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「か」


2006年鑑賞作品

かえるのうた (援助交際物語 したがるオンナたち)
2005年 65分 日本 カラー
監督:いまおかしんじ 脚本:いまおかしんじ
撮影: 音楽:ビト 内田マナベ
出演:向夏 平沢里菜子 吉岡睦雄 七瀬くるみ 佐藤宏 伊藤猛 川瀬陽太


2006/1/17/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
もともといまおか監督はシュールさのある人だったけど、それは静かで不思議に美しい方向であって、こんな風にキュートなそれじゃなかったから、ちょっと驚く。
女の子二人の友情、というのは、「下妻物語」から続く最近の日本映画のハヤリ方向にあやかっているのかな、と思いつつも、二人が別れてそれぞれに大人の女になり、再会するところまで描いているのがビターな切なさを感じさせる。
ピンクだからオトコは介在してくるけど、でも彼女たちの人生には結局深く関わることなく、一人で生きていくことを二人とも選択している。
なんだかそれが、キュートでカワイイだけの女の子の友情モノから進化した形に見えるのだ。

ヒロインの二人がいいよね。見た目からして対照的。スレンダーでクールなキョウコと、ふっくら系で少女っぽさを残す朱美。キョウコを演じる平沢里菜子はAVから出てきたというけれど、それが意外に思えるくらい、このキャラの複雑さを繊細に表現していて、天性の女優としての器をうかがわせる。そして朱美を演じるのは「ビタースイート」でマリッジブルーに揺れるヒロインを演じていた向夏で、あの時の印象とは全く違う、ちょっと子供っぽい、好きな人に自分の思いをはっきり言えない、カエル好きの女の子、を実にキュートに演じてる。この方向性の違いに彼女の幅の広さにもまた驚かされる。二人とも凄く達者な役者に化けていく予感がする。

冒頭が凄いのね。朱美が一緒に暮らしている恋人にワインボトルを振り下ろしてる。血だらけでのたうつ恋人を遠慮がちに蹴った後、「ごめん!」と言って飛び出した先はマンガ喫茶。「がんばれ元気」に没頭している。そこに、「まだ読んでないなら貸して」と朱美が読んでいる次の刊を持っていこうとしたのがキョウコ。朱美は、今のを読み終わったら取り返しゃいいのに、まるでだだっこみたいに、「あたしのだもん、返してよ、返してよ」と泣きそうな顔でキョウコを追い掛け回す。当惑するキョウコ。

今は、こういうマンガ喫茶ってなくなってっちゃってるよね。全室個室が当たり前になってて。でも出来た当初はこんな感じだった。深夜、行き場のない人たちが集まって一心にマンガ読んでる姿は、客観的に見ればなんだか寂しいような、でも彼らは皆マンガ大好きで、お互い関わらなくてももその気持ちを共有してて、その世界の中に遊んで、ひとときイヤなことも忘れられるのだ。
うるさくしたせいなのか、二人は追い出されてしまう。なんとなく二人一緒に歩いている。朱美は、いつも持ち歩いているカエルのリュックサックを背負ってる。恋人もいて、同棲もしてるのに、化粧っけもなく、あどけなさを残す彼女に、そんなアイテムがよく似合う。

その後、朱美は女癖の悪い恋人にまたしても浮気されて、(部屋に帰ったらヤッちゃってるのに、何も声をかけずに台所でマヨネーズパンを黙々と食べてるコワさ!)マンガ喫茶で再会したキョウコの部屋に転がり込んでしまう。
キョウコは漫画家を目指しながら援助交際で稼いでいる。その現場になんとなくついていってしまったりする。二人部屋でただただマンガを読みふけったりして時が過ぎていく。キョウコはでもなんだか戸惑っていて……、“仕事”から帰ると夕食を用意して、カエルの着ぐるみで寝入っている朱美に、「ゴメン。出てって。他人と一緒に暮らしたことないから、こういう時にどうしていいか判らないんだ」と言う。朱美は反論することもなく、着ぐるみを脱いで、「うん、判った」そう微笑んで出て行くのね。

なんかね、朱美は浮気性の恋人のこともそうだし、キョウコに対しても好きで一緒にいたくて、でもそれが出来なくなっても強く出られないんだよね。哀しそうに、その場を去ってしまうだけ。置いていかれたカエルの着ぐるみが彼女のそんな、不安な子供のような気持ちそのものみたいで。
キョウコはその着ぐるみを着て、いつものマンガ喫茶に朱美を迎えに行く。「これ、なかなかいいね」と。カエルの着ぐるみがマンガ喫茶に入ってくるシュールさはなんともいえず、しかも中の人たちは誰一人驚かずに、でも目線を合わさないところもなんとも言えないんだけど(笑)、そうして二人してキョウコの部屋へ帰ってゆくのだ。朱美は部屋に置かれていたキョウコのマンガ原稿を読んでて、「あんたのマンガ、面白いよ。もっと読ませてよ」と言い、キョウコはなんだかテレくさそうに「うん」と言った。

でもその後も、揺れ動いているんだよね。朱美の勤める縫製工房に恋人の浮気相手が(ゴスロリファッション!)現われてフランスパンでキャットファイトを繰り広げたり、やはりそこに彼が現われて、帰って来いヨ、と請うたり、キョウコはそんな朱美を敏感に察知していたのかもしれない。いざエンコウという場面だったところに朱美が帰ってくると、キョウコはムリヤリ朱美に代わりを命じるんである。「コイツとヤって二万円もらってよ。家賃。それが出来ないんなら出てって」朱美はうなづくと、身を固くしてベッドに横たわる。漏れる声は苦しげにしか聞こえず、目をギュッとつぶった顔は苦悶の表情にしか見えず、そのふっくらとした身体がもみしだかれるのはエロというより見ていて辛い。

それをじっと見守っているキョウコ、その顔がね、少し驚いたような、なんともいえない表情でね、このアップで、あ、なんか、女優だわ、と思ったのね。確かに、彼女は少し、驚いたのかもしれない。こんな風に仕掛けたのはホントにやるとは思っていなかったからなのかも。そして苦しげな彼女を見て、つまり、自分と一緒にいるために、エンコウなんてやったこともない朱美がそうしたんだって思ったんじゃないかって……。客が帰り、ベッドに潜り込んでいた朱美に缶ビールを差し出す。「エンコウデビューだね」優しく言って、乾杯する。

「二人でどんどん客とって、カネ稼いでマンション買おうよ」「いいね」そんな夢を語り合い、しまいには酔っ払って創作カエルダンスを踊り出してしまう二人は、いや決してそんな日は来ない、と判ってるんだけど、この時の本当に楽しい友情関係は、本当にこの時だけで、なんとはなしに覚えがあるだけに、胸がじんと切なくなる。
キョウコは言う。「私は、漫画家になって有名になってテレビに出るんだ。あんたの夢は?」答えた朱美、「私は服を作るのが好きだから、子供に洋服作ってあげたいな」それを聞いたキョウコ、どこかむくれたようになって、「……子供なんか出来ないよ」なんて言う。その意味が、その時は離れていく朱美を予感して、その見ぬ相手に嫉妬したのかなと思ったんだけど……。

キョウコ、入院してしまう。どうやらずっとわずらっていたらしい子宮を切除されてしまう。縁を切っていたという親が田舎からやってくる。結局、彼女は田舎に帰ることになってしまう。「鳥取だよ。何にもないんだよ」「マンガ喫茶ぐらいあるでしょ」「ないよ」その頃、朱美は恋人もキョウコも離れてしまって、一人で住むことを決意、引っ越していた。でもそこに訪ねてきた恋人と……また寝てしまって、彼のことは浮気者だって判ってたけど好きだったから、ヨリを戻してしまったのね。

「アイツと仲直りしたの」ベッドに横たわりながら朱美に聞くキョウコ。「うん」「それがいいよ」そんなキョウコがどこか寂しげに見えたのは、気のせいじゃなかったと思う。
なんかね、キョウコにとって朱美は、初めて好きになった相手じゃないかと思うような気さえするんだ。その無邪気さに初めて素直になれた相手。
キョウコを見舞った帰り道、朱美は恋人と並んで歩きながら、突然泣き出す。「あのコ、可哀想……もう子供産めないんだよ」そう言って、泣く……。

キョウコが帰る日、ホームで見送る朱美に、彼女は言った。「あんたと一緒にいて、楽しかった」ゲリラ撮影に違いないこの場面で、電車のドアが閉まるその内側と外側で、これだけの表情を見せられる二人は、やはりちょっと凄い、かもしれない。
キョウコと別れ、ずーっと続く坂道を、朱美は歩いている。ぴょん、とカエルよろしく飛び跳ねて、坂の向こう側に行く。部屋のドアを開ける。するとそこはかつて恋人と住んでいた部屋で、でも彼の姿はなく小さな男の子が二人、カエルグッズにたわむれている。もう数年後、なのだ。朱美はシングルマザーになっていた。

二人の幼い息子を抱えて、商店街でハンバーガーをほおばっていると、カエルの着ぐるみがやってくる!「久しぶり」「いつ帰ったの」「最近ね。やっとマンガも売れたし」「コレでしょ」そう言って朱美はいつも持ち歩いているんだ、とコミックスをカエルのリュックサックから取り出す。「連載、ずっと読んでたよ」と。「ところでそのカッコ何よ」「バイト。まだ食えない」「そっか」「あんたの子?」「うん。あいつとは別れたけどね」なんだかんだありながら、今度は一人で生きていくたくましさを身につけた二人の再会は、あの頃の、まだ見ぬ夢をたよりなげに語っていた頃と違って晴れ晴れとしている。

そして突然下北の駅前で繰り広げられるダンス、ダンス!ええー!いきなり、ビックリ!それはあの時、二人暮らしていた部屋で作ったカエルのダンスを、キャスト総出演で、つまりマンガ喫茶にいた客も、エンコウの客も、浮気相手も、子供たちも、みいんな一緒に踊りだすのだ。って、その状況を想像して楽しいというよりハラハラするっ!

カエルのアイテムに囲まれたミョーなカワイさと、大人になってゆく苦さが絶妙にブレンドされた、シュールだけど愛らしい一品。★★★☆☆


カポーティCAPOTE
2005年 114分 アメリカ カラー
監督:ベネット・ミラー 脚本:ダン・フッターマン
撮影:アダム・キンメル 音楽:マイケル・ダナ
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン/キャサリン・キーナー/クリス・クーパー/クリフトン・コリンズJr./ブルース・グリーンウッド/ボブ・バラバン/エミー・ライアン/マーク・ペレグリーノ

2006/10/29/日 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
私程度の無知でこの映画に臨む人は、どれぐらいいるのだろう。
名前は聞いたことがある。有名な人。でもそれは無論、「ティファニーで朝食を」からの知識であることは予測がつき、ということは私はこの人のことを何も知らない。元々あまり外国文学は読まないたちだから、余計に。

でも、この名前をつい最近聞き、その姿をこの目にした。そしてその時に、とても強い印象を受けた。
写真家、アンリ・ブレッソンのドキュメンタリー映画の中に彼がいた。無数の写真の中の、無数の有名人の中の、たった一葉。それなのに、他の誰よりもその目に焼きつけられた。
若き日のカポーティ。まるでジェームス・ディーンのように繊細で、内面の弱さに苦しんでいて、でも表現したいあがきを全身から受けた。
たぐい稀なる写真家、ブレッソンだからこそ、その一瞬に封じ込められたんだろうけれども、まるで知らない人だっただけに、ひどく心に残った。

その時の若きカポーティと、恐らく神がかり的なクリソツ演技を繰り広げているフィリップ・シーモア・ホフマン演じる壮年期のカポーティは、まず外見からくる印象がまるで違う。
“恐らく神がかり的な”というのは、今回オスカーを取るほどに賞賛されたこともそうなんだけど、写真で見るその頃のカポーティと、驚くほど彼が外見から入り込んでいるから。
もちろん外見だけじゃない。写真に映る実際のカポーティが発している内面のオーラを、ホフマンが完璧に乗り移らせて演じているのが判る。
カポーティのことをまるで知らない私が、写真を見ただけでそう思うのだから、同じアメリカ人なら尚更、驚嘆したのは想像に難くない。その独特の高くねっとりとした発声は、彼の口から今まで聞いたことなどなかった。

んで、その若き日の繊細で美しいカポーティと、壮年期の「妖精のような、はたまたチビの銀行家のような」(カポーティの覚え書きの中で誰かが言ってた)のカポーティはホント、全然違うんだけど、内面から出してくる強烈なオーラは同じく強烈である。
この作品、いわゆる伝記映画ではない。彼の著わしたノンフィクション・ノベル「冷血」の取材に費やした日々の物語である。
無論、その要素から離れて、カポーティの社交的でマシンガントークな一面なども挿入されるけれども、あくまでこの時間軸での展開だし、カポーティの生い立ちとか人間関係とか社会的な位置とか、が何ら示されるわけではない。

このことに、軽い戸惑いを覚えた。一面的に見れば、カポーティなど関係なく、この一家惨殺事件の犯人二人が処刑されるまでを、作家が取材するのを追う形で描く社会派映画に見えなくもないのだもの。
カポーティは当然この著作以外にも、あの有名な「ティファニー……」をはじめ作品を残しているのだし、「冷血」の取材模様を追った本作を、「カポーティ」として打ち出すなんてと思ったのだ。
でも、彼は、心血を注いだこの「冷血」の後、作品を発表することはなかった。ノンフィクション・ノベルというジャンルを確立させた自負を、公言してはばからなかったのに。

正直、本作の中にはアメリカ人、あるいは英米文学をよく知る人なら当然の前提であるだろう要素が、見える部分や見えない部分にも数多く点在してる。
大前提である、カポーティが同性愛者だということだって、私は知らなかった。困ったもんだ。
だから、本作の中で幼なじみのネルから「あなたの大切な友達」という触れられ方しかしていない作家のジャックが、実はカポーティの恋人だなんて、判るはずもない。
なもんで、カポーティがジャックのことなど忘れたかのように取材に没頭しているのに嫉妬したり、取材に協力しているネルの作品の出版が決まったことで、ウダツの上がらない作家としての自分に焦りを感じているジャックの気持ちなど、なかなか判らないのだ。
そして、カポーティが取材する二人の殺人犯の内、「興味深い人格」としてカポーティがひいきに思えるほどに関心を示す、ペリーに対する思いが……恐らくはそういう気持ちだったこと、だからこそジャックが嫉妬していたことなど思いもよらなくて。

カポーティがペリーと本当にそういう関係に陥ったかどうかは、判らない。誰も、判る筈がない。
仮にそうだとしても、ペリーは著名な作家であるカポーティとラッキーにも関わりを持ったことによって、何とか極刑をまぬがれたいという思いはあったに違いない。それはペリーだけでなく、共犯のディックにしたってそう。
というか、ディックはあからさまにそう口にするしね……。
ディックとペリーは共犯のザンコクな殺人者だけれど、そのキャラクターは全く違う。俗っぽく、現実的で、ストレートなディックと、夢見がちで、潔癖なペリーはあまりにも違う。
あまりにも違うから、お互いを補う形で無敵な存在になると感じたが故の、悲劇だったのかもしれない。

きっと、ペリーはカポーティに似ているのだ。表現をせずにはいられない。ペリーは自分が死刑になるかもしれない裁判もおかまいナシに、スケッチを繰り返していた。ひどく、上手かった。最後に残された日記には、カポーティの緻密な似顔絵のスケッチが残されていた。それだけで、愛が溢れていた。

本作を観終わって、感想を書く前に「冷血」を読まなきゃ、と思った。この著作が全てなのだし、そしてこの著作にカポーティのあらゆる全てがつまっているからこそ、これをカポーティという映画にしたのだもの、と思って。
でも、その冒頭、まだペリーとディックの殺人が行われる前で、断念してしまった。あまりにもギッチリと饒舌なカポーティの筆致に飲み込まれてしまう。これを読んでから書いたら、本のことを書いているのか、カポーティのことを書いているのか、映画のことを書いているのか判らなくなってしまうと思ったから。

そんなカポーティの筆致そのままの、社交的でお喋りな様相は映画の中でも存分に描かれている。ハイソなパーティを渡り歩き、エスプリの効いた会話で周囲を惹きつけ、笑いの渦に巻き込んでいたカポーティ。
その彼と、狭い収監所でペリーと膝をつき合わせて喋っているカポーティは全く対照的で……いや、やはりその中には、人に嫌われたくない、と虚しい言葉を重ね続けるカポーティが、やはりいるのだ。

カポーティは、ペリーとディックを取材し続けている。それが本になったものが裁判所に提出されて証拠になり、死刑から免れることを、二人は期待していた。
でも、カポーティはあくまで作品の材料として彼らを見い出し、取材をした。それでも死刑を延期させるために有能な弁護士を用意したり、尽力はしてる。そこまでしたのは、予想外にペリーを愛してしまったから……かもしれない。
基本的には、この「冷血」は、彼ら二人のハッキリとした結末が来なければ本の刊行は出来ない。それはつまり、「死刑執行」だ。
カポーティが実際どこまで、二人のために尽力したかは定かではない。映画では微妙なところで手を引いている。ペリーからの手紙で、自分たちを死刑から救ってほしい、という手紙に、万策つきたというより、もうこの事態から逃げたい、というような疲れ切った趣で、断わりの返事をタイプしているのだ。

それが、この監督の解釈なんだろうと思う。実際、取材とはいえ人間として関わったのだから、出来る限り奔走するべきだという批判も出たのだという。
もしカポーティが本当にペリーを愛してしまったのだとしたら、その苦悩はそんな範疇を軽く超えるものだけれど、でも……カポーティは天才と言われるほどの芸術家であり、それを締めくくるためには、たとえ愛してしまった相手でも、地獄へ叩き落とす覚悟が働いたのではないのか。

カポーティは、死刑執行が決まった二人からの執拗な電話に出ることも出来ずに、伏せっていた。けれど、その死刑執行の直前に二人に会って言葉を交わし、その執行も見届けた。
まるで車のガレージのような、うそ寒い場所での、寂しく壮絶な処刑だった。ペリーは、今はもう見放されてしまった家族に、言い残すことがあった……筈なのに、処刑の直前、真っ白になって忘れてしまって、そのままガタン!と宙に吊るされた。
それを見つめていた、カポーティ=ホフマンの表情が、頭に焼きついて離れない。
極限で愛した人が、冷たく計画されて吊るされるのを見るなんて、どんな気持ちになるのか、想像もつかない。

ペリーは、カポーティがまだ書いていないとウソをついていた、連載中のこの作品が「冷血」と名づけられていることに激しく拒否反応を示す。
劇中、ペリーが犯罪を犯した時の心境が語られる。彼は至近距離で銃をぶっ放す瞬間まで、そのクラッター氏に恨みがあるどころか、いい人だ、立派な人物だと思っていたという。
この家に大金がある筈だ、と押し入った結果、やろうと思ってもいなかった殺人を犯してしまった明確な理由は、判らない。ただ……殺意を持っていたわけではない、とペリーは強調する。彼らにウラミはなかったのだと。

だからといって、残虐な複数殺人が許されるわけでは決してない。むしろ、明確な理由もないのに犯す殺人の方が、重くとられるだろう。
でも、実際は、どうなんだろう。そりゃ、誰でもいい、人を殺してみたいと思ってやっちまうような殺人は最も許しがたいものだ。でも、ペリーはそうじゃない。ここで彼の人生の不遇の頂点を迎えてしまった。クラッター一家、そしてペリーも、不幸な運命だった。
裁判官の言う「彼らの死刑執行は、州の住人たちの権利」という言葉が、その権利がいつ自分に刃を向くのかと恐怖を感じた。
罪は罪としても、それを知ることは必要なのではないのか。

だって、きっと、ペリーのような殺人者は、これからも出てくる。増えてくる。
それを食い止めるためには、彼らのことをこうして知って、愛して、外に知らせる人が必要なのではないのか。
カポーティは天才作家だった。でも彼が行なった最も重要なことは、この役割の遂行だった。
そう考えれば、本作が「カポーティ」なのも、納得できる。
作家としての彼ではなくて、人間の存在意義としての彼と考えるならば。

でもね、グサッときたひと言があるのよ。ペリーとディックが処刑されて、憔悴しきったカポーティにキツーイ一言を放ったのが、この取材の切り込み隊長を務めてくれた、幼なじみにしてピューリッツァー作家である、ネルと呼ばれていたハーパー・リーである。
「あなたは、彼らを救いたくなかったのよ」

そのことは避けられないこととして取り沙汰されてきた。つまり、結果が出なくては……それも恩赦を待ったり、終身刑に減刑されるんじゃなく、この目で死刑執行を見届けなければ、新聞の小さな記事に運命を感じてここまで取材と執筆に費やしてきた甲斐がない。ベストセラーにならない。
でも果たして、そのために二人の人間の死を望んでいいものなのか。いやでも、彼らは善良な市民を四人も、何の理由もなく惨殺したのは事実なのだ。
でもそれを、記事を読んだだけの、その土地に住んでもいない、何の利害もない第三者が介入する理由があるのか。
いや、利害がある。利害があるから問題なのだ。この著作に作家としての富と名声がかかっている。それは責められるべきことなのか。いや……。

今でも、マスコミと一般社会との間で、日常的に繰り返されている問題ではあるけれど、後世に残る芸術作品として残された著作を、時間をさかのぼる形でこうして検証すると……やはり偶然見い出された力ない一般庶民がさらし者になっている面は否めない。
劇中、ペリーの姉が、弟にはもう一生会いたくない、写真も全部差し上げます、と言う。でもそれこそが、作家、カポーティにとっては格好のネタなのだ。

助けを請うペリーの手紙に、「最善を尽くしたが、弁護士は見つからなかった」と手紙を返すカポーティは、それを手書きではなく、事務的なタイプで打って送った。
それも……まるで矢のようにくる借金取りの催促のような手紙に比するほど、彼が本当に奔走したとは思いがたく……最初のうちはそうだったにしても……最後の方はとても憔悴しきって、ただそう返すしかなかった。
何に憔悴していたのか。結果が先延ばしされることか、それともペリーへの思いか、それとも……。

そう、最初のうちは本当に奔走していたのに。そのために死刑執行が延期になったことを喜んで、面会に来たカポーティを不意に抱きしめたペリー、その時のカポーティの顔が忘れられない。
まるで、今初めてペリーへの思いに気づいたような、いや、その思いを見透かされたような、あの顔!
ペリーを初めて見た時から、カポーティの目は彼に吸い寄せられていた。保安官住宅の中に設置された女性用の柵の中に、ディックとは別々に拘束されていた彼、「女性用の柵の中に入れるなんて」そうカポーティがつぶやいた響きは、何か特別な意味を持って響いた。
ペリーからアスピリンを頼まれ、次の来訪にはそれを差し入れた。水もなしに噛み砕いて飲むペリーを、じっと見つめていた。

二人の衆人と一緒に記念写真に収まるなんて場面がある。見事なイレズミが入った二人、上半身裸のマッチョなペリーとともに満面の笑みで写真に収まるカポーティ!
取材のためなら、被害者のむごい遺体を見ることまでしたカポーティが、その犯人に魅了されるというのが……いや、そんな非日常的な経験が逆に高まる気持ちを異様に高揚させているような気もして。

収監され、一ヶ月も何も食べずに衰弱しきったペリー、ディックは「心神耗弱状態を装って、刑の軽減を狙っているんだ」と隣の房から揶揄するようにそう言ったけれども、カポーティはバナナ味の離乳食を買い込んで、小さなスプーンでペリーの口に運んでやった。
離乳食!その時が、カポーティにとって至福の時間だったのではなかったのか。
本当だ、きっと奇妙なまでに、奇跡的なまでに、「冷血」をめぐる日々に、彼の全てが織り込まれているのだ。
この後、彼が何も書けなくなって、ヤク中になって死んでしまったのは、あまりにも……用意された結末だったのかもしれない。

見栄っ張りで、自分を褒める芝居を仕込んで、幼なじみのネルに見抜かれていたカポーティ、ネルとの場面には、この重苦しい展開の中で何度もクスリと笑わせられる。 上等なコートを着てご満悦にポーズを取るカポーティを置いて、彼女はさっさと歩き出してしまったり。
カポーティが同性愛者だということを知らずとも、この彼女との関係が決して恋愛関係ではなく、親友よりも頼り切っている同志であることが感じとれる。

彼らが取材の最初に接触する、厳格な刑事とその妻も印象的だった。妻がカポーティのファンで、それを利用する形で入り込んだのだけれど、彼らは最終的にカポーティとネルを非常に信頼して、さまざまな情報提供をしてくれる。でも……刑事は次第にカポーティの何かを感じ取っていくのか、遠い目をして離れていくのだ。何かそれが、これからのカポーティの、最期までを暗示しているようだった。あまりにも物事を真っ直ぐに正義として見る目が、傾いた天才を、殺していく、世間というもの。

まるでモノクロのような寒々しい画面、冬しか来ないような。いや、夏やリゾート地も描かれているのに、そんな気がするこの寒さが、美しかった。 ★★★★☆


紙屋悦子の青春
2006年 113分 日本 カラー
監督:黒木和雄 脚本:黒木和雄 山田秀樹
撮影:川上皓市 音楽:松村禎三
出演:原田知世 永瀬正敏 松岡俊介 本上まなみ 小林薫

2006/10/31/火 劇場(神保町岩波ホール)
思いがけなく、これが黒木監督の遺作となってしまった。私はATG時代の作品に接する機会がなく、「スリ」での復活で黒木作品にすっかり魅せられた。そしてその後は自らのライフワークである戦争作品に没頭し、最後の作品も、黒木監督らしい特異な戦争映画で締めくくられた。
彼は独自の戦争映画を生み出した人。判りやすい戦争映画の約束事を一切描かない。
本作はそれを最も、意識的に追求した作品に思う。

特に最初のうちは、まるで戦争(中を描いた)映画だとは思われない。空襲や防空壕はおろか、戦況や戦死した人の話や、一切出てこない。
一昨日のちょっと酸っぱい芋の煮物が出るのもどこかオチャメで、返ってささやかな家庭の温かさを感じるぐらいであり、戦時中の苦しい食物事情を大げさに描いたりはしない。
突然の客に出すためにとっておいた上等なお茶や、配給からこっそりより分けておいた小豆でおはぎを作るぐらいの余裕もある。
そういう、物理的な困窮を排除しているからこそ、ふいに示される避けられない運命が、より胸に迫る。
時代の思想は、こんな風に一見普通に見える生活をしていても、侵食しているものなのだ。それは、今でも、かの、某国などはそうかもしれないと思う。本作の中で、死ぬと判っている沖縄戦に志願する明石に、その思想が集中されている。

全編セット。舞台となるのは悦子が身を寄せる兄夫婦の家と、家の前にそびえる坂道、それだけである。客間からは一本の桜の木。季節は春。あまりにも定位置の桜が咲きこぼれる。
坂道のその向こうに消えていく彼らの、定点となる駅も軍の施設も何も、描かれない。お喋りな駅長さんの話題が再三出てきても、その駅長さんも現われない。
それが意図的に感じられる。完全に囲い込まれた世界。閉鎖された世界。思想的にも、追いつめられた精神的にも。
「戦争に勝つ」という、後の時代から考えればありえない結末しか、そこからの脱出口を彼らは見い出せない。
でも、そう、後から考えれば、この昭和20年の春というのは、既に敗戦色濃い状況だった。兄嫁のふさが別に勝たなくてもいい、と思わず口に出してしまう。夫の安忠はなんてことを言うんだと叱責し、彼女は涙ぐんで謝るんだけれど、女だからどこか直感しているところがあったのだろうと思う。

メインキャストは5人で、他の登場人物はほとんど出てこない。その5人の誰もが味わい深い演技を披露している。キャストの中で唯一、どうだろうと思っていた本上まなみも、良かった。ごめんなさい、私、彼女の演技にあまり遭遇したことないから、ちょっとうがってたのさ。
まあ、実際には、原田知世と同級というにはあまりにムリがあるのだが……しかも原田知世演じる悦子の兄、安忠と結婚したことで、彼女から姉さん、と呼ばれるのだし。

この安忠とふさの夫妻のワンカット(ちょっと切ってたかもしれない)の会話シーンから話は始まり、これが非常に魅力的である。思いがけず九州弁がとてもチャーミングで、それを最も感じるのが、ふさに扮する本上まなみなのである。
何度も差し挟まれる「じゃっどん」という、時には反論するような、時には口ごもるような独特の響きや、「すいもはん」という柔らかな謝罪の響きがとても可愛らしい。

食事をしながら帰りの遅い悦子のことを話している。悦子は駅に勤めているらしい。そしてこの最初の会話で彼らの関係や、これから起きる出来事などの全てが示唆される。
悦子とふさは、女学校時代の同級の仲良しさん。悦子に縁談話が持ち込まれたこと、それが安忠の後輩の明石、の連れてくる永与という男だと聞いたふさは首を傾げる。
なぜ、明石自身ではないのかと。彼は安忠が言うようにいい男だし、悦子も彼に思いを寄せているはずだ、と。自分は悦子ととても仲がいいから判るのだと。

「こげな仲良しならいっそんこと、姉妹になった方が良かっち思うて、あんたと結婚したんです。そいくらい、悦ちゃんのことなら判っとです。おまぁさんの事も、それは良かっち思うたからですが」
そんな妻の言葉に狼狽する安忠。「おまんさぁの事「も」っち、何よ」
安忠を演じる小林薫は、こんな感じでやっけにカワイイのよね。結局この場面も、「おまんさのことを好きになって、そしたらたまたま妹に悦ちゃんがおったとです、こいで良かですか?」とたしなめられてしまう。もう夫婦の力関係が判っちゃうのよねー。実際本上まなみとは四半世紀も年が違うのに、結構シックリきてるんだよな。

悦子は縁談話にちょっと戸惑いを見せるものの、とりあえず会ってみることを承諾する。
その永与という男は、以前も明石に連れられてこの家を訪ねたことがあったというんだけど、誰一人として覚えていないのね。それぐらい、地味な印象だったらしい。しかし当の永与は、その時に悦子にひと目惚れをしたらしい。
さて、その見合いの場面に安忠とふさはいない。突然安忠が熊本の工場に徴用が決まったため、ふさも見送りがてら夫に同行することになったからだ。悦子はたった一人でこの見合いの場面を取り仕切ることになるのである。
さて、二人が坂の向こうからやってくる。いくら呼んでも家の中からは誰も出てこないので、明石は知らん家じゃないし、と上がりこんでしまう。躊躇しながらも後に続く永与。そして居間で繰り広げられるこの同輩の会話もまたロングカットで展開されるんだけど、これがまためっぽう面白くて、実にカワイイのだよね。

俺は途中で中座するから、その後は貴様一人で何とかするんだ。趣味の話をしろ、などとレクチャーする明石。
電気工作が自分の趣味だと返す永与に、「貴様の趣味ば言うてどげんすっとか!」と明石は叱り飛ばし、女学校を出ているんだからとにかく文学好きに決まってる。ヘッセかゲーテの話をしろ、と言うと、永与は英米人の話など出来ない、と尻込み。すると明石は「ゲーテはドイツ人やけん良かと」
……はああ、なるほどなあ、と思いつつも、そんなところにユーモラスに戦争の要素を差し挟んでくるところが、深刻なんだかどうだか判らなくて……それまでは、悦子と兄夫婦の会話の時にはほとんど感じなかった戦争の影が、軍服を着た彼らが来ることによって少しずつ色濃くなってくる。
そしてやはり戦争のことなどほとんど感じない、ホレた女子とどう話をするか、というこの会話の中でも、こんな風にささやかな要素で、更にその影が濃くなっていくのだ。

テーブルに置いてあるおはぎに目を止める二人。「悦子さんが作ったとなら、美味しかたい」と言う明石に、永与は強く反応する。「貴様……やっぱいそうやったとか」
でもそれも、どこか茶化したような応酬である。お互い、照れ隠しに茶化したような。永与は明石の気持ちに気づいている。だからこの話にも乗った。もちろん永与は悦子が好きで好きでたまらないんだけど、それ以上の意味があることを知っているから、この後の展開も判っているから、この難関をなんとしても乗り越えなければいけないのだ。
そうだ、明石は悦子のことが好きだ。そして恐らくは、悦子も。
それが判ってて、永与は悦子と結ばれ、彼女を幸せにしなければならないのだ。

ところでこの貴様、っていう呼び方。あの頃は、今感じるようなヤクザな響きはないんだろうな。なんか貴様、と言われるたびに身構えちゃうけど、字面を見ればこれだけ敬った言い方もないんだもんなあ。
二人が急にマジメになって、明石が志願する話をして……で、お互いにお国のために捧げた命だ、と確認し合う時、それまでのくだけた会話のアドリブ性から(アドリブってんじゃなくて、会話がそもそもそういう性質のものだってことね)練習して言い慣れているような調子になる。
わざとらしいわけじゃなく、真剣なんだけど、それだけに、刷り込まれた思想のあまりの強固さに身震いがしてしまうのだ。
一見、なごやかで暖かい昭和の風景に見えながら、決してそうではないことを、今の某国のように民衆の意識がコントロールされていたことを、感じるのだ。
でもその中でも、決して人は人への愛情を失わなかった。それだけが救いだった。暖かな空気は、常に流れていた。

こんな複雑な事情や気持ちを抱えながらも、永与は、というか扮する永瀬氏がまたやけにカワイイのだよ。悦子が登場してからは、すっかり見とれちゃって、彼女の方に釘付けになった角度のまま、動かないんだもん!うう、なんて素直なヤツ。
見かねた明石が何度も助け舟を出すんだけど、ヘッセ……ヘッセ……とうわごとのように繰り返したり、出されたお茶が静岡のものと聞いて「静岡言うたら、清水の次郎長ですたい」とトンチンカンなことを言ったり。
悦子が中座した時に、このアホウな友人を小突くように叱りつける明石と、もうすっかり舞い上がっている永与とのかみ合わない会話の応酬が、また可笑しくてたまらないのよねー。
「おいは趣味も聞いたし、ヘッセも言うたぞ」いやそうじゃなくて!
明石は呆れて、「臨機応変ってことば、知らんとか。そげんことじゃ敵の空母から飛んできたグラマンに対応出来んぞ」
それに対して「悦子さんはグラマンじゃなかぞ」だからそうじゃなくて!
「当たり前やろうが!」もうすっかり呆れ果てて叱りつける明石。あまりにもかみ合わないからもう、もう……可笑しくてたまらない。

とにかくコイツに任せてみようと、明石はこっそりこの家を辞する。その後の永与の舞い上がりっぷりは、更にエスカレート。お茶をごくごく飲み干し(何度も悦子が継ぎ足す繰り返しが、たまらなく可笑しい!)、おはぎをひと口で頬張る子供のような永与に、初対面の緊張と明石からの紹介という傷心も少しずつほぐれていく悦子。いつしか、笑顔で自然に話がつながるようになってゆく。
悦子が残ったおはぎを弁当箱に詰めて持っていってください、と言った瞬間から、永与の舞い上がりはまた復活。彼は電気工作が趣味、弁当箱で電気懐炉を作れるのが自慢なのだ。
弁当箱を取りに行った悦子、残された永与が言う独り言が爆笑必至!「こん弁当箱が、弁当箱じゃなかごとなってお返ししてもよかですか?……こん弁当箱、電気懐炉に変化しやすいですねえ……何ば言いよっとや!」そしておはぎを詰め出した悦子に対して出た言葉は、「こん弁当箱……こん弁当箱、四角かですねえ……」!!!
悦子もさあ、はい、皆さんの口に合うか判らないですけど……とフツーに流すな!もう、可笑しい!

でも永与はね、去り際だけは、ようやくマトモなこと言うのよ。「あなたさえ良ければ、もう決めとったです」と。戦争はどうなるか判らない。でも、決してあなたを一人にはしない、と。
悦子は出張で東京に行った両親を、空襲で亡くしていた。兄夫婦だけが残された身内。でも彼らは単体の家族であり、彼女はひとりぼっちだった。
その気持ちを多分、永与だけが見抜いた。それは明石にさえ出来なかったことだと思う。彼女への思いが、互いに一緒でも。

数日後、明石が紙屋家を訪れる。最後の挨拶に。
沖縄奪還作戦に志願した、と先輩である安忠に告げる形で、悦子へ別れを告げに来たのだ。
そう、そういう形式を取らなければ、彼は、この時代の男は、女に今生の別れも告げられない。
お互い、気持ちを確認しあったわけではない。でもお互い思いを寄せていることを前提にした、なんとも歯がゆいこの別れのシーン。
気を効かせた兄夫婦(というか、ふさの機転)によって二人きりになった時、悦子はたまらず涙を落とす。自分の気持ちは何も言いはしないけど、それが隠しようのない気持ちだった。
「そげん顔ばせんでください。決心のにぶるじゃなかですか」
「敵の空母をば、静めなさることを祈っております」それは彼女の精一杯のはなむけの言葉なんだけど、でも、でもそれって、つまり彼はその時……死ぬってことなのに!

あのね、この会話の前、明石が訪ねてくる前、休暇で家に帰っていた安忠ととっていた食事の時ね、ふさはお赤飯とらっきょうを食べれば爆弾に当たらないと隣りの奥さんから聞いた、と言って、そんなお祝いみたいな食卓が並んでるのね。安忠は当たる時は当たるだろうと呆れたように言うもんだから、ケンアクムードになっちゃうのだ。
でもね、ふさだってそんなことは判ってる。そんでもって安忠がたった一日の休みなのに、駅長さんと話しこんで遅くなったことにも腹を立ててしまい、さらにケンアクムードになるのね。そんなことなら帰ってこなければ良かったじゃないかと。
決してそういう意味で言ったんじゃなくて、久しぶりに帰ってくる、会えるんだ、ゆっくりしてほしいと思ったのに、そんな女心をコイツは全然判らなくて、他愛のない願掛けの食事にもマジに反応して、だから……ああ、なんというか、もうこういうの、どうしようもないんだけどさあ!

それにしても、明石を演じる松岡俊介は、こういう、悲劇的な運命にさだめられた青年が、本当に良く似合う。あの大きな、揺れる目!
それでも、親友の恋心のために奔走する前半は、気さくで友達思いで兄貴肌な好青年っぷりを発揮している。実年齢ではかなり先輩の永瀬氏に、同輩ながらもちょっとアニキ目線が似合ってるし。
本当は明石も悦子のことが好きなのに。でも自分は死ぬ運命にある。彼女のことが好きだからこそ、知らない男に渡すのはイヤだから、自分の親友に娶わせた。
そういう意味では、自分勝手な男なのかもしれない。そしてそれを受け止めた彼女も、そういう意味ではズルイ女なのかもしれない。彼のその気持ちが判ってて、判ってるからこそ、紹介された永与とそれほど迷いもなく結婚を決意したのだもの。
いや、永与もそれを判ってるからこそ、明石からの最後の手紙を、自分は見るつもりもなく、渡したのだ。
永与は明石の最後(飛び立っていく様)を見届けたのだ……。

そう、この最後の手紙。何が書いてあったのだろう……いや、そんなこと、判り過ぎるほど、判ってる。
永与と同様、観客は決して読むことは出来ないけれど。
明石が挨拶に来た時には抑えきれない涙を流し、彼が去った後、号泣した悦子だけれど、訪ねてきた永与を迎える時は、吹っ切れたような笑顔を見せる。その中身が察せられる手紙も厳粛な顔をして受け止めるけれど、もう泣きはしない。生きていくには、ずっと哀しんでばかりはいられない。
迎える兄嫁のふさも、純朴な永与を一目で気に入った様子だった。悦子と一緒に彼の天然っぷりにクスクス笑ってた。
悦子が明石を好きなことを知っていたから、彼女もまたいろいろと複雑に思い悩んでいた。明石が最後に挨拶に来た時も、もう会えないのだから追いかけろと泣き顔で悦子に訴えたぐらい(悦子は、それが出来なかったけれど)。
確かに、明石の替わりということは否定できないのだ。でも替わりならば、明石を思い出させない、悦子を幸せにしてくれる、本当にいい人であってほしいとふさは思っていたに違いない。その条件に、永与は無事合格したのだ。

こういう愛は、今は成立しない。戦争や、そうでなくてもどうしようもない状況に置かれた時、こういう愛は成立した。
一番好きな人とは結ばれない。そのことを相手も承知している。彼女の中の一番は、死にゆく彼だということを。それを受け止める形でしか、彼は彼女との愛を成就できないんだということを。むしろそれを、彼の存在を忘れないことを、二人の愛の形としての価値基準にしている。
あ、でも同じ条件で時間差を設けたものなら今でもあるか。「めぞん一刻」的な。つまり日本人はそういう感覚を、尊いものとして継承し続けているんだな。

この物語は、今や老夫婦となった現在の時間軸の二人が回想する形で展開している。冒頭は、老いた永与が入院していると思しき病院の屋上のベンチ。隣にはやはり年老いた、和服姿もしっくりと年齢を重ねた悦子が座っている。そのぴったりとした距離感の自然さに、二人の年月を見る。
もうすぐ点滴の時間だというのに、永与はもう少しここにいたい、と引き伸ばす。ゆっくりとした会話は、どこか堂々巡りで途切れることがない。フィックスでとらえた最初のショットは、ちょっと驚くほどの長いワンカットである。ゆっくりと二人が、しかも正面を見たまま会話をしているから、ワンカットで緊張感を出すというより、この長さのワンカットでなければ、今の二人のゆっくりとしたリズムを描くことが出来ないのであろうと思う。
出会ったばかりの二人のぎこちない緊張が、二度目の時には既に、この何十年後を予感させる居心地の良さを感じさせるのが、時間軸の対照を繰り返すことで、印象づけている。

逆にその場の雰囲気は、不思議な対照を成しているのだ。敗戦色濃く、恋しい人は死んでしまい、そんな暗い時代のはずの彼らの若い頃が、コミカルに明るく描写されていて、不安に思っても、泣いても、それでもこれから共に過ごす人を目の前にして、明るい空気を手繰り寄せることが出来ている。
なのに、かの頃を思い出す年老いた彼らは、そんな明るさがあったことなど忘れているように、なぜ戦争があったのか、そして永与はなぜ死にきれなかったのかとさえ口にする。
あの時、悦子を幸せにするために必ず帰って来ると言ったではないか。そしてその約束を果たして、今何十年もの時を二人で過ごした結果がここにあるではないか。

なんだろう……この不思議なギャップは。未来の時間から過去の戦争を映画にする時の、ただただ暗く悲惨なことばかりをイメージしてしまうのと似ている気がする。
確かに戦争は悲惨なことだったけれど、その中で愛する人を得て、守ることが出来たことを、そのために生き延びた希望を忘れてしまってはいないか。
この現在の時間軸の屋上のロケーションは、過去のそれが全て囲い込まれたセットであるのと対照的で開放感がある、はずなのに、そこの一点だけで動かない、動けないのが逆に重苦しく感じるのだ。
生きていこうとしていたあの頃より、閉じ込められてしまっているのかもしれない、今の時代に。
そして、今も戦争があるから。★★★★☆


かもめ食堂
2005年 102分 日本 カラー
監督:荻上直子 脚本:荻上直子
撮影:トゥオモ・ヴィルタネン 音楽:近藤達郎
出演:小林聡美 片桐はいり もたいまさこ ヤルッコ・ニエミ タリア・マルクス マルック・ペルトラ

2006/4/6/木 劇場(シネスイッチ銀座)
大きくて、どてっとしたカモメがのしのしと歩くシーンから始まり、それに小林聡美のナレーションがかぶさる。「私は大きい動物がお腹いっぱい食べている様に弱いのだ」それが不思議に心惹かれ、最後には、幸せで胸がいっぱいになって涙がこぼれた。
幸せで、涙がこぼれるなんて、どうしたらいいのよ。

終わってほしくないって思った映画は、いつ以来だろう。いや、そんな風に思う映画はひょっとしたら初めてだったかもしれない。 二回目観ても、そう思った。二回目の方がそう思ったかもしれない。
そして、一回目ではケラケラ笑った面白さが後を引く感じだったんだけど、それは二回目観てもやっぱり同じように、全然飽きずに可笑しくてケラケラ笑ってたんだけど、二回目観るとね、その他の、すごくゆったりとした時間を、本当にじっくり、感じるんだ。
きっと三人は、こんな時間が欲しくて、何かの運命に導かれてフィンランドに、そしてかもめ食堂にやってきたんだ。いや三人だけじゃなくて、この場所で以前コーヒーのおいしいお店をやっていたおじさんも、だんなさんに去られてしまったおばさんも。

でも、そんな時間をもらっても、どう過ごしていいのか判らない。ぼーっとするのって、難しい、そう言ったマサコさんに、トンミ・ヒルトネンが「森があります」と言ったのだ。だからフィンランド人は、ゆっくりとした時間の使い方を知っているのだと、そのひと言で判った。
それを聞いて即座に立ち上がり、ニッコリと笑って「森へ行きます」と言ったマサコさん=もたいさんがまたステキなんだけどね!いやあ、彼女は本当にステキだったなあ。本当の女のカッコよさって、ひょっとしたらもたいさんのようなスタイルなんじゃないかって、思っちゃった。

ああ、もう最初から支離滅裂じゃない、私!だってどれもこれも、だれもかれも、どのシーンもこのシーンも大好きで、何から話したらいいのか、判らないんだもん!
まず、これから行こう……監督さん。彼女の映画は、どれも映画のアイディアは最高なんだよね。他では絶対ない、ユーモラスなアイディアにあふれてて、観たい!とまず思わせる。
デビュー作「バーバー吉野」は、それこそもたいさんがバツグンで、この女性監督の名前を覚えさせるには充分の秀作だった、その次の、「恋は五・七・五!」が惜しくて、アイディアはいいだけに、そのアイディアを生かしきれないウラミがあった。
でもそれを経ての本作は……完璧、だと思う。
まずこの三人を揃えられたのが凄い。この時点でもう成功は疑いないくらい、素晴らしいキャスティング。

この三人をフィンランドに放り込んで食堂をやらすというのが予想もつかないし、しかもその中で存分に笑わせながら、その笑いはちっとも下品さがなくてキュートで、しかもたっぷりとした間がとられててそれがまた絶妙で……。つまりこの映画のテーマはスローフード、スローライフなわけで、笑いにまでそれが徹底してるの。いわば、スローギャグ?もたいさんが最高なんだもん。彼女、映ってるだけで可笑しいんだもん。アップでうなづくだけで何であんなに爆笑しちゃうの!
もたいさんはだいぶ後になってからの参戦なんだけど、最もキョーレツだからそれぐらいが丁度いい。終わってみれば、最初からいたのと同じぐらいの濃厚度。

それでいったら、“映ってるだけで可笑しい”でひけをとらないのが片桐はいりで、しかし彼女はもたいさんとは全然キャラが違って、これがまたイイのよね。
もたいさんは、ミステリアスなキャラ。自分がなぜここにいるかをハッキリ明かす割には、フィンランド語が判らないのになぜかうんうんと通じちゃったり(これがまた可笑しいの!)、わら人形を作った過去がありそうだったり(ふっとあさっての方向を向くもたいさんの可笑しさときたら!)って感じでとにかくもう、ナゾの人なのね。
対してはいりさん扮するミドリは、彼女がなぜここにいるのかほとんど話さない割に、なんとなく察しがついちゃうというか……。とにかくきっと、人間関係においてとても哀しい目に合って、今彼女は、とてつもなく寂しい、というのが素直すぎるほどに伝わってくるのね。

主人公のサチエとの出会いは、本屋さん。客から訪ねられたガッチャマンの歌がどうしても気になったサチエが、日本語の本を読んでいたミドリに声をかけ、唐突に聞いたのがキッカケだった。
ミドリは観光でも仕事でもないという。
「世界地図を広げて、えいって指差したところがフィンランドだったんです。それで来ちゃいました。来てやらなきゃいけなかったんです」
それは、自分のいるところ、日本にすらいられなかった彼女の深い絶望が感じられて、でもはいりさんなもんだから、なんだか深刻になりきれないところがまた切なくて……だって、彼女、サチエに声をかけられて目を見開いて顔をあげたシーンからもう笑っちゃうんだもん。

「ガッチャマンの歌をカンペキに歌える人に、悪い人はいませんから」そう言ってサチエはミドリを誘って自分の家に泊める。サチエはその理由をそんな風にしか言わないんだけど、彼女には、ミドリがそんなとてつもなく寂しい思いを抱えていたのを、見抜いていたに違いない。だって多分、自分もそうだから。
サチエの作った日本食を一口食べただけで、泣き顔になってしまうミドリに、サチエは黙ってティッシュを差し出す。
サチエが、世界の終わりにはとびきりの材料で美味しいものを沢山作って、大好きな人たちを呼んでおいしいお酒を飲んでワイワイ過ごしたい、と言うでしょ。するとミドリは、そのパーティー、私も呼んでもらえるのかしら、と恐る恐る言うのね。そのパーティーのことにはその後にもこだわって、「世界の終わりのパーティーには呼んでくださいね」と念を押すようにまた言う。サチエは「じゃ、今から予約入れておきますから」とニッコリと笑う。
ちっとも客が来ないかもめ食堂を繁盛させたいと、ガイドブックに載せてはどうかとか、フィンランド人の好きな材料でおにぎりを作ってはどうかとかミドリが提案するのも、人がいない寂しさと、「いよいよダメなら辞めちゃいます」と言ったサチエの言葉に、せっかく見つけた居場所がまたしても失われてしまうという恐れがあったのかもしれないし。

そういえばこんなシーンもあった。サチエがなぜかもめ食堂のメインメニューをおにぎりにしたかを話す場面、母を早くに亡くし、ずっと家事係を務めてきたサチエだけれど、一年に二回だけ、運動会と遠足に父親がおにぎりを作ってくれた、と。ぶかっこうで大きなおにぎり。
「おにぎりは、人に作ってもらった方が絶対に美味いんだ」というのが父の持論で、そのとおり、本当に美味しかったとサチエは語る。その話にミドリ、いやさはいりさんはくしゃくしゃの泣きそうな顔を見せて、これまたついつい吹き出してしまいそうなぐらい素直な表情でさ、そんな風にうまーく笑いにはぐらかされちゃうのが上手いなと思うんだけど、この話に過敏に反応した彼女が、フィンランドに来てしまった理由とシンクロする部分があるのかなって。なぜあんなにも執拗に、世界の終わりのパーティーへの招待にこだわるのか、そして自分がいなくなったらサチエが寂しがるかどうかにこだわるのかが、察せられるんだよなあ。

で、ヒロインのサチエはというと、これを演じる小林聡美が、当然だけど、最高にイイんである。この中では一番マトモなキャラなんだけど……ってことで思い出した。この三人、うち二人は「やっぱり猫」のメンバーじゃない?であと一人の室井さんが、あの三人の中では一番マトモというか、現実的な冷静さを感じさせる人だったような気がするのね。その替わりにはいりさんが投入されたんだから強力過ぎるわけで!
小林聡美はとってもカワイイんだけど、やっぱりヘンというか、ヘンカワイイというか、それでいてとてもどっしりしていて、そしてここがサチエとシンクロする部分なんだけど……素直じゃないのよ。自分の寂しさとか、絶対表に出さない。

ミドリから、私が日本に帰ったら寂しいですかと聞かれた時、「最初から一人でやっていたし、ミドリさんにはミドリさんの人生がありますからね」という言い方をするのね。どんなに気が合って今の時間が楽しくても、なぜここに来たのか、その理由がきっと、もといた場所から逃げてきたからだと知っているから。
でも、それがいけないっていうんじゃない。時には逃げることも必要だ。その先に自分のいるべき場所が見つかれば、それはそれでいいと思う。
でもそこまでの気持ちは、そういう意味で問うたんじゃないミドリに伝わるハズもなく、それでミドリがスネちゃうのがまたカワイイんだけどね。
でもサチエはそれを想像した時、絶対に寂しいだろうと思ったに違いないんだ。だってその前、空港で紛失した荷物がずっと見つからないまま、なんとなくかもめ食堂にいついていたマサコが、荷物が見つかったから帰ると言った時、その一瞬のサチエの表情は、あっけにとられたような、ああ、やっぱりこういう時が来るんだ、ずっと一人だったから寂しいはずないと思ってたのに、一度出会ってしまうと、こんなに寂しいショックを受けるんだ、ってそんな顔だったんだもの。

なぜフィンランドで食堂をやるのか、その理由について「ここでなら、やっていけるかなと思ったんです。本当にいいものなら、時間をかければ判ってもらえる」との台詞には、宣伝や時勢を考える日本の現状を考えさせられたりもしたけれど、でも基本的には本当になぜここなのか、ということに関して、サチエはのらりくらりとかわすばかりである。おにぎりがなぜメインなのか、の理由だけよね、マトモに話したの。
最初にミドリから「ご夫婦でやってるんですか」と問われたあの台詞が、やっぱり元々はそうだったんじゃないのかなとか推測されたりして……。つまり彼女は、誰かと一緒、から一人になる寂しさを知っているから、一人なら一人のままがいい、一人にも慣れたと思っていたんだと思うんだけど、彼女が過去を何も話さない上に、何も匂わせないようにバリアを張っているのが判っちゃうだけに、なんだか、とてつもなくきゅんと胸が痛くなっちゃうんだ。

「ひとに作ってもらうおにぎりが……」っていうのはさ、サチエの前にこの場所でお店をやっていたおじさんが言った台詞でもあったじゃない。
フラリとやってきたこのおじさん、マッティは、サチエに美味しいコーヒーの淹れ方を伝授してくれる。おまじないをつぶやいて、ゆっくりゆっくり淹れたコーヒーは、これが不思議と本当に美味しいのだ。「コーヒーは人に淹れてもらった方が絶対に美味しいんだ」というマッティの言葉にはっとしたように顔をあげるサチエが、のちになぜメインがおにぎりなのかを語るシーンで合点がいくんだよね。

このマッティが、前の店のご主人だったと判明するのは、彼がコソ泥よろしく留守中に合い鍵で忍び込んで、思い出のコーヒーミルを持っていこうとしたところを、帰って来たサチエの合気道で倒されたから。
なぜ彼は店を閉めてしまったのか、奥さんと娘さんがいたけれどどうしたのか、そうしたことにも彼は一切口をつぐむ。でもこのコーヒーミルを持っていこうと思った思いが、絶対にあったはずで、自分が手放した店がどんな店主によって営まれているのか、とても気になっていたはずで……。
他の皆と同様、何も語らないんだけど、彼がきっと、大事に大事にしている思い出が詰まってて、その気持ちを皆とても感じたから、それを共有するだけで充分なんだ。ソウルメイト、ってことだよね。

本当に、登場人物たちはことごとく自分の過去を話さないし、関わる人間同士の間には意識的な距離感があるんだけど、それが優しさと切なさをもってこんなにも迫ってくるのはどうしたことなんだろう!
大人だから、触れられたくないこともある。話したいっていうんなら、何でも聞く。でもここに集まったのは縁だけれど、人はそれぞれ変わってゆくものだし、離れて行ってしまうものだし……それをサチエはどこか諦念的に見ているんだけど、寂しがりやのミドリが「でも、いい感じに変わってゆくといいですよね」って言うのが、実は彼女こそが、サチエの支えになっているんじゃないかなって、思えてしまうんだ。

忘れられない脇キャストがまだまだいるのだ。まずはトンミ・ヒルトネン。
ジャパニーズカルチャーかぶれの学生とおぼしき彼は、かもめ食堂の記念すべき第一号の客で、それでサチエが彼のコーヒー代を常に無料にするものだから、ミドリは「あれは客とは言えませんよ」と半ば憤慨気味なんだけど、このトンミ・ヒルトネン青年が実に美青年でカワイくてさ!
登場シーンで着ているのがニャロメのTシャツでまず観客の笑いを誘い、「僕の名前、“カンズ”で書いてください」と頼まれたミドリが「豚身 昼斗念」と書いたのには、もう、大爆笑!それ以降、彼が登場する度に、「豚身 昼斗念」が頭に浮かんじゃって!
彼はミドリがガッチャマンの歌をカンペキに知っていたことからミドリサン、ミドリサン、とやけに尊敬してなついちゃってるところがまたカワイイのよねー。ミドリも最初は及び腰ながら、折り紙のカエルを教えてやったり、友達ぐらい連れてきなさいよ、と言ってみたり……「トモダチ……」と言ってかすかに天をあおぐトンミ・ヒルトネンに「友達、いないんだ……」と妙に感慨深げに言うミドリにまたも爆笑!いやー、いいコンビなんだなあ。

そして、かもめ食堂にとって最も重要な客であるのが、あー、役名忘れた、っていうか、言ってたっけ?いつもいつも、睨みつけるようにかもめ食堂の前に佇んでいた彼女。後に三人ともにすっかり仲良しになって一緒に遊びに行っちゃったりするオバチャンである。
多分、このかもめ食堂の前の、マッティがやっていたコーヒーの美味しいお店の常連だったんじゃないかと思う。だから今、聞いてくれる人がいなくって、というか、この店の人は私の悩みを聞いてくれるのかしら、と値踏みしていたんだと思うんだ。しかも働いているサチエの姿が彼女の亡くした愛犬にソックリだというし(笑。判る気がする)。
何度かそんな風にニラミを聞かせてから、彼女は店に入ってくる。強い酒を注文し、サチエに、そしてミドリにご相伴をうながすも、断わられ、客として来ていたマサコをふいと見る……アップになるもたいさんにそれだけで爆笑!そして彼女の視線にゆっくりとうなづくのにも爆笑!なぜこれだけでこんなに可笑しいのだ!もう、もたいさん、存在自体が天才!!!

この盃を交わして彼女はぶっ倒れちゃう。送って行って介抱したのがマサコさんで、それがすっごい手馴れている上に、フィンランド語で彼女が訴えるのにうんうんとうなづき、フィンランド語なんか判んない筈なのに、すっかり詳細を把握しちゃってるの!
ミドリが「マサコさん、フィンランド語判るんですか」「いいえ」オイー!当然のように言うな!でももたいさんならそれも不思議じゃないっていうか……。
その後、元気を取り戻したこのオバサンと店で再会した時も、フィンランド語、日本語で喋ってるのに、お互いに問題なく通じているのには爆笑、だけど……そんなアリエネーも、ありえる気がして、あったかいんだよな、それも笑いながらなんか涙が出ちゃいそうになるんだよね。

かもめ食堂は、じわじわとお客さんが来るようになるのね。決して劇的に増えるわけじゃない。本当に、じわり、じわりとなの。
サチエは、ガイドブックに載せて和食が恋しくなった日本人観光客や、スシやテンプラを目当てに来られるのはかもめ食堂のカラーとは違う気がする、と、マジメにやっていれば、きっといつかお客さんは来てくれる、と言ってた。それはね、多分、本当にこの土地に愛される食堂になりたいとサチエが思っていたってことだと思うんだよね。宣伝で一時的に引き寄せられるんじゃなくて、フラリと寄った食堂に、また行こうと思ってくれるような、町で必要とされる存在になりたかったんじゃないか、って思うんだ。
それは、きっとサチエが味わってきた、語らない人生の中の寂しさが、そうさせたに違いない。ガイドブックに載せたり、おにぎりに合わない具には難色を示したりしたのは、一時的に客が来て、去られた時の寂しさを考えたからだと思うんだ。
トンミ・ヒルトネン以外の記念すべき第二号の客は、店で焼いていたシナモン・ロールのいい匂いにつられてやってきたオバチャン三人組だった。いつもちっとも客の入らないかもめ食堂を、大丈夫なのかしらね、などと言いながらのぞきこんでいた三人組は、香ばしいシナモンロールと美味しいコーヒーに舌鼓。それ以降、スッカリ常連となるんである。

そしてある日、忙しいな、とふと顔をあげてみると、かもめ食堂は、いつのまにやら増えた常連客によって満席になっている。
親しげに手を振って入ってくるお客さんたちは、先のオバチャン三人組をスタートとして、老夫婦、中年夫婦、若いカップル、労働者のおっちゃんたち、仲良しの女の子グループ、カッコつけの男の子たちと、まさに老若男女。最初は珍しがられてたおにぎり(頼んだマサコに店中の視線が集中!)も、すっかり定番となっている。
いつも通っているプールに静かに浮かびながら、サチエは「カモメ食堂がついに満席になりました」とフィンランド語でつぶやく、と一緒にプールに浮かんだ常連客たちが拍手喝采するのが、ここだけ急にファンタジーなんだけど、たまらない幸せ気分で、ここらあたりから不思議な幸福感の涙が溢れ出してきちゃって、止まらないの。

なんでだろう、なんでこんなに幸せなんだろう。彼女たちはそれぞれ、こっちには見せない哀しさや寂しさを山ほど抱えてる、そのこと、判ってるのに、でもだからこそ、なのかな。だからこの幸せが胸に届くんだ。
マサコさんはね、日本に帰らないの。港で「ヘンなおじさんにネコを預けられてしまったものだから、帰れなくなりました」とかもめ食堂に戻ってくる。
だって戻ってきた荷物もキノコが詰まっていたしさ!……っていうのもね、なんか、深いんだよね。森に行った時ひたすら摘みまくっていたキノコを、なぜだかどこかで落としてしまった。そして空港で紛失した荷物の中にはそのキノコが詰まっていて……森の中で落としたキノコ、それは彼女がここで見つけた何か、生きていくための何か、っていう暗喩なんじゃないかなあ、と思って。
「荷物が、ちょっと違うみたいなんです」とおっとりと電話をかけるもたいさんには、ちょっとどころじゃないでしょ!と吹き出してしまうんだけど、そのもたいさんが、とおりがかったおじさんに一方的にネコを手渡されるのにも爆笑である。
でもこのおじさん、前からこの港でずっとウロウロしてて、ミドリさんも通りがかったりしてたけど、ずっと目をつけてたのがマサコさんだったってことなんだよね。

大人の関わり方なんだよね。今まではこういうの、なかった。ヒューマンドラマはいつも無神経におせっかいに人の中まで入り込んで、そうでなきゃ友達にはなれないとかさ。
口に出すのもイヤな辛さを抱えてて、でも寂しくて、イヤなことをさらけださないと人と関係を結ぶことも出来ないなんて、ツラすぎる。そう思っている人は沢山いたと思う。
それなりに人生を重ねれば、イヤなことって絶対出てくる。それをブチまけて発散できる人もいるけど、もう思い出すのもイヤ、すべてを新しくして自分を立て直したいと思う人もいるはずで、今まで何があったのかと聞かない存在が、大切なんだ。

それが、もたいさん扮するマサコが、あの睨めつけオバサンに対しての、言葉は判らなくてもいい、あなたが話したいならそれを一生懸命聞いて伝わるものもあるだろうし、話したくなければそれでもいいんだよ、っていう素晴らしい処し方にあったのだ。ただ、あなたが誰かに救いを求めているなら、それを出来る範囲で受け止めることぐらいならできるのよ、と。ここで出会った縁だもの、と。
こういうの、男性は判ってくれるかなあ……男性は割と、話さなきゃ判らない、ブチまけ系だからなあ。女性監督ってワザワザ言うのはヤだけど、これは女性監督じゃなきゃって思ったりしちゃうなあ。
気持ちを百パーセント出さず、過去をほとんど出さず、今、この縁を、生活を、がっつかずに、でも一生懸命に生きてる。それを判って、いやそれこそ共感してヒットしてるのが、凄い嬉しい。
小林聡美、もっと映画に出てよ!!!映画に生み出されたんでしょうが!出た映画は地味ながらも、全てがイイんだから!「てなもんや商社」とかサイコーに好きだったもん!

ラストシーン、「見応えのある」とミドリとマサコさんが称するサチエの「いらっしゃい」で終わる。これがまたね!確かに見応えがある、って言い方、ピッタリなんだ。腰が据わってて、明るく突き抜けてて、それでいてあったかくて。
そして井上陽水のラストテーマにかぶさるクレジットへと突入し、この若かりし頃の陽水氏の声と、撮影現場でさまざまに切り取られたスチールがまたしても幸福な涙を誘い、ああ、なんで泣いてんのか、判んない。こんなに幸せなのに。

ああ、本当に美味しそうなんだ……お腹がすいてきちゃう、見てると。
本当に、シンプルなものばかりなんだけど、だからそれが、白いごはんに似合うんだ。
美味しいものを食べることの幸せ。美味しそうに食べている人を見る幸せ。
女性がおにぎりを握っている姿って、当然って感じで、そういうの私はヤだと思うはずなのに、それが誇らしく思える。
原作者の群ようこ氏は 「カウリスマキの映画が好きなので(おおー!今回、マッティ役は「過去のない男」の彼だもんねえ!)、フィンランドには前から興味があったんですけどね……。 なのに、フィンランドに一度も行かぬまま書き上げてしまって(!!!)。私の今回の唯一の汚点です(笑)」だって!
す、凄い、ツワモノ!しかも、映画のために「かもめ食堂」を書き下ろしたってことは、最初に映画ありきだったんだ。近頃珍しい……嬉しいなあ。
原作よりも、映画の方が優しい感じになっていると思います、という。
えっ、そうなの?文庫になったら、買って読もうかなあ……。
「邦画初のオールフィンランド映画」って肩書き、最初聞いた時はものめずらしさだけって感じだったけど、今は、もうこれしかない、っていうか、これ、フィンランドでは公開されたかなあ、フィンランドの人にも観てもらいたい!とまで思う。

エアギターって、フィンランドで大会開かれてるんだね。知らんかった。もたいさんやはいりさんが出ようかしらと言ってるのが、その姿が目に浮かんじゃってひたすら可笑しい。もー、ここは金剛地武志氏に特別出演願いたかったな。彼のパフォーマンスを見てしまって以来、頭にこびりついて離れんのだ。
ところで、ガッチャマンの歌、私もカンペキに歌えるよ!世界の最後のパーティー、呼んでー!!!★★★★★


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