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世界はときどき美しい
2006年 70分 日本 カラー
監督:御法川修 脚本:御法川修
撮影:芦澤明子 音楽:大木雄高
出演:松田美由紀 柄本明 片山瞳 松田龍平 市川実日子
詩のような映画は好きだけど、全編詩をかぶせられると、詩のイメージ映像をつけているだけみたいに思えてくる。それも5つのごくごく短い短篇に分けているから余計にそう感じる。
大きなストーリーというものはなく、その人物の設定と状況、詩の部分は全てモノローグ、つまりひとり言日記みたいな感じ。確かに予告編でひと目で惹かれた柔らかな手触りの画、やはり8ミリだったのかと思いつつ、しかしそれだけでは済まされない、ひと手間加えた映像は独創的で限りなく美しく、しかもそれが5つのチャプターごとにそれぞれに少しずつ違った味わいに作り変えているという懲りよう。
二話目の「バーフライ」のモノクロでソフトな語りなんて、昭和の一人の男を追った、ちょっとしたドキュメンタリーのようにさえ見えてくる。柄本明が、本当にこんな、蝿男と呼ばれたような飲んだくれのショボイ人生を送った男そのものに見えてくるほどで、その大阪の猥雑な雰囲気もモノクロームの中にレトロに封じ込められていて魅力的なのだ。
だけど……やっぱり、なんか、ね。言葉だけで綴られちゃうと、印象に残る言葉、が返って残らなくなっちゃうんだよね。しかもこれが自分の心の中から次々に湧き上がってくる言葉をつむいでいくという感じなので、余計に残らない。
確かに人間は、こんな風に心の中で思ってる。つまり、人間の心の中は総じて詩であるとも言える。全てを象徴する強い言葉が生まれ出て自分を支えてくれるのを期待して、その不安なり孤独なりを表現する言葉というものが、連なって出てくるのだと思う。
それは確かに耳に心地よく、時々は共感も出来、そして美しい言葉にハッとしたりもする。だけど、ずーーっと喋られてると、やっぱり残らないのだ。
こんな人物が出てきて、こういう状況で、なんか喋って、終わった……って、あれ?つまりは、物語があるわけじゃないし、何が言いたかったんだろう、みたいな。
確かに、私たちは映画に物語を求めすぎなんだろう。でもひとつだけならまだしも5つの短篇に、拠り所となる物語がどれもこれもないのは、やはり観ている側をあまりに不安にさせるばかりなのだ。
これが詩集なんだとするならば、本当に美しいと思うけれど、スクリーンに映し出される映画という形になると、手元に置いて何度も反芻するわけにはいかないんだもの。
ひとつひとつの、物語を、思い出してみる。
第一話「世界はときどき美しい」
全体のタイトルにもなっている、このエピソードが、つまりは全体を締めていたのかもしれない、と思う。
たった一人だけが登場する。たった一人だけで語る。彼女だけの人生を語る。大好きな松田美由紀。キャストがたった一人だけなのはこの第一話目だけ。それが全てを締めてくるエピソードで、冒頭を飾るというのは、これから連なる小さな物語たちが、寂しく切ない予感がしてしまう。
38歳。ヌードモデル。11年やってる、と彼女は語る。ちょっと引くでしょ、なんて冗談ぽく言う。
あれは実際、彼女自身のものなのだろうか。背中や臀部ギリギリの接写。白く、少しこまかいそばかすの浮いている体。上はギリギリ映して肩甲骨まで。だけど、ドキリとする。
年齢を重ねた身体でいいと思う。おっぱいがたれたって、その年齢の身体なんだもの。そんなことを言っていたか……全編モノローグだから、正確な言葉を覚えているかどうか、難しい。
インタビューとでもいった感覚で、喫茶店でカメラに向かい合う彼女は、壁に飾られている素描を示して言う。
「あれ、私なの。こんなところに素っ裸でいるの、恥ずかしいと思わない?」
素材でしかないことへのコンプレックスを、吐露した。自分からは何も作り出せないと。このあたりは、女優である彼女の気持ちも入っているような気がする。
しかし、この絵を描いた人は言ったのだという。「あなたが描かせたんですよ」と。
「ちょっと、凄いと思わない?」そう、嬉しそうに、言う。
ほんの、さらっとした、デッサンなんだけれど。
泣きたくなくても、泣ける。哀しくないけど、泣ける。そんな風に言って、ふと泣くシーンも心に残る。判る気がする。それまで重ねてきた悲しいことが、ストックになって、つきあげられる。その人生の場面場面で、泣けなかったことが、たまっているのかもしれない。
彼女は、雑草に心惹かれる。友達からもらった鉢植えはすぐに枯らしてしまったのに。でも雑草といったって、全てに名前がある。それを知って、彼女はますます心惹かれる。
いとおしげに雑草に触れるシーンは、漠然と自然の草花に寄る接写やイメージ的なカットの多い本作の中でも、ハッと心惹かれるみずみずしさがある。
こんな近くで見てるのに、遠くのように感じるとかいう、不思議な遠近感も、年を重ねた彼女だからこそ、実感がある。
やはり、自分を重ねているんだよね。かえりみられなくても頑張っている自分を。
第二話「バーフライ」。
これだけが、全編モノクロ。柄本明が、それまでの人生を振り返っていく。
所は大阪。ハデなネオン。ごちゃごちゃと乱立する立ち飲み、居酒屋、バー。彼は宣伝会社に勤めてる。と言っても、仕事は路上に立つサンドイッチマン。風呂付の部屋に住みたいと思うこともなく、普通に小さい頃から風呂といえば銭湯だった。仕事前に浴びるか、帰ってきてから急いで行くか、それに悩むだけである、と。
仕事前には景気づけに一杯。仕事先でも一杯もらって、仕事をしているのか、飲み歩いているのか判らない。立ち飲み、バー、飲めるところをフラフラはしごして、追い出されて。蝿男だと囁かれて。そんな、日常。
このエピソードが、最も彼自身だけを見せて、そして飽きさせないつくりになっている。遠山景織子や尾美としのりといった点在する豪華キャストが続々と出てくるのに、彼だけの物語であるのがハッキリと判る。
凝った思想も、考えさせられるテーマもそれほどあるわけではない。ただ呑ん兵衛の男を、寄って、引いて、映しているだけで、用意されているものが少ないのに、柄本明という人間そのものに魅せられてしまう。
バーを追い出されて、彼は道端に座り込んで、工事現場を眺めている。
工事現場は、いつまで見ていても飽きない、そう言ってワンカップを傾ける。
そんな、日常。何が起こると言うわけでもない。
ある日、彼は、ふと気づいたように、グラスの乗っていたコースターをひっくり返して、こんなことを書いてみる。
「目を閉じて、気を失えば、朝になっている」
やけに、嬉しそうに笑顔を浮かべる彼。
次のシーンで、彼が道端に座り込んで眠っているのは、もう、目を覚ますことはないということのように思えたけど、そうじゃないの?
遠山景織子の大阪弁がかなり違和感。尾美君がモノクロの飲み客にすんなりと溶け込んでいて、ああ、なんか彼って、映画役者だよなあ、と思う。
第三話「彼女の好きな孤独」
恋人同士、ベッドの上でセックスの前の、戯れのような軽いケンカをしている。
彼はこの、彼女の部屋と思しきところに、遅れてきたらしい。「いつも夜に来るから、景色が違うんだよ」明るいと迷うなんて、まるで後ろめたい関係みたいだ。
「だから、自動販売機を目印にするって言ったでしょ」彼女は言う。ぼんやりと白く光る、柔らかな自動販売機の画が浮かび上がる。彼の言い訳はちょっとカワイイ方向音痴を装った、上手い言い訳に聞こえるけれど、つまり、彼女の元に本気で来るつもりが、それだけの情熱がないだけの話じゃないのか。
しかも、彼女も同じようなもんだ。「私は彼が本当に好きなんだろうか」答えは出ない。
接写のセックス。リアルな湿度のあるキス、ちゃんとおっぱいも出す。満足。彼女は彼に、セックスをする時は腕時計を外して、と請う。なぜかそれに軽い拒絶反応を示す彼。ベッドの上の戯れのひとつのように、その彼から腕時計を有無を言わさず外す彼女。
しかし、なぜだろう。彼がこんなに時計を外すのをイヤがるのか。時計ひとつで、プライドがはがされるのか。ハダカになってしまう気がするのか。ハダカなのに。なんかそれだけで、彼が彼女に対して本気じゃないような気がするのが不思議。
彼女は、インドの石の彫刻を思い出す。私、これ初めて見た。驚くほどなまめかしい。彼女はそこにこそ、自分があるように思う。現実の、生きている肉体のはずの自分をとらえられない。あんなにリッパなおっぱい持ってるのに。
その彫刻の中には、現代まで生々しく残ってきたのも納得の、セックス→生への、強い執着がガッツリあるから、だよね。
「森の中の一本の木がお前だ。それを探すこと」そんな言葉を思い出したりする。哲学者は自分勝手なことを言う、そう、彼女はごちる。
再び示される自動販売機。ほんわりとした佇まいが、無機質のはずなのになぜか心癒される。彼女はそこで缶コーヒーを買い、「甘いと思うのに、つい買ってしまう」とモノローグする。これはちょっとネライ過ぎのしめくくりで、ガクリとくる。
それに、「もつれ、みだれ、まみれ、ねじれ……」などという、れに傾く彼女のモノローグも、少々詩的方向にネラいすぎで、ちょっと冷めるのももったいない。
第四話「スナフキン リバティ」
あの路面電車は、函館だったのかあ。それ以外は特に函館というものを出してくる訳じゃなかったから、気づかなかった。
函館イルミナシオン映画祭が協力してる。この映画祭は秀作を出してくるので、関わっている映画を見つけると足を運ぶようにしてるんだけど、この映画がそうだとは知らなかった。確かに、独創的、魅力的という点では、コレまで出てきた映画の中でも群を抜いている。キャストも豪華だし。
松田龍平。天文台に勤めてる。そこの上司があがた森魚。この時点で函館だと気づくべきだった。路面電車、プラネタリウム、天文学、生まれくる子供、……確かに、何だかたまらなく函館で、あがた森魚なんである。
このエピソードが最も物語が見えていた分、判りやすく記憶に残ったような気がする。やはりある程度の手がかりって、重要なんだと思うんだよな。
「宇宙への強い関心と、自分の生きている座標を見つけられないでいる不安な感覚が、僕の心の中でつながっているような気がする」そう、彼はモノローグする。松田龍平の、独特のアンテナ立ててるような雰囲気が、不安げに宇宙の中に、星の中に立ち尽くしている様とやけに似合っている。
松田龍平とあがた森魚は、この函館と路面電車と天文台に凄く雰囲気がピタリときたんだけど、もう一人のメインキャストである浅見れいながなあ……。
彼女は、彼の恋人、であろう。一人、現実を生きてる。確かに彼女一人、そうした、無責任とも言える雰囲気の要素からはハズれたところにいる。
「避妊をしくじった」予想外の子供を授かった。予想外だからきっと彼は戸惑うだろうと思って、でもこれも予想外なんだけど、彼女は自分の中に宿った子供を愛しいと思って、産みたいと思って……みたいな。
ただそういう、夢見る男たちと現実に直面する女という図式が、男たちはハマってても、女が弱いのよ。それにこの図式って、かなりありがちだし。そんなに女にばかり現実を背負わされても困る。それに、再三言うけど、浅見れいなじゃね。だから記憶には残っても、正直心にはあんまり残んない。
それに男に向かって、「柊一君て、スナフキン好きでしょ」とか、推測なのに断定的な言い方する女っていうのが、私、すっごくキライなの。それを浅見れいながあまりにもコレって感じで示すから、なんかブルッと悪寒を感じちゃった。
第五話「生きるためのいくつかの理由」
市川実日子。この柔らかで詩的な映像に一番ピタリとくる。母や兄が出てくるけれど、印象としては彼女が一人、孤独な感じ。
最も、何の物語があるわけでもない話。彼女は旅行代理店に勤めている。それを機に、家を出たと思われる。時々は母のいる家に帰って家族三人、食事をしたりする。兄は今でもこの家にいるのだろうか。フリーターか?
兄が、明日仕事のある妹を送っていくシーンがあるんだけど、「花乃子を送っていくんでしょ。そんなにビール飲んで大丈夫なの」と母が言うシーンがあるのでまさかと思ったら、車で送ってった。めっちゃ飲酒運転やんか……。
まあ、それはおいとく。彼女は自分が使っていた部屋が、かつては死んでしまった父親の書斎だったことを思い出したり、その部屋でまどろんでいる彼女のところに母親が、「私のを仕立て直したの」と彼女のための浴衣を持ってきたりする。
正直、少女マンガか少女映画にあまりにもありそうなシチュエイションだけど、母親、木野花と娘、市川実日子があまりにこの柔らかな映像にハマっているので、ついつい見とれる。
そういう意味では、こういう、筋のない話に力のある役者を配しているというのは、きちんとした確信がある感じがする。また蒸し返すけど、第四話のねえ、松田龍平は存在感のある人だけど、相手役の浅見れいながねえ。あまりにもピンとこなかったんだもん。
だからそれはいいんだって。花乃子。その名前の由来を、彼女は母親に聞く。電話の向こうだから、観客には判らない。ただ彼女は、「それだけ?」と言って弾けたように笑う。
そんな電話を母親にかけようと思ったのは、マチガイ電話がかかってきたからだった。
ただ、「元気?」とだけ問うマチガイ電話。たった一人であるハズの自分は、果たして元気なのか、たった一人の花乃子を元気かと心配してくれる人はいるのか。
名前の意味、それは、確かに気になるところである。自分にコンプレックスがあれば、余計に。
花乃子が今までそのことが気にならなかったのだとしたら、彼女は大してコンプレックスに悩んだことがなかったんじゃないかと思うけれども。
ベッドにナナメに身を預けてひと時ぼんやりしてみたり、グラスに満たされた水を飲んで、そのおすそ分けみたいに、窓辺の鉢植えに水をやったり。あるいは、カーテンを開けたり、間仕切りのビーズ暖簾をふとかき分けたり。
そういうささやかな描写が、市川実日子がやるとなんか、見ちゃうんだよね。生きることの美しさを言葉もなく見せてくれる彼女に、モノローグが重なるのがもったいないと思ってしまう。
世界はときどき美しい。その言葉には共感するけれど、それも結局、借り物の言葉だもんなあ……。★★★☆☆
と、いうのはね、この作品の男性側の主人公であるジウが、部屋に「ワイルド・アニマル」のポスターを貼っていたり、その作中に出てきた女性頭部の彫刻が置いてあったりするのよね。極めつけは、ビデオで「うつせみ」の編集をしてたりもする。
一体彼が、何の仕事をしているのか見えないんだけど、解説では、ジウは映画の編集マンってことらしい。でも、まるで監督自身、その分身のようにも思えるのね。
まさかこんなコワい経験をしているとも思えないけど……。
それだけじゃなく、そこここに監督作品へのセルフオマージュのようなものが見え隠れする。
ヒロインであるセヒが、こんな顔にしてほしい、と美容整形医院に持っていく、雑誌のモデルの顔のパーツを切り抜いて作ったコラージュ。それは「受取人不明」で、片目を失明している女の子が、やはりこんな風に雑誌のモデルのアイメイクのきつい目を切り抜いて、その見えない片目に貼っていたシーンとハッキリと重なるし。
船の上でサッカーボールを蹴りあいする彼と彼女が、「コースト・ガード」でボールに戯れる若き軍人たちをほうふつとさせもする。
そして、ジウとセヒ、あるいはジウとスェヒにとって二人の思い出の、最も重要な場所となる、彫刻公園は特に、監督自身の美術のバックボーンと、そしてやはり、「ワイルド・アニマル」で重要だった彫刻というアイテムを思い出すのよね。
それにしても、「ワイルド・アニマル」には、ひょっとしてかなり強いコダワリがあるんだろうか。韓国での公開時には酷評されたというけど、監督にとっては大きな意味を持つ作品なのかもしれない。
なんとなく、判る気もする。野心が溢れていたし、監督自身の美術という得意分野が重要な意味をなしていたし、自分の内面を大きく投影している、自分にとって愛しい作品ということなのかもしれない。
それを思うと、今回のギドク監督特集で未見作品を観ておいて良かった。本作にはそういう要素が含まれるから、今回レトロスペクティブが組まれたんだってことだろうな。
でも、観ている時は、監督が、「韓国映画界からの引退」とかいう報がちらほら聞こえていたから、こんな風な集大成みたいな遊びをするのかと思って思わず緊張したんだけど、次回作を用意していると言っていたし、違うよね。
こんな天才が、引退なんかしていいわけがない!
セヒは、ジウを愛しすぎていた。好きで好きでたまらないから、彼が他の女に視線を向けただけで嫉妬する。話なんかしたら、もう激昂してわめき散らす。
というくだりが、ジウが行きつけにしている喫茶店でのシーンで示される。ジウはまあ、健全な男だから、カワイイウェイトレスに目も行けば、駐車している車をどかしてほしいと頼んできた女の子二人組にも愛想よく対応する。しかしセヒは、そのいちいちがカンに触るらしく、「何かあったら」とだけの理由で渡された名刺もビリビリに破り、この女の子二人組に、当たり散らす。
かなり、うっとうしい女で、二人組のうち片方は、何、このバカ女、と蔑む目線ありありなんだけど、もう片方はジウに、「愛されているのね、うらやましい」と言う。
まあ、この台詞は世辞だったとも言えるけれど、冒頭近くで他人によって示されるこの台詞こそが、この作品の根幹をなしているのだ。
最初の最初は、セヒがマスクとサングラス姿の女にぶつかったところだった。美容整形医院のドアから出てきた女は、整形前の、どこか呆然とした、凄みのある写真を持っていた。それがセヒとぶつかって、ガラスががちゃりと割れたのだ。
セヒはそれを、直しますから、とジウとの待ち合わせに持って行った。この女性の連絡先も聞かなかったから、あれ、と思った。それがラストにつながっていくなんて、この時点では思いもせずに。
ジウはその写真を見て、「笑った顔が怖い」ともらした。
その何気ない言葉が、大きな意味を持つなんてことも、この時点では思いもしない。
セヒは、自分が常軌を逸していること、判ってる。ジウが好きすぎて、嫉妬しすぎて、苦しい。他の女に目が行くのは、私に飽きたからだ。「毎日、同じ顔でゴメンね」そんなことを言うセヒの本当の苦しみを、ジウはまだ判ってない。
ジウが「ごめん、疲れているのかな」とセックスを中断してしまうと、セヒはそれもまた、自分に飽きたせいだと思ってしまうのだ。「あの女を想像してセックスしてみて」そんなことまで言う。ジウはばかな、と思うんだけど、セヒがあまりにしつこくそう言うので、ついそのとおりにしてしまうのだ。
これは、マズいよ。いくらなんでも。そしてめでたく?セックスが成立してしまったら、あまりにやぶへびじゃないの。しかも、「あの女とセックスしてると想像してたのね」と言うセヒに、「お前が想像しろと言ったんだぞ」なんて、いくらホントでも、絶対に言っちゃいけない台詞だもの。
セヒは、白いシーツに頭をすっぽり包み込んで泣き出してしまう。そののっぺらぼうな感じが……なぜか、先行きのイヤな予感を促がして、不気味である。
セヒは、突然、姿を消した。突然引っ越し、携帯もつながらなくなった。
あんなうっとうしい女だったのに、ジウは自分がセヒを心から愛していることに気づいた。寂しくて寂しくて、合コンを繰り返す。別の女の子を持ち帰った友人から、お前の方が気に入ってるみたいだから電話番号を教えたといわれ、一晩中待ったりしてる情けなさ。
気に入った女はなぜか……目に見えない何かを感じたかのように、ジウから離れていってしまうんだよね。この描写は、ホラー並みに不気味である。ホテルに入って、さあこれから!という時に、外から窓ガラスが割られたり、ジウを積極的に口説いていたやけぼっくいの女が、トイレから戻ってきたら急に態度を硬化させていたり。
このトイレで、洗面台の鏡に映る彼女を、後ろからドリーショットで追ってくるのが、コワすぎる!
セヒは、整形したての、まだ癒えていないマスクとサングラス姿で、ジウをストーキングしてたってことだよね。
だけど、その中で足湯合コンで出会った女の子だけは、ちょっと趣が違うんだよね。
ジウを最初からネラってたと彼女は言って、まあ、お世辞にも美人じゃない。くじ引きで決まった彼女に、ジウはガッカリしているとハッキリ判る態度をとる。ひでえな。
でも、彼女、射撃場でやけにカッコいいとこ見せたりして、ジウは瞠目して、彼女のことが気になり始めるのね。
でも、去り際、「三つ数えて、振り向いて目が合ったら、また会いましょ」と背中あわせに歩いて行って、ジウは振り向いたけど、彼女は振り向かず、去ってしまう。
だけど、泣いている。
彼女にとっては、外見だけで判断されてあからさまにガッカリされたことが、尾を引いていたんだろうと思われる。だってあの態度、ホントヒドかったもん。
なんか、こういうところに、セヒが苦悩していた男の単純でヤッカイな本質が浮き彫りにされていくんだよね。
その、まだ傷の癒えていないセヒと、ジウは出会う。
船の中、小さな男の子が蹴っているボールを、戯れにあっちへ、こっちへと散らしていたジウと、そのマスクの女。
しかし、ふと顔をあげると、女はいなくなっている。これもまた、やけに不気味である。
船から車で降りたジウは、その女が歩いているのを見つける。「乗っていきませんか」そう言うけれど、女は無視して通り過ぎる。
この、全く同じシチュエイションが、次に出会う女、スェヒとの間に展開されるのだ。
行きつけの喫茶店の、新しいウェイトレスのスェヒ。彼女は、意味もなく彼の向かいにふと腰掛けてみたり、なんとも挑発的で、印象的で、ジウの心に残っていた。彼は船の中で、カモメにスナック菓子をやっている彼女を見つけた。まるで運命的な再会に思ったけど、彼女がジウの行動を熟知しているのは、当然だったのだ。
そして、船から降りたスェヒを車で拾うジウ、というのも全く同じ。彼はそれに気づいてはいなかった。
まさかあのマスクの女、そしてセヒまでもが、このスェヒと同一人物だなんて。
彫刻公園は、セヒとの思い出の場所。何枚もの写真がジウの部屋に飾ってある。その同じ場所で同じポーズで、スェヒはジウと写真を撮った。そしてそれを、彼の部屋に行った時、飾ってあったセヒとの写真の上に重ねた。
半年以上絶っても、ジウはセヒを忘れていない。それどころか、今でも愛している。
それは、あんなにも飽きられると苦悩していたスェヒにとって、うれしいことだったはずなのに。
この、実にエポックメイキングな場所である、ペミクミ彫刻公園は、圧巻。置いてある彫刻は、どれもこれもやけにエロティックで、まるでこの映画の、ギドク作品のために作られたんじゃないかと思うほど。
特に、男女が絡み合う様をぐんにゃりとした肉塊のように表現した彫刻の凄まじい迫力には、目を奪われる。
しかし最も印象的なのは、満潮になると半分ぐらい波の中に沈む、両手を組み合わせた先に、空へと続く階段が登っていくデザインの彫刻である。
ここに座って、“二組”のカップルが写真を撮る。セヒとジウ。そして、スェヒとジウ。……同じ二人なのに。
ここでギドク監督は、きっちりと自身の水のイメージを非常に印象的な形で提示してくるし、何よりその、海からすくいあげられて、空へと消えていくイメージのこの彫刻は、ちょっとめまいがするほど耽美なイメージなのだ。
スェヒは、ジウがいまだにセヒのことを未練たらしく思っていることに嫉妬する。なんという矛盾だろう。愛されて、忘れられなくて苦悩している相手は自分自身なのに。自分自身が愛されているのに。それは、最も望んだことだったハズなのに。
セヒ=スェヒのやったことはあまりにもムチャクチャだけど、判る気はするんだよね。女は、恋愛している時に他の男なんて、見ないんだもの。女が一途だとかけなげだとかいうんじゃなくて、気持ちの配分とか、本能的なホルモンとか、そういう部分のことであって、つまり女は、なんかソンなんだよな、そういうトコ。
しかし、彼に愛し続けてほしいという理由で整形するなんて、それは、実際に愛し続けられていることにはならないし、皮肉なことに、愛し続けてもらえないと思ったオリジナルのセヒ自身を、ジウが愛し続けてくれていたんだから。
確かに男の、ウワキ心の単純さには、女は悩まされるわけよね。
それは、平均的に言えば、かなり単純で、若さや可愛さや美しさに、無邪気に心惹かれる。まあ、つまりはシンプルなスケベ心、というのが正しいトコかも。
それがあまりに素直に示されるもんだから女は、「また、他の女見て、キィーッ!」てな具合に荒れるわけだが、実は、実際は、それこそグラビアのエッチな女の子に目が行くのと同義なぐらいなんだよね。
女の方がその点、たちが悪い。
女は男の外見に男ほどには、(特に、顔はともかく、身体には男ほどにはね)執着がない分、感性的な部分、特に自分だけが感じている男への価値に絶対を置く。
つまり、男は性的なことにしても、一般的な価値観が根底にあって見ているけれども、女は基本、独占欲があるのだ。
自分だけが判ることに、こだわる。つまりは、うぬぼれだと言ってしまうこともできる。私だけが判るあの人。結局それが見つけられないから、彼女は自我を見失ってしまう。狂ってしまう。
一見、それは彼を愛しすぎたがためと見えそうになるけど、実際は、単なるナルシシズムの崩壊なのだ。それも、独善的で、欺瞞的な。
それをギドク監督が見抜いているのが、悔しい。
セヒが忘れられないジウに、スェヒは理不尽な嫉妬をし、ジウにセヒとしてのラブレターをこっそり仕込んでみたりする。当然、ジウは動揺する。
そもそも、自分がセヒを忘れられないこと自体、スェヒには打ち明けていたから。スェヒには惹かれている。車で突然引き寄せて交わしたキスなんか、もう、ほんっとにドキドキしたもの。でも、セヒを消しきれずにいた。
でもね、このあたりでジウは、おかしいなって、気づいても良かったと思うよ。
だって、セヒに嫉妬してジウに当たり散らすスェヒは、場所もあの同じ喫茶店だし、セヒのあのヒステリックとまるで同じなんだもん。
そして、スェヒは真実を明かす決心をする。
セヒとして最後に撮った写真を引き伸ばしてお面にして、あの喫茶店でジウと対峙する。
このお面。可笑しいけど、怖い。モノクロに、唇にだけ淡いピンクをつけて、目の中心に視界のための小さな穴があけられているのも怖い。
ジウは全てを察する。当然、うろたえる。彼は拒絶反応を示しながらも、最初からお前だったんだろ?と問う。なのになぜ、自分自身に嫉妬するようなヒステリックを起こしたんだと。しかしスェヒは否定する。自分は生まれ変わった。だから、過去のセヒに未練があるあなたに嫉妬するのだと。
なんという矛盾。
それは、嫉妬よりももっと純粋に、後悔という念ではないのか?
だって、理不尽な嫉妬に自分だけで激昂する様なんか特に、セヒのまんまだもの。でも顔が違うだけで、それさえも気づかないのかなあ、男は。
この壮絶な事実に打ちのめされたジウは、驚くべき決断をする。
自分は、セヒを愛している。セヒがこんな選択をした理由が判らない。施術した医者にくってかかり、反対にぶちのめされて、自分はどうしたらいいのかと、泣いてすがる。
その結果、ジウが下した決断は……予測はついたけど……セヒと同じものだった。
半年後、違う姿で自分の前に現われる。それを信じて、セヒは待ち続けた。
この整形医院、豊胸手術とかもやっているハズなんだよね。セヒやジウが医院を訪れるシーンで、そういう宣伝も見切れて示されてるもの。なんか、こう、コッソリって感じで。
それをひっそり提示しているからこそ、「顔だけ」変えたらもう別人で、実は同じ相手とセックスしてるのに、気づきもしない、っていうのが、ひどく皮肉に感じられる。
結局は、人間は、というか、男が重視する女は、顔だけなのか。こんなにも視覚にだけ頼ってるのか。五感があり、そのすべてを使って全身、愛し合っているはずなのに?
いや、女は元からそれは感じていて、整形したセヒ=スェヒにちっとも気づかないジウに、やっぱりそうだよね、男はねー、などとヘンに溜飲を下げたりもするわけだが、そんな女にしっぺ返しみたいに突きつけられるのが、ジウの整形騒動なんである。
飽きられるかも、という危惧だっていうから、何度も何度も整形するのかと思った。その部分だけは、ちょっと甘さというか、違和感。
いや、それは皮肉として、飽きるとしたら顔じゃなくて、ワンパターンの×××に……みたいな含みもあったのかも。
だって、彼女が彼を見つける手段は、当然変わってしまった顔ではなく、感触しかなかったんだもん。しかも、手を握っただけじゃ判らなくて、セックスまで(後述)。しかもしかも、それでも判らなかったのは、皮肉としかいいようがない。
半年後、どういう形で自分に会いにくるのか、セヒはずっと待っていた。
いつも待ち合わせしていた喫茶店に入ってくる男を、片っ端から品定めしては、失敗を繰り返してた。
セヒとしてもスェヒとしても何度もセックスしたのに、彼女の決め手となるのは手を握った感触だけ。それでこれだ!と思ってセックスまでこぎつけても、やっぱり違った、なんてことさえあった。
手を握っただけで、愛する人が判るのは、いかにもロマンティックだ。でもそれを、彼女は遂げられなかった。この人だと思ってセックスして、やったー!と思っても、違う名前を告げられた。それはロマンティックを通り越して、現実味の無いファンタジーだから。
ある日、地下鉄の構内で、彼女の顔を見て逃げ出した男がいた。それもまた、ジウとの思い出の場所であり、戯れだった。今度こそ、彼に違いない。必死に追いかける彼女。しかし、路上に出た彼が、飛び出した車にはねられてしまって、それでもう彼女、完全に正気を失ってしまう。
彼女は泣き叫んだフラフラの状態のまま、あの整形医院に入っていく。
ひたすら、狂ったように笑い続ける。目からは涙が吹き出し、鼻からは鼻水がタラーリときてるのに、笑い続けているのだ。
「元の顔に戻りたいんですか?」医師は聞く。彼女は……あまりにも怖い怖い、アップの顔、片側からだけだった鼻水が、両方からタラーリとたれてくる。頭はボサボサ、きれいな歯並びの口元はニッカリと口角があげられ、涙でぐしゃぐしゃの顔が、凄絶な笑みを浮かべるんである。
キた……。
ジウが整形をして六ヵ月後会いにくる、そのことだって本当だったのか。いや、もうすこし辛抱して待ち続けていたら、きっと彼女の前に現われたかもしれないのに、そんな、いろんな、いろんなことを考えて。でも、でも、結末は、これしかなかった。
時間は、ループし、つながる。
水辺で写真を撮っていた、整形手術したてでマスクとサングラスをした男こそが、ジウだとばかり思ってた。写真が趣味だということ、セヒをストーキングして写真を撮り続け、沢山壁に貼っていたこと。もう、間違いない。セヒもまたそうだと確信して、彼の手の感触を確かめた上で、彼と寝たんだけど、違う名前を告げられて、激しく落胆する。
でも本当に、彼は違ったんだろうか。
私は今でも、湖で出会ってから、「違う顔になった自分を見てほしい」と言って彼女を待ち続けた彼が、ジウだと思ってるんだけど。寝た後に違う名前言ったのもワザとで、部屋に置いてあった若い頃のアルバムも用意したもので、つまり、彼女にちょっとした復讐をしたんじゃないかと思ったんだよね。
自分を投影したわけでもないんだろうけど、セヒはジウがまっすぐに、僕だよ!と言ってくるとは思ってなかった節がある。二人がいつも会っていた喫茶店で待ち続け、入ってくる男をいちいち品定めしては、誤解やトラブルに巻き込まれていた。
彼女の手がかりはただひとつ、生まれ変わったセヒならぬスェヒとして彼と初めてキスを交わした車中で、彼を挑発するために手を握った、その感触だった。その時、彼女は彼に、「良く合った洋服みたい」と言った。
それは、つまりは口説き文句にすぎなかったんだけど、そのことだけが手がかりになるとは皮肉である。
ある意味、おかしいんだよね。もともとセヒはジウと思っきしただならぬ関係だったわけで、手どころか、唇も、ココもアソコも知り尽くしていたはず。唇は整形してるからダメか。でもそれにしても、首から下は変わってないはずなんだから。
それに当然、性格は変わってない。異常なまでの嫉妬深く、取り乱しまくる性格に、ジウが元の彼女をちらとも思い出さないのは不思議というか、残酷である。口では元カノが忘れられないとか言ってるクセに。
整形医院のドアから出てきたのはスェヒ、いや、冒頭、出てきたあの女だ!そしてぶつかるのはセヒだ!そして、セヒが持ってきたガラスの壊れた写真に、「笑い顔がコワい」と感想を述べるジウ、ここまでが、冒頭のシーンときっちりと重なってゆく。この写真の女が、彼がこれから出会う、二番目のセヒだなんて、思いもせずに。
そしてセヒがそうなってしまったのは、自身のせいなのだ。自分が知らない時間の。
まさにタイトル通り、時、タイム、タイムマジック、ファンタジック!
ギドク作品はまずアイディアが強烈で、そのアイディアに負けない映像と演出できっちりと押してくる。
いいのか悪いのか、もうこの凄さに慣れてしまって、今回の惹句である「唖然、呆然」てほどには驚かない。
ただ、今回、ギドク作品は一見衝撃的に見えるけれども、基本の部分は優しいファンタジーなんだよな、と改めて思わされる。
他のどの作品にもそれはきっちりと示されてはいるんだけど、それが最も判りやすい形で提示されている。
それは、原題で既に明かされてる。タイム。時。それは最初、時が過ぎると男は浮気をするから、あるいは、整形して別人として生まれ変わるまでの半年という時間、あるいはあるいは、それまでの過去を、写真から何から全て捨てて生まれ変わるという意味なのかと思ってた。でも違うのだ。
それは、綿密に計算されたファンタジー。ファンタジーは時として不思議に人生そのものを映し出す。
オープニングシーンで、美容整形医院のドアから出てくるマスクとサングラス姿の女性。このドアがまた印象的。左右で、整形前と、整形後の写真がプリントされてるんだけど、整形後は、もう外国人モデル並のバッチリメイクで、そりゃこれじゃ違うだろうという可笑しみもある。これはある意味確信犯的な皮肉にも思う。
その彼女にぶつかるのが、本作の整形前のヒロイン、セヒなんだけど、その後、このマスクとサングラス姿の女性は出てこないから、ただ単にこの美容整形医院の存在を示すだけの、定点的な存在かと思っていたのだ。
しかし、彼女は、というか、彼女にセヒがぶつかる冒頭のこの場面がまったくそのまま、ラストにも提示される。しかも、物語の流れに完全にシンクロした状態で。つまり、オープニングとラストで、このドアから出てきたのは、二度目の整形を施したセヒなのだ。
しかも、二度目、という部分が重要である。医者は、整形してスェヒとなって、ジウに再び愛されたいと願って、それが壊れてしまって、ショックのあまり狂気に陥ってしまった彼女に、元の顔に戻りたいか、と問うた。彼女は凄絶な笑みでそれに答え、整形前の記念写真を撮って、その写真を手に、ドアから出てきたところでオリジナルセヒとぶつかった。
つまり、この時ぶつかったオリジナルのセヒの顔が、マスクとサングラスの下に隠されているかもしれないのだ。そして落とされて、フレームのガラスが割れた写真は、最初からこの世に存在していた命としての顔ではなく、「笑った顔が怖い」と愛する人に断ぜられて、置き去りにされてしまうのだ。この顔では愛されることが叶わなかったスェヒそのものに。
ここで、時間が完全にループの状態に入ってる。男と女の妄執は、永遠に、らせん状に続くのだ。セヒが望んだとおり、永遠の愛を、ある意味獲得したといえる。
一方のジウだって、整形したはずなのに、その新しい彼が特定されることなく、彼のためにとセヒがオリジナルの自分に戻ってしまったとしたならば、そして時間が巻き戻されたとしたならば、……ジウは最初から最後まで、オリジナルのジウのままなのだ。
そんな気は、してた。整形して、新しい彼になって自分に会いにくる、そう思ってたのに、いつまで待っても、彼は姿を現わさなかったから。
まるで、いつからか、どこからか、彼女がパラレルワールドに入り込んでしまったような気もするのだ。本当に、ジウは整形したのか。いや、自分だって、幻想の中だけの話だったんじゃないのか。ラストの、元に戻ってくるループは、そんな思いさえ起こさせる。でもとにかく、メビウスの輪に入ってしまったのだ。二人はもう、永遠に、出会えない。
これは、邦題から連想されるようなシリアスで衝撃的な恋愛として結末づけられてはいないのだ。
そりゃ確かに、トンでもなく重い恋愛劇だと位置づけることも可能だ。何たって女は、男に飽きられることを恐れて整形によって別人になって再び男の胸に抱かれるのだし、男もまた、そんな恋人のヘビーな思いに苦悩した結果、自らも彼女と同じ選択をして、整形をしてしまうのだから。
でもそれは、特に男がその選択をした時点で、どこかコミカルにも思えちゃう。二人を手術する整形外科医の確信犯的にワザとらしい、ドラマティックな対応にしたって、そうだよね。なんか、韓流ドラマみたい、っていうこちらの感慨を、監督自身が判っててやってる気がしちゃうのね。
日本と違って、整形にコダワリや抵抗感がないという韓国。韓国にあんなに美人が多いのは、まさか、整形のせいだったりして??劇中の描き方は、それへのアンチテーゼのようにも思えたけど。★★★★★