home!

「よ」


2011年鑑賞作品

酔いがさめたら、うちに帰ろう。
2010年 118分 日本 カラー
監督:東陽一 脚本:東陽一
撮影:釘宮慎治 音楽:
出演:浅野忠信 永作博美 市川実日子 利重剛 藤岡洋介 森くれあ 高田聖子 柊瑠美 甲本雅裕 渡辺真起子 堀部圭亮 西尾まり 大久保鷹 滝藤賢一 志賀廣太郎 北見敏之 螢雪次朗 光石研 香山美子


2011/1/20/木 劇場(シネスイッチ銀座)
本作の告知からほどなくして、間をおかずに公開になる「毎日かあさん」の制作が公けになり、あらっと思った。
宣伝で見る限りでは、描かれる内容も殆んど同じ……なのは当然、原作になっている二人をメインとした家族が同じなのだから。
そりゃあ先にやったもん勝ちだとは思うけれど、こうも間をおかないと、観る側もなんだか、これはどちらも観るべきなのか、ていうか、こうなるとどちらも観る気が失せるというか……(爆)という思いに正直、とらわれてしまう。

それに、先にやったもん勝ちであり、本作の主演の二人はこれ以上ない魅惑的なキャスティングであることは確かに間違いないんだけれど、“二番煎じ”である筈の「毎日かあさん」の方がそれ以上っていうか……離婚した元夫婦がこの二人を演じるという、しかもその二人共が同じくトップクラスの俳優であり、となったら正直、こりゃあ、とられちゃったナと思ってしまうじゃないの。
なんか、ズルいなあ、って。こんなにも間をおかずに制作にゴーを出した原作者の西原氏に対して若干のウラミを禁じえない気もしつつ……それでもやっぱり、と足を運んだのだった。

とはいえ、本作は夫、鴨志田穣氏の自伝的小説が原作であり、「毎日かあさん」が西原氏の著作が原作であることを思うと、それぞれ、夫側、妻側の視点で違ってくるという興味はあるのかな、という感じはしている。
それでも、本作にも西原氏がきっと助言者として大きく関わっているだろうことは、作品を見ていてもひしひしと感じる(医者から夫の病状を告げられる場面とか)から、そこもまたアイマイな感じは否めないのだが。

ま、「毎日かあさん」を観なければなんとも言えない話なんだけど、この奇妙な絆で結ばれた家族の物語は勿論のことだけれど、本作で一番尺が割かれていてなおかつ魅力的なのは、なんといっても、“塀の中の奇妙な人々”の活写である。
塀の中、といっても勿論刑務所ではない(爆)。重度のアルコール依存症となった彼が入った、精神病院のアルコール病棟。
そこの空きがなかったために、短期間入ることになる女性が多数を占める(というのが結構ショックだが)精神科病棟の描写もキテる。しかし総じて、なんとも愛すべき人間たちで、不思議といとおしくなるんである。

ていうか。この話、西原氏の夫が戦場カメラマンで、アルコール依存症が原因で彼女と離婚、復縁(籍は入れず)した後に癌で亡くなった、というのは、かなり知られているよね。
戦場カメラマンというか、報道写真家と言うべきなのだろうか。今は、戦場カメラマンというとある特定の人のイメージが強すぎるから(爆)。
で、かなり知られているもんだから、「毎日かあさん」の告知が出た時も、ああまたこの話か、などと思っちゃったのは事実(爆)。よくないなあ、こういうの。

でもそれは、確かにいつでも、西原氏が語る夫であり、夫のアルコール依存症であり、病気を抱えて帰ってきた夫との、最後のささやかな日々であり、だったんだよね。西原氏の視点、だったんだよね。
本作が奇妙な可笑しみをたたえているのだとしたら、彼だけが会得した諦念とでも言うものが醸し出すそれであるんだろうと思う。

居酒屋で“いつものように”ぶっ倒れて、あの人またですよ、と店員にイヤな顔をされる。その帰り道、明日は家族と会えるんだ、と言いながらウォッカをガブ飲みする塚原安行。
そこは彼の実家であり、“家族”のいる家ではない。この一発で、彼が家族から離れて暮らさざるをえない状況が示されている。

そして、股の間に湿り気を感じてやっちまったよ、という顔をすると、ウッと口を押さえてトイレに直行、目を覆うばかりの鮮血が便器を彩る。
か細い声で必死に母親の助けを呼ぶ。母親はヒィ、と叫び声をあげるも、到着した救急隊員に行きつけの病院を告げる。
駆けつけた“元妻”の園田由紀は「またやっちゃったよ……」という“元夫”の頬を愛しげにさすり、「大丈夫、まだ死なないよ」と冷静に言う。
後で連絡するから、と救急車に乗り込む“元姑”を笑顔で見送って、夜道を帰りながら子供たちに電話をするんである。
「うん。また入院だね。お見舞いに行こうね」

西原氏自身が語っていたのが漏れ聞こえてきた中でも、離婚は自分や子供たちの身を守るためであり、しかし子供たちの父親であることは変わらないし、そして自分も……というところまでは言っていなかったかもしれないけど、その、説明のつかない、しかし確かな愛情はひしひしと感じるところであった。
いや、そういうのは、軽々しく言うべきではないのだろうとは思うけれど、ただ、離婚、復縁、と言うだけでは見えてこない男女や家族の絆が、ある意味現代を象徴しているとも感じられたから。
ほんの短い描写だけれど、別れた元嫁に姑が何の躊躇もなく連絡をし、その後も全幅の信頼を寄せている雰囲気のシーンが続出するのは、そうした事情を姑もまたきちんと読み取っているという、まさに“現代を象徴する”家族の関係性が存在しているのだと思う。

まあ、この姑もまた彼女の夫(つまり、塚原の父)のアルコール依存症に悩まされて、それを引き継いでしまった息子の嫁となった彼女と、いわば同志の様な気持ちでつながっているのかも、という感じはするのだが。
嫁に申し訳ない気持ちもあるのだろう、「死ぬんなら、どっかでのたれ死んで。家族を巻き込むのはやめてちょうだい」と言うのは、その家族の中には自分は恐らく、入っていないだろうと思うもの。
もちろん、自分にとっては大事な息子ではあるけれど……こんなダメなお父ちゃんでも大好きだと言ってくれる、可愛い孫たちがいるんだもの。

ホント、この子供たちがね……子供というのは、ホント、ズルいと思う。下の女の子が、愛くるしいながらも妙に物分かりが良くて、時々怖いぐらいじっとその漆黒の瞳を見据えているのがドキリとする。
真顔なんだもん。ほんっとに、なにもかもを判っているような顔をしていて、子供は全て判ってる、ウソはつけないって、ホント思っちゃう。
それ以上に素晴らしいのがお兄ちゃんで、そんな妹でもやっぱり幼いから、言動をきちんと見極めていけないところからはちゃんと遠ざけるのが、彼だって子供なのに、と思うとホント涙が出る。

回想シーンだけど、塚原が酔って由紀に暴力を振るう場面ね、物音に起きてきた妹を、察したお兄ちゃんがダメだよ、と部屋に連れ戻した場面、妹の感じた哀しさと、お兄ちゃんの思慮深さの哀しさとがなんとも辛くて、この幼い兄妹をギューッと抱きしめてあげたい!と思った。
この兄妹の印象的なシーンはまた後にあって、アルコール病棟から外出許可をもらった塚原が、家族四人で蕎麦屋で食事をするシーン。
退院したら、家族で暮らしたい、という塚原に、なんたって離婚しているんだから、由紀が自嘲気味に「こういうの、家族って言うのかねえ」と言うとね、真っ先にお兄ちゃんが「家族だよ」って言うのだ。
それがね、凄く、覚悟を決めた言い方で、ひどく大人びていて、凄く凄く、ドキッとしてしまった、のだ……。

ところでこれって、塚原安行であり、園田由紀、なんだよね。名前の感じも全く踏襲してないし、原作も自伝的“小説”であることを思うと、結構離れた視点で描写しているのかなあ、と思う。
そういう意味で言うと、アルコール依存症であり、彼が入ることになる病棟の患者さんたちは、確かにそんな具合に劇場的である。

まあそのー、アルコール依存症ってのはさ、お酒が好きな私的には興味があると言うか、見たくない現実というか(爆)、まあとにかく、なかなかにツラい現実だなあと思うんだけど、確かに、こういう世界をまったく知らないと、アルコール病棟、いや、その前に彼がウッカリ入っちゃう精神病棟も映画的と言えるほどにシュールなんだよね。
まあ、彼自身が周りの食事と違うものを出されて瞬間正気を失い、「だったら、カレー食わせろよ!」と叫ぶというのもコワいシュールさだけれど、殆んどは、彼は全然マトモと思えるほどに、奇妙な人々の集積なんだもの。
まあ、このカレーに関してはホンット彼は執着していて、長い時間かけてやっとありつけたときの幸福な表情がまた、なんとも笑わせるのだけれどね!

アルコール病棟に空きがなくて、一時期入った精神病棟が、ある意味彼にとっては良かったのかもしれない?
年がら年中「今日好きな字」をきちんと正座して筆で書きしたためている女性(市川準作品に良く出ていた彼女!)やら、久しぶりに面会にきてくれた夫に、目一杯のメイクをして、見送る同僚?たちに、再三深々と勝ち誇ったお辞儀をしてドアの外に出て行く女性(渡辺真起子、存在感タップリ!)やら。
この時点で既に面白いのに、メインのアルコール病棟に入ると、そんな比じゃない。
つまりここでは、塚原はごくごく常識的でデキた人間に見えるほどに、おかしなメンメンが集まっているんである。

なんたって、主治医の先生から「食事係を任された?さすがですね」と言われるほどなのだから!
この女医の先生を演じる高田聖子がまた、イイんだよねー。柔らかな関西弁は、しかし相手をきちんと牽制するガードがきちんとあって。「女だと思って、なめたらいかんぜよ」「そういう映画がありましたね」という塚原との会話も、まさにそんな絶妙なガードを感じるんである。
聞き分けのない患者に下半身を見せられるなんていうシーンは、彼女がまさに女だからこそ遭遇してしまうシーンでさ、「エラいもん見てしもうた」と笑う彼女が、しかし これまで幾多の修羅場をくぐりぬけて来た強さを思うんである。

で、まあ話が脱線したけれども。ホント、オカシな人たちが集まっているんだよね。
大体、この患者たちで自治体を作り、先の食事係もそうだけど、会長がいて、副会長がいて……という組織で動いており、新入りがヤンチャしてもめる、なんてこともあり、当の会長もなんたって患者だから、いさかいには医者たちがピリピリとして止めに入ったりさ。
そのあおりをくらって塚原は“新入り”からパンチを浴びせられ、寝込んでしまったりもする。しかし一方で、退院間際の患者(つまり、良くなった患者)からここに至るまでの辛い過去を打ち明けられて、しんみりとしたりする。

実の親に捨てられて、養ってくれた義理の両親はとてもいい人たちだったのに、自分が運転する車を事故らせて、義父を“殺して”しまった、と……。
塚原が直面した戦場の地獄のような風景だって、トラウマという点では決して劣ることはないと思うけど(こんなことで劣るとか劣らないとか言うのもヘンだと思うけど)でも、塚原はこの話に打たれてしまうんだよね。
ほどなくして彼が退院することになって、同じく体験発表することになっても、途中で彼は言葉を詰まらせて退席してしまった、のは、そんな思いがあったのかもしれない。

それはね、何気に布石があるんだよな。由紀のファンでサイン会などに通い、知り合いになったという医者が塚原の病状をまず見てくれたんだけど、その彼が塚原を診る前に言った、この言葉が忘れられない。
「(地獄のような風景を見たと言うけれど)それを見た人間と、その地獄で暮らすことになる人間と、どっちが辛いですかね」と。
アルコール依存症に対して、身内も、時には医者でさえ、同情してくれない病気、と切って捨てたのも確かに頷けるだけにショックだったけど、それ以上に切り込んだ言葉だった。
それは確かに、本当にその地獄を見た訳でもない人間が言うべきではないのかもしれない、けれども、でも、確かにそのとおりなんだもの。
その中で生きている人間が確かにいるのは、何より彼自身が見て来た筈なんだからさ……。

結末はさあ、判ってるから……でも、思ったよりも、長く描くんだよね。私は、彼が“元妻”と愛する子供たちの場所へ戻ってきたところで終わるのかと思ってた。
でも“その後”も描く。そんなね、ヤボに死ぬところまではやんないけど、でも子供たちとまったりとテレビを観ている夫に、もう言われた“余命”より随分長く“生きて”いることをからかい気味に「なかなか死なないねえ」なんて言って。
彼が「俺、死んだ方がいいのかな」と小さくなったように言うと、彼女は笑って「生きている方がいいよ」と返す。
そんなやりとりがウソだったみたいに、台所で、たまねぎを刻みながら、そのせいだとでも言うように、溢れる涙が嗚咽に変わるのを抑えようもなくうずくまるお母さんを、静かに見守って、黙って部屋に戻っていく幼い兄妹がここでも泣かせるんだなー!

ラストは家族揃って海岸に遊びに行く場面。海だ海だとはしゃぐ子供たちと夫に、後ろからついてきた彼女は、背後に、もう一人の夫の姿を見る。
前方には確かに子供たちと遊んでいる夫がいるのに。そのもう一人の夫は、静かに彼女と視線を合わせ、そして静かにきびすを返して去っていく。
その姿と、子供たちと戯れている“生きている夫”を眺めながら、彼女は笑顔を見せるのだ。

ふとね、妻が死ぬ話は結構あって、それはなんかいつでもただただ純愛で、こんな風にたくましさ、ふてぶてしさ、可笑しみを感じさせること、なかったなあ、と思って。
多分それは女の方が強いからだと思うけど……ならば、男も強くなってさ、妻が死ぬ=感動、号泣物語にはしないでほしいよなあ、と思ったりするのは、ダメ?
でもその後の西原氏のしなやかな強さを思うと、やっぱり思っちゃう。でもそれも、子供がいるからなのか?やっぱり女は子供を持たなきゃ、ダメなのかもなあ……(自嘲)。

それにしても、酒好きはあんな風にガブ飲みしないと思う……それが依存症への第一歩?
私も酒好きだからさあ、でも、好きだから、すんごいありがたがって、味わい尽くして飲むよ。
うーんでも、自分では自覚なくて、あんな風にガブ飲みしてるのかな?そう思うと自信ないかも……(自嘲)。★★★☆☆


洋菓子店コアンドル
2010年 115分 日本 カラー
監督:深川栄洋 脚本:深川栄洋 前田浩子 いながききよたか
撮影:安田光 音楽:平井真美子
出演:江口洋介 蒼井優 江口のりこ 尾上寛之 粟田麗 ネイサン・バーグ 嶋田久作 加賀まりこ 鈴木瑞穂 佐々木すみ江 戸田恵子 山口朋華

2011/2/27/日 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
いやあぁあー、蒼井優ちゃん、可愛かったねえ。なんかふと「初恋のきた道」が浮かんでしまった。全然違うじゃん、関係ないじゃん。そうだわね。つまり、ヒロインの可愛さを堪能するための映画ってとこが。
いやいやいや、そんなことを言っちゃったら語弊がある。しかし、重要なのは“蒼井優の可愛さを堪能する”ため、であり、それだけの映画、という意味じゃないっつーことだ。
作品が優れていなければ、その可愛さを堪能することに集中も出来ないっつーことなのだ。

だってさだってさだってさぁー、蒼井優ちゃんがパティシエール(女の子の場合はそう言うんだね)だなんてさ!スウィートなケーキをケーキよりもスウィートな彼女が作るなんてさ!もうもうもう、見ているだけでスウィート、スウィート、うっとりとしてしまうじゃないのお。
本当に、宝石のような、というベタな言葉がそのままにピタリとくる艶やかに美しいスイーツたち。こだわりまくって撮られているのがよーく判る、その輝きに、蒼井優ちゃんのかわゆさはまったくもって引けを取らないんだもの。

とはいうものの、鹿児島弁まるだし、田舎娘まるだしのなつめが最初に作るケーキは、もう見るからにヤボくさいものである。
「素人じゃありません!ケーキ屋の娘です。店のケーキは全部私が作ってました!」と豪語して、まあ手つきはそれなりなれど、出来上がったチョコクリームケーキは、真っ赤なドレンチェリーが無造作に飾ってある様もヤボヤボな、食べる前から味が判ってしまうようなシロモノだった。
そのなつめが、コアンドルの味に衝撃を受け、恋人を探しに来たという当初の目的が崩れたこともあって、修行に邁進していくんである。

とまあ、そんなところが導入部。ところでこれって、原作のないオリジナル映画なんだね!昨今の日本の、こんなメジャー系の商業映画では相当珍しくない?
という事実自体が、映画界のお寒さを示してもいるのだが……映画はやはり、基本オリジナルでいてもらいたい、だって、常に何かの権威におもねっているなんて、寂しいじゃない。映画は単体の芸術なのに、ってさ。

だから、その意味でも、嬉しかった。いやあ正直、またしてもヒットコミックかなんかが原作になっているのかと思った。だってありそうじゃない。グルメ漫画が百花繚乱な時代だしさ。
でも、こんなちょっとイラッとくる女の子が主人公じゃ、コミックじゃなかなか難しいかも?

そうなのよねー。このなつめ、決して共感できるヒロインじゃない。そりゃーまあ、蒼井優ちゃんがコテコテの鹿児島弁(という言い方もちょっと違う気がするが)を操るのがなんともキュートで。
そういやあ、「フラガール」でも福島弁丸出しの役だったけど、あの作品は内容自体は凄くストイックだったし、彼女の役柄もシビアだったし、こんなにも、蒼井優の可愛さに没頭できる作品じゃなかったから、訛る蒼井優の可愛さに、もうメロメロになっちゃうんだもの。

ああ、そんなこと言ったらホントに語弊がある。本作だってとってもストイック。
見た目は美しくてスウィートで、うっとりとしちゃうケーキの世界は、だからこそ厳しい職人の世界で、判りやすくイジワルな先輩に辛く当たられたりもするしさ。

ああ……蒼井優ちゃんの可愛さによろけて、またしても脱線してしまった……。そう、共感できるヒロインじゃないのよ。つまりこのなつめという女の子はいわゆる、“空気読めない”タイプ。
修行のため東京に出てきた恋人を追って、彼が修行している筈のコアンドルに来たんだけど、そこには彼はいない。
つまり、いないということを知らない恋人なんてあり得ないんだけど、そのことに彼女は気付いていない。
ていうか、その前にハッキリ別れの手紙をもらっているのに、それが別れの手紙だと彼女は気付いていない。

ようやく見つけた恋人に新しい彼女がいることを知って愕然とするなつめだけれど、その前段階で、なつめが来たことに心底驚くこの彼氏に(そりゃそうだな)、「海君が留学?ムリムリムリ!」と笑い崩れ、ムッとして反論を試みる彼に「ゴメンゴメン、だってぇ……」と更に笑い、「だって、私は海君を一番知っているから判るから」て、オオオ、オイ!そりゃー、海君、怒るよ……。

てか、このくだりにはいくつもの伏線、というか、つながっていく先があって、ほおんとこういうところが上手いと思うんだけれどね。
海君がなぜコアンドルを辞めたのか、本当に、あっという間に辞めてしまったんだという。
オーナーの依子さん曰く、今更下積みはイヤだと言ったんだといい、マリコさんは、どうせルミエールももう辞めてるわよ(この、ケンカの勢いに任せて言っちゃったことで、彼の行く先がバレたのだ)と吐き捨てる。
つまり、なつめが言う「海君にはムリ」というのをちょっと示しているような気もする。なつめは、イジワルなマリコさんに、こんな風に海君もいじめたんでしょ!と憤慨してたしさ。

でも……海君はそのルミエールは辞めてなかった訳だし、それどころか、そこで切磋琢磨する仲間を恋人に持ち、頑張っているワケだから。
実はここんところでね、ちょーっとコアンドルの、というか、依子さんの「来るもの拒まず、去るもの追わず」と自ら言う哲学に、ふと疑問を感じたりもしたんだよな。
まあ確かにその通りだけど、海君は根性がなかったのかもしれないけど、それはこのコアンドルにおいてでだけであって、ルミエールでは、将来は留学を目指すほどに頑張っている訳じゃない。
まあ相性と言ってしまったらそれまでだが、でも正直、なつめが言うように、不必要なまでにイジワルなマリコさんがその原因だったように思えてならないんだよなあ。なつめは何気にタフだから、闘えたけどさ。

うーむ、どうにも脱線するが。何の話だっけ。あ、そうそう、なつめが共感出来ないタイプの女の子だって話ね。
んでもって、海君に対して、嘲るように笑って、ムリムリ、と言った、そのまんまが、なつめに返ってくる、のも上手いなあ、と思い、まさにそれがクライマックスにさしかかってくるんである。

ずっと衝突しっぱなしのマリコさんに、あんたなんかに出来る訳ないでしょ、と笑われて頭に血が上ったなつめは、絶対に私はやり遂げて見せる!と吠える。
マリコさんから、あんたみたいに意味なく自信過剰なヤツ、大嫌いなのよ!と言われ、なつめは、私だって、いばってばかりのあんたなんて大ッ嫌い!と吠え返す。
つまりこの二人は最後まで相容れない訳で、そこがまた、いいんだよなあ。感動的に理解しあう場面なんて、ない訳。そこがなんともストイックでね!

ていうか、もう、大事なキャラを思いっきり取りこぼしたまま進んでっちゃいけない(爆)。
そうよ、江口先生ですよ。もう彼が出てきただけで、ケーキや蒼井優ちゃんのスウィートさで甘くウットリするばかりのところに、まさにビターな味わいでキリッとしめてくるんである。
しかも彼には、トップパティシエとして仕事に没頭するあまり、幼い愛娘を死なせてしまったという悲しい過去がある。
いや、死なせてしまったなんていうのは、言い過ぎか……お迎えがほんのちょっと遅れただけ、それで娘さんが自分の足で大好きなお父さんのお店に向かっただけ、そして、道路にウッカリ飛び出してしまったという……不幸な連鎖だったんだもの。

パパにケーキの作り方を教えてもらいたがっていた愛娘の死を目の当たりにした心の傷、そんな彼が、やたらと気が強いなつめの新作ケーキに、0点の厳しい点数をつける。
あ、彼はパティシェとしての仕事を辞めた後、講師や評論家として活躍しているのね。
で、カッとしたなつめが、食べさせてやったんだから、その理由を聞く権利がある、と言っちゃったもんだから、彼は更にキッとなつめを見据え、そんなことを言うパティシェは世界中探してもお前ぐらいだ。そんな気持ちでいるなら辞めてしまえ、と申し渡すんである。

なつめの言いようは確かにアレだったけど、彼の頑なさは……この時点ではなぜ十村がパティシェを辞めたのかなつめは知らなかったから、評論家で点数つけて、楽しいですか、ケーキを作ることから逃げたくせに、と、まあ気が強く、ポンポン投げていく。
ほおんとこのなつめっていう女の子は、こっちがハラハラするほどオレオレで、ジコチューで、ほんとにさ、蒼井優ちゃんが演じてなかったら、そーとーイラッと来て、えーかげんにせいっ!てスクリーンに向かって小突き倒したくなってたよなあ。

実はだから……こんな困ったちゃんを演じるのって、彼女、初めてじゃないかなあ?
改めて思ったのは、蒼井優嬢はほんっとに、カラフルな表情を持っていること。同年代で仲が良くて比べやすいから判りやすいんだけど、宮アあおい嬢との決定的な違いはそこだと思う。
そりゃあおいちゃんは芸達者で、そんなカラフルな表情を見せる役もこなすけど、基本的にあおいちゃんがモノクロームな硬質さを印象的に演じるのに対して、蒼井優ちゃんは、ふんわりコットンのやわらかさと、パステルの色彩豊かさ、まあつまりは、ルール違反なほどに可愛い訳で(爆)。

それが本作では、まさに大爆発。パティシエールのカッコも鼻血が出るほど可愛く、依子さんを演じる戸田恵子が「あんたと喋っていると頭が痛くなる」というほどの無垢……いや、ありていに言っちゃえば、あつかましさが、なんとも微笑ましいことこの上ないかわゆさってのは、こりゃもう、誰にもマネ出来ないでしょ!

あーもう、脱線しまくって、全然どこまで行ったのか判らん……。
えーとね、そうそう、コアンドルに危機が訪れるんである。
依子さんが何ヶ月もかけてようやく取り付けた晩餐会の契約直後、ずっとムリをしていた依子さんはめまいで階段から転げ落ち、大怪我してしまうのね。晩餐会どころか、コアンドルをしばらく閉めなければいけない状況に陥ってしまう。

依子さんのパートナーで本場で一緒に修業したジュリアンは彼女に付きっ切りだし、マリコさんも店の片付けが終わったら出て行ってしまった。
店の二階に居候していたなつめは一人きり。しかし、常連さんがなつめのケーキを所望し、喜んでくれたことで、彼女は一念発起する。

常連さんを演じるのは加賀まり子。まだ未完成だったなつめの新作ケーキに「売り物としてはどうかしらね」とシンラツな評を下した人だけれど、この言い様は、売り物としてじゃなければ……という感じを言外に匂わせてもいた。
体調を崩していた彼女は店に出向くことが出来ず、なつめが自ら配達したのだけれど、姿を見せずに夫からケーキを受け取って食べた彼女はなつめの成長を喜び、なつめは思いがけず涙をこぼしたのだ。

でもさ、このシーン、コアンドルの再開のめども立たないし、郷里に帰ろうとしていたのか、荷物をまとめていたなつめがジュリアンから「配達に行ってくれる?」と言われて託されただけのように見えたんだけどなあ……なつめが配達の注文のために作っている場面なんてなかった、よね?ケゲンな顔してたしさあ……。
だからこれってまるで、ジュリアンが作ったのをなつめに配達に持たせたようにも見えて、それじゃあ、「あの子がこんなに美味しいケーキを作るようになったのね」ってところにつながらない気がしたんだけど……。

もうひとつ、判らないままだったのが、マリコさんなんだよね。
コアンドルが解散した後、彼女はボロアパートに引き上げる。特に何かの仕事をしている様子もなく、そこに、有名レストランの名刺を持った人物が訪ねてくる。
それが嶋田久作なんだから、そりゃー、存在感タップリの大物に違いないんである。
評判の高いコアンドルが一時閉店、そこのパティシエールが腕を発揮できないままである、ということで声をかけたのだろうか。
しかし彼が提示したのは、豪華な空き物件、つまり、レストランで働かないか、とかいうんじゃなくて、もういきなり店を持たないか、と言うことだったのか。

しかしマリコさんはその後、どしゃ降りの中、びしょ濡れになってコアンドルを訪れ、晩餐会の準備をしていた十村となつめを驚かせ、しかし何も言わずに立ち去るんである。
てんてこまいだったなつめが、明らかにイヤイヤながらマリコさんを誘いに彼女のアパートを訪れた。
こんな二人だからあっという間にケンカになって、「ああ、もう!めんどくさか!!」と言い捨てて去ってしまうなつめに、「……ホントに何しにきたんだよ」とつぶやくマリコさんには思わず笑ってしまうが、それはマリコさんの方。本当に、何しにコアンドルに来たのか、杏奈ずぶ濡れで、その後風邪までひいて。明かされないんだよなあ。

マリコさんってさ、演じるのが江口のりこだから、そのあっさりとした顔、特に典型的な一重まぶた、そこをもう、悪魔みたいに黒々とアイメイクして、だからこそ余計に怖い印象なんだけど、なつめが訪ねた時、ヒドい風邪をひいていたからスッピンで、それがだから余計に弱々しく見えてさ……。
一体彼女に何があったのか、あの空き物件は結局どうなったのか。
あの後、その空き物件の中で、外がどしゃ降りで、たった一人、超孤独に取り残されてうなだれているマリコさんの姿が映し出されたりもしたから、余計に気になってしょうがない。
いや、ただ単に、コアンドルのためにその話を悩んだ末に断わったのかもしれないけどさあ。

結局、マリコさんとなつめは最後まで相容れないけど、でも、マリコさんが自らを強烈にガードしていることと、なつめが何ひとつガードせずに開けっぴろげなこと、つまり、両極端すぎるからこそ、回りまわってどこか似た者同士な強烈さあるってのが感じられるのね。
それが、ひとことも言葉を交わさないまでも、クライマックスの晩餐会で一緒に仕事している場面に集約されているのが嬉しいんだなあ。
あらあらあら、江口先生が重要なキャラなのに、なんかここまで、彼のことを全然言ってねえな、私(爆)。まあ基本、女の子同士が好きってワケよ。すみませんねえ。

江口先生、そりゃ、江口先生は素晴らしいんである。泣きの場面は彼のエピソードに集中している。
何度も何度も何度も繰り返される、愛娘が死んだ日の、その出かけた朝。いつも忙しい彼は布団の中で「ゆっくり寝かせてくれよ」とつぶやいてて、妻が念を押すお迎えの約束も、判った判った、とおざなりだった。
でもパパがお迎えしてくれると知った娘は飛び上がって喜び、パパにケーキ作るの教えてもらえるね、とウキウキだった。
そう、この玄関の場面、妻と娘が連れ立って出かけるのを、布団にもぐりこんだまま、ウルセーナーという顔で背中を向けて生返事する彼、何度も何度も繰りかえされる。悔やんでも悔やんでももうやり直しの出来ない朝。

夏目が十村に、コアンドルを助けてほしい、と駆け込んでくる場面に、もっとも強烈にオーバーラップされる。
そして十村は、依子が決死の思いでとった晩餐会を実現させるために、なつめの執拗な勧誘に応じるんである。
後に夏目は十村に、なぜ私をそんなに気にかけてくれるのか、私は十村さんの娘さんに似ているんですか、と聞いてみる。全然、とトムラは言い、突然、鹿児島弁を流暢に喋り出す。

つまり、同郷の言葉につい反応してしまうんだと。そして、娘には全然似てない。誰にでも愛される子だった。とズバリと言い、それに即座にジロリと横目でぶんむくれる蒼井優ちゃんの表情がサイッコー!!!もうぶわっと劇場に笑いが起きたもんなあ!!!
ホンットに、極彩色だよ、彼女は!彼女ってさ、あまりにもあまりにもふんわり可愛いから、実は今までウッカリ?なかったけど、ストレートにコメディエンヌをやったら、めちゃくちゃハマるかもしれないなあ!!!

ラスト、十村の推薦で立派なパティシエールになるべく、留学に旅立つなつめが、その条件を飲む代わりにと十村に課したのが、愛娘の不幸な事故以降、距離をおいていたであろう元妻に、ケーキを持っていくことだった。
そして、その首尾を見届けたなつめは、トランクからスーツケースを取り出し、一人、新転地へ向かう坂道を下ってゆく。
眼下に広がる街並み。そしてこの先に、更なる世界に向かってなつめが進んでいくラストは、なんか、ちょっと、いい時代のハリウッドみたいだなあ!!

なんか色々、いっぱい、取りこぼしがありそうだな……あ!!依子さんのパートナー、一緒の修行先から追いかけてきたジュリアンの存在がなんとも良かったね!
彼は勿論、依子を愛しているから、異国に飛び込んだんだけど、だからと言って全てを投げ捨てた訳じゃなくて、当時から打ち込んでいたミュージシャンの顔を今も持っていて、公園で演奏している姿は、依子さんが幸せそうに眺めるカットがなくったって、凄く充実しているのを感じさせてさ。
こんな甘くてキラキラな見た目に関わらず、結構全編キツキツな心理状態で続くもんだから、ジュリアンの肩の力が抜けた、マイフェイバリットワールドが、ほんと、ホントの意味で、癒されたんだなあ。

ケーキって確かに、本当に魔法だものね。十村のケーキは人を幸せにさせたから、だから彼は伝説なんだと依子さんは言ったけれども、どんなヤボなケーキでも、それこそなつめが最初に作って皆を絶句させた、依子さん言うところの、「うちではクリスマスに街頭で売っているようなケーキはいらない」「このケーキが美味しいと言ってくれるところに行きなさい」というようなケーキだってさ、同じく、やっぱり、人を幸せにさせるのよ。
そうでなければいけないと思う。コアンドル級のハイレベルなケーキじゃなきゃそうならないのならば……そもそもスイーツの存在価値、本作の存在価値が揺らぐのだもの。★★★☆☆


八日目の蝉
2011年 147分 日本 カラー
監督:成島出 脚本:奥寺佐渡子
撮影:藤澤順一 音楽:安川午朗
出演:井上真央 永作博美 小池栄子 森口瑤子 田中哲司 市川実和子 平田満 劇団ひとり 余貴美子 田中泯 風吹ジュン

2011/5/21/土 劇場(有楽町丸の内ピカデリー3)
成島監督はハズレ無しとは思ってたけど、前作の「孤高のメス」は医療モノでなんかちょっと臆してしまって観てなかったのを、高評価を受けたことを知ってかなり後悔した……なんてことはどうでもいい。
あるいは、本作はまず原作が凄く有名で、NHKのドラマもキャストも良かったから気になってはいたんだけど結局見逃してしまった……なんてこともどうでもいい。
まだ時期が早いけれど、本作は相当今年度の賞レースに絡んでくるんじゃなかろうか、などと気の早いことも、もう、そんなことも、どうでもいいんだっつーの!!

ああ。
ああ、何でこんなに泣いてしまうの。
これでこんなに泣いちゃいけない。だってこの涙の理由を考えたら、私は気持ちだけでもこの犯罪に加担してしまうことになってしまう。許しちゃいけないこの犯罪に加担してしまうことになってしまう。
いや。
もう片方の、不幸な女。娘をさらわれた方の彼女の気持ちを考えたってもの凄く辛いんだけど。それだって充分泣いちゃうんだけど。充分泣く、だなんて、そんな表現自体、随分と客観的過ぎて、私、冷たいのか。
やっぱり私が一人身だからなのかな。もし陥るとしたら、希和子の方の立場の方が可能性があるからなのかな……って!いやいやそんなことはないけど!!!

いや、違う。見ている間、何より辛かったのは、もちろん希和子がメインで語られていくからどうしても彼女に加担してしまう部分はあるんだけど、でも、希和子か、彼女の不倫相手の奥さんか、女はどちらの立場にもなりうるよな、と思ったから。
だって、妻子持ちの男が他に女を作って、女房と別れて君と結婚するよ、てな口約束でトラブルになる、なんてもう腐るほど聞く話じゃない。なんでこんなによく聞くのと思うぐらい、世間の日常みたいによく聞く話じゃない。
その場合、不幸な女はこんな風に、自動的に二人、出来上がってしまうんである。いや、本作の場合はそこに赤ん坊だった奥さんの娘が加わるんだから、三人と言ってもいい。

そうなの、悪いのは男なのに、どう考えても男なのに、なぜか奥さんは夫を責めずに愛人を責め、愛人もまた男を責めずに赤ちゃんに執着して……そして、さらった。
そう、男を断罪すれば済む話なのに、こういう場合、なぜ女はそうしないのかな、と常々思っていたんだけれど、こんな極端にドラマティックな話を持ってこられると、なぜか妙に納得してしまった。

ああ、それは、そういう男ってのは、責めるだけの器がないからなんだと。責めてもムダ。暖簾に腕押し。
男を責めれば責めるほど、あまりにも手ごたえがなくて、女の方が落ち込んでいく。
口だけの約束をホイホイしていた時点で、実は判っていたことなのに、その時には本当にその言葉を信じてしまった。

そうして希和子は、いつかは君と、という言葉を信じて子供を堕ろし、術後が思わしくなくて子供の産めない身体になってしまう。
一方で、奥さんの方は、希和子があんなにも望んで望んで、生まれる前から名前まで考えていた子供を産む。しかも、希和子の存在を知った彼女は嫉妬にかられて、大きなお腹を抱えて希和子に見せつけさえした。
「授かった赤ちゃんを殺すなんて信じられない。あなたは赤ちゃんを殺したんでしょ。その中はがらんどう、あなたはがらんどうよ」と言って。

ああ。
なぜこんな場合に、男は責め甲斐がないの。責め甲斐のない男なの。
いきなり裁判から始まる本作でも、バトルになるのは奥さんと希和子ばかりなんだよ。男は失われた可愛い娘との四年間を返してと吠える奥さんを、まるで自分は何もしていないかのように、なだめるばかりなんだよ。

馬鹿野郎。

それにしてもこの設定は、この残酷すぎる設定は、あまりにも鮮烈である。いわゆる刷り込みの期間。生後半年の、まだまだ赤ちゃんの乳児を愛人が連れ出す。
それから実に四年の間、つまり物心がつくまでの、子供の可愛い盛りと言われる間、彼女は愛して慈しんで育てた。
もちろんその子供の方は彼女を母親だと信じて疑わなかったから、ついに捜査の手が伸びて引き離された時、突然の別れに困惑し、突然現われた両親を本当の親だなんて言われても到底受け入れられなかった。

その両親の方も、特に母親の方は、その四年間、死ぬような思いで子供の帰りを待ってた、忘れて新たに赤ちゃんを作れなどという周囲の無神経さに傷ついた彼女の独白は、身を切り裂かれるような痛みを聞いているこっちにも感じさせた。
なのに、そんなにも、待ち続け、待っている間も愛し続けてきた子供は、こともあろうに夫の浮気相手の女を母親と信じ込み、深く愛し、自分に心を開くことがない、だなんて。

ああ。
だからだから、悪いのはひとえに男なんだけど。なのになのに、この場合、男を責めても子供の心は帰ってこない。
いや、心どころか、あの四年間の愛も記憶も思い出も、作られないまま奪われた奥さんの気持ちの方が、確かに同情に値する筈なのだ。
この映画を観る直前にね「阪急電車」を見て、あれもまた、片方の女に子供が出来て、もう片方の女が涙を飲み、復讐を仕掛けるエピソードがあって、あのエピソードにスゲー怖いと思ったけれども、コレを思うとまだあっちは可愛げがあったなどと思ってしまう。
でも、そうなの。冷静に、客観的に考えれば、奥さんの方にこそ同情の気持ちの材料はいっぱいある筈なのに。
なんでなんで、この連れ去り犯の希和子に、こんなにもシンクロしてしまうんだろう。

それは演じる永作博美が素晴らしすぎるからってのは確かにある。彼女が「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で賞を獲りまくったのが、これを見てしまうといささか惜しかったようにさえ思える。これでこそ、獲らせてあげたいなあ。あ、その場合は今度は主演女優か!

いや、本作は両主演の形なんだよね。このさらわれた赤ちゃんが成長し、成人した姿が井上真央である。さすが彼女は抜群の安定感で、この、誰も経験したことのない、“普通ではない家庭で育った子供”を巧みに演じる。
「どんな風に好きになって、愛したらいいのか、判らないよ。子供なんて育てられる筈がない!」と号泣する場面なぞ、かなりの落涙ポイントではあるんだけど、正直、これは永作博美のピンの主演映画ではないかと思われるほど、永作氏が素晴らしすぎて、圧倒的だった。

まあ、ね。真央嬢が演じる役柄は、いわば過去を検証するといったスタンスであり、先に永作氏が演じていく逃避行をルポライターの千草と共に辿っていくという形なんで、永作氏の方にどうしても感情的な重みが生じるのは仕方ないのかもしれない。
でも真央嬢だって、ずっと両親とは他人のような気持ちで育ってきて、特にヒステリックな母親と対峙するシーンなぞはかなり見応えがあるんだけど、でもやっぱり、永作氏に食われちゃうんだよなあ。

ある意味これは、ズルい設定なのかもしれない、とも思う。浮気相手の奥さんが産んだ子供を連れ去るなんて、週刊誌的に考えたら、その連れ去られた子供は間違いなく愛人からの虐待に遭い、つまり「私は子供が産めなかったのに、なんであなたは産まれてきたの、キーーー!!!」みたいなさ、そういうのを想像するじゃない。
でも希和子と薫(希和子が名付けた名前)は……まるでこの世でたった二人きりの、まるで恋人みたい、なんだもん。

薫が、自分に父親がいないことをまるで気にしていない、ていうか、世の中には母親と対の父親という存在があること自体知らないみたいな、そんな風に、希和子と一心同体で、離れたら深い傷で血が流れそうなぐらいで……。
そう思わせるのは、結構意図的かもしれない。本作の原作が女性であるから、だなんてヤボなことは言いたかないけど、でもそういうのもやっぱりやっぱり……あると思う。

だってきっと、いや絶対、希和子は薫をさらった時点から、もう不倫相手の男の存在は頭から消え去っていたに違いないんだもの。
そりゃ最初は、自分が子供を産めない身体になってしまったのに、奥さんは産んだ。その赤ちゃんを見たらふんぎりがつく。そうしたら自分はどこか遠くに行って一人ひっそりと生きていこう、そう彼女は心に決めていたんだもの。

だけど赤ちゃんをひと目見たら、しかもその赤ちゃんが自分に無邪気な笑顔を向けたもんだから、パーンと飛んでしまった。死んでしまった筈の、薫と名づけた赤ちゃんが、目の前にいる、なんて思ったとしたら、そりゃあこの後の、擬似というにはせつな過ぎる希和子と薫の絆をある意味否定してしまうような感はあるけど、でも少なくとも、この時点でもう、彼の存在は消え去ったのだ。
本当は、彼のDNAの半分はこの子にあるのに。彼女のDNAはこの子には皆無なのに。なのに。

……あのね、私はちょっと、日本の実子至上主義に意義を覚えるところがあるのよ。実子じゃなければいけない、子供が産めないだけで女はダメだ、子供を育てるなら自分の子供でなければ、みたいなさ。
世の中には親に恵まれない子供たちが沢山いるんだから、子宝に恵まれない親たちともっと結びつけるべきだと、思ってるんだけど……なんせ私は一人身を自ら選択したヤツだからさ、そりゃー大きいことは言えないんだけど。

でも、でも……お気楽な気分でそんな身分を選択した私でも、なんだかこう年をとってくると、妙に赤ちゃんが、子供がやたら可愛く見えて、ああ、女に生まれたのに、五体満足なのに、子供が生める身体を神様からもらったのに、もったいないことしたかなあ、と今更ながら思ったりもするのよ。
何かね、赤ちゃんとか幼い子供のわきわきした小さな手とか、ぷっくらしたほっぺとかぷくぷくの膝小僧とか見ると涙出ちゃう。年寄りだな(爆)。

だからこそ余計にそう思うのかもしれない。赤ちゃんって、子供って、そんなに、産んだ親じゃなきゃいけないのだろうか、って。
もちろん本作は、そんな主題じゃない。薫は、いや恵理菜は、五体満足な両親の元に生まれたのだから。彼女は大人の不幸な都合によって、本来親として愛する存在ではない相手を愛してしまったのだから。
でもね、なんか、なんか、ね。

そう、やっぱりそんな女が感じる、女だけが感じる気持ちは、原作者が女性だからじゃないかと、うがってしまう。
希和子が行くところがなくなって一時身を寄せる「エンゼルホーム」なる、修道院のような、駆け込み寺のような、自給自足の生活を目指す女と子供だけの場所は、女の幸せに男はいらない。子供がいれば、あとは男はいらない、と言っているような気がするんだもの。
このエンゼルホームは本当に象徴的で、サリン事件の後に新興宗教が睨まれて衰退した、とその後が語られるのもなかなかに効いているような……なんかスレスレの場所なんだよね。

見た目は本当に修道院みたい。女たちはここでつけられた、聖書に出てくるような名前で呼びあっている。
主宰者であるエンゼルさんを演じる余さんのキョーレツなこと!キッツイ関西弁で、「俗世の言葉で喋るな。魂で話しなさい」と言う。
希和子が関西訛りになっていったのは、このあたりからだったように思う。そして薫もすっかり関西弁である。

ここで薫が一緒に遊んでいた、女たちが連れていた子供たちのうちの一人が、千草だったんである。演じる小池栄子、凄く良かったなあ。彼女はいつ頃までこのエンゼルホームにいたのか、とにかく男の存在が怖いと思うほどにまで、この環境で育ってしまったのか。
猫背で、おどおどとして、先を焦っているような独特な喋り方。なんとも個性的なキャラ作りで、しかし本当に、この千草、という女の子を体現している。

ルポライターと言いながら、薫の、いや恵理菜の記事を書きたいと言いながらも、恵理菜が心を許してしまったのは、懐に入られてしまったのは、千草がそんなプロ意識ではなく彼女に接触を図ったのを、どこか本能的に感じていたからのように思えてならない。

二人が一時期暮らしていたエンゼルホーム、あるいはエンゼルさんが尊んでいたのは、救いを求める女たちよりも、彼女たちが連れてくる子供たちだった、と語られる。本当の天使を作りたかったのだと。
本当の天使は、男に騙されたりもしないだろうし、そもそも男と情を交わしたりもしないのだろう。

エンゼルさんは劇中では割と当り障りのないことしか言ってなかったけど、台詞自体はそうだったけど、でも余さんが体現したエンゼルさんは、確かにそれ以上の、カリスマ性といったらそうなんだけど、それ以上の、高圧的な怖さを感じさせもした。
希和子がそこを出たのは、警察の監査が入りそうだという話を聞いたから。エンゼルさんは全てを判っている雰囲気で彼女を抑えようとしたけど、希和子は薫との時間を奪われたくなくて、ここで捕まりたくなくて、飛び出した。

次が、希和子と薫の最後の地、なんだよね。エンゼルホームに導いてくれたエステルさんの故郷。子供を姑に取られたエステルさんと希和子は、心を響かせ合っていた。
エステルさんを演じる市川実和子がまた、イイのよ。市川実和子と市川実日子、出てきた時には名前以外は全然似てないなー、と思ったけど、不思議と今回の市川実和子には、それまで感じていたセクシャルな雰囲気が封じられていたせいか、実日子ちゃんとなんか凄い似てて、やっぱり姉妹なのね、と思った。声が似てるんだね。

そのエステルさんの故郷の小豆島。エステルさんの実家の素麺工場の奥さんが、希和子と薫に行くところがないらしいと見てとって、住みこみで雇ってくれる。
尺的にもここらあたりが最後の地だろうなと思ってはいたけれど、実に丁寧にこの地での思い出を重ねていくので、これはヤバい、これはヤバい、別れのシーンには号泣してしまう、と。

お遍路さんがたどる断崖絶壁のお寺、伝統文化の農村歌舞伎、薫は地元の素朴な子供たちと仲良くなり、彼らの小学校入学の記念写真にも収まる。
私にランドセルを買わせて、と素麺工場の奥さんが言ってくれる。……希和子は薫が小学校にあがる前に捕まってしまったけど、思えば小学校に上がる時の手続きやらなんやらで、どっちにしろ捕まってしまったに違いないんだよな……。

それでも。この穏やかな地でずっとずっと暮らしていければいいなと思ってた。
でも……お祭りがね、あるのよ。松明を持って棚田をめぐる道を下っていく、本当に美しいお祭り。そこに、伝等のお祭りをカメラに収めようとして構えている沢山の人がいて、もうその時点で希和子はイヤな予感がしてた。
案の定、新聞の写真コンテストにその写真が出てしまった。希和子はこの島を出る決意をする。

その前に古い写真館に寄って記念写真を撮る場面が、もう、もう、……身も世もなく号泣してしまう。
あのね、この場面はいくつかカットを割っててさ、何回かに分けて挿入場所が違うのね。
最初は、希和子が薫になんて言い聞かせているのか聞こえなかった。老写真家(田中泯。雰囲気ありすぎ!)が「さあ、顔をあげて」という声だけだった。でもね、でも、でもでも……。

希和子はさあ、船着き場で捕まることは、予測済みだったんだよね。船着き場じゃなくても、どこか、遠くない時点で。もちろん全力で逃げるつもりではいたけど、それでも……。
「今までありがとう。本当に幸せだった」……なんてことは言ってなかった?もう泣きすぎて、よく覚えてない(爆)。

確かに希和子はやってはいけないことをしたんだけど、私が奥さんの立場だったら、そりゃあ絶対に絶対に希和子は許せない、殺したって飽き足らないぐらいなんだけど、でも、でも……。
この写真館で、どこか戸惑った薫を抱いて泣き顔でカメラに収まる希和子と、船着き場でついに捜査の手が伸びて、もうここで一生会えなくなることを覚悟して薫の手を離す希和子には、これで泣いたら彼女を、この犯罪を擁護することになってしまうことが判っていても、もう、ボロボロボロボロ泣いてしまうんだ……。

てか、ね。そうだそうだ、主演の一方は真央ちゃんであり(爆)、彼女は自分をさらった、母親だと思っていた希和子と同じように、妻子ある男の子供を身籠ってしまった、というくだりがある訳でさ。
私はあの人のようにはならない。がらんどうになりたくない、この子を産む、と、かなりアテツケ入った台詞をぶつけて母親からぶたれるなんてシークエンスもあってかなり激烈ではあるんだけども。

その恵理菜の相手の岸田という男を演じるのが劇団ひとりで、彼はすっかり役者だよなあ!舌入れないキスと真央嬢のバックヌードだけとはいえ、畳の狭い部屋で汗に濡れた二人の“布団シーン”はなかなかエロティック。
そしてそう、岸田もまた、同じことを言うのだ。いつかは恵理菜ちゃんと一緒に暮らしたいと思ってる、と。もしもの話だと言って彼女が子供が出来たといったらどうする?と投げかけると、脅かすなよ、と言いながらやはり深刻じゃなく、「いつかは……」と同じ台詞を繰り返す。

しかも言うにことかいて「坊主がまた小さいから、もうちょっと大きくなって落ち着いたら」アホか!そんなん、そのままお前らも落ち着くに決まってるやんか!……と、恵理菜も判ったから、岸田に別れを告げた、んだろうなあ……。
その後、岸田がぜんっぜん出てこないあたりが、まあそりゃあ恵理菜がパキッと別れたからではあるんだけど、ああ、そういうことなのかあ、と思ってなんとも……。
いつかは女房と別れる。君といつかは一緒に暮らしたい。いつかは、いつかは、いつかは……。世の中のどれだけの男が、口からでまかせの同じ台詞を吐いているのだろう。

まあ今まで散々、真央ちゃんの方が不利だわとか言っちゃったけど、でも彼女が千草と共に希和子の足跡を辿って小豆島まで辿り着き、ついにあの写真館であの写真を目にする場面は号泣必至である。
てか、このシークエンスで先述の様に、写真を撮った時の場面が時空を越えて挿入されるからなんだけど。そんでもって、出所した希和子が真っ先に向かったのがこの写真館だと判ったからなんだけど。

写真館のご主人が写真を焼いてくれる。暗室の中、浮かび上がる画にじっと釘づけになっていた恵理菜は、弾かれたように外へと飛び出す。
慌てて追いかける千草。千草はね、母親になる自信がない、子供を育てる自信がないと言った恵理菜に、自分も一緒に母親になる。なんとかなるよ、と言った。言ってくれた。
こういうのもね、女が夢見る女同士の友情なのよ。だって……結婚したり、いや結婚よりも、子供が出来た友達って、もうそれだけでいっきなり距離が出来ちゃうんだもん。

母親になれない女は、母親になった友達と友達関係を継続するのは難しい、だなんて思っちゃったりするんだもん。
何かね、不毛な私の琴線に最も触れたのはここかもしれない(爆)。そして、お母さんと思っていた希和子との写真を見て号泣しながら飛び出し、道にへたりこみ、でもそこで恵理菜から出てきた台詞は意外だった……ような、いや、凄く素敵な台詞だった。
「私、もうこの子が好き。不思議。まだ顔も見てないのに」超号泣!確かに最後は真央嬢がキッチリ締めて、両主演の存在感を全うしてくれた。

うう、本当はね、森口瑶子演じる母親も本当に可哀想だし、情けなさ過ぎる夫の田中哲司とかさあ、このガタガタになる家庭に関してももっともっと語るべきなんだけど、うっかり、本当は本意じゃないけど、ダメだと思うけど、永作博美嬢のあまりの素晴らしさに、どうしても希和子にシンクロしてしまって……。
揺れる感情がそのまま、水が地上に湧き出るみたいにぶわーっと染み出るような。
彼女が逃亡のため、風貌を変えるために文具用の切れなそうなハサミで焦りをにじませながらジョキジョキ髪を切るシーン、しかも赤ん坊を抱きながら、のあの場面とか、すっごい緊迫感があって、もうとにかく彼女が素晴らしくて素晴らしくてさあ。★★★★★


YOYOCHU SEXと代々木忠の世界
2010年 115分 日本 カラー
監督:石岡正人 脚本:
撮影:西川憲 椿原久平 音楽:後藤英雄
出演:代々木忠 笑福亭鶴瓶 槇村さとる 和田秀樹 藤本由香里 加藤鷹 愛染恭子 村西とおる 高橋がなり 奥村幸士 藤村政治 斉藤雅則 栗崎充 太賀麻郎 本橋信宏 栗原早記 柏木みな 南智子 長井泉 菅原千恵 渡邊和子 瀬田愼 岸田光明 笠原一幸

2011/1/27/木 劇場(銀座シネパトス)
知らなかったなあ、このヨヨチュウと呼ばれる伝説の監督。私は本当にごくごく断片的にしかアダルト方面を観ていないので、村西とおるの名前ぐらいは知っていたけれど、その彼と同じぐらい、いやきっともっと有名である彼のことを全く知らなかった。
私がいわゆるアダルト作品に触れ始めるのは、ピンク四天王がサブカルでもてはやされた頃だから本当に最近で、やっぱりそれは曲がりなりにも映画だから、という気持ちがあったから、やっぱりどこかでAVに対してはアレルギー反応があった。でも、女優さんでも監督さんでもAVとピンクを行き来している人が沢山いたから、やっぱり気にならずいはいられなくなってはきていた。

うーんでも、やっぱりアレルギー感覚はあったかもしれないなあ。こちとらヌくために観てるわけじゃない、なんてね(爆)。
まあ確かにピンクにしてもAVにしても、明らかに男性に向けて作られている市場だから、女性の観客はいくらそれに興味や感心があったりしてもなかなか立場的に難しい。
そりゃ女性だって同じように性的欲求に揺さぶられることがあるにしても、やっぱりそれは、男性向けに作られたものに対してはナカナカ難しいんだもの。

と、いうことを書いてみて、ふと思い当たった。ヨヨチュウさんがなぜこんなにも伝説になったのかってのは、まさにその垣根を取っ払ったからじゃないか、って。
実際、世の中に氾濫するAV作品は、まあ私が見ちゃったものだけが運悪くそうなのかもしれないけど、正直その殆んどは即物的で惰性で退屈。男はヌケるのかもしれないけど、正直言って全く現実的じゃないし、ダラダラしてるし、やたら股広げてうるさくアンアン言ってるだけで、感じてないのがアリアリで全然エロくないし、と思い……。
まあ、目的が、男性がヌクための商品だから仕方ないんだけど、この氾濫するAVの波の中から心と身体に訴える作品を見つけ出すのは本当に困難だよな、と思っていたんだけれど……その黎明期から、その質に定評があったこんな人物がいたんだなあ。しかも75歳の今でも現役であるというんだから!

よく、洋ピンと言われたり、実は韓国にエロいのがあるんだとか、色々海外の話も一時は聞いたけれども、今こんな風にしっかりと産業として残っているのは、恐らく日本だけではなかろうかと思われる。
海外のものが衰退していったのは様々な理由があるだろうけれど、やはりこういったエポックメイキングとなる人物がいなかったことも要因にあるんじゃないかと思ったりする。
だってやっぱり洋ピンって、それこそ即物的で、つまらないことこの上ないもんね……。まあある意味、日本で今氾濫しているAV作品にもそうした即物性は厳然としてあるけれど、これだけジャンルや女優や企画で細分化され、中身はともかくパッケージだけでも商業性の成熟が見てとれる産業として発展しているのは、日本だけだろうなあ。
そしてそれが、他のあらゆる表現やメディアの成熟につながっているというのもそうだし。

“中身はともかく”などと言っちゃったけど、つまりこれだけの数が出るだけの元となった、真に力のある作り手や作品があるってことなんだよな、てことを、私は今まで何で思い当たらなかったんだろう。
ピンクの監督さんをしている人たちがAV作品も撮っていることは知っていたけれど、やはりそれは数が限られていたし、やっぱりAVというだけで、ちょっとケーベツしてしまうような気持ちは持っていたかもしれない(爆)。
それもね、ピンク四天王に出会っていなければ、いまだに、こういう作品を見ようとも思わないほどに、ケッペキだったかもしれないんだよなあ。

だってさ、今AV作品では当たり前になっているような、素人をスカウトしてきて、ダンナや彼氏との性生活をインタビューして聞いて、彼女の中の秘めたる欲望を引き出してオナニーさせたりセックスさせたりする、ていうのが、このヨヨチュウさんが最初だったっていうのが、凄い感激したんだもの!
いや、今やね、そうした手法も使われすぎて、擦り切れすぎて、素人みたいに映してるけど絶対違うだろ!みたいな場慣れ感を感じざるを得なかったりしてさ。
今流通している作品を見ても、メッチャ“作られている”感を感じざるを得ないんだけど、それでも彼が最初に作り出した革新的手法が、今のAVにも連綿と続いている、つまりヌケるということが、凄いと思ってさあ……。

で、なんたって彼が最初だったから、その最初の衝撃は今想像してもむべなるかなと思うし、実際映像を見てみても凄いのだ……。
本当に、“作って”ない、“用意して”ない、“素人”のフリしてない……メイクや髪型はその当時の古さだけど、女性の心や身体の生々しさが凄くて……。
インタビューでじりじりと内面に迫っていくっていうのも、いまだに使われている手法だけれど、今はやっぱり、もう段取りが見えちゃってるんだもん。そのインタビューに女の子が“恥じらいながらも心を開いていく”っていうのが見えちゃってるから。つまり、それだけこの形が確立されたっていうぐらい、衝撃的な形式だったんだよね。

で、それが実際に作られた最初は、こんなにも赤裸々で、本当に、固唾を飲んで見守ってしまう。代々木氏は「そこまでやってくれると思ってないのに、さらけだしてくれる、感動だよね」と当時を振り返って言い、この「ザ・オナニー」シリーズは大ヒットを記録して、劇場公開にまで発展し、観客がつめかけ、女性客も多くいたという。
この“劇場”が一般劇場だったのか、いわゆる成人劇場だったのかまでは判らないけど……素人として出演している女優さんがそれを了承したのも凄いよなあ。
てか、こうして何十年も経って今、この映画にもバッチリ使用されているんだから、きっと彼女にとっては本当に誇れる出来事だったに違いない。

ヨヨチュウの“生撮り”によってスターとなり、「白日夢」の成功によって本番女優として名をはせることになる愛染恭子が、「ザ・オナニー」の出現で、こんな素に勝てるわけがない、もうエロものは辞めさせて欲しい、と言ったというエピソードも強烈。
てか、私それこそこんな伝説の女優さんの作品をあまり観る機会がなくったんだけど、こんなにカッコイイ女優さんだったのね!いやー、私ホント、映画ファン失格だな(爆)。
彼女の活躍が、映画は勿論、このアダルト映像産業に多大すぎる影響を与えていたというのに、やっぱりなんかヘンケンがあるんだよね、私……。

ところで、こうしたエピソードの数々は、いわゆる流れの中の一編に過ぎない。本作はヨヨチュウという巨人を通して、一大産業に発展したアダルト映像産業を系統立てて紹介するといった、ひとつの研究文献的な役割を大いに発揮している。
実際これは、先述したように、私のようにごくごく断片的にしか接してこなかった人間にとって、非常に勉強になるんだもの。

家庭用ビデオデッキの普及。傾きかけた経営を立て直すために目をつけた日活という大手の参入。
それによって大きなヒット作を連発したことで警察に目をつけられての摘発。長い裁判。
表現の自由と無罪を勝ち取ることによってますます隆盛していく業界。その一方でのビデ倫や安売りビデオ店による弊害。立ち向かうインディーズの作り手や経営者たち。
私世代にも衝撃的な記憶に残る、コミックやビデオを大量保有していた宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件がビデオ業界を揺るがしたのは当然で、まあそれは耳にしてはいたけれど、そうして検証されるといかに業界を震撼させたってことが判り、改めて深く考えさせられるんである。

あるいは一世を風靡したビニ本(懐かしいなー)、その摘発で日本中を逃亡した末にビデオ界に活路を見い出した村西とおるたちの世代、世間に認知された波に乗って淫靡なイメージを断ち切り、唯一メジャーに出ていった飯島愛……本当に、日本の高度成長期の物語でも見ているような気持ちになる。
時代的にバブルにも巻き込まれ、産業そのものは勿論、ヨヨチュウさん自身も大きな変換を迫られたりもする。
だけど、この最初から今に至る全ての流れの中に、トップを切ってヨヨチュウさんがいるんだよね。
裁判の時なんか制作会社に逃げを打たれて自分だけで戦わなければならなくなったり、その中で奥さんが身籠った第一子が生後まもなくして亡くなってしまったりと、激動の人生を送るんである。

てか、ヨヨチュウさんの人生は最初から激動である。母は彼を産んでまもなく死に、軍人だった父はなかなか家にいることが出来なくて、親戚中をたらいまわしにされて育った……というまでは、よくある話かもしれない。
まあ後に、この父親に幼少期、虐待されて育ったという事実が披露され、そうした家庭不和の中で育った女優さんが多いことがいわば彼をこの天職に結びつけたのかも、という展開があるにしても、その展開を考えても、よくある話ではある。

ただ、その後がふるっている。彼、極道になっちゃうんだよね。それもね、なんか聞いてると唖然とするほど自然な流れなの。極道になる男なんて、と責めることも出来ないぐらいに。もうどうしようもないの。
残された写真も、本当に、仁義なき闘いみたいな堂に入った集合写真。しかし幸か不幸か、いや、幸には違いない、組の抗争の事情で彼は小指を落とされてカタギになった。
画面では確認できなかったけど、そうか、ヨヨチュウさんは小指がないんだね……。

そのエピソードがあんまり強烈なんで、その後どうやってアダルト産業に入っていったのかあんまり覚えてないような(爆)。
でも、その世界に入ってからの彼はまさに邁進。次々に革新を起こしていくんである。

彼が最も執心し、いまだにこだわっているのは、女性の真のオーガズム。
いや、女性に限らず、男優にもそれをさせる場面がキョーレツで、相手をした女優が「勃ってないのに」と気にするあたりがやたらリアルだったりするのだが、基本は女性のオーガズムなんである。
演技じゃなくて、男性がヌクためのわざとじゃなくて、本当にオーガズム、つまりイクことの大切さを追究する。
そのためには手段を選ばず、催眠術でもチャネリングでもなんでもやっちゃう。このチャネリングってのが最も衝撃的で、そばでセックスしているのを感覚で感じとって、オーガズムに達するというものなのだが、確かに映像も衝撃的だけれど……さすがにこれはマジかよ、と思ったかも……。

女性のオーガズムの追究に関しては、実際に関わった女性たちは本当に幸せだったんだろうと、インタビューに答えている女優たちを見ていても思うし、目をつぶらずに、相手の目を見てイケ、というヨヨチュウさんの言葉が凄く感動的だし、こここそがメインだとは思うんだけど……。
でもさ、やっぱり、女性のオーガズムは女性にしか、ていうか、それぞれの女性にしか、判らないじゃない。この点においてヨヨチュウさんを神様みたいに言うのはなんとなく違和感があったけど、それはあの衝撃のチャネリングがあったからかもしれない(爆)。
まああるいは、私がそうした、ヨヨチュウさんが提唱する真のオーガズムを経験してないからかもしれないけど??(言えるか!)

でもね、この点については、ヨヨチュウを囲む女性たちが割と冷静に突っ込んでいるんだよね。女優さんとかの彼と作品的にかかわっている人たちじゃなくて、いわゆる文化人と呼ばれる女性たち。
仮にそこで本当にオーガズムを感じたとしても、その時点では救われたかもしれないけれど、だけど人生は長いし、この先のことは判らないじゃない?というのには私は大いに共感しちゃったんだよなあ……。
そう、それこそ女は男より長生きだしさ(爆)、生殖能力は男よりも早く失われるしさ(爆爆)。オーガズムを感じることが女の幸せと言われると、身体的にそれが難しくなった時からはどうすんのという気持ちもあるしさ……。

……なんか、行きたくもない深い話になってしまった(爆)。でもね、基本受け身である女が、セックスで真のオーガズムを感じることは確かに難しいことであり、それこそ男性のヌく道具になっている屈辱はあるんだよね。
それを判ってくれているだけで、女たちがヨヨチュウさんを崇めるのは、なんか、なんとなく判る気はするんだよな……。
その中に、漫画家の槙村さとるがいることにビックリする。それこそ影響を受けたと言ったら、少女期の私は彼女に大いなる影響を受けたよ!コミックスも何冊も持ってる!
そんな彼女が……幼少期父親に性的な暴力を受けていたという事実を(既に公表しているらしいが)知ってボーゼンとする。
そんな辛い記憶を持ち、しかし自分の世界を既に確立している彼女が動かされるヨヨチュウさんって!とその角度から納得しちゃったらいけない?でも本当にビックリしたなあ……。

ヨヨチュウさんの奥さんのインタビューがとても印象的である。何でも彼女のインタビューが最も許可を取るのが難しかったという。
女遊びがキツかった彼に悩まされ、第一子の出産に悩んだ末、産んだもののほどなくして子供は亡くなってしまうし。
大体が、ヨヨチュウさんがカタギになって上京した時に、三人の愛人連れだったというのがスゴすぎるんである。で、この奥さんと恋に落ちて、愛人たちに“好きな女が出来た”と告げ、面通しして、了承を得たと言うんだから!ステキ過ぎる!いや……??

奥さんが初めて「あなた」と呼んだ日のエピソードは、多分にメロドラマ的ではあるけれど、それが事実だけに余計にキョーレツである。
つまり彼の浮気相手が事務所に来ていて、彼は逃げをうってて、奥さんが「あなた、今夜の夕食はなんにする?」……メロドラマが現実になるのって、こんなにインパクトがあるんだわね!

多重人格(解離性同一性障害)の女性たちを女優として迎え入れるシークエンスも強烈だったなあ。
精神科医が解説よろしく出てきて、その中の人格にオーガズムでも何でも、精神的満足を与えてやれることは、有効かもしれないと言うのはナルホドと思う一方で、その精神科医の存在自体はなんとなく胡散臭い気もしたけど(ゴメン!だって先述のように、女性のオーガズムに関して、男性に判ったように言われるのってなんかやっぱりどこか……納得いかないんだもん)。

でもね……多重人格の女性たちのインタビュー映像が残されているだけでも、本作、あるいはヨヨチュウ作品はすんごい、意味があると思ったなあ。
四歳の女の子の人格で喋っている女性の映像なんて、ドラマとか映画で役者が演じている感じとは当然だけど全然違って、衝撃的だった。
この多重人格の女性たちとセックスし、オーガズムを感じさせるのって、タイミング間違ってこの幼い女の子の人格出てきたら、身体が大人だけにトンでもないことになるんじゃないの?とかいらん心配をしてしまったのは、やはり私が女性だからなのだろうか。

このシークエンスは、更に劇的な展開を迎える。彼女たちの相手になったある男優さんが、その優しい性格ゆえに精神的支えを一手に引き受けて、しかし急な病に犯されて死んでしまうんである。
優しい面立ちのその男優さんのストップモーションが、彼が亡くなったことを告げる。支えを失った女性たちが一気にヨヨチュウの元を訪れたことで、ヨヨチュウが鬱病になってしまうんである。
ここでまたあの精神科医が登場し、日本の精神科医療のサポートの貧弱さを訴えるんである。精神科医自身が追い詰められてしまい、患者をみるどころではなくなってしまう、と。そしてそれこそヨヨチュウらは精神科医ですらないのだから。

一見脱線しているようにも見えながら、こうした問題が出てくるのは、アダルト産業、というか、セックスがヨヨチュウさんが提唱するように幸せであるべきことであり、そこに解決の糸口があるからであり、そしてだからこそ……そこに到達するまでの、到達出来ない人間が様々な苦悩を抱えているということなんだろうと思う。
多重人格なんてその最も象徴たることで、セックスが幸福そのものであり、つまり人間たるものを示すことならば、つまりそれは人格であるってことなんだものね。

なんかもう、ね。全然言い切れないけど、エロ産業が隆盛している日本が世界から攻撃されることもあったりするけど、でもエロは人間の根源だし、感動的なほどに純粋な欲求だし、愛だし。
何より、エロが最後の砦、タブーの最突端であるならば、そこに至るまでこんなにも成熟している、つまりすべてのジャンルにすべての思想に成熟している日本を誇るべきなんじゃないかなあって、思うのだ。

いや、それも逃げかな。やっぱりヨヨチュウさんは、日本女性が性に臆していることをいまだに憂いているのかも。
ヨヨチュウによって奔放になったように見える性市場だけれど、それによって縮こまってしまった女性もきっと、いるだろうし……。
なんかね、本作でも、仕方ないけどこのAV産業の隆盛に関して証言している関係者は殆んどが男性じゃない。女性は殆んどが、女優さんなんだよね。つまり受け身で、積極的に関わった人物じゃない。
でも、今は、それこそピンクでもAVでも女性の製作者が積極的にかかわっているのだから、きっと、やっと時代が変わったということなのだろうと思う。

でもね、やっぱり日本は幸せな国だと思うなあ。性の表現も表現の自由だと、ここまで胸を張って言えるのは、日本ぐらいじゃないかと思う。
エロ隠すからいいんだ、隠すべきだという思想が海外のアダルトを衰退させたんじゃないかということを考えると、日本のクリエイターは凄く闘っていると感じて、誇りに思うのだ。 ★★★★☆


トップに戻る