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「も」


2012年鑑賞作品

ももへの手紙
2012年 120分 日本 カラー
監督:沖浦啓之 脚本:沖浦啓之
撮影:田中宏侍 音楽:窪田ミナ
声の出演:美山加恋 優香 西田敏行 山寺宏一 チョー 坂口芳貞 谷育子 小川剛生 荒川大三郎 藤井晧太 橋本佳月


2012/5/7/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
「人狼」の沖浦監督の新作!えー、あれ以来なの?という思いと、彼の新作なら!という思いとで、勿論迷いなく足を運んだ訳だけど、でも予告編でも本編を観ても、あの「人狼」の監督さんの作品にしちゃあ、じ、地味……(汗)という気持ちは正直、したかなあ。
いや、そもそもこの監督さんがどういう作品カラーの人かってことすら私は知らないのだから、本当に「人狼」で印象付けられただけなのだから、そんなことを言うのはおかしいのだけれど、でもそれだけ「人狼」が凄かったからさあ……。

まあ確かに「人狼」は作家性の強い作品で、一般的に訴えかける、まあ言ってしまえば“商業アニメ”とは違ったかもしれない。こういう言い方って、良くない?でもそうだよね……。
別に商業アニメを狙った訳でもないだろうけど、でも本作にはちょっとそんな感じもして、うーん、何か……薄味な感じがした、かなあ。

勿論、家族や、見えなくても大切なものとか、もっと大きく言えば愛とか、大事なテーマを大きくとらえた本作の意味するところは大きいと思う。瀬戸内ののびやかな風景の中で、最初は縮こまっていた東京っ子のももが、破天荒な妖怪たちに引っ張られる形で成長していくのも微笑ましいと思う。
ただ、……うーん、なんだろ、女の子でさ、妖怪たちとの交流っていうの、画的にもパッと「千と千尋の神隠し」を思い出しちゃったのが、いけなかったのかもしれない。アレはもう思いっきりあっちの世界に行っちゃって、ずっぱりファンタジーでゴージャスなんだもの。
アレを思い浮かべちゃったら、ちょっと貧相(ゴメン!)に感じちゃうのは仕方のないことのような(汗)。

クライマックスには“仲間”と呼ばれる無数の妖怪たちがももを助けてくれておーっと思うけど、それまでは三人(人?)の妖怪、イワ、カワ、マメだけだからさ。
ももにしか見えないこの三人の妖怪とのやりとりは、最初は驚いてばかりのももが、彼らの命の綱である通行手形を手にしてからは立場が強くなって、次第に彼らをからかったりする余裕も生まれる。
そのエピソードの数々も、そう、「千と千尋」を思い浮かべているせいもあるかもしれない、なんか二人か三人の妖怪とももと、のんびり瀬戸内の画が、なんかスカスカしているように感じちゃって(爆)。
ももが、困っている妖怪たちの姿にくすくす笑うのも、うーん、別にそんなに可笑しくないかなあ、とか思っちゃって(爆爆)。

それは、ちょっとした中だるみだったのかもしれない。こうした描写が続く中盤は、妖怪たちの使命がまだイマイチ見えないし、そもそものテーマから遠ざかっていて、見えないゴールに観客が(ていうか私が(爆))ちょっと置いてきぼりをくらっているような感覚があったからかもしれない。
だって「ももへの手紙」なんだもの。それは海洋研究者であったお父さんが突然死んでしまい、後に残された「ももへ」とだけ書かれた、便箋帳から外されてもいない、本当に書きかけの手紙。

というのもその直前、ももはお父さんにひどい言葉を投げかけてしまった。「もういい。お父さんなんて大嫌い。もう帰ってこなくていいよ」
そのまま、本当にお父さんは帰って来なかったのだ。だからももはひどく後悔したし、この手紙の続き、お父さんがなんて書きたかったのか、本当に本当に知りたかったのだ。

なぜそんなひどい言葉をかけてしまったのか、明かされるのは物語の中盤も過ぎてからである。それこそ私がついつい“中だるみ”と感じてしまった後だったから、この構成は正解なんだろうけれど、でも、「ももへの手紙」はどうなったの??妖怪たちとの交流の映画なのかよ??とちょっとだけイラッとする気持ちはあったかもしれない(爆)。

お父さんとお母さんの結婚記念日のために用意した、ウィーン少年合唱団のコンサートチケット。二人の初デートがそれだったから、て理由だったかな?(それがうろ覚えじゃ、ダメじゃん(爆))お父さんを驚かせたいから秘密にしていたことがあだになった。
自分が仕事に行かないと、たくさんの人に迷惑をかけると言ってお父さんは「来週なら必ず空けるから。」とニッカリ笑顔で手を合わせたからももは爆発しちゃったのだ。そしてあの台詞を言ってしまった。

で、お父さんが船の事故で死んじゃって、ももとお母さんは瀬戸内の小さな町に越してくる。
喘息の持病を持っているお母さんが、彼女の祖父母の田舎であるこの地に子供の頃の一時期住んでいたという縁である。
彼らを迎えるのは、ももにとっては大おじ、大おばに当たる老夫婦。お母さんはももとの生活を始めるために、フェリーに乗って福祉関係の講習に通い、その間ももは一人きり。夏休みということもあって、何かこう、ぽっかりと穴があいたような感じ。

この、ちょうど夏休み、っていう設定も、若干の中だるみを感じる原因だったかもしれない。
確かにちょうどいい設定。学校に行くとか、新しい同級生たちとのやりとりとか、そういうメンドクサイ(爆)縛りに邪魔されることなく、この新しい土地に来た戸惑いと、妖怪たちとのやり取りに没頭できる。
けれども……地元の子供たちとなかなかなじめないシークエンスもあるにしても、ちょっとなんか、見ててタイクツ(爆)。いや私だけか、そんなこと思うの(爆爆)。

いや、でもね、もものちょっと内弁慶な性格は、私も判る部分、大いにあるし、特にさ、もものお母さんがたまたま食料品店で行き会った同い年の男の子の陽太に「仲間に入れてやってくれない?」と頼んでももが大いに困惑するのとか、もうメッチャももの気持ちが判って、もう!これだから大人は!!とか思うんだけどね。
いやまあ私も充分大人……もものお母さんと同じぐらいなんだけどさ(爆)。

そう、もものお母さんは、私と同じぐらいなんだよなあ、はあ……私はダメだなあ……いやいや(爆)。
でもホント、思う。もものお母さん、あるいは世のお母さん、私と同じぐらいの年で頑張ってるお母さんたちに、いや全てのお母さんたちに、ただただ敬服するばかりである。その思いを、このもものお母さんに象徴的に思う。
ももには見えなかったけど、周りの、大おじ大おば、あるいはいく子(てのが、お母さんの名前ね)の幼馴染とかには、彼女が頑張って頑張って、頑張りすぎているのが、判ってしまう。

それは、子供の頃からの彼女を知っているせいもあるだろうけど、やっぱり大人、だからなんだよね。
でも私は、近しい人がムリに頑張っているのを気づいてあげられるだろうか……自信ない……(爆)。
いく子の声を優香嬢がやっていたことを後になって知り、驚く。ええ、彼女、こんな落ち着いた、いや落ち着いた雰囲気はあるけど、でも39歳のお母さんの声が、こんなしっくりくるとは!

ももにしか見えない三人の妖怪の存在、ただ大人しく存在していればいいものを、彼らは自分で食い扶持を得なくちゃいけないらしくて、畑から野菜だの盗むし、食料品店でも万引きかまそうとするし、なぜか女の子の持ち物を盗むし(これが何でなのか、結局最後まで判らんかったのは……私だけ?)ももははらはらしどうしなんである。
彼ら曰く、昔は人を丸呑みにしたり、内蔵を吸い出したり、えげつないことをしてたらしいが、それが故に厳罰を下され、今は使いっぱしりの身なんだという。
その使いっぱしりてのが、もものお父さんが天国へ行くまでの間、ももともものお母さんを見守る役目を負った「見守り隊」。

侍言葉を使い、いつも大きな口を開けたままのイワと、河童のような風体で口もノリも軽いカワ、そして餓鬼のような見た目だけどのんびりふんわり柔らかで、あまり記憶をとどめておけない、つまりちょっとぽーっとした雰囲気を持つマメ。
イワが西田敏行、カワが山寺宏一はすぐに判ったが、ふんわり可愛いマメはチョーさん??誰??知らなかった!
とにかくマメの可愛さが(いや、見た目はかなりグロテスクなのだが)際立っていて、キャラ的にはイワもサワも負けてない筈なのに、すっかりマメにさらわれしまうんである。
クライマックスで総動員される地元?の妖怪たちがわらわら現れてくるのもマメの周りだけだし。「覚えてないから」「忘れてしまうから」の一点で全てをフレキシブルに解決してしまうマメは凄い!

と、思うと、マメの存在って、実は結構、意味深いのかもしれない、よなあ……。お父さんが何を書こうとしていたのか、その一点でこの物語は進み、そのゴールもちゃんと用意されてはいるけれども、その後のももともものお母さんのことを考えると、さ。そんなのって、考えすぎ?
でもお父さんからの手紙は、その文字はももにしか見えず、それを記憶にとどめたまま、つまり思い出にして、忘れる訳じゃないけど、とにかく留めて、彼女たちは生きていく訳だからさ。
ひょっとしたらもものお母さんは再婚するかもしれないし、幸せにならなきゃいけないし。

おっと。ちょっとヤボに妄想しすぎたかしらん(爆)。でも、もものお母さんが再婚するかもしれない、というのは、そんな布石がなくもないというか、いや、ただ単に、いく子のことを、恐らく子供の頃から思っていた、ちょっとヌケてる郵便局員、幸市の存在があるからさ。
もものことも何くれと気にかけているんだけど、この時点ではももは彼の気持ちを察して疎んじているというよりは、この島になじめなくてということで、彼をも避けている、のよね。

そう、だってももは、最初の頃、「ねえ、東京帰ろう」を繰り返していた。マンションも売り払って背水の陣でこの島にやってきたお母さんに対して、やはり子供だからそんなことまでは思い至らないから……。
まるでお父さんのことを忘れたように、自分にろくに相談もしないで全部チャッチャと決めて、チャキチャキと動き回るお母さんにももは不信感を抱くんだけど、やはりそれは、ももが子供だから、なんだよね。
でもももが子供だからと、相談相手になどならないからとお母さんが思っていたのも事実で、親の私が頑張らなきゃと思ってパンクしちゃったのも事実で……。だから、あのクライマックスを迎えるんである。

あら、なんか脱線してる。お母さんの再婚の可能性を言おうと思ってたのに(爆)。まあでも、そのクライマックスに、その可能性のある、かもしれない、幸市が大活躍するのだから!
妖怪のしでかした野菜泥棒をお母さんに納得してもらえる筈もなく、ももは大ゲンカして飛び出す。
いや、野菜のことより、お母さんが大事にしていた、お父さんからのプレゼントの手鏡をカワが盗み出した上に割ってしまって、そのことをどうでもいいと言われたことが大きかったのかもしれない。お母さんはももが割れた鏡でケガをしなかったかどうかを心配したのだけれど……。

カワが手鏡を盗み出すのも、ももが「お父さんからプレゼントされた大事なものなの!」と言ったのに、そう、そのお父さんに成り代わっての見守り隊なのに、なんでここで固執してももに手鏡を返さなかったのかも、疑問なんだよね。
こういう、なんで?がちょこちょこっとあって、解消されないままなのが、ちょっとストレスだったかなあ……。

で、そうそう、飛び出したももを探して、お母さん、喘息の発作が出てしまう。幸市がももを捜し当ててカブの後ろに乗っけてきてくれるんだけど、お母さんの発作はおさまらないままで、しかも外は台風。
島のお医者さんも看護士さんも他の島に行ってしまって、台風が収まるまでこっちには来れないという。
お父さんにひどいことを言ったまま永遠の別れになってしまったももは、なんとしてでもお母さんを助けなきゃと思う。そう、「お母さん、お父さんのこと、忘れちゃったんだ」なんてこと言って、飛び出しちゃったから。
出来たばかりの大橋、まだ通行は禁止されている大橋を通ってお医者さんを連れてこようという暴挙に、陽太も後押しして、幸市が決死の覚悟でカブの後ろにももを乗っけて、暴風雨の中走り出すんである。

で、先述のように、マメの言う「仲間がいるよ」の有象無象が二人を助ける。イワやカワは人の生き死にに関わることは厳禁だからとしり込みしてたんだけどね。
でもこの大いなるシークエンス、まさにアニメの醍醐味のスペクタクルなんだけど、幸市が妖怪たちの出現に目を回して気を失い、橋を渡りきったところでカットが替わって、お母さんが病院のベッドで安らかな寝息を立てている。
まあつまり無事お医者さんか看護士さんを連れてこれたのだろうけれど、具体的にはどうなったのか、お母さんや幸市は事態を判っているのか、……なんか都合よくすっ飛ばされた気がしてさ……。
つまりそこんところは、それこそ妖怪の力で都合の良い記憶とかにされたのかもしれないけど、でもそれにしても、すっ飛ばしすぎじゃないの。

その後、藁の船を海に流すお祭りで、戻ってきた藁船にお父さんからの手紙が、ももにしか見えない手紙が戻ってきたのを、「ぶっきらぼうなお父さんが書いた手紙」として確信を持つお母さん、それまではももの言うことを当然信じてなどいなかったお母さん、というのはあるけど、でもそれが、妖怪たちに助けられた故なのかどうかは、微妙じゃん。
ももが読み上げた文面に、確かにそれはお父さんだ、我が愛する夫だ、と思っただけなんじゃないの、という感じもするからさあ……。

ももと負けず劣らず不器用で口下手な陽太が歯がゆすぎる(爆)。彼はもっともっと、大きな印象を残せる感じがしたのになあ。
むしろ、彼の妹の海美ちゃんの方がももに大きな影響を与えていて、ならば海美ちゃんをもっと巻き込んでも良かった気がする。
なんか、ももだけで全ての事態に当たっているのが、無理もあるし、正直華もなかったし(爆)。

海美ちゃんにも妖怪たちが見えている。ももには見えている理由がそれなりに用意されていたけれど(空から落ちてきた時、船上のももに触れてしまった、というね)、海美ちゃんにはない。
そもそもももにも見えているのも、その理由は関係なかった気がする。女の子に見えているというのは、シャーマン的な要素を感じるから。
彼女らにそれが見えなくなるのは女になった時(どっちのタイミングかは……まあ、ね。)だ、という生々しさも含めて、ね。
きっとお母さんはそれを了解したから、最後のシーンでは、ももの言うことを信じてくれた、気がする。

なんか言う暇なかったけど(爆)、ももに妖怪のヒントを与えてくれた大おじは良かった。
彼のお父さん(つまり、もものひいおじいちゃん)が妖怪を見たというエピソードは、でももうちょっと掘り下げてほしかったというか、せめて大おじが、ももの遭遇した妖怪の話を受け入れてくれるとか、一緒に巻き込まれてくれるとかすれば、なあ。途中のスカスカとした中だるみ感も解消されたかもしれない。
ももが話そうとするとちょうどよくジャマが入ったり、なんかワザとらしい(爆)。
そういやあ、ずっと動かなかった柱時計が突然動き出すのも、なあ。お父さんの力?でもももがそれを願ってた訳でもないし、なあ……。

瀬戸内の風光明媚は、見せ場のひとつだけど、正直そんな感動しなかったのも厳しかった、かも。
特にももが、妖怪たちの食料を求めて山を登っていくシーン。てか、このエピソードも、微妙。
お腹をすかせた妖怪たちに盗みを禁じるのに、彼らが捕らえたいのししの子供を「可哀想じゃん」てだけで却下するのも難しいし、いのししの親たちに追い掛け回されるスペクタクルも一気感がなくて、なんか盛り上がらなくて……。
で、ももが高台から眺めた瀬戸内の島々に「きれい……」と感動するんだけど、正直、この画、ちょっと雑なような(爆)。あまり緻密さを感じなかったなあ……。 ★★☆☆☆


モンスターズクラブ
2011年 72分 日本 カラー
監督:豊田利晃 脚本:豊田利晃
撮影:重森豊太郎 音楽:ZAK 照井利幸
出演:瑛太 窪塚洋介 Ken☆Ken 草刈麻有 ピュ〜ぴる 松田美由紀 國村隼

2012/5/8/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
本作が、アメリカの“最長の爆弾魔”をモティーフにしているというのを観た後で知って、何だか意外な気がした。最長の爆弾魔って言い方も何かピンと来ないけど、つまり連続的に、長い間、いろんなところに爆弾を送り続けて、人々を震撼させていた人物なのだという。そんな感じは本作からはあまり受けなかったから……。
いや確かに、主人公の彼、垣内良一の部屋には爆弾を送りつけたその“成果”が記された新聞記事が縷々貼られてはいたけれど、そんな何年も、という感じはしなかったし、何よりも、何かね、現実味がないような気がした、から。

こんなことを言うと語弊があるだろうか。リアリティがないとかいうそういうことじゃない、魅力としての、現実味のなさ。非現実的な、恐ろしさ。その魅惑。
最初に感じたのは、なんだかひどく詩的な手触りがする、という思いだった。手触りなんていう、優しげなものではなかったかもしれない。それは常に、頬を、手足を、心を切り裂いていたかもしれない。
画面を吹き荒れる白い白い吹雪、誰も足跡をつけていない白い白い雪原。モノクロームの映画のように、木立は黒く、雪も風も白く、その白さは明るさの白さじゃなくて、闇と同じ絶望を持つ白さ。

ああ、何と言ったらいいのだろう。そう、誰も足跡をつけていないのに、まるで空から降り立ったかのように、まさらな雪原に瑛太君がぽつんと立っているシーン、そこに、足跡を確かにつけながら近寄ってくるのは、死んだ筈のお兄ちゃん、そんなシーンがあるんだもの。
魅力としての現実味のなさ、と思ってしまったって、仕方がないではないか。

もうひとつ、何よりその詩的で、現実味のなさを象徴的に示したのは、冒頭から観客を飲み込む、ひどく理想的で美しいけれど、非現実的な、犯行声明文。
犯行声明文、だったんだね。それこそ、そのモティーフのことを知って初めて気づいた。監督はこのアメリカの爆弾魔の声明文が製作の決め手になったというんだから、きっとそのままに、再現されているのだろう。

産業社会、それは資本主義社会と言い換えてもいいのだろうけれど、産業、ということを殊更に強調していたように思う。
その中に組み込まれ、あらゆる欲も野心も、結局はコントロールされているに過ぎない、自由など与えられていないということを、あまりにも純粋すぎる理想に基づいた、しかしあまりにも賢い知性によって書かれた緻密な言葉で、延々と羅列する。
その理想の美しさを聞いているうちに陶然としてしまって、だから、この冒頭の刷り込みがあったから、詩的な映画だと、思ってしまったのかもしれない。

でもそれは、あながち間違ってもいないような気がする。良一が作り、送りつける爆弾は、彼が淡々と壁に貼り付ける新聞記事によれば、確かに多くの人を殺し、傷つけ、その恐怖に人々は震撼としているのだろう。
でも、薄暗い小屋の中に映し出された新聞記事は、まるで遠い過去のようにセピア色にぼんやりとしていて、彼が乾電池をピラミッドに積み上げて作っている、手作り感がいとおしい感触さえ覚えさせる爆弾と、なんだか結びつかないのだ。

この手作り爆弾が、郵便屋さんによって運ばれて、血が肉が飛び散る阿鼻叫喚になるなんて、なんだか結びつかないのだ。良一がそれをリアルに結びつけているとも、思えないのだ。
彼はただ、ただただ、孤独を表現するために爆弾を作っているように思う。彼がモノローグする理想にあふれた声明文は、あまりに淡々としたモノローグがゆえに、ただ崇高な詩を天上にむけて捧げているように聞こえる。
その思いを結晶化させているのが爆弾であり、それは、彼の心の結晶なのだと。

そんな風に思ってしまうのは、間違いなのかもしれないけど、いろんなことが、それを後押しする。
良一を演じる瑛太君。そうか、そう言われてみれば、豊田監督作品の常連なのだ。豊田作品が常にとんがり続けてきたから、ピュアなイメージのある瑛太君と結びつかなかった。
爆弾魔と聞けば、そりゃあ瑛太君とは結びつかない。そして実際に見てみても、爆弾魔というキャラじゃない、というか、少なくともそういう芝居はしていない。やっぱり瑛太君だし、凄惨な場所からは遠く離れている。
爆弾を送った先で何が起こっているのか、本当に判っているのか、心配になるほどである。

それは、爆弾魔という以上に大きなファクターが彼に課せられているせいも無論、ある。
兄が一人、弟が一人、妹が一人。いまどき珍しい多人数のきょうだい。
そのうち、兄と弟が死んだ。兄は自殺、弟は不慮の交通事故。父も母も、もう鬼籍に入ってしまっている。
あちらの世界から、良一を呼ぶ声がする。時に怪物のような姿をまとい、時にリアルに生々しく、彼の前に現われる。
この世界に絶望して死んだ筈の彼らは、しかし良一よりずっとほがらかで、頼りない弟、お兄ちゃんを心配している。
しかし当然、良一はその死んだ筈の存在に怯え、怒り、蹴散らそうとする。お前らは死んでいるんだ、何が判るんだ。自分はまだそっちの世界には行けない、と。

そっちの世界。一度、本当に、ある意味判りやすく、示される、そっちの世界。
吹き荒れる吹雪の中の山小屋の、そのドアを開けると、「珍しくお兄ちゃんたちが揃った」サマーキャンプの様子が描かれる。
無口だけれど慈愛に満ちた父、明るくいたわりの思いあふれる母。
そして、そう、お兄ちゃんたち、と言う、一番下の妹は、まだ生きている。まだ、なんて言うべきじゃないかもしれない、生命にあふれている。
山にこもってしまったお兄ちゃんを心配して、カラフルなスキーファッションで訪ねてくるこのプリティな妹は、豊田監督の隠し玉、復帰作「甦りの血」からの連投、草刈麻有嬢。道を踏み外してしまった兄に、「お兄ちゃんのやっていることは、間違ってるよ」とあまりにもまぶしすぎるほどにまっすぐな正義をぶつけてくる妹。

良一は、産業社会を批判し、大学を出て就職して出世して、なんてことも、その枠組みの中に組み込まれるだけ、奴隷になるだけ、と断じているのに、なのに、この愛しい妹に対しては、父親の遺産があるんだから大学には行っとけとか、実に平凡にお兄ちゃんらしいことを口にするんだよね。非情な爆弾魔、純粋な理想に忠実なテロリストがつまづくのは、こんな平凡なところ、ってのが、それこそがリアルで、愛しい。
“そっちの世界”の中にも妹の姿を彼は見ていた、ってことは、それが過去の回想シーンであるとしても、妹もまた、危なく“そっちの世界”に行きかけてたのかもしれず……。

てうかさ、良一がなぜ、爆弾魔になるまでに至ったのか、兄の自殺に至る気持ちの変遷、弟の不慮の事故へのショック、正直、これだと思える確たるものは、ない気がする。
兄も弟も、既に死んでしまったものとして、いわば亡霊のような形で良一の前に現われ、だから、それが、何度も言うように、現実味のない、魅惑的な非現実のように思えてならない。
常緑樹が黒々と林立し、いつやむとも知れない吹雪がゴウゴウと吹きつけ、猟銃で鹿を仕留めて、とどめを刺すナイフで返り血を浴びてさえ、うつろな目の鹿をずるずると吹雪の中引きずる画さえ、上質なファンタジーみたいなんだもの。

もちろんそれは、ラストシーン、これぞ現実の中に、渋谷のスクランブル交差点の中に、良一が放り出される、いや、自ら放り出す場面との対照、言ってしまえば大いなる大オチ、切り札となる絶対的対照があるからこそ、ここまでガマンして、ガマンして、まるで御伽噺のような描写を続けてきたのだと思う。
思えば良一以外は、自殺した兄も、交通事故で死んだ弟も、そしてやはり死んでしまった父も母も、現実世界で生きてきたのだ。そして何より、今、現実世界で生きている妹も。

良一だって、現実世界で生きてきた筈なのに、それが不思議なぐらい、例えば回想とかでも、さっぱり示されない。唯一、“そっちの世界”になってしまったサマーキャンプのみであり、まるで奇跡のように家族全員が集まったこの機会は、既にそう、確かに奇跡、“そっちの世界”になってしまったのだ。
自殺した兄は、意味ありげな笑みを浮かべて「早く来いよ」と言った。この兄を演じる窪塚氏、予告編ではまるで瑛太君と両主演のような扱いで、ウソかホントか、この役を加瀬亮って話もあったとかいうことを聞くと、そうなるとまた、全然違っただろうなあ、と思う。

主演はやっぱりあくまで瑛太君。尺的に言ったら、強烈な印象を残すこのお兄ちゃんだって、あくまで脇役だ。加瀬氏がもし演じていたら、もっと現実味を感じて、しんどかった気がする。お兄ちゃんが自殺したその意味を、言葉以上に感じさせたように思う。
窪塚氏は、本当に独特の軽味の持ち主で、鋭角的に怖いんだけど、ふっと浮き上がるような、不思議な魅力があるからさ。
何度も言うけど本作に感じる詩的さや非現実の魅惑は、窪塚氏がおおいに寄与している感も、あるんだよね。このお兄ちゃんが良一に託した宮澤賢治全集とか、窪塚氏なら、なんか凄く判る気がするんだもの。
宮澤賢治はね、重くなろうと思ったら重くなっちゃうけど、出来れば非現実の魅惑の軽味に漂っていてほしいんだもの。

で、まあなんだか大分脱線したけど。そう、良一は、現実に引き出される。妹の通報によって、どこからも切り離されていたように見えていたこの山小屋に、刑事や周辺の住民が押しかけてくるのだ。
あたりは変わらず吹雪なのに、急に現実が押しかけてきて、良一よりも観客の方が戸惑う。良一は逃げおおせる。顔中、シェービングクリーム(かな?)を塗りたくって、目を青く、唇を赤く彩色して。
この作品の非現実味を最も際立たせる稀代のアーティスト、ピュ〜ぴるが、兄よりも弟よりも妹よりも強烈な印象で現れた、何者なのか判らないけど、なんだろう、何か、混沌の象徴のように、思えた。

良一は、あんなに立派な理想を掲げていた良一は、でも、混沌の中に生きている、平凡な私たちと同じように、そう、思えた。
いや、平凡な私たちと同じではない。平凡な私たちは、この無遠慮な群衆の中、スクランブル交差点の中でも平気でいられる。でも彼は……こんな奇抜なカッコをしていても、田舎の電車の中では避けられても、避けてくれても、渋谷のスクランブル交差点の中では、まるで普通に、そこにいないかのように、存在しないかのように、通り過ぎられる。
でもそれは、通り過ぎる彼らも同じ、通り過ぎる彼らも、存在していないのだけれど、良一は、きっと良一は、自分だけが存在していないように思う。

自分が存在していることを、判ってもらえている人なんて、きっと、いないのに。
それを判ってあげられるのは、自分自身だけなのに。

瑛太君、瑛太君だから、良一でいられたんだね。爆弾魔ということだけならば、彼でなくても良かった。もっとセンセーショナルに演じられる役者はいくらでもいたけど、理想を信じてはいるけれど、怯え、震え、叫ぶ良一は、瑛太君だからこそ、なんだよね。
この撮影中に起こるには、あまりに出来すぎていた、彼を襲った身内の不幸を外野はどうしてもふと考えてしまうけれど、瑛太君だから、真の良一として生きられたし、良一を越えて生きていく様を見せてくれるのだと思う。 ★★★☆☆


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