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「あ」


2008年鑑賞作品

赤い風船/LE BALLON ROUGE
1956年 35分 フランス カラー
監督:アルベール・ラモリス 脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン 音楽:モーリス・ルルー
出演:ベアトリス・ダル/アリソン・パラディ/ナタリー・ルーセル/フランソワーズ=レジス・マルシャン/ニコラ・デュヴォルシェル/ルドヴィック・ベルシロー/エーマン・サイディ/エマニュエル・レンツィ


2008/9/23/火・祝 劇場(シネスイッチ銀座)
少年が、歩いて来る。
ふと、上を見上げる。
街灯をぎこちなく登っていく。何をしているのかと思ったら、彼が手をのばした先には、赤い風船がからまっていた。
その、赤い風船と少年の、結末はどこか切なくしかしハッピーな、友情物語なんである。

その前に観た「白い馬」なら、まあ、相手はイキモノだから、まだ納得も出来るというものだけど、無機物である風船だっていうんだから、大胆なイマジネーションである。
でもその「白い馬」が、文明が生み出したカネという欲得に目がくらんだ人間をどこか風刺的に描いて、お伽噺チックでありながら、社会派な一面も覗かせているのに対し、もう最初から風船なんだし、そうした余計な?評論家を喜ばせそうな要素を省いている分、純粋な思いに貫かれる、まさに映像詩なんである。
少年が「白い馬」に比べてさほど美しいわけではないフツーの少年なのも(監督の息子さんなんだって?失礼!)そうしたホノボノ感を漂わせる。
やはり美しい少年っつーのは、それだけで哲学的な雰囲気を醸し出しているもんな。

つややかに美しい赤い風船の鮮やかな存在感にまず目を奪われ、彼?が少年に子犬のようにまとわりつくのが、どうやっているんだろう、まあきっとピアノ線かなんかで操作しているんだろうけれど、と思いつつ、それがすっごくリリカルなもんだから、なんか本当に胸がキュンとなってしまうんである。
まあ、それだけに、最後の最後に、そのピアノ線(多分)が見えてしまったのはかなり残念だったんだけど……。
というか、多分、イヤな現代人であるこっちが、そのアラを見破ってやろうって目線で見ていたからだろうけど。

うう、でも、下まで降りてきて接写となった時点で、まず細いピアノ線が見え、しかも陽の光にさらされて路上に影となって映り、更に、そのピアノ線に風船につながれたヒモがかかって不自然な形になっちゃっているのがまるわかりで、ここまでステキに騙されてきただけに、ああ、見てしまった、みたいな……。
それともこれ、いわゆるデジタルリマスターとかしちゃって鮮明な画像になっちゃったから判っちゃったのかなあ。ならばそこも現代技術で消しとけよ……。

でもね、この風船は本当に少年に従順で、母親の手で窓から外に放たれようが、バスに乗車拒否されて、少年の手から離れようが、常に彼を着かず離れず追いかけていく訳よ。
時には遅刻した罰として少年を閉じ込めて出かけた教師を、行く先々まで追いかけて、帽子をつんつん突付いて抗議したりもするのね。
本当に子犬みたいな忠誠心でね、思わず、スタッフったら、素晴らしいピアノ線さばきだわ、などと無粋なことを思ってしまう程で(爆)。
でもね、ゴム風船みたいな感じでもなく、まん丸で、艶やかな、本当に美しい赤い風船だから、それが詩情豊かな石畳の街の中を、少年を追ってゆくもんだから、本当に、展覧会の絵の様に、美しいのね。

しかしわんぱくどもが、この赤い風船に執着しちゃうのだ。
そりゃそうだ。ひたすらこの少年の言うこと聞くんだもの。スゲエ!てなもんで、小さな路地の多いこの街を、少年共々ひたすら追いかけちゃう。
そういう意味ではこの少年、なんか友達がいない風でもあり……母親には再三、この風船を追い払われているし、やっぱりどことなく孤独、なんだよね。そうハッキリと描写されている訳でもないんだけど。
あるいは少年がそんな、孤独の魂を持っていたから、風船もまた、少年を慕ったのかもしれない。

一度はワンパクどもから風船を救い出した少年だけど、再び捕らえられて、ついには……ああ哀し、踏み潰されて、割れてしまう。
このシーンよ、惜しくもピアノ線が見えてしまったのは(爆)。力尽きて、地上に降りてきて、もうあの艶やかさも失って、しぼみ加減で落ちてきた風船に操作してるピアノ線が見えてしまったのは、それだけじゃなく、なんかすんごい、哀しい。

すると、街中から、風船が人の手を離れて空へと登っていく。
色とりどりの、風船である。空を、まるでジェリービーンズをぶちまけたように彩ってゆく。
それまでも充分ファンタジックだったけど、まだ風船と少年の友情物語という括りが生きていたから、物語として追っていけてた。のが、ここに至って、ぱん、と弾けるように、ファンタジー、いや、文学的な詩の世界へと、いざなって行くのだ。

少年の元に、無数のカラフルな風船たちが集ってくる。赤い風船が“死んで”しまったことに落胆していた彼はしかし、そのことに抗議するかのように集まってきてくれた風船たちの、そのひもを夢中で次々とつかむと、風船たちに埋もれるようにして、彼の足がふわりと地上を離れる。どんどんどんどん、空へと舞い上がる。
迷路のような小路がうねる石畳の街から、彼も住んでいる空高くそびえる無機質な集合住宅もかすめて、まるで竜巻に巻き上げられたドロシーみたいに、どんどん上空へ登っていく。
この脅威のファンタジーの画には、ピアノ線ごときでぐちゃぐちゃ言っていたことも忘れて、口あんぐりと開けて、見守ってしまう。
でも、でもそれは、少年にホレていた赤い風船の怒りに、街中の風船が反応したってことでさ、そう、それは、白い馬が少年を幸福な地平へ連れて行ったってことと、まさにピタリ、おんなじなんじゃないのお!

白と赤で(私は最初、この二つの色を取り違えそうになった……白い風船って、そういうお菓子、あったな(笑))、印象的に色をモチーフにしている二作。
モノクロの「白い馬」に対して、カラーを獲得し、その象徴的な色である赤。
そのカラフル=非現実的みたいな感覚が、より御伽噺的感覚を持ちえている本作の、風船に(恐らく)天国へと連れて行かれるラストは、ひょっとしたらどっか違う陸へと辿り着くかもしれないという救いを持てた「白い馬」とは、完璧に違う。
それはでも、哀しいことなのか、そうではないのか。
風船たちに、大事に天空へと運ばれていく少年は、間違いなく幸せそうで、笑顔で、画も絵本のワンシーンのように夢に溢れてて。
白い馬と共に波間に消えていった少年がその表情が見えなかったことと、その画自体が美しくも衝撃と悲哀に満ちていたのとは、本当に、まるで違うのだもの。

この二本を同時に、しかもスクリーンで観られることには大きな意味がある。
若干時代は違えているし、当時のリアルタイムではそれぞれ別々に観ての感慨で、それが本当ではあるんだろうけど、この二本って、同時に見ることで、大きな意味があったと思う。
心ある配給の方々に、感謝の念を伝えたい。★★★★☆


明日への遺言
2008年 110分 日本 カラー
監督:小泉堯史 脚本:小泉堯史 ロジャー・パルバース
撮影:上田正治 北澤弘之 音楽:加古隆
出演:藤田まこと ロバート・レッサー フレッド・マックィーン リチャード・ニール 西村雅彦 蒼井優 近衛はな 田中好子 富司純子 中山佳織 加藤隆之 俊藤光利 児玉謙次 松井範雄 頭師佳孝

2008/4/5/土 劇場(丸の内TOEIA)
ボロ泣きして、……特になぜか画もないラストクレジットでずっと泣いてて、はーと思って外に出ると、前を歩いていた老夫婦の、夫の方が、妻に、たったひとこと、ぽつりと言ってた。
「戦争は、みんな被害者」
いやあ、……この言葉に、また涙が吹き出して困った。もうそのままロビーでしゃがみこんで号泣したかったくらい。

正直、もう戦争モノを観るのはしんどくって……知らないから観るべきなのに、知らない自分がしんどくなるし。
しかもこの題材は特に難しい問題をついているところだし、普通に?戦争モノよりも、もっと私の苦手とするところっぽいし、ちょっとやめとこうかなあとは正直思ったんだけど……小泉監督だから、やっぱり足が向いてしまった。
いつでも私の心を揺さぶる映画を作る小泉監督。私が苦手なテーマでもそれが有効なのか、ちょっとそんなアマノジャクな興味も浮かんだ。ずっとコンビを組んできた寺尾聰から離れて、今回は藤田まことに主人公を託したことも気になったし。

結果、後半にはすっかり泣きじゃくる。なるほど、これは藤田まことなのだよな、と思う。内心、私ホントに判ってんのかな、とか思いつつも、もっと根本的な、根源的なところをつまびらかにされて、そこなんだ、と突かれた気がした。
潔さ、ただそれだけを目指して、絞首刑の判決に「本望である」と言った岡田中将の気持ちに持っていかれた。
正直なところ、前半なんてホント難しくて。ずーっと裁判シーンで続いていくから、頭の中で咀嚼するのが難しくて。
ただ……その前に、映画の冒頭に、実際のフィルムがあった。それが私のような無知者を手助けするもので、そして、恐らくこの映画の、“戦争映画”としての方向性を示すものでもあった。

戦争映画?そう言ってしまっていいのだろうか。だってここには役者たちが演じる戦いや、血みどろや焼け爛れて死んでいく市民たちが再現されているわけじゃない。
再現はしていない。ただ、そこには本当に当時を映したフィルムがあって……そういうのって、見ていそうで見ていなかった。いや、恐らくあまりに悲惨すぎてメディアにはなかなか上ってこなかったもの。出る所には出ていたんだろうけれど、少なくとも私は見たことがなかった。
確かに、文字面では聞いたことがある。黒焦げになって四肢を天に上げたまま、木の人形のように固まってしまっている人間。折り重ねられ、焼け爛れたおびただしい数の死体、命は取り留めて治療を受けている、直視できない火傷や、ざっくりと割れた傷の凄まじさ。

そういうのって、こうして文字で書いても全然、その凄惨さが伝わらない。そしてどんなに特殊メイクやCGが発達しても、役者が熱演しても、そしてこういうフィルムは勿論、モノクロだというのに、到底及ばない領域なのだ。
恐らく、戦争映画がリアルになればなるほど、目を背けるほどの悲惨さを再現できるようになればなるほど、その技術を誇っているような気がして、悪趣味な気がして、なんだかイヤな思いを受けていたその答えが、この実際のフィルム一発で、出してもらった気がした。
戦争の悲惨さは、決してフィクションで再現できるものじゃないんだ……。

だから、それに関して本作は手を出さない。役者が再現するのは、戦犯としての裁判を戦い抜く一人の男。
いや、正確に言えば、彼の後ろに何人もの部下がいて、同時に裁かれている。でもその司令官であった岡田中将が、自分だけに責任を集中させて、部下を救おうとする。そして責任を負いながらも、決して曲げない一点がある。
第二次世界大戦の終盤、各都市を焼き尽くした爆弾や焼夷弾。あるいは機銃掃射。
「爆撃は軍事的目標に対して行われた時のみ適法とする」というこの国際法が、初めて破られたのがあのゲルニカだった。ピカソの絵が、この映画のスタートだった。史上初めての無差別爆撃。

岡田は、軍事施設のない、住宅地や学校のある場所を標的とした、いわゆる無差別殺戮になっていることを糾弾する。大体、そんな国際法があったことすら私……いや、絶対世界史で習ってるはずなんだけど(爆)。なんか戦争って、そんなルールがあるなんて全然思ってなかった。だって……戦争自体、究極のルール違反みたいな気がしていたからさ。
それらの爆弾を投下していた米軍機から、コントロールを失ってパラシュート降下してきた兵士たちを、“処刑”したことを、戦争後、戦犯として裁かれる、それが本作。

冒頭の、戦争の実際のフィルムを見せていく時、その場面も描かれる。兵士に目隠しさせて、後ろから日本刀を振り上げている写真。あ、なんかこの画は見たことがあるような……それはよく、アジア諸国での日本軍の残虐を示す時によく見ていた画のような……と思うとヒヤリとする。
そして、我々を散々焼き殺してきたのに、自分たちはパラシュートで助かろうとするのか、というのが、当時の彼らのいつわらざる気持ちであった、というナレーション。
ここだけがややハイトーンになる竹野内豊の声にも、ちょっとヒヤリとさせられた。ヤバイんじゃないのかと。いや、これだけ非情なるフィルムを見せられたら、そうだ、確かにそう思うに違いない、とは思ったけど……。

恐らく、というか当然、“処刑”を命じた岡田中将や、自分から名乗りをあげてその実行をかって出た部下たちにだって、そうしたある種コントロールできない気分はあったに違いない。
岡田中将は、「彼らは国際法に違反した戦犯、だから略式で自分が命令を出した」とその命令形態を冷静に振り返るけれども、ある意味、略式まで譲歩したと言ってもいいほど、そのままたたっ斬ってやりたかったほどの、怒りに震えていたに違いない。
いや、それも勝手な推測に過ぎないのか。彼らはただ粛々と、日本軍としての役目についていただけなのか。
確かにそんな気もする。岡田中将の裁判での冷静さ、次第に彼を裁く側であるはずのアメリカの検察でさえ、彼に好意的になっていくのはきっと、だからなのだもの。

ただ不思議なことにそこには、幾千の戦争映画で語られるような、「天皇陛下のために」という意識さえ、あまり感じられないのだ。
この軍に配属され、その使命を全うする。ただその一点のみ。曇りもなく、その一点のみ。

そして岡田中将は、斬首という方法をとったのは、刀による死は、日本人にとって神聖な儀式である、と述べる。その感覚は、同じ日本人でも、こんなにも後期の人間になってくると、正直なかなかそのままは受け取れないものもある。判るけれど……やはり、ただ残酷であるという感覚をぬぐいきれない。
でも岡田中将は、それにもとてもこだわっていたのだ。そしてこの映画、あるいは裁判の判決自体も。
彼に死刑が下されて、その撤回を求める嘆願はもとより、米軍からは絞首刑ではなく銃殺刑にすべきだ、と改定案が出されたと言う。
それを岡田中将は知らないまま刑場の露と消えてしまったわけだけれど、ナレーションで、「そのことを知ったら、岡田はわれ法戦に勝てりと喜んだに違いない」と語られるのだ。
それほど、軍人としての名誉の死と、戦犯として負けの死は、違った。
名誉の死なんてものがあるのかと、その言葉を耳にするたび居心地悪く思っていたけれど、でも死こそが生を示すものなのだとしたら、そうなのかもしれないと、ちょっと思った。

法戦、というのは岡田中将が作った造語である。裁判で闘うことを、彼はそう表現した。粛々と綴られる手記が、語られるモノローグが、彼の気持ちを伝えてくる。
それは、裁判に勝つという意味ではなかった。岡田中将は死刑になることはやむなし、というか、その判決を受けた時に「本望である」とひとこと言ってのけたように、それを避ける気はなかった。
ただ、あの時何が起こったのか、それは本当に、ただ悪だと責められることなのか、それを……明らかにしたかったのだ、きっと。

最も印象に残ったのは、岡田中将ら日本軍兵士が米兵たちを“処刑”したことを、報復ではなく処罰だ、と絶対にその点は譲らなかったこと。
岡田を救いたい気持ちに傾いていた、敵であるはずのアメリカの検察側、あるいは裁判長や裁判官側が、彼の行為が国際法にのっとって正しかったと証明するために、その条例を持ち出してくる。
報復としてやったならば、正当性がある、その条例を知っていただろう、これは報復だったんだろうと、岡田中将に問い掛けるんである。
彼は確かにその条例は知っていた、と頷く。でも頑として、これは報復ではない、処罰だ、と言い続ける。戦犯として、米兵を処罰したのだと。

報復に正当性があるなんていう条例自体、えっと思ってしまうけど……いくら戦争という異常事態に向けて作られた条例とはいえ……でも岡田が、報復という言葉にある種異常なまでの拒否反応を示したことで、彼が何を言いたかったのか、明確に見えた気がしたのだ。
その前に使われていた処刑、という言葉も、かなり強い語感があるからどうなんだろうとは思っていたけれど、報復に対する言葉として処罰、が出てからは、処罰という言葉に一貫する。
でもこのあたりは、微妙な言葉への感情のズレが見え隠れする。実際、刀を振り下ろした部下たちは、処刑という言葉の方が頭に浮かんでいただろうと思う。そして、その時のことを思い出して、子供のような悲鳴をあげていた米兵を思い出して、部下たちは苦悩に頭をかかえるのだ。

もうひとつ、裁判を傍聴している妻のモノローグも手助けになっている。ただただ見守り続ける富司純子。夫の弁護をするのがアメリカ人であることに不安を感じていたけれど、彼の堂々たる闘いぶりに驚きを禁じえなかった、という最初のモノローグから、この裁判の構図がすっと入ってきて、難しい裁判シーンの連続にもなんとかついていける。
このアメリカ人の弁護士、フェザーストンと岡田が心を通わせていくのも、この映画の大きな見どころのひとつ。
馴れ合いになることはない。裁判以外で顔を合わせることもない。ただ、自分の気持ちを十二分に汲んで共に闘ってくれていることに、一日の法廷が終わるごとに固い握手を交わす、それだけなんだけど……。なんか本当に、伝わってくるものがあるのだ。

最後の方になると、お互いの家族を紹介したりもする。法廷で家族と言葉は交わせないから、傍聴席に座っている家族が岡田中将の紹介に合わせて深々と頭を下げる。息子は新妻を連れてきている。微笑み、祝いの言葉を口にするフェザーストン弁護士。
そして最後の判決が出る時には、フェザーストンの妻と息子が岡田に挨拶に来る。米兵の首を斬首した岡田中将、その彼を弁護する夫であり父であるフェザーストン、それなのに、この妻と息子は、それまでの過程を、きっと充分に聞いているんだろう、あなたのために祈っています、と思いを込めて、そう言ってくれるのだ。

裁判だから、あらゆる細かい点をついてくる。パラシュートで降りてきた米兵たちを、皆殺しにするのはいきすぎじゃないかと。通信兵は実際に爆弾を落としたわけじゃないだろうとか。
戦争という、大きな殺戮を舞台にして、裁判とはいえこんなことを言ってくるのか……でも、だからこそ裁判なのかと思う。そしてそれに対しては岡田中将も若干の揺れを見せる。それでも、彼は毅然と戦い続けた。

死刑判決が出てから、もう執行に向かってのカウントダウンだけになってからも、彼の獄中での静かな日々が描かれていくのが、本当に胸に迫ってしまって……。
彼を慕って、同じく逗留されている部下たちが続々と訪ねてくる。いったん死刑判決が出てしまった実行犯の二人の部下に、「よく来たな……とは言えないか」と三人、しかしくったくなく笑うのが、切ない。
部下は、岡田中将と同じように、自ら減刑を望むつもりはないと言い、自分が手を下した米兵のことを考え、自らの死に向き合うつもりだと語る。
そんな部下の言葉を、岡田は静かに受け止めてやる。まさにそれが、岡田中将の究極の信念、この法戦を戦い抜いた信念だったようにも思う。
読経をし、できる限り仏に近づこうと、心を真っ白にして唱え続ける彼らは、粗末な囚人服に寒々とした獄中なのに、ひどく清廉なのだ。

岡田は静かに手紙もしたためる。裁判中から、彼の気持ちは常に、文字によって冷静に綴られてきた。
妻に当てられた、愛情溢れる手紙の数々。中でも、判決の後にしたためられた「戦争が終わったら、そなたをいたわって暮らそうと思っていたが……」という、判決に満足しながらも妻にすまない気持ちでいっぱいの手紙が胸に迫る。
面会の様子も描かれ、妻はたまらない表情をするんだけど、そのシーンよりも、手紙に綴られた、その凛とした文字の方が心に迫るのだ。

フェザーストン弁護士が、訪ねてきた。本国に帰る日が来たのだ。残念です、と彼は言ったけれども、岡田中将は笑って首を振った。
岡田にとってフェザーストンは、実に理想的な相棒だったろうと思う。彼の思うとおりの結果が出たのだ。死刑判決を受けた部下たちも、岡田の弁論によって一様に減刑がなされるだろうというフェザーストンに、岡田はほっとした笑みを浮かべる。
もう、これが今生の別れになることが決まっている、この別離。
お元気でとは決して言えないこの別離。
でもなぜか、晴れやかな別れだった。

ついに、岡田中将が呼び出される日が来た。彼は、「来たな」と勇ましくガバリと身を起こす。
獄中の鉄格子の中から、上官を見送る部下たち一人一人に声をかける。しっかり生きろと言う。
彼の言葉はとてもシンプルで、全然泣かす方向じゃないのに、なんかそれが返ってぐぐっと胸に迫って、もうここらあたりから涙がバカみたいに止まらなくなる。
刑務所の外にも、敬礼をし、上官を見送る部下たちがずらりと並んでいた。彼らに上官として最後の敬礼を返し、僧侶とともに、絞首刑台の手前まで来る。

僧侶が別れの悲しみを口にする。すると岡田は、「なあに。ちょっと隣に行くような気持ちですよ」と笑った。まるで本当に、そう思っているみたいに聞こえた。それぐらい、晴れやかだった。
思えば、死刑判決が出て、本望であるときっぱり言った時から、そして後にフェザーストンに、死刑判決が出た時の気持ちを、ホッとしたと語った時も、岡田はむしろ、このちょっと隣に行くことを、待っていたような気がする。それは決してネガティブな気持ちじゃなくて……なんていうのかな、難しいんだけれど。

この世から戦争はなくならない。岡田はそう、手記にしたためた。
平和を願いながらも、きっと世界から平和はなくならないだろうと、したためた。
そして、それは、残念なことに、今のところその通りになっている。★★★★☆


あの空をおぼえてる
2008年 115分 日本 カラー
監督:冨樫森 脚本:山田耕大
撮影:中澤正行 音楽:中野雄太
出演:竹野内豊 水野美紀 広田亮平 吉田里琴 小日向文世 中嶋朋子 小池栄子 松田昂大 徳井優 濱田マリ 佐野剛基 上妻成吾 二階天音 影山樹生弥 品川祐 南方英二 高見のっぽ

2008/5/16/金 劇場(丸の内TOEIA)
うおーっ、近年稀に見る大号泣。ううう、ポケットティッシュが丸々ふたつ、涙と鼻水を吸収しまくってくれたぜ。ああホントに、バスタオルでも欲しい位の、大、大号泣。もし今度泣ける映画は何かないかって聞かれたら、一瞬の迷いもなくこの映画を推薦しよう。決まり。
いやあ実は……これが富樫監督じゃなかったら、足を運ばなかったかもしれない。だってなあんか、思いっきり泣け!って雰囲気の話っぽかったし。まあそれにどっぷり引っかかってしまった訳だが……でもこれを、ただの泣き映画だと、カンタンに分類されてほしくないのだっ。
しかも竹野内豊、っていうのがどうしてもピンとこなかった。彼が、というより、富樫監督が彼が主役の映画を撮るっていうのが、ぜえんぜん、ピンとこなかったのだ。

というか、竹野内豊主演、と思い込んでたのが誤解だったんだよね。竹野内氏は、まあ悪い言い方をすれば客寄せパンダであり、主人公はこのいたいけな男の子、英治。この子だけで、この映画を支えたと言っても過言ではない。
竹野内氏は英治の父親で、父の苦悩もクローズアップされはするけれど、でも、脇役と言っていいぐらいの位置なのだ。
それに、回想となる前半は、つまり娘の絵里奈が生きていた頃は、彼はすんごい良きパパで、子供たちとくるっくるじゃれあっているんだけど、正直、それって竹野内氏のイメージと全然違うし、なんかなじめないというか、違和感があって見てて困っちゃった。
しかし後半、娘が死んでしまってからの暗さは、これぞ竹野内豊、といううっとうしさで、やっぱり彼はこっちだよなあ、と思う。

そうなの、そうなの、主役はこの男の子、すばらしき広田亮平君なのだなあ!
あー、それが最初に判ってれば全然、観に来るのを迷ったりしなかったのに。
だって、だって!だって!!富樫監督は子供映画の名匠なのだもの。そのジャンルでいえば、きっと現代日本映画の、いや世界にまで範囲を広めたって、1、2位を争う監督に違いないのだっ(鼻息荒い私)。

オープニングで、ポップでカラフルなオモチャたちが次々と映し出されていく。キャストクレジットもクレヨンで描いた様な可愛さ。あららら、これってクラい話じゃなかったのかしら、と思ったら、ガラスをガチャン!と破って野球のボールが飛び込んでくる。
それは、明るく、幸せな家族、こんな幸せが永遠に続くと思っていた時間を突然分断したことを示唆するような、ドキリとするカット。
でもそれさえも、後に回想されるんだけど、兄妹がちょっと悪ふざけが過ぎただけの、ムジャキに遊んでいた結果のちょっとした失敗だったのだ。絵里奈が生きていた証しとして、今はテープで補修されている窓の穴。

英治は夢を見ていた。夢、だったのだろうか。それともあれは現実?
雲の上を、飛んでいる。前を飛んでいる妹の絵里奈は、くるくると、まるで踊るように、楽しそうに、先を飛んでいった。
ついに、追いつけなくなって、光の先に妹がかき消えて、目が覚めた。
そこは病院。母親が泣きそうな顔で英治を覗き込んでいた。父親も、その後ろにいた。
その父親が、廊下でつぶやいた言葉を、英治は覚えていた。いや、それこそ、夢だったのかもしれない。雲の上から病院へと彼の意識が入ってきた時、そう父親が言っているのを、耳にした、のは、物理的にはそんなこと、聞くことなんて出来ないんだもの。
「どうして、絵里奈だったんだ」と。

この言葉を、父親が本当に言っていたかどうかなんて、結局は判らない。ただ、そのことを、英治はずっとお父さんに言えずにいた。だってお父さんは、絵里奈の名前を呼ぶことさえ出来ないほどに、悲しみにうちひしがれていたんだもの。
ひまわりみたいに明るかった絵里奈がいなくなって、家の中はウソみたいにひっそりとしてしまった。
英治だって絵里奈と一緒にはしゃいで遊んでいた筈なのに、妹がいなくなると、彼一人では、両親の哀しみをどうしようも出来なかった。
ことに父親は、あの時、ホームセンターに行きたい、という二人を、後で車で送っていってあげるから、と言ったまま、構わずに駆けていってしまった二人をどうして追いかけて、車で拾ってやらなかったのか、と悔やんで悔やんで、そしてそのことを妻がそんな責める筈もないけれど、夫婦の間に溝を作ってしまうことにもなってた。

しかも、今、お母さんのお腹の中には、生まれくる命がいるのに。
でも今や娘の死にとらわれた夫は、新しく生まれ出てくる命に思いをはせることも出来なくなっている。
お母さんの方は、いたいけな息子の気持ちを感じ取って、そしてお腹の子供を守るのは自分だけだからと、一足先に立ち直ろうと努力を始めたのに、夫は、「生まれてくるのは絵里奈じゃないから」と、こともあろうに、そんなことを言っちまうのだ。バカ!バカ!!!なんて、ひどいことを言うのだ!

おっと、つい頭に血が上って、途中を全部すっ飛ばしてしまったぜ。
あのね、とにかく英治がずっと苦しんでいるんだよね。最初のうち彼には、妹の姿がそこここに見えている。ここにいる筈だった元気で明るい妹の姿が、いちいちオーヴァーラップしてしまうのだ。自分一人じゃ支えきれない、両親の深い悲しみ。一人、生き残ってしまった自分。

退院後、久しぶりの学校で、いきなり皆がワーッと寄ってきて、よってたかって足のギプスに寄せ書きをしてくれた。
あのシーン、前哨戦で、まずジーンときてしまった。しかも先生が「皆が英治君を愛してる」って書き込んで、皆がウワーっとカワイく盛り上がるのとか、もうジーンときまくってしまう。
しかも、この小学校の制服がカワイイんだよね。男子の膝丈のズボン、女子はチェックのワンピースが個性的。制服の小学生をカワイく見せるあたりは、さっすが子供映画の名匠、なんである。

どっぷり悲哀物語に浸る訳でもなくて、この小学校や友達とのシーンも心に残るのだ。
英治にはふとっちょの友達がいて、そのふとっちょでドンくさい故か、彼はイジめられているんだけど、ギプス姿で英治は友達をかばうのだ。「ヘンな顔ー」といじめっ子を白けさせて。その戦法は、いつも不意打ちに自分を襲ってきた、びっくり箱みたいな妹のオハコだった。
そうか、結局は関係なさそうに見えるどのエピソードにも、妹の影は見え隠れしているんだ……。

で、この学校に、女の子にモテモテの、髪の毛をおっ立てた男の子がいるっていうのが、良くってさあ。この、大号泣の物語で、ちょっと息をつける部分なんだよね。
まとわりつく女子を両手で肩を抱いて風切って歩いている彼。顔もきっちりオレ様な感じで作っているあたりが、か、カワイイ(笑)。
ブイブイ言わせてはいるけれど「アイツの髪、なんであんなに立ってるか、知ってる?」とふとっちょ君。「あのトンネルで、幽霊見て、逆立ったらしいぜ」と。大笑いする英治。

この、トンネルが、一番重要な場所だったかもしれない。
川から下水に向かうと思しき、暗くて、水の雰囲気も怖さ満点のトンネル。
そんな風に、コワい噂の絶えない場所。絵里奈が生きていたころ、怖いもの知らずの妹の先導で、英治もトライしたことがあった。
妹はずんずん先に行くのに、彼は怖さに負けて、きびすを返して走って出てしまった。
怖がりのお兄ちゃんを笑う妹の、自分を覗き込んだ笑顔を今も覚えている。

あの場所は、死者とつながりがあるのかもしれない。あそこでなら、絵里奈ともう一度会えるのかもしれない。
英治は、そう思うのだ。だから、あのふとっちょ君ともう一度トライしにいく。
この時、ふとっちょ君が、怖さのあまり、誰と対決すんの?ってな重装備に身を固めているのが、可愛くって、笑っちゃうのだ。
結局、絵里奈とは会えなかった。でも奥に走っていった愛犬の金之助が、何かを見たのか、泥だらけで帰ってきた。
動物は、人間には見えない何かが見えているのかもしれない、ってのはよく言われるものなあ。

英治は一人で、あまりにも沢山のことを抱えているから。それがあまりに痛ましいから。だからやっぱり、誰かの助けの手が必要なのだよね。
これが外国の原作だからかもしれない、スクールカウンセラーという存在が出てくるのは。
それを演じているのが、富樫組役者とも言いたい小日向さん。何たって、彼の存在を初めて知ったのが富樫監督の長編デビュー作だったんだもの。小日向さんがメジャーへと大きく飛躍したきっかけのひとつだったようにも思う。
カツラのヒミツをこっそり教えたりして笑わせて、今度は君の話をする番だからね、と、決して無理強いしない、にこやかな小日向さんの存在だけで、救われてしまう。

絵里奈と最後の別れをした、あの雲の上でのこと、お父さんに話したいけど、話せないでいることを、英治は打ち明けた。
だって、そのことを話すことで、言いたくないことも、言わなきゃいけなくなるから……。
その時点では、それが何のことなのか、観客には判らない。それは、「何で絵里奈だったんだ」という台詞を英治がずっと気にしていることなんだけど、それが判らない時点でも、英治が、泣くことさえ出来ずに重い荷物をこの小さな身体で一人背負い続けて、誰にも言えずにいることに、ここでようやく吐き出せたことに、もう、そのけなげさ、いじらしさに、涙がブワー!と吹き出して、それが最後まで止まらなくなっちゃうの。
だって、それを受け止めるのが、小日向さんなんだもん!完璧なのだよー。

やっぱりね、お母さんの方が、オンナは強いから、しかも母だから、お腹に赤ちゃんもいるし、先に立ち直る、というか、頑張って立ち直ろうとするのだ。
リトミック教室で働いている彼女が、ムジャキな子供たちの姿に時々涙を浮かべているのを、同僚の笠井先生(中嶋朋子)は心配顔で見守っていた。
この、中嶋朋子がまた、いいんだよね!結局は、竹野内豊も水野美紀も親の経験がある人ではないから……っていう偏見をついつい頭の片隅に持っちゃうから、それをしっかり持って、心配している中嶋朋子の存在が、大きいんだよね。
頑張っている息子の心意気を感じて、自分も丈夫な赤ちゃんを産まなくては!と決心してきちんと食事をとるようになった彼女を見て、思わず涙ぐむ笠井先生。
子供の映画だから、なかなか大人同士のシーンがないだけに、このちょっとした、女の友情のシーンがグッと胸に迫るんである。

英治は、絵里奈に手紙を書き続けていた。もしかしたら奇跡が起こるかもしれない、と願ってた。妹から返事がくるかもしれない。死者の世界とこの世界がどこかでつながっているのかもしれない。そう思ったから、あのトンネルにも行ったのだ。
実際、回想ってだけじゃなくて、いろんな場面に記憶を重ね合わせていただけじゃなくて、英治には妹の姿が、見えていたのかもしれない。だから、彼女から返事が来ると信じていたのかもしれない。

手紙を書いているシーンは、たった一箇所。決してその場面でズルズルベッタリと、気持ちを盛り上げるようなヤボはしない。
だから、まさかこんなに大量の、届かない手紙を英治が書いているだなんて思いもしなかったのだ。
その手紙を両親が発見してその内容が明らかにされるシーンも、必要最小限で、決して決してズルズルベッタリと、泣かせようとあざとくすることはない。
でも、それがもうストライク1000パーセントで、もう、もう、もう……ただただ、ヤラれるしか、ないのだよ。
「自分では、お前のようには出来ないよ。お父さんとお母さんを元のように明るく出来ないよ。がんばってみたけど」って、その手紙もかなりキたけど、もう、究極は、アレよ。
「お父さんは、お前の名前をいまだに言えないんだ、だから僕も、お前の名前をお父さんの前で言えない。だからここで10回書くね」って。


「絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈 絵里奈」


あー、ヤバい。だめだって!これは……ダメだよー!
ていうか、どうして、名前を呼ぶだけで、こんなに涙が噴き出しちゃうのだ。
名前って、それだけで、誰かが誰かを愛してるっていう、意味を持っているんだね。赤ちゃんが生まれて、これからあなたを愛しますよって意味を込めて、心を込めて世界でたった一つの名前をつける。そして、その名前を呼ぶごとに、その相手を愛している実績を積み上げ続ける。
名前を呼ばれる回数が、その人が愛されているモノサシなのかもしれない、とさえ思う。
だからこそ、その名前を、哀しさゆえに呼べなくなってしまったことが、哀しいのだ。愛しているから呼ぶのに、愛しているのに呼べなくなってしまったなんて。
だから、お兄ちゃんは、彼女の名前を呼び続ける。心の中だけでも、絵里奈絵里奈絵里奈絵里奈、って!(号泣)

その手紙の中でもうひとつ、もう心がいっぱいになっちゃうフレーズがあった。
英治が、お父さんお母さんの悲しみ、ことにお父さんの悲しみを受け止めてて。それは同じ男だからかもしれなくて、そんなマセた部分も確かに英治は持っててさ、絵里奈にこんな手紙を書き記しているの。
「お前は小さい子供だからまだ判らないだろうけれど、大きい子供になると、人の気持ちを色々汲み取らなきゃいけないんだ」って。
ホンット、マセた台詞なんだけど、でも、確かにそうなのだ。大人になってからの成長の伸びしろなんて、ホンット、全然なくて。
だから子供に対してもその程度だろぐらいの、自分の子供時代をスッカリ忘れてそんな風に接しちゃうんだけど、10代の、それも前半の心の成長って、ホンット、凄まじいんだよね。
何もかもが判ってしまったかのように錯覚してる、成長の止まった大人には及びもつかない、センシティブな大成長を遂げている、大きな子供。

「絵里奈が生まれてくる訳じゃない」そんな、言ってはいけない台詞を言ってしまったお父さんに、お母さんがこれまた言ってはいけない「あなたのせいで、絵里奈は死んだのよ」と言ってしまって、飛び出して、そこに居合わせた英治は、あまりにもいたたまれず、彼もまた、飛び出してしまう。
うー、なんでこんなイイ子に、こんな哀しい思いばかりをさせるのだ。
でもね、英治は親がイヤになって飛び出したんじゃなかったんだよね。
探しに行ったのだ。あの場所。ひょっとしたら、ここで絵里奈が飛んでいったのかもしれない場所。

父親が撮影した兄妹の写真、それを父はもう、封印しちゃってて、見ないようにしてて。
あ、ちなみに父親は写真館を営んでる、写真家なのね。
娘が死んでしまった日、まだ子供たちが事故に遭ったことを知らないでいる時、これぞ自分にとっての傑作だと思える写真を、部屋に飾っていた。
うっそうと茂る森の中、光が漏れ出す奥に、踊るように駆けていく絵里奈。彼女を追いかけて、でも親に声をかけられて画面の手前でふと立ち止まる英治。
奇しくもそれは、天に召された絵里奈と、彼女を天国の入り口まで送っていった英治を示唆する、というか、予感させる構図で。本当に美しくて。
この映画のために計算されて撮られているって判っているのに、本当に、運命に導かれてシャッターが切られたとしか思えないぐらいで。

森の中にさまよいこんで、行方不明になってしまった英治を、彼の絵里奈への手紙を見つけて充分に理解した両親、そして町の人々が救出に出動する。
ここで、あのふとっちょの友人が、ここに行ったかもしれない、とあの時には思いっきり及び腰だったのに、毅然とした表情でトンネルの中にずんずん入っていくのが、また泣けてさあ。
モテ男子が腰が引けまくって後からついてくるのをキッと振り返って、行くぞ!みたいなさあ。ほほえましくって笑っちゃいながらも、泣けて、もう、笑い泣き状態で、困っちゃうのよ!

そして、ひょっとしたらあの場所を探しているのかもしれないと思って、森の入り口まで来た父親が、ついに息子を見つけるシーン。まずここで大号泣クライマックスパート1である。
英治の手紙によって、苦しんでいるのは自分ばかりじゃない、それどころか、こんな幼い息子が苦しんでいたことに初めて気づいて後悔する父親に、英治がまさに核心をついたことを言うのね。それは父親が向き合おうとして向き合えなかった部分。「お父さんは悪くないよ」と。
車で送っていかなかったこと、走っていく二人を見送ってしまったことを、彼は悔やんでいた。そのことが夫婦に深い溝も作ってしまっていた。
「僕たち、走っていきたかったんだ」って、それはあまりにもムジャキでカワイイ理由で、そのひとことを、言えずにいた英治の心が、ずっと苦しみ続けていた心が、痛くて、いじらしくて、いたいけで、もう、もうさあ……。

子供って、子供って、凄いんだもん!それを富樫監督はこんなにも素晴らしく描出しちゃうんだもん!
観終わった後、「イン・アメリカ」をちょっと思い出した。あれはたった一人じゃなかったけど、姉妹二人で思いを背負った物語だったけど、やっぱり上のお姉ちゃんが、お姉ちゃんだからって痛々しい自覚を持って苦しんでいる両親を思いやる物語だったから。
子供の方が大人より、ずっとずっと大人なんだよね。ヘンな言い方だけど、本当に、そう思う。
大人になると、ちゃんと現実に向き合えなくなるから。それはホント、子供じみた理由なんだもの。こんな形容詞に子供なんて使っちゃうことさえ、失礼なのかもって、思うような。

絵里奈の部屋を片付け、生まれてくる赤ちゃんのために作り直した。英治は壁と天井隅々まで、青い空に白い雲のペイントをほどこした。ここが、絵里奈が飛んでいった空。決して忘れることはない。
ようやく、死んでしまった娘のことを、愛していたことに、ちゃんと向き合えるようになって、英治はお父さんに「絵里奈の名前、言えたね」って言うのが、またイイのよー。
だってそれを、英治はずっと、ずうっと気にしていたんだから。
そしてようやく、あの時聞いてしまった、というか聞こえてきた父親の言葉のことを話すことが出来る。僕が死ねばよかったのかもしれない、と思ってた。
両親とも涙ながらに、お父さんが英治が死ねば良かったと思っているっていうのか?そんなことある訳がない。英治が生きていてくれて良かった。ありがとうと、彼を抱き締める。
ああ、ようやく、すべてが氷解する。涙はガマンしてちゃいけないのだ。流せば流すほど、気持ちが浄化されていくものなのだもの。

そうなの、英治は「絵里奈を天国の途中まで送っていった」と言うんだよね。モノローグだけど。これがさ、最後の最後でさ。そう、赤ちゃんが生まれて、それはもちろん、絵里奈が生まれてきた訳ではないけど、でも女の子でね。
で、家族してあの森にピクニックに行くのよ。もともと、英治はあの場所を探しに森にさまよいこんで遭難しかけた訳で。で、この場所だ、って、見つけるのね。
ずっと書き続けて届かなかった手紙を、届くように風船にくくりつけて飛ばすのだ。

その直前、英治だけに、家族の間を嬉しそうにはしゃぐ絵里奈の姿が見える。
最初のうちは見えていたのに、両親の悲しみに塗りつぶされて、見えなくなっていた妹の姿。
そして、妹は雲の間の、光に消えていく。
その時にね、言うのよ。天国の途中まで送っていったって。そしてね。
「だって僕は、絵里奈のお兄ちゃんなんだから」って!
もおー、もおー!!そろそろ涙も収めて、帰るモードに戻してたのに、ここでまた泣かせるのか、オイ!
あうー、顔がぐっしゃぐしゃになっちゃって、もうダメだっての、カンベンしてよー!(泣きすぎ)

携帯が、あるのに画面に出てこないのが、なんか良かった。夫が家の電話から妻の携帯電話にかけるシーンはあるのに、留守電に入って、彼女がそれを聞くシーンもないんだよね。
なんか、このファンタジックな物語に、携帯電話、というツールが出てきたら、それだけで、ちょっと冷めるような感じはあるから、こういう細やかな心遣いが嬉しい。
ところで、道端で風船を売っているおじさんは、のっぽさんなんだよね!?何も喋らないことが、どこか悲しみを背負ったヒーローを感じさせるのっぽさんが、この物語にすっごく似合ってるんだよなあ!★★★★★


アフタースクール
2008年 102分 日本 カラー
監督:内田けんじ 脚本:内田けんじ
撮影:柴崎幸三 音楽:羽岡佳
出演:大泉洋 佐々木蔵之介 堺雅人 田畑智子 常盤貴子 北見敏之 山本圭 伊武雅刀

2008/6/18/水 劇場(シネカノン有楽町2丁目)
これは一度観たら、ぜーったい、最初っから一個一個確認したくなるよねー。いやー、大泉先生がエリカ様みたいにキレちゃうんじゃないかと心配になるぐらいの怒涛のキャンペーンをしたくなる気持ちも(まあ、したくてやってるってわけでもなかろーが)判るってなもんだ。
いやいやしかし、大泉先生が内田監督の第二作目に出る!と聞いた時はもうそれだけで、ホント嬉しかった。だって突然出てきた恐るべき新人が作り上げた 「運命じゃない人」には本当に驚いたんだもん。
しかしその「運命じゃない人」がこの宣伝活動の中で、こんなにも何度も何度もタイトルを聞くとも思わなかったけど。だって決して多くの人に知られている映画って訳じゃないのに、まるでそれが名刺代わりみたいになってたからさ。

まあ、確かにカンヌっていう武器は強力だけど、4冠なんていうと、コンペ部門で通っているみたいな錯覚起こしそうだけどなあ……ていうか、今までならコンペ部門外でどんなに賞獲ったって、こんなに喧伝されなかったよね。それともこの監督の名前が一般的にあまり知られていないことを憂慮して、キャンペーンではそれ押しでいこうと決まってたのかな?などと、なんかどーでもいいことまで気になってしまう。
いや、でも確かに「運命じゃない人」の影響力は凄かったかもしれない。観た人全てが、この映画凄いよ!と他の人に言いたくなるほどの魔力があったし、その後しばらく「運命じゃない人」もどきな、謎解きワンシチュエーション映画がゾロゾロ出てきたもんなあ。んでもって、そのどれもが、やはりというか当然というべきか、「運命じゃない人」の足元にも及ばなかった。やはりあの映画には、名刺代わりになるだけの力があったんだよね、やっぱり。
それにあの映画に主演してから、それまでは決して売れている役者とは言えなかった、バイプレーヤーとしてだってそれほど顔を見ることもなかった中村靖日がどんどん世に出まくり、ついにはキムタクとCM共演するまでにもなったんだから!やはりやはり、あの映画の影響力は確かに凄かったのだ。

でね、これから私が書くよーな感想文は、ぜえったい、やっちゃいけないんだろうなあ。でもさでもさ、もうこの映画って、ひとっことも、言えないじゃない。
オフィシャルサイトを見てこれほどひとっつも判らない映画っていうのも珍しい。どこが見どころか、台詞ひとつもうっかり言えない。でも、言っちゃうもんね。だってそうするしかないじゃん。
正直、一番最初に予告編を観た時には、ベッドの下から出てくる大量の万札や、ウッカリすべり出てくる拳銃、と、あれれれ、「運命じゃない人」とおんなじ感じ?と思ったんだよね。
でも、違った、当然。物語自体もそうだけど、時系列の置き方がまず全く違ってて、この監督の恐るべき引き出しの深さを思い知った。
そして、更に鮮やかに観客を出し抜く騙し方。いくつかのチャプターに分けて、徐々にナゾを解明していく「運命じゃない人」と違って、前半でナゾをひっぱる自信があるってことだよね。

二度目観ると、ほおんとに、一個一個のナゾというかワナが解けて、もーホントにスッキリする。
一回目は、突然つながる筈のない二人がつながった中盤から、怒涛のように次々に鎖がほどけていって、え?え?え?と頭が忙しく働くだけで終わっちゃったかもしれない。もう焦りまくって、前半のあの場面、この場面を頭の中でリプレイしまくって、後半の話になかなかついていけなかったもん。
だって、ラストクレジットの直前の、エレベーターの監視カメラの一瞬の映像にまで、ワナが仕掛けられているんだもん!
もうそこでぐったり椅子にもたれかかっちゃったもんだから、ラストクレジット後の政治家逮捕のリンクにまで、思考が及ばなかった。むしろ、そこまで付け足しちゃうのとその時は思ったんだけど、それもまた二回目観てみると、「ヤクザなんかよりももっと大切にしなければならない人」として、しっかりと台詞に伏線が張られてるんだもんね。

とか思いつきで話し始めたって、何がなんだか判らない。つーか、ラストクレジット!そうラストクレジットよ。これを見ちゃえば、もう全てが氷解する。そう、この映画はその人物の役名さえ、ウッカリ言えない、ラストクレジットだけで、ネタバレになっちゃうのだ。
その最たるものは、ナゾの女として宣伝でも、物語自体でもずうっと引っ張ってきた田畑智子が、ヤクザのボスの愛人の、あゆみであると思わせ続けてきた彼女が、実は大泉先生演じる神野の妹だったって、トコよね。
同じ姓を持っているとラストクレジットで知れると、うっわこれ、ラストクレジットになってから絶対、次の観客入れらんないじゃん!と思う。
そういやー、一時期、ラストは誰にも話さないでください、みたいな宣伝の仕方がハリウッド映画で流行ったけど、そんなのメじゃない、ラストどころじゃないんだもの。何も話せない!

ううう、自分で書いてて全く話が読めないぜ。でも確かに、中盤まではほんっとうに、全く話が読めないの。それは、突然現われた胡散臭げな探偵から、木村の行方を捜している、と聞かされた中学教師の神野の困惑から始まる。
木村とは、神野の親友。どうやら妊婦の妻を置いて失踪したらしい……神野が何度となく言う「ちゃんと説明してくれよ」っていうのが、観客側の思いであるわけ。
でもね、神野は、確かに観客側を代弁しているような顔で、ワッケ判んないよ、何が起こってんだよ、木村は確かになぜか帰ってこないけど、そんなヤツじゃない筈だし、お前こそ木村の何を知ってんだよ、って感じな訳。
だからこそ観客はワケ判んないながらも、この人好きのする神野に共感するからこそついていけるんだけど……その探している筈の木村が、神野が部屋に戻ってくるとノンキな顔してくつろいでいるんだから、仰天しちゃうのだ。
もうそっからは、頭の中が前半のリプレイしまくり状態。

全体を通してみれば、神野は、そして木村も、彼らがかくまっている美紀も悪いことなんかしてないし、何もたくらんではいないんだけど、むしろ単純でおめでたいヤツだったのは、外見上はスカしててそうは見えない探偵さんの方だったんだけど。
でも、神野の、それを演じる大泉先生ののほほんとした雰囲気が、探偵さんの言う、自分が見えていることだけを信じている、友達だからと無条件に信じている、という彼から言わせればムカつく、観客の側からは非常に好感の持てる人物だっただけに、それが装われた姿だったのかと、いきなりスコーンと裏切られた感があって、この折り返し地点はかなりのショックなのよね。

探偵さんは最初、神野たちの同級生である島崎として中学校を訪ねてきてたけど、その島崎として神野に会ってしまうのは予定外だったということなんだよね?
実際に友人に会ってしまうとボロが出る。でも神野は思い出せない風だったから、押し通した。それは神野の演技だったのにさ。
神野はきっと本当の島崎とも、仲が良かったんだろう。だから島崎を騙って現われた探偵さんを、即座におかしいと思った。今自分が関わっていることに関係があると思った。島崎であると押し通しながらも、探偵である身分を明かしたから。
島崎が神野の妹が好きだったというのは本当だったんだろう。だから妹と映っている木村の写真を見せた探偵さんが、島崎じゃないと断定することが出来た。

だからさあ……これじゃ何の話かホンット、判んないって。まあ、私も正確に追いかけられるかどうかはすこぶる自信がないんだけど……まずね、この前半部分で木村がいないままに出産する、常盤貴子演じる美紀は、木村の妻ではないわけね。
すんごく、そう思わせるような描写なのよ。そりゃー勿論、監督のダマシなわけよ。
冒頭、木村は彼女の用意した朝ごはんを食べている。「新しい靴買ったの。頑張ってくれてるから」「ありがとう。じゃあ、履いていく」そして彼は、お腹の赤ちゃんに顔を寄せて「じゃあね」と言って家を出る。
「もっと仕事を頑張ってもらわなくては困る」などと言っている初老の男は、このシチュエイションじゃ彼女の父親として認識されちゃうに決まってるし、その全てが、実にソツがないのだ。

実はこの男は美紀を警備している警察官であり、木村の“仕事”っていうのは、彼の会社がヤクザとつながってウラの仕事をしている証拠をつかむことであり、彼女は、そのヤクザのボスに理不尽に買われていた金づるの愛人で、そのお腹にいるのはボスとの間の子供なのだ。
そんな美紀がなぜ、木村の元にいるのかというと……木村の元にいるというのも正確ではないことが、後に明らかになる。大体この部屋自体が神野のもので、木村は出勤前、彼女お手製の朝ごはんをご馳走になるために立ち寄っただけなのだ。
そして、探偵が手にしてやってくる、木村が若い女と会っている写真、その若い女というのは、警察官である神野の妹であり、「妻が妊娠中にウワキなんてよくあることだろ」としたり顔で探偵が言うことを観客がついつい納得してしまうような仕掛けは、後にいちいち解明されてしまうのだ。
木村が今やっている仕事のことを、美紀があまり聞いていなかったのは、妻に隠し事がある訳じゃ勿論なくて、この経緯で充分傷ついた彼女を思いやっている、いわば木村の切ない片思いの思いやりだったんだもの。

だってさ、二回目観るとホントよく判るんだけど、美紀は、木村の名前を一度も呼んでないんだよね。呼んだら最後。だって木村君と呼ぶしかないんだもん。そうしたら夫婦じゃないことが一発で判っちゃう。
一方で神野のことは何度も神野君、と呼びかけているんだよなあ。そのこと自体、最初から美紀の心が神野に傾いているのを示しているようなもんなのに。観ている時にはぜんぜん気づかないんだよね。上手すぎるんだよなあ。

おっと、またワケ判らんうちに先走ってしまったが。というか、先走るしかないんだもんね。全ては中盤以降からどんどん謎解きがされるんだもん。
何が起きたか判らない顔で木村探しに協力させられる形の神野は、でも結局、最初からすべてを判ってた。ただひとつ判らないのはこの探偵が誰から遣わされてて、木村を探し出してどうするつもりなのか、だったから、知らないフリして彼の言いなりになってた訳なんだよね。
探偵の目には、いかにも世間の何にも判ってない、そう、母校の中学の教師をしてるなんて、いまだに中学から卒業してないような甘ちゃんに見えたから、どっか、というか完全にナメてたのだ。

一方の探偵さんは、確かに相当人生の辛酸をなめてきた感じはアリアリである。大物ヤクザに多額の借金をしている彼、首が回らなくなってきてて、慕ってくれてる若い青年の故郷の札幌にでも高飛びしようかと思ってたんだけど、慕ってくれてると思っていたのが大きな間違いで、この青年からそんな密かな計画も筒抜けになり、あぶら汗ターラタラ状態。
後から考えてみると、この探偵さんって確かに世俗のことやいろいろ知ってるんだろうけど、最終的には彼の方がずっと人を信じきってる甘ちゃんなんだよね。その表面上のギャップが明らかになる鮮やかさもすごい。

確かに、世俗なアイテムはもう色々色々出てくる。大体この探偵さんのカクレミノである“正業”は、大人のオモチャ屋さんだしさ。
神野が彼の仕事を「オモチャ屋さん」だと聞かされてて、実際に店に連れて行かれて発した台詞「……これはオモチャ屋さんとは言わないだろ」っていうのがサイコーに可笑しい。
ウラメニューで女の子のサービスがある個室ビデオやら、羊脳インドカレーなんつーアヤしげなメニュー満載の飲み屋のオヤジさんはカンペキなロリコンで、探偵さんは邦洋取り混ぜた「非合法映像」のDVDをエサにして情報を得たりするし。
それは確かに、中学時代の友人といまだ変わらぬ友情を分かち合い、母校の中学校に教師として勤めているような神野には、到底理解しがたい世界。

でもそれでもね、それでも、いや、だからこそかもしれない、そういう世界を山ほど、いやと言うほど知っているから、逆に人生の全てを知っていると探偵さんは思い込んでて、神野のような人間を毛嫌いしているんだ。
でもそれは、カン違いなのに。そう、神野が最後の最後、探偵さんに言う台詞は、この映画最大の名台詞かもしれない。
「お前のようなヤツ、どのクラスにもいるんだよ。学校なんてツマンナイって顔して……つまんないのは学校じゃない。お前がつまらないのは、お前のせいだ」
この台詞は冷たいけれども、逆に神野の、学校への愛をすんごく、感じる。

で、肝心なことをすっ飛ばしてしまった。中盤まで、ナゾの女と姿をくらましている、という状態である木村。その相手がヤクザのボスが探しているあゆみという源氏名の女だと、探偵に依頼してきたスーツ姿の男も、そして観客もすっかりそうだと思い込んでいるんだけれど。
探偵さんの木村探しにつきあっている神野は、探偵さんがどうやらあゆみも探しているらしく、それが狙い通り、自分の妹のことをそうだと思っているらしいことに気づく。
キャバ嬢時代の同僚に話を聞きに行く場面、彼は遠隔地から指示を出している探偵さんを無視して、出産直後に撮った携帯の美紀 の写真を見せる。でもそれは探偵さんにも観客にも、ナゾの 女との写真を見せているようなカット割りにしてあるから、このナゾの女こそがあゆみだと、もう信じ込まされちゃうんだもん(この辺も、憎たらしいぐらいカットのトリックが上手すぎる!)

だって、木村はナゾの女、田畑智子と姿を消したっきり、前半はほんっとうに、ぜっんぜん出てこないんだもん。おいおいおいおい、大泉先生、佐々木蔵之助、堺雅人の三主役っていう触れ込みなのに、こんなんでいいのかよ!って思って、ハラハラしていたぐらいなのよ。
ナゾ解きで明らかにされるんだけど、源氏名があゆみだった美紀は、木村が上司と共に接待で訪れた店のナンバーワンだった。中学の同級生だった二人は、ほんの一瞬合った視線で、お互いのことが知れた。
それがまるで、二人が思い合っていた同士だったから、と、その現場をみていたキャバ嬢、後に個室ビデオ部屋で「スーパーボールコース」(まあ……ナメナメするんだろうな(爆))に従事する女の子は思うんだけど、ちょっと違った。

木村にとっての美紀は、確かに初恋の相手だった。そして美紀にとっては、初恋の相手の友人で、手紙を託した相手。
こんな、ドロドロ要素が満載なのに、基本はこんな、甘酸っぱいんである。
んでもって、その甘酸っぱさに苦さが混じっても、奇跡的に還ってきたあの純情を信じて、神野は彼女を生涯守り続ける決意をするんである。
中学時代の回想シーン、木村と美紀を演じる二人の初々しさがいい。確かに堺雅人に似ている吉武怜朗君。目がでっかいとことか。彼は最近結構出まくりだよね。カワイイし憂いもあるし演技力もある。次代の神木君かも?

美紀はね、赤ちゃんを産んだ時、「この子の母親になれたことでもう充分幸せ」って言ったんだよね。その台詞を言った時は、まだこういう状況が全然判んなかったから、夫がウワキをしても、私は大丈夫っていう意味だと思った。
そばについている神野が「どうしてそういうこと言うの」って心配そうに言って、彼女が「ゴメン。子供を産んだら、ちょっと湿っぽくなった」って言うから、ホンット、木村の浮気は大決定!って思っちゃったんだよね。
ホンット、上手いんだよなあ、こういう台詞で観客を騙していくの。でもね、後から台詞を照合しても、全然ヘンじゃないし、それどころか、ちゃんと本来の意味で、もっともっと深く響いているんだもん。上手すぎて、腹立つ!
そう、美紀はもっともっと深い意味で、この赤ちゃんの母親として生きていく使命を、ずっとずっと感じ続けていたんだもの。

執拗に追い続けるヤクザのボスに、彼があゆみにプレゼントした服を着てうつぶせになって頭から血を流した、ニセの殺害写真を見せ付けた。「美紀さんの替わりに、死んできたの。幸せになればいいんですよ。lこの子と一緒に」という神野の妹の台詞が、だからこそジンとくるのだ。
そして、その幸せをサポートしようと決意している神野にも。
様々に張り巡らされているトリックも、ここが一番好きで、幸せ気分。観客には何も知らされていなかった前半、神野が木村に貸した車、木村がそのまま姿を消し、レッカー移動されてしまった車を神野が引き取りに行く。
神野がダッシュボードから神妙な顔をして取り出した指輪は、そりゃトーゼン、このナゾの女(動いているヤクザ連中や観客にはボスの愛人、あゆみだと思い込まされてる)に木村が用意したもんだと思ってたわけ。
でも違う。これは神野自身が用意していたもので、神野の車を勝手に拝借した木村が発見し、彼の決意を思い知ったのだ。そもそもこんな高い外車を買ったのも、キャバクラから逃げ出してきた運命の初恋の相手を乗せた時、なかなかエンジンがかからなかった古くてちっちゃい車に業を煮やして「絶対新車買うぞ!」と言って買ったのがいきなりこんなスゲー車だったのだ。美紀のためだったのよ。

そして美紀は助けてほしいと言った。愛人であるヤクザのボスが関わっている密輸事件やらが彼女の口から表沙汰になって、思いもかけぬ大事になって、社員である木村は当事者として警察に協力することになったけど、思えば神野は一人部外者だったのかもしれない。
だからちょっと臆していた気分があったのかもしれないし、何より心細い彼女を、守ってあげたいと思ったに違いないのだ。
思えばね、木村はカワイソウな男だよね。後に神野の妹に告白するように、初恋が甦る形で、神野と同様この間、彼女に恋していたに違いないんだもの。
でも木村は、彼にしか出来ない、不正を暴く使命があったし、中学の頃から彼女が神野の方を好きだってことは知っていたから、手を出せなかったんだ……。

そして後に、木村が消えた数時間が明らかになる。木村は決してナゾの女とシケ込んだ訳ではないんだけど、でもこの場面は、切なくもちょっぴり神野の妹の恋心も感じさせてドキドキとする。
そういやあ、神野は木村がつかまらなかった数時間、彼が自分の妹と一緒にいたことを、お前何やってんだよ、妹に手出したんじゃねーだろーな、みたいな雰囲気があったんだよね。
木村は、いや、ちょっとお茶をご馳走になって、ホットケーキ焼いてもらったりしてその間にレッカー移動されちゃった、と言い、確かにそれは本当なんだけど、お茶をご馳走になる場面までは追いかけてないから、何となくしどろもどろになる木村に、あらまさか、それ以上の親展があったんじゃ……とついあらぬ想像もしてしまうのだが、でもやはり妹が言うように「木村さんはそんな人じゃない」んだろう。紳士で、マジメで。だから彼女は木村が好きなんだろうし。

回想されるその場面。妹をマンションまで送ってきた木村は、彼女が兄のこれからを心配するのに答え、「神野は覚悟決めてるよ。車の中に指輪用意してあったからね。見ちゃったんだ」と言う。この時点であの指輪のナゾ、というか誤解がまず解けるのだ。
「僕にとっても、初恋の相手だったからね。嫌いにはなれないよね……」と言う木村にガックリきながらも同情を寄せる妹は、なかばゴーインに「哀しい時には、甘いものですよ。何が食べたいですか?」と木村を部屋にいざなうんである。
「あー……じゃあ、ホットケーキ」「頑張ったのにね。切な過ぎますよね。」そう言いながらエレベーターに乗り込む、その映像が監視カメラに映っている。神野が探偵さんに見せられた、彼女が木村の胸に頭をあずけていた場面だ。

そりゃお兄ちゃんは、妹が木村のことが好きなのも知っているから、ここから連絡のなかった数時間、木村が妹になんかしたのかと邪推したのは仕方ない。
しかし、ここで交わされていた会話は、「でも、新しい靴、買ってくれた」「あ、ホント、良かったね」!!!妹は木村の新しい靴を覗き込んだだけだったのだっ!
車がレッカーされた間の、神野が疑った妹との一夜は、ホットケーキをゴチになっただけの(まあこれからのことは大いに期待できるが!)まだまだ恋の始まりにさえならないもの。
でもそれ言ったらさ、この四人は中学時代の純粋な思いを皆が皆、ありえないぐらいピュアに引き継いでいるんだよね。

うどん屋に社長を呼び出し、その後はヤクザもご登場、次々に悪事が露見していく場面、悠然と証拠を構えている木村は確かにカッコ良かった。
彼が婦警さんに「僕、カッコ良かったですか」と思わず言ってしまうのも判る。「……いえ、特に」ってソデにされちゃうけど(笑)。
後は本当に、警察の仕事になる。「今までご苦労様でした」とお互いの健闘を讃えあって握手しようとする木村を警官はあっさり無視。うーん、やはりこのあたりは探偵さんが“警察の犬”と彼らを評したのも、ちょっと当たっていたかもしれない……。
でも、刑事さんが振り返って言う、「あ、佐野美紀さんは、あなた方に任せていいんでしょうか」という台詞に「ええ」と木村がうなづき、彼らに聞こえないように木村が続けて「神野が」と言う、このシーンではまだ、指輪の話も、実は彼女が中学時代告白していたのが神野だったことも明かされていないから、えっ?と思うんだけど、見事にほんわかあったかなハッピーエンドに向かって進んでいるのだった。

ラストシーン、正確には本当のラストシーンではない、ラストクレジット前のシーン、車椅子の美紀のそばに彼女を守るように立っている神野、二人の目の前には思い出の中学校の校庭が広がっている。
あの時、木村経由で手紙を渡された神野。転校してしまうという美紀は、それきり姿を消した。
「探したんだから、ドキドキしながら。一緒に帰ろうって言おうと思ってさ。心臓口から飛び出すかと思った」
「ごめんね。ウチ、夜逃げ同然だったから……友達にも言えなかった」
「一緒に帰ろうよ。僕の部屋に」
……泣けるんだよなあ。

なんか思わず、「運命じゃない人」の話を読み返してたらさ、あゆみちゃんって、「運命じゃない人」でも、あゆみちゃんじゃん!しかも同じくヤクザの女!
「お前、今どこにいるんだよ!」なんて台詞も、まんまカブる。状況はもちろん違うけど、かたっぽの男が女性と一緒にいて、対処に困って友達の男に電話するという状況だけ見れば、確かにカブるのだ。偶然か、故意か?なんか楽しい。
そんな幼なじみの男二人の友情も共通してるんだよね。「あいつは子供の頃からの親友だから心配なんだよ」ってな、友達を200パーセント信頼しきっている台詞も本作に通じてる。内田監督、結局はあんまり女を信じていないのかも!?★★★★☆


歩いても 歩いても
2007年 114分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕 音楽:ゴンチチ
出演:阿部寛 夏川結衣 樹木希林 原田芳雄 YOU 高橋和也 田中祥平 野本ほたる 林凌雅 寺島進 加藤治子 田中智也 田中啓介 工藤美友里 田村光弘 高橋義治 堀江ゆかり

2008/7/13/日 劇場(シネカノン有楽町1丁目)
「花よりもなほ」は、なんだかやっぱりちょっと、似合わない気がしたんだけれど、あの作品でチャレンジした軽いユーモアが、本作につながってくるのかな、と思った。
そう、人生は、楽しいばかりじゃないけど、でも辛かったり悲しかったり悔しかったりする中に、ちょっとクスリと出来ることは、きっとこんな風にいつだって見つかる。
それは会いたくない人、会いづらい人に、でもこんな風にたった一日でも会って、気を使いながらも、本音を隠しながらも話をすれば。
会ってみなければ判らない、分かり合えること。
そして、やっぱり近づけない部分。

人間は、近寄り過ぎると、きっとなかなか上手く行かなくて、だからこの家族のように離れた時間が多くなってしまったんだけれど、このたった一日が、色んなことを引き寄せた。
たとえそれが、いろいろと「ちょっとだけ間に合わない」ことを思いださせて、今回もやっぱり「ちょっとだけ間に合わなく」て、この時約束したいろんなことが……たとえ本気で約束した訳じゃなくても、やっぱりかなえられないまま、この後会うこともなかったとしても。
泣いたような顔をしたお相撲さんの名前を、黒姫山だと思い出したことを、母に教えられずに帰りのバスに乗ったこと。
いつか孫も連れて父親とサッカーを一緒に観に行こうと言った約束は「いつかね」と言った時点で、もう実現の可能性は殆んどなくなってしまうことを、きっと息子は判っていたに違いないのに。

もう40の坂を越えた息子が、再婚した女性とその連れ子と共に、久しぶりの里帰りをする。
姉家族も帰ってきている。夏の暑い暑い、どこまでも照らし渡して影のない、ウソのつけない真夏の光の中。そのたった一日の物語。
あらゆる家族にきっと当てはまることがある、さまざまなこと。
それでも、ちょっとだけ他の家族と異質なのは、この家族の長男がもうこの世の人ではないこと。
奥さんのゆかりは夫の良多のことを「あなたは長男なんだから」とつい口に出すけれど、彼は「いや、オレは次男だよ」と言う。思わず気まずくなる。
町医者の父親は、優秀な兄に後をついでもらうことを望んでいた。弟の彼にはそれが果たせなかった。

兄の純平は、溺れた子供を助けて死んでしまったのだ。あまりにも、やりきれない死。
毎年、この命日に助けられた子供、もはや肥満体に育った青年が訪ねてくる。近況報告をし、線香をあげ、おそらく毎年同じ台詞を言うのだ。助けられたことへの深い感謝を。
そして恐らく、子供を亡くしてもう15年がたつこの老夫婦も、同じような会話を交わすのだろう。あんなに太って、フリーターだと。なぜあんなヤツのためにうちの息子が死ななければならなかったんだと。
その会話を聞きとがめた良多が、もういいだろう、可哀相だろう、来年からは来てもらわなくてもいいじゃないかというと、老いた母親は穏やかながらきっぱりと言った。来てもらいます。10年やそこらで忘れてもらっちゃ困るのよ。憎む相手がいないだけ、こっちは辛いんだから、と。
形骸的に誰かを憎み続けることが、生きる力になっていることに呆然とする。
しかしそれが、必ずしもネガティブなばかりには思えないことにも。

この場面は物語の中盤、いわばメインとなる大きなうねりとなっているんだけれど、そこを中心として小さな波が立ちまくっているのだ。
例えば、良多が再婚したゆかりには連れ子のあつしがいて、しかも彼女は未亡人。そのことを母親は控えめながらも結構あからさまに指摘する。良多の方は前妻とは普通に?離婚なんである。
母親は言う。死に別れより、生き別れの方がいいのよ。死に別れは、憎んで別れた訳じゃないんだもの、と。怖いこと言う、お母さん、と娘のちなみは呆れ顔をする。
このアッケラカンとした娘を演じているのがYOUで、夫と共に両親との同居を考えている彼女は、長男の死や次男とのギクシャクした関係を充分わきまえながら、それをいい意味で笑い飛ばしているような気楽さがあって、彼女の存在にほっとさせられる。

その夫もまた、いい具合に明るい男で……まあ、母親から言わせれば、あんな口ばかりの男、ってことになるんだろうけれど、それは確かにホントで、風呂場のタイルの修理をやりますよとか言っておきながら、メシ食って昼寝して帰っただけのテキトーな男だったんだけど、そういう存在も、こうしたピリピリしがちな場には確かに必要なのだ。演じている高橋和也がさすがに絶妙。
長男の死の原因になった青年のことで、良多が、生きていたって兄さんもどうなってたか判らないだろ、と自分がかえりみられないことも絡めて反論して、家族が一触即発の空気になった時。
あのYOU独特のカラリとした風で「いいじゃないの。謝ってたじゃない。生きていてすみません、すみません、あれは太宰治だっけ?」などとどっかトンチンカンなことをいうから、それを受けて母親も「林家三平じゃないの?スイマセン、スイマセンって」なんてボケをかまして場が収まったりしちゃうのだ。

そうなの、この母親を演じているのが樹木希林だから、笑わせられるし、……それは、彼女がキツイこと言ったり、コワイこと言ったりしても笑わせられちゃうんだから、それこそ本当にコワイかもしれない。
あの、生き別れ、死に別れの話ね、だから母親は良多の再婚にはなあんとなく、心から賛成していない感じみたいな訳。
それを察しているのか、二人が両親と顔を合わせるのは、今までに数回だったらしい。良多が、今はこんなこと、珍しくもないよ、と母親に諭しながらも、普段は良ちゃんと呼ばれている連れ子のあつしに対して、今日だけはパパと呼んでくれよ、と涙ぐましい懇願をしていたりして。

子供を作るにはギリギリの年。作る気はあるのか、と母親は嫁のゆかりに赤裸々に聞いてくる。どうでしょうねえ、彼とも相談してみないと、とあいまいに逃げるゆかりに、そうねえ、あつし君の立場もあるし、作らない方がいいかもねえ、なんてことをサラリと言うもんだから、ゆかりはさすがに、笑顔のままで固まってしまうのだ。
そもそもこの母親、息子に「子供を作ったら、別れられなくなる」なんて台詞まで口にしていたし、正直ヒッドイなー、と思ってた。
ただ、この母親が秘密にしていたことが後半、どんどん明らかになってくる。それに対して夫や息子は「女って、コワいな」と戦慄するんだけれど、ゆかりは、「そうかな、普通じゃない」と、笑顔を見せる。そうここだけ、でも女心の根本的な部分で二人は共感するのだ。

生き別れ、死に別れというのは、勿論、思いがけず亡くしてしまった長男の純平のことも、あっただろうと思う。
もうそうなると、優秀で、先行き楽しみだった自慢の息子、ということしか残らないのだ。ネガティブな部分は一切、残らない。100パーセント。だからこそ、それまでも決して期待されなかった、二番手にすら据えられていなかった次男の良多は、苦悩する。
母親が、そこまでを判ってて、死に別れの女を後妻に迎えることに難色を示したのかどうかは判らない。でも明らかに、この部分に通じるのだ。

ずっとずっと、母親にとっては100パーセントの息子。勿論父親にとってもそうなんだけど、こと父親に関しては、プライドのある医者という仕事をついでくれる存在としての認識があったように思う。
だから、医者という選択をしなかった次男との距離があるのだし、その次男の義理の息子に、医者はいい仕事だぞ、なんてこずかい渡してまで洗脳しようとするんである。
なんかこう考えると、母親の愛と父親の愛のどちらが正解なのか、いや正解という言い方はそれこそ正しくないのだろうけれど……まあざっくばらんに言えば、どちらがアリなのか、判らなくなる。
なんか、どっちもヒドイ気がするし、どっちも深い愛情のようにも思えるし。
いや、どっちの要素も含んでいるんだろう。親の愛がイコール美しく素晴らしいものとは限らない。
それでも、親の愛なのだ。それには違いない。

老齢で、もう現役を引退した町医者だった父親は、しかし今でも“先生様”なのよと、母親は言った。娘がコンビニで牛乳買ってきてと言っても、しらんぷり。コンビニ袋をさげた姿を近所の人に見られるのがイヤなのよ、と母親が言った。
でも、そんなプライドも、もう今はどうにもならないのだ。それまでずっと看ていた近所の老いた女性の窮状も、もう救えない。助けの電話に、私にはもう何も出来ない、救急車を呼んでくださいと彼は力なく言い、何も出来ずに救急隊員に押しのけられて、救急車の後ろ姿を見守った。
ゆかりの連れ子である孫のあつしに、医者はどうだと勧めてみた。すると彼は、自分はピアノの調律師になると言った。
その理由を、音楽の先生が好きだからなどとごまかしたけれど、本当は、自分の亡くなった父親が調律師だったことが最後の最後に明らかになる。
なんだかそれは、今の新しい家族を形成した良多たちにとっては残酷なようにも思えるけれど、でもこれが家族なのだ。

ゆかりはあつしに、死んでしまったからといって、いなくなったわけじゃないのよ、と言った。この夏休みのたった一日の経験は、物心つくかつかないかの時に父親がなくなった息子に、死の概念を教えるのにいい機会だったに違いない。
でも多分、この子はそのずっと前から感覚としてそれを判っていたに違いないし。
彼の半分は亡くなった父親、そして半分は母親で出来ている。じゃあ良ちゃんは?と聞くと、これからじわーっと入ってくるのよ、と彼女は言う。知らずに部屋に入ってきた良多が、なに、じわーって。と言う。母と息子は笑い転げる。
家族というものは、本当に、一概には言えないのだ。
でもとてもとても、尊いもの。

このタイトルが、まさかいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」から来ているとは思いもしなかった。
その中に出てくる歌詞。歌ってみれば、ああ確かにこんな歌詞があったと思い出す。
娘家族も帰り、夕食の宴にうな重を食べている一同、思い出の曲があるんだと、唐突にレコードを息子にかけさせる母親。
あなたにも関係ある曲よ、と言われて、なんのことやらという顔を見せた父親は、曲が流れてきて顔色を変えて沈黙する。
良多はその意味するところが判らず、そういやあ、おふくろ、たまにこの曲歌ってたよな、と言った。
沈黙する父。
その後、風呂に入っている父親が、着替えを置きに来た妻に問う。お前、そのレコードいつ買ったのかと。
浮気現場を「ジャマしちゃいけない」ときびすを返した時に、部屋から流れて来たのがこの曲だと、彼女はしれっと言った。そして翌日、商店街のレコード屋で買ったのだと。

両親のただならぬ過去を察して、「おふくろ、一人でこの曲聞いてたのか……コワイな」と思わずつぶやく良多にゆかりは「いいじゃない。一人でこっそり聴いている曲ぐらいあるわよ」となぜか楽しそう。お前にもあるの、とちょっとおびえ加減に聞かれた彼女はさらに楽しそうに「ナイショ」とえくぼを見せる。
それは、ちょっとイジワルな姑の弱みを見つけたというよりは、そんなイジワルな姑も、同じ女として共感できる部分があるんだという、親友を見つけたような、喜びに見えるのだ。
でも勿論、そう単純に、上手いことはいかないんだけど。この嫁姑が、真に仲良くなることは、ないんだけど。

良多に新しい、ダサめのパジャマを買ってあった母親に、「息子のパジャマを揃えてあげたいんでしょ」と理解を示しながらも「どうせなら、私の分のパジャマも用意してくれれば……」とつぶやく彼女は、歓迎されていない自分をこうしたささいなところにも敏感に感じてピリピリとする。そんな場面は沢山ある。
でも夫が、亡くなった兄に比べられて苦しんでいるのも判っているから、耐え続けている。
それは、こんなシーンが印象的。とうもろこしを隣の畑から盗んだ両親、次の日、そのトウモロコシのてんぷらを作っている最中に、お隣さんからとうもろこしのおすそ分けをもらってしまった。とっさに「お母さん、昨日スーパーでとうもろこし買うことなかったね」
そのエピソードはこの料理が作られるたびに語られているらしく、良多は苦々しい顔をするのだけれど、彼が一番言いたいのは……その気のきいた台詞で危機を救ったのは、両親は優秀な兄だからと思っているが、実際は……「あの台詞を言ったの、オレだからな。……まあどっちでもいいけどさ」と、良多はごちるのだ。どっちでも、良くないくせに。

良多の仕事は絵画の修復師。今は失業中である。ただでさえ医者になれなかったことにギクシャクしている間柄で、「食えていない」なんてことがバレれば、親子喧嘩が再燃するのは必至である。
でもそれでも、「絵のお医者さん」という言い方に、やはりどこか、こだわっているようにも思える。そして彼は小学校の時の作文に、「お医者さんになりたい」と書いているのだ。
母親が大事にとっておいたその作文を、ぐしゃぐしゃとまるめてしまう良多。
でも後に、破いてしまった部分をテープで修復し、子供の頃の自分のつたない文字をしげしげと眺める。
そこには、父親と、兄と、自分の姿が、これまたつたない筆致で描かれているのだ。
きっと、彼はお兄ちゃんが好きだったんだろうし、医者になるのも、お兄ちゃんと一緒に、なりたかったのだろう。

部屋の中に迷い込んできたちょうちょを、母親はどこか憑かれたように追いまわした。
純平かもしれないじゃない、と言って。
家族はただ、戸惑いながらそんな母親を見守るしかなかった。
じっとその様子を見ていたあつしは「さっき、おばあちゃん、ヘンだったね」と言う。「ちょうちょが、そう見えたんだよ」良多はそう言うしかなかった。
冒頭にね、このあつしが先生に叱責されたエピソードが出てくるのね。学校で飼っていたウサギが死んで、そのウサギに皆で手紙を書こうとクラスメートが言った時、笑ったんだと。何で笑ったのかと良多に聞かれて、「だって、読む人なんていないじゃない」と彼は言った。
でもこんなおばあちゃんの姿を耳にしたり、母親から、亡くなった父親のこと、それでもまだここ(心)にいるんだよ、と言われたこと、たった一日の間に起こったいろんなこと。
死んだウサギに手紙を書くなんてヘンだと笑った彼が、でもきっと今はいない父親にそうしたいと思っている彼が、生と死の概念を少しずつ、理解していく。

次の日の朝、親子三代の男たちは連れ立って外に出かけた。
「海に行っちゃ、ダメよ」と呼びかけるおばあちゃんに「判ってる!」とあつしは返事をしながら、躊躇なく海に向かう親子三代。
さびたらせん状の歩道橋の奥に見える海。全ての運命を決定付けた海。
その海を、冒頭はただ眺めていた父親は、最後には息子と孫と共に向かうけれど母親は結局、行かない。それが、この両親の関係であり、ひょっとしたら溝であり、でもそれを判って最後まで一緒にい続けることなのだろうと思う。
良多は父親に、今も野球を見ているのかと聞いてみる。すると意外なことに父親は、今はベイスターズじゃなくて、マリノスだろうと言った。しかもスタジアムにも観に行くと言う。驚く良多。
「ひとりで?」「……」って、オイオイ、こりないな、ジイさん!まだいるのかよ!
「ぼうずもつれて、観に行こう」「そのうちね」こんな会話、世界中の親子の間で交わされているのだろう。そして、実現されないまま……。
「船が沈んでるよ」あつしが声をあげて指差した先には、傾いたまま波打ち際に突き刺さっている船がぼんやりと見えた。

同じ樹木希林がオカンを演じた、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」よりも、このオカンの方がずっとずっと、リアルだ。いろんな意味で、残酷だけれど、だからこそ。
なんかやっぱり「東京タワー」のオカンは、理想的に過ぎたような気がするんだよね。可愛かったけど。
同じ息子からの視点なのに。いや、本作の視点はそれが見えていなかった息子に変わって、娘や、第三者として入ってくる妻やその子供たちにこそ、ゆだねられているからだろうと思う。
母親が作る、バチバチ音をたてて揚がるとうもろこしのかき揚げはなんて美味しそうなのだろう。その身を外すのは昔から良多の仕事だった。好物だったのは兄の方だけど、と述懐するのも、印象的。どんなエピソードにも家族の心の引っかかりが感じられるのが、ちょっとずつ痛い。
美味しそうに煮あがる豚の角煮。みょうがと枝豆の寿司飯。老いた母親の心づくしのごちそうは大人には美味しそうに映るけれど、遊びにきた孫たちのために寿司やらうなぎやらをとってやるのも、切ない。

何年かがたち、良多たちは墓参りに来ている。もう両親はいない。
約束も果たせず、黒姫山のことも教えられず、両親は相次いで亡くなってしまった。
あの時、子供は作らない方がいいと言われていたけれど、彼らの間には女の子が生まれた。家族四人、暑い暑い坂道をのぼって行く。
黄色いちょうちょが目の前を舞う。良多は幼い娘に、あのちょうちょは冬の間死なずに生き残った白いちょうちょなんだよ、と教える。誰から聞いたの?と問われると、良多は、誰だったかな……と口ごもるのは、本当に忘れているのか、それとも……。

それを教えてくれた、母親。その両親のラストシーン、木漏れ日の石段を、のぼって行く後ろ姿は、お互いにまだヒミツはあるんだけど……黒姫山のこと、お母さんは思い出したけど夫には教えなかったりするんだけど……今までの人生の道のりを静かに感じさせて胸に迫る。
実際は父と息子の葛藤がメインなのに、女の側面ばかりが気になるのは、やっぱり私が女だからなんだろうな。★★★★☆


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