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「み」


2008年鑑賞作品

ミスター・ロンリー/MISTER LONELY
2007年 111分 イギリス=フランス カラー
監督:ハーモニー・コリン 脚本:ハーモニー・コリン/アビ・コリン
撮影:マルセル・ザイスキンド 音楽:ジェイソン・スペースマン/The Sun City Girls
出演:ディエゴ・ルナ/サマンサ・モートン/ドニ・ラヴァン/ジェームズ・フォックス/メリタ・モーガン/アニタ・パレンバーグ/レイチェル・サイモン/ジェイソン・ペニークーク/リチャード・ストレンジ/マイケル=ジョエル・スチュアート


2008/2/15/金 劇場(渋谷シネマライズ)
ハーモニー・コリン。恐るべき子供。アンファン・テリブルという言葉が浮かぶ、真の存在は彼しかいない。
「KIDS」の、あの柔らかな身体を持つそら恐ろしい少年が「ガンモ」を作った時は本当に衝撃だった。それはまさに前衛的芸術作品とも言えるもので、アホな私には正直???な部分も大きかったけれど、ただこの人の才能が疑うべきものではないことは、ビシビシと感じる作品自体が持つオーラというもので充分に感じさせた。
そして、同志から恋人となったクロエ・セヴィニーを側に置きながらの「ジュリアン」の発表、彼女との別れ、それからなんでまたこんなにも時が経ってしまったのか、気まぐれな“子供”はその間、別の面白いおもちゃでも見つけたのか(その後の経歴を見ると、まさにそんな感じ)。

彼の存在を知って、12年の月日が経った。今更ながら、彼が私とひとつしか違わないことに気づいた。もっと全然、若い気がしてたのは、彼が触ったものが傷だらけになるほどに、鋭角的な、暴力的なまでにアーティスティックなワカモンだったからか。当時、私だってワカモンだった筈なのに、ひどくショックを受けたのだ。
その彼が放ったようやくの第三作目は、彼が充分に大人になったことを感じさせた。それは少々の寂しさも感じたけれども、やはりこの才能が作ると何かが違うのだ。

「ミスター・ロンリー」この有名なスタンダード曲が、まさかこんなにも、残酷なまでの孤独を歌っているなんて、知らなかった。これをcomfortableな曲として、日曜の昼下がりに聞いていた子供時代が何だったんだろうと思える。
この曲を聴くと、家事をこなしながら母親が聞いていた「バックグラウンドミュージック」なるラジオ番組を思い出すのだ。なんかよく、かかっていたような気がする、この曲。
だから、この歌がタイトルに掲げられた時、私は妙にノスタルジックな気分に浸ったもんだけれど、でもとんでもなかった。そこにあったのは孤独、孤独、孤独のオンパレード。

冒頭、この曲に乗って、主人公の“マイケル”が、小さなバイクに乗っている。後ろには小さなテイクオフを繰り返している、小さなサルの風船かぬいぐるみか。
そう、彼はマイケル・ジャクソンのモノマネをして、ほそぼそと生活の糧を得ている芸人なのだ。しかもアメリカ人なのに、フランス語なんて喋れないのに、なぜかこのパリの街角に立っている。友達も出来ずに、“パリのアメリカ人”のマイケルは、日々、あまりにも孤独。

最後まで彼は、マイケルとしか呼ばれることはない。小さい頃から自分に違和感を覚えていた彼。それは、セクシャリティに違和感を覚える人たちをほうふつとさせる。それと同じように、自分に違和感を覚える人もいるのかもしれないと、不思議に納得させられる。
物語の最後に、バイクのシーンがもう一度繰り返される。彼がマイケル・ジャクソンである自分を捨てることになる時も、彼は相変わらずマイケルと呼ばれ、マイケル以外にはなれないだろうとマネージメントをしていた男に言われるのだけれど……。
実際、普通の男になった彼は、彼自身にさえまるでゆかりのない、見知らぬ男なのだけれど、そうやって生きていくしかないのだ。

でもそうやって、見知らぬ女になれずに、つまりモノマネではない自分が他人になってしまうというアンビバレンツを受け入れる前に、辛い人生に耐え切れなくて命を絶ってしまった女がいる。
マイケルと老人ホームの慰問ショーで出会い、「一夜限りの地上最大のショー」に誘った、“マリリン”。
そう、マリリン・モンローのモノマネ芸人。この街でマイケルが出会った、唯一のアメリカ人。
彼女もまた、最後までマリリンとしか呼ばれない。マイケルが、ずっと自分自身がイヤで、「生まれた時からマイケルだった」のに対し、彼女がマリリンになったのは、「オッパイがふくらんでから」と色っぽく笑った。

彼女にはチャップリンを演じるダンナと、そのあいだに生まれたシャーリー・テンプルに扮している娘がいる。「マリリンとチャップリンの間に、シャーリー・テンプルが生まれたんだね」とマイケルは微笑む。
マイケルとマリリンは最初から魂が通じ合っていた感じだし、キスに行きそうなニアミスもある。マリリンのかじった苺を差し出したシーンは実にドキドキとする。
でも結局、二人の間には何も、ないのだ。ダンナのチャップリンは疑っていたけれども……そして恐らく、それまでの積み重ねが爆発したんだろうけれども。

マイケルがマリリンの誘いに応じて、スコットランドの小さな町に、モノマネ芸人たちのショーのためにやってくるのと並行して、もうひとつの物語が描かれる。
この二つは全くリンクしないし、全く関係もない。しかしなぜか違和感を感じないし、観客の心の中で不思議に絡まりあっていく。このあたりはさすが、恐るべき子供の才気旱魃といったところ。

それは、神の奇跡に見舞われたシスターたち。貧しい町に食料をジェット機で投下する事業の最中、シスターの一人が誤まって転落してしまう。
しかしこのシスター、転落中、必死に神に祈り……偶然柔らかい草地に着地したこともあってか、生還してしまうのだ。
彼女はそれを、神を信じた奇跡だと説き、同僚のシスターたちにも同じ奇跡が起こせる、と説得する。あららら、これで何人もの転落死者が出るのかと思いきや、なんとビックリ、シスターたちは転落からの生還を実現し(法衣をパラシュート替わりにした見事なスカイダイビング)、この奇跡の事実を引っさげて、ローマ法王に会いに行こうとするのだが……。
青い空に舞うシスターたちの青い法衣。くるくると舞い落ちるそのシーンは、ひどく寓話的で、まるで詩のよう。

その前に、このジェット機に執拗に乗りたがる男、というのも登場する。彼はウワキが元で妻に離縁され、彼女と共に子供もロスに行ってしまった。
たった一人残された彼は、そう、ここでまさに孤独にさいなまれているんだけれど、彼の孤独は一体どこまで本気なのかしらというか……こんな事態になったウワキ相手の女が、子供たちのいい母親になれるとか本気で信じているみたいだし。そしてボランティア用のジェット機でロスに行って子供たちに会おうとして、牧師さんにたしなめられている。
ホント、全然モノマネ芸人たちの話とも、このシスターの話とも関係ないんだけど……でも不思議に印象に残るのは、彼の孤独が、そう、こんな孤独でさえも、やはり耐えがたいものであるという人生の不思議、だろうか。

マイケルがマリリンと共に小船で到着した海沿いの小さな町、お伽噺みたいなお城で、彼は多くの“スター”たちと出会う。
マドンナ、ジェイムズ・ディーン、サミー・デイヴィスJr.、エリザベス・クイーン、リンカーン・“ファック”エイブラハム、三バカトリオ……赤ずきんちゃんというのは良く判らないけど。
そしてヨハネ・パウロ2世がここにいるというのが、唯一シスターたちの話とリンクするのかもしれない。しかし当然、このパウロ二世はインチキ度満点で、風呂が嫌いで悪臭を撒き散らし、しまいには石鹸で現われて泣き声を発するというあたりがご愛嬌。

でも、まさにシスターたちは、この法王に向かって飛んでいたのかもしれない。だってその奇跡は、結局はモノマネ程度の、程度なんて言ったら悪いけど……自分のアイデンティティを賭けるという意味では同じく命がけなのに、結局は人の人生を変えられる訳でもない、自分の人生を侵食するだけの、ものなんだもの。
まるでそれを揶揄するかのように、物語の最後、ローマ法王の元に自慢のジェット機で旅立ったシスターたちは、海に墜落する。
波打ち際に、海の色に溶け込むように儚く、シスターたちの青い法衣が波に洗われている。
ドイツ出身の新しい法王とビールを飲むんだという牧師の願いも、叶うことはない……。

モノマネ芸人たちの、自己紹介よろしい登場シーンこそは、彼らも顔を作っているし、割とそれっぽく見えもするんだけど、共に生活し、ショーを上演する小屋を皆で作り、していくうちに、彼らがマネしている人物から離れていく瞬間が多くなってくる。
かといって、彼らがそれぞれの素の自分に戻るという訳でもない。だっていつも、自分がマネする人物のコスチュームとメイクでいるんだもの。恐らく彼らの誰もが、マイケルが最後に直面するように、本当の自分がどんな姿をしているかなんてこと、判っちゃいないんだろう。
でも彼らがふと感情を揺さぶられたり、ちょっと疲れちゃったりする時に、つまり誰かを演じている余裕がなくなる時に、その誰かにはとても見えない表情をする。中盤、ショーをやるという熱気から最も離れた中だるみの時間に、それは多く現われる。

それが色濃く示されるのは、このショーへ向けた生活の中で最も大きな事件、彼らがこの屋敷の牧草地で飼っていた羊たちが感染病にかかり、殺さなければいけない場面である。
衛生局の人間が、検査のための異様な防御服姿で牧草地に侵入してきた時から、その時間はぶっ壊されていた。
と、同時に、彼らの過ごしている時間があまりに非現実的なことにも、否応なく直面させられた。いや、そう思ったのは観客であるこっちだけだったのか、彼らはやはりショーに命を燃やしているのだし、これが現実的でないだなんて、思ってない。
この穏やかで優しい時間を象徴するかのような、ふわふわした身体でメエメエと鳴く羊たちを、彼ら自身の手で一匹ずつ撃たなければいけない悲痛の場面……。

そんな場面でさえ、彼らは“誰か”に扮した格好をしているんだけれど、でも彼らが、用なしになった、危険になった、別に最初から必要でもないと……治療する手間を惜しんでただ殺されていく羊たちに、もしかしたら自分自身の姿を重ねていたのかもしれないと思って。
いやそれが、あまりに出来すぎの穿ちすぎな考えだとしても、結果的には後に彼らがそう考えざるを得ないって思えるに充分な場面なのだ。
その場所で、必死に他人のキャラでい続けている彼らが、そのことに生きる意味を見い出しているというよりは、本当の自分になる、その試練に負けないだけの自信がないから、より強い誰かにすがっているように見えて。
だから彼らがオハコである筈の、他の誰かに扮している状態が、一番弱々しく見えてしまうんだ。

史上最大のショーになる筈だった。彼らが思い描いていた舞台は、歴代のスターたちが一堂に会する、夢の舞台だった筈なのだ。まあ、それを上演する小屋があまりにボロい時点でイヤな予感はしたにしても、でも彼らは夢を見ていた。
確かにそれがほころびる前兆はあった。羊たちの哀れな死。仲睦まじかったマリリンとチャップリンにも亀裂が生じていた。マリリンは色白の肌が持ち味。日焼けをしたくなかったのに、川辺に遊びに行った二人、眠りこんだら起こしてねと言ったマリリンを、チャップリンは置いて帰ってしまったのだ。
それは、明らかにワザとだった。真っ赤に焼けてしまった肌に泣きべそをかくマリリン。結局ステージにはさして影響なかったけど……ていうか、ショーに集まったのはほんの数人だったんだもの。

彼らのショーがスライド式に華やかにきらびやかに、次々に示されている時は、そんなこと判らなかった。いや……ちょっとそんな気はしていたかも、しれない。
気合い充分のステージを終えた彼らに贈られたのは……明らかにヒマを持て余して足を運んだといった趣の、数人の客たちの気のない拍手。いや、ヒマを思いっきり持て余したんだろうなってなおばあちゃんは、熱心な拍手を贈っていたけれども、それだけに、虚しい。
落胆することはない、まだ初日じゃないか、とリーダーは言うけれども……いやいや、一夜限りと言ったじゃん、てゆーか、今後もやるつもりなのかい!
ヤケ気味の打ち上げの後、フラフラと森に迷い出た彼らが見たのは……うっそうとした森の大木にぶら下がっている白いゆらめき……マリリンだった。

悲痛な叫びをあげるチャップリンの横で、マイケルはいささかぼんやりと彼女を眺め続けていた。
彼女がマリリンを脱ぎ去ろうとしていた瞬間は何度もあったのに、結局彼女は、マイケルにそれを一度も見せずに死を選んだのだ。
いや、彼女はダンナにも娘にもそれを見せないまま死んだのか……それは余計に哀しい。
ダンナに出会った時から、必死にマリリンになろうとした彼女、でも、決してマリリンではないのだ。少なくとも、生まれた時からマイケルだった彼とは違う。

パリに戻り、マイケルを捨て、あの時一緒だった仲間たちをひとつひとつタマゴに描き込むマイケル。
一人一人が、絵からスライドして、あの時の彼らの笑顔になる。そして最後に笑顔を見せる、愛しいマリリン。
彼女は、また会える、と言うのね、タマゴの中から。それはずっと先だけど、と。人生を諦めちゃダメだと、彼女は言う。マイケルにはこの先の人生がある。彼女の言う“ずっと先”は、この世にオサラバした時、なんだろう。
マイケルは彼女に、君は途中で諦めてしまったんだね、とちょっと皮肉交じりに言うと、彼女はいいえ、私は運命に従っただけよ、と言う。
諦めないことと、運命に従うことは、一体どこで見極めればいいんだろう。

マリリンのニッコリとした笑顔に、彼女は決してネガティブな思いで運命に従ったのではないことが判る。
でも……でも!
彼女のダンナは、ぶら下がった妻に、何度も何度も、ノー!ノー!と叫び続けていた。字幕では色々バリエーションを加えた翻訳を試みていたけれども、彼が言っていたのはノー!とノー、プリーズ!だけだった。
あまりにも、シンプルで、シンプルだからこそ痛々しい叫び。
チャップリンはマリリンを愛していて、だから子供のような嫉妬やイジワルを仕掛けるしか出来なくて、そしてそんな単純なことが彼女を何よりキズつけていたことを、今更ながらに知ったんだ……。

海岸で、マイケルが振りの練習を一心にしている場面が、まるで絵のように焼きついている。
美しく、しかし何だか滑稽な、でも彼がこれでしか生きていけなかった、人生のすべての一瞬。
まるでそれがお伽噺のように見えたのは、何故だったんだろう。

出っ腹気味、出っ尻気味。それを、あのスカートが風でひるがえる有名なシーンで惜しげもなく見せるサマンサ・モートン。
マリリン・モンロー自身が、今のグラマラスの基準とは全然違う、割とおデブな感じだったこともきっちり表わしているし、それ以上に、女としての、人間としての、生々しさこそを提示する。決してニセモノなんかじゃない。

コリンが俳優として使う役者たちの凄いこと。マイケルのマネージャー役のレオス・カラックス、彼こそ、アンファン・テリブルだったじゃん。こんなとこでゲスト出演なんかして、なんで作品撮らないのよー!!
しかも、その彼の分身だったドニ・ラヴァンが、チャップリン!!!もー、彼もどーしてたのよ。メイクでの出演だから、わかんなかったよ。肌が年とってたよ、嗚呼!
てゆーか、ハーモニー・コリン、お前、オタクだろー。★★★☆☆


水の中のつぼみ/NAISSANCE DES PIEUVRES/WATER LILIES
2007年 85分 フランス カラー
監督:セリーヌ・シアマ 脚本:セリーヌ・シアマ
撮影:クリステル・フルニエール 音楽:Para One
出演:ポーリーヌ・アキュアール/アデル・ヘネル/ルイーズ・ブラシェール/ワレン・ジャッカン

2008/7/15/火 劇場(渋谷Q-AXシネマ)
予告編に遭遇した途端、私はこんな映画を待っていたのではないかと思った。そして同時に、そんな欲望を持っている自分に、そして人間の欲望に、極まりない危険を感じて寒気を覚えた。でもその一方で、だからこその、気持ちを抑えられない。
水の中の、つぼみ。このタイトルも危険極まりない予感。水の中の少女は、滴り落ちるしずくが性の始まりを予感させる。しずくを滴らせる水着一枚の少女の、美しく、なんと無防備なことか。
そしてつぼみは、もう、まんまである。それは花開く力強さを持っている一方で、簡単に握りつぶされて散ってしまう危うさも秘めている。

シンクロナイズドスイミングの、花開く直前の色香をかもし出し始めた少女、その少女に魅せられる、更に幼く固いつぼみの少女は、胸のふくらみさえまだ清かで、ブラジャーをしているのが心もとないほど。
でもこの年頃は、急激に成長する女の子も一方でいて、彼女の友達は目のやり場に困るほどの巨乳だったりするのだ。まあ、その前にちょっと肥満ってことなんだけど……。
そして、性の体験。いかにもヤッてそうな、そう見られることに焦りを感じているフロリアーヌが実は処女で、いかにもモテなさそうな、実際、好きな男の子に一度は失恋してしまう肥満少女のアンヌがアッサリと経験してしまったりする。それでも少女たちは、まだセックスの喜びには目覚めていない。
どこか、友情を恋愛とごちゃまぜにしてしまうような年頃。男の子に興味があってもまだ破壊される恐怖に怯え、美しい理想の少女に恋してしまう年頃。

監督は、レズビアンとしてカムアウトしている。見ている限り、この少女たちの思いが年頃ゆえの一時的なものにも思えるけれど、そう見えるように演出したと監督自身も言っているけれど、監督にとってはことマリーに関しては、その先の未来は見えているらしい。
マリーを演じるポーリーヌ・アキュアールは、本当に華奢で性の目覚めにはまだまだ早すぎるように感じる一方で、そのぽってりとした唇が妙に気にもなる。そしてその唇が、ギリギリまでガマンしてフロリアーヌの華のような唇を吸った時、世界は一度崩壊してしまう。

マリーは、釘づけになった。最初は友達のアンヌの付き合いで観に来ていたんであろうシンクロ。決して興味がある風ではなかった。技術もおぼつかない小さな女の子たちのお遊戯に、ちょっとウンザリ気味なぐらいで。
ちなみに下のクラスには小さな身体の子供たちの中にアンヌも混じってて、その肥満体の巨漢が明らかに異質だったりするんだけど。
けれど、ジュニアクラスとして紹介されたチームは、明らかに違ってた。
均整の取れた、バランスのいい身体つきの少女たち。統制の取れた演技。その中の、リーダー格の少女、フロリアーヌにマリーは魅了された。美しくメイクを施し、髪を結い上げ、きららかなコスチュームに包まれた白い肌が水を弾く。

アンヌのシンクロには全然興味なさげだったのに、マリーは何とかしてフロリアーヌに近づきたいと思う。アンヌのつてで、シンクロメンバーの出入りするパーティーに出かける。
ちなみにアンヌはお目当ての男の子がいて、更衣室で全裸を見られていたりするんだけど(というか、なんかワザと見せている風もあるんだけど)自分に気があるんじゃないかと思ってたこの男の子は、フロリアーヌとイチャイチャしていた。
その光景には、マリーもまたショックを受けている。
マリーは明らかにこの少女に恋をしていたから。

それでもパーティーでお近づきになった、そのファーストインプレッションからして、やはりフロリアーヌは違った。マリーからもらったガムをかんで、「私の口、臭くない?」と彼女の顔に近づけた。キスするのかと思うぐらいの距離。マリーは黙って首を振る。
フロリアーヌがどこまでマリーの気持ちに気づいているのか知らないけど、もう最初からヤバヤバな雰囲気だった。
そしてそれは、男の子とキスするためだったのだ。

その後フロリアーヌと仲良くなるマリーだけど、こんな風にいつだって、男との場面を見せ付けられるのだ。同性の友達という立場だから別におかしくはない筈なのに、でも、マリーの気持ちは黙ってたってスクリーンに充満しているから、他の男とヤッている恋人を見ている彼氏の気持ちに他ならないのだ。
いや、もっと、なんというか……説明しがたい感情があるように思う。
マリーはフロリアーヌに恋い焦がれる一方で、そこに理想と崇拝を見ているから。最上級の、理想の女の子、理想の自分。だから、望まないセックスを早く経験しようと苦しんでいる彼女が、自分が陵辱されているようにさえ感じているようで。
アンビバレンツとも違う、でも複雑に入り乱れた、女の子の思い。

シンクロスクールの入会時期はまだ先、マリーはフロリアーヌに、練習を見させてほしいと頼み込む。何とか入れてもらって、プールサイドで練習を眺めている。
なんか、フロリアーヌはチームメイトに嫌われている風なのね。見た目美人な彼女はまあ、言ってしまえばヤリマンだと思われてるらしくて、彼女と仲良くなったマリーに、「あいつは娼婦ね」と言ってくる女の子までいるし。
その時にね、マリーは、私は友達じゃないから、と言ったのだ。確かに、フロリアーヌからまだ友達だと思われるほどの関係を築いていない時だったし、その時は従姉妹と偽って試合を見にきていたからってのもあるんだけど、でもそのマリーの言い様には、やはり何がしかの意味を感じたのだ。
友達じゃない。友達になる気はない、というような……。
でも、じゃあ、だからといって、何になれるのか、そのことを、マリーは結局最後まで見つけられずに終わっている、気がする。
それは、フロリアーヌに思いが届かなかったということもあるけれど、やっぱりマリーはまだまだ成長途中の女の子で、セックスのことも、それに興味と憧れと不安と焦燥を感じる本能も、まだまだ判らずにいるのだ。

しかし、確かにセックスに関してそうしたモヤモヤを感じ始める時期とはいえ、それをこの胸の薄い女の子をメインに赤裸々に描写することに、ドキドキする。
日本じゃ出来ないよな、と思う一方で、いや、そんな私自身の頭が古いんだろうとも思い、いやしかしやはり、今の日本のローティーンの女優でここまでのことを出来るコがいるのかと、やはり思うし。
13、14、15、年がひとつ違うだけで、成長度がまるで違う年頃。マリーが憧れているフロリアーヌはせいぜいひとつかふたつ年上なだけだろう。それでも彼女は「娼婦」と呼ばれるほどの女の子なのだ。実際は、経験はないにしても。

マリーは、フロリアーヌが“経験”しようとして家を抜け出し、男と逢い引きするアリバイのために、呼び出される。何時間も、彼女が帰ってくるのを待ち続ける。その間、二人が何をしているのかを妄想しながら。
それでもフロリアーヌは、一歩を踏み出せないという。この辺の男の子と経験して処女だとバレるのはヤバいと、電車で遠くの街まで出かけてクラブで男を引っ掛ける計画を立てる。
電車の中でセクシーなカッコに着替えるために、突然マリーの前で脱ぎ出すフロリアーヌは、本当にどこまで判っているのか……見守るように、見つめるように、マリーはフロリアーヌの美しい身体に視線を絡めているのに。
そしてクラブで引っ掛けた男と、車の中でセックスしようとするも、マリーがジャマをする。フロリアーヌは怒るかと思いきや、意外や意外、助けてくれてありがとう、アイツ、ヒドいキスするんだもん、と言うんである。

大人びていそうで、実は思いっきり背伸びしているのかもしれないフロリアーヌ。そんな彼女のことを、一番判っていると自負しているマリー。
判っていたのかもしれないし、全然判っていなかったのかもしれない。
最後まで、マリーはフロリアーヌに憧れる年下の女の子。
たとえ、あんな役割を振られたとしても。

一方のアンヌは、そう、その肥満体のことをマリーからひどくクサされてケンカして、一度は仲たがいしたりも、するのね。
アンヌは肥満体ゆえの巨乳とはいえ一番熟れた体つきをしているのに、そして肥満体ゆえにオバチャン風の老けた外見をしているのに、実は一番少女少女していて、まだ恋未満みたいなところがあって。
だからこそ、なんだか残酷なのだ。彼女は好きな男の子とのキスを夢見てた。あの、全裸を見られた男の子。確かにセックスのことも口にしてはいた。「でもまず、キスをしなきゃ。その候補はいるの」なんていかにも経験ありきな言い方をしていたけれど、恋している男の子とキスしたいってだけなのはアリアリで。
でもね、その子はフロリアーヌとイチャチャしてて、まずアンヌは失恋しちゃうし、なのにその彼、フロリアーヌとの初体験に失敗して、その足でアンヌのところに来るのだ。
あんまり、残酷じゃないの。
でもそれを知ったのが、セックスの前なのか後なのかってのも、重要だけど……そこは、明らかにされない。

でもね、アンヌ、彼からのしかかられて、挿入されて、好きな男の子との初体験なのに、彼が何度もキスしようとするのを、頭を押さえてまで避けてたんだよね。
そして、彼が二度目に、パーティーの最中に部屋に呼び出してまたコトに及ぼうとする時も、唇を徹底的に避け、彼が「君のことが好きなのかも」などとなんかテキトーなことを言ってヤろうとするのに対して、体位を反転させて上になり、自分からキスするのかと思ったら、彼の口に唾を垂らした。
彼の台詞のあいまいさと、キスを大事にとっておいた彼女の気持ちが、このセックスという行為の残酷さを際立たせて、辛かった。
彼女だけが、登場する女の子たちの中でセックスの経験を得るのに、なんだか少女帰りするように、女友達の友情のねぐらに戻っていくのが、哀しいような気がして。

で、フロリアーヌである。周囲の視線に合わせてとにかく経験をしなきゃと焦っている。でもそんな様子が周囲に気づかれるのも恐れてる。
彼女が処女だって知っているのはマリーだけ。確かにフロリアーヌは、そんなファムファタルな雰囲気を醸し出していた。シャワーを浴びながら男の子とキスしたりなんていう、セクシャルな場面にも遭遇した。それをマリーは物陰から眺めてた。
コーチまでもが、マッサージをするなんて言ってマリーを追い出し、「キスまでは許した」とフロリアーヌはこともなげに言う。
ついにフロリアーヌは、マリーにせっぱつまった願いを口にするんである。
「お願いがあるの。マリーが最初にしてくれない。男がやるように」
出たー!と思った。つ、ついにきた、と。マリーが最初、困惑して断わるのも織り込み済み。
きっと、マリーは彼女の思いを受け止めると思った。
そんなことにワクワクしている自分が、心底イヤになったけど……。

そりゃま、少女の物語だし、そんな、妄想するほどスゴいことをやる訳ではない。ただ手で、フロリアーヌをイカせてやるだけ。まあ、そこでシーンはカットアウトされているから、その後の展開があったのかもしれないけど、でも恐らく、それだけ、である。
でも、あの密やかな、少女の秘密の時間、厳かな顔で、マリーがシーツの下のフロリアーヌの秘部に手を伸ばしたのであろうことを考えると、ゾクゾクする気持ちを押さえられない。
だって、当然、そういうことを知っているってことは、マリー自身が自らを慰めるだけの成熟を持っているってことだし、それはフロリアーヌに向けられた思いなのかもしれないし。
ということは、めぐりめぐって、理想の自分、自分自身への自慰、そしてそれを今フロリアーヌに施していると考えると、なんだかもう、禁断が二重三重に張り巡らされている感じなんだもの。
そして、二度、三度、身体をそらせ、顔を紅潮させたフロリアーヌの目からひと筋流れる涙。
セックスじゃないのに、たまらなく、エロティック。

マリーが最初にフロリアーヌの練習を見に行った時、ドボンとプールに飛び込んだマリーは、水の中から彼女たちを観察していた。
白鳥の水面下がバタバタと愚かであると言われる様なのかと思ったら、水の下でさえ、一糸乱れぬ動きを見せる彼女たちは優雅に、美しかった。
それでも見えない部分の水面下だから、かなりあられもなく足を開いた泳ぎを見せていたりする。それも十数人の女の子たちが。
それをマリーが水の深いところから眺めている水中シーンが、美しいだけに、エロティック、というより、卑猥な感じがしちゃって、うろたえてしまった。
マリーが彼女を慰める場面で、そのシーンがふとよぎった。
それが、そのことが、すごくすごく、ヤバい気がした。
それにあの時、マリーはフロリアーヌの願いは何でも聞くからと見学の許可をもらっていたのだもの。

そんな風にマリーに手伝ってもらっても、でもそれでも、やはり、と言うべきか、当然というべきか、フロリアーヌはマリーと特別な仲になる訳ではない。
あの男の子とのセックスも失敗し、そのことをマリーがアンヌの告白によって知っても(二人してベッドにもぐりこみ、ガールズトークをするここは、フロリアーヌのせいで途絶えていた二人の友情が復活するいいシーン)、それがマリーのアレが良かったってわけじゃ、なかったらしい(……なんてことを考えてしまうこと自体が、オトナって最悪)。

マリーは、意を決してフロリアーヌに挑んだ。フロリアーヌはあまりにもアッサリとそれを受け止めた。
「ね?カンタンでしょ?」フロリアーヌにキスしたがっていたマリーの気持ちを、いつから知っていたのだろう。
でもそれを、フロリアーヌは失望で受け止めていたのか。フロリアーヌはマリーの気持ちを最初から知っていたけど、でも初めて、友達になれるかもしれないと思っていたから。慕ってくれる女の子が嬉しかったから。
男の子からの欲望も、女の子からの欲望も、フロリアーヌにとっては、失望でしかない。こんなに魅惑的な女の子なのに、彼女は最後まで孤独。憎たらしく映るのに、一番、孤独なのだ。
だってマリーには、アンヌという友達がいて、友達は上手く運べば一生のものでさ。恋人とは違って。
それにしても、あんな幼い女の子も、深いキスの仕方を知っているのか……さすがフランス。

次のパーティーのシーンでは、別の男の子とイチャイチャしているフロリアーヌ。険しい顔をして見つめるマリーにも、どうしたの?てな顔つきである。
マリーは黙ってその場を離れる。プールに行く。ジーンズ姿のまま、飛び込む。
そこへ、アンヌがやってくる。やはり飛び込む。二人水に浮かんで、笑みを浮かべる。
なんだかね、一方はセックスを経験し、一方は女の子に恋をしてナニをしちゃったりしたのに、二人はまだまだ、この友情の方が、この友情に戻りたいって感じなのだ。
でもそれは、いまだにセックスを経験してないフロリアーヌだって似たり寄ったりだけど、でも彼女は友達っていうのがどういうものなのかイマイチ判っていないようで、だからチーム内でも嫌われているのかもしれないし、なんだか、ちょっと、カワイソウかもしれない。
でもそんな女に惹かれてしまうんだろう。男も女も。
ファムファタルというのは、経験のあるなしは関係なくって、もう、生まれながらの、孤独を背負わされた哀しい存在なのかもしれないと思う。

ネックレスをつけあう場面が印象的だった。アンヌがセックスをしたあの男の子に押し付けて、それはフロリアーヌにあげてという意味だったのかどうかさえ判らない。
でもそれを彼から受け取ったフロリアーヌはマリーにプレゼントした。それがアンヌが万引きしたものだとマリーは知っていたから、呆然としながらも受け取った。
濡れた髪をどけてフロリアーヌがネックレスをつけてくれる。そしてマリーも同じように。その密やかな甘い時間。置き去りにされた、アンヌの思いがあるだけに残酷な美しさ。


“シンクロって、女性というジェンダーに押しつけられたことをまさに表しているじゃない? 魅惑的でいなければいけないとか、フェミニンさを大げさに表現しなければいけないとか、それに見合ったスマイルをしなければいけないとかね。で、その優雅さは水面下で起きている激しい戦いや犠牲を隠しているのよね。「水の上では華麗に見えるけど、水面下では必死な戦いが繰り広げられている」、それが私にとっては避けて通れない象徴的なエピソードだった。”

インタビューに答えていた監督のこの言葉に、この作品の全ての意味が込められていた。★★★☆☆


ミッドナイト イーグル
2007年 131分 日本=アメリカ カラー
監督:成島出 脚本:長谷川康夫 飯田健三郎
撮影:山本英夫 音楽:小林武史
出演:大沢たかお 竹内結子 玉木宏 吉田栄作 袴田吉彦 大森南朋 石黒賢 坂本爽 藤竜也

2008/1/16/水 劇場(丸の内ピカデリー)
うっ、号泣。おいおい泣いてしまった(爆)。こんなに泣いたのはクレしんのオトナ帝国以来ではないかと思うぐらい。成島監督を信じて、もっと早く観に来ればよかった。
知らない監督さんだったら、恐らく足を運ばないだろうと思われる作品。つーか、タイトルの響きから漠然と先入観を抱いてて、どんな話かさえ全く判ってなかったんだけど、でもなんか、ものすごく泣かせに来そうな感じが勝手にしてて。なんかそれは「ローレライ」とかなんとか、そういう横文字で壮大なスケールでとかいう映画にありがちな、自分勝手な泣かせなんじゃないかとかホント、勝手な想像。
まあでも、後から冷静になって考えると(観てる時はメッチャ、冷静を失ってた(爆爆))確かに泣かせに来てたのかな?つまり私はワナにしっかと足を突っ込んでしまったということか。ううう、でも止まんなかったんだよー。

そうなの、ギリギリまで迷って、観るのやっぱりやめようかなあと思って、でもなんか結構長々とやってるし、ってことは評判いいのかな?それに……成島監督だもんなあ……でもでも、成島監督 初のコケかもしれないし……もしそうだとしたら、それに遭遇するのヤだなあ……まだ二作しか作ってないしなあ……とか勝手にぐるぐる考えて、考えてる暇に足を運べばよかったのよね、ホント、頭でっかちなんだから。
いやでも正直、こんな壮大ドーン!みたいな作品に成島監督が抜擢されるのはちょっと意外な気がした。確かに過去二作、エンタメをきっちりと作りこんできたけれど、その根底はこだわりぬいたヒューマニズムで、こんなスケールは予期していなかったから。

でも、やっぱりこれもヒューマニズム、なのよね。いやそもそも映画というものはそれがなければ、どんなにスケールばかりが壮大でもコケてしまうのよ。
“壮大なスケールの映画”がコケることが多いのは、そのスケールに慢心してしまったのか、それだけで観客を感動させられると思ったのか、人の心の部分でありえないゆがみや一人よがりをヘーキで差し出してくる傲慢さにあると思う。
そういう例があまりに多いんで、壮大なスケールをウリにした映画にはどうにも足を向ける気が薄れてしまっていた、ということに思い当たる。

まあこれも原作があるし、きっと映画より、ずっと緻密で複雑な内容なんだろうし、原作ファンにとってはこのヒューマニズムこそが甘いと感じるのかもしれない。ま、未読だけど、ここも勝手に想像するんである。
未読なのに勝手に推測するけど、恐らく成島監督は、あのクライマックスの自己犠牲の部分にだけ焦点を絞り、すべてをそこに向かって走らせたんじゃないかと思うのね。“壮大なスケール”に人の思いが飲み込まれなかったのは、そこじゃないかと思われる。
だってもう、とにかく壮大なんだもん。北朝鮮と思われる工作員たちによる恐るべきテロで、日本壊滅の危機に瀕していて、それには米軍のステルス戦闘機も絡み、工作員によって墜落させられたステルスをめぐって、吹雪やまない厳しい冬山で銃弾が飛びかうんだもの。

当然、首相をトップに、厳しい作戦が政府内で練られる。その合い間を縫ってふっと姿を消した首相が、屋上で膝を抱えているシーンが強く印象に残っている。
まさか総理大臣が、屋上で膝を抱える、なんてシーンが現われるなんて思いもしなかった。
この首相を演じる藤竜也が良くってね、苦悩の首相。全ての責を、責めを、自らが受ける覚悟で、たとえ何人かを犠牲にしても、大多数の人間を救う“最良の”策を選択する苦しさ。その立場の人間を、素晴らしい存在感で演じる。
工作員に対しては、当然、自衛隊が応戦する。山岳部隊レンジャーなどという、大地震の時などにしか聞かない組織も現われる。そういうのを目にするとドキッとする。今の日本、やっぱりそういうことを想定してあらゆる場所で訓練が行われているのだ、と。

戦場のカメラマンとして活躍してきた西崎(大沢たかお)はしかし、お菓子を分けてやった子供が目の前で爆死したことで、強く落ち込んでしまった。戦場におけるひとときの安らぎが、彼の写真にはあふれていた。でも結局自分がいくら写真を撮ろうと、そんなことで何が出来るというのかと。
帰国後、山にこもって写真を撮っているうちに、彼の妻が死んでしまった。妻の妹で、腕利きの週刊誌の記者である有沢慶子(竹内結子)は、子供を救うどころか姉の気持ちも理解せずに死なせた、と彼を責める。姉の死の床にかけつけた西崎に慶子は「……人殺し」とつぶやいていた。
そして西崎の子供、優をとても彼のもとにおいてはおけないと、彼女が育てている。
西崎には何も言えなかった。ただ息子に渡して欲しい、と自分の撮った写真を渡すことしか出来なかった。慶子は「また写真?」とこれこそが原因だっただろうという表情を隠そうとしないけれど、それでも優がお父さんの写真が大好きなことも知っていたから……いや恐らく彼女も彼の写真が大好きなんだろうから……優に対して西崎の悪口なんぞは絶対、言わないし。

そんな西崎を心配して、新聞記者の落合(玉木宏)は彼を“雇う”。というのも西崎が山で目撃し、撮ったナゾの光、単なる飛行機のスクランブルだと警察は言っていたけれど、どうも腑に落ちない点があった。どうやらとんでもないスクープらしいのだ。
落合は、東京本社でつかみかけた政府のスキャンダルを潰されて大喧嘩、地方支局に飛ばされていた。しかしその山のふもとで、その潰されたネタにつながるスクープが舞い込んできたのだ。もう俺は逃げない、そう誓って落合は同じように落ち込んでいる西崎を誘って、雪山を登っていく。二人とも高校時代山岳部の先輩後輩だった。

その山中、彼らに向かって銃撃される。白迷彩の自衛隊は見えていたけれど、彼らではない。日本語ではなかった、と西崎は言う。
同じように白づくめのもうひとつの部隊。大体、白迷彩なんて本格的過ぎて異常事態。その自衛隊に白づくめの部隊が狙いを定めているのに気づいた西崎は、必死で声をかけた。なんとか、その自衛隊の一固体の全滅は逃れた。その時出会ったのが部隊長の佐伯(吉田栄作)だった。
無線で必死に連絡をとろうとする。それをまず傍受したのは、無線マニアと思われる少年。彼は慶子と連絡をとってくれた。
墜落した戦略爆撃機「ミッドナイトイーグル」に到着した彼らは、そこで時限爆弾が仕掛けられているのを発見。これが爆発すれば、搭載している核が飛散してしまう。政府と連携をとりながらその解除を急ぐのだが……。

落合は無数の死体が雪に埋もれている光景を目にして、日本でこんなことが起こっているなんて、と呆然とつぶやく。週刊誌の編集部で、政府で、これは戦争だ、という声がささやかれる。
しかし西崎は淡々と言うのだ。俺は世界中でこうした光景を見てきたと。女子供も容赦なく殺す戦争というものを。軍隊がある限り、戦争は起こる、と。
それに対して佐伯は、俺たちは軍隊じゃない、自衛隊だ、と言う。……実はこれに対してだけ、本作は明確なリアクションをとらない。特に今の時代は、あまりにもその問題は微妙すぎる。全てを明確にしていく成島監督をもってしても、明確に出来ない領域。

ただ、明確なのは……少なくとも、このたった一人残った自衛隊員が、そうした複雑な世界状況などは考えず、日本を戦争の恐怖から守りたいという、本当にシンプルな思いからその道を目指したということだけ。
しかも、彼がそれを決意したのは西崎の写真を見たからだと言う。それを聞いた西崎はため息をついて「皮肉なもんだな」と苦笑するのだけれど、佐伯がこの雪山で二人に出会った時、もう彼は自分の運命を悟っていたに違いない。仲間達はことごとく死んでいった。

慶子にも追っ手が襲いかかる。彼女が追いかけていた米軍に侵入した工作員、一人は銃殺され、一人は銃撃を受けたものの、逃亡した。
その逃亡した男に接触することが出来る。編集長がつかんできたネタだった。「温泉旅行の企画に行けなくてすまんな。お肌に悪いのに……ぷっ」などと吹き出す悪ノリ編集長、いわばこの作品のただひとりのコメディリリーフとも言えるんだけど、公安ともパイプがある、したたかな男。
演じる石黒賢が、非常にイイ。彼は近年、本当にいいバイプレーヤー。七色の顔を見せる。

この工作員と追っ手とのバトルも、かなりの見せ場。彼と一緒にいる脱北者と思しき女性と共に、一度はかくまったホテルから連れ出されてしまう。
二人を救いに危ない橋を渡る、慶子と後輩の青年、青木。ちなみにこの彼もまた、西崎の写真に影響を受けた一人だった。
そして二人を救い出したものの、結局追いつめられて、工作員の彼は……変更された爆弾解除のパスワードを慶子に渡し、愛する女性を彼女に託した。そして、自爆してしまう。

実はこの、時限爆弾のタイムアクションが、映画でよくあるこうした場面、ワザとらしく1秒前とかに解除できてホッとする、みたいなんじゃなくて、4分前くらいだったから、あらハッピーエンドにしては中途半端かしらと思っていたら、この先こそがクライマックスなのであった。
周りを、工作員たちに取り囲まれていた。もう一度爆発させるために。三人は窮地に陥る。
この時点では、観客にはそれが何を意味するのかまだ判っていなかった。ただ佐伯と、そしてこうした戦場を見てきた西崎には判っていた。
この場を切り抜けるには、ひとつの方法しかない。爆発すれば、日本全体に放射能の雨が吹き荒れ、何百万人の人間が死ぬのだ。でもそのひとつの方法は……自分たちだけが犠牲になればすむことだと。ナパーム爆弾、あるいはそれに匹敵するトマホークによって、一瞬の内に焼き尽くすこと。

佐伯から「防衛大学に進んだのは間違いではなかったと思っています」などという台詞がわざわざ出るのは、間違いだと言われることも多かったということが推測されるのだ。自衛隊は軍隊じゃないと、どう明確に定義できるのかという葛藤にも悩まされたに違いない。
佐伯が二人と共にこうした最期を迎えるのは、その点である意味皮肉でもあり、そうした疑問や葛藤に一気に答えを出すこれ以上ない方法でもある。
彼の銃によって敵とはいえ多くの命が失われたし、まさにこれは、戦争だった。それが、関わった一握りの人間たち以外には知らされない戦争だったとしても。自己犠牲、それが単純に美しいことだなんて思いたくはないけれど、そしてここで彼らが食い止めなければ結局は彼らも含めて何百万人という日本人が死ぬことになるんだとしても、でも彼の、いや彼らの決意には胸をつかれずにいられない。

これを荒唐無稽と断じられない時代になってしまった。こういう信じられない危機が、起こりうるだろうと思えてしまう程の今の世の中。工作員、だなんて、昔はスパイ映画か青年漫画か、とにかく婦女子は、男の子ってそういう世界、好きよね、などと微笑んでいられる世界だったのに。

劇中ではそんなこと言及されはしないけど、西崎と妻と妻の妹慶子の関係って、ちょっと気になるんだよね。だって彼は慶子に「彼女の最大の失敗は、自分の姉をオレに紹介したことだ」なんて言うし。
それって勿論、こんな勝手な男を大事な姉に紹介し、孤独に死なせたって意味がストレートな解釈だけど、自分こそが彼の相手だった筈なのに、という含みだって当然、感じられるでしょ。
だって彼が写真家で、彼女は写真週刊誌の記者。姉の夫という以上に濃密な視線を感じるし、それにやっぱり姉の子供を妹が育てる、まで決意させるのは、姉への思い以上の何かを感じるもの。

時限爆弾のタイムアクションが、数分前の阻止という、案外あっさりとスルーしたから、これはここだけじゃ終わらないな、という気はしてた。
でもね、きっときっと死なないと、信じたかったんだ。
無数の敵に囲まれる。今一度の核爆発を試みるために。ここで思わずゾッとするのは……当然、そんなことをされれば、ここにいる三人もろとも日本人があまた死ぬわけだけど、それを仕掛ける“無数の敵”もまた、死ぬということなのだ。つまりここにも自己犠牲があり……しかしそれは決して共感出来ることのない自己犠牲なのだ。

でも、なぜ共感出来ないの?彼らの自己犠牲とこっちと、どんな差異があるの?結局は彼らは敵で、顔の見えない敵で、日本という国と日本国民を守るという大前提のあるこちら側の銃弾に倒れる彼らの哀しみなどは見えてこない……筈だったんだけど、この結末が、何百万人の人間のために、三人の人間を見殺しにするということだったから……じゃあ彼らもまた、かの国にとってはそういう立場だったんだよな、と思って……。
死ぬのが判ってて突っ込む。もうそれは即座に、特攻隊を連想させる。日本では彼らの心情が理解出来て涙の物語になるけど、他の国では不気味でしかなかったことが、この描写で凄くよく判るのだ。まさに彼らは、神風特攻隊そのものなんだもの。

たった一人、顔の見える工作員がいる。慶子が接触したあの彼。でも正確に工作員と言っていいのかどうか。彼は最後の最後、国に背いて敵国に情報を渡した。それは愛する女性を得て、彼女のお腹に愛の結晶を宿したから。
もしかしたらこの展開は、それこそ特攻隊を頭に浮かべたら、そんな単純に敵国人に心を許すヤツがいるか!などとも思うのかもしれない。まあ時代や状況は違うにしても、敵国の人間の優しさに心を許して、自国の国家機密を渡してしまうようなことをするのは……それによって同胞が多数犠牲になるだろうことは明らかなのに……このあたりはやっぱり日本の、浪花節的甘い描写なのかな、と思う。
でもその彼女の方が……彼の赤ちゃんをお腹に宿した彼女が、きっと日本語が判らず、慶子たちが本当に味方かどうか必死に見極めようとしていた彼女が、彼のいる場所が炎に包まれたのを目にして泣き叫ぶのが……もう、たまんなくてさ。

西崎がミッドナイトイーグルのCCDカメラに向かって「ナパーム弾を投下してください」と言った時には、即座にはその意味が判らなかった。
国際条約で禁止されているナパーム弾。しかし米軍にあるトマホークならば同程度の性能がある。生命体は焼き尽くすけれど、解除した特殊爆弾は、その高熱にも耐えられる。
「民間人が一緒だから躊躇しているけれど、彼も同じことを考えています」と西崎は、背後で敵に応戦している佐伯を意識して言った。「これが僕ら三人の意志です」と。

そこには慶子と西崎の息子の優もいて、優は大きく映し出された父親の姿をじっと見つめていた。
首相はしばらく逡巡し、しかし決断した後、慶子に言った。「申し訳ありません。私の仕事は、国民の安全を守ることなんです」
そして、優の顔を覗き込み、「ボク、このオッチャンの顔を、ようく覚えておきや。悪いのはぜーんぶ、このオッチャンや」と。
もうダメ、ここらあたりで私、おいおい号泣。
慶子は首相に、ずっと国民に隠し続けてきた結果がこうなったと責めていた。それを首相は静かに受け止め、国民を守るために、パニックを避けるために隠さなければならないこと。判って欲しい、と言っていたのだ……。
優が、どこまで判ってるのか、ワザとらしい涙など見せず、ただ「パパ、パパだ」と言って、じっとスクリーンを見つめるのがもうねえ……(涙)。

CCDカメラが搭載されている、というのも、結構出来すぎな気はするけど……でも、最後の最後までの映像が届くのが、もう哀しすぎてさあ……。
トマホークが到達する。ブチッと、本当にあっけなく砂嵐になる映像。
慶子は、この時になってようやく泣くんだよね。それまでは絶対に、涙を見せない。「あいつにはあっちで謝っておくよ。だからもう、俺のことを許してくれないか」と西崎が、どこかこの固い雰囲気をやわらげようという意図で言うと、その意図を敏感に察知したこともあるんだろう、彼女は「許さない。絶対、許さない」とかすかな笑顔で言う。笑顔が彼に届くわけもないのに、でも……気持ちは絶対に通じてるもの。
あっちの映像はこっちに見えてるけど、こっちは見えてないのに、泣き声さえも悟られないようになのか、絶対に、泣かない。
でも、爆発によって映像が途端に砂嵐になった時、まるでそれを待ちかねていたように、彼女は優を抱きしめながら、幾筋もの涙を流すのだ。
あうう……(大号泣)。

平和な日常が戻ってくる。週刊誌には、カメラマンの西崎が雪山での遭難死を遂げたと報じられる。誰一人、そんな恐るべき危機があったなんて、知らない。ぬるま湯の日本。
このカットを見た途端、本当にこんなことが知らない間に起こっていたかもしれないと、急にリアルに感じられてきて、背筋が寒くなった。

いつのまにか、平田満のような滋味あふれるバイプレーヤーになっていた吉田栄作。いやー、良かったね。吹雪の中を押してヘリで救助に来ようとする仲間に、もうこれ以上、仲間を死なせたくないんだ!戻ってくれ!と必死に呼びかけるシーンなんか、哀しかった。ああいう場面はちょっと、往年のアメリカの戦争映画っぽい気もしたけど。
彼が西崎と落合に差し出す自衛隊仕様のレトルト食品が、私あれ、自衛隊の友達からもらったことあるー!と一人盛り上がってしまった(笑)。んでもって、酒の肴にした。ああ、私が一番危機感ないだろ。

落合を演じる玉木宏は、吐息気味の台詞が若干うるさいのが気になるけど、実にいい役。
彼は西崎の写真を託されて、一度はここから一人だけなんとか逃れる筈だったのに、西崎をかばって敵の銃弾に倒れる。彼の名前を呼び続ける西崎の腕の中で「夏になったらまた来ましょうよ。やっぱり夏山がいいですよね」と息も絶え絶えになりながらも必死に笑って言う落合。これもまた何となくアメリカ映画っぽいなーと、泣きながらも思うのであった。

こんな“壮大なスケール”なのに、クライマックスまでは、時として不気味なほど静か。成島監督の緩急冴え渡る演出がやはり、素晴らしかった。★★★★☆


水戸黄門 血刃の巻
1935年 92分 日本 モノクロ
監督:荒井良平 脚本:山中貞雄
撮影:竹村康和 音楽:――(サイレント)
出演:大河内傳次郎 山本礼三郎 高津愛子 伊村利江子 林誠之助 市川正二郎 久米譲 金子春吉 山口佐喜雄 若杉文男 清川荘司 剣高松文磨 中村幹二郎 露口弘 市川左正 泉久雄 市川和羅美 久留島勇 南城龍之助 沢村国太郎 市川百々之助

2008/10/23/木 東京国立近代美術館フィルムセンター(大河内傳次郎 伊藤大輔監督特集)
だ、だってこれ、先に「来国次の巻」「密書の巻」とある三部作の最終巻なんだもの。それをいきなりこの最後だけ見るっつったらそりゃあ……うう、辛いよ。何がどうなって、こういう展開になってるのか全然判んないんだもん……。
しかもフィルムセンターは、サイレントはホントにそのままサイレントでやるから、シンとした中で観るのは辛いのよねーっ。
とか言いつつ足を運んだのは、私多分、この伝説のスター、大河内傳次郎を観たことないなあと、一度観たいと思っていたからなのだった。
なんかさ、よく見かけるスチル写真での圧倒的な存在感がすんごい頭にこびりついてて、一度スクリーンで対峙したいと思っていたのだった。

だから、展開が判らないのは許してね(汗)。展開が判らないものだから、ニセ黄門様のくだりが出てきた時に、私はこの黄門様と立花甚左衛門の二役を大河内傳次郎がやっているから、ニセ黄門様は甚左衛門が化けているのかと思ったりして、もう頭がコンラン。
でも、家臣たちがなぜニセモノだと思ったかっていうのも、暴かれてみれば結構ベタで。地元で一度謁見してそのまま江戸に発った紋太夫が、江戸で黄門様がいらっしゃるという噂を聞き、そんな筈はない、自分は地元で確かに拝謁したからと、ニセモノだという確信を得る訳。
でも、黄門様もまた彼と会ってすぐに江戸に発ったというオチっつーのも、なんかそれこそ色々なトリックを考えて構えていたもんだから、ずるっと椅子から落っこちそうになるんであった。

ま、ニセモノ扱いされた黄門様がそれでもそのまま黙ってやり過ごし、彼らの陰謀を暴いて喝破する場面は胸がすくけどね。
しかし、黄門様が自ら謀反を起こした家臣を手打ちにするなんていう場面は、黄門様が自ら手を汚すなんてこと想像してなかったから、ビックリしちゃったなあ……。

なんて思うのは、その後現代に至るまで形成され続けてきた、好々爺とした黄門様のイメージがあるからだろうけれど。
劇中、水戸のご老公さまはとかく奇人であるから、ニセモノに乱行を行わせても疑われはしまい、そうして江戸における黄門様の印象を失墜させようと紋太夫たちは画策する訳で、やっぱりちょっと、こっちの抱いている黄門様のイメージとは違うんだよなあ。
それに、ベテランのおじいちゃん役者が演じるってイメージの黄門様を、脂の乗り切ったチャンバラスターが二役とはいえ演じるっていうのも、現代のイメージとは全然違うし。

……今回さあ、この作品、全然データ検索に引っかかってこないんだもん。水戸黄門っていう検索だと倒れそうになるほど膨大にあるっていうのに。
ということは、黄門様の映像作品の、本当に初期段階の作品である訳で、ある種パイオニアというか、まだまだ映像としての黄門様のイメージがついていない、何をやっても冒険してもオッケーみたいな雰囲気があったのかなあ。

大体なぜ、この黄門様と立花甚左衛門役を二役にする必要があったのかがイマイチよく判らないのだが……だって大河内傳次郎のイメージに黄門様は全然当てはまらないし。いや、イメージっつったって、今回が初見な訳だけど(爆)。
でも、甚左衛門はまさに、スチル写真で観る大河内傳次郎そのもののイメージだったんだよなあ。豪快で、荒々しくて、そしてちょっとコミカルなところまで。
その引き結んだダルマさんのような口元が殊更に目を引き、太くくっきりとした眉と、これまたくっきりとした二重の大きな瞳が、しかし不思議にバタくさくなることもなく、これ以上ない日本男児で、そのメリハリのついた顔立ちがスクリーンに映えまくる。

甚左衛門が捕虜に対して執拗に冷たく当たるのが、捕虜の兼重がマヌケなだけに可笑しかったなあ。大体、捕虜とか言いながら、全然自由にさせて、ただ飯炊きとかにこき使っているだけというあたりが。
この兼重は見栄坊なのか、飯炊きで真っ黒になった顔を見て、貴様ならそのカッコでは外に出て行けまい、と甚左衛門はヘーキで給仕させているんである。
しかも、甚左衛門の部屋にはマトモな食器がなく、兼重はしかたなく割れた茶碗でなんとか味噌汁をよそおうと涙ぐましい努力をするのが可笑しい。
見かねた甚左衛門が、隣から借りて来い!と言って、兼重がそのマヌケなカッコで渋々借りに行くのも可笑しいのよねー。

つーか、甚左衛門がなんで、どういう経緯で彼を捕虜にしたのかも良く判んないんだけど(爆)。
そもそも黄門様と甚左衛門とが、この最終巻では展開上でも全然絡まないから、ワケが判らなくて、最初の巻からひもといてみると、ああなるほどそういうワケだったのね、と。

甚左衛門は、親友の六衛を探して城内に忍び込んでる。その城内には六衛の妹の千世がいる。この状況も、最初の巻からの展開をさらってもサッパリ判んないんだけど、まあそこは飛ばす。
もともとこの兄妹は、黄門様の愛刀を盗んだらしい。なるほど、ここで関わりがあるわけかあ。しかしナゼ?まあそれは最初の巻の話だから飛ばす。
そして、六衛は本作の時点では既に殺されていて、というのはニノ巻での出来事らしいんだけど、本作にも通じる将軍継承に関わる柳沢吉保の陰謀に関わる密書が絡んでのことらしい。
……まあそれも、本作の時点ではそんなことになっているとはさっぱり判らない。……ホントにこの最終巻だけをいきなり見てしまう辛さばかりが(爆)。

でもさあ、なぜ千世はあの場所にいたのかなあ。ホント、最終巻だけ観てると、その辺りの経過が全然、判らんのだが。
彼女にとっては、突然兄が行方不明になって困ってる、みたいな風情なんだけど、最終的に兄を殺したのが柳沢吉里だって聞くと、凄い動揺して、自ら命を断ってしまうんだよね。しかもそれでエンドだっていうんだから、あまりに救い様がない……。
彼女は周囲から兄を殺したのは甚左衛門だと聞かされて、最初は彼に疑いの目を向けていたりもしたんだけど、次第に、いやきっと、兼重だろうと甚左衛門と共にアタリをつけて彼に対して仇討ちを挑む。
でも腰抜けの兼重が、執拗に自分ではないことだけを言い募るものだから、甚左衛門がならば誰だ!と聞いてみると、彼の主人である柳沢の名が出た訳で……。千世は柳沢のことを憎からず思っていたのかなあ。そういやあそういう描写があったような……気もする……(よく覚えてない(爆))。

そうしたシリアス展開に比して、かなりコミカルな部分で笑わせてももらえる。いやー、最初はどうしようかと思ったけど、そこに随分助けられる。
調子っぱずれな歌を歌う男、声は聞こえないのに彼の頓狂な表情と、なんと犬とのカットバックでそれと知れるという(笑)。あ、あれは上手い!まるでソフトバンクのお父さん犬のような賢そうな白犬が、彼の節回しに合わせて遠吠えのように天を仰ぐ、その繰り返しのショットには思わず爆笑!
しかし、彼が何者だったのか、全然判んなかったけど(つ、辛い……)。なんか、黄門様に頼まれて居留守を使ったりとかするんだけどさあ、で、その後ろで黄門様はひげをちょちょいと黒く塗って、歌の師匠に化けたりなんかして。
え?あの調子っぱずれの(って、聞こえないけどさ……しつこい)歌が、自分だと思われてもいいのだろうか……なんてさ。しかしひげを黒く塗ったぐらいで、家臣をごまかせるもんかしら。いやいや、ホンモノをニセモノだと思い込んだフシアナ家臣だからなあ??

でも、改めて考えてみると、大河内傳次郎は素晴らしい化けっぷりなんだよね。
立花甚左衛門の方はチャンバラスターの彼らしい、それこそチャンバラシーンなんてこんなに野性味効いてていいの!?と今のぬるい殺陣シーンを見慣れている目からは、まさにその喧嘩殺法とも言うべき荒々しさに圧倒されてしまうんだけど、黄門様を演じている彼はまさに別人。本当に、腰の曲がった、よっこらしょといった感じのご老体なのだもの。

しかしこの黄門様もまた、内にはたぎるような血を秘めていて喰えないジジイであるあたりが、むしろ素直な甚左衛門に比して、ずっとやっかいなキャラであるだろうと思われる。
だって嬉々として(という風に見える)ニセモノとして扱われて、ウツケモノのジジイのフリして家臣に裸踊りまで命じ、自分に謀反を起こしているのが誰かをどんどんあぶり出していくだなんて、こ、こんな腹黒い、というか、腹黒いヤツに合わせて目には目をだなんてのが、黄門様なの!?と驚いてしまう。
本当にニセモノかと観客の方も騙されてしまうぐらいで、翌日寝所から姿を消した“ニセモノ”に動揺している家臣たちに、「明日、ご老公様の舞いが披露される」との報告が届き、よもや……と思ったらやはりそうで!てなスリリングには、それまでの展開を知らずとも、ちょっとヤラれた!って感じ。

大柄な甚左衛門が城内を走り回るのに、角を曲がりきれずに激突しながら走ってたり、何気に彼にはコミカル要素がチョコチョコ仕掛けられていたけど、やっぱり初めて見るスターのオーラにやられちゃって、そういう部分よりも、彼の姿にこそ釘づけになったかなあ。
千世を呼び出して自分が敵ではないことを訴えようとした場面、当然のごとく彼を亡き者にしようとする輩がワラワラ雨宿りにやってきて、ただならぬ目で甚左衛門を監視している、あの不穏な空気。
一瞬でその緊張の糸が切れて斬り合いになるその刹那は、音という今や映画になくてはならない武器がなくても、充分にスクリーンにこの目を釘づけにさせてしまうんだもんね!★★★☆☆


ミラクル7号/CJ7 長江7号
2007年 111分 イギリス=フランス カラー
監督:チャウ・シンチー 脚本:チャウ・シンチー/ヴィンセント・コク/ツァン・カンチョン/サンディ・ショウ・ライキン/ファン・チーチャン/ラム・フォン
撮影:プーン・ハンサン 音楽:レイモンド・ウォン
出演:シュー・チャオ/チャウ・シンチー/キティ・チャン/リー・ションチン/フォン・ミンハン/フアン・レイ/ヤオ・ウェンシュエ/ハン・ヨン・ウォア/ラム・ジーチョン

2008/7/20/日 劇場(歌舞伎町シネマスクエアとうきゅう)
「少林サッカー」以降、すっかり名を売ったチャウ・シンチーでも、新作は何となくひっそりとした公開なのが、らしいというか(爆)。あやうく観逃すところだったのは、まー私がチェックを怠っていたからだけど。
それにしても、久しぶりの新作。シンチーらしいアホらしさが戻ってきそうな予感がしてワクワクと足を運ぶ。それは割と、イイ方向で裏切られる。よもやシンチーが親子愛モノを作るだなんて。
まー勿論、シンチーだからアホらしさは満載なのだけど、でもそれも、かなりゴーインに押し進めていった今までとはやっぱりちょっと違って、なんだかハートフルな雰囲気に満ちていて、うっかりちょっと、ジーンときてしまったのだった。

でもやっぱりシンチーらしいのは、確信犯的にチープなところ、なのよね。実際はかなり高度なCGを使っているだろうと思われるところは多々ある。ゴキブリがウワッと出てきて、それをもぐら叩きよろしく叩き潰す場面とかさ。ゴキブリの動きとかやけにリアルだし。
しっかし、そんなことで、親子仲良く遊ぶなー!!しかも籠にためといてまで……うう。それも、「食事中にそんなことするな」って、食事後に改めてすることでもないだろー!

でね、そのCGの最たるものは、タイトルロールでもあるミラクル7号なる宇宙犬なんだけど、これがね……実ーに確信犯的に、チープなのよね。なんか浅草の仲見世で売ってそうな造形の犬もどきの頭に、緑色のジェル状の胴体がくっついているという、ホンット、チープな造詣なわけ。でも役者とコラボする動きは実にナチュラルで、その豊かな表情にウッカリ愛らしいと思ってしまうぐらいなのだ。
いや絶対、この安っぽさは、ネライだって!(違ったらどうしよう……)だって、宇宙船が落っこって、その中から出てきた緑色のボールから生まれてきた宇宙犬なんてさ!リアルにしすぎちゃったら逆におサムいじゃん!

そんなミラクル7号と出会うことになるのは、超ビンボーな父子。父親はチャウ・シンチー。
妻に病気で先立たれて、その治療費やら葬儀代やらですっかりスカンピンになったティー、学歴もなく、工事現場で身体を張って働くしかない日々。もう体力限界まで働いている。それでも息子のディッキーには、自分みたいに苦労しないように、チャンスを与えてやりたいと私立学校に通わせている。
だから余計にビンボー。一間のボロ部屋は窓も壊れて隙間風が吹き、夏は暑くて扇風機もないもんだから、ティーがゴミ捨て場から拾ってくるものの、壊れて動く筈もない。制服は何とか着てるものの、靴はやっぱりゴミ捨て場から拾ったものを麻縄でつくろったものだし。
そんなディッキーは当然イジメの標的にあい、しかも先生からさえも汚いコ扱いされて(まー、あの先生は異常な潔癖症だけどさ)なかなかに辛い学校生活なのだ。

それでもお父さんが大好きなディッキーは決して文句を言わないわけ。「ウソをつかず、ケンカせず、一生懸命に勉強すれば貧乏でも尊敬される」という父親の言葉をまっすぐに信じてる。でもね、たった一つだけ、子供らしいワガママを言った。
本当に、なんでそのことだけにこだわったんだろうと思った。友達が持っていたハイテクな犬のオモチャ、ミラクル1号。散々自慢されて、悔しくてたまらなかった。それをオモチャ売り場で見つけたディッキーは、いつもに似合わず、駄々をこねまくったのだ。
カネがないんだよ!と父親としてはあまりに辛いことを、でも大声で言うしかないティー。ただただ泣き叫ぶ息子をもてあましていた。
その夜、ティーは宇宙船に遭遇する。いや、宇宙船に遭遇したことをも気づいていなかった。その中から飛び出してきた緑色の玉、息子へのオミヤゲに持って帰ったその中から、犬のような不思議な物体が産まれてきたのだ!

ディッキーがね、すごおく、ジェントルマンなんだよね。決して、出来は良くない。でも父親の真っ直ぐな教えが功を奏してて、とてもピュアな男の子。巨漢の女の子がイジめられているのを見て、割って入るような、正義感の強い少年。
しっかしこの巨漢の女の子、マギーが、もう巨漢なんて言葉じゃ追いつかないぐらいのすんごい、もうチューバッカみたいなコでキョーレツ。んで、ディッキーに助けられたことで、彼に恋しちゃうんだよね。
ディッキーはあんなヒドい運動靴だから、体育の時間立たされてて、その横に、マギーもまた立たされている。ディッキーと一緒にいたいから、ワザとそうしたのだという。ゴクリとのどを鳴らす彼。さりげなく横に一歩移動しても、マギーは一歩、近寄ってくる。

こういうね、コミカルな表情の演技がこの子、非常に上手くてさ!
ミラクル7号が出現した時、オバケを見たと思って叫び声を上げ続けて、お父さんに「今度叫んだら、外に出す!」と言われ、口に手をあてて必死に叫びをこらえるトコとか、カワイイったらないしさ。
そう、特にチャウ・シンチーとのツーショットの場面での演技が秀逸なのは、シンチーが後継者に教え込んだということなのかもなあ。

で、このマギーがほんっと、キョーレツなんだけど……この物語は親子愛、宇宙犬ミラクル7号の愛らしさ、そして涙の別れ……みたいなヒューマン&ハートフルをメインに据えてはいるけれど、そこはやはりチャウ・シンチーだから、もうチラリと毒のある笑いは満載なのよね。
それが今回は、エリート小学生たちに託されているのが凄い。この悪たれどもの憎たらしい表情が、しかしやはりまだまだ子供だからやっぱり可愛くって。
ミラクル7号のすんごいワザ(てゆーか、様々な状況の喜怒哀楽の顔芸なのだが……)を目の当たりにし、目を丸くする彼ら。このすんごい犬のことを、決して先生にはチクらないのが、男の子らしくて好き。そっからディッキーのことも尊敬の眼差しで迎えるんだもん。

しかしそれまでは、かなりキツかったんだけどね。どう見ても小学生じゃねえだろうってな柔道系の男の子、暴龍に投げ飛ばされるディッキー。ぴょーんと橋の向こうに飛んでいく(笑)。この辺りのナンセンスさは、チャウ・シンチーならでは。絶妙。しかも悪たれ小僧たちの暴龍へのギャラは、カバンからもったいぶって取り出だしたるペロペロキャンデーってあたりが。
そこに助けに入るのがマギーで。でも彼女は非暴力主義で、ただ受け止めるだけなのね。やらせないでよ、と悲痛な顔をして言う訳。
で、ただ受け止めるだけなんだけど……何せ怪力なもんだから、ちょっとシメただけで暴龍もくたりとなっちゃうのね。もうこの、二人のサシの勝負は、あまりにバカバカしくて、しかし無意味に迫力があって(笑)、チャウ・シンチーだよなあ、と嬉しくなる。
で、やはり暴龍、マギーに恋をしてしまうのであった。そのワザにほれ込んで、自分と同じ柔道部に入らないかと言う。柔道部と聞いて思わず吹き出す男の子たちに、笑うなと言いながら、皆して明るく笑う。マギーも一緒に笑う。素直な子供たちの友情が微笑ましい。

で、そうミラクル7号よ。この宇宙犬が実際にどれほどの能力があったのか。なんかね、ディッキーが最初に経験した、テストをカンニングできるメガネとか、体育万能になるミラクルシューズとかは、妄想だよね。ドラえもんだろう…… 壊れかけの。
一度夢から覚めて、もう一度それをナナちゃん(ミラクル七号のことを、そう呼んでいるのだ)に頼むと、もうことごとくダメなんだもん。
ことにミラクルシューズは笑ったなあ。あれは少林サッカーのテイスト満載。実際、スーパーシュートがゴールを破壊する場面は少林サッカーへのセルフオマージュ?
走り高跳びを空高く飛び越え、プールでは、靴から発するエンジンで光速の泳ぎを披露し、そしてサッカーシュートでしょ、確かに何でも可能になったけど、でもそれでいいのかな?って思ったのだ。

でもそれは夢だったのかなんなのか。目を覚ますとまたその一日が始まって、狂犬にカンフーをお見舞いした筈のナナちゃんは(シルエットで描写するのがイイ!)ボコボコにやられちゃうからおかしいなと思ったら、案の定。
テストが上手く行くメガネを出してくれと手を出したら、そこに出されたのはウンコ!それでもこれが何かを発揮してくれるのかも、とテストの間中、ずーっと持っていたら(笑)いじめっこのジョニーに指摘されて、いやこれは、ウンコじゃないと言ったらハエが寄ってくるし(大笑)顔にベチャリとウンコをはたかれるし(爆笑!)。
しかもしつこくもこのウンコネタを更に続かせるのよね。ナナちゃんに文句を言ったら、ブリブリブリブリ!と、容赦ないウンコの連続砲撃!な、なんてオコチャマなオゲレツ……とりあえずウンコと言っておけば笑いが取れるという王道を行くとは、チャウ・シンチー、ある意味さすがかも……。

でもね、そんな一方で物語は結構シリアスに進んだりして。
結局テストは0点だったディッキー、父親をガッカリさせたくなくて、ちょいと1と0を書き込んで100点にしたらティー、喜んじゃって、仕事場で見せびらかしまくる。しかし現場監督に、それインクの色が違うだろ、息子がウソこいたんだよ!と喝破されちゃうのね。
で、父親に叱責されて、もうお父さんのお説教は聞き飽きたって、もう僕にかまわないでよ、永久にかまわないで!って言って……その教えが息子の真っ直ぐさを育て上げたのに、ヒネちゃって。
ティーはナナちゃんを人質にとって、じゃあ60点でもとってみろ、そしたら構わないでやる!と、このあたりはさすが父親、上手く息子をノセちゃうのよね。
で、上手くノセられちゃったディッキー、美人教師の協力もあって、見事65点をゲットするのだけど、その時ティーは、工事現場で事故にあって、死んでしまっているのだ!?

この美人教師、ユエン先生(キティ・チャン)との淡いやり取りも、ちょっと萌える部分なんである。チャウ・シンチーは美形なのに(ちょっと気が抜けてる感じだけど(爆))案外今まで、真っ直ぐなラブがなかったというか、まあ物語の中にそういう要素は用意されていても、こんな普通に、美人教師とのリアルな感じのラブなんて、ねえ、なかったよね?
まあ、それもラストにはちょっとギャグな感じに落とされている辺りは、シンチーの照れ屋っぽい気質がやっぱり出ちゃってるかなって気はするけど。
でもこのチャイナドレスのユエン先生、ディッキーがハグレモノだから心配しているという以上に、彼の父親に対して好意的だしさ。それは、彼女がフェアな教師だという要素も含んでるけど、それがあるからモヤモヤする部分も確かにあるんだけど、またそれが、恋な感じでイイのよねー。

実際さあ、チャウ・シンチーはハンサム君なんだからさあ、ちゃんとすればさあ(笑)。一度ぐらいちゃんと恋愛パートを用意してあげたっていいんじゃない?やつれて、ビンボーで、白髪っぽくて、汚くて、でもやっぱりチャウ・シンチーはウッカリハンサムなもんだから。
ところでさ、この学校、女性教師はみんなチャイナドレスなんだけど、それってあっちじゃ普通なのかなあ。それがスーツみたいな正装なのかしらん。凄い、エロい感じがするんだが。学校の外では、普通に私服なんだよね。

で、工事現場で命を落としてしまったティー、そのことをユエン先生がディッキーに伝える。その場面、泣きじゃくりながらも「僕はもう寝たいんです」と必死に冷静を取り繕って、先生を追い出すディッキー。
この場面でもね、ユエン先生はディッキー同様ショックを受けているし、追い出された戸の外で泣き崩れているから、やっぱりティーに対して恋心っぽいものを持っていたと思うんだよなあ。
だってなんかイイ感じだったもん。それは今までのチャウ・シンチー映画には決して見られない、大人のイイ感じ、だったんだよね。

しかし、ティーのその現場には、バッグの中に入れられてたナナちゃんがいてね、あー、きっと、生き返らせてくれる!と思ったのが当たってさ!
まー、それは、こんな、どシリアスがシンチー映画には似あわないと思ったのもそうなんだけど、それ以前に、ナナちゃんが腐ったリンゴを新鮮なものに甦らせたりから始まって、身を削って彼らを救ってる場面があったから。
そしてその度、ナナちゃんはなんだか、疲れているご様子だったのだ……。

でさ、だから、ナナちゃんは、死んでいるティーを生き返らせるなんてエネルギーを使っちゃったもんだから、そのかわりに命の灯を落としてしまうのだ。
しかしその場面がまた、シンチー的ギャグに満ちながらも、すんごく愛しくて。ナナちゃんは、ぐったりして、動かなくなって、ぐんぐん小さくなったと思ったら、小さなぬいぐるみになっちゃうのね。ニットで編みこんだ、すんごいカワイイやつさ。
どうなっちゃったんだろう!?って父と息子は心配して、どうにかしたら生き返るのかと思って、乾電池入れようとしたり(笑)、電気ショック与えたり(大笑)、点滴受けさせたり(爆笑)するわけさ。そのどのシーンでも、二人マジメくさった顔してぬいぐるみの容態を見守っているから、もー、吹き出しちゃうの。

でも当然、どんなことしてもムダで、季節は巡り、ディッキーは首からナナちゃんをぶらさげて、いつか息を吹き返すのを待ち続けた。目をつぶってお祈りを捧げて、時には足元に止まった犬の鳴き声にハッとさせられることもあった。
そして春になり、学校でピクニックに出かける。恋の季節。ディッキーも本命の女の子とマギー、マギーに恋する暴龍、本命の彼女との間に割り込むいじめっこのジョニー、というフクザツな関係にナマイキにも苦悩し、ティーもユエン先生へのアタックに大張り切り。クサすぎて、空振りだけど(爆)。
そこへ、橋の向こうに宇宙船が着陸したのを、ディッキーは目撃するんである。慌てて駆け寄る。すると、橋からナナちゃんが!と思ったら、緑色以外の、色とりどりの宇宙犬が群れて突進してくる!
ていうか、この宇宙犬たちの目的は、一体、なんなの(笑)。

ところでこのディッキー役のシュー・チャオ、実は女の子!? チャウ・シンチーと養子縁組!マジで!ていうか、実父母と暮らしてるのに、なぜ養子縁組……?
んでもって、いじめっ子のジョニーも女の子で、暴龍も23歳の女性……なんなんだ。
更に巨漢少女のマギーは男性レスラー……なんなんだよー!!男女逆転しまくり!★★★☆☆


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