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最初は確かにその台詞から始まるのよ。町の寂れた薬局の女主人が、リンリンと鳴る電話にめんどくさそーに出る台詞。
そう、タイトルの元気のいいイメージとは違うの、はい!なんて元気良く出てない。もう、かったりそーなの。
電話の向こうのセールスマンが、そちらの中学生の娘さんの……と営業スマイルが見えそうなぐらいのアイソのいい声で話し始めると間髪いれずに「間に合ってます!」ガチャン!
で、外に出てウーンと伸びをくれた後に、お尻を突き出してブゥー!えええ!
通りかかったヤンキーな兄ちゃんが驚いて振り返ると「何見てんだよ、見せもんじゃねぇぞ!」えええええ!
も、もう驚きの連続で口アングリ、確かに個性的なタイトルだけど、そのタイトルから受けた予想と違うぅぅ。
この主人公である薬局の女主人、大塚真名美を演じる円城寺あやのキョーレツさに尽きるんである。
ていうか彼女ってもの凄−く見覚えがある、っていうか、めっちゃあちこち出てるけど、今イチ顔と名前が一致してなかったかもしれない。
今回、えー!?この人、こんな可憐な名前の人なの?みたいな(爆)。恐らく映画の主演は初めてからだというのもあるだろうなあ、とにかくバイプレーヤーで。ドラマの方が多いのかな。
彼女が演じる“大塚さん”は、客商売をする気あんのか、って感じなのよ。入ってきた客を恫喝よろしく怒鳴りつけるんだもの。
ていうか、本作の中で客として訪れるのはたった一人、ほぼこの大塚さんとタイ張るもう一人の主人公ともいえるオクテの女子中学生、永作恵美だけなのだが。
恵美が最初に店を訪れた時なんてさ、ヘッドフォンでガンガン音楽聞きながらノリノリで、全然客に気づいてなくて、何度もレジカウンターから声をかける恵美に気付いてウワッとビックリし、「何、強盗!?」(なんでそうなる!)恵美が手にマニキュアを持っているのを見ると、「あんたよく万引きしなかったわね」字面では褒めているように見えるが、口調は完全に怒ってる(なんで!?)。
「この間なんてタイガーバームばっかり万引きされたのよ。タイガーバーム万引きしてどうするっていうのよ、えぇ?」みたいに、なぜか恵美がメッチャ怒られてるんである。
「知りませんよ」とさすがに恵美がムッとすると、「あんた、万引きしなかったから、タイガーバームおまけしてあげる」いやいやいらないって……ていうか、マニキュアの値段を勝手に650円とかテキトーに言って、恵美に「400円って書いてありますけど」とやり返され「そう、400円よ」とまるで悪びれもせず、ていうか、これまた怒ったように言う訳。
な、な、な、なんなんだ、この人は。ていうか、こんなんじゃ全然雰囲気伝えてないのよ、もっともっと凄いのよ、大塚さんは、てか円城寺あやは!
店がハネると、気兼ねない常連の客と肉のハナマサの前で待ち合わせて値引きのお惣菜を“狩り”に出かけ、かき揚げをゲット、「ウマイ、かき揚げウマイウマイ」とこれまた怒ったように言いながらそれだけでごはんをかきこむ異様さを、とても文章なんかでは表現できない!
あーもう、ホントいつも自分の言葉の限界を感じてはいるけれど、こんなに実際との壁を感じたのも久しぶりだよ……とにかくスゴいんだもん!
実はこれは、大阪弁にしたら、大阪のおばちゃんならいそうかもしれない……などと言ってしまったらめっちゃヘンケンだろうか(爆)。
東京弁って、遊びがないというか、全部本気に聞こえるから、この調子でまくし立てられるとマジで怖いんだよね。
いや、まくし立てられる大阪弁も怖いけど(爆)。とにかく、こういうテイスト、初めて見る感じだったんだよなあ。とにかく驚いちゃって。
大体、娘に対してもそんな感じなんだもん。あんた、そんなハデなカッコして、男が寄ってくるよ、ウチは妊娠禁止だからね、ニ・ン・シ・ン・キ・ン・シ!
いやあの……恋愛禁止とかいうのならまだ聞いたこともあろうが(ま、それ自体アナクロではあるけれど)、妊娠禁止て……。
まあ確かに娘の英子はいかにも今風のギャルで(って言い回し自体オバチャンぽいが)、ウッセ、クソババア、てな反応なのだが、まあムリはないわな。
だって夕食は“狩り”でゲットしたデミグラスハンバーグ。「デミグラスってのが、私っぽいでしょ。さっさと食べちゃってよ」い、意味不明、支離滅裂……これじゃあ娘がクソババアと反発するのもムリはないが、それぐらいで収まってるだけまだイイ子かもしれない……。
でね、そう、そんなもう枯れきった、ていうか、我が道を行くだけの大塚さんが出会ったのが、あのマニキュアを買いに来た恵美であり、彼女はそれ以来日参するのね。で、毎回違う色のマニキュアを買う訳。
この小娘、色気づきやがって、みたいにつるし上げる大塚さんは、恵美の指の爪が全て違う色に染まっていることを発見して更に責めたてる。
すると恵美は、同級生の男の子に恋をしている、これは恋のおまじないなんだ、と言うんである。カラフルな爪にして、コッソリ隠れて彼の名前を呼びかけるとか、彼の机にコッソリ自分の名前を刻むとか、靴箱の彼の名札をコッソリはがしてゲットしてしまうとか、ああ、コッソリは恋のキーワードねー。
こーゆー純な感じ、現代っ子(て言い方がまたしてもオバチャンだ)たちにもあるの、とふと感動したこっちをまぜっかえすように、大塚さんはバッカじゃないの、クサすんだけど、もう枯れきった彼女の中に甦る甘美な記憶が、恵美の恋物語と同時進行するんである。
あのね、大塚さんはどうやら未亡人らしいんだよね。粗末な祭壇(てあたりが、彼女のメンドくさがりそーな性格を反映してるわな)に亡き夫と思しき写真が据えられてるし。
なんかね、オフィシャルサイトを見てみると映画には反映されてないキャラの裏設定がてんこもりで、どうにもそのあたりが気になるところ、なのよね。
私が観た回は違ったんだけど、併映の短篇で、“もうひとつの大塚薬局”というのが上映されていたらしい。メッチャそれ観たかったなあ!
ま、その夫との関係は知らんが、大塚さんの初恋、かもしれない中学生時代の回想は恵美以上に甘酸っぱく、そしてほろ苦いんである。
恵美が恋してるのがどういう男の子なのか聞き出した大塚さんがね、ソイツが、頭がいい訳でもなく、サッカー部だけど補欠(エースに恋したか、と先んじた大塚さんに、恵美が返したこのオチにズッコける間がカンペキ!)。
どこが好きかと言うならば、「憎めないとこ」大塚さん「グッタリするほどダメな男ね」
この表現の仕方と、ホンットにグッタリ、ガックリしている彼女の言い様が可笑しくて噴き出してしまう場面なんだけど、でも実は、こんな男の子に大塚さんもまた、恵美と同じ年頃にホレていたという回想がね、たまんないのだ!
これってさあ、尺も決して長くないし、ネットムービーという企画故か、映像もあんまりクリアじゃないんだけど、それが特にこの回想部分、大塚さんの中学生時代の“あの頃”感にはひどくピタリ来て、なんかいちいち泣きそーになっちゃう。
だって彼女の中学生時代って、私のそれと、そんなに変わんないだろうなあと思うんだもん……。制服の感じ、机の感じ。
いやそもそも、恵美が通うこの地元の中学校、てかこの地元、南足柄のめっちゃローカルな風景と空気はその頃から全く変わってない感じで。
だって少なくとも机は変わってないな……え、今でもこういう机なの?なんか最近の学校モノではもっとセラミックな感じ(て言い方もオバチャンだ……もういいって)のを使ってるのかと思ったけど。
制服はね、確かにチェックのミニスカで“今風”だけど(さすがにハズかしくなってきたのでちょっとダッシュ付きにしてみた……)、恋のおまじないやら、好きな相手にやたらぎこちなくなる感じやら、こんなに普遍的なものなの、こんなに変わらないの?と、そんなことで嬉しくなること自体がホント、オバチャンなんだけど(爆爆)。
まあ、大塚さんの回想の方はもっとシンラツで、というか、さすが大塚さんだから、もう中学生時代から我が道を行くで(爆)。
彼女が当時恋していたのは、まだ小学生ちゃうの、というぐらいちっこい男の子。学生服のズボンなんてチャップリンみたいにウエスト引き上げてダボダボで、裾を必要以上にまくりあげて足首が見えている、みたいな、ああ、こんな子いたなあ、と、やっぱり時代が共通しているかも(爆爆)。
なぜだかそんな男の子に恋しちゃった大塚さん、そう、憎めないだけがとりえのような男の子にウットリと見とれている時点でバレバレだと思うのだが、どうしても告白が出来ない。勇気を振り絞って一緒に帰ったりまでは出来たのに、好きの一言が言えないんである。
応援してくれている親友は心配して、恋のおまじないなんぞを雑誌から調達してくるんだけど、どうしても大塚さんが言えないうちに……この親友が彼とくっついてしまう。
と、字面だけで見ると良くある話のようだが、なんたってこの男の子が小学生に毛が生えたような幼さだし、親友の女の子は女子中学生!てなものを体現したような風貌だったから、まさかそんな、親友の想い人を横取りするような魔性の女……は言い過ぎか、とにかく、画的にかなりショーゲキなのよね。
だってさ、大塚さんとこの親友の子は、ほんっとに、ほのぼのとした友情を展開していたからさあ。夕暮れの教室で、田んぼの脇道で、誰もいない体育館のステージの上で……。
それらは皆、ワレらイナカモノにとってはかなーり見覚えのある青春の風景でさ、白シャツに紺サージのプリーツスカート、白ソックスのいでたちもあまりにも甘美に懐かしくて、今はすっかり少なくなった男子のガクランの夏服スタイルももう泣けちゃうぐらい懐かしくて。
だからこんな、昼メロみたいなドロドロを、しかも地方の中学生が展開することにショーゲキを受けたというか……。
いやでも、ホント、こういう事象は地方も時代も関係ないんだよな、ホントに。
「側で見てたら、私も好きになっちゃった」「真名美がいつまでもぐずぐずしてるから」まさかの親友のウラギリに、しかもバカにしたように言う彼女にカッとなって飛び掛かる真名美を、その彼の方がどつくんである。
「こいつを傷つけたら俺が許さねえ!」……小学生に毛が生えたようなチビッ子男子が放つ思いがけない男気台詞に観客も凍りつき、ていうか、時代を超えた男の見る目のなさにこそ時代を超えて凍りついて、哀れに泣き伏す真名美にかける言葉も持たないまま、ただ呆然と見守るばかりなんである。
大塚さんは、そんな記憶を何年ぶりに思い出したのか、ホンットに四半世紀以上ぶりに思い出したのか、もうとにかく恵美に肩入れして、どんなに不自然でもとにかく一緒に帰る!とたきつける。
恵美がその気になって片思い相手の荒井に「偶然、偶然、100年に一度の偶然かもしれないよ。だから一緒に帰らない?」と棒読みもここまでくるとリッパ!というアプローチを成功させると、次は告白だ!ともう大乗り気。
明日は大安、大安なら告白するんだよ!ともうメチャクチャな論理で押し切ろうとするんだけど、さすがに恵美に拒否されるのね。
これは私の問題ですから。大塚さん、ウザいですよ、と。この期に及んでこの台詞がようやく出るあたりがアレだけれど(爆)。
でも恵美は結局、大塚さんの熱意に負けた形で告白する。でもそれは玉砕してしまうんだ……。
ここだけ、ちょっと時間の細工がなされてるのね。それまでは大塚さんの過去を入れ込む形とはいえ、時間軸そのままに描いてきたんだけど、ここだけは、ほろ苦い後味を残すラストのための細工がなされてる。
恵美は一緒に帰った時のように荒井君を待ち伏せする。しかしそこに彼の彼女がやってくる。「おめ、何先に帰ってんだよ!」バスバスと膝蹴りやキックをかますその“彼女”はなんと、大塚さんの娘の英子である。
事態を察して恵美は用意していたプレゼントの紙袋を彼に押し付け、「ずっと見てました!」とだけ叫んで去ったから、告白はしてないんだと、思ってた。
大塚さんがね、娘から彼氏を紹介されて、そのヘラヘラしたどーにもダメ男としか思えない荒井君が(ホンット、ザ・軟弱な男でさ、なんでコイツにホレるかと。それを体現する川村亮介君もある意味スバラシイんだけど(爆))。
その名前からどうやら恵美の想い人だと察した大塚さんは全速力で走る、走る、走る!まるで青春モノのように、いやこれは確かに青春モノか!バッタリと路上にコケたりして。
校門の前で誰を待つともなくぼんやりと立っている恵美を見つけて、告白してないわよね、まだ告白してないわよね!と必死に言い募り、恵美はハイ、と言ったけれど、それはウソだったんだ……。
観客はあの場面を見ているから、恵美が「荒井君、彼女がいたんです」という台詞までは確かに許容できる。
大塚さんは告白しなくて良かったんだ、しないべきだと一度は言いつつも、いや、やはり告白すべきだ、後悔するからと恵美に言うのだ。
恵美もはいと頷いて、結果を報告しますね、と言ったけど、でも……してたのだ、恵美は。
もう一度、恵美が荒井君を待ち伏せしていた場面が繰り返される。恵美はきちんと告白をし、彼女がいるからと言われてきちんと玉砕している。
その、彼女がいるから、という言い方も、じっつにバカそうに、「いやオレ、彼女、いるし?」みたいな感じでさ、なあんでこんな男にホレるかと理解に苦しむトコなんだけど……(爆)。まあそりゃあ、それこそがネライなんだろうな。
で、そのことは恵美は大塚さんに言ってなかった。だから、告白します、結果を報告します、と大塚さんに言って、きびすを返して、いくらかの距離が離れたあたりで……恵美はうずくまる。ただ静かに涙を落とす。
大塚さんがその気配に気付いて振り返る。のどかな田園風景、その田んぼに沿って緩やかに伸びる道路、その縦の引きの場面、切な過ぎる遠近、がっくりとひざを落として声もなく涙を流す恵美。
そんな彼女を察して、スクリーンの手前で子供のようにクシャッと顔をゆがめて泣く大塚さんが確かにコミカルではあるんだけど、めっちゃ可愛くて、切なくてさあ……。
英子が連れてきた荒井君がね、浮気したら許さねえぞ、と彼女にどつかれながら、恵美にもらったタイガーバームをふくらはぎに塗ってるのがさ、なんとも救われるというかさ……。
だって英子は「そう!永作恵美!アイツがプレゼントしたの何だと思う、タイガーバームだよ!チョーウケるー!」と誰にだか知らんがケータイで嘲笑しまくっててさ、恵美がかわいそうで、見てられないんだもん……。
確かに恵美は一途がゆえにちょっと風変わりなところが、若かりし頃の大塚さんに似ている、かもしれない。てことはこーゆーオバチャンになる可能性は大いにある!?
なんか、なんかね、ホント、ウッカリ、胸がジュンと痛いんだよね。キュンとくる映画はあまたある。でも多くの青春はキュンではなく、ジュンと痛い結果に終わっている。でもだからこそ青春は甘美なのだよなあ。
始まりの企画は小さくても、これぞ!と思う作品ってあるんだよな。この日併映した短篇も信じられないほど純粋な青春で、落ち着いて見ていられないほどだった。
ああ!本作も尺は決して長くないからさっさと片付けてその短編のことも書こうと思ったのに、長々、へべれけで全然ダメ!また明日!★★★★☆
アーティストが主人公のドキュメンタリーならはいて捨てるほどある。アートコレクターっていうと、私たちにはトンと縁のない、オークションで木槌をガンガン叩く中でどんどん値を吊り上げていくイメージしかない。
つまりどっかの企業の社長さんが社会還元のためとか、投資目的で購入するコンピューターの中で莫大な金を動かしている鼻持ちならない人とか、あるいは世界的な美術館の学芸員がおのれのメンツとプライドにかけて落札するとか、つまりはそんな、フィクションの、それこそ劇映画でならアートコレクターって主人公になるかも、とも思うのだが。
この夫婦、普通なんだもの。
普通どころか、普通過ぎる。
いや、既に今の時点の二人、1LDKのアパートが“楊枝一本の隙間もないほど”お気に入りの現代アートであふれかえり、今や超有名になったアーティストの作品も膨大に含まれているから、一点売ればそれこそそんなフィクションの主人公のような大富豪の仲間入りに違いないのに。
そう、いまだに結婚した時からすんでいるせっまい1LDKに猫や魚や亀やらと一緒にこぢんまりと住んでいる、だなんて、ちっとも普通じゃないんだけど。
でも二人とも、ほんっとに普通の勤め人なんだもの。平均して言えば、決して余裕のある方じゃないに違いない。
この土地の広いアメリカで、大都会のニューヨークとはいえ1LDKの、日本人が見たって手狭なアパート。
ご主人の職業は郵便物の仕分け、奥さんは図書館司書。共働きにしたって、二人とも特に稼ぎのいい職業では決してないじゃない。むしろ慎ましい方だ。
なのに二人は、後にとんでもない値がつくような現代アートの傑作を多数保有世界でも稀に見るコレクター夫婦なのだ。
それは何故なのか?
その理由があまりにもあまりにもシンプルで、素敵なんだもの!
彼らはアートが、現代アートが大好きなんである。好きで好きで、たまらないんである。
それでも、身の程は知っている。彼らの買う条件は、自分たちの給料でまかなえることと、1LDKに収まるサイズであること。それだけなのだ。
だからせっかくアーティストから譲ってもらった作品が大きくて、彼らのアパートにまっすぐに置けなくて取り替えてもらわざるを得なかったことを残念がったりするエピソードも出てくる。微笑ましすぎる。
つまり、彼らが買う時点では、アーティストたちは有名じゃ、ないんだよね。かといって、彼らがそのアーティストが有名になることを見越して、つまり青田買いとして手頃な値段で買いあさっている訳では勿論ない。
結果的にはこの二人は驚くべき審美眼の持ち主であったことが証明される訳ではあるけれど、彼らはただ、気に入った作品が手頃な値段だったら、あるいはちょっとムリなら大阪商人よろしく値切り交渉もして、時には相手の猫の世話と引き換えにしたりなんてこともして、ささやかな(その時点では)作品を手に入れるのだもの。
なんと、シンプルなんだろう。
だってさ、それって理想、というか、ある意味当然のことじゃない。
ぶっちゃけて言っちゃえば、物欲の対象が、彼らにとっては現代アートだっただけ。美しい、魅力的だ、そして自分の家に持ち帰れる、保有できるスペースがあると思えば買う。
それって、現代アートじゃなくて、私たちが何か好きなものを買う、あるいはコレクションするのと同じ理由じゃない。
しかも素晴らしいのは、彼らが一個一個の作品はもとより、それよりも更に重視するのは、作品が出来上がる過程や、アーティストやその作風の成長過程こそを重視する、というか、興味を持つこと。
それが示されているものなら、未完成だろうが、マスキングテープが貼ったままであろうが、床に落ちていたゴミになる筈だったスケッチだろうが、なんでもかんでも欲しがるということなのだ。
いや、ただ単に欲しがるだけなら、それこそちょっと偏執狂的なコレクターとも言えるんだけれど、アーティストたちは喜ぶ。
まあ、その殆んどのアーティストが、彼らが作品を買ってくれた当時は若くて金がなかったから、とにかく何にせよ満足、助かった!てなとこだろうけれど。
でも、その後もこの夫婦が通いつめ、家族同様の付き合いになり、アーティスト自身も気づいていなかったかもしれない成長過程を自覚させられる、つまり未来への展望が開けていくのを目の当たりにするんだから、アーティストたちからの信望が篤いのは当然なんである。
つまり、夫婦はアーティストを育てているんだよね。ただ、そんなつもりなぞさらさらないであろうところが、このハーブ&ドロシー夫妻の素敵なところであって、だからこそアーティストたちも彼らを慕ってやまないんだろうとは思うけれど。
何度も言うけれど、彼らはただ、アートが好き、その作品が好き、本当に、ただそれだけなんだもの。そのためにならいくらだって貪欲になれるんだもの。
不思議だったんだよね。アーティストたちは、まあいろんな過程で今に至ってはいるだろうけれど、それなりに専門的な勉強をして技術や知識を身につけた人もたくさんいるだろうと思ったから。
ハーブはもともとアートに興味はあって、社会人になってから大学に通って画を習い始めた。ドロシーはハーブと出会うまではアートのことなんて全然知らなくて、つまり、私と似たようなもんで、だけど彼と出会って興味を持ち、同じく美術コースに通って、彼と腕を競い合った。
つまり「アートコレクターになる前は、アーティストだった」という土台が一応はあるものの、決して専門家ではないし、ドロシーに関しては夫に影響されて大人になってからちょろりと手を出した、と言われたって仕方ないような程度である。なのになのに、二人のこの情熱と見る目はなんなんだ!?
でもね、だから嬉しかったんだなあ。だってそれって、いろんな分野で、作り手にはなれないけどファンである、という、私も含めた多くの人に、勇気を与えるじゃない。
ファンの立場って、基本的には受け見だし、褒め称え“なきゃ”いけない立場だし、なんか結構……自分を卑下するような気持ちになること、あるんだもの。
ちょっといきがって批判すればしたで、シロートが何言ってんだ、と思われてるんだろうなとか思ったり……でもさ、作り手と受け手って対等であるべきだという、理想も理想、超理想を、この夫婦は軽々と獲得してしまっているんだもの。
ホントにね、未完成の作品や破り捨てそうになったスケッチ、あるいは下書きのスケッチのワンセットを「その中のこれとこれはそぐわないから、私に譲ってくれ」とさらりと言ったりするのには驚嘆してしまうんだよね。
あの、先述したマスキングテープを貼ったままの下描きの画を気に入って持って帰り、特注のフレームを購入してまで壁に飾ってあるのを、当のアーティストが家を訪問した時に発見して驚いたエピソードはとても好きだ。
本人にとっては完成品に至る過程で、いわば工程として貼ったマスキングテープが、「人物がより強調されている」と夫妻が気に入り、後にプロの評価も一致するんだもんなあ!
二人は、特にのめり込むと熱くなる夫のハーブの方は、完成に向けて絵を描いているアーティストに「私ならここでやめる」と歯に衣着せぬ物言いでアドヴァイスする。
妻のドロシーの方が冷静で控えめで、先走る夫を諌める形で、自分の意見を口にする。つまり二人はいつでも意見が一致する訳ではないんだけど、基本的なところ……「これは美しい」「これは素敵だ」という点ではピタリと一致するんだよね。
ていうかさ、次々に見せられる現代アートは、私のイメージどおりやっぱり難解に思え、彼らのような印象はなかなか口をついて出てきにくいから、二人が40年間も、毎日のようにギャラリーやアーティストのアトリエを訪れて貪欲にアートを吸収しているのが凄いと思って……。
だってさ、まあハーブはもともと興味がある人だったからいいよ。でもドロシーの方は、客観的に見れば“夫に影響されて始めた”に過ぎないじゃない。
なのに、二人の審美眼と価値観は奇跡的と言いたいぐらいにピタリと一致し、全米から寄贈を切望されるような素晴らしいコレクションの持ち主になったなんて、運命の二人としか思えない!
だってさ、なんでも鑑定団じゃないけど(爆)、夫のコレクション癖に悩まされる奥さん、なんて図は、日本だってあるんだから、きっとこのアメリカにもあるだろうと思われる。てか、きっとそれこそが普通の姿よ。
それは、夫婦の価値観がそんな奇跡的に合致しないってことももちろんだけど、奥さん(時には夫かもしれない)から眉をひそめられるような収集癖を持つ人間は、しかしその収拾したものに価値があることなんてこと自体が、ほとんどないのが現実なんだもの。
しかし、そんな軽くいがみあっているような夫婦が、結構それなりに上手くいっていたりするのも、世の常なんである。
だからこのハーブ&ドロシーが、こんなにも、二人で一人ぐらいに溶けあっているのは、なんか、奇跡の出来事に近い気がする。
こんなこと言ったら色々とアレだけど、彼らに子供が授からなかったのは、何かそういう……使命を神様から与えられたからのような気がしちゃうなあ。
だってやっぱり子育てするにはお金がかかるし、コレクションする奔走も、どうしても押さえられちゃうと思うからさ……。
でも、彼らが動物、ことに、この狭いアパートをウロウロしている猫に心からの愛情を注いでいるのは、猫好きとしてはなんともグッとくるのであった。
先述したけど、購入資金代わりに猫の世話を引き受けるなんていうエピソードも出てきたしね。
そうそう、彼らがコレクターになった理由、ていうか、コレクションする意味について問われる場面があるんだけど、それが凄くしっくりきたんだよなあ。
あのね、彼らの生活の中で、飾ってあるものもあるけど、スペース的にしまいこんであるものの方が多いってのもあるし、そもそもコレクターに対する懐疑的な気持ち……好きなのは判るけど、何のために収拾するの?という疑問に彼らはすっきりと答えてくれるんだよね。
曰く、好きな本は本棚に並べていて、いつも開いて読んでいる訳じゃない。でも好きだから、頭の中に入っている。時々は読みたくて、開いてみるけれど、持っていることそのもので、幸せを感じる、と。
めっちゃ、めっちゃ、納得した!ナルホド!ほんとそうだ!好きな本、別に普段から読んでる訳じゃない。正直、持ってるだけだから、捨てちゃおうかとか思っても、片付けの時とか、引っ越しの時とかに読み返すと、ああやっぱり大好きだと思って、とても捨てられない。
そんなシンプルなことなの、それで共感して大丈夫?でもそれで共感出来るのなら、嬉しいなあ!勿論彼らの規模とは比べようもないけれども。
アメリカ、あるいはニューヨークでは、この夫婦、ハーブ&ドロシー、ヴォーゲル夫妻は有名であるらしいんだよね。
というのは、だって、若い頃からの映像が残されているんだもの。最初はね、彼らの若い頃、出会った時などを再現映像や当時残されているイメージ的な映像を使って描写して、その流れで違和感なく、彼らの若かりし頃の映像が出てくるんだよね。
つまり、ナショナルミュージアムに寄贈したことでいきなりその存在がクローズアップされた訳ではなく、アーティストの間では、あの夫婦に見い出されれば才能が認められたということだと、だから訪ねてきただけで、キター!みたいな。
若い頃からいろんなメディアにも取り上げられて有名人ではあったけど、1LDKの慎ましやかな生活は変わらなかったし、アートを買うスタンスも、アーティストと家族のような付き合いをするのも変わらなかった。
映像や記事は残されてはいるものの、一般的に言ってどこまで有名だったかは知る由もないんだけれど。だって、ナショナルミュージアムに寄贈が決まった途端、われもわれもと新人アーティストが作品を夫婦や美術館に送りつけてきたというんだから。
こういうのって、哀しいよなあ。夫婦はもれなくそれらを送り返したという。そういう収拾の仕方はしていないから、と。
送りつけてきたアーティストも哀しいが、その気持ちも充分判るから送り返す夫婦も哀しかっただろうなと思って……。
こういうのってやっぱり、現代アートが息づいているニューヨークだからこそ可能なのかな、という気もしてる。
ことにドロシーは、自分が生まれ育った場所は何にもない田舎。子供の頃と年老いてからの終の棲家にはいい場所だけれど、退屈、と言って、充分年老いた今もニューヨークで生きたアートをむさぼることを無常の喜びにしている。
しかし、同じぐらい大都会の東京でそれが可能かな、と思う。現代アートは売れないアート、みたいな、とにかくがっつくほどに商業主義だよね、まあ、何に対しても。
画家とかアーティストに対して、ことに商業的なものから離れれば離れるほど、日本の文化意識は低いし、冷たいと思う。常識的な生活も出来ないごく潰し、みたいな視線をこっちが常識人みたいなおごりで容赦なく浴びせる。
ある意味、ハーブとドロシーはそんな“常識人”の側にいるのに、完全にアーティストと同じ高さで交渉し、会話をし、生涯の友となるのだ。なんて素敵!
この、ヴィヴィットな現代アーティストたちをもっと知っていれば、もっときっと面白かっただろうにな!
でも、その中に日本人もちゃんといたのは感動した。しかも知らなかったこの人。世界で活躍する日本人を、当の日本人の方が知らないのかもしれないね。
そして、物語はナショナルミュージアムに寄贈するところで終わるのだが……それがなんと大型トラック5台分!ナショナルミュージアムには千点までしか入らないから、50×50館への寄贈プロジェクトが発表され、しかも部屋がカラッポになった筈の後も、二人は年金でまたしても買いためていってるんである。まったくなんて夫婦!★★★★☆
などということは勿論、本作自体にぜえんぜん関係などないのはそうなんだけど。ただね、あっという間に人が死んでしまう刹那が、刹那は一緒なのに、その刹那の種類がこんなにも違うのだというのがね、それはなんだか、こんなことが起こったから思わずにはいられなかった。
しかも物語の冒頭、実に印象的にささやかれるのは、時は安保やら学生闘争の真っ只中で、インテリな学生たちがいっぱしの論客を気取って「理由があるなら戦争にだって行く。それが国家を守る理由があるなら」などと、なんともイッチョ前のクチを聞く、そのモノローグのさざなみなんである。
だけど今ヤリたいのはセックス、などと言ってひわいに笑う。そんな会話が聞こえているのかいないのか、主人公の修はそこからはすっくりと切り離されている。
見ている間はこの冒頭のことなどスッカリ忘れていたのだけれど、ふと考えてみるとこの冒頭ってちょっと不思議だなとも感じるんだけど……物語が進行し、彼が慕っていたヤクザの鳴海が死んでしまう場面「あいつはお前の嫌いなインテリだったんだ」とそのまた親分から吐き捨てるように言われるところで、ああ、そういう下敷きがあったからか……と思った。
修は家庭に恵まれず、のんだくれの父親を殺した母親をとらえようとした刑事を刺したことで少年院にぶちこまれ、だから彼はノウノウと暮らしているインテリを嫌っている。
劇中、修が頭に血がのぼって犯してしまう殺人も、その相手が親のすねをかじって高級車などを乗り回している学生だからに他ならない。そしてその彼の強烈な劣等感は、どんどん深みにはまらせてしまうんである。
それにしても、黒沢年男である。そうか、黒沢年男の若い頃なんて私、見る機会なかったかもしれないなあ。こんなに彫りが深かったっけ。ちょっと岡田真澄を思わせるようなキザったらしい(ほめてんのよ)男臭さ。
冒頭、ヒロインのユリ子をナンパする場面がいい。ちょっと目配せをするだけ、それだけで、彼女を車に乗せる。
「また私に会いたかったらお店に来て。だけどお金がかかるわよ」そんなファムファタルにも彼はニヤリと笑顔を返す。
ユリ子はゴーゴーガール。ゴーゴーガールの定義はなんだろう……。とりあえずガンガンに音楽をかけている店で踊っていて、そこは当然酒を飲ませてて、ゴーゴーガールは懐のあったかいオッサンに斡旋され、時には肉体も売る、てところだろうか。
この70年代ってのはその後の80年代が多少ふやけているだけに(爆)、キレキレのメイクやファッション、堕落するならまっしぐらのある種のストイックさといい、何とも抗いがたい魅力がある。
これを、同じ台詞で同じカッティングで今の役者がやっても、きっとこんな魅力は出ないんだよな。肉体そのものに、どうしようもなく刹那的なものが、リアルタイムの役者にはある、そんな気がする。
それは勿論、修を演じる黒沢年男も、ユリ子を演じる高橋紀子もそうなんだけど、何より、学生をぶっ殺して自身も重傷を負った修を助けてくれた鳴海を演じる岸田森!そしてその女房、もう、これは運命の恋女房、令子に緑魔子!
この二人のマッチングはちとヤバいなあ。見た目もブルッとくるほどクールだが、それ以上に……令子がけだるげにタロットカード(トランプ?)で占いをする場面、ふとカードを取り落とし、「あの人、死ぬわ……」
こういうのがね、なんとも似合うっつーか、ドンピシャっつーか、この当時の役者さんにしか、いや、緑魔子にしか出来ないっつーか、ブルッときちゃうんだよなあ!ぴったりしたタートルネックのセーターをノーブラで着てるのもヤバすぎだろ!
修がユリ子を訪ねて行った店で働いていたのが、修と少年院時代からのマブダチである佐知夫である。久しぶりの再会に、二人は喜ぶ。
店では“カマ夫”と呼ばれている、つまりはオネエ系ゲイである彼がまた、非常に印象的な、というか、重要なキャラクターなんである。
修は彼との友情を非常に大事にしていて、ユリ子と燃える様な恋に落ちても、いつでも傍らに佐知夫をおいて離さないんである。
修はノンケだから最初は油断しているユリ子だけれど、段々と“カマ夫”を疎ましく思うようになる彼女は、ついに禁断の台詞「私とどっちが大事なの?どちらかを選んで!」と修に迫る。
あーあ……あんたがそんなおろかなことを言わなければ、皆死ななくてすんだのに……。
えーと、だいぶはしょってしまったようなので、軌道修正(爆)。
そう、鳴海のエピソードがね……。彼が修を拾ってかくまってくれたのは、自身が“親父”に学生闘争のリンチから命からがら逃げ出したところを救ってもらったからであって、というか修にはそう語っていて、この親父、今はムショにブチこまれている組長の佐伯を心底尊敬しているように見えたのだ。
しかし組を乗っ取ろうとする林が鳴海を力づくで言うことをきかせようとして、出所する佐伯を殺せと迫った。しかし鳴海は逆に林を殺し、その手下たちを生け捕りにして、佐伯に事情を話す。
裏切り者を何より憎む佐伯の親分は、鳴海に感謝し、鳴海が目をかけている修に、この手下たちを殺すように命じる。
一度は逡巡した修だけれど、逃げ出そうとする手下に条件反射のように銃をぶっ放した。いや、背筋が凍るぐらい、見事な射撃の腕だった。もうこれで、修は正真正銘のヤクザになってしまった。
だけどね、鳴海こそが、佐伯を裏切っていたというのね。それは突然、鳴海がドザエモンになって引き上げられてしまう衝撃。
「裏切り者はとにかく許せない」佐伯が、あいつは反政府のテロリストだと、組に所属して自身をカモフラージュし、暗殺者を育てていたんだ、と修に説明するんだけれど、修は勿論、観客も唐突にそんなこと言われても、と、どうにも納得出来ない思いがあるんである。
それでも、鳴海の後釜にと推薦され、洋パンを斡旋する外国人向けのバーの経営を任されるようになると、修はめきめき実力を発揮する。
鳴海に修を預けてからも心配して、常にコンタクトをとってきた佐知男もそこで働き出し、その前の、あのゴーゴーガールの店でミュージシャンをやっていたジョニーも佐知男を頼ってやってくる。
ジョニーとひと目で恋に落ちた童女のような洋パンのルースも加わって、にわかに修の周りはニギヤカになる。
鳴海の元で傷を癒していた間、姿を消していた修を心配していたユリ子は、それもあってか殊更に修にベタベタとするし、殊更に佐知男をうとましがるようになる。
彼女には“本物の女”としてのプライドがあったんだろうなあ、と思う。佐知男が修のことを、兄貴としてじゃなく、女の気持ちで好きなのを、“同じ女”だから判っていたからこそ、だろうなあ、あの嫉妬は。
そうだ、“同じ女”でも、佐知男が男だったから、余計に始末におえなかったんだ。だって修は男としての友情、同じ境遇、同じ釜の飯、同志としての絆を佐知男に感じている。それが女には太刀打ち出来ないことぐらい、ユリ子だって判ってたんじゃないのかなあ。
彼女が油断したのは、佐知男が女の気持ちで修を好きなのを判っていたから、油断と同時にムキになったんだろうけれど、親友とカノジョ、どっちを選ぶかといわれたら、男は親友を選ぶ、だろう。
女は恐らく……大半は恋人を選ぶ、かもしれない。そこが男女の決定的な違いであり、私はそんな男がうらやましいとふと思ってしまうんである。
ユリ子が自信満々に、私の方が選ばれるに決まってるでしょ、てな態度で佐知男に、「手術すればいいじゃない。最近、はやってるんでしょ」と、下着姿でロングヘアーをこれ見よがしにブラッシングする場面の憎たらしさときたらなかった。
佐知男が“男から女になった女”(ちょっとヤヤこしいが)ならば、確かにユリ子は確実に勝てただろうと思う。佐知男がそういうタイプのゲイではなく、オネエ系であっても、男のまま男を好きな、いや、修を好きな男の子だったから、だからきっと、ユリ子は彼に勝てなかったのだ。
でね、港での、修と佐知男とジョニーが、包囲された警官と死闘のドンパチを繰り広げる場面こそがクライマックスなのだが、その前にあの地震が(爆)。
な、もんだから、なんでそんなことになったのか、修がなぜまとまった金を用意して、南洋に逃げようとか考えたのか、そこまではフツーに観ていた筈なのに、なんか前後ともども記憶が真っ白になっちゃってさ(爆爆)。
まあどうやら、大学生殺しのセンから足がついたらしいんだけど……。
で、佐伯の親分からまとまった金を失敬し、ていう計画が、事務所の金庫にしまっている筈の金が持ち帰られてて、かなり行き当たりばったりで警備の男やら用心棒やら、勿論佐伯もぶっ殺してしまう。
その直前には一緒に逃避行する筈だったユリ子との、あの禁断の台詞のひと悶着があり、結局ジョニーが父親から失敬したボートで男三人、南洋に逃亡する予定だったのだが、やはり愚かな女、ユリ子のタレ込みがあって、警官の追っ手が彼らを阻むんである。
ほおんと、愚かな女。でもそこがまた、たまらなくあの刹那の時代。大体この計画自体、マトモに上手く行くと思う人なんて誰もいる筈なく、こうした結末は、ある意味、期待に応える、待ち望まれたものなのかもしれない。
ジョニーが、可哀想だったなあ。彼はただジャズをやりたいだけだった。海軍将校の父親を持ったばっかりにミュージシャンの道を反対されたけど、それだって何もこんな強硬な手段に出なくても、地道に、あるいははぐらかして説得すれば、望む道に進めたんじゃないかと思う。
そりゃあさ、修と佐知男は、あんなファムファタルをあっさりソデに出来るぐらいのガッチリとした絆がある訳だから、二人がまるで心中のような形で死んでしまうのはしょうがない?にしても……。
大体、学生の高級車を盗もうとしてのバトルから、血だらけの修を必死に助けようとする佐知男の画で、それは感じていたしなあ。
ジョニーは顔面撃たれて海に落ちちゃったから恐らくダメだろう、なあ……。この描写も凄かったけども……。ラストは血まみれの修が虫の息の佐知男を引きずりながら商店街をはいずって、そして……。なんともハードボイルド的なラスト。
実は、本作の何よりの主役は、音楽だったかもしれない。ジョニーがジャズマンを目指していたというシークエンスもあるし、店で演奏される、あるいは前編にガナり続ける心も身体もざわめかせるフリージャズの超絶カッチョ良さよ!音楽担当は日野皓正。メチャメチャカッコイー!
平和主義や平等社会を犠牲にすると判っていても、この刹那のカッコ良さにはやはり心をつかまれてしまう。★★★★☆
しかしこの監督さんの名前は見たことないなあ、今回の特集、川谷拓三はこの作品に桂小五郎役なんだけど、彼が最も信頼した演出家の一人なんだというんだけど、聞いたことない。
と思って探ってみると、なあんだあ、映画はこの一本だけじゃん。しかし一本で終わって他には何してたのかと思ったら……死んじゃってた(爆)。しかも不倫相手、荻野目慶子の自宅で首吊り(爆爆)。
うっわ、そうか、そんなことあったっけ。その彼がこのたった一本の監督作品の監督なんだ……参ったなあ……。
まあそんなことは、別に作品自体には関係のないことなんだけど、あまりに強烈なエピソードを前にちょいとうろたえてしまった。スミマセヌ。
しかしまあ……たった一本の映画なら伝説になってもいいトコとは思うが、伝説にはなってるのかもしれんが、ど、どうなんだろ、この出来は(汗)。
こういう、時代物でも音楽とかを意図的に現代風にして、時代物とはいえ当時の血気盛んな若者の物語なんだからと、ポップに仕上げる手法というのは、何もこの作品に限らないことではあるし、大いに魅力的な手法だとは思うんだけど、ただ……。
特にそう、音楽を“現代風”にしてしまうと、その現代から離れてしまうと逆に古臭くなってしまう危険がやっぱりあるんだよな。
当時は新鮮だったであろう、高中正義やオフコースや、出演もしている吉田拓郎の歌は何か今聞くと、ふと頬が染まるような懐かしさを感じてしまったりする。
うーん、難しいよね、現代風のアレンジってさ。映画ってやっぱり、その時の時代性を映すものだからさあ。
ていうか、これ、武田鉄矢自身が脚本を担当してるのか!そりゃあ思い入れもある筈だわなあ。しかしその思い入れのある脚本……あまりに皆が台詞を絶叫しすぎてて、何を言ってるのか全然判らん(爆)。
何より戸惑ったのがこれで、何を言ってるのか判らんと、勿論話の筋も見えなくなる(爆爆)。
いやまあ、画でなんとなく察せられはするけれども、その解釈に必死になってると、役者の芝居やらなんやら、色んなことを取りこぼしてしまう(爆爆爆)。
つーかまあ、叫んでばかりだから、芝居というより勢いだけって感じもするのだが……(もう、爆、言い疲れた)。
坂本竜馬なんて超有名な人なんだから、世間的には話も通じているだろうということなのかもしれんが、すまんが私は全然判らん(汗)。
特に高杉晋作やら後の伊藤博文やらの有名どころがばんばん出てきたりすると、彼らの位置関係を把握するだけで必死になってしまう(汗汗)。
てゆーか、見てる時には“後の伊藤博文”さえも判らんかったし。あーもーダメー。
まあとにかく、後からさらったところによると(爆)、坂本竜馬は故郷の仲間たちから金儲けの商人に成り下がったと揶揄されても気にせず、皆で黒船に乗ってアメリカに行くぜよ!と、脱藩して落ち着いた先の長崎でせっせと商いにいそしんでる。
商いっつーか、時にはあからさまに外国商人の品物をソデの中にちょろまかしたりもする。
この作品での竜馬は仲間たちが必死になっている倒幕、ひいては今まで圧政を強いられてきた国を自分たちの力の元に引き寄せることよりも、もっと広い世界、新しい国、具体的にアメリカに行くことを夢見ている。
皆が恐れる黒船を金を貯めて買い付け、みんなでアメリカに行こうという夢を言ってはばからない。
簡単な単語がようやく判る程度で必死に読んでる(ていうか、手下に読ませてる)英字新聞で、エイブラハム・リンカーンが南北戦争に勝利し、ガバメントを設立したと知り、心躍らせる。かの地には自由と希望があるのだと。
私ゃー歴女じゃないので、坂本竜馬が一般的にどう語られているのかは知らんが、黒船を買ってアメリカに皆で行きたい、という竜馬像はかなり新鮮であった。その竜馬と仲間たちのすれ違いの図、と考えるとまあちょっとは、判りやすいかも。
イギリスの武器商人からえげつない値切り方をして銃を買い付けたり、銃の試し撃ちのシーンなどではさすが武田鉄矢のコメディセンスが冴え渡る。
ポンコツ銃ばかりを買わされた(のは竜馬じゃなくて、伊武雅刀……てことは、伊藤博文か。メンドくさいなー)が撃てば暴発、解体、みたいな不出来モンばかりで、しまいには箱の中に隠れて試しうちさせる伊武雅刀の情けなさが似合いすぎて可笑しい。
まあこういう場面も、状況が判ればもっと面白かっただろうなーと思うんだけど。伊武雅刀ったら竜馬たち海援隊を迎える場面でも、あからさまに色ボケバカ殿(殿じゃないけど)っぷりが最高だしさ。
まあそんなこんなで(?)長州への武器の輸送も任された竜馬たち、舞台が長州に移ると、なんたって彼らの地元であるから気分的にも盛り上がるし、なんたって吉田拓郎は出てくるわで(なんたっての使い方、おかしい?)俄然盛り上がってくるんである。
しかして、ガナリ過ぎで台詞が聞き取れないのは相変わらずで……彼らが長州へ旅立つ直前、これまた無知な私でも知ってる竜馬の恋女房であるおりょうさんと、かなりイチャイチャ度の高いやりとりがあるところはちょっと面白かったけど、正直何が起こっているのか、この時点でも私、ぜーんぜん判ってないのだった……なんて状態で書いてていいのかなあ。
おりょうさん、原田美枝子だったんだね。すんごく若くて可愛くて、判んなかった。むくつけき男ばかりの中の誰もが一目おく、一輪の花のおりょうさん。闊達に竜馬を追いかけ回すのが凄く可愛い。
で、彼女に送り出されて長州に着いた竜馬が出会うのが、本作のキーマンである高杉晋作。演じるのはなあんと吉田拓郎。あの当時のカーリーヘアもそのままである。
酒ばかりかっくらって、ゴロゴロしてて、なのにカリスマ性だけは強烈にある。あるんだけど、見誤ることも多くて、それがクライマックスの哀しき場面に集約される……。
子供っぽくて、ワガママで、なのになぜか人の心を惹きつける高杉晋作に当時の吉田拓郎はピッタリでさ。いや、実際の高杉晋作はこんな容貌、あるいはキャラもそうなのかと歴史まったくダメな私でもさすがに疑問を抱くが(とりあえずカーリーヘアはナイだろうな……)、吉田拓郎そのままでいかせたいと思ったのが、武田鉄矢だったか監督の川合氏だったかは知らんが、判る気がする。
竜馬が持ち込む外からの風を面白がり、重用するものの、最後の最後には竜馬を子供のように拒絶し、農民たちをも巻き込んだ兵士たちの命を無残にさらしてしまう。基本バカなんだけど、なんかほっとけない感じがしてしまう。
高杉の身の回りの世話をしているおうの、この日もう一本の映画でも重要なキャストとして出ていた若き浅野温子の美しさ。
浅野温子もそうだし、陣内孝則とかなんてホント顕著だけど、当時のバリバリのトレンディ俳優たちを目玉に、売り出し中の俳優たちがこぞって出演してるのがなんといっても目を引く。
阿藤さんなんか、なんかゴツイ大男で、フランケンシュタインみたいな特異な雰囲気でめちゃめちゃ目立ってる。そうだよなー、返って榎木孝明みたいな美男子の方が目立たないのさ(爆)。
彼の奥さんが南果歩で、幕府からの攻撃船にビックリした夫婦が生き別れになり、再会した時には彼女はこもを抱えて歩く夜鷹になってた場面などなかなかグッとくるけど、榎木孝明が美しすぎるから(まだ言ってる)。でも南果歩は変わらないね!だってこの時彼女いくつよ?
この時代、を象徴するのは、アイドルの登場である。この日の二本立てのもう一本では、松本伊代が“アイドルが巨匠の問題作で体当たりな役に挑戦!”てな感じで見事に玉砕したが(爆)、本作に登場する菊池桃子は、当時のアイドル、特に彼女のイメージを全く壊さない、ていうかその良さこそをいかした、この当時の雰囲気をいい意味で記録するイイ役なんである。
ていうか、彼女は一体どういう役(爆)。なんというか、慰問みたいな雰囲気だなあ。うやうやしく荷車に乗ってやってきた彼女は、飢えた狼、じゃない(爆)、頑張ってる男たちに大喝采で迎えられる。
最初のうちこそなんとか近くで見たい、ちょっと匂いを嗅がせてくれとかエロな方向に行っていた彼らも、彼女が歌を歌いだすと笑顔に涙が滲み出す。
これは、当時のアイドル事情があるからこそ出来る場面のように思うし、そこに桃子嬢を持ってきたのはこれ以上ない大正解であり。
ああ、菊池桃子。癒しなんていうカンタンな言葉が横行する前から、まさに癒しの存在であったミューズ。
名は体を現すふっくらとした桃のようなお顔立ちと雰囲気、何よりそのウィスパーがかったマシュマロボイス、ああ、たまらん!
当時子供だった私も、彼女の声にはめっちゃ癒されていたのよー。
ていうか、うーむなんだか全然、尺稼げないな(爆)。やっぱり私、全然ついてけてない、ああどうしよ(爆爆)。
えーと、あと、何があったっけ。あ、そうだ、竜馬たちがなんか上手いこと高杉に乗せられて幕府との闘いに駆りだされるシーン、暗闇の中にボッと瞬間的に明かりを灯すと、瞬間的に浮かび上がる黒々と巨大な船と鈴鳴りの幕府の兵士たち!
スライドみたいに瞬間のあの恐怖は、さすがに胆が冷えたなあ……まあ一回しか使えない手法だけど(爆)でもメチャクチャ効果的だった。
ほうほうのていで逃げ出した彼らを、所詮農民だからとキレ気味に叱り飛ばすのが、なんかこういうところが、鉄矢サンが描きたかったところなのかなあ、などとも思う。
あるいはもっと前。竜馬たちが長州にたどりついて間もないシーン、雨が降りしきり、炊き出しのおにぎりをほお張っているところに、わらわらと集まってくる土地の民たち。
「自分たちはお腹がいっぱいだから」と見え透いたウソをついて、明らかに飢えている彼らに振舞うシーンは、こうして文字で書けばなんてことないんだけど、何かをかぎつけて集まってくる地元民たちの熱気、そこからつながるコミュニティ、そして彼らが竜馬たちと共に辿る運命を理屈なしに感じさせるいいシーン。
幕府艦隊にスイカを売りに行っていい具合にすり寄る場面も好きだったなあ。女は乗せてないのか、女はかさばるから、目方で売れませんし、なんていうのも、まあ女としてはちょっと考えればナニー!!と思わなくもないけど、なかなか洒落てて粋だしさ。そうやって幕府艦隊を油断させて一気に破るシーンの爽快さ!
てか、それまでにも布石があって、竜馬がどっから仕入れたのかピタゴラスの定理を持ち込み、測量こそが力だと、そうやって物理的に、冷静に敵を追い詰める計略を練るのだと、測量に力を入れるシークエンスも面白い。
単なる測量なのに、図ってるだけなのに、幕府側に目をつけられて命を落としたりしちゃうもんだから、竜馬の冷静な計画も最終的には却下されてしまったりして。
でもこのシーンは面白かったなあ。実際、竜馬がこんな風に測量に力を入れているシーンなんて、見たことなかった、のは、私がドラマを見ていないせいだろうが。「竜馬伝」にはあったのかな……。
一番判りやすくいいシーンは、土佐勤皇党の仲間たちが幕府の圧力によって軒並み惨殺された、あるいは自刃させられたという知らせが届くシーン。
血を吐くような思いでその知らせを聞く仲間たちの中で竜馬だけが、あいつらはバカだ、俺について金儲けしていればそんなことにはならなかったのに、とうそぶき、しかしその後、ゆっくりとその場を離れる。
本当は飛び出したかったに違いないのに。海を眺めながら、一人号泣する。
いや、一人じゃない。そこにはおうのさんがいて、彼は彼女に膝を貸してくれと言う。おどおどと、しかし言うとおり、前垂れをかけた膝を差し出すおうのさん。
つーかその前に……口から泡を飛ばして仲間の死を悼む武田氏の場面こそクライマックス。つばじゃなくて泡ってあたりが微妙に気になる(爆)。
でもやっぱり、吉田拓郎が血を吐いて、心配して介抱しようとしたおうのさんと交わる場面の方がインパクトあったかなあ。いつの時代もいい男っつーもんは、得なもんよ。
ラストシーン、じゃなくてその手前、竜馬を排除した高杉、犠牲が数多く出そうな作戦で幕府に手向かおうとしていて、竜馬が注進に向うも、もはや高杉は聞く耳を持たない。
暗澹たる思いの竜馬のもとに、更に良くないニュースが飛び込んでくる。肥後細川藩。竜馬たちが商売の場面で目の当たりにした、でっかい大砲、連続射撃の脅威。
慌てて駆けつけるも、そこは……見るも無残な惨状。のどかなひまわり畑の中に無数に倒れる若き命、命、命!!!
クライマックスからエンドへ。“将軍家茂が倒れた”ニュースがどうやってか届いたのか、攻撃がやんだことで“奇跡が起こる”のだけど、その理由以上の奇跡が起こって、主要人物の何人かが、倒れてた(見た目には完全に死んでた)のに、スローモーションでゆっくりと起き上がる。
まあ歴史的に言えばこの場面で死んでない人たちも数多くいるんだろうが(高杉晋作は短命だけど、それゆえ病気で死んでる訳だしさ)、なんかそれはさすがにあざとい気分も(爆)。
そりゃあ、“将軍家茂が倒れた”ことがこの戦闘の収束を“奇跡的に”牽引したのかもしれないけど、さすがにこのやり方は、ねえ。一面のヒマワリ畑ってのもあまりに出来すぎだし。
まあこの場面で終わってればそれこそ、やりすぎだよーとも思ったが、物語はその先に行く。
その後、まあ適度に(爆)時が過ぎ、長崎の街に戻った竜馬は、イエローモンキーが目覚しい働きをした、それをローニンと呼ぶんだと、駐留している外国人たちから仰ぎ見られる。
竜馬好きの武田鉄矢が、竜馬の一生ではなく、死ぬところまでではなく、彼の活躍したところ、しかもそれを自分の解釈タップリに描いた楽しさ。いろんな人が出てくる楽しさ。
冒頭ぐちゃぐちゃ言っちゃったけど、確かにこれは、伝説的映画なのかもしれんなあ。
★★☆☆☆
なもんで、最初のうち、男二人の見分けもちょっとつかなかった。こんな全然違うのに。
てか、てか!そのうちの一人、フラれる方、ドリアン助川!き、気づかなかった。言われれば確かにドリアンさんのお顔!いやー、名前が違うからというのもあるけど、やっぱりドリアン助川としてのイメージがあったから……。
それにしても久しぶりにお顔を拝見する。一体どこに行っていたの?え?ニューヨーク?彼の言葉が響いた時代もあったけど、今はなかなか難しい時代になっているからなあ……。
もう一人の男性は、こちらは初見。ていうか随分と面白い経歴の持ち主。生業はケイタリング?河瀬監督の過去作品に抜擢されて役者を始めたらしいが、確かに彼の雰囲気は、河瀬監督がスカウトするのも判る気がする。彼女の作品カラーにすうっと入ってくる。
そしてこの役……ただただ待ち続けて、待ち続けるのこそが愛だと信じてて、だからこそ彼女も自分を愛してくれているのだと思ってて、それが打ち崩されてしまう優しい悲しさがピタリとくる。
おっと、何気に先走ってしまった。ちょっと止めとく。そして女は一人。つまり三角関係。シンプルと言ったのはそれがゆえである。
万葉集に歌われた、飛鳥地方の大和三山を歌った、男二人が女一人を奪い合う、それはいつの時代も、という、その女一人、である。
そんな、ドロドロとした三角関係には似合わない、ナチュラル素材で出来たような彼女は、なんとなく河瀬監督自身に似ているような気がする。私は最初、河瀬監督自身が演じているのかと思った。
ひょっとしたらそんなニュアンスもあったのかもしれない。分身じゃないけど、こんな男はイヤだ、こんな男ならいい、みたいな……。
いや、結果的にはこのヒロイン、加夜子は二人ともフるような感じなのだから、違うだろうか。いやでも、結局は拓未の方に行ったのかなあ?
また先走っちゃったかな(汗)。でも結局は、この三角関係を云々することは、本作を語る上ではあまり重要ではない、んだよね。
そりゃそうだ、これは河瀬作品であり、彼女がずっと表現し続けているホームグラウンドである古(いにしえ)の地、奈良をまたしても、息が詰まるほどに美しく活写しているのだもの。
美しく、と言ってしまうのは本当に簡単で、そんな言葉では表現しきれない、本当にここに神が宿っていると思ってしまうたたずまいが、彼女の描く古の地にはあるのだが、しかし確かに、今まではその土地そのものの存在感自体、そこに宿った神様自体にゆだねた作品世界だったかもしれない、と思うのは、初めて、恋愛の生々しさを河瀬作品で見た、と思ったから。
いや、そういう筋立ても今までだってなくはなかったと思うけど、でもやっぱり、舞台ありきだったし、それで充分だった。人間はその中ではちっぽけで、その神々の前でただただこうべを垂れるしかない。
しかもその自然というのは、私らが単純に想像する雄大なそれではなくて、実に日本的な小さな中にぎゅっと詰まったものなんだよね。
本作においてそれが象徴的なのは、まるで箱庭のような美しさでスクリーンの中に可愛らしく納まる棚田。ネガティブに聞こえるけど、100パーセントポジティブな意味で!
スクリーンに収まりきらない自然、なんていうのは、ありきたりなのよ。自然の恩恵を受けて人間が暮らしている、人間がこのスクリーンの中に納まるような自然にしているんだけど、それが何百年、何千年と続いていると、自然からも認められている、その中で暮らしている、みたいなさ。
それはやはりこの古都でしか感じられないことだし、監督が誇りに思っているからこそ、ここから離れずに創作活動を行っているゆえんだとも思う。うらやましいと思う。
で、今まではそこにとどまっていた……なんて言っては不遜だけど、恋愛がどうこうとかは見た覚えはなかった。いや、「火垂」はそんな雰囲気もあったかなあ?でもこんなガッツリはなかったと思う。
でもね、ガッツリと言っても、三人が顔を合わせたりはないし、加夜子のパートナーである哲也がその事実を聞かされるのは本当に後半になってから。
ずっと彼女との穏やかな生活を愛の生活だと信じていた。青天の霹靂で、その後あまりにも悲惨な結末に……。
だーかーらー。また先走りそうになってしまった。えーと軌道修正するにしてもどうしたらいいだろう?だってそこに向かうしかないんだけど……。
あ、でもこの三人は、この地に根付いた者同士ではないんだっけ?いや、木工作家の拓未だけが移り住んできたよそ者?でも加夜子とは同級生だというし、加夜子はここの地元っ子?ならば彼もそうなのかなあ。
でも拓未には、どこかよそ者チックな孤独を感じたんだよね。彼がちょっと離れた実家に帰る時の描写がなんともそんな感覚を起こさせた。
寡黙な拓未は、両親に対してもことさらに寡黙で、ただ黙ってざるに乗せた野菜を母親に差し出す。職業柄、苦労しているだろうと心配する両親。
縁側に座ってお茶をすすりながら、しょざいなさを紛らすように母親が出してきたアルバムには、父親の父親、つまり拓未の祖父の若かりし頃が写っていた。結婚してすぐに出征してしまった祖父に拓未が似てきたと言う。
一方で加夜子もまた実家に立ち寄った時、母親からおばあちゃんに似てきたと言われる。好き合った同士が結婚するなんてことすら許されなかった時代、拓未の祖父と加夜子の祖母は実は想い合っていたのに、時代によっても戦争によっても引き裂かれてしまったんであった。
お互いが結婚した後も、拓未の祖父が出征する前に会いに行ったのは加夜子の祖母だった。彼女が背中に背負っている赤ちゃんは加夜子の母親なのだ……。
これだけならば、血は争えないとか(陳腐な言い方だ)、何かそうしたメロドラマチックな言い様も出来るんだけど、そんな男女の三角関係が、万葉の昔から連なっているんだと、河瀬監督が愛してやまない神々の宿る古の地のオーラを見せ付けられたら、その関係さえ神々の神聖なそれのように思えてしまうんだから不思議である。
でもね、確かにそうかもしれない。それは、女の存在によってかもしれない。彼女はお腹に子供を宿した。結局は彼女はそれを守るためにこそ自らの行動を決めたんじゃないかと思って……。
正直、ね。彼女が拓未の方に心を移していたのは明らかにしても、そのお腹の子供がどちらのものかなんて判んないんじゃないの、なんて無粋なことを思う。だって哲也との生活は上手くいっていたし……。
哲也にすんなりと、あなたの子供と言えば、済んでしまったことのようにも思う。でも、彼女は拓未が好きで……でもそれでも、ただただ受身なばかりの彼に失望してしまって……。
なんかまだ、大分説明が足りないので(爆)。えーとね、加夜子は染色作家なのね。で、哲也は地元PR誌の編集の仕事をしている。
加夜子がタイトルにもなっている朱花(べにばな)で染物をしている様子は非常に印象的である。血のような赤色の中にゆっくりと布を沈めていく。しかし物干しに干されている薄布は透き通るようなはかなさである。
哲也が一番、この土地を愛しているように思ったし、実際そうだと思うんだけど……地元野菜を絶賛し、もっとPRすべきだと意気込んでさ。このあたりは確かにドリアンさん的キャラだと思う。
料理も上手で、創作活動に没頭してしまう加夜子に実に美味しそうな食事を用意してくれる。でも彼らの冒頭のシーンで既に、仕事に出かける哲也は自分の食事を途中で切り上げてしまうし、すれ違いを感じるんだよね。
で、加夜子は染め上がったスカーフを携えて出かける。その先は石段の上の神社。軽トラで通りがかった拓未が坂下に止められた自転車を見つけ、加夜子を見つける。
手をつないで共にお参りし、拓未の工房に向かう。ここでも料理を作るのは男の拓未である。哲也とのシーンでも確かに美味しいと言って朝食を食べていたけれど、共に完食するまで一緒に食べているというのがものすごく重要な気がする。
次に哲也と食事するシーンでもう、加夜子は彼に別れを切り出してしまうんだもの。
まあそんな相変わらずの先走りはまたにして(爆)。それにしても、食事を供するのが男、それを食らうのが女、というのは、やはり意味がある気がするよね。加夜子がお腹に子供を宿すことを考えても、やはりやはりそうであると思う。
肉食女子。そんな最近のはやり言葉も頭に浮かぶが、それは無論、恋愛やセックスにおいてではなく、彼女が守らなければならないものに向けてである。
彼女を奪う言葉を言ってくれない拓未に対して苛立った加夜子は子供は堕ろしたからと、あなたは待ってばかりだと突きつけるのだけれど、こときれた哲也につぶやいた言葉からするとまだお腹の中には……だよね?冷たい川の中に入っていくシーンは確かにあったが……。
あっ、また微妙に先走ってしまったかも(汗)。そう、哲也は自らの命を絶ってしまうのだが……彼が加夜子から「好きな人がいる」と唐突に告げられた時、彼はそれに対して固まりはしたけれども何を言い返す訳でもなかった。
煮え切らない拓未に子供を堕ろしたからとぶつけて、雨にずぶぬれになって帰ってきた加夜子を哲也はただただ愛しげに抱くばかりだった。
加夜子を演じる大島葉子の、小さな胸と薄いお腹(うらやましい)がひどくはかなげで、こんなドロドロ三角関係の話なのに、ちっともエロな感じがしない。
男二人とも彼女に執着している筈なのに、そうした濃厚さが感じられないのは、この場合彼女に非常なる孤独を与えている気すらする。
全身無印良品で出来ているようなナチュラルな彼女は、でもひょっとしたら火のような恋情をその身にもてあましているのかもしれない、などと……。
だって哲也だって結局は、拓未と同じだったのかもしれない。長年の付き合い、長年の同棲生活。でも結婚はしてない。もうお互いいい年。加夜子のお母さんにも公認の仲。
でも彼もまた、結婚しようとかそういうこと、言ってなかったんだよね?料理上手な彼は、地元野菜にほれ込んで地元誌なんかやめてレストランやるべきかな、なんて言う。もしかしたら、それは薄いプロポーズだったのかもしれないけど、でもそういう薄さ、遅さが女をいらだたせるのだ。
鳥が、ひどく印象的な役割をしている。加夜子と哲也は小鳥を飼っている。とてもキレイな山吹色の小鳥。かごに入りっきりで、しかもその足には何か輪っかがついてて、小鳥はしきりにその輪っかを気にしている。
一度もかごから出る描写はない。哲也はとても可愛がっている風で、出張する時も加夜子に重々に世話を申し付けていくけれど、まさに“かごの鳥”の小鳥は……あまりにも何かを象徴している、のだ。
一方、加夜子が拓未と逢瀬を重ねる、彼の工房の照明の上に巣を作るツバメの一家は、まさに自由である。
この工房が、そんな風に部屋の奥まで吹きっさらしだから出来る芸当なのだが、それにしても、ツバメということ、巣という“家庭”を作り、雛がかえる様は、あまりにもあまりにも象徴的なのだ。
拓未は脚立に登り鏡を使って、巣の中の雛を観察する。無防備なのに生へのエネルギーが強靭な雛の様子は愛らしいというよりもずうずうしいほどにたくましい印象の方が強い。
赤ちゃん、子供に対して、か弱く、守るべき存在であるという一般的なイメージ、ことに人間の赤ちゃんに対するそれをここでしっかりと否定している感があるんである。だからこそ……だからこそ、あの結末、なのだろうか。
拓未はね、遺跡の発掘作業を興味津々に見に行くのね。この作業は冒頭から印象的に描かれている。ベルトコンベアで運ばれる泥や岩、その全容の解明がいまだ1割にも満たないという広大な古代都市の、永遠にも思える調査活動。
見物している拓未を案内してくれたのが、作業員の考古学者の“よっちゃん”。なぜそんなキャスト名かというと、拓未の祖父が可愛がっていた少年だったから。
亡霊なのか、成仏できないでいるのか、この地にさまよう拓未の祖父と年老いた“よっちゃん”が出会う。“よっちゃん”を演じるのが禿頭が印象的な麿赤兒だから、時空の隔たりを余計に強烈に感じる。
今も粛々と続いている発掘作業と、万葉の歌、時間が止まったような山間の、いやになるほど緑がわさわさと茂る集落のこれまたいやになるほどの美しさ、その中で、因習に縛られたかのごとく歴史を繰り返す三人の男女。
確かに三角関係は、ことにこんな弱腰の男二人が女一人をめぐり、女の方が男二人にしびれをきらしてしまうような三角関係は、何千、何万と、この国に、いやこの世界に繰り返されていたことなのだろう。
これが女二人で男一人なら、違うんだと思う。女は待たないから。待つことが幸せをもたらさないと判ってるから。でも、でも、でも……。
待つことが美しい行為だと、これ以上ない美しい行為だと言ったのは誰だったか……待つことが出来ない女は、男のように美しい存在になれないのかもしれない。
情けなくも美しさを獲得するのはいつも男なのかもしれない。それがどんなに女をイライラさせ、見切られてしまうとしても。
古の時間は、ただ待つことのみに支えられていたのかもしれない。いまだ1割も解明されていない古代都市も、その身を少しずつ削られながら、待たれ続けている官能に震えている。そんな気がした。★★★☆☆
それを思うと「あぜ道のダンディ」の光石さんも頑張って吠えてはいたけど、やはり何か、哀愁があったように思う。でもこのヒロインはもうきわめて前向き、どーんと構えて、構えすぎ、なんである。
仲里依紗嬢が石井監督の次のヒロインと聞いてものすごく楽しみだったし、予想したよりもトーンは静かめだったけど、期待通りのファニーな女の子で嬉しくなる。
女の子?などというのは失礼かな。なんたってお母さんになる自覚マンマンの粋と人情を重んじるスーパー妊婦なんだもの。
里依紗嬢はホントに不思議な女の子。今回改めて、彼女が気合を入れて台詞を言う時の下唇のめくれ上がり方がたまらない魅力だと思った。
ん、なんだそりゃ(爆)。でもそれがなんかめちゃめちゃ気合入ってる感じがして、この江戸前ヒロインによーく似合ってるのよね。べらんめえ、って感じで。
でもこのヒロイン、光子が粋と人情を重んじてるからといって、江戸前かどうかは限らない。だって彼女は空に浮かぶ雲のように流れ流れているのだもの。そして粋という概念は、流れ流れて行き着いた長屋のガンコ大家さんから学んだんだもの。
主軸の現在の時間軸では、光子がアメリカ人だかアフリカ人だか判んないけど、とにかく「黒くてデカかった」(この言い方、なんかヒワイだな……と思う私がヒワイ!?)と言う元カレ、ジョージ(だったかな)に捨てられ、彼に着いていったアメリカから帰ってきて、大きなお腹をして、お金もなくて、という彼女の切羽詰った状況なんだけど、それと並行して、なぜ光子がこんなにもどーんと構えることが出来て、粋を重んじる人格が形成されたか、という、幼い頃が示されるんである。
パチンコ店を経営している両親がバブルが崩壊して、夜逃げ同然に寂れた長屋に引っ越してきた、その幼い頃。後から思えばここで過ごした時間はほんのちょっとだったのに、刷り込みのように、粋という概念は、光子の中に叩き込まれた。
そう、光子は別に江戸っ子かどうかなんて、判らないんだよね。ていうか、大家さんから「雲が流れるのが寂しそうだって?お前だって雲のように流れ流れて来たじゃないか」と言われるように、両親の都合で翻弄された子供時代、長屋で大家さんに叩き込まれたその価値観で、風が吹くまま、気の向くままが身上。
彼ら家族の出自も明かされないし、特に光子に関しては根無し草、流れ者、放浪者といった哀愁が強く漂っているんだよね。
両親はバブル時代を知っているから、とにかくそこに戻りたいとあがく感じがアリアリだけど、その頃幼かった光子は、信じるよりどころが最初からない感じだった。
といって、厭世的な訳ではない。それどころか、“風の吹くまま”に強い信念を持ってる。ハラまされた相手は遠い海の向こうで、出産費用も捻出できない今の状況、かなり悲惨と思うんだけど、カレに着いてアメリカに行った上に捨てられたとか、行くところがなくて貧乏長屋に戻ったとか、文字面で見ると充分悲惨そうなのに、本人にはそんな感じをまったく受けないんだよね。
彼女が再三口にするのは、まあ流れで、流れで、と。まさに、流れに逆らわずここまで来て、その流れに後悔することもない。
逆に言えば、修羅場とも言えるこんな自体を流れとして表現する彼女には、恋愛に対する執着感のなさ……ドライさ、冷たさを最初はちょこっと感じていたんだけれど、幼馴染からの告白を慌ててさえぎる(表面上は冷静を装いながら)後段に至って、実は傷ついた心を必死に表に見せないようにしている女の子なのかもしれないなあ、と思った。
今はいい風が吹いていない。風向きが変わればその時どーんと行けばいい、という口癖も、相当の境地に至らなければ出ないじゃん、と。
アパートを引き払って、かつて住んだ長屋に到着する光子。そこまでにもひとくさりあって、引っ越してきた隣人との、いかにも都会の疎遠さを現すやりとりとか。
それでもこの冒頭は、いやいやさすがにいきなりドア開けて入ってこられてタクアン勧められてもね、と思ったが、それは私もやっぱり都会に毒されているんだろーか(爆)。
どーでもいいけど、この冒頭、荷物を引き取りに来た業者でいきなりシゲちゃんが登場してビックリ。こういう作品にもちょこちょこ顔出してんのね……。
光子は、表面上は流れる雲を追って幼い頃を過ごした長屋に行き着いたけど、どうなんだろう……。
私ね、光子が流れ者を自称しているから、実際、その価値観を大事にしているから、この長屋に行き着いて、ここで赤ちゃんを産もうと決心しても、そしてかつては威勢が良かった大家のおばちゃんが寝たきりになっている世話をしようと決意しても、幼なじみの陽一からプロポーズを受けても、彼女が最終的には次の風を感じてどこかに行ってしまうんじゃないかと、思ったのね。それを、恐れてた。
結果的には……うーん、どうなんだろう。ラストシーンは、光子が福島の草原の中で真っ赤な顔して赤ちゃんを産むシーン。「大丈夫、こんな世の中に産まれても、大丈夫、と思う!」とこの“思う”という含みが大オチになって終わるのね。
私、黒人さんとのハーフの赤ちゃんが登場することを思わず期待したが、やはりそれは難しかったのかしらん。
いろんなことすっ飛ばしてラストシーンを行ってしまった(爆)。とにかくこの長屋での生活、なのよね。
子供時代の回想が折々差し挟まれるこの長屋は、東京大空襲で生き残った場所で、逆にそれがゆえに、開発から取り残された場所なんだという。
人生に失敗した人たちが、それでも義理と人情でつながってにぎやかだった場所だが、バブル後に一時にぎわいが最高潮になった後は、やはりバブルの反動で、豊かな生活を目指してどんどん人がいなくなっていった。
その意味では最も早くここをはけたのが、光子家族だったんじゃないだろうかと思う。ピンクの電話の都子ちゃんと並樹史朗が絶妙!特に都ちゃんのふくよかさとバブル感がなんとも象徴しているのよね。
大家さんと共に、最後まで、光子がここにたどり着いた時唯一残っていたのが、光子に対する恋心を15年間保ち続けた陽一と、その叔父の次郎。
寝たきりになった大家さんの介護を交代で続け、さっぱり客の来ない定食屋をほそぼそと続けていた。
陽一が親に捨てられたとか、そんな事情は一切明かされないし、正直私は陽一が光子にしんみりと告白するシーンに至らなければそのことに思いが至らなかったのね。次郎さんが奥さんに逃げられたのかと思ってた(爆)。
ただ、あの頃は繁盛していた定食屋で、おどけて客引きをする陽一に、ひょうきんを演じなくていいんだ、と優しく諭した叔父さん、成人したらお前に店を譲る気だ、と通帳を渡し、お前を一番信頼しているから、と言った台詞は、後から考えると、そうかあ、なるほどなあ、と。私、相変わらずニブい(爆)。
んで、この叔父さんも陽一に負けず劣らずの純朴さとオクテさ。それこそ幼い光子がこの長屋に来た頃からもんもんと思いを寄せている喫茶店のママに、いまだ告白できずにいるという、化石か!っていうぐらいのウブ、いや、ヤボさ!
実に15年、このママもまー、我慢強く待ち続けているのに。私ね、ママが福島の病気の母親の元に帰らなければ、というのが、彼に決断を迫る言い訳のウソかと思ったぐらいで。
そう、福島、なんだよね。クライマックスでは、もう赤ちゃんが今にも出る!ってなぐらいの光子が、皆をワンボックスカーに押し込んで、それ行けー!!と福島に向かい、あの可愛い桃のカントリーサインの福島に到着。
……製作時期はそりゃ、震災前、だよね?単なる偶然、意味なんかないと思いながらも……ね。
オクテの叔父さんに、陽一までもが逆ギレして、僕がおばさんと結婚する!とまでグチャグチャになってさ。
ママの息子も通いつめた叔父さんに好感を持ってて、彼らが新しく福島で家族を作る、そしてその場面で光子が新しい命を生み出す。
光子が出産の痛みに真っ赤な顔をしながらも、大丈夫、と思う!と、断定的な口調ながら、と思う、と濁し、でもこれまでの過程で、お母さんとして、お腹の子供を信じていること、粋を、人情を信じていることがつながって……なんかもう、なんか判んないけど、偶然でもなんでもいいから、良い、良かった、と思った。
うーむ、またしてもラストに直行してしまった。取りこぼしがいっぱいあるんだってば。
そもそもね、この長屋から人がいなくなったのは古いだけじゃない、ここには戦争時に落とされた不発弾が残っているから。
光子の両親がほんの短い間だけで早々に金を工面して出て行ったのはそれに怯えたからだし、他の住人たちにしても、多かれ少なかれ、そうである。
不発弾を落としていったのはアメリカなのに、まるでここの長屋の責任みたいに言われる、と身体が動かなくなった大家さんは憎々しげながらも、すっかり気弱な調子で言った。
でも、その不発弾のことをやたらと吹聴していたのは大家さん自身だったんだよね。結婚したとたん夫は戦地に赴き、帰って来なかった。不発弾が爆発して、あの人のもとに早く行きたい、というのが彼女の口癖。
不発弾があると聞かされてひどく狼狽した光子の両親にカチンときた大家さん、「こんな(手でサイズを示す)ちっちゃいもんだよ!」って、それ逆ギレの理由になってないって!
うーん、でも、理由になって……たのかも。まさかまさか、クライマックスで大家さんが待ち焦がれたその不発弾、爆発しちゃうんだもの!
さすがにこの展開は予測できなかった!風向きが変わるにしても、強引過ぎるだろ!
しかも、その爆発は、不発弾爆発のイメージから遠く離れたもので、住人たちが恐れおののいて長屋を出て行ったり、「あの人のもとに行く」どころか、すさまじい爆風で大家さんのベッドに穴は開けたけど、立てなくなっていた大家さんがそのショック?で立てるようになったというありえないサプライズで終了!
うーん、うーん、ベッドに穴があいていたし、はずみによっちゃあ、そりゃあ大家さんお陀仏でしょと思うし、独居老人が寝たきりになるシチュエイションの厳しさを示しながら、これで一気に解決、大家さん、福島で寝たきりになってるおばあちゃんに、病気は気力だ!なんて言ったりして、さすがにこの流れは……マズい気がしたけどねえ。
まあ全体を見渡してみればちょっとファンタジー的な要素も多いし、ヘンにリアルさにこだわるのもヤボなのかもしれないけど。
個人的には、陽一とおじさんが営んでいる、ちっとも客の来ない定食屋を光子が復活させるシークエンスが一番好きだった。
光子がこの町に帰ってきて最初に訪れるのがこの店。ジローズレストランから、ヨウイチズレストランに替わっているが、かつてと違って客はサッパリ。
ていうか、あの頃も今も、そんな洒落た店名とはそぐわない、レバニラがオススメな激安(壁に貼られた、ずっと変えてないであろう値段にアゼン!)定食屋なんである。
陽一と叔父さんがカウンターに面した厨房でずーーーーーっと前を見て直立したまま、店の終わる時間が来てしまう、あまりにもあまりな状況!あれは痛々しすぎて、笑えなかったなあ……。
陽一からお前と子供の面倒を見る!と預金通帳を渡された光子が「厳しいんだね。こんなんじゃ子供どころか、メダカの世話も見れないよ!よし!私が面倒みてあげる!」……最後の台詞に騙されそうになるが、ヒッドイこと言ってるなー。
……とは思うんだけど、先述したように、光子にはどこか、自分に対する哀れみや好意をいち早く察知して排除しようとする空気があるんだよね。それはもしかしたら、彼女自身はさらりと言ってるけど、妊娠した状態で異国で捨てられた経験も原因なのかもしれないけれど……。
なにかね、そういう雰囲気をそこここで感じるから、素直になって、幸せになればいいのに!なんて、歯がゆく思ったりもする。
でも、陽一の言い方もちょっとね。子供の頃、大きくなったら結婚してくれないか、と言った言葉を、何か責任めいて思っているような印象を与えるんだもの。
実際は、そうじゃない。彼も叔父さんとソックリ、親子じゃないのに、ソックリで、もうじくじくと、陰陰滅滅と?決定打を繰り出さないまま一人の人を思い続けるという、ヤッカイな血筋なのさあ。
中村蒼君、主演作「行け!男子高校演劇部」で、ウワーダメだー、と思ったが、今回はその100倍良かったわ(爆)。
確かにいわゆるイケメンなのだろーが、必要以上に動かず、必要以上にしゃべらない方がいい(爆爆)。
決死の覚悟の告白も、光子を心配して口出しする細かなあれこれすべてを、光子に制されてしまって、大丈夫大丈夫、OK、OKと言われてしまって、そのペースに乗せられて叔父さんが恋する喫茶店のママに勢いでプロポーズしてみたり、「光子が言うんだから、昼寝するんだよ!!」とよーく考えてみれば意味不明の逆ギレしてみたり……。
実は光子は弱い部分も抱えている女の子だとは思うけど、必ずしも弱い女の子が強い男の子を必要としているかと言えば、否、なんだよね。
光子のような女の子に強い男の子が現われたら、彼女はどこまでもグズグズに弱くなってしまう、のかもしれない。
光子は物語の最後の最後まで、自分がよりどころにしていたのはお腹の中の赤ちゃんで、あるいはその赤ちゃんのお母さんになる!という気持ちだったのかもしれないんだけど、彼女を胸に支えている陽一と、ニギヤカなその周辺の人たちがいてさ、これは、ヤボでも粋じゃなくても、口に出して正解だった。私、一人じゃないんだ、と。
そういやー、光子はこんな臨月まで安定しなくて、しかも何度直しても逆子で、「私の人生は最後まで安定しませんから」と医者に高らかに宣言した光子はカッコ良かったけど、でももしかしたら……やっぱり、しがみつく誰かの腕を、求めていたのかなあ。
大家さんが隠したかった粗相の匂いや、陽一の叔父さんも隠したかったコーヒーの匂い、かなりデリカシーない感じで「妊婦は鼻が利くんだから!」と、それでもその人が、隠したいながらも助けを求めている要素を、匂い自体というより本能でかぎとる光子。
彼女が陽一と叔父さんが大家さんの面倒を見ていることにカンドーし、彼らの窮状に涙し、定食屋を立て直すことを決意。超コワい顔で、だまーって客を引き連れてくる、どこかボーゼンと彼女の後ろからついてくる描写、超好き!
何より、里依紗嬢にメッチャ似合ってるんだもん。彼女のあの顔で先導されたら、戸惑いながらもついていくしかないかも、みたいな(爆)。
しかもそうして連れてこられて、その美味しさに納得しながらも、なんたって光子は粋を重んじる人だから、その粋の意味は幼い頃からあんまり判ってない感じだけど(爆)、リストラされた人とかに同情して、もうしょっちゅう「みんな驕り!」と言っちゃうから、「お前のおかげで繁盛するようになったよ……売り上げは殆ど変わらないけど」!!!
正直、光子の義理人情の篤さと涙もろさが最初に示される、テレビで紹介されたリストラ社員の近藤芳正が、光子が彼と出会った場所からタクシーを使って長屋にたどり着いたことを考えると相当離れている筈なのに、彼もちゃっかり常連になり、しかもリストラされたことを言えなかった奥さんとラブラブ雰囲気で長屋に越してくるっていうのが!!んー、可愛いから、いいか!
カワイイといえば、何よりカワイイのは、大家さん、後には陽一の叔父さん、更に陽一自体も、「ヤラしいことやってない!」いやいやいや、これだけ言うとなんのことやら??
そもそも大家さんは、結婚した途端にハンサムな夫を戦場にとられてそのまま戦死。夫の元に生きたいという一念だけでウッカリ?長生きしてきた。
彼女はクライマックスで陽一や叔父さんがそれに追従して言う前までにも、「だからヤラしいことも一度もやってない!」とこのお年のおばあちゃんが口にするとは思えない言葉を吐いて観客を大いに吹っ飛ばすんだけどさ。
それを二度までも言い、しかもそれに対して、喫茶店のママにプラトニックすぎる恋心を持ち続けた叔父さんも、幼い頃にプロポーズした責任を感じているのか、いやいや光子を待ち続けていたからこそ陽一も、自分も、自分も!と言い募るのが可笑しすぎる!ていうか、せつな過ぎる!
ていうか、……叔父さん、一体、いつからこのママに恋してたのよ。中学生かよ!この調子じゃ、素人童貞ですらなさそう、純粋培養の童貞なのかよ(爆)。
ああ、どこに決着点を見出して終わればいいのかしらん(爆)。うーん、でもね、何かね、なんだろうなあ……。
男の人の方が確かに、流れ者に対する憧れは大きいのかもしれないんだけど、それはかつての映画黄金期、日本でも外国でもよくそんなヒーローキャラがあったと思うんだけど、実は実は逆でさ。
女の方が流れ者になれる、と言ったらおかしいんだけど、そういうキモが据わってる、っていうか、いやもっと軽くね、男に捨てられることなんて大したことじゃないと……軽いだろうか……いやでもさ、男が女に捨てられるより、軽いかもしれないと、思うのよね。
女にとっては、そんなこと、大したことじゃないと。男みたいに余計なプライド持ってないからさ。
だから光子の流れ者キャラがね、それなりに彼女の中には持ってるものはそこここに感じられるんだけれど、何かこう、キモが据わってるというか、これぞ男前、男も持てない男前というかね、それが里依紗嬢に本当によく似合ってて。
そもそもお母さんになる、赤ちゃんを身ごもり、産んでお母さんになるっていうのは、お父さんになることより、ずっとずっと、キモが据わってて、男前なことなんだもの。
その子供を守るためなら、どこに流れ流れても平気、そこにタネである父親、あるいはその替わりになると言ってくれる男もいらない、っていうような。逆にそれがいたら、自分が弱くなっちゃうから、っていうような。
……そこまで言うのは、さすがにうがちすぎ、フェミニズムに言いすぎか、な?やっぱり。子供も持ってないくせに、理想過ぎたか。スンマセン。
でも、里依紗嬢はそういう強さと、そして同時に隠しきれない弱さを可愛らしく感じたし、光子に、うってつけだった。
粋っていうのはね、その意味は正直最後まで、光子にも、大家さんにさえ説明がつかなくて、でもそれは、いい意味で日本の美徳としてとりたいし、実際そうなんだろうと思うし。
確かに、説明出来ないもん。単なる見栄かもしれないと思う。でもね、説明が出来なくても、やっぱり本能的に刷り込まれていると思いたいし、説明できないままでも、継承したいと思いたいのだ、よね。★★★☆☆
電車の中だけでは収まらないこともある。憧れの大学に合格できるかどうか不安な女子高生は、その憧れの大学の門から出てきたカップルをつかまえる。でも確かに彼らは、一緒の電車に乗っていたのだ……。
片道15分という短さの、えんじの車体がなんともレトロな阪急電車。前半の往路で人々はすれ違い、後半の復路で人々は関わって行く、その構成が見事で、うなってしまった。
しかもしかも、そのどのエピソードも見事に泣かせるんだもん。六つも関係性があり、それぞれに関わって行くことで無数の関わりが出来る、そのひとつひとつに泣かされるから、もう涙も忙しい(照)。
冒頭、主人公の一人である中谷美紀が演じる翔子がつぶやく「名前も知らない人たちは私に何の影響も及ぼさないし、私の人生も誰にも何の影響も与えない……」という台詞は、無数の人たちが忙しげに勤め先へと向かっていく大都会、大阪の雑踏でただ一人、違う方向に向かって呆然と歩いている画もあいまって実に身につまされる。判る、彼女の気持ちが。
そして確かにこの物語はその全てが、死ぬほどの苦しみや悲しみというほどではないけれど、ささやかのようでいてでもやっぱり苦しい胸のうちを抱えた人たちがいて、死ぬほどじゃないから、私は恵まれているからという負い目がその悩みを人に話す方向に向かなくて……でも苦しくて。
そう、ささやかなエピソードだからこそ凄く身に覚えがあって、あるいは想像できて、それが誰かの言葉で癒されると、救われると、もうなんだか、ね。
心洗われるって、こういうことかなあ、と思った。いちいちうるうる来ながら、ああ、こんなささやかなことで悩んだり救われたりするのって、確かに豊かな社会である日本の平和ボケなのかもしれないけど、でも人間が捨てたもんじゃないと思えるのは、何も深刻な状況下でばかりじゃない、どんな場合でもそうだと思えることこそが、人間の本来が試されることなんじゃないかなあ、と、思った。
そして、そう、メインのトップバッターを切り、画的にもインパクトのある中谷美紀が最後に出会う少女が、七つ目の人間関係。
少女、としか紹介されていなかった、「……助けて」とつぶやく小学生の女の子、なぜ、ただ少女だったのか、が明らかになって、更に涙腺ウルウル大爆発になるんである。
てなことだから、まあ多少とりこぼしになるかもしれないのは許されてほしい(爆)。だってエピソードが多すぎるんだもおん。
まあ、最初から行く。なんたって予告編でも大きなインパクトを残したのが、中谷美紀が裏切られた婚約者の結婚式にウエディングドレス姿で乗り込む場面で、これがあまりにインパクトがあったから、こりゃあかなりドロドロな話なのではないかしらん、と身構えたのであった。
実際、そのエピソードから始まる中谷美紀が婚約者と、その彼を寝取った(つまり、妊娠しちゃった)女との修羅のやり取りは、昼ドラチックでやたら怖かった。
なんで私が責められなきゃいけないの、私がいけないっていうの?と中谷美紀演じる翔子の言い分はとてもよく判る。とても共感できる。
「私がいけないんです。大丈夫だって言ったから」などというミもフタもない憎たらしい台詞をしおらしく言ってうなだれるその女が安めぐみというのが、ミョーに似合っててさらにカチンとくる(いや実際の彼女は外見とは違う男気がありそうだけどね)。だいたい、おずおずと差し出すのが母子手帳というのが憎らしいじゃないの。
いや、もちろん悪いのは男さ。しかしこの男が、頭を下げるために設けたこの場で、たけり立つ翔子に逆に鼻白み「お前のそういうところが……」などと嘆息するからさらに翔子が激昂するんである。
まあ彼の気持ちも判らんではない。確かに翔子はこの時いくらでも怒る権利はあったと思うけど、怒れば怒るほど、相手の気持ちが離れていくのもまた……残念ながらあからさまに判っちゃうんだよな。
しかし男のこの台詞「お前は大丈夫だろ。でも彼女は俺がいなきゃダメなんだ」
ハッ!ちゃあんちゃら、おかしいね!男がいなきゃダメな女なんて、この世に一人もいやせんわ!
彼女がそう思わせたんだとしたら、そう、確かに彼は、計画的に近寄って寝とって身ごもって彼を奪い取った、このメソメソ泣いてる女に騙されたんだ。いい気味!
……とまあ、女は思ってしまうのだけれど、そう、後に翔子をなぐさめる宮本信子演じるおばあちゃんも「そういう女っているわよね」と言うんだから老若問わず、女には判ってるんだけど、男にはなぜ判らないのか。
そうなの、実際、この女には翔子が言い放ったように友達もいないし、結婚式で翔子に話し掛けてきた“友人”は、私たちもなんで呼ばれたのか……などと言うのがキビしすぎる。
でもそう考えると、この女も確かにかわいそうな女ではあるのかもしれない。こんな手段でしか、自分のそばにいてくれる相手をゲットできないなんて。
白いドレスで泣きながら電車に乗っている翔子を見て、「あ!お嫁さんだ!お嫁さんなのになんで泣いてるの」と言った幼い女の子、その女の子を連れていたおばあさんが宮本信子。
「討ち入りは成功した?あなたみたいな女、好きよ」と言ってくれる彼女は、後に戸田恵梨香演じるミサに「くだらない男ね。やめておいた方がいいわ」とズバッと言うといった感じで、彼女だけが最初から積極的に他人と、つまり本作の他エピソードと関わってきて、それが後段のさまざまなつながりを先導していく、といったイメージである。
ちょっとね、宮本信子には驚いたんだよなあ。だって、本当に普通のおばあさん、だったんだもの。私しばらく、彼女が宮本信子だって思って見てなかった。本当に、この中に生きているおばあさん、という感じで見てた。
お手製の花瓶を嫌がられているのを承知で息子の嫁に手渡すおばあさんは、最初に示されたその造形だけで相当神経の強い“女”だわなあと感じた。
そして後半、恐らく亡くなったご主人と思しき相手との、愛犬をめぐるエピソードにほんわりさせられ、そしてその愛した人と面差しが良く似ている青年が、電車の中で席を譲ってくれた青年が、同じように犬に噛まれた経験がある、と知って、それまで封印していた犬を飼い始める。ああ、いいなあ、と思ったなあ。
それを彼女はずっと、自分の中の秘密にしているのね。思い出し笑いしながら、幸せの記憶を自分の糧にしてる。おしゃまな孫娘から教えてよ、とせがまれても、ダーメ!と言って。
この孫娘に対する教育も実にシッカリしてて、あなたは飽きっぽいから犬は飼えないでしょ、とピシリと言い、飼いはじめた犬に手出しをさせず、その一方で「涙は自分の意志で止めなさい。それが大人の女というものよ」と泣いてる孫娘の目をしっかりと見据えて言う。
その姿が、DV男とズルズルつきあっているミサを揺さぶらせる。なんとも宮本信子のおばあさん像がカッコ良く、こんな風になれたらなあ、と思う。でもそのためには、子供を作って、孫ができなきゃいけないのか(爆)。
うう、宮本信子につられてだいぶ脱線したが(爆)、まあこういうことなのさ、つながっていくってのは。気に入ったエピソードをちょいちょいつまんでいくつもりだったのに。キリがない(爆)。
そのミサのエピソードは、見た目のカッコ良さを他人に自慢したくて付き合っているような、つまらない男とのやり取り。
興味のないことを話しかけられたり、自分がバカにされていると感じると突然ブチ切れて怒鳴りつけ、手を上げるサイテー男。
宮本信子に言われて別れを決意したあと、そんなに執着心があるようには思えなかったコイツがストーカーと化し、悩まされる。
幼なじみとそのお兄ちゃんに助けを求め、簡単に脅しに屈したこの彼氏とめでたく別れることが出来、その幼なじみの女の子が男気よろしく彼の携帯をバキッと割ったのもカッコ良かったけど、その後、ミサの頬をパシンと張って「何でもっと早く言ってくれなかったの!」と言って、二人してワアワア泣きながら抱き合うのには、もー、単純なんだけどめちゃめちゃもらい泣きしてしまう。
うー、うー、こんな少女漫画みたいなエピソード(いや、そーゆー少女漫画、最高だけどね!)にこんなに泣いちゃうなんて、ハズかしい(爆)。でもこういう友達、めっちゃ憧れるよなあ。
一番好きだったのは、進学のために田舎から大都会の大阪に出てきて出会う、勝地君と美月ちゃんのカップルのエピソード。
東京だと全国各地からイナカモンが大集結してるという感じで、それは大学においてもやはりそうだから、東京と言う都会自体には臆しても、学校内でそんなに臆することはないような気がするなあと思う。
なんかこの感じは、地元学生の方がやはり圧倒的に多そうな、しかもそれでいてやっぱり大都会である大阪ならではの感覚のような気がする。
勝地君が操る訛りからして、そしてクレジットの方言指導からヤハリ広島方面らしく、西から来るとやはり大阪なんだなあ、と思う。
パンクファッションにツンツン立てた茶髪の勝地君は、逆にその感じがアナクロニズムを与え、周囲から嘲笑されている。そして美月ちゃんは、膝丈スカートに白ソックス、スニーカー、肩掛けカバンとクリアバックという見た目的にも判りやすい純朴さである。
電車の窓から自衛隊の軍用機が飛び、それにビタッと張り付く勝地君演じる圭一、軍オタである彼の緻密な知識に大いに感心する美月ちゃん演じる美帆、イイ感じになりそうなところで、彼女が自分の名前を言うのをためらったことから、彼は自分が皆から遠ざけられていることを思い起こして、凍りついてしまう。
でも彼女が名前を咄嗟に言えなかったのは……「権田原美帆です!名前を言うと皆笑うし、ずっとゴンちゃんて呼ばれてて……」「笑ったりしないよ。美帆ちゃん」
この時点であまりに初々しい二人だけど、もうずーっと初々しくって、たまらんのだ。演じるのがこの二人だから、いいんだろうなあ。
田舎育ちで、食べられる野草を見逃せない美帆が、電車から見える急斜面に生えている蕨をどうしても取りたい、命綱をつければ取れる、というところから始まるアニメーションを絶妙に配した二人のやり取りは純情すぎてもうワキワキしちゃう(?)。
「(帰省しないのは)だって圭一君がいないから」とさらりと言う美帆に圭一はズキューン!「どうして君は……」バックには炎が爆発!
そして美帆も、自分に合わせるために圭一が野草を取りに行こうとかムリしているんじゃないか、と気にすると、彼は「俺、軍オタじゃなくて、ゴンオタだから。権田原美帆オタ」とちょっと照れ気味に言って、美帆は「どうしてあなたは……」こちらは花が次々と咲くオトメチックなバックに、美帆が抑えようのない笑みをもらすという。
嗚呼!嗚呼!なんと純情な!
彼らが二人きりのクリスマスパーティーを催し、あまりにもあまりにもドッキドキのキスを交わした後、友達からからかいのプレゼントでよこされたコンドームに固まり、「……使ってみる?」「……せっかくの好意だし」「……よろしくお願いします」あああ、純情すぎー!!
あ、でもこれは、圭一が見てた妄想だったのかな?でもちょっとキュンキュン来たなあ!
てか、こんな風にエピソードを追ってくと、ほんっとうにキリがないのよ。平凡な主婦の南果歩がいやいやながら主婦連の高いランチにつき合ってるエピソード。もういかにも大阪のオバチャンっていう、電車の中でかまびすしいオバチャンたちのずうずうしさ。カバンを空席にとっさに投げて席取りをするなんていう信じられないことまでやってのけ、南果歩演じる康江はもういたたまれなくなるという……。
南果歩、良かったなあ。彼女も本当に、平凡で弱気で、イヤなことをイヤと言えない主婦を見事に体現してた。彼女も、南果歩には見えなかった。
小さなテーブルで夫と息子と囲む食卓の、ありあわせのおかずを美味しいと言ってくれる家族の、ちょっとワザとらしいと思えるほどの幸福さ。
息子のPTAの付き合いとはいえ、5000円もするランチに付き合うなんて……。確かに彼女の悩みは、市井のささやかながら苦しい悩みが山積する本作の中でも、ほんっとうに、ささやか過ぎる部類に入るのかもしれない。
それでも、ストレスで慢性胃痛になるほどの彼女の悩みを、看過する訳にも行かない。
彼女を救うのはDV男に悩まされていたミサで、胃痛を起こした康江を連れて途中駅で降りる。
ミサが康江に諭す、価値観の違う人と一緒にいても辛いだけだ、勇気を出すべきだ、という説話は、もちろんあのDV男とのこと。
その踏ん切りをつけさせてくれたあのおばあさんのことがあるにしても、ちょっと説教臭過ぎるかなあ、しかも明らかに年長の女性に対してかなーりタメ口だし……。
という気はしたが、でもそのしゃっきりした感じは、戸田恵梨香に似合っていたかなあ。ビャーッ!と出してる足も、若さ!って感じだったしね!
えーと、あとは何が残ってたっけ……、あ、そうそう、受験を控えた女子高生と、彼女が付き合っている社会人の彼氏との話。
アホな彼氏とシッカリものの女子高生、そして受験が終わるまではプラトニックを貫き通しているというノロケ話を電車のホームで小耳に挟んだミサが、この時にはまだDV男と別れてなかったから「……私よりいい恋愛してる」と思わず嘆息するんである。
実際、実にいい恋愛である。“イケメンなんかじゃない、人なつっこい犬みたいな顔”と彼女が称するアホな彼氏を誰がやってるの?と思ったら、メッチャイケメン俳優やんかというタマテツだが、しかしそんな雰囲気を見事にかもし出してるんだよね!
なんたってやりたい盛りの妙齢男子だから、彼女に対しても「浪人だけはしないで。そこまでガマン出来ない!」と言うほどのアホ……いや、正直さでさ。
合格は難しいと先生から言われて、しかもお前は逃げてる、ガッカリだとか言われてヘコみまくった彼女がヤケになってラブホに彼氏を連れ込むも、彼は決して屈しない。
今日の君はおかしい、こんな風に抱きたくない。大事にしたいんだからとっておきたい。何かあったんなら、話してくれ、と。
あ、これも、他のエピソードもずーっと大阪弁なんだけど、上手く再現出来ないから(爆)。
彼女が自分の思いを吐露して、先生は滑り止め受けろって言うけど、それで何十万もの入学金を親に払わせるなんて出来ない、下には弟もいるし。私は逃げてなんかない!と。
そのことこそが彼女が傷ついたことで、ほんっと、教師ってさ、不用意なひと言で子供を傷つけるってこと、ちゃんと認識しててほしいよね!(プンプン)。
本当に、ほんの一言、それがどんなに、一生、忘れられないほどの傷になるかってことをさ……まあなんか、ちょっと思い出しちゃったわけだけど(爆)。
でもそうやって、しぼり出すように、吐き出す彼女を、彼はひたと抱き締めて、なんだその教師は、俺が乗り込んで文句言ってやる!と息巻くから、彼女はもうその瞬間に救われるのだ。許されるのだ。
ああ、こういう存在でなければいけないのだよね。いくらアホでも、犬みたいな顔でも、絹という字が読めなくても(爆)、いいのだ。あの寝取り女みたいに、守られることでもなくってさ、本当の自分を判って、救って、許してくれる存在。
彼が、宮本信子演じるおばあさんと電車の中で言葉を交わす時、彼女に彼は席を譲る形で出会うんだけど、もうその時点でイイ人全開なんだけどさ、眠そうで、きっと席を譲る直前まで寝てたっぽくてさ、作業着姿がなんとも現場っぽいっていうか、職人っぽくてさ。なんともイイんだよね。
おばあさんは、彼にかつての想い人を見、彼女にじーと見られた彼は、僕、誰かに似てますか?良く言われるんですよね、昔の友達とかイトコとか……と言う。カノジョには昔飼ってた犬に似てるって言われるんです、と。
あなたを見てると懐かしい人を思い出すのよ。それっていいことなんですかね。じゃあカノジョにそう言おう、と、彼はいかにも人のよさそうな顔でニッコリ笑ってね。
その後、宮本信子が甘やかな過去を思い出す、セピアでレトロな映像に心癒されることもあいまって実に効いてるエピソードなのよね!
宮本信子がここでも、後に彼に感化されて犬を飼い始めた時にも漏らす思い出し笑いがなんとも楽しげで、美しくて、なんかそれが本作の幸せの元になっている気さえ、するんだよなあ。
でもさ、でもでも、やはりなんたって、ラストのシメエピソードがとてもステキだから、本作は見事に締まっているんだと思う。
折々意味ありげに挿入された、名もない小学生の女の子。たった一人、坂道を歩いて、人気のない家に帰る。「……助けて」とつぶやく。
その女の子と邂逅するのが、ウエディングドレス姿で電車に乗っていた、翔子。
おばあさんとの出会いでスッカリ心の中を吐き出し、「充分復讐したと思ったら、彼やその相手と一緒の仕事場を辞めなさい」とアドヴァイスされた翔子は、そのおばあさんから、いい駅だからと休息を勧められた小さな駅で、恐らく新生活を始めていると思われる。
その翔子が駅のホームで、同級生からハブにされている小学生の女の子に遭遇する。「いくつでも、女だね。やだやだ」と翔子はつぶやく。
同級生からイジワルな忠告を聞かされたその女の子が「聞いてないのに、教えてくれてありがとう」と鮮やかに切り返したのを見て「……お見事」とつぶやくんである。
そしてどうにも気になって、彼女の隣に座る。くだんの同級生たちが、物陰からこっちを見ている。
「さっきのあなた、カッコ良かった」そう話し掛けると驚いたように仰ぎ見る女の子。「あなた、なんだか私に似てるのよ」
損をしやすい女。これからもあなたは損をするだろう。でも誰かは絶対見ている。私のようにね、と。
女の子がね、泣き出すのよ。もうガマンにガマンを重ねてたのが、もう翔子の言葉でせきが切れちゃうのよ。もうさ、もうさ、もうさあ……こういうのって、たまらんやんか!
同級生たちから彼女の姿を隠して、ハンカチを差し出す翔子。思いがけずお互い同じ名前だと知り、一気に花開く笑顔。ああ、ただ少女と言っていたのはこういうことだったのかあ。
その偶然も確かにステキだなと思ったけど、でも、でもそれ以上にさ、「誰かが見ているから」ってことなんだよね。この映画の、あるいは原作自体の魅力もきっとここに、あるんだと思う。
冒頭示されていた、こんなに沢山人がいるのに、誰も関わりない、誰とも影響しあわない、それは、都会に限らず現代社会で陥りがちな気持ち。それをこおんなに鮮やかに切り替えされちゃうとさあ!
誰かに見ていてほしいと思う。この頑張りを、自分しか慰められないなんてあまりに辛いんだもの。誰かたった一人でも見ていてくれれば。
それはね、大人もそうだけど、大人はまあ、色々と紛らす先もなくはないからさ。でも子供は……そう、誰かが見ているんだと、誰か一人でも、判ってくれる、えらいねと、よく頑張ってる、そんなあなたが好きだよと言ってくれる相手がいるって判るだけで、そう声をかけられるだけで、全然、全ッ然違うと思うもの、きっと。
この少女のガマンが切れた涙と、その先の笑顔がたまらなくキュンキュン来ずにはいれらなかったなあ!!!
かなり取りこぼしはあると思うけど、カンベンね(爆)。しかしね、これ、原作は知らないけど、とても上手く構成して映画としての一作品に収めてる感じがする。いい意味で、上手く収まってる。そういう意味でのカタルシスがある。ホントに凄く凄く、心洗われちゃったもん。
大阪、大阪言っちゃったけど、兵庫ですとご指摘受けてしまいました。ゴメンナサイ!直してしまうのもずるい気がしたので……ここでお詫びして訂正に変えさせて頂きます(恥)。★★★★☆