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「し」


2008年鑑賞作品

しあわせのかおり
2008年 124分 日本 カラー
監督:三原光尋 脚本:三原光尋
撮影:芹澤明子 音楽:安川午朗
出演:中谷美紀 藤竜也 田中圭 八千草薫 下北史朗 木下ほうか 山田雅人 甲本雅裕 平泉成


2008/11/5/水 劇場(シネスイッチ銀座)
中国料理人のワンさんとシングルマザーの貴子とが、中国料理を通して触れ合っていく心と心。
この設定は、予告編で画として観た時にはとても新鮮な感じがしたけれど、劇中貴子が「ワンさんの料理をはじめて食べた時、とても懐かしい感じがしたんです」と言うように、これを家庭料理なり、大衆食堂なりと置き換えてみると、案外とてもオーソドックスな話なのかもしれない、と思った。

でもそここそを変える、あるいは変えざるを得ないのが、今の世の中というものなのかもしれない、と思う。
貴子がシングルマザーになったのは、愛する夫と死に別れたからだけれど、それこそ離婚は年々増加しているし、最初から子供だけを望む女性だっている昨今。これはやはり、現代の世相を映し出していると思われる。
そしてそんな風に頑張り過ぎる30過ぎの女が、一人頑張り過ぎて、心を病んでしまうというのも……。
ていうのは、本当にもうそろそろいいよと思うぐらい、一人で頑張る女性が心を病むという映画に遭遇するんだけどさ。
その女性がかつては20代だったのが30代になり、なんだか常に自分と近い年代のような気がしてしまうのは、私がただ単に自分の年を気にしているせいなのか、はたまたやはり、私たちの世代に悩める女が多いのか?

そして一方のワンさんもまた、世界の境界線がなくなった現代、東京ではなく金沢という地方にも、こうした異邦人が一人、生きているという社会を明確に切り取っている。
しかもそれが目新しいものではなく、彼はこの地に30年根を下ろしており、地元の人たちからの信頼も篤い。
劇中、脳梗塞を発症して身体が不自由になった彼が、「もうワンさんも終わりだな」などと言われるのも、裏返して言えば、それまで長きにわたる彼の頑張りがあったればこそなのだ。
最初から受け入れられていない人物ならば、そんな台詞さえ吐かれないだろう。キツイ言葉も、その土地に住み続けていればこそ、得られるものなのだ。

ワンさんも貴子も、その以前は東京という大都会にいた。
ワンさんは故郷の中国、紹興からスカウトされて、東京の有名なホテルの料理長となったけれどなじめず、この金沢で小さな中華料理店を営むようになる。
のは、その東京で、金沢の老舗呉服問屋の女将との出会いがあったからで、「厨房で指示を出しているワンさんは素敵だった」と、彼が病に倒れてからも、厨房に立つワンさんを見ることに執着する女将と、そんな彼女を30年たっても女王様のようにまぶしく見つめるワンさんとは、なんだかただならぬ関係を思わせるんである。

いや、そんな風に言うのはヤボなのだろう。ワンさんは、故郷で流感にかかり死んでしまった妻と娘を今でも愛しているのだし、だからこそ弟子入りを申し出てきた貴子に娘の面影を見て、自分の技を伝授しようと思ったのだろうから。
一方の女将もそんなことはきっと重々承知で、貴子のことも「素敵なお弟子さんね」とベタ褒め。
いや、その前に、まるで試験をするがごとく、自分の息子とお嫁さんの顔合わせパーティーのシェフに彼女を抜擢した上で、なのだから、やはりこの女将、なかなかに侮れないのかもしれない。

貴子が東京にいたのは、就職先だったのだろうか。そこで死に別れた夫と出会い、結婚したのか、それとも金沢で出会い結婚して、彼の仕事の関係か何かで、東京に移り住んだのだろうか?
もし彼が東京の人だったのならば、貴子が感情のバランスを崩す度に娘が児童相談所を介して夫の実家に引き取られるのは、相当遠いところへと離れ離れになってしまうのかもしれない。
むしろ貴子の感情のバランスが崩れたのは、娘と引き離されたせいじゃないかとも思え、現代の様々な形の家族が、どう生きていくべきかの難しさを思い知らされる。

勿論、児童相談所は子供にとってのメリットが第一。この映画が必死に生きている貴子の視点から見ているから、児童相談所のスタッフが冷たくも見えるのだけれど、子供を第一に考えたら、精神が不安定な親の下で養育させるなんて、当然、NGなのだ。
このあたりのバランスの難しさは、現代社会の難しさに通じる。この映画の視点は、まるで太宰が言うがごとく、「子供より、親が大事」てなところなのだろうけれど、そしてその場合、こんな風に娘がやけに聞き分けが良くなければ成立しないんだろうけれど、恐らく通常は、そんなにコトが単純にはいかないだろうと思われるから。

それでもそこは、ギリギリの地平に踏ん張って孤高の美しさで闘っている貴子=中谷美紀の演技で全てが納得させられてしまうから、ズルイっつーか、なんつーかさ。
ただ、彼女自身に愛する父親の記憶があったことが、このギリギリの状態を支え、ワンさんの元で料理人になる決意を固めたことを思えば、まあやはり、家族の絆や愛は大事だと、思わせられも、するかなあ。
貴子の父親は、この金沢の地で小さなレストランを切り盛りしていたシェフだった。
貴子は幼い頃、厨房をうろちょろしてよく父親に怒られていました、と述懐する。それを聞いてワンさんは、目に浮かびます、と微笑んだ。きっと彼の娘もまた、そんな風にジャマをしては、彼に怒られていたのだろう。

しかし、貴子は父親の記憶のみを言い、母親の記憶が語られないのが少々、気になりもする。
そして、亡くなった夫の記憶も語らないのも。家族三人の写真を、父親とのツーショットの写真と共に飾っているのをみると、きっと幸せな家族、愛しあった夫婦だったんだろうと思うんだけど、写真一発で終わらせて、夫の死後に彼女の感情障害が発症した、などと言われると、なんとなく釈然としないというか、彼女に共感する材料が少なすぎる気がするんである。
語られない部分は別に思わせぶりという訳でもなく、ただ単に最初から設定していないだけとも受け取れるんだけど、それなら尚更、ちょっと手を抜いているような気もするし。

それは、ワンさんにおいてもそうだったかもしれない。
ワンさんは傷ついた貴子を伴って、数十年ぶりに故郷を訪れる。かつて腕をふるった上海は中国の経済発展で驚くべき進化を遂げていて、ワンさんは昔日の思いをかみしめたけれど、故郷は変わってはいなかった。
自慢の老舗の酒蔵も、昔のまま。そこでワンさんは、女将から依頼された顔合わせパーティーのために、そのお嫁さんの年と同じだけ熟成したとっておきの紹興酒を調達した。

ワンさんが家族や故郷を語るのは、妻子が流感で死んでしまったとかいう程度。その寡黙さが、彼の故郷への思いを漂わせていると言えなくもないけど、やはり消化しきれない気分は残る。
久しぶりの故郷で思いがけない歓待にあって、驚いた彼は実に嬉しそうではあるけど、懐かしい顔に涙するとか、ここで過ごした過去を振り返るとかいう感じはないんだよね。なんだか完全にゲスト扱いみたいな。
ただ、ワンさんが貴子のことを「私の娘です。自慢の娘」と紹介して、そのことに彼女が涙するという場面は、実に泣かせはするんだけど、でもそれに対して誰一人疑問を持たず盛り上がるのは、それって、この故郷において彼の過去が全然知られていないってことじゃないの……。

貴子は東京ではきっと、キャリアウーマンだったんだろうと思われる。この金沢でも、登場する時点で彼女は、バリバリのキャリアウーマン然としていたんだもの。
地元で人気のワンさんの店の味を、デパートへ出店させる命を負ってやってきた彼女。パリッとしたカッコして名刺を差し出す彼女を、ワンさんは冷たくあしらった。二度来ても、三度来ても。
そのうち彼女は、ランチを食べに来るようになった。最初こそは、場つなぎに頼んでいただけなのが、ただただ、ランチだけを食べに来るようになったのだ。
ガラリと戸をあけて、「海定食お願いします」「今日は、山定食」その度に、とりどりの、おいしそうな定食が差し出された。あまりにとりどりで、それが彼女に毎回違うメニューを食べさせるためだと気付くのに時間はかからなかった。

お客さんの顔を見て料理を出すのが矜持のワンさんに、出店の意志はない。けれど、毎日毎日顔を出して、実に美味しそうに食べる貴子に、あれも食べさせたい、これも……と思っていたと、ワンさんは後に彼女に白状するんである。
いつまでたっても契約の取れない貴子を、会社はビジネスライクに斬って捨てる。あれほど、あの味でなければと言っていたのに、と貴子はショックを受ける。それは、キャリアウーマンとしては甘いとも思え、どこかの時点から、彼女が仕事のことを忘れていたことも示唆させる。
ワンさんの作るカニシューマイの美味しさの秘訣を聞いた貴子に彼が、「会社を辞めて、私の店に入れば教えてあげます」と言った。
勿論、冗談に決まってる。でも、そこまでの条件付きでの台詞は、無意識のうちに、本気も入っていたかもしれないと思うのは、結局その貴子を弟子に取ることから知れるのだ。

最初のうち、貴子がそんな、不安定な感情の病を抱えているなんて、判らなかった。途中、児童相談所のスタッフと会って、会社を辞めて料理人を目指していることを話している場面は出てきたものの、シングルマザーだから相談しているのかな、と思わせる程度だった。
それが明らかになるのは、謝恩料理会(街の飲食店が一品ずつ腕を振るう場)に、辞退を申し出ていたワンさんの替わりに、ひょんなことから貴子が出ることになったから。
着実に腕を上げつつあった貴子が、牡蠣の蒸し物に自信を得、これなら出してもいいじゃないですか、とワンさんに進言したこと。それは断わられたものの、ワンさんに関しての心ないウワサが流れ、貴子のこともイヤラしいような言い方をされていることに、野菜を収めている農家の三代目のぼんぼん、明が憤ったことが、重なり合ったのだった。

しかしその会から、食中毒が出た。新聞の一報は、貴子の扱った牡蠣が原因か、と推測した。
夏場の牡蠣というイメージの悪さ、でも岩牡蠣は、夏こそが旬だし、蒸し物なのだから、常識的に考えて、それは短絡的過ぎる。
案の定、保健所からの結果で牡蠣はシロと出たけれど、一度新聞に出たら終わりだ。それはひょっとしたら、新参者に罪をかぶせたということなのかもしれなかった。
貴子は閉じこもり、娘は夫の実家に引き取られてしまう。貴子に密かに思いを寄せていた明は、自分のしてしまったことの大きさに慟哭して、ワンさんに頭を下げた。

このぼんぼんを演じる田中圭が、とにかく可愛くてさ!途中彼は、貴子に、自分の思いを告げようとする場面があって、それは彼の若いなりの純粋さで、勿論彼女の幼い娘も視野に含めているあたりがマジメでさ、でも……言い出せないんだよね。
その場面、意を決して貴子の方を振り向いた彼なのに、彼女は気づかず、娘とムジャキに遊んでいるっていうのもベタだが……でも、きっとこの先、っていう感触も、感じられるから。
だって彼は、女将の息子の宴席という大事な場面でも、給仕役として名を連ねているし、その子犬のような従順さが、可愛くてたまらないんだもん!
こういう人って、なかなか得難いんだよねー。かつての吉沢悠がそんな感じだったけど、やっぱりそれを、保ち続けるって難しくてさ……まあ、その魅力だけを保ち続けてたら、それもキモチワルイんだろうけど……。
だから彼が、この魅力をどんな風に持続し、どこからか変わって行くのか、あるいは熟成させるのかが、凄く興味があるんだよね。

それにしても、見てるだけでお腹がすいてしまう料理の数々よ!やたらとクロースアップなのが、余計につやつや、アツアツで、空腹中枢を刺激してしまう。
ていうかさ、やはりこれは中華料理であるからこそ、なんだよね。日本料理、家庭料理だと、やっぱりコトコト煮るとか、じっくり焼くとかさ、そういう、時間のかかる、地味な作業になっちゃうから。
でも中華料理は、下ごしらえは丁寧でも(それは、貴子が習い始めた最初示され、常連客たちが除き見て、「あんなに手間かけてたんだ……」とつぶやく場面で知れるんである)、実際調理にかかって客の元に行くまでは、あっという間。
全てを一つの中華鍋で調えるという、後片付けのスピーディーさも、鍋でじっくり味を染みさせるという日本料理とはスタンスがまるで違う。
あっという間に食材が鍋の上で時に艶っぽく、時にふくよかに変化していく様は、まさに映画的。芝居を見ているように、スリリングなんである。

でもね、注文が入って、中華鍋に入れられてジャッ!と温められるのが、時間のかかる筈の豚の角煮だったりしてね、つまりはやっぱり、メチャクチャ手がかかっているのにさあ、見せる(魅せる)パフォーマンスとしての料理、なんだよね。
それってなんか、見栄を張ること前提、みたいな気もしてさあ……なんかそう考えると、中国ってそうかも、なんて思って……。第三者から見れば判り切っていることを、一見いけしゃあしゃあと、でも実際は、ギリギリに、震えながら言い張っている、みたいな。
ひょっとしたらね、貴子のように、弱さをさらす存在が、中国人のワンさんにとってはうらやましかったのかもしれず、彼女に、生きていたら新しい世界に飛び出していた娘を重ね合わせていたのかもしれない。

女将のお気に入りは、玉子とトマトの炒め物だった。
顔合わせパーティーの時、全てを任せると言いつつ、最後にこれだけ、リクエストした。貴子はワンさんにその任を譲った。これは、ワンさんが作らなければダメだと。
きっと貴子は、彼が鍋返しを特訓していたのを、知ってたんだろうな……。
汗だくになりながら鍋返しをするワンさんをサポートして、貴子がお玉を動かし、材料を投入する。
まさに信頼の、コラボレーション。
あの、ふんわりとした卵の炒め加減が絶妙な、卵とトマトの炒め物の、なんとまあ、幸福そうな佇まいなことよ!

ラスト、パーティーが無事終わり、静かに、暗くなった店内で、貴子とワンさんが二人、紹興酒をカチリと乾杯し合う場面で終わるのが、言いようのない余韻を残す。
きっとこれから、もっともっといろんなことがあるだろう。ワンさんが30年をかけた腕が、そう簡単に継承されるとは思えないし、貴子自身も自分だけの味を追及しなければ、ワンさんの30年にこれから太刀打ち出来る訳もないだろう。
あのボンボン、明がいつ貴子に思いを打ち明けるのかも、想像するだに楽しいし、娘が母親の背中を見てどう育っていくのかも。貴子が父親の背中を見て育ったように。
全てがフィクションだと判っていても、楽しいものなのだ。

でもやっぱり、こういう設定なら、ホントに中国人をキャスティングしてほしかった。やっぱり訛りとか、ウソっぽさが出ちゃうんだもん。★★★☆☆


シークレット・サンシャイン/密陽/SECRET SUNSHINE
2007年 141分 韓国 カラー
監督:イ・チャンドン 脚本:イ・チャンドン
撮影:チョ・ヨンギュ 音楽:クリスチャン・バッソ
出演:チョン・ドヨン/ソン・ガンホ/チョ・ヨンジン/キム・ヨンジェ/ソン・ジョンヨプ/ソン・ミリム/キム・ミヒャン/イ・ユンヒ/キム・ジョンス/キム・ミギョン/オ・マンソク

2008/6/24/火 劇場(池袋シネマ・ロサ)
イ・チャンドン。「ペパーミント・キャンディー」からすげえとは思ってたけど、この時には嫉妬程度だった。あー、日本にはこういう作家が出てこないのかと思って。でも前作ではもう嫉妬すら、越えた。ただ呆然、圧倒。「オアシス」の衝撃は、ただただもう、全身を貫いた。
だから彼の新作が、カンヌのコンペに出品されたことも、賞は逃がしたものの、賞賛されたことに驚きはしなかった。
やっぱり、嫉妬な心が出てくる。ああ、もう日本はここまでの覚悟を持った作品を作って、世界で戦えないのか。
あ、もう北野監督に賞とかあげなくていいから。彼は「HANA-BI」でもう終わってる。キタノと言われるたびに今は恥ずかしさにゾッとする。

そしてそのカンヌで女優賞を獲得したチョン・ドヨンの演技、演技などと言っていいのだろうかと思うほどの壮絶に戦慄する。こんな女優も今の日本にいるだろうか……この役を全身全霊で生きた彼女に監督が全てを託したことが、正解だったかもしれない。
前半、彼女はまだ普通である。いや、ソウルという大都会から、死んだ夫の故郷である密陽に引っ越してきたシネのことを、小さな街の人々は陰気でちょっとヘンな女という目で見てはいるけれど、それでもソウルの音大を出たピアノの先生ということで尊敬はしているし、表向きは普通の付き合いをしている。飲み会やカラオケにだって連れ立って行く。

でも、中盤、幼い一人息子が誘拐、殺害されたところから、シネは明らかにおかしくなる。
いやそれも、まだその最初は呆然としているだけだった。そして、キリスト教にか入信して立ち直ったかに見えたけれども、それもスクリーンのこちら側から見れば、やっぱりカラッポなまま笑っているようにしか見えなかった。そう、幸せだという“演技”
神様に見守られた幸せな生活なんかじゃない。台所でまな板で切ったはしからテキトーに食事済ませて、時には息子の幻影を見て。
その“演技”が強烈なカギでこじ開けられた時、彼女はついに、壊れてしまう。いやもう、最初から、ひょっとしたら夫が死んだ時から壊れていた心の中を、隠しようもなくなったというだけなのかもしれない。

それは、イエス様の教えに従って、憎き敵も許し、愛すこと、許しを与えることによって、自分が救われようと思ったシネが、思いがけずその相手から先制攻撃されたこと。
許してやるんだ、そう意気込んで刑務所に行った。穏やかな顔を作って。そうしたら、仕切りの向こうの殺人者は、彼女以上に穏やかな顔をしてこう言ったのだ。
「そう言っていただけて良かった。私も入所してから、神の愛を知りました。神に許され、今は日々を感謝し、穏やかに生きています。あなたのことを、救われるようにと毎日祈っています」と。にこやかに笑って。
あんまりだ。
シネは、崩壊してしまった。

彼女のカラッポな笑いが観客の側からは見えると言ったけれども、スクリーンの中でもたった一人、見えている人物がいる。
それはこの田舎に彼女が越してきた時、故障した車をレッカー移動しに来た、密陽の小さな自動車修理工場の社長、ジョンチャン。シネがこの街に来た理由を、一番最初に聞かされた彼。
「密陽の意味を知っていますか?秘密の密に、陽射しの陽。秘密の陽射しなんて、ステキでしょう?」「秘密の陽射しか、いいね」
この時既に、シネの心に巣食っている闇にまでは気づかない。そして自分が後に、彼女にとっての密やかな陽射しになることも勿論、知らない。

もう一目シネを見た時からホレこんじゃっているジョンチャン。息子と二人穏やかな生活をしたいと思っている彼女にあからさまに疎ましがられ、「あなたはなんだか知ってます?「俗物」よ」なんて冗談まじりだったけど、軽く軽蔑するぐらいのこと言われても、ソウルから訪ねてきたシネの弟から「あなたにアドヴァイスしてあげましょうか。あなたは姉のタイプじゃない」と言われても、一向にメゲない。
いや、内心はメゲているんだろうけれど、気にしない。実にポジティブな人物なんである。

ジョンチャンを演じているソン・ガンホが、もともと素朴な顔立ちの(というか、めっちゃ顔デカイ(爆))人で、ここでは更に、田舎の気のいい、センスダサめな社長さんをハマリまくって演じていて、キリキリにせっぱつまったヒロインをメインにすえているから、彼を見てるとなんだか無性にホッとしてしまうのだ。
でもシネは、そのことにずっと気づかなかった。ひょっとしたら本当に最後まで。夫が死に、息子が殺され、そして街の人たちからはカワイソウだけど頭のおかしい女、ぐらいに思われ、友達は勿論いないし。
家族でさえ、夫も息子も死に追いやった縁起の悪い女だと、葬式の時、ただ呆然とするしかないシネに、涙も出ない冷たい女だと責めた。見かねたジョンチャンが間に入っても、なんであなたがこんなところにまでいるのかという視線をただ投げかけるだけだった。

最後には判っていたと思うけど、ジョンチャンだけが、ただただ、何の見返りもなく、シネのそばにい続けたただ一人の人だと、判っていたと思うけど、でも最後の場面でも彼女はまだ、立ち直ってはいない。
でも、彼がそばにいるからこそ、壊れたままでいられるのかもしれないとも思う。
壊れていることに目を背けて、ただそのキズを隠していても、そのキズはただただ膿むばかりで、治りはしない。シネのキズは本当に深くて、膿んで膿んで、その膿が出切るにはこの先何年もかかるかもしれない。
でもそれでも、彼女が壊れた自分に向き直っているラストは、そして彼が変わらずそばにいるラストは救いがあるのかもしれない、と思う。

本当は、全ての人の全ての罪を許してくれる、全ての世界が見えているイエス様なんかより、この狭い田舎町でずっと生きてきた、この狭い世界しか知らない、好きな人が出来ればその人だけしか見ないジョンチャンのような人がそばにいてくれることこそが、奇蹟であり、何より尊いことなのだ。
言ってしまえば、そのたった一人が得られない人が、本当に神の愛にすがるしかないのだ。
それは表面上、ちゃんと夫婦で幸せな生活を送っていたりする人たちだったりも、するのだ。

劇中、キリスト教に対する描写は、結構危うい。この映画に関して、キリスト教団体の協賛を得るのは難しいと思う。
キリスト教信者が多い韓国で、こういう映画を作ること自体、かなりの冒険であろうと思われる。
いや確かに、劇中のキリスト教信者たちはマジメに神の愛を信じているし、カワイソウなシネに本当に同情して手を差し伸べようとしているのだろう。徹夜の祈祷会まで開いてくれる。一心に彼女のために祈るのである。
でも、シネが最初に迷い込んだ教会で、何かに憑かれた様に両手を挙げて一心不乱に神を崇めている人たちはただ異様に見えた。それはカメラの視線もそう感じたし、何より心配して彼女についてきたジョンチャンの戸惑った表情からも見てとれた。
そこで彼女は別に、神の愛に触れた訳じゃない。ただここは、誰も自分が壊れていることなんかに頓着しないから、だから、思う存分泣き叫べただけなのだ。
牧師さんがそっと優しく彼女の頭に手を置いてくれたけど、それも彼女の救いになったのかもしれないけど、でもそんなの、ここの信者の誰にだってやること。

すっかり神の愛に開眼した(と思い込んでいる)シネを心配して、ジョンチャンもまた入信し、集まりについて回る。シネから下心があるからだろうと指摘されても、ひるまない。
実際友人たちには、女のためにご苦労なこったねえ、と笑われて、それに対して彼もまあね、みたいに笑い、ワイ談に興じたりもする。でも、ジョンチャンは単純で素直な人柄だから、ある部分では神を信じる心も芽生えていたのかもしれない。
あの問題の、シネが犯人に面会に行く場面、つきそって面会室の後ろに控えていたジョンチャンは、この面会が上手くいったと思った。犯人もまた神の愛に触れて、お互いが神の愛によって許されてつながったならば、とそれこそ単純に思い、感動ぐらいしちゃったのかもしれない。

息子が誘拐された時に、当然犯人からは誰にも言うなと口止めされてはいたけど、シネが最初に助けを求めて行ったのは、ジョンチャンのところだったのだ。
でも、一人カラオケを熱唱している彼に声をかけることも出来ず、絶望の嗚咽をもらしながら、きびすを返した。
どうしてあの時、声をかけなかったのだ。助けてくれと、言えなかったの。
その直前、彼女が息子を一人家に残して、仲間たちと酒を飲み、カラオケに興じていたから?自分が悪いんだと糾弾されていると感じたからなのか?
でも、でも、どうして頼らないの。最初から最後まで、シネは他人の助けを拒否するのだ。他人、というか、ジョンチャンの助けを。
そして、万人に愛を授ける神ならば助けを請うてもいいかと思ったのかもしれない。それが裏目に出た。
神は、憎き犯人である男にも、許しを与えたから。自分が、自分だけが、許しを与えなければ、意味がない。自分が救われることが出来ないのに、神が先に、男に許しを与えてしまったのだ。

これは、神に対する、キリスト教に対する、強烈な皮肉、いやそれ以上の批判だと言えるのではないのか。
だからちょっと、ビックリしたのだ。こんなの、キリスト教社会の側面もある韓国で作って大丈夫なのかって。
でもね、それ以上に、本当の意味での愛を信じているってことなのかなって。しかもその、本当の愛が、宗教における神の愛ではないって言っているあたりが、更に皮肉なのだけど。
でも、その、本当の愛が得られないからこそ、人間はいわば、虚無の愛である宗教に走るんじゃないだろうか。
宗教の、無垢で崇高な信仰は美しいし、否定する気はない。それは人間が必要とする世界のひとつだと思う。でもそれでは、それだけでは、人は生きていけないのだ。

あの時ジョンチャンに助けを求めずに、きびすを返したことが、ひょっとしたらシネにとって大きな枷になっていたのかもしれない。
あの時彼に助けを求めていたら、息子は助かったかもしれない。
最初から彼女を何くれと心配してくれていたのだから。
それなのにずっと拒絶してしまっていたから、今更頼れないのだ。そんなどーでもいいプライド、ジョンチャンが気にしていないことぐらい判っているのに。
そして息子が死んで、心が破裂しそうになってもやっぱりそばにいてくれる彼のこと、判っていた筈なのに、今更頼れないのだ。

シネは、犯人の男との面会後、本当に心が壊れてしまって、教会の集まりにも行かなくなる。
そして、彼女をキリスト教に誘った信者である、薬局のおかみさんのご主人、教会で長老と呼ばれている男にカマをかけるのだ。
身体がうずいて困っているんだと。
信者の夫婦だから、恐らくストイックな生活をしているんだろう。あの奥さんじゃ、いかにもカタそうだし。ご主人は彼女のカマに最初は気づかないフリをしつつも、結局は負けて、ドライブに出かけてしまう。
車の中ではキュウクツだからと、外に出る。ご丁寧にトランクからシートを取り出すご主人。身体を開いて彼を招き、愛撫を受けながら天を仰いだシネは、神に見せ付けるような、挑戦的な視線を見せた。ほらごらんなさいと、まるで誇らしげに。
でも、ご主人、やっぱり出来ない、神が見ているせいなのか、ダメだ、と断念するのだ。
呆然と仰向いたままの彼女の目にたまる涙。そして、嘔吐を繰り返す。最後の賭け、無謀な賭けも、やはりというか、失敗に終わった絶望。

思えば、入信する直前、一人で息子の死亡届を出しにいこうとする時から、シネは過呼吸気味に息苦しい吐き気をもよおしていた。その時に、ジョンチャンが、いつものようにそばにいたのだ。心配そうに彼女を見守り、拒絶されても拒絶されても、そばにい続けたのだ。
でもこの場面に、ジョンチャンはいない。思えば明らかに自分にホレてる彼にこそ、こんなカマをかけても良かったのに、シネはいわば、それが出来なかった。

それでもシネは、酔っぱらった状態でジョンチャンの工場に突撃する。セックスしたいかと流し目を送る。実は彼との夕食の約束をすっぽかして、薬局のご主人をドライブに誘っていたのだった。
ということは、やっぱり最初はジョンチャンとそれを考えていたのだろうか。
でも彼は、憑かれたように笑いながら誘いをかける彼女に、ついにイラだった。いい加減にしてくれと。しっかりしてくれと。ギリギリのところで保っていた彼女の精神状態はブツリと切れ、身体を震わせて泣き出し、飛び出した。
セックスなんかじゃなく、シネに本当にホレているのに。そんな単純だけど深い愛をずっと彼は持っていたから、彼女のそばにずっといたのに。

ああ、でも、そもそもシネは、そんなことさえ、信じられなかったからこそなのかもしれないのだ。彼女は夫を愛していた。だからこの小さな街に来た。
でもそれだけ、だろうか。夫を愛していたから死んだ夫の故郷で暮らそうなんて、それだけのことじゃ、確かにその街の人々がいぶかしく思うのも当然だ。夫への思いは、そんな形骸化されたものの上に成り立つ訳じゃない。
夫はずっと、この故郷に暮らすのが夢だったのだとシネは言った。それは確かにそうだったのだろう。でもきっと、それ以上の意味があった。彼女に会いに来た弟は、義兄さんは浮気していたのに、どうして姉さんがそこまで思う必要があるのか、と言った。姉さんを裏切って、ただ死んでしまっただけなのにと。
シネは、あなたは私たち夫婦のことが判ってない。私たちは夫婦の深い愛に支えられていたんだと言うけれど、本当に、そうだろうか。
彼女は、愛人のことなんか関係ない、自分だけが知っている夫の故郷で生活することで、それを払拭したかったんじゃないのか。

そして、シネの最後の砦である息子が、殺されてしまった。
こんな言い方は……結婚も出産も経験がないのにこんな風に言うべきじゃないとは思うけど、でも彼女にとって、夫のかけらが残る息子だからこそ、こんなに心が壊れるほど大事だったんじゃないのか。
息子は父親を恋しがっていた。父親のマネをしてイビキをかきながら狸寝入りをしたり。
しかし、どうしてこんなことになってしまったのか。エリート的な弁論教室を開く、いかにもデキそうな犯人とは、志向を同じうする同士、という感じだったのに。
しかしシネは、この塾の母親たちとの飲み会でもそうだけど、そこここで、土地を買う話を吹聴していたのだ。
本当は、そんなお金ないのに。お金があると思われたかったのだと、彼女は後に言った。
そんな彼女がカンに触ったのか。あるいは、ただ単に金目当てだったのか。でもそれなら、誘拐した子供を殺したりまではしなかったんじゃないか。

この犯人の男の心情は、明らかにはされない。塾でエネルギッシュに子供たちに教えている風景と、発表会、母親たちとの食事会、その後思わせぶりに彼女を送る描写、そして捕まり、警察署で打ちひしがれた彼女との一瞬の交錯と、面会室でのあのやりとりだけである。
彼の動機はなんだったのか。それまでは自分が母親たちの一番の羨望の的だったのに、それを奪ったエリート面したシネへの醜い嫉妬だったのか。

シネが、金持ちを装っていたのも、そう考えると悲しい。そのことによって本当の意味での友人も出来なかった。いや、それをガードするための壁だったのだ。この田舎で、私は土地に投資出来るほどのリッチなのだと。
思えば、息子の前髪にメッシュを入れてファッショナブルに仕立て上げていたのだって、そんな意図があったのかもしれない。
この息子が喋る場面も少ない。ただ、塾での弁論大会で、彼は母親に感謝の気持ちを述べた。そして、将来は国のために働くえらい人になるんだと、言った。
それを、彼女はテープレコーダに収めて、その後、何度も繰り返して聞いた。
思えばね、息子である彼こそが一番、母親の悲しさ、寂しさを、肌で感じていたんだよね。
ちょっと、姿を隠しただけで、子供のような泣き顔を見せてしゃがみこんでしまう母親を見たくて、そんなことをやっていたのかもしれない。
そんな前置きがあるからこそ、本当に姿を消してしまった、いくら探しても出てこない息子を探し回る彼女の姿に、心が痛むばかりなのだ。

シネが自分を偽って、人への気持ちも偽っていたことが、夫や息子の死の誘因になったと示唆しているような気もして、でもそれは、あまりに残酷だ。
だって、そういう気持ちって、判るじゃん!って。そうやって、人間は自分をなんとか立たせているんじゃないかって。
それでこんな、辛い試練を与えられてしまうのかって。
でも、それこそ神様はいるのかもしれない。だって、ひょっとしたら得られないまま終わってしまう人もいるかもしれない、ただ自分だけを見つめてくれる、どんなことがあってもそばにい続けてくれる人を、彼女に用意してくれたのだもの。

“神の愛を授かった”後でもね、誰に対しても無償の愛を持つべき時にも、シネは、ある一人の少女の危機を助けないのだ。
いや、何度か悩んで引き返しはした。そのために、横断中の夫婦を車で轢きそうになった。この辺りの描写も非常に秀逸。
だってこの夫婦、揃いのスウェットの上下で、超ダサい上に、ひたすら謝る彼女にも不快感だけをあらわにして、「死んじゃったらどうするのよ」と死んでもいないくせに、そんな言葉を浴びせるのだ。夫と子供を亡くしている彼女がビクリと身体を固まらせた意味が判る筈もなく、冷たい視線を浴びせて去ってゆく。
この時、シネが助けなかった少女は、あの犯人の娘、チョンアだった。

面識はあった。その時からグレている感じはあった。塾でエリートな子供を育てようという理想はあっても、自分の子供は操縦出来なかったのだろう。
シネが遭遇したのは、男友達二人に小突かれまくっている場面。真っ赤に泣きはらした目を、シネに向けた。でもその目は、私はあなたの息子を殺した犯人の娘だから、助けてくれないでしょ、という雰囲気も満点で、この場面の二人の葛藤は、あまりに辛かった。
一度は戻ったけれど、結局は助けることができず、彼女は車を走らせ、あの夫婦を轢きそうになってしまうんである。

誰を許すことが出来て、誰なら許せないのか。
犯人の男を許すことによって、自分が救われようと思った“計画”が結局頓挫して、そうなってしまえば、娘を許す訳にもいかないじゃないの。
追いつめられて、自殺未遂を犯して、入院して、やっと退院したシネを、やはり変わらずに迎えに来てくれたのはジョンチャンだった。着替えのワンピースも「適当に選んだ」とか言いながら、ちょっと可愛めの水色のワンピースで、恐らく必死に選び抜いたことがうかがえる。
同行したシネの弟は、用事があるからとそそくさとソウルに帰った。

美容院に行きたいというシネをジョンチャンが連れていったのは、奇しくも少年院帰りのチョンアが勤めているところだった。ハッと目と目を見交わす二人。
チョンアは平静を装い、彼女の髪を丁寧に扱い、お久しぶりですと、少年院で技術を学んだんですと言う。いわば必死に。そう、あの時から許しを請うている娘をでも許せずに、シネはジグザグの髪のまま、飛び出してしまう。

それで、ラストになるのね。道の途中、知り合いの洋品店の女主人に行き合う。シネは笑顔をとりつくろって、気に入らないから途中で出てきちゃったの、と笑い合う。女主人もあわせて笑う。
あまりにウソくさい二人だけど、そしてこの女主人はシネの陰口を最初に言っていた人物(しかも美容院で!)だけど、あの時シネに受けたアドヴァイスを生かして、店は明るい作りに直され、客も入るようになっていた。
救いが、少しずつ現われているのだろうか。

シネは誰も待っていない家に戻る。荒れた庭に椅子を置き、鏡を据えてぎこちない手つきで髪を切り始めた。やはり一人、どこまでも一人。
いや、でも、予想通り、というか、観客の願いどおり、あのいつもと変わらないアッケラカンとした笑顔を浮かべて、これこそホンモノの笑顔をうかべて、ジョンチャンが腰をかがめて裏門を入ってくるのだ。
やっぱりね、これが、救いだと思う。
自分が鏡を持っていてやるよと言うジョンチャンに、相変わらず冷たい表情で髪を切り続けるシネだけど、彼のことなんか、眼中にないような顔をしているけれど、でも彼が選んだワンピースを着て、今度は彼を追い払うような言葉も言わないんだもの。
救いだと、思いたい。

カメラがパーンし、荒れた庭のぬかるみで止まる。映画はそこで終わる。その意味は少し気になる。
シネはやっぱりジョンチャンの愛に気づかないままなのか。それともフレームアウトした二人に奇蹟の何かが起こっているのか。
いや、ただジョンチャンはきっとシネのそばに何があってもい続ける、それはフレームアウトしてもきっとそうだと、信じられる。

子供を亡くして心に傷を負った女、という部分で、「ぐるりのこと。」が頭をよぎった。なかなかそばにいる男の思いを信じられない部分も。全く違う映画だし、違うアプローチの仕方だけれど。
ラストにハッキリと救いを見いだせる「ぐるりのこと。」と、それが不安なままに観客に投げかける本作、見つめ続ける年月の違いはあるけれども。
ああそうか、シネが心を取り戻すのに何年かかっても、ジョンチャンはやっぱりずっとそばにいるだろうし、だからきっと、大丈夫。★★★★★


ジェリーフィッシュ/MEDUZOT
2007年 82分 イスラエル=フランス カラー
監督:エトガー・ケレット/シーラ・ゲフェン 脚本:シーラ・ゲフェン
撮影:アントワーヌ・エベルレ 音楽:クリストファー・ボーウェン
出演:サラ・アドラー/ニコール・レイドマン/ノア・クノラー/ゲラ・サンドラー/マネニータ・デ・ラトーレ/ザハリラ・ハリファイ

2008/3/25/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
カンヌのカメラドール受賞という触れ込みが、かつての河瀬監督を想像させて足を運んだんだけど、予告編に遭遇した時からその不思議な感覚には心惹かれていた。
水中で小さな女の子と向き合うヒロイン、その小さな女の子はどこから来たのか。ビキニの水着の上もなくなって、腰につけた浮き輪を決して取ろうとしない。取ろうとすると「キャー!!!」と悲鳴、というか金切り声を上げて、手を交差させて拒絶する。
この女の子は、どこから来たのか。

それにしても、イスラエル映画というのは初めて観る。ヘブライ語だというその言葉は、どことなくフランス語のような響きがある。それに、この主人公の一人であるパティアを演じるサラ・アドラーも、ちょっと若い頃のシャルロット・ゲンズブールのような趣があるし、心理戦のような哲学のようなこの物語世界も、フランス映画のよう。
実際、イスラエルはそうした多種多様な人種が集う地だという。世界中のユダヤ人を受け入れた「約束の地」。
劇中、隣国シリアとの戦争で負った傷をボケ気味の母親から再三言われ、忘れたいのにとイラ立つ男性も出てくる。
この地を舞台に、たった一人を描くのは難しいのかもしれない。

そう、このパティアは主人公の一人、なんである。物語は大体3つの人間関係が並行して描かれていく。
しかし彼らは微妙に関わり合うし、彼らと関わるいわゆるワキ役にも、小さな物語が絶えず進行している。
とても重層的なんだけど、それを軽やかに描いていて、心地よい魅力に溢れているのだ。

それでもやはり、メインのメインは彼女だよね。冒頭、いきなり恋人にフラれてしまうパティア。彼から、最後に何か言うことはないのかと聞かれる。「行かないで」とか、と。何も言うことが出来ないパティアに失望したように、恋人は去ってしまう。彼が去ってから、パティアは小さく「行かないで」とつぶやいた。
恋人と同棲していた部屋の、彼の名前をつぶした。大家からは家賃の値上げを迫られる。しかしその部屋は、絶えず水漏れがしているようなポンコツ部屋。それを訴えても大家は聞こえないフリをしている。

母親から電話がかかってくる。ボランティア活動をしているパティアの母親はかなりの有名人で、テレビCMでも街角のポスターでも、にっこりと募金を呼びかけていた。
しかし娘であるパティアとは、どうも上手くいっていない雰囲気。離婚した父親は、後に若い恋人と同居している様子が出てくる。つまり、彼女一人が、“他の誰もいなくても、家族だけは自分を必要としてくれている”、という大前提から外れている。そして、それを何とか感じさせてくれていたであろう恋人も去ってしまった。
しかもパティアが勤めているのは、結婚式場のウエイトレス。毎日毎日毎日、他人の幸福を見せ付けられるんである。もはや彼女はやる気も失って、髪もボサボサ、名札も曲がった状態で、床に落ちたオードブルを拾って大皿に載せて、ボンヤリと給仕をしていた。

後に出会うことになる、この式場の専属カメラマンであった女性に、パティアはこんなことを言った。毎日同じ料理、同じ食べ残し、違うのは新郎新婦だけ、と。
するとカメラマンは、それも同じよ、と言った。えっという顔を向けるパティアだけど、確かに彼女の言うことは判る気がした。シンラツだけれど……ここで型にはめられてパーティーをして、幸せそうな顔さえも型にはめられていることを気づいていない新婚カップルは、誰も彼も同じ、なのかもしれないのだ。
だからカメラマンの彼女は新郎新婦や来客ではなく、つまらなそうな顔をして給仕をしているウエイトレスのパティアや、彼女が連れてきた、名前も判らない小さな女の子を映したりしていたのだ。そして、パティアと同時にクビになってしまう。
後に、このカメラマンの部屋に転がり込んだ時、パティアは気づく。子供の頃の写真が一枚も残っていないこと。カメラマンは親にとってもらった8ミリを、平凡だと切って捨てているのに。
この二人にはちょっとレズ的な密やかな雰囲気も感じて、ドキドキしてしまうのね。対照的だからこそ、惹かれるというか。

そして、そんな風に「同じ」だと言われていた、その時結婚式をあげていたカップル。
でも、決して同じなんかではなかった。いや、こんなトンでもない事件に巻き込まれなければ。
新婦のケレンはパーティーの途中、トイレの鍵が壊れたのか閉じ込められて、必死に脱出を試みた結果、足を骨折してしまった。
カリブ海へ行くはずだった新婚旅行は、やむをえず近場に変更。それも海沿いのホテルに泊まるだけで身動きの取れない日々。
しかも、そのホテルは下水臭く車の騒音もひどい。ラブラブの筈の二人の会話も途絶えがちになってた。そこで新郎のマイケルは、最上階のスイートに泊まっている“詩人”に出会う。
果たして、彼女は本当に詩人だったのか。ケレンが言うように、ただの有閑マダムだったのか。いずれにしても、彼女は、死に場所を求めてここに来ていたのだ。

こんな美人だったなんて知らなかった。夫に色目を使ったんだ、彼女と寝ることで、部屋を交換してもらったんだと憤ったケレンは、新婚後初の夫婦喧嘩をし、しかしその交換した部屋から彼女の遺書を見つけ出して顔色を変えた。
あの時、部屋を替わってくれた彼女は、ヤキモチから牽制するケレンに、「ああいう人に、私は弱いの」と言った。
ああいう人って、どういう意味だったのか。それは彼女が死ぬための意味だったのか。
そして、この“詩人”の彼女が残した遺書は、その部屋でヒマを持て余していたケレンが書いていたものじゃなかったのか。
“ビンに閉じ込められた精巧な模型の船。それはどんなに立派な帆を広げていても、決して水に触れることはない。船の下にはクラゲ。スリップとドレスだけ、彼女の口は乾き、その眼の境目からだけ水がしみこむ……”
変わり果てた“詩人”を目の前に、その“遺書”を読んだマイケルは、美しい詩だ、とぽつりとつぶやいた。ケレンは頷きながら、その瞳から大粒の涙を流した。

この詩人は、名乗らなかった。名前も知らなかった。そして他人の言葉をまとって、まるで誰かの絶望を替わりに背負うかのように死んでいった。
それはまるで、どこの誰とも結局判らずに姿を消し、その後一瞬姿を表わすも、最初に海から現われたのと同じように海の中へと去っていった、浮き輪を決して離さなかったあの小さな女の子と一緒ではなかったのか。

海岸で出会った女の子、本当に、海から真っ直ぐに歩いてきた。何も言わなかった。言葉が通じるのかどうかさえ判らない。警察に連れて行っても、捜索願いも出てなくてらちがあかない。でもなぜかパティアは、少女のことが5歳だと判ってた。
仕方なくパティアは少女を引き取ったものの、連れて行った職場で姿を消してしまった。警察に駆け込むものの、両親も探していないし、これだけ行方不明の人たちがいるんだ、とファイルも用意されていない資料をどさりと無造作に放られる。
スペルが難しすぎて、名前も読めない見捨てられた人たちのそっけない資料を折って船を作り、警官はふっと息を吹きかけた。まるで遭難した船。しかもその下には、水さえもない。乾ききって、船と言うことさえ許されない。

その前に、ハダカのままの女の子に服を与えなければと、自分のお古を持っているという父親と、パティアは久しぶりに会っていた。父親と結婚したがっている若い女と気まずい食事をともにした。
今から思えば、安い子供服の一着ぐらい買ってやればすむこと、彼女が父親と会おうと思ったのは、ちょっとムリはあったのだ。それは言い訳ではなかったのか。

いたたまれない雰囲気の中で、昔の自分の服を探していたパティアに、女の子が一冊のアルバムを持って来る。
そのアルバム、めくってもめくっても、写真は出てこなかった。やっと一枚、中ほどに貼られていたそれは、パティアのものでも両親のものでも、風景でもなかった。
そこに映っていたのは、知らないおじさん。でも一見して、海岸を背景に肩からスチロールの保冷箱を下げている彼は、夏に海でアイスを売っているおじさんだと知れた。しかも不思議なことに、写真なのに彼のシャツが風に揺れている。
この時には思い出せなかったんだけれど、後にパティアは思い出す。アイスが食べたかったのに、また後で売りに来るわよ、と母親に言われて買えなかったこと。しかも両親は後に離婚に繋がるケンカをはじめて、いたたまれなくなった彼女は海へと逃げたこと。
パティアの視点で回想されるそのシーンは、水面から見覚えのある赤と白が見え隠れしている。
あの、女の子の浮き輪と同じ色、いや、あの浮き輪だ。

そして、もうひとつのエピソードがある。それはあの、決して水に触れることのない模型の船から繋がるもので、他の二つのエピソードからは若干距離がある。
フィリピンから出稼ぎに来ている女性、ジョイがショウウインドウに見つけて、故郷の息子に送ってやろうと思っている模型の船、ジョイはこの物語の中で、こんなにも孤独に満ちた人間が溢れている中でも、異邦人という意味も実に判りやすく孤独に満ちている女性。

ヘブライ語が喋れない彼女は、英語でコミュニケーションをとるしかないのだけれど、それが判って雇っているのに、役立たず扱いされたりする。
いやそれだけならまだいいのだけれど、彼女が派遣される先、介護を受ける側の老女たちが、「言葉が通じなくても、どうせ耳が遠いんだから」などとされてとりあえずといった感じで彼女に依頼が来るのが……自分に対する侮辱が関わる相手にも波及しているのが何より判るから、本当にジョイはいたたまれない思いを受けるのね。
ちょっと離れた感じがするこのエピソードだけど、でも一番深い意味があったかもしれない。

イスラエルは、近隣アジアからの出稼ぎ者が急増しているんだという。そして、介護はフィリピン、農業はタイ、建築は中国という不思議な住み分けまで出来ているとか。
なんとなく判る気がする……失礼だけど、中国人に介護はムリそうな気がするし。
そして、1990年代から急速に増えた、旧ソ連諸国の移民。「公用語はロシア語」と冗談交じりに言われるほどなんだとか。
そういえば、新郎マイケルも、「ロシア語なら、間違えない」と言っていた。

ジョイが世話することになる、舞台女優ガリアの母親、マルカ。ヘブライ語しか解さないマルカと、ジョイは当然意志の疎通などままならない。ガリアは、母親はガンコだし失礼な態度をとるかもしれない、と最初に忠告はしていたのだけれど、本当に失礼だったのはこの娘の方だったかもしれないのだ。
確かに、娘一人で病気に倒れた母親を看なければならないのは、大変だったのだろう。しかも女優をやっているガリアには夢がある。たとえ母親から言わせれば、「(オッパイ)丸出しじゃない」ってなゲスなポスターで客寄せさせられていても。現代的と言えば聞こえがいいけれども、一人よがりでタイクツな解釈のシェイクスピアで、オフィーリアを演じるガリアはと言えば、「芝居の半分、死んで横たわっているだけ」だとしても。

その芝居を観に行こうと誘ったのは、最初こそ言葉も通じず、一触即発の状態にあったジョイだった。クビだという言葉さえ通じないから、結局は彼女はずっとマルカのそばにいた。
そして、言葉さえ通じないけど、ウインドウを見つめていたジョイから、そして同じ母親という何かが通じていたのかもしれない。その模型の船を、彼女のためにマルカは先に買い求めていた。

今日こそ買おうと意気揚揚と店に向かったジョイが、船が姿を消していることに意気消沈し、泣き出したのをしっかりと抱きしめたマルカ。抱きしめられたジョイの視線の先に、マルカが買ったそれがあったのだ。全てを察して、そのまま静かに抱きしめあう二人。
窓際のその二人の姿を、たった今、もう二度とここには来ないと言って飛び出した娘のガリアが、顔をゆがめて眺めている。
単に言葉が通じるだけでは取れないコミュニケーションと、そんなことは関係ない真のコミュニケーションの差異を、少々の皮肉と、悲哀と、潤いのある慈愛を持って描いている。

このエピソードが最も象徴しているんだけれど、いわゆる家族の絆といったものを、ことごとく否定しているのね。いや、ことごとくというのは言いすぎか。ジョイは離れて暮らしてはいるものの、愛する息子のことを片時も忘れたことはなかったのだし。そして「みんな同じ」と言われた新婚夫婦の二人も、同じとは思えない衝撃の経験を共有して、きっと二人だけの家族を作り上げていくんだろうし。
でも、ガリアは、母親に触れられた記憶がないと言った。恐らくそれを、初めて母親が舞台を見に来てくれて嬉しかったことで、ぶつけてみた。それというのも母親がこの前衛芸術に「それにしても、触りすぎ」と言ったもんだから。ついつい皮肉を言いたくもなったのだろう。あなたは私に触ってくれなかったじゃないかと。
なんだか、皆が一人、一人なんだなあ、って思うのだ。
瓶の中の船は、いつも乾いている。そしてその下には家族を持たない(?かどうかは判らないけど)クラゲが揺らめいている。形さえもはっきりとつかめない、不安な気持ちをただ増すだけのクラゲ。
でもその半透明な姿は、この美しいイスラエルの青い海に、なんだかやけに似合っているのだ。水そのものでもなく、乾いてもいない、その中間を揺らめいている。

「ドイツ語は判る?」とマルカが言ったシーンがある。彼女はホロコーストからの生き残りだった。ポーランド語、ドイツ語、その言語の存在自体が持つ意味。
監督が、そうなのだ。ホロコーストの生き残りの両親を持っている。
劇中、パティアだったか、それともカメラマンノ女性だったか、「みんな、何かの第二世代よ」という台詞が出てくる。
そんな感覚は正直判らないけど、厳しい。判らないのが、厳しい。

水が、非常に印象的。パティアの部屋から始終漏れている水漏れ、水道を止められて、天井からの水を口にするパティアの姿は、あの小さな女の子がそうやっていた姿とそのままダブる。
小さい頃の記憶が、今のこの窮状と不思議とかぶってくる。それにしても天井の水漏れを口にしたりしたら、お腹壊すよ……。
水漏れがいよいよひどくなって、ある日部屋のドアを開けると、部屋中のものがプカプカ水に浮いていたりするのだ。そこに浮かんでいる電話機から、すれ違いになった母親からの留守電メッセージが虚しく流れている。

水から派生して、全てが海と船に通じている。
それは、外の世界への憧憬だったのかな……。★★★☆☆


ジャージの二人
2008年 93分 日本 カラー
監督:中村義洋 脚本:中村義洋
撮影:小松高志 音楽:大橋好規
出演:堺雅人 鮎川誠 水野美紀 田中あさみ ダンカン 大楠道代

2008/7/27/日 劇場(角川シネマ新宿)
「チームバチスタの栄光」より先に完成されていたという本作が、夏休みロードショー作品として急浮上したのは、最近の堺雅人評価の急上昇によるものかしらんなどと思っちゃう。だって、レイトショー公開の劇場が一方であるということは、そもそもはレイトの予定だったんじゃないの?なんてね。
最近ホントに「ヒット作にこの人あり」という堺雅人の記事をよく見かける。大河ドラマのブレイクが大きかったにしても、ホントに急上昇。アフスクは最初は大泉先生前面の宣伝や露出だったのに、いまや「堺雅人が出てるからヒット」みたいな趣だもんなあ。

しかし私、この監督さんの前作、「チームバチスタ……」は未見なのであった。いやあ……その前の「アヒルと鴨のコインロッカー」がどーも不発だったもんだから、しかもその次がいきなり大メジャー路線のベストセラーものなんて変えてきたから??って感じでどうにも足が向かなかったのだった。
本作も、正直なところノリきれない部分があるというか……タイトルからして、予告や宣伝からしてゆるゆる映画として打ち出しているのは判るけど、それにしてもリズムがないというか、だらーっとした展開なもんで、どーも眠気をそそられてしまったのだけど。

物語としては案外波はあり、なんたって主人公父子の息子の方は、妻の浮気で離婚の危機にある訳だし、父親の方も三度目の結婚生活がどうも上手くいってないらしいことが、訪ねてくる娘の様子からもうかがえるし。
でもそんな登場人物の気持ちを殊更に無視するように、緩慢なリズムで続いていくんだよね。なんかそういう感じは、「アヒルと鴨」にも受けていたような気がする……そういう部分が苦手だったような気がする。

ただそこは、堺雅人という達者な役者と、これはビックリ意外なキャスティング、シーナ&ロケッツの鮎川誠の、なんか似ているようで似ていない、似ていないようで似ている、春風のような、ぬるま湯のような、柔らかいバネのような?“ジャージの二人”の雰囲気で、ずーっと魅せ続けちゃうんだけどね。
しかも二人が、これは何?逃避行旅行かなんか?突然、さしたる理由も目的もなく、森の中の一軒家で数日を過ごす、という設定自体が魅力的で、それだけで結構観続けられちゃう。

イノシシが出るような道なき道は、迷ったら出てこられなくなりそうだし、実際迷っちゃうし。
携帯は圏外で通じず、キャベツ畑のある丘が“穴場”で、ヘルメットかぶった女子中学生たちは、まるで宇宙と交信しているかのように、丘に立ち、空に向かって携帯をかざす。
周りが山に囲まれた、うっそうとした森の中に建つ一軒家は、この家族の別荘なのか、暮らしたことがある場所なのか、それすら判らない。
父親はグラビア専門のカメラマンである程度時間が自由に使えるのだろうから、突然こんな場所に逃避行するのも判るけど、この息子がそんな父親に着いてきたのは、突然仕事を辞めたからなんであった。

どうして息子が仕事を辞めたのか、正味のところは明らかにはされてない。ただ、妻からの電話で「小説書いてる?」と聞かれ、窓辺に置かれたまっさらな原稿用紙や、持ち込まれたノートパソコンから、どうやら彼が小説家を目指して仕事を辞めたらしいことは推測される。
しかしそれにしても、今の時点で彼はどうやらちっとも筆が進んでないし、大体進まないからここに来たんだろうし、あるいは進まないから会社を辞めたのかもしれないんだけど……結局最後まで、彼に小説への情熱を感じることはない。
最後の最後には、“ジャージの一人”になってしまった彼が、黙々とパソコンに向かって小説を完成させる様は描かれるけど、でも物語中、彼はただジャージの男であり、妻に浮気された夫であり、小説のショの字も、感じられない。

まあこれは、意図的にやっているんだろうなとは思うんだけど……この場所では、山の中の、森の中の、携帯も通じない場所の、冴えない父と息子の“ジャージの二人”であることこそが重要なんだし。
でも、それに固執するがあまり、だらーっとしすぎた気もしないでもないんだよね。んでもってそれなりに力を入れた部分が妻の浮気のトコってのも、俗な感じがして。
彼の小説への情熱を、ちょっとでも感じたかったなあ。

まあそれは、カメラマンである父親の方にも言えるっちゃ言えるんだけどさ。
今はグラビアカメラマンである彼は、しかしかつては自然相手の仕事をしていたという。そのことを聞いた、夏休みで遊びに来ていた息子と腹違いの娘は目を輝かせるんである。やっぱりグラビアのカメラマンっていうのは肩身が狭いのかな、だからいじめられているのかな、と父親はぼそりという。
あ、そうそう、高校生とおぼしきこの娘が「いじめられているらしい」っていうのも、なんか言葉だけで、ピンとこないんだよね。
それがキャラに生かされているってこともないと思う。いじめられているコ、という設定は、もうあらゆる作品に散見されるし、だからこそそれを生かさなければ、言うだけじゃ意味がない。むしろ彼女は父親と母親がなんかしっくり来ていないことをこそ、気にしているようだし。

「僕を見ると、笑うんだよね。なんかこう、ウケてる感じで」とこのコを迎えに行く車の中で、息子は言うんである。実際、彼女が駅に降り立って、手を振る義兄に見せる吹き出しそうな顔は、ドンピシャにその通りである。
んでもってその相手が堺雅人っていうのが、なんかミョーに納得しちゃうんである。あるいは父親と義兄の絶妙なツーショットに、ウケているのかもしれない。
この夏は、ビデオ40本見るんだ。この辺にレンタルビデオある?とアッケラカンと言う義妹。「ツタヤがある雰囲気じゃないね」と、義兄はノンビリと言い、それでも車で1時間位のところにあるレンタル店を探し出す。
しかしなんと、この家にはビデオデッキがないというんである。父親はアナクロなマージャンのテレビゲームを日ながいちにちやっているというのに(笑)。

「あるって言ったじゃん!」「言ってないよ」「言ったよ!」憤慨して出て行ってしまう娘。
「……言ってないんだけどなあ……」とノンビリとひとリごとのようにつぶやく父親に、なあんか、この娘の母親とのしっくりいっていない原因、あるいは過去二回の結婚もうまく行かなかった原因が透けて見える気がして。
しかし娘はしっかり者で、近所のオバチャン、遠山さんちから使っていないデッキをゲットするんである。父親が「ベータじゃないの?」と突拍子もない心配をするのが笑える。べ、ベータって!
つーか、ビデオっていうこと自体、ねえ……どこで突っ込んでいいのやら。

まあそんなエピソードがふんわりのんびりありつつ。この遠山さんてのも面白いキャラだし。
カラフルな重ね着しまくりのファッションは、オシャレとアレの紙一重。いつの間にやら来て、いつの間にやら去っていく。アイソはいいけど、決して人の家には上がらない。
父親は「遠山さん、ホントにいた?」とか、「あの人は魔女じゃないの」とか「さすが伊賀の生まれ」だとか、なんか判ったような判らないようなことを言う。確かにさっさか歩いてあっという間に姿を消しちゃうけど、それは父親がノンビリしすぎているからじゃないの!
でも確かに、この遠山のおばちゃん、演じている大楠さんがちょっと奇妙なオバチャンって感じがピッタリで、ノンビリ父さんからはそんな風に見えてしまうことも判る気がする。そう、このコミュニケーションのズレが、とにかく徹底的に面白いわけなんだよね。

まず、この父と子からしてが。基本的にはやはり親子だから、そのマイペースでゆるりとしてて、ま、言ってしまえばイヤなことを見ないようにズルズル行っちゃうところなんか、似てる。
それでも恐らく息子の方はまだ、マトモな気もする。ことあるごとに、妻のことを思い出す。
浮気をしていて、しかもその相手と別れる気がないのがハッキリしているのに、浮気相手と撮ったプリクラを、涙ながらに「大切なものだから返して」とまで言われたのに、こっちから別れを突きつけられないことに、苦悩して、だからこそこんなところに逃げてきた息子。

父親の方は、なんかそこまで悩んでない気がする。いや、あるいは、彼も最初はそんな風に悩んだのかもしれない。なんたっていまや三度目の結婚生活、もはや慣れちゃったのかもしれないんである。そして、いたたまれなくなると、こんな風に森の中へとやってくるのかもしれない。
父親が嬉々として取り出してくるのが、ここ近辺の小学校のものと思われる、袖と足に二本線の入った懐かしい形の体育着。そう、ジャージである。
ダンボールの中にドッサリある。一体どうやって、しかも大人用のものを集めたのか、気になるところなんである。ジャージは亡き祖母が集めてきた、って、そんなこと言ってたかなあ……覚えてない。

真夏でも東京より10度以上も低いこの森の中。軽井沢だったんだね。父親が「せば、いぐが」なんて言うから、てっきり青森だとばかり思ってた。今は軽井沢も暑いんだっていうけれど。
毎日天気予報で都会の猛暑の気温をチェックしては、勝った、とばかりに密かにこぶしを握り、肌寒さをしのぐためにジャージを着る。
息子は小豆色、父親は萌黄色、後に茄子紺色も。こうして思い返すと、懐かしのジャージって、実に和な色だったんだわと思う。娘のために女の子らしい華やかな色を用意していたのだって、オレンジっぽいけど、やっぱりちょっと懐かしい金茶とでも言いたい色だったし。

そういえばね、息子の妻が、そう、最初の夏から一年経って、まだ二人の関係は根本的な決着がついてない状態だったんだけど、この父と子と一緒に森の中の家に来るのね。
で、やっぱりちょっと寒いですね、と言う彼女に、父親は嬉しそうにジャージの入った箱を引っ張り出すんだけど、彼女は自分でジャージを用意しているのよ。安いから買ったと彼女は言うけど、この父と子が着ている懐かしのジャージと違って、明らかに今風の、オシャレなジャージな訳。
落胆して懐かしジャージをしまい出す父親に、彼女は「やっぱり持って着てよかった」と嘆息する。ここが“ジャージの三人”。

んでもって、その後に、先述した腹違いの娘が遊びに来て、またしても父親は嬉々として金茶のジャージを風呂場に用意してやるのに、この娘は彼女のジャージを見つけ出して着ちゃうのだ。「それ、着ちゃうの?」と、もう父親はハッキリと落胆。なんかカワイソウでさ。
だからこの、クラシックなジャージっていうのは、しかも小学校の体育着だし、どうも未来に踏み出せないナサケナイ男二人の、懐古趣味を象徴していたのかな、と思っちゃう。

しかもね、別に思い出のジャージな訳でもない。ホントにただ集めているだけ。胸に描かれた小学校の名前も読めないんだもん。父親の着ていた萌黄色のジャージの胸に描かれた「和小」がわしょうなのか、かずしょうなのかと議論したりして。
しかしそこに遠山さん、「かのうしょうね」最初はここで飼っているシベリアンハスキーの鼻の上のデキモノのことを言っているのだと思ってた。「化膿症」ま、ありそうな病名だし。
しかし、それが最後の最後に明らかになる。この地域の小学校の名前だったと。
そもそも彼らがなぜこの家を持っているのかさえ、よく判ってなくて。息子の小さな頃のことを知っている人も出てくるし、ここで暮らしていたのかなと思ったらやっぱりそうではなかったってことか。やっぱり、別荘みたいな使い方をしていたんだよね。おばあちゃんの家?
なんかね、それって、逃げ出してきて、癒されたくてここにいるのに、そんなことも判らずにここにいるって言われているみたいで……。

確かにここの住人たちは、彼らのことを昔から知ってる。父親が自然の写真を撮ってたことも、小さな頃の息子のことも、腹違いの妹がピアノを弾くことだって。
でもやっぱり、ヨソモノで、彼らはここでダラダラするしか能がないし、携帯が通じないと自分の生活がどうしようもないし、結局は帰るしか、ないんだもの。

息子の妻は、ほんの数日いただけで、帰っていった。これからのことはその時には何も話さなかったけど、ただ散歩の途中で夫の腕に手を絡ませた時、彼は本能的に彼女の手を振り払ってしまった。
「そんな、汚いものを見るように見なくても……」と妻は悄然と言う。
それが、全ての答え。二人とも、特に彼の方が逃げ続けてきたことへの答え。

しかし、この夫婦ちょっとスゴいすけどね。だって、不仲を示す冒頭、「子供がほしいの」と彼女、ギクシャクしている仲だからだろう「そんな気分になれないのは判ってるだろう」と彼が返すと、「そうじゃなくて……」なんと、浮気相手の子供が欲しいと、夫に向かって言っているのだ!!
でもそれは、夫への別れの言葉の代わりだったのかもしれない。それを夫は、聞こえないフリをしたのかもしれない。
とりあえず父親と共に逃げ出した彼に、妻は「やっぱりここだった」と苦笑気味に電話をかけてきた。「例のことは……」と煮え切らない聞き方をする夫に、「どうにもならないんですよ」と、どこかコミカルにも聞こえるように自虐的に言った。
その彼女の態度で、彼はもう決断すべきだったんだろうに。

トマトばかりが手元にたまっていく描写も、ひたすらのんびりしている。なぜかスーパーで大量にトマトを買う二人。なぜそんな、競うようにして?
そしたらもう、行く先々でもらうんである。熊手を買いに行った小さな商店とか、遠山さんちとか。あ、そうそう、この商店、とぎ屋さんもやってて、チェーンソーも研ぎますとか書いてるのがリアルで(笑)。
もううんざりしながらトマトを食べまくる。途中、トマトを抱えたまま道に迷った息子は、イノシシの気配に逃げ出して、崖にトマトを転げ落としてしまったりも。
しかしさ、ここに女性がいたら、ソースにするとか考えたかも。

まさかこの大量のトマトの対処法のために、ペンションをやろうとしてた?いきなりネットに募集をかけようとする場面も現われる。快適なスローライフが得られる山荘、と。
「これ、来たら違うって言われない?」と父親「言われるねえ……」と息子。本当のことも書いてみようと羅列するのが、書くごとにテンションが下がってくる。
「布団はじめっとしてます」って、それは言わなくても……(笑)。たったひとつ思いついた“いいこと”が「ジャージ貸しマス」
まあ当然、この別荘にそんな客が来ることもないのだけれど。

この別荘の五右衛門風呂(!)を作ってくれた、地元の父親の友人も登場する。彼もまた妻に浮気されて、家を出て行かれてしまった。電波の通じない携帯電話を何度もチェックする。そして、“穴場”に連れて行ってもらい、やっと通じた携帯電話、妻への訴えが虚しくやまびこになって、こだまする。
山水画のような画が美しいだけに、あまりにオマヌケで切ない。
しかも、この一帯が携帯が通じないことが判っている筈なのに、携帯を所持しているっていうのがね。あ、でもそれを言ったら、この穴場に集うヘルメットかぶって自転車に乗った、それこそ懐かしの紺サージのジャンスカ姿の女子中学生たちもそうか。
携帯が通じる場所なんてほんの数箇所しかないのに、それでも携帯を持って、アンテナが立つ場所を探し回る。のどかなようで、それなら学校なりなんなりで会って話す方がよっぽどカンタンじゃんと思い……でもそうじゃなければ話せない、あるいはメールで言えないこともあるのかとも思い……なんというか、時代の流れをついつい感じてしまうんである。

そうそう、「なんというか」と書いて思い出した。この父と子の共通する口癖が、「なんかこう……」なんである。これには何度も笑わせられる。
劇中では父親だけがこの口癖を多用し、「アルフォートもいいけどなんかこう……あんこじゃなくて、チョコレートでいいんだけど、なんかこう……パフパフしたやつ」なんて、もう遠回りしまくって、息子が提案した「ジャイアントコーン」を、それでいい、と落ち着く場面はことに笑った。
しかもそのジャイアントコーンを説明する息子も、みたいな、とか……状の、とか、とにかくアイマイで、父親が買い物メモに書くのも「ジャイアントなんとか」なんである。それぐらい、覚えろ(笑)。
「なんかこう……」自体、対象物をもの凄くボカして、投げかける相手に決めさせるある種のズルさがあって、しかもそれを受ける相手である息子が、やはりこんな具合にイイカゲンなもんだからさあ。

で、息子も同じ口癖を持っていることが、彼の妻によって明らかにされるんだけど、それは父親とはちょっと違うんだよね。
「なんかこう……」と言いながら、息子は具体的な言葉をその流れに乗せるという。「なんかこう……ハンバーグ食べたい」とかね。
そこんところが、この父親と息子の決定的な違いだったのかもしれないと思い、むしろ、気持ちはハッキリしているのに、決めてしまうのが怖い弱さが、息子の方にはあるのかもしれないと思い。
だったら、あまりに父親がイイカゲンすぎるんだけど、確かにその通りで(笑)。

ラストはね、息子が父親と義妹を送っていって一人になる。別れの前に撮る三人の記念写真が、イケてるの。落ち葉をかき集める熊手を持ってしゃがんでる息子、義妹、父親。ちょうど、携帯電話の三本アンテナの形になっているんだもの。
そして、彼は「ジャージの一人」になり、キャベツの丘で、妻からのメールを受け取る。妻にはここがアンテナが立つ場所だと教えなかった、のは、浮気相手と連絡をとることを恐れてだろうか。彼女は携帯を気にしていたし。
でも結局ムダな努力。「あなたの寛容さに甘えてしまったけれど、あなたは私を許せなかった」と彼女は言い残し、一人になって考えたい、家を出るとメールを残した。
本当に“一人”になっているのかどうかは怪しい。ただ、ここで、彼は確かにジャージの“一人”。

インタビューでね、堺雅人が、物理的にという意味でうすっぺらいと言った脚本は、つまり言わないこと、やらないことという小説では成り立つことを、映画でどう表現するかがそのまま出た脚本ってこと。
それを彼は、そんな風にポジティブに表現したけど、正直、そのままの状態で出てしまったように思えてならない。
確かに監督の言う、言い過ぎる、判りやす過ぎる映画の氾濫に対するアンチテーゼの気分は判るけど、でもそれでも、やっぱり伝わらなければ意味がない。バカな私一人に伝わらなかっただけかもしれないけど……。★★★☆☆


ジャーマン+雨
2006年 71分 日本 カラー
監督:横浜聡子 脚本:横浜聡子
撮影:平野晋吾 鎌苅洋一 音楽:
出演:野嵜好美 藤岡涼音 ペーター・ハイマン ひさうちみちお 本多龍徳 徳永優樹 田尻大典 飯島秀司

2008/1/22/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
玄人さんにとても評価の高い作品だということで……。その時点で私は苦戦しそうな予感はかなりしていたんだけど、予想通り、大苦戦。この作品にどう対峙すればいいのか、ちょっと正直判らなかった。
面白いとか面白くないとかいう単純な括りで言えば、面白かったと言うことは出来ると思う。でもその面白さは、というか深度というかベクトルは、私の思いの寄らぬ方向に向いていて、何だかずっと戸惑っていた。

まず、その日の観客たちがちゃんと(ちゃんとと言うのもおかしいけど)場面場面で笑いが頻発しているのが、私の気を非常に遅らせてしまった。
私は、笑えなかった。いや、面白くないからとかそんなんじゃない。何も考えずに笑うことは出来たと思う。ギャグとしては非常に冴えた、センスのある場面が連なっていた。でもなんだか私は痛くって、笑えなかったのだ。
それは、このゴリラ顔の女の子が根拠のない自信にあふれているから、ということからくるいわゆるイタさではなく、むしろ笑いを誘うのは彼女のイタさがあるからこそだと思うんだけれど、それがあんまり生々しすぎる気がしたというか、彼女自身は100パーセント真剣なのに、100パーセントイタイととられてギャグになっているのが、イタイというより痛ましくってしょうがなかった。

でもそれは、私が一段高いところから彼女を見て、カワイソウネ、と思っているからなのか?彼女に対して、何だか我が身にも切実に思うなんて、おこがましいことは言えない。いやそれをおこがましいと言うこと自体が、サイアクだけれど。
そんな風にポジとネガの波が自分の中に交互に吹き荒れてしまって、どうしようもなかったのだ。
彼女のことを、こんな境遇なのに強い女の子だからと、爽快に感じてしまうことなど、どうして出来るだろうか。

あのよし子がこの街に帰ってきた。そんなウワサを聞きつけたかつての同級生、まきは、学校の窓から外を見てみる。と、ニッカボッカ連中たちに混じって伐採作業をしているのは、本当にあのよし子だった。
「うっそ、よし子全然変わってない」のは、そのゴリラ顔。ゴリラーマンというあだ名を甘んじて受けるほどの、ザンネンな容貌なのだ。
両親に捨てられておばあちゃんに育てられたよし子、しかしそのおばあちゃんも死んでしまって天涯孤独になった彼女が帰ってきたのは、「カッコイイドイツ人がいるって聞いたから」という理由だけ。
そのドイツ人、カイと同じ植木職人として彼女は働いているんだけど、どうにもやる気がなくて親方に怒られてばかり。

それというのも、よし子は歌手になるのが夢。夢っつーか、自分は遅かれ早かれ歌手になるに違いないと思い込んでいる。
とにかく早く歌手になってバンバン売れて稼いで、結婚して子供をたくさん産んで、子孫が100人にまで増えるのを見届けるんだと。ここで私が踏みとどまらなければ、この家系は絶えてしまうんだからと。
歌手になるのもキビしければ、子供を生む(ための相手を見つける)ことも相当に難しいだろうと思われるのに、よし子はそんなこと、ひとっつも危惧していない。

いや別に、ちょっとザンネンな容貌ってだけで、結婚相手を見つけるのが難しいだなんて言ったらホント、怒られちゃう。よし子の場合、問題は容貌以上の部分に大きく存在しているのね。
歌手になるって言ったって肝心の歌唱力は壊滅的だし、ノートに鉛筆で書きなぐった“曲”は、五線譜なのか音符なのか歌詞なのか、もう小学生の落書きよりヒドイし、アヴァンギャルドと言うにしたってキビしすぎるものなのだ。
しかも。まきが何を使って曲を作っているの?と聞いてみると、よし子は「笛」と即答。「あ、笛かあ」って即座に納得するお前もおかしいだろ!

よし子は小学生三人を集めて、笛の教室だか作曲の教室だかってなものを開いているんだけれど、どー考えても彼らのヒマつぶしに使われているとしか思えない。
先生、先生と彼らは呼ぶけれど、その先生の唯一の移動手段である自転車をパンクさせ、車の窓から顔を出して、「あ、先生だ。バーカ、バーカ、バーカ」と連呼されてるぐらいなんだから。
しまいには、この教室の成果を発揮され、「先生、バカ丸出しの歌」を披露される始末。しかも彼らの笛のハーモニー、妙に上手いし。

よし子は主人公だけれど、彼女の一人称ではない。常によし子は客観的に見られている。よし子を語るのは、唯一の友人と言えるまき。
しかし彼女はかなりの美少女で、それが証拠に、いつも書類審査で落ち続けるよし子のオーディション書類にちょっと顔を貸してやると、一発で通ったりするんである。つまり、彼女によし子を判ってあげられているハズもない訳で。
でも、そんな風に考えるのこそがおごっているのか?友人同士が完全に判り合えるなんてある訳がないじゃないの。いつも判ってるフリして、なるべく共通項ですりあうようにしているだけ。

なんてことを考えると、まきがよし子と離れようとしないのが、逆にフシギである。だって彼女はカワイイ女子高生なんだし、なんたって「妊娠したことある」ってなぐらいなんだし、何もよし子と改めて友達になる必要もなさそうなんだもの。
でもこの、“何もよし子と”とついつい思ってしまうところに、人間のオゴリがあるということなのか。なんていちいち立ち止まってしまうもんだから、どうしても気楽に笑うことなんぞ出来ないのだ。

まあ確かにこのまきって子も、一筋縄ではいかないということなんだろうけど。大体この、顔を貸してやるオーディションのエピソードにしたってイタすぎる。
それは写真を撮る段からもうイタいのだが……旧式のバカチョンカメラで写真を撮ろうと奮闘しているよし子に「私のデジカメ持ってくれば良かった」とふとまきがつぶやいたのが運のつき。
「なんだよー、早く持ってこいよ。締め切りあさってなんだよ」と突然逆ギレするよし子にエエッと思うものの、そんなよし子にさすがに怒りつつも、ちゃんと家に帰って取って来てあげるまきの心中はどうにも察しきれない。

まきはずっとこんな感じで、勝手ばかり言うよし子に時には憤りながらも、一瞬でその気分がどこかに行ってしまうというツワモノ。
究極は、お前なんかに判るか、とよし子に殴られるシーン。どー考えてもよし子の理不尽だから殴り返してみると、更に殴り返される。再三の鼻血にボーゼンとなるまき。
しかし去っていくよし子にまきは「また明日ね!」手を振るのだ。えっ、ケンカじゃなかったのか?しかもよし子の方も振り返らないけど手を振り返す。う、うーむ、もしかしたらこれはとても深い友情関係なのかもしれん……。

で、話が飛んだけどそうそう、オーディションの場面ね。よし子は一世一代のオシャレをして(おそらくまきにコーディネートされたと思われる)まきを伴ってオーディション会場に出かける。
当然、まきの方が通される。まきが困りながらオーディションを受けていると、そこによし子が乱入して来て、本当は自分が林よし子です!と強引に自作の歌を“絶叫”するのだ。
まきも、「この子の歌、聞いてやってください」と口添えするんだけど……もうこの場面の痛いの何の。

だって審査員は「卑怯だよ、こっちは真剣にやってるんだ。帰りなさい」と怒るの通り越してドッチラケだし、まきだってこんなよし子の歌が通るなんて絶対に思ってないんでしょ。
誰一人としてよし子の才能を認めてなんてないのに、よし子自身だけがそれを強く信じているのが痛ましくて……。
でもそれを、よし子の爽快な強さと取るべきなのだろうか?人間はこのようにして生きていかなければいけないと?
でもでも、彼女を判るとか可愛いとか思うほど、私理解あるヤツじゃないんだもん。

ドイツ人、カイの存在は、ちょっと不思議である。彼はよし子がゴリラーマンと呼ばれているのを不思議に思い、そのいわれのマンガを実際目にすると、「ホントだ、林さんに似ている」と嬉々として全巻買い込む。よし子に見せるんだと言って。
しかし彼はどうやら、よし子をバカにするとかいう気分は微塵もないらしく……恐らく観客も含めて唯一、よし子を真から人間として受け入れている人物だと思われるんである。
ただ、彼はまきとデキているようで……それはまきが勝手にこのイケメンにくっついているだけかもしれないけど、そのことを知ったよし子はヘソを曲げてしまう。よもやこのイケメンの子供を産めると思った訳ではないとは思うけれど……。

ただカイにはとんでもないバックグラウンドがある。よし子はあらゆる人の人生を、正座させて語らせるというゴーマン極まりないことをさせて、それをキテレツな歌に仕上げるワケなのだが、彼が語ったのは放火によって一人暮らしの老人をどうやら殺してしまったという過去だったのだ。
ほんの遊び心でやったことらしいのだけれど、それを隠蔽するためにカイの親は彼を日本に逃がした。
そんなことを淡々と語ってしまうカイも、ひょっとしたらよし子に負けず劣らずイタイヤツなのかもしれない……ウッカリイケメンだからスルーされてしまうけれど。
その点で、そのゴリラ顔でいちいち引っかかってしまうよし子は(まあ、性格に問題はアリアリだけど)、気の毒な女の子かもしれないのだ。

よし子が、町内ドッジボール大会にマジモードで参加する場面も、印象強烈。よし子の他は当然、子供たちばかりで、「先生来たのかよ!」という教え子たちの台詞からして、招かれざる客であることは間違いない。
よし子は手加減なしで、ついにエースとの一騎打ちとなる。大人気ないと言えば大人気ないんだけど、それを言っちゃったらこの大会に参加している時点でそうなのだもの。
よし子は相手が子供だろうとドイツ人だろうと、瀕死の父親だろうと唯一の友達だろうと関係ない、皆に対していつもいつも真剣勝負。ヘタに都合よく生きている人間よりよっぽどデキた人物なのかもしれないと、痛々しく思いながらも段々思えてくる。いや、痛々しいのはだからこそとも言えるのだけど。
そして最後、よし子は頭にスコンとボールをくらって、負けてしまう。「気合いだよ。先生が負けたのも、気合いが足りなかったからだ」と彼女は教え子の一人に解説するんである。

その教え子の一人とは、女になりたい小学生男子、ケンである。彼の苦悩もまた、ハンパじゃない。いつもいつも枯れ果てた地面で、あるはずのない四ツ葉のクローバーを探している。そんな彼をよし子は「ダッセ!」と一刀両断なのだけど、フシギにこの子はよし子を慕ってて、悩みを打ち明けるのだ。
それは、よし子の家に便所の汲み取りに来ている小川という男のこと。彼は「林さん一人暮らしなのに、たまるの早いよね」などとゆー、失礼極まりないヤツで、いつまでたってもケガをした足が治らないうっとうしい男。ビンボーで治療に行くカネがないらしい。しかもケンどころか、まきにまで手を出している腐れ男。

「小川さんにキスされたんです」とケンはうなだれる「どのぐらい?」「強めです。かなり強め。僕、やっぱり女の子にはなれないんでしょうか」それがどうしてその結論になるのだろーか……。
よしこはそんなケンに、気合いの話でゲキを飛ばす。そして小川をこらしめてやろうという結論に達する。「骨抜きとボコボコ(違ったかもしれない)、どっちがいい」「じゃあ、骨抜き!」ううむ、よく判らんが。
そうして小川から、賠償金毎月15万円をせしめることになるのであった。
それが骨抜き?

よし子が親から捨てられたのは、まさかゴリラ顔だったからという訳でもあるまいが……捨てられたことで、より性格がヒネくれたであろうことは必至である。
恐らく様々に辛い思いをしてきただろうけれど、よし子が語るのはたったひとつ、汲み取りのマンホールに落っこった時に、父親が笑って見ているだけで一向に助けようとしなかったエピソードである。それを彼女は最後、今度は自らの意思で再現してみせる。
それがもう、ある意味彼女の意志の強さと、それはまるで意味のない強さだったりして痛々しさ全開なんだけどさ……。

という前に、父親の容態の悪化が、施設から何度も知らされる訳ね。母親はもう死んでしまった。もはやよし子にとっては唯一の身内の父親だけれど、彼女はガンとして会いに行こうとしなかった。まあ、ムリもない。だって自分を捨てたのだもの。
祖母の遺産と祖父の軍人恩給で、充分暮らしていける、そう思ってよし子はひたすら父親のことを無視していた。しかしもうボケ気味の父親はいつ死んでもおかしくない状態になってしまった。よし子は「動物園に行こう」と言って、子供たちとまきと共に病院に行く。
動物園、というのは、「私が飼ってるダンゴムシ」というよし子の定義である。子供たちが地面を掘り返しては、キモチワルイといって踏み殺していたダンゴムシに父親を重ねるのだ。「見えていてもキモチワルイし、見えなくてもいるのが判っててキモチワルイ」と彼女は言い放ち、瀕死の父親の点滴を抜いて逃げ出してしまう。

この言い様も、いかにもよし子って感じでじっつに憎たらしいんだけど……でもそりゃ、そう簡単に浪花節になんてなれっこないんだよね。キモチワルイと言う権利ぐらいある筈なのだ。
それに、そんなせっぱつまった状況なのに、施設からの呼び出しはノンビリしたハガキで、まるで暑中見舞いのような緊張感のなさだし。その程度でしか扱われない父親の命のともし火は、ひょっとしたらそのままよし子にも投影されるものだからさ……だから、痛いんだよね、イタいんじゃなくって。
多分よし子はそんなことは充分判ってて、だからキモチワルイと思いつつも見に来ちゃうし、汲み取りのマンホールに飛び込んじゃうわけで、血のつながりって、ほんっと、ヤッカイなんだよなあ……。

よし子はそれまでの不機嫌モードが急に一転して、やたらと皆に奢りだす。そして、カネがなくなってしまう。
なんだろう、あれは。よし子が、あの大胆不敵なよし子が、急に弱気になって皆をつなぎとめたくなったんだろうか。まさか。その心理状態はよく判らない。
ただ、よし子が居眠りをしている夢の中で、子供たちの描いたカラフルなパステルの落書きの中、それまで見たことのない可愛らしい笑顔を浮かべ(改めて見ると、そんなゴリラ顔って程じゃないのよね。そのあたりは演出と、女優としての腕か)、「いるよ、みんないるよ」という声に導かれて羽ばたいていくイメージショットが、全てを言い当てているようにも思えるけれど。

しかしこの「みんないるよ」の連呼は、正直非常にキツかったけれど……。みんないなきゃ、結局よし子はダメなのか……。
ちなみに、この父親は死んでない。それこそダンゴムシのように、しつこくはいつくばって生きている。
しかしそんな状態になった父親と、やはり生き延びるであろうよし子が、どういう関係を結んでいくのか、そこには決してハッピーエンドは横たわっていない、気がする。

好きになる映画って、リクツじゃないんだよね。
この映画には、なんだかリクツが凄くたまっている感じがした。
ただ単に、私が理解力がないだけってことなんだけど。
なんか、「UNLOVED」に遭遇した時のような葛藤。優れた作品だというオーラはひしひしと感じる。実際、きっと忘れることはないだろうと思う。でも、好きな映画の位置には置けない。
やっぱり私は、シロートなんだもの。
でもさ、青森は天才を生み出すところだから、バカな私がついていけない訳だから、きっときっと彼女は天才に違いない。

それにしても、タイトル判りづらいなあ……。★★★☆☆


JUNO/ジュノ/JUNO
2007年 96分 アメリカ カラー
監督:ジェイソン・ライトマン 脚本:ディアブロ・コディ
撮影:エリック・スティールバーグ 音楽:マテオ・メシナ
出演:エレン・ペイジ/マイケル・セラ/ジェニファー・ガーナー/ジェイソン・ベイトマン/アリソン・ジャネイ/J.K.シモンズ/オリヴィア・サルビー

2008/6/24/火 劇場(シネリーブル池袋)
昨年の賞レースをダークホースで席巻した本作、特に新人賞を総なめにしまくったこの女優によって成り立っているらしいというウワサをちらほら聞き始めた頃、しかし、ん?エレン・ペイジ?なんか聞いたことのある名前、そしてこの顔……でも新人賞なんだしなあ、と思っていたら、でもやっぱり「ハード キャンディ」の彼女。
どーも新人賞というカテゴリは判らない。「ハード キャンディ」以前も、地元カナダでテレビや映画で活躍してたっていうし、なんたって「ハード キャンディ」はサンダンス映画祭で脚光を浴びた映画なのに!
でも確かに、何年か前、子役からずっと活躍していた人で、主演作もあるのに、初めて賞レースに絡む映画に出たら新人賞扱いされて、えっらい頭に来た覚えがあったが。

まー、そんなことはどうでもいい。「ハード キャンディ」ではロリコンの青年を、いわばオヤジ狩りする恐ろしい少女、そして本作は初エッチで妊娠しちゃって、しかしその子供をも産んで養子に出しちゃえばいいじゃん♪ってな、超ポジティブな女の子、なんかまあ、刺激的な役に恵まれるコである。
正直、「ハード キャンディ」はかなり背伸びしている印象というか、まあ確かにこのふてぶてしい存在感は当時からあったけど、作り手さんの方が物語に振り回されている感があって、なんか今ひとつな印象だったんだけど、本作の彼女は(妊娠は別にして)まさに等身大。実際の年齢からはかなり年サバ読んでるけど……確かにベビーフェイスだけど。
今を一生懸命、傷つく心を隠してまでもしたたかに生きている女の子は、彼女の素なんじゃないかと思えるほどに魅力的。確かに本作で、いきなり出てきた大型新人、と思っちゃってノックアウトされるのはムリない。

それにしても、いわゆる10代の妊娠物語で、こんなに明るく前向きで、というか、もうイケイケゴーゴーな話は観たことがない。悔しいけど、湿っぽい日本じゃぜえったい作れないだろうと思う。過去のアレやコレやらのドラマ作品なんかを思い返してもさあ。
アメリカの事情はよく判んないけど、結構10代の未婚の母(この言い方自体古いが)がフツーにそのまま学生生活をキープし続けたりしている話を聞いたような気もする。それでもやっぱり、“激ヤバ”なことには違いない。
当のジュノだっていっくらなんでもヤバイと思って、タンク入りのジュースをガブ飲みしては(これがオープニング。実にポップな導入である)何度も妊娠検査薬をとっかえひっかえして試すし(その代金を支払っているかどうかは、顔なじみの雑貨屋のオヤジの心配そうな表情で察せられるのだが)、そのことを打ち明けたイケイケな女の子がその、「マジ!?激ヤバじゃん!」という台詞を吐くんである。

そうそう、この映画は英語の判んない私にはサッパリだけど、どうやら若者言葉(という言い方も古い)というか、“今”のスラングが相当使われているらしい。それは確かに、彼女たちの会話の、というか全身の独特のリズムで察せられる。そして、一生懸命ワカモノ言葉変換している字幕にも感じる(笑。だからこそ、あっという間に古びそうでハラハラする。それでなくても、日本のワカモン言葉の賞味期限はあっという間だからさあ)。
だから重さを感じない部分は大きいんだけど、逆に、そのリズムで彼女たちが重い気分や傷つくことを巧みにガードしている感じもする。でもそれは、逃げてるとかそういうネガティブなことじゃなくって、必要以上に落ち込まないように、前向きに考えられるようにっていう、生きていくためのリズム、とても言いたいような感覚を凄く、受けるのね。

逆に、そんなジュノと対照的なのが、お腹の中の父親であるボーイフレンドのポーリーなのね。陸上に打ち込んでいる、マジメにジュノのことを好きな男の子。この子の存在があるからこそ、いろんな意味で救われる部分は大きいと思う。
ジュノの方は、特に何に打ち込んでいるという訳でもなく、走っている男の子たちをボンヤリ見つめながら、ユルいパンツの中で揺れるナニを想像してる。性や恋に目覚め始めて、むしろ男の子たちがコドモに見えているのかもしれない。
確かに、ポーリーは最も大切な部分では悩まないでいい立場に“追いやられて”いる。この年で父親になるかもしれない、それによって困難に直面することから、ハッキリと彼は排除されている。
最終的には、出産を終えて無事子供を養母に引き渡したジュノと、エッチで終わってしまった恋愛ですらなかった以前の関係ではなく、最初から恋人としてやり直す権利さえ与えられている。それは、今までの10代妊娠モノではありえなかった展開。

それは、あんなにも現実的に割り切って、理想の夫婦に引き渡せばいいんだと出産を決めたジュノが、「女には証拠が残るのよ」と、ある意味妊娠モノの王道の台詞を吐く場面を考えると、なかなか考えにくいことなのだ。
そう、ジュノがこんな台詞を吐くのは意外だった。だって、お腹が大きくなろうと、オッパイがでかくなろうと、堂々と学校に通ってきていたのに。その姿は誇り高くさえ、見えたのに。
でもそれは、錯覚だったかもしれない。だって、ジュノは愛する人の子供を宿したのだから、という考えまで持っていた訳ではないんだもん。そう、彼女はまだ、この男の子に恋する気持ちを自分でハッキリ自覚するまでにさえ至っていなかった。
むしろ、このマジメなポーリーの方がジュノのことをホンキで好きだからこそ、妊娠した彼女が自分を切り離したことに、苦悩していたかもしれないのだ。

でも、ジュノも割とフクザツな家庭環境を持っているし……今の母親は再婚した義母で、幼い妹とは腹違い。元の母親は自分たちとは全く連絡を取ろうとせず、再婚先で更に子供をもうけて、幸せにやっているらしいと。
でもフィギュアスケートに熱中しているカワイイ妹とは大の仲良しだし、父親はジュノのことをいつも心配しているし、義母はどこか頼りになるお姉さんみたいな雰囲気。家族みんなで友達みたいなイイ家族。
このぐらいの複雑さは、ことにアメリカあたりではそんなに珍しくないのかもしれないけど……ジュノは自分でも気づいていなかった子供や家族というものへの思いを、徐々に目覚めさせられていったのかもしれない。

だって、最初は、アッサリ中絶するつもりだった。有名な中絶病院に予約の電話を入れて(ハンバーガーがぱっくり開く形の電話がカワイイ!)、ストロベリー風味(だったかな)のコンドームを受付で勧められたりなんかして、とにかくこのお腹の中のヤッカイモノを除去してやるぐらいの気持ちだったのだ。
でも、その病院の入り口には中国系と思しき同級生、スー・チンがいて……彼女は多分、ジュノが妊娠してさらには中絶するつもりだという話をどこかから聞きつけたに違いない。子供を殺さないでとプラカードを持って待ち構えているんである。
最初は意に介さないジュノだけど、彼女が、お腹の中の赤ちゃんにも爪がもう生えてるのよ、と聞いた途端、足を止める。
何かそれは、確かに生々しい感覚があって、それを、それだけを理由に中絶を止めて産もうと決心するジュノの直感は、なんだかとってもピュアに感じるのよね。
それを進言するのが、道徳的に厳しいアジア人(中国の人がどうかは判んないけど、これが日本人でもアリだと思う)というのが、なんかスゲー、ナルホドと思って。超マジメそうなスー・チン、顔立ちもモロ、欧米人が想定するアジアの女の子っぽいし。

そしてジュノは、自分じゃ育てられないから、優秀な理想の夫婦に受け渡そうと思い立つ。ペットやなんかと一緒に、赤ちゃんを譲ってくださいって広告が、夫婦の写真入りでタウン紙に載ってる中から、ジュノはエリートで幸せそうなカップルをチョイスするんである。
この辺りは、そういう制度?が確立しているアメリカならではの発想。こういうの、日本でもきちんと確立していれば、どうしようもなくて殺される命も、子供が出来なくて苦しむ夫婦も少なくなるだろうになあ。その辺が、倫理観なんてクダラナイものに阻まれた日本という国の貧しさなのかしらん。

ただ最初はね、というか中盤、あるいはもう出産するまでと言った方がいいかもしれない、ジュノは確かにお腹の中にいる赤ちゃんに母親としての愛情や、父親となったポーリーのことなんかは、別に考えないわけ。そこがこの物語の最も大きな特異性。そして言ってしまえば、ジュノという女の子のカッコよさ。
ただひとつの難関は、両親に上手く説明出来るかぐらいでさ。むしろ両親は、この奔放な娘が何を言い出すのか、なにかヤバイことをしでかして、高校を退学になったのか、って思っていたから、妊娠したことを聞いて驚きはしたけれど、どっかミョーに安堵したぐらいで。
まあそりゃ、父親は、相手のポーリーをブチ殺たいぐらいに思うけど、妻であり義母であるブレンは冷静に「ポーリーが誘ったんじゃないわよ」と言う。父親もまたそれに、確かにな、と同意するあたりが(爆)。
つまりこの時点で、この両親にポーリーは、むしろジュノにはもったいないぐらいの、マジメでいい男の子だって認められているんだよね。まあ多少、ウブで頼りないぐらいのニュアンスは入っててもさ(笑)。

ただね、そう、ジュノは最初は、このヤッカイモノを“搾り出して”養父母に引き渡せばいいと思ってた。でも段々と、彼女の意識は変わっていく。
いやそれは、スー・チンに、胎児にも爪があるんだと言われた時からだったかもしれない。
特にそれが顕著だったのは、エコー写真を撮った時。義母ではあるけれど、ジュノの良き理解者であるブレンは、つきそいながら、そのエコー写真に涙を流した。
この義母は実にイイんだよね。むしろ父親は存在感が薄い。血がつながらないけど、つながらないだけに、事態を冷静に客観的に見てるし、その客観的視線から、ジュノやボーイフレンドや、ジュノが選び出した養父母のことをきちんと認めて信頼してる。それが、凄く嬉しいんだよね。

ただこの養父母、カンペキに見えた二人は、むしろジュノと関わってから、ほころびが見え始める。
ジュノが現われなかったら、もしかしたら見えなかったかもしれないほころび。だって結局、二人は別れてしまうのだもの。でもそれは、二人にとって決して悪かったとは言えない出会い。いやむしろ、これからの人生を考えたら、二人がジュノに出会ったのは運命だったと言えるぐらい。
タウン紙の広告写真もカンペキに理想的で美しい夫婦に見えたし、実際に会ってみてもその考えは揺るぎなかった。裕福な、いくつも部屋のある豪邸、お互いを理解しあって、でも残念ながら子宝に恵まれてなくて、だからあとは二人が慈しむ子供がいさえすれば、パズルのピースがぴたっと合う。ジュノはそう思って、観客にもそう見えていた。

でも、違ったのだ。親になることにこだわっていたのは彼女の方だけ。夫のマークにそこまでの気持ちはなかった。妻の気持ちを尊重している理解ある夫という自分に酔っていることに、自身で気づいていなかった。
むしろ、子供が出来ないことをいいことに、妻が勤めに出ている間はシュミに没頭できる、気楽な生活を享受していた、としか思えない。売れっ子CM作曲家である彼だけど、そういう境遇だから、家にいる時間はタップリある、まあいわばオタクだったのよね。
で、オタクであるのはジュノもそうだったもんだから、ウッカリ意気投合してしまうのだ。ロックや血みどろB級ホラー映画で、どっちがイケてるものを知ってるかでやいやいやりあって、セッションしたり、カルト映画を観たりと、楽しい時間。
それは多分、あのマジメっ子ボーイフレンドとは得られなかった時間。特に必要もないのに、赤ちゃんの経過を報告するという理由で夫婦の家を、恐らく妻のいない時間を見計らって尋ねるジュノは、ちょっとは彼に、恋に近い信頼関係を覚えていたに違いない。

そう、恐らくこの時点では、冷たい美貌の妻、ヴァネッサの方には、それほどシンクロしていなかったのだ。友達みたいなマークと単純に仲良くなって。
でもある日、ショッピングモールでジュノは偶然、ヴァネッサを見かける。見知らぬ他人の赤ちゃんと嬉しそうに遊びだす彼女、「さらいそうだよね」と一緒にいた友人と笑いながら、その幸せそうな妻の様子に釘づけになった。
エレベーターで行き会った彼女に、お腹を蹴る赤ちゃんを、その手に感じてほしいと思った。なかなか反応してくれない赤ちゃんにジュノ自身がジレながら、ヴァネッサに赤ちゃんに話しかけてみてと促がした。
そしてついに赤ちゃんから反応があって、ただでさえお腹の大きなジュノに感慨深げだった彼女は、もうもう、ただただ感激の面持ちだったのだ。

この時から、信頼の度合いは恐らくヴァネッサの方に向いていたと思う。後にマークが、こんなに早く提供者が現われるとは思っていなかった、まだ父親になる準備が出来ていなかった、というか、妻と別れて一人暮らしをして、君と……なんて色目を使い出すもんだから、ジュノはショックを受けた。
そのショックは多分、自分がこの問題の重さに真の意味で気づいていなかったショック。
恐らく自分も最初はこの夫程度の気持ちで、でも段々と、自分の中に赤ちゃんがいることで、気持ちが変化していった。ベタだけど、最初とのギャップが大きいだけに、それをヴィヴィットに感じることが出来る。

ジュノはマークが自分に思いを寄せちゃって、妻と離婚するつもりでいることに、苦悩するのね。どうしたらいいのかと。
だって、幸せな夫婦に受け渡すっていうカンペキな条件だったからこそ、産もうと思ったんだもの。
そう考えると、この夫はホント、サイテーである。この時点で妻と別れて、どうするつもりなの。ジュノと結婚してこの赤ちゃんを育てるってか!?
いや、多分、彼はそんな風に、単純に思っていたのだろう。妻が、妻こそが子供を欲しがっていたことを踏みにじって。
あるいは自分のシュミを軽蔑していた妻への報復?でもそんな子供じみた理由なら、このやり方は残酷すぎる……。
いや、彼女との赤ちゃんをもうけられなかった自分への歪んだコンプレックス?うーん、そこまでは考えすぎかな。そこまでの深みは感じられない。ただこの夫が子供じみてるってだけで。

ジュノは、ヴァネッサが“そのつもり”なら、私も“そのつもり”だとメッセージを送る。
つまり、離婚しても、あなたが子供を育てるつもりなら、引き渡すと。
ヴァネッサの子供への、悪く言ってしまえば執着心、良く言えば愛情を、ジュノは見逃せなかった。
それは、夫婦生活を円滑にするとかいう以上の、女としての本能的な強い思いに思えた。
それは、確かにコドモな部分を持つ夫にとっては不幸だったのかもしれない。男から見れば、そんな女は自分勝手なんだろう。
でも、どうしようも、ないんだもの。

だからこそ、この作品中でいわば理想の男として存在し続けるポーリーは、その点に関して絶対に口を挟まない。それは、確かに卑怯なのかもしれない。
でも、彼が一貫してただただジュノを気にかけ続けること、よけいな心情を挟まずに、父親としての苦悩とかそんな背伸びすることも考えずに、ただ恋しているジュノのことを思い続けるのが、この物語の中では奇跡的なピュアで、グッときちゃうんである。
途中、ちょっとケンカしちゃったジュノとポーリー、でもジュノは気づいてた。お腹の大きな自分を奇異の目で見る周囲と違って、いつも彼は自分の顔を見て、思いを口にしてくれたこと。

でもそれって、この設定じゃちょっとキケンな気もするんだけど……だって、この原因となった責任を回避しているんだもの。でもそれこそが、この物語の特異性なんだよね、確かに。
まあ、ポーリーも、その事実から目を背けている訳ではない。苦悩しているとは思う。この物語がそのことから意図的に彼を排除しているから、なかなか判りにくいけど。
妊娠を告げられた時の、君のしたいようにすればいい、という台詞は、ズルいように見えて、ジュノが決断したなら、父親として苦難に立ち向かう覚悟が出来ている、という意味にもとれるし。
でも結局ジュノがしたのは別の決断で、ひょっとしたらそのことにポーリーは、自分じゃ頼りないからだと思われたかとショックを受けたかもしれないし、そもそもエッチしただけで、付き合ってさえいないと言われたことも、相当ショックだったと思うし。

湿っぽくないって、言い続けたけど、シメは割と湿っぽいんだよね。
産んだ赤ちゃんとは決して会わないと、ジュノは決めてた。その理由までは明かされないけど、まあ、一般的に言われるように、母親としての執着が出ることを懸念してのことだろう。
出産のこと知らせてなかったのにポーリーは察知して、陸上大会の一位のテープを切ってそのまま、出産後のジュノの元に駆けつけてくる。
理由を明かさぬ涙を流す彼女を、後ろからただ黙ってそっと抱き締めた。

そして、自分が産んだんじゃないのに、もうシングルマザーとなってこの場に現われたヴァネッサは、恐る恐る赤ちゃんを腕に抱く。ジュノの義母がそれを見守っている。あなたはもう母親だと言ってくれる。
今はさ、もう、ホントに、何が家族の定義か、言えないよね。言うべきじゃないよね。
血がつながっていることが家族だと言えるだけの根拠が、今はない。
あるいはそれが、人間にだけ許された、人間だけの個を確立して一生懸命生きてきた、ひとつのご褒美かもしれないと思う。
それはきっと、もっと大きな幸福、平和へとつながっていくものだとさえ思うしさ。
それは一方で、その人間自身が生み出した悲劇への最後の特効薬なのかもしれないけど。

それでもとにかく明るいのだ。最後までポップを失わない。
あ、それと言いそびれたけど、ポーリーの替わりとでもいうように、常にジュノのそばにいる親友のリアがまた、イイんだよね。激ヤバじゃんとか言ってたのに、この事態を楽しんでいるように見える。養父母を探し出す時も、両親に告白する時も、彼女がいつもそばにいて心の支えになってくれてる。
そして出産の時でさえ、ジュノの車椅子をぐるぐる引き回して、キャーキャー言って「だって、楽しいんだもん」って、アンタ、どこまで楽しんでんの(笑)。

ところで、マジで!この監督、アイヴァン・ライトマンの息子さん!このライトに観客をノセていく感じ、血を感じるわ。んでもって、深いテーマもその軽さに載せて、しかし軽いままでは終わらせないあたり。
だって私、ホンキでリック・モラニスと結婚しようと思ってたもん(笑。んー、若き日の私は何考えてたんだ(爆))。
そんな注目される若き才能なんて、ぜっんぜん、知らなかった。ウカツだった!!!
ビッグネームである父の血を引きつつ、映像業界のあらゆる仕事でコツコツ実績を積み、今回の大爆発。こりゃー、メッチャ応援せずにいられん。
長編デビュー作の「サンキュー・スモーキング」観てないのが、おおーいいに悔やまれる……。★★★★☆


純喫茶磯辺
2008年 113分 日本 カラー
監督:吉田恵輔 脚本:吉田恵輔
撮影:村上拓 音楽:CKB−Annex(高宮永徹/高橋利光/河合わかば)
出演:宮迫博之 仲里依紗 麻生久美子 濱田マリ ダンカン 和田聰宏 ミッキー・カーチス 斎藤洋介 近藤春菜

2008/7/14/月 劇場(テアトル新宿)
「机のなかみ」の監督さんの新作!思わずキャー、と声をあげて喜んでしまった。何の知識も期待もなしにフラリと入って思わぬヒロイモノだった「机のなかみ」、その監督さんがこんな豪華なキャストを揃えてロードショー公開の映画だなんて。なあんか、関係ないのについつい誇らしげな気持ちになっちゃうわ。
と、今しみじみとプロフィールを見て初めて知った、この吉田監督、塚本晋也監督の作品でキャリアを積んでる、しかも照明さん!照明さんから監督になる人って、珍しくない?個性的な監督さんはどこから生まれるか判んないなー。

「机のなかみ」では、中盤でぐらりとひっくり返って次々にウラ側が見せられていく展開に驚かされた。しかしまあその手法は一つの王道ではあるんだけど、魅力はそれだけじゃかったのが、惹かれまくった理由だった。
どう客観的に見てもイケてない男がどんどんカン違いしまくって、でも確かに彼の視点から見ればそんな風に見えて、おっかしいなあ、と思っていたら、中盤にひっくり返ってからは、やっぱりそうだよね!やっぱりコイツ、イケてねー!みたいな、スッキリのようなカワイソウなような、どこか自虐的なユーモラスが、可愛らしささえも運んできて、うん、ホントに何とも言えない魅力があったんだよなあ。

で、本作は前作のような驚きのどんでん返しはないんだけど、でもやっぱりアゼンとさせられる場所はいっぱい仕掛けられてる。
この監督さんはきっと、まず人を驚かせることが好きなんだろうと思われる。しかもそれが、笑っちゃうようなオドロキなのね。で、主人公の男に対してカワイソーって思うんだけど、やっぱり笑っちゃう。
そういう部分も、なんか共通してる。根拠のない自信を持ってるイケてない男に対する愛しさの視線。そしてそれを、もうキャスティングされた時から、ああ、この人なら!と思わせる宮迫氏なら、大正解なのであった。

確かに根拠のない自信を持つぐらいの、それなりの容貌は持ってるもんだから、余計にタチが悪いのかもしれない?そして、小ずるくて、でもイマイチ詰めが甘いような、そういうキャラに、ドンズバでハマる宮迫氏。
あら、メタボおじさんよろしくお腹出てるなあって思ったら、やっぱり詰め物だったのね。そういうあたりもキャラにピッタリ。
冒頭、200パーセントやる気のない工事現場での仕事開始の挨拶をする集団の中で、またひときわやる気なさげな彼が、父親の遺産が転がり込んだら、仕事をしなくなるのも当然てなもんである。

しかもその場面からして、凄いの。病室から彼、裕次郎が出てくる。そこに、到着する娘、咲子。「おお、じいちゃん死んだから」みたいな。台詞のニュアンス違ったかもしれない。あまりに唐突で、予期しない台詞だったから、驚いちゃってさあ。
で、タバコを吸いに外に出る裕次郎。しかもそれを受けた咲子も、うん、判った、てな感じで病室に入り、「そういえば、死んだ人をこんな近くで見るの、初めてかもしれない」なんて思ってるんだから、こんな父親を持つ娘がいかにタイヘンなのかを、もうこのシーン一発で示してるんである。

でね、この娘を演じている仲里依紗嬢。彼女のこと、初めてイイと思ったなあ。これまで数度見かけてはいるんだけど、どうにもピンと来なかったのよね。なんか、大味すぎて。
でもその大味がハマる場所というものが、あるんだね。この監督の世界に、彼女はピタリとハマッた。その大味気味の演技も、ハチャメチャなことが次々起こるこの世界では、必要。少女の繊細な演技なんて潰されてしまうもの。
彼女は大いにがなり、ぶんむくれ、落ち込み、そして最後には浪花節な泣きも見せ、それは確かにいい意味での大味な魅力がなければ成立しないんである。
それに、何たって宮迫氏の娘役となりゃー、これっくらいの大きな度量がなくっちゃねと思う。ほおんと、彼女、ピタリだったなあ。不遜な言い方だけど、見直しちゃった、いや、ホレた。

じいちゃんが死んで、母親が線香をあげに来る。離婚して8年、一度も顔を見せなかった母親。演じているのが濱田マリで、これまたイイのだ。
その後、喫茶店を始める父親に振り回されて、疲れ果てた咲子が何度となく母親の元を訪ね、この8年間のミゾを埋めるのかと思いきや、そうではない。母親は今は一人の生活を謳歌しているし、恋だってしている。だから「あんた、あんまり来ないでよ」なんてまで言う。
でもそれは、イイ意味でなのだ。この母親には自覚があるから。今はあくまで、同じ女同士の友人的な立場からしか、娘にアドヴァイスできない。勿論女としての先輩だから、結構イイことは言うんだけどね。
母親はもう、自分が親の顔をして出てくるべきではないと思ってる。だからこそ、今まで連絡をとらなかった。

なんで離婚したのか、どうして母親が娘を引きとらなかったのかを、語る場面があるのね。決して憎み合った訳じゃなかった。ただ、気持ちがずれてきてしまっただけ。だから今でもあの人の幸せは祈ってるよ、と母親は言う。
でも、もう家族には戻れないと、ハッキリ言う。それは、なんだか寂しくなっちゃった咲子が「また三人で暮らせないの?」ふと口にしたことだったんだけれど。
お母さんと暮らすのが良かったな、と思わず口にしてしまった咲子に、それは、お父さんがどうしても咲子は渡せないって言ったからなのよ、と母は言った。そして自分も、あの人の方があんたのこと、考えてくれていると思っちゃったからと。
それって、すんごい母親放棄している発言なんだけど、そしてあんなイイカゲンな父親の方がかよ!とか思うんだけど、それまで色々経過してきた咲子は、なんだかうつむいちゃって、そうだよね、なんて顔になっちゃうのだ。

と、いうのはずーっと後になってからの話なんだけど!そう、もうだから、咲子はとにかく振り回されるのよ。というのも父親がいきなり、喫茶店をやりたいと言い出したから。
もう、ホントに思いつきなのよ。仕事をやる気も失せて喫茶店でボーッとしてたら、カプチーノアートで女の子を喜ばせているマスターに目が止まったから。そんな技術もないくせに、ぜえったい、女の子と仲良くなれるって一点だけでそう思ったのよ。
んでもって、いきなり自家焙煎だとか言って、フライパンでコーヒー豆炒り出しちゃってさ。マズいに決まってるっつーの……。
しかし、もうゴリ押しでオープンさせてしまう。必要な食品衛生責任資格は、講習を受ければとれるっつって、その講習の場面は、彼を始め、受けてる皆居眠りこいてるのが、すっごいシニカル。
咲子は最初聞いた時はムチャだと思ったけど、喫茶店?カフェみたいな感じ?なんて友達に言われたりして、ちょっとウキウキもしてた。店の名前を考えたりもしてたのに、学校から帰ってみたら、かかってた看板は「純喫茶 磯辺」

しかも、内装も負けず劣らず超ダサダサ。ビニールのぶどうが天井を伝い、レジにはふかふかの毛皮が敷かれ、カウンターは豹柄で、壁にはどっから引っ張り出したんだか、ブローしまくり時代の工藤静香のポスター、懐かしの「MUGOん……色っぽい」の頃のよ!んでもって、ゲーム機がテーブル代わりに置いてあるって、いつの時代よ!
純喫茶って、別にダサい代名詞じゃなくって、もっと小ぢんまりとした粋な感じだよね。大体掲げてる大看板が、もう純喫茶じゃない……これじゃリサイクルショップか100均の店だ……。
しかも、店先の電光掲示板に、バイト募集してないのに、バイト募集が流れてるし、更に、「おいにい珈琲」になってるし(笑)もー、詰めが甘すぎるったら。

あらゆることがテキトーすぎて、咲子がフテくされるのもムリはない。しかしそこが出来た娘、ふてくされながらも手伝いに出て、記念写真の時にはギャル風の笑顔を作るあたりが(笑)。
勿論、大したメニューもない、軽食なんて全部冷凍をチンして出すような店に、まともに客なんて来っこない。しかし、ある日を境に、店は男どもでごった返すほどに繁盛するようになったのであった。

それというのも、一人のバイトの女性、もっこの存在。
客として来た時から、裕次郎は釘付けのひと目惚れ。もうバイトは入れてて必要ないのに、採用してしまう。
大体、素子って名前をもっこと呼ばせること自体、20代も後半を超えた女としてはちょっとイタい。
そして最初から入ってくれてた太目のバイトさん(ハリセンボンの近藤春菜)をクビにしてしまう。しかも「駅前の喫茶店の方が時給がいいし……26の女性にこの時給で働かせるのは心苦しくて」なんて空々しいことを言って、向こうから辞めますという言葉を引き出させるという、ヒドいヤツなんである。
しかも26って、もっこだって同じ年なのにさ。

こーいうあたりが、イイカゲン+小ずるい男のキャラ全開で、さすがにイラッとくる場面も満載なんだけど、でもなんか笑っちゃって、結果的にはこの男を憎めないのは……結局こんなことやってたら成功なんかしっこないし、そのことを彼自身が判っていないことへの、なんか憐憫の情が段々わいてきちゃうんだよね。あまりにもアホで。
だって、このもっこという女、一見すると人当たりが良くてソツがなくて、「っすね」って連発する言い方は何となくカンには触るけどまあ美人だし、男ウケするのは判るけど、なあんとなく、信用出来ない感じがある。信用出来ないというより……危なっかしい感じ、だろうか。

そのことを、咲子が最初からかぎつけていたかどうかは判らない。ただ単に、年若い女に鼻の下を伸ばして、カン違いしそうになってる父親にイラついただけだったかもしれない。
これを女のカンと言ってしまうまでには、違ったかもしれない。
駅前で開店のチラシを配ってきてと言われて、こんなの効果がないことぐらい誰の目にも明らかなのに、それをマジメにやってみて、やっぱりダメで悄然と帰ってくる咲子と、やったフリこいて、ファストフードで一休みし(やっぱりあの店のコーヒーは飲めないってことか……)そこのゴミ箱にチラシをドサッと捨ててきてしまうもっことは、女としてのというより、人間としての本質が、まず違うということなのだ。
しかしもっこは、父親が用意したメイド風の安っぽいピンクのテラテラしたミニスカワンピースのありえねー制服を、アッサリ着ちゃって、まーそれが、美脚がすんなり伸びて間違いなく男の目を引いちゃうもんだから、皮肉にもこの店は男どもたちで大繁盛しちゃうのよね。

しかも咲子は、その客の一人に恋をしてしまうし。この男だけは、もっこの色気に応じていない風の、ストイックな雰囲気をかもし出していたから。
いつも同じ場所で、原稿を書いていた。小説家なのだと、咲子はのぼせ上がっちゃう。白シャツに知的なめがねが似合う青年、安田。演じているのが和田聰宏氏だから、ほんのり色気もあり、ううう、確かにイイ男なのだ。
でも今時、小説家がペンで書くのか、と思っちゃうし、「家よりここの方が落ち着く」という台詞もすんごい使い古された感じだし、娘を心配するあまりに発せられた父親の台詞「あれは絶対ロリコンだ。気をつけろ」が当たってた要素は、確かにいっぱいあったんだよね。

女子高生が出てくる小説で、本物の女子高生に読んでほしい、という言葉に、咲子は舞い上がってしまう。
もう気合い入りまくりのカワイイ系のワンピース姿に身を包んで、安田の後についていく。
通された部屋は、小説家先生というよりは、浪人学生のような汚いアパートで、その時点でおかしいと気づいてもいいのに、恋に盲目の彼女は気づかない。
でも、安田が電話に出ている間に、知的そうな本棚を物色していたら、隠しマイクを発見してしまう。慌てて周りを見回すと、次々にカメラやらなんやら見つけてしまう。
もっこみたいな女にホレた父親のことを、軽蔑していたのに、自分こそが世間知らずだったのだ。
そして、こんな恋の破れ方、あんまりだ。
腕をつかまれて、逃げられないかと思ったけど(ここはさすがに恐怖……)何とか振り切って走り去った咲子。
こんな時は、父親にそばにいてほしかった。

もー、そんな時に、父親はいつものようにもっこと呑んでいるんである。そう、いつものようによ。
もっこは元カレに押しかけられて、殴られた跡が痛々しく残ってた。
その場面は一瞬だったけど、結構強烈だった。「お前って、人の気持ちが判んないんだよ。絶対上手く行くわけない」って叫ぶ元カレ。
その台詞にもっこは、「そんなことないもん。なんでそんなこと言うの」と反論した。なんの、確たる信念もなく。鼻血を出しながら、必死に。
確かにこの元カレはひどいけど、でも……的をついていたのよね。
父親には、「もっこみたいな女が母親になるのはイヤ」と牽制をかけてた咲子だけど、ちっとも聞きやしないから。まあ、ムリもない、酔っぱらったもっこを介抱して家まで送っていったりした先で、「(酔っぱらった時の)クセなんです」と抱きつかれたりもするもんだから、そりゃー、男はカン違いもするって。

だから咲子は、今度はもっこに牽制をかけるために、もうとるものもとりあえずパジャマ姿で居酒屋に押しかけた訳なんだけど。
だけど、「私、そんないい女じゃないですよ、本当のこと聞いたら、引きますよお」と言って明かされたもっこの秘密に、父親と二人、引くどころか固まりまくる。
いつももっこにセクハラをしまくる常連のお客さんと「ヤッちゃったんですよー。誘われたら断われない性格で」!!!
そ、それって、性格の問題か!?

なんかね、正直、中盤まではナサケナ系のユルい映画って感じがあったんだよね。もっこの一筋縄ではいかないキャラが、チラシを捨てるあたりで見え隠れしてはいたけれど、まあ、要領のいいイマドキの女の子なのかなって、感じだった。
でも元カレから殴られ、この衝撃の発言あたりから、物語がぐんぐん面白くなる。まさに、展開が転がっていくんである。
こういう魅力は「机のなかみ」で既にあったけど、あの作品はそれが判りやすい構成によるものなのかと思っていたから、この一気にスパートをかけてくる個性に改めてヤラれてしまうのだ。

指輪まで用意していたのに、父親、とりあえずその場は必死に平静をとりつくろったけど、後日、このお客さんに勝手にキレて、乱闘騒ぎを起こし、警察に引っ張っていかれてしまう。
もっこはいたたまれずに、辞めますと言う。それをパトカーに乗る直前に言われた父親は、「そ、そう。そうしてくれる?」と言うしかなかった。もー、この時の彼のナサケナイことといったら……。
姿を消したもっこに、ふと咲子は再会した。故郷の北海道に帰るという。レジから盗んだ三千円と、父親への手紙を託された。
その三千円のショボさに、咲子は怒る気もなく苦笑いをする。しかもその喫茶店で「開店祝い」だと渡された超ダサい携帯ストラップは、「純喫茶磯辺」で作ったものとソックリで、二人顔を見合わせて笑っちゃう。
考えることは意外に同じなのねと……あのストラップ、結局凄い残っちゃって、友達に配るように渡した娘からもすげなく拒否されて、寂しそうだった……お父さん。

咲子が帰ると、今やキャバ嬢が帰りに寄る喫茶店のようになってしまった店で、父親は女の子にちょっかいを出している。
もっこに会ったと言っても、手紙を受け取ったと言っても、軽く受け流すまま。
咲子はゴミ出しに裏手に回る。そこでふと気づくのだ。こんな汚い、イヤな仕事ももっこは率先してやってくれたのに、と。見送りに行こうと飛び出すと、その彼女を追い抜いて、自転車に乗った父親が、競輪かってな猛スピードで走っていく。
思わず笑みをもらす咲子。
結局会えないで戻ってきた父親が、涙っぽく読んでいたもっこの手紙の内容は明かされないけど、まあ多分、予想以上のことは書いていないんだろうな(爆)。

更に一年後、咲子はもっこに再会するのね。
街のパチンコ屋から出てきたもっこは、大きなお腹をしている。
結局実家に帰るのもウヤムヤに中止されて、その時駅で出会ったJRの職員とデキちゃったのだという。もっこらしい……。
しかし、まだ籍は入れていないというのだから、それがもうすぐだともっこが幸せそうに言っても、ホンマかいなと、若干の疑いを挟まずにはいられないのだが。
でもそういうことも含めて、やはりもっこは、多少問題アリな女ながらも、幸せなヤツなんだろう。
見て、これおっきくない?と嬉しそうに取り出した巨大などらやきに(ホントにデカい!)、幸せそうにかぶりつく彼女を見ているとそう思ってしまう。

咲子はこの時、もっこに言えないことがあったのね。
店はあいかわらず、フツーにやってるともっこには言った。今はポルトガル人がバイトに入ってるなんて、もっともらしいウソさえ。だけど咲子が向かった、店があった場所には板張りがされて、不動産の張り紙がしてあった。
やはりというか、当然と言うべきか、あれからほどなくして店は潰れた。
人に出せるようなものは出していなかったんだから、早めに気づいてくれて良かったと、咲子は述懐する。
でもそれでも、……板の隙間からすっかりホコリをかぶって荒れた店内を覗き込みながら、咲子は、かつてこの店に聞こえていた色んな声を耳にする。
毎日がケンカみたいだったけど、淡い恋もしたし、ひょっとしたらもっと仲良くなれたかもしれないもっことの出会いや、今まで見たことのなかった父親の姿をいっぱい見た。

咲子は静かに涙を流す。
そこに自転車に乗ってノンキにやってきたのが、超イイカゲンな父親。娘がどうやら泣いていたらしいのを見て、なんだか嬉しくなっちゃったのか、からかいまくる。泣いてないもん!と言い募る娘に、しつこくせまり、走って逃げる娘を自転車で追いかける。
商店街を俯瞰で見つめるその画が、もう、たまらなく微笑ましくて、かわいくて、イイのよ。ずっとクールな親子関係を築いてきた二人が、子供のようにじゃれあって。
夕暮れ道をね、家に帰るのに二人乗りして、娘が父親の背中にふと頭を預けて、でもその瞬間、おまわりさんに見つかって注意されて、なんてテレ気味のシーンもまた、イイ訳。
日本の親子の、ガップリ愛し合えない、テレ気味な感じが、時にケンカみたいなイガミ合いにも現われたりするのが、なんとも愛しいのよ。

いちいち個性的な常連客たちも楽しかった。マスターに間違われる風格のミッキー・カーチス。南米系の青年にさえ「九州出身?」と聞く斎藤洋介。でもやっぱり、エセ小説家の和田氏はイイ男だったな……ヒドいヤツだけど。
でも、あの後姿を消した彼が一度だけ、店には入ってこずに、ガラスの向こうから咲子に頭を下げるシーンがあって、なんかこういうあたり、毒のある話を作りながらもイイ人な監督さんの性格が出ているみたいで、嬉しくなっちゃう。

切なさややりきれなさや後悔や、色んな感情があるのに、後味はなぜかとてもさわやかで、拍手を贈りたくなる。この親子の背中に頑張れって、言いたくなるのだ。★★★★★


春琴物語
1954年 111分 日本 モノクロ
監督:伊藤大輔 脚本:八尋不二
撮影:山崎安一郎 音楽:伊福部昭
出演:京マチ子 花柳喜章 間野聡代 石野千恵子 桜緋紗子 進藤英太郎 滝花久子 宮島健一 浦辺粂子 青山杉作 杉村春子 船越英二 千秋実 入江洋佑 飛田喜佐夫 高品格 白井玲子 飯田弘子 杉丘毬子 河野秋武

2008/10/18/土 東京国立近代美術館フィルムセンター(大河内傳次郎 伊藤大輔監督特集)
何度も映画化されている春琴抄、ちょうど今も最新版が公開されているのを知ったけれども(うーむ、観逃すだろうが)恐らく私は、この原作の映画化は初見。
改めてこの物語に接すると、それが映像であるだけになんとまあ、やはり凄い話ぞと思って思わず原作を読み返すと、そんなの、原作の凄まじさの十分の一にも満たないんである。

いや、結局はこの原作でも最も衝撃的であったのは、佐助が自分の目を縫い針でブスリと刺す場面で、それが妙に詳細に描出されていたがためにそこだけがトラウマのように心に残っていたわけで。
だからこの映画化作品にも、その場面ばかりを身構えるように待っていたところもあって、だからやっぱりスゲエなーと思ったんだけどね。
でも実際は春琴のサディズムの凄まじさ、いやそれ以上に佐助のマソヒズムの凄まじさが、ついに彼女のサディズムを上回り、純然たる愛の形に見せながらも、何となく、この驕慢な彼女が哀れに見えてしまうという残酷なパラドックスが、この原作には存在していたことを思い出したんであった。

なんてことを言い出すと、それこそ心残りのある卒論の続きみたいになっちゃう訳で、これはあくまで映画としてのエンタテインメント。
そう、小説を読み返してみると、この映画はちょっと驚くほどエンタメ映画、メロドラマ映画としての完成度に満ちているんである。
だってまず、春琴は全然驕慢じゃないし。勿論大店の箱入り娘が丁稚の佐助を従えているんだから、そして彼一人だけをこきつかっているんだから、そんな色が全然ない訳じゃないんだけど。
ていうか、そうか、映画を観ている時には、確かに結構高慢娘には見えたかなあ。その後で小説を読み直しちゃったから、その春琴のあまりのわがまま娘っぷりが、そりゃこのままやっちゃったらシャレにならないんだから、いわゆる映画に際しての、ソフィスティケイトした表現になったという訳なんだよね。

でも結局、この小説自体も、佐助の口伝えの形を借りていて、そりゃまあ少々はそれを客観的に記す谷崎自身のルポルタージュも入ってはくるけれど、結局はドMの佐助の、被虐的趣味に満ち満ちた、必要以上にいじめられたがっている描写だから、その辺を割り引くと、この程度の、ちょっとプライドの高い、不幸にも目の光を失った、育ちのよい美少女、という程度のことになるのかもしれない。
なんせ小説の中の佐助の口伝えっていうのが、もう晩年になってから、愛する美しきお師匠さんの人となりを伝えようとしたものだから。

彼が失明して、彼女の姿を見ることが出来なくなってから、そして更に、彼女が死んでから相当の時を経れば、それこそ小説の中でも語られているように、彼の理想の春琴として形作られたに相違ない。
それがこのたぐい稀なるSM小説を生み出したんであり、実際はこれぐらいだったんじゃないか、っていう、この映画化のスタンスは実に興味深いんだよね。
っていっても、そもそもがフィクションなんだから、二重フィクションともいうべき、不思議な体裁になるわけだけど。

でもそこが、谷崎文学の面白いところであり、私がとことんラブしちゃうところなんである。思いっきりヤバイ視点からだって斬り込めるからこそ、ロマンポルノの素材としても愛され、数多くの傑作を生み出したんだもの。
それこそ、“実際”は、ロマポルのアプローチの方が谷崎の意図には近いんじゃないかと思ったりもする。

だってこの映画化作品では春琴は佐助との子を一人しか授かっていないけれど、小説ではそれから後に三人も授かっているのよね。しかもその子供たちの行く先(死んじゃったり、もらわれたり)にはなんら執着せずに、二人だけの世界を大事にしていた。
それに比してこの映画化作品では、たった一人授かったその子供が結局はもらわれていった先で幼くて死んでしまったこと、しかもそのもらわれていった先は佐助の実家だったこと、今頃あの子は何歳ぐらい、だなんて述懐したりと、いわゆる王道なメロドラマの路線を追及しているんだもの。
そりゃまあ、フツーに人道的に考えれば、産み落とした子供を四人までも、全く顧みずに主従という形のSM道に邁進した、なんて、現代だってスキャンダルどころじゃない話だ。でもそれを、究極の愛の話にしちゃうところが谷崎の凄いところなんだけど。
そりゃあそれを、尺が決まってて、しかも映像という、センセーショナルな印象が植え付けられやすい媒体では、その通りにするってのは、難しい。

だーかーらー。なんかホントに卒論の続きになっちゃってるってば!
でもね私、それこそこの「春琴抄」を久しく読み返してなかったから、この映画に接した時、なんかフツーに楽しめちゃったんだよね。時に笑っちゃったりして、あら、こんなコメディの部分なんてあったかしらなんて。
まず、春琴を演じているのが京マチ子だというのが、ビックリだった。何がビックリって、だって彼女は他にも何本も谷崎作品に出てるけど、「鍵」にしたって「痴人の愛」にしたって、肉感的で官能的な女、っていうイメージを完璧に体現していたじゃない。それが、この佐助がまるで天女のごとく崇拝する、どこかおぼろげなイメージの春琴ってのが、凄い意外なキャスティングに思えたんだよね。

あ、でも、SMのSの女王と思えば、これ以上ぴったりくるキャストもないのかなあ。
しかし、あの圧倒的な肉体以上に強い光を放つ瞳を封じ込めて、常にまぶたを閉じ続けながら、佐助をアゴでこき使っている京マチ子は、その瞳の光がないせいか、まるで雛人形のような可憐な美しさで、確かに「鍵」や「痴人の愛」の彼女のような、ストレートなSではないんである。むしろもっとタチの悪い……ネチネチとしたS。

しかしそれを受ける佐助はというと……私、演じる花柳喜章はほおんとに、小動物系の容貌と、柔らかな物腰と、それなのにどこか大胆なところまでも含めて、もう百パーセント、完璧にイメージどおり!と、なんか、美しい京マチ子よりも見とれてしまった。
小動物系とは言いつつ、ふっくらした雰囲気が、下手に出ているんだけど、どこかどっしりと構えているところが、マゾヒストとしての誇りさえを感じるぐらいなんである。

盲目のお嬢様を稽古に連れて行く手引きの役割にしか過ぎなかった佐助が、その三味線の腕を認められ、商人として奉公していたのが、春琴のお弟子となって音曲の道に邁進する。
佐助が三味線をマスターしたのは春琴に近づきたかったからであり、彼女と同じ世界を得るために押し入れの暗闇で稽古をした。それを知った店の主人が、激昂して佐助がなけなしのお給金を貯めて買った三味線を叩き折ってしまうシーンの哀しささえ、ドMの佐助にとっては、春琴へのそれこそ盲目的な愛を感じさせるんである。
小説ではただ三味線を取り上げられるだけなのと比しても、佐助のMを満足させるに足りる趣向といえる。
春琴をお稽古に連れて行く描写、寒がる春琴の小さな手に息を吹きかけてはさすり温める佐助。原作の幼い少年少女の描写よりも、その後の長きを演じる二人はもはや色香を隠せない成人男女であり(まあ、若いカッコはしてるけど)、どうしようもなくエロを感じずにはいられないんである。

あ、そうか。そういう意味で言えば、小説と最も違うのは、春琴がお腹に子供を宿した最初、二人とも頑として相手の名を明かさなかったその最初の秘密の場面を、この映画がしっかと示唆していることなんである。
いつものように(っていうのがまず凄いんだけど)佐助が春琴の汗ばんだ身体を手ぬぐいで丁寧に拭く。後にはお風呂上りの一糸まとわぬ姿をぬぐうという赤裸々な場面も出てくるけど、ここでは着物の襟元をグイッと抜いて、そこから手を差し入れて背中をぬぐうという描写。しかし、こっちの方がよっぽどエロでドキドキとする。
ふと佐助の手を抑える春琴が、行灯の明かりがまぶしい、と言う。……なんかこの台詞って、そのまま現代に置きかえてもかなりベタな気がするけど(照)。
かくして明かりを落とした中で二人が何をやってどうなったかは……語るだけヤボってもん。

でもこの描写があるだけで、小説ではあくまで佐助を召し使いの立場から引き上げなかった春琴の高すぎるプライドを打ち砕くには充分で。
それは本当に、大きなことなんだよね。この映画では、最終的には佐助と春琴は対等の愛を得た。

でも小説での二人は……お腹の子供の父親が佐助であることを、結局は二人とも認めなかったことが、この時点での春琴のプライドをなんとか保ったんだけど、逆にこれが弱みとなってしまった。
彼女は晩年少々弱気になって、佐助と結婚してもいいと思っていたのに、佐助はあくまで春琴を高貴なお方と崇める姿勢を崩さなかったから。
つまり、春琴が自分のような低い身分の男との子をなしたなんてことを彼女以上に認めなかったから、春琴のサディズムが佐助のマゾヒズムに負けてしまったのだ。
いや、最初から彼女のSを、彼だけが喜んで受けていたんだもの。
だからなんだよね、なんだか最終的には春琴がかわいそうな気がしてしまうのは……佐助からの純愛の衣をムリヤリ着せられて、本当は弱く、醜い自分こそを、佐助に受け止めてほしかったのかもしれないのに。

無論、この部分こそが、一番大事な要素である。
果たして春琴は、誰かによって熱湯をかけられて無残なやけどを負ったその顔を、佐助に見られないままだったのが、本当に幸福だったのか?
そりゃ確かに女心だし、それをくんで自らの目を突いてまでお師匠さんの気持ちに応えた佐助は、(ちょっと異常なまでの)忠義者な訳だけど、その時は春琴も、佐助の回想どおり感激したのかもしれないけど、果たしてその晩年まで本当にそう思っていたのか?
この物語が、どこかそこをハッピーエンドみたいに持ってきて、その後、自分たちが手放した子供たちの墓参りまでしちゃったりして、っていうのが、やはりそんな単純な筈はないと思っちゃうからさあ。
でも、そこを掘り下げちゃったら、それこそ泥沼になってしまうから……美しい自分だけを記憶してほしいという願いを飲んで佐助が目の光を自ら失って、でも今、佐助のそばにいる春琴は、醜い火傷の跡があって、でも彼は、美しい彼女を思ってそばにいる、なんてさ、それが、それこそが、この小説の本質であり、残酷なんだよね。

だーかーらー。卒論の続きをしてるんじゃないんだってば。
この映画で最も魅力的だったのは、二人の俳優。杉村春子と船越英二。
美しく才能のある春琴にあからさまなひいきをする琴のお師匠さんに、一番弟子であるおえい(杉村春子)は、とことん嫉妬するのね。
いや、これを嫉妬と言ってしまうのは、気の毒かもしれない。ちゃんと、抗議と言ってあげる方がいいかもしれない。
でもおえいが、美しい春琴に対して必要以上に自分の容貌を卑下して、そりゃ私はおたふくですよ、イヤでもこの顔を見なけりゃいけない、私もめくらに生まれたかった、とまで言って、お師匠さんを困らせるのが、そりゃもうあの杉村春子だから、なんつーか、笑うに笑えず、だけど笑っちゃって(いや!彼女の演技が達者だからよ!!!)、ちょっと京マチ子を食ってしまうぐらいなもんなんである。

そして後半出てくる船越英二に至っては、原作にも出てくる鼻持ちならないボンボンなんだけど、もうこれを思いっきり楽しそうに演じてて、ちょっと魅力的過ぎて困っちゃうぐらいなんだよなあ。
彼は春琴の美貌にヨコシマな気持ちを抱いて、弟子入りに来ている。だから当然、そうそうやる気もないわけ。
そして新築祝いの宴に春琴を招いて、上手いこと言って佐助を遠ざけて春琴と個室で二人きりになり、許されざる行為に及ぼうとする。
ひょっとしたら小説では、匂わせているだけだけど、最後までいってしまったかもしれない。谷崎なら、そういう含みぐらいはやりかねない。
でもここでは未遂の状態で、春琴はコイツの眉間に皿をブチかまして流血させ、騒ぎを聞きつけて慌てて駆けつけた佐助の手をとるのだ。

このおえいと利太郎は、この場で顔を合わせてて、恐らくおえいが利太郎をたきつけたと思われる。おえいのキャラは原作には明確にはなくて、そんな人もいたな、位な匂わせ方なんだけど、杉村春子が圧倒的な存在感で、そのコメディエンヌぶりもあまりにも見事で、全てが終わって最も印象に残ったキャラは、彼女じゃないかと思われるほどなんである。
まだお琴と呼ばれていた春琴が、春琴という名をお師匠さんから賜わる場面の、おえいの取り乱しようときたら、もう哀れっつーか、笑っちゃうっつーか。
長年お師匠さんの世話をし、代稽古もつとめていたのにと噛みつかんばかりのおえいにお師匠さんは、春琴が幼少のみぎりから天賦の才能を示していたことをとつとつと諭し、おえいの言い様は俗だとばかりに切り捨てるんだけど、そりゃ判るけど、あんまりだよなー。

ていうか、杉村春子は、この画ではあまりに俗なキャラなのよ。こうはなりたくないっていう。でも、大多数の、私らは、確実にこっちなんだよね。一生懸命に頑張って、ガマンしても、見目麗しく、才能のある人にカンタンにさらわれてしまうって。
だから、小説の中の登場人物としてちゃんと存在している利太郎ではなく、彼女にこそワキのメインを任せ、そして利太郎とタッグを組ませたことが、やっぱりこの映画で凄く大きなことだったよな、と思うんである。
小説ではとにかく傍若無人のワガママ娘で、敵は無数にいてとても犯人を絞り込めなかったけれど、そうなると、ドラマにならない。二人が組んで、春琴の顔に熱湯をかけたという筋立てにしたのは、確かに上手いドラマの作り方ではあったけれど……。

佐助が春琴から、爛れた顔を見ただろうと再三責められる場面は、原作共々辛い。
お師匠さんの言いつけに、一度だって背いたことがありますかと、涙ながらに反駁する佐助に、春琴は、お前だけにはこの顔を見られなくないのや、と嗚咽する。
双方共に究極の愛の言葉だけれど、それぞれが、全く違うベクトルを向いているのが、哀しすぎる。
でも実際に、映画で、映像で、光を徐々に失っていく佐助が、愛する春琴を求めてそこここにぶつかりながらさまよい、春琴もまた佐助を求めてさまよいながら、彼の手を今度は自分から取る場面をこの目で見られるというのが、たまらない。たまらなく、美しい。

だって今まで、いつだって、佐助の方から、うやうやしく春琴に手を差し伸べていた。
佐助が手に握りしめていた糸のついた針が、ポトリと取り落とされ、それを思わず踏んだ春琴、そう……佐助が何をしでかしたのかを、悟ったのだ。
佐助はただただ、お師匠さんと同じ世界に行きたいという自分の願いを、仏さんが叶えてくれたのだと言い募るばかりだったけれど。
これも、キツいんだよね。だってそんなの、明らかにウソなのに。自分で目を針でついたって、春琴にもバレバレなのに。
それって結局は、二人がすべてを分かち合ってないってことでさ。
そりゃ勿論、春琴は彼の思いを汲んで、佐助の方も心のどこかでお師匠さんが判ってくれてると思って、涙涙の抱擁をかわすわけだけど……でもそれって、そう、やっぱり二人は最後までSMだったってことなんだよね。
それは小説の方を読んでいれば、このクライマックスが型通りに受け取れないことぐらい判るから、この場面をハッピーエンドになんかしない訳だからさあ。

なんか結局、小説の方に引きずられてしまった……のは、私が谷崎を専攻した谷崎フリーク、谷崎ラブ、谷崎オタクだからだと、許してくれたまえ。
でも、本当に、京マチ子が、春琴役っていうのは、知らなかったからこそだけど、意外だったんだよなあ。こんな肉体派女優、いないじゃんと……でも春琴が“着やせするタイプで豊かな肉付き”であり、彼女目当てのスケベな男たちが何人も入門し、佐助と四人もの子供をなしタコとを考えると、やはり佐助の言い伝えこそが、愛する師匠に俗な気持ちを起こさせないため、実際は色気ムンムンだったかもしれない、だからこその、京マチ子のキャスティングだったのかとも思うわけで。
あー!!!結局、原作に振り回されまくってるじゃん!!!!

春琴が見事な腕を聴かせる、琴の演奏の素晴らしさも、映画ならではの醍醐味。
ああ、それにしてもそれにしても、これ以外にもたっくさん、「春琴抄」の映画化作品はあるのだ。中でも新藤兼人版春琴抄「讃歌」が観たい!!!★★★☆☆


JOHNEN 定の愛
2008年 109分 日本 カラー
監督:望月六郎 脚本:武知鎮典
撮影:石井浩一 音楽:山崎綾
出演:杉本彩 中山一也 阿藤快 高瀬春奈 山下徹大 本宮泰風 風間トオル 江守徹 内田裕也

2008/6/21/土 劇場(銀座シネパトス)
うう、ひどい。これはひどい。あまりのひどさに、観たことを後悔し、更に、書くことさえためらってしまった。観たこと自体をなかったことにしたかった。
今年のワーストは「少林少女」でもうキマリと思っていたが、それを光速で下回るヒドさだ。もう最初から尻の下あたりの居心地が悪すぎて、観ていられない。

望月監督の名前、久しぶりに聞いたと思ったのになあ。それに加えて武知鎮典原案脚本のコラボにも心が躍ったのになあ。でも確かに望月監督って、私にとって好悪の波が大きすぎる感はある。ということは、他の人はコレ、いいと思った人もいたんだろうか……いや……。

確かに、実験的、野心的な側面は多々ある。現代にまで影響を及ぼしている定の情念。時空を越え、定と吉蔵の愛と情念が、生まれ変わった彼と彼女に乗り移る。
今は女性ヌードグラビア専門のカメラマンであるイシダは、遠い過去、定という女を愛したことなど忘れている。しかし、彼を探し出して、不気味で不思議な老人がやってくる。
決壊が張られた、海岸の赤い鳥居。奇声をあげる少女とも魔女ともつかないような女が、色香をふりまきながら走り回り、吉蔵の生まれ変わりであるイシダを、そして観客の目をくらませる。時代は二二六事件を通り過ぎ、戦火の昭和初期、彼は軍服を着て、上官に叱責されている。

まるで妄想のような、お伽噺のような定の裁判は、彼女の、とにかく吉蔵を愛した、彼の身も心も愛したという妄執ともつかない一念によって、常識しか知らない裁判官たちを翻弄する。
そして、それを見せ付けるためのめくるめくセックス。白塗りで赤いバラを口にくわえた男子たちが神輿よろしく担ぎ上げる台座の上で、吉蔵と定は狂乱の体を繰り広げる……。

この、どこか寺山修司入ったような世界を、こうして書いてみれば魅力的ともいえる世界を、まーどーしてこんな、つまらなくしてしまうのか。
なんか、「たられば」なんて思っちゃいけないんだけど、やはり三池監督が撮っていればと、思ってしまう。やはりどーにもこ−にも荒唐無稽だったのに力でねじ伏せて圧倒的な魅力に仕立て上げた「荒ぶる魂たち」「許されざる者」「IZO」等々が思い浮かぶ。
望月監督はこういう造形的なエロより、ドロドロした心情的なエロの方が似合っている気がする。どんなに過去にアート的な作品作ってて、もともとアート志向があるって言われても(知らんかったけど)、今にそれが生きてなきゃ、意味がないんだもん。

そうなの、もうただ、造形的なだけで、エロが全然エロじゃないんだもん。そりゃ杉本姐さんは一糸まとわぬナイスバディをこれでもかと見せてくるけど、セックスシーンもバンバン出てくるけど、全然エロくないんだもん。
なんだろう、なんでだろう。盛り上がるところでシーンが途切れてしまうから?それとも、とりあえず形を作って、動きを作って、というのが見えてしまうから?それとも彼女自身の演技力の問題?

……それらの全てもあるけど、なあんかね、ヘンなところが一点、気にもなったのだ。彼女、絶対おっぱい触らせないでしょ。冒頭、ちょっとだけ自分の手でもんでみるだけで、相手は彼女のおっぱいに手を出さない。もちろんナメもしない(爆)。
なんなの、それ、彼女の聖域?そこが侵されなきゃ、やっぱエロは感じないよなあー。私、ヘンなところが気になってる?

でもやっぱり、演技力の問題は大きいと思う……杉本姐さんの今までのエロシリーズがただの一本もアタリがなかったのは、彼女の演技が見ていられなかった点も大きいけど、今回はそれをより強く感じる。
なんで、あんなに抑揚つけた節回しで、ワザとらしく、くねって台詞を言うのか。その表情も、グラビア顔でキモチワルイし。杉本姐さんはステキな時はステキだけど、決して女優向きではないと思う……。

しかも、彼女の夫役であり、この不思議な世界に誘う内田裕也がまた、ヒドすぎる(爆)。いや彼に、演技が云々などと言うべきではないのだろう。その存在感こそが、この作品に呼ばれた理由なのだから。
でもその存在感を凌駕するほどに、その演技、いや演技以前の問題だ……台詞回しが超ヒド過ぎる(爆爆)。
彼には、ピンポイントで印象的な台詞だけを言わせるべきなんじゃないの。長台詞を言わせるごとに、聞いてられなくなる。つーか、何言ってんだか判んなくなる(爆爆爆)。
内田氏にはね、かなり観念的な台詞をあまた言わせてんのよ。恐らくこの作品の根幹をなすような、それこそ寺山的な禅問答のような台詞を。愛とセックスの違いとか、セックスが愛になるとか、まあ、その辺をね。
それがもう、全然頭に入ってこないんだもん。ことに杉本姐さんとのツーショットの場面の台詞の応酬は、もうあまりのヒドさに頭を抱えたくなるのだ……。

「IZO」で素晴らしい存在感を見せた中山一也も、引きずられる形で魅力のひとかけらも出せはしない。ある種、彼が気の毒に思えるほどである。やはりあれは、三池監督の演出があればこそだったんだなあ、と思う。
杉本姐さんが生まれ変わっても時空を越えても、ただ単に赤い襦袢の和風から、スケスケレースのドレスという洋風になるだけでエロな定であり続けるのと違って、現代のイシダである彼はカメラマンである自分自身しかないし、定の愛に燃え尽きた吉蔵の記憶を取り戻すまでは、一人二役の趣さえある。
つまり彼にこそ本作の大きな重責がかかっているとも言えるのだが、こうも用意された場がヒドすぎると、どんな役者だって立て直すことなんて不可能だ……。もうこうなると、お伽噺的に見える裁判シーンの村松利史氏なんか、定の色魔ぶりを常識人として糾弾するというより、もはやヤケクソにさえ見えてくるほどなのだから。

ああ、ホント、この裁判シーンもヒドかった。まあ、こうなると現実でもなんでもないんだけど、江守徹と村松氏の顔が壁にスライド方式で大写しになってカンカンガクガクとなるに至っては、うっ、悪趣味としか思えん……。
それでいったら、内田裕也にもそういうシーンはあるんだけど、もう彼もどこまでやらされて、というか、彼にとってはそんな常識の境界もないんだろうけれどさ。だって最後には女装して、ベッタリのつけまつ毛に口紅、アミタイツにハイヒール、定と吉蔵のセックスを見せ付けられてイラだち、自ら下半身をモロ出しにする!なんて女のヘア以上に見たくもないシーンが用意されてるんだもん。
でもこれも、三池監督の演出だったら、ひとつの強烈なシーンになったのかも、と思ってはいけないことをつい思っちゃう。

なんか研究室みたいなところで、定の女としての状態を調べようと、つまり色魔の異常者なのかどうかをね、そういうシーンもある。半透明の薄布をぴったりかぶせ、スライムみたいな、精液を思わせるぬらりとした液を塗り込む。
杉本姐さんの身体が、なまめかしく浮かび上がる。あ、このシーンだけはおっぱいも触らせてる?薄布の上からじゃなあ。吹き替えかもしれないし。
んでもって最後には、杉本姐さんお得意のタンゴダンスで終わるのだ。まあ、「花と蛇」みたいに一人全裸でダンス踊るのよりはマシだが、なんかこーなると、全編杉本姐さんの意向で作られたが故の駄作になったんじゃないかとまで思ってしまう。

いや、確かに最後はそうだけど、物語の最後としては、現代のイシダが時空を越えた定にやはりそのイチモツを切り取られ、果てているという幕切れなんだよね。
彼と共に決壊を越えて不思議な世界に誘われたヌードモデルの女が(この女がまた、携帯電話を二台構えてくるくる回りながらシャッター切ったり、お寒いことこの上ない)、現実に帰って自分たちがいたはずの、豪華な洋館だった筈の場所に警察を案内してくる。
しかしそこはもはや人がいた形跡すらなく、ほこりをかぶった廃墟と化していて、しかしその一室の隅に、開いた股間を真っ赤に染めて絶命しているイシダが発見されるのだ。
そしてこれもまた、どの時点での定なのか、ホルマリン漬けにされたイチモツを眺め、定は嫣然と言う。「これはちんこなどじゃなく、二人の子供なのです」と。

カメラマンとして仕事をしているイシダが、ヌードモデルの女を血まみれにさせて、その臓物を抜き出したりする演出を施している描写は、定へのせめてもの意趣返しだったのだろうかとも思えてくる。あるいはただの思わせぶりにも思えるけど(爆)。
昔の、実際の阿部定事件の新聞記事、あるいはその周辺の愛欲からくる事件の記事をふんだんに画面に取り込んで、確かにそのあたり、意欲マンマンではあるんだけど……。記事の写真の中で微笑む阿部定の笑顔は確かに強烈な印象ではあるんだけど、それが杉本姐さんの、作りに作った魔性の女の笑顔には、ぜえったいにリンクしないんだもん。

なんかね、やはり私の頭の中には、過去の阿部定映画の秀作が、よぎっていたんだと思うのね。
ことにこの定の写真は、大林監督の阿部定映画にも使われてる。しかし大林監督は、この人もまた凄くて、それを、彼女の幸せな笑顔ととらえてたのよ。
実際ね、確かにそんな笑顔なのだもの。不敵に笑う魔性の女の笑顔じゃないからこそ、強烈な印象を与えるのだもの。しかもね、この写真って、実は引くと、周囲にいる捕らえた警官たちも同じように幸せそうに笑っているという不思議な写真なのだ……。事実は小説よりも映画よりも奇なりってトコなのかなあ。

しっかし、あのメイドなんだかなんなんだか、キャアキャアと奇声を発してクネクネとサムい媚態を繰り広げる小女がとにかく興を冷めさせてさあ。
彼女がいなければまた大分違ったんじゃないかと思うのだが……どういう意図なのよ、あれは。★☆☆☆☆


少林少女
2008年 107分 日本 カラー
監督:本広克行 脚本:十川誠志 十川梨香
撮影: 佐光朗 音楽:菅野祐悟
出演:柴咲コウ 江口洋介 仲村トオル 岡村隆史 キティ・チャン 麿赤児 ティン・カイマン ラム・チーチョン トータス松本 富野由悠季 山崎真実 工藤あさぎ 原田佳奈 乙黒えり 蒲生麻由 いとう麻見 千野裕子 千代谷美穂 西秋愛菜 沢井美優 柳沢なな 石井明日香 尾家輝美 桂亜沙美 渡辺奈緒子 花形綾沙 満島ひかり

2008/5/9/金 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
観に行こうかどうしようかなーとか思っているうちに、フツーに観逃してしまえば良かったと、心底思った。
面白くないだけならまだしも……怒りに震えるほどサイアクだ。
こんなに本気で腹がたったのはいつ以来だろうって、思う。もう、ひどい。
うう、マジでなの?本広監督、いつからこんな、自己陶酔映画を押し付けるような監督さんになってたの?ていうか、私が気づいていないだけで、今まで気づかなかっただけで、最初っからだったの?何、これって、宗教映画?

せめて、パロディに徹して、うわーっ!バカバカしい!と嬉しくなるぐらいアホな映画にしてほしかった。
だってこれってさ、やっぱり、というか当然、「少林サッカー」ありきなわけでしょ?ただ単に、昨今のカンフー映画ブームに乗った訳じゃなくってさ。
だってエグゼクティブプロデューサーにチャウ・シンチーを迎えているぐらいなんだもの。そして少林サッカーのチームメンバーだった二人を招聘して、「サッカーをやらされるよりはマシ」なんて台詞を用意しているぐらいなんだもの。
あるいは劇中の彼の台詞のように、少林拳を世界に広めることが、マジで目的なのかもしれない。
まあさあ……少林サッカーがどういう話だったかなんていうのさえ、とにかくアホらしい、素晴らしくくだらない、ことにとにかく大喜びして大満足していた私は、覚えてないさあ。ひょっとして、本作と似たような話だったっけ?いや、違うような気がする……。

まあさ、いくらチャウ・シンチーを招聘していたって、結局は別の映画、日本の映画なんだから、そりゃ別物に違いないさ。別物で、素晴らしいものを作ればいいとそりゃ思う。
でもさあ……後半の展開はあんまりひどくないかい?何あの、ワザとらしいオーラの泉状態は。オーラというよりあれはエクトプラズムかよ。少林拳の発する大きな包容力に包まれて、どんな悪人も純粋な少年に立ち返り、世界は平和になるってか?けっ。
いや、これをさ、もう徹底的にギャグに徹して描いてくれてたら、こんなに引かなかったと思う。バッカじゃんー、そんな単純なのありかよー、って、逆にそのカンタンさに喜んじゃったと思うんだけど……なんかさ、どうやらさ、ホンキでそう描いてきてるみたいなんだもん。そりゃ引くって。
そう見えたのは私だけ?いや、あれは役者の演技も演出も大マジだったもん。だからもうドン引きしちゃう。何?これって、幸福の科学かなんかの映画なの?って。

……とまあ、いくら腹が立ったからって、いきなりオチから言うのもなんなんだが。
あ!でももう、腹立ちついでにこれも言っちゃう。これってさ、柴咲コウ嬢のノースタントのアクションの頑張りが凄く言われてたでしょ。まあ、うん、確かに頑張ってる。頑張ってるんだけど……そこまで頑張らなくても良かった気がする。
ていうのは、ノースタントにこだわり過ぎるがゆえに、カンフーの型がごくごく単純になっちゃってるキライがあるんだもん。
これがさ、カンフーマイスターのチャウ・シンチーや、経験がなくてもやっぱり香港の女優さんだったりすると、違うんだよね。ノースタントをウリにするレベルが。
何も彼女、そこまでストイックにこだわらなくてもよかったと思う。確かに身体能力は凄い。倒立や、静かに見せるカンフーの型は美しいし、日本人ならではの神道な雰囲気を感じさせもする。でもやっぱりね、アクションとして動くと、限界があるんだよなあ。

だから、よく宣材写真やこの映画を紹介する際に提示される、実際に彼女が頭をマジ蹴りされている場面、そればかりが、どうだとばかりにウリにされてさ、映画の中でもスローモーションにされていたりさ。
でも、カンフーはあくまでスピーディーで複雑な流れの美しさであって、やっぱりそれは、ごまかしようがないものなのよ。スローモーションをウリにしてはいけない。
別に、ある程度スタント使っても良かったと思う。こんな中途半端にショボイ出来になるぐらいなら。
それってさ、常盤貴子がレスリー・チャンに憧れて香港映画に進出した時に犯してしまったマチガイと、まんま同じなのよ。彼女もストイックにホンモノを求めるがゆえに、アフレコを拒否した結果、カンタンで短いセンテンスの台詞ばかりのお粗末な出来になってしまった。しかも更にウリのベッドシーンは引きすぎて暗すぎて全然わかんなかったし……てのは、まあ別の話だが。

9年間本場中国で少林拳の修行をした凛が帰ってくると、道場は荒れ果てていた。
師匠は中華料理屋のコックになってしまって、もう少林拳はやめたというし、少林拳を世界にひろめる理想を胸に帰ってきた凛はただ戸惑う。
その中華料理屋のミンミンとの出会いが、凛を思わぬ方向から少林拳と向かわせることになる。ミンミンは自分が少林拳を習う替わりに、大学でラクロスをやらないかというのだ。凛が、投げられたスープを咄嗟にクロスで受け止めたワザを見てピンときたから。

ミンミンは、メンバーのみんなもきっと少林拳をやるヨと言うんだけど、メンバーたちは何それ、とそっけない。そもそも凛は学生でもないし……と言っていたら、凛がもんの凄いシュートをぶち込んでくるもんだから(ノーコンだけど)驚き、特別選手として登録されることが決まる。
更に、凛の師匠がなぜかコーチとして就任するという。そのトレーニング方法は少林拳そのもの。師匠の意図するところが理解できない凛。
練習試合、「お前は足手まといだ」という師匠の言葉に納得できず、強行出場した凛は仲間の誰一人にパスを出さず、シュートも決まらず自滅。仲間との間に溝が出来てしまう。
一方で、学園では、キナ臭い陰謀が立ち込め始める……。

まあ、あらすじはこんなもん。こうやって書いてみると、まあ筋立てとしては、ありえるのかなあ。でもねでもね、そもそもの、メンバーたちが少林拳をやり始める理由づけが、まったくもって意味不明なのよ。凛がチームプレイを身につけようと頑張っているって認めるのが、なんで少林拳を皆で学ぼうってことになるわけ?
せめて、凛とチームメイトとの間のわだかまりを解く会話シーンぐらい用意してほしい。少年たちとサッカーをやっている凛をみて目を細めるメンバーたち、その次にはいきなり凛の指導のもと、少林拳のトレーニングをしてるんだもの。唐突過ぎて意味判んない。
そして次のシーンではコーチに、凛を練習に加えさせてください!と懇願してるなんて、1パーセントも納得できない!

それにさあ、彼女たちの間に亀裂が入った原因の練習試合、凛が暴走した結果チームが負けた時の描写だってヘンだよ。凛がチームプレイをしなかった、全然パスを出さずに一人で突っ走ったから負けた、と彼女たちは言うけどさあ、「凛だけが上手すぎて、私たちはついていけない」「凛は上手いから私たちを信用していないんでしょ」って台詞は、ヘンだよー。
だって凛は確かに力は強くて凄いスピードのシュートは打つけど、もんのすごいノーコンで全然ゴールしないしさ。それって、上手すぎて、とか、パスをしないから、とか、メンバーを信用してないから、って理由で負けたんじゃないじゃん。どー見ても凛のノーコンが原因だよ!
それなのに、メンバーたちにそう言われて、「私、そんなつもりじゃ……」ってキズついた顔をするなんて、おかしいでしょ。おみゃーのシュートが全然入らなかったから、負けたんじゃないの!

凛が慕ってやまない師匠に江口洋介。彼もねえ……。
凛が中国での修行を終える前に道場を閉じてしまって、少林拳を極めて何の意味があるんだと、ただランボー者が世の中に増えるだけじゃないかと彼は言う訳ね。それは、同じ拳法を志したのに、邪悪な道に入ってしまった仲村トオル扮する大学の学長、大場に破れたトラウマがあるからなんだけど……でもこの学長も結局、何したいのか、ぜっんぜん判らなかったしねえ。
そうなの。結局、この学長、何がしたかった訳?

最初は、学園を高名にするために、汚い手を使っても、スター選手を集めて宣伝塔にしようとしていたのかなと思ったのね。そういう描写があったしね。
それは当然、カネ稼ぎのためであり、そのためにはスキャンダルをすっぱ抜いた記者を惨殺するなんていう強行もする、冷徹、というか、極悪非道っぷりだったわけ。
でも次第に、自分は強い相手と戦いだけだとか言い出してさ、なんかジムでトレーニングしてる筋肉モリモリのサービスシーンなんか登場しちゃったりしてさ、つじつまが合わないどころか、あまりにひどいご都合主義に口アングリするしかない。意味不明とはこういうことでしょ!

で、ちょっと話が脱線したけど、その学長に対峙する師匠だって、そうじゃん。同世代で苦労しつつここまで生き残ってきたスター二人を、こんなテキトーな解釈の役をやらせるなんて、失礼千万だよ。そりゃあ二人は、ベテランの味を出さざるを得ないけどさあ……(もったいない!)。
だからね、大場に敗れたことで、結局は人を攻撃してしまう拳法に疑問を感じて道場を閉めたってことだったのかなと思いきや、凛が帰ってきて、最初のうちは彼女に、拳法なんてランボー者が増えるだけだとか言ってたのに、凛が始めたラクロス部のコーチに就任して、その指導法ときたら、まんま少林拳そのものなのさ。

まあそれは、凛をラクロスに誘った、中華料理屋のウエイトレスであるミンミンが、少林拳を使ってラクロスの才能を示した凛を見い出した、という流れと何とか思えなくもないけど、でもやっぱり、凛に少林拳とあの道場を託すために、ラクロスのコーチに就任して、皆に少林拳のワザでラクロスが強くなるワザを教えたんだとしか思えないでしょ。
あるいは少林拳の心を、凛や女の子に教えるため?
でもそう推測するにもさあ、イマイチ決着が弱いのよ。なんかずっと師匠は、少林拳に対して及び腰だし。
道場を閉めたことや、ラクロスのコーチになったこと、それらがどこまで彼の少林拳に対する思いや、凛に賭ける気持ちにつながっているのか、見えなさ過ぎて、正直、彼の必要以上にシリアスな演技がウザったいって感じるばかりなんだよなあ。

で、後半になってくると、こうなるとお決まりとも思いたくない、悪の軍団との対決の様相でさ、何がどう悪いということなのか、敵の目的も「とにかく悪だから」ってなアイマイな感じで。
それでもしょうがない、道場が焼かれてミンミンが連れ去られちゃったんだから、凛も師匠もシリアスに怒りの表情を浮かべるしかないし。
でね、ミンミンを助けに行くところからがヒドい訳。あのエクトプラズムよ。こんな状態でモノマネのブルース・リーとか出てきて、たっぷりの間をとってギャグにしようったって、笑えないよ。
しかも捕らえられてるミンミンがなぜかセクシーなチャイナドレスでベッドに横たわってて、それに対して何の説明もなしに(なんか、エロでグロでシリアスな状況をウキウキ想像してたのに!)アッサリスルーされるし。
気分萎え萎えの水中カンフー対決の長尺に、早く終われと何度心の中で唱えたか(水の上をするする歩くシーンなんて、もう、こんな雰囲気で来るとギャグにならないのさ……)。

大体、最後の最後まで、凛にはラクロスに対する愛が感じられない。とゆーか、少林拳とラクロスのコラボが、作品としてもワザとしてもイマイチかみ合わないまま。
それにさ、凛にはすさまじい「気」があって、これを上手く利用できていなかった、っていう設定も中途半端だったよね。
彼女は少林拳の天才。でも、この気をコントロール出来なくて、教えた香港の師匠が心配しているっていう葛藤が全然生かされてなかった。結局、ラストは悪者をオーラで包んで菩薩扱いだもん。なんだそりゃだよー。
なんかねえ、こんな具合になってくるとさあ、観客がバカにされてるんじゃないかって、気にさえなってくるのはしょうがないじゃない。そんなことも観客が判らないと思ってるの?って。もう、「なんじゃそれ」と何度つぶやいたか判らんよ。

せっかくラクロスのミニスカ衣装が似合う女の子たちが、可愛かったのになあ。
うっ、でも、彼女たちが新しく用意した黄色い少林拳風衣装はイケてない……と思う。彼女たちはすんごく満足してるみたいだけど。あれは……ダサダサにしか見えないのだが。色といい、デザインといい。

しっかし、凛が修行していた寺院を俯瞰で捉えるオープニングシーン、CGを自慢したいのかもしれないけど、ただ目が回るだけだ……。
あと、カエル急便の看板に、「まだあったんだ」と凛がケリを入れるシーン、そりゃ同じ監督とはいえ、この作品と「踊る大捜査線」シリーズを兄弟関係にしてほしくない……。

ところで、脚本家がね、全然聞いたことないんだよな。
お前らがガンかー!
と思ったら、片方は、本広組、「交渉人」ホンもやってる脚本家さんだった。あれは面白かったのに……。
まあ、それはいいとして、二番目に名前を連ねている同じ苗字のお方は?ご夫婦?なぜここで二人でやる必要があるの?
二人揃ってこんなヒドい映画の温床を作りやがったのか!★☆☆☆☆


白い馬/CRIN BLANC
1953年 40分 フランス モノクロ
監督:アルベール・ラモリス 脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン 音楽:モーリス・ル・ルー
出演:アラン・エムリー/ローラン・ロッシュ/フランソワ・プリエ/パスカル・ラモリス

2008/9/23/火・祝 劇場(シネスイッチ銀座)
同時上映された「赤い風船」と共に、なかば伝説化している中篇二編のひとつの本作。そのラストには、なんだか共通する感慨を得た。
どちらも、主人公の少年は、どこか違う地平へと姿を消して行く。
しかもどちらも、タイトルにある、白い馬、そして風船に連れられてなんである。
なんだかそれは、少年が少年のまま美しくいられるには、別の地平へ、ストレートに言ってしまえば天国へ行くしかないと、言っているように思う。
実際、そのどちらも、その幕切れは、哀しさもありながら、不思議な幸福感に満ち満ちている。
きっとこの世界よりも、美しい少年が幸福に暮らせるであろうと思えるような。

本作は、ことにその感慨が顕著なのは、実際にラスト、白い馬と共に波間に消えていくラストカットで、「そのたくましい馬は、少年をもっと幸福になれる場所に連れて行く」みたいなナレーションがかぶせられるのもそうなんだけど、何よりも、この少年がやけに美少年だからっていうのも大きい。
まるでかつての少年愛モノマンガの登場人物のよう、などと思う。凹凸の少ない華奢な身体、輝く金髪は、なんだか不自然に前髪がカーブする形で長く目のあたりをおおっていて、彼がそれをどこかうるさげにかき分ける度に、切りゃあいいだろうと思いつつも、まさにそれが、ザ・少年、なんである。

彼は、一本の太い木の枝を棹代わりにして、静かな水面の川に浮かべた小船に立って現われる。
彼はその船を移動手段にして、魚を獲ったりして生活している。中にはウサギを捕まえてその毛をはぎ、あぶって食べようとしている描写も現われる、まさに彼こそが野生の少年なんである。
しかし、年老いた父親(祖父?)、弟(妹にも見えるが)と共に、粗末な家に暮らしている生活は、ストイックで静謐で、哲学的な匂いさえある。

彼は、彼自身の生活とはかけ離れた、裕福な人間どもに追われている馬と出会うんである。
この物語の冒頭は、野生の馬たちの幸福だった生活を活写していて、その最初から最後まで、一体この馬たちの姿をどうやってこんなにイキイキとカメラに収めたのだろうと、驚嘆するばかりなんである。

馬飼いたちは欲に目がくらんで、ことに群のリーダーである美しい白い馬に目をつける。
一度は牧場に連れて来られた白い馬は、しかしその強靭な脚力で彼らを翻弄し、ついに逃げ出した。
追いかけて再びとらえようとするも。てこずる馬飼いたちに、僕が捕まえたら僕のもの?と少年が問うと、くれてやるよ、お前なんかの手におえたら、魚だって空を飛ぶよ、と男たちは嘲笑する。
少年はその言葉に深く傷つくけれども、一方でその馬が手に入る可能性に心を躍らせるのだ。

この二人、一頭と一人の関係というのは、つまりはどういうことなのだろうかと思う。
白い馬は、もちろん少年だって人間だから、最初は彼になびいたりなどしない。少年は逃げる馬の首にかけた縄に必死にくらいついて、川から砂地まで引きずられまくる(!!凄い画だけど、どうやって撮ったの!)。
そして行き着いた世界の果てみたいな砂地で、ようやく白い馬は立ち止まり、彼に従順の姿勢を見せる。
でも、一度は少年の住まいに大人しくついていっても、仲間たちが馬飼いたちに連れられていくのを見ると、また飛び出して行ってしまうのだ。
やりきれなく、哀しい少年の表情は、見ていられない。

しかし、もうその群には白い馬に替わるリーダーがいて、彼との闘いに破れて、傷つき、白い馬は帰ってくる。
この闘いの場面が相当に凄くて、これが一番、どうやってこんな場面が撮れたの!?と思うところなんである。
だってマジで背中の肉とか噛んでて、その噛み跡がつくのがリアルに見えるんだもん!

白い馬が、野生で幸福に暮らしていたのが、彼にとってはまったく意味不明であろう、人間たちに突然追われる様になってからの心の葛藤は察するにあまりある。
しまいには、草原に火をたいてあぶりだそうなんてことまでするんである。彼の愛する自然を、人間の文明の象徴によって残酷に荒らす。

少年もまた人間なんだけど、でもその本能の中に白い馬に対するピュアな愛情があって、でもそれは、やはり少年のままでなければ、継続しえないものなのだ。
だって、あんな前髪タラリの美しい少年のままで、生きられる筈はないんだもの、
白い馬が一度少年の前から姿を消したのが、ずっと一緒に生きてきた仲間のためで、それは悲しくも当然のことだったんだけど、その仲間にさえソデにされてしまうというのが、でもそれもまた人間のせいだというのが、やりきれない。

そして三たび人間たちから追われることになったあたりから、お伽噺的雰囲気が満ちてくる。
いや、このモノクロの感じ、野生の白い馬という、何か非現実なはかなさ、家族と暮らしながらもどこか孤独に生きる美少年、という全てが、最初からお伽噺の様相を呈していたようにも思う。
なんか、モノクロのザンコクなお伽噺っていうと、即座に「処女の泉」って、私、思ってしまうのね。モノクロだと金髪がより美しく、そしてなぜかはかなく哀しく映る。この美しさが、この瞬間のものだけだと、感じてしまうのだ。

少年と白い馬は、追いつめられる。捕まえたらくれてやるなんていう馬飼いたちの言葉はやっぱりウソで、欲に目がくらんだ彼らはどこまでもどこまでも追ってくる。
これはいわゆる、現代社会に対する皮肉に満ちた風刺とも言えるんだけど、それが非常に単純化された形で示されているので、お伽噺の美しさを損なうことがない。それどころか、えてして昔話やお伽噺には、こうした判りやすい欲得ずくの人間が登場したなあ、などと思ってしまう。

海に面した崖まで追いつめられ、もうにっちもさっちもいかなくなった少年を乗せた馬は、思いがけず、海へとダイブするのだ。
追いかけてきた人間たちは驚き、焦り、「その馬はくれてやるから!戻ってこい!」と浅はかな彼らが叫んでも、二人は、波間を突き進んで行く。
そこにあの、ナレーションが重なるんである。

本当の本当の本当は、白い馬も少年も、見つからないまま、海の藻屑となって消えたんだろうと、大人になってしまったこちとらは思う一方で、でもそれでも、そのお伽噺なナレーションを信じたいと思う気持ちも沸き起こる。
だって、哀しくも、美しかったんだもの。
白い波間に、小さく小さく消えていく馬の頭と、その背に何の躊躇もなくしがみついてついていく少年の姿。
ベタな風刺が効いていながらも、モノクロや白い馬や金髪のいたいけな少年、という耽美な要素に酔わされずにはいられないのだ。★★★★☆


次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊
1954年 103分 日本 モノクロ
監督:マキノ雅弘 脚本:小川信昭 沖原俊哉
撮影:飯村正 音楽:鈴木静一
出演:小堀明男 河津清三郎 田崎潤 森健二 田中春男 緒方燐作 広沢虎造 澤村國太郎 山本廉 越路吹雪 森繁久彌 小泉博 志村喬 青山京子 川合玉江 水島道太郎 小川虎之助 上田吉二郎 佐伯秀男 豊島美智子 広瀬嘉子 北川町子 馬野都留子 木匠マユリ 紫千鶴 本間文子

2008/2/7/木  東京国立近代美術館フィルムセンター(マキノ雅広監督特集)
このシリーズは初見だってのに、いきなり第八部を観るってのもアレなんですけど(笑)、しかも私、次郎長がどういうモンなのかとかも今ひとつ判ってないのに、ねえ。
でも本作がそのシリーズの中でも最高傑作だとか言われちゃ、やっぱり気になってしまったので、いきなりシリーズ半ばからではあるけれども、恐る恐る観に来たのであった。

ま、という訳で、冒頭はその前段からのつながりからと見られ、途中にもちょくちょくそうした、未見ゆえの判りづらさはなきにしもあらずなんだけど(とゆーか、時代劇慣れしていない私が色々お約束とか、早い展開とかについていけてないだけという方が正しそう……)。
もー、あなた。なんたって森繁なんだもの。本作は彼の演じる森の石松が堂々の主人公。タイトルクレジットも、一番先頭に出てくる。しかもしかも……大いに心打たれる主人公なのだ。しかも……彼は最後死んでしまうのだ!

つまりこのシリーズでの彼の登場は、次の最終作を待たずして終わりという訳なのだが、後に始まる日活の 次郎長シリーズ(本作は東宝)でそれが受け継がれ、そこでも森繁が石松を演じているのが、ああそりゃあ、こんなハマリ役じゃあ、そうだよなあと思うのであった。
ま、私は森の石松が、どんなキャラでどういうイメージで世に流布しているのかすら判ってないんだけど……ただ、意外だったのが後年、あれほど素敵なスケベ野郎となって私の心を騒がせた(笑)森繁が、こんなにもウブなキャラがハマってしまうということなのだ。ああ、まさかウブな森繁に心打たれてしまうとは、本当に驚いたっ!

その、前段からのつながりというのは、死んでしまった豚松の法要な訳ね。次郎長一家は方々から親分衆を呼んで、盛大に弔ってやってるんだけれど、その親分衆の前で豚松の母親が泣き叫び、許婚であった女性が丸髷(新妻の象徴なのかなあ)となってしきりに涙を拭いていた。
それに心を打たれた近江の親分、身受山鎌太郎は、次郎長の子分たちに、彼女たちが自分らの顔を潰したなどと思うなと一喝し、次郎長に、いい子分たちを持ったと褒めてくれる。
この身受山鎌太郎を演じるのが志村喬で、後に、石松が旅の途中彼の元に立ち寄った際、もうさいっこうの場面を二人して演じてくれる。いやー、森繁と志村喬の一騎打ち。なんと贅沢なものを見せてもらえるんだろう。

ま、というのも石松が、この鎌太郎がたった五両しか香典を持ってこなかったのを「これは次郎長の子分の度量を試しているんだ」とか勝手に解釈して、二十五両と大きく書いて張り出してしまったことに端を発するわけで。
鎌太郎は本当に貧しい組でほそぼそとやってる親分さんで、百姓姿で現われた最初は、次郎長の子分たちがおっさん、おっさんと呼びかけてしまい、よもや親分さんだと判らなかったくらいだし。
鎌太郎は石松に「あなたが二十両立て替えてくれたのか」と深々とお辞儀をし、石松は冷や汗タラタラ。もうこの場面から鎌太郎の、見た目では判らない度量の大きさにすっかりヤラれるんであった。

でねでね、この物語の本筋は、石松の讃岐への旅にあるのだけど、それは次郎長が送り出してくれるのね。一応名目は、次郎長の愛刀を金毘羅さんに納めてくるってことなんだけど、その旅で石松に男になってこいって言うのだ。
まあつまり……からっきし女にはウブな彼に「男になってこい」と。きゃー、そんなのって、アリ!?まあでもそんな生々しいことではなくて、女にホレるってのがどういうことなのか、それをちゃんと知ってこい、という感じ……に取るのは、石松の勝手な読みだったかもしれないけど。
それは旅の途中道連れになった政五郎という男が、自分にホレているお藤という女のことをすっかりノロけたことであてられた石松、俺もそういう女にホレたいと、恋の心も知らないのに思ったからなんであった。

石松は確かに女にはからっきしダメだけど、親分や同じ子分衆はもとより、地元の女房連中にもすっごく可愛がられている、単純明快な愛すべき男だということがそこここで見てとれて、もうすっごく愛しくなっちゃうのね。
次郎長から旅の支度金として三十両という大金を渡されるんだけど、酒もケンカも賭博もご法度の旅にこんなにはいらねえ、と突っ返す。
ま、石松が酒で散々失敗をしている男だから(というのは、後に見た日活のシリーズで知った)そんな風に釘をさしたんだろうけれど、それをそのまんま単純にとる石松を、「お前はバカだなあ。神様だってお神酒を飲むんだぜ」と同僚子分衆や親分に笑われる。

石松はこんな風に何度となく「お前はバカだなあ」と言われるんだけど、その言われ様がね、すっごく愛情に満ちているんだよね。この単純バカな男を、だからこそ皆がとっても愛していることが判ってさ、胸が熱くなるのだ。
そしてそう言われる石松もだからヒネるというんじゃなく、「俺はバカだから」と愚直なまでにその一点こそを美徳だとこだわって、こだわりすぎて鎌太郎から殺されかけたりもするんだけどさ(笑)。ま、これは後述。

政五郎のように、濡れた目をした女、笑っていても泣いているような目をしたいい女に自分も出会いたいと意気込んで、讃岐の色町に繰り出す石松。
しかし彼曰く「猿女郎ばかり」で、なかなかこれという女を見つけることが出来ない。うつむいた女の顔を上げさせたら、「なんだ、めっかちか」などという、現代の眼から見ればヒヤッとするような場面などもあるけど、そのすぐ後で「そうか、俺もめっかちか」と、ぽんと額を叩く石松のおちゃめさですぐ氷解してしまう。
森繁の軽さが、この石松にほおんとよく似合っているんだよなあ。

しかし散々歩き回った挙げ句、どっこらしょと腰をかけたそのどんづまりの店の上がりかまち、背中あわせに座っていたその女の顔を覗き込んでみると……石松の表情がみるみる変わる。
いやー、この時の出会いのスリリングさときたら、なかった。もう石松がひと目で恋に落ちたのが判るんだもん。そうよハチクロじゃないけど、これこそ「人が恋に落ちる瞬間を見てしまった」ってヤツ
どうやらその店では、なかなか客をとらずに怒られているらしいみそっかすの女郎、夕顔はしかし、それこそ濡れた目をした美しい女であった。

だけど石松がひと目惚れしたのは、それだけが理由じゃなかったかもしれない。いやそれは、彼がそこまで気づいていたかどうかは判らないけど……彼女は石松と本当によく似た女だったんだもの。
彼女もまた恋を知らない女。恋を知らないままにこんな生業に身を落としてしまって、ただ待っているのは情夫ではなくてお客さんなんだと、その美しい瞳をまっすぐに向けて言う。

石松は、町の女房連中が持たせてくれた心づくしの八両二分をそっくり夕顔に差し出して、自分にホレてくれなくていい、自分があんたにホレさせてくれていればいいんだ、と一生懸命に言う。
最初はこの男、カネ持ってんのかとハラハラしていた遣り手婆も、彼がまっとうな客だと知れば途端に愛想良くなって、軽やかに階段を降りていくのも笑えるんだけど、夕顔はと言えば……このウブな“お客さん”に、彼女の方こそが初めて心をときめかせたのであった。

だって、本当にウブなんだもん。石松は結局、ここで彼女を抱いたんだろうか?それすら場面をすっ飛ばされているから、判らない。
背中を流されることさえ照れてしまって湯船に飛び込み、うっかりろうそくの明かりを消してしまってうろたえる石松に、夕顔は大声で笑い出す。判らないけど……彼女がこんなに大笑いしたのは初めてだったんじゃないかと思える。
そしてその真っ暗になった風呂場からカットが変わり、蚊帳を吊られた中で眠りこける石松、という場面だけでもう朝になってしまうんだけど、でもそれは、夕顔が彼に心を許して抱かれたという暗示なのかなあ。

朝、すっかりいい気持ちで目覚めた石松が、女郎たちに「私たち、猿女郎だから」とからかい気味にとっちめられ、「こりゃ参った」と二階の窓から自ら猿のモノマネをして彼女たちを笑わせる。ここでもまた石松は女たちに愛される、実に愛すべき男なんである。
その一方で夕顔は彼との別れを惜しんでか、ひっそりと背中を向けている。そして……きっとこんなことは初めてであろう、彼女はこの地を離れる石松に「清水に着いたら読んで」と手紙を渡し、涙の別れとなったのであった。

実はこの場面で「石松さんに知らせなくていいのかい」と言われる二人の男と、後に石松が襲われて命を落とす彼らとのくだりが、どうなっているのかイマイチ判んなかったんだけど。ただ、石松が道中狙われているというのは、旅の最初から言われていたことだったんだよな。
それはともかく、石松は鎌太郎を訪ねて行く。そこは本当に、皆して漁や百姓仕事に精を出している貧しい村。鎌太郎の言葉を真に受けて、立て替えた二十両を返してもらうつもりで来た石松は深く恥じ入るのね。

しかし鎌太郎はそんな石松をこそ可愛く思って、皆からかき集めた二十両と少しの心づけを彼の前に差し出すんだけど、石松は頑として受け取ろうとしない。
あまりにガンコなので、しまいには鎌太郎が怒り出す……のは、あれは絶対ワザとだよな。きっと単純バカな石松があんまり可愛いから、ちょっと怒ってみてやりたくなっただけなんだ。
石松が「俺はバカな男だから……」と何度も繰り返しながらその場を辞そうとすると、「石松、この庭に咲く夕顔も見事だぞ」!!
石松の驚愕の顔がカッワイイ。もおー、手紙、落としてるんじゃないのお。

その長い長い手紙を読み出した鎌太郎、心打たれ、途中から読めなくなって、娘に手渡してその先を読んでもらう。
そこには、夕顔の生い立ち……女郎だった母親がヤクザの夫に捨てられ、疲れ果てて死んでしまったこと、そして自分こそが石松にホレたことが面々と書き連ねられていた。

これはお前、この女を女房にするしかないだろうと鎌太郎は言うものの、まさかそんなと尻込みする石松に鎌太郎、いきなり「じゃあ、お前死ね」ってええ!?何それ、そんな唐突に!?
志村喬の、どこまで本気なんだか冗談なんだか判んない、石松への駆け引きにはもう爆笑!
そりゃ石松も驚いて、冗談止めて下さいよ、親分さん、と腰が引けると、ホントに鎌太郎、刀を引き抜いて、惚れた女にこんな手紙をもらって、それでどうしたらいいか判らないなんてバカは、死んだ方が世のためだ!とマジで斬りかかるんだもん!
本気でおたつく石松との対照がもー、可笑しくてさあ。さすが志村喬と森繁だよなー。

で、石松は自分のバカさ加減に気づき、彼の前にこうべを垂れるわけ。本当に俺はバカだ、殺してくれ、親分さん、と。
ま、最初から殺すつもりなんてある筈もなかった鎌太郎、にんまりと笑うと「任しとけ。俺は身受山鎌太郎だぞ」!この名前にはそんな含みがっ!
つまり鎌太郎が責任を持って、夕顔を身請けしてきてやるってんである。ああなんて素敵な親分さんっ。

石松は、更に旅を続ける。こっからがよく判んないんだけど……ていうか、いきなり展開が変わったような雰囲気。
石松が立ち寄る七五郎とお園の夫婦が、いかさま賭博で巻き上げられた借金を返すよう、ヤクザどもからやいやい言われてる。
七五郎はとにかく気の弱い男だから、きっぷのいいお園が大槍を振り回してヤクザどもを追い払うんだけど、でも訪ねてきた石松に、彼女は言うのだ。それでも惚れた男だからさと。
七五郎だってヤクザ者だから、賭博を止めろなんて言えないのかもしれないけど、でも止めてほしいんだと……。
なんたって夕顔にホレて恋の心を知ってしまった石松は、惚れた男を思うお園の心に打たれ、自分がそのカネを返してきてやると請け負うのだが……。

石松はホレた女が出来たことをお園に見抜かれて、彼女ったら小指を立てて「石さん、ついに出来たんだね」とからかうのね。石松、てやんでえって感じで、でも顔を赤くして、テレまくる。うー、こういうトコもメッチャ可愛いんだよなあ……。
でね、ここで石松、あの政五郎に偶然再会する。あの時政五郎が言っていた、「俺は死なない。ホレた女がいるから」という台詞をそのまま返す。
しかしよく判らないんだよね、この政五郎。結局は石松を騙まし討ちして殺す、都田村組の側の人間だったんじゃないの?でも二人は無邪気に再会を喜んではいるんだけど……。

夏祭りの真っ只中、間断なく聞こえてくるお囃子の音。そこに石松を襲うべく、ひょっとこやら猿やらの様々な面をかぶった男たちがひしめきあっているのを、盆踊りに興じる人々とのカットと交互にして繰り返し見せる。緊迫感。
そこへ突然、大雨が降ってくる。お園は「石さん、大分のぼせ上がっていたから、これで冷めてちょうどいいよ」なんて笑っていたけれど、その頃石松は……都田村組に取り囲まれていたのであった。
「冗談止めねい。俺は森の石松だぜ。人違いじゃないのか。俺は死なねえよ。お前らを斬るぜ」
しかしやはりターゲットが自分だと判ると、石松の顔色が変わってくる。夕顔のためにここで死ぬ訳にはいかない。もろ肌脱ぎになって必死に戦うけれど、あまりに人数が違い過ぎるんだもん……。

ラストシークエンスがね、泣けるの。血だらけになって、無念にも泥の中に倒れる石松。カットが変わり、花嫁姿で嬉しそうに微笑む夕顔と並んで、これまた嬉しそうに正装した鎌太郎が馬に乗って道中を行く。
そしてまたカットが変わり、波打ち際を急ぎ走って行く次郎長と子分衆……恐らく石松の非業の最期を知ってのことだろう……そのシーンで、カットアウトなのだ!
えー!ここで!?そ、そんな……鎌太郎も夕顔も、石松がよもや死んだなんて思いもせずに……なんて切ないんだ!
うっそでしょ……だってだって石松は、ホレた女のノロケ話を持って帰って、清水の皆に話してやる筈じゃなかったのお!

ああ、哀しい(涙)。しかしこれが、シリーズ最高傑作って言われるのは判る。
あの時、死に際、石松の潰れた筈の左目がカッと開いたように見えたのも、心にグッとくるのだ。
それにしてもそれにしても、森繁の石松はもー、なんて愛すべき男なんだろう!ホレずにはいられん!★★★★★


次郎長遊侠傳 秋葉の火祭り
1955年 90分 日本 モノクロ
監督:マキノ雅弘 脚本:八木保太郎
撮影:横山実 音楽:松井八郎
出演:河津清三郎 北原三枝 森繁久弥 三島耕 石黒達也 三島雅夫 利根はる恵 桂典子 藤代鮎子

2008/2/1/金  東京国立近代美術館フィルムセンター(マキノ雅広監督特集)
日活次郎長シリーズ一作目、だそうである。まー、ぼちぼちと次郎長モノを見てはいても私は基本的に判ってないので、なんともアレですけど。
この秋葉の火祭り、というのは、もっと昔の戦前の作品にもそのタイトルを見ることが出来るし、きっと次郎長の中では有名なエピソードなのだろうなと思わせる。それにしてもこんな祭りが本当にあるとは……そりゃあ映画にしたくもなるよなあ。

本作に心惹かれたのは、森の石松役に森繁の名前があがっているから。そりゃー、森の石松のことだって私はとんと判っちゃいないのだが、これまでぼちぼち見たことのある森の石松、誰が演じたものとも全く違い過ぎる!森繁の素晴らしき軽みが完璧に活かされた、愛すべきキャラクター造形。
次郎長の子分になる前夜エピソードともいった趣で、まず演じる森繁はバツグンに若いのだけれど、しかもかなりのヘタレで、更に酒乱(笑)。
ケンカの腕は確かに立つけれども、酒が入ると更に研ぎ澄まされる。ただ、とっても酒癖が悪いので仲間たちからは「石は酒を呑むな」と止められており、しかししかし当人はとにかく酒好きなもんだから、「おりゃあ、酒は野まねえよ」と口では誓いながらも、ちょっと酒の姿を認めると、とたんに落ち着きがなくなる(笑)。

んでもってドモリ。そのドモリが治ると騙されて“南蛮渡来の妙薬”を大金はたいて買ってしまってこれまた大喧嘩になったり……。
これら全てのエピソード、主筋とはぜんっぜん関係なくって、そりゃあ最後の最後に、次郎長の男っぷりにホレた森の石松一行は彼の子分となる訳だけど、この物語自体には彼は何ら関係ないって感じで、それがまたなんとも森繁らしいというか(笑)。
いやー、やっぱり森繁最高。何だって彼は、こう何をやっても可笑しいのだろう。この時はまだ、素敵なスケベ野郎という感じではないけれども、このイケてない情けなさっぷりがたまらなく素晴らしすぎる。

で、だから森繁は、じゃなくて石松は、あまりこの物語には関係ないって感じなのだが(爆)。彼はイナカから秋葉権現の秋の大祭火祭りに向かっているんである。奉納し、松明のおこぼれをもらい、イナカに少しでも豊かなおしるしをもらおうと、貧しい村から皆に送り出されてきたのだ。この火祭りに向かって、そうした者たちが方々から集まってくる。

しかしこの秋葉権現の祭りは寺社扱いということで、お役人が介入出来ないことをいいことに、地元のヤクザ、黒駒一家がやりたい放題暗躍し、ショバ代だなんだといいようにカネをとりまくっている。
しかも親分衆を集めては賭博を開催し、女を供し、とてもありがたい火祭りのお膝元とは思えない有り様。
そんな黒駒一家の手下の一人、助十ともう一人が、火祭りに向かって旅をしている信州追分の油屋の三人組、若い番頭の三五郎、その許婚で店のお嬢さんのお峰、老番頭元三を襲撃。彼らが奉納するために運んでいた立派な石灯籠と奉納金を奪い、元三を刺し殺した事件から物語は始まるんである。

元三は婚礼をひかえた若い二人を、目を細めて眺めてた。二人も、幸せなこのひと時に浸っていた。なのに……あっという間に地獄絵図に暗転する。
お峰は変わり果てた元三の姿に号泣し、三五郎は水を汲みにいった川べりで殴り倒され、二人ははぐれてしまった。
お峰と遭遇したのが次郎長で、ちょうど馬を引いてきたお美代とも行き遭い、三人してとにかく坂下宿(だったかな。ちょっと不安)に行って三五郎を探そうということになる。
一方の三五郎は旅回りの一座に救われ、やはり坂下宿にたどり着いた。

何の運命のイタズラか、助十の妹がお美代なのね。でも彼女は何にも知らない。しかもお美代、ヤクザに憧れていて、いつか黒駒の親分に盃をもらうんだと張り切り、兄たちの手伝いもしている馬子なんである。
次郎長に向かって自慢げに仁義を切り、やんちゃな口ぶりのお美代を演じる北原三枝は実に瑞々しいかわいこちゃんで、本作の彼女に石原裕次郎がホレこんだというエピソードまでついているそうな。
いやー、実際、後に裕次郎の映画で見ることになる彼女よりずっとずっとちゃきちゃきで、弾むような可愛いさ美しさ。しかし彼女はその純粋さゆえに最後には非業の死を……ああっ。

お美代の家に寄せてもらった次郎長とお峰、お美代は宿を回って三五郎を探しに行く。その前に「あんなんでも男は男、気をつけるんだよ。いざとなったらピシャーンとやってやるんだよ」などとお峰を心配するお美代は、本当に心優しい娘。
しかも、次郎長も頼りにならないのだ。事の次第をお美代から聞き出した助十が、裏庭からコッソリお峰を「三五郎が見つかった」とウソをついて連れ出したのにも全く気づかず、呑気に風呂に入って鼻歌歌ってんだから、もう。

一方で、三五郎を助けた旅の一座の女座長、お時は、いかにもお嬢さんといった趣の女の子が、助十に手を引かれて料亭を入っていくのを目撃する。
お時はお美代と友達だけど、彼女の兄の助十がいけすかないヤツだということも知っていて、こりゃ、あの娘がお峰さんで、三五郎たちを襲ったのは助十たちだとピンとくるわけ。

このことをお美代に知らせようと彼女の家に行くと、次郎長が一人ノンビリ風呂に入っているわけ。呑気に「お冨さん」なんか歌っちゃってさ、自己紹介したお時のことを何度もお富さんと呼びかけて、「お時だよ!」とこの女丈夫から叱られる始末なんだもの。
この時点ではお、次郎長もその仲間だと思い込み、彼の着物をこっそり持ち帰って三五郎に着せ、次郎長をおびき出すんだけど、実際三五郎と遭遇した次郎長の口から事の真相を知るんである。
で、次郎長はお峰さんを助け出すのと同時に、黒駒一家の横暴を食い止めんと、自分がその斬り込み役を買って出る。それに対して、秋葉の修験者法印坊と東山坊も、日頃から黒駒一家に業を煮やしていたことで参画を表明、一気におおごとになっていくわけね。

と、いうところからお美代は一時ちょっと離れているんだけれど……黒駒の親分を土地の人に慕われていると思い込み、ヤクザに純粋に憧れているお美代のことを次郎長も、そしてお時も心配しているんだよね。
お美代もでも薄々、兄がこの事件に加担していること、黒駒一家が慕われている親分さんなんかではないことに気づき始めてて……。一人料亭に忍び込んだところに、黒駒一家に紛れて忍び込んだ次郎長や手踊りを見せに招かれていたお時たちと遭遇。
そしてそこに、こともあろうに「賭博の勝者への景品」として、うなだれて手を引かれてくるお峰の悄然とした姿を発見したのであった。この美しい景品に助平な親分衆たちは拍手喝采。うう、なんて鬼畜な……。

ちなみにそんな主筋のエピソードが展開しているワキで、森繁=石松は呑んだくれ、イカサマ薬やらイカサマ賭博に騙され、暴れ倒しているわけだが(笑)。
ほんっと彼は、メインエピソードに絡んでこないのよ。全く別の場所でショボイトラブル起こしてるのが可笑しくてさあ。

さて、お峰の姿を確認した次郎長は、助十が元三を殺した匕首と血に染まった元三の胴巻きを証拠に叩きつけ(あ、これはお美代の家の物置に、助十の着物にくるまれて押し込まれていたのね)、お峰を救い出してお時たちに託し、親分衆、黒駒一家を相手に大暴れ。
法印坊、東山坊たちもほら貝を吹いて杖を盾にし黒駒一家を阻み、加勢する。この山伏のご一行様といった趣の彼らもまた絶妙に可笑しいんだけど……。

この中で唯一の関西訛りの彼ら、デカイ顔をする黒駒一家たちに、ありがたいほら貝の音色の講釈を脅し気味に唱和し、蹴散らす場面なぞ、「あいつらちょっと難しいこと言ったら判りませんねん」としれっと通り過ぎたりして、吹き出しちゃう。
実際、あっけにとられた黒駒一家は彼らをあっさり通してしまうんだもん……当然その中に、黒駒たちが血眼になって探している次郎長が紛れ込んでいたんだよね(多分)。

悄然と夜道を歩いていたお美代の前に、次郎長がふっと姿を現わす。彼は助十を討つことを心に決めていて、それをお美代に伝えに来たのであった。「あんな悪党でも、お美代ちゃんの実の兄だからな」と。
お美代はもうこの時には兄が、そして黒駒一家が非道の集団だということが判ってる。そして次郎長にはひと目会った時からそのきっぷのよい、これぞホンモノの侠客だというところに惹かれていたから……。
で、次郎長もおそらく、お美代に惹かれていたんだよね。助十の妹だと判った時も「あの娘は違う。そんな娘じゃない」と、疑う三五郎からかばってた。

この二人っきりの夜道での場面は、凄く感傷的で心に響く。人目を欺く為にかぶっていた天狗のお面を、後ろからそっと彼女を抱き締めるかのようにお美代の手に持たせるシーンなど、かなりドキドキとしてしまう。
でも、でもせいぜい、その位までしか出来ないんだ……。お美代は、あんた殺されるよ、と黒駒一家の報復を心配する。兄が彼に討たれることよりも……もうそのことは仕方ないと諦め、次郎長が死ぬことが、正しい人が、好きな人が殺されるかもしれないことが、彼女にとってはたまらないのだ。
そこへ黒駒の追っ手が追いついてくる。次郎長はあっという間にこいつらを蹴散らし、「命があったらまた会おう!」と言い残して、お美代と別れた。

いよいよ火祭りが始まる。この祭りをじっくりと見せるのも、非常に興味を惹かれる。剣の舞いや、両側に火のついた燃え盛る松明をぐるぐると回して踊る様は、荘厳で霊験あらたかな感じに溢れている。まるで貴重なドキュメンタリーでも見ているような趣。
いよいよ松明のご利益を、と踊り手がばっと松明を投げ上げその場を飛びのくと、ひしめきあっていた群集がわっと松明に突進する。その凄い迫力!
ちなみにこの時森繁、いや森の石松はしこたま酒をかっ喰らって力をつけ、おそるべき破壊力で群集を蹴散らしていく訳(爆笑)。酔拳だな、殆んど(笑)。

お美代は兄の助十からお山に届けるように命じられた荷物の中身が、あまたの刀であることを知って愕然、黒駒一家の正体を認めざるを得なくなる。
「弱いものイジメする親分の盃なんていらないよ!」と叫ぶお美代の頬を何度も張り、助十は自らその刀を運んでいく。
おいおい、一発ならず、四、五発は殴っただろー。まったくなんてヒドイ兄なのだっ。

民衆に向かって刀を振り回しだした黒駒一家に、本因坊たちに紛れていた次郎長が姿を現わした。
ここからは圧倒的な、というか、もう入り乱れて何がなんだか判らない状態のチャンバラシーン。
そしてそこに、次郎長に加勢しようとお美代も現われる。次郎長にいいタイミングで刀を投げ渡して。
でも、でもムチャだよ、お美代……やはり……次郎長が何とか黒駒一家を片づけて気づいた時には、お美代はその累々たる死体の一つになっているんだ。穏やかな顔で倒れているのだ……。

ラストシーン、次郎長は富士のお山が見事に見える場所に、お美代の墓を作ってやっている。ここから清水の俺を見守っててくんな、と。旅の一座のお時や、三五郎とお峰も手を合わせている。
そこへ法印坊や石松たちが駆けつけてくる。次郎長の男っぷりにホレこんだ彼らと旅が始まったところで、エンド。
ある意味ここから次郎長の物語はスタートするという趣で、エピソードゼロ、といった感じかしら。★★★☆☆


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