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「う」


2006年鑑賞作品

ウィンターソング /PERHAPS LOVE/如果・愛
2005年 109分 香港 カラー
監督:ピーター・チャン 脚本:オウブレイ・ラム/レイモンド・トー
撮影:ピーター・パウ/クリストファー・ドイル  音楽:ピーター・カム/レオン・コー
出演:金城武/ジョウ・シュン/ジャッキー・チュン/チ・ジニ


2006/11/30/木 劇場(有楽町スバル座)
ピーター・チャンの映画を観るなんて、なんとまあ久しぶりなこと!え?彼、ちゃんと映画撮ってた?私が観逃していただけかしら……と思ってチェックしてみたら、なんと10年ぶり!やっぱりそうか……。
香港の恋愛映画が衰退したのは、韓国映画の台頭もひとつの原因な気がしてる。大泣き恋愛映画だもんね、韓国映画は。最近じゃ、それがちょっと食傷気味なぐらい。
で、そんな韓国映画が流入してくるまでは、彼こそがアジアの恋愛映画の名手だった。もっと軽やかで上品で、チャーミングなアジアの恋愛映画。それが、盟友、レスリー・チャンの死で、一区切りついてしまったような気がしちゃうんだよな。

今回足を運んだのは、金城武meets恋愛映画というのがあったから。金城武自体、なんとなく久しぶりな感。向こうではたくさん作品に出ているのかなあ。
それにねえ、案外と恋愛映画の中での彼を見ていないような気がするんだな。金城武はもっと恋愛映画に出てもいい素材だと思うけど、少なくとも日本に入って来る作品に関しては、これだという恋愛モノは今までなかったような。
これだけ感情を繊細に見せられる人だから、まだ若いうちにもっと恋愛映画の名作を残してほしいのよね。
と、思うからこそ、今回ピーター・チャンmeets金城武にもワクワクとしたんだ。

まあ、その点ではある程度、というクリア感。もっとがっつり、「ラヴソング」ぐらいに傑作を残してほしいと、この先への期待を込めつつ……。
でもこの世界感、クラシカルな映画の夢をいっぱいに詰め込んでて、なんかそういうのをピーター・チャンが描くというのが、俊英、がベテラン、になったのだなあ、という感慨も抱かせる。
ウソで固めてるけど、でも夢がいっぱい詰まっているカキワリの映画の世界、命を張っているのを微塵も感じさせない、天使のように軽やかなサーカスの空中ブランコ乗り。
映画の世界はそんな風に華やかでカラフルで夢みたいなのに、それに比する現実の方は、まるでモノクローム映画のように、寒々しい冬の色の中に描かれる。
寒々しいけど、そこにポッと灯ったささやかな夢と愛は、確かに彼らを暖かく包んでいた。
でも、その冬の季節が現実として彼らを飲み込むかのごとく、10年もの間、愛し合っていた彼らを引き裂いてしまう。

そう、これってつまりは10年愛なわけである。少なくとも男の方にとっては、彼女を待ち続け、恨み続け、愛し続けた10年間。
果たして彼女の方もそうだったかっていうのは、女の心の弱さがぐらりと昔の恋人に傾いたりもするけれど……それがクライマックスだったりするから、それこそ真実の愛なのかと錯覚しそうになるけど、でも違うよね。
彼女の今の恋人を交えた三角関係は、結局はひとつも成就せずに、バラバラになってしまった、のであろう。それを暗に示唆するラストは、大人の愛の難しさをほろ苦く見せている。

なーんて書いても、何がなんだか判らないが。最初はね、観客の方も何がなんだか判らないの。メインの二人、金城武演じる見東とジョウ・シュン演じるヒロインの孫納がどういう関係なのか。
最初のうちは、二人がそんな深い仲だなんて思いも寄らない。むしろ、台頭してきた香港スターの彼が、有名なアジア女優である彼女のファンなのかというような感じ。だって、女優がいいからギャラの安い中国映画に出演を決めたと言うんだもん。
でも、その台詞にこそ、深い意味があったのだ。孫納はそのコメントに眉ひとつ動かさないから、この時点では観客には判らないんだけど。でもその意識的な無反応こそ、すべてを物語っていたのだ。
そうなの、彼女ったら、もう押しも押されもせぬスターの貫禄が漂ってて、香港映画は観ないから彼のことは知らない、とにべもないんだもの。
こりゃー、お高くとまった女優の心を、ピュアな男優が溶かす恋愛映画かしらと思っていたら、とんでもなかった。

劇中映画の、三角関係の一角を担うサーカス団団長の役が決まらないなど、トラブルも含みつつ、撮影が進んでいく中、段々と、二人の関係が明かされるのね。
その合い間合い間に、雪の中抱き合う見東と孫納のショットが何度も挿入される。この場面が、二人のこれまでと、これからの関係を象徴しているのだ。この場面を基点に時間が遡り、そして進行していく趣である。
この場面の時に、二人は確かに愛し合っていた。それもピークに。
それを再現するかのように、二人が溢れる思いを涙で流して抱き合うシーンが今の時間軸で現われる。でも、その溢れる思いはもうあまりに複雑になっていて、お互いあの頃の気持ちは確かに忘れられないんだけど、でもやっぱり、過去は過去なのだ。

ところでこれって、第三者の目線から描かれているんだよね。バスに乗っている一人の男(天使、とされているらしい。やっぱり韓国俳優なんだ。顔立ちで判っちゃうなあ)。
寂しい路地にカキワリを立てられ、豪華なセットに早変わりする街の中に彼が入り込んでゆき、豪華絢爛なミュージカルを演じながら、映画業界を解説したりしていくわけ。
ラストには彼、監督にインタビューさながらの接触を試みたりする。ただ単に劇中映画の存在というだけでなく、彼の存在がよりこの映画を重層的にしているんだよね。

劇中映画もそんな、夢いっぱいのミュージカルで、そんな映画が成立しない現代を逆に揶揄するように、この作品の成功を勝手に危ぶむ声が出る。サーカス、夢のようなミュージカルだなんて、と。
かつては、そんな夢こそが映画だったのに、そんな映画の存在自体が、軽んじられているような雰囲気が、制作記者会見からひしひしと感じ取れるんだもの。
これって、今の映画業界へのアンチテーゼのように思えるのね。この映画世界、いい意味でセット感に満ちてるし。

でもそういうウソの世界の中だからこそ、役者の表情の繊細さが際立つ。監督は、香港から迎えたスターが「ホンモノの目」をすることに驚き、恋人である孫納に、君はそうじゃない、彼に食われるぞ、とか言うのね。
でもそれは、彼女を愛しているからこそ、本能的に察知して、彼女に牽制したんじゃないの。見東の目が本当に……彼女に焦がれているって。
だから、自分で団長役を引き受けることにしたのだ。でもそれって、自分から恋に破れることを引き受けたみたいじゃない。

見東は、本当は監督志望だった。孫納は、歌手志望だった。
共に方向転換をして役者になり、そのことが二人の仲を引き裂いた。
彼らが出会ったのは、夢に向かって純粋な気持ちだけがあった若い頃。孫納は見東の食べ残しの麺をこっそりすするほど生活に窮していた。それが二人の出会いだった。見東は彼女ほどではないにしても、貧乏学生には違いなく、でも自分よりキュウキュウの、捨て猫みたいな彼女をほっとけなかった。
一緒に暮らし始めて、愛を感じ始めるのは、自然な流れだった。 彼の方は若干、腰が引け気味だったけど。それが金城武らしいんだな。

孫納に、ハリウッドへの誘いがあったのね。彼女は夢を叶えたかった。でも見東を愛し始めていたから、苦しんだ。彼が表面上は彼女の成功を喜んでくれているのも、複雑に引っかかった。だって見東は、孫納への気持ちを、好きだとか愛しているとか、全然言ってくれていなかったんだもの。
それもあったのかな、彼女がアメリカに行こうと決意したのは……。
でも、ハリウッドへの誘いは相手の気まぐれだったのか、彼女のことを気に入ってくれたはずのアメリカ人は、冷たく彼女を置いて去っていった。

その後に、あのシーンなのだ。
何度も何度も挿入される、若き日の見東と孫納の、雪の中抱き合うシーン。
凄く、感動的だったのに。心も身体もつながったと思ったのに。この危機を乗り越えたから、ずっと一緒だと思ったのに、孫納は結局、見東を捨てて出て行った。
見東も知っている、同じ仲間の監督についていったんだよ。
彼女に去られて落ち込む見東に、「ごめん、オレなんだ」と言ったその監督が、この後ずっと彼女がパートナーとなる監督では……ないよね?
ハッキリさせてはいないんだけど、多分……。

思いも寄らなかったけど、香港で押しも押されぬ映画スターとなった見東が、こうして彼女に再会するまでには紆余曲折ありすぎだった。
共演者として彼女に会えるまでの10年間、彼は彼女と過ごした部屋を買い取り、訪れる度にテープレコーダーに思いを吹き込み続けた。
うっ……なんかヤバイ、ストーカーっぽい……。
彼は本当に10年間、彼女だけを思い続けていた雰囲気なんだよね。役者になったのだって、彼女に会えるかもしれない手立てみたいだしさ。

一方、孫納の方は、スターにしてくれた監督と恋人関係になって、で、今はちょっと倦怠期って感じなのだ。
監督の彼は、同じ女優を、しかもパートナーとなった彼女を使い続けることに、クリエイターとしての疑問も感じていただろう。悩み深い雰囲気。
見東の出演シーンをチェックした監督、孫納に、「彼には目に力がある。あなどれないぞ」と言う。
敏感に察知した彼女は、「私に飽きたの?」と返す。
直接その問いには応えず監督、「彼のシーンはなるべく切って編集するよ」
そんな馴れ合いの関係になっちゃったら、もうお互い未来はない。

見東は孫納を、かつて二人が住んでいた北京の部屋に連れて行く。
そこには、毎年訪れるごとに、彼の思いが吹き込まれたテープレコーダーが鎮座していた。
10年間の思いを聞いた孫納、涙を流し、その日、二人は結ばれてしまう。
でも、翌朝、一人目覚めた彼女がテープを聞いてみると、こう吹き込まれていた。
「僕は一番軽蔑する人間を愛してしまった」

見東は、香港に帰ろうとしていた。映画は頓挫したまま。本当は、チケットを2枚用意していた。無論、一枚は彼女の分。
それを空港窓口のお姉さんに言われた見東、突如気づいたように、引き返す。
あの頃のように、雪の中、彼女は呆然と座り込んでた。
あの頃のように、見東は彼女を抱き寄せる。
みるみる涙がふくれあがる。見東を罵倒するかのように抵抗のパンチを浴びせる孫納を、やはり涙を溢れさせて抱き締める見東。
男が涙を流しても、金城武だと心がジンとなってしまうのは、お見事ね。
このシーンで全てが決着したと思っていたのに……。

ラストシーンを撮ることになる。監督は脚本を書き直した、と彼女に意味ありげな視線を投げて部屋を出て行った。
そのラストシーンは本当に……夢のようなファンタジーで、だからこそ切なく胸に迫るんだよね。
監督は自分自身を投影したサーカス団の団長に、男らしく彼女を諦める選択をさせるんだけど、そのさせ方が、つまり彼女との最後の別れが、あまりにも彼女の心に焼きついてしまう究極のやり方なんだもの。

カキワリのセット、でもどこか現実感のある、乾いた街並み。高い高い窓から渡された空中ブランコ。
彼女への思いをありったけ瞳に込めて、こぎ出す団長。自分を受け止めてくれるな、手を放して落としてくれ、おまえの気持ちがじりじり離れていくのを、この目で見ていたくない、きっぱりと、俺を捨ててくれ、そんな思いがあふれて……。
でも当然、彼女はそんな、団長を叩き落すなんて出来ないの。団長は手を自ら離したけど、彼女はとっさに彼の足をつかんだ。でもそれも力尽きて……地に落ちてしまう。

っていうか、このあたり、脚本なんだか現実なんだか判然としなくて、全部監督がホンを書いているはずなのに、その逡巡が彼女自身のようにどうしても思えて……。
そんなはずないんだよね。だってそのシーンの撮了にはスタッフ全員の拍手に包まれて、劇中、たたきつけられて死んだはずの団長は血ノリの中から起き上がって、皆をねぎらうんだもの。

だってそうだ、監督は最初からアテ書きというより半ばアテツケで、この物語を書いていたような気がするもの。まさかここまで重なるとは思ってなかったにしても……。
記憶喪失のヒロインは、過去の恋人、見東との記憶を捨てた孫納に見事に重なる。そして皮肉にも、彼との再会でどんどん心が揺れていくのさえ……。
でもね、結局見東と孫納がハッピーエンドになるということもないんだよね。そうなるのかと思ったら、ならなかった。
というか、このラストシーン撮影のあたりからはっきりと、彼女の心が監督の方に戻っていくのを感じていたから。劇中の死を迎えた監督に、本当に自分が殺してしまったかのように彼女は呆然と涙を流していた。そのまなざしが絡み合う様には、見東にはない、10年のお互いの思いがあった。

見東は、香港に戻ってしまう。連絡先を残すこともしなかった。ちょっと意外だったけど……でも彼は意趣返しだと言ったものね。でもそれが出来なくて一度戻ってきただけで……自分の身さえもボロボロにする意趣返しだなんて。
孫納はやっぱりさ、明言はしなかったにしても、あの表情は、この10年一緒にいた監督のことを愛していることに気づいたように思えたんだよね。
でも、ラストの時点で、三人とも自分一人だけで、離れたところにいる。監督も、昔の記憶をたどって懐かしいサンラーメンをすすっている。……このまま三人、それぞれ一人で生きていく、って雰囲気なんだよなあ……なんか、切ない。

見東がずっと不眠状態で、それが夢心地の雰囲気にうまく作用してる。彼が思い出す記憶と、撮影しているファンタジーミュージカルが、今覚めている現実なのか、夢の中に出てきている過去の記憶なのか……。金城武にはそんな夢うつつを体現できる甘やかさがあるし。
しかし、彼を見るたびに私は、その眉を細く整えたくなるんだよな……。★★★☆☆


ウール100%
2005年 99分 日本 カラー
監督:富永まい 脚本:富永まい
撮影:瀬野敏 音楽:矢口博康
出演:岸田今日子 吉行和子 北浦愛 宮田亮 ティアラ 兼田カロリナ

2006/11/4/土 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
題材も世界観もアイディアもいいだけに、散漫な印象が強かったのが惜しい気がする。
あのね、スタッフクレジットで脚本強力、みたいな名目で何人も名を連ねていたのね。そんでもって監督インタビューで、撮影スケジュールが押した時、監督の判断で切れるところはどんどん切りながら撮影を進めていったんだけど、スタッフから諦めないで撮れるものはちゃんととっておきましょうよ、と言われたんだとか。それが散漫に判りづらさもプラスしてしまったように思う。

この監督さんは長編は初だけど、CM業界で名をはせた人で短篇も撮っているし、その辺の判断は自信があったからやった措置みたいなんだけど、こっちからすれば、その判断こそが説明不足の結果になってしまったような。
まあ……私はそもそも理解力のない方だし、やたら説明しちゃうヤボな映画も昨今確かに多く、その辺のバランスは難しいところなんだろうと思う。
でもきっと、それこそが演出のセンスが試されるところなんだと思うし、こう言ってたつもり、こう表現していたつもりが、伝わらなければ意味がないことだと思うんだよね。

廃品屋敷に住むおばあちゃん姉妹、そしてそこに突如として現われるアミナオシというモノノケ少女。言ってしまえば、この二つの要素がファンタジーとしてそこにあるだけで充分魅力的だった。
無論、それだけじゃこの二つを結びつける説明もなにもつかないんだけど、それを明らかにしていく流れが、いちいち分断される印象があるのよ。
つまり、このおばあちゃん二人、こんな暮らしになった原因の過去、アミナオシの存在の謎、ヒロイモノ(廃品)たちが持つ魂、と、ブロックのようにがたん、がたんと区分されてしまって、流れを感じないのが、凄くもったいないし、判りづらい。

とりあえず、最初からいこう……それにしてもこんな個性的なインディペンデント作品に、岸田今日子と吉行和子を持ってくるとは!
でも彼女たちもまた、何物にも囚われない個性を持ち続けている女優だし、こういう作品にサラッと出るあたりがカッコイイし、似合ってる。しかし、贅沢!ギャラだけですべてが終わりそう……。
なんか今更だけど、吉行和子ってキレイなのね、と思う。どこか独特の雰囲気がある人だから、そんなこと、思いもしなかった。いや別に、岸田今日子と並んでるからそう思うわけじゃないのよ!しかしだからこそ、その美しさとギャップを感じるダミ声。
それでいえば、妖怪(!)岸田今日子は声は案外オトメチックで、この二人は外見と声がなんかあべこべな印象なのよね。

二人して、銀色のボブヘア。岸田今日子は衣装も食事も洋風、吉行和子は反対に和風。毎日連れ立って出かけてゆく。いくつも並べられた靴から、今日はいていくものを選び出す。これもヒロイモノなのかな。
キャリーカートを引いて街中をさかさか動き回り、廃品を拾って歩く。
その様はあまりにスピーディー。突然車の前に飛び出して「今、おばあちゃん轢かなかった?」と青くなる運転手の青年。しかし助手席の女の子が、「ああ、よくあるのよ。大丈夫。誰も轢いた人いないから」
なんか街の伝説的存在になっている感じ。
この物語は最終的に、彼女たちが拾ったヒロイモノたちがモノノケになる展開なんだけど、彼女たち自身が街のモノノケっつーか……その姿だけで既にファンタジー。そして廃品で埋め尽くされたお屋敷も、妙なノスタルジックを感じさせるし。

彼女たちは気に入ったものしか拾ってこない。吟味して吟味して、持ち帰ったものを丁寧に磨いて、その様子をきちんと絵にして写し取り、番号を振って台帳に記録しておく。
ゆっっっっくりと顔をだす鳩時計、起き上がりこぼし、美容院で使うパーマネントの機械「ビューテーセブン」、それらに埋もれたここは一見、ただのゴミ屋敷、でもみんなみんな、二人にとってはかけがえのないもの。
この手描きの風合いの台帳が、何とも心弾かれる。途中挿入されるアニメーション共々、このあたりはさすが、美術系出身のセンスの良さを感じさせる。
ただ、その構成の処理の仕方が問題なんだけどさ……。

それに、お互いおでこをくっつけあって、一心に色鉛筆で塗りたくっている二人が、なんともはやカワイイし!カワイイなんて言っちゃ、失礼かな。でもこの老姉妹の造形は、やはりカワイイというのがピタリとくる。
それには実は原因があったのだけれど……彼女たちがこのお屋敷に、姉妹二人でずーっと住み続けている理由。
いわば彼女たちは、何も知らない少女の心のまま、老姉妹になってしまったのだ。いや、正確に言うと、少女から一歩踏み出したところでそれを拒否し、こんな生活を送るようになってしまった。

アミナオシは、彼女たちの封印された記憶を呼び覚ますために、現われたかのようである。
ある日、老姉妹は赤い毛糸を拾った。ヒロイモノを一旦運び込んだ野っ原で、足を取られて二人して転んだ(引きの画が、やけにカワイイ)。
手巻きでぐるぐる巻かれた赤い毛糸。それは川から通じてて、持って帰った二人の後の道路に、まるで道しるべのようにずっと続いてた。
そしてその夜、現われるナゾの少女。この赤い毛糸を一心不乱に編んで編んで編んで、ズボッとそれを着て、安心したかと思いきや一瞬後、「編みなおしじゃー!」耳をつんざく声で叫び、そしてまた、ほどいた毛糸でひたすら編んで編んで編んで。

この少女が、不条理なトコも含めてあまりに魅力的なキャラなので、それを解明するような感じで次々とブロックされた要素がつぎはぎされていくのが、もったいない気がしてさ。
老姉妹が命名した“アミナオシ”を演じる北浦愛ちゃんは、ああ!「誰も知らない」のケナゲな長女役のあの子かあ!
無造作に編まれた赤いニットから、無防備に伸びるしなやかな足!しかもこのカッコで様々に暴れまくるので、これが結構ヤバイ!
後半、髪を切ってしまうシーンがあるんだけど、ボサボサ髪の方が危うげで未完成の魅力があって、何よりカワイかったなあ。

最初のうち、気味悪がり戸惑っていた老姉妹だけど、なぜかいついたこの少女をほっとけなくて、次第にいとおしく感じるようになる。
まるで猛獣にエサをあげるように口元におかずを持っていくと、無心に食べる少女に、嬉しそうな二人。母性本能を呼び覚まされたのかもしれない。
そうだ、それこそが、この作品の大きなテーマなのよ。

そもそもね、このアミナオシを他のヒロイモノと同じように台帳に描き込んだことが、全ての伏線なのよね。だって、アミナオシは拾ったものじゃないのに。まあ、彼女がついてきた毛糸は拾ったものだけど……。
赤い毛糸っていうのはね、いろんな意味が含まれているのを感じるんだけど、やはり一番は赤い糸の暗示だと思うんだよ。赤い糸で結ばれている運命。でね、それがこの、ぼこぼこといびつな赤い毛糸だっていうのが、意味深なわけ。

彼女たちがすっかり忘れていた、というか、記憶から排除していた幼年時代と、思春期の少女時代。これが、アミナオシが登場してから中盤になって突如、という形で描写されてくる。
ドールハウスで、母親と一緒になって遊んでいた幼い日。そこで培われた幸福な誤解。そして、その母親が去って、二人きりになった姉妹が出会った青年と、残酷な真実。
母親は、姉妹と一緒に遊んでいた。この時点で、父親の影はなかった。ある日、母親は、お腹に赤ちゃんがいると言った。それは、編んで出来るのよ、と言った。そして山の向こうの、そのまた向こうに行かなければいけない、と言った。それに二人を連れてはいけないと……。

この姉妹の記憶では、あくまで優しい、一緒に遊んでくれた母親である。
でも、客観的に見れば、父親のない(あるいは出て行った)姉妹を産み、そしてまた、男の元に行くために娘たちを捨てる母親なのだ。
でもそれは、女が赤ちゃんを産むさだめを課せられているから生まれる図式である。それが証拠に、二人にとっては優しい母親のイメージのままなのだもの。

戦時中、だったのだろうか。二人はいわばこの屋敷に隔離された状態で育ち、母親がいなくなり、思春期の少女になった。
家の中のモノを軒並み処分することになった。それを引き取りに来る青年に、二人一緒に恋をした。
二人はそのことに、問題を感じなかった。つまり、ライヴァルとしての戦いを頭に浮かべなかった。「私、あの人の赤ちゃんを編む!」「私も!」赤ちゃんは編んで出来上がる。そんな考えを植え付けられていたから、一人の青年をセックスによって独り占めするなんて考えが浮かばなかったのだ。

当たり前だけれど、編んでも編んでも赤ちゃんなど生まれない。何度もお互いのお腹に耳を当てて確かめ合い、まだ編み足りないのだと、どんどんどんどん編んでゆく。部屋中が、赤いニットの海原になる。
この赤は、赤ちゃんの赤の暗示。赤ちゃんを編むなんて、モロに女の血の暗示。
そういえば、おとぎ話の「実は……」はいつだって、血塗られた残酷物語。特に、女の子の。それは、女の子が流すあの血のことなのだ、きっと。
アミナオシは、編んでも編んでも自分が(彼女たちの望む)赤ちゃんにならないから、何度も何度も編みなおしたんだろうかと思ったりもする。望まれない少女、は、母親に去られた少女時代の二人……。

あまりにも赤ちゃんが産まれないことに不信を抱いた彼女たちは、ある日書物で真実を知り、ショックを受け、そしてその真実を拒否する。
編み続けた赤い海原が放置されるのが、まるで……打ち捨てられた胎児がその中に溺れているように思えてしまう。
彼女たちが捨てるモノを拾い続ける青年は、その事実を知った彼女たちによって、記憶の外に封印されてしまう。だって……その事実を知ってしまったら、彼女たちは今までのように大切なものを共有できないのだもの。
そんな過去があったことを、彼女たちはずっとずっと忘れていた。

という、過去の挿入や、それを思い出させることになるアミナオシの暴れまくり、モノノケたちとアミナオシの対決を描く手描きアニメーションなどが全て、それまでの老姉妹の描写の流れからハズれて外に置かれているもんだから、観ながら頭の中でそれを融合させるのが難しいのだ。
アミナオシは二人が大切にしていたものを、どんどん壊していく。二人は最初のうちこそ、大事なものが壊れていくことに悲痛な叫びを上げ、いつもノンビリと時刻を知らせてくれていた鳩時計(正確だったかどうかはすこぶるギモンだけど)の無残な姿を拾い上げて悲嘆にくれていたりしたのに、いつしか、フツーに気にせずガンガン捨てるようになる。
このヒロイモノたちの中で、アミナオシが何より、大切で愛しくなったからなの?

でも、だからさ、アミナオシはヒロイモノじゃないんだし……それにね、このヒロイモノたちは知らない間にモノノケになっていたんだけど、それはアミナオシがあおったからそうなったように見えるんだよね。二人に大切にされてきたモノたちが怪物になっていくのが。
それに、二人の前ではその姿を見せず、彼女たちの静かな生活を守ってきたのに、なぜそれを壊す必要があるのかが判らない。
で、その、“既にモノノケになっていた”というのがね、こういう部分がハショリの弊害じゃないかと思うんだけど、アミナオシによってそうされた、アミナオシが引っ掻き回しているようにしか見えないんだよなあ。

アミナオシが台帳を見ながら、ヒロイモノを壊していく。ストーリー解説では、それはつまりアミナオシが、モノノケとなったヒロイモノを見つけては退治しているということらしいのだが、それが判りにくい、というか、判らないのよ。
二人が結局は自分たちで、ヒロイモノを次々焼却したりして整理しだすのが、アミナオシのことを気に入ったからだろうけど……ぐらいの推測しか働かないから、どうもナットクがいかないのだ。
この部分を、アニメーションの描写だけでやるから判らないのかも。この独創的でスピード感のある手描きアニメーションはすこぶる素晴らしいのだけれど……でもここでいきなり、ここだけいきなり、の唐突感も否めない。やっぱり、流れがない、止まってしまう。だから、語られる要素の関連性が感じにくく、ひどくぎこちなく映ってしまう。

ラスト、アミナオシとモノノケたちの大暴れの末、屋敷は全壊。ずっとずっとこの屋敷で暮らしてきた姉妹は、姿を消したアミナオシを捜し、初めて外の世界へと出て行く。
少女はいくつになったって少女でいられるし、そして突然、母性に目覚めれば、それもまた本能のままに、受け入れることができる。

ああ、なんというか、惜しい!★★★☆☆


ウォーターズ
2005年 107分 日本 カラー
監督:西村了 脚本:岡田俊平
撮影:栢野直樹 音楽:Jin Nakamura
出演:小栗旬 松尾敏伸 須賀貴匡 桐島優介 平山広行 森本亮治 葛山信吾 真中瞳 山口紗弥加 エリカ 大谷允保 高木りな 成海璃子 原田芳雄

2006/3/14/火 劇場(渋谷シネマGAGA!)
原田芳雄演じるおじいさんの、悪かったはずの足が、彼らから去って行く時スタスタと歩くようになるのは、思いっきり「ユージュアル・サスペクツ」(だよね?確か)だよなー、とか思いながら、ひょっとしてこの物語のアイディアは、ここから始まっていたのかも、などと思う。
おっと、いきなりゴメンゴメン。でもつまりはコレ、青春映画よね。結局ダマされた!というオチがあろうと、ホストの話であろうと。だってホストの話ったって、歌舞伎町じゃないし、ナンバーワンがどうとかじゃないし、みんなビンボーだし、新人だし、正直イケメンじゃないし。
あ、小栗君だけはイケメン君だけどね。つーか、ゴメン、小栗君しかマトモに知らないよ。

彼らは、ホストが儲かる、と聞いてやってきた、様々な経歴の男たち。今やホスト希望者は年間一万人にものぼるご時世なんだという。ドキュメントやドラマで、札束が飛び交うハデな世界が描かれるせいだろか。
でもここではそんな生々しさとは無縁。というか、それをエサに釣られた彼らはダマされちゃう。

実は最初、まず彼らはダマされた!っていう事態に早々に遭遇するのだ。彼らを採用したオーナーが実はオーナーじゃなかった。保証金として下は30万からヒドい人になると200万までふんだくられて、いざ勤務初日に行ってみれば面接したオーナーとは違う、足を引きずったおじいさんが自分がこの店のオーナーだと言う。しかも自分もまた、その男に改装費と称した金をとられたまま、逃げられた、と。
手っ取り早くカネを稼ぎたいというのには、せっぱ詰まった理由があった彼らに、この本当(じゃないんだけど)のオーナーは提案するのだ。ここで実際、ホストクラブをやってみませんかと。
まさかこれまでダマシだとはさすがに思わない彼らは、せっかくだ、いっちょやってみようじゃねえかということで一致団結するんである。
ま、つまり、ホストになる補償金、などというレベルでひっかかるヤツらなら、その後の騙しに気づくはずはないだろうというわけだったのね。

メンメンは、ストリートパフォーマーのリョウヘイ、元青年実業家のユウキ、元実業団バスケ選手の直人、その後輩のケイタ、元インテリアコーディネイターの進太郎、元銀行マンの正彦、元板前の鉄平、の七人。
この七人というのにはちょっとステキな仕掛けがある。勤務初日、まだ第一弾のダマされにも気づいていない段階の彼らが、我先に店に飛び込んだ。すると、ガランとした部屋で一人の少女がすやすやと眠っていて、彼女をそっと起こすところから始まったのだった。少女の名前はチカ。「まるで七人のドワーフみたい」とニッコリと笑うんである。

そう、白雪姫と七人の小人。実は彼女がわざわざ「ドワーフ」と言ったのは、二度目のダマしの彼らへの置き土産として、一緒に写った写真に「七人のドアーホ」とラクガキするというオチがあるからなんだけどね。
でも最初は自分たちで金を稼ぎたいために始めたホストクラブが、チカの治療費を稼ぐために、つまり彼女を守り、助けるためにという目的になるところが、まさに七人のドワーフなわけなのよね。

このチカを演じる成海璃子が良くってね!めずらしく見てたテレビドラマ「1リットルの涙」で、ヒロインの沢尻エリカに負けず劣らず良かった妹役の彼女、こないだ終わった「神はサイコロを振らない」でも、深い内面性がなんとも良かったし。
ここでは紅一点を担う彼女、重い心臓病をかかえ、しかしケナゲに振る舞う白いワンピースの聖少女、はそうした深さを充分に感じさせる。
しかしそれはウソだったんだよーん、というオチがバレて見せる、小悪魔のような笑顔がまた良く、でも今回ばかりはだますことが辛かった、皆と一緒にいたかった、というのを、微妙にその表情に宿らせて、うんうん、このコ、なかなかいいわあ、と思う。最近珍しい、ナチュラルに太い眉と黒く重そうな髪も好みだし。

さて、ヒロインはもう一人いるんである。一人、というか、一人プラス四人かな。真中瞳演じるベンチャー企業の女社長と、その社員たちである。
この女社長、美奈子は、リョウヘイのストリートパフォーマンスをよく見にくる常連さんだった。彼女だけは他のお客さんよりちょっとだけ多く、500円玉とか入れてくれた。
ある日、やけに高そうなダイヤのイヤリングを入れて彼女は立ち去ったもんだから、返そうと思ったリョウヘイは彼女の後を追う、と、ホストクラブでハデに遊ぶ彼女たちを目撃したというわけだ。
でも美奈子だけはちょっと哀しそうな顔をしてそこに座ってた。決してこんなところにいたいと思っている顔じゃなかった。
札束が飛び交うホストクラブの世界を垣間見たリョウヘイは、ストリートパフォーマーとして世界をめぐるための手っ取り早い資金稼ぎにいいかも、とああいう事態になっちまうわけである。

そしてリョウヘイが彼女と再会したのは、“じゃあいっちょ、みんなでやっちゃおう”と部活的な軽いノリでオープンした海辺のホストクラブ、ドッグデイズにてである。まず興味本位の四人の社員が現われ、迎えにきた美奈子はホストとなったリョウヘイを見て愕然とするんである。
実は彼女は、ホストクラブに行きながら、ホストを軽蔑してた。お金さえ積めばチヤホヤする人種だから、と。
でもホントのところはそうじゃないのだ。最初は「お金がなくても、心はダイヤモンド!」を合い言葉に、ゼロからこつこつ皆で頑張ってきたのに、それがいざ成功してありあまる金を手にするようになると、その大切な友達たちはホストクラブで金をちらつかせてハデに遊ぶようになったものだから、何より金によって自分の友達が変わってしまったことが哀しくてしょうがなかったのだ。

だから、まあ、いわば、リョウヘイに対しては八つ当たり。「何が人からの施しは受けない、よ!」と言い捨てて去って行ってしまう。その四人の社員たちも、「あんたたちは私たちのレベルじゃないのよ」と嘲笑して、去ってゆく。
ヒドい言葉だけど、ある意味当たってたんだよね。彼らは客である彼女たちをマトモにもてなすことも出来ずに怒らせて、“こんな場末のホストクラブ”と罵倒されて、ホント、見てられないの。この時には彼らはまだ全然本気じゃない。いや、結構それなりの理由を抱えてここに来て、このもうけ話に乗り気になったつもりではあったけど、実はまだ本気になってなかった。
金持ちの女たちに散々バカにされた、というように表向きは見えたけどそうじゃない。本気じゃないのを見透かされたんだよね。

彼女たちは必死にやってきて、成功して、お金持ちになった。お金が人を狂わせるというけど、彼女たちが本当にそれで人が変わったわけじゃない。お金で人が変わる(つまり、彼女たちが通っていた有名ホストクラブで、ホストたちがカンタンにチヤホヤしてくるような)ことに失望したんだ。
つまり美奈子はこの時点で、完全に逆にカン違いをしていたわけで、それがリョウヘイたちがステキなホストに成長したことによってラストに明かされる時には、ちょっとカンドーするんだけど。おっとそれはまだ先の話。
でね、だから、彼らはまだそのレベルにさえ行っていない。いや逆に、失敗の痛みを知っている。だからこそ、彼女たちにホンモノの言葉をかけてあげられるようになるんだ。

でもまあ、この時点で彼らはいったん、分裂状態になってしまう。やっぱりホストなんてくだらない。やーめた!となるわけだ。
折りしもそこに台風がやってくる。海辺にぽつんと立ったドッグデイズはもろに直撃を受ける。そこに彼らが三々五々集まってくる。この嵐で頭も冷やされ、そしてもう一度やってみようと。
皆で必死に、台風からドッグデイズを守ろうと一致団結する。本気になった部活動みたいに。びしょぬれになりながらもやけに楽しそうなのだ。
そして、たった一人、そこには来なかったユウキが、台風が収まった後にやってくる。
自分の会社は倒産しても、これだけは手放さなかった自慢の高級車ではなく、ゴツいワゴンでやってきた。見るも無残な姿になったドッグデイズを見て、ふところから札束を取り出す。愛車を売った金で、ドッグデイズを建て直そうぜ!と。

今度こそ、皆本気になった。うわべだけ取り繕ったホストクラブではなく、女性たちを本気でもてなす場所に。
インテリアデザイナーは今度こそ本気を発揮し、シャレた内装に。アンティークなアプライトピアノがまたオシャレである。
このピアノでアップテンポなジャジーをカマし、小栗君のジャグリングと仲間たちのコラボで見せるカクテルマジックはカッコ良すぎ!るのだが、それはまた先の話だってば!
衣装も用意する。以前はただのチンピラみたいだった派手なスーツだったけど、上品な黒のタキシードがクローゼットにズラリ。
真っ白いワンピース姿のチカを、その黒のタキシードの七人が取り囲む姿は実に絵になるんだよなあ。
前夜祭、とばかりに、そのカッコで海岸に繰り出すみんな。花火をしてはしゃぐ。「花火ってなんで早く終わっちゃうんだろ」「早いからいいんだろ」そんな会話にチカが哀しそうに加わる。
「私はそうは思わない。花火だって長く生きてたいと思ってるはずだよ」

チカの病気のためには、海外での心臓移植しか手はない。そのためには一千万ものカネが必要なんだという。
彼らは、それをチカのために稼いでやろうじゃないかと奮起するんである。
リョウヘイは美奈子のもとを訪れていた。もう一度ドッグデイズに来てくれないかと。ホストクラブという舞台での僕のパフォーマンスを見に来てほしいと。
美奈子は条件を出した。私の友達もつれてゆく。値段は私たちが決める。だからあなたも一番大切なものを賭けて、と。

「お前、そう言われて何を賭けたんだよ」
仲間に言われてリョウヘイは一瞬、間をおいてこう答える。
「仲間」
「オレたちってことか」
やってやろうじゃないかと盛り上がるメンメン。

ここで、オーナーが、ヒントをくれるんだよね。
お客を女優としてもてなすことだと。女は皆女優だからと。このオーナーの言葉には、チカが実はそうだという含みがあったんだな、と今にして思えば判る。
女優には舞台と相手役とシナリオが必要。そう言われてリョウヘイたち七人のドワーフは深くうなづく。
と、ここで納得チックに言った割には、実際、彼女たちを迎えてのそれは、割と行き当たりばったりだったけど……。

でもそこが仲間、チームプレイってことなんだよね。一番手ごわそうな美女に唯一ホストの経験のあるユウキを持ってきても、逆にその浅はかさが見抜かれてしまう。こういう彼女には世慣れたサービスより、彼女オンリーの何かを見抜く必要があり、それを板前の鉄平がやってのけるのがカッコイイ。
さっと出された椀。蓋を開けた彼女は、それまでの鉄面皮からとたんに柔らかな笑顔になる。
「白味噌?でもどうして?」
「このアマダイをグジと言ったのを耳にしまして、京都の人ではないかと」
「気づいたのはあなただけよ」嬉しそうに、美味しそうに飲み干す彼女。演じるエリカはたまらなく色っぽい。どうしても彼女をノセることが出来なかったユウキは、鉄平にこっそりと「ありがとう」と言う。チームプレイ!

札束を見せびらかしていたあのイヤミな女には、元銀行マンの正彦がついた。これは一番大成功。
「僕にはこのお金があなたの心の涙に見える。」ばらまかれたお金を丁寧に拾う。そしてこの店で一番美味しい飲み物、と言って彼女に差し出したのは……。
「何よこれ、ただの水じゃない」
「涙を流した女性には、補給してもらわないと……」
キッザー!でも、そこで心の涙ではなく、本当に涙を流してしまう彼女!泣くかなー、これで……。わざわざメガネ外して言うのもキザだしなあ……。
彼女、泣き顔で「面白いこと、言うじゃない」と。ニッコリと返す正彦。

前回、バスケをバカにされてキレ、彼女たちを怒らせてしまった直人とケイタは、またしても彼女たちに、オレンジでのシュートをリクエストされる。でも今回、二人はキレない。前回は、バスケは遊びじゃない!とあんなに怒ってたのに。
「そうさ、バスケは遊びだ。最高に面白い遊びだ。俺たちはそれをお客様に見せなきゃいけない」
小さなつぼに向かって鮮やかなシュートを決める。拍手喝さい!
そしてあの軽快なピアノにのせた、シェーカーを使ったジャグリングの見事なこと!

スッカリ彼女たちの心を捉えた彼ら、1枚100万円に設定したコインを次々に入れてくれる。
しかし、問題は美奈子。リョウヘイは彼女の心を満たすことが出来たのか。
皆がはけた後、ガランとしたフロアで、リョウヘイは彼女をダンスへといざなう。
彼女に囁きかける。「あなたは成功を祈ってたんじゃない。このまま仲間たちと今のままの気持ちでいきたいと祈ってた」
今の僕がそう思ってるから……と言い、さらにこう付け加える。「あなたは、今友達が好きになれないでしょう」と。
「あなたに何が判るの!」美奈子は怒って飛び出してしまうのね。追いかけるリョウヘイ、「僕には判らない。僕は成功には縁がないから。でも……」そう言って優しく彼女を振り向かせると、あのころと同じような笑顔で、「久しぶりに食べようよ」とハンバーガーを抱えた友達たち。
「お金があっても?」
泣き笑いで答える美奈子。「ダイヤモンドの心で!」
それに気づかせてくれた、新米ホスト君たち。お金で何でもしてくれることより、誰も気づいてくれない心を気づいてくれることが大事なんだ。
立場が違うから、判ってあげることは出来ない。でも気づいてあげることは出来るんだ。

さて、めでたく美奈子たちから一千万(!)をいただいた彼ら、それを惜しげもなくチカとオーナーに差しだし……でも、冒頭にいきなりオチ言っちゃったように、すべてがウソだったってわけで。
本当は、オーナーが、ドアを出たとたん、すたすたと歩いてくシーンで初めてアレッと思わせてほしいところだったけど、「これから定期検診に行って、具体的な話に進みます」なんて言ったあたりでもうアヤシイと思っちゃう。いや、「私も騙されたんですよ」というとっぱじめから、もう結構キビしかったかもしれないなあ。まあ主題はそこにはなく、あくまで青春ドラマとしての作品だから、ま、いっか。海辺のホストクラブ。ひと夏の夢のね。
だって、彼ら、騙されたと判って、皆で走って追いかけるんだけど、本気で追いかけるつもりもなくて、そのうち走りながらヤイヤイはしゃいじゃうんだもん。
「いい夏だったな」なんて言って。

まんまと一千万をせしめた二人、とあの一番目のニセオーナーがバンに乗り込み、逃走を図る。車中で、孫娘を見ながらオーナー「昨夜、めずらしく、行きたくないって泣いてね」と話す。
こんな稼業を続けてたら、きっと人間を信じることなんて出来なくなるんだろうけど、彼らは信じられたんだろうと思う。ドアーホなまでに単純で、優しい彼ら。彼女は演技を忘れて、本当に小人たちに守ってもらう白雪姫の気持ちになったんじゃないかな。

こういうホストになら、お金のある女性たちは、マジで100万円とか払っちゃうのかなあ。★★★☆☆


ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ! (日本語吹替え版)/WALLACE & GROMIT : THE CURSE OF THE WERE − RABBIT
2005年 85分 イギリス=アメリカ カラー
監督:ニック・パーク/スティーヴ・ボックス 脚本:スティーヴ・ボックス/ニック・パーク/マーク・バートン/ボブ・ベイカー
撮影:デイヴ・アレックス・リデット/トリスタン・オリヴァー 音楽:ジュリアン・ノット
声の出演:萩本欽一 飯島直子

2006/3/25/土 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
前回アカデミー受賞のジブリのライバルとなって、今回は最多受賞の面目躍如のW&G。私としては正直ホッとしちゃった。
だって「ハウルの動く城」のような作家の主張が傾きすぎな作品が受賞するのは、やっぱ危険だと思ったもんね。作家性という点ではハウルのような作品は受賞しやすいのかなと思っていたので、かなりハラハラとしていた。本当に、W&Gが受賞してくれて嬉しい。それまでも何度も受賞歴があるけど、今までは短篇、中篇であって、きちんとした長さの作品、W&Gは初めてでしょ?
ただ、もともとW&Gは短篇の、ウォレスの珍妙な発明が不条理な面白さとなって結実した魅力があったから、長くなるにつれてその独特の面白さが薄れて、無難なエンタメとしてのそれになってしまっているのは事実。ただグルミットのカワイさは世界の誰もが認めるものだから、発明家ウォレスのアンダーグラウンドさを、そうした短篇ワールドでも普遍的な人気に仕立て上げたということもあるのよね。

初めてW&Gに触れた時の、その面白さはもちろんのこと、キャラのカワイさ、特にひと言も発しないスーパー忠犬、グルミットのカワイさに、まさにノックダウンしたことを思い出す。
もう、本当にトリコになったもの。企画展があれば駆けつけてグッズを買いあさり、イギリスに旅行するという人がいれば、何でもいいから向こうのオリジナルW&Gモノを買ってきて!と頼み込んだっけ。そしてニック・パークが「チキンラン」なんかを作って、なんかそれがイマイチ可愛くなかったもんだから、ああ、グルミットのカワイさはもう戻ってこないのかなあ、なんて思ってたから、ホント、嬉しかった。

相変わらず珍発明家のウォレスは、今回は街の人々の役に立っているんである。来たるべき巨大野菜コンテストに街中がワクワクしているんだけど、ひとつだけ困ったことには、繁殖しまくっているウサギが野菜を食い荒らしていることだった。
コンテストを伝統的に主催している名家のレディ・トッティントンは、心優しい平和主義者で、町一番の美人。ウサギを殺したくはない。このコンテストが終わるまで、捕獲して保護しておいてもらいたい、ということで、ウォレスとグルミットはプロの害獣駆除隊「アンチ・ペスト」として、呼び出されるたびにウサギを捕獲しているのであった。

レディ・トッティントン家にもウサギが大量発生して、ウォレスは自慢のマシンを投入。なんとまあ、地中にホースをブチ込んで穴倉のウサギを一気に吸引する、“ウサギ吸引機”である。吸い込まれたマシンの中でくるくると舞っているウサギたちのマヌケなカワイさに吹き出しちゃう。それにしても、ホントにバカバカしい機械ばかり思いつくんだから!
まあ、今は役に立ってはいるけど……相棒のグルミットがね、ウォレスがヘンなアイディアを考え出すたびに、あーあ、とばかりにパン、と片手で目を覆うのがホント、好きなんだよね。だって犬のグルミットの方が冷静で頭が良くて、ウォレスのトラブルをいつも解決するんだもん。でもそれでも、グルミットはこのウォレスが大好きなんだよなあ、というのが、色んなところで垣間見られてね、私はカンタンに泣いちゃうんだよなあ。

今回、ウォレスは恋をしている。このレディ・トッティントンにである。実はライバルもいる。ウサギ吸引機によってヅラを吸い取られちゃったヴィクターである。ウォレスはもともとハゲ?なのになあ、などと思う(笑)。このヴィクター、レディ・トッティントンと正反対の、ジャマなウサギはブチ殺してしまえばいいじゃないか、みたいな考え方の男。レディ・トッティントンに近づくのも、その財産目当てなのはアリアリである。
ま、このあたりはね、最終的には平和主義のレディ・トッティントンとウォレスと、そしてなんたって大活躍のグルミットがこの男を打ち負かしちゃうということで、長編アニメーションとしての道徳的な側面もちょっと匂わせてるかなー?などとも思うんだけどさ。

ただ、ここはちょっとした皮肉を効かせてる、と思った部分もある。チーズ好きのウォレスが太っちゃっていつもの穴(朝起きて、穴からズボッと落ちると、服を自動的に着ることができるマシン)から落ちなくなっちゃって、ウォレスの健康を心配したグルミットが、菜食オンリーの食事を用意してるのね。犬に家事を一切任せているというところが今更ながら、なんともカワイイというか、ウォレスがトホホなんだけど。
でもウォレスはそれがどうしても耐えられなくて、チーズをこっそり隠れて食べようとするし、それにウサギ退治を根本的にカンペキにするためにと、ウサギの洗脳にトライしちゃうじゃない?あのウサギ吸引機となんかアヤシげなマシンをドッキングさせて、自分の野菜嫌いをウサギに移してしまおう、という……しかし機械がショートし、結果出来上がったのは、確かに野菜嫌いの、ウォレスをコピーしたような一匹のウサギと、後に月夜に巨大ウサギ男に変身することとなるウォレスだったのだ!

なんてことはこの時点では無論、誰も気づいていない。ウォレスは実験に成功した、と無邪気に喜ぶばかりである。でも巨大ウサギ男が街を荒らしまくる被害が相次ぎ、アンチ・ペストの彼らは役立たずの汚名を着せられる。しかしウォレスに好感を持つレディ・トッティントンがチャンスをくれるのだ。ウォレスさんなら、きっと私たちを助けてくれる、って。まさか当のウォレスがそのウサギ男だとは知らずに。

真実に気づくのは当然、賢いグルミットなんだけど、これがちょっとしたミステリ&アクション仕立てになっててね、ウサギ男出現の危機にちっとも姿を表わさないウォレスに業を煮やしたグルミットが、自ら車を運転して巨大ウサギ男を追いかける。走る時だけ四つ足になるグルミットは、それ以外はまるで犬とは思えないスーパープレイで、地下にもぐっていくウサギ男を執拗に追いかける。しかし逃げられてしまって、悔し紛れにバン!とハンドルを叩いたら、エアバッグがボン!とふくらむのがもおー、カワイくて笑っちゃったなあ。

ほおんと、グルミットはカワイくって、頼りになるんだよね。ウォレスはさっぱり頼りにならないんだもん。
結局、自分がウサギ男だということをグルミットによって知らされて、ふかふかしたウサギの耳がにょっきり生えている自分にうろたえる彼。その時レディ・トッティントンが訪ねてきて、帽子をかぶってゴマかしたりするシークエンスがなかなか笑える。だってこのふかふかしたウサギの耳、すんごくカワイイんだもん!
いや、耳だけじゃない。ウォレスが巨大なウサギ男に変身するその姿、全身ふかふかで実に気持ち良さそうなんだよね。変身するたびに服が破けちゃうけど、毎朝マシンが用意した新しい服にストンとからだを通すウォレスなわけだから、変身モノにつきもののそうした矛盾点がないのが、心憎いよねえ。

グルミットもね、このコンテストに出すための巨大野菜を大事に育ててるのだ。厳重にカギをかけて、侵入者など危険を察知したらアラームが鳴る、最先端セキュリティ万全の温室の中で、その巨大なウリは毛布をかけられて着々と育っている。毛布をかけて、ってあたりがグルミットの愛情が感じられてカワイイし、何も言葉を発しない、いわば無表情ながらも、大事に毛布をかけて、メジャーで寸法を測ったりしてるグルミットがもう、愛しいんだよねー!

そしてコンテスト当日。あのヅラ男、ヴィクターは、ウサギ男が巨大野菜を求めてやってくると踏んで、司祭から黄金の弾丸を譲り受けて今は遅しと待ち受けている。この黄金の弾丸はたったの3発。それで仕留めなければいけない。
変身してしまったウォレスが会場に現われる。ヴィクターの弾丸は使い果たされ、グルミットはご主人であり相棒のウォレスのために、スーパーアクションを披露するのだ!
ところで、ね。この場面でレディ・トッティントンはこのウサギ男がウォレスであることを知るんだけど、それが、巨大なウサギ男の腕に抱えられた美女、という画でね、もうまんま「キングコング」なのよー。彼女は、ウォレスとの二人だけの合図をそのウサギ男が示したことで、全てを了解する。ヴィクターの手からウォレスを逃がし、自らはヴィクターの手によって自由を奪われる。そのふわふわ髪を壁にうちつけられるのだ。
「あの髪とウサギマニアにはガマンしてるんだ!」っていうヴィクターの言い草は笑えるんだけど、ここでついに彼は本音を吐いちまったわけだ。

しっかし、やあっぱり、一番の見せ場は、グルミットがコイン式の遊具である飛行機に乗って飛びまくり、ヴィクターの飼い犬であるブルドッグと一騎打ちを見せるところであろう!ここはホント、まんまハリウッドなアクションそのままなんだけど、そのままなだけに、ふと我に帰るとそのバカバカしいシチュエイションに笑っちゃうわけである。だってコイン式の遊具の飛行機に、犬が乗って空飛んでるんだよ!?でもこん時のグルミットは最高にカッコいいし、最高にカワイイんだけどねー。
だって、グルミットの耳が、風にあおられてなびいているのが、もう涙が出るほどカワイイんだもん。
そして、グルミットの乗ってる“飛行機”、コインの制限時間がなくなって止まっちゃう。グルミットはあちこちふところを探るんだけどコインが出てこない。するとさっきまでバシバシに闘っていたブルドッグ君、おもむろにガマ口を取り出して(ビーズ刺繍のカワイイやつ!)コインを提供してくれるのだ。そして飛行機が再び飛び出すと、ファイトを再開するの!いやあの!それならなにも、わざわざコインを提供してまで、飛んでる飛行機の上でやらんでも!ああ、なんかようやく、W&Gの、不条理の面白さが発揮された気がするなあ。

ウォレス=ウサギ男、墜落しそうになるグルミットを助けようとして、もろとも落っこちてしまう。息もなく横たわるウサギ男=ウォレスに涙するグルミットに思わずもらい泣きしそうになる。グルミットってば、何も喋らないし、口もないし、ホント無表情に見えるんだけど、目の上の、額の部分のクレイのひねり具合、ニック・パークの神の手はグルミットに全ての感情を与えてて、ここでグルミットの目から涙があふれなくたって、その表情の豊かさには当然、泣かされてしまうのさあ。
でもそこで、「クサいチーズ」によって、ウサギ男からウォレスとして見事息を吹き返す。全てのウサギを自分の庭に放してウサギの楽園を作ったレディ・トッティントンは満足げで、ウォレスとの仲も上手くいきそうだし、これもすべてはグルミットの活躍のおかげのハッピーエンド!

ラストクレジット、放たれたウサギたちが、無重力状態でくるくると舞いながら、向き合って、額をすり合わせてグリグリするのが超キュート!!
それにこのラストクレジット、動物は一切傷つけておりません、てコメントの遊び心タップリさにはさすが!と喝采あげたくなるね!クレイアニメだもん、当たり前だよ!
それにしても、この素朴にして気持ちを高揚させるテーマ曲には毎回ワクワクするわあ。
個人的には、ヒマつぶしに車の助手席で、編み棒をカチャカチャ言わせながら編み物してるグルミットが最高に可愛くて好きッ!★★★☆☆


美しき運命の傷痕 /L’ ENFER/HELL
2005年 102分 フランス=イタリア=ベルギー=日本 カラー
監督:ダニス・タノヴィッチ 脚本:クシシュトフ・ピェシェヴィチ(原案:クシシュトフ・キェシロフスキ)
撮影:ローラン・ダイヤン 音楽:ダニス・タノヴィッチ/ダスコ・セグヴィッチ
出演:エマニュエル・ベアール/カリン・ヴィアール/マリー・ジラン/キャロル・ブーケ/ジャック・ペラン/ジャック・ガンブラン/ギョーム・カネ/ミキ・マノイロヴィッチ

2006/4/20/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
キシェロフスキの遺稿の三部作、天国、地獄、煉獄のその第二作目を若手監督が映画化。第一作目の「ヘヴン」は最高だったんだけど、この作品に関しては正直なところ、ふーん……といった感じ。何でだろうなあ。本当は深いから、考えれば考えるほど深く深く落ちていくんだけど。
監督はこう言ってた。「女性も男性も同じ人間なので、感情は同じ、そこに差はないと思います」と。ああ、なんか違うわと思っちゃう。それこそが私が、この作品に食い足りなさや違和感を感じる基本的なトコなのかなあ。
逆だよ、って思うのだ。同じ人間なのに、女と男はこんなにも違うから、苦しむんじゃないの、と。そして、ストレートとゲイ、既婚者と独身、若い情熱と年齢の妥協、全然、違うから。

何か、ひとことで言っちゃえばね、母親から受け継ぐ、男運のない三姉妹の話、って感じなの。いかにも下世話な言い方だが。
うーん、でもなあんかね、愛で苦しむのは女だけなの?女はそんなにも愛にベッタリなのかなあ?男の浮気性のことに関しては、まあよく言われるけどさ。男は一人の女で満足する生き物だと思わない方がいいってことか?みたいな。

世界的に、一夫多妻制の文化とか、浮気は男のカイショウだとか、男の浮気は出来心で、女の浮気はそんな男に対するアテツケとか、そこから本気になっちゃったとかいうパターンで、やっぱり男と女はそこんとこ本質的に違うんだもん。同じ尺度でさばけないんだなあ、と思うけど、そう、女は感情の生き物だから、そんなの許せない、女ばかりガマンなんてズルい!と思っちゃうわけよね。
これはキシェロフスキの原案なんだから、男の視点なわけだけど、彼自身がどう思っていたのか……ここで描かれているよりもっと深い部分を彼は指していたような気がするんだけど、脚色されて作られたこの映画自体は、なんかただただ女がアワレなだけでさあ、だから何が言いたいの、とか言いたくなるんだよね。女はここまで男を信じてベッタリなの?ホントに。

三姉妹。母親は車椅子の生活である。三姉妹の、特に最初にそれを見てしまった次女の脳裏には、父親の裏切りが何度となくよみがえる。教師である父親を迎えに行った、その部屋のドアをばたん、と開けると、父親の前に全裸の男の子が立ってて、驚いて、振り返った。目を見張る次女の目を、後ろから追いついた母親がすかさず隠した。冷たい目線を夫に送った。
そして今、次女は車椅子に乗る母親を定期的に見舞っている。長女や三女とは連絡が途絶えがちで……というのは、最初にこの次女、セリーヌを探している男が長女と三女に彼女の居所を尋ねてくることで判る。
二人とも、その電話が愛する人からのものじゃないかと思って取る。そして二人とも次女の行き先の詳しい場所を知らない。
なんか既にそこから哀しい。そして三姉妹の運命の扉を、この男が開けたのだ。

実際は交互にこの三姉妹の話が層になって語られるんだけど、めんどくさいから順番に行っちゃう。
まずは長女、ソフィの話。演じるのはエマニュエル・ベアール。ダンナの浮気を敏感に感じ取っている。だってもう長いこと“夫婦の生活”がなく、夫はどこかよそよそしい。なんつーか、倦怠期、なワケである。
こんなセクシー美人妻がいて浮気するなんて、男はやっぱりそーいうイキモノなのね、などと思っちゃう。そう思ってみると、全編そういう前提の元に描いているような気さえする。
しかも浮気相手、大して美人じゃないしさ。
この男はしかも、フォローする気がないというか、あまりに無造作で、ホント、浮気するなら絶対にバレないようにやってほしいというのはよく言われることだけど、そこんところがぜっんぜん無神経なのよ。

最初にソフィが気付いたのは、ダンナが家でこっそりとかけている電話だった。
まず、家で、しかも家の電話でかけるなよって話である。基本だろー。案の定リダイヤルしてみたら女の声で出ちゃうし、単純すぎっ。
そして写真家である彼は、仕事場にこの浮気相手の写真をズラーリと貼りまくってるんである。いくら仕事場だからって、妻が来ることをまるで考えてなかったのか?実際来ちゃうし。そんな風にあまりに不用意な証拠を残すクセに、浮気などしていないと言い張るバカである。
当然、ソフィは嫉妬にかられてゆく。ダンナの後をつけ、女の部屋にまでたどりつく。コトが終わって眠り込んでいる女にしのびよる。顔を近づけ、そのにおいを深く吸い込む。
まあつまり、この時愛人は気づいていたわけよね。目を覚ましたらシュラバになると思ってか、寝たフリこいてた。

この女は去り際はちゃんと判ってて、こんな具合になっちゃオシマイだと、しかもあなた子供はいないと言っていたじゃない、ウソツキ!と別れを言い渡すんである。
……まあ……子供がいないなら不倫もオッケーという結論もどうかと思うが。しかしこのダンナはどこまでの覚悟が出来ていたのか、妻とのことがちゃんと片付けられないうちに、離婚したから大丈夫、なんて言うしさ。
まあ、実際離婚しちゃうわけだけど……。
こんなシーンがある。ダンナの浮気はこの目で確かめた。でも彼は絶対に認めない。彼女はシャワーを浴びたそのままの、一糸まとわぬ姿でベッドに潜り込む。ダンナの後ろから濡れた髪のまま抱きつく。でもダンナはやはり気付かないフリして、彼女の欲望に手を出そうとしない。

なんかね、これが彼女の最後のカケだったように思えるんだ。女としてあまりにも哀れなカケ。
愛してないなら言って、そんな言葉に夫は愛してるよとカンタンに言う。でも妻とキスさえためらうの。抱きしめ合うことさえ、躊躇する。なぜ、そんなに女として魅力がないのか、それとも妻はもはや女でさえないのか。
しんっじられないよなー。エマニュエル・ベアールだぜ?こんな熟れ熟れ美女に迫られてその気にならないなんて不能なんじゃないの?
そして、二人は離婚した。ダンナは真っ先に愛人の元に向かう、あたりが憎たらしいが、その愛人に手ひどくフラれたから、ザマぁみさらせである。でもその後は判んないけど……。

次女はラストの話につながるのでちょっと置いといて、次は三女、アンヌの話である。
アンヌを演じるのはマリー・ジラン。いまだに少女の愛らしさを残しながら、スレンダーな肢体、その美しいおみ足をミニスカートからスラリと出して、ブーツとの組み合わせが強調される太ももにさわやかな色気を感じさせる。
彼女が愛しているのは、大学教授。親子ほど年の違うジャック・ペランである。
そして今、別れ話を切り出されている真っ最中なんである。
よりによって、この男の方からかよ!こんな若い女の子をフルのかあ!?若い女の子にフラれるんじゃなくてかあ!?許せーん!しかも理由がハッキリしないのだ。なぜなのと追いすがる彼女に、とにかくダメなんだと言うばかり。
こんな若い女の子を愛人に出来てるんならイイじゃんと思うのは、女の私が思っちゃいけないことなのかしらん。うーむ、まあつまりそういう風に考えている女なら良かったってことなのかなあ。

こういう関係は、お互い割り切ってなら続いてゆけるのかもしれない。でも、どんな恋愛もそうであるように、自分が相手を思う気持ちが、相手が自分を思ってくれている気持ちと同程度である保証なんてどこにもないし、だから割り切っていると思っていても、どちらかにほころびが出来る時がきっとやってくる。
つまり男の方は、最初から本気になるつもりなんてなかったってこと。でも彼女の気持ちはどんどん本気になって、彼なしではいられないぐらいの思いつめようで。そこで、ヤバいと思うのが、男はズルいんだよな。
まあ、いつかは自分の方が飽きられて捨てられると思ったのかもしれない。なんたって親子ほどの年の違いがあるんだもん。
このあたりもね、男はいいよねと思っちゃう。女は相手の男の年がどんなに上だろうが臆せず恋愛できるもん。これが逆じゃ可能性は薄い。男はどんなに年とっても若い女の子と恋愛できる可能性があるのがイイよなー。
そういう意味で、女は本能的に、年をとればとるほど一人になってしまう孤独を察知して、今そばにいる男をつなぎとめようと哀れな努力をするのかもしれない、などと思う。

男の方はそんなこんなを見越して、未来のある彼女のためとかキレイゴトを理由にして別れようと思ったのだろう。いや、それは多分、自分に対しての言い訳だ。自分は本気じゃなかったのに、彼女がどこまでも本気なのが怖くなったのだ。
男は、現状を壊すことを何より恐れる生き物。良く言えば理性の生き物。でもただの卑怯な臆病者。
女は、悪く言えば感情の生き物。良く言えば自分に妥協しない正直者。それは他人を傷つけることを考えないということでもあるけれど……。

アンヌにとっての最大の誤算は、彼が親友の父親だったということである。
この苦しみを誰かに聞いてもらいたいと、飛び込んだ友達の家。まず母親が帰ってくる。
友達はアンヌの悩みをこの母親に投げかけてみる。「既婚者との恋愛で悩んでいるの。どうすればいい?」
「戦うだけね」と母親は言う。私もそうやって結婚したのよと。夫にはナイショだけどね、と。
そして後ろから現われたその彼女の夫が、アンヌの愛する人なんである!
引きつり、固まる二人。友達はそんなことには気付かず、同じ質問を自分の父親にも投げかける。
どもりながら彼、「それは相手の気持ちによるんじゃないのか……」
その言葉で、もう判っちゃうのね。もうキミに対する気持ちはないんだから、イイカゲン判ってくれよと、彼は言いたいんだ。知らなかったとはいえ、よりによってなんでここにいるんだと。

あのさあ……アンヌ、妊娠してたんだよね、多分。彼に手紙とともに送りつけたの、あれ陽性の結果が出た妊娠検査薬じゃないの?
そして、彼女が産婦人科と思しき待合室で待っている時、ふと目にした新聞に彼の死亡記事を見つける。
彼の突然の死は何を示唆するんだろう。この関係が間違いだったってこと?それとも彼の自分勝手な都合の良さに、天の裁定が下されたの?
急いで駆けつけた友達の家、泣き崩れる友達を慰めようと……いや自分がなぐさめてもらいたかったのか、既に判らない。でも彼女はもう気付いてた。アンヌの言っている相手が誰だったかを。

まるで彼の死の原因がアンヌにあるかのように、泣きじゃくりながら彼女を押しのける。
「私のパパなのよ!」最後、こんな事実を残して自分の父親が死んでしまうなんて、そりゃやりきれない。家族のものだったはずの父親が、他人にその愛情を向けていたなんて。
娘である彼女は、いくら友達でも、友達だから許せなくて、父親の死を、彼女が哀しむことさえ許せなくて……そう、この場でアンヌが彼の死を悼むことは出来ない。だってアンヌは……他人なんだもの。
突き飛ばされ、悄然とその場を辞するアンヌ。彼女の募る思いに対して、そして成立さえしていない関係を終わらせるためには、男の死しか確かになかったのかもしれない。

そして、次女のセリーヌである。
カリン・ヴィアール演じる彼女は、あれ?彼女が長女じゃないの?と思ってしまう老け加減で、そーだよねー、実際の年齢設定32歳に対し、彼女の実年齢は40歳。いやちょっとサバ読みすぎだろ、キャスティングに少々ムリがあるなあ……。
彼女は姉や妹と違って、かなりオクテタイプである。それは、彼女があのシーンを最初に見てしまったから、かもしれない。そこから家庭崩壊が始まった。何度も何度も彼女の脳裏によみがえる、振り返った全裸の少年の顔……。
しかし、これが少年だっていうの、ナゾが解き明かされるまで判んなかったよ。一瞬の画だと、後ろ姿だけだから全裸の少女に見えたんだもん。

彼女をずっと探していた男が、実はその少年だったのだ。
ということが明かされるまで、というかお前もさっさと用件切り出せよとか思うんだけど、なかなか彼、正体を言えずにいるもんだから、セリーヌは彼が自分に恋しているとカン違いしてしまうのね。
ずっと、異性との接触も何も拒否し続けていた彼女だっただろうから……この突然の出会いにどう対処していいか判らず、気持ちばかりが舞い上がってしまったのかもしれない。
処女じゃないかと思うほどのストイックな痛々しさ。
でもね、ムリないよ。だってこの男ってばさ、彼女を待ち伏せし、さらにはカフェの中で唐突にロマンチックな詩の朗読なんかするんだもん。この時最初は周囲を気にしていたセリーヌ、次第に彼の声だけが聞こえて……という表現はうーん、ちょっとイタすぎるなあ。

次第に、彼がこのカフェに現われるのを、彼女の方が待つようになってしまう。だってなかなかこの男、セリーヌに会いに来た用件を切り出さないから。
そして、現われたある日。彼は思いつめた表情で、列車に乗り遅れてもかまわない、と彼女に迫る。そんなこと言われたらそりゃカン違いするよ。彼女はおびえたように身を引き、部屋へと逃げ帰る。それでも彼は追ってきて、ドアをノックする。そりゃカン違いするよ……。
彼を部屋に招きいれ、彼女は上ずった声でお茶を勧めつつ……部屋で、裸になってベッドに座って彼を待っているのね。

キッチンに戻ってこない彼女をいぶかしんで彼が部屋に入る……そんな姿の彼女に驚く。驚く彼に観客も驚く。おいおい、お前、そーゆーつもりじゃなかったのかよ。
彼女にそっと上着を着せかけ、彼は言う。自分はあの時の少年だったのだと。
衝撃を受けるセリーヌ。カン違いな上に、家庭を崩壊させた張本人であり、しかも(ここではまだハッキリと提示されないけど)彼はゲイなんだから。
その彼の前で、とんだ思い違いさせられてこんな格好になっちゃって……うう、イタすぎる……。
まあでも……セリーヌには少し、希望があるんだよね。母親の世話をしにいくために乗る列車の、車掌が彼女に恋をしているから。まるで10代の恋愛をやりなおすかのような、そんな雰囲気で。

翌日、セリーヌは彼を訪ねる。すべてを話してくれた彼によって、隠されていた真実を知るのだ。
何度も繰り返されていた振り返った少年、の回想から先に進んでゆく。その後、家から追い出された父親は娘たちに会いたい、と家に戻ってくる。けれど、母親は断固として拒否する。しかし父親も譲らない。ムリヤリ中に入って娘たちに会おうとする父親と、それを阻止しようとする母親で取っ組み合いになる。
とまあ、回想シーンでは、母親を引きずりまわすようなずいぶんとランボーな父なだけなんだけど、彼が一見、のこのこと現われたように見えながら、でも実は彼には後ろめたいことなんてなかったから、ここに来られたってわけだったんだ。

本当は、少年の方から教師である父親に迫った。少年は彼が大好きだった。大好きで大好きで……あんな行動に出てしまった。
という真実を、父親は、決して語らなかった。そうしたら少年が傷つくと思ったからだろう。でも、家族にだけは話しておきたいと思っていたのかもしれない。あの時、そのことも話したいと思って、ムリにでも訪ねたのかもしれない。
しかし、妻と取っ組み合っているうちに……彼女がひどくガラスに頭をぶつけて、倒れてしまう。
その音に、声をひそめていた娘たちがおそるおそる出てくる。だって……それきり静寂に包まれてしまったんだもの。
そこに見たのは、倒れて微動だにしない母親と、さっきまでいたはずの父親の姿がかき消され、開け放たれている窓。
彼が身を投げたのは、妻を殺してしまったと思ったからなのだろうか。
でもそうだとしたら浅慮。だって幼い娘三人を残すことになるんだよ?
やっぱり、男はどこまでも愚か者だ。
いや、真実に耳をふさぐ女もだけど……

という、真実を、セリーヌは姉と妹に話すため、久しぶりに三人が集う。彼女たちの連絡が途絶えがちになったのは、あんな過去を共有しているからだったんだろうけれど、その過去のことでこうして再会するというのも皮肉な話だ。
いつもの列車に乗る。今日こそは電話番号を渡そうと待ち構えていた車掌は、いつもはセリーヌが一人で乗っている座席にソフィとアンヌが乗っているんで、ビックリするのがカワイイ。
三人は、母親の元に向かう。母親は、表情も上手く作れなくなっているのか、いつも無表情で声も出せず筆談である。しかし「会いに来てくれるなんて、愛されている証拠だね」と書く……喜んでいるらしい。
……そういう理由で来たんじゃないんだけど……なんて雰囲気で、三人視線を交わして黙り込んでしまう。
セリーヌが、かつての少年から聞いたすべての真実を話す。だからお母さんがお父さんを告発したのは間違ってたのよ、と。母親の表情は変わらないから、変えられないから、彼女が驚いたのかどうかさえ判らないのだけど……ややあって、母親はゆっくりとこう書くのだ。

「でも私は、何の後悔もしていない」

それって、どういう意味?まさか最初から知っていたわけじゃないでしょ。このことがある前から不仲だったとかいうわけじゃないよね?それとも、そもそも夫、あるいは男というものに信頼をおいてなかったってこと?
でも、夫、そして娘たちにとっての父親を否定し続けてきたことが娘たちにトラウマをうえつけることになって、娘たちはどこかでそれが引っかかっているから、愛につまづいてばかりいるんじゃないの?
でも、確かにここで後悔してしまったら、彼女は自分の人生どころか、父親から引き離し、母親がこんな体になってしまって、普通の家庭の幸せを奪ってしまった娘三人の人生も否定することになってしまう。だから、意地でも後悔しているなんて、言うわけにはいかなかったのかもしれない。

でも、娘たちは、母親に本当はどう言ってほしかったのかな。この事実をわざわざ告げたことにはそういう意味があったと思う……だって、ザンコクだもの、こんな身体になった老母にわざわざ、あんたが間違ってたんだよ、と言うなんて。三人の秘密にしてあげていた方が、良かったんじゃないの。
いや、だから、つまりこれは、そんな母親に対する復讐だったのかもしれない。私が間違っていた、ごめんなさいと言わせたかったのかもしれない。それを母親も感じたからこそ、絶対に言うもんかと、後悔なんかしていない、と言ったのかもしれない。
そう考えるとここには、母娘や姉妹なんてものを越えた、女同士の熱いバトルがあって、背筋がゾウッとするんである。

オープニングクレジットは、炎を覗いている万華鏡のような刺激的な映像なんだけど、その中に巣から他のタマゴを蹴落とすカッコウが描かれてて、それがどういう意味だったのか、ずっと考えてた。
クレジットが終わり、冒頭のシーンでそのカッコウ自身が、タマゴを蹴り落としそこねて落ちてしまう。
自分の幸せのために、他を排除しようとして、そして傷つく。それは彼女たち、女であるってことだったのかな。★★★☆☆


うつせみ/3−IRON/
2004年 88分 韓国=日本 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:チャン・ソンベク 音楽:SLVIAN
出演:イ・スンヨン/ジェヒ/クォン・ヒョゴ/チュ・ジンモ/チェ・ジョンホ/イ・ジュソク/イ・ミスク

2006/3/12/日 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
もう今じゃね、キム・ギドク監督作品は観ないうちから★★★★★(私の中での最高点)って決めてるの。だってそうに決まってるんだもん。
今最も信頼しうる映画監督、キム・ギドク。彼は韓流とか全然、関係ない。そんな中には入らない。今は本国でも評価されるようになっているというけれど、ずっと異端として排斥されていたというし、いわゆる韓流の、スター性や商業性から遠く離れた孤高の存在だもの。作家性というものの意味を捕まえている、世界でも数少ない映画作家。
今の日本映画は、作家性も商業性も中途半端なのかも……などと思う。韓流にもキム・ギドクにも勝てないのが、残念ながら現状。
でもね、ギドク監督に関しては、韓国映画の隆盛に対する嫉妬なんてこと、超えてしまうの。凄すぎて。
彼を韓国のキタノとか言ったヤツは、今ごろモーレツに後悔してるに違いない。さすがに最近そんな惹句は使われなくなったけど。そんなレベルの100段階は高みに、彼は登っている。

ギドク監督作品に、ひと言もしゃべらない登場人物はよく出てくるけれど、それは今までなら、男女のどちらか一方だった。
本作は、男女とも沈黙のまま進行していくというのが凄い。
そういえば前作のギドク作品は女の子二人で、これはホントガーリーな世界観で、小鳥のようにさえずっていたのが、とても新鮮だっただけに、今回、ギドク作品らしい登場人物に戻ってきて、それも徹底して戻ってきて、それが凄いの。
だってどちらかが喋らなければ、二人の気持ちの動きを追うのはとても難しいじゃない。どちらか一方がある程度確かめながら動いていくからこそ、観客はそれについていけると作り手は踏んでいるわけじゃない。

思えばあれは傑作だった北野作品「HANABI」だってそうだった(あれ以降がねえ……)。
一方を沈黙のキャラクターにするというのは、ま、言ってしまえばそれだけでかなりアーティスティックに描くことが出来る。で、もう一方に喋らせて物語の筋道、という逃げを作る、みたいなね。
それをギドク監督は今回、やらなかった。二人とも喋らなくても、二人の気持ちを観客に見せることが出来るって、踏んだんだ。やっぱり、やっぱりこの人は凄い。

それにこの物語!最初は、救いがないのかって思ったの。留守宅に忍び込んでは、つかの間の安らぎを求める青年も、夫に暴力をふるわれても抵抗できず、部屋の隅に震えている彼女も、二人が出会って逃避行を続けたって、そんなの、いつか終わりが来るに決まってるし、そうしたら哀しい別れが待っているだけだと思ってたの。
なのに、これって!こんなの、アリ!?まるでおとぎばなし。ハッピーエンドのおとぎばなし。いや、もし世界がこんな風に成り立っていたら……成り立っていないと、誰が証明出来るの。

青年の名はテソク、彼女の名はソナ、というのは、どこで出てきただろうか。とにかく二人とも喋らないから、お互いに自己紹介なんてするはずもないから。
それにしても、ソナ!あの衝撃の「悪い男」も、ヒロインの名はソナだったなあ。何かこの名前に監督は思い入れがあるのかしらん……なんて。
青年は、バイクで走り回って、家々の戸口に宅配料理かなんかのチラシを貼りつける。一日たってもはがされてなかったら、不在ということで、彼は小道具でガチャガチャピーンとカギを開けて中に入っちゃう。
でも泥棒じゃない。まあ、冷蔵庫の中の食料ぐらいは多少失敬するけれど、汚れ物があれば洗濯板で心を込めて洗い、故障している電化製品があれば直し(鍵開けといい、手先が器用なのね)、部屋のあちこちでデジカメで記念写真を撮ったあとは、ただただくつろぐだけ。

あ、そうだ……部屋に写真があれば、彼は必ず、とても熱心に見てた。壁に飾られた写真と一緒にデジカメに写り、アルバムの写真を一枚一枚丁寧にめくってみた。時には風呂場で湯に沈めながら写真集を見たりもしたけど、その後アイロンで丁寧にシワをのばしてた。
この描写はなんだかオチャメで笑えるんだけど……この時、彼の見ていた写真に写っていたのが、運命の相手、ソナである。セミヌードの写真。後に二人で侵入することになる写真家の部屋にも彼女の写真が飾られていて……つまり、ソナはモデルだったんだろうか?
ソナは何も喋らないから、ひたすらやつあたりしまくる彼女の夫の言葉から推測するしかないんだけど……ソナの夫は彼女に執着してて、カネにあかせて彼女をモノにした、みたいな感じなのね。ソナの実家に生活費を送っておいたとか恩着せがましく言ったりするし。

そう、二人が運命的に出会ったのは、いつものように彼が不在だと思しき家に忍び込んだ日だった。
ドアノブに貼っておいたチラシはそのままだったから、家人はいないと思ったんだけど……夫に暴力をふるわれてそのまま放置され、部屋の隅でじっと息を殺すように身を潜めていたソナがいたのだ。
彼は何か、人の気配を感じながらも、しばらくはいつものようにくつろぐ。
彼女は彼が何者か、どんなつもりか判らないながらも、じっと彼の行動を見つめている。
電話がかかってくる。彼女の夫からだ。出ないまま、留守電に吹き込まれる言葉を聞いただけで、ソナがこの束縛&暴力夫に日々さいなまれているのが判る。
何度目かの電話が鳴る。テソクはさすがに立ち去ろうとしていた。まるでそれを引き止めるかのように、ソナが電話口に向かって悲鳴のような声をあげた。

一度は辞したテソク、でもどうしても気になって、引き返す。ソナはバスタブの中で小さく縮こまって、激しい嗚咽をもらしていた。テソクはクローゼットの中から、彼女のために着替えを用意する。優しいパステルカラー。
でも、帰ってきた暴力夫は、そんな彼女を見て、「俺の嫌う服をわざわざ着やがって!」と怒鳴りつける。夫はそんなことまで彼女に強要する男なのだ。
しかも、彼女に似合う服さえ、判らない。
その様子をテソクは窓の外から見ていて……この暴力夫にゴルフの球を打ち込む。セレブの象徴のような、広い庭にしつらえたゴルフセットを使って。うずくまる夫をソナは冷たく見下ろし、テソクのバイクの後ろにまたがって、この家を出て行った。

それから、テソクとソナは、あらゆる家を転々とする。
時にはソナの家のような豪邸、アーティストのモダンなマンション、静かな寺社、貧しいアパート、貧富などまるでこだわらず、二人はそこに、家族の安らぎを求めるかのように、言葉に代わる笑顔をかわしながら、ひとときを過ごす。
ソナに関しては、夫によって実家の話も出てくるし、まあとりあえずこの夫も一応家族だし、てのがあるんだけど、テソクに関しては家族の影がまるで見えないんだよね。
後に彼が捕まってしまって、学があるのにどうしてこんな生活をしてるんだと問い詰められはするものの、ソナに夫が迎えに来たような、家族の迎えはないし。

最終的な“ハッピーエンド”を考えると、彼は本当に、この世に存在していないかのようなんだ。
最終的な“オチ”はね、彼は彼女によってだけ、存在しているということなの。彼女だけが、彼の存在を認めている。それは究極のハッピーエンドなんだけど、本当にこれ以上純度の高い愛はないんだけど、でもそれって、やっぱり狂おしいぐらい切ない。
だって、彼が、ゆく先々の“家”で記念写真を撮っていたのは、自分はここにいるんだって存在証明に他ならなかったわけじゃない?家族の影も、友人の気配も、彼女と出会うまでは恋人のいた経験も感じられなかった彼にとって、そうでもしなければ、アイデンティティさえ、つかめなかった。
世界の全てを賭けて愛する恋人を得たことによって、それも解消されたにしたって、やっぱり、やっぱり、切ないよ。

二人の逃避行が終わったのは、老人が孤独死している貧しいアパートに侵入してしまったからだった。老人の部屋にメモ書きされた電話番号は息子夫婦のものだったけど、旅行中でつかまらず、二人は老人の遺体を丁寧に清め、庭に埋葬する。
電話の着信で息子がかけなおしてきたりしてたし、すぐに駆けつけてくることは予測できたのに、二人はいつものようにそのアパートでくつろいでいるもんだから、殺人と死体遺棄の容疑をかけられてしょっぴかれてしまう。
でも、こんな段になっても、二人は何ひとつ申し開きをしないのだ。
ただ切なく、視線を絡めあうばかり。

だってもう、この時点では、二人は思いを確かめあっていたんだもん。
静かな寺社に忍び込んだ時、二人寄り添って座って、お茶を淹れて、なんだか時が止まったようで。
そして卓の下で、彼女は彼の足に、そっと自分の足を重ねる。卓の下の足、というのが、何ともひそやかである。彼は吸い寄せられるように彼女の唇に自分のそれを重ねる。言葉なんて、必要なかった。
彼女は最初、夫に殴られて右目が痛々しく腫れ上がってた。彼と逃避行を続けるうちにその傷はだんだんと癒えてゆき、まっさらになった時、全ての過去と決別した。
彼は最初から過去などなかっただろう、その彼と一緒に生きていくことを、傷(過去)の消えた彼女は、もうこの時点で決心していたんだ。

ところで、二人は結構年の差があるんである。劇中でそんな設定は言われないけど、役者同士では女優の方が12も年上である。これは絶対意味があるよね、と思う。
だって、女は男と違って、ある程度年齢を重ねると……具体的に言うと、結婚すると、とか、30を超えると、とかすると、諦めてしまうんだもの、いろんなこと。
そういう、世間の線引きや、定義が、昔から出来上がってしまってて、それを突破するのは、とても難しいんだもの。
だから、このソナの決断は、とても重いものだった。若く、行動力のある青年が突然現われることによって運命を感じる、なんて、そんな安っぽい感覚じゃない。運命があったのだ、そこには。
そのソナを愛してしまったことで、テソクが決断したことも、また凄まじく重いものだった。
いわば、彼女のために、彼は死と同等のことを、選んだんだもの。
しかし、死ではない。彼女にとって彼は生きている。こんな究極の、彼女のためだけに生きるピュアラブが、あるだろうか。
なんだか、夢見ちゃう。ソナと近い年齢の私は、こんなあるわけないことに、ひどく心を奪われてしまう。

その方法とは、徹底的に人の死角に入り込む術を身につけることだった。
収監中に、彼はその方法を徹底的に叩き込む。もともと何の証拠も残さずに不在宅に入り込んでいた彼だったんだもの。今更自分の存在を消すことに迷いはなかった。
……いや、今までは一抹の迷いはあった。あの記念写真はそれを物語ってたけど、彼女を愛したことで、彼女にさえ自分が認識されればそれでいいと思った。
なんて、究極の愛なの。ギリギリの孤独だけど、ギリギリだから、これ以上ない純度の愛。
究極の愛を得ようと思ったら、究極の孤独も受け入れなければならないのか。
でも、究極の孤独だけで生きていた彼にとって、その上にプラス、究極の愛を得られるなんて、素晴らしい幸せに違いないのだ。
だったら、私たちは?それなりの孤独とそれなりの愛と、タイクツしないだけの娯楽で気を紛らわして、それが幸福なの?

二人が捕まった時に、つまり殺人容疑とかかかってたんだけど、結局調べてみて、あの老人の死因はガンだと判明した。
しかも侵入した不在宅の住人はいずれも、盗られたものもないし、特に被害はない、と証言した。
調べていた若い刑事は「肉親よりも丁寧に、遺体をきちんと清めて、埋葬して、悪い人間には見えませんが」と言う。でも老練な刑事はそんな青二才を一蹴するのね。
このベテラン刑事は、ソナの夫から袖の下をもらってて、テソクへの意趣返しに協力したりするクズなわけ。
でもそのことが、テソクの心に火をつけることになる。完璧な方法でソナを奪うこと、そのことをこの屈辱で彼は思いついたんじゃないのかな。

フツーのこうしたセツナ系の映画なら、ソナはテソクの出所を待ちわびているわけだし、出所したテソクがソナを連れて世界の果てまで逃げていく、みたいな、ハッピーエンドなんだかそうじゃないんだか判んないラストが用意されがちじゃない。
でも、きちんと、ハッピーエンドなの。完璧な。
刑務所の中で監視官をからかうように、いかに相手から姿を消すかの鍛錬をしていた彼、さながら中国拳法のように足音をたてず、影も気にして。
彼に再三“おちょくられた”と感じて、「影が映ってるぞ、まだまだだな」などと、心ならずもアドヴァイスを授けてくれた監視官によって、彼は鍛えられた。
そして、釈放された彼は、彼女とめぐった家々を、習得した技を確かめるように渡り歩くのだ。

気配は、気取られる。誰かがいると感じて、彼らはおびえる。それは、不法侵入したことさえ気取られずにいた以前と正反対である。その存在自体、否定されていたような以前とは違う。気配をあえて気取らせているように思える。オレは存在しているんだと。
でも、それを本当に、リアルにそうだと感じることが許されるのは、愛する彼女だけ。
この渡り歩く中で、二人が愛を確かめ合った、あの寺社?がホント、いい雰囲気なんだよね。
彼女もまた、彼が後に再訪するのを予測していたかのように、先に訪れていた。黒いノースリーブのワンピースにシャレたヒールをはいてオシャレして。
彼女が突然訪れて、ソファで居眠りしても、家主は何も言わず、そっと寝かせてくれた。ここの夫婦は、他と違って本当にイイ雰囲気なんだ。

他と違って……そう。テソクがなぜこんな生活をしているんだろうと思ってたのだ。それは彼には感じられない、家族のぬくもりを求めているようにも見えたんだよね。
それを求めて、不在の家に入り込み、家族の写真を興味深げに眺めたりしてたんじゃないかって。
でも、不在の家は、それなりに家族の写真が飾られてたり、雑然とした生活の匂いが残されていたりと、暖かな家族の影が見えるようにも思うけど、帰宅した彼らは決してそうとは限らないのだ。
夫婦喧嘩の末、彼が修理した銃で撃たれてしまったかもしれない妻もいるし、孤独な生活をしている父親をほっておいて旅行に出かけてしまう息子夫婦や、相手を束縛しようとして痴話げんかを繰り広げるカップルもいる。

そういえば、こんな事件があった。不在を確認するまでのヒマつぶしに、彼は手製のゴルフバッティングマシーン(ゴルフボールに穴あけて針金を通して輪っかにし、街路樹にくくりつけたやつ)を打っている。そのボールとクラブはソナの夫のものをくすねたものだ。
しかしある時、針金からボールが外れてしまう。車の中の、若い夫婦の妻の方に命中してしまう。血だらけの妻に取り乱す夫を呆然と見やるソナとテソク。
その場から逃げ出したテソクはもう、泣き出してしまって自分をコントロールできない。そんな彼をソナがそっと無言で(ずっと無言だけど、この時の無言は、しみた)抱きしめるのだ。
そう、彼らが遭遇した中には、しょーもないカップルもいた。でも、テソクが重傷を負わせてしまった女性とその相手がそうとは限らない。自分が、心から愛する人を見つけたから、テソクは罪の重さを感じるのだ。
だから、誰かを思うのって、大事なんだ。
片思いでも、家族への思いでも、何でもいいから。誰か、大切な人を思うことって、大事なんだ。

だからね、だから本当に……このラストの“オチ”には幸せな気分にひたりながらも、ただただ呆然とするしかないわけ。
ソナの夫は、気配には気づいてる。でもどうしてもその姿を捕まえることは出来ないし、だからまさかと思ってる。そりゃそうだ。人間は目に見えるものしか実在と認定しないんだから。
だから、テソクはソナの前にしか姿を現さない。彼女を“迎えに行った”あの日、彼女は彼を鏡の中に見つけて、この世で最高の幸福な笑顔を見せた。
でも夫は、誰かいる気配には気づいているのに、この事態には気づかず、彼女の「サランヘヨ(愛してる)」の言葉が、自分に発せられてると思って全てを解決してしまうんである。彼女の視線は夫の肩越しの、彼を見つめていたのに。
夫が彼女を抱きしめ、その肩越しで彼と彼女がひめやかなキスをする……!
映画史に残る、屈指のキスシーンに違いない!!!!!

朝になる。いつもは夫に冷たく接していた彼女が、何品もの朝ごはんを用意してる。えらく上機嫌である。
夫はいぶかしげながらも、幸せそうである。なんたって、初めてサランヘヨと言われたんである(自分が言われたんじゃないのに)。
微妙にズラしておかずを勧めるのは、夫の後ろのテソクに対してである。夫の出勤後、もう気兼ねがないのに、恋人のふざけあいみたいよろしくギリギリまでかくれんぼして。彼女が大きく手を広げて彼を壁際まで追いつめる。そしてくるりと振り返って、幸せそうに目と目を見つめ、キスをする。
夫は気づかないんだろう。多分、一生。かなりミジメだけど、でも自業自得だし、このまま知らないままで暮らしていって、最後までいってしまえば、夫自身は幸せな人生ということになるのか。コワッ!

洗濯をね、自動洗濯機があるのに、バスルームで洗濯板で手洗いするじゃない。
テソクが収監されている間、通常の何不自由ない生活に戻ったソナが、あの頃みたいにバスルームで手洗いするんだよね。で、彼女の夫が、観客の私たちが思っていた疑問を口にする。「洗濯機を使えばいいのに」って。
でもあれって、家を使わせてもらった感謝の思いが込められていたんだよね。そしてこの時の彼女にとっては、彼への思いが、あったんだよね。
こういう、ちょっとした時代錯誤的な描写が、純粋な愛をリアルに昇華するんだよなあ!

こんなことって本当にありえるのかな。ファンタジーだけど、確かに今の世が、自分が思ったとおりの現実かどうかなんて判んない、って思うことはある。
なにより、ギューンとくるのは、二度も直した体重計に、二人一緒に乗っている、足元だけが映ったラストである。
素足が互い違いに乗ってて、つまりはしっかりと抱き合っているであろう、スクリーンから見切れた上を想像する。
その体重計はゼロを表示しているのだ。
二人はこの世に存在しない、二人だけの世界に存在しているんだ。★★★★★


UDON
2006年 134分 日本 カラー
監督:本広克行 脚本:岡田俊平
撮影:栢野直樹 音楽:Jin Nakamura
出演:ユースケ・サンタマリア 小西真奈美 トータス松本 鈴木京香 木場勝己 升毅 片桐仁 要潤 小日向文世 江守徹 水沢翔太 二宮さよ子 明星真由美 森崎博之 中野英樹 永野宗典 池松壮亮 ムロツヨシ 与座嘉秋 川岡大次郎

2006/9/14/木 劇場(有楽町日劇2)
てっきり昨今の讃岐うどんブームから出た企画かと思いきや、監督が香川出身でずっと温め続けてきた企画だというんだから驚く。しかも弟さんがうどん職人で、この企画に協力してるとか、へえー、と感心、感心。
しかも彼、日本映画学校だったのね。それも知らなかった。今回は数少ない香川出身の有名人「うどんの国の王子様」であるナンちゃんは当然出演しているわけだが(彼はずーっとうどんうどん言ってたもんなあ)、学校ではウンナンと同時期(イッコ下)、当然面識あったんだろうなあ、などといろんなことに「へえー」と思って楽しくなる。

香川が舞台の映画、そしてうどんといえば、もう真っ先に思い出してしまうのは、やはりアレ。一番好きな映画は?ってなムチャな質問をされる時、代表選手になってもらっている、大好きな映画「青春デンデケデケデケ」である。もー、これはホントに好きでねー。「ほんならのー」がしばらく口癖になったほど、何度も観たもん。讃岐弁で女の子をナンパ出来るぐらいマスターしろ、と言われたかの作品の男の子たちほどには、本作の讃岐弁がネイティブっぽくないのがちょっと惜しいところ。
デンデケでも言ってたわ、「マックは(今も)ないけど、うどん屋だけはやたらとある」んで、バイトの昼ごはんも、喫茶店代わりにダベりに寄るのもうどん。彼らも散々食べてた。本当に香川のソウルフードなのね。

本作はなんと言っても、もリーダーご出演が大きいわけだが、それを聞いた時は驚くより、あまりにらしすぎて笑ってしまった。もう本当にうどんを愛してたもんねえ、リーダー。しかしビーッグバジェット!ポスターにもきっちり名前出てる!でも思ったより出演はちょっとだけど!やっぱり顔大きい!
などと感動しているところに、いきなり虚を突かれてよーちゃん出てくるし!ええっ!ビックリした!よーちゃんが出てるなんて聞いてないよー!アスパラ携えていきなりうどん屋に入ってくる。アスパラのてんぷらが乗ったうどん、めちゃめちゃウマそうだ……。
しかしさすがはフジテレビ制作だよなー、よーちゃんで驚くヒマもなく、枚挙にいとまないほどのゲスト出演の嵐!あまりに知った顔ばかりがこののどかな町を通り過ぎていくもんだから、なんか正直、情緒を感じるヒマはなかったりして。
とかいいながら、麦畑や貯め池が点在する、こののどかな風景の、ことに我が福島の信夫山をおもいださせるよーな、まろやかで可愛らしい山がいつでものーんとそこにある風情はなんとも心休まるんである。山脈じゃなくて、ひとつだけのお山がそこにある風情がなんともほのぼのとするのよね。

しかし主人公の松井香助(ユースケ・サンタマリア)は「ここには夢がない。うどんしかない」という捨て台詞を残して、家を出た。NYへとスタンダップコメディアンを目指して。
製麺所を営んでいた彼の父親は、殊更に不器用な男。うどんを打つしか能がない父親の姿に、香助は自分はああはなりたくないと思っていたのだ。
しかも、このガンコ一徹な父親にひたすらついていった母親が早くに亡くなったのも、その心労のせいだと香助は思っている。
今、夢破れて香助が故郷に帰ってくる。地元では有名人だったらしく、着いた早々から彼を発見した後輩が写メールで証拠写真をとって、慌てて仲間たちの元に飛び込んでくる。「香助先輩が帰ってきた!」

とまあ……こんな風に始まる。そして香助が親友、鈴木庄介(トータス松本)の斡旋で地元のタウン誌にバイトで入るようになって物語が回りだすのだが、そこから讃岐うどんブームが生まれ出すあらましは、ひょっとしたら実際にあったことなんだろうかと思われる。
だってね、劇中で彼らが匿名で記事を書いているペンネーム「麺通団」が、ラストクレジットにしっかり記されているんだもん。
そして当地で火がつき、東京まで飛び火して、現在に至る、と。なかなかに興味深い。

主人公がNYで挫折して……っていうあたりはいくらなんでもフィクションだろうけれど。東京で、じゃないあたりが随分と大げさだけど、この設定のためにNYロケしてしかも上空からのショットまで撮っちゃってさ。讃岐うどんの話なのに頭とケツがNYっつーのは、世界の対照性を狙ったんだろうが、なんともはや……。
でもまあ、この香助という男、別に芸人になりたいという強い夢があったわけではないらしい。あくまで田舎にはない夢を追いかけている男。ラストには特撮スターになってるみたいだしね。しかしキャプテンうどんでブレイクは出来ないだろうと思うのだが……。

まあ、その話は置いとこう。タウン誌で同僚となる宮川恭子(小西真奈美)とは、その前に会っている。山中で車がエンコした香助は、通りがかった彼女の車に助けを求めたのだ。しかし突然熊が出現、結果、車は崖からダイビング!
奇跡的に助かったはいいものの、天才的な方向音痴で人生も迷い道ばかりの彼女のナビは迷宮に入るばかりで、二人は山中を遭難状態。しかしその間、この不思議に人を安心させる青年である香助に、どこかバランスの悪い恭子は何とはなしに心惹かれるようになるんである。
そうなのね、彼女の方はなんとなく、香助に心惹かれている風情があるのよね。でもこれは恋愛映画ではないからそれはなんとなく示される程度。香助の方は彼女の才能を評価しつつも、そういう感情には至らない。で、多分庄介は恭子にホレてるんだけど、彼女はそれに気づいていない。

そんなほのかな感情のアヤもありつつ、あくまで物語はうどんなんである。
タウン誌の売り上げが伸び悩む事態を打開するために、香助が考案したのは讃岐うどん特集だった。旅行客が本場の讃岐うどんが食べられる店を捜しているのに気づいたから。
この街には何よりもうどん屋があふれているというのに、タウン誌はオシャレな店ばかりを紹介して、一番身近なソウルフード、うどんを紹介するなんて発想すら生まれなかったのだ。
しかも、各地に点在するうどん屋めぐりに、彼らはすっかり熱中する。しかもそのシンプルかつ奥の深い美味しさに、ハシゴしても何杯でもイケちゃう。
その感動は、今までのような掲載方法では伝わらない!と記事は会話形式、地図も写真も一切載せないという手法に出て、これが大当たり。食べてる臨場感とミステリアス、謎解きの楽しさがあいまって、麺通団のうどん屋を探し出す読者がどんどん現われたんである。

なあるほどねー、と思う。確かに写真を見てもう行った気になるっていうのって、判る気がする。しかも讃岐うどんを食べさせる「店」というのは、常識的な感覚では図れないんだもん、確かに。
あくまで製麺所であって、学校や病院に卸すのがメイン、食べさせるのは副業、しかももうけナシ!というスタイルの店が多く、看板すら出ていないから見つけ出すのは非常に困難。そんな中、うどん屋を捜すには、エントツを捜せ!というアドヴァイスは確かにナイス。それがなければただの掘っ立て小屋にしか見えないんだもん。
地元の人でさえ、うどんを食べさせる店を完全に把握していないのが現状の、まさに未開のうどんワールドなんである。

そこに、救いの手が伸びる。ハガキ整理のためにアルバイトに入っていた男子高校生たち。彼らが差し出した名刺には「うどん部」!!う、うどん部!なんてステキ!?しかも体育会系で、石段上り下りの、厳しいトレーニングあり!なぜかといえば、「うどんは炭水化物ですからね。エネルギーを消費しないと」すっ、ステキ!
実に500店を網羅したうどん屋ファイルを持っている、この強力な助っ人を得て、タウン誌は月刊から隔週刊へとステップアップ、そのブームは全国へも飛び火し、夏になるとオートバイ野郎や観光客が讃岐うどんを食べにゾクゾクとやってくるようになる。本当に「食べ歩き」を実践して、駅から4時間もかかった……遠すぎる……とバタリと倒れるお遍路装束の青年まで。本当にうどん巡礼!
その中には川岡大次郎クンのお顔もある。ああー、大ちゃんが出てる。相変わらずカワイイなあ。「サマータイムマシン・ブルース」にも出てたもんなあ。嬉しい。監督、今後も彼を使ってほしい。ていうか、主演映画のひとつも撮ってほしい。

一方で、香助のおやじさんはそんなブームに乗ることもなく、いつものように黙々とうどんを打っていた。
それを窓からコッソリ覗き見てワザを盗もうとメモをとっているのは、香助の姉のダンナである良一(小日向さん♪)。彼はサラリーマンなんだけど、実はうどん職人になりたいらしい。でもそのことをなかなか言い出せずにいるのね。
その製麺所の裏手の窓から覗いている小学生の男の子に気づいて、おやじさんはうどんをひと玉ゆでて渡してやる。満開の笑顔で受け取るその子は、ちゃっかりはしを準備してるのがカワイくも可笑しい。
しかも、後に友達まで連れてくる(笑)。
家庭に事情があるのかなあ……などとしんみり推察される。

一方で、ブームはどんどん拡大して、ついにはうどんフェスティバルなるものまで開催される。あまたのうどん屋の味を当てる利きうどんや、メニューの計算クイズなど、カルトなクイズに大盛り上がり。ああっ、リーダー、惜しいところでチャンピオンの座を逃がす!いやー、リアクション大きいなあ、リーダー(笑)。
フェスティバルは無事終了、そこで庄介がぽつりと言うんだよね。「これがいつまでも続くとは思わん。祭りはいつかは終わるんや」彼は農家の長男、いつかは継がなければならない。この街から出て行けない彼は、それまでの間に大きな花火を打ち上げたかった。そして親友の香助が帰ってきた。「この夏は最高にオモロかったわ」
そうなんだよね、香助は同じペースで続けていく人じゃないんだ。いわばエンタメ映画の人。起承転結つけたら去っていく。

「ヒットは仕掛けられるけど、ブームは仕掛けられない。ブームは火がついた時が頂点。あとは落ちる一方」
大物プロデューサー?のウンチク通り、その後うどんブームは沈静化していく。
ブームでお客さんが押し寄せて、対応しきれなくなって、うどんの太さに妥協してしまう店、あるいは閉めてしまう店。
どちらも、マスコミが押し寄せている築地で、あまりにもよく聞く話だ……。
マスコミに死ぬほど出ていて、有名人も通うほどの有名店のラーメン屋だけど、実は味の素をどっさり入れてるし、客が多いとスープがぬるいし。
一方で、なんと言われようともマスコミの取材は受けない店もある。それは、「客が押し寄せて、常連さんに迷惑がかかるから」
ほんと、どこでも図式は同じだね。
ここに出てくるうどん屋さんは、じっくり腰を落ち着けて食べるというより、客の回転は早いから、そういうことはあまり考えないままノッてしまう部分もあったのかもしれない。

そんな中、香助の親父さんが突然、死んでしまう。
実はその前に香助は、親父さんと大喧嘩をしていた。香助の借金を親父さんが勝手に返してしまったから、と。
本当は、素直にありがとうと言いたかったのに、言えなかった。
「確かにお父さんは不器用やった。うどんを打つことしか出来なかった。でもこれだけの借金を返すのに、ひと玉65円のうどんをどれだけ打ったと思うん」という姉の言葉がなくたって、判っていたはず。
ようやく返すだけのお金がたまって、親父さんと向き合おうとする香助。この店を継いでもいいよと言ったその声は、届いていなかった。急性の心筋梗塞で、倒れてしまい、帰らぬ人となってしまった。

香助の姉は、店を閉めることを決意する。親父さんの味は誰にも作れないから。
でも、あの小学生の男の子が、「休業します」の張り紙に「松井のおじさん」へのメッセージを書き込んだのをキッカケに、松井うどんファンがゾクゾクと書き込み、ついにはノートまで用意され、そのメッセージはふくれあがっていった。
香助は、親父さんの味を再現してみようと思い立つ。猛反対の姉。でも香助は49日の後、店に業者が撤去しにくるまでに満足のいくうどんを作り上げることを条件に、この無謀なチャレンジに挑むんである。

本当は姉のダンナの良一がずっとやりたくて、でもずっと言えずにいた。うどん素人の香助をハラハラしながら見守っている。その背中に、「教えてあげたら」と姉。
彼女は知ってたんだな、ダンナがうどん職人になりたかったこと。「やっぱり、香助君に店を継いでほしいの」とここんところはなかなかにフクザツなダンナ。「ハンパな気持ちでやってほしくなかったのよ」と彼女。
よおし、と香助と恭子のうどん作りに参画する良一だけど、ヒミツのメモは大して役に立たなくてガックリくる(笑)。このあたりは小日向さんのキャラらしくてカワイイ。
本当に役に立つのは、主人公がやってきた取材なんだよね。友人たちがウワサを聞きつけて押しかけてくる。なかなか親父さんのうどんの味を出せない香助に、庄介が差し出したのが、あのうどんファイル。松井うどんの麺、スープに似ている店に、教えを請おうというわけだ。

見事、親父さんのうどんを再現した香助は、親父さんの夢のお告げで、また夢に向かってこの家を出ていくんである。
結局、このお義兄さんのために道を作ってあげたようなもん。香助はこのままうどん屋に残るのかと思ったし、それって故郷は帰ってくるところで夢のないところ、と断じているみたいであんまり気に入らないけど。
でもこういう人っているよな。故郷は自己実現の出来る場所ではない。帰ってくる場所でもない。言ってみれば、逃げてくる場所。
一方、香助の姉の万里は、お父さんの気質を受け継いだ人。でも弟が家業に何らかの形でかかわることをどこかで望んでたから、うどんを打つことに表面上は反対しながらも、見守ってた。そしてうどん屋を継ぎたがってたダンナに橋渡しした。つまりお姉ちゃんは何もかも見えてて、上手く舵取りをしたってことかあ。

かくして、香助は店を姉夫婦に託し、また旅の空に出る。その日は業者が来るはずだった日。いつの間にか、新規オープンの日だとまことしやかにウワサされていて、松井うどんのファンが各地からぞくぞくと集まってくる。
カット変わって、飛行機の中の香助。ふと窓から外を見やる。まだ讃岐の上空からそれほど遠ざかっていない。目を凝らす。驚きと笑いが入り混じった顔。え?何?
そう、上空からもハッキリと判るほど、そののどかな地形のあちこちから、松井うどんに向かって放射状の行列が出来ている!
駆けつけた麺通団のメンメン。驚きの目を見張りながら、
「またブーム?」
「いや、これは違う。これは奇跡だ」
飛行機に乗った彼から見えるほどの大行列かよー。
……判る人にだけ判ってもらえればいいんじゃない。これはやりすぎのような……。しかしNYと讃岐のギャップのように、とにかく東宝印の壮大さが求められているのかなあ。

そして数年がたち、それぞれのメンメンのその後が描かれる。
バーを開いたり、研究所に就職したりと、それぞれの道を歩んでいるけれど、やはりそれぞれにうどんからは離れられない。バーではメキシカンうどんを出してるし、研究所ではうどんの研究しているし。
そして、恭子は念願の本を出版した。かつての回想録であろうか、まんま「UDON」という本。

そしてそして、香助がどうなったかというと……。
超絶方向音痴の恭子が、無謀にもNYの街角に立っている。「迷わず着いた……」大きなアドスクリーンに大写しになるのは、香助!っつーか、ユースケ・サンタマリア!おーい!こんな大胆なことするかあ!「キャプテンうどん」!うっ……これはちょっとなあ……。
このキャプテンうどんには監督、並々ならぬ情熱を注いでて、劇中でも物語には何ら関係ないのに、ハリウッドアメコミ原作、みたいな特撮映像入れてくるし。まあ……ギャグなんだろうけど。
でもやっぱり、恭子は香助となのね。庄介とくっついてほしかったなあ。

メガネがフェチ心をくすぐり、方向音痴というのもどこかフェチっぽい小西真奈美が実にキュートだった。彼女自身が心がけたという、おいしそうに食べるのではなく、ただひたすら必死に食べる、というのが、うどんの美味しさを凄くよく伝えてて、しかもなんともはや可愛いのだ。
確かに観ると食べたくなる……。正油を回しかけ、生卵の黄身をうどんにからませると……キャー!もう、たまんなーい!
東京の讃岐うどん、いくつか食べたけど、美味しいのに当たらないの……やっぱり本場じゃないとダメなのかしら。★★★☆☆


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