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「ひ」


2011年鑑賞作品

Peace
2010年 75分 日本=アメリカ=韓国 カラー
監督:想田和弘 脚本:
撮影:想田和弘 音楽:
出演:柏木寿夫 柏木廣子 橋本至郎


2011/7/26/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
宣材写真の、オジサンが猫を抱いてる写真一発で足を運んでしまったが、とおんでもなかった。そうか、これって想田監督の作品だったのか。
「選挙」「精神」の“観察映画”でぶっ飛んだ気鋭のドキュメンタリー作家。しかしてなぜこれが“番外編”なのだろう。こんなどストレートの“観察映画”もなかろうに。身内だからなのだろうか……。

最初はそのスタイルが「「A」」の森監督に似ているような気もしたけれど、その“観察”っぷりはもっともっと徹底している。
本当に、ただ映し、口を挟まず、彼らが口を開くように誘導さえしない。つまり、「精神」にあったようなちょっとしたインタビュー映像もない。いや、ちょっとそれを思わせる場面もあるけれど、監督からそれを引き出す行為はない。

かといって、監督がここで喋って欲しいと思う場所では彼らは喋ってくれない。確かにそれは観ていても、ここでひとことあったならば、と思った場面だった。でもそこで彼らが何も言わなかったからこそ、意味は大きくなった。それこそが“観察映画”の醍醐味。

それに関してはどういう場面か説明しないと判らないんでここでちょいとフライングすると、ボランティア同然の福祉事業をやっている柏木夫妻の奥さんの方が、お世話をしにいく老人の元に車を走らせている時に、ちょうど民主の政権交代が実現しそうという時であり、立候補者たちがはりきって演説してる。
つまり、福祉に手厚い社会にすると、饒舌に語ってる。でも今までもこれからも、実際の現場に実感するほどの“手厚さ”など到底届かないのがこの日本の国の政治なのだ。
それに対して彼女が何もコメントしないからこそ、空回りしているばかりに聞こえる饒舌な選挙演説が皮肉たっぷりに聞こえるんである。

……とまあ、フライングしてしまったけれど。まず舞台設定。取材するのは監督の義理の両親。つまり、細君のご両親ということらしい。
劇中、奥さんの方が「ソウダさん」と呼びかけるのが、後からそうした関係を知るとちょっと距離がありそうでなさそうな感じがなかなかに絶妙なんである。

夫の方の柏木氏は養護学校を定年退職した後、福祉車両を経営しだす。高齢者や身障者を目的地まで運ぶための事業。
奥さんの方は、同じく高齢者や身障者の元へヘルパーを派遣するNGOを運営。
二人の事業は時に連携しあい、利用者の信頼を得ているが、その内実は苦しい。有料サービスとはいえ、国からの補助もなく、ボランティア同然どころか、常に赤字必至という状態である。

日本はこういう働きを美徳と持ち上げ、ほめそやすけれど、彼らの行為を事業として成り立つように助けようとはしない。つまり、美徳だから素晴らしいんだと、拍手して、オワリである。
それが、一般社会のみならず、政治の世界にさえ、ある。だからあの選挙演説が空虚なんである。
大体、ボランティアを自己責任だと言うような体質の国なんだから何をかいわんやである。いや、その論点に踏み込むとヤバいんでやめとく……(弱気)。

とにかく、彼らの日常が提示されるのね。それはなかなかに興味深く、柏木氏が足の不自由な、やたらおしゃべりな男性と「裏にイボイボがあるごつい靴」を買いに行く。
安売りの靴流通センターでやたらこだわりぬく描写もなんとも可笑しいのだが、メインの目的は、回転寿司に行って一緒に寿司を食べることであり、そのためだけに車を出すというくだりなぞ、こうした事業の必要性や可能性をしみじみと感じるんである。

もちろん、もっと現実的な、施設や病院への送り迎えという側面があってのことね。
そこで柏木氏が利用者に請求する金額さえ赤裸々に表示され、へえそんなに取られるの……などと無知なこちらはビックリするが、つまり健康真っ只中の私らの方が国の補助やらにやたら助けられて生きていることが逆に判るんである。
何千円という利用料を取っても利用者は感謝し、柏木夫妻は赤字であるんである。

一人、とても印象的な利用者がいる。これは、柏木夫人の方のカテゴリ。日々のお世話はもちろん、生活保護の受け取りなどの手続きも手助けする橋本さんと呼ばれるそのおじいちゃんは、見た目はとてもダンディ。
病院やらに出かけるために表に出てくる時はきちんとネクタイをしめて、キレイな白髪もステキである。
しかし柏木夫人が彼の家を訪ねる時は、彼女は周到に虫除けスプレーを身体中に撒いて出かけるんである。そうしないとダニにかまれまくってタイヘンだと。
いやそうしてもなお、帰った後にはカユカユ状態なんである。せっけんはねずみに食われまくっているし、壮絶である。

ただ、画面からはそうした“見えない”部分はあまり判らない。確かに寝場所にずっといるような生活、寝床と台所が示されるだけでも、この路地の奥のうち捨てられたような小さな長屋がいかに狭いか判るし、そりゃあダニもネズミもいるだろうと思い、それを思うと柏木夫妻の、庭付きの家など豪邸に見えたりもして、この一地方都市にもハッキリと見える格差を思ったりする。
それでも柏木夫妻も赤字経営にあえぎ、ボランティアだと割り切れない思いも抱え、それでもやり続けているのは「惰性ですな」と笑う。そんな筈ないのに……。

この橋本さん、ね。そう、ダンディなのよ。病院の看護婦さんたちに人気があるのは、決して誇張ではないと思う。にこにこしてて、猫のネクタイなんかしてオシャレで、控えめな橋本さんが看護婦さんたち、つまり女子たちに人気があるの、すごく判る。
でも彼はつまり、それだけムリしているのよ。いや、そのムリは、彼がやりたくてやっているムリ。そのことで、この社会に生きているんだという実感を得たいがためにやっているムリ。
だからこそしんどくてもちゃんとネクタイしめてオシャレして病院に出かけ、本当はもっとしんどい筈なのにお医者さんにも笑顔を見せる。
それでも判ってるの、お医者さんも。ヘルパーさんとも連携して、普段の橋本さんの様子も報告を受けてる。

それは、ヘルパーさんを派遣する立場である柏木夫人での場面ではなかなか推し量ることが出来ないんだけれど、それでもその片鱗はある。
ある時、ドアを叩いても出てこない。新聞もたまっている。すわ、と緊張が走る。しかし、声が聞こえてきてホッとする。
彼はしどけない姿で出てくるのを嫌がるそぶりを、そうとハッキリは言わないけれど、大丈夫だから、としきりに口にすることでそうと推し量れる。

想田監督のカメラが入っているということもあるだろうけれど、彼は、そんなことしなくていいのに、きちんとワイシャツに着替えネクタイをしめ出すのね。でも下は痛々しいぐらい細い足を包むステテコ一枚のまま。
心配されてもタバコだけは楽しみだからと欠かさないのを、そりゃあ止められる訳ない。
そして彼が吸ってるのが、恐らくこの映画のタイトルにもつながったであろう、「peace」であり、彼の人生にずっとずっと、寄り添い続けているのだろうと思う。誰よりも、ずっと。
そのたばこの名前と、戦後の幸せを願ったであろう由来を思うと感慨深いが、そこまで言うのはうがちすぎと言うものか。

ここは、ホスピスなんだと柏木夫人は言った。ホスピスという知識があんまりなくって、病院ではなく、なんか快適な施設みたいなところで穏やかに余生を暮らす、みたいな、なんかお金かかりそうなイメージしかなかったから、ここがホスピスなんだと聞いて驚いた。
ここが、というより、彼にとってのホスピス治療がここでなんだと、それが本来のホスピスなんだということなんだと、そんなことも私は判ってなかったんだと思った。
ダニやネズミが満載でも、長年住み慣れてきたここが、彼の安住の、最期までの場所なのだと。

もう長生きというぐらいのお年で、身内もいなくって、ガンで余命を告げられてても、ていうか、このお年で余命を告げても大丈夫、告げてなお、その後の生き方を選択できるほどにしっかりと生きている橋本さんにスゲー!と思うし、そのサポートを受ける体制をちゃんと享受しているのもスゲー!と思う。
でもこれをスゲー!ということがちゃんと外の世界に発信されているのだろうか、とも思う。一見するだけならば、ネズミとダニの中で最後の生活を終えるカワイソウなおじいちゃんに見えるのかもしれない、とも思う。
でも病院でベッドに縛られて最期を迎えるより、どんなにか、幸せだろう。

でもそう思ったのはね、観終わって色々考えてから。実際観ている時には、橋本さんが、生きてることで迷惑かけてる、早く往生しなければと、口癖のように言っているのが辛かった。
それも、笑顔で言うのよ。早く死ななきゃあ、って。なんでそんなこと言うのと思いつつ、高齢で、余命も告げられてしゃんとしている彼に返す言葉もなくてさ。

……思いがけなかったのは、監督にとっても、彼をケアしている柏木夫人にとってもだと思うんだけど、橋本さんが戦争体験を語りだしたこと。それまでそんなこと、いっぺんも口にしたことがなかったという。
それこそ、これは“観察映画”。そんなことを促すことも、しなかった。

まるで突然、橋本さんは語りだした。世間一般に“赤紙”と呼ばれていた通知が、一銭五厘と呼ばれていたこと。それははがきの料金で、当時召集された男一人がそれだけの、紙一枚の価値として語られていたこと。
生きて帰ってきたからお母さんは喜んだでしょう、と言う柏木夫人に、死ぬことが誇りだったから、そういう教育だったから、と橋本さんはいつものにこやかな表情のまま語る。繰り返し、繰り返し。

彼の語る“死ぬことが誇りだった。だから生き残ったことは……”という表現は、確かに今までだっていくらでも聞いたことはあるのだ。
でも、こうして、当事者から、今まで口を閉ざしていた当事者から聞かされると、そしてそれが、今橋本さんが何度も言う「生きていることで迷惑がかかる。早く往生せな」とこれまた笑顔で言う言葉につながっているかと思うと、ただ示される単純な描写や表現に慣れきってしまった自分たちの愚かさに悄然とするしか、ないんである。

私が心惹かれてしまった一枚の宣材写真、柏木氏が猫を抱いている写真もまた、本作品の大きなファクターである。
柏木氏が猫を飼っている訳ではなく、いや半分は飼っていると言っていいだろうな。いわば半ノラ状態、彼が餌付けしている野良猫さんたちが、柏木家の庭に常駐してる訳なんである。
私ゃあ映画で猫を見るたびに、ウチの子がやっぱり一番カワイイ♪などとつまらぬ張り合いをするのが常であるが、確かにここの猫たちは、猫としての可愛らしさでいえばそうでもなく(爆)。
つまり、ここの猫たちは猫としての可愛いさで己を競うなどというところから遠く離れていて、今生きることにただただ一生懸命であり、それはそんな言い立てることもなく、生きとし生けるものとして、当然の、“普通”のことなんだよね。

目やにもべったりだし、前足の片方が完全につぶれてしまって歩行困難な猫もいて、いわゆる“可愛い猫”を期待しているこっちとしては、痛々しさに思わず目をおおってしまう。でも彼らは割とヘイキな顔をして闊歩している。
泥棒猫、と呼ばれる手足も真っ黒に汚れた白黒猫が、最初は他猫にシャーシャー威嚇されながら庭の隅で食らっていたのが、いつの間にか大きな顔して仲間に入ってきたりするのを見詰め続けるカメラが楽しい。
柏木氏は、二十数年猫にエサを与え続けているけれど、常にいるのは5、6匹だと言う。ある程度大人になると、不思議と姿を消すのだと。若い者に後を譲るのだと。その後いなくなった猫たちがどこにいったのか判らないというんである。

……なにかそれは、いや確実に、あの橋本さんを思わせてしまってね。狭い路地でひっそりと暮らす彼は、自分の先行きを悟って姿を消す猫たちにどうしても重なってしまう。
橋本さんが最初に登場した時、カメラを持った想田監督に気をつかってか、大通りまで見送りに出てきてくれた。そんな橋本さんを心配して、ちゃんと家に戻ってるかどうか、柏木夫人がそっと確かめに戻ったりしてた場面も凄く心に残る。

柏木夫人はね、夫が野良猫に節操なく餌付けをするのをひどく嫌ってる。確かに彼女の言い分を聞いてみればそれは凄く納得できる。食べ残しのえさにハエもたかるし、ご近所さんからの苦情を引き受けるのは自分なんだ、と。
そういうところが夫の大ッ嫌いなところだと、「大ッ嫌い」と非常に強調して彼女は繰り返し、それを柏木氏は聞こえないフリをする。
想田監督が笑って水を向けると、柏木氏は「この件に関してはノーコメント」
見てる限り、あのエサのやり方や、食べ残しや空き缶を放置したりすれば柏木夫人がイラッと来る状態になっているであろうことは目に見えているし、男の人だからそういうところ無頓着そうだし……判るんだよね、彼女の言うこと、凄く。

ただ、あまりに猫のくだりが魅力的なもんでさ……。彼らは柏木氏をすっかり信頼して腹を見せてじゃれたりするし、柏木氏は腎臓を患った猫を病院に連れて行ったりもするし……正直、あんな高そうな猫缶(いや私はトップバリュの安いやつ使ってるから(爆))と牛乳だけをあげ続けてたら、腎臓も悪くなるって……カリカリもやんないとー、て余計なお世話か……。
でも、この動物病院の描写もいいんだよなあ。そこで自由自在に闊歩している猫は、とても人懐こくて、でも片目が完全になかったりするの。えぐれとれててね……。
でも、野良猫さんたちと同じように平気な顔して、人間たちをなぜだか信頼してくれて、すりすり通り過ぎる。なんか凄くそれが、救いに思えたんだ……。

何の解決も与えられる訳ではないんだ。やはり、と思ったけど、最後は橋本さんの追悼メッセージで終わったし。
でもね、この作品で何より重要だったのは、彼が映した、街を行きかう人たちの何気ない描写、白杖を持った目の見えない人、車椅子の人、遅々たる歩みの腰の曲がったおばあちゃん。
そんな人たちがね、携帯で話しながら自転車に乗る女子学生とか、ぶんぶん行きかう車とかと、皮肉ではなく、共存していて、それをただただ見詰めているのが、すんごい強烈な印象、だったのだ。

そう、“皮肉ではなく”ってところなの。これが普通の風景なのに、私らの周りにもそれはある筈なのに、見えてないのだ、健常者というカテゴリに安住している私らには。
自分の周りには健常者しかいないってどこかで思ってて、たまに“気づいた”りすると、哀れみの目、ならともかく、時に冷ややか、それなら更にともかく、時に侮蔑の目で見たりする。
この風景が普通なのに、私らが意識的に排除して見ている風景の方がひどく無機質で、異常なのに。★★★★☆


ビー・デビル/  /BEDEVILLED
2010年 115分 韓国 カラー
監督:チャン・チョルス 脚本:チャン・チョルス
撮影:キム・ギテ 音楽:キム・テソン
出演:ソ・ヨンヒ/チ・ソンウォン/パク・チョンハク/ファン・ミノ

2011/4/26/火 劇場(シアターN渋谷)
これ、タイトルだけなら絶対観に行かないなあ。だって、なんかあまりに面白くなさそうなタイトルじゃない?いやいやいや……私は多分にタイトル買いのケはあるが、これって原題……じゃないね。海外マーケット向けにつけられたタイトルか。
原題「キム・ボンナム殺人事件の顛末」の方がヒネリがあっていい気がするけど。それに何、このオフィシャルサイトのテキトーさ。チラシを乗っけてるだけではないか!久しぶりにこんなやる気のない配給元見たなあ……。

などとぶつぶつ言ってしまったのは、これが傑作だったからに他ならない。なぜ足を運んだかって、そりゃああのキム・ギドクの元で修行を積んだ監督さんだと聞きゃあ、観に行かない訳にはいかんべさ。まあ、ちょうどいい時間だったこともあるけど(爆)。
ひょっとしてキャストのこともちゃんと知っていれば、ますます積極的に足を運んだかもしれない。あの「チェイサー」で無残に殺される可憐な女性を演じた彼女が!
本作のヒロインに関してはあまたの有名女優が恐れをなして断わったという逸話がついていて、まあそれはあくまで作品にハクをつけるための話かもしれず、実際どこまでホントかは判らんが、「チェイサー」といい本作といい、まあ彼女はようまあやるわ!といった感じ。

猟奇的、スプラッター、ザクザク度、血みどろ具合でいけば、それこそ「チェイサー」といい勝負だが、あの殺人鬼がまさに血も涙もない冷血さこそがコワかったのに比して、本作はドロドロの感情が血よりもあふれ出ていて、その点、ほんっとうに対照的である。
実はね、同時期公開の「悪魔を見た」がスプラッター度や恐ろしい殺人鬼という感じがカブっているという向きもあって、ちょっとそっちも気になるのだが、うーむ、私はどーにもビョンホンさんの顔が苦手で(爆)観に行くかどうかは微妙なトコロである。
筋自体を読んで見ればカブってる感じはしないけどなあ、どうなんだろう。

でもさ、ひょっとしてひょっとしたら本作は、話自体は単純なのかもしれない、と思った。まるで流刑島のように逃げられない島で、奴隷のように、売女のように、いやほとんど犬畜生以下のように、いやそんなことを言ったら、犬畜生さんが怒るかも、というぐらい、人間扱いどころか、命ある者の扱いすら受けていないようなヒロインが、ガマンにガマンを重ねて、限界をはるかに突破したところで、その島の人間を惨殺しまくる、という話。
と、単純に言ってしまえばそれだけの話、と言えるかもしれない。めっちゃ単純に言っちゃったな、と思いつつも、でもその中に、そんな風に、彼女への同情を禁じえない形容詞を入れずにはいられないほどの惨憺たる描写が次々と現われる。

ダンナに蹴られ殴られ、義弟に犯され、島の老女たちは味方になるどころか、女は何の役にもたたないんだから、と男たちを崇め奉る。とか言いながら、男たちを立てる程度の“力仕事”(屋根に登って漆喰塗ってるだけやんか!)をやらせてほめそやし、実際の力仕事である漆喰を練る作業はボンナムが汗水たらしてやってるんである。

そう、実際に力仕事をしているのはもっぱらボンナムであり、男たちはぐうたらしてるばかりである。いや、正確に言えば、確かに女たちだけが畑仕事にも精を出しているんだけれども、その中でも厳然たる上下関係、いやもはやこれは上下関係ではない、お局と言うにも残酷すぎる、イジメというには軽すぎるほど、ボンナムは使い倒され、義弟には犯され、ダンナは島の外から娼婦を呼んでバコバコやりまくり、もう、もう、見てられないんである。
単純かも、と言いながらかなり思い入れたっぷりに語っちゃったけど(爆)。

私ね、最初、この孤島の悲惨さに、ふと「裸の島」を思い出したんだよね。あれも確かに悲惨な物語ではあった。でも全く別種の悲惨さだった。
彼らは社会から取り残された悲惨さであり、残酷な結果が待っているとはいえ、それでも家族は愛しあっていたし、どうしようもない哀しさを持ちながらも夫婦はこの島でずっと夫婦であり続けるのだろうという救いがあったのかもしれない、と本作を見てしまうとそんなことさえ思ってしまうんである。

そりゃあね、本作の島だって社会から取り残されてはいるよ。でも取り残されてるのは、ボンナムだけ、なんだよね。
男たちは島で作った蜂蜜やらなんやらを売りに本土に出て行けるし、女たちは残されているとはいうものの、ボンナムは自由に使えない電話を持っているし、やっぱり全然違うんだもの。ボンナムには信頼出来る人が一人もいないんだもの。

……ていうか、このまま行ったらまた訳判らなくなるから、最初から行こう。そう、最初はね、ボンナムじゃないのだ。もう一人のヒロインとも言える、ヘウォンである。
銀行の窓口業務をしているヘウォンが、哀れな老女にイラ立って怒鳴り散らしている場面から始まるもんだから、彼女が悪魔になる女なのかな、と思いながら見ている。
融資の相談に来た老女を気の毒がって、後輩の女の子が替わりに相談に乗ってやったもんだからヘウォンは更に激怒、上司に取り入るつもりなのか、みたいな調子でガンをつけ「色気が通用するのは若いうちだけよ」とコワすぎる捨て台詞を吐く。

この後輩の女の子から「さっきはごめんなさい。飲みに行きましょう」とメールが届く。トイレの中でそれを受信したヘウォンは意外にも単純にご満悦になり、「仲直りね、どこ行く?」と返信。
しかしヘウォンはそのままトイレに閉じ込められてしまう。ドアの下の隙間から見えたピンクのサンダルから、その後輩が閉じ込めたのだと早合点したヘウォンは公衆の面前で強烈なビンタをお見舞い。
しかし、その様子を冷ややかに眺めて通り過ぎて行った掃除のオバチャンが同じサンダルをはいていた。てな訳でヘウォンは謹慎の憂き目に遭ってしまうんである。

憂き目かどうかは、ね。この冒頭は全てが終わってしまえばもの凄く象徴的、なんだよね。勿論この後輩に罪はないが、彼女が先輩に脅されてすぐにとりなしのメールを送ったあたりは、社内でも取り扱いの難しいキャリア女史だと見られているのを感じるし。
あの掃除のオバチャンの視線も何か……モップがドアをふさいだのは偶然ではなく、ホントに掃除のオバチャンがワザとヘウォンにイヤガラセをしたんじゃないかと思っちゃう、のは、そう、全てを見終わるとなんか、そう、感じるんだよね。
確かにこのヘウォンは都会的な美女。でも、かなり卑怯な女なのだ。ただ彼女の卑怯さは、私らも覚えのある卑怯さなだけに、そこら辺が、本作が一筋縄では行かないところであり……。

つまりね、ヘウォンは、自分に都合の悪いことには、目をつぶるのだ。見ないふりをする。
本作はね、傍観者に対しても鉄槌を下す。ボンナムが島の老女たちを真っ先に殺したのはそれが理由である。でもね、ヘウォンはそれ以上に卑怯なんだよね。
傍観以上に卑怯なこと、それは、ばっつり見ているのに、見ていないフリをすることなのだ。それも、しれりと、本当に見てなかったのよ、と、いう顔をして。
でもそれこそ、傍観者であること以上に、私らがやってることでさ、本作がスプラッターの残酷さ以上に怖いのは、ここんところなんだよね……。

だってさ、それこそ、スプラッターという点だけで言えば、いいのか悪いのか、日本の、いわゆるB級と言われている(いい意味でね)映画は全然、負けてない。
でも、やっぱり負けちゃうのは……少なくとも今の日本のスプラッタームービーに、その中でどっぷり感情ドラマを入れ込む勇気がないからじゃないかと思われる。
私の見た限りなだけだけど、割とコミカルだったり、スプラッター描写だけに職人的に邁進したり、って感じ、なんだもん。

本作に何より打たれたのは、ボンナムが島の人間を、生まれた時から一緒に生きてきた、育ってきた、彼女に関わった人間たち、つまり彼女のアイデンティティそのものである人間たちを、極限のスプラッター描写で殺戮すること、なんだよね。
そうした前提がなければ、実はスプラッター映画なんていくらでも残酷に作れる……いや、この言い方は、ヘンだな、本作が何より残酷なのは、そうした前提があるからこそ、なんだもの。
いくら内臓をぐちゃぐちゃにし、脳みそをでろでろにしたって、殺人者がそうしたいという強烈な意志がなきゃ、意味がないんだよね。だから、今の日本のスプラッタームービーは負けてしまうのだ。

で、まあ、ちょっと脱線してしまったが、ヘウォンは謹慎を言い渡されて、生まれ故郷の島に帰ろうと思い立つ。
その前に、管理人からたまった郵便物を届けられるシーンがあって、これは大いなる伏線、なんだよね。黙ってられないから言っちゃうけど(爆。だからオチバレが回避できないのだ)、その中には、これまでにも幾度も届いていたであろうボンナムからの手紙があって、それはきっと血を吐くような手紙で、だけどいつでも「愛するヘウォン」と綴られているのだ。
これもこれもかなり大いなる伏線。いや、このボンナムの感情が、本当に愛情だったのか、友情だったのか、愛情か友情にすがりたかったのか判りかねるほどに、そう、判りかねるほどにあまりに悲惨な現状だったから……。
でも、そう、ヘウォンは今まで、彼女からの手紙を読みもせずに捨てていたに違いないんである。

で、また脱線しそうになったな、めっちゃこの先言いたいけど、ガマンして軌道修正する(爆)。
で、ヘウォンは島に向かう。幼なじみのボンナムは嬉しそうに、もうほんっとうに嬉しそうに彼女を出迎える。ヘウォンね、ヘウォンだよね、と。
いかにも都会の女らしく真っ白な肌に清楚な白いワンピース、華奢なサンダルをはいたヘウォンと、真っ黒に日焼けしてニッカリと笑う歯だけが白く、その辺にあるのを着ました、みたいな、常に野良作業状態のボンナムは、並んで見ているのも辛くなるぐらい、あまりにも違っていた。

でもね、それは、今こうして境遇が違うからと、思っていたのだ。見ている方はね。
だってヘウォンだってボンナムに再会して少なからず嬉しそうに見えたし、ボンナムが用意した食事に舌鼓を打ち、一緒の水浴びにはしゃぎ、ボンナムの一人娘とも仲良くなった。
ボンナムが虐げられている状況にも気付いて心配して、忠告だってしたのだ。ヘウォンはボンナムの救いになると、思っていたのに……。

そんなことを単純に信じてしまう私の方が単純だったのか。そうだよね、ヘウォンの冷血さは既に冒頭で示されていたんだもん。
でもさ、ヘウォンが来なければ、ひょっとしたらボンナムはここから逃げようと思わなかったかもしれない。
そりゃあ、死ぬ方がマシぐらいのヒドい目に遭わされ続けて来た。特に愛娘が父親の方を好いていて、マニキュアだのパンツだのでボンナムはまさか、と青くなり、ひょっとして、ひょっとしたら、ヤッチャってるかも、という恐ろしい想像は、観客にも背筋をゾッとさせた。

だってこの娘、まだやっと10歳ぐらいだよ?でも、ボンナムがダンナに蹴り倒され、そのダンナに抱き上げられた娘は、てかそのダンナが娘の尻のあたりをそっと愛撫するように抱く仕草に、ゾオッとしてしまったのだ。まさかまさかまさか、いやきっと、そうなのだ、と。
もうだめだと思ったボンナム、それまではね、夫が昼日中から本土から娼婦を呼んでバッコバッコやってたって、その一枚戸の前でガツガツ昼飯を食らうぐらいの強がりは発揮できたのだ。ていうか、まあそれは、こんなダンナは大っ嫌いだからだろうが……。
逆にこの娼婦から同情され、逃亡の手づるを得たことが、クライマックスの悲劇を引き寄せてしまうのだが。

でね、まあまた脱線しそうになったけど(爆)、もうダメと思ったボンナムはヘウォンに、自分と娘を一緒にソウルに連れて行ってほしい、と頼みに来るんである。
でもヘウォンはさ、ボンナムの娘がダンナにヤラれてるという話を信じず、アンタがソウルに行きたいためにウソついてるんでしょ、とはねつけてしまうんである。

……この場面はね、この場面だけとってみれば、ヘウォンの反応は無理からぬように思うんだけど、でもその後、幼い頃の回想や、先述のボンナムからの手紙を無視し続けた事実が明らかになると、いかにヘウォンが友達を、ボンナムにとっては無論、きっとヘウォンにとってだって……都会に出た彼女だけど、この様子じゃ友達がいるようにはとても思えない……唯一の大切な友達を、斬り捨てた、いやある意味悪魔に売り飛ばしたと言えることをしでかしたことをひしひしと感じるのだ。
ヘウォンにソデにされたボンナムの絶望の表情ときたらなかった。でも本当の悲劇はここから始まるのだ。

ボンナムはもうヘウォンに頼らず、この島を逃げ出そうと決意する。あの時同情してくれた娼婦にツナギをつけたんである。
酔って眠りこけているダンナのズボンのポケットからお金と電話のある戸棚の鍵を盗み出し、決死の思いで連絡をつける。
確かにあの娼婦はなかなか情のある女で、ちゃんと船で迎えに来てくれた。けれども、その船頭は島の息のかかった男で……余裕がなかったから仕方なかったと彼女は言ったけれども、恐らくこういう事態にそなえて、もう男たちの間では密約が出来てたんであろう。
ワザとらしくボンナムの出した金をゆっくりと数える船頭、その間にダンナが追いついてしまう。

あっ、大切なこと言うの忘れた!ボンナムはね、娘を連れて出るのよ。この娘は父親に懐いていたからイヤがるの、それはかなりツラい描写なのだが、でもね、この娘は、意外にも判っていたのだ。
「そうしたら、ママはもう殴られずに済むの?」ならば行く、と娘は言った。
そりゃあ、優しくされるんだもの、どこまでされているのかは判らんが、父親には一番に懐いている娘が、「ママが殴られるのが嫌だから」と言ってついてきてくれる選択を取ってくれたのが、この物語の中で、何より何より、救いであった。

それだけに、卑怯すぎる外堀の固め方をし、「嫁にもらってやったのに!」とボンナムを足蹴にし、彼女を救おうとしてくれた娼婦も暴行のくさむらに連れ込まれ、そして泣き叫ぶ幼い娘も鬼畜のダンナに……。
ボンナムは、娘だけはやめてくれろと狂ったようにダンナにむしゃぶりつく。蹴り倒される。娘がパパやめてとすがりつく。
非情なコイツはその娘を突き飛ばし、石に頭をぶつけて、哀れな娘は死んでしまった!!!

この時点までも充分に残酷だったけど、更に更に残酷すぎる展開はここからでさ。もうさ、もう……。
だってさこのダンナは、やっぱり娘として愛してた訳じゃなかったんだよ。自分の過失で娘が死んでも、しまった、という顔をするばかりだった。
ボンナムはもう見てられないほどの悲嘆に暮れて、この島から逃げる気持ちであったことさえ、忘れてしまうぐらい、呆然自失に陥ってしまった。

そして、警察が来る。この鬼畜なダンナが、なんか先輩後輩同志であるらしいこの警察官に、娘を事故死に見せかけるホラを吹くことぐらいはそんなに驚かなかったけど、村の老女たちが口裏を合わせて、ていうか、合わせる以上にボンナムを悪し様に言い募るのがあまりに見てられなくて。
で、ボンナムが呆然自失の中でダンナを糾弾すると、このダンナ、信じられない、こんな状況で、娘を自分が殺した状況でウソ涙を流して、ボンナムに罪をなすりつけようとしやがるんだよ!
しんっじられない、なにこの男、死ね、死ね、死ね!!!マジで思ったよ、この時……。だからクライマックスではさ……。

おっと。その前に言っとかなきゃ。そう、この物語が怖いのは、死んで当然の人間がいるんだと、人が思ってしまうことこそではないかと、観終わり、こうして書いていて、思うんだよね。
そりゃあ、全ての人間がボンナムに同情するよ。殺せ、殺せ、皆殺してしまえ!と、ザクザク殺していくボンナムに加勢してしまう自分に驚くのだ。
でも、全ての人間を殺す必要はあったのか。ていうか、殺す必要のある人間ってなんだ。そんな判断を愚かな人間である私らが下していいのか。
そもそも、この中で、実は一番許せないのは、傍観するどころか見て見ぬふりをしていたヘウォンかも知れず、でもヘウォンは生き残る。

冒頭、ヘウォンは都会の傷害致死事件を見逃すんだよね。目撃者として召喚されるも、確かな記憶がないから、と辞してしまう。
解放されたチンピラたちは、下卑た笑いで彼女を脅しをかける。まあ……都会でのヘウォンの振る舞いは危ないことには巻き込まれないようにする、という護身術かもしれない、と見えなくもないんだけど、ただ、その後、幼い頃の島での回想が示されると、それが彼女の体質であったんじゃないかとどうしても思っちゃうからさ……。

島でたった二人の女の子。縦笛が上手なヘウォン、お手本を吹いて、ボンナムに差し出す。ボンナムはたどたどしく吹く。
ヘウォンはボンナムから手渡された笛を、その口のところを吹いて吹くからさ、そんなことをしないボンナムに聞くのだ。汚くないのかと。
好意的に受け止めればそれは、私の吹いた後で汚いと思わない?てなとこだろうけど、ヘウォンはボンナムが吹いた後の笛をぬぐって吹くんだもん、逆のことを問うてるんだよね。
この時から、彼女たちの差は歴然だった。同じ島で生まれ育ったのに、どう違ったのか。

ヘウォンの親族はもうここにはいないらしい。どういう状況だったのか判らないけど、最初からヘウォンはこの島から出て行ける雰囲気だった。島にいる時から上品で、お嬢様然としてた。
ボンナムは明らかにドン臭くて、島の男の子たち……つまり、現在のボンナムの鬼畜ダンナや鬼畜義弟たちにからかわれる。
そこからヘウォンは首尾よく逃げ出し、ボンナムが男の子たちに蹴られ殴られ、ぐったりしたところで“検分”されているのを、見ていたのだ。ただ、見ていたのだ……。

この時に、ボンナムが男の子たちにどこまでヤラれたのか、考えたくもない。けれど、彼女の、父親も判らない娘がどこまで……いやいや、考えたくない!
とにかく、とにかく……ヘウォンは見てたんだもの。いや、この子供の時だけじゃないの、ボンナムのいたいけな娘(考えてみれば、この子が一番かわいそうかも……)死んだ場面も、見てたんだもの!!

ヘウォンは、ボンナムがそのことに気づいていたこと、気づいていなかったのかなあ。警察に、ウソを言った。私は寝ていたから、何も見ていなかった、って。
この時点で、観客はそんな事実は知らなかったから、まさか、と。だってボンナムの表情も変わらなかった。
ただ娘の非業の死と、ダンナの変わらぬ非情さ……少なくとも娘に対しては持っていたと思っていた愛情も、セックス相手が一人減ったぐらいにしか思ってないらしいことへの落胆でいっぱいいっぱいで、親友のウラギリにそれほどショックを受けているようには見えなかったのだ……。

だってさあ、こともあろうにヘウォンは、ボンナムをさいなんできた一人である義弟を彼女の刃から救い出して、逃がそうとするんだもん。
……いやいや、まあマトモに考えれば、殺人は良くないさ、あるいは、少しでも罪を軽くするために、一人でも殺さないようにするのはいいのかもしれない。
でもさでもさ、もうこれまで何人殺してるのさ(爆)、いや、人数の問題じゃないけどさ、そらあさ。でも、ボンナムの気持ちを思ったら、ここは殺させてあげるべきでしょ、と思う自分にウワッと思う(爆爆)。

だって、ヘウォンが彼を逃がそうとしたのは、彼が船を操れるから、この島から逃げるため、というのをとっさに判断したからなんだもんさ……。
いや、それ以前に、自分はボンナムに殺されるであろう、と思った、のは、そんな具合に、幼い頃から彼女を見捨て続けてきた、そしてこの肝心な場面でも見捨てたという自覚があったからだろうさ。

この場はね、何とか逃げおおせるのよ。もうシャイニング並みにオッソロシイ追跡劇よ。でもさ、でもさ、ヘウォンがボンナムの苦しみを共有してさえすれば……。
ちょっと、判った風に、同情した風にしたのが、逆にいけなかったよ、よくガマンしてるね、なんて、カンタンに言っちゃってさ。
ここから逃げられないことは、逃げられる立場だったあんたが、それ以来ずっとずっと帰ってこなかったあんたが、一番よく判ってた筈なのにさあ。
ボンナムは義弟を追って飛び込み、引きずりおろし、海面には夥しい血が流れ出す。

そこで、場面が変わるのよ。えっ、と思う。どうなったの、ってドキドキする。本土に島から要請が来る。めんどくさげに本土の船員が腰を上げる。
この凄惨な事件が明るみになるのかと思い、ドキドキする。しかしその本土への往復船に乗ったのはヘウォンの白いワンピースをまとい、ヘタな厚化粧をしたボンナムなのだ。
いくら顔を白く塗っても、腕や足の日焼けしたたくましさは隠せず、船頭から「30年も島から出てなかったのか」と驚かれる。
ボンナムは無事本土に到着し、陸に降りるのに親切に手を貸してくれた船頭に「親切な男もいるのね」とつぶやく、のが、哀しい。

いや、確かに哀しい。だってボンナムは優しい男に出会ったことがなかったんだから。いつもいつも、よだれをたらした足りない義弟にバックから突っ込まれるばかりだったんだから。
でもね、ボンナムはこれまた首尾よく生き延びて上陸したヘウォンを目にする。時を同じくして、島の惨状が明らかになる。
ヘウォンは手錠をかけられ、留置所にブチこまれる。正直ボンナムにとっては、これでハッピーエンドじゃん、などとも思ったのだが……。

あのさ、一番衝撃だったのは、ひょっとしたらボンナムにとっては、鬼畜なダンナや義弟より、それを嘲笑いながら、軽蔑しながら、同じ女なのに味方になってくれなかった島の老女たちの方が、憎悪の対象だったのかもしれない、ってことなんだよね。
殺戮の最初、確かにその時男たちはいなかった。本土へ蜂蜜を売りに出かけてた。それでもさ、驚きだったのだ。手始めという感じじゃなかった。ボンナムが老女たちを手にかけたのは。

そりゃまあ、最終的にはダンナとのバトルが一番凄惨だったわよ。ボンナムの方が危うく殺されそうにもなったしさ。
でも、そのバトルの尺が長いほどに、哀しいけれど、ダンナへの、ある筈もないけどあったかもしれない愛のようなものを、ちらりと、本当にちらりと、感じたようにも思えたからさ……。
ボンナムが真っ先にマサカリを振り下ろした老女たちは、確かに彼女をこき使い、侮蔑し、嘲笑したけれども、実際に手をあげた訳でも、娘を犯した訳でもなかった。でも、それこそが、同じ女だから許せなかったんだよね。

だってあの場面、サイアクだったもん。同じ女なら、母親なら、絶対に許せないことを、男だから、大事な男だからという理由だけで、隠匿し、替わりに同じ女のボンナムを犠牲に立てる。
てか、ボンナムはもう、子供の頃から、ひょっとしたら生まれた時から、犠牲だったのだ。まず女で、どこのタネか判らなくて、美人じゃなくて、そんな、あまりに即物的な、条件で。

もうここまでくるとさ、最終的なボンナムとヘウォンのバトルもどーでも良くなっちゃう気がする。
留置所に入れられたヘウォンを、彼女が島に訪れた時のワンピースを身にまとい、ハデなメイクでナタだの何だので襲い掛かるボンナムは確かに恐ろしいけど、でも、哀しい、哀しいんだよな。
幼い頃の記憶。ほんの短い回想。あの縦笛は、島の悪しきマッチョ文化に冒された男の子たちによってぶち折られた。

それでもボンナムは大事に大事に、持っていたのだ。でもそれがあだになった。ヘウォンはその切っ先を、襲い掛かったボンナムの頚動脈にぶち込んだ。
ボンナムは……このあたりはホラー映画とヒューマンドラマのせめぎあいだな。愛するヘウォンの胸に頭を委ねて息絶える。正直、あんなぶち込まれたらその時点でかなり即死だと思うんだけど、結構死なない(爆)。
んでもって、あれだけ卑怯な女だったヘウォンもボンナムの頭をかき抱いて涙を流し、冒頭の、巻き込まれたくなくて見逃したチンピラたちを断罪する。
このあたりはちょっと韓国映画っぽいなとも思うが(爆)、でもこの伏線がきっちり張られてた冒頭のシャープさから、並々ならぬ緊張感だった。

悔しいけど、これだけテンションとドラマを豊かに保ったスプラッターを、今の日本映画は作れない。
それにさ、きっとボンナムは……こういう女の子になりたいっていう思いが、女の子なら誰もが持っている上質な女の子への思いが、このあまりに悲惨な状況で、友情以上、恋愛以上、理想の、もう天使以上みたいな思慕になり、それがこの、運命的ともいえる悲壮な結末に結実してる気がして。
もう、なんとも、言いようがないっていうか、ある程度は、判るんだもん、上質な女の子にどうしようもなく憧れちゃう気持ち、までは、リアルに判っちゃうんだもん。

島で、ボケボケになって、長生きしているおじいちゃん一人が、生き残ったことが、すんごい意味がある気がしてね……。
ボンナムはね、こずるい老女たちを殺戮する中で、ぼーっと訳わかんないおじいちゃんは、そのままにしてるのだ。
途中、伸びっぱなしの髪の毛と髭をキレイに整えてあげたりしてさあ。凄くそれが、愛情深かったんだよね。

それがどういう意味だったのか。つまり彼は、ボケてたから、勿論かかわる訳でもないし、傍観する訳でもなかった。同じく、逃げたくても逃げられない立場として、同志と思っていたんだろうか。
それはそうかもしれない。でも、それって、それって……意思の疎通が出来る訳じゃないのに。出来ない相手にしか判ってもらえないってことなのか。それって、それって、あまりに……。

それに、きっと、おじいちゃんも判っていたと思う。最後の最後、ガタリと頭を落としたおじいちゃんは、全てを見届けて、死んだ。そう思わなければ、ボンナムがあまりに報われない。
そう、思っちゃうのは、きっと友情以上に愛していたヘウォンに抱き寄せられた最期にも、きっとボンナムの無念は晴らされなかったと思うからさ……。

日本は確かに優れた映画を作っていると思うけれど、本当に泥臭いところ、恥ずかしいところ、人間が人間たる愚かなところに、今ちゃんと向き合えているだろうかと、こんな映画を観てしまうと思っちゃう。それが古くさいと言うならば、新しい人間、新しい心理って、何の意味があるんだろうか。★★★★☆


ピュ〜ぴる
2010年 93分 日本 カラー
監督:松永大司 脚本:
撮影:松永大司 近藤龍人 音楽:茂野雅道
出演:ピュ〜ぴる

2011/3/29/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
私ってホントアンテナ立ってない、ダメだなあ、私。こんな凄いアーティストのこと、知らなかっただなんて。そりゃあファッションやアートには疎いけど、こんな凄い人を知らなかったなんて。雑誌とかも全然見ないからなあ。
偏った情報だけを取り入れているって、ホントダメだな、ってこういう時思う。だって彼女、世界からも注目されるヴィヴィッドなアーティストだっていうんでしょう。
いや、判る、作品を見れば、いや作品のみならず、彼女自身を見れば、いやいやもっと言ってしまえば彼女自身が作品の一部、いや、作品そのものであると言ってもいい訳で、それはこんなにも魅力的なんだもの。

そんなアーティスト、ピュ〜ぴるのことを何ひとつ知らずにこれを書いてしまうことに正直臆する気持ちもあるんだけれど、でも何も知らなかったからこそ新鮮で、衝撃で、胸を打たれたのだから、恥をしのんでその状態から書いてみたい。

正直タイトルと、そしてちらりと予告編を目にした段階では、私もまた彼女のことをキワモノ的に予感していたかもしれない。だってピュ〜ぴるなんて名前からしてちょっとフザけてるしさ(爆。ゴメン!観終わった今はそんなこと微塵も思ってません!)。
劇中、ピュ〜ぴるの才能を初期段階で発見したカメラマンが言うんだよね。奇妙な部屋に住んでいる人、からスタートしたピュ〜ぴるを雑誌が次々と取り上げ始めた頃、その奇抜でハデなファッションやメイクといい、そして何より、男性性を持ちながら女性性を目指す彼女を、キワモノ、ヘンタイとして扱っていたって。お前らはフシアナか、それで編集のプロか、バカかと。

だって確かにその頃からピュ〜ぴるの才能は一見しただけで明らかで、このカメラマンさんがそんな風に歯がゆい思いを抱いたのって、凄くよく判る。でもそこはやっぱり、ピュ〜ぴるが性同一性障害、つまりは俗世間的には“オカマ”と呼ばれるような立場だったから、それに目くらましされて彼女の才能を見いだせなかったんだよね。
そういう存在って、マスコミの格好の標的だから、判りやすく、面白おかしくまつりあげられるから。つまり誌面を飾るのに“ヘンタイ”の“オカマ”は実に使いやすい素材だったんだろうと思われる。

でも確かに、ピュ〜ぴるは、とても面白い素材では、あるんだよなあ、誤解を恐れずに言えば。本作自体がとても面白いスタンスの元に作られていて、そのスタンスそのものが映画作品としての非常なる魅力になっている。
監督はピュ〜ぴるの長年の友人。彼、松永大司監督はピュ〜ぴるのことが大切な友人であると同時に、被写体として非常に面白い存在であると語っていた。

勿論そんな単純な言葉だけじゃ収まらず、この10年余りの間には当然、色々な葛藤があったといい……なんたって人の、しかもこんなに複雑で繊細な人間の人生に寄り添うんだから、やめたいと思ったこともあったというけれど。
本当にね、大切な友人としてそばにい続けてカメラの存在も空気のようになった中で取り続けて来た10年間、というスタンスは、クリエイターのドキュメンタリー映画は数あれど、唯一無二の存在だと思われる。

10年間!よもやそのスタートの10年前は、ピュ〜ぴるがこんな世界的に認められるアーティストになるだなんて、監督自身、思ってなかったんじゃないのかなあ。
この監督さんのお名前は初見なんだけど、俳優としての活動の方が目立っている感じである。これから彼がどういう方向に行くのかは判らないけど、恐らく今後もずっと、ピュ〜ぴるを記録し続ける、世界でただ一人の存在としてあり続けると思う。
もはや彼にはその責任があるし、そしてそんな“光栄”は彼にしかありえないんだもの。

その10年前のピュ〜ぴるは、本当に、普通の男の子って感じだった。確かに声は高めのソフトさで、中性的な魅力は発していて、ゲイであると公言はしているけれど、カメラのこちら側の監督さんが「ピュ〜ぴる、イイ男だよね」と言うように、ちょっと無精ひげを生やした色白の細面は、確かにちょっと、イイ男なんである。
その後、整形手術や身体的改造を含め、髪形やメイクも刻々と変化していくピュ〜ぴるを目の当たりにすることになるんだけれど、10年前、カメラで切り取った時のピュ〜ぴるは確かに“男の子”だった。
いやでも、どうなんだろうか。いやいやこれは、アーティスト、ピュ〜ぴるのドキュメンタリーであり、セクシュアリティに関しては重要ではあるけれど、ひとつのファクターに過ぎない訳だから、そこにこだわるのもアレなんだけど……。

ピュ〜ぴるのお兄さんは弟から「自分はゲイだ」と告げられたと語るし、ピュ〜ぴる自身も、女の子に憧れてそんな格好をしたり、メイクをしたりはするけれど、結局最後まで一人称は「僕」だし、身体改造をする時も、性別適合手術ではなく、去勢手術、なんだよね。
つまり、生殖機能は失われるけれど、見た目には陰茎が残っている、男性であるという身体。
正直、去勢手術という言葉自体にかなりの衝撃を覚えたんだけれど、形としては男性を残して、生殖機能だけを失わせる手術を彼が選択したその気持ちはどういうことだったのか、ホルモン療法を受けて乳房が膨らんでくることに喜びを覚えてもいるのに、と、なんか凄く凄く、興味深かったんである。

あー、彼女のアートこそが本作では素晴らしいのに、ついつい拘泥してしまう!うーんでも、確かにそこが、ピュ〜ぴるを被写体とするときの面白さであるんだものなあ。
私らストレートの人間には判らないじゃない、と書いてみて、それも随分と単純な言い方だな、と思った。自分の性に違和感がある、なしでの線引きって、随分単純な気がする。その中での性的嗜好だって千差万別の筈なのに、その線引きに押し込まれていることに満足して、私たちは生きてる。
で、その線引きの外にいる人たちに、こんな風に好奇の興味を抱く。そのことに恥ずかしさも感じるんだけど、でも、線引きの内と外だけで考えていた一昔か、ふた昔前とはやはりずいぶん違ったように思う。

男性として男性が好きなのか、心が女性で男性が好きなのか、女の子になりたい気持ちはあるけど、身体は変えたくないのか、でもおっぱいだけはふくらませたいのか……現在時点のピュ〜ぴるも、映画の中の時点からはきっと変化しているんだろうけれど、映画の中だけでも、そうした葛藤の中の変化が凄まじく、圧倒されまくる。
でもその中で徐々に、そしてはっきりと感じるのは、男だ女だということじゃなく、ピュ〜ぴるはピュ〜ぴるだということで……それは、こんな風に言葉に出してみるといかにも陳腐なんだけれど、でもそうとしか言いようがないんだもの。

彼女はそれぞれの場面、制作に没頭してたり、恋をしてたり、監督の質問にテレながら答えていたり、パフォーマンスしていたり、煮つまって悩んでいたり、そんな様々な場面ごとに印象が違う。つまり、性差を超えているんである。
ことにホルモン療法を受けはじめて、その華奢な体に乳房がふんわりと息づき始めると、余計にそんなユニセックスな魅力がほとばしる。
魅力、そう、魅力なんだよね。本人にとってはもの凄い苦悩であることは間違いないんだろうけれど、でも、なんか、天使なんだもの、天使みたいなんだもの。

ギリシャ神話の挿し絵に出てきそう。天使は男の子でも女の子でもない。
ああそうだ、大人でも、ないんだ。乳房がふくらみ始めたピュ〜ぴるはもうすっかり大人なんだけど、乳房は小学校高学年の女の子のようにひそやかで、それを「もむと大きくなるっていうから」と嬉しげに自らもみしだき、カメラを構えた監督にも触らせたりして。

そして、何より、大舞台の、横浜トリエンナーレのパフォーマンスでその肉体をさらけ出すのがね、実際の女の子の成長過程では決して見られない、純情さと大胆さのギャップがとても鮮烈で、これは、男性性を持つ男性は勿論、私のような女性性を持つ女性にとっても、鮮烈な領域、ピュ〜ぴるは男でも女でもない、ピュ〜ぴるというひとつの性と、何よりひとつの人間性を持ち合わせているんだ、と思う。
そしてそれはつまり、誰にも理解されない絶対的な孤独という意味合いを思わせ、彼女の類い稀なる才能は、その孤独から出ているのかも、などとうがった考えさえ出てしまう。

いや、それを言えば、それはきっと皆そうなんだけど。彼女を見ていると、いかに皆が女性性と男性性という単純な二極に収められてしまっているのだなと思うのだけど。
それにまるで奇跡のように、ピュ〜ぴるは孤独なんかじゃないのだ。彼女は劇中、熱烈な恋愛と大失恋もするし、始終恋人が欲しいと言ってはいるけれど、確かにその面ではナカナカだけど(爆)、とてもあたたかな人たちに囲まれているんだもの。

ああ!結局セクシュアリティの話で終始してしまいそう!そうじゃないのに、この作品の、ピュ〜ぴるの魅力はそんなところにあるんじゃないのに。
東京に電車で出て行ける程度のちょっと田舎、に住んでいたピュ〜ぴるは、母親が「女子高生みたいに、途中で制服から着替えるとかしてくれればいいのに」と困惑するほどに、地元の、もう家から、ハデハデなメイクとファッションで繰り出していた。
地元でもあそこの息子さん、と有名で、父親も世間に顔向けできない、と嘆いていた。と、いうのは家族へのインタビューで彼らから語られる言葉なんだけど、そうは言いつつ、インタビューを受ける彼らの顔でもう判っちゃうんだけど、もうね、全然、解消しちゃってるんだよね。

いや正直、そうした過去でだって、言うほど恥とか、ありがちに勘当だとか、思ってなかったんじゃないのかなあ、というのは、ピュ〜ぴるがそうした、アヴァンギャルドな格好をした状態で、家族たちとにこやかに記念写真に収まっているのが、何枚も登場するからなんである。
制作映像で、ケゲンな顔をこっちに向けているおばあちゃんは、この10年の間に亡くなってしまうんだけど、その葬儀に使われたあのケバケバしい花輪の花をピュ〜ぴるは鮮烈なセルフポートレートに使う。

勿論、ピュ〜ぴるがまたトンでもないカッコして、おばあちゃんを含めた家族たちと一緒に映った写真もある。
お兄ちゃんは言う。「ピュ〜ぴるは恵まれてますよ。普通こういう状態なら、勘当とかなんとかあるけれど、理解してもらえてる。100パーセントとは言わないまでもね」と。
だから、単純にそばにいてくれる恋人が欲しいという気持ちも判るけど、それ以上にそばにいる、家族がいるんだということを、もちろん弟であるピュ〜ぴるが一番身にしみて判っているだろうけれど、大切にしてほしい、と。

劇中、お父さんは、ありがちに判りやすく、収入がなくて一人立ち出来ずに芸術家を気取っててもダメだろう、と息子に諭す。殊勝に聞いているピュ〜ぴる。
でもお父さんはすぐに付け足す。「まあ、芸術家はそういうものらしいけど」なんか、ここに優しさを感じちゃったんだよな。
お母さんも、ピュ〜ぴるがトリエンナーレに出展した、膨大な金の折り鶴を使った豪華でスピリチュアルなオブジェを見て、ついにやったと感極まり、これを作ったのは私の息子なのよと言いたかった、と語るシーンにはめちゃめちゃうるうるきてしまった。

いやいやでも、なんといってもお兄ちゃんである。おにぎりみたいな顔をした(ゴメン!)お兄ちゃんは正直、現代アートとは縁がなさそうな土臭さなんだけど(更にゴメン!)、本人曰く「いつの間にか」巻き込まれ、ピュ〜ぴるの最も重要なスタッフとなり、時には弟と一緒にパフォーマーとして表に出たりもするんである。
彼が弟から告白を受けた時のことを語るシーンが非常に印象的で……というのも、全然深刻じゃないから。
「へー、そうなんだ、という感じ」「そんなの、肉まんが好きか、あんまんが好きかていうぐらいの違いじゃない?」と。それが凄く、頼もしくてね、なんか聞いてるだけで、泣けちゃう。
勿論、先述の様にそんな単純な問題ではなく、そのことをこのお兄ちゃんも当然判っているだろうと思う。

作品の最初の最初、今から10年前の、“イイ男”のピュ〜ぴるは、自分の存在が自然に逆らっていると感じている、と語る。
心が女の子でも、子供は産めない。宇宙的ではない存在っていうか。子供を生む女の人って、人間的って感じがする。自分はそうじゃない、と。
この最初のインタビュー場面でまず衝撃を受けて、それって、独女である私も、勿論男性も、判りえない気持ちだから……。
この時、思ったのだ。社会はなんと、単純な線引きに人を押し込めているんだろうと。そのことに気付くこともない私らは、果たして幸福なのだろうか、と。

でもね、このお兄ちゃんは、そんな小難しいこと、考えないんだよね。至極単純、いや、単純以上。自分は弟と、兄弟という以上に、仲のいい友達って感じなんだと。それって凄く、人間的な信頼感で、なんて素敵なんだろうと思った。
親はね、やっぱり親なんだよね。心配してるし、無条件に愛してるし。でもこのお兄ちゃんはさ……。
ああでも、あの場面、トリエンナーレでパフォーマンスした後の場面、ホルモン療法を受けていること、親に言ってなくて、初めてその姿を、しかもあまた集まった観客の中で見せて、涙を流すピュ〜ぴるをね、楽屋に激励に来たお兄ちゃんがすんごいすんごい慈愛の表情で見つめるのがさあ!

いや、この場面、お兄ちゃんだけじゃないの、実際、このパフォーマンスは映像を通してだけでも息を飲むほどビンビンに緊張感が張ってて、彼女がパフォーマンスするオブジェ自体にすんごい緊張感が張り詰めてるし、凄く、素晴らしいのよ。
ここまでウッカリ言いそびれまくってたけど、彼女が天才的な感覚をほとばしらせて作る、しかし気の遠くなるほど手間のかかる手編みのニットや手縫いの造形物は、強烈なヴィヴィッドさで圧倒的な存在感を放ちまくってるし。
何よりピュ〜ぴる自身がそうした造形物をまとったり、あるいはピエロみたいな、いやそれ以上の強烈なメイクを施したり、更に整形や身体改造手術の過程さえも見せ付けたりする衝撃ときたらないもんだからさ……。

で、随分脱線しちゃったけど(爆)。で、トリエンナーレのパフォーマンスよ。彼女を迎えたキュレーターはどっぷり感慨深い面持ちで、とにかく良かった、素晴らしかった、と手放しで絶賛する。
親に初めてこの姿を見せてしまった、と淡くおっぱいがふくらんだ身体を公衆の場でさらしたことにしくしく泣き出すピュ〜ぴるに、キュレーターも、もちろんお兄ちゃんも、その場に居合わせたスタッフ全員が、暖かな顔で、皆が幼い子供を慈しむ親のような顔をして微笑んでいるのがね、それをカメラがぐるーりと回って撮るのがね、もうもうもうもう、ぐぐぐぐぐっ!ときちゃうんだもん!
あ、利重さんもいる!ラストのスタッフクレジットにその名前も確認して、ちょっと嬉しくなる。いろんなクリエイターがこの才能を愛して、彼女自身を愛して支えているんだなあ、って。

で、なんか言いそびれちゃうんだけど、とにかくピュ〜ぴるの作品の、今まで見たことのないぶっとび感、そのぶっとんだ美しさ、強さ、ああ、言葉じゃとっても言い表わせないその鮮烈がとにかく素晴らしくてね!
なんて言ったらいいのかなあ、感覚なんだけど、もの凄く気持ちと手間と時間がかかってる、ここもギャップなんだよね。不思議な魅力。
お母さんが自分の子供へのシンプルな愛情を語りながらも「予測の出来ない子だから……」と表現していたのが、すんごい言い得て妙なのよね。

そしてその製作過程の苦悩、そのつぶやき、作るしかない、それしか出来ない、という、芸術家の魂の叫びに身が震えてしまう。
だってだってそれは……オフィシャルなインタビューに答えた形じゃないんだもの。信頼する友人が構えた、今や注意も払っていない空気とおんなじカメラがとらえた、ずっとずっとずっと苦しみ続けた末に吐き出された言葉だったんだもの。

ピュ〜ぴるが真剣な恋をしている過程をずっと映しだし、真剣が故に、セックスの是非や、相手が自分を大切に思っているけれど、でも彼はストレートで、愛情の先にセックスの欲望がある自分とは違うこと、彼のために女の子になれるならなりたいと思いながら、ピュ〜ぴるがその後選んだ道は、性別適合手術ではなく去勢手術だったこと……。

今はタレントとかで、色んなセクシュアリティの違いのある人たちが表に出ていて、すっかり判った気になっていたけれど、そしてそうした彼ら彼女らもきっと、ピュ〜ぴると同じように複雑で繊細で深遠な問題を抱えているに違いないんだけれど、それが表に出ることは今までなかったんだということを、今更ながら感じる。
改めて言うけど、本作の魅力はそこじゃなくて、あくまでピュ〜ぴるの天才的なアーティストとしての側面なんだけれど、まずそこをクリアしてかからなければならないほど、私らは未熟なんだなと思う。★★★★★


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