないことを、ヨーコさんは一発で見抜いていた。本当は薫が心の中にしまっていた気持ち。
ところで、私の中では、どうも好悪の感触に波があるのがこの根岸監督作品。というほどちゃんと網羅して観ているわけではないんだけど、「透光の樹」があまりにヒドい印象だったのでそう感じてしまうんである。
それに、好、の方も良識、というか刺激的な部分ではあまりガツンと来ないような気もしてる。
本作は、もっと毒のある感じにも出来ると思った。だって何たってヨーコさんはお父さんの愛人であり、お父さんは中古車販売業といっても、なんか盗難車扱ったりナンバープレートかっさらってきてたり、あるいはヤバイ方たちと付き合いもあるみたいだし、しかしそれを自分ではなく仲間にばかりヤバイ橋を渡らせているズルい男なんだもの。その仲間たちだって正直類友というか、あまりマトモな人間じゃなさそうだし。
それに、大体、妻のいない間、愛人を食事係に呼ぶ神経自体、かなり疑うものがあるし。
父親を演じるのは古田新太。彼ならば、それを毒としても演じることが出来たと思う。彼はいわゆるテレビなどで受ける印象では憎めないキャラばかりが前面に押し出されているけれど、この人が本気で毒を吐き出したら、結構怖いんじゃないかと思う。
確かにこの物語は、毒の物語ではないんだろう。まだ毒を知らない子供たちが、でもどこかで薄々それを感じながら、本来なら仲良くなどなれっこないお父さんの愛人と、ひょっとしたらお父さんよりも理解しあえる存在になる。そんなひと夏の奇蹟の物語ってことなのだろう。
それは、その時の薫はやっぱりまだ子供だから判っていなかったけれども、やはり女同士でもあり、女が持っている毒を、もう彼女はその中に持っていたからなのだ。
それが証拠に、ヨーコさんは薫に別れ際、“友達になれて良かったと思ってる”と言った。
“仲良くなれて”じゃなくて。
ヨーコさんは薫にいろいろなことを教えてくれた。例えばコーラの味。「歯が溶けるから」と尻込みする薫に、「私も子供の頃そう言われた」とヨーコさん、「じゃあ、石油はあと何年でなくなるって教わった?」「30年!」「私もそう教わった。ヘンだね」とニカッと笑い、有無を言わさずコーラを買ってくれる。「どんな味か、試してみなよ」
石油が30年というのは聞いたことないけど、確かにコーラで歯が溶けるとは言われてたな、と思う。あ、じゃなくて骨が溶けるって言われてたんだったっけ。
80年代に子供時代を送っている薫が遭遇する、そうした様々なことは、私にも覚えのあることばかり。確かにあの頃の子供たちの間では麦チョコが流行ってたし。
ところでひとつだけ気になったのは、ポストはあの頃からあの二口の四角いポストだったかしらん。そして、思わずサイフから取り出されるお札に注目したけど、遠目で見せない。古いお札を用意出来ないほど予算がないとも思えないが……。
一体、お父さんがどの程度の危ない橋を仲間たちに強いていたのか。全てがドロボウまがいの仕事だったのか、ヤクザ屋さんと付き合いがあったのか。一緒に働いている青年がどこか夢見る瞳で言っていた、全国にチェーン展開して天下とろうなんていう野心は最初からなかったのか。
ヨーコさんはそれにどこまで加担していたのか。彼女がどんな仕事についている人なのかさえ最後まで明らかにはされなかったし、表面上はお父さんの仕事とは関係なさそうだったけど、恐らく何らかの形で関わっていた筈なんだよね。
それもヨーコさんは多分、お父さんの汚い部分をこそ見ている筈だった。彼のやり口の汚さに怒った仲間から殴りかかられたりする修羅場にもヨーコさんはいて、訳知り顔だったし。
彼の同僚から脅しまがいに金を無心される場面、何も知らないと突っぱねつつ、彼女はその同僚に金を出した。そんなことはしなくてもいいのにと言う彼に、「じゃあ、どうすれば良かったの?」と妙に冷静な顔で言い返した。
ヨーコさんはある日、「私の夏休みにつきあってくれる?」と薫を連れ出した。それはお父さんから「もうオマエ、来なくていいよ」と言われた後だった。「来なくていいってことは、来ちゃいけないってことだよね」と言ったヨーコさんはふいに泣き出した。そんなイメージなかったから、ただただビックリする薫。
大人にも夏休みがあるなんて思わなかった、そう言いつつ薫はヨーコさんについていく。行き先は海。アイスクリーム屋のおじさんの家に泊まらせてもらった。
夏休みの宿題の絵をここで描けばいいよ、とヨーコさんは言った。「でも、道具持ってきてないし……」と戸惑う薫に、「そんなの、買えばいいよ」とさらりと言う。
この時だけはヨーコさんが大人の立場でモノを言った、と思った。いや今までだって確かにヨーコさんは大人で何でも知っていて、薫にコーラの味やキヨシローや自転車に乗れるようになったら世界が変わることを教えてはくれたけど、でもそれは、一緒の世界を見ることで友達として楽しく過ごすためだったんだもの。全然違う。
この時、ああやっぱりヨーコさんは大人なんだ、とちょっと寂しく思った。そして薫はやはり、子供なのだと。
ヨーコさんは「正直に応えようとすると、黙ってしまう。正直な証拠だね。薫のこと尊敬する」と言ってくれた。
それは大人になったら口先から言い訳という名のウソがペラペラと出てくるから、そのことに罪悪感さえなくなるから、そんな“大人”になっていくのがもの凄くイヤだから。ヨーコさんは子供の頃の自分に向かって「尊敬する」と言ったのかもしれない、と思う。
そして、このヨーコさんの夏休み。泊まらせてもらった家のおばあちゃんは、「親子にしては年が近すぎるし、姉妹にしては離れすぎてる。不倫相手の子供を連れ出したんだろ。この子を返してほしかったら別れないで、とか」と直截な言葉をぶつける。黙り込んでしまうヨーコ。まさに、正直な気持ちを露呈してしまった、大人の自分を出せなかった瞬間。
「あのババア、途中までは鋭かったな」なんて後に言うヨーコさんの言葉を、薫は黙って聞いていたけれど、その意味を、自分がここにいる意味を、本当に判るようになったのは、きっとそれを回想している20年後だったろうと思う。
そして二人の夏休みは終わった。
帰ってきた時、心配して待っていてくれると思っていたお父さんは在宅せず、弟は買い与えられていたプラモデルの山にうずまって無心に遊んでいた。そしてそこに奥さんが突然帰ってくる。
そもそも奥さんが出ていったのは何故だったのか。奥さんが帰ってきてヨーコさんとハチ合わせした時、彼女たちがお互い見知っていたことが観客には一瞬にして判ったし、奥さんはヨーコさんに謝りなさいよと言った。つまり、奥さんが出て行ったのはお父さんの浮気のせい?とも思ったけど、でも奥さんが家出する間際、「いつも私のせいだっていうの」とか「あんなワケの判らない仕事始めて」とか言ってるから、単純に浮気が原因で不仲になったというわけではなさそうなのだ。
そして、謝りなさいよと言われたヨーコさんは、「謝りません」と跳ね返した。「許してくれるつもりもないのに、謝ったって意味がない」と。
た、確かに……。でもその言葉で激昂した奥さんとヨーコさんは取っ組み合いのケンカになる。ヨーコさんは頭突きをかまして奥さん気絶、弟はそれに「スゲー!」と感嘆し、そして玄関から出て行ったヨーコさんは追いかける薫に手を振って、そのまま二度と会うことはなかった。
弟の方は判らないけど、少なくとも長女の薫とお母さんとは、どうも相容れていなかった風がある。
それは、ヨーコさんとは全く逆のベクトルで、女としてソリが合わなかったという風なのだ。
そりゃ、奥さんと愛人のソリが合うわけはない。それは必然の定義。
でも、薫はヨーコさんとも正反対。子供でまだまだ固まっていない部分はあるとはいえ、同じ年代でも決して友達にはならないってタイプなのだ。
かといって、お母さんと似ているわけでもない。お母さんはちらと出てくるだけなんだけど、凄くケッペキで、厳しくて、そりゃこんな奥さんだったらヨーコさんみたいなあけっぴろげな女とウワキのひとつもしたくなるよな、ってタイプ。
でもね、ヨーコさんが薫に、自分は小さい頃はグズだったって語るように、今の姿とはかなり違っていたハズなのだ。本当は寂しがり屋で、泣き虫で、あけっぴろげな外見は取りつくろってるだけなのだ。大体、きちんと子供の頃に下がっていけて、つまりその頃の自分を明確に思い出すことが出来て、薫と子供として仲良くなるんじゃなくて、本気で友達になれる人なんだもの。
それでも薫には大人の自分が知っていることを教えてあげる位置ではあるんだけど。麦チョコを買ってあげたり、コーラの味を教えてあげたり、自転車に乗れるようになると世界が変わること、そしてキヨシローの素晴らしさ。
キヨシローに関しては、もうちょっと具体的に突っ込んでほしい気もしたけど。なんかキヨシローって言葉とちらっと流れる音楽だけだもんな。
それでも、言ってしまえば大人の顔なんてその程度で、薫がヨーコさんに心を開いたのは、本当に友達になったからなのだと思う。でもそれは、ヨーコさんが寂しかったからに他ならない。それは薫の寂しい魂と響いたのだから、おあいこなんだけれど。
ヨーコさんは、薫からお母さんとの話を聞く。飼っていた猫を、どうやら捨てられてしまった話。そして今、こうしてお母さんがいなくても泰然としている薫に「薫はハードボイルドな女だね」と言う。ジョークにも聞こえながら本気であろうと思われるのは、その後急に泣き出す描写からも推測される。
実は本当に薫と仲良くなりたいと思っていたのは、ヨーコさんの方だったのかもしれない。子供の頃から自信がなくて、いまこうして平気だよってオーラ出して、武装して、でも、全然平気なんかじゃないんだ。
ホレた男は本心がどこにあるのか判らない優柔不断で、しれっと食事係に駆りだしたりするし、自分が心を砕いたことにも、余計なことしたって顔するし。それでいて自分で何とかする力さえないくせに。
その、ズルイ男であるお父さん、古田新太は、先述したけどやっぱりもっと毒のある男のキャラだと思うんだよね。腑抜けに見せかけて、それが計算づく、みたいな。でもそこをアイマイにさせているのが、なんか歯がゆい。
そりゃ、この物語のメインは、愛人と娘との、ほんのひと夏の、奇蹟ともいえる友情、心の交流、にあるんだろうけれど、それにはやはり共通認識というか、関係は違えど同じ男に運命を狂わされた女の共感があると思うもの。それは一方が子供であろうとも、もっとドロドロしたものがあるはずが、どこかハートウォーミングなだけにされてしまった気がして、どーにも歯がゆいのよ。
別に毒のある話ばかりを見たいわけでもないんだけど……。
そういえば、このタイトルである。ヨーコさんは薫に聞いた。犬として飼われるのと、犬を飼うのとどっちがいい?と。つまり、手先をアゴで使うのと、使われるのと。
薫は答える。判らないけれど……。サイドカーに乗った犬を見たことがある。まるでずっとそこにいるみたいに、気持ち良さそうだった。あの犬になら、なってみたいと思う、と。
確かにサイドカーに乗っている犬の画は、やけにノンビリとしてて可愛かった。それを自分に置き換えて夢想する薫も可愛かった。
でも、その意味って、気持ちよく飼ってくれる“男”になら、飼われてもいいって意味なの……?
だって、この物語の方向性を位置付ける冒頭とラスト、両親の離婚で別れ別れになり、久しぶりに会った姉弟、それは弟の結婚式への招待を告げるものだったんだけど、子供の頃のクールさとまるで変わらない姉にどこかイラついた弟は、そんなんじゃ女としての幸せは得られないよ。さっさと観念して結婚すれば、みたいな言い方したのだ。
それを後に弟は謝るけれども、それって犬として飼われることを受け入れろと言っていたってことなんじゃないかと思う。
女の幸せって、腐るほど聴いた台詞。男の幸せなんて言葉、聞いたこともないのに。
サイドカーに乗った犬は、でもそれは、ギリギリ妥協点だってことなんだろうか。でもサイドカーに乗った犬の気持ち良さは、飼われる犬とどこが違うのか、それは外に連れ出してもらえるという一点だけではないのか。
所有物として閉じ込められるより、つながれていても、外に連れ出される方がマシだということなのか。
お母さんが帰ってこなくても、ヨーコさんと一緒ならいいや。弟もあの日、そう言った。それに対してヨーコさんはなんともいえない表情を見せた。
しかし、家族がバラバラになって、薫がその後、母と過ごした日々をまるで描写しないのもなんとなくズルい気もする。
薫とヨーコさんが、百恵ちゃんの家を探索に出かける場面も印象的。でも“百恵ちゃんの家”というのもなかなかに引っかかる言葉ではある。確かに当時、三浦友和は刺し身のツマであった。
でも彼との結婚で山口百恵はすっぱりと引退した。つまり、“飼われた”のか。しかしやはり“百恵ちゃんの家”なのだ。それを見に行くっていうのが、なにがしかの皮肉を感じさせもして。
ガンプラをガンモのテンプラか?と言ったり、50円玉に糸をぐるぐる巻いて、直系と重さが百円玉と同じだから自動販売機で使えるぞ、なんて言う古田新太はやっぱり怪しさ大爆発。しかもこのニセ百円玉、自販機に入れたらウーウーと警告音が出るもんだから大爆笑。
竹内結子はメイクやヘアも含め、ちょっと完成されすぎかな……。演技にしても、もうちょっと崩したものが見たかった。★★★☆☆
物語は、自身をサイボーグだと信じている女の子、ヨングンが、なんたってサイボーグだからごはんを食べると故障してしまうと思い込んで飢え死に寸前、それを彼女に恋したイルスンが様々に奮闘して救い出す。その筋を軸に、おかしな患者たちの点景が様々に描かれ、加えてヨングンがこんな具合になってしまったヨングンの大好きなおばあちゃんの話やら、精神が不安定なイルスンの過去の話やらが盛り込まれる。
なんか話が結構あっちこっちにいって、シュールな描写の魅力に没頭出来ないうちに、段々とフツーのヒューマンドラマな気がしてくる。
と、突然ヨングンの妄想に突入して、充電完了になった彼女が口から指から銃弾をダダダ!と撃ちまくって病院の医師や看護師を皆殺しにしたりといったハチャメチャに戻り、おお、キた!と思ったら、またじめっとしたドラマ部分に戻ったり……。どうにも冗長に感じて仕方ない、気がする。
ヨングンとイルスンを演じる主役の二人、イム・スジョンとピは、凄くチャーミング。イム・スジョンは「アメノナカノ青空」で観ているのだけど(出世作の「箪笥」は観逃した)、全く雰囲気が違うので結構ビックリする。ピは今回初見。スクリーンデビューである彼の顔を拝むのも初めてのような気がする。よく名前は聞いているんだけど。思いっきりコリアン青年なお顔だが、それがこのキャラのコミカルとキュートさに上手くハマってる。
精神クリニックというのはギリギリのシュールだけど、ちょっとオカしい手前の二人が紡ぐ恋物語は、眉毛を潰してサイボーグになりきっているヨングンの、そのオートマティックな動きや奇妙な妄想は、壊れかけたオモチャを見ているような、胸が締めつけられるような愛しさを感じる。
それに彼女、おばあちゃん子で育ったからものの言いようなどが年寄りくさく、それもまた独特のファニーな愛しさを感じるのだ……とはいっても、それは字幕の範囲と彼女の台詞の抑揚やリズムで感じるしかなくて、実際のネイティヴが聞くときっともっとコミカルに聞こえるのだろうけど。
そして、そんなヨングンを心配しているイルスンは、髪の毛をネジネジとよじるクセがあってなんだかアンテナみたいな有り様になっていたり、手作りの仮面をいつもかぶっているのも妙にカワイイ。彼は精神クリニックに入るほどの壊れ方はしていないような気がするんだけど、外の世界にいると何でも盗みたくなって、捕まってしまうからヤバイと思うと、自分からクリニックに舞い戻ってくるのだ。
なんか彼の場合、彼女に引きずられて妄想も激しくなっていく気もする。突然小さくなって、看護師さんを一生懸命見上げてるところとか、きゅんとくる可愛さがあるんだけど、基本は彼は正気を保っていて、危ういヨングンを一生懸命支えている印象。
そう、この二人がとっても魅力的なだけに、なぜこのシュールでキュートな魅力に集中して描くことが出来なかったんだろう、と思うのだ。
ヨングンが工場で流れ作業をしていて、頭の中に流れる指示のままにリストカットしてそこに電極を差し込み、煙を出して倒れてしまうところから始まる。タイトルロールのスケルトンなマシーンが次々に動いていくさまから冒頭の工場シーン、皆おそろいの赤いワンピースを着て組立作業を行っている様子に流れ込むあたりには、まだ予感を感じてワクワクしてる。なんか、「チャーリーとチョコレート工場」とかのキッチュさを思い出しちゃう。しかしそれこそあの作品のようにキッチュに完璧に没頭することがないから、惜しいのよね。
精神クリニックの女医さんに相談に来ているお母さん、なんかいかにも神経質で、このお母さんの方がヤバそうだと思っちゃうぐらい。
彼女の母親、つまりヨングンの祖母がちょっとキ印の傾向アリで、ネズミを産んだと信じ込んでいたりする過去があって、そして今は認知症になって療養所に入ってしまった。ヨングンがそんな祖母の流れを汲んでいるんじゃないかと、恐れているんである。
ヨングンは、おばあちゃんはホワイトマンたち(医師とか看護師とか)に連れ去られたと思ってる。大好きな大根を食べるための入れ歯を置いていってしまったからそれを届けなきゃと。そしていつの頃からか、そんなにっくきホワイトマンたちを皆殺しにしておばあちゃんを助け出さなければ、とまでに思いつめてる。
そしてヨングンは、精神クリニックへと入所する。そこには実に様々な患者たちがいる。何でも自分のせいだと思い込んで、謝りまくる男。クスリの副作用で記憶が失われ、それを補うために作り話を次々に披露しなければ気がすまない、つまりウソをつき続けている女。鏡越しでも男と決して目を合わせようとしない、ヨーデル自慢の女。ひたすら食べ続けてでっぷりと太り、しかし「最近食べていないから、肌の調子が良くない」と言う一方で顔の脂を気にしている女は、食べ物を拒否するヨングンの食事を替わりに食いまくる。それら奇妙な患者たちとの生活は精神クリニックというより、どこかアットホームな共同生活といった趣で、卓球したり、外でおしゃべりしたり(ま、これは治療の一環なんだけど)、一見して不思議に楽しそうに見える。
イルスンの方は、こんな具合に割と正気で、本当に精神クリニックに入院するほどなのかとちょっと疑わしく思うところがあるんだよね。
彼は盗みの名手。彼に盗めないものはない。木曜日を盗んだ、といって何かと思ったら、ヨングンの木曜日にはくパンツを盗んでいたんである。一週間のパンツをキレイに並べて箱にしまって持ち歩いているヨングンもカワイイが、それをするりと盗んでしまう彼は、かなりアブない気もする。
しかし彼の真骨頂はそういう、いわゆるモノを盗むことではなくて(それも上手いんだけど)、卓球のワザとか、人に挨拶をする気持ちとか、そういう目に見えないものを盗めることなんである。“伝達!”と手を合わせてね。
ま、つまりあれって、催眠術って感じだよね。あるいはそれによる精神治療って感じ。治療されるべき患者のはずなのに。
そんな彼の能力を見込んで、ヨングンは同情心を盗んでほしいと依頼する。可哀想なおばあちゃんのために、おばあちゃんを連れ去ったホワイトマンたちを皆殺しにする決意を胸に秘めながらも、そうした者たちにもおばあちゃんがいるんではないかと考えるとカワイソウになって、出来ないんだという。
彼女は非情になるための戒めの心を自らに律している。同情の心や妄想の心と共に、トキメキの心も禁止事項に入っている。だから終盤、イルスンにキスされたりしてときめいてしまうヨングンは、ときめき、禁止!と少々パニクったりする。しっかしこういうファニーな物語なのに、キスシーンは割と濃厚である。別にいいけど。
んでもって、こうした戒めを説明している絵本、ヨングンがいつも眺めているんだけど、それが、猫をモティーフにしていて妙にカワイイ。しかしその内容は残酷で、こういうシュールなビジュアルは非常に上手い。上手いだけに、シュールに落ち着けない散漫さが惜しいのだよね。
イルスンは、盗みの醍醐味は盗まれた相手がそれを哀しむことにあると言い、望まれて盗むのは意味がないと最初は拒否する。しかし彼はいつしかヨングンのことが気になって仕方なくなっているから、結局はそれを了承する方向に傾いていくわけだよね。
で、彼も彼女もあっちの世界に行っちゃってる人だから、次第に現実も妄想も描写がごっちゃになってくるわけだが……なんたって彼女は自分がサイボーグだと信じて疑っていないわけだから、自分の中にエネルギーが充填されると、口からライフル銃のように無限に銃が乱射され、指からも乱射され、病院の“ホワイトマン”たちを無差別に殺戮するんである。
勿論そんなことは妄想なんだけど、それを彼女自身と共にイルスンもまた、まるで現実のように“目撃”している。イルスンは目の前でホワイトマンたちが殺戮されるのを見、俯瞰で逃げ惑うホワイトマンたちが次々に血まみれになっていくという、いわば地獄絵図も見届ける。その画は昼の明るい光の下で淡々と行われ、いくら妄想といえどもかなり残虐な画なのだけれど、これが妙に乾いていてコミカルにさえ感じ、このあたりは監督の才気を感じさせる。でもその客観的なドライ感覚が続かないんだよね。だから散漫な印象を与えるのだ。
でもまあそれも一方で、仕方ないとも言えるんだけれど……だってそんなヨングンにイルスンが恋してしまって、サイボーグだと思い込んでいる彼女に食べさせるために奮闘するというシークエンスが、この物語の最大テーマとなってきて、やっぱりそれは、気持ち対気持ちになっちゃうからさあ。
いや、それはね、本当に可愛くて、ステキなエピソードなのよ。あくまで自分はサイボーグだと信じ、食事の時間には乾電池を舐めたり、指で挟んだりして“充電”を試み、自動販売機や蛍光灯と会話するヨングン。そんな彼女の後ろをついてまわるイルスン。自動販売機に「ハトムギ茶をもらおうか」と話しかけたままニコニコと見つめる彼女を見かねて、小銭を入れてボタンを押してやったりしたことだってあったのだ。
でも、ヨングンの乱射場面をイルスンは“見て”いるのに、あくまで彼女を人間だとするのも、ちょっとおかしいような気もしたんだけど、まあ、だから根本的な部分で、やっぱり彼は正気なんだよね。世の中の仕組みや道理がちゃんと判ってる。精神クリニックにいるような人じゃないんだ。
“盗む”のだって、その患者たちの患部を取り除いてあげているようなもんなんだもん。だって一度挨拶を盗まれた……つまりひたすらペシミスティックに自分のせいだとばかり思ってぺこぺこと謝ってしまう男は、盗まれたことを憤っていたのにいざ返すと言われたら、困惑を示したりしたしさ。つまりイルスンは、人の痛みが判ってしまう男、なのだよね、きっと。そしてヨングンに恋をしてしまったら、彼女の痛みを取り除いてあげたいと思うのだが……。
しかし、ヨングンの栄養失調はのっぴきならないところまでいってしまい、辛い電気治療も功をなさず、ついに隔離されて鼻から強制的に栄養をとらされる自体に陥ってしまう。
イルスンは非常に心配して、患者の仲間たちと共にシュプレヒコールを繰り返すんだけど、そんな彼もまた隣の個室にブチこまれてしまう。ヨングンの部屋に糸電話をはわし、会話する二人。ヨングンを元気付けようとヨーデルマニアのカップルからヨーデルを習得したり、ペパーミントと甘柿の靴下を履いてこすり合わせて電気を起こし、空を飛ぶ飛行術を仕入れて伝授したり……ってあたりはもちろん妄想なのだけど、妄想を共有するイルスンとヨングンは、めでたく二人だけの世界に飛んでいく。これもちょっとセックスの暗喩があるような気がすると思ってしまうのは、そういう方向に考えすぎ……だろうな。
大好きな彼女がこのまま栄養失調で死んでしまうなんてイヤだから、なんとかゴハンを食べてもらいたい、と思うイルスン。そこで考え出したのが、ライスメガトロンという、ごはんをエネルギーに変える装置。って、そのまんま人間ってことじゃんというのが、皮肉というかなんというか。
でも彼女にそう信じさせるために、背中を開ける“手術”を施し、“一生保証”の技術者の名刺を手作りする。彼女が、「一生、一生……」とつぶやきながらゴハンを口に入れようと決死の試みをするのが可愛くて、一生、の言葉に心を動かされたというのがね、やっぱりそこには生涯の相手、みたいな雰囲気があるじゃない。それもなんだか湿っぽさを感じるんだよなあ。湿っぽさがそこだけだったら、素敵なことなんだけど、割と全編に湿っぽさが漂っているもんだから……。
この“手術”の場面、なんたって“手術”だから、彼女の服を脱がせるあたりのかすかなエロさがなかなかヨイ。ま、背中だけだけど、そしてヨングンは自身がサイボーグだと思ってるんだから恥ずかしさなど感じるわけはないけど、でもヨングン、やっぱりちょっと臆してるし、そして“手術”の“メス”(実際はエンピツ)が彼女の背中をなぞり、“マシンが中に入って”くると、来た来たとばかりに声を漏らして嬉しそうにするのが、これはさー、やっぱりちょっとエロティックな暗喩だわよね。それとも私はエロな方向にばかり考えすぎるのだろうか……。
で、キッチュな魅力を折々にジャマして集中を分断してしまうのは、ヨングンのおばあちゃんへの思慕、そしてイルスンの、いつか自分がこの世から消滅してしまうという悩み。
イルスンは、お前みたいなクズは消えてしまうとか言われて(ちょっと記憶が定かじゃない。言い回しは違ったかも)、それが怖くて盗みを続けてきたという。つーのも良く判んないけど。つまり誰かのモノという絶対的なものを盗むことによって、自分の存在を絶対的にしようということなのかなあ。なんか、彼のせっかくのキテレツなチャームを説明してしまって、つまんない。悩みは彼女だけにしておいた方が良かった気がする。切り捨ての潔さがないというかさ。
ヨングンの妄想の描写も、ちゃんとシュールで奇妙な可笑しさに満ちてはいる。イルスンと二人、妄想の中でおばあちゃんに会いに行くと、おばあちゃんは天空から伸びたゴムで引き戻されそうになるのを必死でこらえながら、孫を待っている。涙ながらの抱擁をするも、ついにはこらえきれずに逆バンジー状態で空のかなたに点となって消えてしまったりして、こういう発想は非常に可笑しいし。
でも、このおばあちゃんのくだりはね、おばあちゃんもまた、自分がネズミを産んだと言い出したちょっとキてるおばあちゃんであって、いわばヨングンはおばあちゃんからの隔世遺伝でこんなキュートな妄想人間となってしまったわけで。
なんかその辺をね、家族愛とか家族が引き離されるとか、あるいは誰にも判ってもらえなかった自分のことをお医者さんには判ってもらえたとか、そういうヒューマンな視点で描こうみたいな思いが入り込んじゃって、いやそれは別にいいんだけど、それがこのキッチュな世界観に中途半端な形で断片的に入ってくるから、どうも見ていて落ち着かないのだ。
だって、なんかしつこいくらいにおばあちゃんが連れ去られた時の回想が入ってくるんだもん。一緒にラジオを聞いていたおばあちゃん。ラジオとかそういうマシンが大好きだったヨングン。そして必死に救急車を自転車で追いかけるヨングン。その時既に自転車と会話をしていたヨングン。
こういう回想は一回でいいよと思うのだけど、つまりヨングンがそれだけおばあちゃんを大好きだったこと、絆を感じさせたいんだろうなあ……ちょっと、うっとうしい。恋物語に集中できないじゃないの。
でも、そういう、家族の絆を大切にするあたりはいかにも韓流。日本ならラブストーリーに家族の絆は持ち込まないよな……。
で、まあ、めでたくごはんを口にすることが出来たヨングンは、「充電されて」ピッカリと七色に足の指の爪が光り輝くのだが、しかしココで物語が終わらないところがやっぱりちょっとうっとうしいんである。しかも母親やイルスン以外には初めて、自分がサイボーグだとお医者さんに打ち明けることが出来て(ちなみにこれを打ち明けた母親は、こうしてヨングンを病院にブチ込んだわけだが)、正直それもいらないと思ううっとうしさなんだけど、ここで大団円でいいじゃんと思いきや、二人は嵐の夜、キャンプの用意をして出かけていくんである。
???どーも意味が判らない。どっかのサイトの解説には、“自分たちの存在している理由がどうしても知りたくて”とあるけど、そんなの観ててもピンとこないし。かなり付け足しな感じがする。
ドラマティックな盛り上げっていう感じはあるけど、それまでもかなり冗長に感じていたので、加えて画までもそれまでのシュールなお伽噺からハズれて、リアリスティック映画の一場面のようになるので、うーん、何が言いたいんだろう、という思いに駆られてしまうしさ。
ああ!ホント、なんか惜しい気がして仕方ないんだよなあ。話は単純でいいから、このちょっとオカシな世界観に没頭させてほしかった。せっかく画は可愛いんだもん。
ところで、ヨングンがゴハンにのっけて食べてる水キムチというのが気になってしまった。浅漬けのようなもの?気になるなあ……って、気になるのがそんなところってかい。★★★☆☆
レイトをおして本作に足を運んだのは、近年成長著しい関めぐみ嬢が三人のうちの主役の一人を担っていることで、そして私の大好きな女の子の友情モノだということもあったわけで。
貫地谷しほり嬢は今回が初見。最近あちこちで名前を聞く、どちらかといえば彼女こそがこの作品のウリの女優なのであろうとは思うが、やはり私の興味はめぐみ嬢なんである。
もう一人の子は、初めて見ると思ったら、「フラガール」で蒼井優を食いそうになった徳永えり。しかしその後は全く見る機会がなかった。この監督の作品にはほぼレギュラーで出ている。関西弁はちょいとカワイイ。
で、まあ、三人の女の子の友情&それぞれの恋愛物語なんである。しかし、なんとなく、どことなく、首を傾げる台詞やシチュエイションが何度となく出てくる。
女の子同士で「愛してるぞ!」「あたしも、愛してる。レズの気はないけどね」というやりとりなど、かつての「ふたり」の「嬉しいね、親友!」のそれにも匹敵する萌え萌え度ッぷりなのだけれど、女の子の友情物語としても、恋愛物語としても、なんか中途半端まではいかないまでも、寸止めというか。
つーか、この三人が、それぞれ全く違うキャラの筈が、今ひとつその対照が鮮明でないこともイマイチ感を強めているように思われる。
確かに違うのよ。しほり嬢が扮するココは腕っ節が強いアネゴ肌、めぐみ嬢扮するナツは恋愛経験豊富で只今妊娠まで経験しちゃってるフェミニンな女の子、えり嬢扮するマリネは小説家になる夢に没頭するあまり、好きになった男の子にもオクテな大人しめの女の子、と全然違うはずなのに、なんかそれが際立たないのだ。
多分ね、彼女たちが学校生活を送る場面が一切用意されてないのが、ひとつの大きな原因だと思う。だって学生のうちって、その性質は集団生活の中でこそ、くっきりと際立つものなんだもの。
それぞれが判りやすい性質を持っていたとしても、友達同士で集まると“お互いに気の合う同士”の気安さが、それぞれの性格を見えにくくしてしまう。マリネも別に大人しそうに見えなくなるし、ココも気が強いばかりにも見えなくなる。ナツは恋愛上手というよりは失恋した手で落ち込んでるって感じになる。そうすると、なんか平均化しちゃうんだもの。
せっかく女子高生なのに、学校での描写は屋上の給水塔で三人足をブラブラさせながら菓子パンをかじっているトコぐらいで、高校三年生も終わりごろだからなのか、学校生活に既に興味がなさそう。いわゆるフツーのティーンのラブストーリーなら学校の中に恋愛を求めるんだけど、三人が三人とも、その相手は学校外なんである。
ナツの相手は、もう卒業し、今は都会の大学生で、彼女は彼の通う大学に受かろうと必死。マリネの相手は電車でひと目惚れした、ナツと同じ予備校に通う浪人生。そしてココの相手、というか、彼女は気がないそぶりをしているけれど、彼の方は彼女にラブラブ光線を送ってくるビシバシこと石橋君。彼はココの空手部の後輩という設定はありながらも、彼女たちのたまり場の喫茶店の店員として登場するんである。
なんか、すごくすごく、もったいない気がするんだな。
せっかく高校生なのにさ。花の女子高生なのにさ!(という言い方自体古い)青春の場所である学校になにひとつエピソードがないなんて!
それで女子高生にしている意味があるのか、と思っちゃう。
まあ、とりあえずそれはおいとくにしても、もっと気になる部分に関しては、あるいは私がもうオバチャンと化しているからなのかもしれない。ナツの父親がね、小説家で、だから寛容ってわけでもないと思うけど、15歳の息子に「オレの分まで」とセックスを奨励したり、妊娠している娘に「明日からはあまり飲むなよ」と言って今日は飲み明かそう!みたいに酒を勧めたりする場面に、ちょ、ちょっと待て、と言いたくなっちまうのだ。
特に後者はねー。あまり、じゃダメだよ。妊婦は絶対飲んじゃアカンでしょ。しかも今日はジャンジャ飲めだなんて、トンでもない!
あ、ナツの父親だけじゃなく、ココの母親も、「私もビール飲んでみる」と言いだした娘に「これで娘とアルコールを飲むっていうひとつの夢がかなった」とニッコリするんだもんなあ。いいんだろうか……こんなことで悩むなんて、やはり私の頭が古いせいなの?うーん、違うと思うなあ。
やっぱり私、古いのかなあ。未成年に酒を飲ます場面だけで、え?いいの?と思っちゃうんだもん。
そりゃまあ、私だって二十歳まで酒は飲んでなかったとは言わないけど……。
でもこれが、いわゆる普通の子を描いてて、酒を飲む場面を悪いことしてるという風にもしてないし、しかもその場面には常に大人……しかも親が同席してて、むしろその親が子供に勧めているいるわけで、普通に公開されている映画だからやっぱりちょっと、気になっちゃうわけ。
うう、やっぱり私、古いのか?確かに私が未成年で酒を飲んだ当時、親も、まあ、もういいでしょ、という雰囲気はあったし、皆そんなもんだとは思うけど、それを映画という公共のメディアで、しかも普通の描写でやるのはやっぱり、気になっちゃう。
しかも妊婦に普通に飲ませるのは、しかも本人も普通に飲むのは、絶対違うだろ!
シングルマザーとして今は亡き愛する彼の子供を育てていこうって決意した女の子のやることじゃないよ……。親に言われるまで、それが妊婦にとっていけないことだという考えさえなかったみたいな風なんだもん。
あああーっとお!またネタバレしてもうた……そうそう、ナツの元カレ、交通事故で死んでしまうのだ。
もう遠距離はムリだと、自分と同じ大学に行くために頑張るなんて、重いし、いや逆に軽い、何のために大学に来るんだよ、そんな依存されても困る、と言い渡され、別れたばかりだった。
そしてナツの妊娠が発覚、一度は堕ろそうと思ったナツだけれど、ココとマリネに付き添ってもらった婦人科医院で、直前になって診察室の前に座り込んで、「やっぱり私、産みたい」と涙目になって二人を見上げた。
「ココのお母さんを見ていたら、自信ない。ココみたいな子はなかなか育てられないよ」と言っていたナツ。そうなの、この三人はそれぞれに片親という部分も共通してる。ココのお母さんはいわゆるヤンママのシングルマザー。ナツのお父さんは奥さんに死に別れ、同じくマリネのお父さんも奥さんを亡くしている。
ナツに連れ添ってきた時から涙をこらえ切れずにいたマリネと、頼りがいのある気丈さを示していたココは、ナツの言葉に力強く頷いた。
「本気なら私、応援するよ」とココは言ってくれた。
そして、元カレにも打ち明けるべきだと助言してくれた。二人の子供なのだからと。
しかしその彼はまさにその時、交通事故で命を散らしていたんである。
でまあ、その後のことは後述するとして、ナツの話と並行してメインとなるのは、ココの母親とマリネの父親が恋におちるってトコで。
マリネの父の紳一は熱血漢の救急隊員で、いつもココがブチのめしたビシバシのためばかりに出動させられて、「またか……」とため息をついていた。しかしその時呼び出されたのは、ココの自動車学校の教官で、今はそこをリストラされたらしい吉田の運転する車が電柱に激突した場面。
私はね、ココの母親の亜子ちゃんは、この吉田と恋に落ちるのかと思った。だって吉田もカワイソウな男なんだもん。奥さんに逃げられて、仕事はリストラされるし。
まあ、その奥さんもタクシーの運転手に転身したばかりの彼の元に、ラストには帰ってくるのだが……。
ちなみに、ココは自動車学校の路上試験に23回連続でおっこってて、吉田は自分の最後の日に彼女を合格させてくれるんだけど、「なるべく坂道は走るなよ。あまり角を曲がるな。とにかく、まっすぐ行け」そんなんで、合格させていいのか??
ま、それはいいとして……だから紳一と亜子ちゃんがイイ雰囲気になり、こりゃどうやらココとマリネは義姉妹になりそう、って具合に展開していく。
もともと、ココとナツは、昔からの幼なじみ兼親友という趣だったのよね。で、そこに大阪から来たマリネが参加しているっていう組み合わせだった。
つまり、ココとナツの二人とマリネの間にはちょっとした隔たりがあるのだが、そこをココとマリネの親同士が結婚することで義姉妹となり、強固なつながりが生まれるんである。この三人の友情の均衡のバランスのとり方は、上手いと思う。
しかも作家志望のマリネが、新人賞に輝いたその作品のタイトルは「ココナツの夏」親友であり一人は義姉である二人のことを書いたものと思われ、それを店先で二人、ナツの方は大きなお腹を抱えて眺めてるってなラストも効いている。
って、いきなりラストに行ってどうする。ええとね、あと何があったっけ。あ、そうだ。ナツの弟のエピソードもあるんだよね。15歳、カワイイカノジョとラブラブの彼は、カノジョに促がされて薬局で買ってきたのはまさかまさかのコンドーム。んでもって「男同士にしか判らない秘密がある」と父親と一緒に行ったサウナで、包茎の皮をむくのに必死なんである。修学旅行でカノジョと初エッチすることに賭けているのだ。
「姉ちゃんは処女を捨てた時どうだった」などと聞いてくる弟に、「処女は捨てるもんじゃない、捧げるものよ」と説く彼女。「だけど童貞は捨てるって言うじゃん」ううむ、捨てるものに捧げるなんて、やはり女の方がソンなのか……。
しかしさ、まるで初恋のような可愛らしい恋物語に、今の子はススんでるからそうなんだと言わんばかりに、なんかワザとらしいまでにセックスを絡ませてくるのも、なんかね。
そりゃ、私ゃ三十路も越えたオバチャンだし、不毛な人生送ってるし、そんなイマドキの事情なんて判りゃしないさ。そりゃ今の15歳は、初恋の切なさにもセックスが自然に絡んでくるのかもしれんさ。そしてセックスの素晴らしさを、お姉ちゃんが弟に伝授したりするのかもしれんさ。そして初めてのセックスで“勃たなかった”こと、彼女からまたがんばろうと慰められたことを、まだあどけなさが残る15歳の少年が落ち込むのかもしれんさ。
でも、やっぱり、違和感があるんだよなあ。
だってそのお父さん役である温水さんは、私たちに近い方の年齢、しかもそれより上であるからして、私の年代よりその違和感をもっとずっと感じる筈なわけでさ。
まあ、息子がもう15にもなったことだし、奥さんがいなくなってから自分がインポテンツになったことぐらいは言ってもいいかもしれない。そして息子の包茎の皮がむけるのを手に汗握って見守るのもいいかもしれない。
でも、修学旅行でカノジョとセックスするんだという息子を、オレの分までガンバレ!と送り出すのまでは……ちょっとやりすぎだと思うんだよね。そこまでは、思わないと思うんだよね。
だってこの父親は娘もいるんだから、当然その場合、15歳の時の娘のことを頭に思い浮かべずにはいられないはずじゃない。
まあ、このお父さん、娘が妊娠しても怒りもせずに静かに受け入れてるし、そういう部分寛容なのかもしれないけど、その描写にしたって、ちょっとないでしょ、って思うしなあ。
その弟君のカノジョの方も初エッチに燃えていたのは、クリスマスに引っ越さなければならなくなったことで、カレとの思い出がほしかった、と理由づけられるのだが。そうかそうか、今の15歳は恋の思い出にセックスをしたがるのか……私もしつこい。
駅のホームでの涙の別れに、「会いに行くから!」と叫びながら電車を追いかけてホームを走る弟の声が聞こえたのか、ついてきたナツは改札の外で泣き崩れる。その引きのショットがイイ。
で、また前後するけれど、紳一と亜子ちゃんの恋物語である。亜子ちゃんはココと姉妹に間違われるほど若くて可愛いし、その後の出会いがなかったのかとマリネが聞くと、「出会いがないのよ」と笑う。「オバチャンみたい」と思わずもらすマリネ。
「ココを殺して自分も死のうと思ったこともあるよ」彼女はそんなことも言う。シングルマザーとして必死に生きてきたことを象徴させる台詞だけれど、正直この台詞だけで終わらせてる気もしないでもない。
紳一との再婚を勧めるココに、「年をとると慎重になるのよ」と諦めようとしていたことを吐露する。しかしココは、「亜子ちゃんだって、女の子じゃない。あたし、応援するよ」と。亜子ちゃんの頬に涙が伝う。「……ありがと」
そしてクリスマス。ココの家にマリネと紳一がお邪魔してクリスマスパーティー。
足りなくなった食材を買いに出かけるココとマリネ。ココは亜子ちゃんに、「エロいこと、すんじゃねーよ」と笑い、マリネは「してもいいよ」と笑って出て行った。
まあ、まだ彼らはそこまでは行ってない。気まずげに向かい合う二人、紳一が勇気を振り絞って言う。「めっちゃ好きやねん。オレと付き合って」亜子ちゃん応えて、「ええで……よ?」「ええよ、かな」紳一が笑う。亜子ちゃんも笑う。で、ラスト、二人の結婚式のシーンでめでたくハッピーエンド。
な一方で、そうそう、ナツの元カレが死んでしまうのよね。
私はよくご都合主義、都合が良すぎるという言い方でクサすけれど、そこまでさえ、行っていない気がする場面も多々ある。
マリネの好きな男の子に「好きな人がいる」ことが判明して落ち込むも、いざ告白してみたら、その彼の思い人はほかならぬマリネ自身だった、というのはベタすぎて予測つきすぎて、ご都合主義と言うのもハズかしくなるぐらいだったし(ホントにそれやるの!?って感じだった)。
そして最たるものは、ナツの別れた元カレが交通事故で死んでしまって、その携帯電話の未送信メールに別れたことを後悔してること、もう一度ヨリを戻したいことが綴られているエピソードなんである。
彼がスピードを出しすぎて事故を起こしたのは、メールではなく、そのことを直接ナツに伝えるために急いでいたのか、それこそ実に都合よく彼は彼女に贈るためと思しき指輪を携えていた。そのメールと指輪で彼女は涙にむせぶのだけれど、ううむ、どうなのだろう、これは。
だって、彼は、ナツのことがやっぱり好きだと気づいたにしても、そのお腹に自分の子供がいるなんてよもや思ってなかったわけでしょ。
もしそのことを知ったら彼がどういう態度に出るかなんて、判らなかったわけでしょ。
なのにその指輪を結婚指輪よろしく仕立て上げ、一人でウエディングドレス着てヴァージンロードを歩くなんて、ちょっとやりすぎじゃないかと思うわけ。
私は思わず、天国から彼が、オイオイ、そこまでは聞いてないよ!と言っている図が浮かんじゃった。
それにナツにしたって、彼に気持ちは残していたとしても別れたと思ってて、ココの母親の亜子ちゃんみたいにシングルマザーとして生きていく決心をしてたじゃないの。携帯メールにメッセージがあろうが、指輪が残されていようが、彼に子供が出来たことを告げてはいないんだから、彼を父親と見立てての“結婚”をするなんて、その決心をした女としてはカッコ悪いと思うんだよな。
そりゃ一見、ロマンチックに見えなくもないけど、んん?と引っかかるトコが多すぎる。
なんかね、女の子映画としてクールに見えそうで、ツメが甘いというか、肝心なところで判ってない気がしてならないのだ。
それに、なぜ彼がナツに突然別れを告げたのか、そしてなぜそれが間違っていると、やっぱり好きだという結論に達したのか。遠距離で心が揺れたとか、自信がなくなったというだけでは、それを翻した時にはいきなり指輪用意してて、事故って死んじゃうなんて激しさにイコールするには唐突すぎるんだもん。
確かに画的には印象的。いきなり二人の別れの場面から始まるのだから。いわば男と女の難しさを導入部で示して、これをスタートとして様々な年代の恋愛模様が、親世代、子世代、子世代の中でもローティーンとハイティーンで描かれてゆく、それは確かに上手い滑り出しで、上手い展開で、なるほど、様々な彩りの恋愛、タイトルにピッタリくるのだけれど。
でも、本当に、微妙、微妙なところで、しっくりこない要素が繰り返し現われるのよね。
一番初々しかったのはココとビシバシの恋、なのだがこれも、あれれ、と思うトコがあり。
男になんてキョーミない、という態度をとり続けるココにナツは、「ココはビシバシが好きなんだよ。いいかげん、気づけよ」と親友の背中をたたく。
ところでね、ビシバシはクリスマスの夜、ココに当てたと思しきプレゼントを渡した帰り道、バイクで事故っちゃうのよね。
それを買い物の帰り道に発見したココは、ピクリとも動かないビシバシを背負って長い長い道をゆくんである。
なぜ救急車を呼ばない?
それともこの町には、マリネの父親の運転する救急車しかないのか?
今ラブラブでエロいことをしているかもしれない母親と彼のことを、ジャマしたくなかったのか?
いや、百歩譲ってそうだとしても、これでビシバシになにかあったらどーするんだよ!
私は、次のシーンで教会の祭壇なぞ映されたから、うわ、ビシバシ死んだのかと思ったんだよ!
それは、紳一と亜子ちゃん、そしてナツと死んでしまった元カレとの結婚式の場面だったのだが……。
というか、ビシバシが事故ったシーンは何のためにあったわけ?ココが彼のことを好きだと認めるため?そのために、あんな生死も判らないぐらい意識を失った彼を背負って歩いていくなんていう、無意味に意味深な場面の必要があるのか??ナツの元彼は事故で死んじゃったけど、彼の方は……という対照?ああ、判らないー。
やたらと既製の曲が場面ごとに流されるんだけど、その場面に合ってる訳でもないし、あらゆるアーティストのあらゆる曲で、一貫性がなくて、居心地が悪い。
うーむ、単に好きな曲を使ってるだけじゃないの?
これも、古い頭だからそう思うのかなあ。新しい音楽が使われるのに意味など考える方がヤボってことなのかなあ。
でも、新しい音楽だってその瞬間から時を経過していくのだし、それが意味ある使われ方をしていなかったら、尚更古びていくのが早くなるだけだと思うんだけどなあ……。
膝上のスカートの制服に、防寒着を着るわけでもなく、首にマフラーを巻くだけの女子高生スタイル、それぞれに個性の違う色使いのマフラーを巻いているスリーショットは可愛かった。★★★☆☆
豊川悦司の出るコメディ映画を観に行くとさる人に行ったら、すごく意外な顔をされたけど、確かにまだまだシリアスなイメージのある人だけれど、年を経るほどに、この人はコメディの方が合っているんではないかという気がしてる。もともと関西人だし、しかし関西人なのにどっか天然入ってるし、あくまで崩れない穏やかな雰囲気が独特の間を持ってるし。
でもそれって、シリアスやクレイジーを演じても、変わらない彼の魅力なんだよな、と思う。突然変わったりしない。あくまで穏やかさの波がいつも静かに押し寄せている人。不思議な人だなと思う。
ことにこの役、子供がお父さんのことをレジスタンスのアナーキストなどと呼ぶ、かつての学生運動の熱からまだ全然冷め切っていない革命家気質のキャラを、ちょっと熱さを持っている人が演じたら、この可笑しさは出ないんだよね。言うことも行動も突拍子もなくて暴れまくるんだけど、彼の中の基本はいつも静かに流れてて、決してブレなくて、それがこのオフビートな可笑しさになっている気がするんだ。
そう、オフビート。日本のオフビートは山下監督より、この森田監督が先だったか、と思う。思えばこの人の、全く前のめりにならない演出はオフビートそのもの。そしてこの、狂気を前提にした静かな可笑しさは、あの伝説「家族ゲーム」から脈々と続く彼だけのもの。
何の仕事をしているのかも定かでない、いつも家にいる父親、一郎に、小学校六年生の長男、二郎は、「父親が一日中家にいるのは、困るんだよ」とやや反抗期気味。
それを静かに見守っているお母さんのさくらは普通そうに見えて、実はお父さんと共に若き日は革命運動のジャンヌ・ダルクと呼ばれていたらしい。その時断絶した親子関係が20年にも及び、ある日興信所で行方を突き止めた老いた母親が突然訪ねてきたりする。
まだ幼い妹の桃子はお兄ちゃんが大好きで、ことあるごとにお兄ちゃんに勉強を教えてもらいたがってる。少し年が離れてもう社会人である長女の洋子は、何かと衝突する父親に困り果てて一人暮らしをしたいと思ってる。ここはいかにも貧乏長屋って感じの趣の住居。
国民であることを捨てて、家族して西表島に移住する話、なんていう刷り込みがあったから、そこに至るまでの前半が結構長いことにちょっと戸惑う。将来払われるかも判らない年金や、修学旅行の積み立て金の異常な高さにたてつき、ニコニコ笑いながら抗議を申し立てる父親は、まさに困った大人そのものだ。
でも実際、年金問題は今現実の不安となっているんだし、劇中明らかにされるように、積立金が高かったのは、彼が指摘したとおり、旅行会社との癒着があったからだった。学校にまで乗り込んで校長に問いただそうとする父親は、あわや警察に引っ張っていかれそうになったりする事件もあるんだけど、彼こそが正しかったのだ。
それは引っ越した先の担任の先生から手紙で知らされるんだけど、手紙の中でその若い女教師は「二郎君のお父さんは正しい事を言える人です。今そんな人は、10万人(100万人だったかな。忘れた)に一人ぐらいです。自慢していいと思います。先生はやっぱりちょっと怖いけど」と、これまた正直に書き綴るのが印象的。
彼女は若いから、まだまだ大人社会の汚さに染まりきっていないのだ。それでも怖いと感じてる。それを考えると、このお父さんがいかに驚異的な純粋さを持っているかが判るのだ。
それを、私たちは言えない。言えないどころか、疑問にも持たずに、問題が起こった時にようやく我に返る。それまで、そのことを先から問題視していた人たちがいたことさえ、そうだっけ、みたいな顔をする厚顔無恥なのだよね。
でも、そんな問題を提起するこの父親、むしろ前半は影が薄い。ヘンな父ちゃんとして画面の端々に登場はするけれど、前半は三人の子供たちの真ん中、長男の二郎のシビアな子供生活なんである。
友達が、不良中学生のパシリになって、間接的に彼らにイジメやカツアゲを仕掛けてくる。虚勢を張って中学生たちと同じ側にいようとしている友達だけれど、実は一番苦しんでいるのはその彼であるということを二郎は見抜き、二人でその元締めの中学生、カツをやっつけにいく。
というまでにも、この幼き、妙に大人びた友達同士で色々な葛藤がある。これが社会の縮図だよ、なんて妙に大人びたことを言って、ウイスキーの携帯ボトルみたいなのを持ち歩いて飲んでたりするおませさんにちょっと笑ってしまう。
なんかね、最初観ている時には、なんでこんなエピソードを丁寧に織り込んでくるのかなと思ったんだよね。正直、あまりにも台本棒読みで棒立ちの子役たちは見てられなかったし(それともこれも、オフビートのネライかな)。
それに恐らく最終的にメインになるのはこの時代遅れなまでに純粋な父ちゃんであり、子供たちがその父親に戸惑いながらも共感していく物語であろうことは、最初から推測されたんだもの。
でもこの前半が実に重要だったことが、映画も最後になってようやく判ってくる。家族の中で一人だけ変人だと思われていた父親は、「みんな、お父さんを見習うな。お父さんは極端だからな」と自身で言うぐらいの極端な人だけど、その血は確かに子供たちに流れていたんだということ。それはきっと、三人の子供全てがそうなんだと思うけど、それを判りやすく唯一の息子として受け継いでいることを示しているのだ。
フツーに考えれば、こんな凶暴な中学生に立ち向かうなんてムチャに決まってる。それ以前に中学生の仲間になってしまった友達に単純に憤るだろうし、それこそ単純に、やっぱり家庭環境がモノをいうんだとか、悪しき大人の影響を受けて思っちゃうかもしれない。
実際、彼と一緒にカツをボコボコにやっつけて、殺してしまったと思って二人で逃げ回っていた間に、事情を知らない、知ろうともしない大人たちは、この友達を家庭環境に問題があるからと切って捨てた。二郎に対してだって、こんな変わった父親だから夫婦間にもコミュニケーションがなくて、子供に影響が出ているんだろうとか決め付けていた。
家に訪ねてきた学校関係者たちに「こういう事態でやっと校長に会えるのか」と父親はそれでも笑顔を崩さない。笑顔のまま、怒ってる。「あなた方の質問には血が通ってない。あるケースに当てはめようとしているだけだ」まさしく!
だって、コミュニケーションがないどころじゃない。この夫婦はラブラブなのだ。いや、というか、この破天荒な夫に一見困り果てているように見える落ち着いた奥さんの方こそが、ダンナにゾッコンなのだ。かつて大学闘争のジャンヌ・ダルクと呼ばれていた彼女、運動中に裏切り者を刺して半年間の拘留をくらったことも後に明らかになる。実は父親以上にアツい女かもしれないのだ。
ふつふつとたぎる血を抑えているのは、ちっとも流行らない喫茶店で詩の朗読会をしていることで判る。朗読会て……。
母親が警察につかまったことがある、という話を不良中学生のカツから言われてショックを受けた二郎は、その反動でコイツをボコボコにしてしまうのだけど、恐る恐るそれを父親に聞いてみると、「そりゃ、(つかまったことは)あるさ!母さんだもの」と応えるのには、どういう言い草だよ!と苦笑してしまう。
今はそういう危険な言動をせず、むしろ世間的常識の側からダンナを戒めているように見える彼女が(家庭訪問の時、女教師をからかう夫にちょっと困ってる様子なんて、まさにそんな感じ)、でも表には出さないからこそ、自分が世間的な矢面に立とうとしているからこそ、熱いものをその中に封じ込めていることが最後には判ってきて、なんかこっちが熱くなっちゃうのだ。
そもそも息子の問題が起きたのがキッカケとはいえ、ダンナが帰りたがっていた西表島に皆して帰ろう!と言い出したのは彼女だし、何より、土地の不法占拠問題が起こった時、激しい抵抗の末、警察に捕まってしまうクライマックス、警官に羽交い絞めにされながらも、愛するダンナに穏やかなアイコンタクトを交わすスローモーションにグッときちゃうんだもんなあ。
そしてこの場面では、二郎も心の中でつぶやく。「お父さん、今だけはカッコイイよ!」
おおーっと!またオチバレしてしもうた。そう、二郎と友達が起こした事件が、そりゃまあカツは死にはしなかったけどやっぱり問題になって、なんか、家族のもとから離れて暮らしたらどうだとか、そんな雰囲気になってくるのね。それはこの父親を問題視しているのか、二郎自身を問題視しているのか微妙なんだけど、つまり施設で暮らしてみないか、みたいな。
その危険を母親は察知して、移住計画を提案したと思われる。西表島は、一郎の故郷。もともと彼はこの土地の熱きレジスタンスの血を引いている。土地の生き神様のサンラーさんたちに厚く迎えられ、草ぼうぼうに生い茂る廃墟を、ここに住めばいいさと紹介されるんである。
二郎と桃子は東京とのあまりの差に呆然(あ、ちなみに洋子は社会人だから東京に残ったのね)。いいところね、と言い募る両親に、ここのどこが?と激しく疑問に感じるんである。しかし両親はあくまでポジティブで、嬉々として開墾を始める。
最初のうちは、楽しさと落ち込みの波が激しかった子供たちも、二郎は自分だけの船がもらえると知ると狂喜したり、お兄ちゃん大好きの桃子だから何となく感化されてくる。何より同年代の子供たちと出会い、その中にはやはり東京にいて、水が合わずにこの地にやってきたという、似たような境遇の女の子などもいて、ちょっと大人びたその子に二郎はちょっと惹かれたりもして、そこは子供の素晴らしさ、この大自然に順応していく。
父親がわざわざ「こういうのが、人間がホントに生きている姿なんだよな!」と言わずとも、そんな風にわざわざ身構えなくとも、言い含められなくても、子供たちがそれを真に体感していくのが、前半、子役たちの演技が凄く下手なのが気になったのに、大して演技に成長が見られたわけでもないのに、なぜか気にならないのだ。どんどん日焼けしてたくましくなっていくのも、目に見えて判る。やっぱり、生きるべき場所に来ているから。
日本の教育に疑問を持って、子供たちを学校に行かせない方針の父親だけど、西表島の校長の大らかな熱心さにホレ、子供たちが自分から学校にどうしても行きたいと言うのを何より尊重して、笑顔で送り出す。
これこそ父ちゃん。何の疑問も持たずに学校に送り出し、息子が起こした問題も学校に払うカネも、ただただ他人からの鵜呑みにするなんてことはしないのだ。それにしてもこの小学校、数人の子供しかいないにしては、随分リッパだが。
東京にいた頃は、そんな父親に余計な事はしないでと、疎ましがってた二郎だけど、ここにきて、判ったんだ。お父さんは他人に丸投げすることなんてしない。いつも真剣に向き合ってくれていたんだと。思えばお母さんだって、そんな父親をたしなめはしても、反対することはなかった。夫のために世間の矢面には立ってたけど、いつも彼の側についてたんだ。
法律って、平等のように見えてちっとも平等じゃない。いわば、資本主義の悪しき部分を人情で裁けない。勿論、資本主義に異議を唱えるわけじゃない。というか、このお父さんはメッチャ異議を唱えてて、二言めには、資本主義の犬め、とか言うけれども、だからといって社会主義を目指しているわけでもないらしいところが、らしいというかなんというか。
つまり彼はただ一個の人間として、納得いかないことと戦おうとしているだけ。口では難しいこと言ってるけど、中では難しいことなんて全然考えてないってことなのかもしれない。
草ぼうぼうで手つかずのように見えた、この家族が住み始めたところは、東京のリゾート開発会社が買い占めていたところだったのだ。地元の一政治家が土建屋と結託して、二束三文でふるさとの土地を売り払った。後に出てくるこの政治家、一見いかにも沖縄の温厚そうな好々爺に見えるあたりが、クソヤローなんである。
しかしそれに反対する市民運動があったもんだから頓挫したままで、つまり放置されていたのが、彼ら家族が住むことによって問題が再燃してしまったと言うわけなのだ。
いわば、それまでテキトーに忘れていたようなもんなのに、いざそこに住み始めるとヤイヤイ文句を言い出し、ここは有名キャスターが老後ゆっくり過ごすために買ったところだとかゆー寝言を持ち出し、更には東京のボランティア団体が西表の自然を守ろう!とか出張ってくるもんだから、一郎はキレちゃうんである。
まあ、ボランティア団体を退けるまでするのはちょっとやりすぎのような気もするけど、生まれた土地に世話になった人の紹介で住んでいるだけなのに、ガチャガチャ言われるのがガマンならなかった、そんな単純な理由だけだったのだ。そりゃそうだ。このとーちゃん、単純だもん。どんなに穏やかな土地に逃避したとしても、このとーちゃんのいるところ、問題勃発なわけである。
全国にもこのニュースが流れ、二郎の東京の友達からも連絡がくる有り様なんである。しかしこの頃には子供たちの意識は大分変わっている。一人東京に残っていた長姉の洋子も、父親の言うとおり男に捨てられたのか?西表に移り住んできていた。
このおねーちゃんはさすが一番年長だけあって両親のことをよく理解していて、「お母さんは、お父さんにいまだに憧れてるんだよ」「(お父さん)今時あんなに純粋な人はいないんじゃない」と幼い弟と妹に言い含めるのがなかなかに泣けるんである。
バリケードが破られ、ショベルカーが突進してきてあわや!と思ったら、お父さんのしかけた落とし穴にはまって動けなくなる。呆然とする開発業者たち。しかしそこでスッキリ問題が解決する筈もなく、駆けつけた警官たちによって両親は捕らえられてしまう。これが!あのスローモーション。
子供たちは母親から「今のお父さんの姿を焼き付けておくのよ!」と言われるまでもなく、その強烈な強靭さに圧倒される。そして、夫婦して警察に連れて行かれ、島民住宅でまんじりともせずに時を過ごす三人の子供たち。
しかし、そこに爆発音が!「お父さんがまた何かやった!」慌てて飛び込んでくる新垣巡査から、両親が逃げ出したという一報が。土地の人たちの手引きによって脱走に成功した両親と、秘密の入江で再会を果たす子供たち。
子供たちを残して、この海のどこかにあるという理想郷、パイパティローマを目指す両親。その両親を笑顔で見送る子供たち。かつてなら考えられなかった。子供がいたなら、ひたすら子供中心になるのが基本で、子供をおいて夫婦で理想郷を目指すなんて、ヒドイ親な筈なのに、それこそが子供たちにとっても幸せで。だって真っ直ぐな信念を持った、ラブラブな両親を彼らは大好きだし、信じてるから。
でもこのラストで、いきなりファンタジーになってしまうって感じもするけど……だってパイパティローマだなんて!いつか彼らは本当にそれを見つけて、言葉どおり子供たちを呼び寄せるんだろうか。
なんかこのラストって、まるで二人が天国にでも旅立つのと同義にも思えちゃうんだけど。このラストでこの物語の全てがファンタジーになってしまう危惧すらあるんだけど。でも不思議と爽快で、この二人ならパイパティローマをマジで見つけちゃうかも、と思ってしまうのも不思議。
のどかな沖縄訛りがよく似合う人のいい新垣巡査に、松ケン。下北人の彼の下北弁をまだ聞いたことがないのに、まさかウチナーグチの松ケンを先に観ることになるなんて。この人はほおんと、得がたい魅力の人。恐らくこの長姉にホレちゃって、警官の職務ギリギリのところで彼らを救って、この先もハラハラしながらこの家族を見守っていくんだろう。
ところで、西表島のリゾート開発差止って、実際に起こってる問題なんだね。今や日本中が開発されまくりのこの時代、最後の理想郷がここにギリギリ残ってる。
この島自体がまさにパイパティローマなのかもしれない。★★★☆☆
メインとしては、この両親の物語なんだけど、なんせ語り部が次雄なもんだから、14歳の男の子としての描写に、同じくらい尺が割かれてる。
彼の目から見た家族と、彼の周囲の世界。そして彼自身の思春期の淡い恋や、真夏の日差しの中の部活動。
んー、青春なのだが、メインは両親だよなあ、と思うと、前半部分、どことなくあちこちに気持ちが割れちゃって、落ち着かない気分にもなる。
もちろん、それは中盤からラストにはキレイに収斂されていくし、そのぎこちなさこそが、現時点での酒井家の現状といえば、それはそうなんだけど。
彼の目から見えない部分は、後にその真相が明かされるし、それはそれでおおっと思わせる感動なんだけど……結構中盤までは、何が中心なんだろう、もっと核心ズバッと行ってほしい、ともどかしい気分になったのも事実。
でもまあ、てなわけで、子供の目からは見えない、大人の気持ち、てなわけも、あるのだね。
両親は、ユースケ・サンタマリアと友近。ちょっと思いつかない顔合わせで、今回足を運んだ興味のひとつでもあった。
しっかりしてそうなんだけど、どこか大人子供な部分(特に彼の方は)を持ってて、で、実際子供たちはまだまだ子供なもんだから、なんだかひと騒動起きそうだぞ、みたいな。
ユースケ・サンタマリアは、父親役なんてハマるのかしらと思っていたけど、独特の化学反応っていうんかな、特にこの、「たった一人、東の男」で、「母親の前に突然現われた年下の男」みたいな、子供の目から見て、どっか宇宙人的で唐突なキャラが実にハマる。実際は九州出身で東の男じゃないし、友近の方が年下なんだけどさ。
でも実際、彼って凄く、出自が謎な感じがするよね。そんな彼のキャラそのままに飄々としててつかみどころがないんだけど、実はすっごく愛に溢れてる、のが最後の最後に判る。
そして、友近。関西のおかあちゃん。オカンっていうんだろうけど、私の感覚ではおかあちゃんって感じ。おしゃべりで、小言ばかりで、でもなぜか大らかで、いい感じに大雑把で、太っ腹で、彼女もまた、隠しているんだけど実はすっごく愛に溢れてる、のが、最後の最後に判る。結局は彼女がすべての手綱を握っていたかもしれない。
でね、ところでね、次雄は自我が目覚め始めた頃で、でもそれを言葉として表現できるほどには育ってなくて、とにかくテレ臭く、もどかしい年頃なのだ。
世ではそれを、反抗期とも呼ぶらしい。
家族みんなで大阪の母親の実家に行った時、縁側に一人座っていた父親を呼びに行った次雄を彼は呼び寄せて隣に座らせ、こんなことを問うてみる。
「親、ウザいか?」
当惑した顔を向ける次雄に、彼はちょっと言い訳するように続ける。
両親ともコロッと亡くなって、親がウザいという気持ちがいまいち判らないんだ、と。
息子が親を、ことに他人である、しかも東の人間である自分をウザがっているのを察知してる。
そしてこの時には自分の病気にも気づいていたんだろう(おっと)。
この場面ではね、夏休み、実家に三世代集まりました、みたいな大家族がバーン!で、店の改築問題で口論になったり、「日雇いみたいな仕事」をしているその家の息子とあわや取っ組み合いになりそうになったりする。それをじっと聞いていた父親、突然爆笑するのね。周囲がきょとんと固まった中、お腹を抱えて、転げ回って笑う。
「あんた、何考えてんの。親いないなら、少しは自分の家族だと思いなさいよ」
夫にそんな風に言葉を投げつけてしまう母親に、周囲は凍りつくんだけど、彼は更に笑い続ける。それに……彼女には誤解があったかもしれない。
いや、でも後から考えると、彼女はもうこの時点からおかしいと感じ始めていたようにも思う。
父親には、親子のいさかいやなんかも、ホームドラマのような幸福に見えたのかな。
息も絶え絶えに笑いながら、彼はこんな風に説明する。「俺の親も生きていたらこんな風なのかなって思ったら……」
なぜそれが、笑いという形になって現われたのか、なんだかそれが、泣き笑いのようにも思えちゃって。泣き出しそうなのを隠すように笑っているようにも思えて。
一方で次雄の青春の日々も描かれ、まーこれが、中学生ねッ!って感じのまぶしさなのだ。
時が夏休み、というのもそれを後押しする。ギラギラと照りつける西の真夏は、いかにも暑そう。「起きられないなら、部活なんて辞めなさいよ!」と毎朝母親に怒鳴られながらも、おっきなカバンを自転車のカゴに放り投げて、真夏の学校に出かけてゆく。真っ白く照らされた校庭で蹴るサッカー。男の子だなー。
同級生の女の子に体育用具室に呼び出しを受け、プレゼント渡されるなんて場面まで用意されている。狭い体育用具室に二人っきり!中学生の時にこんなことあったら、もう心臓マヒして死んじゃう。なかったけど(爆)。
そんな具合に、血のつながらない父親とともに、彼の思春期の描写にかなりの尺を割いているから、前半部分、何が焦点なのかが判りづらい。
確かにラストにはすべてがまとめあげられるんだけど、それならば次雄の幼い恋の(ま、受け手だけど)はいらなかったようにも思う。
だって、それだけで一本作れそうなぐらい、細かい描写を積み重ねて作ってたもんね。積極的な女の子に押せ押せにされちゃう男の子の思春期をさ。
体育用具室の場面で彼女がエロ少女マンガ読んでたりするのは、女の子の方が心も体も先に大人になっていることを示唆してて妙になまめかしい。この物語が中学生の女の子からの視点、だったら全く違ったアプローチになっただろうな。
そして彼女が忘れていったマンガを返す、という名目で、初めて女の子を自分の部屋に招きいれ、溶けかけた彼女のアイスを口で受け止める、なんていうドキドキのシチュエイション、その場面では、彼女からふいにキスされていた、という事実が後に明らかにされる。
次雄はそんな彼女に意識はしまくりだけど、何のリアクションもとれなくて、結局この地を去ることになるラスト、見送りにきた彼女と友達から、「俺たちつき合ってる」と報告されるというナサケナイことになるのだ。
まあ、そのことで「カッコわりい」と父親が爆笑し、母親もつられて笑い、いつもケンアクムードだった両親がなんだかイイ雰囲気になるんだけどさ。
おっとー!またオチまで行ってしまったじゃないの!いやいやいや!全てをすっ飛ばしてオチまで行っちゃイカン!
お父さんが、突然家を出るっていうのよ。次雄が家に帰ると荷造りをしている。母親はそれを無視して憮然として洗濯物を畳んでいる。誰に聞いても沈黙するばかり。次雄が怒鳴り散らすと、ようやく母親が口を開ける。
「お父さん、好きな人が出来たんだって。しかも女やないねんで。男。笑かすやろ」
それは家にも折々寄っていくことがあり、幼い妹の光もなついている職場の後輩、浅田君だというんである。
父親は、何ひとつ口を開かず、荷物を持って玄関に下りる。「お父ちゃん、どこ行くの」光のたどたどしい言葉に思わず振り返る。その時、靴箱の上の金魚鉢が危うく落下!
何をどう察知したのか、駆け寄ってきた母親が、その落ちかけた金魚鉢を支えた。
バラバラになりかける家族が、でもそうじゃないんだ!って、暗示しているような。
一瞬、時が止まって……ふっと父親は、ドアを開けて出て行った。
この父親、ただ一人東の男、がね、どんな思いでこの家族、この土地の中で暮らしてきたのか、ってことに、なんか思いを馳せちゃうんだよね。
人なつっこいけどよそ者には敏感に排除感覚を示すこの西の地で、どれだけ肩身の狭い思いをしていたかを。
でもこのお母さんと運命の恋をして、それを乗り越えるだけ大好きで、子供たちも大好きで……そして大好きだからこそ、大胆なウソまでついて姿をくらます決心をした。
そうなの、男が好きになったから出て行くなんて、ウソなの。女どころか男、とまでウソをついたのは、それぐらい突拍子もないことだったら諦めがつくんじゃないかということもあったろうし、このウソに協力してくれる腹心の相手でなければならなかったから。
この突然の出来事に次雄は心かき乱されちゃって、授業中突然幼なじみに食ってかかったりする。
お前、ウザいんじゃ、ずっとウザいと思ってた、なんて言って。
いつもいつも一緒に行動してた、クラスも部活も同じで。なのに。
そりゃ、全くそういう気持ちがなかったわけではないだろうけど。気の合う友達だからって、全てが100パーセントなわけない。それがいつもならプラス方向に働いていたのが、心の均衡が崩れて、一気にガーッとマイナス方向にブレているのが判る。
それが、思春期というものなのだ。セーブが効かない。
彼の家は喫茶店やってて、部活仲間とともにしょっちゅう入り浸ってた。反抗期の次雄には、家はどこか重たく感じてたから。自分の誕生日に外食するという日にも、彼の母親から電話をしてもらって、すっぽかしてたりした。
喫茶店に迎えに来た母親に、「親、選びたかった」と投げつけるように言う次雄。
友達の母親が、次雄の腕を握って、静かに言った。
「子供が親選べへんように、親も子供を選べへんねん」
次雄が叔父さんの家を訪ねる場面も、なかなかに印象的である。
この叔父さんを演じるのが赤井秀和。お母さんの元義兄。つまり、亡くなった実父の弟である。
糸の染め物職人である彼は、気さくで、口の重い思春期の彼も楽に接することが出来る、という雰囲気の相手である。そして彼に、前のお父さんが亡くなったいきさつを聞くんである。
いつもいつもケンカばっかりで、意地の張り合いで、そのまま上の子を連れて車で出かけて……帰らなかった。
叔父さんは、おっきな握り飯を出してくれる。でもそれを、次雄が手を洗いに行った間に、ボケたじいちゃんが食べちゃうの。
呆然とする次雄に、叔父さんはいつものことだというように「すぐ次の握ったるわ」とあっけらかんと笑う。
んでもって、惣菜を届けに来るハデなお姉ちゃんなんてのも現われる。
いつもはじいちゃんはボケてるからと遠慮ナシに上がりこもうとするってのが、生々しい想像がされちゃう。
そう、いつもは、叔父さんはそう言って彼女を家に上げて、ボケたじいちゃんの前でイケナイことをしちゃうのだろう。うう、大人の事情だ……。
彼女を小声でなだめながら、何とか帰そうとする叔父さん、「空気読めや!」と言ってみても、「空気って何よ」と強烈に言い返されてる。立場が弱い……。
なあんかさあ、次雄、男と女の力関係を見せ付けられた?
夏祭りの日、次雄は父親の姿を見かける。
見つかった父親は慌てて逃げ出す。追いかける次雄。
人気のない神社の奥に追いつめられた父親は、苦笑いして笑いかける。「元気だったか」なんて言って。
小遣いを握らせようとするのも、哀しくぎこちなく、次雄にその手を払いのけられる。「どうして逃げるの」
そこに、浅田君が現われる。「勝手に抜け出したら、怒られるよ。病院に見つかる前に帰ろ」
慌てて浅田君を目で制する父親。その言葉の意味を図りかねて凝然とする次雄を置いて、慌てて去って行く父親。
それまでの次雄を見ていたらね、そんな積極的な行動をするとは思わなかったんだ。やっぱり男の子って、基本的に私にとっては未知の存在なのかも。
いや、世間的にもそう思われているんじゃないの。ムッツリ何も言わず反抗的で、何を考えているか判らない、なんて、中学生の息子を持っている母親がよく口にするように。
でも次雄、父親の勤めていた小さな工務店に浅田君を待ち伏せしているのだ。中に入るようにうながされても黙ったまま動かず、重く口を開く。「教えて、本当にお父さんとホモなの。本当のこと教えてよ。病院って何!」
さすがにもう、隠し切れなくなって、浅田君、次雄を病院に連れて行ってくれるのね。
もともとあまり顔色のいいタイプじゃないユースケ・サンタマリア。青白い顔してパジャマ姿で出てくると、本当に死にそう。
「お母さん、前のダンナも亡くしているだろ」そう切り出した父親は、もう自分が死ぬと決めているらしい。「お父さんだって怖いよ。一人で死ぬのは怖い」そう言いながらも、「お母さんも次雄も光も大好き!」と言い、「だから苦しめたくない」と言う。
次雄は、そんなの違うと思ってるんだけど、上手く言葉に出来なくて、そのもどかしい気持ちをただ、叫ぶことでしかぶつけられない。
「お母さんには黙っててくれ」と言われても到底承服できない。「出来ない」そう言い連ねて、身体を硬くすることしかできない。
この感情はなんだろう。血のつながらないお父さんのこと、ただウザく思ってただけじゃなかったのか。
「大好き!」そう言われて、心の中がざわめいたんじゃないの。いやそれより、自分をここまで運ばせた自分こそが、お父さんのこと、口に出来ないけど同じ気持ちだってことを……。
だから次の場面、お母さんに必死に訴えたんだ。この年頃の男の子の無口を開かせるなんて相当なもの。だって、この年頃の男の子は、ボキャブラリーもないし、テレくさいし、自分の気持ちを上手く言葉に出して表現出来ないのはしょうがないことなんだもの。ただただもどかしい気持ちをもてあましてる。それが青春。
その彼が、「お父さんに会いに病院に行こう!」って、お母さんに必死にしぼり出すんだもの。もうそれだけで彼の必死に思い当たって、涙があふれてしまう。
でもね、後になって判ることなんだけど、本当は、お母さんは知らなかったんじゃなくて、何もかも判ってて、お父さんが折れてくるのを待ってたんだよね。なのに息子に折れちゃった。
夜の病室に家族三人、そっと入っていく。眠っていたお父さん、目を覚まし、やや驚いた表情を浮かべる。でも……どこかに予感していたような風もある。
「次雄がお父さんに会いに行こうって言ったのよ」
満足そうに微笑む次雄は、気を利かせて妹ともに病室の外に出る。
お母さん、お父さんの手を握る。こんな狭い町でウソついたってすぐにバレるんだからと言う。強がっちゃって。自分で調べ上げたくせに。
お父さんの愛情だってこと判るから、なんだか悔しい、憎らしい。突然いなくなるより、ずっとましなんだから、とちょっと責めるように言う。涙があふれる。お父さんの目じりからも涙が伝う。
「やっぱり髪、降ろした方がいいな」お父さん、お母さんの髪を優しくいじりながら言う。お母さん、突っ伏して泣く。
前、この台詞を言った時は、何よ、気持ち悪い、ぐらいにいなされてたのにね。どっかもう倦怠期で、心が離れかけてた。
お母さんは、前のだんなさんとケンカしたまま死んでしまったこと、後悔していたんだね、きっと。
だから今度は、後悔したくなかったんだ。
お父さんが、好きな人が出来たと言って出て行った翌日には、お母さんてば病名から居所から、全部調べ上げてたっていうんだもの。
実家に引っ越す算段をつけていたのも、お父さんをじっくり看病する環境を整えるため。
それを知った次雄のこんなモノローグが微笑ましい。
「僕はお父さんとお母さんの両方に騙された」
ラストは、お父さんを助手席に乗せ、家族みんなで引越し先の大阪へ旅立ってゆく。先述のように、見送りに来た友人とあの女の子に衝撃の告白をされて、父親はそんな息子に「カッコ悪いー」と噴き出し、つられた母親とともに爆笑する。
今までの次雄だったらただムクれるばかりだったと思うんだけど、隣でスヤスヤ眠っている妹に目を移し、段々苦笑いからテレ笑いになり、着ていたジャージのファスナーを首まで上げて、顔の下半分を隠す。
あ!これって、「大人は判ってくれない」の、ジャン=ピエール・レオーのあの有名なポーズじゃない!でもジャンとは違って、彼はテレくさそうに笑ってるの。大人も判ってくれてる、みたいにさ!
確かにね、このラストはほんのちょっと、切なさも含んでる。もう死ぬんだと覚悟した父親の病気が、そう簡単に治るとも思えない。助手席の父親は相変わらずひどく顔色が悪くて弱々しげだし、母親の決意は最期を看取る、という覚悟にも思える。
でも、でもね、これがタイトルの意味する、しあわせの瞬間なんじゃないかと思うんだ。この瞬間が残るからこそ、家族なんだよね。
関係ないけど、担任役の本上まなみが、「先生、おなかに子供がいます!」と話の筋とはまったく関係なく報告するのは、まんま彼女が妊娠した時だったんだろうか……。★★★☆☆
蜷川実花に関しては、写真家であるということしか知らず、その作品を観たことはないんだけれど、この強力な世界観を軽々とまとめ上げてしまうことに脅威を感じる。勿論、軽々とってワケじゃないんだろうけれど、そう思えてしまう程。
超ヴィヴィッドな色彩を惜しげもなく使って、ヒロインがその中を所狭しと跳ね回り、しかも音楽のセンスがその世界を押し広げている、というのは、「嫌われ松子の一生」と共通してそうなんだけど、印象が全然違うのは、勿論時代劇というのもそうなんだけど、その“音楽”の個性にあると思われる。それは今回、初めて映画全編の音楽を担当した異才、椎名林檎の力。
正直、ちょっと驚く。歌モノは勿論、そうでない部分で、彼女の、いわばちょっとマニアックなシブいセンスが光る。メロディが、一筋縄でいかない感じ。一言で言えばキャッチーじゃないねじれ加減が、このヒロインの、パワフルだけどかなりねじくれている感じにフィットする。しかもこれが、メチャメチャセンスいいんである。
そして、原作はカリスマ漫画家、安野モヨコ。芸者ではないけど、花魁で、結局は最後の純愛で押すあたりも、どこか「SAYURI」をおちょくったような内容にも思える。だけど、ストーリー自体は単純明快で、押し込められた女の世界や、その中の嫉妬や野心、そして純愛は、「大奥」のラインも思わせる。
原作は未読だけど、この作品が唯一たらしめているのだとしたら、やはりヒロインの生命力、恋の力であろうと思われるのだな。
んで、それに挑む土屋アンナは、ねー。彼女に「NANA」をやってほしかったと思ってたけど、これを見て考えを改めた。彼女がNANAじゃ、あまりに生命力があり過ぎる。カリスマ性はそのものだけど、NANAの根本である脆さが、土屋アンナにはないのだ。
いや、ないと言ってしまったら、本作のヒロインだっていろんな弱さを抱えてるんだから務まらないんだけど、根本的な図太さや押しの強さが、土屋アンナの魅力なんだよなあ。そう、原作が未読だからわかんないんだけど、彼女の方に、このきよ葉と日暮のキャラを引き寄せたんじゃないかと思われるほどなんである。
8歳の少女が、吉原の遊郭「玉菊屋」に売られてきた。つけられた名前は「きよ葉」。「そんな、葉っぱみたいな名前はイヤだ!」最初からそう突っぱねるような、気の強い女の子だった。
彼女がついたのは玉菊屋きっての売れっ子花魁である粧ひ。「あたしゃいやだよ。こんなごんぼみたいな子。ああ、臭い臭い」そう鼻をつまんだ粧ひとはウマが合わないように思ったんだけど、ある日、きよ葉はふすまの陰から見てしまう。粧ひが客に乳を揉まれ、上に乗って腰を上下させているのを。
きよ葉の視線に気づいた粧ひは、振り返って妖艶に微笑んで見せた。
粧ひは、お金持ちの男をつかんで、身請けされることになった。花魁にまで出世して身請けされるのは、吉原にひしめく女たちの最大の夢。旅立つ日、粧ひはきよ葉に自分のかんざしを抜いて、手渡す。「一人前になったら、つけるといい」
この粧ひを演じているのが、菅野美穂。彼女は誠実で清楚な役も似合うけど、こういう、ちょっとイジワルそうな笑みを浮かべる妖艶な役をやると、ゾクリとくるほどコケティッシュなのよねー。これは、長じたきよ葉とライヴァルとなる高尾を演じる木村佳乃にはない魅力で、「伝説の花魁」をさすがの貫禄で演じている。
しかし、乳を揉まれるトコまでやるなら、乳首のひとつも見せてくれよなあ。風呂場のシーンで、あまたの女たちの乳房が、まるで餅を並べているかのように高速カットで並べられる遊び心があるんだから、なんかねえ、これだけやるのに、って思って、しらけちゃうのよ。女優って、乳首の一点が、そんなに大事なのかなあ……。
高尾とはずーっと張り合っていたんだけれど、彼女は本気でホレた男にホレ過ぎて、くだらない嫉妬心を起こして、もみあっているうちに、彼に刺されてしまった。
この玉菊屋で一番の花魁である誇りを持って、人気の高まってきたきよ葉を牽制していた彼女が、だからこそ、客に本気でホレるなんてバカだと言ってはばからなかった彼女こそが、そのワナに溺れて死んでしまった。
かくしてきよ葉はその高い人気を買われ、花魁へと昇格することになる。名前も日暮と改めた。
彼女の人気が高いのは、その端正なルックスもあるけれど、新造ながら気位の高い自信満々なトコが、基本マゾな男たちの心をそそるんだろう。
しかも彼女はかなりの名器の持ち主であることは、楼主が「肉は固くしまって、色もいい。こりゃ上品(じょうぼん)だ。客が泣いて喜ぶぞ」と仔細に見て確認済みである。これを演じているのが石橋蓮司で、こーゆーエロジジイがリアルに似合いすぎて困っちゃうんだよなー。泣いて喜びそうなのは、あんたの方じゃん。
まだきよ葉時代だった時にね、奔放な彼女はとにかく問題児で、脱走騒ぎもしょっちゅう起こしてたし、高尾とも散々やりあっていたから、よく縛り上げられてお仕置きされていたんだよね。それは、ここに売り飛ばされてきた幼少時からそうだった。
で、いつの頃からだったのかなあ、下男の清次が彼女の側にいたのは。おいたをして縛り上げられた彼女が、からかい半分なのか清次に向かって股を開いて、挑発するのよ。すると彼は、「そんな手練手管は、客に使え」とすげなく立ち去る。
手練手管、とわざわざ言うってことは、つまり清次は、ずっと彼女のこと、好きだったんだよね、きっと。
きよ葉は、いや、日暮になってからだったかな、忘れた。凄く凄く、好きになっちゃった人がいたのだ。惣次郎というとっぽい青年。彼も、彼女のことを本気で好きだと言ってくれた。遊女でも、人を好きになったっていいんだ。信じてもいいんだ。高尾の醜態があったのは、この先だったろうか、後だったろうか……。
結局は女。一度は同じ轍を踏んでしまうんだ。それで高尾は命を落としてしまったけれど。
彼女のことを気に入っていた客が、二人のソノ最中に逆上して乗り込んできた。それ以来、惣次郎は姿を消してしまった。
惣次郎が裏切るわけはない、と雨の日、彼女は彼の勤める大店を訪ねて行く。
ぱりっとした若だんな風のカッコをした彼は、頭からすっぽりとかぶった濡れネズミの彼女に気づいた。
いつもの、きらびやかな彼女とは全然、違う。
彼のもらした笑みは、ひどく天真爛漫だったけれど、彼女はそれで、彼との終わりを悟った。
川の中へと入っていこうとする彼女を必死で止めたのは、清次だった。
いつだって、彼は彼女の側にいたのだ。
吉原の、大通りの入り口にある、巨大なびいどろの水槽が目を引く。
鮮やかな青空に、透明なびいどろの水槽。その中をゆらゆらと泳ぐ無数の赤い金魚。本当に、空を自由に泳いでいるみたいだ。
でも、粧ひが言ったように、金魚はびいどろの中でしか美しく生きられないのだ。
川に放したら、フナになってしまうというのは言い過ぎにしても、ここを出て行ったら、ただの女としてのたれ死ぬしかない。
いや、生きる才覚があるのなら、のたれ死ぬことはない。
それ以上に、側に愛する人がいるのなら、フナになることもない。
きよ葉から日暮となった彼女は、その両方を得て、吉原から出て行った。
と、いうことになるのはもっともっと後である。
めでたく花魁、日暮となった彼女には、まだまだ試練が待ち受けている。
あるお武家様にホレられた。それは今までのようにただイヤな客ではなかった。最初こそは、「花魁は何かとモノイリだろう」とダイレクトにカネをよこされたもんだから日暮はカンに触って、それを突っぱねたりした。
しかしこの倉之助というお武家様、その無礼を素直にわび、「吉原に桜が咲いたら、ここから出て行く」と言っていた日暮の言葉に、自ら大量の桜をこの玉菊屋に演出するんである。ふすまをあけたら一面のピンクの桜!これには女はやっぱり感激しちゃうよなあ。
……しかし、日暮はどこか、浮かない顔をしているのね。
倉之助は、確かにイイ奴には違いない。だけど……。
そんな折り、彼女の妊娠が判明してしまう。それにいち早く気づいたのは清次だった。どうしてこんなことまで気づいちゃうかな、この人は。決まってる。彼女のことをずっとずっと見ていたから。
堕ろす気はないと言いながら、不安に駆られる日暮を、清次は黙って抱きとめた。
この時からだったような気がする。日暮がようやく、清次の思いに気づいたのが。
倉之助が日暮の身請けを宣言し、店中が祝福ムードに包まれるのだけれど、何せ彼女は子を宿して、しかも産むんだと言っているんだから、タイヘンなんである。
吉原に桜が咲いたら、ここから出してやる、幼少時の彼女に、清次はそう言った。
吉原の桜は咲かない。それが常識だった。だけど朝、眠れない日暮が外に出てみると、そこには清次がいて、桜の木を見上げているんである。
たった、いくつかだけだけど、桜が、つぼみをふくらませているのだ。
どちらからともなく笑い合う二人。
「本物の桜を見に行くか」清次の言葉に、日暮は微笑んで頷いた。
それが、二人の逃避行となった。
この、「本物の桜」っていうのは、倉之助が、つまりはニセモノの桜で玉菊屋を満開にし、日暮の気を引こうとしたのと見事に呼応しているわけね。
もちろん、倉之助のその行動は、日暮を思うがための、凄く心のこもったものだったんだけど、女は、好きな人にしてもらわなきゃ、やっぱり意味がないんだよね。
二人が向かう桜並木、そのロケ地は、幸手、権現堂堤の桜。ここはホントにキレイなんだよね。ド田舎だけど。だからこそ、本当に、本当に……二人だけのものなんだもの。
そしてその下には見渡す限りの菜の花畑!これは実に実に……奇跡的な画だ。CGでもなんでもない、まさに今、目の前に広がっている、桃色と黄色の鮮やかで、しかも心に染みるほど優しい色彩!
二人ははしゃいで、その中を駆けてゆく。
二人は確実に、追放されてしまうのだろうけど、この上ない幸せな結末に見えた。
彼女にホレこんで、カネを貯めて会いに来る町人風の男に扮する山本浩司が、あまりにらしすぎて、なんか一息つけちゃった、って感じ。
何たって相手は、コワーイエンケンなんだもん。
「お武家様だぞ。カネ持ってるんだぞ。早く行った方がいいんじゃないのか」とおじけづく彼、
「あんたが金がないのは知ってるさ。私はあんたのそういうところが好きなのさ」
と言われて、すっかり骨抜きにされて嬉しそうなトコがカワいすぎるだろー。
きよ葉時代からのご贔屓で、吉原一の通人だったご隠居を演じる市川左團次が、このキッチュな色合いの作品の要となってシッカリとしめ、そしてかつて幼いきよ葉が粧ひから託されたのと同じく、「一人前になったらつけな」とかんざしが手渡される女の子が更にギュギュッとしめてくる。
このコはかつてのきよ葉と同じように、日暮の濡れ場を覗き、びいどろの中の金魚の世話をしていた。そしていつか、このくるわを何らかの形で出て行くのだろう。
さくらんってのは、やはり、桜→おいらん→錯乱ってな言葉遊び、なんだろうな。土屋アンナは現代のメイクそのままで、眉が短くて細くて怖いよー。★★★☆☆
しかしまあ、今回監督との初顔合わせといえば、やはり小西真奈美のご登場なわけよね。久しぶりの黒沢監督での主演作、役所広司と彼女の顔合わせは、実にスリリング。
小西真奈美なら、これだけ年が離れていても違和感ないし、逆に役所広司を包み込む菩薩のような大きな優しささえ感じる。
それだけ、彼は大きな不安の中にいた。それを癒してくれるのが彼女だと思っていた。
なのに……。
冒頭は、役所広司が赤いワンピースの女を組み伏せ、海岸近くのぬかるみにその顔を押し付けている場面から始まる。彼女の顔は見えない。ただ、真っ赤なワンピースばかりが目に染みる。足をバタつかせて、しかし抵抗空しく、ぬかるみに顔を突っ込んだまま、動かなくなった。
彼は、吉岡。刑事である。翌日、その現場に何食わぬ顔で向かう彼にあれっと思う。しかし彼はどうやら覚えていないらしい……いや、何となく頭の片隅におぼろげに残っている。まるでデジャヴのように。それが彼を不安にさせる。
でも、遺体の女に覚えはない。しかし彼女からは彼の指紋しか検出されず、更に、現場に落ちていたコートのボタンや、凶器となった古いケーブルも、彼の持ち物と一致してしまう。
この、「シティマートで買ったコート」に関しては仲間たちに伏せていたのだけれど、そのボタンがなくなっていることに、彼は不安を覚えた。
指紋検出に関して、同僚たちは「素手で被害者に触っただろう」と笑ってすませてくれるのだが、吉岡は気が気ではなくなってくる。
何かが起こっている……。
確かにコートのボタンはなくなっているし、古いアパートである自分の家には、同じ黄色い塗料を使ったケーブルがあるしで、動揺を隠し切れない。
しかも、イヤな夢ばかり見る。被害者と同じように赤いワンピースを着ている女が、彼の視界を何度となくよぎるのだ。彼はそれを、その被害者、シバタレイコだと思い込んでいたのだが……。
吉岡の恋人、春江との関係は順調だった。いや、順調すぎるように見えた。彼女は彼の古いアパートに来て、食事を作って一緒に食べたり、静かに一緒に時を過ごしたりしてくれる。そんな風に一緒にいる時は、まるで長年連れ添った夫婦のようにまったりと自然でいられるのに、いや、まるでその延長線上のように帰っていく時もまた、ひどくアッサリとしている。
コートを着込み、帰る準備をしている春江、吉岡は頓着することなく新聞なぞ眺めている。そして、「帰るね」と言う彼女を、彼は「あ、そう」と玄関まで見送る。そして彼女に手を振ってドアを閉めると、すぐにカギをかける。
なんでもない光景なのかもしれない。でも恋人を見送って、その耳に聞こえるほどすぐにガチャリとカギをかけてしまうことに、一抹の不安を覚える。それだけもう長年の信頼関係なんだとも思ったけど、それならば彼らはなぜ、この長年の信頼関係をあるひとつの結果としないのだろうかとも思った。
確かに、結婚ばかりが最終の形ではないけれど。
春江はある日、「しばらく来れないから」と言った。「一週間か、二週間か……また来れそうになったら電話する」と言った。「そう」彼がそれを疑問に思うこともなく、さらりと受け止めた。いつものように。
それは、彼女が彼の手にかけられた時だったのだろうか。
赤いワンピースの遺体の身元が判明しないまま、同じ手口で次の殺人事件が起きた。今度の被害者は男子高校生。その父親が行方不明になっていて、彼が被疑者であろうと容易に知れた。
吉岡は、手口が似た事件が時をおかずに発生した、これは連続殺人事件だと断定する。しかしそれは、あまりに焦っているようにしか思えなかったものだから、同僚の刑事、宮地(伊原剛志)は、心配しながらも吉岡に疑念を抱き始める。
吉岡は、赤いワンピースの遺体が見つかった現場に、何度となく足を運んでいた。自分の痕跡が残っているのが気になって仕方がなかった。そこに逃亡中のこの医者が現われた。ビルから飛び降りた(!あれ、ワンカットだったよ!)彼を吉岡は取り押さえ、抵抗する彼に暴行を加えてしまう。
駆けつけた仲間達は、彼がこの場所に現われることを見越した吉岡のカンの良さを褒め、「あまりムチャすんなよ」とだけ言ったけれど、同僚の宮地だけは、「……やりすぎだぞ」と不快感を示す。しかも吉岡は、「あの男の取り調べは俺がやる。誰にも手を出させるな」とまで言うものだから、宮地はしぶしぶながら承知するものの、その疑念をますます強くしていくのだ。
でも、この医者は、どこかおかしかった。息子を殺したのは、「手におえなくなって、全てをゼロに戻したかった」と言った。それは凡庸な理由のように思えたけれど、その言葉に吉岡はどこか……微妙にフリーズしたかのように見えた。
しかもこの医者、目に見えないものに怯え始めた。「刑事さん、あれはなんです?」何もない空間に空虚な視線をうつろわせ、「助けてください!」と叫び続ける。
そして、また次の事件。今度の加害者は女。不倫関係にあった社長が、妻と別れて彼女と結婚しようとしていた矢先だった。幸福なはずだったのに、社長の言葉に対して、彼女はどこか反応がニブかった。「はい」「判りました」ばかりで、社長室でのセックスの求めに対しても、「今、仕事中ですので……」と事務的にさえぎり、後に事務的にそれを遂行したあと、彼を殴打し、浴槽にためた海水に沈めて、殺した。
その海水は、彼女がわざわざ海まで行って、多数のタンクに溜め込んで用意したものだった。その様子も挿入されている。ブーツをはいた足を踏ん張ってタンクに海水を汲む彼女は、どこか異様だった。
またしても、海水による溺死である。なぜそこまで、海水にこだわるのか。
彼らには、共通点があった。この地が埋め立てられる前、海をフェリーで横切って通勤していたのだ。そして皆、あの赤いワンピースの女を見ていた。この犯行に駆り立てられる前も……。
またしても、導かれるように吉岡はこの容疑者を見つけた。追いつめられた彼女は、苦しそうに吐露した。
「あの人は、自分のしたいことをしてるだけ。あの人が見ている未来に、私はいなかった。だから、全てをなくしてしまいたかったんです」
またしても、同じ台詞だ……。
吉岡はこの台詞を聞いて、発作的に彼女の顔を海水がたまっていた容器の中に突っ込む。
何とか、未遂で終わった。吉岡は彼女を逃がし、悲鳴を上げて走り去る彼女をどこか呆然と眺めていた。
何だ、今の感覚は。なぜ溜まった海水をみると胸がざわめくのだ。このあたりに何度となく起こる地震によって埋め立て地が液状化現象を起こし、あちこちに小さなぬかるみが出来ている。そのぬかるみの水面が、小さなさざなみをたてる。
赤いワンピースの遺体の身元が判明する。定職につかず、ヒモのような恋人につきまとわれていたシバタレイコという女性だった。やはり吉岡には覚えがなく、そのヒモが彼女を殺したことを自供した。「シティマートで買ったコート」のボタンがとれていて、それが現場に残されていたものと一致した。
これで、事件は解決したように見えた。身元も判明せず、犯人も捕まらない赤いワンピースのシバタレイコが、吉岡の部屋に恨めしげに出没する赤いワンピースの女であると、吉岡は思っていたから。
カウンセラーに、「幽霊が、間違って出てくることはないでしょうか」などと聞いてみたり。しかしカウンセラーはその幽霊の出没はそれそのものではなく、自分が正しいことをしたんだろうかと自問する心の声が、死者の形を借りて現われると説明していたわけで、吉岡の問いはあまりに的外れである。
オチが判ってしまえば、カウンセラーの言ったことは当たっていたのだ。吉岡の記憶の奥底にしまいこまれた小さなひっかかりを引き出すために、彼女は現われていた。
赤いワンピースの女は、彼の部屋の隅っこに、やはり恨めしげに佇んでいた。
彼が殺したと思ったシバタレイコは、この赤いワンピースの女ではなかったのだ。ようやく吉岡は気づく。赤いワンピースは同じだけれど、彼女はシバタレイコじゃない。
吉岡の中に、ずっと引っかかっていた記憶がある。
どんどん埋め立てられて、高層ビルを建てたり壊したり。そんなことを繰り返しているこの土地が海だった頃のこと。小さなフェリーで通勤していた記憶。その時、フェリーの上から毎日見えていた朽ち果てた建物と、その汚れた窓に見え隠れする影。
吉岡はそれを突き止めるために、単独で行動し始める。古い地図に残されたこの建物の跡は、“脳の方の病院”。つまり、精神病患者の療養所だったと思われる。
閉鎖が決まっても、そこにしか居場所がない患者たちが、長い間い続けたんだという。
そして最後の一人となった彼女が、いつもいつも、その曇ったガラス窓から、行き交うフェリーを見つめていた。
助けてほしいと思っていた。ここから出してほしいと。
でもなぜ、彼女は自分の足で出られなかったのだろう。これほど強く、ここから出たいと思っていたのに。
拷問のトラウマに囚われていたとも言えるけれども、正直それを観客に納得させるだけの材料が見つからない。
その、拷問というのが、この事件の手口となった、洗面器に張った海水に、窒息するまで頭を突っ込ませること。
そんなことが起きていたのにも関わらず、患者たちはここ以外に行き場所がなかったなんて。
……それは哀しいことなんだけど、それもまた、さしてそんな哀しい事情が追求されるわけでもないので、患者たちがそれほどまでの強い思いをこの場所に抱いていたという怖さが、あまり感じられない。どっちかというと、それなら閉鎖された時どこへなりとも行けばよかったのに、と単純に思ってしまう。
しかも、たった一人最後までこの建物に残って、窓からフェリーを見つめ続けていた女が、なぜ彼らにその手口で人を殺めさせたのかもよく判らない。
自分の存在を知っていた筈なのに見捨て、平凡な幸せを享受しようとする彼らを、自らのトラウマで苦しめたかったのか。
しかし彼女が標的にしたのは、どこか安穏とした幸せの上に自分の責任をとろうとしないヤツらばかりだったのは、意図的なのか。
三番目の犯人である、不倫している社長を殺した女のもどかしい気持ちは、女としては擁護したい気もしたけれど、それもまた男(作り手)の視点からすると、“安穏としている”ものなのかもしれない。
いや、三番目ではなかった。四番目だった。だって吉岡が一番最初に……でも一体、誰を?
まだ、彼は気づいていない。倦怠期のようにまったりと過ごしている春江が大切だってことにも気づいてなかった。こんな事件が頻発して、不安になって、どこか遠くへ行こうと、あの亡霊から逃れられる、海外にでも一緒に行こうと言う吉岡を春江は静かに見つめ、「旅行じゃダメなの?一人で行って来て、その話を聞かせて」と言う。
それは、彼を冷静に処しようとしているようにも見え、彼女は仕事もあるし忙しいんだと思っていたんだけど……。
だって、春江は吉岡とずっと一緒にいたのに。こんな年上のよれたオッサンに、下の名前で登、と呼びかけて、不安そうな彼を「どうでもいいじゃない、そんなこと」と抱き締め、受け止めていたのに。
彼女と一緒に、海外に行こうとした直前、吉岡は、駅の改札で彼女一人だけを通させた。
後から自分も必ず追いつくから、と言った。彼女は「私一人で行くの……」と静かに彼を見つめ、しかし黙ってホームへの階段を登っていった。
でも、この場面だっておかしかったのだ。誰も、人がいない。どんな時間帯にしたってこのあまりの無人と静寂はおかしすぎる。
吉岡は、あの施設へと向かう。
赤いワンピースの女が、行き交うフェリーを眺め続けていた窓際、そこにカラカラに乾いた白骨がはき寄せられたように残されていた。
赤いワンピースの女が、いた。
やっと、来たのね。と。あなただけ、許します。と。
彼はその白骨をひとつひとつ集め、そして部屋に戻る。
ふと、見上げると、ホコリをかぶった白いタンクがあった。その口のまわりに塩の結晶とおぼしきものがこびりついている。
吉岡は、信じられない面持ちでそれを凝視し、ふと何かを感じたように振り返った。
それまでは一度も映されることのなかった、このアパートにそんな部屋があるなんて知らなかった、ブラインドの壊れた、暗く日の射さない部屋。
そこに、見覚えのあるワンピースが、白骨を平たく覆っていた。すぐ後ろの台所に、同じワンピースを着た春江が立っている。いつものように、食事の用意をしている。彼女は一足先に海外に行ったはず……じゃなくて!今ここで、既に、もう随分前に、彼の手によって、その命を絶たれてしまっっていた。
「いいじゃない、そんなこと」彼女の声が甦る。
いつだって、彼の手にかけられてからも、彼女は彼を暖かく包み込んでいたのに。
彼もまた、ゼロに戻したいと、思ってしまったのだ。愛しい人だったのに。それは判っていたはずなのに。
結婚という、一般的なゴールが、やはりどこか、重荷となっていたのかもしれない。
彼女はそんなこと、ひとことも言わなかったのに。
幻の彼女を抱き締める。もう一度やり直そう、春江が必要なんだと、その手は、空虚を抱き締めるばかりなのだと彼はどこかで気づきながらも、抱き締め続ける……。
いなくなってしまった吉岡を探しに、宮地がこの部屋にやってきた。
あの暗い部屋に残されているのは、春江のワンピースだけ。その傍らに、汚れた水の入った容器が置いてある。
地震が起こった。その水面に小さなさざなみが出来る。思わず覗き込む宮地。
と!突然、天井から赤いワンピースの女が飛び降りてきて、覗き込んでいた宮地とともに、その容器の中へ、消えてしまった。血のような、真っ赤なしぶきをあげて。
宮地は、許された吉岡の身代わりだったのかなあ……。
ラストシーンは、紙くずが舞い散る人っ子一人いないアスファルトをさ迷い歩く吉岡、そして突然挿入される、小西真奈美のドアップの顔。びっくりするぐらいの、崩れ顔。こんな美人が、驚くほどの崩れ顔になるぐらい、悲しげに、叫んでいるように見える。
言葉が発せられるわけではないんだけど、何だかショッキングなラスト。
やはり、あれは、叫んでいるのだよね……。
でも、この叫び、タイトルともなってる、耳をつんざく叫び。しかし、これ自体が何かの意味を持っていたとも思わないけど……。というか、判らなかったなあ。わざわざ、叫び声を違う人に当ててる割には。
これはしかし、果たしてホラー映画なのだろうか?意識してホラーと作っている気はあんまりしない。まあ、黒沢監督はいつだって我が道を行く人だけれど。
どことなく、ドッキリ感な感じなのよね。葉月里緒奈の潜み方や、叫び方や、特に宮地を巻き込んだあのシーンなんか特に。
カウンセラーのオダギリジョーが、あまりにもフィクショナルっつーか……「まさか、そんな」みたいなリアクションし、やけに動揺して、もう、治療は終わりましたから、みたいに強引に吉岡を突き放すなんて、ちょっと確信犯的にマンガチックだよなあ。
黒沢作品で映画初主演して二回目の登板だけど、もはやそんな遊び心もアリってことかしら。★★★☆☆
長らく離れていた青山作品に再び戻ってきたキッカケは、「ユリイカ」の衝撃だった、本作は「Helpless」「ユリイカ」を呑みこんだものとして、しかも北九州サーガ三部作、と銘打たれてここに完結、てな感じになっていることが、過去のニ作の時にはそんなこと全く言われていなかったから、大いに驚くんである。
しかも、「Helpless」でその特異なインディーズ魂を開花させた浅野忠信と、「ユリイカ」で幼いながら女優としてのカリスマ的位置を一気に確立させた宮アあおいが、その二つを背負ってひとつの作品で顔を合わせているのが、なんかもう、不思議というか、奇蹟のように思えて仕方ない。
で、私なんであんなに「Helpless」が判んなかったんだろうと思うぐらい、後に物語の筋とか読んでみると、別に難解でもなんでもない筈だったんだよね。
高校生の健次(浅野忠信)が、片腕のヤクザ、安男(光石研)と出会ったことによる転落。安男の妹で知的障害者のユリとの道行き、父親の自殺、そして彼自身が殺人に巻き込まれてゆく、破滅的なロードムービー。そうだっけ、こんな物語だっけと思い出さなくもないんだけど。
でも、あの時、あの11年前は、本当に、何が何だか判んなかったのだ。青山監督が音楽をやる人でそのコダワリが影響しているのか、映画的、文体的、というより、音楽的に構築されているような気がした。台詞もカッティングも、まるで旋律のようで、それを美しいと思えるほどには至らなかった、私も若かったんだろうか。
そして、本作で一気に「Helpless」が頭の中に甦ったのは、あの切り込むような、なぜか孤独さを感じるギターの音。他の音もふんだんに使われてはいるけど(このあたりも、やっぱりなんだか変わったように思う)、ストイックなまでのギター音が、あの頃のように頭にこびりついた。
だってその音は、あの頃の、まるでナイフのような浅野忠信とピタリときていたから。
そして11年が経ち、浅野忠信はあの頃の危うい空気を確かに残しながらも、受け入れなければならないものがあることを、静かに認めている大人の男になっていた。
健次はあれから11年、中国人の密航などというヤバい仕事に手を染めて、そしてユリと共に暮らしている。
その密航で父親を亡くしたアチュンという少年を引き取るところから物語はスタートする。引き取るといっても、どうやらこの少年、ひいては健次自身も殺されそうになったところをアチュンを連れて逃げ出したといった趣なんである。
連中から姿を隠すために、健次は運転代行の仕事にシフトする。その時の客の一人が間宮運送の社長で、彼を会社まで送り届けた時出てきた奥さんを一目見て、健次は判ってしまった。幼い頃自分たち家族を捨てた母親だと。思えばその時から、彼と父の転落は始まったのだと。
そして、宮アあおいである。「ユリイカ」から7年が経ち、これまた危うい少女の雰囲気をまだ確かに残しながら、この先を見つめる凛とした眼差しを獲得するに至った。それは女優としての彼女にもリンクしている気がした。
バスジャック事件の傷をその中に残している少女、梢。あの時、犯人に監禁されたバスの中で何があったのか、それはかの作品でも本作でも特に言及されることはない。何もなかったのかもしれないし、つい想像してしまうようなアンナコトがあったのかもしれない。
ただ、彼女自身の傷というより、周囲がそれによって変わってしまったことが彼女を大人びさせた原因だったのかもしれないと思う。
高校を卒業と同時に梢は家を出て、間宮運送で住み込みで働き始めた。図らずもそこの社長の奥さんが、幼い健次を捨てた母親だったのだ。
拒否反応を示したと言いながらも「Helpless」が忘れられないのは、ここで役者、光石研に出会ったからである。
いまや、お気に入りのトップにくるくらいの彼が、しかしここでは「Helpless」の役柄ではなく、梢の親代わりであるおじさん、茂雄を演じている。これがまた、自由奔放、唯我独尊、彼が一人でコメディリリーフを担っているってな感じなんである。
彼の甥である秋彦(斉藤陽一郎)の部屋にズカズカ乗り込んでいって、強引に「梢捜索隊」のメンバーに彼を加えてしまうシーンは大爆笑。部屋を縦横無尽に使って、画面から見切れてジャケットを秋彦に放ってみたりとか、ワンカットのこの場面、素晴らしい躍動感がある。
それに、彼自身が北九州ネイティブであるという強みもあり、たたみかける言葉のリズムが絶品なのだ。しかもここは、監督が期待したとおりの一発アドリブ!さすが、「Helpless」から共に青山作品の常連同士の二人である。
「Helpless」では、本作でも健次の記憶から消しがたい片腕のヤクザでユリの兄、安男を演じていた光石氏。常連俳優だけど、そのたびに位置はまったく違う。これも面白いと思う。
「Helpless」から役柄を引き継いでいるのは斎藤陽一郎の方で、健次と高校の同級生。ちなみに「ユリイカ」でも彼は同じ役名だけど、まさか本当に全部同じ役柄?まさかね。
彼の場合、正直、ちょっとありえないぐらいの偶然だよナと思うんだけれど、そこは、青山作品自体が、ある種の迎合もよしとする柔軟さを獲得したのかなと思うんである。「Helpless」の時は、そういう俗を一切寄せ付けない、ちょっと引いてしまうほどのストイックさがあったからなあ。
健次は石田えり扮する母親の千代子と対面する。千代子は一目見た時から健次のことが判ったと言い、健次はそんな母親の無神経さに憮然である。ずっと復讐を考えていた。そんな思いをぶつけて、あえてその中に飛び込む健次。間宮運送で働き始める。
千代子と社長の間には一人息子、勇介がいるけれども、思春期なのか反抗期なのか、悪い仲間と万引きしてみたりバイクを乗り回してみたり、手におえない状態。千代子はそんな息子に見切りをつけて、健次こそがこの会社の跡とり、最後の望みだとしれっと言う。
母親を憎み、復讐を遂げるためにここに入り込んだ健次にとって、その母親のずぶといとも言えるほどの屈託のなさがイラついてしょうがない。なぜ社長のようないい人と結婚したのか、騙したんだろうとののしることまでする。
千代子がユリを養子に迎えようなどと言い出すことにも、苛立ちを隠せない。今までの自分の苦労を何ひとつ判ってない。しかもユリとの間を疑って、「あんたのお嫁さんはちゃんとした人じゃないと」などと無神経極まりないことまで口にするので、健次の憤りは頂点に達するんである。
健次は勇介をたきつけて、家出するように仕向ける。母親が、嘆き哀しむように。
しかし予想に反して母親はむしろ健次を迎え入れる体制が出来たとばかりに喜び、いやそれ以前に……勇介は出て行きしなに、こともあろうにユリをレイプしていった。健次は逆上、勇介を追いかけ、その手にかけてしまう……。
「Helpless」でイヤだったのは、当時まるでブームのように頻発していた、いわゆる“頭の足りない少女の白痴美”を感じたからであった。美、というか、はかなさというか、そういうものに純粋を求めるのが、今もそうだけどあの頃の私は本当に、ケッペキなぐらいにイヤでイヤでたまらなかったから。
そんな少女が出てきたことは、本作を観るまで、忘れていた。……どうやら、あまりにイヤで、記憶から追い出していたようなんである。
あの時、“頭の足りない、白痴の少女”であった辻香緒里演じるユリは、今“頭の足りない、白痴の女”として、目の前に現われた。
そのことが、私のそんな、単純な思いを見透かされた気がして、ちょっとショックだった。
あの頃、そうした“白痴少女”に対する退廃的な表現が横行してた。それを芸術的と持ち上げる風潮も確かにあった。そのことが、私はたまらなくイヤで……しかしいつの間にやらそんな世紀末的表現もどこへやらと去り、しかしあの頃の“白痴少女”が、そうした表現だけの存在ではなく、この10年あまりをある意味したたかに生きぬいて大人の女として現われたことに、私の憤りが幼稚で一面的だったことを突きつけられた感じがして、ショックだったのだ。
彼女は、本作の中で、なんたって大人の女なのだから、ソウイウ対象とみなされてレイプされてしまう。当然、想像を絶するショックを受け、殻に閉じこもってしまう。
でも、彼女は“発狂”することはないのだ。ある意味もう最初から、それをはるかに越える次元に到達しているのだから。時間が経てば落ち着きを取り戻し、元の、永遠の少女性へと戻っていく。
それは、形は少女性をとりながらも、実はとてもずぶとい女の姿であるようにも思えるのだ。
ずっと、健次が、ユリを守ってきた。そう、思っていた。でもいつの頃からか、ユリは自分で自分自身を守れるようになっていたんじゃないのか。それは、勿論、精神的な意味で。
一方で、アチュンが中国人組織に連れ去られる事件も起きてしまう。しかも、借金で逃げ回っていた住み込みの青年も一緒に連れていかれた。その争いの跡は、床に出来た赤黒い血だまりがゾッとする凄惨さで示していた。結局健次は誰一人救うことが出来なかったのか。
彼の心の拠り所は、代行運転手の仕事の時に客として出会った冴子(板谷由夏)。彼女は健次の過去を知っても、ずっと一緒にいたいと言ってくれた。健次は無骨な愛情を冴子にそそぎ、そんな幸せな日を夢見ていたんだけれど、異父弟を手にかけるという絶望的な結末が、それを中断させてしまう。
と、思ったら“最後の望み”であったはずの健次のこんな事件にも母親は何らひるむことなく、それどころか健次の子供を宿した冴子の登場に喜び、やはり健次が跡を継ぐべきなのだ、出所するまで待っているから、とまたしても屈託なく健次に告げるのだ。
健次は、結局どこまでいってもこの母親の屈託のなさから逃げられない。殺人を、しかも弟を殺しても、逃げられない。
実は、健次こそが最も弱い存在であったということを言いたいために、この作品が作られたような気もしてる。
彼を捨てた母親、そして守られるべき存在であるユリでさえも、彼よりも強く、人生を生きている。女の強さが、そこにありありと提示されている。
母親が家族を捨てた本当の理由を健次は知らなかったし、知りたくもなかったというのが本音だったんじゃないだろうか。
若い男に入れあげて家族を捨てた。そういうことにしておきたかった。そうしておけば、母親を憎んでいられる。それを理由に自分が立っていられる。ひょっとしたら、心の奥底では、何か別の理由があると判っていたのかもしれない。ただ、それを必死で見ないようにしていただけで。
その事実が明かされるのは、獄中の健次に母親が面会に行く場面。
母親が家族を、というか夫から離れた本当の理由、それは、夫とユリの母親との密通だった。
母親が健次と再会した時、彼がまだユリを守っていると知った時、真っ先に心配したのが、二人が男女の関係になってやしないかということ。
ユリがレイプされた時、図らずもユリがこれまで処女を保ってきたことが判ったわけで、母親は健次の潔白に安堵するんである。なんという皮肉。
だけどそれは、健次がユリを女として見ていなかったということにもなる。それは、妹のように育ってきたからなのか、それとも……ユリが“白痴少女”だからなのか?
それは母親の安堵の思いより、もっとずっと、皮肉なんである。
本作の主役は、11年ぶりの健次を演じる浅野忠信でも、ユリイカの少女が育った宮アあおいでもなく、青山作品初登板の石田えりだと思われる。彼女のふてぶてしさ、女の強さが、さらいまくってる。
とにかく、強い女なのだ。そして、自我も通す。今のダンナとの間の子供が、捨てた前のダンナとの子供の健次に殺されても、動揺しない。それどころか、後継ぎはお前しかいない、出てくるのを待ってるからと言い、健次の子供を宿した冴子を嫁として迎える。涙ひとつ見せずに。
石田えりは、今も変わらぬ豊かな乳房が、より熟れたヤバさを感じさせ、あいも変わらず“200%”オンナなんである。この石田えりに誰もかなうはずがない。たとえインディーズカリスマの浅野忠信であっても、それは不可能である。石田えり自身がインディーズ、そしてアウトローなんだもの。
さすがに今のダンナの間宮社長が激昂して、彼女の頬を張る場面も出てくるんだけれど(だって、その殺されてしまった息子が荼毘にふされている時に、そんな無神経なことを言うんだもん!)だけどそのダンナはザ・温厚で、結局はこの強い強い奥さんに従うしかないんである。そして彼も、たった一人残った息子の健次を確かに頼りにしているのだ。そのあたりのフクザツな悲哀を、さすがの中村嘉葎雄が絶妙に表現しているのにも唸る。
なんという皮肉だろうか。ここでは男が女に、それも特に母である女にひれ伏する。おどおどとした風ながらも、身重の身体で勇介の葬儀に顔を出した冴子もやはりその範疇に入るだろう。たとえ、ザ・母親の石田えりに巻き込まれる形であったとしても、彼女は自らそれを望んで、この気詰まりな葬儀に来たのだから。
正体のつかめない健次と恋に落ちる冴子に扮する板谷由夏の大人の女の色香には、目を見張るものがある。彼女はアベモンのワガママ女の鮮烈な印象があるので、その後、「運命じゃない人」や民放ドラマで見せるシャキシャキとした大人の女の風情に正直驚いていたんだけれど、そうした姐さん的な雰囲気がすっかり板についていて、本作でもどっか天然入ってる健次をリードするような雰囲気がある。
だって、あの浅野忠信と大人なラブシーンを演じられるんだから、スゴいでしょ。浅野忠信ってストイックな役柄が多いから、案外こういうシーンのお相手をつとめられる女優って、いなかったんだよなあ。
なんかこうして見ると、じゃあ、あおい嬢扮する梢の存在位置ってなんだったのかしらと思わなくもないんだけど……物語の筋に入り込んでくるわけじゃないんだよね。ただ静かに、健次を、そして周囲の人間関係を見守っているだけで。
でも、圧倒的な存在感があるのだ。ユリよりも純潔を感じる、神の高みにいる少女。あるいは、彼女を心配しているおじさんと秋彦とのやり取りの楽しさが、この重苦しい作品でほっと息をつける場所にもなっているし、そんなコメディリリーフな場面が用意されているのも、「Helpless」の頃じゃ、いや「ユリイカ」の時だって考えられなかったんじゃないかと思うのだ。
そういやあ、間宮運送の住み込み社員の一人にオダジョーがいて、彼は浅野忠信とのツーショットのシークエンスもある。目を見張るカルスト台地で風に吹かれながらこの大地の悠久さを語る、印象的なシーンだ。オダジョーが俳優として目覚めたと言っていい「アカルイミライ」で、いわば胸を借りた浅野忠信と再び共演するのが青山作品の、しかもこんな刺激的な作品だというのが、なんかこれも不思議というか、奇跡的な思いがするんだよなあ。
浅野忠信が記していった俳優としてのカリスマを、まるで彼が跡を継ぐように、しかし別の方向で記していっている、その二人が時々こんな風にふと交わる、その瞬間を目撃したみたいで。
結局アチュンを救うことは出来なかったし、連れ去られた青年もどこへやらだし、そして何より健次がいつ出てこられるのか、出てきたら母親の望むとおり跡を継ぐのか、いってみれば何ひとつ解決などしていない、見ようによっちゃ絶望的なラストなのに、不思議な明るさが満ちている。
ユリがシャボン玉を飛ばしている。まるで何もなかったように、無邪気に。そこに、あのコワいお兄さんがたが訪ねてくる。しかし社長以下強硬に突っぱねる中、ユリのシャボン玉が大きくふくらみ、フラフラと飛んでいき、彼らの頭上でパチンと割れて、バシャン!とばかりに水が落ちてくる。そのストップモーションでラストだなんて、こ、こんなファンタジックでコミカルな幕切れが、しかもかなりやりっ放しみたいな無邪気さが、青山作品で見られるなんて信じられない!
やっぱり監督自身が語るように、「家に女優が一人いると違う」という環境の変化がそうさせたのかなあ。
監督自身もちらっと口に出していたけれど、そしてまた11年後、つまり出所してきた健次の物語を見ることが出来たなら……実現、するだろうか。★★★☆☆