home!

「う」


2009年鑑賞作品

ヴィニシウス 愛とボサノヴァの日々/VINICIUS
2005年 122分 ブラジル カラー
監督:ミゲル・ファリアJr. 脚本:ミゲル・ファリアJr./ジアナ・バスコンセロス
撮影:音楽:
出演:ヴィニシウス・ジ・モライス/アントニオ・カルロス・ジョビン/ジョアン・ジルベルト/カルロス・リラ


2009/4/30/木 劇場(渋谷シアターTSUTAYA)
ボサノヴァの大作詞家、ヴィニシウスを探るドキュメンタリー。彼を知る多くのミュージシャンに話を聞き、膨大で貴重な資料映像も挟みつつ、しっとりとした歌とナレーションの舞台でつむいでいくという独特の展開が印象的。

ボサが好きとか言っておきながら、私はこの人のことを知らなかった。ボサの代名詞と言ってもいい「イパネマの娘」を始め、美しく洗練された曲の詩を次々と生み出した人。
言葉を判らずに聴いているテキトーなリスナーである私にとって、正直ボサはメロディ以上のものではなかったんだけど、ブラジルで生まれ、その地の空気や時代を思う存分に吸って発展してきたボサに、彼らの愛と歴史を避けて通るわけには行かない。
そしてそして、なんとまあ、この人はドラマティックな人なのだろう!

そもそもはいわゆる文学の詩人だったというヴィニシウス。若い頃から頭角を現わし、高名な作家を抑えて著名な賞も受賞した。
戯曲や映画評も手がけ、後にジョビンやジルベルトとボサノヴァを創生した巨人。
あの名作、「黒いオルフェ」はヴィニシウスの戯曲が元だったんだ!知らなかった。ダメじゃん、私、映画にもちゃんとつながってるじゃん……。しかもその映画に使われたジョビンの曲の詩もまた、彼だったっていうんだから。
後にボサには欠かせない作詞家となった彼に、「大衆音楽に身を売った」だの、「彼なら大詩人になれたのに」だのという上から目線の批判も耐えなかったという。
しかしそんな声も黙らせるほどに、彼は多くの、実に多くの名曲に新鮮でセンスのいい詩を提供したし、そして今となっては、というより当時から、ボサにおいての大詩人、という位置は揺るぎなかった。
あるいは彼自身が、そんな名誉的なことにちっともとらわれていない、どころかそんなこと気にするヒマさえない、ってあたりがステキだと思う。気にするヒマさえない、てのは多分本当にそうだと思う。だって彼ったら、本当にトンでもないというほどの人生を送った人なんだもの!!

トンでもないことの一つは、彼が詩人である一方で、外交官であるという立場にあったこと。そんな人、聞いたことない。
ヴィニシウスは、映画の本場であるロサンゼルスに興味を持って、赴任地を希望した。そこでも多くの文化人と交流し、オーソン・ウェルズを始めとした当時の銀幕のスターとの華やかな写真が残されている。ちょっとビックリ。有形無形の文化的刺激を受けたに違いない。

当時、ブラジルは軍事政権に支配されていたから、文化は真っ先に迫害を受けた。
ヴィニシウスもその中で、当然のごとく、その職を追われたのね。
軍が支配する世界というのは、とかく鎖国的になりがちなのは歴史が証明している。あの明るい太陽の国、ブラジルも例外ではなかったんだな……。
詩人でありながらボーカリストとして舞台にも立ったヴィニシウスに、当然政府当局は煙たい目を向けた。文化人や外国とのパイプが強かったことも当然、気に入らなかった。しかしそうして外交官としての職を追われた後、ヴィニシウスはまさに生まれながらの詩人としての活躍を続けるんである。

なあんて、最も大事な部分?を触れずにくると、なかなかにムズかしいよね!
あのね、彼の最も特異な部分ってのは、9回も結婚をした稀代のプレイボーイだってことなのだ。いや、これをプレイボーイと呼ぶべきなのかは、なかなかにムズカシイところなのだが……。
だって彼は女たらしとか、そんなんじゃないんだもの。
いや、そういう風に思ってしまうことこそ、この作品の主張に感化されたってことなのかもしれないけど(爆)。だって、客観的に見れば、女たらしに見えるに違いないもん。最後の結婚に至るまで、彼の相手は常に美人でクレバーな若い女性だったんだもの。

しかし、彼女たちが彼に惹かれるのは、そりゃあ彼がそれだけ魅力的だったに違いないのだ……なんとなく、想像が出来ちゃう。才能豊かで、人が好きでいつも賑やかに取り囲まれていて、恋を歌って、きっと寂しがりやで……。
いつも賑やかな中にいるってことは、そういうことだと思うから……そりゃ、キュンとなっちゃうに違いないんだよね。
しかもそれぞれの結婚生活はちゃんと(というのもおかしいのだが……)結構長いんだよね。6年とか7年とか。
で、その破綻はどうやってくるかというと、「君には全てを捧げ尽くした。もう何もないから、好きになるのやめたんだ」と来た。おいおいおいおいー。なんだよ、そりゃーよお。んでもって、次の若くて美しい女性と恋に落ちているんだから。そりゃー、女たらしに見えても仕方ない……。

てゆーか、それでも私は彼を女たらしだと思えないのは、やはりこの作品の主張に毒されているのかもしれないんだけど(爆)、彼の結婚遍歴のお相手、あるいはその娘たち(なぜか娘ばっかり……)が、不思議に彼を憎んでいないからなのだ。
いや、最初の(だったかな、とにかく初期の(爆))妻は次の相手に行ってしまった彼を憎んで、二度と会おうとしなかったけれど、それでも「そのことを母はずっと気にしていた」んだと二人の娘は言い、この二人の娘は、自由奔放に(に少なくとも見える)父親に対して、どこか慈悲の心をもって、そして尊敬しているんである。

そして彼の最後の奥さんの娘は、父親の歌をしっとりと歌い上げる色っぽいシンガーになっていて、彼女の歌声で物語がしめくくられると、なんだか不思議な気持ちになってしまうのだ。
ここにボサの伝統と才能はしっかと受け継がれているし、彼女たちは誰一人、ヴィニシウスを責めることなんてする気もなくてさ、それがブラジルというおおらかな文化であるせいなのか、それともヴィニシウスという偉大な才能のなせるワザなのか……どっちにしろスゴイとしか言い様がないんである。

彼は歌の中でしきりに愛を歌ったけど、でも多分、というか絶対、価値として言えばさ、恋、だったよね、彼の重視したのは。
愛と恋の違いがあの情熱の国、ブラジルで区別されていたかどうかは定かではないけど、大抵6、7年で次の相手にシフトしていたことを考えると……恋の感情が持つのって、恐らく限度はそれぐらいだろうなあ(爆)。
そりゃ、その密度は濃くってね、無心論者であるヴィニシウスが若いパートナーの地元の原始的な宗教に心から浸ってさ、それまでの信念を全て変えちゃったりもする訳なんだけど……でも6、7年、なんだよね。
で、次の出会いでいきなりビビビと来ちゃって「明日、結婚しよう!」とか言っちゃって、驚くべきことに本当にそのとおりになっちゃうわけ(!!!)
しかし、その出会いも、レストランで寂しそうに一人でいるヴィニシウスを心配した友人が、友達を紹介したことによってそうなった訳でさ、皆が皆、ヴィニシウスを気にかけているんだよなあ。

そういえばね、こんな台詞があった。もうこの映画もシメに入るあたりになってね、「彼は国民を幸せにした。だから国の功労者だ」みたいなね。お国柄もあるのかもしれないけど、彼の“女たらし”の部分はぜんっぜん、否定的じゃないのよ。むしろ肯定的なのだ。それが、スゴイと思ってさあ。
でも確かに、彼は寂しがりやだったのかもしれない。彼が広めた“オープンハウス”つまり、家を戸も窓も開けっ放しにして、誰でも入れるようにしたという趣向は、いかにも文化花開いたあの時代を象徴するものだったと思うけど、その“オープンハウス”を「他の人も真似した、というより、真似させた」と証言しているのがね、ああ、まさしくそうだなあ、彼だなあ、と思ったのだ。

多くの才能が訳隔てなく、境なく交流するオープンハウスは、確かに画期的なことだったんだろうと思う。でもそれ以上に、常に自分のそばに人がいないと寂しくて死んじゃうぐらいの人だったからじゃないのかとも夢想する。その恋の頻度が、見事にそれを物語っているんだもの。

そのセンでいくと、こんな台詞も印象的だった。「友情は作るのではなく、認めること」数多くの友人がいたヴィニシウスには、様々なタイプの友人がいた。「平和な友人、ただ見ているだけでいい友人、飲みに行く友人」……。
ただ見ているだけでいい友人、というのが、スゴイと思った。それは本当に、究極の友人像だと思った。
人は大抵、沈黙がつながりの希薄さなんではないかと、どうしても思ってしまう。それは恋人や家族でもそうだと思う。“ただ見ているだけでいい友人”とサラリと言えてしまうヴィニシウス、だから彼は友人に、恋人に、家族に、そして国民に尊敬され、愛されるのだと思った。

ミュージシャンたちは当然、彼の才能も愛した。「幸せであるより、生きている方を選ぶ」その詩に感銘したジョビンは彼の許可を得て、アメリカの作詞家にこのフレーズを使うよう依頼した。
しかしその作詞家は、「それは違う」と言ったのだ。生きていること、“そして”幸せであること、だと。オプティミズム溢れるアメリカらしい言い様で……でもブラジルだってそんな太陽のような明るいイメージを持っていたから、ヴィニシウスの深い人生観に打たれてしまうのだ。
それに通じるフレーズが、もう一つあるんだよね。たとえ孤独であっても、恋をする方を選ぶ、って。
多分それは、同じだと思うんだよな。つまり彼にとっては、恋をすることが、生きていることだって、ことなんだと思うんだよね。たとえ幸せでなくても、恋をしていなければ、生きていることにならない……っていうさ。

でも一方で彼は、人がそばに寄り添っていなければ、ひどく孤独感を感じる人だった。
恋をしているだけでは、孤独に陥る可能性があるから、だから、彼はいつも仲間を、友達を、はべらさせていた。
晩年、ヴィニシウスは仲の良いミュージシャンに、ふとこうもらしたのだという。
「お前は、相棒(ヴィニシウス)を哀れんでいるんだろう?」
なんと、哀しい言葉なんだろう……。

彼の手がけた歌詞に、こんなフレーズがある。


優しさを拒むな、別嬪さん
それは心のどこかがかけていること
苦しまずには、何も得られない


ヴィニシウスは常に、苦しんでいたんだよね。
だから、いつも何かを得ていた。
「人生は愛し、そしてお返しに愛されるだけでいい」
それが彼の人生の哲学。
それには苦しみもつきものだと思うけれど、でもやっぱり彼は、その人生の核が判っていたからこそ、人生をこれ以上ないほど謳歌し、幸せな人だったに違いない。★★★☆☆


ウェディング・ベルを鳴らせ!/PROMETS MOI
2007年 127分 セルビア=フランス カラー
監督:エミール・クストリッツァ 脚本:エミール・クストリッツァ/ランコ・ボジッチ
撮影:ミロラド・グルシーカ 音楽:ストリボル・クストリッツァ
出演:ウロシュ・ミロヴァノヴィッチ/マリヤ・ペトロニイェヴィッチ/リリャナ・ブラゴイェヴィッチ/ストリボル・クストリッツァ/ミキ・マノイロヴィッチ/アレクサンダル・ベルチェク

2009/5/19/火 劇場(渋谷シネマライズ)
うわー!何これ!すっごいノンストップでムチャクチャ!でも凄く深い問題もはらんでいる気もして、いつもとは逆にまずオフィシャルサイトをチェックしてみたら、特にそういう訳でもなかった(笑)。いやあ、この監督自身が複雑なバックグラウンドの持ち主だからさ、てっきり国の深い問題とかをはらんでいるのかと思った。こんなにやってもいいのってぐらいの銃撃戦とか、戦争を匂わせているのかなとかも思ったし。
でも特にそういう訳でもなかったんだなあ。監督自身、あくまでライトなハッピーエンドな物語を描きたかったんだそうだから。でもそれがこんなムチャクチャってのが、さすが奇才というか??

でも、とは言いつつヤハリ、急速な文明へのシニカルな視線とか、カネ至上主義への反発とかは、あるんだろうなあ。主人公の少年、ツァーネが直面する都会は、あまりにもカネへの妄執にとらわれていて、もはやギャグかってぐらいだし。
そう……ギャグかってぐらいなのよ。利権が絡むマフィアの争いに巻き込まれた末の銃撃戦、なんだけど、ほんっとうに、ギャグかルパン三世かってぐらいに、雨アラレの銃撃戦なんだもん。
その銃撃戦はのどかな筈の田舎にまでしつこくしつこく追ってくる。そこを切り抜けなければ本当の幸せは手に入らない、と言っているようでさあ……。

おっと、そんなのはもっともっと先の話なのだった。
まずは少年、ツァーネが暮らすのどかなのどかな山あいの田舎から始まる。いや、のどかな筈なのに、もうしょっぱなから息つくヒマなぞないんである。
だってさー、このおじいちゃんったらどんだけ発明好き、っていうか、イタズラ好きなのよ。家の中はピタゴラスイッチ状態でさ、目覚し時計と共にベッドが垂直に跳ね上がる、って、ウォレスとグルミットかよ!そのまま窓から突っ込んじゃうし、危ないったらないって!

しかも家の中のみならず、お外にも落とし穴を作りまくって、影から首尾をうかがってニヤニヤ。いや、あれは落とし穴ってレベルじゃないよ……だって、しっかり木枠を作ってさ、走ってきた車ごとドカン!なんだもん。基礎がしっかりしすぎだろ!
てーかこのおじいさんは自分で何でも作っちゃうし、家もこんな具合だから軒並み壊れるのをカクシャクと修理して、しかも家の中じゅうのスピリチュアルな壁画も彼の手によるものだしさ、やたらクリエイティブでエネルギッシュなお人、なのよね。

なのになのになぜか彼は、自分はおいぼれ、死期も近いと思い込んでいる。
物語の最初に落とし穴に落としたのは、ツァーネ一人だけの学校を廃校にするべくランラン♪てな感じでやってきた教育委員会の人々。
いやー、ホントにランランって感じなのよ。小さな車にギュウギュウになって、それでも音楽ガンガンかけて右に左に拍子をとってランラン楽しそうなんだもん。その様がなんともおっかしいんだよなあ。
だって次の瞬間には車ごとドコッ!とおじいさんの落とし穴にはまるんだからさあ。

ちなみにツァーネを教えているただ一人の教師は、巨乳がまぶしいセクシー美女、ボサ。おじいさんに恋してこの田舎に押しかけてきた。
おじいさんはこの押せ押せ美女に惹かれてはいるものの、亡くなった奥さんに操を立てているような殊勝な、というかウブなお人なんである。
まあ、おじいさんがツァーネに都会行きを命じたのは、ひょっとしてひょっとしたら、彼女と二人きりになるチャンスのこともネラっていたのかもしれないなあ。だって実際、ツァーネのいない間に、二人の距離はググッと縮まって、ラストには孫が連れてきたお嫁さんと共に、ダブルウェディングの超ハッピーエンドになるんだもんね。

まあ、さ。ツァーネもこのセクシー教師、ボサでリビドーを刺激されていたりするわけさ。それもしょうがない(?)。この田舎町でオンナを感じさせるのなんて彼女しかいないんだから。50の坂を越えても、スバラシイ巨乳をナマで見せてくれる彼女はサイコーです。
このおじいちゃんの孫だから、ツァーネも発明品を駆使して、彼女の入浴シーンなぞを覗き見している訳さ。この望遠鏡ってのが、かえるの目玉みたいにピコッ、っと飛び出す、実に懐かしい、キュートなデザインで、なんとも癒されちゃうんだよなあ。でも、まさにこの時にはツァーネは、本当の恋など知るべくもなかったのだ。

かくて、ツァーネはおじいちゃんからの命を受けて、都会へと旅立つ。三つの約束がある。

@牛のツヴェトカを売り、そのお金で聖ニコラウスのイコンを買うこと
A好きなお土産を買うこと
B花嫁を連れて帰ること

牛を引き連れて都会に出るというのが、実に対照を物語っている。そう、出かける時にはまだツァーネは、何も知らないウブな少年だったのだが……。
しかし、何も知らないってのが、ある意味武器で、彼は恋に落ちた途端、すんごい大胆になるんだよね。
彼女をゲットした暁には、見てるこっちがテレちゃうような息をうーんと吸ってバクっと食いつくようなキスを何度も繰り返し、果てには故郷へと向かう車のトランクの中で(!)初体験を済ましちゃうんだから!
トランクのフタがバッカバッカと上下するのは、地面の振動のせいじゃなかったんである!

おっと、また先走ってしまった。だからね、ツァーネは牛のツヴェトカを連れて都会に出たんだけど、まず街の女の子たちのセクシーさに釘づけになっちゃうのよ。
セクシーったって、まあフツーなんだけど、彼にとってはピチピチのジーンズのプリプリのお尻だけで充分なカルチャーショックだったのだ。
その中で、特にヤスナが色気ムンムンという訳ではなかったと思う。むしろヤスナは生真面目で清楚な雰囲気の女の子だと思うけど、だからこそその中に秘められた色気がツァーネのリビドーを刺激したのかなあ(笑)。彼はヤスナにひと目で恋に落ちてしまうのね。

結構イイ雰囲気になる二人。カラオケで二人、アバをデュエットする場面なんて、ヘリウムガスでヘン声になってるトコが逆にテレを感じさせて可愛らしい。
ヤスナの体育の授業を覗き見したり、夜這い(!)してドアノブに美味しいパンを引っ掛けたり、あんな幼い顔して彼ったら、かなり積極的。
隣家のオバチャンが楽しそうに高みの見物しているのが笑える。息子?孫?の幼い男の子に「お前にはまだ早いよ」と追い払ったりしてさあ。
だけど、ヤスナの母親がマフィアが絡んだストリップバーで身を売っていて、無防備に牛を連れて歩いていたりしたツァーネがそのマフィアに目をつけられて拘束されたりしちゃったもんだから、ヤスナに単純にアタックするなんて様相じゃなくなる。
ついにはヤスナがそのマフィアに売り飛ばされそうになっちゃう。しかもそいつら、かなりキちゃってるクレイジーな奴らなもんだから、もうツァーネも果てにはボスのタマを去勢しちゃうなんていう暴挙に出たりしちゃうの!

……また先走っちゃったかな。いやー、だってさ、あれはかなりキョーレツだったからさあ。冗談みたいな雨アラレの銃撃戦もスゴかったけど、やっぱり一番はツァーネがマフィアのボスを去勢しちゃうシーンだよな……そりゃ、殺してしまうよりはいいのかもしれないけど、それにしてもさあ……。
このシーンには伏線があって、ツァーネの故郷で牛が去勢されるシーンがあるんだよね。それもとても正視できなかった……ていうか、ツァーネ自身が正視できなくて目をそむけていたのに、彼が自らハサミを手に、ボスのタマをパチンと切り取っちゃう!!
……でもね、「去勢した方が幸せな人生を送れる」というのは牛の去勢の時に既に言っていたけれど、この男に関して言えばまさにそうだし(ていうか、周囲の人たちが、っていう意味においてだけどさ)実にシンラツに皮肉なのよね。
それまマフィアにカネと性において屈するしかなかった女たちが、いっせいに歯向かうのがスゴくてさ!

……うーむ、どうもうまく物語を進行出来ない(爆)。
ヤスナとの恋物語も興味深いんだけど、ツァーネが出会う、この都会で唯一味方となってくれる兄弟がなんたってキーパーソンなんである。
味方……ていうのもビミョーかなあ。彼らはそもそもがマフィアの手下なんだもん。でも筋肉バカっていうか、ただのバカっていうか(爆)、カンタンにマフィアに「兄弟!」とほだされてしまう。カネが目的で動いているようだったのに、なんかそのあたりがテキトーで、いかにもバカなんである(爆爆)。
そもそも彼らはツァーネの祖父の親友である靴屋の跡を継いでいる訳だから、意気投合してツァーネに味方してくれるいきさつになったハズなのだが……どうも、時々バカが甦るらしく(爆爆爆)その割に腕っ節は強くて、しかも武器や破壊技術に長けていて、行く先々破壊しまくっちゃうんである。

明らかに権力を持つマフィアのボスと、気はいいけど単純バカの兄弟とが、同程度に暴力的な破壊力を持つっていうのは、実に皮肉なのかもしれないなあ。
しかもそれを切り抜けなければ、若い二人に幸せが訪れないっていうのもね。いや、若い二人だけじゃないか。おじいさんもボサとついに年貢を納める決意をしている訳だし。
さて、二人が手に手をとって故郷へと向かう先で、ダブル・ウェディングは実現するのか??

このマフィアたちが金儲けでもくろんでいるのが「セルビア初の貿易センター」だっていうのが、すっごくシンラツだと思ったんだよね。
国際社会に参画するための、実にわっかりやすいハコである。つまりは、ハコでしかない。そんな建物を建てても、それだけで国際的になれる保証なんて、ないんだもの。
そのために、国際社会には非難されまくりであろうあまたの武器や、もしかしたら歴史的建造物かもしれない建物を(しかもアメリカの技術介入で)壊しまくって、虚像の国際社会を作ろうとしてる、なんてさ。

決して田舎バンザイ!という解釈ではないだろうとは思うのよね。だってツァーネは都会から嫁さんを連れてきた訳だし、それはボサだってそうだと思うしさ。
でもとにかく、いろんなことを含めて「ハッピーエンド」なんだろうなあ。わざわざね、物語の最後に、二組の結婚式写真に「happy end」とクレジットするんだもん。わざわざ刻印するってことに、凄く意味を感じたのだ。

主人公のツァーネを演じるコが、ぽよぽよと幼い男の子って感じなのに、大人っぽいヤスナをしっかりゲットして、そのぽよぽよした身体で、初体験まで済ませちゃうことに少なからずショーゲキを受けた(爆)。
まあ、見た目どおり彼はヤスナを演じる子よりも4つ5つ若いし、それでなくても男の子は幼いんだから余計に姉と弟みたいな、それ以上のギャップを感じるんだけど、彼ったらヤスナに対してメッチャ積極的なんだもん。
おじいちゃんゆずりの奇術(?)を駆使して、授業中に窓の外に逆バンジー状態でぶらさがったりしてさ!
自分よりコドモだと見えている男の子でも、予想もしないアプローチされたり、王子様みたいに窮地を救われたりしたら、ギャップがあるだけにそらー、恋に落ちちゃうよなー。女ってそういうのにヨワいんだもん!

彼は短篇オムニバス集の「それでも生きる子供たちへ」でクストリッツァ作品の主人公を演じていたという。
うう、ちょっと気になってはいたのよね。オムニバスが苦手で、ついスルーしてしまった。失敗したなあ。
もともとクストリッツァは肝心な作品を観てなかったりするんだよね。誉れ高いデビュー作も、彼の評価を決定付けた「アンダーグラウンド」も観てない。本作は「黒猫・白猫」の流れを汲むライトコメディだという位置付けみたいだけど、やっぱりそれだけじゃない気がするんだよなあ。

ところで、本作で一番印象的なのは、音楽だよね、絶対。印象的どころか、これこそが主役であると言っても過言ではないほど。もう、ひと時も鳴り止まぬことのない、永遠に続くようなジプシー音楽。しかもエレキギターも響く、アヴァンギャルドなソレなんである。
これが監督の息子さんが担当しているってのは、大いなるオドロキ!監督の作風以上にアヴァンギャルドだよ!素敵!!
それは物語世界にも大いに影響を及ぼしている。葬儀と婚礼がバッティングするラストにマフィアの銃撃戦が乱入し、のどかな田舎のピッカピカの晴天の下、ただでさえそんなギャップが用意されている中、銃弾の雨アラレが冗談みたく降り注ぎ、しかも冗談みたく人は死なないしさ(都会ではかなり死んでたのに……)。
それなのに婚礼の楽団は、弾を除けながらも、絶対に演奏は止めないんだもん。スゲーって。ある意味、この物語の誰より、意志が固いと思うなあ(笑)。

しかし、ホンットこのラストシークエンスはスゴイのよね。ドラム缶をかぶってウェディング・ベルを鳴らしに行こうといざり歩く老人が、カンカン銃弾が跳ね返って、何度もドラム缶ごと倒れてもヘーキなのどかさには癒されちゃった(笑)。
あののんきな兄弟がそのつど起こしてやるっているのんびりさ加減にもさあ。その前に、そんなムチャなことやめろって言えよ、みたいな。

なんかこんな破壊的なポジティヴ、久しぶり、っていうか、初めて観た気がする!★★★★☆


ウルトラミラクルラブストーリー
2009年 120分 日本 カラー
監督:横浜聡子 脚本:横浜聡子
撮影:近藤龍人 音楽:大友良英
出演:松山ケンイチ 麻生久美子 ノゾエ征爾 ARATA 渡辺美佐子 原田芳雄 藤田弓子 齋藤咲良 竹谷円花 米田佑太 中沢青六 キタキユマ 野嵜好美 乗田夏子 宇野祥平 小野寺陸

2009/6/23/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
デビュー作である前作が、正直理解の範疇を超えていたので、今回の新作に対してはかなり腰が引けていたのだけれど。
青森出身同志である監督と松ケンの顔合わせ、しかも若い才能同士ということにはどうしようもなく心を惹かれて足を運んだ。

今回は、理解の範疇を超える、ということはなかったように思う。むしろ強烈な社会派映画に感じて驚いた。
いや、それもまた、私が単にカン違いをしているのかも。何を主張しているとか、何の裏テーマがあるとかじゃなくて、この作品世界自体が監督の中で完結しているのかもしれない。
実際、前作ではそうした完璧な壁が私の前に強烈に立ちはだかって、とても登れない気がしていた。判らないけれど緻密で完璧な世界観で構築されていることだけは強烈に感じたから、だから余計に入り込めない感じがしていたのだ。

今回、その隙間がちょっと開いたように感じたのが、私のカン違いかもしれないけれど、それには前提があった。
つい先日観た「USB」との偶然ながらも奇妙な符合。それがなければ、やはり私はワカンナイ嵐が頭の中に吹き荒れていたかもしれない。

「USB」で、放射能に犯された街に住む主人公は、妊娠した恋人と一緒にレントゲン写真を撮る。つまり放射能を浴びせて「こうなったら遺伝子の変異に希望を託すしかない」というんである。彼が師事した映画監督も、不治の病の身体をこの街の放射能にさらすことで、奇蹟が起こるのを願った。
それはあまりにムチャな論理だと思ったけれど、それがかなってしまったのが、本作なのだもの。

本作では、放射能ではなく、農薬である。主人公の青年、陽人は、農薬を浴びた時からとても調子が良くなる。でもその“調子の良さ”というのは、あくまで社会的規範に照らし合わせた上に置いてのそれであり、彼本来の姿ではないのは明らか。
それなのに彼は、その“本来”を捨て去ることを選んで農薬を浴び続ける。ついには心臓が止まっても、生き続ける。
いや、それは生きているとは言えない筈なのに、“社会的”に見たらとりあえずは外見は大丈夫な状態を保っている間、彼は生き続けるんである。本当は、死んでいるのに。
陽人が本当の死を迎える時、それは一瞬、彼が“本来の姿”を取り戻した時であり、恐らくその一瞬が彼にとって最高の幸福だった、のだ。

松ケン演じる陽人は、軽度の知的障害者と言うことも出来そうなんだけど、本作の中では決してそうした断定はしない。あくまで「ちょっと変わった、子供のままの青年」であり、祖母は彼に「早く自立して嫁コもらってほしい」と願っている。
つまり、彼に訪れる時間がちょっと遅いだけで、普通に生きている人間だという立ち位置なんだよね。
それでも彼と祖母以外の大人たちは、やはりそういう目では見ていなかったに違いないんだけれど、彼はこの地域の歯車の中に収まっていたし、表立って取り沙汰されることもなかった。

しかし、東京から赴任してきた幼稚園の先生、町子先生の存在が一気にその状況を変える。異質の存在が入ってきたということもそうなんだけど、陽人が彼女に恋をしてしまったことが決定的だった。
町子先生には両思いの恋人がいると言う。しかしその恋人が死んでしまっていることを知ると、陽人は彼女と両思いになりたいと願う。
両思い、という価値感がなんとも幼くて、彼自身の愛情の示し方も、ただただ彼女の仕事終わりを待ち構えている、というストレートさで、とてもとても二人の恋愛が成就することなどないと思われたんだけど……。

だけどさ、結局、二人の恋愛は、最終的には成就したんだろうか?
なんたって町子先生は、死んでしまった恋人に気持ちを引きずられたままな訳だし、それにこの「ウルトラミラクラブストーリー」というタイトルは、やりすぎなぐらい純愛モノをカクレミノにしていて、やりすぎだから逆に確信犯的に、そうじゃないんだということを示唆しているようにも思えて、だからかなり皮肉なように思えたんだよね。

そもそも町子先生が、生まれ育った東京を離れて、何の知己も縁もない青森に来たのは、死んだ恋人の魂の行方を知りたくて、だった。
即座に恐山のイタコを思い出してしまうけれど、彼女が頼ったのは、この町のカミサマと呼ばれる、まあ客観的に言ってしまえば宗教的カウンセラーに過ぎないオバチャン。
交通事故で恋人が死んだ時、助手席に自分の知らない女を乗せていた彼が、自分のことをどう考えていたか知りたい、という町子先生に、襖の奥から覗き見していた教え子の幼稚園生たちが、「イタコじゃないのに」と痛烈なツッコミを入れる。
つまり町子先生は、青森にいるそういうオバチャンはイタコと同じに考えていたようなふしがあって、彼女がこの土地に対する思い入れがないことがここでハッキリするのだ。

町子先生にとっては日本のどんづまりの片田舎、なのかもしれないけれど、ここで起こっている、農業というジャンルの中の“最先端”は、まさに世紀末である。
彼女がこの地を踏んだその日から、その事態に遭遇していた。明らかにヨソモノの彼女に「そんなところ歩いていたら危ない、農薬を巻く日だから」(勿論津軽弁。正確に記す自信がないから……)と道行くオバチャンが声をかけた。
思いもかけないことを言われた彼女がバラバラという騒音に顔をあげると、のどかな田園風景に似つかわしくない戦闘モードのヘリコプターが、農薬散布の真っ最中だったのだ。

一方、陽人は自宅の畑で無農薬野菜を育てている。
しかし、片っ端から青虫に食われて穴だらけになるキャベツに、彼はイラ立っている。と、いうことは、彼と祖母が無農薬をウリにトラックで行商している野菜は、実は完全に無農薬ではない、のだろう。
祖母は「お前が食べる分だけ」はと、どんなに彼が訴えても農薬を渡そうとしてくれない。陽人はいつも、亡くなった祖父が残してくれた、津軽弁バリバリの栽培解説のカセットテープを聞きながら野菜の世話にいそしんでいるんだけれど、イライラはかなり限界に達しているんである。

そんな中、町子先生が現われる。陽人はいつの時点から、穴のあいたキャベツを自分に重ね合わせていたんだろう。
いつものイタズラ心から、子供に手伝わせて他人のキャベツ畑に埋まって、更に農薬まで散布させた彼は、掘り出されてからまるで別人のようになった。ありていに言えば、「普通」になったのだ。
町子先生も「陽人さんと、こんな風に普通に喋れると思っていなかった」と正直な気持ちを吐露し、「前のワと今のワ、どっちがいい?」と聞かれて、更に正直に「今……かな」と言ってしまう。
これが決定打だった。彼は“穴のあいてないキャベツ”になることを心に決めるのだ。

農薬が使われていると判っていても、穴のあいていないキャベツをヘイキで食べる人間が、農薬が使われていない本来の姿の陽人を冷ややかに見、農薬を浴びて「普通」になった陽人を「こっちの方がいい」と受け入れるのは、確かに同様のことではあるんだけど……ていうか、こんな極端な例を出されなければ、キレイなキャベツを選んでしまうおかしさに気付かないこと自体が、異常なのだ、ということなんだろうと思う。
それは、ストレートに言ってしまえばこんな泥臭いことはないんだけど、ていうか、判りきっているのに気付かないフリをしてることぐらい判ってるよ、みたいなヒネくれた現代社会ってな訳なんだけど、それを予想外の飛躍的なやり方で提示してきたことに驚いたのだ。
でもそれは、言うほど予想外というわけではない……というか、それこそ判っているのに判っていない部分だったのかもしれない。

農薬野菜を食べ続けていれば、私たちは健康のままではいられないし、その間違った遺伝子を受け継ぎ続けていれば、陽人のように「生きながら死んでいる」いや、「死にながら生きている」状態になってしまうかもしれない。
いやもはや、私たちはその状態にあるのかもしれない。陽人は純粋に生きてきたから、それを目に見える形でしか提示できなかったのかもしれない。

いや……陽人を“純粋”だと定義することこそ、ワナにはまっているのだ。これがベタベタなタイトルで欺いているように、陽人が“純粋”で“ピュアな心の持ち主”で、まっすぐに町子先生に恋心をぶつけるストーリーなのだと見せかけながら、決してそうではない、と思う。
むしろ陽人の心も行動もむしろこれこそがフツーであり、重要なのは、彼が農薬を浴びて“社会的な普通”になったことであり、それを町子先生が肯定してしまったことなのだ。
いや、彼女も、彼が農薬を浴びたことでそうなったこと、その“普通”を彼女が肯定してしまったことで彼がこんな状態に陥ってしまったことを思い知り、彼が生き返って後、まるで女房のように(いや、実際そうなったのかもしれない)彼のそばにい続け、面倒を見るようになる。

正直、この展開ってちょっと唐突な感じもして、ええ?町子先生は死んでしまった恋人を思い続けていたんじゃなかったの!と思ってしまう節もあるんだけど……。
ただ、生き返ってきた陽人と、町子先生の死んでしまった恋人、かなめとは不思議な邂逅をするんだよね。
陽人はある日、首のない男が往来を歩いているのに遭遇する。町子先生の恋人が死亡事故に遭った時、首が飛んでしまってそれがいまだに見つからないと聞いていた陽人は、彼こそがかなめではないかと呼びかけてみたら、果たしてそうだったんである。
二人はまるで、長年の友人のように親しく語り合う。陽人は町子先生への思いを無邪気に吐露する。静かにそれを聞いているかなめは、どこへともなく去っていった。その歳に、陽人は彼の靴をねだって、ゲットしたんである。
町子先生は、生き返った陽人が見覚えのある……つまりは死んだ恋人の靴を履いているのを目にして驚くんだよね。

陽人はいつも、その日やること、その日起こった事をホワイトボードに記していた。そこに、「かなめと会った」ことも記されていた。
ホワイトボードということは、一日一日消される訳で、それはなんとも、切ないというか、それ以上に、一日一日の人生だという壮絶さがある。
それを陽人は、うすうす判っていたんじゃないかと思うのだ。
私、最初は陽人が、記憶障害なのかと思ったんだよね。なんか事故とかにあって、近々の記憶が覚えられないから、ホワイトボードに書くのかと思っていたのだ。
でも、彼は恐らく生まれた時からそうで……本当に死んでしまって、その脳みそが彼の望みどおり町子先生に手渡された時、祖母は「やっぱり普通の人より小さめだったみたい」と言った。

陽人は、穴だらけのキャベツだったのだろう。青虫が食ってくれるほどの、美味しいキャベツってことなんだよね。
町子先生に好かれたい一心で、祖母が用意してくれた結婚資金に手をつけて、役所に勤める友人(?)から農薬を手に入れる陽人。
この友人はベタに都会への夢を持って劇団に入るために上京しようとしてて、なのに陽人に対して見下した態度を崩さないんだよね。
それは陽人が……ちょっとアタマがヨワい感じなのを嗅ぎとっているのもそうだけど、愚直に無農薬農業を続けている彼に「とにかく青虫に効くヤツを」と農薬を所望されて「農薬はいくつか組みあわさなければ、耐性が出来てしまって効かないんだ。五年もやっててそんなことも知らないのか」と明らかにバカにした態度をとる。
現場に出ていた訳でもないくせに、農薬ありきの農業こそが常識だ、それがプロだみたいなコイツの態度には本当にヘドがでるけど、それこそ私たちは、その“プロ”の作った野菜を食べ続け、遺伝子を弱らせ続けているのだ……。

えふりこき、見得、憧憬と嫉妬、弱者への尊大さ、その判ったような態度の見苦しさ、……それが都会ではなく、その都会人が浅はかな癒しを求めに行く地方でこそ、濃厚に存在することを強烈に示している。
だけど「ウルトラミラクルラブストーリー」なんだよね。あくまで見え方は、純粋な奇蹟のような純愛物語。それもまたそれなりに、というか、かなり高濃度に成立しているあたりは凄い。
松ケンの奇跡的なピュアさも勿論だけど、頭のない死人として奇跡の登場をする、かなめ役のARATAの声の静謐さも大きな存在感を示す。ARATAは何たって声でヤラれる役者だから、このキャスティングはドンピシャすぎる。
勿論CGで、一見「恋する幼虫」じゃんとか思って、そんなギャグ的シュールさに陥りそうになりながらも、この非現実的なシーンは、妙にじーんと心に残るんだよね……。

ラストが凄い。「身体は解剖に役立ててもいいけど、脳みそだけは町子先生にあげたい」という遺言の元に、「やっぱり小さめだったみたい」と祖母から託されたホルマリン漬けの脳みそを携えて、幼稚園の子供たちとピクニックに出かける町子先生。
こともあろうに、この脳みそを使ってハンカチ落としならぬ脳みそ落としごっこをした後、ふとした物音がする。町子先生、なんとビンのフタをきゅきゅっとあけて、中の脳みそをつかんで投げつけるんである!
その先には、一頭の熊。そんな大きくなくて、小熊のように見えたなあ。彼?は投げつけられて目の前に落ちた脳みそをおもむろに食べ始める。!!!しかもそれを見つめる町子先生が、かすかに口元に笑みを浮かべる!!!
衝撃なラストだけど……でも、農薬にホンロウされ、青虫に食われるほどに美味しいキャベツを作りながらも、まさにそんなキャベツそのものな陽人だった彼の“小さな”脳みそが、植物連鎖という美しい営みに収斂されていったと考えれば、これ以上美しいラストはないのかもしれない。

なんたってネイティブ言語を聞かせてくれる松ケンに興奮しきりだった。正確に言えば松ケンのネイティブは彼曰く“下北弁”であり、津軽弁ではないんだろうけど、もう、ドキドキした。
私はね、中学時代、転校した未知の土地であった青森の、あの時の衝撃のカルチャーショックが人生の恐らくナンバーワンの出来事で、半ばトラウマのように(笑)青森に引きずられているもんだからさあ。もう、青森ってだけで、刷り込みみたいに萎え萎えになっちゃうんである。

いや、それでなくても、青森って、予想もしない才能が現われるところだって思う。それでなくたって、というか、住んでたほんの3年弱で、それだけの強烈な印象が植え付けられたんだけれども。
本作の予告の惹句「“どんだんず”ロードショー」には、ああ、どんだんず、って、凄い初期に覚えた津軽弁だったなあ、って。本作の中で一番多用されていると思われる“まいね”も、同時期に青森の大スター、太宰に超傾倒したこともあって(「ダス・ゲマイネ」ね)、すんごい、グッときちゃう。
つまりはね、私もまたヨソモンとして、青森に対してミーハー的な思いが強くて……大体、青森、って大きく捉えちゃうあたりがヨソモンだしさ。だからネイティブ青森の監督や松ケンに、それだけでひれ伏しちゃう気持ちがあるんだよなあ。

新井浩文がちょっとだけネイティブ津軽弁を映画で披露した時、そのとんがったクールさにゾクゾクしたけど、松ケンのそれは、同じネイティブでもちょっと違う……というか、松ケンの方が、私の短い青森生活の記憶の津軽弁には近いような気がした。
あくまでヨソモンの視点なんであまり突っ込まないでほしいんだけど(爆)津軽弁って、一般的な津軽人?寡黙なだけに発せられる時にはキツイ響きに聞こえるんどけど、逆にオシャベリな津軽人はテンションが高くなるとトーンも高くなって、なんかね、松ケンの津軽弁を聞いていたら、青森にいた中学時代熱心に聞いてた伊奈かっぺいみたい、なんて思っちゃった、のは、的外れかなあ(爆)。
でもね、津軽弁って(あくまでヨソモンの耳で聞く限り)テンションが高くなると、ちょっとつぶしたような高くて明るい発音になって、それが劇中の松ケンの津軽弁は、ホントそんな感じだった。

本作で一番素晴らしく、というか、驚くほどスゴかったのは、子供たち。一体どうやってあんなにナチュラルな演技をさせたの!
ネイティブ津軽弁は勿論だけど、その津軽弁を使って町子先生歓迎会で見せるコンビ漫才の巧みさにも腰抜かしそうになったし、何より明らかに台詞と思われる「(親が来るまで)大丈夫だから、町子先生、帰っていいよ」という、メッチャ用意された台詞を信じられないほどのナチュラルさで、絶妙の間で、ホントにワは先生を心配してるんジャという慎ましやかさでつぶやく男の子、いや、彼だけじゃなく、そういう場面は何度となくあって、一体どうやって演出したの!と衝撃。
松ケン演じる陽人にもホンットになついている感じが超絶リアルで、その一発だけで普段の陽人こそが“普通”であることをキッパリと示しているんだよね。子供たちが、とにかく素晴らしかったなあ。

思えば、陽人って、両親の影が全くなかったのよね。祖母と、野菜の育て方を教えてくれた祖父の記憶だけ。両親の存在に触れないのが、なんか凄く、皮肉な感じがしたなあ。

この監督は、ひょっとしたら今後も好きにはなれないのかもしれない、理解出来ないと思い続けるのかもしれないけど……でもきっと、それが悔しくて、必死に追い続けていくんだろうと思う。★★★☆☆


トップに戻る