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「し」


2012年鑑賞作品

しあわせのパン
2011年 114分 日本 カラー
監督:三島有紀子 脚本:三島有紀子
撮影:瀬川龍 音楽:安川午朗
出演:原田知世 大泉洋 森カンナ 平岡祐太 光石研 八木優希 中村嘉葎雄 渡辺美佐子 中村靖日 池谷のぶえ 本多力 霧島れいか 大橋のぞみ(ナレーション) あがた森魚 余貴美子


2012/2/8/水 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
うっかり1000円割引のある水曜日なんて日に観ちゃったもんだから、コミコミで、久々にかなり観づらい角度からの席になってしまい、しまったァと思った。
特にこんな北海道の、美しく広がりのある画をナナメ左から見上げるように見てしまうと、ひし形のボードを見上げているみたいで、せっかくの美しい風景が現実のように見えなくなってしまった。

あー、私、やってしまったと思ったけれど、現実のように見えなかったのは、それこそその風景はまさに、非現実的に美しすぎたからなのかもしれない。
そしてそこにひっそりとたたずむ原田知世があまりにもイメージどおりで、御伽噺のように美しすぎたからかもしれない。

それこそ劇中に印象的に出てくる絵本の世界のように、彼女は現実ではなくて、次の瞬間ふっと消えてしまいそうなぐらいはかなくて、誤解を恐れずに言えばなにか……紙芝居のような、美しき、非現実だった。
ナナメに見ていたせいではないけれど、なんだか色々ナナメに考えてしまった。

本作は大泉先生の所属事務所の通称副社、鈴井亜由美氏の企画だという。
夫のミスターさんが、北海道といえば雄大な景色ばかりのイメージを持たれがちなことに違和感を持ち、生活する場所としての北海道にこだわっていたのに対し、亜由美氏はある意味そんな夫に挑戦状を叩きつけでもするかのように、まさに美しく雄大な北海道を映し出すことに腐心しているというのは面白い。

でも彼女の言う「北海道の知られていない魅力を伝える映画を創りたい」というキモはどのあたりにあるのか、ちょっとピンとこなかったというのは正直、ある。
というのも本作の見え方が、「かもめ食堂」から始まるスローフードと癒し映画の作品群に似てる……ていうか、ソックリだったから。
「かもめ食堂」は傑作だったと思うけど、その後二匹目、三匹目、四匹目……とドジョウを狙うたびに単なる企画映画に陥ってしまったことに歯がゆさを感じていて、結局アイディアにしても画作りにしても、最初の一作、やったもん勝ちだったよなあ、という思いがある。

ゆっくり丁寧に作られた美味しい食べ物と、疲弊した都会から遠く離れた場所、そこに集うワケアリの人間たち……そう、こうして要素を取り出してみると驚くほどソックリなんだよね。
「かもめ食堂」はヘルシンキで本作は国内だけど、北海道でも都市ではなく、交通の便の悪さも思いっきり強調している広大な月浦という場所で、おしゃれなパンカフェといい、画がやたらきれい過ぎて現実味がないというか……。
いや、確かにここにいる彼らだって苦労して生活している、のだろう。心地よい季節は短く、長く閉ざされた冬は厳しい。
でもその厳しい冬でさえも、知世さんのピュアな美しさでただただ見とれてしまうだけだし、何かこう……本当に、現実味がないんだよなあ。

それは、彼ら自身がこの地における異邦人であるというのもそうかもしれない。正直、ね、現実味が感じられないというのは、そこここにツメの甘さがあるような気がするせいもあるのよ。
本作は余計な説明はない。水縞君は北海道出身だけど札幌で、月浦に縁はなく、なぜここだったのか、水縞君がパンを焼くようになったのはナゼなのか、そもそも二人はどうやって知り合ったのか。

冒頭、りえさんが語るモノローグで、肉親を失いたった一人の彼女、絵本の中のマーニを待ち続けていた彼女が待ちくたびれた頃に現われたのが水縞君であり、彼が月浦で暮らさないかと言ってくれたのだった。
なんたって“水縞君”であり、“りえさん”であり、実際にもよーちゃんの方がぐっと年下だし、彼らの関係はとても不思議で、しかもこの会話の感じや物語の展開の中の二人を見ても、そもそもちゃんと付き合った期間があるのか、彼の方が一方的に彼女にプロポーズしたような感じがあって、なんとも不思議、なんだよね。

りえさんはずっとマーニを待ち続けていたと言っていたけど、最初の時点では、それが水縞君であるとは言ってないし、思ってもいない、だろう。
でも最終的に、彼女にとって彼はマーニだったんだろか。そもそもマーニの存在の定義って、なんだろう……。

説明過多な映画は嫌いだし、このぐらいのシンプルさは好ましいとは思う。ただ……縁故がなくこの地でパンカフェを始めてまだ1年なのに、もう地元の小学校にパンを納めてたり、それが森の中で拾う栗のパンだったりするのも、こうしたルーティン業務としてはあまりに計画性がないし、何より客からお金をもらう場面が一切ないのが気になる(爆)。うう、私、なんてつまんないこと言ってんだろ(爆爆)。
でもね、それこそ……ああ、こういう風に「かもめ食堂」を持ち出すのもヤなんだけど、見知らぬ土地で生きていくために、レストランがいっぱいになる、つまりはお金をもらえて生活できることが、かの作品にはきちんと前提にあったことを思うと、なんとなく、気になっちゃうんだよね。

本作のパンカフェは宿泊施設も備えているし、そうした“お金を稼げるシステム”は抜かりないと思う。
でも一つ目のエピソードでここに泊まる東京の女の子は、帰る直前におみやげにパンを買うシーンもあるのに、このパンも含めて勘定するシーンが一切カットされているのが……まあ、そういう俗物的なシーンは雰囲気を損ねるという判断なのかもしれないけど、流れ的にも、パンの紙袋を渡されて、見送られて去っていくって感じで、うーん、どのタイミングでカネ払うんだろう、みたいな(爆)。

まあそれはいくらなんでもヤボにしても(爆)、最初のエピソードでもあるこの東京の女の子、香織と、このカフェの常連客である青年、時生の物語が、まあ言ってしまえばあまりにオソマツだったのが、いけなかったのかもしれない。
彼女は恋人に沖縄旅行をドタキャンされ、同僚たちにも見栄を張ったままこの地にたどり着く。
細かいことを言っちゃえば、彼女にしても冬の客の老夫婦にしても、単純にホテルとかじゃなくてこのパンカフェに行き着くのはナゼなのか、つまんないことが気になってしまう(爆)。

こんな土地ならナヤミなんてないでしょう、と東京で暮らす大変さを説く香織も、この土地から出て行けない憤慨を彼女にぶつける時生も、双方あまりにもステレオタイプに見えてしまう。
特に香織を演じる森カンナ嬢がなんかこう、おおざっぱというか、この美しい風景の中にぶち壊しのプラスチックな感じなんで、いくら平岡君が頑張っても、二人の間に恋心が芽生える過程はどんなに示唆されても感じられなかったなあ……。
あれだけ故郷に縛られてた時生が、彼女を送りがてら東京に出てやる!というまでのトキメキを感じないのよ。

大体、何がやりたいという訳でもなく、故郷が嫌いな訳でもなく、彼が北海道から出てみようというここでの理由があるならば、故郷に縛られてきた自分への嫌悪と、そこに現われたちょっと可愛い女の子、であるに過ぎないというか……本当は二人の間に離れがたい恋心があった筈なんだけどねえ。

な、もんだから、もう一組外からのお客様、東京よりももっと遠い大阪の老夫婦が現われ、病気にかかって余命いくばくもない奥さんと共に死のうとしている旦那さん、という感動的な設定が示されても、ちょっとなんとも、どうにも、それこそ、現実味がない気がするんである。
こういう風に思い込むほどに、老いても仲の良い夫婦って理想だと思うし、特に男の人は一人になるとダメだったりするから決してリアリティがない訳じゃないとは思うんだけど、なんかちょっと、甘ったるい気がして、ね(爆)。

いや、夏のエピソードがなければ、なんたって中村嘉葎雄と渡辺美佐子なんだから、すんなりと、しっとりと、感動も出来たのかもしれない。
でもこのエピソードで何より気になったのは……まあそこまででも充分気になっていたことなんだけど、ほんっとうに、パンしか食わねえのかね、という、もう臆面もないこと(爆)。
旦那さんが、奥さんがパン嫌いなことを、「トシヨリだから……」と言うのもいくらなんでも単純極まりないと思ったが(だって同じような年だけど、ウチの両親はパン大好きで昔から朝食は必ずトーストだよ)、それがゆえに吹雪の中、知り合いの農家におコメを分けてもらいに出かける水縞君、つ、つまりこの夫婦もほんっとにパンしか食わねえんだ……よーちゃん、どうでしょうのヨーロッパで、もうパンはうんざりだって言ってたくせに(爆)。

しかもそれまでに、凍えきった二人に「何か温かいもの作りますね」と言って、まあお米を調達するのに時間がかかるのは判るけど、おかずをブーケガルニから作り出して煮込むの、どんだけ時間かけるんだよ!しかもサーブする時も、めっちゃのんびりにんじん切ってるし。
うー、私、つまんないこと言ってるって判ってるけど、気になりだすと、こういうの、どんどん気になっちゃうんだよー!!

しかも調達したおコメをわざわざ土鍋でまで炊いたのに、奥さんは美味しい甘味噌パンの匂いにつられて、つやつやと炊き上がったごはんを一口も食べない(泣)。ご飯好きの私は、なんか悔しくて泣けちゃう(爆爆)。
奥さんはパンがキライだと思い込んでいた旦那さんは目を見張り、更に奥さんが「明日もこのパンを食べたい」と言ったことで落涙。
今日、新婚旅行の思い出の地であるここで、月を見ながら死のうと思っていたのに。
短くても未来への言葉を妻からもらって、生きる決意をするんである。

その後も、水縞君の勧めで留まった二人は、パンの作り方を習い、ご近所さんも呼んで、ワインを傾けパーティー。
手を取り合い踊ったり、楽しいひと時を過ごす。ああ、ホントにパンしか食べてない……ごはん食べたい……(爆)。
そして春になり、便りが届く。奥さんが亡くなったこと、最後まで変化し、人生を生き続けた妻を見守ることが出来たことを感謝する言葉がつづられていた。

実はこの夫婦のエピソードには、重大な要素があってね。
彼らは阪神大震災で子供を亡くしている。落ち込むだんなさんを、奥さんが励ます形で、古い銭湯を切り盛りしてきた。
「あの地震」という言葉は、今では阪神ではなく東日本を指してしまうけれど、この脚本が書かれた頃、あるいは撮影している時、そうではなかった。
彼らが関西弁であることや、子供を亡くした時期などを考えると、ああ阪神大震災か、と思うのだけれど、今、東日本に置き換えられるだけの強さをなかなか感じ取れない、のは、それは仕方のないことなのだけれど……経過している時間が違いすぎるのだもの。

なんとなくすっ飛ばしてしまった二番目のエピソード、秋の物語は、唯一地元の親子である。
でも父親が勤めているのは、休憩場所がちらりと示されるだけだけど、どこにでもある事務所的な風情で、母親が出て行ってしまった家にぽつんと一人でいるかぎっ子の未久ちゃんともども、ここだけ極めて現実的なんである。
水縞君夫妻や、その周辺の、余さん演じる地獄耳のガラス職人や、子沢山の引き売り農家夫妻や、りえさんに岡惚れしている牧歌的な郵便配達人や、あるいは水縞夫婦が飼っている子羊のゾーヴァに至るまでやたらとファンタジックな中に、まさに異彩とも言える現実味。

お母さんの作ってくれるかぼちゃのポタージュスープ。「これだけは、上手だよね」と子供ながらにからかう回想シーンが出てくるということは、料理下手だったのかもしれないお母さん。
夫婦喧嘩のシーンが示され、未久ちゃんが耳をふさいでいるお決まりのシーン。
眠っているわが娘をそっと覗いて出て行く母親、それにしっかり気づいている娘、というのもめっちゃお決まりである。

そうして、父子家庭になった。父子家庭がコミュニケーションは勿論、食事もおろそかになりがちというのもお決まりだと思ったけど、夫婦喧嘩の原因、一般的には母親の方が子供に執着しがちで、連れてくケースが多いことを考えると、なぜ夫婦生活が破綻したのか、娘を置いていってしまったのはナゼなのか、説明過多はキライだけど、この場合はさすがに気になってしまう。
後に未久ちゃんから「もう、ママは戻ってこないんだよね」と問われて苦しげな表情で頷くお父さん=光石研はやっぱり素敵だけど、戻ってこないと断定するだけの破綻は、妻のウワキなのかなあ……。
単なる意志の疎通の難だけならそこまで断定しないと思うし、なんか出て行く奥さんの顔つきが意味ありげに思えたんだよね。

などというのは、ちょっとうがちすぎか。という具合に、背景を語らない本作が時にもどかしいのさ。
この父と娘が和解するシーン、それを水縞君夫婦がお膳立てするのね。
一度は未久ちゃんが拒絶した、りえさんが作ったかぼちゃのポタージュスープ。おいしいね、でもママが作ったのとは違うね、と、そこを認めてこその第一歩である。
でもねこの場面、娘を膝に乗せて、お互い手を握り合いながら、ひとつのパンを分け合って、パパのポタージュスープに交互にパンを浸しながら食べるシーン、ち、近い(爆)。
いくら和解のシーンでも、幼い娘と父親でも、まあ外国映画ならありそうだけど、なんか、見ててムズムズしちゃう(爆)。
キモチワルイ、なんて言っちゃったらもう、ミもフタもないんだけど。

本作が、アッコちゃんの名曲「ひとつだけ」にインスパイアされて作られたというのは、ラストに流れる彼女とキヨシローさんの歌を聞いて、その歌詞を反芻していた時に、そうだろうとは思っていた。
彼女のソロでのこの曲はもともと大好きだったけれど、ウワサのキヨシロー氏とのデュオは初めて聴いて、アッコちゃんもキヨシロー氏も個性的な声の持ち主なのに、奇跡的なまでのハーモニックに感動しきりだった。

そんなこの歌にインスパイアされたという、つまり本作はオリジナル脚本で、昨今の自作能力のない日本映画にとっては頼もしく嬉しい作品ではある。
この歌の、歌詞の、つまり重要な意味は、彼らの元を訪れるワケアリ人たちにではなく、彼ら自身、水縞君とりえさんの間にこそある。
りえさんに、本当にほしいものはナイショです、とイタズラっぽく言う水縞君。最後の最後に、彼女から、あれ、なんて言われたんだっけな、こんな重要なトコ忘れたら、ダメじゃん(爆)、確か、私のマーニを見つけたとかなんとか言われたと思うが、まあとにかく、彼女から感謝の言葉を言われて、本当にほしいものがもらえた(この言い回しもアヤしい(爆))、と彼は言うのね。

それこそが「ひとつだけ」。いろんなきれいなものや素敵なものはあるけれど、本当にほしいものは、あなたの心の扉を開く鍵だと。
なるほどここにインスパイアされたのだと思えば、穏やかな笑みの下で深い悲しみを抱えていたりえさんを、四季豊かな月浦に連れてきて、ゆっくりと、焦らず、見守り続けてきた水縞君が、待ち続けていたことが、判る。
それがラストに「来年のお客さんの予約が入った!」とお腹を指差してりえさんが言うのは、まー、正直、この年頃の子ナシ夫婦の物語のオチ(というのもナンだが)としては読めすぎな気はしたけど、予想してるところに落ち着いてくれて、安心したのは正直なところかなあ。

街の病院に行っていたのか、いつもオーガニックコットンのようなナチュラルな格好のりえさんが、妙にハデなワンピースとバッグを持ってるのはちょっと気になったけど(私、小姑みたいだな……)。
ラストシーン、思いっきり俯瞰の画で、やったー!と草原を駆けていく水縞君、そしてりえさんと抱き合っているのを、羊のゾーヴァが振り返り気味に眺めている構図が可愛くて、そのままスケッチ画風になる。よく出来てる。

カフェを作り上げるさまざまなオシャレ小物を提供してくれるガラス職人の余さん、素敵なんだけど、先述したように、収支のやり取りがないもんで、なんか好意だけでこの物語や世界が進行してるみたいなのがね。
余さんもさあ、こういう役やるとぴったりに浮世離れしてるじゃん。気になっちゃうんだよね、そういうの。

ご当地映画の雰囲気を最も示していたのは、やはりあがた森魚。アコーディオンを持ち歩き、自分宛の郵便はこのカフェ留めにしてるなど、説明不足気味の(爆)本作の中でも一番謎が多い人物なのだが、やはりそこはあがた氏なので、納得しちゃう。
それだけに、希望としてはね、外から来る人たちのエピソードによって水縞君夫妻を照らし出すのではなくて、水縞君とりえさんにもっと焦点を絞った物語が見たかった気がする。
そこに、余さんがいて、あがた氏がいて、りえさんに岡惚れの郵便局員がいて、それで充分だった気がするんだよね。余計なことを説明しない世界観を保つためにも。

よーちゃんがキャスティングされたのは、勿論これがオフィスキューの企画だからだろうが、それ以上に、彼に既存のイメージをつけすぎないための、親心でもあるんだろうとは思う。
でもね、私はそれって、そんなに重要かなあ、と思う。これは以前から結構思ってたし、ここにも何度か書いたと思うけど……大泉氏ほどの得がたいキャラクターがあるならば、それを役者である、どんな役でもやれるということを殊更に重視して分散して水増しすることは、逆効果っていうか……もったいない気がして、ね。
まあ本作の彼は、水縞君は素敵だったとは思うけど、そんな水増しの薄さも感じなくもなかったかもしれない……からさあ。 ★★☆☆☆


情熱のピアニズム/Michel Petrucciani - Leben gegen die Zeit
2011年 103分 フランス=ドイツ=イタリアカラー
監督:マイケル・ラドフォード 脚本:
撮影:ソフィー・マンティニュー 音楽:
出演:ミシェル・ペトルチアーニ/チャールス・ロイド/アルド・ロマーノ/リー・コニッツ

2012/10/29/月 劇場(渋谷イメージフォーラム)
知らなかった、知らなかった!えーっ!こんなピアニストのこと、私全然知らなかった!
えー、なんで知らなかったんだろう。私と10しか違わないし、彼の活躍していた時代は割と積極的に音楽を、ジャズを聴いていたと思うのに。いや、巨匠どころをさかのぼって“勉強”していた程度で、現代を駆け抜けたジャズミュージシャンである彼のことは、うっかりこぼれ落ちていた、のか。

それにしても……。

彼、ミシェル・ペトルチアーニのような特異な人物なら、目に触れても良さそうなもんだけどなあ。日本にもツアーに来ていたというし。なんで知らなかったんだろう。
特異な、などと言ってしまうあたりに、日本人の排除的体質がついつい見え隠れしてしまうトコがヤだけど(爆)。でも実際、日本では彼はどんな風に紹介され、どんな風に知られていたんだろうと思う。私の知らないところで、まことしやかに語られていたんだろうか。

そう、特異な、というのは彼の容姿。言ってしまえば身体障害者。しかも、これもあまり言ってはいけない形容なのだろうが(と前置きすること自体がダメだよな)、フリークスという言葉がぽんと頭に浮かんでしまう、“小人”。
小人症、とはまた違うんだよな、骨形成不全で身長が極端に小さい。身長が小さいだけで、頭の大きさも手の大きさも一緒だから、そのバランスは何か不思議である。
そ、手が大きいのにはビックリした。ピアニストはそりゃ手が大きくなければ商売にならない。彼の手はひょっとしたら、人並みならぬ、ピアニスト並み、なのかもしれんが、それにしても大きい。手だけが大人で、大きくて、本当に、神の啓示を受けているよう。

そう、本作中で一番印象的だったのは、ね。数々の証言者がミシェルと出会った時のこと、その人物像を語るんだけど、彼がその小さな身体でピアノに対峙しているその姿が、啓示を受けているように見えたと、言っていた人がいた、その言葉、なんだよね。
これがね、例えば、そう……身体が小さいから天使とかさ、そういう表現ならありがちだなと思うんだけど、啓示、というのが、凄い、ゾクリとくるほどしっくりと腑に落ちてさあ。
ミシェルは自ら死のゴールを決めたかのように過酷なスケジュールに突っ走って死んでいったけど、なんか本当に、啓示を受けた自分、が判っていたような気がしちゃう。

そんな風に思うのは、これがもう死んでしまった人の物語に対する時に抱きがちな、つまらない感傷なのかもしれないけれど。
でもね、その啓示、と言った人もそうだけど、全ての人がまず、ミシェルに初めて会った時の印象、そのインパクトをやっぱり語るじゃない。
そりゃそうだよ、健常者なんていう狭い囲いの中で自己満足して生きている私らにとって、極端な低身長だけでもドキッとするのに、その彼が超絶技巧の素晴らしいピアノの才能を見せるのだもの。そのファーストインプレッションの強烈な積み重ねは、凡百の人の一生分をあっという間に超えてしまう。
何かそれが、ミシェルの短命を運命付けたようにふと思ってしまって、彼もどこかでそれを判っていたような気がして。
勿論、この障害は免疫力も弱いだろうし、なんたって全身の骨が折れて産まれてきたというほどで、成人してからも、その激しいピアノプレイで、鎖骨だの指だの腕だのしょっちゅう折れてたという信じ難さ。

だからね、だからだから、日本ではどうだったのかなあ……と思った。日本はいまだに、そしてその頃は特に、こういうことはお涙頂戴にしたがる。でもミシェルはそういうタイプじゃないじゃない。
こうして字面で、生き急いだみたいにとらえられるのが違う違う!と大声で言いたいぐらい、チャーミングで人をひきつけずにはおかず、女ったらしで、ドラッグとか悪い遊びもひと通りやってさ、ユーモアと言えば聞こえはいいけど、正直オヤジギャグを飛ばすようなヤツよ。
外見的インパクトと超絶技巧の演奏を通り抜けてようやく、彼の魅力が見えてくるんだけど、それが最もインパクトが強いというのが、スゴいの。なんか、さっすがフランスだな、って。

ミシェルの“フリークス”は、シニカルなユーモアこそが身上のフランスにおいては、武器にこそなれ、同情なんぞでは語られないの。 日本じゃ、こうはいかないんだよね、腫れ物に触るように、えらいね、凄いね、となるのが目に見えてる。
ミシェル自身が女ったらしなだけじゃなくて、女性がどうしようもなく彼に惹きつけられるのも、“フリークス”が武器になるフランスであり、フランス人の彼だからであり、ジャズの才能をストレートに受け入れた、ニューヨークだから、なのだ。

それでも、日本人も共感し、グッとくる部分はやはりある。家族、やはりやはり、家族である。
ミシェルの才能を開花させたのは、スパルタ練習を課した父親であった。家は楽器店を営んでおり、その階上から音階の練習が聞こえてきたという常連客のエピソードは、日本人が好きそうである。
ミシェルが最初に才能を見出された、有名ミュージシャンとの突然のセッションのエピソードは、親は会場からシンデレラのようにピックアップされたと自慢げに語るけれど、ミュージシャン仲間たちは、いやいや事前に決まってたし、リハーサルもしたよ、と冷静に突っ込むのが可笑しい。恐らく両親の記憶は既に、そんなドラマチックに書き換えられているんだろうな。

予告編を見た時点で凄く気になっていた、ペダル、届かないよねえ、という疑問も、お父さんの作った特製補助ペダルが登場するに至って、ああ、やっぱりこのあたり、日本人好きそう、と思う。
補助ペダル、子供の頃エレクトーンを習ってた私、そういうのあったなあと思い、ピアノを弾く子供にもあったのかなあ。
後にスタインウェイから専用の補助ペダルが作られるに至って、お父さんの特製ペダルは役目を終えるんだけど、さらりと流されるだけのエピソードだけど、こういうの、やっぱ、グッとくるよね。

それにしても女、である。女女女。出てくる“最初の妻”“恋人”等々、年齢を重ねて今の時間でも、皆美しく、魅力的である。
しかも劇中出てくる、そうした“公の”存在以外にも相当手を出していたらしく、数々のラブラブ写真が出てくる。人種も実に様々。おそるべしミシェル・ペトルチアーニ。
いわゆる性的テクニックがスゴい、「ベッドでは凄いらしい」なんてエピソードがさらりと語られるあたり、彼とナニした(オイ)女性たちが、「上手だったわよ」と満面の笑みでそれを語るあたり、スゲーッと思う。いや、そのものの意味というか、いろんな意味でね!(汗。何が言いたいんだ)。

イヤな言い方だけど、これが性別逆なら、あり得たかなあ、と思う。いや別に、女が寛容だとかそんなツマンナイことを言うつもりはないのよ。むしろ逆に、彼女たちがミシェルに惹かれたのは、勿論彼自身のチャームこそ(あるいは恐るべき押しの強さ!出会ってすぐに僕の妻、だもん!)だろうけれど、女性特有の母性本能、弱者を守りたい本能、のような気もしないでもないんだもの。
ただ凄いのは、恐らく、というか確実に、ミシェルもそれ判ってただろうなあと確信出来ちゃうところであって、コイツなら、それぐらい充分計算してるよ!と……。
だから、彼にアッサリ捨てられると大ショックなんだよね。そんな本能は自己陶酔に過ぎず、女たちの方がマジに彼にホレて首っ丈になってしまっているから。

そうなの、アッサリ捨てるの。ホント、信じられない!そして次の女と同棲しちゃう。妻がいるのに“友達の女”と結婚式あげたりとか平気でしちゃう。そういう映像が残ってるのがまた……。

息子をもうけた女性は、結局結婚したんだっけ、してなかったんだっけ……というほどでね(爆)。出てきた途端、うわ、ミシェルの息子!とひと目でわかるぐらいソックリ。
ミシェルの障害は遺伝するかもしれない、妊娠した時に選択を迫られた、なんてイヤな話も、愛し合っていた二人は当然産むことを選ぶが、本当に同じ障害を受け継がせてしまったことを知ったミシェルは、とてもとても、落ち込んだという。
ミシェル自身が、そんな障害など笑い飛ばすほどのエネルギーの持ち主でも、でもやっぱりそれとは違うんだよ、ね……。
息子に、自分より身長が伸びるんだと、いつも言っていたという。その通り、息子のアレクサンドルは、父親よりも20センチほど身長を伸ばした。
長生きしてほしいと思う。普通に、普通の人生のように。だってだって、ミシェルは……。

ミシェルはその障害から、長くは生きられないと言われていたみたいだけど、医者はいつだってサイアクのシナリオを言いたがるし、実際は、どんどん医療が発達していく過程なら、もっともっと“普通”に長生きできたんじゃないかと思う。
“晩年”、一年に200以上の公演をこなすという過酷なスケジュールに、かつて幼い彼にスパルタを仕込んだ父親さえ心配して進言したけれど、ミシェルは、そう……ゴールが迫っているように、思っていた、だから、出来ることを、って思ってた、みたい。
でも本当に、そうだったのかなあ?

ミシェルの直接の死因は、冬の季節の肺炎。過酷なスケジュールが過労となって後押ししたように思えてならない、てか、そうでしょ。
晩年のミシェルのライブ映像は、ひどく老いて見えた。鬼気迫る演奏なだけに、余計に恐ろしかった。え?彼が亡くなったのって、36歳でしょ?って、思って画面を見返すたびに、ゾッとした。
まあ、頭がツルッといっちゃうのは男の人ではね、ままあるさ。でもそこじゃないの、そんな判りやすいところじゃないの。あの、手よ。大きくてビックリした手。

小さな身体、子供のような、赤ちゃんのような身体に備わった大人の手は、ピアノを弾くためという以上に、そのギャップでやたらセクシャルで、んでもって女好きというキャラもあいまって、ピアノを弾いてるシーンなのに、その手に関するいろんな妄想しちゃって(爆)、それぐらい、官能的な、セクシーな手だった。
それがね、真っ先に老いるのだ。いや、ピアニストとしてのテクニックの話じゃない。それは最後まで、まさに神に守られたがごとく、失われない。でも、手自体、手の造形自体が……。
女性がいっくらメイクだのアンチエイジングだのしても、どうしても年齢が出てしまって悩まされるパーツの第一が手、なんだよね。単純に一番使うところである、というのが、ミシェルの場合、これほど当てはまる例もないではないか……。

時間とちゃんと比例して老いていってくれるならば、老いた手は、それこそ素晴らしい年輪だったに違いないのに。あの手はとても30代じゃなかった。
そして、すっかり太ってしまったミシェル(代謝とかも上手くいかないのかもしれない)は、演奏のエネルギーと言うにはちょっと異常なぐらい、玉のような汗をかいていた。それが、あのツルッといっちゃった頭に。辛くて、さあ……。

あのね、ミシェルはなんたって、13歳でプロデビューを飾ったぐらいの、本物の天才だよ。その時は、そう、証言者の一人が言っていたように、ハンサムだったの。ベビーフェイスっていうのかなあ、可愛い顔して、それこそ天使みたいだった。それこそ、女の子の母性本能をキュンキュンさせる顔。
それであの小さな身体で、当時はまだ杖をついての歩行も出来なかったから、抱きかかえられての移動で、おっぱいの大きな女の子に喜んでたなんてエピソードが、これぞギャップの萌えだなと。
だって、そんなお顔とそんな肢体の子が、そんなエロなこと考えてるなんて思わないでしょ。ズルいよねー、そういうギャップもチャームなんだよな。

……おっぱいにつられてちょいと話が脱線したが。そう、とにかく、そう。“晩年”、急速にミシェルは年をとってしまったように思う。
映画を見てるこっちはゴールが見えてるから、余計そう思うのかもしれない。玉の汗を浮かべ、骨ばった老人の手でピアノに噛み付くようにして演奏するミシェルに、何も、何も言えない!

ミシェルは、ツアー先で、寒い冬に、肺炎で亡くなった。享年36。

ローマ法王の前でのパフォーマンス、埋め尽くされた熱狂的な観客と、その熱狂を抑えつつ、上気したお顔で拍手を送る法王、そんな映像さえも、残されていて、本当に凄いピアニストだったのだと思う。
なんで私、同時代にメッチャ生きてたのに、知らなかったことが、本当に悔しい!

ミシェルをロゴ的なキャラで描いてる本作の宣材イラストが、じっつにフランス的エスプリが効いてて、素敵なの! ★★★★☆


女学生ゲリラ
1969年 73分 日本 モノクロ(一部カラー)
監督:足立正生 脚本:出口出(足立正生)
撮影:伊藤英男 音楽:音楽集団迷宮世界
出演:芦川絵理 花村亜流芽 万屋真理 新田等々 福間健二 吉積めぐみ 伊地知幸子 杉山健 谷川俊之

2012/5/22/火 劇場(銀座シネパトス/PINK FILM CHRONICLE 1962-2012/レイト)
なんたって後に日本赤軍に参加してマジに革命家となっちまった、存在自体が伝説である足立監督の、タイトルだけでも刺激的な作品で。
そう、なんたって後に革命家になった人の作った「女学生ゲリラ」なる映画、なんてさ、もうそれだけでそれだけで、伝説の匂いがプンプンするじゃない。
あたしゃー典型的な女のバカで、政治とか革命とかほんとダメなんだけど、ダメだからなんか興味ばっかりはいっぱいあって。
つまりはヤジ馬的興味、だよなあ。革命家になる前の足立監督の、革命を起こす映画、なんてさ、彼の主義とか主張とか、革命とはなんぞやとか、ゲリラとはなんぞやとか、見える作品なのかと思ってさ。

うむ、しかし……。 こんな風に書き進めてみてナンだけど、ゲリラってつまり、どういうことなのかしらん……。
アホ丸出しだが、そんなことを思ってしまう。彼らがゲリラであり、やっていることがテロリズムだというのなら、確かにそれは、そうしたことを理解するための入門書なのかもしれない。
いや、というよりも何か、ゲリラとかテロリズムのパロディ、軽く面白がって作られたユーモア作品のようにさえ、思っちゃったのね。

それは、ピンク映画という枠組みの中で作られているから、そう思うのかもしれない。
ピンクだから、カラミ。それを担うのはいかにもズベ公といった感じの(懐かしい言葉だけど、時代といいホントそんな感じ)女学生三人と、彼女たちの尻にくっついていく男子学生二人。
若く美しいおっぱいを惜しげもなく披露し、それを見せるためだけって感じでトップレスダンスまで見せてくれる。
そんな彼らがたくらむのが、卒業式粉砕。粉砕、って言葉、使ってたっけと、後から解説を読んで思った。使ってた、かもしれない。粉砕、というのもいかにも当時の学生運動っぽい。
彼女たちが投げ入れる手書きの挑戦状は、なんか光線のテカリで上手く読み取れなくて、それってネライなのかなあ、と思う。

私だけかなあ、彼女たちの要求がなんかよく、判らなかったの。一体彼女たちは何をゴールにして、つまり卒業証書やその周辺の書類(成績関係の?)を強奪して、卒業式を“粉砕”しようと思ったのか、判らなかったのよ。
ホント、私だけかなあ、と思う。だってあの“挑戦状”(つーか、なんていうの、果たし状じゃないし)は明確にずらずらずらーっと書き連ねてて、頑張って目を凝らせば読み取れそうだったんだけど、私だけが読み取れなかったのかなとか(爆)。
何をしてほしかったのか、何をすれば満足だったのか、見ている間中、ずーっと、ずーーっと考え続けてしまった。

険しい岩山を登りつめた所に立てこもって、教師や生徒会の連中が説得に来るのに対して彼女たちが言うのは、「校長を連れてこい!」と「ちゃんと文書にしろ!」の二つ。
理解を示そうとする教師や、気持ちは同じだと呼びかける生徒会の学生にツバを吐くように、聞く耳を持たない彼ら。
追い返してもきっとまた来る、ワレワレの要求は受け入れられる、と甘い考えを持っていたのが、その後、すっかり打ち捨てられてしまう……。

と!あまりにも先走りすぎた!えーと、とにかく最初から行こう。最初??女学生たちが自衛隊の訓練を眺めながら、長いスカートめくって座りションするとこから?(爆)。
その土手下にこれまたサボリ組の男子学生たちがいて、これぞいかにもピンク、彼女たちにのしかかる。
この時には、バカヤロー、バカにすんな!てな具合に足蹴にした彼女たちだけれど、その後セックスを条件に校長室から卒業証書と周辺書類を盗み出すことに成功、ゲリラ仲間と相成る。

てな訳で、ヒマさえあればセックス、セックス、彼女たちもまんざらでもないらしいが、なんたって3対2で数が合わないんで、なんか微妙な感じにもなる。
しかもそのうちの一人は、「恋人がいるんでしょ」と言われる女の子だったりする。でもとりあえず男どもはとにかくヤリたいだけだから、どーでもいい。
気の合った(というか身体の合った(爆))女子から、私のこと、好き?とか聞かれても別にどーでもいい。まあ、聞いた女子の方もどーでもいいみたいだけどね。

この作品がゲリラやテロリズムに対するパロディめいた、軽い意識があるのか、あるいはそうじゃないのか、さらりと見てしまえばピンクのお色気描写だけれど、刹那的な行動を起こすゲリラたちと思えば……。
私がイメージするゲリラという言葉のそれが、刹那的なものを多分に含んでいることを思えば、意味深く思えなくもない、というか。
言ってしまえば、ゲリラなんてこんなもん、女学生だってなれるよ、みたいな。言いすぎ?でも……。

そもそも彼女たちの行動原理が、自分たちがないがしろにされている、バカにされている、もっと自分たちを見てほしい、評価してほしい、みたいな、単純に言っちゃえばそういうことじゃない?なんかあの“挑戦状”には、集団就職に対する文句も連ねてあったように思うけれど、それだって、私という個人を見て!って叫びじゃんか。
集団就職って言葉もいかにも時代だけど、そしてそれに対する彼女たちの叫びは確かに正当だけど、認めてもらうだけの個性や能力がまだ固まっていない若さで叫ぶ青臭さが、何かまぶしく、恥ずかしいのだ。

でも、確かに正当な叫びなのかもしれない、と思うと、でもそれを、正当だと認めてしまうと、それこそゲリラだ、テロリズムだというのは、その延長線上にあるんだよ、と言っている様にも思えて、なかなかに油断がならない。
その他大勢に貶められた自分、あるいは自分たちを、そうじゃないんだ、自分たちは存在し、その主張は正しく、とりあげられるべき価値のあるものなんだ、という風に解釈していけば……うっ、確かにテロリズムになる、かも。結構コワイこと、言っているの、かも。

実はもう一人、重要な登場人物がいる。起承転結の転の人物と言ってもいい、いわゆる彼女たちにとっての部外者。
彼女たちはね、武器だの武装衣類だのを、冒頭で登場した、訓練中の自衛隊員たちを色仕掛けで誘って、まあつまり、こんな草むらの中、誰も見てないからセックスしましょうよ、ってことさ(爆)、飢えた隊員たちがすぐに乗ってくるのを、その股間を蹴り上げて、アッサリ武器だのなんだのを奪ったんであった。
だから、岩山に身を潜める彼女たちに、訓練中のようなサバイバル仕様で高圧的に近づいてくる男のことを、当然、“犯人”を捜す自衛隊の手先だと思っていたのだが……。

武器を奪われたんだから、自衛隊だってさあ、捜索部隊が出ていてもおかしくないのに、このキチガイ男がそうじゃないのなら、自衛隊の動きはない、んだよね。
何かそれがさ、彼女たちが所詮子供として軽んじられている感じもして……つまり、学校が動いているから、そっちに任せてる、みたいな。
セックスもやりまくりの、トップレスで踊り狂うような女の子たちでも、いやだからこそか、所詮子供、なのだと。

でもそうなら、本当にそうなら、これがゲリラでありテロリズムなら、パロディかもしれないし、軽いおとぎばなしのようなものだとしても、ゲリラもテロリズムも所詮そんなものだって言っているような気がしちゃう。
いくらなんでもそれはない筈、だって足立監督はその後、本物の革命家になったのだから……でも、その革命の行く先を思えば……いや……それはいくらなんでも幼稚ナマイキな考えだよね(爆)。

で、まあちょっと脱線したけど、そのキチガイ男、そう、キチガイなのよ。“挑戦状”が何書いているのか判らないのも難儀したけど、最も難儀したのは、このキチガイ男が何を言っているのか判らないこと(爆)。
いや、なんたってキチガイなんだから(爆)、言ってること判んなくても特に支障はないのかもしれんが(爆爆。ひたすらヒドいこと言ってんなー)、でも、気になるのよ。なんか、凄く緻密で、系統立ったこと言ってるような雰囲気なんだもん。
でもそれこそ、それこそそれこそ……キチガイなのかもしれない。正統な理論を、もっともらしく言うヤツほど、キチガイ、うっ、なんかますますヤバいこと言ってる(爆)。

すんごく、映像美学的表現も多用されている。何より顕著なのは、時々カラーになること。しかもずっぱり後半に入ってからである。
それも、最も効果的に使われるのは、彼らが掲げる旗。日の丸を逆にしたような、赤い旗の中央を丸く繰り抜いた旗がバッとカラーで示され、後にモノクロに落とされると、意味合いが急降下する感じでハッとする。
その旗の下に、彼女たちによって縛り上げられたキチガイ男が、へろへろになって突っ立っている。まるで磔にされたキリストのようだ、なんて言ったら、ちょいといい役割を与えすぎだろうか??
モノクロでも充分まぶしかった彼女たちの裸体が、ふっとカラーになって水の中をハツラツと泳いでいたりしてハッとさせ、すぐにモノクロームに戻る。
こういう映像表現、印象的だけど、ちょっと若い感じがして今見るとヒヤッとするけど、今でも若松監督とかやりそうな気もする。

そう思えば、ラストシークエンスはまんま、カラーなんだよね。学校側が来て“くれた”のは一回だけ、卒業式の直前だけ。
卒業証書なんてさ、いくらでも作り直し出来るし、他に何を持ち出したのか知らんけど、成績関係のものなんて、いかにも成績悪そうな(爆)彼女たちの意地にしか思えないじゃん。
そう、ゲリラもテロリズムもこんなものだ、無視され、見捨てられれば、終わり。そうならないように、より残酷に、残虐な手口に、“本物”のゲリラもテロリズムも向かっていくのだろう。

でも彼らは若くて、動機も目的もあいまいで、見捨てられたと思った時点で、急速に収束してしまう。
出口の見えなくなった仲間たちに「私たちは確かに勝った」勝った、勝ったけれども……と言ってさまようように狂いゆく、女子学生の中で一番なまめかしく、一番美人の子が明確に言いたかったことはなんだろう。必死に、何かを、言い募っていたけれど、ゴメン、心に残らなかった。

何も得ず、悄然と山を降りゆく彼らが、真正面からのカラーなのに、何か殺伐としていて、でも不思議な軽さがあって、ああ、結局どっちだったんだろうと、思う。
そう、なんかさ、何を言っても、的外れだろうと、思っちゃう。
思想の隔たり以上に、時代の隔たりは、ツラいのだ……。 ★★★☆☆


女高生レポート 夕子の白い胸
1971年 71分 日本 カラー
監督:近藤幸彦 脚本:中野顕彰
撮影:山崎善弘 音楽:坂田晃一
出演:片桐夕子 山岸恵美子 里見洸治 森田蘭子 甲斐康二 白井鋭 清水国雄 島村謙次 高橋明

2012/10/14/日 劇場(銀座シネパトス/レイト)
フィルモグラフィーを観ると、どうやらこの片桐夕子女史のことはちょいちょい見かけている筈ではあるんだけど、全く認識していなかったもんだから(爆)、今回が彼女を初見のようなもの。
それになんたってこれが彼女のデビュー作であり、ロマンポルノスター街道をばく進したシリーズとなった出世作であり、本作の役名から芸名を頂戴したというんだから尚更である。

彼女のことはなんか、映画祭か企画上映かで、文化映画みたいなのに教師役で出ていたのを見かけたんだよね。その時のトークで司会者の女性が、凄くファンだったと言ってて、へーっと思って、それ以来そのお名前だけは頭の片隅にあって、彼女のロマポル作品が来たら是非観ようと思ってた。
小沼勝監督と結婚していたことあるんだね。今でも本名の苗字は小沼なの?データ上では……なんでなのか、ちょっと気になるなあ。

しかしこれは、凄い、凄いかもしれない。いろんな意味でツッコミどころ満載。いや、ロマポルに限らずエロものは、そのエロを入れるために色々とムリが出てくるものではあるが、なんかそういう次元を超えている。
いやいや、夕子嬢(この時は嬢、よね。)はとても初々しく、いやお身体はお見事で、巨乳というだけなら現代でもいくらもいるが、やはりお若いと巨乳でしっかり張っていてさ、違うよなーっ、と思う。

この時彼女19歳?現代では、19歳の巨乳女優さんがフルでおっぱいを見せてくれる機会はなかなかないからさあ……。
AVならあるかもしれんが、スクリーンで、しかもスクリーンスターとして見られたこの時代は、幸せだったように思う。巨乳女優はいくらもいるけど、全然違うもの。

……なんかヘンなところから入ったが。だってね、この時の夕子嬢は脱げばほぉーっと思うけど、全然垢抜けなくてね。
同じバレー部の部員から、まだバージンなんでしょとからかいというより軽いさげすみの目で見られ、それはこの年になって(あるいはこの身体で)ウブだとか、しらけるんだよ、みたいな感じでさ。
……いや、バレー部なんていう、結束こそが大事な団体でおかしいんだけど、彼女は練習に打ち込んでいるし、とても真剣なんだけれど、その真剣は、コーチにまっすぐに向けられているからさあ。
そのコーチ、石田先生は他の部員たちにとっても憧れの的で、しかし彼が夕子ばかりをしごくから、どうやらこの二人は……と皆が気づいてる。

おっと、そのまま話が進むとマトモに話が行っちゃうんだけど(いや、行っていいんだけど(爆))ちょっと軌道修正すると……。
そう、夕子はなんか、垢抜けないんだな。それは、夕子に友情以上の下心を抱いて近づいてくるレズビアンの真弓や、石田先生に色仕掛けで近づき、まんまとせしめた女の子(ゴメン、役名忘れた(爆))などなどと比べるとさあ……。

この色仕掛け少女は乱交パーティーのスポンサーのオッサンと懇意にしてたり、薄い胸なんだけどトップレスでボトムがジーンズだったりするマニッシュ、コケティッシュでなんとも蠱惑的だし、私的には真弓にかなり、かなーり、ヤラれた!
とにかく美人、田丸麻紀的美人、と思うのは、朝ドラ「カーネーション」のメガネスタイルの田丸麻紀にホントよく似てるのよ。
メガネ美人というだけでヤバいが、セックスどころかレズビアンなんてものも知らない夕子にまさに手取り足取り、優しくセーラー服を脱がせて「夕子さん、きれいだわ……」キャーッ!……ヘンタイみたい、私……。

でもね、夕子がセックスのなんたるかを知らなくて、昼日中にクリーニング屋の男を引っ張り込んでナニしてる姉に遭遇して息を飲み、それでなくても石田先生への思いでモンモンとしててさ、そんな夕子に、耳元で囁くように、本当に唇がつきそうなぐらいな距離で「遊びにいらっしゃいよ。私が教えてあげる」なーんて、こんなメガネ美人に言われたらさあっ(コーフンしすぎ……)。

しかもね、彼女がまず夕子に、宝物のようにそっと取り出して示す、素裸で抱き合う肉体の写真は、夕子がショックを受けた、刹那的に本能的にむさぼりあう姉とクリーニング屋の様子とは全然違うし、後に乱交パーティーに紛れ込む、その醜悪な様子とも勿論、全然違った。
息を飲んで見入る夕子に真弓は囁く「きれいでしょ。これがセックスなのよ」と。そしてひたすら優しく美しく、挿入がなくたって、女の子同士のこれもセックス。
その後いきなり“さん”が取れてお互い呼び捨てになるあたりが、友情以上のなまめかしさを感じてドキドキしちゃう。

個人的には夕子と真弓のセックスで満足して充分だったが(爆)。それはあくまで傍流のエピソード。夕子と石田コーチこそがメインなのだが……。
この石田先生ってのがね、もうツッコミどころ、満載なのよ。やたら引き締まって筋肉隆々の細マッチョ、確かにイイ男なんだけど、何かその要素自体が、なぜか可笑しくて仕方ないのはなぜなの(爆)。
いや、ルックス、身体的に隙がなさすぎるから、逆に可笑しいという、彼にとってはメーワクな観客の反応(爆)。

ロマンポルノだからさ、アダルトだからさ、冒頭のタイトルクレジットで、夕子と石田先生に素っ裸でバレーの特訓シーンをやらせたりしてさ、それがギャグに見えてしまったらもう、ダメかも(爆)。
あの完成系の細マッチョに白ブリーフはかれたら、もうそれだけで、ダメかも(爆)。なんで白ブリーフって、しかも完成された肉体の男だと余計に、可笑しいんだろ、困ったな(爆爆)。

しかもさ、この石田先生、こんなイイ体で、ストイックなくせに、信じられないヘタレなの。夕子が決死の思いで私を抱いてください、と迫ったのを「俺と君とは教師と生徒だ。ただの男と女だったら、君を抱いていただろうけれど」と歯を食いしばって拒んだくせにね。
追い出された夕子と入れ違いに入ってきた、あの色仕掛け少女が全裸になり「これが私の誕生日プレゼント!追い出したりしたら、先生に脱がされたって、言うから!」というベタな脅しと強引な押し倒しにあっさり屈して、ヤッちゃうんだもんなーっ!
いやまあ、これぞカラミ要員ということなのだろうけれど、それにしてもこの経緯でソレはひどくない(爆)。
ここだけじゃなく、もう最後までこの石田先生のヘタレっぷりはヒドくて、結局ね、結局、夕子とは結ばれないまま、なんだよな……。

バレー部の合宿で、結ばれかけた。もう超ロマンティックな状況でよ。あれもかなりツッコミどころ満載のシチュエイションだったが(爆)。
大体、川に渡された冗談みたいに細い板(板っつーか、棒だよ、あれじゃ)を踏み外したのが夕子だけだってのもアレだし、あんな細い板を生徒に渡らせること自体、どうなのと思うし。
まあとにかく、踏み外して川に足を突っ込んで、捻挫した夕子は、石田におぶわれて山小屋に二人。というのも、嵐になって、他の生徒は先に下山させたからである。

まああんな小さな川じゃ、踏み外しても濡れるのは足だけだから、山小屋で濡れた衣服を脱ぐってシチュエイションにはそれしかないわなあ。……いやそんな突っ込む気マンマンな言い方をするのもナンだけど、でも突っ込みどころ満載なんだもん。
濡れたままだと身体が凍えてしまうというのはまあ判るけど、「そのままだと肺炎になる、服を脱げ!」……まあ一応、ここまでも体育会系と思ってヨシとするか……しかししかし、夕子がハイ!とまるで躊躇なくさっさと脱ぎ捨てるのが……いやまあ、ロマポルだからにしても、あなたは経験もない純な女子高生なのでは……いや石田先生のことが好きだから、もうここだとばかりなのかもしれんがそれにしても……。

石田先生もさっさと脱いで、白ブリーフいっちょになったのは、白ブリーフいっちょの細マッチョ姿こそがもう突っ込みどころで、可笑しくて、そんなこと言ったら彼に悪いんだけれども(爆)。
でもさ、めっちゃマジメさんなんだもん、ちょいと地井武男に似たストイックな風貌と雰囲気が、更に可笑しさをかきたてる(だから、ゴメンって!)。
ショーツも脱ごうとする夕子に、それはいい、と押し留めると「でも先生、濡れて気持ち悪いんです」とかまわず脱ぎ捨てる夕子。
……ウブをからかわれる女の子なのに大胆すぎるし、この台詞もとり様によっちゃ……いや、確かに夕子はここで石田先生とヤル気マンマンだったもんなあ。この時が第一回、君と僕とは教師と生徒だから、な場面だった訳だ。

石田先生が教師を辞めてブラジルに行くことになって、もう教師と生徒じゃないんだからと、夕子は彼のマンションに押しかける。
で、先述したように拒否されて、しかし石田は他の生徒の色仕掛けにはあっさり屈した訳で(アホか!)。
夕子は意気消沈したところで真弓のレズビアンの世界に引き入れられ、更に乱交パーティーに「経験したいから」と参加するも、脂ぎったオジサンにヤラれそうになって、真弓に助け出される。
先述したように真弓びいきのワレにとっては、レズビアンで夕子に思いを寄せているのに、彼女の替わりにこの脂ぎったオジサンの相手を務めるメガネ美女の切なさがじんとくるんである。
だってさ、真弓は夕子が石田先生のこと好きなこと知ってるし、恐らく二人が両思いなのだって、さあ……。私ならあんな見掛け倒しのヘタレ教師より、真弓の方がいいけどなあ、って、なんか話がヘンな方向に行きそうだから、ヤメとこ(爆)。

夕子は石田先生に、街角の公衆電話から連絡をする。石田先生も彼女への思いを固め、君に逢いたいと思っていた、と言う。すぐ行きます!と夕子。
そうそう、この街の雑踏の感じ、真弓との体験もそうだし、乱交パーティーもそうだけど、街角でキスしてたり、ラブホテルに入っていったり、看板には大写しのヌード、成人映画館のあられもないポスター、あちこちに夕子のモヤモヤを刺激するものがある、それが世の中の風物として普通に存在しているのが、今以上にヴィヴィッドに感じる。
ホント、今以上に自由度が高かった気がする。70年代、乱交パーティーの描写でさえ、ポップカルチャーのカッコ良さを感じてしまうのは、なんとも不思議。そんなに今の世はヤボだろうか。そうかもしれない……。

信じられない、クライマックスだった。あの電話のやり取りのシーンから、ハッピーエンドが待っているんだとばかり、思ってた。
大きな胸を高鳴らせて、石田先生のマンションを再び訪れる夕子。しかしセーラー服姿の乙女を、鬼畜たちが待ち構え、エレベーターの中で陵辱するんである……。
そう、待ち構えていたようだった。タクシーの中で上気した様子の夕子に運転手が舌打ちような感じがあったから、ひょっとしてこの運ちゃんも仲間だったのかなあ。
エレベーターの防犯がうるさい今ならあり得ないことだけど、つまりこーゆーことが昔は横行していたから、ってことなのかもしれない。
三人の鬼畜男に押さえつけられ、セーラー服を破られ、かわるがわる犯されるシークエンスは見るに耐えない……耐えない!これもエロとしての要素だと判ってても、ムリ、ダメ!顔中涙でぐしゃぐしゃになっていく夕子が可哀想で可哀想で可哀想で……。

いくら待っても来ない夕子を心配してエレベーターまで来た石田先生、あられもない姿で倒れて放心している夕子に愕然、抱き上げて部屋に連れてゆき、丁寧に身体を洗い、優しく抱こうとした……ものの、実際は見ていないのに、彼女がレイプされたという事実が頭をよぎって、彼女を抱くことが出来ない。

サーイーテー。正直、ここまでもツッコミどころ満載だったけど、石田先生、ダメです、ダメダメ!汚されて傷ついているのは夕子なのに、汚された彼女に拒否反応を示すなんて、サイテー中のサイテーだろー。
この時点で夕子は先生にアイソ尽かしてもいいと個人的には思ったが、まあ男はそもそもヨワイもんだし、彼が、あの思い出の山小屋で今度こそ結ばれれば、きっと上手くいく、と提案したことに、夕子がうなづいたのも、判る気がした。
これが最後のチャンス。でもそのチャンスを自ら手放したのは夕子自身だった。いっかな来ない夕子を待ってイライラしている先生を階段の下から見上げながら、結局夕子は列車に乗らなかった。

あの色仕掛け女の子とスポンサーのエロおじさんが偶然車で行き会い(偶然過ぎるが……)拾われ、夕子にご執心だったおじさんが泥酔した夕子を抱く。
色仕掛け女子と共に3P状態。初体験がコレである。哀しすぎる。山小屋で結ばれて、ハッピーエンドだった筈なのに。
しかし、しかしさ。カットが替わると、夕子に来てもらえなかった石田先生の道のりは、直角にそびえたつ石壁にピンを打ち込むという、本格的過ぎるロッククライミング。
おいおい、おーい!この道のりに気軽に夕子を誘い「なぜ彼女は来なかったんだ」はないだろ!こーゆーのがツッコミどころ満載とゆーんだよ!

まさかと思ったがマジに、石田先生は直角岩肌から滑落、まっさかさまに渓谷に落ちてく。それに合わせて夕子は3Pで、初めてのセックス、初めての絶頂のおたけび。
切ない……とはとても言えない、しかし笑うにはインパクトありすぎだが……。

今ならきっと、“未成年の飲酒は法律により禁止されています”とクレジット出るだろーなと、つまらんツッコミで終わってみる。しっかしヘタレすぎだろ、先生。ホントにもう。 ★★★☆☆


人生、いろどり
2012年 112分 日本 カラー
監督:御法川修 脚本:西口典子
撮影:石井勲 音楽:水谷広実
出演:吉行和子 富司純子 中尾ミエ 平岡祐太 村川絵梨 戸次重幸 キムラ緑子 大杉漣 螢雪次朗 藤竜也

2012/10/17/水 劇場(シネスイッチ銀座)
築地でもつまものは見かけるので、この映画の成り立ちには大いに興味を惹かれるところであった。実際、築地に来ているつまものはまた、その周辺から納められているものなんだろうし、目にしたことのあるつまものより映画の中のそれは種類も豊富でみずみずしく、何より季節にあふれていて、見てるだけで心躍った。
最初に彼女たちが葉っぱと呼ぶ、まさにそれは葉っぱで、つまものという名称よりとてもとてもみずみずしいものなのだもの。そう、ああいう“つまもの”は築地でもちょっと見たことない。
でも実際、ちょっとシャレた料理にはああいう“葉っぱ”が添えられているのを見るから、ホント、ああしたものを卸しているのって、どういうところなのかな、実際、お店の人が山までとってくることもあるだろうが、都会のお店じゃそうはいかないしな、と心のどこかでずっと疑問に思っていたのだった。

でも本作はほんの近年の物語だろうし、その根本的な疑問が解けた訳でもないんだけれど、そもそも“根本的な魅力”はそこじゃないしな。
高齢化にあえぐ過疎の村、もはや廃村と言ってもいいぐらいのさびれようは、日本中に無数にあるんだろうと思う。山がほとんどで、平地など実際はほとんどない日本は、文明が進めば進むほど、その小さな平地に人が吹き溜まりのように流れ出し、命の源である自然のかたまりの山村は置き去りにされるのだ。

このモデルケースは実に稀有なものではあると思うけど、そこに“置き去りにされた”彼らでさえ、葉っぱなんてどこにでもあるもの、商売になる訳がない、という思いだった。それはもっともっと拡大解釈すれば、葉っぱがなる山々、自分たちが住む“田舎町”を、卑下している思いでもあったと思う。
そりゃそうなりもするよ。「こんなところではどうにもならない」と物語の最初から、大杉漣が出て行っちゃう。大杉漣が出て行くからってワケでもないが(爆)、でもやっぱりこの特別出演の大杉漣が出て行くんだもの、説得力あるわさ。

とは言えね、とは言え……本作の成り立ちに大いに感銘を受けたものの、その実は、せっかく魅力的な“実話”なのに、枝葉をつけた“映画作品”になってしまうと、ありがちな話になっちゃったかなあ、という気もしている。
高齢化の村の話だから、高齢者、そしてその成功の物語だから、それぞれのエピソードにドラマをつけたくなるのは判るし、劇映画、あるいはドラマとしたって必然だとは思うけれど……。

子供たちから「年寄りは余計なことをしないで大人しくしてろ」と言われ、ダンナから「俺に黙って従えばいい」と言われ、ヨメさんは優しいけれども「これぐらい、大したことじゃありませんから」と本人がやりたがっていたことを取り上げてしまう。
判る、判るのよ、高齢者、あるいは高齢の女性を主人公にした映画という観点だけで見れば、本作はとてもよく出来ているし、彼女たちを応援もしたくなる。
でも、本作があくまで、葉っぱビジネスを高齢化の過疎の村で成功させた、というオドロキこそが出発点になってることを思うと、それを、女のグチ話みたいなところに落とし込んで、それを解消させてあー、スッキリ、みたいになっている側面があるのが、もったいない気がするんだよね。

……こんな風に言うの、ヤだな。だって、とても面白く観たからさ。私も何十年後かには、こんなナヤミをきっと抱えるようになる、いや、今も似たり寄ったりのグチめいたナヤミは抱えてるもの。
女は、いや、この日本の女は、結局はいつまで経っても男の、男社会の勝手に振り回されているんだからさっ!

でもね、それを「デンデラ」のようにやっちゃ、やっぱダメなの。あの作品が来た時、女のウラミツラミがスカッと解消されるかな、と思った。でもあれじゃ、ダメなんだよね。あれじゃ、女は怪物になっちゃうもの。
本当に、男を、世間を屈服させるには、基本は可愛い女のままでいなくてはならない。それも悔しいけど、おもねっているようで、悔しいけど、でも、私はやめない、最後まで諦めない、でもあなたには嫌われたくない、と泥だらけのダンナを抱き起こす吉行和子先生はとても、可愛かった。

何か筋も何もすっ飛ばしてるけど、まあいいでしょ、大体、判るでしょ(爆)。まあでも、ちょこっとアウトライン。
主人公は吉行和子。彼女の独特のエロキューションが、生活のリアリティがあって好き。ノーメイクという訳じゃないのかも知れない、浅黒い肌は、山仕事をしているという演出なんだろうけれど、雑貨屋をやっている富司純子の白さと、いい対象になっている。
この二人が村での親友同士、そしてそこに久しぶりに再会した、彼女たちの自慢の出世頭の中尾ミエ。
スリットの入ったタイトスカートに胸元が上品にあいた白ブラウスといういでたちだけで、確かに都会生活に慣れている感じだが、中学校の教師というのはずっとついてきたウソで、実際は用務員どまり。どまりと言うが、この物語にとっては大きな意味がある。花木の専門家なんである、彼女は。

吉行和子演じる薫が、持っている山を大切に育ててね、家族が増えるたびに、木を植えている。本来はみかん農家なんだけど、冷害の不作で野菜を育てるも上手く行かず、夫たちはじめとする男の農家たちは農協に不満をぶつけているんである。
富司純子演じる花恵は、農協の新人さん、江田君の提案した葉っぱビジネスに一番に手を上げた人物。だけど、農家じゃないから薫をダシにして。
花恵の動機は、息子夫婦が自分を老人ホームに押し込みたがっていることへの反発だった。

吉行和子はさすがのリアリティだが、富司純子は、顔だけは彼女のまんまだな……と思っていたら、ものすっごいO脚のガニマタ老人歩きに衝撃を受ける。
この三人の中ではもっとも楽天家で華やかで、夫亡き後ちょいと若い男(つっても充分年取ってるけど(爆))をつかまえて、結構ラブラブやっている。
中尾ミエの都会からの出戻り、しかも見得のためにウソついていたというのはドラマとしてちょっとありがちな設定だし、富司純子の華やかさと合わせて、先述したような作劇のための平凡さをね、どうしても感じちゃうんだよね。

と、いうのも特にラスト、ラストもラスト、キャストクレジットと合わせて流れる、実際のおばあちゃんたちの様子よ。のどかな青空と緑の中で、ほっかむりしたザ・おばあちゃんの農業スタイルで、ipadを手にして出荷処理をして、ニッカリ笑う様子にドギモを抜かれるのよ。
そりゃね、劇中でも最後の最後には、旧式の大きなモニタのパソコンを操る薫の様子が映し出されたりもするけれど、それどまり、だよね、やっぱり。
勿論、この展開の中の時代背景というものはあるけれど、“作劇のための平凡さ”を見せられるより、こうした新鮮な驚きこそを、観客は待っているんじゃないのかなあ。ふと頭に浮かんだ、昔のみんなのうたにあった“コンピューターおばあちゃん”よ!

薫のダンナは特に、わからずやである。わっかりやすい、亭主関白、なのに能無しなんである。これまでいくつもの事業を失敗、今回は息子から借金してウナギの稚魚を仕入れ、何十倍、何百倍と豪語していたのにアッサリ全滅、まあ、見えてたけどね(爆)。葉っぱビジネスをバカにして、このウナギの養殖には友人連まで巻き込んでたのに。
しかしさ、しっかしさ、これが藤竜也だからさ、ズルいよね、もうそれだけでチャーミングなんだもん、セクシーなんだもん。
いくらひげづらで、おっちゃんスタイルで男尊女卑で女房ぶん殴っても、その時々にはチッと思っても、結局最後に「ここに薫のビニールハウスを作るんだ」と、ウナギの養殖していた場所を自らぶっ壊す姿にあっさり陥落しちゃうんだもん。あー、ヨワい、藤竜也に弱すぎる、私(爆)。
うー、でも、女なら藤竜也には弱いと思う、いや、これが藤竜也だから大きな意味で納得させられちゃうのかもしれない。男はホントダメなんだけど、ムカつくんだけど、でも女は男に弱いの、やっぱり。

でもさ、本当にこのダンナ、薫のビニールハウスの火事の原因なのかなあ……。いやね、確かに、彼らが決定的な夫婦喧嘩をした後、彼がビニールハウスに入っていって、憮然としてタバコを吸って、その吸殻を土に埋めた様子だった時、ヤバいな、とは思ったよ。
でもその時から大分時間が経っていたように見えたし(夜から昼になってたような……)、でも彼はオレがやったと言い張るし、なんか見てるこっちもわかんなくなってきちゃってさあ(爆)。
火事があった時ね、ケンカして落ち込んだ薫を誘って花恵と路子(中尾ミエ)とめっちゃオシャレしてね、山を降りて街に繰り出す訳。この時には、女優であるそれぞれの華やかさに、役のリアリティとしてのほんの少しの野暮ったさ、みたいな風情がなかなかに楽しかった。
藤竜也がどんなにオッチャンの役と役作りしても、やっぱり藤竜也のチャームが失われなかったこと、他の男性キャストも大体そうだってことを考えると、女って、女優って、やっぱバケモンだなあーって、思う。いい意味でね!

なんかここまでうっかり言いそびれていたけれど、キーマンというか、葉っぱビジネスの言いだしっぺで、牽引してきたのは、若きJA職員、江田君なのであった。
演じる平岡君は私にとってはドラマ班という印象が強く、あまり観る機会がなかった気がするんだけれど、本作のてらいのない青年は若き男子がただ一人、ということもあってやはり萌え萌えである。
いや、うっかりシゲちゃんも出ててビックリしたんだけど(薫の息子役)、シゲちゃんはもう“若き男子”では……(爆)。

江田君が葉っぱビジネスを思いついたのは、みかんの代わりの野菜が売れずに農家たちにぐちぐち言われ、クサっていた彼を青果市場のオッチャンが飲みに誘ってくれた寿司屋でのことなんであった。
で、そのオッチャンが帯同させたのが男勝りの女の子、裕香であり、もう最初っから、コイツらがくっつくんだろ!と判っちゃう。判っちゃうんだけれど、まあ女子的には男勝りの女の子はツボだし(私的には特に、市場の男勝りの女の子は、ツボまくりだっ)。
彼女がね、グチばかりこぼす江田君にビシッと言ってね、その後、葉っぱビジネスを思いつき、何より薫たち村の女たちの思いを引き受けて奔走しだす姿に「イイ男になった」とぽつりとつぶやく場面が、超、超、萌えるのっ!

だって確かに、江田君=平岡君は成長して、この時は、ラブな場面ってこともあるけど、わっかりやすく川べりでさ、江田君は足を川にひたしてはしゃいでて、裕香はそんな彼を微笑ましく見つめてる、って……う、うわー、半世紀前の少女マンガかよ!
その前の、薫とダンナの、「私を嫌いにならないで」「バカヤロウ、何十年一緒にいると思ってるんだ」なんてゆー、微妙にトレンディドラマ(っていうの自体、死語か……)チックな言葉がなかったらとても……。
いや、しかし、確かにこの時の、川面の光を受けた江田君=平岡君の笑顔はキラキラとしていて、“イイ男”と思っちゃうかもしれない、のよ!

彼らの結婚、羽織袴と白無垢綿帽子の練り歩きは、日本の美しさを存分に感じさせてくれる。
そして、この“つまもの”の極意を料亭の女将(ドリさん!)が教えてくれたんだけど、45日前が目安の、先取りの粋、ね。だからこそ山だし、ビニールハウスな訳さ。
そこで育てた桜の花吹雪を厳かな婚礼行列にふりかける、これ以上ないお祝い。土手にずらりとならんだおっちゃんおばちゃんは、皆農作業スタイルなのが、またいい。
しかもあたりはまだうっすらと雪景色、まさに、先取りの粋であり、雪と桜のはかない美の競演さ。日本、日本なのよね、ホント。

それも含めて。この“つまもの”というアイテム自体、彼女たちが山に行けばいくらでもある葉っぱという認識は、世界中に通じるものだし、実はそれがそうではないんだ、美しい、季節を、時間を、人生を凝縮したものなんだという認識は、日本の美しい文化を象徴していると思う。
あるいは、……こんなこと言うとおこがましいかもしれんけど、日本人自身を。

ちょっとね、いろいろクサしちゃったけど、日本の文化を理解してもらうのには実にいいテキスト、アイテムとしての映画。里山の美しさや、日本料理=日本文化の繊細さ、商品ビジネスのシビアさ、完璧さ。
日本の民俗としての側面も、日本人から見ればベタでも、上手く描かれていると思う。
こういう映画こそをね、ちょっと海外に出してみたいと思うんだな。やたらアーティスティックな映画ばかりじゃなくてさ。多分だからこそ、「おくりびと」が評価されたんだと思うしさ。 ★★★☆☆


死んでもいいの 百年恋して
2012年 75分 日本 カラー
監督:榎本敏郎 脚本:いまおかしんじ
撮影:花村也寸志 音楽:鈴木治行
出演:森下くるみ 下條アトム 範田紗々 飛坂光輝 岸田茜 柳之内たくま 古藤真彦 津村純子 権藤愛美 三橋志津子 北澤輝樹 田中亨 田中俊一 千代川孝 伊達内秀 斉藤幸雄 八木智英子 石川江美 西村晋也 スズキシンスケ 戸部美奈子 川瀬陽太

2012/12/11/火 劇場(池袋シネマ・ロサ/レイト)
以前一作だけ森下くるみ嬢のAV作品を観る機会があって(何の作品かは恥ずかしいから言わなーい(汗))、名前の甘さとは違うクールな感じに興味を惹かれ、今回お名前を見つけて足を運んだのであった。んー、でも私が観たのはレズものだったし、実際はロリ系で人気を博したお方だというのだから、彼女が本来活躍していた感じとは違ったのかもしれないけど。
でも本作で目にした彼女は、私が受けたそのクールなイメージからそんなにハズれないものだった。というか、いい意味で普通の大人の女性だった。
AVを引退して、女優として一般作品にどんどん出てくるんであろうから、そしてやはりいまだに、脱げる女優が貴重というお寒い状態だから、これからの展開が楽しみ。

彼女だけでなく、監督さんのお名前にも動かされてのことだったけど(「痴漢電車 さわってビックリ!」は超好き!)、脚本がいまおかしんじと知らなかったのはあまりにも不覚!本来ならこれこそが足を運ぶ動機だっただろうに!!
ラストクレジットでそれを知り、ものすごーく納得する。言われてみればこのラブファンタジー加減はものすごーくいまおかワールドだもの。彼にしては奇抜も破綻も(爆)抑えているのはヤハリ、他人に提供する脚本だからだろうかなどと思ったり……。

28歳、結婚して子供をもうけてすぐに、愛する夫、耕三を亡くしてから年をとらなくなってしまった祐加がくるみ嬢の役どころ。
回想シーンで“3バカトリオ”と自分たちを呼んでいた仲良し三人組が雑魚寝をしている中で祐加が耕三に告白をし、キスをする。3バカのもう一人、次郎は目を開け、しかし眠ったフリをする。
その後部屋から出てきた耕三が次郎に、祐加にプロポーズしたと告げ、次郎は「一発殴らせろ」と言いつつ、パンチを途中で止めてこぶしでぐいと耕三の頬を押し、笑いあう……。

学生時代の延長線のような、せいぜい20代前半のようなノリだったから、耕三が死んで祐加が年をとらなくなったのが28だというのがちょっとあれっと思ったが、そんなことはツッコむレベルでもないか……。でもこのシーンがいかにも青春チックだっただけにちょっと気になったけど。
ところで3バカと言いつつ次郎は医者になったし、後に死んだ耕三に時空を超えて(というか、あの世界はなんだろう……次郎だけが一人残されたような空間)会いに行った次郎が、お前だって生きていればいい医者になったよ、と言うし、全然バカじゃないじゃーん。
……いや別に勉強が出来る出来ないがバカの定義じゃないけどさ。猫を助けようとして電柱に登っておりられなくなった耕三のエピソードが象徴してるし……。

そう。耕三は死んだ年のまま、時空の中に閉じ込められるようにいる。そこは天国でもなさそうな、なんだか寂しさに満ちている。いや、あの頃と同じままに生活出来ているんだからある意味天国なのかもしれないし、だからこそここに迷い込んだ祐加が娘を捨てて、友達の次郎も捨てて、ここで愛する耕三と暮らしたいと思ったのだろう。
でも、耕三以外は全く出てこないこの異世界、しかも耕三はいつもぼろアパートの中にいて、訪ねてくる祐加や次郎にドアを開けるだけ。何かあまりにも寂しすぎる、のだ。

死んでしまった筈の耕三と逢瀬を重ね、セックスを重ねる祐加が次第に衰弱していくというのは、大林監督の「異人たちとの夏」みたいだなあと思ったりする。懐かしい風景の中に取り残された愛する人たちというのも、そんな感覚を起こさせる。
あ、でも、「異人たち……」では、セックスしていた相手が実は死人だった(だよね?)というのは、最後まで彼自身も知らなかったんだっけかな?

そんな不思議をもたらしたのは、祐加が図書館勤めの帰り道に出会った恵美にされた“おまじないのキス”だった。ラスト、祐加が「あなたは何者なの?」と問い、ニッコリ笑った恵美が、こっそり背中に手を入れさせると、その手に真っ白な羽根、というラストは実に効いている。
でも途中までは、天使どころか悪魔かと思ったぐらい。だって祐加は当然、耕三との再会におぼれてしまって、死にかけるんだもの。いくら恵美が、何度も行くととり憑かれるとか、夜になると戻れなくなるよとか忠告したところで、最初のキッカケを作ってしまった罪は否めないでしょ。
それに夜になると戻れなくなる、っていうの、最初全然アドヴァイスしてないしさあ。最初に行ったまま夜になったらどうしたのよ。

うーむ、そんなヤボなツッコミをしちゃダメよね(爆)。ところで祐加には三十路になる娘がいて、冒頭、彼女が勤め先で出会った恋人を連れてくるところから始まる。
28から年をとっていないということは、娘は祐加の年を追い越してしまったということだよねと思うと、そこに何がしかの意味を感じてしまう。
28も充分大人の女だけど、そして30年間娘を女手ひとつで育ててきた訳だけど、祐加にはどこか、子供のような頑ななところが残ってる気がする。それが、娘も自分を心配してくれる次郎も捨てて、死の世界の耕三と「生きていきたい」と走ったことにつながる気がする。
中身が58じゃない気がするんだよね。中身も28のまま、あるいは少女のまま、止まってる気がする……。

娘、綾香の恋人は当然、28から年をとらないなんて話は信じないし、それよりもやたら若くて美しいお母さんにこそ興味シンシン「遺伝的なもの?だったらお前もそうなんじゃないの。イイじゃん」などと言うもんだから「だからヤだったのよ」と綾香はブンむくれ。
まあ綾香の場合は若干カラミ要員みたいなトコもあるから(爆)、やっぱおっぱいもリッパだし(爆爆)。んー、でも、こういう企画にしてはエロシーンは控えめだし、しかも中盤まではそういうシーンもまったく出てこないし、別に期待してるワケじゃないけど(汗)、あれ?いいのかなあ?などとつまらぬ心配をしたり(爆爆)。

そーいやー、本作の唯一の(爆)豪華キャスト、下條アトムはカラミはやるのだろーかと期待のような不安のような気持でいたが(爆爆)やらずじまいだったねー。ていうか彼は純愛、少年の初恋を30年持続させているような役柄だったから。
祐加が次郎の気持に気づいていたのかどうかは微妙なところだけれど、少なくとも耕三は判っていたからこそ、祐加にプロポーズした時次郎に真っ先に報告した。親友だから、というのは3バカトリオの一人、祐加にも通じるところだとは思うけど、祐加は気づいていただろうか……。
ただ、次郎が自分のことを何くれと心配してくれていることに感謝し、そして「次郎のいいところは、判ったようなふりをしないで、ズバリと言ってくれるところ」だと、まさに全幅の信頼を置いているんだから、かけがえのない相手であるのは確か。

……そーいやー、女にとって結婚する相手は、一番好きな相手じゃない、二番目に好きな人だとかいう昔の歌謡曲チックな定説もあるが、これはあながち捨て置けない。この場合大切なのは、二番目に好きな相手でも、その相手が自分のことを一番、どころか唯一に愛してくれているってトコなんである。
まあベタに言えば、愛するよりも愛される方が女は幸せ、ってトコである。あー、ハズかしい。それじゃ男はバカみたいじゃないか、報われないじゃないかという向きもあろうが、更に大切なのは、男もそのことを判っているってトコなんである。
本作の場合、それがまさに、完璧に機能している。しかももっともっと大切なのは、二番目に好きな人でも、愛されれば、その相手を女は一番に昇格させてあげられるってトコなんである。あー、一度でイイからそんな女王様みたいな展開経験してみたい(自爆)。

実際、下條アトムはさすがのキャリアを発揮し、泣ける芝居を展開してくれる。特に若いまま時が止まってしまった親友、耕三なんて、すいません、私この俳優さん見た覚えないし(爆)、見た目もどうにも垢抜けなく(爆爆)、どーしよーって感じなんだけど(失礼極まりないな……でもその感じがこの役に合ってるんだけどね)、下條氏の、純粋さを残したままおじさんになった好ましさが、二人の邂逅シーンにしんみりとしたリアリティを与えてくれるんだよね。
正直、祐加が耕三に会いに行くだけの時には、カラミシーンのためって感じもしなくもなかったんだけど(爆。でも控えめで美しかったけどね)、次郎と耕三が相対するシーンは、かつての親友同士、でも死んでしまったお前より、オレは祐加が大事なんだと、ゴメンと言う次郎が、笑顔で受け止める耕三が、いいシーンなんだよなあ。

異世界に通じるドアは、祐加が勤める図書館の奥の非常ドア。そこからもう時間の感覚がなくなっていて、雰囲気満点である。最初に耕三に出会った後、もう一度彼に会いたくて、現在の時間でのその場所に行っても、もうボロアパートは解体されて駐車場になっている、というシークエンスが挟まれるのも丁寧である。
まあ予算上、その駐車場も映される訳じゃないんだけどさ(爆)。祐加にとっては、ていうか三人にとっては、もうそこは過ぎ去ってしまった場所、青春は過ぎ去ってしまった。

一度は耕三と「ここで生きていきたい」と言い、追ってきた次郎と娘を振り切り、彼と逃げ出した祐加。でも耕三はきっと最初からそんな気はなかった。
娘が産まれたばかりの時に死んでしまった耕三はその再会に喜び、親友の次郎が頭を下げるのに笑顔で応じた。「ここで生きていきたい」という祐加の言葉がどんなに意味のないものなのか、彼が一番判っていた筈だから。
お前はもっともがいて生きて、ボロボロになって、死んでから、ここに来い。そうして次郎に託した。元の世界に戻ってきたら、祐加は一気に年相応になっていた。

当然、年相応になっちゃったからくるみ嬢ではなく……いやまあ、予算があったら老けメイクをほどこしたかもしれんが(爆)、んー、でも、ホントのリアリティを追究するなら、ホントの老いを、ホントのおばさんを示すべきだとも思う。
正直、おばさんになっていきなり芝居もキビしくなったが(爆)、でもその祐加に次郎がプロポーズし、「こんなおばさんでもいいの」と祐加が言い、次郎がうなずき、そして成就するシーンは、老けメイクのくるみ嬢ではなしえない感動というか、感慨、だよね。まさに「私がオバサンになっても」だもの。本当のそれだもの。次郎は30年間祐加に恋してきた。それが、外見が変わらないために持続出来ていたと観客に感じられたらアウトだもの。

娘とその恋人と共に、二世代二組の結婚披露が行われるラスト、その準備に手間取るお母さんたちに心配する娘の恋人、娘は全てを飲み込んで、いいじゃないの、と彼を制する。
案の定、“新婚”の二人、次郎は“オバサンになってしまった”祐加に欲情し、いいじゃないかとネックレスをつけようとしていた彼女に後ろから抱きつき、んもう、と言いつつ祐加も、ま、いっかとオシャレした彼を脱がしにかかる。いやー、なんか中高年に希望を与えてくれるラストかも??ベースが純愛だから余計にトキめく!

終わってかえりみれば、脚本も監督も主演も共演も、最強だったと思う。いやー、せつなく良かった良かった!★★★☆☆


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