home!

「ま」


2008年鑑賞作品

マイ・ブルーベリー・ナイツ/MY BLUEBERRY NIGHTS
2007年 95分 フランス=香港 カラー
監督:ウォン・カーウァイ 脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:ダリウス・コンジ 音楽:ライ・クーダー
出演:ノラ・ジョーンズ/ジュード・ロウ/デイヴィッド・ストラザーン/レイチェル・ワイズ/ナタリー・ポートマン


2008/5/9/金 劇場(シネカノン有楽町1丁目)
前作の「2046」をスルーしてしまったので、ただでさえ寡作なカーウァイ作品は久しぶりに観る。「2046」をなぜスルーしてしまったか……まあそれは……あまりにスターばかりを揃えててキャスト見ただけで胃もたれしそうになったから。
ま、つーか、キムタク氏ご出演というのがどーにもこーにも、いくらカーウァイファンといえどものみこめず。うーむ、うーむ、どうしてもアンチキムタク体質なのだよ。あまりにベタにアイドルスターすぎるのだよね、彼は。

まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。でもさ、カーウァイ監督に出会った頃はホンット、ハマったんだもの。「楽園の瑕」なんて、この映画と共に一生過ごしてもいいと、書き残したぐらいだった。キムタク氏が出演することが、そんなカーウァイ作品への思いを踏みにじられたように感じたのかも……勝手な言い草。
カーウァイ監督は海を渡り、初めて欧米の、別の言語での映画を撮った。彼のキャリアから考えれば遅すぎるほどだったかもしれない。
そして、こうして久しぶりに対峙してみて、永遠の蜜月かと思っていたクリストファー・ドイルもスタッフから落ちているのにも驚いた。まあ、敵地で、純粋に戦いたかったのかもしれないけれど、彼のキャメラがカーウァイの世界を作り続けていたから、意外だった。

そしてもうひとつ意外だったのは、その勝負作が、鬼才、ウォン・カーウァイを匂わせない、作家的世界を振りかざさない、かなりスタンダードな作品だったこと。
アメリカという国が奇抜な作家主義にアレルギー体質を持つ場所だということもあるけれど、それでも近年は個性的な作家たちの作品も評価され、ヒットしているから、カーウァイ監督がそうした流れにあえて乗らず、個性を殺したことが、意外だったのだ。

ただ、作品が甘い恋愛映画的な宣伝のされかたをし、宣材写真にも使われているラストのキスシーンからイメージさせる方向とはかなり、違っている。
いや、確かに彼女は最後、彼の元へと帰ってくるけれど、そして彼のキスを、眠っているはずなのに、そうまるで大好きなブルーベリーパイを頬張るように美味しそうに受け入れるから、恋愛映画としては充分、成立しているんだけれど、彼と彼女のシーンはオープニングトラスト、尺的に言えば4分の1にも満たない。
メインは彼女が元カレとの恋に破れ、自分を生まれ変わらせるための、一年近くに及ぶ旅路なのだもの。

ジュード・ロウ扮するジェレミーが経営するカフェに、一本の電話がかかってくる。ミートローフを注文した男はいないかと。あるいはポークチョップ。それならばいたと彼は応える。二人分をたいらげた?いや、彼一人じゃなかったからねと。
電話の彼女が店にやってきた。もちろん、一緒にポークチョップを食べた女ではない。その男に裏切られたエリザベスだ。ウワキされたことに激怒した彼女は、カレの部屋の鍵を「彼が今度来たら返しておいて。バカヤロー!って伝えて」と憤然と出て行く。

そしてもう一度、彼女は訪ねてきた。やはり、というか、当然というべきか、その鍵を彼は受け取りに来てはいなかった。というか、彼女に連絡もないらしい。
もう興味の対象外なのだ……彼の部屋の窓に、新しい女をエリザベスは見つけていた。
エリザベスは、カフェでジェレミー相手にいろんな話をした。この店には様々な鍵が残されている。年老いた女性が残していった鍵は、もう持ち主は死んでしまったかもしれない。そしてジェレミー自身の鍵も。
彼よりも夕陽に恋して、去ってしまったロシア人の恋人。それでもジェレミーは鍵を捨てられないのだ。
「捨ててしまえば、その扉は永遠に閉じたままだ。そんな選択を僕には出来ない」

それは、そのロシア人の彼女が残した言葉だったのだ。
思えば彼は、恋したエリザベスのこともこのカフェでずっと待ち続けているのだし、店の防犯カメラに映った映像を眺めているのが好きだという、まあ……言ってしまえばちょっとクラい青年かもしれない。演じているのが稀代の美青年、ジュード・ロウだからウッカリ見逃しちゃうけど。
最終的にジェレミーが、一年近くも行方をくらましていたエリザベスを思い続ける拠り所となったのが、彼女からの差し出し場所の判らない手紙と、その最後の夜となったビデオだったんだから。

その時ジェレミーは、そっとエリザベスにキスをした。キス、より、エロかったかもしれない。彼女の口の回りについた、ブルーベリーパイのクリームをなめとった。
カウンターにつっぷしてムジャキに寝ている彼女の、その唇はスクリーンに大写しになると更に官能的で、見てるこっちもドキドキする。吸い寄せられるように彼女の顔に覆い被さる彼の気持ちが、判り過ぎるほどに判る。
オープニングでは、キスシーンとしては提示されなかった。彼女の顔に影がささって、画面がブラックアウトするかと思いきや、また彼女の寝顔のアップになり、唇の回りについていたブルーベリーパイの残骸が消えている。
そのビデオをジェレミーは何度も何度も、見続けていたんだよね……。
真っ赤なジャムの中を、白い混濁したアイスクリームがとろけていく様が画面いっぱいに現われるショットが何度もインサートされる。ひょっとしてこれはその後何かがあった暗示?これがまたたまらなくエロティックなんだよね。

その夜からぷっつりと、エリザベスの消息が途切れるのだ。
彼女は、今までの自分を変えたかった。捨てられた恋人に引きずられたくなかった。
先日観た某アニメで「男の恋は別名保存。女の恋は上書き保存」っていう台詞があって、コリャ名言だなと思った。
男は並列で恋が出来る。ジェレミーが昔の恋人のロシア女性を今でも引きずってて、恐らくエリザベスとの恋が成就しても彼女を忘れることがないと推測されるのに対して(だから、ジェレミーはここを離れようとしないのだろう)、エリザベスが、新しい恋の予感を感じながらも、元カレをとにかく吹っ切りたい一心で旅に出たのが、ああ、まさに顕わしているなあ、と思うのだ。
な、具合の物語展開なので、ちょっとしたオムニバス風なんである。うう、それを知ってたら私、観に来てなかったかもなのに(爆。だってオムニバスって、その本数分って感じで、見るのも考えるのも書くのも疲れるんだもおん)。

最初に降り立った土地で、それこそザ・別名保存って感じの男にエリザベスは出会った。
その名はアーニー。エリザベスが働き始めた安酒場で飲んだくれている彼は、毎日、これが最後の酒だと言って、勘定を(これは後で判ることなんだけど)別れた女房にツケていた。
昼間、エリザベスはダイナーで働いているんだけど、そこにも顔を出すアーニーは、夜の、哀しく酔いどれている感じとは全然違ってて、街を守る警備員として、人々の信頼も得ていた。
なんか、彼と別れた女房の事情は、周囲の人間は皆判っている風なのだ。

エリザベスが昼も夜も働いているのは、車が欲しいからだと彼女は説明しているけれど、実際は、心の傷が癒えなくて、眠れないから。そんなこんなの心の移り変わりを、彼女はジェレミーに当てて手紙を書く。
エリザベスが姿を消して意気消沈していたジェレミーは、手紙をもらって舞い上がり、消印のある街の飲食店に片っ端から電話をかけてみるけれど、まあそんなことで彼女が見つかるはずもなく……。

エリザベスがジェレミーに手紙を書き続けていたのは、勿論彼に対して心を開いていた、開ける相手だと思ったからだろうけれど、ただジェレミーが有頂天になるほどには、まだエリザベスの心の中に彼はいなかった、んじゃないかなあ。
彼女は自分自身を客観的に見たくて、第三者的視線が必要だったわけで、そのために手紙という手段を用い、ジェレミーに託したのだ。
勿論、その相手がジェレミーだったことが、重要だった訳だけど。
なんだかこの時点では探し回るジェレミーと、静かに浄化される時間を待っているエリザベスの温度差を感じて、ちょっと悲しい。

アーニーは、結局、自ら命を絶ってしまった。表向きは事故ということだったけれど、明らかに自殺だった。
何度も断酒に失敗しているアーニーは、女房という、自分にとっての最大のトラウマを克服することが出来なかった。勿論、それだけ愛しているからだけれど、でも……新しい人生を踏み出せない言い訳にしていた、ような気もする。上書き保存が出来ない言い訳。
別名保存も、その思いが強すぎると、出来ないのだ……。忘れることも、思い出にすることも、出来ない。

その元妻、スー・リンは、一見いかにもファム・ファタルな悪女に見えたんだよね。
思わせぶりにアーニーの行きつけの酒場にトイレだけを借りに現われたり、彼に見せ付けるように新しい男とイチャイチャしたり。
アーニーのことをウンザリだと、嫌っているように見えながら、彼の前から姿を消すことが出来ずに、後から思えばとっても未練がましかったんだもの。
アーニーの未練の方が外見的には強すぎるから一見、判んなかったけど、いつまでも離してもらえない彼女の方が被害者のように見えたけど、本当はそうじゃない。実は、似た者夫婦だったのかもしれない。

だって、アーニーが死んで、スー・リンは彼の行きつけの酒場にフラリと現われて、皆にアーニーを讃えるように叫んでた。
フラフラと出て行った彼女を、店主に命じられて送ってきたエリザベスの前で、涙を流した。
アーニーがスー・リンに残したツケを、最初こそ怒って突っぱねたけれど、キレイに清算して、その領収書を店に貼ってほしい、彼のことを皆が忘れないように、と彼女はエリザベスに託した。
スー・リンが今まで街から出て行けずにいたのを、「この街から出て行くのは、死んでしまうのと同じだから」と、彼女を見送るエリザベスのモノローグが何を意味していたのか。
それは、アーニーとの全てが消えてしまうという、意味だったのかなあ……。

そしてエリザベスが次に向かったのは、彼女が必死に貯めている程度の金額なんか、一夜にしてスッてしまう、ギャンブルの街。
昼夜が全く判らないような、一日中起きている不夜城。その街は、不眠症のエリザベスにうってつけ。
そこで、まさにその街にピッタリの女性と出会った。勝ち気マンマンで賭け金を張って、スッカラカンになってしまう、ハデな女の子、レスリー。

ダサいアロハシャツの男に負けてしまうのが納得いかなくて、でも軍資金がなくなってしまった彼女が、声をかけたのがエリザベスだった。
車を買うために貯めているお金が、ようやく2000ドルになった、という話に、目を輝かせる彼女。「勝ったら元金と儲けの三割、負けたら私のジャガーの新車をあげる」と持ちかけてくる。ヤバい……。
と思っちゃうのは、ベタなサギ物語に影響されすぎていたかしらん。最後の最後まで、レスリーに金を持ち逃げされるんじゃないか、置き去りにされるんじゃないかとハラハラだったんだもん。

最終的にレスリーが、「実はあの時、勝っていたの。大勝ち。コテンパンにやっつけたわ」と言ったのは、果たして本当だったのか。
実は彼女にエリザベスは、最後まで騙されていたんじゃないのか。
レスリーはね、エリザベスがあまりにも人の言葉をストレートに信じるもんだから、それじゃ人生渡っていけないわよと、忠告するのよね。とにかく人を信用しないことを信条にしてる。だからこそポーカーが自分の天職のように思ってる。
それは、その信条のせいでレスリー自身が辛い目にあってしまう結末を越えても、そう言うのよね。だからエリザベスはこのはすっぱな、というかちょっと強がりに大人ぶってる彼女の価値観を、そのまま受け入れることはないんだけれど。

ジャガーの新車をエリザベスに譲る替わりに、その車でベガスまで送ってくれないかと、レスリーは言う。負けてオカネがないからと言って。
でも負けたってのはウソだと、後に彼女は言った。誰かと一緒にいてほしかったのだと。確かにそれは本当かもしれない。結局、死に際に間に合わなかった父親と向き合う旅路に。
あるいはあの場所で彼女は待っていたのかもしれない。自分をベガスに連れて行ってくれる誰かを。
それは誰でもいいんじゃなくて……おそらく彼女の言うことをホイホイ聞いてくれるようなボーイフレンドなんかじゃなくて、父親からの電話を、彼女が「いつものように騙している」と言っても、本気にして心配してくれるエリザベスのような、純粋な女の子を待っていたんじゃないのか。

自分にポーカーの手ほどきをしてくれた父親。数を覚える前からトランプに親しみ、「パパの自慢は、私が10の次はジャックだと思っていたことよ」とレスリーは笑ってた。
本当は、父親が死にかけているなんて思いたくなかったからこそ、信じなかった。また騙して私を呼び寄せようとしていると言い募っているのは、本当に死にかけている父親に対峙するのが怖かったから……。
あんなに強気に見せておいて本当は、一人で病院に入っていけないほど、震えて外で待ってるほど、か弱い女の子。それをハデなファッションと濃いメイクで隠して……。

このジャガーは彼女が父親から「かっぱらった」ものだった。だからエリザベスに譲れない、形見だから、自分が乗り倒さなきゃいけない、とレスリーは言った。
そして、実は勝負には勝ったから、と、エリザベスに貸した金を返し、彼女は念願の車を手にすることになるのだ。 中古車販売の店での駆け引きも、「人の言うことを信用するか」という点で二人が最後の喧嘩をするのが、ちょっと微笑ましい。
もう、ニューヨークを離れて、300日以上がたっていた。 並んで走っていた車から、二人片手を出して振り、さよならをする。
ようやく、エリザベスは手に入れた車でニューヨークを目指すのだ。

手紙、というのは、すごくストイックで精神的なアイテム。心だけで一年間をつなぐ。
側にいたら、そんなこと、出来っこない。人間は、やっぱり欲望のイキモノだから。それが証拠に、約一年ぶりに再会したジェレミーは、彼女の甘い唇をむさぼり、それに彼女も待ってましたとばかりに応えるのだもの。
再会したエリザベスは、一年前と、明らかに違ってた。そうジェレミーは口にした。
エリザベスは、そうお?みたいに余裕の笑みを漏らす。おなかがすいた、といってステーキをペロリと平らげる。なんかエッチな意味あいがありそうでドキドキする。
対してジェレミーの方は、全然、全く、変わってないんだよね。この場所で変わらずにいることだけが、エリザベスと再会できる唯一の術だったから。そしてロシア人の元カノとも再会して、ようやく別名保存できるだけの余裕も出来たから。

エリザベスは、上書き保存だから。元カレに対しての自分ではない自分にならなきゃ、ジェレミーとの恋は始められない、のだ。
だから、エリザベスは明らかに前と、違う。失恋に泣いてた彼女じゃないのだ。

いつもいつも売れ残っているブルーベリー・パイ。捨てられるのが忍びないからと最初に食べた時は、エリザベスは自分をブルーベリーパイに重ね合わせていたように思う。
でもそんなの、パイに対しても、あんまり失礼だもの。だって、こんなに美味しいのに。
その後も売れ残り続けるブルーベリーパイをジェレミーが作りつづけたのは、勿論、いつエリザベスが帰ってくるか判らないからなんだけど、でもやっぱりそれは、彼女だけが食べてくれるブルーベリー・パイだから、なんだよね。客じゃなくて、彼女のためだけに作るパイ。

料理が出来る男って、セクシーだなと思うのは……なんか、飼育されているような、調教されているような!?感じがあるからかしらん。
しかもね、こんな完璧な美男子にね、アイスクリームを添えたブルーベリーパイなんて出されたら、まあそりゃあ、それってどういう意味?とか、意味不明なことを妄想しちゃう。

ロードムービーではなく、旅と距離がテーマなのだと監督は語ってた。
距離はもちろん、心の距離もってことだよね。「カウンターという距離がある」と、冒頭のことだけ監督は触れてたけど、ラストでもまだカウンターは挟まってる。カウンター越しのキスは変わらない。
でも、それは男と女の間の取り外せない距離で、それはそれでいいもんじゃないかなとも思う。
かけひきや、もどかしさや、切なさや、愛しさを産む、最低限ギリギリの距離。

ドイルは落ちたけど、夜の電車が何度も行き交うイメージや、濡れたようなネオンはやはり、カーウァイワールドを思わせる。
この深海のような都会を、泳いでいく人間たちを、見つめ続ける。★★★☆☆


真木栗ノ穴
2007年 110分 日本 カラー
監督:深川栄洋 脚本:深川栄洋 小沼雄一
撮影:高間賢治 音楽:平井真美子 采原史明
出演:西島秀俊 粟田麗 木下あゆ美 キムラ緑子 北村有起哉 尾上寛之 大橋てつじ 永田耕一 小林且弥 田中哲司 松金よね子 谷津勲 利重剛

2008/10/21/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
この監督の前作にして劇場用長編映画デビュー作「狼少女」は、その年の私のベスト作品の一つ(うう、それ以前の短編やオムニバスも観たい!)。デビュー後一作目を心待ちにしていた一人。
とか言いながら、「同級生」「体育館ベイビー」と二作も公開してるのに、全く知らずにスルーしてしまったことを、今更ながら知って、メッチャ悔しい!うー、公開作品が多すぎるんだよー、チェックし切れないんだもん!と責任転嫁……。
今年は内田けんじ監督と言い、吉田恵輔監督と言い、そうした監督の作品を観ることが出来て嬉しい。そしてその二人は二作目はカッ飛ばしてくれたので、さてこの監督はと(実際は二作目でもないのに(爆))ちょっとドキドキしていたのだが、

いいっ。

いや、ドキドキしていたというのは、予告編観た限りではなんだかおどろおどろしいホラーっぽくて、「狼少女」で大笑いしたこっちとしては、ちょっと意外なカラーに思えたから。
でも考えてみれば「狼少女」だって、そもそもの題材にはちょっと不思議で怖い秘密を覗き見たくなるという色があって、それって本作の、穴の向こうの他人の生活を覗き見たくなるというのとぴったり合ってるんだよね。
しかもそれが、最終的には主人公の妄想であることが明らかになる、つまり穴の向こうの他人なんていなかったことが知れると、更にその不思議さ、怖さ、白日夢のような奇妙さが、ますます共通するわけで。

……なんだかさらりと、いつものように、あっという間にオチバレしてしまったのだが。
あ、そうそう、この監督の作品というだけで小躍りする気持ちで観に行ったんだけど、西島秀俊主演、なんだよね。いつもだったらそっちの方が観たいウエイトを占めるのに。
だから、「狼少女」の監督と西島秀俊のコラボが、それこそいかに“奇妙”で“不思議”で興味深いかっていうことを、スクリーンに対峙してからしみじみと実感するんである。

だって、西島秀俊が、こんなマンガみたいな演技するなんて!あり得ない!!!
ていうか、やっぱり彼のルックスなり声なり雰囲気なり、あるいはそこから派生して今まで演じてきたスタイルなりが影響してたのかもしれないけど、彼って寡黙っつーか静謐っつーか、まあぶっちゃけて言っちゃえば暗めのイメージでさ。
あるいは冷静というか。どんな役柄を振られても、その役がどんなに困難に直面しても、取り乱したり激昂したり興奮したり、っていう印象があまりなかった気がするんだよね。
まあ、そういう西島秀俊が素敵だし、そういう彼を見たいという気持ちはあったから、彼はお気に入りの役者であり続けたんだけど。

でも思いがけないところで、全く予期していないところで、彼のそんなイメージが裏切られた。
いや、最終的に言えばね、この妄想というか悪夢というか、にどんどん浸食されて、顔色が死人のようになっていって、狂気に陥って“向こう”の世界に行ってしまう、どこか時代遅れの小説家というキャラ自体は、これ以上なく西島秀俊にピッタリだと思う。
私、彼が「純情きらり」で津軽弁まるだしの画家の役をやった時、ああ、この人に太宰治をやってもらいたい!と夢想して萌えまくったんだもん。

でも、あくまで最終的は、であって、劇中の彼はちょっと驚くほどのコミカルさを見せる。
論戦に負けそうになると、なんか昭和のギャグマンガみたいに、相手をビシリと指差して糾弾したり、奇声をあげて反論したり。
ああ、もう、この台詞の応酬なんてホントに爆笑してしまった。「キミだって穴があったら絶対覗き見するだろう。キミはウンコをしないと言っているようなものだ。あんな汚くて臭い物が自分の尻から出るなんて思いたくないんだ」
西島秀俊にウンコと言わせるとは……。
壁の穴を覗いているのを、「ヨガをやってるんだ」とごまかしたりする様もサイコー。ええ!?これが西島秀俊なの!!と笑いながらも驚いてしまう。しかもそれが妙にカワイイというか、ハマってるんだよね。

こういう魅力を、案外映画世界では引き出しきれてなかったのかなあ。もう彼も40になるというのに(!!劇中、彼がそう言って、そうだよな!と改めて驚いてしまった)、なんかもったいなかった気がする。でもこれからが楽しみだけど。
まあでもそれも、前半戦かな。後半は、そうした悪夢の世界に加速度的に、演出も役者も没頭していくから。
でも前半はホント、そんな噴きだしちゃう様な場面が満載でさあ。

昭和のマンガみたいと言ったけど、なんか世界感も昭和っぽいんだよなあ。主人公の小説家、真木栗勉が住んでいるのが、もう今にも崩れ落ちそうな木造のボロアパートだっていうのもそうだし。
部屋中、古めかしい本で溢れてて、魔法瓶と呼びたいポットとか、カップラーメンの食べクズとか、敷きっぱなしのタオルケットが丸まっていたりとかさ。もちろんエアコンなんてないから扇風機で、その扇風機も、まるで彼が子供の頃から使っていたのをここに持ち込んだようなアナクロさだし。

そして何より、彼が原稿を書いているのが、万年筆だっていうのがね。
いや、今の作家さんだって、皆が皆パソコンで作業をしている訳ではないのかもしれない。
でもそれこそベテランの作家さんならいざ知らず、まだ40にも手の届かない彼が、いまだ原稿用紙に万年筆で書いているというのが、このアナクロな環境もあいまって、ほんっと、昭和な感じだし。

そう、私、最初これ、そういう古い時代が舞台なのかと思ったのよ。だってヒロインが登場する感じさえ、そんな雰囲気だったんだもの。
このボロアパートを見上げていた女、ヒラヒラとしたフェミニンなワンピースに日傘をさしたスタイルは、ほんっとに、ありえないほどに昭和だった。いや、昭和どころか大正のデカダンさえも感じたぐらい。
だから彼女が、IT企業のダンナを支え続けた奥さん、という設定が出てきた時に、えっと驚き、真木栗の部屋のカレンダーが2007年を指していることに今更ながら気付いたのだ。

でも、このアパートは今や取り壊し寸前であり、しかし真木栗自身はそのことに物語も終盤に至ってようやく気付く有り様で。
そしてここに移り住んできたと思っていたそのヒロイン、水野佐緒里は、実際はその前に亭主の手によって絞殺されていたんであり……なんてことを考えると、なんかここに、引きずりまくった昭和の終わりを感じたりもするんである。

だって真木栗、仕事を干される寸前だったんだよね。冒頭、最後の原稿を渡した若い編集者は、口先ではホメつつも、その後の連載は最近賞をとった若い作家に任せると言い、その後の彼の出番もないと匂わせ、「先生、金ないんでしょ」と喫茶店の支払いを執拗に請け負う。
そりゃ、ここで払うのと払わないのではビンボーな真木栗にとって大きな差はあれど、彼のプライドを考えれば、ここは譲っても良かったんじゃないかと思う。
ってのを、編集者が差し出す一万円札と真木栗の丁寧に折りたたんだ五千円札を交互にレジに出す描写を、しつこいぐらいに繰り返すところから、コメディは始まっている。
でもそう……最初から、その可笑しさが、言いようのない敗北感につながっていることも示唆されている。

その五千円札で、真木栗は行きつけのラーメン屋での払いも済ませる。小銭では足りずに、そのなけなしのお札を出すところが、あまりに切ない。
店員の女が追ってくる。店主に気が効かないとこぼされていた、どこかぽーっとした女。彼女は真木栗の手をとり、「先生、銭湯に行くなら、私の部屋のお風呂に入っていかない?」とつかえつかえ、切り出した。
下手に出ながらも割と強引な彼女に手を引かれ、次のカットではちんまりとユニットバスの湯船に収まっているのも笑えるんだけど、そこにしずしずとその女が入ってくるのに、「え?ええ!?」とうろたえまくるのには更に爆笑。
いやいやいや、ついてきた時点で、遅かれ早かれこうなるのは予測できるだろ!つーか、うらやましいっつーの、キムラ緑子女史っ!

でもね、この女はどこか……その寂しさ哀しさが、真木栗に通じていたような気がしてね。
結果的には彼女は、こうして彼を引き入れた隙に連れの男に彼の部屋に泥棒に入らせていた。つまりはトンでもない女だったんだけど、彼にとっては忘れられない女だったんじゃないかと思う。
だって、実際は獄中で病を得て死んでしまったのに、彼は妄想の中で、訪ねてきた彼女と会うんだもの。

真木栗が妄想で体験することは数々あるし、メインはヒロインとのやりとりに他ならないんだけど、この女との邂逅が妙に心に残るのは、年がいってしまって男に相手にされなくなった女の悲哀、にシンパシイを感じるからだろうか(爆)。
そんなの年のせいじゃなくて、その人のせいだとは思うけど、それを年のせいにしたいぐらいに、落ちている女のさ(爆爆)。
しかしさあ、彼が泥棒に入られたことをラーメン屋のおばちゃん、知らずに「年増の女に連れ込まれた隙に、ドロボウに入られたんだって」と得々として語り、「その気になれば私だって、ねえ。遠慮しないで、食べて」と彼に山盛りの料理を差し出す。「……おばちゃん、今日、化粧濃いな」と真木栗が思わずつぶやくのが可笑しい。

真木栗の妄想の中で訪ねてきたその女が、あの時抱かれた彼に「全然、ダメなんかじゃなかったよ」と言われた時の、切なそうな中にも嬉しい気持ちがちょっと混じった「……ありがと」という台詞に、なあんか、色んな気持ちを感じちゃってさあ。
それは彼がきっと、気を使ってくれたんだろうってことも判ってる切なさと、目を見てそんなことを言ってくれた彼に対するキュンとする気持ちとさ。
「今日は抱いてくれないのね……冗談よ」と言って去っていった彼女の、その前半の台詞と間をおいた後の後半の台詞の、噛み締めた思いの変化を思うとさあ……。

でも勿論、メインはヒロインの女である。
久々に観る粟田麗。この日ハシゴした「東京残酷警察」のヒロイン、椎名英姫と共に、長らくスクリーンでお目にかかってなくて、嬉しきも驚きの思いを抱いた女優さん。
昨今の映画界は若い女優さんはホント使い捨てされる傾向が強いから、こうしてまたスクリーンで会えたのが嬉しい。ま、「夕凪の街 桜の国」とか観てないし、舞台で活躍しているというから、つまりは私が見逃しているだけなのだが(爆)。

最終的に真木栗の妄想だと判じられた彼女はしかし、彼のその妄想の中では、常にありえないぐらいのヒロインであり続ける。
そう、妄想の中では、なんである。彼と彼女が実際に出会っているのはほんの一瞬だけ。
しかもその時の彼の印象……日傘をさした彼女が振り返りざま微笑みかけたのは、もう妄想の中の一つで、彼女は顔色の悪い真木栗に、この古い木造アパートに出る幽霊かと思って怯えていたのだ。
……まさか自らがその後ダンナの手によって死に、真の幽霊となって真木栗の妄想の中に登場するなんて知らずに。

あ、でもそれを思えば、このあたりはアイマイなのかもしれない。死んでしまった彼女を妄想の中で見続けていた真木栗が単にジャンキーだったのか、あるいはここに本当に彼女の魂が存在していたのか。
そう、真木栗はジャンキーだったんだよね。
その強力に効く痛み止め、彼の部屋に営業に来る置き薬のセールスマンが、また絶妙のコメディリリーフ。
大体、置き薬っていう時点で昭和的だし、そのハコの横に書かれてる「ヨクキクヨ」ってカタカナの明朝体がまた、昭和の匂いプンプンで、ほんっとにこれ、舞台は平成、ノストラダムスも無事に越えた2000年代なの?と思ってしまうぐらい。

真木栗の部屋に営業に来た細見は、見るからに成績の悪いセールスマンで、真木栗から契約がとれたのも、泥棒に入られた彼の部屋のあまりの散らかりよう(つっても、泥棒に入られなくても大して変わらないけどさ)を見かねて掃除を買って出たからだったのだ。
そのまま帰ろうとしたところをさすがに真木栗が気にして、セールスに来たんじゃないの?と呼び止めたことで付き合いが始まった。
偏頭痛に悩まされていた真木栗は、頭痛薬を頼んでめでたく細見の初契約を結んだ。

感激した細見は、その後特に用事もないのに真木栗の部屋で愛人みたいに世話を焼いたりしてて(笑)。
こういうところでちょこちょこと笑わせてくるのが実に上手いんだよなあ。しかもその可笑しさが後に、言い様のない哀しさに変わってしまうところが、そんな思い出が頭をよぎらせるだけに余計に……。
細見を演じる尾上君は、本当にイイよね。心がキュンとなる。ザ、ゴールデン脇役だと思うけど、一度でいいから、ホントに一度でいいから、彼を主演にしたらどういう作品ができるのか、見てみたい。

真木栗は、泥棒に入られたことでウッカリ受けてしまった取材で、昔の知り合いの編集者と再会、こぼれ仕事をもらえることになる。
それは真木栗には未知の世界である官能小説で、そんなの書けねえよ!と彼は苦悩するんだけど、妄想の中の出来事をそのまま書いたら、これがいい評判を得てしまうのだ。
妄想だってことは、無論この時点で彼は判ってない。最初は自分が見たままのことを書いていたのに、次第に自分が書いたことが現実になってしまうことにおののくけれども、それは、全てが事実ではなかったのだ。

最初のうち、カレンダーの下の穴から覗いた、隣人の兄ちゃんが連れ込んだ女とのセックスは確かにホントだったけれども、二つ目の穴、真木栗が何らかの賞でもとったのか(これが、彼がただひとつ拠り所にしていた小説の賞だろうか)、表彰状を誇らしげに広げ、オールバックのヘアスタイルでオシャレして撮った写真の下に隠された穴は……ヨガのポーズだといつも編集者の女の子にゴマかしていた穴は、そんな穴、存在していなかったのだ。

その穴の向こうに、真木栗は自分が書いた世界が現実になっていくのを見ていた。宅配便の配達人の男、離婚した夫、そして、自分が紹介した置き薬屋の細見、皆が佐緒里のはかなげな色香にグラリと来て、彼女を抱いた。
細見など、オクテで初めての経験だったと彼からの電話で察した真木栗は、自分が小説に書いた設定が当たっていたことに思わず笑ってしまうのだが、後に細見が自殺を図ったことを知った時、顔色を変える。
だって、これで、三人目なのだ……。
真木栗が小説に書いた男たちは、次々に死んでしまう。
彼は、自分を小説の中に登場させたばかりだった。ついに、憧れのヒロインと……そんな気持ちでいた時に知った、衝撃の事実。
その原稿を、もう編集者が取りに来るばかりなのだ。

この編集者もまた女性で、ファッション誌で失敗し続けてて、吹き溜まりみたいな大衆男性誌に拾われて、どん底状態なんだけど、真木栗の担当になったことで、そう、彼にかかわる女の中で彼女だけが浮上するのだよね。
若干、色っぽいことが起こりそうな予感はしないでもなかった。真木栗の官能小説は読者に評判が良く、彼女は初めて仕事に対する充足感を得る。
真木栗がそんな独特の雰囲気を持っていたこともあったかもしれない。彼が明らかに顔色を悪くしていき、原稿もどんどん判読できない文字が多くなっていくことを、彼女は担当という以上に心配した。

それは、真木栗が書いているのが官能小説で、それに“引き込まれてしまった”からであり、その原稿を待っている時に隣室から聞こえてくるのがセックスのよがり声であって、それに(表面上は)クールにしている彼に何かを感じてしまったとしても、それは仕方のないことだ。
実際、妄想が起きていなかったら、こんな若くてカワイイ、ミニスカのタイトスカートから太もももあらわな女の子を、しかも真木栗に対して興味と崇拝を向けている子を、ほっとくわけもなかろう。

しかし真木栗は、妄想の、幻の、亡霊の女に恋をしていた。
紙袋にいっぱい詰まったトマトを(だから、このあたりが確信犯的にアナクロなんだよね。今時あんな紙袋、ないもん)佐緒里からおすそ分けしてもらった時。
床に落としてしまったトマトの汁がはねた、彼女の美しい足を拭いた時。
一緒に花火大会を見、露店ですくった金魚をもらって、梅酒を着けていたビンに移し変えて眺めていた時。
そんな彼女との、後から思えばすべてが妄想だった日々は、それこそ後から思えば妙にカットが凝っているんだもの。

佐緒里の足にはねたトマトの汁をふき取った場面、彼女が部屋を辞する時の、美しいふくらぎナメの向こうに真木栗の顔がちらりとのぞいているシーンなんて、めっちゃSMっぽくてゾクゾクくる。
梅酒のビンの金魚がさらりと示された後に、結局はそこに金魚なんかいなかったことが編集者の女の子の視点で描かれた時には、深い喪失感とともに不思議な思い出の甘美さが湧き上がってくる。
そういう、ドライとウエット、コミカルとシリアスのバランスが、しかもその双方共に濃さが充実してて、この監督さんは実に素晴らしいのよ。

ヒロインを導いてきた、不動産屋とおぼしき背中にこぶのある老人、アパートに行き着く、まるで洞窟みたいな岩の下を潜り抜ける非現実的な空間、原稿ナメでアップで示された時には、茄子かと思ったぶっとい万年筆、そろりとしめされるあらゆる場面、空間が、異次元へといざなってゆく。

オチを示すのは、ベタとも言えるのよ。隣人の男が「疲れてるんじゃないんですか。ずっと二人だけだったじゃないですか。ひとり言も多いし……」という台詞一発であり、そんなの、予測出来るっちゃー出来る。
佐緒里と隣人の男と真木栗、三人でのコインランドリーとかの場所でも、佐緒里に話し掛ける真木栗に、隣人の男は不審そうな目線を投げかけてたんだし。
でも、それが、心のどこかでは判っているつもりで、結局はだまされた形になったのは、真木栗の立場に巻き込まれてしまったからなのだよなあ。
それこそ、これぞ西島秀俊の深くて暗い本来の姿であり、そのギャップを示して目をそらせた演出の力であるんだろうと思う。

古都鎌倉の、風情溢れる空間は、人の魂や怨念をたっぷり内包しているようにも思える、なんともいえないロケーション。いや、それを感じさせるのはやはり、このたぐい稀なる才能を持つ監督の手腕だろうか。★★★★☆


マルタのやさしい刺繍/DIE HERBSTZEITLOSEN/LATE BLOOMERS
2006年 89分 スイス カラー
監督:ベティナ・オベルリ 脚本:ザビーネ・ポッホハンマー
撮影:ステファン・クティ 音楽:ルック・ツィメルマン/シュトゥーベムースィヒ・レヒシュタイナー
出演:シュテファニー・グラーザー/アンネマリー・デューリンガー/ハイジ=マリア・グレスナー/モニカ・グプサー/ハンスペーター・ミュラー=ドロサート/リリアン・ネーフ/モニカ・ニッゲラー

2008/12/3/水 劇場(シネスイッチ銀座)
こ、これは、こんなポエティックなタイトルからは到底想像出来ないよねー。この邦題は良かったのか、悪かったのか。恐らく女性客を見込んだタイトルなり宣伝の仕方なりだと思うけど、これをいわゆる“女性映画”のくくりに閉じ込めてしまうのはあまりにもったいない。
ま、つーか、確かにこれは女性が大いに溜飲を下げる映画であり、ちょっと男性にとっては居心地の悪い作品ではあるんだろうけど……なんか久々に、単純な悪役としての男性キャラを見たしなあ。

ああ、そうか。単純な悪役としての男性、そうした映画っていうのも久しぶりに見た気がする。単純な勧善懲悪とか、単純な若者と大人の対決の図式とか、そういう単純さが安っぽさと見なされて時代と共に映画の世界から排除されていっているけれど、ならばそうして獲得した“複雑さ”は容易に曖昧さに転換されてしまって、私たちの心に届く前に落ちてしまうんだもの。
こうした単純さを武器にしながらも、心に届くものは単純さではない、真に細やかな心遣いをした思いならば、それはそれで、使いようじゃないかと思うんだよね。

で、ね。“やさしい刺繍”、なんていうから騙されちゃうけど、確かに刺繍は後半、重要なキーワードにはなってくるけど、刺繍がメインじゃないんだよね。
主人公のおばあちゃん、マルタがやりたいのはなんとランジェリー制作。それもかなりセクシー系な。そしてこのおばあちゃん、見事自分の夢をかなえて、ランジェリーショップを立ち上げてしまうのだ!
おばあちゃん、おばあちゃんと言ってしまうのもアレなんだけど、本当におばあちゃんなんだもの(爆)。髪は真っ白で、顔もしわくちゃ。腰の曲がった姿でどっこらしょという感じ。とてもとてもとても、セクシーランジェリーに夢中になるとは思えない。

と、いうのがまず人間にはいかに偏見があるかということなんだよね。こんなおばあちゃんになれば、収まるべき形があると心のどこかで思ってる。それが牧師である息子のヴァルターや、保守党員のフリッツの態度にあからさまに現われる。
んでもってヴァルターやフリッツはこの村の権力者であるから、その態度はあっという間に人々全体に行き渡ってしまうのだ。
でも、マルタの思い続けてきた夢は、そんなことに屈するほど弱くはなかった。そう、彼らよりずっと長い間、夢見続けていたんだもの。

そもそも冒頭、マルタが登場する場面、彼女はベッドにその身を横たえているんだけど、祭りの日に着る、ハイジみたいな衣装を着ているんである。
なんかいきなりここで、ドギモを抜かれる。それはラストに行われる村の祭りで、老若問わず女たちが身につける衣装であるんだけど、こんなおばあちゃんがと、まず観客の偏見的な気持ちを見事についてくるんである。

マルタは夫を亡くしてから、ただただ悄然と時を過ごしていた。雑貨店を営んでいたんだけれど、もうなんだかやる気もなくて、棚には賞味期限の切れた商品が並んだままなのを客に指摘されるありさま。牧師である息子のヴァルターは店をたたんで、聖書の会の場所に提供してほしいと言う。実はその聖書の会のメンバーに不倫している女性がいて、彼は彼女と二人きりになれる場所がほしいんだけど、そんなことはおくびにも出さない。
つまり彼は、もういい年なんだから、大人しく隠居しろよと言っている訳なんである。

と、いう雰囲気はマルタの友人であるハンニの家庭でも展開される。というか、ここではもっとヒドい。
彼女の息子のフリッツはこの地域のトップを狙っていて、彼は病気の父親の送り迎えを露骨にイヤがり、オレは忙しいんだ、送迎係なんかやってられるか、と吐き捨てるように言うんである。彼が忙しがる農場の仕事だって、結局は母親であるハンニが汗を流しているというのに。
で、もう身体が動かない父親なんか、施設に入れてしまえばいい、母親もその近くに住めばいい、とこともなげに言うんである。
ハンニはね、一度はマルタがランジェリーショップを開くなんて言いだしたことに眉をひそめていたし、やはり彼女の頭にもどこか古い家父長制度に従うべきっていう観念があったんだろう、息子からのひどい仕打ちに耐えていたんだけど、当の夫からカンシャクを起こされてプツリとそのガマンの糸が切れてしまい、マルタの元に身を寄せるようになるんである。

まあ確かに今の世の中、そう簡単にこういう問題を断じられる訳ではないんだけど……。
社会の福祉の仕組みがちゃんと整備されていないと、親の介護に縛られて子供の方が心身ともに疲弊していく事態ってのは確かに深刻なものがあり、このイヤミなフリッツだって自分のやりたいことが思うように出来なくて、苦しんでいるのかもしれない。
ただそう思っても彼に憤ってしまうのは、年老いたらこうあるべき、みたいに若い世代の特権を振りかざしているのがミエミエだからなのだ。
老いたら子に従え、っていう、アレだよね。でもね、私は太宰のように言いたい。子供より、親が大事、と。

そもそもマルタの長年の夢を見抜いたのは、この村の中でちょっと浮いた存在だったリージである。マルタがランジェリーショップを開いてからはマルタこそが嘲笑の対象になったけど、それまでは(マルタの店に協力するからそれ以降も)彼女こそが、あざけりの視線で見られていた。
マルタたち世代よりはちょっと若い感じがするのは、単にメイクや着ているものが若作りだからだろうか?いやいややはり、ちょっと若い世代だよね。
奇しくも彼女の娘で美容院を営んでいるシャーリーがマルタの息子、ヴァルターの不倫相手なんである。マルタたちはシャーリーのことを、もういい年なのに浮いた話もないカタブツ娘ぐらいに思っている節があるんだけど、とんでもない、牧師の浮気相手というとんでもない重責?を担っているのよね。

まあその話は後にするとして……。その母親であるリージは、娘をアメリカ人男性との間に産み落とした。
その過去には秘密があった。リージは渡米した過去の栄光を自慢気に語り、そのハデな外見にはアメリカナイズっぷりが表われていたけれど、実は渡米した経験などない。単に男に捨てられただけだったのだ。
それを牧師のヴァルターだけが知っていた、のは、恐らく教会で懺悔でもしてしまったんだろう。牧師という肩書きが、神の使いであると思い込んでしまうだけ、彼女もその当時、若かったんだろう。後に牧師だけが知っているそのヒミツを暴露されてしまうことなんて、その時は想像も出来ずに。
牧師という肩書きなんて羊の皮をかぶった狼ほどにもろいことを、若き日の彼女は、知らなかったんだろう……。

で、まあちょっと深く脱線してしまったけど、リージがマルタの積年の思い、パンドラの箱を開けてしまう訳よね。
いつまでも夫の死の悲しみにとらわれているマルタを見かねて、荷物を強引に片づけさせたリージ、クローゼットの上の棚にコッソリ置かれていた箱を見つける。慌てるマルタをヨソにそれを開けてみると、レースやサテンが美しく施された、セクシーなランジェリーがでてくるんである。
「マルタ、やるじゃない」と驚きと尊敬のまなざしを向けるリージに(このあたりが、彼女らしいところ)、マルタは、以前はランジェリーの縫製に情熱を傾けていたことを打ち明ける。縫い物が得意という原点、そして本当にやりたいことはランジェリーだったのだと。
夫に反対されて、やめていた。でもずっとその思いがくすぶっていたのは、その後の展開を見れば明らかなこと。

……そうなんだよね。つまりマルタはさ、夫が亡くなったことに呆然としていた訳じゃなくて……夫によって自分の夢を捨てて、つまり夫によって形作られていた人生だったから、その夫が死んじゃったことで、これから自分がどうやって生きていけばいいか判らなかった、ってことなんだよね。
それってすんごい、シンラツなんだけど……だってさ、それって、解放された、ってことなんだもの。
夫が死んだ直後は、マルタはそのことに気付かなかった。ただ、夫に形作られた人生だったから、それが失われた喪失感にだけ呆然としていた訳でさ。
だったら失われた前にあった人生があった筈だと気づいたら、マルタは、恐らく夫との時間以上に、イキイキとした“真の人生”を獲得するんだものね。

縫い物が上手いというマルタの元に、村の合唱団の旗を作り直してほしいという依頼が舞い込み、マルタは大都会、ベルンに友人と共に繰り出す。
手芸店でマルタは旗の素材はそっちのけで、美しいレースやリボンに釘付け。リージはマルタが今もランジェリーを作りたがっていることを確信する。
オシャレなランジェリーショップに釘づけになるマルタを促がして、店に入っていくリージに、「こんな店に入るの?」と目を白黒させながらもついていく友人たち。
流行のランジェリーをリサーチしながらも、粗悪な縫製や単純なデザインに苦言を呈するマルタ。怪訝そうな若いスタッフにリージは誇らしげに「あなたの先輩よ」を言うんである。

カフェに立ち寄り、大きなパフェなぞほおばりながら、おしゃべりする“女の子たち”。
店を開く、その提案に瞳を輝かせるマルタ。本当に、少女のように瞳が輝く。
ドキリとした。年なんて、関係ないんだ。そんな言葉さえ陳腐に思えるぐらい。彼女の娘世代の私なんかより、ずっとずっと、キラキラしている瞳。本当に本当に、マルタの瞳は、夢をかなえられる希望に満ち満ちた、少女そのものだったんだもの。
もういい年なんだから、子供じゃないんだから、夢みたいなことを言うんじゃない、そんな言葉を、それこそ理不尽にも子供の頃から散々聞かされてきて、それを飲み込んで、諦めることが大人になることだと思っていた私たちの息を飲ませるには充分な、夢見る少女のキラキラした瞳だった。

大人になれば、それこそこんなおばあちゃんになれば、あらゆる人生の辛苦をなめて、達観して、ゆったりと余生を過ごす、過ごすべきなんだと思ってた。
そのために、というか、そのデクレッシェンドに向かって私たちは生きているんだと。最後は穏やかな時間こそが、幸せなのだと。
それを、こうもブチ壊してくれた。夢は、アコガレは、輝きは、当たり前だ、いくつになろうが、しわくちゃのオバーチャンになろうが、死にそうになろうが、関係ないのだ!

なんかこんなこと言ったらかなり間違っていると思うんだけど、マルタたちを見てたら、さっさとオバーチャンになって、こんな風にキラキラ輝きたいと思ってしまう。
なんかむしろ、あらゆる世間的責任がのしかかる中途半端な大人の時期には、ふんぎりがつかない思い切りの良さを、マルタには感じるのだ。
いや、それこそ逃げなのだろうけど、でも凄く凄く、羨ましいのだ。ああ、早く、オバーチャンになりたい!!!

マルタに引きずられる友人のもう一人、フリーダのエピソードもすんごい好き。いくつになってもおいかけられるひとつがマルタのような夢ならば、もうひとつは恋愛。
それまで見せてくれるか!というオドロキと嬉しさである。いやー、女は欲張りだよなあ(笑)。
こちらも見るからにオバーチャンである。彼女は一人施設に入ってて、若いスタッフにたしなめられることにイライラしている日々。
マルタの突然の“奇行”にも、眉をひそめている一人だったんだけど、彼女こそが“刺繍”でクライマックス、力を貸すんだよね。

親友のマルタが夫を亡くして孤独に陥ったことを心配し、施設の刺繍サークルに入れてあげたいと思うんだけど、会員以外はダメというスタッフにブンむくれるフリーダ。
そんな彼女に、パソコンサークルに入らないかと声をかけてくる紳士がいる。
同じ施設に入っているから、当然こちらもオジーチャン。でもいかにも紳士然としていて、そしてその“声をかけてくる”のがモーションなのは明らか。
うう、ちょっとドキドキしちゃうんである。ああ、いくつになっても、恋をしてもいいんじゃない!と、むしろ早く年を取りたい気分なんである(爆)。年をとれば今より容貌の差異も少しは狭まって、むしろオジーチャンから声をかけられる確率の方が高くなるんではないか、などと(爆)。

だって、ラストにはフリーダ、この紳士、ロースリ氏と「同室になることにした」と恥ずかしげに友達たちに報告するぐらいなんだもん。キャー!!!
それに対して、「あんまりムリしちゃダメよ」などと生々しいアドヴァイスを返すマルタたちもまた(笑)。
いや、それは、ラストの話なんだから。あー、また先走っちゃった!

だからね、だから、マルタはランジェリーショップを始めようと決心する訳よ。
旗の生地を仕入れるために訪れたベルンの手芸店に再び訪れる。
昔は行きつけだったその店も代替わりして、息子であろう主人がマルタを怪訝そうに眺めているんだけど、上質な生地ばかりをチョイスするマルタに一目置いている雰囲気である。
キリキリに頑張ってついにランジェリーショップを開くも、エロババア扱いする村の偏見が膨れ上がり、息子のヴァルターも、牧師の母親が何してんだよ!と憤り、店はただただ閑古鳥なんである。
友達も、リージを除いて離れていってしまう。結果、ヴァルターが聖書会のスペースとして使うために強制的に店を片付けて、コトはオワリだと思ったんだけど……。

友達たちが戻ってきてくれたことが、本当に本当に、嬉しかったんだよなあ!
皆で捨てられたランジェリーをゴミ捨て場から取り戻し、陳列しなおして、聖書会に訪れた息子と会員たちが目を白黒させる場面の痛快さ!
そして、パソコンサークルに入ってロースリ氏にネット通販のやり方を教わったフリーダが、「問い合わせが○件、その中で注文が○件入ってきたのよ!(ゴメン、具体的な数字忘れた)」とキャー!てな感じで店に突入してきた時の興奮、それからの、“老女三人のビジネスの成功”として新聞に取り上げられるまでになった痛快っぷり(かっけぇ!)、それはこの保守的な村でくすぶっていたであろう、若い女の子たちに「カッコイイ」と刺激を与えるまでになるんである!

こうした展開の中でね、あの、超ムカつくフリッツを息子に持つ、恐らく友人たちの中で最も保守的考えに捕らわれていたハンニが、一番の飛躍を遂げるのが、胸を熱くさせるんだよね。
これまた保守的人間だった夫から車を禁じられていた彼女が、息子の冷酷な仕打ちがキッカケになって、この年になって免許取得を決意する。
村で唯一と思われるドライビングスクールで、若い教官が彼女のランボーな運転にマジでビビリながら指導しているのが可笑しくてたまらない。それを、かつての家父長であり、今は冷酷な息子によってその地位が失墜させられた車椅子の夫が、窓の隙間から目を細めて眺めているのが、グッときちゃうんである。

だってさ、だってさ、彼はそう、かつての家父長、ずっと家庭においての圧倒的な権力を振るってきたんであろう。それが今は身体が不自由になって、途端に息子から反旗を翻されるように虐げられてさ。
まあ自業自得だったのかもしれないけど……そのもはや効果のないかつてのボス、っていう悲哀が、妻に対する暴力に出たとしてもあまりに……切なかったんだもの。
だから、一度は家を出た妻に仮病を使ってまで戻ってこさせて、自分のそばにいてくれっていうのが……女としてはヨワいんだけど、それまでの暴挙を許せちゃうぐらい、グッときちゃうのだ。
ムチャして取った妻の免許に心から喜んで、お前の横に乗れるのは俺だけだ、みたいなさ……夫婦って、どこでガマンして、どこでこの人と一緒になって良かったと思える何かを得られるのか、もうこうなると賭けみたいなもんだけど、大事なところで言葉をもらえるのが、凄く凄く大事なことなんだなあ、って思っちゃったのだ。

リージが亡くなり、消沈するマルタたちだけど、彼女がいてこそここまでやってこれた。なにより、その直前、ヴァルターによって彼女の過去が暴露されたことで、逆に彼女たちの結束も、彼女と娘の結束も固まった。
リージのアメリカへの憧憬が産んだ若く新しい感覚こそが、マルタの夢の実現を後押しさせたのだ。父親のことでどこかギクシャクしていた娘のシャーリーともようやく心を開いてわかりあえたのに、心臓発作で突然の逝去。
その葬儀の時、シャーリーがヴァルターと不倫関係になっていることを、マルタは知ってしまう。

その後、この地方伝統の絵柄を刺繍したランジェリーがネットショップで大反響、軌道に乗り、新聞にも取り上げられるようになる。
フリーダが入所する施設の刺繍サークルにも手伝ってもらえることになる。この時には、若いスタッフが尽力してくれるのが嬉しい!サークルの会員の中には、こんな恥ずかしいことは出来ないと外れる老婦人もいる一方で、何ごとも挑戦だと、マジメくさってトライしてくれるオジイチャンもいたりするんである(笑)。

息子のヴァルターから恥ずかしいことをしないでくれと言われても、マルタは不倫の事実を突きつけて、お前はどうなんだとはねつけた。
村の祭りの日、ヴァルターは意を決しておカタい妻に別れを申し出る。
そしてマルタの店先には、フリッツの手によってニワトリと汚物が投げ込まれていた。さすがのマルタも激昂して、彼の舞台演説に乗り込み、その汚物を撒き散らす!

この時点で拍手喝采しているのはフリーダとその恋人(!)ロースリ氏だけなんだけど、私たちは賛同します!てな勢いで、マルタたちの作った伝統の刺繍が入ったランジェリーを身につけて、モデルばりにさっそうと舞台を歩く若い女の子たちに、やんやの喝采!
さすがにちょっと、ちょっとだけフリッツはカワイソウに思ったけど、いやー、こんなに溜飲を下げることって、なかったわー!
更に溜飲を下げる、というより、なんかジーンときちゃったのは、ヴァルターが、マルタが苦し紛れに作ったオトメチックなフリフリの刺繍で作った合唱団の旗を持ってこさせて、その旗のもとで普段はヘタクソな合唱団が見事な歌声を聞かせたこと。そう、母のために頼む、と拝み倒して……このやろー、最初からそういう態度で来い!

そしてラスト、シャーリーが、母親が行きたくてもいけなかったアメリカへと旅立つのを見送ったマルタたちは、店をしめてピクニックに出かける。
それまでは年相応?に地味なカッコをしていた彼女たちは、今は亡きリージのように花柄やチェックや胸の大きくあいた“女の子っぽい”カッコをして、ウキウキと出かけるんである。

スイスの、おとぎばなしみたいな、日本むかしばなしみたいな、山あいの霧と柔らかな緑の谷間が織り成す優しい風景、から生まれるとは予想できない、爽快な映画。
男たちはこれを見て、女がどんな年になっても女の子だってこと、知るべきなんだわさあ!
あ、それじゃあ、やっぱりこれは“女性映画”だったのかしらん?★★★★☆


トップに戻る